2024.02.28 今春の「さよなら原発全国集会」は3月20日
 短信    

  東京・代々木公園で

 世界を揺るがせた東日本大震災に伴う東京電力福島第1原子力発電所の爆発事故から、今年の3月11日で13年になる。
 この事故の直後、評論家・内橋克人、作家・大江健三郎、同・落合恵子、ルポライター・鎌田慧、作曲家・坂本龍一、ノンフィクション作家・澤地久枝、作家・瀬戸内寂聴、詩人・辻井喬、評論家・鶴見俊輔の9氏の呼びかけで市民団体「『さようなら原発』一千万署名市民の会」が生まれ、以後、同会の主催で、毎年、3月と9月に脱原発を目指す全国的な集会を東京で開いてきた(2020年~2022年はコロナ禍のため休止)。昨年から再開した。
 今回は、昨年9月に集会を共催した環境団体「ワタシのミライ」が協力する。
 今年は次のような要領で行われる。

日時:3月20日(水・春分の日)

会場:東京の代々木公園B地区(JR山手線原宿駅、小田急線代々木八幡駅下車)

オープニングライブ:13時から松元ヒロさん

集会:13時半から鎌田慧さん、落合恵子さん、福島・能登半島の運動関係者らが発言

デモ行進出発:15時
    (岩)
2024.02.27 学者の共産党批判と党理論幹部の反批判をめぐって

――八ヶ岳山麓から(462)――
                  
阿部治平 (もと高校教師)

はじめに
 この2月21日、共産党の機関紙「しんぶん赤旗」は、党理論委員会事務局長・谷本諭氏の「共産党を論ずるなら事実にもとづく議論を――中北浩爾氏の批判にこたえる」という論文を掲載した。これは中北浩爾・中央大教授(政治学)の共産党批判、とりわけ東京新聞のインタービュー記事(2024・02・11)に対する反批判である。中北氏は、『日本共産党—――革命」を夢見た100年』(中公新書 2022)の著者である。
 谷本氏の反批判は、一口でいえば、「“日米安保条約容認の党になれ”“民主集中制を放棄せよ”――つまるところこれが、中北氏が現在わが党に対して行っている主張である」というものである。

日米安保条約と国民連合政府の関係
 野党連合政府と日米安保条約の関連について、中北浩爾氏はこう語った。
「野党連合政権を目指すなら、日米安保の容認など大胆な政策の柔軟化が必要だ。(共産党との共闘を否定する)国民民主党だけでなく、立憲民主党も外交・安保政策の違いを共闘のネックとしている」
 「2015年に共産党が安保法制廃止を目指す『国民連合政府』を打ち出し、野党共闘のきっかけを作ったが、現在は行き詰まっている。当時、(共産党は)『市民と野党の共闘』を掲げて『柔軟路線』を取り、多くの人々が期待した。しかし、共産主義に基づいて革命を起こすという方針と矛盾しない範囲での柔軟化にとどまり、日米安保条約の廃棄や民主集中制といったコアを変えなかった。党大会で22年までに野党連合政権を樹立するという目標を立て、実現しなかったのに、その責任を誰も取らなかった」

 これに対する谷本氏の反批判は、「安保法制廃止、米軍辺野古新基地建設中止などの緊急課題で共同を強めることと、日米安保条約廃棄の世論を多数派にするための独自の努力をはかることとは、何の矛盾もないどころか、双方を追求してこそ、それぞれが推進されることを、大会決定で詳しく明らかにしている」というものである。
 
 わたしには、この反批判はやや的はずれではないかと思われる。中北氏は立憲民主党が日米安保体制を容認している現状では、日米安保条約廃棄を主張することは連合政府樹立の障害になる、谷本氏のいう「双方の追求」では、国民連合政府の実現は不可能であるといっているのである。
 そもそも共産党は、2000年の第20回大会で日米安保と自衛隊の廃棄・解消に関して、第一は日米安保体制と自衛隊の存在する段階、第二は安保条約廃棄の段階、第三は自衛隊解消の段階の3段階を想定した。中北氏だけでなく自公政権に反対する人々は、現状すなわち第一段階では、共産党は日米安保体制の廃棄は表立っては唱えず、自衛隊の海外派遣とか新安保体制に反対するレベルにとどめるものと理解し、立憲民主党を主体とする、共産党を含めた国民連合政府を期待したのである。

除名問題と民主集中制
 中北氏は、「昨年の(松竹伸幸・鈴木元)2党員の除名処分、1月の党大会では、除名に関して控えめに問題提起した神奈川県議大山奈々子氏を大勢の代議員の前でつるし上げ、人格攻撃を加えた。組織ぐるみのパワハラだ」としたのち、こういう。
 「なぜこういうことが起きるのか。党内のことは党内で解決するという『民主集中制』が原因だ。党指導部が絶大な権力を持ち、異論を唱える党員を『支配勢力に屈服した』と糾弾する。『分派を認めない』といった党規約の解釈権も党指導部が握り、(異論に)反共の烙印を押して排除する。共産党は立憲主義を唱えているが、党内にも権力制約原理を導入すべきだ」

 これに対して谷本氏は、まず松竹除名再検討を求める大山県議の「発言内容」には、党を除名された元党員の問題の政治的本質が、「安保容認・自衛隊合憲に政策を変えよ」「民主集中制を放棄せよ」という支配勢力の攻撃への屈服にあるということへの無理解があった、とした。そして、(大山県議が)それをもとに、「除名処分を行ったことが問題」だというのは重大な問題であって、だから「結語」で厳しい批判を行うことは「あまりにも当然のことだ」というものだった。
 わたしは、「除名問題」に対する世間の悪印象を無視して「あまりにも当然」というのは、あまりにも無理解だと思う。赤旗報道によると、大山県議は松竹氏の本を読んでいないといいつつ、「除名そのものが世間に悪い印象を与えたから再検討するべきだ」と発言した。
 これに対して現委員長田村智子氏は、大会の「結語」で大山県議を「党員としての主体性を欠き、誠実さを欠いた発言」とか「節度を欠いたもの」と非難した。ほとんど「革命の同志」の資格なしという激しいものだった。これから大山県議は共産党の県議を続けていけるだろうか。
 そもそも松竹伸幸氏の著書を読む限り、氏は、安保容認・自衛隊合憲論を第一段階の国民連合政府の話にとどめ、綱領と規約を守るといい、共産党の「基本政策を安保容認・自衛隊合憲に政策を変えよ」「民主集中制を放棄せよ」とはいっていない。

社会変化と民主集中制
 さらに、中北氏は共産党の衰退原因として、第一は共産主義の魅力の喪失としながら、次いで「昔ながらの民主集中制」をあげる。
 「自由で公正な党首選挙を行わず、(党指導部の)前任者が後任者を推薦して承認する方法では自己改革が難しい。世の中はリベラル化しており、社会のさまざまな組織の形も(上意下達の)軍隊調ではなく、フラットなネットワーク型に変わってきている。にもかかわらず、組織論は1960〜70年代のままだ。自由で開かれた党組織に転換しなければ、若年層は入ってこない」
 これに対する谷本氏の直接の反批判はない。ただ谷本氏は、「わが党が民主集中制の原則を守ることのどこが問題なのかを、正面から明らかにすべきであろう」といっているだけだ。わたしには、中北氏はすでに民主集中制の問題点を指摘していると思えるのだが。
 
おわりに
 中北氏には、見過ごせない発言がある。
 「一般にはなかなか見えないが、(共産党の)実態は代々木(党本部)の専従活動家からなる官僚制が支配しており、その上に立つ党指導部は硬直的だ」というものである。
 谷本氏はどういうわけかこれを無視した。いや、あえて取り上げなかったのか。
共産党の組織原則は、支部・地区・県などをまたいだ全国的な自由な意見交換を許さない仕組みになっている。だから一般党員のもつ知識・情報は限られ、政治路線の決定に参加することはできず、幹部集団だけが全国情報を独占して政治的決定権をもち、自己を党そのものと考え発言し行動する。
 一方、組織が日常的な民主主義を欠いたとき、思いがけないほど幹部集団の権威は高まり、彼らが提起する政治路線は、ほとんど疑念を抱かずに、おおかたの一般党員によって受け入れられる。この数十年、20余万の一般党員は政党活動家というよりは、党外から見れば、機関紙拡大要員であったが、今後もそれが受け入れられて続くらしい。

 一方、共産党に限らず、一般的に官僚や専従者は保守的である。地位の維持・昇進のさまたげになる組織体制や政治路線の変革は望まない。幹部集団が党員による党役員の直接選挙・定年制・任期制を採用しないのも、人事の停滞がマイナスの影響を及ぼしても無視するのも、このためである。公職選挙が有権者の声を反映している現実を自覚できず、選挙の敗北が続いても幹部が責任をとらないのも同じことである。

 さらに志位和夫氏が中央委員会議長、田村智子氏が幹部会委員長になり、小池晃氏が書記局長留任という29回党大会の人事は、この作風と路線が変わらぬことを如実に示している。かくして、個人の自律性、多様性が強調される市民社会の論理とは隔絶した論理によって、これからも党が運営されていく。やんぬるかな。(2023・02・23)

2024.02.26 人類史に残るビキニ被災事件から70年

いまなお未解決の諸問題

岩垂 弘 (ジャーナリスト)

 来たる3月1日は、人類史に特記される「ビキニ被災事件」から70年にあたる日だ。世界を震撼させたこの事件は、地球上で暮らす私たちに多大な課題を突きつけたが、70年たってもそれらの課題は今なお解決していないどころか、かえって深刻化している有様である。私たちは今こそ、70年前にさかのぼって事件の本質に目を注ぐ必要がある。

広島原爆1000倍の水爆実験
 1954年3月1日未明、太平洋のビキニ環礁で、米国による水爆実験(ブラボー)が行われた。第2次世界大戦後に激化した米国とソ連2大国の核軍拡競争の真っ只中で、「ブラボー」の爆発規模は広島に落とされた原爆の1000倍といわれた。
 あまりにも威力のある水爆実験だったから、ビキニ環礁の島々の一部が吹き飛び、水没してしまった。そればかりでない。環礁のサンゴ礁が粉々になって空に舞い上がり、放射能で汚染された白い灰(「死の灰」と言われた)となって洋上に降り注いだ。
死の灰は、環礁から離れたマーシャル諸島の島々の住民たちに降り注いだ。このため、住民たちは放射能症にかかり、その後長年にわたって苦しむことになる。

第五福竜丸の被災
 この水爆実験で、静岡県焼津港所属のまぐろ漁船・第五福竜丸(23人乗り組み)も被災した。同船はビキニ環礁から東方167キロの公海上、米国政府が設定した立入禁止区域から64キロ離れた洋上で操業中だったが、乗組員が「死の灰」を浴びた。直ちに帰路についたが、途中、乗組員たちは嘔吐、倦怠感、頭痛、食欲不振、下痢、抜け毛、火傷などに悩まされた。
 3月14日に焼津に帰港、乗組員たちは急性放射能症と診断された。9月23日には、症状が重かった無線長の久保山愛吉さんが死亡。「水爆による初めての死者」であった。焼津市で全国漁民葬が行われ。安藤正純国務大臣が政府代表として参列した。

燎原の火のように広がった原水爆禁止署名
 日本国民はパニックに襲われた。同胞が水爆実験で死亡した上に、まぐろを食べられなくなったからだ。太平洋で獲れたまぐろは放射能に汚染されているとして、港に水揚げされたまぐろが放棄されたからである。雨の日は、傘なしには歩けなかった。雨が放射能で汚染されていたからだ。
 そんな中で、54年5月、東京都杉並区の女性たちが「水爆禁止署名」(後に原水爆禁止署名と改名)を始める。これは、またたく間に区内、都内、ひいては全国各地に広がり、同年8月には、原水爆禁止署名全国協議会が結成された。同協議会による署名は55年夏には3200万筆を超し、こうした全国的な盛り上がりを背景に同年8月6日、広島市で第1回原水爆禁止世界大会が開かれる。  
 これには、3つの国際組織、14カ国の海外代表も参加。これを機に、恒常的に原水爆禁止運動を進めるための組織が誕生する。
 広島と長崎の惨劇からすでに9年だっていたが、この間、大規模な原水禁運動は起こらなかった。なぜか。最大の要因は、日本が米軍の占領下にあり、米軍が原爆に関する報道を禁止していたので、広島・長崎の被害の実相が日本国民に伝わらなかったからである。ビキニ被災事件は、日本人の目を過去の原爆被害に向けさせるきっかけとなった。

国際的にも衝撃を与える
 ビキニ被災事件は、世界的にも衝撃を与えた。
その1つが、55年7月9日に、世界の著名な科学者11人によって発せられた「ラッセル・アインシュタイン宣言」である。バートランド・ラッセル(英)、A・アインシュタイン、ジョリオ・キュリー(仏)、湯川秀樹らが連名で発したもので、「将来の戦争に於いては、核兵器が必ず用いられるべきこと、しかもかかる兵器が人類の存続を脅かすものであることに鑑み、われわれは世界各国政府に対し、彼らの目的は世界戦争によっては遂げられないということを、彼らが自覚し、かつ公に確認することを強く勧告する。そして結論としてわれわれは、各国間に紛争のある総ての事項の解決に当たっては、平和的手段を見出すべきであるということを彼らに対し強く勧告する」と述べていた。
 これを受けて、57年には「バグウォッシュ会議」がカナダのバグウォッシュで発足する。国際的な科学者が集まって核軍縮を話し合うための会議で、米ソからも参加があった(バグウオッシュ会議は1995年、ノーベル平和賞を受賞する)。

いくつかの核軍縮に向けた措置を生む
 日本における原水爆禁止運動とパクウォッシュ会議の外にも、内外で核兵器廃絶を目指す動きが次第に大きくなってゆき、それが世界世論となった。それだけに核保有国はこうした動きを全く無視できなくなった。
 1963年には、米英ソ3国が「部分的核実験停止条約」(PTDT、大気圏内における核実験の禁止)に調印。さらに1996年には、国連総会が、地下核実験を含むあらゆる核実験を禁止する「包括的核実験禁止条約」(CTDT)を採択した(未発効)。これに先立つ1970年には核不拡散条約(NPT。米、英、仏、中、ソの5カ国以外の国には核兵器の保有を禁ずる)が発効している。
 一方、米ソ間でも、1969年から戦略核兵器削減交渉(START)が延々と行われてきた。1991年のソ連崩壊後は、米露間で交渉が続けられてきた。
 ちなみに、世界の核弾頭数の推移を見てみたい。核兵器開発競争のピークであった1987年には世界には約7万発の核弾頭があり、その8割が米ソ保有であった。それが、2022年6月現在では1万2720発で、そのうち米国は5425、ロシアが5975であった(「ピース・アルマニック2023」)。
 ピーク時に比べると、量的には激減だ。核爆弾の性能が高まったことが一因だろうが、この間、地球上で延々と続けられてきた、民衆と非同盟諸国による核兵器廃絶運動も影響している、と私は信じたい。

 これらの核廃絶運動からの圧力が影響したのだろう、1878年、1982年、1988年と3回にわたって国連で軍縮をテーマとする特別総会が開催された。
 2017年には、ついに国連の会議が、核兵器の全廃を目指す「核兵器禁止条約」を採択、2021年1月に発効した。これは核軍縮の歴史上画期的なことであり、世界の核兵器廃絶運動は大きく前進したと言える。

世界は核戦争寸前へ
 ところが、世界は一転して、今や、世界は核戦争寸前という危機に陥っている。2年前にロシアがウクライナに侵攻、プーチン大統領が「外部の者がウクライナに介入し、ロシアに戦略的脅威を与えようとするなら、われわれは電光石火の対応を取る。われわれには対応手段があり、必要に応じて使用する」と述べ、いざとなれば核ミサイルの使用も辞さないと示唆したからである。加えて、同大統領は23年2月、米露間唯一の核軍縮交渉の舞台である「START」の履行停止を発表した。
 米国の科学誌「原子力科学者会報」が毎年発表している、人類滅亡までの残り時間を示す終末時計の残り時間は、ただ今、「90秒」だ。過去最短である。

福竜丸は何を語るか
 さて、ビキニ被災事件で被災した第五福竜丸は今、どこにいるのか。
同船は事件後、東京水産大学(現東京海洋大学)の練習船として使用され後、廃船処分となり、東京湾のゴミ捨て場「夢の島」に捨て置かれた。その無残な姿に心を痛めた東京都世田谷区の会社員が「沈めてよいか第五福竜丸」と題する一文を1968年に朝日新聞に投稿、それを機に保存運動がわき起こった。
 これに対し、美濃部亮吉・東京都知事が保存への協力を表明、1976年に同船を収容した都立第五福竜丸展示館が江東区夢の島に開館する。古い木造船の保存は、世界でも稀にみる壮挙だった。それから48年。これまでの入館者は586万人にのぼる。今でも年に10万人の入館者がある。

第五福竜丸①
都立第五福竜丸展示館。中に福竜丸が展示されている。=東京都江東区夢の島2丁目。
JR京葉線、地下鉄有楽町線、りんかい線の新木場駅下車。

第五福竜丸
第五福竜丸の船体 総トン数140.86トン 全長28.56メートル

 展示館を管理する公益財団法人・第五福竜丸平和協会はビキニ被災事件から70年を記念して3月3日(日)14時から、東京都港区の明治学院大学白金校舎本館1301教室で「3・1ビキニ記念のつとい」を開く。山極壽一・総合地球環境学研究所所長の講演「『人新生』のわたしたち~人類の未来を共に考える」がある。
問い合わせは同平和協会(03-3521-8494)へ

 福竜丸以外の乗組員が訴訟へ
 なお、福竜丸と関連して、近年、新たな問題が生じている。福竜丸の乗組員には米国政府から慰謝料が支払われたが、福竜丸と同様に、事件当時、太平洋で操業していて被災した漁船の乗組員への補償は放置されてままだ。当時、太平洋上にいた船は1000隻を超えるとされる。その一部、高知県の元乗組員と遺族から、損失補償を国に求める訴訟が起こされ、高知地裁で審理中である。

2024.02.24 世界のノンフィクション秀作を読む(52)
竹中千春(立教大教授:国際政治学)の『ガンディー――平和を紡ぐ人』(岩波新書)――非暴力によるインド独立への闘い(下)
             
横田 喬 (作家)

 ◇マハートマの出現 「ガンディー様は大聖人、『聖者』だ」。ある村では涸れ井戸にガンディー様の名前を唱えて五ルピーを供えたところ、ゆっくりと水が湧き始めた、という。そんな「奇跡」の逸話が、そこここで語られた。非協力運動に加わった農民たちにとって、彼は神のような存在になっていく。ガンディーの名前は驚くほど知れ渡り、その命じたことは成し遂げなければならない、と人々は常識のように信じていた。

 ◇塩の行進 ガンディーは1928年4月まで政治活動を自粛し、カーディ運動(自給自足・国産品奨励)など草の根の活動に精力を注いでいた。イギリス本国の政治工作を前に、ナショナリストが動き出す。最も尊敬を集める法律家で中央議会議員のモティラル・ネルー(父親の方)を中心に、会議派が他の政党にも呼びかけ、憲法草案の検討に入る。彼は連邦制を活用して「一つのインド」を作るという提案をまとめるが、支持を得られなかった。会議派の中からも、帝国と対決してでも独立を目指そうとするジャワハルラル・ネルー(息子の方:後に独立インドの初代首相)ら若手の突き上げがあった。
 四面楚歌の下のモティラル・ネルーから支援を要請され、ガンディーは28年末の会議派年次大会に出席。ネルー憲法の採択を強く訴え、ナショナリズムの危機を訴える彼の演説によって同憲法案は満場一致で採択される。これを機に、ガンディーは正式に政界へ復帰する。
 30年1月、会議派は市民不服従運動の実施に向けての方針を決定。ガンディーの提案で1月26日を「独立の日」と定め、「全ての領域でインドを搾取・破壊してきたイギリス政府に対し、インドの民衆は『完全独立』のために戦い、勝ち取る権利がある」と宣言した。

 3月5日、彼は「塩の行進」(辺鄙な農村部での三百キロにも及ぶ民衆によるデモ行進)の計画を発表する。インド側の大物政治家が「笑いものだ」と公言するなど、誰もが腰を抜かすほど驚いた。当然、政府側は喜び、失敗するのを期待した。行進の予定地グジャラート地方はガンディーの郷里に近く、彼が十年以上もかけて農民と活動を重ねてきた地域。出発前日の3月11日、なんと二万人余の人々が出発地の僧院周辺に集合。「後戻りは出来ない。これは最後の闘いだ」とガンディーは「兵士たち」に呼びかけた。
 翌12日朝六時三〇分、ガンディーを先頭に、二人一組に七八人のメンバーが隊列を組んで出発。みな白い長布を身に纏い、殆どの人が白いガンディー帽を被っている。数百、数千の人々がガンディー一行に付いて歩いた。一一キロ先の最初の休憩地には八時五〇分に到着。五分間の休憩後、一行は再び出発し、最初の村へと向かった。

 この時期、同地方の気温は摂氏五〇度前後。この暑さの中、一行は黙々と進み、出発から三週間後の四月六日、ガンディーらは朝日に輝くダーンディーの海辺に到達した。彼は海水に漬かって身を浄め、右手で塩を掬い上げ、青空に高くかざした。すぐさま周囲から「マハートマ万歳!スワラージ万歳!」の歓呼の声が上がる。国中どころか世界中のメディアが一斉にガンディーの偉業を伝え、魔法ならぬ、マハートマの「奇跡」が成就した。

 ◇休戦協定と円卓会議 「塩の行進」の後、植民地政府による塩の専売への不服従運動が急速に全国へ広がり、その結果、何万人もの人々が逮捕された。が、ガンディーとその一団は、逮捕を免れていた。彼が逮捕後に体調を崩し急死する事態が起きれば、反英運動の殉教者を生み、民衆運動の収拾がつかなくなる。そう危惧した総督らが、逮捕を遅らせていたのである。
 彼は一計を巡らし、近隣の製塩所への非暴力的な「襲撃」を計画。五月四日に総督宛てに、それを伝える手紙を送付した。武装した警察の部隊がガンディー一行の滞在する村を急襲。彼は、馴染みのある刑務所に再び投獄される。彼の構想に沿い、製塩所への非暴力の行進が続く。白衣の人々が警棒で殴られ、出血~次々倒れていく情景が、海外の新聞記者によって報道され、世界中に伝えられた。ガンディーは刑務所内でも断食して抗議した。

 31年1月、総督はガンディーらの釈放を決定。市民不服従運動の一時停止とガンディー・総督の話し合いが条件だった。この決定は殆どの会議派指導者には青天の霹靂であり、ジャワハルラル・ネルーは「革命前夜なのに、なぜ?」と叫んだ、という。「ガンディー=アーウィン協定」の内容は中途半端であり、ネルーらが首を傾げるのも無理はなかった。
 本国のイギリスは二九年の世界恐慌に際会。植民地の独立や自治を論じるどころではなかった。危機にある本国を救うには、英領インドの騒擾を収め、帝国に協力的な体制を立て直すことが必要だ。その対策として、インド亜大陸の政治的な代表を集めた円卓会議が、急遽ロンドンで開催される運びとなる。

 会議には五百以上ある藩王国を代表する王たち、イスラーム教徒の代表、シーク教徒やキリスト教徒の代表、その他様々な社会集団の代表が招かれた。ガンディーは会議派と国民を代表して、自分一人が出席すると譲らず、反対派からは独裁的だと厳しく批判された。
 彼は、支配階級は決して権力を手放さず、維持するためなら弾圧を辞さないことも、体験を通して熟知していた。指導者を欠いた形での民衆運動は危険な暴力の震源に成り得ることを見抜いていた。こうした判断から、例え不本意な合意であろうと、イギリス政府と直接話し合うことを条件に、彼は運動を停止する決断を下したのである。
 イギリスでのガンディーは孤立していた。諸々の代表にとって、「自分だけがインドを代表する」と言う彼の主張は失礼であり、自分たちの存在を否定するものだと不評だった。当然と言えば当然で、その結果、彼は会議の場で終始孤立することになった。イギリス側は何も言質を与えず、四面楚歌の彼を相手にしないまま会議は閉会した。
 円卓会議が終了すると、直ちにインド政府は弾圧を再開。32年中に、七万五千人以上の逮捕者を出したという。会議派は非合法化され、各地の拠点が警察の捜索を受け、会議派の資金は見つかり次第没収された。イギリスから帰国したガンディーも再び逮捕され、刑務所へ。今回は、一九世紀の刑法を根拠にし、裁判なしの実刑を宣告された。

 ◇たった一人の抗議活動 獄中のガンディーには、重要な問題が幾つも降りかかってきた。一つは、カースト差別の問題。南アジアには、浄と不浄という観点から様々な血縁集団の身分が決められ、職業、結婚、教育、人生から日々の暮らし方まで統制され規制される伝統的な仕組みが存在して来た。一般にカースト社会と呼ばれるものである。
 イギリス人は最低辺の人々を「不可触民」、あるいは「アウトカースト」と呼んだ。その帝国主義的な「分割統治」政策は、少数派としてのイスラームを、多数派としてのヒンドゥーから「保護する」という形で、両者の宗教的な亀裂を深めることに一役買った。
 この矛盾は抽象論ではなく、現実的な政治戦略の問題となった。「誰を国民として組織するのか」という問題だからである。最底辺の不可触民出身の弁護士アンベードカルはエリートが先導する会議派の在り方を批判し、会議派に対抗する運動「ダリット」(「差別される者」の意)を組織することになった。
 獄中のガンディーは、イギリスの提案に「これはインドの社会を永久に分断するものだ」と激しく抗議して断食を宣言。突然の断食宣言に、国中が動揺し、「ガンディーを殺すな」という声が上がる。やむなくアンベードカルは譲歩し、妥協的な運動方式を受け入れた。

 ◇最後の祈り 39年9月、ナチス・ドイツがポーランドに侵攻すると、ガンディーはヒトラーに手紙を送り、戦争の停止を訴えた。41年12月、日本軍の真珠湾攻撃後、アメリカが参戦を表明すると、ローズヴェルト大統領に私信を認め、戦争の停止を求めた。次第に彼は「時代遅れの老人」視され、会議派の後輩からも「現実を見ていない」という厳しい批判を受けるようになっていく。とりわけ打撃だったのが、激しさを増す宗教的な暴力。彼は暴動の焼け跡を歩き、避難した人々を慰め、暴徒たちには平和と愛を説いた。

 ◇マハートマの死 47年10月、カシミール地方の帰属をめぐりムスリム住民が暴動を起こし、第一次印パ戦争が勃発。ガンディーは両宗教の融和を目指し、戦争相手のパキスタンと協調しようとの態度を貫く。そのためヒンドゥー原理主義者から敵視され、印パ戦争最中の翌年1月30日、彼はニューデリー滞在場所であるピルラー邸の中庭でピストルで狙撃~射殺された。葬儀は翌日国葬として営まれ、犯人ら二人が後に死刑に処された。

 ▽筆者の一言 ガンディーが生きた時代のインドは、圧倒的な農村社会だった。ガンディーの在り様は、都会的なエリートにはおかしなものに映っただろうが、農民たちにはそうではなかった。農民からお金も取らず、威張り散らしたりもしない。不思議な聖人だ。農民の一人は、イギリス人の役人に対し、こう言ったそうだ。「ガンディー様はラーマ王子(古代インドの大叙事詩『ラーマーヤナ』の主人公)みたいだ。王子は悪魔の力を恐れなかった。ガンディー様が来られたからには、自分たちも悪魔のような地主をもう恐れない」。ウクライナで、ガザで、不条理な流血が止まない現下だからこそ、せめて「東洋的な平和」のメルヘンに束の間の癒しを求めたくなる。
2024.02.22 世界のノンフィクション秀作を読む(51)
竹中千春(立教大教授:国際政治学)の『ガンディー――平和を紡ぐ人』(岩波新書)――非暴力によるインド独立への闘い(上)
                  
横田 喬 (作家)

 「マハートマ」(偉大なる魂)と呼ばれたインドの不世出の社会活動家ガンディー(1869~1948)。その七十八年に及ぶ生涯を克明にたどり、非暴力による国家独立への闘いの日々をインドの歴史に詳しい政治学者のペンが入念に綴る。東欧や中東で酷い戦禍が止まない現下だからこそ、稀有な個性による尊い営みを改めて振り返ってみたい。

 ガンディーは1869年、アラビア海に面するイギリス領インド帝国の南西部グジャラート州の港町ポールバンダルに五人きょうだいの末っ子として生まれた。父は当時の藩王国の宰相で、家柄はインドの四つの階級の三番目に当たる商人カーストのヴァイシャ。小学校当時は素行が良くなく、ヒンドゥー教でご法度の肉食をしたり、煙草に手を出したりした。
 一二歳でハイスクールに入学、一三歳の若さ(インド幼児婚の慣習による)で生涯の妻となるカストゥルバと結婚。一八歳で宗主国イギリスの首都ロンドンに渡り、ロンドン大学に学び、弁護士免許を取得し、帰国する。が、郷里では弁護士としての仕事の場がなく、93年に当時イギリスの支配下にあった南アフリカに渡る。白人優位の人種差別下の現地で、列車の車掌に肌の色ゆえにクーリー(人夫)扱いされ、「インド人」意識に劇的に目覚めた。
 インド系商人の弁護の仕事をするため、南アでの法的な弁護士資格を取得。母国で講演し、南アの問題を訴えた。妻子を呼び寄せ、腰を据えてインド人の権利向上へ闘う。理解の浅かったヒンドゥー教やインド哲学への学びを深め、またトルストイの影響を受ける。「非所有」の生涯を決意し、後の非暴力抵抗運動(サティーヤグラハ:数の力や武力を頼まず、自らを強者と信じ、愛情の力に基づいて相手を乗り越える)思想を形成していった。

 1904年、自身が主筆と編集を担う週刊新聞を発行。平均約二千人の購読者を持ち、論説欄で彼は非暴力抵抗運動の原理と実践を訴える。06年、「インド系移民登録法」案を「暗黒法」として抗議~反対運動を展開。翌々年にサティーヤグラハ扇動のかどで彼は有罪判決を受け、二か月服役する。13年、キリスト教式ではない結婚を無効とする法案に抗議し、二千人余の鉱山夫を率いた大行進を組織。ガンディーは四日間に三回逮捕される。
 これらの出来事はインドにも大きく報道され、インド総督ハーディングは南ア政府を批判する声明を発表。南ア政府首脳はガンディーと交渉~インド人救済法案を公表し、インド人移民の要求を全て認めるとした。その成功を見極め、ガンディーはインドへの帰郷を決意する。第一次世界大戦が勃発した14年夏、彼は祖国へ帰国。秋には、四五歳になった。

 ◇マハートマ(偉大なる魂)への道 
 四十代半ばから五十代初めにかけて、ガンディーは人生で最も自信と精力に溢れた時期だった。インド政治の世界にデビューしてから驚くことに、極めて短期間に、彼は「マハートマ」と呼ばれるような存在に成っていく。一九一七年から翌年にかけての各地でのサッティーヤグラハ、翌々年には第一次大戦後の混乱状況の中で全国的な反ローラット法運動、そして一九二一年には会議派の中心人物として非協力運動の実施と、ホップ・ステップ・ジャンプの様に羽ばたいていく。
 
◇農民運動との繋がり 
 この時期、彼はまた北東部ビハール州の最北東部チャンバーランでの農民運動、北西部グジャラート州アーメダバード市の労働争議(並びにケーダ県の農民運動)と文字通り東奔西走。三カ所でサティーヤグラハを指導して大成功を収め、新しい指導者として彗星のように登場する。
 チャンバーランは一九世紀にイギリス人の資本家が進出し、藍(インディゴ:イギリス本国の綿工場が必要とする染料)の大農園を造成。東インド会社は鉄道を敷き、税務署・警察・裁判所が置かれた。農園主は特殊な仕組みの下で、インド人の農民に藍栽培を強制。収穫物を安く買い叩き、労働を強制し、地代やその他の代金を支払わせた。
 ガンディーは地元農民からの訴えで郷里に近い現地へ急行。農民四千名余の証言を集め、実地調査を行った末の報告書を政府に提出する。農園主側との交渉は長引き、政府は調査委員会を設置。委員会は農民に有利な判定を下し、この活動は華々しい成功を収める。

 ◇塩の行進
 <招かれた指導者>1917~18年、ガンディーはインド北東部での農民運動、北西部での労働争議と農民運動と、三カ所で大成功を収め、新しい指導者として彗星のように登場した。北東部ビハール州は藍の大農園の拠点。ガンディーらは四千名以上の農民から証言を集め、政府に提出し、早急な対応を促した。農園主が保有するジラートという土地では、農民は殆ど只で労働を強いられ、農園主側は収穫物の藍を安く買い叩いた。
 土地の警察は退去命令に従わないガンディーを逮捕するが、彼は罰金の支払いを拒み、刑務所入りを望んだ。州知事は訴訟の撤回を命令。県長官から、ガンディーは自由な調査を行ってよいという通知を受ける。<ガンディーが勝利した>と農民は歓喜した。ガンディーは近隣の富裕な人々から寄付を集め、活動資金を作った。農民の証言を記録する作業を休み無しに進め、公平性を保証するために、警察官を立ち会わせて記録を採った。

 こうして非常に短期間に、ガンディーらは報告書をまとめ、政府に提出した。四千名以上の農民から証言を集め、内容の信憑性を確認し、農村での実地調査を行ったものだった。
暴力的な事件などが起こる前に、迅速に農園主と農民の利害調整を行うことが狙いだった。
 問題は土地制度にあった。農園主が保有しているジラートという土地では、農民はほとんど只で労働を強いられてきた。小作農民が耕作地の15パーセントに対し藍栽培を強制されるという制度も存続。農園主側は良質な土地を藍栽培に当てさせ、収穫物を買い叩いた。
 農園主の圧政は政府ですら呆れるほどだったが、詳細に調査したガンディーらの報告書は、具体的な数字を示し、冷静に彼らの貧窮の実態を証明していた。17年6月、州知事はガンディーに州からの退去を命令するが、彼は後に引かなかった。公の調査委員会が発足し、農民に有利な判定を下す。州議会で強制取り立て制度を廃止する法案が成立。ガンディーが指導した農民運動は、華々しい成功を収める。

 <反ローラット法運動>第一次世界大戦では二百万人以上のインド人が戦地に赴き、膨大な額の資金や物資の提供を行ったとされる。だが、イギリス側は期待を裏切ったばかりか、治安政策を強化する方針を打ち出した。1919年三月、1915年のインド防衛法の焼き直しとして、無秩序革命犯罪法。いわゆるローラット法が制定されたのだ。
 ガンディーはこれに反発し、反対運動に立ち上がる。総督宛てに抗議文を送り、以前の闘争で共に戦った有志が結集。抗議運動を展開する団体を結成し、ガンディーの趣意書が全国の会議派に伝達された。野心的かつ冒険的で、首都デリーでは1919年三月末、警察の発砲で多数の人々が負傷させられる事件も発生する。しかし、四月六日、予定通り全国各地でハルタール(一斉休業)が実施された。
 ガンディーたちの戦略は、人々が不正な法を破り、逮捕や財産没収といった政府の対応を引き出す。必要なら刑務所に入り、法と政府の不正を公にする。四月七日、ボンベイから鉄道でデリーへ出発した彼は途中で警察に拘束され、出発地に送還される。ボンベイでは、集まった数千人の民衆に警察の騎馬隊が突っ込み、多くの人々が負傷する事件が起こった。ガンディーは警察部長に抗議しつつ、人々に向けては非暴力と秩序を訴えた。
 北西部の州でも一触即発の状況となり、鉄道のレールが一部で外されたり、政府の役人が殺された。政府は戒厳令を敷き、ガンディーは警察部長を訪ねて抗議し、民衆側も平和を回復するよう努めると約束。彼は三日間の懺悔の断食を宣言し、非暴力闘争の精神と意義を人々に説いた。こうしたガンディーの介入の後、この地域では戒厳令が解除された。

 <政治運動に加わる>1919年、第一次世界大戦が終結。首都デリーでヒンドゥー教徒とイスラム教徒が平和回復の行事をめぐって討議し、ガンディーも招かれ、演説した。「非協力」運動は、この演説の中で突然思いついたアイデアだった。この年、新しいインド統治法がイギリス議会で可決し、一定範囲で自治要求に譲歩する内容となっていた。
 次世代の会議派指導者として招かれた彼には、組織維持のための財源確保や会議派の新規約の起草といった仕事が待っていた。当時の会議派には、常設機関もなく、突発的な事項を処理する組織もなかった。ガンディーらが起草した新しい党の規約に基づけば、各地方から選挙で代議員が選ばれ、地方組織のピラミッドの中心に会議派の事務局を常設。会費を引き下げて党員の裾野を広げ、民衆と共に活動する政党組織を形成しようと図った。
 ちょうど、イスラムの人々の反英運動も加速していた。大戦に勝った大英帝国が、オスマン帝国を終焉させる内容の講和条約を締結していたからだ。イギリスに対して非協力と非暴力を訴えた彼は大人気を博した。時に五〇歳、将に「時の人」となっていた。

 <カーディ運動>21年には会議派は非協力運動を組織を挙げて実施。その大きな原動力になったのがカーディ運動(自給自足・国産品奨励)だ。ガンディーは上半身は裸、下半身にはドーティという白い布を巻くだけのスタイルに変わった。イギリスの工場製品の衣料を燃やし、インド製の服を着ようという運動が広がっていく。

 <マハートマの出現>「ガンディー様は大聖人、『聖者』だ」。ある村では涸れ井戸にガンディー様の名前を唱えて五ルピーを供えたところ、ゆっくりと水が湧き始めた、という。そんな「奇跡」の逸話が、そこここで語られた。非協力運動に加わった農民たちにとって、彼は神のような存在になっていく。ガンディーの名前は驚くほど知れ渡り、その命じたことは成し遂げなければならない、と人々は常識のように信じていた。


2024.02.21 中国は南アジア諸国の動きをどう見ているか

ーー八ヶ岳山麓から(461)ーー
 
阿部治平 (もと高校教師)

はじめに
 中国共産党中央対外連絡部の孫海燕副部長は、この1月下旬バングラデシュを訪問し、官民の主な指導者と会談した。バングラデシュ側は、両国の関係を強化し、経験交流を深め、「一帯一路」の質の高い建設を推進し、両国の国民により多くの利益をもたらしたいと表明したという。
 続いて孫海燕氏はネパールを訪問し、ネパール共産党毛沢東派(マオイスト)の指導者プラチャンダ氏と会見した。プラチャンダ氏は、ネパールと中国の友好関係は根が深く、いかなる勢力も反中国活動のために自国の領土を利用することを許さないとし、政党間の交流と協力を深め、ネパールと中国の関係のさらなる発展を促進したいと述べたということである(新華社 2023・01・26,29)。
 中共中央の外交副責任者の両国訪問は、両国のインド傾斜を牽制する目的があったものと思われる。

バングラデシュは反インドか
 環球時報は、党関係者のバングラ訪問後、「近隣諸国における反インド感情の高まりは何を物語るのか?」と題する復旦大学国際問題研究所の研究員林民旺論文を掲載した(2024・02・01)。
 林氏は、最近バングラデシュだけでなく、インドの近隣諸国では反インド感情が蔓延している、これは近隣諸国の内政・外交へのインドの強い干渉に対する憤りや反発の表れであるという。モディ政権は「近隣諸国優先」政策の下、近隣諸国の内政・外交に深く関与し、統制を強めてきた。さまざまな政党や宗教団体を操ることで親インド勢力の支持を培い、近隣諸国内の民族主義勢力を抑圧してきたとのことである。

 バングラデシュでは、2009年に政権に復帰したアワミ連盟ハシナ政権は、多極主義に基づいた外交政策をかかげながら、かなり強い対インド関係を維持、今日まで良好な経済成長を実現してきた。ハシナ政権は、強権政治を非難する野党がボイコットした今年1月の総選挙でも、引き続き多数を握り5期目を発足させた。
 2015年にはバングラデシュ、ブータン、インド、ネパールの4カ国(BBIN諸国)は、貨物、旅客、自家用車の国境を越えた無制限の移動を促進する自動車協定に調印した。また昨年ネパールのダハール首相がインドを訪問したとき、モディ首相とネパールの余剰電力をインド経由でバングラデシュへ送る電力貿易についても合意した。深刻な電力不足によって計画停電が行われているバングラデシュにとっては干天の慈雨である。
 これからすれば、中国の期待とは逆に、インドを中心としたBBIN諸国は経済的結びつきを強めているようだ。

ネパールのインド接近
 新華社がいう、ネパール共産党毛沢東派の「プラチャンダ」は現ネパール首相ダハール氏の別称である。氏は武装闘争によって王制を打倒したのち首相になり、伝統的な親インド外交を親中国外交に切り替えた。これによって「一帯一路」を掲げる中国の援助で、観光地開発・国内交通路の整備・チベットとつなぐ自動車道路や鉄道の建設が計画された(拙稿「八ヶ岳山麓から(69)」参照)。
 その後ネパール政界には紆余曲折があったが、ダハール氏は2022年末4期目の首相に就任した。氏は、従来の外交方針を変え、2023年6月初めてインドを訪問し、エネルギーと輸送に関する一連の協定に調印した。さらに中共中央の孫海燕と会談した直後、ダハール氏は2月1日インドの招きに応じてモディ首相と会談した。モディ氏は「2国関係を『ヒマラヤの高み』にまで引き上げる」と宣言した。
 ダハール政権のインド接近の背景には、国内政治情勢のほか、2021年春以来新型コロナウイルスの感染拡大によって、中国から人材、機械、資材がネパールに入って来ず、インフラ建設延期を余儀なくされたという事情がある(環球時報2021・05・05)。このためネパールは中国だけをあてにできなくなり、伝統的なインドとの友好的関係へ回帰したものとおもわれる。
 
モルディブのインド離れ
 南アジアでは、モルディブは唯一親中国政権が成立した国である。
昨年の大統領選でインド寄りの現職を破り当選したのは、軍事・経済面などで過度のインド依存に反対するムハンマド・ムイズ氏である。ムイズ新大統領は、この1月まず中国を公式訪問し、北京で習近平国家主席の歓迎を受けた。双方は両国関係を全面的戦略パートナーシップに格上げすることで合意した(朝日 2024・01・11)。

  注)モルディブ共和国は、インド洋北部、スリランカの南西600キロ。北緯7度から赤道直下にわたる多数のサンゴ礁からなる。人口は約51万人、うち外国人が13万人以上を占める。首都はマレ。公用語は、スリランカのシンハラ語と同系統のディベヒ語。
 2月6日、人民日報傘下の環球時報は、北京外国語大学ディベヒ語教研室長朱方芳氏の論文「インドの『地域モンロー主義 』は機能せず」を掲載した。
 朱氏によると、モルディブとインドは、3月10日までにモルディブ駐在インド軍を撤退させることで合意に達したが、モルディブはインド洋地域の安全保障上重要な位置にある。だからインドは、ライバル国(すなわち中国)がモルディブと安全保障上の協力を行うことによって、地域の安保秩序が侵食されることを特に懸念している。インドの大国意識はモルディブの「フィンランド化」を受け入れられないのだという。

 朱氏の見方は、インドはインド洋の「兄貴分」として、スリランカやモルディブなど近隣諸国に一定の譲歩をするが、もし隣国が安全保障上のレッドラインに触れるようなことがあれば、政治的・経済的・外交的なさまざまな手段で対抗し、小国に対する支配力をさらに強めるものというものである。
 すでにインドは、反ムイズ派国会議員を買収して、2月5日のムイズ氏の国会演説のときには現職議員80人のうち、出席したのはわずか24人といういやがらせをやった。さらにモルディブへの食料、果物、野菜、鶏肉、淡水の輸出を制限し、モルディブのファンド運営会社へのインドからの投資を減らしているとのことである。

中国の軟化、本音はどこにあるか
 環球時報は2月4日の社説で概略以下のように論じた(2024・02・05)。

 中国とインドは、敵対はおろかライバル関係も避けうるパートナーであるし、またそうあるべきだ。駐中国インド大使の羅国東(漢語名、正式名不明)氏は、1月24日中共対外連絡部の劉建超部長との会談で、「(意見の)分岐は中印関係の主軸ではなく、双方が協力・共存し前進する道を見出し、両国民に幸福をもたらし地域と世界の平和と発展に貢献することを望む」と述べた。我々もまた、このような姿勢と理解がインドの対中国政策においてより一層実行されることを望んでいる。

 環球時報社説は、中国はインドの敵ではない、共存共栄の関係で行こうと主張している。習近平政権による横柄な「戦狼外交」を持ち出すべくもなく、大変温和な主張である。この変化は2年ほどまえからで、インドの最大輸入相手国が中国になったからかもしれない。いやそれよりも、従来のケンカ腰の「戦狼外交」が中国に有利に働かないとわかったからであろう。いずれにせよ、習近平政権の本音は前述の林・朱両氏の論文に現れている。
 近隣諸国にしてみれば、中国によってスリランカが「債務の罠」に陥ったこと、ブータンの国境地帯が中国軍に占拠されたことの方が、インドへの警戒心よりもまさっているかもしれない。南アジアは、やはり中印両大国の草刈り場である。双方ともに底流に「対抗意識」があり、どのように美辞麗句を並べようと、覇権を拡大しようとすることに変わりはない。(2023・02・11)
2024.02.20 表紙は変わっても中身が変わらない〝志位体制〟の抜き差しならない矛盾、「政治路線も組織路線も間違っていない」の言明にもかかわらず、「長期にわたる党勢後退」を克服できないのはなぜか、共産党はいま存亡の岐路に立っている(その16)
  
広原盛明 (都市計画・まちづくり研究者)
                 
 歴史的な京都市長選が終わった翌々日(2月6日)、日本共産党の全国都道府県委員長会議が開かれた。その模様は、しんぶん赤旗(2月7~9日)で詳しく報道されている。驚いたのは、田村委員長の「問題提起」が前座として取り扱われ、志位議長の「中間発言」が本番に位置づけられていたことだ。率直に言って、田村委員長の「問題提起」は大会決議の党勢拡大方針の単なる解説に過ぎず、全ての内容は志位議長の「中間発言」に委ねられていたのである。

 志位委員長時代の赤旗紙面は、重要会議は悉く「志位発言」で埋め尽くされていた。ところが、田村委員長になって初めての今回の全国都道府県委員長会議では、田村発言は脇役に追いやられ、質量ともに志位議長の「中間発言」がど真ん中に位置しているではないか(紙面の分量でも田村発言は志位発言の6割にすぎない)。志位議長の発言は、「中間発言」と言いながらも事実上の「最終発言」であり、大会決議の実行を全国都道府県委員長に指示する「結語」として位置づけられているのである。

 志位議長は「党建設の歴史的教訓と大局的展望」に関する発言のなかで、「『なぜ長期にわたって党勢の後退が続いてきたのか』『なぜ私たちはこの問題でこれだけ苦労しているのか』『現状を打開する展望はどこにあるのか』――これは全党のみなさんが答えを求めていた問いだったと思います」と前口上を述べ、「実は、私自身もこの問題については十分な回答を持てないでいた問題でした」と思わせぶりな言い回しをしている。そして、その原因を「私たちはこれまで党員の現状をみる際に主に党員の現勢がどう推移したかで見ていくという傾向がありました」と述べ、「しかし、その角度からだけでは問題点がはっきりと見えてきません。角度を変えて、その年に新しい党員を何人増やしたかという目で見てみると、はっきりと弱点が浮かび上がってきました」というのである。

 しかしながら、志位議長が「長期にわたる党勢後退」の原因を、新入党者の動向に注目することなく、党員現勢(総数)の推移だけに気を取られていたためだと説明した「薄っぺらな理由」は、会場の都道府県委員長たちをしてさぞかし仰天させたに違いない。会場の面々は、赤旗が毎月初めに前月分の入党者数、赤旗読者増減数を掲載していることを百も承知しており、そのために四苦八苦してきた人たちばかりだからである。考えてもみたい。党組織運営の原則からして、党員の「フロー(出入り)」と「ストック(現勢)」の両方を知らなければ、その現状を正確に把握することはできない。こんな組織運営のイロハを志位氏が知らなかったというのでは、もうそれだけで「一発アウト!」だと言われても仕方がないだろう。

 とはいえ、志位議長が党組織の現状を党員現勢の推移(だけ)で見てきたと説明したのは、それなりの原因と背景があるのだろう。そこには党指導部にとって党員の「フロー(出入り)」を公表できない事情、すなわち〝離党者〟が余りも多いという現実が横たわっているからである。言うまでもなく、党員の「フロー(出入り)」を正確に把握しようとすれば、入党者のみならず離党者と死亡者の実数を合わせて公表しなければならない。しかし、死亡者数は辛うじて党大会ごとにまとめて公表されるようになったが(年単位では未公表)、離党者数はこれまで公表されたことがない。離党は党規約で認められているのだから公表されて当然の数字だが、現実には統計として公表されたことがないのである。

 党員拡大を持続的に追求しようとすれば、その前提として入党者と離党者の実態を正確に把握しなければならない。入党者の動機や背景を知ることはもちろん重要だが、それにも増して離党者がなぜ出るのか、その原因と背景を明らかにしなければ「長期にわたる党勢後退」を止めることはできない。民間企業においても、社員がどんどん辞めていくような会社は慢性的な「人手不足」に陥り、優れた新入社員を迎えるのが難しいのと同じ理由である。

 不破委員長時代に定式化された党勢拡大方針は、第19回党大会(1990年7月)で書記局長に抜擢された志位氏に引き継がれ、現在までの30年有余一貫して踏襲されてきた(これからも踏襲されようとしている)。この間、「数の拡大」を至上目的とする大運動によって「実態のない党員」が大量に生み出され、それら党員が離党処分の対象になって大量の離党者が発生したことは周知の事実である。具体的に言えば、第19回党大会から第20回党大会までの4年間に実に党員48万人の4分の1に当たる12万人が整理され(党員現勢が36万人に激減)、第25回党大会(2010年1月)から第26回党大会までの4年間に同じく党員40万6千人の3割に当たる12万人が整理された(党員現勢が30万5千人に激減)。逆説的に言えば、「長期にわたる党勢後退」の原因は「数の拡大」を至上目的とする党勢拡大方針が生み出したと言えなくもない。しかし、上記のいずれの場合も離党者の大量発生の原因について本格的な討論もなければ、党としての総活が行われたこともなかった。大会決議にも正式の議題として取り上げられたことがなかったのである。

 それでも、志位議長はへこたれずに自画自賛している。「私は、1990年の第19回党大会以降、数えて見ましたら11回の党大会の決議案の作成にかかわってきました。そういう経験に照らしても、私は、今回の党大会決定ほど多面的で豊かで充実した決定はそうない、と言っても過言ではないと思います」――。志位氏が書記局長・委員長在任中に11回の大会決議案の作成に関わったことは事実だが、そこで発生した党組織の存亡に関わる大量の「実態のない党員」問題すなわち離党者問題を真正面から取り上げたことはなかった。それでいて「長期にわたる党勢後退」の最大原因である離党者問題を意図的にスルーした大会決議案・大会決定を、「非常に内容の充実したまさに歴史的決定であり、綱領路線をふまえ、それを発展させた社会科学の文献」と天まで持ち上げるのだから、志位氏の理論水準がどの程度か分かるというものである。

 「失敗は成功の母」というが、「失敗=大量の離党者」の原因を究明し、これまでの拡大方針を総括しなければ、「成功=党勢の持続的発展」は得られない。党勢の持続的発展(サステイナブル・デベロップメント)とは、「数の拡大」を至上目的とする拡大運動により疲弊した党員が党を離れていくような事態を避け、党員数の大小にかかわらず政策の影響力が大きく、国民に信頼される「数にこだわらない」党勢の発展のことである。だから「数の拡大」に失敗した志位氏は、委員長退任と同時に最高権力者の座から退くべきだったのだが、「政治路線も組織路線も間違っていない」と公言する志位議長は、こんな自明の理を無視して依然として「数の拡大」を目指して号令をかけ続けるのである。
 ――残念ながら、現勢では後退が続いている。つまり党建設の根幹が後退していることが、読者拡大も含めてすべての党活動の隘路となり、制約になっている。これが私たちの運動の現状であります。ここを私たちは直視し、ここをこの2月からどうしても突破しよう、これが今度の方針です。党員拡大で現勢を前進に転ずるには、全国で少なくとも1万人以上に働きかけ、1000人以上の新入党者を迎える必要がある。規模でいえば1月の運動の規模の約3~4倍の規模のとりくみをやろう、というのが今度の提起であります。

 それでは、今後の見通しはどうか。第29回党大会を目指しての拡大大運動の最後の月は2024年1月だったが、結果は入党者447人、日刊紙1605人減、日曜版5381人減、電子版94人増である(赤旗2月2日)。赤旗掲載死亡者数は183人、掲載率を38%とすると推計死亡者数481人(183人×100/38)、党員増減数は34人減となる。党大会終了を以て大量の減紙が発生するのはいつものことであるが、今回もまたその例に漏れず赤旗読者数は7000人近く減っている。これでは、志位議長が幾ら大号令を掛けても、「第30回党大会までに、第28回党大会現勢――27万人の党員・100万人の赤旗読者を必ず回復・突破する。党員と赤旗読者の第28回党大会時比『3割増』――35万人の党員、130万の「赤旗」読者の実現を、2028年末までに達成する」への道は程遠いと言わなければならない。

 もうそろそろ方針転換の時期ではないか。「数の拡大」を至上目的とする党勢拡大方針から、「数にこだわらない」党勢の発展を目指すべき時がやってきているのである。マルクス主義の経済思想を研究する斎藤幸平東大准教授は、毎日新聞の論点「複合危機への処方箋、2024年にのぞんで」(2024年2月9日)の中で〝脱成長コミュニズムを実現し価値観転換を〟を唱えている。斎藤氏は共産党のことを直接に論じているわけではないが、この言葉は「数にこだわらない」党勢の発展にも通じるものがある。
 ――強いリーダーが社会を変えていく20世紀型のトップダウン的運動ではトップダウン的社会しかつくれません。そうでない社会を目指すには、そうでない社会の萌芽を自分たちの運動のなかで示していく必要があります。リーダーを固定するのではなく、いろいろな人がそれぞれの専門や能力をその時々で発揮する「リーダーフル」な運動のあり方を模索していますし、提唱したいのです。

 「民主集中制」の組織原則のもとで党中央の下に一糸乱れることなく団結し、社会革命を実現するといった「20世紀社会」はもはや終わったのではないか。同時に、20世紀型の強いリーダーの下でのトップダウン的運動も歴史的終焉の時を迎えている。党首公選制一つですら実現できないような「20世紀型政党」が21世紀にも生き残れるとは思えない。今からでも遅くない。志位議長は辞任して若い世代に座を譲るべきではないか。「表紙」だけでなく「中身」を変えるためにも。(つづく)
2024.02.19 東北の民衆運動から学ぶ
  韓国通信NO737
           
小原 紘(個人新聞「韓国通信」発行人)

 2012年の秋、友人と岩手を旅行した。
 盛岡駅前で借りたレンタカーの旅は、自然エネルギーに取り組む葛巻(くずまき)町、岩泉町の龍泉洞、津波の被害を受けた田野畑、田老(たろう)、浄土ヶ浜と宮古、復興に立ち上がった重茂(おもえ)漁協など観光を兼ねた走行距離400キロあまりの4泊5日の旅だった。

 「謝罪」と「真摯」という言葉が砂塵のように空しく舞い散る社会。ひょっとしてこの島は沈没するしかないのか、そんな不安が頭をもたげる日々。
 11年前、旅で見つけた民衆のエネルギー。こんな時代だからこそと、「通信」をリメイクして本改訂号を作成した。

<三閉伊(さんへいい)一揆>
 田野畑村に出かけたのは津波でわかめ採取の施設を失った漁民への支援金を届けるためだった。村役場でカンパの手続きを終え、近くの民俗資料館に立ち寄った。江戸時代末期に起きた三閉伊一揆の資料に二人は目を見張った。
館の資料をもとに一揆のあらましを以下に記す。
三閉一揆737
一揆の像737

(上写真/田野畑村HP掲載切り絵/下/資料館横「一揆の像」)

 一揆は1847年と1853年の二回にわたって起きた。欧米諸国とロシアの軍艦が頻繁に開港を求めて出没した時期である。幕府は「外国船打ち払い令(1825)」を布令し、諸藩には警備と費用の負担を求めた。庶民に大増税を求める南部藩に対して貧困にあえぐ農漁民、商工業者たちは反発し、前代未聞の一揆に発展した。
 参加者はそれぞれ1万2千人、1万6千人(全住民の20%、26%)にのぼった。
 村役を中心に協議を重ね、藩政の改革、増税の撤回を求めて小〇(困る)の旗を掲げて藩主と対峙した。一揆は成功したかに見えたが、指導者の処刑、約束の不履行に業を煮やした農漁民は再決起。今度は南部藩を相手にせず伊達藩に三閉伊地域の編入を求めて強訴。当惑した伊達藩は幕府と協議、一揆側の要求49条すべてを南部藩に承諾させ落着した。さらに参加者を処罰しない約束までとりつけ実行させた。

 歴史上、例のない規模の大きさ、団結力には驚くが、無能な藩主の更迭と領地替えまで求めたのは空前絶後のことだった。児童文学者後藤竜二の『白赤 だすき 小〇の旋風』(新日本出版社2008年)では、一揆の経過とともに参加した人への作家の愛情が語られ興味深い。一揆は現代に引き直すと「軍拡のための増税反対!」「国民の声を聞かない政府は交代!」に等しい。
 何百キロも行進を続けた彼らは行動する民主主義の実践者だった。テレビ・ラジオ・新聞もない今から170年前のことである。
 江戸中期に「万民平等」と「農本」を唱えた安藤昌益の存在が思い浮かぶが、生きるために立ち上がった農民の姿は理屈を越えた感動を私たちに与える。

<岩手に原発がないワケ>
 同じ資料館の中庭に「吾が住み処 ここより外になしと思ふ 大気静澄にして微塵とどめず」と書かれた歌碑がある。
歌碑737
(上写真/筆者撮影)。

 田野畑に原発を作らせなかった歌人岩見ヒサの歌碑である。
能登半島地震で珠洲の反原発の運動に注目が集まっているが、ほぼ同時期に田野畑村でも原発誘致に反対して闘った人たちがいた。
 運動の中心となったのが歌碑の元保健婦の岩見ヒサだった。
 貧乏県の岩手に何故、原発がないのか。
 著書『吾が住み処 ここより外になし』(萌文社、2010年)は巡回保健婦を永年務めた個人史である。往復35キロの道のりを徒歩で巡回、各地にバラバラに暮らす婦人たちの健康と生活向上に尽くした。助産婦、時には医師の仕事まで任されたという。
 突如降ってわいた原発誘致に、「カネより大切なものがある」と確信した彼女のもとに多くの女性たちが集まり、学び、反対運動に加わった。ヒサ64才の時だった。

 著書の第3章で「原発反対奮闘記」で彼女たちの運動が語られている。署名運動、新聞投稿、反対集会、村長、議員に対して執拗に続けられた説得活動が語られる。
 運動は功を奏し、推進から一転して誘致断念につながった。それは村を挙げての女たちの「たたかい」だった。「金よりもいのちと自然」という女性たちの粘り強い運動が交付金の獲得、村の活性化を主張する男社会を打ち負かした。
岩見ヒサ737
(右写真/著書表紙/岩見ヒサの肖像)。

 ヒサの著書は今もロングセラーを続けている。原発を作らせなかった彼女への敬意と感謝の気持ちが現在も生き続けている。私たちが田野畑を訪れた時、岩見さんはご存命だったが、3年後の2015年9月に亡くなられた(年98才)。「原発のことを知って欲しい」と言い続けた彼女の声が今でも聞えてきそうだ。
 田野畑の「本家旅館」に一泊。女主人のおつれ合いは元漁業組合長。「三閉伊一揆を語る会」の初代会長だった。東日本大震災の直前に亡くなられた。
 「あなたがたと話ができたらさぞ喜んだはず」と残念がっていた。旅館の名物料理「ドンコ汁」は美味だった。
2024.02.17 「人間の危機」に対して私たちは何ができるか
短信    
   ガザ問題でピースデポが講演会

 NPO法人ピースデポ(平和資料協同組合)は、以下のような狙いで2月25日(日)14時~16時、「ガザ、人間の危機―歴史的背景と私たちの課題」と題する講演会を開きます。

 「2023年10月のハマスによる奇襲攻撃を発端とするイスラエル軍によるガザ地区への大規模な攻撃は2万4000人を超す死者を出しています(2024年1月現在)。この死者数は東日本大震災と阪神・淡路大震災の合計の死者数を超えており、ガザ地区の狭さ(東京23区の6割程度)を考えると、現地で凄惨な大量殺戮が行われているのがわかります。こうした『人間の危機』に対して、私たちは何ができるのでしょうか。パレスチナ情勢に詳しい講師が、ガザ問題の歴史的背景と私たちの課題についてお話します」

会場:明治学院大学白金キャンパス 本館10階 大会議室(東京メトロ南北線・都営地下鉄三田線・白金台駅2番出口より徒歩7分/南北線・都営三田線・白金髙輪駅1番出口より徒歩7分)

講師:役重善洋(関西ガザ緊急アクション、ピースデポ研究員)

資料代:500円。明治学院大学の学生・院生・教職員は無料

申込み方法:会場参加は申込み不要。オンライン参加は以下へ
 電話045-633-1796 メール:watanabeyosuke@peacedepot.org(申込み期限2月22日)
(岩)
2024.02.16  世界のノンフィクション秀作を読む(50)

D・ブライアンの『アインシュタイン』(三田出版会刊、鈴木主税:訳)――天才が歩んだ愛すべき人生(下)
                   
横田 喬 (作家)

 ◇ノーベル賞と不確定原理
 1922年10月、アインシュタイン夫妻は外遊に出た。日本では、夫妻は贅を尽くした帝国ホテルのスイートルームに宿泊。部屋のバルコニーは広場に面し、数千人の市民が徹夜で集合し、歓声を上げて科学者の挨拶に応えた。日本の聴衆は信じられないほど我慢強く、通訳を交えて四時間近くも続いた講演を終始礼儀正しく傾聴。アインシュタインは天皇と皇后(フランス語で彼と話した)に謁見し、駐日ドイツ大使と会談した。アインシュタインは日本人の美しい立ち居振る舞い、旺盛な好奇心や知性と感性に魅せられた。
 翌年春、東京を離れて数日後、アインシュタインはノーベル物理学賞を受賞したという知らせを受ける。八回も候補に推薦されながら拒まれ続けたあげくの栄誉だった。作家のA・ウォレスは後にスウェーデンに赴き、選考委員のスヴェン・ヘディン博士らに取材。反ユダヤ主義を掲げるドイツの有力な科学者らからの横槍があった事実を明らかにしている。

 23年11月、アインシュタインはオランダの友人宅に滞在中、新聞でヒトラーのクーデタを知った。ミュンヘンのビアホールでの政治集会でヒトラーは卓上に飛び乗り、天井に向けピストルを発射。「国家主義革命は始まった!」と参会者を脅迫し、同意を迫る。翌朝、褐色のシャツ姿のナチ突撃隊員三千人が社会民主党の機関紙の印刷機を叩き壊し、陸軍省を占拠。警察は銃撃を開始し、死者一六人と負傷者多数が出る。潜伏したヒトラーは三日後の同月11日に逮捕され、反逆罪で告発された。
 ドイツの物理学者プランクはこの暴力沙汰によりアインシュタインの身を気遣い、破格の条件を提示する。<年に一回だけベルリンで講義をし、ベルリンを「正式の」居住地とするだけでいい>。そうすれば、一年に一日を除き、彼の身は安全、というのだ。

 アインシュタインは実験が理論を確認するために絶対に欠かせないとしながら、「到底、全てを実験することはできない」とも認めた。彼は自分の結論を要約し、親交のあるドイツの理論物理学者マックス・ボルンにこう手紙を書いた。「量子力学は確かに尊敬に値する。が、未だ本物ではない。<古い理論>の秘密には少しも近づかせてくれないから」
 友人たちに囲まれている時の彼は快活で人をそらさず、面白かった。彼らの妻の数人とも親密な交際を楽しんだ。最も親密だったのは、マックス・ボルンの妻で脚本家のヘディ・ボルン。彼女はアインシュタインの人生の知識は科学上の業績にも優るとさえ信じ、こう言った。「彼は<自分は命あるものの全てのものの一部だ>と感じている」。
 29年、彼は「自分の相対性理論は空間、時間及び重力を支配する全ての法則を一つの公式で表している」とし、新しい研究の目的は「これをさらに単純化し、重力の場と電磁気の場の概念を一つの公式にまとめること」。即ち、「統一場理論」への貢献であるとし、「今では、否ようやく、我々は幾つかの力が同じものだと知った」とし、こう述べた。
――電子を動かして原子核の周りに楕円の軌道を描かせる力は、我々の地球を一年間で太陽の周りを一周させる力と同じである。そして、この惑星上に生命を存在させる光と熱の放射をもたらす力と同じなのだ。

 ◇アメリカ亡命
 アインシュタインのアメリカ訪問は1921年が最初で、エルサレムのヘブライ大学設立のための資金集めが目的だった。その際、プリンストン大学で四回講演し、名誉博士号を授与されている。それから九年後の1930年よりカリフォルニア工科大学の客員教授となり、度々アメリカを訪れるようになっていた。
 32年1~3月、同大学を訪問。プリンストン高等研究所の完成後には、同所の教授になることを約束する。一旦ベルリンに戻るが、同年12月に妻エルザと共にベルギーを経由して再びアメリカに向かう。この間ヨーロッパは破滅的な事態に陥っていた。翌年1月、ナチスが政権を獲得。ヒトラーが首相になると、ユダヤ人排斥は益々強まり、大規模な迫害・掠奪が進行。遂にはアウシュビッツで知られる大量虐殺まで行われることになる。
 ナチスは不在中のアインシュタインから名誉市民権を剥奪~財産を没収。別荘を家宅捜索し、その首に五万マルクの賞金まで懸ける。この時アメリカに居たアインシュタインはドイツ市民権を放棄し、ベルギーやイギリスに妻エルザらと滞在している。同年10月、家族共々ニューヨークに到着し、約束していたプリンストン高等研究所教授の職に就く。これが事実上のアメリカへの亡命となった。

 ◇第二次大戦と原爆の開発競争
 39年8月、時のアメリカ大統領ローズヴェルトはアインシュタインの署名入りの手紙を二通受け取った。「ウランから想像を絶するほど強力な爆弾ができる可能性が極めて高い。
核分裂によるエネルギーが放出されるのは人類史上初めて。」とあり、「ウラン鉱石の主要産地はベルギー領コンゴで潜在的な敵(ナチを指す)の手に渡らないよう、予防措置をとる必要がある」という趣旨だった。
 11月にはウラン諮問委員会が具体的な報告を発表し、大統領は国家プロジェクトを承認。コロンビア大学が政府から四万ドルの資金を受けてリーオ・ジラードとエンリコ・フェルミの両学者と契約し、核連鎖反応の実験に取り掛かる。遂に原子爆弾プロジェクトが開始された。ドイツでも核兵器の研究は進行。42年秋、核物理学者たちは(原爆製造には最低三年はかかり、戦争はそれより遥か以前に終結する)と予想し、製造計画は却下される。
 アメリカでは42年12月、エンリコ・フェルミが自続式の核連鎖反応に成功。原子核のエネルギー放出を制御した。アインシュタインは、こうした機密情報を知る対象人物とは目されていなかった。FBIは彼を共産党員あるいはスパイ疑惑の標的と見做していた。

 ◇原爆投下と戦後の平和運動
 45年7月16日未明、ニューメキシコの砂漠で最初の原子爆弾が炸裂。アインシュタインの有名な方程式E=mc²が現実のものとして、爆発と共に姿を現した。ドイツが降伏した後、連合国の攻撃は日本に集中。トルーマン大統領は二つの原爆の使用を命じた――広島に一つ、長崎にもう一つを。アインシュタインは「何ということか!」と頭を抱えた。
 彼は原爆に関する機密はそんなに長くは保ってはいられないと予測。当時の三つの軍事大国(米国・ソ連・イギリス)が設立する世界政府が共有すべきだ、という意見だった。彼は「人類は原子力に脅かされて、国際関係に秩序を生み出すかも」とも予測した。

 戦後の50年代にマッカーシズムの赤狩りを体験したアインシュタインはアメリカの将来を危惧していた。ソ連に関しては、核戦争を避け、経済を疲弊させないために武器開発の競争を抑えることが、相互の利益になると言った。優秀な頭脳を軍事目的に使うよりも、基準を底上げする方向で研究を進めることが望ましいという意見である。
 幻想を抱いていたわけではなく、核戦争を防止するのは難しいことだ、と承知していた。会議の席で、「人間が原子の構造を発見するほどの能力を持っているなら、なぜ原子が人類を滅ぼすことのない政治的手段を考案することができないのか」と問われ、こう答えている。「それは単純なこと。政治の方が物理学よりも難しいからだ」。
 
 ▽筆者の一言 
 アインシュタインは1955年四月に亡くなる。死の直前、イギリスの哲学者バートランド・ラッセルと書簡をやりとりした。湯川秀樹ら世界の指導的科学者十一人の署名も得て、核戦争の廃絶と紛争の平和的解決を求める「ラッセル=アインシュタイン宣言」として同年七月、発表される。この宣言を機に、全ての核兵器及び戦争の廃絶を訴える科学者による国際的会合パグウォッシュ会議(95年にノーベル平和賞受賞)が57年に創設された。だが、彼は単なる堅物ではない。「相対性とは何か?」と問われ、「自分の膝の上に年寄りの女を乗せていたら、一分間が一時間のような気がするが、乗せているのが若い美人だったら、一時間が一分間みたいに思えるだろう」とジョークで返答している。親しかった科学者アブラハム・パイスはこう言った。「他の偉大な男たちとは全く違い、子供が子供の侭で生きていた。遊びに夢中になる子供の心が最後まで消えずに残っていた」