2018.06.21  「核の傘」追随路線からでは見えない米朝首脳会談の意義、       それでも安倍外交は方針転換を迫られる
                
広原盛明(都市計画・まちづくり研究者)
                           
 私は外交問題についてはあまり詳しくないので、今回の米朝首脳会談の評価について的確な見解を述べることはできない。とはいえ、日本国民の1人として感想程度の素朴な意見を述べることは許されてよいと思う。外交問題の評価が一部の専門家やメディアによって独占され、国民一人ひとりの声が無視される方が国策の行方を考える上で却って危険だと思うからだ。

 この点でまず疑問に思うのは、米朝首脳会談の関心が核兵器の「完全で検証可能かつ不可逆的な廃棄(CVID)」一本やりに絞られ、それが達成されなければ、首脳会談の意味もなければ成果もないかのような世論が事前につくられた(誘導された)ことだ。アメリカが「核兵器禁止条約」(2017年7月7日)に署名、あるいは批准した国であれば、その主張はまだしも正当性を持ちうるかもしれないが、世界122か国・地域による圧倒的な賛成を無視して核兵器禁止条約の反対に回ったアメリカがどうして一方的に北朝鮮にCVIDを迫ることが出来るのか、まったく理解できない。まして、世界唯一の戦争被爆国である日本が、アメリカの「核の傘」にあることを理由にアメリカに追随して核兵器禁止条約反対に回ったことは、「世紀の愚行」として世界中から笑いものになった。そんな日本が北朝鮮にCVIDの要求を突きつけることなど、国際的にも理解が得られるはずがない。

 自分は核兵器を保有する権利がある、しかしお前は核兵器を保有してはならない―、こんな言い分は、世界各国が平等な立場にある国際関係の本旨に反するばかりか、特定の核大国に対して世界を支配する特権的地位を与える論理にも通じる。しかも、アメリカの保護下にあるイスラエルなどは核兵器を多数保有しているにもかかわらず、これまでアメリカはイスラエルに対して一度も核兵器廃棄を勧告したことがない。それでいながら、北朝鮮には一方的にCVIDを突き付けるという態度は自己撞着そのものであり、正当性をもった主張とはとうてい言い難い。強いて言えば、それは核大国による「核独占戦略」の一環であって、核大国と同盟関係にある国に対しては「核の傘」で保護するが、それ以外の国に対しては核を封じることで軍事的優位を保とうとする(核大国による)安全保障政策にほかならない。

次に、核兵器が人類の生存を脅かす非人道的兵器であるとはいえ、それは戦争目的を達成しようとする「手段」であることには変わりないことを認識する必要がある。戦争を抑止するためには戦争そのものを無くすことが根本であって、特定の国の非核化を推進することは(重要ではあるが)一つのアプローチにすぎない。戦争抑止、戦争根絶という肝心の目標を見失って「非核化」だけを主張することは、結局、核大国による核独占戦略を擁護し、それに追随する結果しかもたらさない。

 今回の米朝首脳会談に関して云えば、アメリカのトランプ大統領と北朝鮮の金正恩委員長が「新たな米朝関係や朝鮮半島における永続的で安定した平和体制を構築するため、包括的で深く誠実に意見交換を行った」こと自体が歴史的な成果なのであって、両者が「1.アメリカと北朝鮮は両国の国民の平和と繁栄の願いに基づいて、新しい関係を樹立するため取り組んでいくことを約束する」「2.アメリカと北朝鮮は、朝鮮半島において永続的で安定した平和な体制を構築するために努力する」「3.2018年4月27日の板門店宣言を再確認し、北朝鮮は朝鮮半島の完全な非核化に向けて取り込むことを約束する」と共同声明で確認したことは高く評価されなければならない。

 この事態を歴史家である保阪正康の言葉を借りて言えば、20世紀の積み残しの課題である朝鮮戦争が終結宣言には至らなかったとはいえ、両国の平和協定への動きは、「平和協定は北朝鮮の非核化、米国による体制保証の前提でもあり、この方向が確認されたこと自体、朝鮮戦争は休戦から終戦の段階に入り、いわば両国間の戦争状態は終わったとの言い方もできる」(毎日新聞2018年6月16日)との観点が重要だ。東西冷戦時代の残滓を一掃し、朝鮮半島の平和と安全を保障することは、アジア諸国間の緊張関係を解きほぐし、軍事費を抑制して国土の平和利用を推進する一大転換点になる可能性を秘めているからだ。共同声明最後の「トランプ大統領と金正恩委員長は、新たな米朝関係の発展と朝鮮半島と世界の平和や繁栄安全のために協力していくことを約束する」との一節は、朝鮮戦争終結への展望を示したものとして注目される所以である。

 加えて、米朝首脳会談が安倍外交の方針転換を否応なしに迫ることになった点も注目される。北朝鮮がCVIDを実行するまで最大限の圧力をかけ続けることを国是としてきた安倍政権は、ここに来て進退窮まる状況に追い込まれたからだ。対米追随外交がトランプ大統領による急速な方針転換に付いていけず、これまでの強硬一点張りの圧力路線を変更せざるを得なくなったのである。安倍首相は日朝首脳会談の実現に向かって舵を切ったというが、拉致問題の解決一つを取って見ても数々の条件が満たされなければ「会談しない」との態度は崩していない。また、首脳会談が実現しても「騙されない」と広言する始末だ。つまり、朝鮮半島の平和実現のために日本がどのような役割を果たすかという外交戦略がなく、相手が条件を飲めば「会談してもよい」というのが基本姿勢なのだ。これではまとまる話もまとまらない。

 安倍政権の苦境を察してか、読売・産経両紙は早速援護射撃に乗り出している。米朝首脳会談の翌日6月13日の読売社説は、「『和平』ムード先行を警戒したい」「合意は具体性に欠ける」「圧力の維持が必要だ」などと相変わらずの強硬路線を主張し、それでいて「日朝会談への環境整備を」などと虫のいいことを並べている。方針転換しなければおよそ日朝会談の実現など不可能だというのに、それでいて論調を変えることができないのだから「もはや救いがたい」と言うべきだろう。

 産経の6月13日主張(社説)に至っては、「金委員長に最低限約束させるべきは、北朝鮮が持つ核兵器などすべての大量破壊兵器と弾道ミサイルについて『完全かつ検証可能で不可逆的な廃棄(CVID)』であるのに、できなかった」「北朝鮮から核・弾道ミサイルなどの脅威を取り除くうえで具体的にどのような状態を目指すか。その『目標』と時間的目安も含む『道筋』について、はっきり決められなかった」と会談の成果を全否定し、「金委員長から内実を伴う核放棄を引き出せなかった交渉に、限界を指摘せざるを得ない」と主張している。おまけに、「理解できないのは、経済制裁と並んで効果的に働いてきた軍事的圧力をここへきて弱めようとしている点だ。米朝間で対話が継続している間は、米韓合同軍事演習は『挑発的』だとして、やらない意向を示したのは誤った判断だ」とまで言うのだから、産経が「防衛省の広報紙」だといわれるのも不思議ではない。

 安倍政権は、アメリカ頼みの追随外交に終始してきた結果、北朝鮮問題に関しては常に「蚊帳の外」に置かれてきた。しかし、このままでは外交の主導権は取れず、お金だけを支払うことにもなりかねない。「蚊帳の外」にいながらせっせとお金だけを運ぶ役割を仰せつかるとは如何にも情けない。安倍政権にかわって自主独立外交を推進できる政権の登場が待たれる。

2018.06.20  お百姓さん、ご苦労さん
          ――八ヶ岳山麓から(260)――

阿部治平 (もと高校教師)

私の村は5月の最後の土・日が田植の最盛期だった。
田植機がしずかに苗を植えていくのを見ながら、思いだした歌がある。

〇蓑着て笠着て鍬持って
お百姓さん、ご苦労さん
今年も豊年満作で
お米がたくさん取れるよう
朝から晩までお働き

〇そろった出そろった
植え手がそろった
植えよ植えましょ、みんなのために
米は宝だ、宝の草を
植えりゃ黄金(こがね)の花が咲く

ふたつの歌を学校で習ってから、もう70年もたつから歌詞は不正確である。これを歌うと父は「政府は子供をつかって百姓をおだてている」といった。当時はこの意味が分からなかった。

――「支那事変」から「大東亜戦争」に変ったころ、農家にはコメを政府に安価で売渡す義務供出が課された。消費者は米穀手帳なるものを渡され、配給食料を買うしくみだった。
供出割当どおりの米を出さないと村の駐在巡査が農家に督促にやってきた。巡査がサーベルを腰に下げていたので、これを「サーベル農政」といった。戦後も役人がアメリカ占領軍の兵隊とともにやってきて、コメを出せと強制した。これを「ジープ農政」とか強権発動といった――
私がこういう話をしたのは、すでにかなりの年配の人だったが、「配給ってなんですか」と聞かれて絶句した。こういう時代になったのだ。私は生きた化石だ。

私の村は高冷地で、稲の生育期間の積算温度が旭川とおなじだが、コメどころだった。だが1946年に国民学校に入学した同級生はみな痩せていて、栄養不良のためにハナを垂らしていた。私は1キロ半の道を歩くのに疲れて2回は休んだ。戦後も維持された食糧管理制度は、コメを農家から安値で供出させ、配給制度で消費者に売るという仕組みだった。強権発動された村は、飯の量が十分ではなかったのだ。
私たちは、野山の草、虫などを食えるか食えないかを基準に分類した。タンポポ(クジナともいった)やアカザなども食った。田んぼのドジョウは味噌汁の中に入ったし、蜂や蛾(クスサン)の幼虫もセミやゲンゴロウも焙烙(ほうろく)で炒って食った。蚕のさなぎはおやつだった。思えば山菜取りの知恵は小学生時代に身につけたものである。

中学生のころになると、保温折衷苗代など育苗技術が改良されて収量が安定した。コメの供出価格もかなり上がり、水田を3,4ヘクタールももつ家は、供出が多く収入が多いから「おでえさま(金持)」といわれた。
1967年以後はコメが余りだした。当然コメを高く買って安く売る食料管理会計の逆ザヤ現象=食管赤字が大問題になった。自主流通米が登場したのはこのためで、農家はヤミ米を政府が容認したものと理解した。71年から作付制限つまり減反政策が始まった。コメからの転作は、ソバ、コムギ、豆、野菜類への転作奨励金というエサで推進した。

減反政策は46年続いて、去年で終わった。今年からは行政側からのコメ作付制限はなくなるはずだった。だが、あいかわらず県は村に「生産数量目標」を示し、村は農家にこれを配分した。ところがこれにあからさまな不満が出ない。コメからの収入をそれほどあてにしなくなっているのだ。
1俵(玄米60キロ)が1万3000円程度では、コメだけではやってゆけない。借地によって20ヘクタールとか30ヘクタールといった大規模水田経営を目指した人もコメから撤退し始めている。

きれいに0.2ヘクタール(2反歩)に区画された棚田を見ていると、亡くなった親友を思い出す。
1960年代の末から、わが村でも減反政策の一方で構造改善事業という大規模な圃場整備が始まった。一方でコメを作るなといいつつ、労働生産性を上げるためとかという口実で、まがった農道と水路をいじって、棚田を0.2ヘクタールの長方形に規格化するのである。
共産党の村会議員だった私の親友は、「構造改善反対」のビラを村中にまいた。彼の論理は「大百姓には有利だが、小前のものは得るものがない」というものだった。共産党は中央自動車道にもこの理由で反対した。当時、まだ農家を富農と貧農に分ける毛沢東流の階層論が幅を利かせていたらしい。
私の従兄は区長(部落の世話役)として構造改善事業を推進する立場だったから、親友にビラをまかれて怒った。私の弟も構造改善に賛成で、「世界規模で食料不足が生れたとき役にたつ」と食料安保の考えを主張した。日米繊維交渉の際、アメリカ大豆の輸出が止められたことを意識していたようだ。
結果として構造改善事業は有効だった。広い農道、方形の田んぼは、70過ぎの高齢者でも農機を使って仕事ができるからである。親友はあの時代の運動を後悔しているようで、「思い出したくない」といった。

自民党は米価を比較的高値に置いた。長い間供出米の量が農家の収入を決定した。農地改革とこれが農村を保守化した。当時わが村農家の目標は1ヘクタール当たり玄米で6トン(100俵)だった。これを「せどり」といった。だから村人は技術改良には敏感だった。肥料と農薬をたくさん使った。
石灰窒素ついで尿素が登場した。ニカメイチュウ退治のホリドールや、イモチ病対策のセレサン石灰(水銀剤)が使われるようになった。有機水銀の恐ろしさがわかった1970年代になっても、役場が音頭取りで水銀剤をヘリコプターで空中散布していた。さすがにいまは、イモチ病は苗段階で予防の消毒をやってしまう。

野良仕事はまったく変わった。
稲苗は田植機用の苗箱の中で育てる。苗床はなくなった。田植機の操作は1人でできる。そこで田植に大勢の植え手が出そろうこともなくなった。除草剤のおかげで、あの辛い夏の田の草取りはなくなった。同時にホタルもドジョウもなくなった。コンバイン収穫機でいきなりモミにするから、稲刈りだの、はぜ(稲架)掛けだの、稲扱きだのもなくなった。
畑のうねたても地ならしも小型のトラクターで簡単にできるから、「蓑着て傘着て鍬持って」ということもない。セロリーやブロッコリーの露地植えも機械化した。こうなると機械化というより機械の農業化である。ウィークデーは町へ勤めて土曜と日曜だけ農業をやる土日百姓は、これによって促進されたとおもう。
問題は、肥料や農薬、農機が高くつくことだ。とりわけ農機は農繁期の数日稼働するだけで、あとは小屋で寝ているのだから。私が土日百姓の友人に「たかだか3,4ヘクタールの水田経営で、高価な大型トラクターやコンバインの減価償却ができるかね」と聞いたら、彼は即座に「だれもコメや野菜でトラクターのもとが取れるとは思っていない」と答えた。定年退職したら退職金で完済するつもりだという。
冒頭の歌のように、「朝から晩までお働き」で「豊年満作で、お米がたくさん取れた」としても、だれもが「黄金の花が咲いた」わけではない。たいていは流通業者や、農機、肥料、農薬メーカーに貢いでしまったのだ。

いま村では、農業収入より兼業収入の方が多い第2種兼業が多い。私の出身部落160戸のうち、専業農業は10戸に満たない。問題は、兼業にせよ専業にせよ、農家の「跡取り」の多くが村から出て、大都会や町で別な仕事に就いていることだ。いま60,70歳代の働き手がいなくなったら、農家そのものがなくなる。村では無人の幽霊屋敷がどんどん増える。そして日本はとめどなく食料自給率を低下させる。
「お百姓さん、ご苦労さん。もう用済みだよ」という声が聞こえる。
                              (2018・06・09記)
2018.06.19  関係詞の省略
    関係代名詞や関係副詞は省略できる場合がある

松野町夫 (翻訳家)

関係代名詞(who, which, that)は、次のような場合に省略できる。ただし、省略できるのは制限用法の場合のみ。以下、カッコ内の関係代名詞はすべて省略可能。

関係代名詞が他動詞の目的語のとき(whom, which, that)
The man (whom) I met yesterday is a teacher. きのう会った方は先生です。
The man (whom) she married is an American. 彼女の結婚した相手はアメリカ人です。
This is the book (which) I have chosen. これが私の選んだ本です。
This is the book (which) I bought yesterday. これはきのう私が買った本です。
This is the only pencil (that) I can find. この鉛筆しか見当たらない。
That's all (that) he wanted to know. 彼が知りたかったのはそれだけだ。
It was Tom (that) we saw. 私たちが見たのはトムでした。
You should open the wine (that) our guests brought.
ゲストの皆さんからいただいたワインを開けるのがいいわね。
It was beer (that) you drank, not water. 君が飲んだのはビールで、水ではなかった。
It’s the best novel (that) I’ve ever read. これまで読んだなかで、それが最高の小説です。
Here is the book (that) you wanted. ほらここにあなたがほしがっていた本があります。

関係代名詞が前置詞の目的語のとき(whom, which, that)
The woman (whom) I talked to is an interpreter. 私と話した女性は通訳です。
That is the man (whom) I had lunch with. あちらの方が私が昼食を一緒に食べた男性です。
The pen (which) you're looking for is in this drawer. 捜しているペンはこの引き出しの中です。
It's only you (that) I can rely on. 私が頼りにできるのはあなただけだ。
Is this the house (that) they live in? これが彼らの住んでいる家ですか。
Did you find the book (that) you were looking for? 探していた本は見つかりましたか。
The people (that) I spoke to were very helpful. 私が話した人々はとても力になってくれた。

先行詞が人の地位・職業・性格などで関係代名詞が補語のとき(that)
この場合は that を使う。 (who, whom は使えない)
Bob is not the man (that) he used to be. ボブは昔の彼とは違う。
He isn't the hero (that) he used to be. 彼は昔のような英雄ではない。
He is not the coward (that) he used to be. 彼は昔のような臆病者ではない。
I’m not the fool (that) you thought me. 私は君が思っていたような馬鹿ではない。
I am no longer the handsome young man (that) I once was. もう私は紅顔の美少年ではない。
That actor is no longer the central figure (that) he once was.
もうあの俳優は以前のような中心的人物ではなくなっている。

関係代名詞が主語のとき(who, which, that)
<There is ...>,<Here is ..> の構文で:
There is a person (who) is waiting to see you. ご面会の方が見えています。
= There is a person (that) wants to see you.
= There is someone (who) wants to see you.
There's no one here (that) cares about it. そのことを気にする人はここにいない。
There’s no one (who) works harder than you. あなたのような勉強家はいません。
There is nothing (that) you can do about it now. 今、それについて君ができることは何もない。
There's a shop across the street (that) sells shoes. 道の向い側には靴を売っている店がある。
Here is someone (who) wants to go with you. 君に同行したいという人がここにいます。

関係代名詞が主語のとき(who, that)
<It is ...>, <That is ...> の強調構文で:
It was Tom (who) lost his watch. 時計をなくしたのはトムだった。
That was John (who) just went out. 今、出て行ったのはジョンだ。
It was James (who) met Tom in the park yesterday. きのう公園でトムに会ったのはジェームズだ。
It was Taylor (that) met Roy. ロイに会ったのはテイラーでした。
It was I (that) broke the window. 窓ガラスを割ったのは私だ。
It was Jim (that) revealed the secret to me.その秘密を私に明かしたのはジムだった。
It was Mr. Smith (that) gave Joe this ticket. この切符をジョーにやったのはスミスさんでした。

関係代名詞の後にbe動詞が続くとき(who is, which is, that is)
ただしこの場合、関係代名詞とbe動詞の両方を一緒に省略する。
The boy (who is) walking over there is Ken. あそこを歩いている男の子はケンです。
He was a victim (who was) killed in the accident. 彼はその事故で死亡した被害者だった。
The party (which was) held yesterday was a success. 昨日開かれたパーティーは盛会だった。

The high jump is an athletic event in which a person runs and jumps as high as possible over a bar (that is) set between two upright poles.
走り高跳びは競技種目の一つ。助走して、支柱に架けたバーを跳び越し、その高さを競うもの。

関係副詞の省略
制限用法の関係副詞も省略できる。ただし、where は省略できないが、when は会話だけでなく書き言葉でもしばしば省略される。また、where, when, why, how の代りに that が用いられることがあり、この that はしばしば省略される。以下、カッコ内の関係詞は省略可能。

これが私たちの住んでいる家です。
= This is the house where we live. → where は省略不可
= This is the house in which we live. → in which は省略不可
= This is the house (that) we live in. → that は省略可能。ただし、in を補充する。

Monday is a day (when) I have a lot of work to do. 月曜日は私には多くの仕事がある日だ。
I will never forget the time (when) we first met. 私たちが初めて会った時のことを決して忘れません。
You were born the same year (that) I was. 君は僕と同じ年の生まれだね。
The day (that) we arrived was a holiday. 私たちが着いた日は休日だった。
You were in a hurry the last time (that) I met you. この前会った時君は急いでいたね。

There's no reason (why) I should believe it. 私がそれを信じる理由は何もない。
Let me tell you the reason (why) I disagree. 私が反対する理由を言わせてください。
Do you know the reason (why) he refused to go? 彼が行くのを断った理由を知っていますか。
The reason (that) I came here is to meet you. 私がここへ来たのは君に会うためだ。

I don't like the way (that) he speaks. 彼の話し方が嫌いだ。
注記: the way how という言い方は現代ではしない。way か how のいずれかを使う。
This is the way (that) I did it. = This is how I did it. 私はそれをこうしてやりましたよ。
Do you know the way (that) he cooks it? 彼がそれをどう料理するか知っていますか。
= Do you know how he cooks it?

2018.06.18  ガザ抵抗の2か月.死傷者1万3千人以上(2)
          世界最悪の生活環境の中に閉じ込められた190万住民

坂井定雄 (龍谷大学名誉教授)

トランプ政権下の米国が大使館をエルサレムに移し、国際管理都市としてイスラエルの首都と認めることを拒否してきた国際社会に挑戦した翌日、英BBCは国連諸機関の報告を基にして、詳細な「イスラエル、パレスチナ紛争―ガザの生活」特集を報道した。その要点を紹介しよう。

ガザ出入域の自由を極度に制限、閉じ込められた住民
幅約10キロ、長さ75キロの海岸に沿った細長い地形のガザには、約190万人のパレスチナ人住民が、これだけの規模としては世界最悪の生活環境の中に閉じ込められている。
外の世界との出入り口は、北東端のイスラエルとの境界のエレツ検問所と南西端のエジプトとの境界のラファ検問所だけ。エレツ検問所からイスラエル側に出国したパレスチナ人は、記録が明らかにされている2017年前半には240人以下だった。2000年9月には1日平均2万6千人だったが、その後イスラエルが出入域とくにガザへの入域を厳しく制限したために、激減した。
エジプトとのラファ検問所では、2011年2月のエジプト民主革命後に通行がほぼ自由化し、急増、世界保健機関(WHO)によると医療目的だけで平均1日あたり4千人が医療のためにガザからエジプトに入国した。しかし、13年7月、シシ国防相に率いられた軍のクーデターで、ムスリム同胞団のモルシ政権が打倒され、以後、シシ政権がエジプトを支配。14年10月以降、ラファ検問所がほとんど閉鎖され、国境の地下に掘られていた地下トンネルもすべて埋められた。この結果、国連人道問題調整事務所(OCHA)によると、2018年4月までに17日間だけラファ検問所が開かれたが、積み残されていた医療目的を含む2万3千人の通行許可申請のごく一部だけが許可されただけだった。

経済
世界銀行の報告によると、2017年のガザの経済成長率は0.5%。1人あたり収入は1994年2,659ドルから、2018年予測1、826ドルに低下した。
2017年失業率44%は、世銀開発データベースで最悪で、平均値の2倍以上だった。
とくに、若者の高齢層の失業率が60%を超えていることが懸念される。
最近のデータによると、世銀基準の貧困者の割合は39%で、もう一方のパレスチナ自治区ヨルダン川西岸の倍以上の貧困率。世銀によると、住民の80%が、おもに国連難民救済機関(UNRWA)の援助を受けている。

増え続ける人口、世界最悪級の人口密度
ガザの人口は現在約190万人、人口密度は1平方キロ当たり5,479人、2020年には総人口220万人、人口密度は6,192人、2030年には総人口310万に増加すると予想される。

保健・医療
イスラエルとエジプトの境界での出入域規制によって、保健、医療状態が悪化した。
イスラエル経由の出国許可率は、2012年の93%から2017年には54%に縮小した。さらに医薬品、透析器材、心臓検査・治療器具の運び込みがすべて阻止された。多数の病院、医院が破壊か損傷した。2000年から人口は倍増したのに、初動医療施設の数は56から49に減少した。
最近の発電用燃料不足によって医療施設は打撃を受けている。パレスチナ保健省によると3か所の病院と10か所の医療センターが電力不足のため、休業した。

食料
国連によると、約100万人のガザ住民の多くが何らかの支援食糧を受けているが、それでも「中程度~きびしい食料不足」状態にある。
イスラエルは、ガザ市民の農地、漁場への立ち入りを制限している。
イスラエルによって、ガザ住民はイスラエルとの境界からガザ側1.5キロ以内での農作を禁じられている。このため、ガザ側は推定毎年7万5千トンの食糧を失っている。この地域はガザで最も農業に適した土地であり。農業生産がGDPに占める比率は1994年の11%から2018年(予測)の5%以下に減少した。
海では、ガザ住民の安価なタンパク源であり、職業である漁獲を、海岸から一定の距離以内にイスラエルが制限した。2012年11月のイスラエルとハマス(ガザ最有力の政治・武装勢力)の休戦協定で、ガザ住民の漁業は海岸から6カイリ以内に制限された。しかし、イスラエル海軍はしばしばガザ側からのロケット攻撃を理由に、3カイリに制限し、それを超えるガザ漁船を攻撃している。(続く)

2018.06.17  「本日休載」
今日6月17日(日)は休載します。

リベラル21編集委員会


2018.06.16  ■短信■
          没後10年特別企画 土本典昭特集
          ~土本典昭と同時代を生きた仲間たち~

 土本典昭(つちもと・のりあき)は記録映画作家。1928年岐阜県生まれ。岩波映画製作所を経て、1963年、国鉄の機関助士の過酷な労働を浮き彫りにしたドキュメンタリー映画『ある機関助士』でデビュー。その後、タクシー運転手の労働実態を追った『ドキュメント路上』、60年代の学生運動を追った『パルチザン前史』などを発表した後、1970年代から水俣病問題に取り組み、『水俣―患者さんとその世界―』など水俣シリーズ17本をつくった。これらの連作を製作するにあたっては、水俣で家を借り、現地の人びとと生活をともにしながら撮影した。
 『よみがえれカレーズ』などアフガニスタンに関する作品が3本ある。2008年死去。
 期間中、土本作品27のほか、東陽一、小川紳介、小池征人、本橋成一、熊谷博子、藤本幸久ら同時代を生きた仲間たちの作品17本が上映される。

 とき: 6月16日(土)~29日(金)

 会場: ポレポレ東中野
     東京のJR東中野駅西口改札北側出口から徒歩1分。電話03-3371-0088

 料金: 前売=フリーパス(限定20枚 )20000円/3回券3300円。当日=一般1500円/大学・専門・シニア1200円/高校生以下1000円

 主催: シグロ+ポレポレ東中野
 企画: 旧土本スタッフ有志一同
                                          (岩)

2018.06.15   50年続いてきた反戦デモ
          エンプラ事件で始まった「19日佐世保市民の会」

岩垂 弘 (ジャーナリスト)

 未知の人から送られてきた本をめくっていて、目を見張った。市民によって始められた反戦平和を目指す月1回のデモ行進が休むことなく50年続き、600回を迎えたという記述があったからである。私は半世紀以上にわたって反戦平和運動を取材してきたが、50年も続いたデモなんて聞いたこともないから、驚いた。長崎県佐世保市でのことである。しかも、そのデモのスタートが私の取材上の体験と深く関わっていたから、一層、そのデモの「50年」に引きつけられた。

 私に送られてきた本は『うち、おい達の崎戸という時代』。写真・中西務、文・中西徹。浮遊社(大阪市)の発行である。
 本書によれば、かつて長崎県西彼杵郡崎戸町(現西海市崎戸)に三菱鉱業崎戸鉱業所という海底炭鉱があった。1907年(明治40年)に採掘が始まり、戦時下の1944年(昭和19,年)には炭鉱労働者が7487人(うち2623人は朝鮮人)を数えたが、国策により、1968年(昭和43年)に閉山した。
 本書は、崎戸町で生まれた中西徹さんが、崎戸炭鉱の歴史と、そこで働き、生活した人びとの歴史を、その時々の世界と日本での出来事とからめながら、たどったものである。父が炭鉱付属病院のレントゲン技師を務めていたことから、中西一家の歴史も書かれている。

 本書によれば、崎戸炭鉱の閉山は1968年3月26日。閉山により中西さん一家が崎戸町を去ったのは同年1月19日のことだったが、その直前に日本を震撼させた出来事があった。崎戸町から20数キロ離れた長崎県佐世保市で起きた「エンプラ事件」である。

 エンプラ事件とは、米国の原子力空母「エンタープライズ」(75,700トン)が、中西さん一家が郷里を離れた1月19日に佐世保に入港(原子力空母の日本寄港は初めて)したことから、社会党、共産党、労働組合、新左翼系学生らが「エンタープライズの日本寄港を認めることは、ベトナムに対する侵略を続ける米国への佐藤内閣の協力、加担がさらに強まったことを示すもの」として、全国動員でこの日を中心に佐世保市で抗議行動を展開。1月17日には新左翼系学生が米軍基地突入を図ったため、機動隊が制圧を開始、逮捕者29人、負傷者92人(内訳は学生67人、警官10人、鉄道公安職員8人、報道関係者4人、一般市民3人)を出した事件だ。
               50年続いてきた反戦デモ
             「エンプラ入港阻止」の学生たちを制圧する機動隊
              (1968年1月17日、佐世保市の市民病院わきで)

 報道関係者4人のうちの1人が、東京本社から佐世保に出張して抗議行動を取材中だった私で、しかも最も重いけがをしたのが私であった。新聞社の腕章をつけていたのに警棒で乱打され、頭、顔、手、足など7カ所に傷を負い、全治10日間。
 一般市民、報道関係者に負傷者が出たことから、「制圧は過剰警備だった」との批判が市民の間で高まり、木村俊夫内閣官房長官も記者会見で「学生、警官隊の双方にかなりの負傷者を出したが、報道人を含めた一般市民にけが人が出たことは非常に申し訳ない」と謝罪せざるを得なかった。

 『うち、おい達の崎戸という時代』も、このエンプラ事件に触れていたが、私が目を見張ったのは、そこに、私の手記が転載されていたからである。それは、私が週刊誌『朝日ジャーナル』1968年2月4日号の「特集・流血の佐世保」に自分の体験を書いた「警棒の下で感じたこと」の一部だった。おのれの手記を読みながら、私は50年前の経験を思い出し、しばし感慨にひたった。

 エンタープライズは1月23日、抗議の声を背に佐世保港を去ったが、エンプラ事件をきっかけに、新しい反戦市民運動が生まれた。
 エンプラ入港からちょうど1カ月後の2月19日、佐世保市内の中心部から出発した1つのデモ行進があった。主婦、教師、商店主、サラリーマンら約150人。先頭には「エンタープライズが佐世保を汚した日、一緒に歩きましょう」と書かれた幕が掲げられていた。佐世保ペンクラブ会長・矢動丸廣さんらの呼びかけで生まれた「19日佐世保市民の会」である。
 戦前は日本海軍、戦後は米海軍に経済的に依存するところが大きかった佐世保では、それまで市民による反戦平和の運動はほとんどみられなかった。が、エンプラ寄港をきっかけに、それが芽生えたのだった。 
 
 それから、50年。この間、「19日佐世保市民の会」のことを思い浮かべることはほとんどなかった。ところが、なんと『うち、おい達の崎戸という時代』に「19日佐世保市民の会」の誕生とその後の活動についての記述があったのだ。そこには、こうあった。「市中心部の松浦公園に夕方の六時までに参集し、アーケードを駅方向に歩く。今年(二〇一八)一月で通算六百回。自由参加」。私は思わず叫んでしまった。「19日佐世保市民の会のデモはまだ続いていたんだ」

 矢動丸廣さんはすでに故人、現在の連絡先は長女の宮野由美子さんとあったので、宮野さんに電話をかけ、「市民の会」の現状を聞いた。
 それによると、毎月19日のデモは1日も休まず続けられてきたという。宮野さんが最初のデモに加わったときは20歳の短大生。結婚で佐世保を離れた時期もあったが、1989年以降は一度も欠かさず参加してきたという。
 参加者は毎回、どこからともなく集まってきた15人から20人。50人くらいになった時もあったが、3人の時もあった。「米原潜が佐世保港で放射能漏れを起こしたり、米軍の輸送機オスプレイが佐世保に飛来したりすると、参加者が増えますね。最近は、内外の政治情勢に不安を感じている人が参加してくるようです。佐世保は、有事の際には前線基地になるところですから」。デモの距離は2キロ。ゆっくり歩いて30分。シュプレヒコールもなければ、マイクもない。ただ黙々と歩く。

 「なぜ、こんなに長く続いてきたと思いますか」との問いに、宮野さんはこう答えた。「佐世保でもいろいろな集会やデモがありますが、労組の呼びかけで行われる場合が多く、一般市民が意思表示できるところがない。それで、誰でも参加しやすい私たちのデモに加わってくるのではないでしょうか」

 日本人は熱しやすく冷めやすいといわれる。そんな風潮に抗するように続けられてきた19日佐世保市民の会のデモ。その類い希な持続する志は、多くの人びとを勇気づけてくれるのではないか。
2018.06.14  「香害」被害の子どもたちの学習環境を改善する試みが始まっています
          シリーズ「香害」第7回

岡田幹治 (ジャーナリスト)

 香りつき商品で化学物質過敏症(以下、過敏症)などになった子どもたちが、登校できなくなったり、校庭の片隅で個別指導を受けたりしている実態を第5回(3月10日)と第6回(3月16日)で報告しましたが、こうした子どもたちの学習環境を改善する動きが始まっています。

◆市議が答弁を引き出し、空き教室を活用
 全国いくつかの学校で実施されているのが、空き教室を活用し、過敏症の児童のための「病弱・身体虚弱の特別支援学級」(以下、病・虚弱支援学級)を設置する方法です。
 たとえば札幌市の小学4年生マモル君(9歳)は、4歳のとき過敏症を発症しました。小学校に入学したところ、床のワックスに曝露して症状が悪化。徐々に回復していましたが、2年の夏休みに参加した行事でさらに悪化し、登校できなくなりました。
実情を知った石川佐和子市議(市民ネットワーク北海道)が、担当者から教育委員会の考えを内々に聞き出したうえで、昨年3月の市議会で質問。学校教育部長から「児童・生徒の症状などにより特別支援学級への入級が必要な場合には、本人や保護者の意向なども十分に踏まえながら検討する」との言質を得ました。
 これを受けて母ルミ子さんが市教委に申請。定められた審査を経て、入級が必要と判断されました。
 小学校では、空いていた多目的室の一部を病・虚弱支援学級の教室に充てることにし、合板のベニヤ板で仕切ってペンキを塗りました。換気扇で24時間換気を続けた結果、マモル君が入室できる状態になったので、新学期から通学しています。
 理解ある担任の指導を受けており、マモル君は体調が良いと週に4日間も通学できるようになりました。

◆教室の改修とともに、理解ある担任が必要
 症状の重い子どもだと、教室の改装が必要になります。
 関西地方の市立中学3年の哲人くん(仮名、14歳)は1歳のとき、母の恵子さん(仮名)ともども農薬の空中散布などが原因で過敏症になりました。
 症状が悪化したのは4歳のとき。発育相談に訪れた市の福祉センターで殺虫剤にさらされ、全身に湿疹が出て発熱、嘔吐を繰り返しました(恵子さんは一か月も食事ができなくなって車椅子生活を強いられた)。
 市の福祉課に事情を知らせてあったのですが、相談日の3日前に害虫駆除のための消毒(有機リン系農薬などの散布)を実施していたのです。
 恵子さんは哲人くんの入学1年前から準備を始め、病・虚弱支援学級への入級を申請するとともに市教委・学校と相談を繰り返しました。幸い教頭が事情をよく理解し、教室の改修(床のワックスの変更や空気清浄機の設置)から教科書やチョークの変更まで実施してくれました。
 入学式の前後には父と母が同級生や保護者に事情を説明する機会も与えらました。
 入学後、哲人くんは体調のよいときは普通学級でみんなと一緒に学び、体調が悪化すると専用の教室に移って担任の個別指導を受けたり、持ち込んだ布団で休んだり、さらに悪化すれば早退したり、といった学校生活を送りました。
 病状を的確に理解した担任は、体調に応じたきめ細かい指導をしてくれますが、理解が乏しい担任になると、そうはいきません。体調不良となまけの見分けがつかず、体調を無視して学習を強いたり、叱ったりします。また病気療養中の児童が病・虚弱支援学級に加わったため、哲人くんへの配慮が不十分になった時期もありました。
 必要な支援が得られないと症状は悪化するが、理解ある担任に変わると、とたんに回復したといいます。
 過敏症の子どもが学習を続けるには、揮発性化学物質が少ない教室とともに、理解ある教師が必要なのです。
 中学でも小学校とほぼ同じ体制をとってくれましたが、大きな違いは科目ごとに担当教師が変わることです。このため先生との情報共有が難しくなります。
 哲人くんの体力は徐々につき、中1の2学期からは卓球部に入って部活動も始めました。練習は体調が許す限り他の部員と同じことをし、できないときは部員と相談して別メニューをこなし、特別支援学級生の卓球大会で入賞するまでになりました。

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2018.06.13   第2次大戦後70余年の敵対関係に終止符
          史上初の米朝首脳会談に成果
    
伊藤力司 (ジャーナリスト)

今春3月以来世界の耳目を集めてきた史上初の米朝首脳会談が6月12日に予定通りシンガポールで開かれ、トランプ米大統領と金正恩・北朝鮮国務委員長(労働党委員長)が会談後、合意文書に署名した。第2次大戦後70年余にわたって対決し、1950~53年には数百万の犠牲者を出した朝鮮戦争の当事者だったこの両国がついに敵対関係に終止符を打った。

会談後1時間余にわたる記者会見を開いて説明したトランプ大統領によると、合意文書は1.北朝鮮が完全な非核化に取り組む2.米側は北朝鮮の体制保証を確約する3.米朝間の国交正常化を進める4.北朝鮮は朝鮮戦争で戦死した米兵の遺骨を返還する-の4項目合意を明らかにしている。

この日の会談は現地時間午前9時(日本時間午前10時)から、双方の通訳を交えただけの両首脳会談が45分間。その後両首脳の側近や政府高官を交えた公式会談が約1時間、さらに双方のメンバーを拡大したワーキング・ランチ(昼食会)と3段階で話し合いが続けられた。どの会談も開会前には報道陣のカメラが許可され、いずれもリラックスした雰囲気を映し出していた。

この合意文書には今回首脳会談の概要が書かれているだけで、一番問題になる北朝鮮の核・ミサイルの廃棄や検証をどうするかについては何も書かれていない。書かれているのは金正恩委員長が、本年4月27日付のパンムンジョム(板門店)宣言―朝鮮半島の非核化を宣言した金正恩・文在寅(韓国大統領)両首脳の発言―を再確認し、朝鮮半島の完全非核化に向けて取り組むとした誓約だけである。

ということは、北朝鮮の核やミサイルの廃棄は一片の文書に書き込めば済むというものではない。南北間で時間をかけてひとつひとつ検証して潰していかなければならないということだろう。それには米国は北朝鮮の専門家だけでなく、国際原子力機関(IAEA)の専門家など、幅広い科学技術者の共同作業が必要になる。

トランプ大統領は1時間余り記者会見を続け、記者団からの様々な質問に答えた。金正恩氏をいずれホワイハウスに招待するとか、自分もいつの日か北朝鮮の首都ピョンヤンを訪れたいとか、ごきげんのあまり言いたい放題。
2018.06.12  習近平講話のなかのマルクス主義
          ――八ヶ岳山麓から(259)――

阿部治平 (もと高校教師)

5月4日、中国共産党の習近平総書記(国家主席)は、カール・マルクス生誕200年を記念する大会で「重要講話」を行なった。5月5日の「新華ネット」は、これを「マルクスの『一生』」「マルクス主義の四つの『是』」「マルクス主義の三つの『飛躍』」「マルクス主義の九つの『学』」という項目にまとめて紹介した。
この前後、中国のネットには、学者や幹部のマルクス記念発言がつぎつぎ公開された。マルクスは「共産党宣言」のなかで、資本主義と植民地主義がアジアに進歩をもたらすといった。だから私は(中国では言論統制が厳しいとはいえ)マルクスの中国論――太平天国やアヘン戦争――について、誰かが何か言うのではないかと内心ひそかに期待していた。
だが見た限り、マルクスは人類に偉大な貢献をした、中共はマルクス主義の原理を適用して革命と建設に成功した云々という、マルクスと中共と習近平氏に対する称賛のことばがあるだけだった。期待するほうがバカだった。

習近平講話のうち、多少とも中身があるかと思われる部分は、「中国において創造された奇跡」という副題がついた「マルクス主義の三つの『飛躍』」の部分である。
第一は、中共は結成以来、マルクス主義の基本原理を中国革命と建設の具体的な現実に結びつけて、新民主主義革命と社会主義革命を完成し、中国に社会主義の基本制度を樹立し、これによって中華民族はアジアの病人から偉大な飛躍を遂げた。これこそが社会主義だけが中国を救うことができた証明だという。
第二も同じ調子で、改革開放以後の「中国の特色ある社会主義の偉大な実践」によって中国は大きな飛躍を遂げ、中華民族を豊かなものにしたという。
第三は、現在についてである。中共は偉大な闘争をすすめ、偉大な工程を建設し、偉大な事業を推進し、偉大な夢を実現し、党と国家の事業を押しすすめて全面的で独創的な歴史的成果をかちとった。さらに根本的な歴史的変革を生んだことにより、中華民族は富国から強国への偉大な飛躍を遂げたという。
習近平講話は奇妙なくらい「マルクス主義の基本原理」の適用、「中国の特色ある社会主義」を強調する。これはいったいなぜなのかを考えたい。

第一の部分は、毛沢東時代を語ったものと理解できる。
習近平講話ではマルクス主義の原理を中国に適用し、1949年の革命をなしとげ、そのことによって中国が「アジアの病人」から立ち上がったという。実際は、かならずしもそうではない。革命以前の1945年抗日戦勝利直後、当時の国民党軍がまず台湾へ進駐し、ついで「満洲」を回復し、香港・マカオを除く領土の統一を獲得した。さらに国民党政府は、欧米各国間との不平等条約を廃止したのである。
習近平講話は、新民主主義革命と社会主義革命とを並べて書き、ふたつながら完成したといっているが、それはまったく異なる。新民主主義は抗日戦争勝利後の建国構想として登場したもので、市場経済を基礎に民族ブルジョア―などの経済的利益、私有財産を保護し、ゆっくりと復興するというものだった。
ところが、1949年革命後から毛沢東はこの構想を、自らも決定に参加したにもかかわらず、ブルジョアジー・富農の考え方、「纏足女のよちよち歩き」などとこきおろした。これで新民主主義は中断し、ただちに産業の国有化と農業の集団化がやってきた。
革命後の毛沢東には失政と破壊が連続した。1957年の「反右派闘争」では数十万の知識人を失脚させ、あるいは投獄して、建設の活力を衰弱させた。58年からの大躍進・人民公社では、3000万とか4000万という餓死者を出した。1966年から10年の文化大革命では、千数百万という人が犠牲になった。中共中央では誰も毛沢東の暴走を引きとめられなかった。
民主共和制とか人権とか経済といった観点からすれば、毛沢東の中国は抗日戦争以前の中華民国時代よりはるかに後退した。そんな高度のことでなくても、毛沢東時代民衆には引越しだの転職だのの自由はなく、親戚の葬式にも幹部の許可を得なければならなかった。
以上の経過を踏まえて1949年の革命の性格について、80年に元紅衛兵の王希哲は「毛沢東が成功裏に指導したこの革命は、農民革命に過ぎなかった」「毛沢東が死んだとき、中国人民に残したものは、崩壊した経済と公安テロだけだった」といった(『毛沢東と文化大革命』)。「マルクス主義の原理」とは関係がないというわけである。

習近平講話の第二第三はひとつづきのものである。
習近平氏は中共が「中国の特色ある社会主義」を維持発展させたからこそ「富国から強国への偉大な飛躍を遂げた」という。この跳躍板になったのは、ご存知鄧小平の改革開放である。
それは欧米留学組の経済理論のもと、民主化要求の抑圧、労農人民の低賃金を前提に、外資導入と輸出誘導によって経済発展を図るものだった。もちろん、これは鄧小平の発明ではない。同じことをすでに1960年代後半から韓国の朴正熙がやっていた。台湾の蒋慶国もやった。フィリピンのマルコスもやった。インドネシアのスハルトもやった。鄧小平は、いわゆる開発独裁の手法をまねたのである。マルクス主義の原理とは縁遠い。
もし、鄧小平がマルクス主義者で、市場経済の導入が社会主義へ進む手段のひとつとして行われたならば、周到な社会保障制度が準備されたはずである。だがこの配慮はなかった。
その過程で、高級官僚ととりまきによって、莫大な国有資本が合法非合法の手段で私物化された。いま中国の富裕世帯の上位10%が、総資産の64%を保有する。そのうえ都市農村間の格差は世界でまれにみるものになった。この土台の上に、2020年代にはアメリカを抜くかもしれないという、航空母艦2隻をもつ軍事大国の中国があるのである。

1949年以後の30年間は、堯舜を夢見た毛沢東によってめちゃめちゃにされた歴史である。鄧小平改革に始まる今日までの40年は、中共統制下の開発独裁――いわゆる新自由主義の歴史である。
だが前述のように中共中央は、いや学者たちも、ことあるごとにマルクス主義と「中国の特色ある社会主義」を引き合いに出して政策だの論文だのの正しさを証明しようとする。これは、おそらくは漢帝国以来2000年余りの強固な伝統によるものである。中国歴代王朝の国是の哲学は儒教であった。「四書五経」は真理の経典で、どんなに時代が変っても清帝国まで生きつづけた。各時代の支配者は、その解釈を自在に変えて自己の治政を正当化できたからである。
現代中国もこの伝統によって国是の哲学=経典を欲した。それは当然マルクス主義になった。ロシア革命の父レーニンが「マルクス主義は正しいがゆえに全能である」といったとおり、マルクス主義は体系的であり全面的である。どこにでも適用可能だから国是の哲学にふさわしい。ただし個人が勝手に解釈を変えるのは許さない。その権限は中共中央にある。
さる中国の友人が「マルクスの片言隻句をとりあげて、解釈を自分の都合のよいように変えれば、マルクス主義はもはや科学ではない」といったが、この嘆きは当分続くだろう。