2018.10.18 偉大な歴史学者、先駆的な左翼だった農民・伊藤富雄の生涯
    ――八ヶ岳山麓から(268)――

阿部治平(もと高校教師)

長野県の諏訪神社は全国に1万社余りあるという諏訪社の本祠である。諏訪湖をへだてて南北に上社・下社があり、古来の特異な神事が残されていることでも知られている。

宮地直一氏(1886~1949)は戦前内務官僚として神社行政に携わる一方、国学院大学教授、東京帝国大学教授を歴任した神道学者である。彼は大正10(1921)年『諏訪史』編集のため諏訪郡中洲村(現諏訪市)の諏訪神社上社に滞在し、神官の長で神長官と呼ばれる守矢真幸家に所蔵されている室町時代の古文書「守矢家文書」解読にとりくんだ。ところがこれが難解この上なく、非常な苦闘を強いられた。

宮地氏からこのときの様子を直接話を聞いた考古学者藤森栄一氏(諏訪出身)によると、宮地氏が『年内神事次第日記』の難解部分に困惑していたとき、背後に近づいた人物があって、その難文をすらすらと読んだ。宮地氏は神の声かと思ったというが、見ると容貌魁偉(ようぼうかいい)、大入道のようで着流しにだらりと兵児帯をたらした百姓のおやじだった。こんなに驚いたことはなかったという。
宮地教授を驚かせた百姓おやじは、中洲村の農民・伊藤富雄(1891~1969)である。1937年『諏訪史第二巻』の後編が刊行されたが、氏はその後記のなかで「後編につき絶えず指導を受けたのは、本郡中州村下金子の篤学者伊藤富雄氏である」と書いている。

伊藤富雄氏は農業のかたわら、25,6歳のころから諏訪神社神長官守矢家に残された鎌倉時代から室町時代にかけての古文書解読を志した。もともと上諏訪町(現諏訪市)にあった旧制諏訪中学(現諏訪清陵高校)に1番で入学した秀才である。ところが「1番でなければ退学」という父親の方針があって、3年1学期のとき母親の出産で田植に追われて2番に下がったらすぐに退学させられた。
だが秀才だからといって、鎌倉・室町時代に神官らが自己流で書いた古文書をすらすら読めるわけではない。彼も「神社の神官に訊ねて見ても、大学の先生たちに質問しても誰も之を読解し得る人がありません。わたしは、祖先の残した記録でも五、六百年経てば、もう子孫には、わからなくなてしまうのかと、つくづく情けなく思い、同時に私の糞意地がこれを読み翻さないでおくものかと、発奮したのであります」といっている。
ノートに文書を書き写し、難読文字を〇にしておき、読み進んだところで前後から判読するといった努力がつづいた。このため、「研究資料入手の見込みのある所は、暇さえあれば、狼の飢えて食を求むる如く、猟りあるいた」といい、田の草取りから昼飯に帰り、資料を寝ころんだまま読みふけり、妻の一喝を食らって気がつけば日はすでに斜めであったとか、「家人の干渉を防御するため、真昼間に土蔵に入り中から心張棒を卸し」て資料を読んだという。

数え年22歳のとき父が亡くなった。彼には長男として弟妹5人を一人前にする責任があった。自作地60アールのほか、田畑2ヘクタールの地主で年50俵の年貢米があった。そのうえ父親の遺産7000円があったから(当時米麦が自給できれば月生活費は30円という)、弟二人を東京帝大、ひとりを陸軍士官学校、他の弟妹も中学、女学校を卒業させた。村の役職もひきうけ、昭和16(1941)年から中州村産業組合(現農協)の組合長をやり、1945年敗戦直前には村長を兼務した。

敗戦は彼に大きな衝撃を与えた。政治嫌いの民族主義者は「政治開眼」した。彼は日本再建のためには勤労大衆のエネルギーのほかないと、日本社会党に入党して農地改革を先導した。昭和22(1947)年第1回地方選挙には当時の衆議院議員林虎雄を擁立して民選知事として当選させ、自身も中州村村長に当選した。同年5月社会党県連委員長となり、6月副知事に任命され、供出米不足のため各地の農家にコメの供出を懇願して歩いた。
ところが23年夏、地方労働委員選任問題に絡み、絶大な権力をもつアメリカ占領軍軍政部長野県施政官と衝突し、11月には副知事を辞任して帰郷した。このとき県知事林虎雄の占領軍への対応の仕方を批判し、「虎サは弱い」と発言して、一時は地方の話題をさらったことを幼かったわたしも記憶している。

下野した伊藤氏を周りが放っておくはずはなく、とりわけ共産党は伊藤家に泊まり込みで入党工作をやり、伊藤氏はその勧誘に陥落した。とはいえ、彼はマルクス主義・社会主義への知識がないまま共産党に入党したのではない。自身、27,8歳のころから社会主義に関心を持ち始め、『共産党宣言』などを愛読したと述懐している。ロシア革命、大正デモクラシーの風潮は山国信州にも及んでいたのである。
彼は1949年から国政選挙に2回共産党から立候補して落選したが、それは共産党書記長徳田球一の側近伊藤律氏の説得によるものである。伊藤律氏は一時尾崎・ゾルゲ事件のスパイとされた人物である。50年には共産党中央が分裂、一部は武装闘争方針を掲げたから、それへの対応も伊藤氏の苦労のたねだったと思う。その後彼は、共産党の弁護士林百郎のために尽力して、64年にはみごと林氏を国政に返咲かせた。林氏は敗戦直後2度衆議院議員に当選したがその後は落選続きだった人物である。
伊藤氏の晩年は文筆活動が主になった。

伊藤富雄は一概に郷土史家といわれるが、研究領域は諏訪地方にとどまらず、時代も古代・中世にとどまらない。また行事・神事などの民俗に限定されることなく、政治社会経済にわたり、実証的な記述を基礎に、今に過去の人民の生活をいきいきとよみがえらせるものである。
神社の神事・行事はがんらい保守的、尚古的なものである。それを記録した中世の古文書には古代の政治的、社会的状況が色濃く反映している。彼はこう考えて古代史を考察した。たとえば古代諏訪・伊那地方には独立した小国家があり、それが大和朝廷の力に屈服してゆく過程を明らかにしたのである。

わたしが感銘を受けたのは「諏訪史第三巻批判草稿」である。これは、当時著名な日本史学者渡辺世祐教授が担当した『諏訪史第三巻(諏訪の中世史)』(1954年刊行)がもつ誤謬、欠落などをいちいち指摘、批判したものである。この類のものはほかにも数あり、中央の学者の権威に遠慮することなく、精密に史料を駆使して真偽をただし自説を展開している。かくして諏訪から伊那にかけての市町村史(誌)の古代・中世史部分はたいてい彼が執筆したものとなった。
1969年1月、この碩学は世を去った。78歳であった。

膨大な著作は、1970年代に至って子息麟太郎氏によって編集され、『伊藤富雄著作集』(全6巻)として刊行された。すでに諏訪地方でも伊藤富雄の名は忘れ去られつつある。年配者が「あれは偉い人だった」という程度で、じつに残念といわざるを得ない。
以上は『伊藤富雄著作集』(永井出版企画、1987年)、『藤森栄一著作集』(学生社、1986年)によった。(2018・10・10記)

2018.10.17  40周年を迎えた読書サークル
    哲学者・古在由重の理念を実践し続けて

岩垂 弘 (ジャーナリスト)
  
 一般市民を会員とする読書サークルが、スタートから40周年を迎えた。どんな活動であっても、中断することことなく、ずっと40年も継続してきたというケースはまれ、と言っていいだろう。こうした長期にわたる活動を可能にした理由には様々な要因が考えられるが、決定的な要因は、この読書サークルの主宰者であった老哲学者の理念がサークル参加者の心を強くとらえ、老哲学者が亡くなった後も、参加者全員がその理念を引き継ぎ、実践してきたからだと思われる。

 9月8日、東京・内幸町の日本記者クラブ会議室で「版の会40周年を祝う集い」と称する会があった。主催は版(ばん)の会。同会の会員、会員OBら20数人が集まった。
   
 版の会とは、真下信一(1906年~1985年) が1977年に東京都内で始めた、一般市民を対象にした読書サークルである。真下は哲学者で、当時は名古屋大学名誉教授、多摩美術大学学長。読書会の会場が東京・四ツ谷駅近くの喫茶店「版」であったところから、サークル名を「版の会」とした。

 ところが、例会を数回行ったところで真下が病気になり、出席できなくなった。その時、真下に頼まれてサークルの主宰者を引き受けたのが、真下の親友の古在由重だった。1978年2月のことである。当時、76歳。
 古在はマルクス主義哲学を確立した哲学者と知られ、戦争中は治安維持法違反で逮捕され、拘禁された。戦後は、東京工業大学講師、専修大学教授、名古屋大学教授を務め、1965年に名古屋大学を定年退官した後は、ベトナム反戦運動や原水爆禁止運動などの大衆運動に積極的に加わった。そのかたわら、若い人たちを集めて「哲学サークル」や「古在ゼミ」を続けるなど、若い人たちを念頭に置いた教育に力を注いだ。
 
 真下から版の会を引き継いだ古在は、版の会を「哲学塾」と呼び、独自のやり方を発揮する。それがどんなものであったかは、版の会8周年を記念して刊行された版の会編の『コーヒータイムの哲学塾』(同時代社、1987年)をひもとくと、よく分かる。古在は同書の「まえがき」を書き、エッセイを寄せているが、それらの中でこう述べている。

 「人生とはなにか? 世間や社会や自然といわれているものはなにか? それらのうちにいきる人間の本質とはなにか? 歴史とはなにか? これらについては、たとえぼんやりしたものであっても、人はなんらかの観念あるいは疑問をもっているにちがいない」
 「人はいかに生くべきか? いまこの時代にあって、なにをなすべきか? はたらく者たちは、どんな階級的な哲学を身につけるべきか?」
 「この『哲学塾』はそのような展望のもとに成立した三〇人ほどの集まりにほかならない、しかもそれはコーヒーをのみながらの気楽な勉強会である」(以上、「まえがき」から)

 「喫茶店のあつまりでは、毎回なにかの古典をテクストとして、これを中心にみんなで話題をすすめてゆく。もちろん、わたし自身がしゃべる時間がながくなるけれど、なるべく参加者たちが意見や感想をのべる時間をのこしておく。(テクストを)えらぶのは参加者たちの運営にあたる人たちであり、それらのテクストはわたしの話のなかにでてきたもの、またはいま世間の話題になっているものがおおい」
 「『塾』の参加者は二〇人か三〇人にかぎることにしている」(以上、エッセイから) 

 当時の参加者によると、塾は月1回。塾の参加者は10代から70代までで、職業は中・高校生、大学生、サラリーマン、主婦、教員などだったという。『コーヒータイムの哲学塾』の巻末には、哲学塾で取り上げたテキスト一覧が掲載されているが、そこには、E・ノーマン、中江兆民、幸徳秋水、宮本百合子、福沢諭吉、カント、ルソー、トルストイ、ベルグソン、芥川龍之介、石川啄木、戸坂潤、丸山真男、三木清、加藤周一、小林多喜二、マルクス、エンゲルスらの作品が並ぶ。

 古在の、こうした哲学塾に対する理念と運営方針は、塾参加者たちの心をつかみ、塾参加者に受け入れられた。そして、塾参加者たちの間では、古在に対する信奉が高まった。とともに、塾参加者たちの読書熱は高まり、同時に人生や社会、世界や政治に対する考察も深まった。『コーヒータイムの哲学塾』には、塾参加者たちが、塾で取り上げた作品中の心に残った言葉をいくつか挙げ、それに対する感想やコメントを記しているが、それを読むと、それぞれが、読書という行為から何を学び、何を得たかが分かって興味深い。   
 ところが、古在は1990年3月に死去する。88歳だった。古在は12年間にわたって、版の会の主宰者を務めたことになる。
 これを機に「古在さんがいない読書会なんて意味がない」と、版の会を去った人も少なくなかった。が、残りの会員は会の続行を決め、以後、古在のやり方を踏襲しながら、例会を1度も中断することなく、ずっと続けてきた。会場は喫茶店が閉店したのであちこち転々としたが、昨年秋からは、東京・大塚の生協東京高齢協の会議室を借りている。
 現在の会員(参加者) は十数人である。テキストは、古典を取り上げることはまれで、憲法、経済、エネルギー、環境、国際、現代史などの分野のタイムリーな課題に迫った著書を取り上げることが多い。

 「版の会40周年を祝う集い」では、出席者全員が「版の会と私」というテーマでスピーチをした。
 ある男性OB会員は「当時、高校の教員をやっていたので、版の会で得た知識がとても役に立った。ベルグソンというフランスの哲学者を知ったのも版の会だった。それまでは、全く知らない人物だったから、すごく新鮮だった」と語った。
 女性のOB会員は「古在先生には実に多くのことを教えていただいたが、一番印象に残っているのは、先生が『民主主義とは、いちばん分かりやすく簡潔に言えば、人をばかにしないことだ』とおっしやったことです。この言葉は忘れられません」と話した。
 現役の女性会員も「古在さんには、世相の見方を教えてもらった」と語った。
 古在死去の後に会員になった元教員の女性は、こう話した。
 「会にはいろいろな考え方の人がいて、とても勉強になる。テキストにいろいろな本が取り上げられるので、それを読むと自身の人間の幅が広がるような気がする」

 世は、電子メディア全盛で、活字文化は衰退する一方だ。が、息の長い「版の会」の活動は、やりようによってはまだまだ活字文化も捨てたものではないと感じさせてくれるというものだ。

2018.10.16  ■短信■
          みんなの力で老朽・被災原発を止めよう!
          東海第二原発運転延長STOP!首都圏大集会

 人口過密な首都圏にある唯一の原子力発電所である日本原子力発電の東海第二原子力発電所(茨城県東海村、110万キロワット)を再稼働させるかどうかが決まる時期(今年11月) を前にして、再稼働に反対する脱原発団体による集会が開かれます。

日時:10月20日(土)午後6時30分から8時40分まで
会場:日本教育会館3F一橋ホール(東京メトロ半蔵門線/都営地下鉄新宿線・三田線の神保町駅A1出口)
講演:ルポライター・鎌田慧「プルトニウム社会と六ヶ所村、東海村の再処理工場」、原自連会長、城南信用金庫顧問・吉原毅「原発ゼロ社会をめざして」、東海村前村長・村上達也「前東海村長が訴える、あってはならない原発」
特別出演:漫才コンビ、ジャーナリストのおしどりマコ・ケン「東海第二原七つの不思議」
参加費:500円(高校生以下、障害者は無料)
主催:とめよう!東海第二原発首都圏連絡会(070-6650-5549=柳田、090-2553-2587=永野)
                                                        (岩)
2018.10.15 否定を表す慣用句
否定語を用いる場合、用いない場合

松野町夫 (翻訳家)

英語で否定を表す慣用句には、否定語を用いる場合と用いない場合がある。たとえば、

その部屋には家具類がなかった。
= There was no furniture in the room. → 否定語(no)を用いて否定を表す。
= The room was empty of furniture. → 否定語を用いないで否定を表す。

否定語を用いて否定を表す慣用句

no longer = not ... any longer 「もう~ない」
I’m no longer an official. 私はもう役員ではない。
I no longer trust him. 彼をもう信用していない。
= I don't trust him any longer.

no more 「もう~しない」 「もう存在しない」
She was smiling no more. 彼女はもう笑っていなかった。
He is no more in the show business world. 彼は芸能界にもういない。

no more than ... 「わずか~しかない」
He has no more than 500 dollars. 彼は500ドルしかない。

no less than ... 「~ほどもたくさんある」
He has no less than 500 dollars. 彼は500ドルも持っている。

never so much as ... 「~さえしない」
She never so much as smiled. 彼女はにこりともしなかった。
= She did not smile even once.
He's never so much as made me a cup of coffee in ten years of marriage.
結婚生活10年間、彼は私に一杯のコーヒーすら、ただの一度も作ってくれなかった。

nothing more than ... 「…にすぎない」
He is nothing more than a dreamer. 彼は夢想家にすぎない。
He wanted nothing more than to take a rest. 彼はただただ休憩したかった。

not to mention 「~は言うまでもなく」 「さらにまた」
She can speak German and French, not to mention English.
彼女はドイツ語とフランス語を話せます、英語は言うまでもありません。
He has two big houses in this country, not to mention his villa in France.
彼はこの国に大邸宅を二軒持っています。さらにまた、フランスに彼の別荘があります。

have nothing /little to do with ... 「~と関係がない」
I have nothing to do with the affair. その件は私とは無関係だ。
He has nothing to do with the firm. 彼はその会社と全然関係がない。
This kind of specialized knowledge has very little to do with daily life.
この種の専門知識は日常生活とはほとんど関係がない。

否定語を用いないで否定を表す慣用句

too much (for somebody) 「手に負えない」
She is too much for me. 彼女にはとてもかなわない。
The book is too much (for him). その本は(彼には)手に負えない。

too形容詞 + to do ... 「~すぎるので~することができない」
He is too young to do the task. 彼は若すぎるのでその仕事は無理だ。
= He is so young that he cannot do the task.
The offer sounds too good to be true. その話はうますぎて信じられない。
This problem is too difficult for me to solve. この問題は難しすぎて私には解けない。

beyond something 「~できない」
The car is beyond repair. その車は修理できない。
= The car is too badly damaged to repair.
He is quite beyond recovery. 彼はまったく回復の見込みがない。
The situation is beyond our control. この状況はコントロールできない。
The scenery is beautiful beyond description. その風景は描写できないほど美しい。

far from ... 「少しも~でない」 「~どころか」
He is far from friendly. 彼は少しも友好的でない。
= He was not at all friendly.
“Was the movie disappointing?” 「その映画は期待はずれだった?」
“Far from it! We had a great time!” 「とんでもない、楽しかったよ」
Far from reading the letter, he didn't even open it.
彼はその手紙を読むどころか封も切らなかった。
The new law, far from being an aid to small businesses, will actually hurt them.
その新法は、小企業にとって助けになるどころか、実際は損害を与えることになる。

free from / of ... 「~のない」
The newspapers are free from government control.
新聞各社は政府の規制を受けていない。
We want to give all children a world free from violence.
すべての子供たちに暴力のない世界をあげたい。
The product is guaranteed to be free of major defects.
その製品は大きな欠陥はないと保証されている。
The filtration system provides the crew with clean air free from fumes.
このろ過装置は有害ガスのない新鮮な空気を乗組員に提供します。

without doing ... 「~することなく」
He left without (even) saying goodbye. 彼は挨拶もしないで立ち去った。
= When he left, he did not even say goodbye.
You can’t make an omelet without breaking eggs.
卵を割らないでオムレツを作ることはできない。
Even without studying, she answered all of the questions correctly.
勉強もしていないのに、彼女はすべての質問に正しく解答した。

2018.10.14  「本日休載」
今日10月14日(日)は休載します。

リベラル21編集委員会

2018.10.13  トラテロルコ虐殺事件半世紀―メキシコ政治の変遷
          立教大学ラテンアメリカ研究所で講演会

 メキシコでさる7月1日、任期満了に伴う大統領選挙があり、野党の新興左派政党「国家再生運動」のアンドレスマヌエル・ロペスオブラドール元メキシコ市長(64)が当選しました。政権党を経験した伝統政党でない新興野党の候補が大統領に選ばれたのは初めてとのことです。有権者にとっては「無血革命」と言ってよく、スペイン植民地時代に源流をもつ支配階層が政治的大敗北を喫したと言っても過言でない、との見方もあります。ラテンアメリカの注目すべき動きと言ってよいでしょう。
 ラテンアメリカの歴史と現状に詳しい伊高浩昭さん(ジャーナリスト・元共同通記者)が、次の要領で開かれる講演会で、今回の大統領選の評価を含めたメキシコ政治の変遷について話します。

■日時
2018年10月20日(土)17:00~19:00
■場所
立教大学池袋キャンパス 太刀川記念館カンファレンス・ルーム(東京都豊島区西池袋3-34-1)
■演題
「トラテロルコ虐殺事件半世紀―メキシコ政治の変遷」
■講師
伊高浩昭氏(ジャーナリスト・元共同通信記者)
■入場
無料(予約不要)
■主催
立教大学ラテンアメリカ研究所
■問い合わせ
立教大学ラテンアメリカ研究所事務局
電話03-3985-2578
Mail: late-ken@rikkyo.ac.jp
(岩)
2018.10.12  「寧静致遠の猫」は憂える
出町 千鶴子 (画家)

「寧静致遠の猫」は憂える
     お相撲は、日本の伝統文化として国技とされている。
     「貴乃花」は、横綱の亀鑑ともいうべき人物である。この偉大なる存在を、
     公益財団法人日本相撲協会は、いとも容易く呆気なく積極的に手放した。
     憂えるばかりである。
2018.10.11  柳条湖事件記念日に思ったこと
          ――八ヶ岳山麓から(267)――

阿部治平 (もと高校教師)

今年9月18日の柳条湖事件(「九一八」)記念日は、日本ではどこにも記念行事はないけれども、中国でもあまり盛大ではなかったらしい。瀋陽市の「九一八歴史博物館」で約1000人が参列して記念式典が開かれたが、最高指導部は出席しなかった。現在日中関係の改善基調が続いており、習近平指導部は対日批判を抑制したとみられるという(時事2018・09・18)。
今年中国の記念行事が抑制的であったとしても、わたしは9月18日をむかえると、何かをいわずにはいられない気持になる。
いまから87年前の1931年9月18日、日本関東軍は中国遼寧省奉天(現瀋陽)近郊の柳条湖付近の満州鉄道を爆破し、これを中国軍によるものとして、ただちに満洲(遼寧・吉林・黒竜江の「東三省」)領有をめざす軍事行動を起した。満洲事変である。謀略の首謀者は板垣征四郎、石原莞爾ら関東軍高級参謀である。
満洲防衛の中国側責任者は、国民政府東北辺防軍司令の地位にあった張学良(1901~2001)である。彼はいったんは抗日を主張し、不満を持ちながら国民党蒋介石の「まず中国共産党を殲滅してのち日本と戦う(先安内後攘外)」という方針に従って東北軍を西に退かせた。
その後のことは去年「八ヶ岳山麓から(236)」に書いたのでくりかえさない。

馬占山(1883~1950)という土匪上がりの軍事指導者がいた。彼は張学良と違い、蒋介石に従わなかった。馬は吉林省懐徳県の貧農の子であった。少年時代に家出し土匪の群れに入ったが、その利発さからたちまち小集団の指揮者となった。
辛亥革命後治安が混乱するなか、自衛武装組織が満洲各地に生まれた。彼らは一種の任侠集団であり、守備範囲の郷村ではその務めを果たすが、外に出るとしばしば略奪、誘拐にはしった。これを中国では「土匪」というが、日本では匪賊とか馬賊という。区別はし難い。
日露戦争(1904~05)後、懐徳県の彼の馬賊集団は清朝に帰順した。彼は他の「土匪」討伐に功があって清朝正規軍の指揮官(少尉)となった。辛亥革命後は大小の武装集団を吸収して自軍に加え、戦功によって順調に出世し、26年には騎兵第17師団長、翌年には騎兵第2軍団長に昇進した。
1928年張学良の父張作霖が関東軍に列車を爆破されて死んだとき、彼の上官呉俊陞も犠牲となった。彼は号泣して親切だった上官の死を悼んだ。張作霖の地位を継いだ張学良によって、彼は黒竜江沿岸の黒河備司令官に任命された。対岸はブラゴベシチェンスクである。
1931年日本関東軍は、柳条湖事件発生とともに迅速に遼寧・吉林両省を制圧したが、黒竜江省攻略はソ連と国境を接するため慎重になった。さいわい洮遼鎮守使張海鵬が日本側についたので、彼の部隊武器を援助して軍事行動を起させた。

九一八以降、張学良は北京で情勢を観望していた。だが馬占山は黒竜江省軍総司令官に任命されるや、黒河から南下し、10月19日省都チチハルに到着した。張学良の東北軍がほとんど無抵抗で退却して、中国人を落胆させたのに対し、馬占山はチチハル防衛、抗日の旗幟を鮮明にした。
10月26日張海鵬の3個連隊が戦略拠点の嫩江(どんこう)鉄橋対岸に近づいたとき、これに砲撃を加えて満州事変最大の戦い「江橋抗戦」を開始した。馬軍はこの戦いに勝利して、抗日を望んだ中国人の熱い期待に応えた。
しかし関東軍が本格的に参戦すると、武器などの補給が得られないなか、馬軍はじょじょに敗北をかさね、残存部隊2万は海倫に後退した。関東軍は匪賊上がりの張景恵を傀儡の黒竜江省省長とし、馬占山にも帰順すれば高官として処遇すると誘ってきた。張景恵はのちに満洲国国務総理となった人物である。
1931年末馬軍が関東軍に包囲されるなか、翌年1月には錦州が陥落、満洲全体が日本の手に落ちた。馬占山は孤立し屈服を迫られた。そして彼は屈服した。32年2月にはチチハルで満洲国黒竜江省省長に就任して抗日を切望する中国軍民をいたく失望させた。

ところが彼は40日足らずで、再び抗日の道に還ったのである。なぜか明確な理由はわからない。日本の傀儡となった満洲国高官らの醜態、日本人の傲慢さに嫌気がさしたともいうし、息子の父の変節を咎める手紙がきっかけともいわれる。
32年4月彼はひそかにチチハルを脱出して黒河にもどり、各地の義勇軍、救国軍、「大刀会」といわれる集団、つまり馬賊・土匪の類もふくめた愛国勢力を結集して抗日連軍を作り、5月には再び抗日に決起した。
馬軍は、一時はハルビン郊外に迫る勢いだったが、7月関東軍との3昼夜にわたる激戦ののち敗走した。このとき関東軍は馬軍指揮官韓家麟が戦死したのを馬占山と誤認し、これを昭和天皇に上奏した。
馬軍兵士らはすでに疲労困憊していた。やむをえず1932年12月彼らは黒竜江を渡りシベリアに入った。部隊の一部は新疆へ行ったが、馬占山はその後ヨーロッパ、シンガポールを経由して33年6月上海に上陸した。馬占山生還のニュースは日本軍を驚かせ当惑させ、中国人を喜ばせた。
35年12月には学生の「一二九抗日救亡運動」が起きた。蒋介石が日本の侵略に妥協するたびに中国では反対運動が起きてきたが、これはそのひとつである。
36年馬占山は西安にゆき、張学良、楊虎城に歓迎された。だが彼ら二人はその2日後の12月12日蒋介石を軟禁し、敗北主義を捨て抗日に立上るよう要求した。いわゆる西安事件である。
1937年7月7日盧溝橋事件が起きた。戦火は中国本土に拡大した。馬占山は東北挺進軍司令官となり、8月山西省大同に司令部を置いたが、9月には大同が陥落した。彼が東北に帰ったのは、1945年に日本が無条件降伏をしてからのことであった。
48年彼は病のため北京に行った。国共内戦に中共が勝利すると、馬は人民解放軍の北京無血入城のために尽力し、1950年11月29日一生を終えた。

今日中国の近現代史では、光はおもに中共系の人物とその行動にあてられている。たとえば東北における抗日ゲリラの指導者、中共党員の楊靖宇(1905~1940)は、1940年2月関東軍に追い詰められて長白山(白頭山)中で戦死した。抗日英雄として彼を記念し吉林省には靖宇県がある。
だが国民党系の軍に属したものは抗日戦に参加しても、文化大革命期には迫害を受け、悪ければ殺された。文革終了以後、馬占山系の元抗日兵士らはどんな扱いを受けているだろうか。いまも日陰者だろうか。
10万の東北軍兵士は東三省から山西、陝西へ退いた。彼らは抗日を望んだが、蒋介石の「剿共(中共殲滅)」作戦に動員され、陝西省を中心に中国各地を転々とした。西安事件以後は張学良という指揮者を失い、国民党からは厄介者として分散され消滅した。中共支配下で、彼らもまた迫害されたのだろうか。
故郷をしのんで彼らが歌った歌はせつない。

わが故郷はスンガリー川(松花江)の彼方
はるかなる黒龍江のほとり
懐かしい小さな家
粟黍、大豆、高粱
……
父よ、母よ
幼い弟、妹よ
また会えるのはいつの日か
また小さな部屋で共に暮らせるのか
(J.バートラム『西安事件』太平出版社、1973年)
(2018・09・29記)
2018.10.10  24年にわたる再建への闘いを達成
          KBS京都放送労組3冊目の闘争記録出版

隅井孝雄 (ジャーナリスト、京都在住)

 9月21日、KBS労組は、達成した再建闘争の三冊目の記録、「市民が支えたKBS京都の再建」の出版記念の集会を開催した。24年にわたる再建闘争を中心になってけん引してきたKBS労組古住副委員長はあいさつの中で、この出版をもって再建闘争の終止符としたいと表明した。
24年にわたる再建への闘いを達成 
挨拶するKBS労組小泉委員長
集会には闘争を共にしてした、弁護士、学者、文化人、一般市民、闘争の過程で社員化された組合員、そして今は役員となった元組合員などおよそ50人が一堂に会して、長い年月をかけて一歩も引かず展開され、成果を上げた闘争の経過をこもごも語り合った。

 ▼名だたるフィクサー、経営中枢に入り込む
 KBS京都放送はラジオ局として1951年発足、1969年テレビ免許を取得した。経営の主体は長年の京都新聞オーナー白石家であったが、1883年に三代目社長である白石英司社長が急逝して以降、経営は悪化の一路をたどった。そして1989年、それまで10億円だった資本金を倍額増資したのをきっかけに、経営の中枢に当時フィクサーとした名高かった、山段芳治氏(キョート・ファイナンス)とイトマン事件の許英中氏が入り込み、それまでの経営陣は一掃された。

 ▼KBS社屋、放送設備、機材が担保に
KBS京都放送労働組合が「京都御所の西側に立つ放送局が丸ごと担保に入っている」ことを知ったのは89年の12月。経営の実態調査のため法務局の資料の謄本を閲覧していた担当執行委員が,146億円の根抵当権が設定され、土地、社屋、放送機材の一切が担保に入れられていることを発見した。
 1992年6月、債務の返済期限がきた。会社には返済の能力がない。このままでは社屋も放送設備、機材丸ごと競売され、放送局が消滅する。

▼労組が会社更生法申請、再建は曲折たどる
KBS京都の再建と、経営の正常化を目指し、労働組合自らが会社更生法を申請した。武器は従業員未払いボーナス7億円という債権者としての権利、労働組合としてまれにみる経営分析力、民放労連の全国的連帯、そして京都市民の圧倒的支援だった。「放送局の火を消さないで」という市民の署名は40万人に達した。
 会社更生法の適用により、更生管財人弁護士古屋野(こやの)康也氏の下で放送免許が継続され、2007年には更生手続きが終結、社員持ち株会を含む新たな経営体制が発足。そして、2015年10月会社再建は完全達成された。総額51億円に上る弁済金を完済したのである。その間さまざまな紆余曲折を組合員は経験した。
 更生法に入った後、京セラの稲森和夫会長が社屋売却の圧力を加えてきたが、労働組合がはねつけた(1999年)。稲盛氏は2003年の地上波デジタル化を促進する資金捻出に社屋売却は必要であるとの主張だったが、再建の主導権を握り、放送局を手中に入れたいという思惑も見えた。労働組合は、40億円とも言われたデジタル投資を13億円にまで圧縮する独自の提案を行うことで乗り越え、社屋を守った。

 ▼膨らむ負債を労組が防ぐ
 労働組合が負債の増加を防いだこともある。2004年、外部のプロデユーサーを名乗るM氏が大きなスポンサー収入と、視聴率が期待できるとして持ち込んだメキシコの連続ドラマを放送した、実際にはスポンサーからの入金がなく、視聴者からの反応もゼロ、2億円の利益が見込めるとした契約内容が虚偽であることを労働組合が暴いた。放送を早期に中止させることにより負債の上乗せを食い止めた。
 2010年、有力スポンサーであるJRA(中央競馬会)が年間8億円の出稿料の50%削減を提案してきたことも、再建の障害となる可能性があった。労働組合は新しい番組編成案を提案するとともに、JRAの削減を20%以内にとどめる必要のあることを会社側に提案して、危機を回避する事に成功した

 ▼非正規雇用解消への稀有な闘い
その後、債権完済に向かって進むなか、構内で働く派遣労働者社員の身分安定を図る取り組みを進めたことも特筆される。2012年1月には構内労働者100人の雇止めを撤回させるという、他に見られない成果を上げた。直用化、社員化の闘争も進んでいる。今回(9月21日)の集会でも、社員化されたばかりの二人の女子社員が、参加者の前でお礼の言葉を述べた。非正規雇用が拡大する日本の状況の中では、KBS労組の、非正規社員の組合加入、雇止めの撤回、雇用延長、そして社員化の取り組みは全国的に注目されている。

 ▼市民の放送を守り抜く
KBS労組は社会問題、政治問題にも敏感に反応してきた。2004年イラク戦争反対の立て看板を社屋前に建て、独自にデモ行進した。会社は立て看板の撤去を京都地裁に訴え、仮処分で一度は撤去されたものの、本訴で会社の撤去申し立ては却下された。2015年には秘密保護法と戦争法に反対するデモを敢行、言論、表現の自由をメインテーマに、市民との連帯の意思を表明して注目された。
 再建闘争の重要なスローガンの一つは「市民の放送を守る」だった。労組の呼びかけにこたえて結成された「アクセスクラブ」は市民の募金をえて、ラジオ番組「早川一光のばんざい人間」の1枠で20年にわたって市民の企画と制作費拠出による番組を放送し続けている。この企画に全面的協力を続けてきた早川一光さんが2018年6月死去された。そのため市民のアクセス番組の在りかたについて検討が行われている。テレビで市民が直接その声を届ける枠を持つに至っていないのは残念だが、ラジオアクセス番組は知名度が高く、見習いたいとの声が全国から寄せられている。
 "波乱万丈、前代未聞、破天荒な再建闘争に勝利”をうたい文句にした「市民が支えたKBS京都の再建、京都放送労組の闘い」は9月21日の集会に合わせて発刊された(頒価1000円)。
24年にわたる再建への闘いを達成
新たに出版されたKBS労組再建闘争の歩み

2018.10.09  宿望の「憲法改正」へ 新内閣発足  桜田義孝氏初入閣
          韓国通信NO573

小原 紘(個人新聞「韓国通信」発行人)

千葉8区(柏・我孫子)選出の桜田義孝氏が初入閣を果たし、五輪担当相になった。
下記の結果からもわかるように桜田氏は前回の衆院選で二人の野党候補を圧倒した。桜田氏の勝因は選挙直前の希望の党による攪乱だった。民進党から立候補が予定されていた太田候補が希望の党から出馬したため、有権者は戸惑い桜田氏が「漁夫の利」を獲た。
当選 桜田義孝 自民前     100,115票   得票率48.8%  公明推薦
    太田和美 希望の党     71,468票       34.8%
    小野里定良 共産党     33,752票       16.4%
           当日有権者数:411,572人 最終投票率:51.68%
宿望の「憲法改正」へ 新内閣発足  桜田義孝氏初入閣
桜田氏(68)は衆議院当選7回。日本会議のメンバーとして知られ、安倍首相とは「オトモダチ」関係にある。その彼が2016年1月、「従軍慰安婦は売春婦」と持論を述べたため文科副大臣の席を棒に振った。
 正直で空気が読めない彼が更迭されたのは、前年12月、日韓両政府が従軍慰安婦問題で政治決着を図ろうとした直後だったからだ。日韓合意で、日本側は「慰安婦問題は、当時の軍の関与の下に、多数の女性の名誉と尊厳を深く傷つけた問題であり、かかる観点から、日本政府は責任を痛感している。安倍内閣総理大臣は、日本国の内閣総理大臣として改めて、慰安婦として数多の苦痛を経験され、心身にわたり癒しがたい傷を負われた全ての方々に対し、心からおわびと反省の気持ちを表明」した。桜田発言にさすがの安倍首相も慌てたはずだ。桜田は発言を撤回し辞任に追い込まれた。
桜田氏(68)は衆議院当選7回。日本会議のメンバーとして知られ、安倍首相とは「オトモダチ」関係にある。その彼が2016年1月、「従軍慰安婦は売春婦」と持論を述べたため文科副大臣の席を棒に振った。
 正直で空気が読めない彼が更迭されたのは、前年12月、日韓両政府が従軍慰安婦問題で政治決着を図ろうとした直後だったからだ。
日韓合意で、日本側は「慰安婦問題は、当時の軍の関与の下に、多数の女性の名誉と尊厳を深く傷つけた問題であり、かかる観点から、日本政府は責任を痛感している。安倍内閣総理大臣は、日本国の内閣総理大臣として改めて、慰安婦として数多の苦痛を経験され、心身にわたり癒しがたい傷を負われた全ての方々に対し、心からおわびと反省の気持ちを表明」した。桜田発言にさすがの安倍首相も慌てたはずだ。桜田は発言を撤回し辞任に追い込まれた。

<桜田氏は韓国では有名人>
사쿠라다 요시타가(桜田義孝のハングル表記)で検索すると桜田氏の関連記事がたくさん出てくる。韓国では安倍首相の歴史認識の代弁者のような有名人扱いだ。
 政府間合意直後の桜田発言で、日本側の「本音」が露呈したと韓国側から猛反発が起きたのは当然だった。誠実さを欠き、金銭で解決しようとする日本側の姿勢が浮き彫りになった。今回の入閣は桜田発言の追認である。安倍首相が日韓合意を自ら破棄したことにも等しい。
 「憲法改正」内閣などともてはやされ、早くも改憲ムードが漂い始めた。自衛隊を憲法に明記すれば海外派兵、戦争を買って出ることが可能だ。戦争ができる日本を取り戻すことになる。

新閣僚のお粗末さには驚かされる。政治資金疑惑で閣僚を辞任した人物、自民赤坂亭でご機嫌とりに走った女性議員。わが町選出の五輪担当相もそのひとりだ。安倍内閣の末期症状について期待を込めて語る人もいるが、「やぶれかぶれ」ほど恐ろしいものはない。桜田氏のポスターがうたう「国づくりは人づくり」は、国のための教育を主張した戦前のイデオロギーそのものだ。国家主義者桜田のポスターが溢れる町に住む息苦しさ。次回は落選させるしかない。

<桜田氏は韓国では有名人>
사쿠라다 요시타가(桜田義孝のハングル表記)で検索すると桜田氏の関連記事がたくさん出てくる。韓国では安倍首相の歴史認識の代弁者のような有名人扱いだ。
 政府間合意直後の桜田発言で、日本側の「本音」が露呈したと韓国側から猛反発が起きたのは当然だった。誠実さを欠き、金銭で解決しようとする日本側の姿勢が浮き彫りになった。今回の入閣は桜田発言の追認である。安倍首相が日韓合意を自ら破棄したことにも等しい。
 「憲法改正」内閣などともてはやされ、早くも改憲ムードが漂い始めた。自衛隊を憲法に明記すれば海外派兵、戦争を買って出ることが可能だ。戦争ができる日本を取り戻すことになる。

新閣僚のお粗末さには驚かされる。政治資金疑惑で閣僚を辞任した人物、自民赤坂亭でご機嫌とりに走った女性議員。わが町選出の五輪担当相もそのひとりだ。安倍内閣の末期症状について期待を込めて語る人もいるが、「やぶれかぶれ」ほど恐ろしいものはない。桜田氏のポスターがうたう「国づくりは人づくり」は、国のための教育を主張した戦前のイデオロギーそのものだ。国家主義者桜田のポスターが溢れる町に住む息苦しさ。次回は落選させるしかない。