2023.10.03  中南海は北京曇天?、いや嵐の前? ―国防相は何故、どこへ消えた?

田畑光永 (ジャーナリスト)
                         
 中国では先月末から今月初めにかけて、中秋節と国慶節(建国記念日)が連続することで、8日間という大型連休がスタートして、各地は大変な賑わいを見せているようである。昨年までは新型コロナの感染防止策の余波で人出もいま一つであったが、今年はこれまでの反動で、海外も含めて各地へ旅行する人はのべ20億5000万人とも予想されるという。日本の総人口の20倍とまではいかないが、少なくとも10数倍の人間が渦を巻いて動き回るのだから、気の遠くなるような話である。
 昔から「北京秋天」という言葉に象徴されたように、華北の10月は抜けるような青空で有名であった。最近は空気の汚れで大分様子は変わったようであるが、今年は空気の物理的な汚れもさることながら、どうも国の在り方に不透明さが重なってなんとも気色の悪いことになっている。
 まあ「北京曇天」というところだが、こんな時によく使われるのは「山雨欲来 風満楼」(山雨 来たらんと欲して、風 楼に満つ)という一句である。これは晩唐の詩人、許渾(きょこん)の「咸陽城東楼」という詩の一部であるが、ざあっと一雨来そうな大気の動きが楼上に立つ身に迫ってくる、という意味であろう。
 それを感じさせたのは、まず7月の秦剛外相の更迭であった。その前の王毅外相時代が長かったから、昨秋の共産党大会後、王毅氏が党の外交責任者に昇格したのに合わせて、秦剛外相が登場したこと自体は別に異とするにはあたらなかった。ところが、その新外相が半年そこそこで7月に理由の説明なしに解任されたのは世界を驚かせた。不倫説、スパイ説などが飛び交ったが、解任の理由については、中国当局は口をつぐんだままである。
 ところが8月末から、今度は李尚福国防相が表舞台から姿を消した。例によって当局は今回もだんまりを決め込んだまま、はや1ヶ月以上になる。中國の国防関係の意思決定機関としては共産党と国務院(政府)の双方に中央軍事委員会という組織がある。双方といっても顔ぶれは共通で、トップ(主席)は国家主席であり、党総書記である習近平。その下に張又侠、何衛東という古参軍人2人が副主席、そして4人の軍幹部が委員として名を連ね、合わせて7人で構成される。
 姿を消している李尚福国防相はその4人の委員の1人であるから、国防の最高責任者というわけではないが、何と言っても現場の長である以上、いつまでもどこにいるのかわからないですむ存在ではない。
 しかし、奇妙な国である。外相といい、国防相といい、いずれも対外的に国の重要部分を代表する要職なのだから、辞めたり、辞めさせられたり、病気になったりしたら、すぐにも公表して後任を決めるのが常識である。
 ところが中国の場合、当の役所のスポークスマンが記者会見でトップの所在、安否を問われて、「何も言うことはない」と空とぼけて、何週間も日を送っているのである。トップにいない役所の中はいったいどうなっているのだろう。
 ただここで注意すべきは、中國における要人の失脚のメカニズムである。三権が分立し、また法の下の平等が確立されている国においては、一定の法律違反を犯せば、公職にある人間はその職を離れるのは常識となっているが、中國ではそうではない。
 中国共産党はもともと革命政党であり、武力による闘争で政権を握った。その闘争の中では紙に書いた法律で闘争の相手はもとより、味方の人間の悪行(とでも言うしかないが)も裁いたわけではない。時には合議で、時には組織の長の判断で、死罪を含む処罰が行われた。
 その伝統は革命勝利後、新しい国家を打ち建てた後でも、反右派闘争、文化大革命などで実質的に死刑を含む刑罰が司法とは無関係に「革命幹部」や「革命大衆」の名において、党員、非党員の別なく適用された。
 ほかならぬ習近平の父親の習仲勲も党内抗争というか派閥争いというか、ともかく法律による処罰でなく党による処罰として16年もの長きにわたって軟禁、投獄、監視生活を送ったのは有名な話だ(後に復活して深圳経済特区の発足に尽力した)。
 2012年秋の中国共産党第18回大会で習近平は総書記というトップの座につき、10年後の昨秋は前例を破って3選を果たして「習一強体制」を作り上げたのだが、そもそも2012年の大会では習近平より、後に習体制下でナンバー2の首相を10年務めた李克強のほうがトップ争いでは有利と見られていた。それが逆転したのはその年の春、当時、重慶のトップだった薄熙来のスキャンダルが明るみに出た際、薄熙来を罪に問うかどうかを中央政治局常務委員会で討議した際、真っ先に処分すべしに賛成したのが習近平で、それが議論の流れを作り、さらに秋の党大会で習がトップの座を射止めるきっかけになったという説を読んだことがある。
 あくまで読んだだけで、その真偽を判定する材料は私にはない。でも、そういう話が伝わる以上、幹部の処分は法によるよりも、政治的に決まることが常識になっていることが分かる。
 ということは、最近の秦剛更迭、李尚福不明事件は、たんに素知らぬ顔でスキャンダルを隠したいというのではなく、彼らに責任を追及すべき行為があったかどうかを含めて、権力上層部に対立があって、結論がなかなか出せないという事情があるのではないか、という気がする。
 些細ではあるが、そう考える根拠の一つとして私が気になるのは、秦剛前外相は外相ポスト以外にも「国務委員」という肩書を持っていた。これはポストというより身分を示すものとされており、国務院(政府)ではトップが首相、その下が副首相、その下に「国務委員」というクラスがあり、その下がただの部長(ヒラの閣僚)という構成と言われる。つまり秦剛はヒラの閣僚より上のクラスなのだが、政府が公表した決定は外交部長の罷免だけで国務委員には何も触れていない。
 これはどういう意味か。勘ぐれば、秦剛更迭に反対する勢力(?)がいて、あえて国務委員の肩書を残して、復活の足掛かりにしようとしている、といったことも考えられる。そう考えると、秦剛の後任に前任の、それも確か10年近くも外相ポストにいた王毅をあえて兼任させたのも奇妙である。あたかも秦剛のカムバックを予期しているのでは?という疑問さえ湧いてくる。
 李尚福のほうはいまだに国防部がだんまりを決め込んでいるから、考える手がかりすらない。しかし、この状態はたんに外聞が悪いから黙っているとか、頬被りをしていればその内、皆が忘れると思っているとか、そんなことではなく、どうにものっぴきならない複雑な情況が生じて、国防部は身動きがとれないのではないだろうか。国防部がいつどんなことを言うか、あるいは何も言わずのこのまま部長不在を続けるのか(まさか!)。「山雨欲来 風満楼」である。(231001)

2023.10.02 世界のノンフィクション秀作を読む(28)
クワメ・エンクルマの『わが祖国への自伝』(理論社刊、野間寛二郎:訳)―
―「アフリカの独立の烽火」の克明な記録(下)


横田 喬(作家)
                    

③ロンドンでの活動
 1945年5月、私はニューヨークからロンドンに向かった。一か月ほど後、英国で第五回パン・アフリカ会議が開かれ、私は組織委員会の秘書役に。会議には全世界から二百人余が出席し、アフリカ民族主義(植民地主義・人種差別・帝国主義に対する反逆)を謳い、マルクス主義的社会主義を基本原理として採用した。
 当時、私は実に貧しかった。いつも下町の大衆食堂に入って茶を一杯飲み、懐が許せばブドウパンかロールパンを一つ買って、ここに集まる様々な人々と政治について何時間も議論した。ある日、黄金海岸(コート・ダジュール)に戻っていた友人から手紙が来、統一黄金会議の総書記になってほしい、と依頼があった。在米・英での私の実績を知る彼が推薦した、という。給料は一カ月百ポンドで、他に自動車を一台付けると付記してあった。総書記という仕事は実に魅力的で、外国で覚えた党組織の経験を母国の民衆のために生かせる、待望の機会が遂に来たと思った。

④黄金海岸に帰って
 当時、黄金海岸はよく待遇され、よく管理されたモデル植民地と考えられていた。この平和な国が、短時日の後に、アフリカの復活と復興の尖兵になろうとは、世界で誰一人予想もしていなかった。1920~40年代後半にかけ、この国は政治的に大きく目覚め始めた。イギリスのバーンズ卿はアフリカ人の族長たちや一部のエリート層と相談し、「バーンズ憲法」を制定した。それを一部の者は自治に向かう偉大な第一歩と歓迎したが、政治的に目覚めている層はまもなく幻滅を感じ、その廃止を扇動し始めていた。
 こういう情勢の下に47年12月、統一黄金会議が誕生する。初めは大衆にも族長たちにも支持されていず、当然大きな影響を及ぼすことはできなかった。私が総書記に招かれたのも、これを実のある大衆運動にしたいという願いからだった。
 国内に黄金会議の支部が十三あるとの触れ込みだったが、実際は僅か二つに過ぎず、いずれも活動していなかった。私は旧型の車で全国を回り、時には鞄一つを抱え徒歩で国の隅々まで歩き回って、集会を開いて人々と会い、何百回も演説を重ねた。
 翌年2月20日、私は首都アクラでの大集会で演説した。28日に復員軍人の平和デモが行われ、ちょっとした行き違いから警官隊との街頭での衝突に発展する。警官隊を指揮するヨーロッパ人の警部が部下に発砲を指令。復員軍人二人が即死し、五人が負傷した。アクラの繁華街に報せが伝わり、民衆が激高~全市に騒擾が起こる。暴動と略奪は数日間続いた。外資系の大きな会社など多くの建物が炎上し、死者二十九人に負傷者二百三十七人を出した。

⑤逮捕と拘留の試練
 何日か後、私は警察に拘引された。所持品の中に、ロンドンで貰った未署名の共産党の党員証と「サークル」の文書があり、嫌疑の根拠となった。私はイギリスでは極右から極左までの政党に関係したが、それは後日故国に戻った際に資するためだったといくら説明してもダメ。私は空路ガーナ第二の都市クマシに移送され、刑務所に拘留された。
 私は約八週間の拘留後に釈放されたが、調査委員会は私について、こう認定した。「エンクルマ氏が書記を引き受けるまでは、統一黄金会議は事実上なんの活動もしていなかった」。そして、「氏は在英中に共産党に加入し、西アフリカ・ソヴィエト社会主義共和国連邦の先導者役を果たしている、と見られる」と指摘。想像上の産物である「ソヴィエト」という言葉を勝手に持ち出し、私に「注意人物」というレッテルを無理やり張ろうとした。

⑥仲間割れの始まり
 統一黄金会議の実行委員会は私が「同志」という言葉を常用することに激高し、私が共産主義者である証拠だと決めつけた。私がガーナ大学を作ろうとしていたことも越権行為だと非難した。が、私は二十五ポンドの月給のうち十ポンドを出し、最初の十人の学生のための腰掛と机などに使う備品を購入している。1948年7月20日の開校式を私は忘れない。
 ガーナ大学は着実に成長した。一年後には学生の数は二百三十人に達し、入学希望者は千人を超えた。この大学が成功した後、私は全国にガーナ国立中学校と専門学校を十二以上つくった。しかし、実行委員会は私の成果に何の好意も示さず、激しい不満を投げ続けた。私はまた新聞の発刊にも着手し、印刷機を分割払いで購入。少年らスタッフ五人に手伝ってもらい、同年9月3日、私の新聞『アクラ・イヴニング・ニューズ』を発刊した。
 この新聞は運動の前衛となり、その紙面を通して民衆は毎日、自由のための闘い、腐敗した植民地制度と帝国主義の仮借ない非道さを心に刻み込まれた。資金難からペラ一枚で出発したが、「散歩者」というコラムが評判を呼び、群衆は貪るように待ち構え、字の読めない人々は仲間を作って、読める人に記事の中身を読んでもらった。見出しを兼ねて載せた標語が人々の口に上る。「我々は平穏な奴隷の身分より、危険の伴う自治を選ぶ!」
 
⑦我が党ついに誕生
 6月12日の日曜日、私は約六千の聴衆を前に、会議人民党の成立を発表した。興奮した群衆の耳を聾するばかりの歓呼に迎えられ、壇上の私は胸が一杯になった。「今すぐ自治を」と要求する理由として、私は(イギリスが)労働党政権下の現在が有利であること、この国(黄金海岸)は我々の国であり、我々は搾取と抑圧の下に奴隷として生きていくことをこれ以上欲しないこと、我が国の民衆が物心両面で幸せを味わえるのは自治政治の下においてのみである、と訴えた。
 群衆は歓呼して同意し、私は青年組織委員会が独立の政党「会議人民党」として生まれ変わることを告げた。私は総書記の辞職~統一黄金海岸会議からの脱退を声明。群衆や代表者たちは歓声を上げ、圧倒的な支持の念を示した。ガーナのために、もし必要なら、私の生きた血をさえ捧げよう、と私は誓った。この時から闘いは、反動的な知識人と族長、イギリス政府、「今すぐ自治を」と叫ぶ目覚めた大衆の三つ巴で行われることになったのだ。
 会議人民党の成功の多くは、婦人党員の努力による。婦人たちは重要な戸外のオルガナイザーになった。宣伝部員の任務を帯び、無数の町や村を歩き回り、党に連帯と協同をもたらす多くの仕事を果たした。彼女たちは事実、真に熱情的だった。ガーナのために、もし必要なら、私の生きた血をさえ捧げよう、と私は誓った。

⑧積極行動は広がる
 私はインドで道義的圧力がイギリス帝国主義に勝利したことに注目。組織的、合法的な非暴力手段による積極行動を呼びかけた。この積極行動が波紋を広げ、私は伝統的な地方権力のガ族協議会から糾問された。積極行動とは、国内の帝国主義勢力を攻撃するためのあらゆる合法的、組織的手段のことだ、と私はパンフなどで主張した。積極行動の武器は、合法的な政治扇動、新聞、教育運動である。そして最後の手段は、インドでガンジーが用いた絶対非暴力を原則とするストライキ、ボイコット、組織的な非協力の適用である。
 私は49年11月20日、ガーナ人民代表者会議を招集。未曾有の大集会となり、五十以上の組織からの代表者が出席した。大会は「黄金海岸の民衆は、直ちに自治を要求する」と宣言。挑戦を受けた政府は攻勢に出、私の言論は官吏侮辱罪に当たるとし、裁判へ。私は罰金三百ポンドを言い渡されたが、幸いみんなが募金してくれ、私は運動を継続できた。
 イギリスのサロウェイ植民相が私と会談し、脅しをかけ、懐柔を計った。が、私は積極行動の必要を宣言。翌年1月11日、全ての商店が閉ざされ、列車がストップ。労働者たちは仕事をボイコットし、国の全経済生活が停止した。新聞各紙は積極行動を続けるよう、勤労者を扇動。警察の摘発を招き、各紙は発行停止となり、編集者たちは治安妨害で投獄に。同月21日夜、私の仲間の大部分が逮捕~収監され、私は翌日に捕まった。(民衆は最後まで私を支持するだろう。だから私も絶対に彼らを失望させてはいけない)と、私は考えた。

⑨幽囚の壁を超えて
 私に向けられた様々な告発に対して自分を弁護するため、私は法廷に出た。一切の出来事がかなり正確に論告されて三年の刑を宣告され、アクラに連れ戻されて要塞刑務所に入れられた。政治犯の私が普通の犯人並みの扱いを受けると知り、少なからずショック! 超満員の監房の隅にたった一つのバケツが、便器として十一人向けに与えられていた。
 食物は量も少なく、質も悪かった。食事は全部監房で摂ったが、そのために一層不味く感じられた。刑務所の外に居る党と連絡を保つ唯一の方法は書くことだ。私は所内で目ざとく鉛筆の切れ端を拾い、便所の落し紙に記し、外の同志の許にうまく届けるすべを見つけた。総選挙が目前に迫っていた。私が獄中から立候補(法律的には可能)し、もし選挙に勝てば、政府が私を獄中に置いておくことは出来なくなるだろう、と分かっていた。
 私は刑務所長を通して外部と大っぴらに交渉し、供託金を納め、選挙委員会を組織した。首都アクラの中央区で立つことにした。私が当選したら、政府が私を釈放するだろうと人々が考えたからだ。朝の四時頃、私が当選したという知らせが届く。有効投票23,112のうち22,780という黄金海岸始まって以来の最多票を獲得したのだ。
 アクラの街々では群衆の興奮が絶頂に達した。夥しい民衆がデモを興し、私を救い出そうとする気勢を示した。党の執行委員会は、私の釈放について交渉するために、総督に面会を求めた。総督は面会を承諾。面会後、私の釈放を認めた。51年2月12日正午前、私は出獄した。生涯を通じ、この時ほど群衆がぎっしり固まっているのを見たことはない。
 
▽筆者の一言 人民の圧倒的支持によりエンクルマは以後、政府事務主任~首相に就任。60年、交渉による平和的な方法でイギリスからの独立を勝ち取り、共和制を採用して初代大統領の座に。アフリカ諸国の独立支援と国家間の連帯に力を注ぎ、ギニアとのアフリカ諸国連合を樹立。「アフリカ独立運動の父」と称えられ、レーニン勲章を受ける。半面、内政面では独裁色を強め、三権分立無視~一党独裁制を敷いて反発を呼ぶ。66年に北京へ訪問中にCIAに支援された軍事クーデターが勃発~失脚し、ギニアに亡命する。回顧録の執筆やバラの栽培などをして過ごし、72年に癌により62歳で病死。前半生の赫赫たる足取りとは対照的な晩年の凋落ぶり。人の運命の儚さをまざまざと示し、そぞろ哀れを誘う。
 
2023.09.30 世界のノンフィクション秀作を読む(27)
クワメ・エンクルマの『わが祖国への自伝』――「アフリカの独立の烽火」の克明な記録(上)

横田 喬 (作家)

 1957年にイギリス領黄金海岸(ゴールド・コースト)植民地がガーナとして独立し、1960年のいわゆる「アフリカ独立の年」の烽火となった。上掲の著書は、このガーナの独立がどのようにして起こったかを、そのリーダーだったクワメ・エンクルマ自身が克明に記す。彼自身の比類ない魅力的な個性も如実に示され、私は感嘆しながら読み進み、人種的偏見の誤りをしかと思い知った。

①我が生い立ちと教師生活の頃
 私は(アフリカの)黄金海岸南西端の小さな村に生まれた。私たちの部族の習慣では、人の誕生は記録しようとされず、多少の根拠ある推測では1909年9月頃とされる。当時のこの地方では通い婚の一夫多妻制が普通で、父母は別居して暮らしていた。母は非常に優れた保護者で、私に多くの自由を与え、天性の指導力があった。鍛冶屋の父は強い性格の持ち主で、子供には非常に優しかった。私は大変に我儘で、いたずらっ子だったらしい。
 初等学校で八年間を過ごした後、1927年に首都アクラの国立師範学校に入った。この三年前、プリンス・オブ・ウエールズ大学が開校し、K・アグレイ博士が副総長補佐に就任。アフリカ人として初めて大学の中枢に参加し、私には誰よりも偉大な人物に映り、私は心から彼を慕った。博士は激しい生活力と熱情と腹の底からの明るい笑い声を持ち、稀に見る大雄弁家でもあった。私の民族主義が培われたのは、博士のお陰である。
 博士は自分の皮膚の色を何物よりも誇っていたが、人種差別はどんな形のものにも強く反対した。黒人と白人の協同が、博士の思想の骨子であり、彼の布教の眼目だった。が、私は既にその頃から、アグレイのこの思想を実際的なものとしては受容できなかった。博士はこの頃、イギリス経由でアメリカへ旅立ち、ニューヨークで罹病~急死してしまう。
 私は激しいショックを受け、三日間は何一つ食べることができなかった。が、胃の腑が空でも、勉学を続けるエネルギーだけは溢れるほど有ることに気付く。この発見は、後日アメリカやイギリスへ行った時に大変貴重なものとなった。私は貧乏なため食事を摂らずに勉強もし、休暇には大学の授業料を稼ぐために働きもしなければならなかったからである。

 博士を心から尊敬していたから、私はアメリカへ行き、もっと勉強しよう、と考え始めた。そのために、師範学校の課程を終えたら、五年間教師をして、その間に旅費を貯めるという計画を立てた。アクラの師範学校は1928年にプリンス・オブ・ウェールズ大学の一部になった。私は頭に詰め込めるだけの知識を得たいと力一杯の努力はしていたが、クソ勉強家や本の虫にはならなかった。友人も沢山できたし、スポーツも好きだった。
 私は短距離走者として規則正しい訓練を受け、大学対抗競技では百、二百、四百メートルの競走に出た。スポーツマンシップというものが人間の性格の非常に重要な部分を作ることを知り、国を発達させるためスポーツを奨励することの必要を後に考えるようになった。
 宗教については、ローマ・カソリック教会が定めたものとは違った考えを抱き始めていた。教会へ行くことを義務づけるべきではなく、良心の問題とすべきだと固く信じた。
 私は弁論に興味を持ち始め、学内に討論の会を組織した。ある見解に同意する・しないを問わず、私はいつも少数派の味方になった。最初はどんなに不利な立場にいても、最後には私の支持した考えに反対派を屈服させ、討論を勝利のうちに終わらせる場合が多いことに気付いた。この経験は後には非常に貴重なものになった。この「おしゃべりの才能」がなかったら、私の闘いが緒戦で敗れ、私たちの闘争の全部が無駄についえたと思われるからだ。

 1930年に私は師範学校を卒業した。沿岸地方の下級学校初等科教師の職を与えられ、一年生を教えた。子供を少しでも続けて教える最初の経験だったが、子供たちが私に懐いてくるのに驚き、感動もした。私は教師の地位を高めたいと願い、余暇の時間の多くを教師の組織を作るのに使った。それが教師の状態を改善する第一歩になるだろう、と思ったからだ。
 一年後、私は地方の小都市のローマ・カソリック下級学校の専任教師に昇進。在任中、ロンドン大学の入試に備えるための通信講座をとった。ラテン語と数学を学び、後にリンカーン大学で一年目の試験を受ける際、非常に役立った。余暇はエンジマ文学協会をつくるのに充て、当時英領西アフリカ民族会議の秘書をしていたS・R・ウッド氏と会談。私はアメリカへ渡る決心を伝え、彼はそれを心から支持し、ペンシルバニアのリンカーン大学に入学できるよう、一通の証明書を書いてくれた。
 二年後、ローマ・カソリックの神学校教師になる。ここでもっと学問を続けよう、それにはアメリカへ行かねば、という考えが再び私の心を占めた。早く行動を起こさねば、生涯神学校の壁に閉じ込められることになる、と私は感じた。

②アメリカでの勉強
 35年初め、私は東方のナイジェリアの首都ラゴスを経由し、アメリカへの旅券をもらうため海路ロンドンへ行った。リヴァプールに半月ほど滞在した後、再び海路アメリカへ向かった。ロンドンでは「ムッソリーニ、エチオピアへ侵入」という張り紙が目に入った。その一瞬、ロンドンの全部が、私に宣戦を布告しているように感じられ、私は植民地制度を倒すために私の働ける日の来ることを祈り、必要なら地獄へでも行こうと私は決心した。
 ニューヨークに着いたのは十月の終わり頃だった。1854年創立のリンカーン大学は、黒人に高等教育を与え、合衆国内の黒人社会の有用な指導者を育てることを目的として建てられた最初の教育機関である。到着した時、私の所持品は四十ポンド相当のドル紙幣と中学校教師の免状と知人による一通の紹介状だけ。私は学部長の処へ行き、経済的に困っていることや在学中は働いて勉強したい、と話した。学部長はいい顔はしなかったが、人がいい性格ゆえに私の申し出を受け入れてくれた。

 次の試験で良い成績をとれば第一学年への編入を許可するという約束で、私は見習い学生に採用された。大いに努力し、試験を受けて入学資格を獲得した。大学の施設は百~二百人の学生を対象とし、成績の悪い者は退学を求められ、首席と次席の学生は奨学金が与えられた。幸い私はいつも首席か次席にいたので、在学中はずっと奨学金を貰っていた。
 奨学生のために、図書館の助手と食堂の給仕という二つのアルバイト口があった。後には、収入のもっと多いアルバイトを見つけた。社会学と経済学の講師が、沢山の本からレポートを作成するよう指示。多くの学生が音を上げ、仕事を探していた私は一回一ドルでレポート作成を引き受けた。懐が寂しくなる度、これで数ドルずつ稼ぐことができた。
 弁論には相変わらず非常に興味があり、一学年の時には大会で第二位になり、金メダルをもらった。このメダルは後に短期間しか交際しなかった娘の一人が、記念のためにと言って私から取り上げてしまった。私は学生仲間と付き合うのに困難を感じたことはなかったが、39年の学級年鑑に「最も興味ある学生」として選ばれた時には感動し、光栄にも思った。
 39年にリンカーン大学を卒業。経済学と社会学を専攻し、学士の資格を得たが、学校に借金が残っていたため、すぐに学位をもらうことはできなかった。意気阻喪する折、リンカーン大学の神学・哲学科の教授ジョンソン博士から「助講師に採用するから来ないか」との誘いがあり、この招きを受けて同年秋、私は同大学哲学科の助講師になった。

 この環境の変化を私は百パーセント利用した。仕事はそれほど忙しくはなかった。それで暇な時間に、手に入る近代哲学の本を片っ端から読み始めた。カント、ヘーゲル、デカルト、ショーペンハウエル、ニーチェ、フロイトなどの著書を読んだあげく、法律や医学や芸術が知識の手と足で、哲学がその頭脳である、という言葉の正しいことを知った。
 その年七月、ワシントンの長老教会から奨学金百ドル賦与の報せがあり、この奨学金でペンシルベニア大学の幾つかの課程の費用を払い、哲学と教育学の研究を続けることにした。
 42年にリンカーン神学校を首席で卒業。神学士の称号を得、慣例に従い、その年の卒業演説をさせられた。「エチオピアは神の道を選ぶか」という表題で、私は弁じた。終了後、教授や元の学友たちが駆け寄り、強く握手してくれ、演説が成功したことを知った。

 ペンシルベニア大学では、哲学や初級ギリシャ語、黒人史を講義。最も人気があったのは黒人史で、その時間には教室は満員になった。私はいつも自分を新参講師としか考えていなかったので、45年――私がアメリカを去る年、リンカーン大学の機関誌に「今年の最優秀教授」として選ばれたのを知った時、大変に嬉しい驚きを味わった。
 その頃、生活を維持し、研究費を稼ぐため、私はフィラデルフィア近郊の工業都市チェスターの造船所に勘定係として雇われた。季節を問わず、深夜の十二時から翌朝八時まで働いた。冷えた日には、手が鋼鉄に張り付きそうになり、持っている全部の衣服を着ても、骨の髄からガタガタ震えた。ある日、下宿で十八時間も眠ってしまい、直後に肺炎に罹った。
 救急車でチェスター病院に運ばれ、酸素室に入れられた。私は初めて自分の生活を真剣に見つめ直した。無性に母に会いたくなった。病気が治り次第、なるべく早くアメリカを去って故国に戻ろう、と私は決心した。
2023.09.29 今こそ賀川豊彦に学び、連帯・互助・協同を強めよう
協同組合、労働組合、賀川関係団体が実行委
         
岩垂 弘 (ジャーナリスト)
 
 9月1日は関東大震災から100年にあたる日だったが、その前日の8月31日、東京で、「関東大震災100年事業 賀川豊彦とボランティア」という事業がスタートし、そのための実行委員会が結成された。関東大震災で献身的な被災者支援をおこなった賀川豊彦(1888年~1960年)の理念と実践に学び、互いに協力しあって現在進行中の地球規模の危機的状況に対処しようという狙いで、実行委には、賀川豊彦関係団体や協同組合、労働組合など37団体が加わった。

賀川豊彦
「関東大震災100年事業 賀川豊彦とボランティア」のロゴ=日本生活協同組合連合会のHPから

 実行委によると、関東大震災の時、神戸のスラムに身を投じて貧しい人々の救済に専念していた牧師の賀川豊彦は、関東大震災の知らせを聞くと、ただちに東京へ向かい、本所地区に拠点を構え、被災者の救援を始めた。さらに、関西、四国、九州にまで出かけて義援金や布団、材木を集めて東京へ送った。
 移り住んだ本所では、若い人たちと共にセツルメント活動を始めた。賀川は、若い人たちを「ボランチヤー(志願兵)」と呼んだ。これが、後に生まれた新語「ボランティア」の起源という。

 その後、賀川の活動分野は社会事業全般に広がり、消費組合(後の生活協同組合)、医療組合(後の医療生活協同組合)、信用組合、労働組合などの設立で大きな足跡を残す。農民運動、無産政党樹立運動にも関わった。とりわけ、生協運動での業績はよく知られており、今では「生協の父」と言われる。戦後は、世界連邦運動など平和運動に取り組んだ。

 実行委は「幅広い賀川の活動を貫いたのは隣人愛に基づく、助け合いの精神と行動でした」としている。

 ところで、こうした賀川の生き方から学ぼうという実行委になぜ37もの全国的な規模の団体が参加したのだろうか。実行委が発表した「多様につながり合う社会をめざして」「賀川豊彦から受け継ぐ、連帯、互助、協同」の結び直しへ向けて」と題する趣意書には、こう書かれている。
 「現在、世界は新型コロナ感染症の蔓延、世界的経済の停滞、気候変動、そしてロシアによるウクライナ侵攻という深刻な地球規模の危機的状況を迎えている。これは、かつて賀川とその仲間たちが直面した時代のものとは、規模も質も大幅に異なるものであろう。しかし、この危機的状況だからこそ、かつて賀川と仲間たちが果敢に挑んだように、市民同志あるいは組織同志がつながりあい、同じ目標に向けて行動を共にすることが求められている。
 賀川豊彦と仲間たちから改めて学び、それを新たな実践に結びつけたい。そのための契機として、本事業を行うものとする。賀川が神戸や本所で仲間と共に紡いだ糸でさらに多くの人たちと結んだ繋がりはその後多くの組織と活動へと結実した。今新たな諸問題に直面して、我々はこの糸を結び直し、さらに大きく多様なつながりでこの困難に立ち向かう必要がある。多くの方々にご賛同とご参加を願う次第である」

実行委は今後、以下の事業を行うという。
①「賀川豊彦と関東大震災~ボランティアのはじまり~」パネル展
②みんなで山手線一周ポールdeウォーク大会(10月15日予定)
③「マンガでわかる 賀川豊彦と考えるボランティア」の出版(12月20日予定)


 なお、実行委37団体には以下のような団体が名を連ねている。
社会福祉法人 イエス団賀川記念館、一般社団法人 家の光協会、
学校法人 雲柱社、社会福祉法人 雲柱社、公益財団法人 賀川事業団雲柱社、
認定特定非営利活動法人 賀川豊彦記念・鳴門友愛会、
公益社団法人 教育文化協会、共栄火災海上保険 株式会社、
株式会社 キリスト新聞社、一般社団法人 国際平和協会、
生活協同組合 コーブみらい、生活クラブ事業連合生活協同組合連合会、
世界連邦運動協会、世界連邦日本国会委員会、全国共済農業協同組合連合会、
全国厚生農業協同組合連合会、全国農業協同組合中央会、
一般社団法人 全国労働金庫協会、全国労働者共済生活協同組合連合会、
東京基督教大学共立基督教研究所、東京都生活協同組合連合会、
東都生活協同組合、中ノ郷信用組合、一般社団法人 日本協同組合連携機構、
日本基督教団松沢教会、日本コープ共済生活協同組合連合会、
一般社団法人 日本社会連帯機構、日本生活協同組合連合会、
日本労働組合総連合会、日本労働組合総連合会東京都連合会、
日本労働者協同組合連合会、公益財団法人 日本 YMCA 同盟、
パルシステム生活協同組合連合会、一般財団法人 本所賀川記念館、
学校法人 明治学院、労働者福祉中央協議会
実行委の事務局は公益財団法人 賀川事業団雲柱社(03-3302-2855)に置かれている。.
2023.09.28 子供が面白ければ大人も面白い

――八ヶ岳山麓から(443)――
                            
阿部治平 (もと高校教師)

 チベット文学の専門家星泉先生から、ご自身翻訳の『しかばねの物語』(のら書店 2023・09)をいただいた。 『しかばねの物語』というから、死体について何かを語るのかと思ったら、死体が面白い話をするというチベットの民話本であった。

 星先生によると、この民話はもとは、日本語にも翻訳されているインドの物語『屍鬼二十五話――インド伝奇集』(ソーマデーヴァ著、上村勝彦訳 平凡社)である。これがいまから1000年くらい前にチベットに伝わったという。
 星先生によると、翻訳の底本の底本は、もともと北京で保存されていた15話からなる木版印刷のチベット語『しかばね物語』とのことである。これが複雑な経緯をたどって、1963年にチベット東北地方の口語(アムド方言)で出版された。
 10年間つづいた文化大革命の混乱が終って、ようやく出版界も落ち着いた1980年ころからこの本も青海人民出版社によって再版され、版を重ね漫画本も出たという。星先生翻訳本はこの青海版を底本としているとのことである。

絵本西倉

 右はチベット語『しかばねの物語』(1994版)、左は漢訳「説不完的故事」(万瑪才譲訳)、いずれも青海人民出版社

 さて、話の発端はこうだ。
 デチュー・サンボという男が、悪い魔法使い七兄弟に追い詰められて、ぎゃくに竜樹菩薩のまえで彼らを殺すはめになる。竜樹(サンスクリット語ではナーガールジュナ)はインドの実在の高僧であるが、チベットでは菩薩になっている。
 デチュー・サンボの殺人を見た竜樹菩薩は彼に罪を償わせるために、墓場へ行って「しかばね」を担いで来なさい、その「しかばね」は人々に幸せをもたらすから。だが、道中一言も口をきいてはいけない、話をすると「しかばね」はあっというまに墓場に戻ってしまうという。
 インドの話では、「しかばね」を運ぶのは勇気ある王であるが、チベットでは若い知恵のある男である。話すのは、インドでは「しかばね」にとりついた屍鬼(ヴェーターラ)であるが、チベットでは死体そのものである。

 ところが、デチュー・サンボが墓場で背負った「しかばね」はおしゃべりで、たいへん面白い話をする。彼は思わず「どうして?それから?」と聞いてしまう。すると背中の「しかばね」は空を飛んで元の墓場にもどってしまう。デチュー・サンボは墓場にもどって死体を担ぎ出す。ところが、また死体は面白い話を始め、デチュー・サンボはまた口を滑らせる・・・・・・・、という組み立ての物語である。
 星先生によると、このように登場人物がつぎつぎ物語を語るという入れ子形式の話は「枠物語」といい、これがアジア各地に広がった。「アラビアン・ナイト」もその一つだという。

 わたしがチベット人地域の学校で仕事をしていたとき、学生の中に母語の知識が失われるという危機感をもって、チベット語児童書の必要性を説くものがいた。当時から地方の小さな町でも幼稚園や小学校では漢語による教育が拡大していたためであろう。それで、わたしは学生たちに子供のためのチベット語の読物があるか聞いてみた。たいていの学生は、「漢語の本はあるがチベット語のものはない」と答えた。

 このたび、星先生訳を読んで、あらためてかつての学生たちに『しかばねの物語』について問い合わせたところ、「おばあちゃんが悪いことをしてはだめだよと言いながら話してくれた」とか、「話は知ってはいたが、『しかばねの物語』だとは思わなかった」といった答えが返ってきた。これで『しかばねの物語』は――20数篇あるなかの一篇であっても――チベット人地域では知られ愛された物語であることがわかった。
 学生のなかに、1994年に青海人民出版社が出版した『しかばねの物語』を読んだとのことで、上記の写真を送ってくれたものがいた。
 
 インドにルーツがあるとはいえ、チベット化した『しかばねの物語』には農牧民の生活があれこれと出て来る。勇気ある少年や美しい娘、貧しい青年、金持ちの泥棒、魔法使いといった主人公が奇想天外の活躍をする話が収められている。子供にとって面白い話は、大人が読んでも面白い。本欄の読者の皆さん、『しかばねの物語』をぜひ手に取って読んでください。                                      (2023・09・23)



2023.09.27 日本共産党の統治システム〝民主集中制〟が機能不全に陥りつつある。志位委員長はこの危機を打開できるか。

広原盛明 (都市計画・まちづくり研究者)

 日本共産党創立101周年記念講演会が2023年9月15日に開かれ、志位委員長が「歴史に深く学び、つよく大きな党を――『日本共産党の百年』を語る」と題して講演した(赤旗9月16日)。昨年9月17日、志位委員長は「日本共産党100年の歴史と綱領を語る」とのテーマで100周年記念講演を行ったばかりだ。それを今年も再び行うというのは、いったいどういう意図なのだろう。これからも「102周年記念講演」「103周年記念講演」と連続開催して、毎年同じことを言い続けるのだろうか。

 その後の赤旗の「党活動面」をみると、「101年の歴史に誇りと確信、全支部が視聴し『大運動』飛躍を」(9月19日)、「記念講演の大学習運動にとりくみ、この9月、すべての支部が入党働きかけと読者拡大を」(9月21日)、「9月目標達成の合言葉、すべての支部が記念講演を視聴・読了し、すべての支部が入党の働きかけに踏み出そう、すべての支部が『赤旗』読者を増やそう」(9月22日)とあるように、党勢拡大運動の掛け声がこれまでと大きく変化していることに気付く。

 これまでの党勢拡大目標は、第28回党大会(2020年1月)で決定した「党創立100周年(2022年7月15日)までに第28回党大会時比130%の党をつくる(党員35万人、機関紙読者130万人)」という数値目標だった。ところが、党勢拡大運動が思うように進まず(逆に後退している)、2023年1月に予定されていた第29回党大会を2024年1月に1年間延期せざるを得なくなった。また『日本共産党の百年』の党史編纂も遅れ、発表されたのは党創立100周年から1年後の2023年7月だった。

 赤旗はこの間、「130%の党づくり」を掲げて党組織や党員を叱咤激励してきたが、第29回党大会を4カ月後に迎えた現在、もはやそれが誰の目にも〝達成不可能〟であることが明らかになった。その代わり持ち出してきたのが「歴史に深く学び、つよく大きな党をつくる」という101周年記念講演の大学習運動なのだろう。赤旗には各地視聴会場の感想として、「記念講演やる気でた」「不屈の成長・発展に確信」「苦闘と開拓の歴史に誇り」「次の時代を開くと決意」(9月19日)などなど、〝革命政党〟としての共産党に対する共感と賛辞が集められている。なかには、「党勢拡大必ず」との見出しの次のような言葉もある。
――逆流の中、日本共産党がそれらに抗してきた歴史に学び、党勢拡大を必ず成し遂げようとの思いを強くしました。本当に試練続きの歴史だったが、悲観することなくむしろ誇るべきことであると思います。日々党勢拡大に悩んでいますが、それが党の長年の歴史から見て当たり前で、苦労をはねのける気概を持って、日々頑張りたいと思いました(大分県)。

 記念講演大学習運動のシナリオは、「130%の党づくり」を数値目標とする党勢拡大運動の未達成は、党中央の(過大な)拡大運動方針の誤りの所為ではなく、支配勢力の反共攻撃によるもの――との見方を広げることに重点が置かれている。共産党が〝革命政党〟であるがゆえに党勢拡大運動は支配勢力から総反撃を受ける、そう簡単には達成できない、だから今までにも増して頑張ろうという――というストーリーである。これなら、いくら拡大運動が失敗しても党中央の責任が問われることはないし、党員や党組織が頑張ればいつかは困難な事態は克服できるということになる。これが〝たたかいの弁証法〟だといいたいのだろう。

 だが、私が注目したのは「――とりくみへの反省にたって、全党のみなさんに訴えます」という9月20日の「大運動」推進本部の声明だった。ここには、党勢拡大運動推進本部の必死の呼びかけにもかかわらず、その指示に従わない党機関や党組織が県機関も含めて多数に亘っていること、すなわち共産党の行動原理であり、かつ統治システムの根幹である〝民主集中制〟が形骸化し、次第に機能不全に陥りつつあることが図らずも露呈しているからである(赤旗9月21日)。
 ――党創立101周年記念講演会での志位和夫委員長の記念講演が、党員の誇りと確信を呼び起こし、また党外の方々にも党への理解と信頼を広げる力を発揮し始めています。同時に「大運動」のとりくみの現状は、〝勝負の月〟にふさわしい飛躍がつくれておらず、9月の残る10日余り、記念講演の大学習運動にとりくみ、党勢拡大と世代的継承の一大飛躍をいかにしてつくるかが問われています。
 ――3連休までの党勢拡大の結果は、党員拡大、赤旗読者拡大とも、個々の党員、党組織の奮闘はあったものの、全国的には掲げていた各県・地区の節目標には程遠い到達にとどまりました。3連休までに変化をつくったところは、目標をやりぬく構えを確立し、その達成への段取りと手立て、その実践が真剣にとりくまれています。(略)しかし、こうした党組織は一部にとどまり、3連休はほとんど党勢拡大の結節点にならなかった党組織も少なくありません。党勢拡大、とりわけ党員拡大は、前進のための具体的な手だてがとられなければ絶対に前進しません。にもかかわらず、少なくない県機関では、3連休作戦などで拡大の目標を決めるものの、それに責任を負わない、具体化の手だてもとっていないという状況がありました。こうした県機関が多数だったことは...(以下、略)。

 事態は「深刻」の一字に尽きる。これまで党中央からの指示や訴えは数知れず繰り返されてきたが、そのほとんどは個々の党員の気概を喚起し、奮闘を促すものだった。それが今回は、党組織それも県機関までが(表面上は従うものの)実質的にはサボタージュ状態にあることを指摘せざるを得なくなったのである。その責任は推進本部にあるとしているが、問題の根は深く、推進本部の指示のやり方を変える程度のことでは片付かないことは誰もが知っている。党創立100周年の記念講演が華々しく開かれた2022年以降の党勢拡大の推移をみても、党勢は後退一途で回復の兆しはいっこうに見えてこない。おそらく〝勝負の月〟の今年9月以降においても、党勢は依然として後退を続けるとしか考えられない。

 党首公選制を党外で主張したとして京都の党員2人が除名されて大問題になったが、党中央の指令が県機関においても(実質的に)サボタージュされるような〝民主集中制〟の形骸化が進んでいることに比べると「チョロコイ」ものだとみんなが思うだろう。それが完膚なきまでに明らかになるのが第29回党大会(2024年1月)であることを考えれば、「2024年問題」は単なる人出不足問題だけではなく、共産党の統治システムの根幹が問われる年になることは間違いない。(つづく)

2023.09.26 フェスティバル ラティノアメリカーノ 2023
■短信■

ラテンアメリカ諸国がチャリティーバザー

 日本・ラテンアメリカ婦人協会は、10月26日(木)午前11時から午後3時まで、東京プリンスホテル(東京都港区芝公園3丁目,地下鉄三田線「御成門駅」から徒歩1分)2階の「鳳凰の間」「マグノリアホール」で、「フェスティバル ラティノアメリカーノ 2023」を開きます。港区後援。
 日本・ラテンアメリカ婦人協会とは、在日ラテンアメリカ諸国の婦人(女性大使、大使夫人ら)との連絡及び文化、教育、社会等の各分野における催しの実施、援助、あっせん等を行う一般社団法人です。

 「フェスティバル ラティノアメリカーノ」とは、「チャリティーバザー」です。当日は、会場にラテンアメリカ諸国(アルゼンチン、ボルビア、コスタリカ、キューバ、ドミニカ共和国、エクアドル、ハイチ、ジャマイカ、メキシコ、ニカラグア、パナマ、パラグアイ、ペルー、ベネズエラ)から、各国特産の珍しい民芸品・食料品・ワイン・コーヒーなどが、日本側からは衣料品(婦人服)などが出品されます。

 入場券は2000円・抽選券つき(多数の商品を用意)。
 
 入場券代とバザーの収益はラテンアメリカ諸国の福祉、友好親善の諸事業など充てられるとのことです。

 連絡先=日本・ラテンアメリカ婦人協会
  ℡/Fax 042-541-7353
damas-latinoamericano@nifty.com

(岩)
2023.09.25 続・「脱原発運動」と「気候変動運動」が共同行動

それぞれの思いをブラカードに込めて
        
岩垂 弘 (ジャーナリスト)

 9月18日(月・祝日)、東京・代々木公園B地区を中心に「ワタシのミライ イベント&パレード‼」が行われたが、参加者は全国各地からやってきた人たちも含めて約8000人(主催者発表)にのぼった。この催しが、これまで主として「脱原発」の運動を進めてきた「さようなら原発1000万人アクション」と、「気候変動打開」などを目指して運動を行ってきた「ワタシのミライ」「Frideys For Future Tokyo」の2団体との初のコラボレーション(共同行動)であっただけに、会場には地球環境保護につながる多様・多彩な訴えが目立った。
プロ写メ画像

 それをまず強く印象づけられたのは、会場入り口で配られていたプログラムである。そこには「地球は一つしかない」「EARTH IS FIRE!(地球は燃えている)」「We ❤ our planet(私たちは、私たちの惑星を愛す)」「NO NUKES(原子力反対)」「NO FOSSILS(化石燃料反対)」「再エネ100%‼」などの文字が氾濫していた。

 そればかりでない。参加者、とりわけ一般市民や若い人が、思い思いの、手作りのブラカード、横断幕、のぼりなどを掲げていたのが目に付いた。そこには、いずれも、地球環境に関する切実な訴えや主張が盛り込まれていた。それらのいくつかを紹介する。

ミライ①

 これは、東京電力福島第1原発の汚染水の海洋放出反対を訴える横断幕だ。政府は8月24日に海洋放出に踏み切ったが、「ワタシのミライ イベント&パレード‼」のテーマトークでは、何人もの人が「原発の汚染水が無害になることはない。海洋放出は世界の人々を危険に陥れる」と訴えた。

ミライ②
 
 これは、原子力規制委員会の動きを市民の立場から監視しようという呼びかけである。

未来③

 これは、会場の柵にくくりつけられていたブラカード。「気候正義!」「脱炭素社会を!」の文字が目を引く。他のスローガンからして、作者は完全菜食主義者なのだろうか?

ミライ④

 地球温暖化に警告する横断幕である。「地球には冬が必要だ」。もっともだ、と思った。

ミライ⑤ (2)

 会場の一角にソーラー(太陽光発電)パネルを張り付けたツリーが飾られていた。再生可能エネルギーの推進を唱えるなら、自ら実践せよ、と言われているように思えた。
2023.09.22 大清帝国の再現を夢見る中国
――八ヶ岳山麓から(442)――
                             
阿部治平 (もと高校教師)

 8月28日、中国自然資源部(省)が、今年の新標準地図を発表した。これは従来の中国の地図と同じである。これにインド・ベトナム・フィリピン・マレーシア、それに日本など関係諸国がこぞって抗議したのは、あらためて「中国の夢」すなわち拡張主義をそこに見出したからであろう。
 さらに発表の時期が9月6日ASEAN首脳会議と9,10日にニューデリーで開かれるG20首脳会議をひかえていたのも怒りを買った。習近平主席はG20を重視していたが、諸国の反感を警戒して参加しなかったともいわれている。
 一説に中国自然資源部が外交部(省)との調整なしに発表したというが、国家の権威に関わる事柄を軽率に扱ったとは考えにくい。

チベット北西部地図
図.中印国境紛争図(googlemapsより作成)

 この100年来中国の領土主張は変わっていない。清帝国はガンデン・ポチャン(旧ラサ政権)の権威が及ぶ地域を自国領と見ていた。中国国民党政権もこれを引き継いだ。辛亥革命6年後の1917年刊行の『中国分省圖』(商務印書館)を見ると、チベット北西部のアクサイ・チンも東部ヒマラヤ南麓アルナチャル・プラデシュも中華民国領である。
 現共産党政権もまた清帝国の遺産を継承したのである。

 インドは独立後、北西部のアクサイ・チンについては、植民地時代の1865年イギリスの士官ジョンソンらが、また1899年イギリス・インド帝国外相マクドナルドらが旧ラサ政権とは関係なく引いた境界を領有の根拠としている。
 また東部ヒマラヤ南麓もイギリス・インド帝国の遺産を継承したもので、ここではマクマホン・ラインを国境としている。マクマホン・ラインとは1914年チベットとイギリスのシムラ会議の際、イギリス・インド帝国の外相マクマホンが描いたブータン東方からビルマ(ミャンマー)までのヒマラヤ頂上線のことである。

 インドと中国は以上の2地域とシプキ・ラなどヒマラヤの峠をめぐって争い、1962年には本格的な戦争になった。高地戦に備えていた中国軍は終始優勢であったが、東部ヒマラヤ南麓では一方的に実際支配線より20キロ撤退するとして、事実上、この地域をインドに譲った。大躍進政策の失敗で全国的に飢餓状態が生まれ、その後始末で2方面作戦を続けることができなかったからだろう。
 この結果、アクサイ・チンは中国が、ヒマラヤ南麓はインドが実効支配をすることとなった。中印両国関係が良好ならこのまま安定してもおかしくはないが、21世紀に入ってからも、国境での小競り合いは続いている。

 2017年8月、中国・ブータン国境のドクラム高原で小規模な衝突があった。また20年6月、カラコルム山中ガルワン渓谷で、数百人が衝突し、双方に数十人の死傷者が出た。昨年12月にはブータン東方のタワンでも衝突し、数人の兵士が負傷した。

 中印両国は、ともに急速に経済発展を遂げた人口大国であり、軍事大国である。双方とも相手国の核ミサイルが自国に向けられていると考えている。これからも突っ張り合いがたびたび起こり、そのたび両国指導者はナショナリズムをあおるだろう。

南シナ海
南シナ海9段線図  https://www.nishinippon.co.jp/image/560254/より

 100年前の『中国分省圖』は、今日同様、南シナ海全域を自国領とし、南沙諸島(スプラトリー諸島)は團沙諸島、西沙諸島(パラセル諸島)は西沙諸島と記載してある。ただし、中国がこれを9つの破線で囲む「9断線」にしたのは1953年からで、今回の発表では台湾と与那国島との間に破線を入れ「10段線」としている。

 中国は、全海域領有は15世紀初めの明帝国鄭和の大航海に始まるという。これだと、東南アジア全域、スリランカまで中国領ということになる。だが、南シナ海は1960年代、国連機関が石油などの海底資源の存在を示唆してから関係各国がサンゴ礁の領有権を主張し始めたのであって、中国の尖閣領有の主張もほとんどこの時期である。
 中国は、習近平主席になって、この海域を「核心利益」と位置づけ、ベトナムやフィリピンが領有を主張する岩礁を実力で奪い、ここに軍事基地を構築した。その後は、各国に共同開発を呼びかけながら、他方で海洋監視船を派遣し、関係国の補給船・漁船への放水、海底ケーブルの切断などの行動に出ている。
 しかも国連安保常任理事国でありながら、国際司法裁判所の「中国は南シナ海に正当な領有権を持たない」という判決を「紙くず同然」と無視し、外交部は「南シナ海問題での中国の立場は、常に明確だ。関係国には客観的かつ理性的な対応を望む」と発言をしている。

 周辺国家は、中国に対して抗議はしても実力で対抗するまでには至っていない。今回のASEAN首脳会議でも、南シナ海の領有権問題解決に向けた具体的な道筋は示されなかった。ラオスやカンボジアのような親中国国家があって、全会一致できないのが原因だが、わたしはさらに東南アジアの華僑資本ネットワークが微妙にかかわっていると思う。
 アメリカなどは自由航行権を確保するとして艦船を派遣しているが、その程度のことではびくともしない。中国は、これからも「中華民族の偉大なる復興」をめざして占領海域を拡大するだろう。                                (2023・09・15)
2023.09.21 私は人間であって、国家の付属物ではない
私と日本国家の関係

宮里政充 (元高校教師)
 
戦場における殺人は「手柄話」か
 私は1960年代のはじめに大学を卒業し、埼玉県北部の県立高校へ就職した。私は沖縄本島の北部に生まれ育っていたので、まわりののどかな環境にはすぐに慣れ、親しい同僚もたくさんできた。なり手の少ない山岳部の顧問にさせられて、いきなり北岳に登ったり、文学好きな仲間と同人誌を出したりもした。

 職場には朝鮮半島や中国大陸の戦場から帰還してきた同僚が数名いた。彼らは授業や部活動の指導や校務に熱心であり、また良き家庭人であった。私は彼らに親しみと尊敬の念を持っていた。だが、間もなく彼らのうちの何人かに強い抵抗感を持つようになった。その彼らは酒の席などでよく自らの戦闘体験を語ったが、その内容の多くは、銃剣で住民を刺殺した時の手応えや、女が転げまわるので強姦を遂げるのに苦労したなどの、いわば「手柄話」だったからである。彼らにとって戦場という非日常的な環境と戦後の平和な日常とが、何の違和感もなくつながっているように思われた。

 私は戦争中に東シナ海沿岸のガマ(洞穴。そこは風葬として使われており、人間の白骨が納められていた)で息をひそめ、目の前の川を海へ向かって流れていく日本兵の死体を眺め、照明弾の降る山中を逃げ回り、祖父が米兵に射殺され、捕虜収容所で祖母をマラリアでなくし…、などなどの体験は私の心に沁みついていた。「手柄話」は受け入れがたいものだった。
 パソコンで「ベトナム戦争・写真」を検索すると、おそらく韓国兵士と思われる若者たちが人間の生首をぶら下げて得意顔でカメラに向かっている姿が出てくる。この兵士たちは、戦争が終わって、家族のもとへ帰って、さて、どういう生活を送っているだろうか。やはり「手柄話」に花を咲かせているのだろうか。

「手柄話」にできない人たち
 私の親戚の男性は、中国大陸から帰還はしたものの働く意欲を失い、たまに日雇いの仕事をもらってその日暮らしをしていた。父はその彼を薪割りやサトウキビの収穫などで雇うことが多かった。私は一度だけその彼から戦地での体験を聞いたことがある。彼は松を切り倒し、枝を細かく切り落とした後で中休みをしていたとき、私と並んで座り、松林の向こうの東シナ海に目をやりながら絶え入りそうな声で言った。
 「上官の食器を洗いながら、飯盒にこびりついたご飯粒を食べるのが一番の希望だった…」
 私は彼がはるか向こうの大陸でどのような戦闘体験をしたかは知らない。彼はそれ以上は語らなかった。苦しそうな横顔だった。

 私の兄は鉄血勤皇隊の一員であった。鉄血勤皇隊とは沖縄戦で日本軍の正規部隊として併合された、14~16歳の少年兵隊のことで、その任務は実際に戦闘に参加する班と、村々を回って情報を日本軍に提供する班とに分かれていた。いわゆるスパイである。戦闘班は多くの戦死者を出したが、兄は後者に属していて命拾いをした。その兄から「生き残った者の負い目」を聞かされたのは、ごく最近のことである。

 『帰還兵はなぜ自殺するのか』(デイヴィッド・フィンケル著、古屋美登里訳、2015/02/10亜紀書房)は、イラン・イラク戦争(1980~1988)から帰還してきた元兵士たちの痛々しい姿を、ペンタゴン(米国防総省)の自殺防止会議の調査報告に沿いながら明らかにしているが、胸が詰まって先へ読み進めない箇所が何か所もあった。
 上野千鶴子氏の書評(毎日新聞夕刊(2016/03/15)の一部分を紹介したい。

 「フィンケルの「帰還兵はなぜ自殺するのか」によれば、アフガニスタンとイラクに派遣された兵士は約200万人、うち50万人がPTSD(心的外傷後ストレス障害)に苦しみ、毎年240人以上の帰還兵が自殺している。ある日戦地へ行った夫が帰ってくる。夫は抑鬱(よくうつ)と暴力とで、人が変わったようになっている。妻には、愛する夫の変貌がどうしても理解できない。夫は精神科に通い、苦しみ抜いて、その苦しみから解放されるために死を選ぶ。米陸軍には自殺防止会議がある。自殺対策は軍の重要課題なのだ。海の向こうの話ばかりではない。日本でもイラク派遣の自衛官のうちすでに29人が自殺している。
 国民の平均自殺率を超える異常な数字だ。戦死者は出さなかったのに、自殺者を出したのだ。」

「ボディカウント」

 『戦争とデータ—死者はいかに数値となったか』(五十嵐元道著、中公選書2023/07)によると、ベトナム戦争においてアメリカ軍の代表的作戦である「索敵殲滅作戦」(後に「掃討作戦」と呼び替えられた)は文字通りゲリラを片っ端から殺害しようという作戦であった。そこで敵や味方の遺体の数を数える「ボディカウント」が軍事作戦の重要な指標として利用された。「アメリカ軍にとって、ボディカウントは数少ない明確で利用可能な統計データ」(p129)となる。

 そういえば、ヒトラー配下にあって600万にも及ぶユダヤ人殺害に関わったアドルフ・アイヒマンにとっても、600万人のユダヤ人には人権も家族も友人も恋人も将来の夢も喜びも悲しみもない単なる数値でしかなかった。しかも彼はただ「ヒトラーの命令に従った」だけであった。したがって彼は死刑判決が下された後も無罪を主張し続けたのである。

私は「人間」でありたい
 殺戮し殺戮される戦場の情景は「人間」には耐えられない。だから戦闘のさなかであれ帰還後であれ、人間として狂うのは人間であることの証明なのだ。
 私はひとりの人間であって、日本国家の付属物ではない。したがって「ボディ」として「カウント」される存在にはなりたくない。「神国日本」の政治体制を整え、「八紘一宇」という「正義」を実現させるために「滅私奉公」を絶対的な倫理として国民に強要し、東南アジア、中国大陸そして沖縄などで累々と「ボディ」の山を積み上げてきたかつての日本の歴史を、そのまま受け入れることはできない。「そのまま」というのは、「国家権力と私とを同一化させたまま」という意味である。

 私は人間でありたいので、国家とは距離を保ちたい。国家権力者が保守的であれ革新的であれ関係なく。現在、目の前で派閥争いを繰り返している権力者たちのために自分や家族の命を捧げられるかどうか、冷静に考えたい。 (2023/09/15)