2019.06.19  文化大革命―最終勝利者は官僚だった
     ――八ヶ岳山麓から(284)――

阿部治平(もと高校教師)
 
中国文化大革命とはいったい何だったか。これについて比較的最近になって中国人ジャーナリストによる90万字という大著の、抄訳編集本があらわれた。

――それは、毛沢東、造反派、官僚集団が織りなしたトライアングルのゲームであった。このゲームの最終勝利者は官僚集団であり、敗者は毛沢東であり、敗者のつけを支払わされたのは一般民衆であった――
こういったのは、元新華社高級記者の楊継縄という人物である。楊は湖北省農家の出身で、1966年清華大学在学中文革に参加し、68年新華社に入った。89年6月の天安門事件までは党に従順だったが、事件が彼の思想と行動を決定的に変えてしまった。
『文化大革命五十年』(岩波書店 2019)は、楊の原著『天地翻復――中国文化大革命史』(香港天地図書 2016)から、元毎日新聞記者辻康吾が抜粋編集したものである。辻によると、第一部は楊の書き下し論文「1時間でわかる文革の全貌」、第二部は原著の28,29,32章の抜粋修正稿、第三部は原著の「導論」である。したがって原著とはかなり異なる書になったが、楊の「文革論」には違いない。
楊はさきに、『墓碑』(香港天地図書 上下2巻 2008)を著し、毛沢東の「大躍進」による餓死者が3600万人に上った地獄絵図を克明にえがいた。この縮小版日本語訳が『毛沢東大躍進秘録』(文藝春秋社 2012)である。
以下に楊継縄「文革論」の私なりの概略をしるす。

楊は「文革の起源はそれ以前の17年の制度のなかにあった」という。17年とは、1949年の革命から文革の始まる66年までの中国共産党の支配である。中共と解放軍は、1949年革命に勝利すると統治組織に変貌し、抗日戦・国共内戦時代からの党軍幹部は官僚となった。官僚は地位の上下によって違いはあるものの、革命の果実を私物化した。一般大衆は、革命の熱狂から覚めると、官僚のやり方に不満を持ち、官民の対立がうまれた。

毛沢東は官僚集団の頂点にあり、さながら皇帝としてふるまいながら、これに敏感に反応した。彼の思想は、マルクス主義のほか、ポピュリズムや無政府主義といったものだった。それゆえか、官僚のふるまいを修正主義、あるいは反革命とみなした。
毛は一度ならず官僚集団の暗黒面を摘発する運動をやらせたが、毎回中途半端に終わり、官僚の特権はびくともしなかった。彼が最終的に見出した方法は、議会制民主主義でも三権分立でもなく、彼自身が最下層の大衆の代表となって直接大衆を立上らせて腐った国家機構を壊すようしむけ、官僚を「火炙り」にし、「天下大乱」を通じて「天下大治に至る」というものだった。つまり「プロレタリア文化大革命」である。

1966年5月、毛は自分への大衆の崇拝を利用して直接若者に呼びかけ、造反派・紅衛兵を組織した。攻撃対象は、劉少奇や鄧小平に代表される党・軍統治集団である。
一般大衆は、各地の指導者に扇動されて派閥ごとに互いに激しく殺しあった。「革命」「反革命」が声高に叫ばれたが、違いはあまりなかった。だが大衆組織間の集団虐殺=集団処刑は膨大なものであった。『文化大革命五十年』には集団虐殺は、北京・湖南・広西とその他数例があるだけである。少数民族地域のすさまじい拷問・肉刑・殺人の記録はない。
楊によれば、劉・鄧集団は、はじめ文革に強く抵抗した。官許の文革史が劉少奇を犠牲の羊のように描いたのは、官僚集団に文革の責任を負わせないためであり、党・軍官僚たちの大衆に対する残虐行為を隠すためである。
混乱が続くのをみて、毛は方針を転換した。造反派の一部を切りすて、大衆組織を解散させ、従わないものは軍によって鎮圧した。1967年1月から68年9月までに全国に「革命大衆・解放軍・革命幹部」の三結合による革命委員会が成立した。68年夏以後、文革は労働者宣伝隊と軍人が主導した。軍は武装せる統治組織である。これからは革命委員会という形で文革以前の統治機構が復興した。

文革は、一般的に毛沢東の失地回復のための権力闘争とみられている。なかには毛は気持がムシャクシャしていたからだという人もいる。
だが、1981年6月中共中央委員会の「建国以来の党の若干の歴史的問題についての決議」は「(文革は)指導者が間違って引き起こし、反革命集団に利用されて、党と国家と各民族人民に大きな災害をもたらした内乱である」とした。
楊は、この決議は改革開放への合意を達成するための、妥協の政治決議であって、歴史の総括ではないという。「反革命集団に利用された」としたのは、毛に責任を負わせないためである。だが事実は、「歴史決議」で反革命とされた林彪集団も江青「四人組」も、毛を支持して文革を推進したのである。彼らは毛に利用されたのであって、毛を利用したのではない。しかも「反革命行為」とされるものの大部分は、毛指導下で行われたのである。
「林彪集団」は、林彪を毛の後継者とした69年4月以降にできたもので、71年9月の「林彪事件」で消えてなくなった。また江青ら「四人組」は、周恩来批判が始まった73年8月にようやく形成されたものである。
「歴史決議」は文革を否定したが、文革を生み出した毛沢東の理論、路線、制度は否定しなかった。文革の責任を林彪と「四人組」に押し付けるのは、中共の支配を保全し、中共をイデオロギー上の危機から救い出すためだった。

毛の死後、造反派指導者の逮捕をもって文革はほぼ終った。官僚によって冤罪・捏造・誤審事件の名誉回復と造反派の摘発が行われた。報復は文革期と同じ残酷なやり方がとられた。詳細な記述は13省市から軍と公安におよんでいる。この行き過ぎを制止したのは、その死が天安門事件を引き起こすことになる胡耀邦である。
しかし、摘発・審査のとき、対象が官僚だった場合、処分は寛大で逃げ道が用意された。たとえば、文革の初期1966年8月に大量殺傷事件を起こした主要人物は保護され、改革開放後も一定の指導的地位に昇った。それは高級官僚の子供だったからである。
以上で要約を終わる。

改革開放後、「階級闘争をカナメとする」というスローガンは「経済建設を中心とする」に変わり、刑法・民法、同訴訟法が制定され、中国は近代国家の外衣をまとった。だが、改革は経済改革にとどまり、政治改革に至らなかった。復活した官僚集団は、文革と毛沢東を否定しながらも、毛の遺産に頼って北朝鮮・ベトナム・キューバなどと本質は同じ権力構造を維持し、開発独裁型の経済運営を行なった。
1978年鄧小平の「先富論」は、権力者による財富の独占を容認するものとなった。社会的不公平はここから一層激しくなる。改革開放の40年間に、勝利者が得た富は文革以前よりはるかに大きく、享受する特権は以前をしのぐものとなった。
この社会的不公平に対して、一般大衆は年間10万件余の暴動という形でしか憤懣を表すことができない。行政に対する不満が広がっているから、小さな事件でもたちまち周囲の同情があつまるのである。
一方毛沢東主義者は、中国を「官僚独占資本主義社会」とみて、人民公社・文革の世に戻して不公平をただせという。楊など立憲民主主義者は、行政権力を抑制する政治制度を要求する。現政権は、前者には比較的寛大だが、後者に対しては支配体制を揺るがす危険思想として厳しい弾圧を加えている。
経済成長の鈍化とともに現政権は守りの姿勢に入った。治安対策費は軍事費より多くなり、一般大衆に対しても監視を強めている。それに反応して日本では、中国通と称する人々の中国危機論が盛んである。だが、経済不況が直ちに政治危機を生むことはない。中国には大企業から農村牧野まで、隙間なく党の網が張り巡らされている。現在これがどこかでほころんでいるとは思えない。
だが、これこそが文革発生の原因ともなり、失敗の原因ともなった統治機構である。この先どうなるかはわからない。

2019.06.18  「住んでよし、訪れてよしの国づくり」とは?
     観光客の姿から垣間見える日本の姿

杜 海樹 (フリーライター)

 2018年、訪日外国人観光客数が年間3000万人を突破し過去最高の記録、そして、東京オリンピックに向けて4000万人の来日を望む等々の報道がされている。実際、日本各地の観光名所は海外からの観光客であふれており、東京都心でも日本人より海外からの旅行客の方が多いのでは?と思う日もあるくらいの状況となっている。自然発生的に日本に心から行ってみたい・・・という形での来日であれば、こんな嬉しい話はないのかも知れない。しかし、必ずしもそうではない?としたらどうであろうか。

 近年、インバウンド(訪日外国人旅行者)という言葉が使われるようになってきたが、海外からの旅行客が急増した理由が自然発生的でないことだけは確かなことと言える。
 時は小泉政権時代の2003年に遡る。国際交流を促進し経済を活性化させるためにと観光立国懇談会が設置され、最終的に副題を「住んでよし、訪れてよしの国づくり」という報告書がとりまとめられ「外国の人々が『訪れたい』、『学びたい』、『働きたい』、そして『住みたい』日本となることこそ、21世紀に日本が追求すべき国の価値である」といった提言がなされている。
 そして、観光立国関係閣僚会議が設置され、観光立国行動計画に基づくビジットジャパン事業として空港や港湾が再整備され、和食・城・寺社仏閣・温泉等々がPRされ、旅行客が急増する結果となっている。つまり、今日増え続けている旅行客の多くは国のプロジェクトに沿って来日して見ました・・・といったところなのだ。

 もちろん観光産業は平和憲法下の日本にあって、重工業や家電にとってかわる主力産業の一つとして、軍需産業とは異なる平和産業としての可能性を秘めており、そういう意味では大歓迎ではあるのだが、相変わらずの箱物、トップダウン方式という面は否めず、かつての全国総合開発計画時の教訓がどのくらい活かされているのかと疑問に思わざるを得ない面もある。観光客を受け入れる現場からは混乱と戸惑いの声も聞こえてくる。

 観光地だけでなく、東京都心の飲み屋街なども海外の観光ガイドマップに掲載されるようになり、既存の地元の常連客は次第に店から追い出される結果となり、飲み屋街は海外からの団体様で溢れかえりつつある。その様子は丁度高度経済成長期の日本人団体観光客の姿と重なって見える。そして、現場では歓迎の声よりも迷惑との声が聞かれるようになり、この先が思いやられる点もでてきている。

 一般に日本人の観光客に対するおもてなしの評価は極めて高いと言われているが、一度に大勢の観光客ともなるとやはり限度というものがあろう。海外からのお客の場合は、言語や生活習慣が全く異なり、特に宗教上の違いについては考えなければならないことが多々ある。そうしたソフト面の課題点を一定整理した上でないと良かれと思って行ったことがとんでもない問題を引き起こしてしまう危険性も考えられ、十分な検討をする必要があるのではないだろうか。

 また、過去の教訓という点では、高度経済成長期に日光が、バブル期には鬼怒川温泉がもてはやされ多くの観光客で賑わったわけだが、その後日光は「日光結構、もう結構」と揶揄され、鬼怒川温泉は大規模ホテルが倒産し続けた点にどう向き合うか?という問題も残っているであろう。日光は世界遺産に登録され都心からの直通列車も整備されているわけだが、観光客数は依然として伸び悩みを続けているのは何故なのか?といったところに問題の本質が隠れているようにも思える。

 さらに新しい問題として、海外からの旅行客は増加しても国内の旅行客は減少しているという点をどう考えるかということがあろう。海外からの旅行客の増大で宿泊代は高騰し予約も困難性を増す中、おもてなしをする側の日本人の実質賃金は減少を続けている。社会保障費の負担増、税金の負担増という問題もある。かつては気軽に行けた国内旅行もあきらめざるを得ない、じっと家の中に引き籠もらざるを得ないという現実にどう向き合うのであろうか。
 先日、都内の天麩羅屋さんに顔を出したところ、天麩羅を揚げていたのは2年前に来日したというインド出身の方、お客の多くは欧米からの観光客で地元の人の姿は見られなかった。そして、日本に来てまだ日の浅い職人さん?から「天麩羅は日本の味です」と言われ天麩羅を提供された訳だが、こうした姿が観光立国行動計画が指し示すところの日本のあるべき姿なのか?日本政府に是非お伺いしたいところだ。

2019.06.17  ビルバオの美術館―残酷な記憶の抽象画も
          ―スペイン・バスクを旅した(3)

坂井定雄 (龍谷大学名誉教授)

 バスク旅行の仕上げは、バスク最大の州都ビルバオでの2日間だった。
 ビルバオはバスク自治州最大の都市、といっても市内人口は35万人程度、スペインでも10番目に過ぎない。しかし、バスクの産業、交通の拠点で、国際空港があり、世界的に著名なグッゲンハイム美術館がある。世界各国からバスクに来る旅行者が必ず行く同美術館は、ニューヨークに本部があり、世界に展開する同名の美術館の一つで、ビルバオの展示は現代美術に限る。開館は1997年。スペイン内戦初期の1936年にクーデターで国家権力を奪い取った右派フランコを支援するドイツ空軍の爆撃、市民虐殺を描いた有名なピカソの「ゲルニカ」は、現在マドリードのソフィア王妃芸術センターが常設展示している。ゲルニカはビルバオから離れた人口1万5千人ほどの小さな町。だが、この美術館を訪れる観客たちは、「ゲルニカ」を心に描き、目に浮かべてくるという。
 今回もグッゲンハイム美術館では、早朝の開館前の長い行列ができていた。年間100万人の入場者だという。建物自体が立体の四角と球体を組み合わせた現代芸術。展示室は大小、広い廊下すべてを使い、段差をつけた3階構造。広いその1室が、「ゲルニカ」を思いださせる様々な現代絵画の展示だった。明らかに、フランコ政権時代の暴虐がテーマの抽象画像と文字の絵画は4,5点。それ以外は、さらに抽象的な絵画だった。
 ネット上には、詳細な説明と見事な写真がたくさん紹介されており、これ以上の説明は止めておこう。現代芸術はこれなのだと納得する。美術館全体も、庭の巨大な蜘蛛も、広い敷地の入り口にある子犬の巨像も、びっくりして見つめ続けた。

▼住民には圧倒的に使用されるバスク語
 フランコの死後、民主政治体制に転換したスペインで、バスク自治州では、スペイン語とバスク語両方が公用語として正式承認された。フリー百科事典ウイキペデフィアを引いてみると、まず「バスク語は、スペインとフランスにまたがるバスク地方を中心に分布する孤立した言語で、おもにバスク人によって話されている。2006年現在66万5800人の話者がバスク地方に居住し、すべてスペイン語またはフランス語とのバイリンガルである。」と記している。しかし(1)に紹介したように、別のウイキペディアの記述は、バスク人についてスペインのバスク地方に230万人、スペイン各地に約400万人、フランス南部のバスク2万8千人と記している。バスク人は、長い歴史がある独自の民族で、その言語はスペイン語とも他の欧州の言語とも全く異なるのだ。
 今回旅したサン・セバスチャン、ビルバオ、さらには1日だけ町と村を回ったフランス領バスク地方でも、住民の言葉は方言があるようだが、ほとんどバスク語だった。それぞれスペイン語かフランス語も通じるという。
 日本のあるガイドブックでは「バスクの全体人口は約300万人、そのうち約80万人がバスク語を話すといわれています」と書き、他は、バスク語の話者、利用者の数、割合について書いていない。このガイドブックは誤っていると思う。バスク人の大多数がバスク語を日常、話していると思う。バル街だけでなく、各市内で、人々の会話に極力耳を澄ました。さまざまな場所の文字もチェックした。大小の看板、各種の標識は、スペイン語と2言語で書かれている重要な道案内や交通標識以外、バスク語だけが多かった。
 サン・セバスチャンでもビルバオでも、大きなホテルに泊まったが、ロビーのソファー、テーブルに置かれた新聞は、バスク語新聞だけだった。スペインには立派な新聞がいくつもあるのに。バスク語は文字にアルファベットを使用するが、単語の表記はだいぶ長い。新聞のアルファベットをスペイン語流、英語流に発音してみても、まったくわからず、類推しようがない、独自の言葉なのだ。公用語だから学校ではバスク語と同様にスペイン語もしっかり学んでいるのだが、おそらく7割、8割の人がバスク語で生活しているに違いない。全く読めないバスク語の立派な新聞を眺めながら、もしかしたら、バスク・ナショナリズムがさらに根強くなっているのではないか、と思った。
(了)
ビルバオの美術館―残酷な記憶の抽象画も
    ビルバオのグッゲンハイム美術館の入り口に立つ、
    子犬パピーの巨像、表面は花で埋められている。
2019.06.16 「本日休載」
 
今日6月16日(日)は休載します。

リベラル21編集委員会

2019.06.15  大阪都構想にブレーキが掛かった、堺市長選の大接戦が次の展望を切り開いた
          大阪維新のこれから(8)

広原盛明 (都市計画・まちづくり研究者)

 全国注視の中で堺市長選が2019年6月9日(日)に投開票された。翌10日(月)は新聞休刊日なのでどうしようかと思っていたら、当日深夜に「堺からのアピール・市民1000人委員会」から選挙結果についてのメールが送られてきた。6月11日(火)の各紙朝刊と読み比べてみても、内容は正確であり、かつ分析も的確なので以下に再録したい。
 「堺市長選へのご支援ありがとうございました。得票が確定しました。維新・永藤137,862票(得票率49.5%)、無所属・野村123,771票(得票率44.4%)、諸派・立花14,110票(得票率5.1%)、投票総数278,808票(投票率40.8%)でした」
 「当初はダブルスコアの差を付けられていた野村が、選挙戦での論戦を通じて猛追。大阪ダブル選挙での維新圧勝、堺市議選での維新陣営の3万の得票増、竹山問題での維新のアドバンデージ、候補者擁立の決定的遅れ(永藤は大型連休前4月末に擁立決定、野村は5月17日出馬表明)など、維新が得票を大きく上積みするのではないかと思われましたが、結果は、維新は前々回の市長選で140,569票(得票率41.5%)、前回が139,930票(得票率46.2%)、今回が137,862票(得票率49.5%)と票を減らし続けています。よく言って頭打ちです。維新支持者は強固ですが広がっていません」
 「他方、我々側は候補擁立の出遅れや政治不信の蔓延、選挙疲れなどで得票率を上げることができませんでした。一時は30%台まで落ちるかもと懸念されたものの、選挙が熱気を帯びる中で何とか40%台を確保しました。しかし橋下が堺に襲い掛かってきた前々回の51%、前回の44%には及びませんでした。維新を落とすためには投票率が決定的です。もう一歩足りませんでした」
「論戦では維新が都構想論議を隠し、抽象的な『府市一体の成長』を叫び、あとは政治とカネなどで様々なフェイクをばらまき、こちら側への口汚い攻撃に終始したのに対して、野村・チーム堺側は地道で細やかな政策をこれまでの成果と今後の見通しを提起し、そのためにも政令市維持が必要だと愚直に訴え続けました」
 「選挙態勢でも共産党も加わる『住みよい堺市をつくる会』の活動や『1000人委員会』など市民グループの創意を包み込み連携する態勢が作られました。『1000人委員会』では若い人の立ち上がりと下からの創意工夫、自発性も育ちました。私たちはこれから4年間の維新・永藤市政と対峙し、市民生活破壊は許さない陣形をさらに強化していきます。とりあえず急ぎのご報告とお礼に変えます」

 立派な総括なのでもはやこれ以上付け加えることもないが、マスメディア関連の記事も含めて多少の感想を述べてみたい。まず、大手紙の見出しと記事はいずれも得票数の「僅差」や選挙戦における両陣営の「接戦」を強調するもので、とりわけ反維新陣営の「猛追」に注目した記事が多かった。例えば...

〇産経新聞
 ―「反維新のとりで」とも呼ばれた前市長の竹山修身氏が「政治とカネ」の問題で失脚。追及の先頭に立ってきた維新に追い風が吹く中で迎えた選挙戦だったが、蓋を開けてみれば次点候補に1万4千票差という「薄氷」の勝利だった。この結果について維新代表の松井一郎・大阪市長は、「やはり都構想への拒否感ではないか。これを解消できなかったのは、われわれの力不足だ」と反省を口にした。そのうえで、大阪市のみを廃止・再編する現状の都構想の取りまとめに集中したい」と述べた。
 ―一方、永藤氏を猛追した元堺市議、野村友昭氏の反維新陣営も結果に一定の手応えを感じている。野村氏を支援した自民党の岡下昌平衆院議員は取材に「都構想に『ノー』と唱えた野村氏に自民支持層の半数以上が票を投じた」と指摘し、維新への融和を打ち出す渡嘉敷奈緒美会長を牽制。自民の堺市議団を中心に、今後も反都構想の運動が継続されるとの見方を示した。

〇日本経済新聞
 ―都構想の賛否を問う住民投票が2020年秋にも実施される見通しの中、永藤氏は都構想の堺市の参加を巡る議論を〝封印〟した選挙戦を展開した。会見でも永藤氏は「まだ堺市では検討もされていない。大阪市の議論を見守りたい」と述べるにとどめた。...「本当に大変な選挙だった。対立候補を応援した人の意見にも耳を傾けながら、堺のために必要なことを進めたい」。9日夜、接戦を制した永藤氏に笑みはなく事務所に集まった支持者らに引き締まった表情で挨拶した。
 ―野村氏を支援してきた自民の岡下昌平衆院議員は、辞職した竹山前市長を自民が支えてきたことに触れ「今回はマイナスからのスタートだった」と振り返る。「当初は大差で敗れるとの予想もあったのに、ここまでやれたのは驚き。都構想に反対するスタンスは一切変わらない」と力を込めた。一方、自民大阪府連の渡嘉敷奈緒美会長は9日夜に記者会見し、「国政で対極にある共産党と連携しているように見えたことが敗因」と分析した。渡嘉敷会長は21日に再開される法定協議会までに都構想に対するスタンスを明確にするとしている。「共産と立ち位置を変えて、住民投票に賛成する立場を明確にする」と述べた。

 このように、大阪都構想の実現に肯定的であり、大阪維新を支援している産経、日経両紙でさえが、堺市民に通底する強い「都構想への拒否感」の存在を認めざるを得なかったことは注目に値する。このことは、都構想を封印して選挙争点から逸らし、「政治とカネ」問題に有権者の目を引きつけ、「府市一体の成長」キャンペーンで漠然とした期待を盛り上げるという維新陣営の選挙戦略を根底から突き崩すものとなった。維新候補自身の「大変な選挙だった」との嘆息や、松井代表の「われわれの力不足」といった発言は、この「想定外」の事態に対する彼らなりの反省の弁でもあろう。

 ところが笑止千万なのは、渡嘉敷自民大阪府連会長が「(野村氏の)敗戦の理由は共産党と連携しているように見えたこと」と断言し、「共産との連携を断ち切るのが大切だ」と言い放ったことだ(朝日新聞6月11日)。自民大阪府連が反維新陣営の候補を支援せずに傍観したうえ、あまつさえ大阪都構想に反対する市民の連携を非難したことは、この人物をはじめとする大阪自民国会議員の大半が公明と同じく維新の側に立っていることを意味する。まさに反維新陣営は「身内から鉄砲玉が飛んでくる」(毎日新聞6月10日)状況に置かれていたのであり、このことが今後の国政選挙に多大な影響を及ぼすことは避けられないだろう。より具体的に言えば、反維新陣営に非協力的だった自民国会議員は今後地方議員からの支援を受けることが難しくなり、次の国政選挙では呵責のない洗礼を受けると言うことだ。

 一方、反維新陣営に結集した会派や市民グループは、次の目標に向かって確かな橋頭堡を築いたと言える。これから激化する市議会での攻防はともかく、次期市長選までの4年間に市民の間でどれだけ「反維新=反都構想」のネットワークを拡げることができるかがカギとなる。僅か3週間で維新陣営と対等の選挙戦を展開するまでに成長した集団なのだ。4年間の月日が経過する中で次々と明らかになってくる大阪都構想の欺瞞と矛盾を暴き出し、大阪市民とも連携して来年秋の都構想住民投票で勝利する体制を整えることが堺での勝利につながる。6月23日には市民レベルの総括集会が開かれると聞くが、その時には来年の大阪市住民投票についても話し合ってほしい。(つづく)

2019.06.14  旧市街でのバル、はしごを楽しむ人々
          ―スペイン・バスクを旅した(2)

坂井定雄 (龍谷大学名誉教授)

 バスク旅行で、どこよりも行きたかったのは、サン・セバスチャンの旧市街をうずめるバルだ。コンチャ海岸に沿った市の北東端。ほぼ3百50メートルX3百メートルが、バル、レストランでほぼ埋められている。
 同市内に4泊したうち、3日、日暮れから1~2時間、バルに入り込み、多種多様な美味と地酒白ワインのチャコリを楽しんだ。どこも6時過ぎにはカウンターの椅子が客でふさがってしまうバルだが、多くの客たちは、はしごしながら楽しむ。バルはすべて、カウンターに、高い椅子。数少ないレストランはもう少し広く、イスとテーブルがある。店の後ろがレストランになっているバルもあった。
 バルは英語のバーと同じ言葉だと思うが、バスク旧市街の多くのバルは、真ん中が馬蹄形のカウンターで囲まれ、両側の壁にもカウンターがあり、いずれも高い椅子がある。椅子の数は全部で40~60ぐらいか。真ん中にはほとんど男性の調理人が2,3人。 サービス係の女性は若い子から中年まで、数人が夕方から遅くまで、注文と支払い、食べ物と酒のお運びまで、忙しく働き続けている。どの店でも、6時ぐらいにはすべての椅子が埋まり7時ぐらいには、通路も客でほぼ埋まってしまうが、店の女性たちは、その仕事を確実にこなしてくれる。当初、混んでくると注文するのも容易でなかったが、すぐ慣れて、カウンター内に山積になっている食材とメニューを指させば、すぐわかり確実に料理を運んでくれた。
 スペインはじめ欧州諸国のバカンス・シーズンはこれからなのだが、ともかくここは毎晩、飲み食いの人でいっぱい。バル内で話声を聞き分けると、ざっとした感じでスペイン語が2,3割。英語はじめフランス語や他の欧州語が1割ぐらい、それ以外はバスク語らしく、聞いても全くわからない。最初、客がいっぱいでカウンターの空席が全くないので、どうなることかと思ったが、カウンターの席の客たちは、注文の料理を一皿、二皿、ワインととともに平らげると席を空けて、やさしく座らせてくれ、次の店への出て行くのがわかった。だから、バル内は、和気あいあい。
 バルの混雑が嫌いな客には旧市街にも新市街にもレストランがある。テーブル席でゆっくりできるが、超高級レストランは別として、メニューには新鮮な海鮮、ハム、チーズ、キノコ、野菜類がぎっしり並んでいるが、旧市街のバルのような威勢が欠ける気がする。

▼海山のとりたて食材満載、地酒白ワイン・チャコリ
 バルの料理の主役はバゲットに具をたっぷり乗せたピンチョス。具は、アンチョビ、タコ、イカ、カニ、エビはじめ海産物の酢漬け、店につるしたイベリコ豚の生ハム、さまざまなキノコ料理、野菜類の揚げ物・・・メニューには百を優に超える料理名が載っている。 店ごとに、持ち前の味付けを競っているようだ。飲むのは地酒白ワインのチャコリに限る。さっぱり系でほどよい甘さがバスク料理にぴったり。赤なら言うまでもなく世界的に著名なリオハ・ワイン。バスク中部からその南にかけて産地だ。ただ、海産物が多いバスク料理には、やはり白が似合う。
 バスクは、間違いなく世界有数の美味の地だと思う。さっぱり系で、海産物を好む日本人には最適だ。一冊だけ、事前勉強して行った、驚くほど詳細な参考書を挙げておこうー
 『美食の町を訪ねてースペイン&フランス・バスク旅へ』金栗里香著 201ページ イカロス出版株式会社
旧市街でのバル、はしごを楽しむ人々 旧市街でのバル、はしごを楽しむ人々 旧市街でのバル、はしごを楽しむ人々
  旧市街バル街                                   バル内部
          バルのカウンターの向こうに積み上げられたキノコ

2019.06.13  輝く太陽、海、親切な人々と美味
          残酷な歴史は過去―スペイン・バスクを旅した(1)

坂井定雄 (龍谷大学名誉教授)

 5月下旬から6月上旬にかけて、1週間、スペイン北東部のバスク地方を旅した。バスクは抜群の豊かな美味と自然、今も続くキリスト教徒のサンチャゴ・コンポステーラ巡礼路の終わりが近づいたところとして知られていた。その一方で、バスクはピカソが歴史的な名画「ゲルニカ」(1937年)でスペイン内戦の残酷さを描き切った地であった。バスク爆撃をはじめ、ヒトラー・ナチスの支援を受けて共和国から政権を奪った軍独裁者フランコは、バスク人の自治への願いを残酷に抑圧し続けた。内戦開始の前年の1936年にスペイン共和国議会が、バスクの自治政府を公式に承認していたからだ。
 フランコの死(1975年)以後、スペインでは民主化への歩みが始まり、バスクでも民主化、自治への願いが急速に高まった。その一方で、分離独立を要求しテロも実行する過激派ETAと治安当局との戦闘が繰り返されたが、2010年10月にETAは「武装闘争の完全停止」を正式発表。同12年のバスク自治州議会選挙に参加して、第2党になった。以後、バスクは平和な自治州として、明るく発展し続けている。
 バスクの美しい海とピレネー山脈の南麓、間違いなく世界有数の美味そして陽気な人々に、スペインだけでなく欧州諸国、それ以外からも一年を通して観光客がやってくる。
 なお、まったく独自の言語を使用するバスク人の人口は、スペイン・バスクに230万人、フランス南部のバスク地方に2万8千人。ウイキペディアはそれ以外のバスク人人口として、スペイン各地に約400万人、フランスに約100万人以上、チリに160万人、アルゼンチンに310万人などと推定している。

 ▼先ずは、美しい砂浜
 今回の旅では、まず巡礼の最終目的地サンチャゴ・デ・コンポステーラに入り1泊、すべての巡礼者を受け入れ、祈祷をささげてきたカテドラルに拝礼。翌日、巡礼路に沿ってレンタカーで東に走り、宗教色濃いレオンの町で修道院を改装したホテルに一泊。翌日、さらに東に走って、バスク自治州に入り、東北端に近い、サン・セバスチャンについた。4つ星だが二人で一泊朝食つき2万円程度のホテルに4泊、最後はバスク最大の都市で、国際空港があるビルバオに一泊した。
 サン・セバスチャンのホテルから数分に先は、あまりにも美しいとコンチャ湾が静かに広がっている。大きな曲線を描く砂浜の長さは3キロ強。両端に小山があり、一方の頂上にキリストの高い立像が見えた。快晴。札幌とほぼ同じ緯度に位置するコンチャ海岸は程よい涼しさ。水着姿の人たちが砂の上でかなり夕日を浴びていたが、海に入っている人はほとんどいなかった。夕日がコンチャ湾の先のビスケー湾に沈むのを見届け、2百店以上ものバルやレストランが集まる旧市街に向かった。(続く)
     輝く太陽、海、親切な人々と美味   輝く太陽、海、親切な人々と美味
2019.06.12  参院選で安倍政権に「民誅(みんちゅう)」を
          韓国通信NO603

小原 紘(個人新聞「韓国通信」発行人)

 天誅(てんちゅう)とは天罰、または天に代わって罰を与えること<『大辞典』>。今回は選挙の話題なので、天や神頼みでなく、民の力で罰を与える「民誅」というマイ新造語をあえて使った。
 憲法を守る義務のある議員たちが、なりふりかまわず現憲法を「嫌い」と言いだしている。今に始まったことではないが。首相として言うのはさすがに「マズイ」と思ったのか、最近は自民党総裁の肩書で改憲を主張している。何と姑息な憲法99条(公務員の憲法尊重の義務)逃れだろうか。

<安倍政権は憲法違反の限りを尽くしてきた>
 集団的自衛権について従来の違憲解釈を変え(2014/07)、翌年9月に強行採決した安保法制(戦争法)で自衛隊が海外で戦争をする道を開いた。明らかな憲法9条違反である。「共謀罪」(2017年強行採決)も、森友・加計事件、政府統計のウソも、すべて「政権のための政治」から生まれた。国民主権は侵害された。
 憲法を守る気のない人たちが憲法を変えると言いだしたのを、子どもたちには、「交通違反をして交通規則がおかしいと言うようなもの」と説明してあげる。大人には、法治国家ではなく、人治国家、フランスのルイ14世の「朕は国家なり」を譬(たと)えて説明する。こんな無法国家はどこにあるのか。韓国の朴槿恵前大統領は「国政の私物化」が憲法違反に問われ、獄中にいる。
 今回の参院選挙では、驕り、腐敗した政権に天誅、いや私たちの力で「民誅」を下して、まともな政治を取り戻したい。改憲勢力が3分の2の議席を確保すれば、必然的に改憲発議が行われ、国民投票が実施されるはずだが、緊迫感が感じられないのが不思議だ。

<争点隠しは許さない>
 憲法を変えたいにもかかわらず、争点にしたくない与党の思惑が見える。
 各種世論調査では改憲反対が6割から7割にのぼり、賛成は3割未満だ。改憲だけを争点にすれば改憲勢力の敗北は必至だ。それでいて選挙に勝てば、改憲が支持されたというのでは詐欺みたいなものではないか。
 1人区で野党候補の一本化が進んでいる。野党協力を自民党は「談合」と揶揄するが、公明と連立を組む党にそれを言う資格はない。政治の現状に不満を抱く人たちは野党の結束に希望を託す。これからの運動次第だが、独裁政権の暴走に対する勝機が生まれつつある。野党は臆することなく憲法改悪反対を掲げ、堂々と憲法違反の自公政権と戦ってほしい。
 自民党の「9条への自衛隊明記」と、「緊急事態条項」の挿入は、憲法の全面改定につながる一里塚だ。明治憲法を彷彿とさせる時代錯誤の改憲がこの後に控えている。
 今回の選挙で憲法をめぐる国民的議論の盛り上がりに期待したい。
 憲法論議が低調なのは、議論をすれば改憲に近づくという改憲反対派、理解が進むと改憲反対意見が増えるのを恐れる与党の思惑があるからだ。正面切って議論をしよう。本質的な議論を避けて雰囲気で結論を出すのは最悪だ。
 改憲反対の運動や声がマスコミに取り上げられないせいか、聞こえてくるのは改憲をめぐる政府の動向ばかり。それも聞きようでは、改憲を前提とした話ばかりだ。
 自称愛国者の安倍首相と右翼グループ「国民会議」周辺から流される情緒的で感情的な改憲論が世間を覆っているように見えるが、彼らは議論を拒み一方的に主張するだけ。まるで右翼の街宣車のスピーカーみたいなもの。相手の主張に耳を貸す冷静な議論、話し合いがますます大切になってきた。

<流布される「常識」は、意外と手ごわい>
 首相の「9条を残して新たに9条の2に自衛隊を書きこむ」という主張。「平和憲法は何ら変わらない」という。「自衛隊員が憲法違反では気の毒」という主張は、平和憲法を意識して人情論をからませたウケ狙いの側面がある。しかし、狙いは自衛隊を米軍とともに世界中で戦争に参加させること。やはり徹底した議論が必要だ。
 巷(ちまた)でよく耳にするこんな話はどうだろうか。
 「憲法は占領軍によって強制された」という押し付け憲法論。「憲法は時代によって変えるべきだ」「日本国憲法は一度も変えたことがない」。「中国や北朝鮮から国を守るためには軍隊が必要」。最近の元号、天皇ブームに便乗して、「天皇の元首化」の主張もある。
 「常識」は常識であり続ける限り、力を持つ。テレビや新聞、その他の紙媒体で大量に宣伝されればインフルエンザのように猛威を発揮するかも知れない。それを克服するために私たちは「知の力」を発揮するしかない。
 さらにテロや戦争、大災害に備えるという「緊急事態条項」の導入が企てられている。緊急時に国会の機能を停止させ、政府が一切の権力を掌握する。「非常事態」を想定して「憲法の停止」を狙う意図だ。「私は国家」(2019/02/28衆院予算委員会)発言からもわかるように、安倍首相の国家観は「全権委任法」で全権力を手中に収めたヒットラーを連想させる。「全権委任法」で民主主義は破壊された。労働組合は解散させられ、ドイツ共産党は非合法化され、ヨーロッパ中が戦火に巻き込まれた。

<心配の種だが~ガンバレ NHK>
 NHKと政治の関係といえば、当時副官房長官だった安倍晋三氏の介入による番組改変事件(2001年)が思いだされる。NHKは安倍首相に頭が上がらなくなった。事件後もNHK会長に就任した籾井会長の発言「政府が『右』と言っているのに我々が『左』と言うわけにはいかない」に象徴されるように自民党政権と安倍首相寄りの報道が続く。その忖度ぶりは「微に入り、細をうがつ」もので、NHKは政府の広報機関になったという指摘も多い。放送受信料で成り立つ公共放送として考えられないことだ。韓国では李明博・朴槿恵政権の侍女だったKBS、MBC放送が「公正」「中立」を取り戻した。戦後最大の曲がり角にさしかかっているこの時期、NHKに対する期待は大きい。視聴者は報道の公正、中立に期待している。
 韓国では大統領選挙時に全候補者による公開討論が定着している。数回にわたるテレビの長時間番組だが、白熱した討論に対する国民の関心は高い。討論会が終わると即日、世論調査の結果が発表される。過去には恥をかくのを恐れて出演したくない人もいたという話も面白い。
 「食べたり」「旅したり」「大笑いバカ騒ぎ」の番組を自粛して大政治討論会の開催は無理だろうか。各政党の主張をめぐる討論会は、国民に政治を考え、参加を促す場になる。
 日韓関係は「戦後最悪」と心配するより、韓国のテレビ局と国民を見習ったらどうか。
2019.06.11  民主主義をめぐる日韓の差
          「6・15事件」を前に考える

岩垂 弘 (ジャーナリスト)

 今年も「6・15事件」が近づいた。 今から59 年前の1960年6月15日、日米安保条約の改定に反対する学生集団が国会構内に突入し、これを阻止しようとした警官隊と衝突、学生集団の中にいた東大生の樺美智子さんが死亡した事件だ。この事件は民主主義擁護の運動の中で起きた事件と位置づけられているが、国民の間では今やほとんど忘れ去られ、毎年、6月15日がめぐってきても事件を顧みる目立った行事はない。しかし、隣国の韓国では、毎年この時期に、この国の民主化運動の原点とされる「光州事件」に対し国家的な記念行事が行われる。この違いは何から来るのだろうか。

 この5月18日、一つの国際ニュースが私をとらえた。韓国の光州市の国立墓地で「光州事件」39周年記念式典が政府主催で行われたというニュースだった。

 光州事件とは、韓国で、1979年の朴正熙大統領暗殺事件直後にクーデターで権力を握った全斗煥・少将を中心とする若手将軍グループが80年5月に戒厳令を全国に拡大し、金大中ら与野党の政治家を逮捕するなど、民主化の動きを阻止しようとしたのに対し、光州市の学生・市民が5月18日から抗議行動を始めると、戒厳令部隊が武力で弾圧し、多数の死傷者が出た事件だ。死者・行方不明者は300人以上とされる。
 その後、事件が全国に知れ渡るにつれて、光州で蜂起した学生・市民の運動が80年代の民主化運動を牽引した原動力となり、ついに87年6月に韓国民主化が達成された、と言われるようになった。こうした評価に基づき、今では、この事件は「5・18民主化運動」と呼ばれる。
 
 5月18日に行われた39周年記念式典には4000人あまりの市民が参加したが、これに出席した文在寅大統領は「あの時、公権力が光州で行った野蛮的な暴力と虐殺に対し大統領として国民を代表しもう一度深く謝罪します」と述べ、続けてこう呼びかけた。

 「光州の5月は私たちに深い負債意識を残しました。5月の光州と共にできなかったこと、虐殺される光州を放置したという事実が同じ時代を生きた私たちに消せない痛みを残しました」
 「その負債意識と痛みが1980年代民主化運動の根となり、光州市民の叫びがついに1987年6月抗争につながりました。6月抗争は5.18の全国的な拡散でした。大韓民国の民主主義は光州にあまりにも大きな借りを作りました」
 「大韓民国の国民として同じ時代、同じ痛みを経験したのならば、そして民主化の熱望を共に抱いて生きてきたのならば誰一人としてその事実を否定することはできないでしょう。5.18の真実は保守・進歩で分けることはできません。光州が守ろうとした価値こそがまさに『自由』であり『民主主義』であったからです。私たちがすべきことは民主主義の発展に寄与した光州5.18を感謝しながら私たちの民主主義をより良い民主主義に発展させていくことです」
 
 私は、文大統領の演説を読んで、韓国における民衆による民主化運動深化の歩みを知り、感動した。とともに、私の脳裏に甦ってきたのは、日本における戦後民主主義運動の頂点とされる1960年の反安保闘争とその後の日本国民の動きだった。

 1960年の反安保闘争が戦後最大とされる大規模な大衆運動に盛り上がったきっかけは、岸信介自民党内閣が同年1月に米国政府と結んだ日米安保条約改定案(新安保条約案)の承認を同年2月、国会へ提出したからだった。同条約案はその第5条で「日本国の施政の下にある領域における、[日米]いずれか一方に対する武力攻撃」に対しては共同行動をとることを宣言して旧条約の片務性を解消し、第6条で、米軍が「日本国において施設及び区域を使用することを許される」のは、「日本国の安全に寄与し、並びに極東における国際の平和及び安全の維持に寄与するため」であると規定していた。
 これに対し、野党の社会党、日本労働組合総評議会、平和団体などが「日本が戦争に巻き込まれる危険性が増す」と反発、安保改定阻止国民会議を結成して集会やデモが中心の反安保闘争を展開した。が、当時、労組幹部が「安保は重い」ともらしたように、運動はなかなか盛り上がらなかった。
 
 が、状況は一夜で一変する。国会での新安保条約承認を急ぐ自民党が5月19日夜、国会内に警官隊を導入して社会党議員を排除した上、衆院安保特別委員会で新安保条約の採決を強行、さらに会期を延長して衆院本会議で同条約を自民単独で採決したからである。これを機に、全国各地からおびただしい人たちが国会議事堂につめかけ、抗議の声をあげるに至った。その数は、5月19日3万人、20日10万人、21日5万人、26日17万人、6月11日23万人にのぼった。6月4日には全国で労組によるストが行われ、560万人が集会・デモに加わった(人数は日本ジャーナリスト会議編『主権者の怒り 安保斗争の記録』による)。
 それまで、集会やデモで掲げられていたプラカードの文言は「安保反対」「戦争は嫌だ」といったものが大半だった。が、「5月19日」を境に「民主主義を守れ」「岸(首相)を倒せ」に代わった。自民党の“暴挙”を機に反安保闘争は議会制民主主義擁護運動といった性格を帯びるものとなった。

 「6・15事件」はそうした中で起きた。国会構内に突入した全学連主流派の隊列に加わっていた樺さんの死は多くの人たちに衝撃を与え、6月18日に国会周辺につめかけた人たちは33万人に達した。が、抗議の声がとどろく中、新安保条約は19日午前0時過ぎ、参院の議決を経ないまま自然承認となった。岸内閣は退陣を余儀なくされ、6月23日に辞職した。

 「5月19日」以降の反安保闘争の中で生まれた市民グループの一つに「声なき声の会」があった。それまでの集会・デモの中心は労組員と学生で、市民の姿はまれ。そんな中、千葉県柏市の画家・小林トミさん(当時、30歳)が知人の映画助監督とともに「総選挙をやれ!! 誰モデ入れる声なき声の会  皆さんおはいりください」と書いた横断幕を掲げて東京・虎ノ門から国会まで行進。そこに加わってきた一般市民でつくられたグループだった。

 小林さんは6・15事件から1年後の61年6月15日、樺さんが亡くなった国会南通用門を訪れた。事件直後、そこは彼女の死を悼むあふれんばかりの人びとと花で埋まっていたのに、1年後はわずか20人ばかりが来ているだけだった。ショックだった。「日本人はなんと熱しやすく冷めやすいことか」。小林さんは、決意する。「日米安保条約に反対する運動をこれからも続けてゆこう。そして、運動の中で1人の女性の生命が失われたことを忘れまい」。以来、小林さんと「声なき声の会」の人たちは毎年6月15日に「樺美智子さん追悼 6・15集会」を開き、集会後、花束をもって国会南通用門を訪れるようになった。

 小林さんは2003年に病没するが、彼女の遺志を継いだ「声なき声の会」の人たちによって6・15集会はその後も続けられている。参加者は2010年代までは約40人を数えたが、それ以降は約30人といったところ。今年の集会は59回目で、6月15日(土)午後2時から、東京都新宿区早稲田2丁目の早稲田奉仕園会館地下 YOU-Ⅰホールで開かれる。
 6・15事件以来、この事件を忘れまいと毎年、記念の催しを続けてきたのは、私の知る限り、「声なき声の会」だけだ。「民主主義」に対する韓国と日本の市民の対応の違いに驚かされるのは私だけだろうか。

 それにしても、この違いはどこから来るのか。日本人についてはよく、「熱しやすく冷めやすい」「喉元過ぎれば熱さを忘れる」「過去のことは水に流す」といった性格、あるいは価値観があると言われるが、そのことと関係があるのだろうか。それとも、「民主主主義の成熟度」という点で韓国の方が一歩先んじているということだろうか。
2019.06.10  護憲の集い次々と
          首相の「改憲争点化」発言で

岩垂 弘 (ジャーナリスト)

 安倍首相が5月17日、「憲法を議論する政党か、議論しない政党か、参院選で訴える」と発言したことから、安倍政権による改憲を阻止しようという集会が草の根のレベルで活発化している。そのいくつかを紹介する。

◆「憲法9条、変えさせない6・12大集会」
日時:6月12日(水) 18時30分開会
場所:中野ゼロ大ホール(東京都中野区中野2-9-7。JR中野駅下車)
パフォーマンス:松元ヒロさん
お話:一橋大学名誉教授・渡辺治さん「9条改憲を阻んで安倍政治に終止符を!」
音楽・沖縄三線:Milk[弥勒]
参加費:999円(学生500円)
主催:九条の会東京連絡会(TEL 03-5812-4495 FAX 03-5812-4496)

◆「声を上げよう!憲法下町のつどい 世界からみた日本国憲法」
日時:6月12日(水)18時30分から
場所:金杉区民館下谷分館(東京都台東区下谷3-14-3)
講演:伊藤千尋さん(ジャーナリスト・元朝日新聞記者)
音楽:フォルテ
参加費:入場無料
連絡先:台東協同法律事務所(TEL 03-3834-5831)

◆「元号と天皇制、平和憲法を考える講演と討論の集い」
日時:6月13日(木)18時30分から20時30分まで
会場:文京区民センター2A会議室(東京都文京区本郷4-15-14、都営三田線・大江戸線春日駅、東京メトロ丸ノ内線後楽園駅下車)
講演:高嶋伸欣・琉球大学名誉教授「昭和天皇の戦争責任と日本国憲法」
資料代:800円
主催:壊憲NO!96条改悪反対連絡会議
連絡先:☎03-5802-3809

◆「へいわってどんなこと? 児童文学と絵本とジャーナリズムの出会い」
「憲法と平和」をめぐって、児童文学作家の朽木祥、絵本作家の浜田桂子、ジャーナリストの斎藤貴男の3人が若者に、それぞれの仕事を通した体験談や時代認識を語る。若者は大人に対し、大人は若者に対し、それぞれ何を求めるのか?
日時:6月29日(土)午後2時~4時30分
会場:東京・神田神保町 東京堂書店6階東京堂ホール
参加費:1000円(学生無料)
定員:100名(当日券あり。ただし事前申込みが定員に達した場合、当日券はありません)電子メールでの申込み:heiwa@japanpen.or.jp タイトルを「平和について考える2019」とし、本文に氏名、年齢、電話番号を、学生はその旨を明記
往復はがきでの申込み:送付先は〒103-0026 中央区日本橋兜町20-3 日本ペンクラブ「平和について考える2019」係。往信用裏面に氏名、年齢、郵便番号、住所、電話番号、学生はその旨を明記。返信用表面に返信先の郵便番号、住所、氏名を明記。お申し込みいただいてから5日以内に返信を送ります
主催:日本ペンクラブ平和委員会