2020.07.10  私が出会った忘れ得ぬ人々(24)
        下保昭さん――冒険あるのみですよ
                  
横田 喬 (ジャーナリスト)

 一昨年に肺癌のため九十一歳で亡くなり、この八月七日が三回忌に当たる。水墨を主とする日本画家だが、言行一致の稀に見る潔い人だった。「画壇の腐敗」を糾弾して日展を飛び出し、独立。ヘリコプターを駆使して普賢岳噴火口の危険なスケッチに挑んだり、揚子江への波乱含みの船旅を試みたり。口癖の「冒険あるのみ」を地で行く画家人生を貫いた。

 私が下保さんを取材したのは今から三十一年前の一九八九(平成元)年のことだ。彼が四十年近く所属した日展を飛び出した翌年に当たる。三十五歳で審査員、四十三歳で評議員と、異例のスピードで地歩を築き、「次は芸術院会員」と声がかかった矢先である。翻意を促す先輩画家たちの再三の説得も、固い決意は変えられなかった。

 ――芸術院会員になる話が元。何十人もの偉い人の所を回って運動し、土下座してお願いしろ。これぞという大物には大枚の金を包め、とまで言う。そんな下らんことはやれん。会員になったからって、絵が上手くなる訳でなし。画壇なんて自民党と一緒。腐り切ってしもうてリクルート(注:八八年に発覚した政財界がらみの汚職事件を指す)並みですよ。

 痛烈だが、高ぶったり、衒ったりせず、嫌味がない。反骨は生得のものだ。締め付けられるのが何より嫌いで、旧制砺波中(富山県)に通った戦時中は、軍事教練を徹底的にサボった。それが祟って、学科や実技の成績はいいのに、志望する京都の絵画専門学校に入学できない羽目に。戦後の混乱で「日本画滅亡論」が囁かれる中、京都で画家人生をスタートする。

 画塾に一応身は置くが、月に一回の研究会に出席するだけで、戦火に疲弊した都市の貧民街を転々。親元からの仕送りは絵の具代と酒代で放埓に使い尽くす。二十三歳の時の五〇(昭和二十五)年、日展に『港が見える』を出品し、初入選。以後、『求職』『旧オランダ商館』『港』『河岸』が連続入選。四年後の日展で、『裏街』が待望の特選(白寿賞)となり、それから三年後に『火口原』で再び日展特選。生一本の性格で鼻っ柱が強く、権威を恐れない。画塾に通い出した二十代の頃、画壇の大立者・中村岳陵と派手にやり合い、名を上げた。

 ――私が日展に出した「失業者」という題の絵を「プロレタリア的な画題だから変えろ」と言う。私は「何だろうと、放っといてくれ」とやったから、さあ大変。でも、この一件で岳陵さんとは逆に仲良くなり、年に一回東京で会うと、向こうから抱き着いて来る程だった。

 下保(敬称略)は富山県の西部、散居村の景観とチューリップ球根栽培で知られる砺波市の旧地主の家に生まれた。祖父も、父も、自分の信念を通す人で、特に祖父は美術の方面に嗜みがあった。そんな影響もあって、小学生の頃から自然に絵筆を握った。「大きな自然に惹かれ、冬の寒い時分の空の色とか、光みたいなものとかを、よく描いたようです。」

 自然のエネルギーや風景に惹かれるのは、長じてからも同じ。冬が長くて色彩感に乏しい富山で育ったせいか、墨絵やモノクロが基調の岩絵の具の絵を好んで描く。黒々とした山影、草木の妖しいざわめき、台風の時の不気味な空の色が印象的な七六年日展出品画「颱」。自然のエネルギーが一種の妖気となって感銘を呼ぶ。「墨は一発勝負だから好きだ。一本の描線に生命のリズムが直に出るところがたまらない。」と彼は言う。

 八一年には、『近江八景・下保昭展』を催す。近江八景とは滋賀県・琵琶湖畔の美しい眺めを代表する八つの景勝地を指す。古くは和歌に詠まれる名勝(歌枕)で、近世では葛飾
北斎や安藤広重の浮世絵版画が名高い。近代には今村紫紅の意欲的な出世作が知られる。下保は舟を出し、ヘリコプターを駆使し、名勝をスケッチ。独自の境地を示す彩色画・水墨画で彼流の「近江八景」「琵琶湖十景」を制作。「近江八景」の連作は日本芸術大賞を受ける。この画業は、後年の「中国シリーズ」「日本の山水シリーズ」を準備する礎となった。

 五十代に入って、下保は中国の自然の景観に惹かれ、十年ほど毎年のように現地に渡っている。揚子江の波が描きたい一心で、重慶から武漢へ船旅をした時のこと。雄大な眺めの渓谷を夜中に通り過ぎたのに気づき、通訳を介して船長と強談判、一般客も乗った船を引き返させる荒業も演じた。
 ――おかげで、朝もやの渓谷の景観を百枚もスケッチできた。お返しにその晩、船の乗客・乗員二百何十人かに残らず酒を振る舞ってね。僕が黒田節を唸り、持参したブランデーのボトル半分を一気にあおったら、やんやの大喝采。日本の李白だなんて、おだてられました。

 八五年、「水墨桂林」「水墨黄山」の連作で芸術選奨文部大臣賞を受ける。
 京都に居ても、酒が入れば気分は高揚する。時には郷里の砺波地方が無性に恋しくなり、真夜中だろうが自家用車のハンドルを自ら握って走り出したくなる衝動を覚える。交差点が赤信号だろうが突っ走りかねない勢いだから、家族は心配でならない。運転させないよう免許証をどこかに隠されてしまった、という打ち明け話も楽し気に私に対し口にした。

 ――絵描きは冒険できなくなったら、終わり。自分のスタイルは絶えず壊していかなきゃ。
 が口ぐせ。九一(平成三)年には、長崎県普賢岳の大噴火後の火口のスケッチに出かける。ヘリを使い、マグマが躍動する最中、ぎりぎりまで接近。ヘリもろとも吸い込まれそうな危険を冒し、速写する。命がけのスケッチを基に「岩漿吐煙」など迫力ある連作を生む。
 「冒険あるのみ」の口ぐせそのまま、古希を迎えた九七年にも、ヘリを使う。郷里・富山県の黒部川上流や立山・剣岳などを上空から取材し、「黒部幻瀑」などの傑作を生む。墨の滲みなどが生み出す陰影を生かし、静謐でいて気迫のこもる深遠な水墨世界を現出する。
 
 九九(平成十一)年、富山市内に富山県水墨美術館が設立され、「下保昭作品室」が常設される。彼の作品百点が同県に寄贈されたのを契機に同美術館設立が決まった経緯があり、他に富岡鉄斎や横山大観・竹内栖鳳など近代の美術作家約三十人の作品も収蔵する。
 対面は一度きりだったが、下保さんは忘れ難い記憶を私の胸に刻んだ。「天衣無縫」そのままの懐かしいお人柄であり、機会があれば、ぜひ一献酌み交わしたい相手だった。
2020.07.09 コロナとテレビニュース 

       20%越え リモートドラマも登場

隅井孝雄 (ジャーナリスト、京都在住)

 コロナロックダウンで、多くの国で人々は自宅にこもり情報を求めた。そのためテレビ報道は視聴率が上がったが、テレビスタッフ自体がコロナに感染する事例が出たため、番組編成、演出手法にも大きく変化した。

テレビが実践するソーシャルディスタンス
 3月25日、東京都内の新規感染者がハネ上がり「感染爆発の危険」が指摘されたあと、真っ先にスタジオでソーシャルディスタンスを実践して見せたのは「真相バンキシャ」だった(3/29,日本テレビ)。そして報道番組はもとより視聴者参加番組、芸人大量参加バラエティなど多くの番組に多大な影響をもたらした。
コロナとTV(1)
広いセットにゲストのパネル、立て看板のように林立。視聴率は20.9%を記録。サンデーモーニング5/31より

 例えばTBS「サンデーモーニング」では、広いスタジオ、長いテーブルに司会の関口宏以外のほとんどは自宅からのリモート出演となり立看板が並んだような画面となった。ほとんどのニュース番組で司会のアナと出演者の間隔が2メートル以上となり、中には透明なアクリル板の衝立で仕切られた番組もあった。TBS「News23」はメインキャスターの小川彩佳自体が自宅からのリモート出演となった。妊娠中初期であることが理由だった

 バラエティでもタレントが大勢ひな壇に並ぶことはなくなった。多くのドラマはスタジオ収録もロケが出来なくなり、NHKの大河ドラマ「麒麟がくる」は6月7日放送のあと「戦国大河ドラマ名場面集」など再編集番組でしのぐことになった。NHKは6月30日スタジオ収録を再開する、と発表し「22回以降の放送を楽しみにしてほしい」とのべている。

テレビスタッフもコロナ感染直撃受ける
 コロナ感染はテレビ局自体も直撃した。毎日放送で、感染が確認されて入院中の制作担当取締役の60歳男性の死亡が4月7日確認されたのに続き、4月12日にはテレビ朝日が「報道ステーション」富川悠太キャスターの感染と番組のチーフプロデユーサーら複数スタッフの感染を明らかにした。テレビ朝日では、その後打ち合わせはすべてテレビ会議に切り替え、出演者とスタッフは接触することなく放送にのぞんでいる。
 富川キャスターの相方である徳永有美キャスターは、2週間の自宅待機の後、リモート出演で復帰、また富川キャスターは6月4日の放送から「報道ステーション」に復帰した。

新趣向リモートドラマ
コロナとテレビニュース
リーモートドラマに力入れるNHK、5/30,6/6放送の坂本裕二脚本「リビング」は水準の高いドラマだった。

 リモート出演は時に映像の乱れ、音声の途切れなどトラブルが多発したが、放送を重ねることで画質、音声など質が向上した。そしてドラマをリモート画面で制作する「リモートドラマ」、あるいは「ソーシャルディスタンスドラマ」を名乗る新しい手法が生まれた。
「今だから新作ドラマを作ってみました」(NHK5/4,5/5,5/8)「Living」(NHK5/30,6/6)、「世界は3で出来ている」(フジテレビ6/11)などだ。「宇宙同窓会」(日テレ系ネット6/6,7)。いずれの作品もリモートで作ることを前提にしたシナリオもとにしている。例えばNHKの「今だから・・・・」の第一話は海外で挙式の思いがなわなかった遠距離夫婦とその友人らが、互いにパソコンの会議システムにつながりストーリーが展開、出演者は全員自宅にいて自撮り出演する。また第二話は熟年夫婦の妻が死後の世界から地上の夫とリモートで会話する。第三話では出演俳優のキャラクターが入れ替わるという設定だった。「世界は・・・」は一卵性三つ子の役を林遣都が一人3役で熱演、脚本は「スカーレット」の水橋美江。「宇宙同窓会」は中止になったため急遽オンラインで開かれることになった元天文部の男女5人のリモート同窓会を描く。日テレ系のライブスマホアプリ(LIVEPARK)で無料配信された。

テレビ報道、番組の視聴率上がる
 緊急事態宣言は7都府県では4月7日から発令され、4月16日は全国に拡大された。多くの人々は外出せず、自宅にこもった。
 テレビの出番だ。ニュース、報道番組で人々はコロナをめぐる状況を熱心に探る。2月下旬以降NHKニュース7は21.3%、報道ステーションは20.0%と20%を超えるようになったが、これは序の口。各地で外出自粛要請が出されとことと志村けんさんの死亡(3/29)のニュースが重なった3月下旬~4月下旬には多くの報道番組が20%台を経験した。 
 7都道府県に緊急事態宣言が出た4/7日のNHKニュース7は26.8%を記録した。エンタメ番組、バラエティ、ドラマなども、画質が悪かろうが、演出に不具合があろうが、再放送物が多かろうが、視聴率は普段より高く出たことは言うまでもない。中でも人気を集めたのは「テレビ小説エール」(NHK)、「わらってこらえてSP」(よみうりTV)、「ぽつんと一軒家」(ABC)などであった

アメリカの3大ネット、視聴者倍増
 こうした傾向は海外のテレビ報道でも同じだった。「ニューズウイーク」誌(6,23)の報道によれば昨年同期と比べて、ABCニュース48%増、NBCにユース37%増、CBSニュース24%であった。興味深いことには一連のコロナ報道に対し、民主党支持者の75%、共和党支持者の61%が、客観的でわかりやすいと評価していることだ。共和党支持者はABC, NBC,CBSなどのネットワークニュースを毛嫌いして、トランプ支持のFoxニュースだけを信頼する傾向があったが、三大ネットワークの、客観的、多面的なコロナ報道を認めざるをえなかったといえるだろう。
 日本では視聴率が高いNHKニュース7、NHKニュースウオッチ9には、安部内閣の初動のもたつき、突然発表された休校措置、PCR検査の足りなさにたいし判的報道を一切しない、という報道姿勢に不満が集中した。その一方政府のコロナ対策に鋭い批判を浴びせた、「羽鳥慎一モーニングショー」(テレ朝)、「ニュース23」(TBS)、「報道1930」(BSTBS)などに「よく報道してくれた」との称賛の声が集中した。

新しい制作手法開発
 緊急事態の解除後、6月に入ってテレビも徐々に従来の姿を取り戻しつつある。番組によって差はあるが、スタジオに出演者が少しずつ戻ってきたし、ドラマのロケも、スタジオ収録も感染を避けながら再開され始めた。しか依然としてリモートでゲスト出演に頼っている番組も多い。
 2月以降5月にかけて、テレビ局では、リモート出演の簡便さに慣れ親しんで、すっかり定着したというべきだろう。リモートドラマという新しいジャンルが開発され、視聴者から好感を持って迎え入れられた。
 報道番組ではコロナ取材に困難は伴うのを乗り越え、取材、制作スタッフの感染を避けるノウハウも確立した感がある。新型コロナの政府の政策の批判しながら、刻々変化する状況をあらゆる角度からとらえ、視聴者に伝える番組も多かった。ニュース報道に対する信頼感も広がったといえる。

テレビ公共CM激増
 テレビ広告では自動車、電化商品など耐久消費財関連のCMが減り、またイベント、映画、演劇、コンサートなどが消えた。その穴埋めにACジャパンの公共CMが3月から5月にかけて大幅に増えた。「手を洗ってくれてありがとう、家にいてくれてありがとう。あなたのコロナ対策がみんなを救う」など直接コロナ対策を訴える15秒CMなどだ。一日当たり100回放送されるという記録を作った。
 一般商品のCMで目立ったのは、健康飲料「ポカリ」だった。汐谷夕希ら多数の中高生が自撮り画面でCMソングを歌いつなぐ。まさにコロナ禍の真っただ中でのCM表現だった。

新たな歩みを期待
 2次感染の予測が絶えない中で7月を迎える。テレビは市民視聴者の新しい信頼を獲得しつつある。重要なメディアとしての新たな再生の歩みをどのように切り開くのか、見守りたい。
2020.07.08  小池百合子都知事の再選
          ―機会主義者との対決が選択肢―

半澤健市 (元金融機関勤務)

 20年7月5日に都知事選が終わった。午後8時の開票開始に当確が出た。
小池50%、宇都宮・山本合計で40%なら1割の変動で接戦になると予想していたが大甘であった。実際は小池60%(366万票)、宇都宮と山本計で24%に終わり小池圧勝である。

《小池の勝因はなにか》
 一つは、小池本人の選挙用「長所」である。
強烈な権力志向。男性操縦術。テレビ取扱術の熟知。
高い演技力。状況適応力。対立軸の隠蔽。日和見力。ファッション。
哲学・思想・信条を発信しない。基本理念は新自由主義+日本会議的偏狭。
一言でいえば「高性能な機会主義者」の強みである。

二つは、プラス要因としてのコロナ危機である。
安倍政権の状況掌握と鈍い反応に比べ上記の特長を駆使した演技が優越した。
例えば「東京アラート」赤色橋の提示である。電通的宣伝以外の何者でもない。しかし
これが受けたのである。

三つは、野党とメディアと有権者の壊滅である。
「日本共産党」と「れいわ新選組」が僅かに野党的。でもその内容は「真面目に資本主義を実行せよ」というもので、微温的な社民的政策である。米民主党左派よりも温和である。
メディアは政党の哲学を示さない。専ら政治家幹部の離合集散と平板な政策の陳列に終始している。私はこれを学芸会報道と呼んでいる。弁士が原稿を読むだけで討論がない。
有権者は75年間の「戦後民主主義」体験によって、自らの日常行動・投票行動が政治を動かす(山本太郎演説の核心)という実感を失った。欧米、香港、韓国のリベラルに劣ること数段である。

《見通しは如何》
 2021年年初の日米首脳は現在と異なる人物であろう。
それまでの間、小池はコロナ退治と五輪成功を目指すが、客観情勢は逆風だ。
特にコロナは「大恐慌」以来の打撃を世界資本主義に与えるだろうからである。
とはいえ、彼女は様々な仕掛けを駆使して都政から国政への道を上ろうとしよう。

我々の力は小さい。しかしグローバルな金融資本主義への対峙以外に選択肢は存在しないと私は考えている。(20/07/06)



          都知事選結果を見て
          このままでは前途がない野党勢力

岩垂 弘 (ジャーナリスト)

「小池勝利」は予想されていたことだから、とくに感慨はない。だが、野党勢力について言えば、敗北するにしても、もう少し健闘するのではないかと私は思っていた。
なぜなら、小池候補はこの4年間の都政にこれといった業績を残していない上に、選挙直前に、その経歴に疑問を呈する本が刊行されたからである。さらに、このところ、安倍政権への支持率が下降しつつあることに象徴されるように、小池候補が属する保守陣営に対する有権者の信頼がゆらぎ、その分、リベラル・左翼を中心とする野党勢力への期待が増すのでは、などと考えていたからだ。が、野党勢力は予想以上の惨敗ぶりであった。

なぜ、惨敗したのか。それについては、すでに論評され尽くされているから、ここで繰り返すのは野暮というものだろう。でも、すでに言い尽くされたことを、この際、あえて一言いっておきたい気持ちを抑えることができない。
政治の世界では、野党が与党に勝つためには、これだけは忘れてはならないという必須条件が2つあると思う。一つは、野党が別々に候補を立てるのではなく、統一候補を立てるということだ。「敵」が候補を一本化して迫ってくるというのに、野党の側がバラバラでは勝てっこない。こんなことは、いわば常識である。もう一つは、選挙戦を開始するのは早ければ早いほどいい、ということだ。これもまた常識だ。

しかし、今回の都知事選では、こうした常識が顧みられなかった。野党勢力が小池都政に代わる都知事を誕生させたいという意欲があったら、4年前の都知事選の直後から、次期都知事選に向けての準備をスタートさせるべきであった。具体的には、その時点で野党統一候補を決め、それを支える地盤固めと有権者への働きかけに全力を傾けるべきであったが、そんな気配はついにみられなかった。
結局、今回の知事選では、公示直前に統一候補の擁立に失敗し、都知事選に臨む野党陣営の陣立ては、立憲民主・共産・社民、国民民主、れいわ新選組という3頭立てになった。これでは、勝てっこなかった。こうなってしまったのには、野党第1党の立憲民主党の執行部の責任が大きい、と思えてならない。

私が強調したいのは。こうした野党陣営の「常識違反」が今回の都知事選に留まらないということだ。いや、終戦から75年間、野党陣営はずっとこうした「常識違反」を国政で繰り返して来たように思う。こうした状況から脱しない限り、おそらく野党陣営は政権を
取れないだろう。
 総選挙が近い。そこでは、こうした「常識違反」を繰り返さないで、と望む有権者が少なくないはずだ。
2020.07.07 我孫子から沖縄へ
 韓国通信NO643
       
小原 紘(個人新聞「韓国通信」発行人)

我孫子市議会の意見書提出が沖縄タイムスで紹介された。
韓国通信643写真

 今回の請願には新基地建設反対はもちろん、①多くの人が参加できる運動として ②署名をとおして沖縄県民の気持ちに寄り添いたいという思いがあった。
 請願の署名には日米安保条約賛成の人、基地賛成の人もいた。この請願でなければ署名しなかった人たちだ。だから市議会では保守系の議員を含めて多数が賛成した。市議会の賛成75%は沖縄県民の辺野古反対の7割に匹敵する。

 6月23日の沖縄慰霊の日、式典に招待されなかった安倍首相はビデオメッセ―ジで、「永きにわたる米軍基地の集中による大きな負担は到底是認できない。『できることはすべて行う』との方針のもと、沖縄の基地負担軽減に全力を尽くしたい」と述べた。
 なんと空々しい言葉か。言うこととやってることがまるで違う、テレビの前で唖然とした。怒りをとおりこして無性に悲しかった。
 首相の「真摯に受け止めたい」は常套句だが、請願署名のタイトルにも「真摯」という言葉が使われている。真摯な話し合いには、対等性と相手に対する敬意がなければならないと請願者代表は委員会で陳述した。沖縄を応援する市民たちが地元自治体を動かし「何が何でも辺野古」という政府に再考を促す運動は始まったばかり。巨額な税金の無駄遣い、十数年かけても役に立つかわからない辺野古基地への疑問の声は日増しに高まっている。
2020.07.06 遠ざかった夢、左翼衰弱の理由
       ――八ヶ岳山麓から(316)―― 

阿部治平 (もと高校教師)

いま日本の学生の多くは、自分のことに精一杯のためか、韓国や台湾の学生に比べて社会の動きに関心がうすいように思う。だが、第二次大戦敗戦後からおよそ30年間は、学生たちは政治の反動と軍国主義化に反対して活発に発言し行動した。
平田勝著『未完の時代―1960年代の記録』(花伝社2020・04)は東京大学を中心とした、60年代学生運動を指導した者の記録である。私たちが死力を尽くした60年安保闘争後の学生運動はどうなったのか強い関心があったので、私はこの本を一気に読んだ。

著者平田氏は1941年岐阜県御嵩町に生まれた。父は小学校教師。1年東京で浪人生活を送り、61年4月東京大学教養学部に入学、9月に共産党に入党した。当時駒場細胞(支部)はわずか10人に過ぎなかった。
平田氏は学問への強い思いをもちながらも、共産党の指示に従い学生運動に挺身した。65年ようやく本郷文学部中国哲学科に進学したが、本郷でも自治会議長にえらばれ、さらに代々木系(共産党系)全学連委員長になった。
全学連委員長時代は、ベトナム反戦、日韓条約反対運動など非常な盛上りがあった。当時は、「三派全学連がマスコミでは大きく報道され、彼らが学生運動の中心であるかのように報道されていたが、実際には『代々木系』といわれていた我々が全国学生自治会の7割を占め、大学を基盤とする地道な活動を展開していた」と自負している。三派全学連とは反代々木系(反共産党系)の新左翼政治党派がつくった学生組織だ。

彼が支持基盤とした民青(日本民主青年同盟、共産党の青年組織)は、60年代初めは微々たるものだったが、67,8年には東大同盟員は駒場・本郷合わせて1000人超、他でも1000人規模の大学が6,7校に達し、全国では20万に拡大した。これは彼らの努力が実ったものだが、多くの大学で新左翼政治党派間の暴力と流血に反発が広がったからでもあろう。
67年7月、18回全学連大会を最後に委員長を辞任し、教室に戻るとともに新日本出版社に入り、半学半労の生活をはじめた。ところが1968年医学部ストライキが始まり、ゲバルトが学内を席巻して安田講堂占拠に至った。平田氏は共産党中央とともに水面下で東大闘争の指導に当った。とくに文学部ストライキ収拾のために奔走した経緯は敬服に値する。
入学から8年目の69年6月教授と後輩の援助によって単位を修得し、卒業証書を手にした。郷里の父上はこれを喜んで額に入れて飾ったという。85年出版社「花伝社」を設立したとき共産党から離党した。現在花伝社代表取締役。

本書を60年代学生運動論だという人がいるが、私には「論」が読み取れない。彼が代々木系全学連を背負った時期、国内外に重大事件が幾度もあった。そのつど議論が起こり平田氏も発言したはずだ。その記録が本書にはないからである。
ところが本書第5章に40数ページにわたる1972年の「新日和見主義事件」に関する記述がある。私は一読して、これこそ彼の日本共産党論であり、最も語りたかったことだと思った。

「新日和見主義事件」は1972年に起きた共産党内の粛清事件である。この呼びかたは共産党中央のもので、粛清されたものが自らこう名乗ったわけではない。
60年代後半から共産党は、議会を通して改革・革命を達成しようとする「人民的議会主義」を提唱するようになった。ところが中央・地方の党員の中に、これでは選挙と「赤旗」拡大などに追われ、大衆運動が軽視される恐れがあるという批判や疑問が生まれた。関係者何人かの回顧録によると、とりわけ民青幹部にはこの傾向が強かった模様である。
71年12月に共産党中央委員会は、同盟員の年齢制限を28歳から25歳に下げ、幹部の年齢を30歳までとする規約改定を決定した。民青幹部の人事を党中央寄りに刷新するためであったと思われる。ところがこれに対して民青内部に反発が広がり、72年5月7日の民青全国党員会議では、党中央の年齢制限の方針は通らなかった。
世間では異論や反対論があるのは普通のことだが、共産党中央は民青が党の方針を拒否したことで異常に緊張し、強力な分派が存在するものと判断した。共産党では分派は「大罪」である。査問がただちに開始された。機関紙「赤旗」は新日和見主義批判のキャンペーンを張った。

ところが平田氏は「党中央がなにをもって新日和見主義というかは極めてあいまいだった」そして「当初、共産党は事件を過大に描いていた。外国の勢力(北朝鮮)……と組んだ強大な反党分派が存在するという前提で査問を開始した」という。
査問の対象は、民青幹部、共産党系の出版社、通信社、知識人あわせて600人に及んだ。
この結果、民青中央委員の川上徹(故人)を中心とする、党中央に疑義や反対意見を持つものによる「こころ派」という分派があることがわかった。ただ査問をした人物の発言からすれば、「派」というには確たる政治綱領もまとまりもない「星雲状態」の集団であった。

最終的に党員約100人が党員権停止などの処分をうけ、この多くが民青・党の役職から放り出された。これに対して平田氏は「こころ派に加わっていた者を除き、地方の民青幹部や各種大衆組織、通信社や出版社の査問を受けた者は、ほぼ100%冤罪だと断定できる」と判断している。
査問なるものは尋常な取調べではなかった。平田氏によれば、病気療養中のものを含めて、これぞという者何人かをいきなり連行し、……容疑者に対しては頭から分派と決めつけ、1~2週間も拘束して連日長時間の取調べを行った。家族にも連絡させず、自殺予防のために付添をつけ、寝るときはもちろんトイレにも一人で行かせなかった。
平田氏はさいわい査問されなかったが、今日警察でもこんな人権無視のやり方はできない、「このような査問が、治安維持法の時代ではなく、日本国憲法下で行われたのだ」と憤慨している。
その2年と3年ののち共産党は、新日和見主義分子摘発に活躍した大阪と愛知の民青委員長が警察のスパイだったという事実を公表した。平田氏は「党中央はスパイと一緒になって、新日和見主義一派を民青からたたき出したという構図になった」という。

さて、平田氏は事件の左翼運動に対する影響についてこう評価している。
「1960年代に盛り上がった学生運動は、1972年に起こった新日和見主義事件で頓挫する。……(西欧左翼と比較したとき)その後の強力な民主主義運動を生み出すことにも直接つながらず、政党の刷新や新党の結成など新しい政治潮流を生み出すこともできなかった」
「この事件は、その後の民主運動はもちろん、党の勢いにも影響を及ぼすのではないかと当時から私は思っていた。民主運動、革命運動にとっての世代断絶を引き起こしたのだ。事態はその時憂慮していた通りに推移している」
優秀な青年が左翼陣営の一員として生きることを許されなかったのである。私もこれはイタリア共産党などとは大きな違いだったと思う。
共産党は70年代のいくつかの選挙で勝利した。だが長続きしなかった。民青は衰弱の一途をたどり、かつての20万人から2017年には9500人まで減少した。いま共産党のおもな活動家は70歳代だ。20、30歳代の党員はおそらく数%であろう。

平田氏は、「(公式の党史の)『日本共産党の八十年』から新日和見主義事件に関する記述はすべて消された。共産党はこの事件が『風化』することを待っているのだろうか」と強い不満を明らかにしている。私も共産党は、公党として党史から新日和見主義事件を削除した理由を明らかにすべきであると考える。それは左翼運動に対する義務である。


2020.07.05  「本日休載」

今日7月5日(日)は休載します。

リベラル21編集委員会

2020.07.04  今こそ脱米入亜へ
          韓国通信NO642

小原 紘(個人新聞「韓国通信」発行人)

 朝鮮半島の雲行きがあやしい。南北間の和解友好ムードが一変、3年前に逆戻りした感さえある。米朝交渉の行き詰まりが影を落としている。
 2017年、ほぼ同時期にトランプと文在寅は大統領に就任した。就任以降の朝鮮半島をめぐるアメリカ、韓国、北朝鮮の動きを追ってみた。
 トランプ大統領はオバマ前大統領とは対照的に国際協調路線からアメリカ第一主義へ急転換、外交的にもイランと北朝鮮への敵愾心をむき出しにした。CIAの金正恩暗殺計画が伝えられ、北朝鮮を「テロ支援国家」と糾弾し、もはや戦争は避けられない雰囲気だった。
 金正恩側がトランプを「老いぼれ」「狂った犬」「不倶載天の敵」「死刑に値する」と叫べば、トランプ側は「チビのロケットマン」「狂った男」と、子どもの喧嘩のような個人攻撃を浴びせたのは記憶に新しい。
 核攻撃の「準備はできた」と公言したトランプが突如2018年6月シンガポールで金正恩と会談を行い、世界を驚かせた。
 首脳会談で米朝の国交正常化、朝鮮半島の完全な非核化を目指す共同声明が発表された。
今こそ脱米入亜へ
 <写真/史上初の米朝首脳会談>

 歴史的な米朝会談の実現に大きく寄与したのは他でもない韓国の文在寅大統領だった。注目された2018平昌冬季オリンピックへ北の選手団が参加し、南北関係改善への期待が膨らんだ。
 オリンピックの余韻も冷めない4月27日、文在寅大統領は就任後初めて南北首脳会談に臨んだ。その模様は日本でも生中継され、韓国へ足を踏み入れた金正恩が文在寅を北に招じ入れた感動的な場面を憶えている人も多い。文在寅、金正恩両首脳は「板門店宣言」を発表。朝鮮戦争の終戦と平和協定の締結と朝鮮半島の非核化を約束した。さらに軍事境界線での敵対行為の中止、非武装地帯(DMZ)を「平和地帯」とすることが盛り込まれた。歴史を後戻りさせない、戦争の危機を回避、平和を誓いあった南北新時代の幕開けにふさわしいものだった。
 翌5月に再び板門店で南北首脳会談が開かれ、翌6月に上記米朝会談が開かれた。9月には文在寅が平壌を訪問。約半年の間に3回の首脳会談が開かれたのは前代未聞、南北の経済交流計画の青写真も示された。
 一方、米朝首脳会談は2019年2月にベトナムのハノイ、次いで同年9月に板門店で行われたが、トランプ大統領は満面の笑みで「良き友」金正恩を称えるばかりだった。
 二つの首脳会談を振り返ったが、その後は確たる進展がないまま足踏み状態が続いた。

<進展しない米朝と南北関係>
今こそ脱米入亜へ
 最近、北側の強行姿勢に注目が集まっている。脱北者団体が北側批判の大量のビラを北に向けて飛ばしたのが発端となった。 「板門店宣言」違反を問われると韓国政府は謝罪したが、北側は納得せず、開城工業団地内の南北共同連絡事務所を爆破し、軍事行動も辞さないという強硬姿勢だ。<写真上>。現在のところ軍事行動は「留保」されているが、雪解けムードが凍りついた感は否めない。
 韓国の右翼勢力は文在寅政権を親北(アカ)政権と断じたうえで、北から裏切られたと手を叩いて喜ぶ。星条旗と韓国の国旗(太極旗)を掲げる親米右翼は、南北の関係改善より対決を望む勢力だ。
 日本にもやや似た傾向が見られる。
 普段、韓国と北朝鮮の関係改善に関心のない日本のマスコミは、関係悪化となると大騒ぎ。文在寅政権が苦境に立たされると報道にボルテージが上がり、金正恩の妹、金与正(キム・ヨジョン)については芸能ニュース並みの低レベルの報道が溢れる。朝鮮半島に対する日本人の屈折した心理について誰か説得力のある説明ができる人はいないのか。
 風船によるビラ飛ばしが南北関係悪化の原因といわれるが、北朝鮮の苛立ちの背景には米朝関係の成果が現れず、経済制裁が続くことへの不満がある。それが兄弟国である韓国に向けられた。「八つ当たり」みたいに見えるが、南北分断70年、和解と統一には、山あり谷あり、紆余曲折が予想される。朝鮮半島の和解と平和を望む日本人としてどう向い合うかが問われる。

<不真面目だったトランプ大統領>
 非核化交渉と国交正常化が進まないのは何故か。
 経済力と軍事力では比較にならない超大国と小国が対等な交渉が出来るはずはない。北朝鮮がアメリカと話し合う力の源を「核」に求めるのは当然かも知れない。しかしこの理屈に固執する限り、解決の道は開けないと筆者は考えてきた。
 小国は武力では超大国に勝てない。北が核兵器を完全に廃棄することは敗北を意味するのだろうか。核の抑止力に依存する日本の一市民が言うことなので説得力がないのは覚悟の上だが、北朝鮮は平和国家を宣言、核を廃棄、さらに進めて「核兵器禁止条約」に加盟してほしい。非核化を誓った韓国は当然同調する。核の「抑止力」を否定して核の全面廃棄に踏み出すなら想像を絶する衝撃を全世界に与える筈だ。非核化を念仏のように主張する「唯一の戦争被爆国」日本の立場はどうなるのか。世界の非核保有国は喝采を送り、核保有諸国は世界に恥を晒すに違いない。世界は平和国家を決して見殺しにはしない。
 米朝交渉が進展しないのは、核保有にこだわる北朝鮮にも責任の一端がある。しかしアメリカの責任はもっと重い。アメリカ政府内の意見がまとまらない、米朝関係改善の意欲が感じられない。
 更迭された大統領補佐官ジョン・ボルトンの回顧録が出版され、側近が見たトランプの事情が明らかになった。アメリカンファーストで突き進んできたトランプが突如として「チビのロケットマン」と罵った相手と嬉々として会談した理由。ボルトンの指摘は想像した通りだった。トランプ大統領は世界中を敵にまわしてやりたい放題、異論をはさむ側近をクビにする典型的な自己中心主義者だ。 軍事力を背景に金儲けするのが大統領の仕事と思い込んでいる奇人。批判には一切聞く耳を持たない「新型独裁者」でもある。
 北朝鮮を一瞬のうちに吹き飛ばすと豪語したトランプが突然米朝会談に合意したのは、世界から注目されたい、「ならずもの」国家に手を差し伸べ、トランプの寛容さをアピールすることだった。    
 緊張緩和がアメリカの軍需ビジネスには致命的と考えたボルトンを始めとする戦争屋は、後先を考えない偽善者トランプにハラハラした。同盟国に大量の兵器を買わせ、米軍駐留費の大幅な増額を求めるのはアジアの緊張緩和と明らかに矛盾する。冷静なボルトンはそれを見逃さなかった。
 ボルトンが米朝会議には終始消極的だったのは回顧録を読むまでもなく明らかだった。そして意見対立がもとで政権から去った。トランプにとって邪魔なボルトンがいなくなれば米朝交渉が前進しても良さそうだが、トランプにとって米朝交渉はもはや賞味期限切れ。大統領選挙に忙しくて金正恩に構ってはいられない。トランプにはもともと分断国家の悲劇は眼中になかった。

<さよならトランプ>
 何てことはない。北朝鮮と韓国はトランプの気まぐれにつき合わされたことになる。
 北朝鮮の核問題を協議する日・米・中・ロ・南韓・北韓による六か国協議は2008年以来中断したまま、日本は北朝鮮との公式協議の場を持たない唯一の国だ。アメリカの顔色を窺い、拉致問題以外に関心を示さない日本は6者会議の「お荷物」だった。非核化、南北の対立緩和への努力、戦後補償と国交正常化について努力をした形跡はない。
 安倍首相がトランプの「お友だち」でいられるのもあとわずか。ゴルフと金で結ばれた二国間関係も終わりに近づいた。国際社会を引っ掻きまわした「トランプアァースト」によってアメリカの威信と信頼は深く傷ついた。私たち日本人も、そろそろ、アメリカ依存の生活習慣、思考回路から脱皮すべきではないか。

<アジアのことはアジアで>
 朝鮮半島の分断にアメリカがかかわったのは事実だが、何故アメリカが統一問題にまで決定権を持つのか不思議だ。そろそろ当事者による自主的話し合いにまかせたらいい。トランプ大統領の「フザケタ」米朝会談を見ればその感は強くなるばかりだ。
 アジアにおける存在感の薄れた日本は、トランプ頼りから脱して、「平壌宣言2002」の続きを誠実に履行して朝鮮半島の平和に寄与したらどうだろう。小泉首相に随行して平壌宣言に関わった安倍晋三にその資格は十分にある。相手にされない可能性はあるが、首相としてやり残した大切な仕事に変りはない。退陣前の花道は憲法改悪などではない。北朝鮮を敵視し続けたために解決のメドが立たない拉致問題解決の道筋をつける仕事が残されている。

特別定額給付金が振り込まれた !   100,000円
 何故もらったのか、正確に説明出来る人がいるだろうか。調べてみたが総務省の説明は悪文のお手本みたいなもの。「外出を自粛して、見えざる敵と闘い、国難を克服するための家計への支援」だそうだが、「医療従事者に感謝して」というくだりが、意味不明でわかり難い。政府の混乱ぶりがわかる。何故、10万円なのか、何故一回限りなのかもわからない。政権は10万円で内閣支持率が上がると踏んだようだが、支持率が上がらないので買収作戦は見事失敗。バタバタ決まった特別給付金。心のこもらないバラマキで政府への不信は募るばかり。国難を克服するために外出や商売の自粛を求めるなら、もっときめ細かい補償が必要だ。銀行に振り込まれた金は自動振替の決済資金に使われた。
2020.07.03  私の「コロナ自粛」報告(2)
          ―森本薫「女の一生」初稿版の衝撃―

半澤健市 (元金融機関勤務)

 「女の一生」の初稿版の台本と公演録画を見る機会があった。
その経験は私の「女の一生」観に大きな見直しを迫った。

「女の一生」とはなにか。その概要を事典はこう書いている。
■森本薫(もりもとかおる)の戯曲。5幕7場。1945(昭和20)年4月文学座により初演。明治から大正,昭和にわたる「布引(ぬのびき)けい」の半生の歩みを,日本の敗戦までの激動の歴史のうちにとらえる。日露戦争の旅順陥落にわきかえる新年に,一代で産をなした富裕な貿易商「堤(つつみ)」家の屋敷に迷いこんだ孤児の少女けいが,女中に入りやがて求められて長男と結婚,女実業家として一家の支柱となり献身する。〈誰が選んでくれたのでもない,自分で選んで歩きだした道ですもの〉というよく知られたせりふに象徴されるけいの境遇,堤家の衰運は,そのまま敗戦にひた走る近代日本の姿でもある。(平凡社世界大百科事典 第2版)■ 

《初稿版台本 堤家の屋敷・1942年1月》
 初稿版と戦後版はどこがどう違うのか。初稿版の台本を見ていく。
幕開きである。1942(昭17)年正月、舞台は堤家の座敷。
大東亜戦争緒戦の勝利に湧く提灯行列の軍歌と万歳の響きが聞こえてくる。
登場人物はけいと和子。家出した少女布引けいは05(明38)年に、堤家に女中として住み込み、09(明42)年に堤家の前当主未亡人しずに請われて温和な長男伸太郎と結婚する。けいはそのときに次男栄二へ愛情を諦めたのであった。和子は中国在住の栄二と中国人女性との間に生まれた娘3人の一人。3人はけいの誕生祝いに来日していた。けいのつぶやきは、彼女が05年新年に、この屋敷に迷い込んだ晩の回想である。

けい 今度のいくさばかりではありませんよ。私はこれ迄何度か此処に立って、今と同じやうな気持で、あゝして出てゆく人々を見送ってきました。日支事変の時、満州事変の時、世界戦争の時、日露戦争の時…何時、どの戦の時もあの人達は、あゝやつて出て行ったのです。
和子 でも、今度の戦さは今迄のどの戦さより大きいのですね。あの人達のお父様やお祖父さまが出てらした何んな戦場よりも、あの人達を待つてゐる戦場は激しく、血腥いものですわ。
けい 必ず一度は巡ってくる日だつたのですよ。昭和十六年十二月八日……今はもう去年になってしまひましたがね。明治の日清戦争からこちら、数々の戦争のすべての元に突き当る日だつたのです。私達は、もう長い間、この避けられない日の近づいてくる足音に耳をすまして来たのです。

(和子が退場してけい一人)
けい どうしたといふのだらう。あの時とそつくりだ。この部屋も、この椅子も、この机も、……何も彼も昔のまゝだ。遠い……遠い昔。もう薄れてしまつた古い絵の色のやうな数々の出来事。長い間すつかり忘れてしまってゐたのに、なんだつて今突然こんな風に思出してしまつたのだらう。明治、大正、昭和……私も随分長い間を生きて来たものだ。(軍歌)軍歌が聞える。なつかしい……明治の歌だ……万才の声、あの声にも憶えがある。丁度今日のやうにお正月の寒い夜だつた。あの時も、あんな風に、軍歌が聞え、あんな風に万才の声が聞えてゐた…… 溶暗

《戦後版台本 堤家の焼け跡・1945(昭20)年10月》
 これは戦後版の最終幕である。栄二は、中国に渡り色々な仕事をしていたが、義姉けいにも詳しいことを語らなかった。1928(昭3)年に帰国したとき、栄二は堤家から特高警察に連行される。左翼運動に従事していたのである。戦争が終わり出獄した。そして初めてこの焼け跡を訪ねたのである。けいは一人でそこの防空壕に暮らしている。

栄二 (マッチを受取って火をつける様にしゃがみ込んでけいの顔をさけながら)兄貴が亡くなったと言う事は聞いたけれど、別居のままですか。
けい ……はあ。でもどう言うものですか最後の時(42年)になって突然此の家へ訪ねて来てくれまして息を引き取る時は私の手を持ってそのままでした。
栄二 (顔を上げて)そうですか、それはよかったですね。兄貴もやっぱり貴女と仲なおりがしたかったのですよ。それが夫婦です。其の話を聞いただけで、わたしはあの死物狂いの汽車に揺られてやって来た甲斐があると思います。
けい ええ。でも私此の頃になって時々考えるんです。私の一生ってものは一体何だったんだろう。子供の時分から唯もう他人様の為に働いて他人様がああしろと言われればその様にし、今度はそれがいけないと言って、身近の人からそむいて行かれ、やっとみんなが帰って来たと思ったら、何も彼もめちゃめちゃにされてしまい、自分て言う者が一体どこにあるんだか……。
栄二 今までの日本の女の人にはそう言う生活が多すぎたのです。しかしこれからの女は又違った一生を送る様になるでしょう。
けい そうでしょうか。そうでしょうね。そうあってほしいと思います。

《上演までの一年と私の幻視》
 森本は44年6月公開の劇映画「歓呼の町」(松竹・木下恵介監督)の脚本を書いた。東京下町の建築撤去疎開を描いた愛惜すべき小品である。企画だけに終わったが、木下作品「神風特別攻撃隊」の脚本も書いた。実際に10月下旬から比島沖海戦で航空特攻が開始されている。戦局は急速に悪化していった。年表風に記せば次の通りである。

1943(昭18)年
日本軍ガダルカナルから「転進」 連合艦隊司令長官山本五十六戦死(国葬)
アッツ島日本軍「玉砕」 学徒出陣壮行式
1944(昭19)年
サイパン島陥落 東条内閣総辞職(小磯内閣へ) 比島沖海戦で神風特攻開始
B29の東京初空襲
1945(昭20)年
東京大空襲 米軍沖縄本島上陸・戦闘終了 戦艦大和米機攻撃で沈没  

「女の一生」初演は、沖縄戦の最中・大和沈没の直後、4月11日から6日間12回公演されたと記録されている。関係者の回想や証言を読んで私は、公演が日本演劇界による最後の抵抗だっと感じた。いつ死ぬか分からぬ状況下で、演者も観客も最後の知的空間の形成に命を賭けたのだと思った。

森本は初稿版で、堤けいに前述のセリフに続けてこう言わせている。
■この戦さは私達の国が興るか亡ぶかの岐れ道になるかもしれません。けれどまた、このいくさで私達が死んで、生きるための浄めの火にもなるでせう。私達の国、日本だけではありません。あなたの生まれた中国だけでもありません。私達と同じ皮膚の色をし、同じ目の色をした人達の住んでいるすべての国にとつてさうなのですよ。■

《舞台は静寂に包まれたであろう》
 この台詞を杉村春子が発したとき東横映画劇場の館内は異様な静寂に包まれたであろう。それは大日本帝国の敗北を表現していた。演劇空間は近代日本の挽歌を詠ったのである。読者はそれはお前の感傷だと問うだろう。敗北の詩が、なぜ抵抗なのかと難ずるだろう。
しかし私は幻視したのである。森本薫が記し杉村春子が発声したとき、居合わせた者たちは、近い将来生起する事態のもたらす、悲しみの深さ、先行きへの不安、敗北の恥辱、を感じた。作者は人びとの心情をよく表現してくれたと感じた。

私は、これまで初稿版を見たことがなかった。戦後版の焼け跡場面の追加は、「戦後民主主義的」言説の追加としてプラスに評価してきた。戦後の女性観客の支持もそれによるところが大きかろうと考えてきた。その気持の基本は変わらない。
しかし、初稿版のけいの台詞に大きな衝撃を受けたことも確かである。なぜそう感じたのかこれから考えていきたい。

2019年秋に初稿版の上演をしたのは、川田典茂(かわだのりしげ)という青年の率いる演劇集団「ドナルカ・パッカーン」である。「女の一生」の前にも、彼らは注目すべき作品を三本も上演している。この組織に触れる紙数がないが、彼らの問題意識は今日の世界変動に鋭く反応していると記して「コロナ自粛報告(2)」を終わる。(20/06/23・沖縄慰霊の日に
2020.07.02  私が出会った忘れ得ぬ人々(23)
          草野心平さん――みんなが庶民が僕の理想

横田 喬 (作家)

 「蛙の詩人」こと草野心平さんは、真に楽しく愉快な人だった。御齢ちょうど八十歳になる三十五年前、東京・東村山市のご自宅を訪問。その絶妙な話術に、腹を抱えて爆笑した。氏が二十代後半の昭和六(一九三一)年のこと、赤貧洗うがごとき貧乏暮らしの中、東京・麻布で屋台のヤキトリ屋を開業した当時の失敗談である。取材時の録音テープを起こし、その顛末を再現すると、

 ―― 一本一銭のヤキトリを八本食べた客が十銭玉を手渡し、「二銭はチップ、取っとけよ」
と背を向ける。尊大な態度にカッと頭に血が上り、二銭の釣りを手に客を追っかけ、「チップなんて要らん」「いいから、取っとけ」と押し問答に。あげくが取っ組み合いの大喧嘩になり、巡査が駆け付け三田署のブタ箱へ放り込まれ、一晩明かす羽目になった。――

 十分な収入に縁遠い詩人暮らしは、戦前~戦後と本当に大変だったらしい。件のヤキトリ屋開業の折も、野ざらしの古屋台の購入代五円がなかなか工面できず、同郷の経済学者・櫛田民蔵氏を拝み倒してようやく金を借り、どうにか店開きへこぎつける。

 ――客に出すイス代わりの木箱を親しい仲の高村光太郎さん(彫刻家・詩人)の家へ自転車でもらいに行った。その木箱を積み込んだ帰り道、これで一件落着と気が晴れ晴れし、前を行く他の自転車を追い越したくなった。追い抜きに熱中し、九十九人まで抜いたところで勢い余り、下り坂の角の交番を目がけ自転車ごとまっしぐらに突っ込んでしまう。ガシャーンと内部をめちゃめちゃに壊してしまい、大目玉を食った。――

 釣り銭が元の喧嘩沙汰といい、自転車での追い抜き騒動といい、もう稚気丸出し。この劇烈珍妙な告白に接し、私は一遍にこの人が好きになった。そして、その記憶力にも舌を巻いた。随分古い話なのに、固有名詞や金額なんかがすらすら出てくる。話しよう次第で暗くなりかねない貧窮時代の回想が、人徳だろうかカラッと明るく響くのにも感心した。

 すっかり気持ちがほぐれ、かねてからの疑問である「蛙の詩人」のいわれ――なぜ、蛙が主役なのか、という素朴な質問をぶつけた。説明はいささか長く、
 ――日本を外から眺めてみよう、と十七歳で中国・広東の嶺南大へ入学した。大正十(一九二一)年のことで、(軍国主義日本の圧迫に対し)中国の学生たちは排日運動に立ち上がっていた。運動への共感と祖国への郷愁・・・。たまたま、大学のそばの沼に棲む食用蛙が夏、騒がしく猛烈に鳴く。子どものころ、郷里の田んぼでよく耳にした殿様蛙の合唱が思い浮かんだ。蛙同士、抱き合ってるイメージがふっと湧いた。

 日本に帰国後、二十代半ばで著した処女詩集『第百階級』は、人間が第一階級なら蛙は動物界の百番目位という意味。その蛙を「どぶ臭いプロレタリア」「明朗なアナキスト」と讃え、蛙のための一大宇宙を創り出す。
 ――蛙の憲法や政治は、みんなで歌うこと。総理大臣も要らん、みんなが庶民。今でも僕の理想だな。

 上下関係がよほど嫌いらしく、長年携わっている詩誌『歴程』との関わりも、「主宰ではなく、同人だから」とわざわざ念を押す。「若い人は先輩だ」と彼一流の警句を吐き、
 ――自分より例えば三十歳も齢若い人は、現代の先鋭・混沌の歴史をもろに背負っているから、その分、先輩。その先輩に負けないものを書こうとすると大変だ。日本の俳句や短歌が弱いのは、主宰者がいるから。
 と、たたみかける。

 私が「詩人の資質とは何でしょう?」と尋ねると、
 ――内にモンスターのようなものを持っている人。
 と即座に言い切った。波長が合ったのか、草野さんは何でも率直に話してくれた。同居するパートナーと思しき中年女性は、「今日は初めて聞く話が多い」と漏らす。帰りしなに、「晩酌はおやりですか?」と尋ねてみた。「毎晩、五合です。つまみは十品以上ないと、おかんむり」と件の女性。さすがは、と舌を巻いた。

 草野(敬称略)は一九○三(明治三十六)年、福島県いわき地方の旧上小川村(現いわき市)の地主の家に五人きょうだいの次男として生まれた。両親や兄姉らが上京した後、祖父母の許で育つ。生来癇が強く、幼少のころはよく引きつけを起こし人に噛みついたり、鉛筆や教科書を噛みちぎるなど奇行が目立った、という。

 進学した県立旧制磐城中学を四年で中退~上京して慶応普通部に一時学んだ後、語学学校で英語と中国語を学び、二〇年に中国へ渡る。入学した広州・嶺南大学は米国系のミッション・スクールで、英米人の教授や中国人学生に混じるただ一人の日本人学生として国際感覚と郷土感覚を同時に培う。

 在学中、中国革命の指導者・孫文やインドのノーベル賞詩人・タゴールらと対面し、感化を受ける。中国人の学友らと詩の研究会をこしらえ、詩作に励む。二十歳の時には短期間に「機関銃の射撃さながら」二百十編も書き上げ、「われながらあきれる」と『わが青春の記』に記している。が、排日運動激化のあおりで身辺に危険が及びかけ、翌々年やむなく帰国する。

 東京で詩人仲間から高村光太郎を紹介され、知遇を得る。二八(昭和三)年、処女詩集『第百階級』出版。広東時代に創刊した詩誌『銅鑼』の同人に岩手県花巻在住の宮沢賢治を勧誘する。詩誌の主唱者として彼は才能発掘には天才的で、その典型例が賢治だった。知人から贈られた賢治の詩集『春と修羅』を一読し、その才能に驚嘆。「第一に感ずるのは透明な音楽と色彩であり、語彙の豊富。彼は原始の眼で自然を見た」「詩人の名誉は対象に命を与える最後の言葉を最初に発見すること」と激賞している。

 四〇年、「対日和平」を掲げる汪兆銘を主席とする傀儡政権「南京政府」が成立する。同政府宣伝部長に就いた嶺南大同窓の親友・林伯生の手引きで、彼は宣伝部顧問の職を引き受け、南京へ渡る。以後敗戦まで五年余り南京に滞在し、宣伝活動を手伝った。敗戦時には当然ながら、自らの戦争責任に対する深刻な反省~悔悟を迫られたはずだ。

 四六年に帰国。五〇年、『定本 蛙』など一連の蛙の詩作によって第一回読売文学賞を受ける。二年後、居酒屋「火の車」を新宿に開店。詩を作る傍ら、読売新聞夕刊に汪兆銘をモデルにした小説『運命の人』を連載する。創作活動で目を引くのは、高年にさしかかってからの活発化だ。七四年からは年次詩集を十二冊も刊行。他界する前々年まで現役作家として作品を多産し、健在ぶりを示した。文化功労者推戴・文化勲章受章。

 一連の蛙の詩の中で、私が一番惹かれるのは「ヤマカガシの腹の中から仲間に告げるゲリゲの言葉」だ。蛙のゲリゲが仲間の制止を振り切って蛇の尻尾に食らいつく。が、当然ながら、返り討ちに遭って呑み込まれる。蛇の食道をギリギリ下っていく途中で、仲間たちに告げる最後の別れの言葉。

 ――(前略)こいつは木にまきついておれを圧しつぶすのだ/そしたらおれはグチヤグチヤになるのだ/フンそいつが何だ/滅多に死ぬか虎のふんどし/死んだら死んだで生きてゆくんだ/おれのガイストでこいつの体を爆破するのだ/おれの死際に君たちの万歳コーラスがきこえるやうに/ドシドシガンガン唄つてくれ(後略)

 「死んだら死んだで生きてゆくんだ」がなんとも奇抜で、この人ならではのセリフ。詩人・大岡信さんは草野さんの死後まもなく表した「弔辞」の中で、「ゲリゲの末期のせりふは、死をより大いなる生への入り口とする草野さんの思想をいち早くはっきり披瀝していた」とし、「その作品の中には何かしら宇宙感覚的な場があって、そこでは死の沈黙さへ不思議な歓びの世界に接してゐる」と述べている。全く同感だ。
2020.07.01  在日の追悼は民族名で
          大阪空襲の聞き取り進める

田中洋一 (ジャーナリスト)

 いつ来るとも知れぬ空襲に怯えながら、75年前の今ごろ人々は生きていた。B29による主要都市の爆弾や焼夷弾の爆撃に加え、戦闘機は地方の町にも突然現われて機銃掃射を浴びせた。

 大阪は1944年12月19日から、日本がポツダム宣言を受諾した45年8月14日まで50回を超す空襲にさらされた。死者・行方不明者は1万5千人以上とみられる。その中には在日朝鮮人も多数いたはずなのに、氏名はもちろん人数さえほとんど把握されていない。
 朝鮮人犠牲者の追悼集会を催す運動が大阪で進んでいる。本来の民族名で追悼することにより、空襲で朝鮮人が受けた被害の実態を明らかにし、尊厳の回復を図ろうとしている。

 私は、関東大震災の混乱で殺された朝鮮人への東京都政の差別的な姿勢や、在日コリアンをめぐるヘイト言動を考える中で、この運動を市民団体の機関誌で知った。気にかかり、関係者にさっそく連絡を取る。
 大阪空襲による朝鮮人犠牲者の追悼集会を計画している実行委員会の呼びかけ人に横山篤夫さん(79歳)がいる。横山さんは「大阪空襲被災者運動資料研究会」の代表を務めている。高校の日本史教員OBで、地域の近現代史を掘り下げてきた。

 空襲資料研究会は4年前に発足した。先輩世代の「大阪大空襲の体験を語る会」が集めた約450編の体験手記を整理する中で、朝鮮人のものは皆無と気がついた。これを契機に大阪の在日朝鮮人からの聞き取りを手掛ける。これまでに7人から話を聴いた。
 聞き取った内容は、第1次大空襲の3月13日に合わせた今年の追悼集会で資料として配る予定だった。だが、新型コロナ禍は収まらず、第3次大空襲の6月7日にいったん延期された追悼集会は、来年に再び持ち越された。
 
 ここではまず、聞き取りの内容にざっと目を通しておこう。

 1941年に国民学校に入学した辛基一さん(男、85歳)は「地主の田んぼの小作と荒地の開墾をしているところで物心がつき育ちました。家と言ってもトタン屋根のバラックで……板張りにゴザを敷き、壁も板張り、割れた窓ガラスは紙でつぎはぎだらけ、冬の隙間風が寒かった……ここで弟が二人生まれました。……電灯はありましたが水道は無く、井戸からつるべで水をくむ生活でした」と振り返る。
 4年生で空襲に遭う。「軍国主義教育に染まって、日本は決して負けないと思い込んでいました。……戦争末期には私は予科練に憧れて、志願したいと思って」と教育の恐ろしさをかみしめる。

 4歳で被災した金由光さん(男、80歳)は「町内会の防空壕でも危ないと感じ、子どもの足で駆け足でも20分位かかる淀川の堤防迄逃げました。……家のすぐ横の電柱の所に焼夷弾の火に焼かれて倒れている人を見ました。……梅田界隈はほとんど丸焼けでした」。

 近現代史家の小山仁示(故人)は『改訂 大阪大空襲』(東方出版刊)で空襲の全体像を示している。その中で、「六月は空襲がことのほか激しかった」と強調する。6月7日の第3次大空襲で劉載鳳さん(女、85歳)の姉と妹は長柄橋の川原に避難したが、焼夷弾を受けた。
 「(妹は)焼夷弾の破片が頭に直撃して亡くなりました。駆けつけたオモニに、『痛い、痛い、オモニ、オモニ』と言ったのが最後のことばだったそうです」。姉は背中に大火傷を負った。
 妹を亡くしたことで、「オモニは『長柄橋に逃げろ』とどうして言ったのかと……自分を責めました。家にいればよかった、と。なぜ2人を長柄橋まで送り出したのか、取り返しがつかないことをしてしまった」と悔やんでいた。

 同じ6月7日の空襲で金禎文さん(男、81歳)は祖父を亡くした。埋葬した寺の過去帳を調べた大阪府朝鮮人強制連行真相調査団の記録から、日本人風に改められた祖父の名前「金谷富彦」を見つける。年齢もぴったり合う。
 大阪城公園の一角にある大阪国際平和センター(ピースおおさか)は大阪空襲を語り継ぐ平和博物館だ。そこに、判明している9千人近い空襲犠牲者が公的に記録されている。名前は<刻(とき)の庭>のモニュメント銅板に刻まれている。金さんは祖父について「(創氏改名後の名前ではなく)本名『金麗濬』に改めて欲しい」と望む。さらに、「周りにもたくさんの朝鮮人が住んでいたので、犠牲者もたくさんいた」。

 子ども心に警報の不気味なスピーカーの音を覚えているという呉時宗さん(男、79歳)も、戦災で命を絶たれた朝鮮人犠牲者を追悼する意義を訴える。「幸いなことに私の家族や親戚で、空襲で死んだ人はいませんでした。……しかし確かに在日朝鮮人が大阪にはたくさんいたのですから空襲で犠牲者も大勢いたに違いない」

 では、ピースおおさかに名前が刻まれた約9千人の中に朝鮮人は何人いるのか。「多分そうなのは金姓9人と朴姓4人の13人だが、そんなはずはない」と横山篤夫さん。1万5千人以上とされる大阪の犠牲者の中に1200人はいるはずだ、とみる。敗戦直後の公文書から、戦災に遭った朝鮮人は大阪府民の被災者のうち8.2%と読み取れる。同じ割合を犠牲者にあてはめれば1200人となるからだ。

 前に触れた「大阪大空襲の体験を語る会」は犠牲者の二十七回忌に当たる1971年に結成された。前年には「東京空襲を記録する会」が発足し、戦災を伝える気運が各地で盛り上がっていた。最近では、戦災による朝鮮人犠牲者の追悼のニュースは、ネット情報に限るが、東京大空襲しか見当たらない。
 語る会のきっかけは、軍需工場に動員されていた6月1日に第2次大空襲に遭遇した金野紀世子(故人)の新聞投稿だ。1971年3月9日付け朝日新聞で「あの空襲にあわれた方で、なにか資料をお持ちの方はいらっしゃいませんか。……悲惨さにおいて見逃すことのできない大阪大空襲をぜひ私たちの手で正確に記録にとどめようではありませんか」と呼びかけた。

 体験記は続々と集まる。収録した冊子は40年以上にわたって9集まで出た。手記だけでなく、体験画も描いた。だが、集まった約450編の体験記の中に、朝鮮人のものは1編もなかったのだ。その訳を横山さんはこう考える。
 「戦災・空襲は在日朝鮮人にも過酷な体験だった。だが朝鮮人の場合は、社会の厳しい仕打ちや、必死に生きた生活苦、さらに敗戦後は民族差別や祖国の分断が加わり、過酷さの土俵が日本人よりはるかに大きかった」。だから、「日本人の体験文集活動に共感できなかったのではないか」。

 『創氏改名』(岩波新書)の著作がある水野直樹・京大名誉教授(朝鮮近代史)は、創氏改名の政策で名前を変えざるを得なかったという問題だけでなく、差別を受けることを恐れて日本人風の通称名で生きてきた在日朝鮮人も大勢いる、と指摘する。その上で語る。「大阪空襲の朝鮮人犠牲者を本名で追悼すれば、創氏改名を含む日本の植民地支配が朝鮮人にどんな被害をもたらしたのかを明らかにすることにつながり、一つの清算になる」

【注】朝鮮人の名前の読みは、聞き書きを進める空襲資料研究会が公表していない。