2019.11.15 トランプ大統領、IS壊滅の同盟者クルド人を裏切る
NYタイムズの調査報道(3)

坂井定雄 (龍谷大学名誉教授)

 米国がシリアでISと戦うために、地上作戦を担う主力友軍として引き込んだのが、クルド人武装組織。「イスラム国」(IS)がシリア北部の都市ラッカを占領して首都と宣言した2014年だった。シリアのアサド政権は2011年から始まった民主化勢力の鎮圧で精一杯。そこにイラクを追われたバグダーディを最高指導者とする「イスラム国」がシリア北部に拠点を拡げつつあった。
 オバマ政権下の米国は、シリアの民主化勢力を支援するとともに、「イスラム国」の拡大を強く警戒、アラブ諸国の協力を得て、「イスラム国」への爆撃を始めた。しかし、シリア人が住民の都市や村を爆撃することはできず、「イスラム国」の拡大が防げなかった。強力な地上作戦が必要なことは明らかだった。米国は地上作戦を担う部隊として、クルド人武装勢力への働きかけを開始した。
 2011年から始まったシリア内戦にクルド人勢力はほとんど関わらず、北部の事実上の自治地域への「イスラム国」の拡張を防いでいた。クルド人住民は自衛組織を強化、最高指導者アブディの下、2015年にシリア民主軍(SDF)と改称、クルド人を主力に、キリスト教徒、アラブ人その他のシリア人も参加して、「イスラム国」との戦いを展開した。こうして「イスラム国」との地上戦はSDF,空爆が米軍主力にアラブ諸国、少数ながらNATO諸国の空軍も参加して、形勢を逆転、「イスラム国」を次第に追い詰め、今年3月、最後の支配地を壊滅した。残党は主にイラクで地下に潜行しているほか、リビアはじめ他国で小グループがいる。

 以下に、MYタイムズの調査報道の最後の部分を紹介しようー
 SDFの最高指導者アブディは、米国が彼の人民の安全を保障すると信じた。連携関係は堅いように見えた。米国は最も神経を使う作戦―バグダーディ狩り作戦への協力を求めた。
 米当局がバグダーディの隠れ場所とみなした家屋を、シリア北東部のイドリブ県に発見、クルド人勢力が情報員たちを派遣して、その家を監視した。アブディ氏とクルド人情報機関幹部によると、その家に何室あるか、だれがいるのかを確認、地下にトンネルがあることまで突き止めた。最後に攻撃を受けた最中、バグダーディは3人の子供たちと地下トンネルに入り、子供たち全員と自分を殺した。
 監視中、クルド人情報員たちは、バグダーディのボクサー・シャツを盗み、血液型を判定するサンプルを得た。アブディ氏は「情報作業だった」と言っている。DNA検査でバグダーディだと確かめたあと、アブディ氏の情報員たちは米国がバグダーディを捕まえるよう、監視を続けた。

 「俺たちをだましたな!」
 10月6日、トランプ氏がエルドアン・トルコ大統領との電話で、トルコ軍が米国のシリアのパートナー、SDFを越境攻撃しようとしているシリア領内の経路から、米軍を撤退させ始めたことを告げたとき、クルド人たちはバグダーディの隠れ家の襲撃を遅らしていた。アブディ傘下のクルド戦士たちが、トルコ軍との戦闘に備えて移動したからだった。一部の米当局者たちは、クルド人たちが防衛体制を解いたところをトルコ軍が攻撃することを非常に恐れていた。クルド武装勢力のアブディ司令官は「俺たちをだましたな!」と米当局者たちに叫んだ。
 クルド人当局者たちはシリア政府に支援を求めた。しかし、取引ではなく、冷たい交渉になった。アサド政権側の“裏切り者め”という感覚は、クルド人だけでなくシリア北東部の多くの人々に向けられている。そこの人々は、米国によって守られていると感じる一方、トルコとアサド政権の軍隊を恐れていた。(続く)

2019.11.14 ライク・ラースロー再埋葬式
ハンガリー動乱の引き金になった大衆的示威行動
               
盛田常夫(在ブダペスト、経済学者)

 1956年10月に勃発したハンガリー動乱は社会主義諸国のみならず、資本主義国の左派に大きな衝撃を与えた。左派知識人たちが得られる情報はソ連共産党が発する公式声明であり、動乱を惹き起こした背景や戦後東欧社会主義国の社会主義化が抱えていた深刻な問題を知ることはなかった。ソ連共産党による「ハンガリー動乱は社会主義を転覆させる反革命」という規定は20世紀末の体制転換に至るまで、公式見解として維持されてきた。ヨーロッパから遠く離れた日本では、ソ連共産党の見解を受け入れるだけで、それ以上に議論は進展しなかった。

スターリンの愛弟子ラーコシ
 戦後ハンガリーの社会主義化を担ったのは、ソ連帰りの共産党指導者である。ラーコシ(1892-1971年)は1919年のハンガリー・ソヴィエト共和国樹立に際して、商業副大臣、社会生産大臣に就任し、社会主義政権が崩壊した後は長くホルティ政権の監獄にあった。その後、ソ連に亡命して、第二次大戦後にハンガリーに戻った。
 ラーコシの片腕だったゲルー(1898-1980年)もまた、第一次世界大戦中に共産党に入党し、ハンガリー・ソヴィエト共和国樹立時に青年運動に加わり、赤軍兵士にもなった。1924年に捕虜交換でソ連に渡り、内務省の諜報部員になった。その後、スペイン内戦の国際部隊指揮団に加わり、トロツキー主義者の抹殺で活動した経歴をもつ。そして、ラーコシとともに、終戦後にハンガリーへ戻った。
 レーヴァイ(1898-1959年)は1918年に共産党員になり、ハンガリー・ソヴィエト共和国樹立時にはクン・ベーラやルカーチ・ジョルジュの影響を受け、革命の理論的な作業に勤しんだ。革命政権崩壊と共にウィーンへ逃れ、ルカーチとともに雑誌編集の仕事を行い、ハンガリー共産党の再建会議に加わり、ルカーチとともに中央委員となった。その後、ハンガリー国内で逮捕されたが、釈放後にソ連に渡り、コミンテルンで仕事をしながら、理論活動を行った。
 これら3名に加え、やはりソ連滞在が長かったファルカシュ(1904-1965年)を加えた指導部が、4人組を形成していた。皆、ユダヤ人であった。
 戦後ハンガリー共産党はソ連帰りの4人組と、ライクやカーダールの国内活動組から構成されていたが、実権を握ったのは4人組であり、なかでもラーコシはスターリンに絶対服従を誓う「東欧の小スターリン」と呼ばれた。スターリンと直接電話できる関係にあった。その彼が起こした最初の党内粛清対象が国内組のライク・ラースロー(外務大臣)だった。ライク外務大臣は1949年5月に逮捕され、10月に処刑された。彼が標的になった詳しい事情は省くが、ラーコシ粛清はスターリンの了解を得て、ラーコシがすべてを仕組んだものだった。これを手始めに、ラーコシは党内外の政治家の粛清に手をつけるが、ライク粛清はラーコシ独裁の始まりとなった事件である。この粛清事件はハンガリーのみならず、中・東欧社会主義国における粛清事件の先駆けとなり、チェコスロヴァキア共産党スランスキー書記長他の粛清は、ライク粛清をチェコスロヴァキアに適用したものだった。

ライク夫人
 ライク外務大臣逮捕と同時に、スペイン内戦を夫と共に戦い、婦人運動の全国組織を率いるライク夫人ユーリアもまた逮捕された。「アメリカのスパイである夫と共謀した罪」である。処刑されたライク外相ほか3名の遺体は、ブダペストから30km程離れたグゥドルー郊外の森の中に無造作に掘られた穴にまとめて埋められた。
 ライク夫人はライク逮捕から間もなく保安警察によって連行され、幼子は祖母に引き取られた。保安警察地下の留置場に留め置かれ、連日、トロツキー主義者であることを自白するように迫られた。主が居なくなった家屋は保安警察によって整理され、別の人物に貸し出された。母子が切り離されて間もなく、1歳に満たない息子(ライクジュニア)は党の児童施設に偽名で預けられた。ライク夫人は1950年5月の裁判で有罪判決を受け、保安警察の留置場から収監された。ライク夫人が釈放されるのは、1954年6月である。こうして、ライク母子は再び一緒に暮らせるようになったが、釈放の条件としてライク夫人は別名を名乗ることを強制された。
 ここから、ライク夫人は長い戦いを強いられた。夫の名誉回復のみならず、自らの氏名を取り戻す戦いになった。スターリンの死後、ソ連と東欧ではスターリン時代に粛清された政治家の名誉回復が行われていたが、ラーコシが健在なハンガリーでは遅々として進まなかった。ようやく1955年7月にライク外相の名誉回復が実現したが、粛清を実行したラーコシが居座るハンガリーではそれ以上の具体的な取り組みはなされなかった。ライク夫人は夫の遺体がどこに「埋葬」されているかも知らされず、自らの名誉回復のために闘わざるを得なかった。スターリンの死後、ハンガリーでも言論の自由化が一定程度許容されたが、党指導部に批判的な知識人党員は除名された。その彼らがライク夫人を助け、共産党指導部と妥協しないようにライク夫人に種々の助言を与えた。
 フルシチョフ「秘密報告」の後、ハンガリー共産党ではラーコシ時代の粛清者の完全名誉回復、とくにライク外相の再埋葬式が最大の課題になった。しかし、ラーコシが依然として党組織を牛耳っている状態で、ライク粛清事件の全容を公開することは共産党権力崩壊のリスクがあった。そのために、再埋葬式は日程に上らなかった。しかし、共産党内の動きに押され、最終的に1956年7月にラーコシはソ連へ「亡命」した。これ以後、ライク外相の再埋葬式がハンガリー共産党に残された課題になった。

再埋葬式
 ハンガリー共産党は再埋葬式の準備のために、ライク外相他3名が埋められているグゥドルーの森へ夫人たちを案内して、遺骸の特定を依頼した。1956年9月末のことである。夫人たちが骨格からそれぞれの夫を特定することはできたが、ライク夫人は埋葬状況にショックを受けた。ゴミを投げ捨てるかのようにまとめて埋められていたのである。
 党指導部は近親者を集めた少人数の埋葬式を提案した。しかし、ライク夫人はその提案を拒否し、公開埋葬式にすることを求めた。10月5日、党指導部は渋々これを容認し、ブダペストのケレペシ墓地で公開の再埋葬式を翌6日に執り行うことを決定した。公開決定から24時間の猶予すらなかったにもかかわらず、ライク埋葬式には10万人とも20万人とも言われる人々が参列した。これほどの大衆が自発的に集まったのは、社会主義政府が樹立されて初めてのことだった。
 予想もしない数の大衆が埋葬式に参加したことに、党指導部は驚いたに違いない。しかし、そこから教訓を引き出すことはなかった。ライク再埋葬式はその後の大衆的蜂起の出発点になった。この式に参加していた学生の一部は、式終了後に「バッチャーニィの永遠の炎」に参集し、政権への抗議の声を上げた。1949年10月に、対ハプスブルグ独立戦争で敗れ処刑されたバッチャーニィ・ラヨシュの精神を祭る祈念碑である。ここから学生たちの活動が一斉に活発化することになった。ライク埋葬式は17日後の人民蜂起の前哨戦になったのである。
 他方、ゲルー書記長を団長とするカーダール他の党幹部が、10月15日からユーゴスラヴィアとの関係改善の旅に出かけた。1週間にわたる長期の隣国訪問だった。党指導部には危機意識が完全に欠落していた。その間、ハンガリー国内では学生組織を中心に大衆的な行動が組織され、事態は緊迫の度を増していた。ユーゴスラヴィア訪問を終えた一行が23日にハンガリーに戻った時には、すでに動乱が始まっていた。これを慌てふためいたゲルーがフルシチョフにソ連軍による平定を求めたことが、軍事侵攻の発端になった。ハンガリーを混乱に陥れたラーコシやゲルーの罪は非常に重い。言うまでもなく、ソ連帰りの指導者を経由して東欧社会主義国を属国支配したソ連共産党の罪は深い。

ライク母子
 動乱がソ連軍によって制圧される11月4日、ライク母子はナジ首相グループの一員として、ユーゴスラヴィア大使館に亡命した。その後、ナジ・グループはルーマニア幽閉され、半年後、男子のみが裁判のためにブダペストへ戻されるが、女子と子供は引き続きルーマニアに留め置かれた。ライク夫人は残されたグループの指導者として、種々の情報の開示を求め、子供たちの教育を組織した。
 ライク母子は1958年にブダペストに帰還し、図書館司書の仕事を与えられたが、引き続き婦人運動に加わりながら、粛清された家族の支援にあたった。1981年に77歳でこの世を去った。一人息子のライクジュニアは工科大学建築課を卒業して、各種の構築物のデザインを手がけた。1991年の体制転換後の総選挙では反体制知識人の党であるSZDSZから立候補して当選した。本年、2019年9月、70歳の若さで他界した。
 戦後の一つの時代が終わった。
2019.11.13 ■短信■
「全国首長九条の会」結成のつどい
すでに120人を超える首長、経験者が賛同


 全国の住民ともっとも密接な行政機関の長として、住民の生命・財産を守る仕事に携わっている首長とその経験者による「全国首長九条の会」が結成されます。平和国家日本を後世に引き継いでいくために、所属や立場、信条の違いを超え、「憲法9条擁護」の一点で手を携える会です。
 すでに結成に対し120人を超える首長、経験者の方々が賛同されています。多くの市民のみなさんも是非結成のつどいに参加され、首長とその経験者のみなさんの訴えをお聞きください。

日時:11月17日(日)午後1時30分開会

会場:東京・御茶ノ水の明治大学リバティータワー1011教室

第一部:
●「首長九条の会」への期待 
朝倉むつ子さん(九条の会世話人・早稲田大学名誉教授)
●首長・元首長が語る「私と憲法」
千田謙蔵さん(元秋田県横手市長)、村上達也さん(元茨城県東海村長)、松下玲子さん(現東京都武蔵野市長)、上原公子さん(元東京都国立市長)他

第二部:結成総会

資料代:1000円

申し込み・連絡先:参加希望の方は下記に申し込んでください。
九条の会:℡ 03-3221-5075 fax03-3221-5076 メール:sppn3av9@hyper.ocn.ne.jp
(岩)
2019.11.12 一週間の物語
韓国通信NO620

小原 紘(個人新聞「韓国通信」発行人)

 瞬く間の一週間だった。好きなことができるのは健康であることにくわえて、妻に家事の負担を押し付けているからだ。大いに反省と感謝をしなければならない。
 記憶を頼りにこの一週間を振り返った。

10月29日
 東京葛飾の関谷興仁邸に出来上がった陶板作品を取りに伺った。完成した作品は韓国の金敏基の詩『朝露』の原詩と、それを翻訳した日本語版である。韓国の民主化闘争のなかでヤン・ヒウンが歌った『朝露』は私には記念碑的な詩歌だ。それを陶板に彫ってみたいという長年の夢がかなった。<写真下>
韓国通信620写真(1)

 「夜もすがら 葉に結ばれた 真珠より 美しい 朝露のように」から始まる詩は、多くの韓国人が共有する軍事独裁と闘った記憶であり、現在も彼らの心の中に生き続けている。

30日と31日 
 11月17日の我孫子市議選を前に立候補予定者たちが一斉にビラ配布を始めた。応援したい何人かの候補者に手伝いを申し出たら、早速一人の候補者が2500枚のチラシを持ってやってきた。私が苦労しているのを見かねた妻が手伝ってくれ、2日間で配布した。「地域から国を変える」私の将来構想、挑戦の一環である。

 3日、スポーツクラブで「コアバランス」「骨盤エクササイズ」と「ズンバ」に参加。
 最近、体のバランスがよくないので腹筋と股関節を鍛えている。「ズンバ」はラテンのリズムに合わせる激しい踊りだが、インストラクターにうっとり、声も出すのでストレス発散にもなる。

11月2日  
 毎週土曜に外国人に日本語を教えるボランティアを始めてから10年になる。先週は教材に「我孫子を知ろう」、今回は「コスタリカを知ろう」をテーマに。「コスタリカ」はスペイン語で「豊かな海岸」という説明、カリブ海に浮かぶ「楽園」、軍隊を持たず教育に力を注ぐ小国について勉強。「世界の軍事費が貧困を無くすために使われたらどんなに素晴らしいか」などと生徒たちと話し合った。普通の教科書ではできない手作り授業に目下夢中である。

11月3日
 文化の日。73年前に新憲法が公布された日。もとをたどれば「天長節」-明治天皇の誕生日。
最近11月3日を「明治の日」と変えて天長節を復活させる動きがある。時代錯誤と笑ってはいられない。美しい国ニッポンを目指す安倍自民党は、もはや「何でもあり」、歯止めがきかない。
 3日は恒例の全国統一行動日、駅前で「アベヤメロ」のステッカーを掲げた。この日は気合いを入れて1時間半のスタンディング。ステッカーは他に「東海第二原発廃炉」「選挙で社会を変えよう」と三種類を用意した。
 午後から手賀沼周辺で開かれていた野鳥の会等が主催する「バードフェスティバル」にでかけた。日本中、外国からの参加者も多い日本最大級の「鳥のフェスティバル」会場を3時間ほど散策した。<写真/会場風景>子ども連れの参加者が多かった。
韓国通信620写真(2)

11月4日 
 ハローワーク勤務時代の旧友3人と船橋で「パークゴルフ」を楽しむ。子どもから年寄りまで楽しめるゴルフ「もどき」のスポーツ。1日のプレイ代は1100円。プレイをしながら、同年代男性3人が話すことは健康と家族の話題にくわえ「あきれた政治」の話などなど。青空の下、林の中にこだまするボールの快音に癒された。5時間で1万歩にも満足。

11月5日
  『週刊金曜日』の「関電の原発マネー不正還流を告発する会」の記事を読み、早速入会手続きをした。大阪地検に関電役員の収賄、特別背任罪を問う告発人の一人になった。
 インチキ「第三者委員会」の調査、検察の捜査を待つまでもなく、市民の力で関電のみならず、原発ムラの暗闇を糺すことを期待したい。http://kandenakan.html.xdomain.jp/ホーム・ページから趣旨説明と申し込み用紙が出てくる。
 入会には①申込書②委任状③入会金500円(1口)が必要だが、真相究明を市民たちの力で成功させたい。あなたも是非告発人に ! 関電利用者以外の人も参加できる。

<無責任時代の本格到来>
 かつて植木等が歌った「無責任一代男」。「イルイル、そんな奴」と笑いこけた時代もあったが、今では、ビンボーと病気、老後の生活不安は「自己責任」と突き放され、政治家、官僚、大企業の社長たちの笑えないほどの無責任ぶりに言葉を失う時代となった。
 去る9月19日、東電刑事訴訟で東京電力元経営陣全員に無罪判決が下された。あれだけの事故が起きても誰も責任をとらない無責任体制に司法がお墨付きを与えた。判決は裁判官が職務を放棄した「結論ありき」の裁判だった。
 かつて原発を差し止めた二人の裁判官が今回の地裁判決について語った。以下、『週刊金曜日1254号』から抜粋。
 井戸謙一元金沢地裁裁判長は、この判決は、「原発は安全ではない、と宣言したことに等しく、今後事故が起きても責任を問えない不可解な判決。これで安全確保に力を注ぐべき経営者のモラルハザードが加速されるだろう。関電の裏金事件を見ても電力業界のモラル低下は深刻」と述べる。
 また樋口英明元福井地裁裁判長も、「文科省の地震調査研究推進本部が『10メートルを超える津波の到来の可能性が今後30年の間に20%に及ぶ』とした長期評価を無視した東電経営者の安全性に対する無自覚、無関心さは『故意に近い過失』だ。経営者の責任は免れないと」東京地裁判決を厳しく批判した。
 日本は果たして法治国家といえるのか。司法まで権力者に忖度して東電の経営者を守り、政府の原発推進策に寄り添った。ハロウィンで大騒ぎする日本の若者にくらべ、命がけで権力と闘う香港の学生たち。パークゴルフ場での三人のオジサンたちの話は尽きない。
2019.11.11 少数民族にとって中国革命とは何だったか(5)
――八ヶ岳山麓から(297)――

阿部治平 (もと高校教師)

いわゆるチベット叛乱は、農牧民のレベルでは、民族の自決とか高度の自治を要求するものではなかった。初めは「民主改革」への抵抗である。こののちは中共軍の殺人と破壊からの逃亡である。

パンチェン・ラマの告発
チベット仏教第二の高僧第十世パンチェン・ラマは、文化大革命が終わって10年後の1987年春、全国人民代表大会チベット自治区常務委員会で、1959年までの中共軍によるチベット叛乱鎮圧について告発した。以下はその抜粋である。

「……青海省には3,4千(ママ。3,4百の間違いと思われる)の村や町があり、そこではそれぞれ3,4千世帯が4,5千(ママ。4、5人か)の家族とともに暮らしていた。この各村や町の8百人から1千人が投獄され、そのうち少なくとも3百ないし4百人が獄死している。つまり投獄されたもののほとんど半数が獄死したということだ。叛乱に加わったものはその中の一握りにすぎないことを去年(1986年)我々は知った。大部分の人間は全くの無実だったのである」
「ゴロク地区(現在の青海省果洛蔵族自治州)では、大勢の人が殺され、その死体は丘の斜面から深い凹地に転げ落とされた。そして中国軍兵士たちは遺族に向かって叛乱は一掃されたことを喜べといった。人々は死者の体の上で踊ることを強制され、しかもそのあとで、機銃の一斉射撃によって虐殺され、その場で埋められたのである」
「七万語に及ぶ『嘆願書』の中で、チベット人口の約5%が投獄されたと指摘した。だがその当時私の手もとにあった情報では、全人口の10%ないし15%ものチベット人が投獄されたのである。しかしその時、数字のあまりの大きさに私はそれを公表する勇気が持てなかった。もし本当の数字をあげれば、“人民裁判”で殺されていただろう」

パンチェン・ラマは、ダライ・ラマに次ぐチベット仏教第二の転生ラマである。パンチェン・ラマ十世(1938~89)はダライ・ラマ十四世のインド亡命と農牧民の叛乱を非難した、もともと中共側の人であった。
ところが叛乱後のチベット人地域を視察すると、そこには民族と仏教が危機に瀕する悲惨な現実があった。彼は1962年に周恩来総理にあてて漢字7万に及ぶ、前出の『嘆願書』を提出した(以下『七万言書』という)。毛沢東はこれを一読して「中共に対する毒矢だ」と一蹴し、以後パンチェン・ラマを右派分子として、14年間、吊るし上げ、監禁、投獄という目に合わせた。
上掲のパンチェン・ラマの発言は、“Zhe Panchen Lama Speaks”の邦訳『パンチェン・ラマの告発』(ダライ・ラマ法王日本代表部事務所1991)から引いたものである。チベット語での発言を漢語に翻訳して、中共最高層に配布されたものが漏出したものと思われる。重訳と誤訳のためか幾分ちぐはぐなところがあるが、この文書は『七万言書』の補遺であり、亡命政府の単なる宣伝文書とすることはできない。

仏教を守れ
チベット民族の叛乱は1956年に始まったが、これは簡単に各個撃破された。しかし58年にふたたび各地で叛乱が起きた。原因は寺院破壊への反発である。この年、青海省でも寺院は叛乱拠点になることが多かったから、中共政府は集落首長らとともに寺院高僧を予防拘禁した。
寺院の「民主改革」は、農地・家畜の没収と農牧民への分配、高利貸の帳消しで終わらなかった。叛乱がおきると、中共軍は伽藍と佛像を破壊し、金銀宝石を没収し、経典を焼いた。集落の小寺院も破壊された。日本ではよく文化大革命での破壊が強調されるが、青海省の寺院の90%超は、この時破壊された。
さらに布施や参拝を禁止し、僧侶に労働と還俗、結婚を強制した。釈尊は労働を禁じているから、中共の「坊主も大衆同様労働せよ」という政策は、結婚同様破戒の強制である。布施がなくなれば僧侶は餓える。しかも還俗は家族が扶養家族を抱え込むことを意味する。当時チベット人社会は一家に一人、あるいは二人の男子が出家していたから、集落社会は混乱した。
『七万言書』によると、中共の工作者はこちらに村の娘や尼僧を並べ、あちらに僧侶を並べて相手を選ばせた。僧侶と尼僧を同居させ、性的堕落状態をつくるという「革命的」方法もとったという。ほとんど家畜同然の扱いである。
チベット人集団が「仏教を守れ」というスローガンを掲げたのはこのゆえである。

虐殺
58年6月毛沢東は青海の叛乱を聞き、「反動分子を粉砕するチャンスだ」といい、青海省党書記はこれに追従して、「奴らの親玉を捕まえれば任務は半分完成だ。そいつらを銃殺すれば100%完成だ」といった(後述)。
58年青海省の牧畜地帯では、4万9000人余が反革命として逮捕され、その多くが殺された。成人男子が殺されたために女子供だけになった集落が出た。また食料とテントが奪われたために餓死凍死したものが多数生まれた。さらに皆殺しのために集落が消えた所もある。
私は、叛乱を起さなかったのに集落20数戸のうち10数人の男が連行されて帰らなかった例を聞いたし、またある青年から、彼の集落では父母の世代に腹違いのきょうだいらしいのがかなりいるという話を聞いた。成人男子が多く殺されたから、こういう現象が生まれたというのである。
叛乱の捕虜とされたもののあつかいは猖獗を極めた。彼らは捕縛され、荷物のように積み重ねられて、トラックで次々西寧の監獄に送られた。水も食事も与えられなかったためか、人事不省となったものがいた。運搬途中死んだものもあった。
青海省副省長だったタシ・ワンチュクはこれを見て、あつかいのひどさに驚き怒った。のちにプンワン(中共ラサ工作委員、拙稿前回参照)に会ったとき、中共軍の捕虜の残酷な扱いを話して涙を流した。タシ・ワンチュクは長征途上の紅軍がカムを通過した時紅軍に加わった「老紅軍」で、のちに第一野戦軍とともに青海に来て、そこで省幹部になった人物である。

消えた村
パンチェン・ラマの故郷インドウ郷(現青海省海東地区循化県)は15年間地上から消されていた。
58年、循化県では「民主改革」に際し、回族も含めて地域の上層分子が予防拘禁された。その中にパンチェン・ラマ十世の幼時の師匠で、声望の高いインドウ・ゴンパ(僧院)のジナイファ・ラマがいた。
4月17日、牧野の「民主改革」に反対して工作組を殺害した武装牧民100人余りが循化県城におしかけた。彼らはジナイファ・ラマを取り戻そうとして、県政府を攻撃し商店に放火した。さらにジナイファ・ラマの釈放を陳情する農牧民4000人が循化県城にやって来た(楊海英『チベットに舞う日本刀』(文芸春秋)はこれをムスリムのサラール人としている)。当然街頭は武装牧民と一般大衆がごちゃごちゃになる。
4月24日午後、叛乱鎮圧部隊が循化県城の黄河対岸に集結した。25日の明け方、2個連隊が渡河して、「叛乱集団」を包囲銃撃し、たちまち500人をなぎ倒し、2500人を捕虜とした。民衆をすべてチベット人とすれば、当時の循化県のチベット人は1万1000人ほどだから、4分の1が殺傷逮捕されたことになる。この騒ぎのなか、ジナイファ・ラマは自殺したといわれる。だが仏教は自殺を禁じているから事実とは思えない。
インドウ郷はインドウ・ゴンパ(僧院)の僧侶とともに全員が近郷へ強制移住させられた。彼らが帰郷できたのは、文化大革命後の1983年すなわち25年後である。
循化同様に悲惨を極めたのは、牧畜地帯のモンゴル人の民族島河南蒙旗の叛乱である。この地区は1956年に「民主改革」に抵抗したために、「匪民未分(見境なし)」の残酷な弾圧を受けた。58年には、牧民らはラサ方面への逃亡を企てた。5月3日、3590人の戦闘可能の牧民のうち1597人がケセントルゴ山に集結した。彼らは黄河対岸のチベット人400余人の掩護のもと、渡河逃亡しようとした。
この情報を得た中共軍騎兵一師(内モンゴルからの騎兵隊)は、明け方に女子供も含めた「叛徒」を包囲。大砲と機関銃で遠方から攻撃し、射殺265、負傷142、黄河で溺死115、その他の死者11、合計1594人を殲滅した。逃亡しおおせたのは137人に過ぎなかった(『河南県誌』、内モンゴルからの騎兵隊については、モンゴル人楊海英が前掲書で詳細に論じている)。(つづく)





2019.11.10  「本日休載」

今日11月10日(日)は休載します。

リベラル21編集委員会

2019.11.09 ■短信■
        STOP!!東海第二原発の再稼働
            いばらき大集会


 今年2月に日本原電は東海第二原発の再稼働をめざすと明言しました。
 東海第二原発の再稼働は、この地に今生きる人も子どもたちの未来にとっても、大きな災厄を抱え込むことになります。福島第一原発事故で明らかになったように、その災厄とは、避けられない過酷事故の発生と大地と海洋の放射能汚染、人をはじめとする生き物の放射線被ばくであり、結果としての国土の喪失、ふるさと喪失であり、私たちはすべてを失います。
 東海第二原発は高い人口密度をもつ地域に立地し、首都圏に一番近い原発です。ひとたび事故が起これば、被ばくなしで避難はできないし、避難先に長くとどまることもできません。首都は壊滅です。周辺30キロ圏内の自治体に求められている実効性ある避難計画の策定は困難を極めており、原発を再稼働しないことが最も安全だと、誰しも思っています。
 東海第二原発は1978年11月28日の営業運転開始から起算し、本年11月をもって41年目になる老朽化した原発であり、このような原発を絶対に動かしてはならないのです。

日時:11月16日(土)13:30~15:30 。15:50からアピール行動(デモ)

会場:駿優教育会館8階音楽ホール(茨城県水戸市三の丸1-1-42。TEL029-227-5552)

参加費:無料。どなたでも参加いただけます

主催:STOP!!東海第二原発の再稼働いばらき大集会実行委員会

問い合わせ:原発いらない茨城アクション実行委員会事務局
TEL 029-221-6811(相楽) 029-282-3619(相沢) 029-231-4555(花山) 029-251-2806(木村)
(岩)
2019.11.08 トランプ大統領、IS壊滅の同盟者クルド人を裏切る
NYタイムズの詳細な調査報道(2)

坂井定雄 (龍谷大学名誉教授)

 米国がアブディ司令官率いるSDF(シリア民主軍)と手を結んだのは5年前、IS(イスラム国)に対する米軍の空爆を地上で効果的に支援する、シリア人の地上部隊を求めていた時だ。同盟関係の下で、米軍はシリアの少数民族クルド人が主導する戦士たちに兵器を供与し、訓練をおこなうとともに、彼らが戦いの優先順位を自分たちの利益から、米軍の利益へと変えるよう強要した。
 米国は彼らに、ISとの戦闘の場所をクルド人の伝統的郷土の外側に拡大するよう要求、その結果、彼らの死者が増加した。米国は、彼らがシリア政府と交渉することを抑制し、米国と密接な関係にあれば、ISに勝利したのち、彼らがこの国の将来で有力な立場を得るだろうと説得した。
 元米特殊作戦軍、中央軍司令官のジョセフ・L・フォテル将軍は「勝ち組にいたほうがいいのだ」と電話インタビューに語った。
 米国はトルコをなだめるため、トルコ軍の攻撃に備える防衛施設を壊すよう、クルド人たちを説得した。さらにイランとの戦いを支援するようクルド人に求めた。
 クルド人主体の武装勢力にとって、米軍がシリアから撤退することは痛くない。いずれそうなることを彼らは知っている。それは、ISとの戦いで米軍とともに戦い始めてから5年の後に起こった。トランプが突然、電源プラグを抜いたのだ。彼らには次に起こることへの準備がなかった。
 「背後からグサッと刺されたのよ」とクルド女性民兵軍の広報官ネスリン・アブドラはいったー「アメリカ人は、いつも、トルコの侵入を許すことはない、と常に言い続けてきた」
 問題の一部は、米当局者が、米国はいつまでシリアに居るのか、なんのために居るのか、
について相矛盾するメッセージを送ってきたことだ。
 オバマ政権の当局者たちは、クルド人同盟者たちに、米国とのパートナー関係はIS打倒まで続く、彼らが将来シリアで果たす役割についても支援する、と告げてきた。米国からのメッセージは昨年、トランプ氏がシリアからの撤退を約束する一方、他の政権内当局者はイランがシリアから撤退したら米軍も撤退する、ダマスカス(訳注シリア政府)は政治的解決ができる、などと語るなど、混乱していた。米国の外交官たちはクルド人たちに、統治と安全の改善プログラムを助言したが、それは、撤退が迫っていることを示唆するものではなかった。
 10数人の米国およびクルド当局者たちとのインタビューから、強力な協力関係の素早い解消は、シリアのクルド人だけでなく、IS打倒のために共に働いた米国人たちをもひどく悲しませたことが分かる。
 シリアでのISとの戦いが、米国の構想に奉仕するものであったなら、クルド人たちはそのために死んだのだ。シリアでのISとの戦いで1ダースより少ない米国人が死亡したが、クルド人が主導する武装勢力は1万1千人が死んだ 
 「我々は死亡者を我々以外に求めたのだ」と、これらの問題で公に発言することが許されていない、シリアで働いてきた米国当局者は語った。その人はこうも語ったー「最後にわたしは、我々がいままでそのために働いてきたすべて-彼らの郷土の安全保障、彼らの政治計画、彼らの人民を放棄していくのか、と質した。我々が確かめることができたのは、かれらの1万1千人の死は無駄だったということだけだった」(続く)

20770_トランプの裏切り(写真)
NYタイムズ電子版10月28日付の特集記事の併用写真
クルド人戦士たちによる同志の葬儀式典(2017年)。5年にわたるISとの戦いで、クルド人戦士たち1万1千人が戦死した。米兵の死者は1ダース以下だった。クルド人武装組織YPGには女性の戦士もかなりいる。



2019.11.07 少数民族にとって中国革命とは何だったか(4)
――八ヶ岳山麓から(296)――

阿部治平 (もと高校教師)

チャムドへの進軍
1959年3月、チベットの王にしてチベット仏教最高位の僧ダライ・ラマはインドに亡命した。かくしてこの政教一致の国家は消えたが、その画期となったのはラサ政府の拠点チャムド(昌都)の陥落である。以下これについて概略を記したい。
時間を1949年まで戻します。

毛沢東は1949年の革命成功後、ラサに何回も使節を送って、チベットの中国への帰属を要求し、そのための和平談判を呼びかけた。だがチベット政府はいささか間抜けな回答をして、これを拒否したことはすでに述べた。翌1950年6月には金日成の北朝鮮軍が南に侵入し朝鮮戦争が勃発した。毛沢東は国際的な干渉を警戒してチベット制圧を急ぎ、主な任務を四川省の中共西南局に担わせた。
西南局すなわち第二野戦軍はラサ進撃のために十八軍を編成した。当時、十八軍の拠点である西康省(現四川省甘孜蔵族自治州)省都雅安からチャムドへは、4000メートルからの峠をいくつも越え、大河の峡谷を何回も渡らなければならない。道路は人と馬が通れるだけで、荷車すら通行できなかった。しかも国民党軍と軍閥の残党が西康各地で抵抗を続け、中共軍の進軍を妨げた。

東蔵民青の出現
ところが意外にも、ここにチベット人の武装集団があって、十八軍に有効な情報をもたらし、漢・チベット語の通訳と兵站とを担った。この組織は、プンワン(プンツォクワンギェル)に率いられた「パタン地下党」「東蔵民主青年同盟」だった(「東蔵」とはカムの意)。
プンワンは、1943年末ラサでチベットの完全な独立と民衆の解放を目的に「雪域共産党」を結成した人物だが、十八軍に出会ったときは、彼の党はすでにまるごと中共に参加していた。彼らは、中共によって無能なラサ政府を打倒し、民主的なチベット国を成立させ、中華連邦に加入する道を選んだのである。

チベット人地域3区分のひとつであるカムは、金沙江を境に西岸のラサ政府が支配するチャムド地区と、東岸の国民党政府が支配する西康省に分かれていた。ラサ政府にとってチャムドの町は東の重要拠点であったから、チャムド総督府長官には他地域よりも一段上のカロン(大臣)が当てられていた。
中共の要求があってから、ラサの貴族上層には主戦論が盛んだったが、いざとなるとチャムド総督を引受けて中共軍と戦おうとするものがいなかった。ラサ政府はやむを得ず、やや地位の低い地方貴族のガポ・アワンジグメを総督に任命した。
彼は1950年8月末、チャムドに赴任した。すると遺憾きわまりない光景に出くわした。彼はラサ政府への電報の中でこういっている。
「チャムドでは、わずか7,8の家でツァンパ(大麦の炒り粉、チベット人の主食のひとつ)を食っているだけで、多くはカブをかじって餓えをしのいでいる。乞食が群れを成しており、その有様はすさまじい。……さらにやりきれないのは、ラサから来た兵の軍紀がたるみ切っており、淫を好み民を煩わすことはなはだしい。高級官僚とデポン(連隊長)との間もうまくいっていない」

チャムド攻略
中共軍はチャムド包囲戦術をとった。チベット軍を逃がせば、ゲリラ戦に持ち込まれる危険を考えたからであろう。チベット軍は最初の激しい戦闘ののち、金沙江を渡河されるとたちまち150キロ余り後退した。アワンジグメは弾薬庫を爆破し西路を撤退しようとしたが、そこで捕まった。チベット軍は、死傷者と捕虜とで5700人余りを失った。
最新の武器も少なく鍛錬も十分でないうえに、あまり戦意のない司令官に率いられたチベット軍に勝ち目はなかった。チャムド戦役は中共軍の作戦通り10月6日に始まり24日には終わった。
こうも簡単に中共勝利に終わったのは、中共軍が国共内戦で鍛えられていたうえに、戦意も兵器もチベット軍よりは上だったからだが、それだけではない。金沙江東岸の住民が中共軍に協力的だったからである。それを組織したのはプンワンらの東蔵民青である。
金沙江東西両岸の住民はみなチベット人のカムパ(カムの人の意)である。中共軍にカムパのゲリラが襲い掛かっても不思議ではない。だが寺院や集落首長は、ダライ・ラマを崇拝しても、ラサ政府に味方する気持ちがまるでなかった。東岸だけでない。西岸のカムパもラサからやって来たチベット軍に対しては、強い反感を抱いていた。
かつて東岸は国民党軍閥劉文輝の支配下にあった。当時アヘンや銃の取引はもうかったから、軍閥政府の役人や「漢兵」は徴税のほか銃やアヘンの取引をやり、カムパから容赦なく搾り取った。
西岸のチャムド総督府の駐屯兵は、東岸の「漢兵」よりさらにひどかった。彼らは重税を取り立てるばかりか、農牧民の家畜や金品を強奪し、女をものすることに執着した。当時ラサの兵隊は「チャムドへ正月をやりに行く」といった。
ところがカムにやって来た中共軍は悪事を働かなかった。はじめのころはボロを着て、寄せ集めの武器を担いでいたが、人や家畜の徴用や買物のときは代価を支払った。時には刈り入れや雑用の手伝いをすることもあった。カムパはこの「新漢人」に警戒心を持ちながらも、おおむね好感をもった。
これゆえ東蔵民青は苦心しながらも、拠点ごとに中共軍を支援する体制を作り上げることができた。彼らは農牧民と数万頭のヤクや馬を動員して、中共軍の武器弾薬、食料を運んだ。

敗者と勝者
中共軍はチャムドを占領すると、総督府の権力を剥奪し、アワンジグメ以下高官を捕虜とし、兵は釈放した。中共軍にしてみれば、「政教一致の残酷な封建農奴社会」の悪の勢力を、正義の中共軍が打倒したのである。将校のなかには捕虜に対し囚人以下の過酷な扱いをするものもいた。戦勝祝賀会では、中共軍の領袖が舞台の一方に座り、他方に敗軍の将を座らせ、中共軍の将兵らが「打倒帝国主義」のスローガンを叫んで相手方を侮辱した。彼らは、ラサ政府こそ反人民・反動で米英帝国主義の手先だと教育されていた。
チャムド陥落の報がラサに届くと、政府と貴族、僧侶上層は激しく動揺した。ツンドゥ(議会)が開かれた。摂政ダクダ活仏らはダライ・ラマ亡命の準備と徹底抗戦を主張し、他のカロン(大臣)とラサ3大寺院は和平交渉に応じるべきだとした。
議論の果てに、歴代ダライ・ラマがやったように神意を聞くことになり、「神おろし」がダライ・ラマの仏殿に呼ばれた。神が憑依した「神おろし」は、15歳のダライ・ラマの足元にひれ伏して「このものを王位に就かしめよ」と告げた。権力に執着してきた摂政ダクダはようやく辞任した。

中共軍のラサ進駐
チベットと中国代表は北京で講和談判に入った。東蔵民青の指導者プンワンは通訳として、ラサ政府代表を説得する役回りを引受けさせられた。チベット側は戦場の敗北を交渉で取り戻すことはできなかった。すったもんだのあげく「17条和平協定」が成立した。
協定は、ラサ政府の現行制度をみとめ、民衆の信仰、風俗習慣は今まで通りとした。重要なのはチベットが中国の領土であることと、中共軍のチベット進駐を認めたことであった。中共軍がラサに進駐しだすと、貴族や政府高官のなかにはインドやアメリカに亡命するものがでた。
進駐した中共軍将兵はわがもの顔にふるまった。将官ですらチベット人を殴った。そのうえ大量の軍隊が一時に駐屯したために、ラサにはインフレと食糧不足が起きた。僧侶と民衆は中共軍を憎み、プンワンには「赤い軍隊をチベットに引き入れた赤いチベット人」という悪意をこめたあだ名が付けられた。
中共は権力機関として「チベット工作委員会」を置いた。プンワンは唯一のチベット人委員であった。ラサ政府は工作委員会とことごとに衝突したが、じょじょに実権を奪われ形骸化してゆく。

ゆめのおわり
すでに1949年、中共の少数民族政策は「民族自決」から「自治」に変わっていた。これをプンワンら東蔵民青が明確に知ったのは、1954年だったという。それまで彼らは、独立の夢がついえたことも、「危険分子」として中共から警戒されているのも知らずに、中共軍のラサ進撃に協力しながら独立の夢を語り、チベット共和国の中国連邦への参加を議論していた。
このため数年後にプンワンの同志の中には、独立を企む「地方民族主義者」として糾弾され、投獄、拷問、自殺の憂き目を見るものが生まれることになる。(つづく)

2019.11.06 人生の贈り物   詩 楊姫銀(ヤン・ヒウン) 訳 小原 紘
韓国通信NO619

小原 紘(個人新聞「韓国通信」発行人)

♪ 春の山に咲く花が そんなにも こんなにも美しいとは
この歳になるまで 本当に知らなかった
もしも誰かが 私の人生の歳月を返してくれると言っても
笑いながら 静かに「結構よ」と云うつもり
先の見えない 霧雨のような若さなら
考えただけでも 大変だから 今の方がずっと好き
それが人生という秘密 それは 人生が与えた うれしい贈り物

♫ 春の山に咲く花が そんなにも こんなにも美しいとは
この歳になるまで 本当に知らなかった
私の人生という花がすべて咲き また 散ったその後に
初めて 私の心に ひとつの花が入って 咲いていた
ベンチに座って 何も語らず 頷きながら
私の心がわかってくれる友がひとり ひとりでもいたなら
ただ座って 何も語らず 沈む太陽を
一緒に眺めてくれる友がいるなら それ以上 望むことはない
それが人生という秘密 それは人生が与えたうれしい贈り物   <ヤン・ヒウン>

韓国通信619(1)
https://www.youtube.com/watch?v=UxFX-IoHjRQ  集会で「朝露」を歌うヤン・ヒウン2016/11/26

 高校時代の同級生8人と栃木県益子へでかけることになった。それも一泊旅行だ。
 これが「最期の旅行になるかも…」という幹事のつぶやきを聞いて、『人生の贈り物』という詩が思い浮かんだ。
 花の美しさに気づき、友への感謝と自分の人生へのいとおしさが静かに語られる。
 旅行には、2011年の災害に見舞われた福島の同級生が参加するし、今回の水害で大きな被害を蒙った千葉からも二人が参加する。参加者はそれぞれこの詩のように人生を語るのかも知れない。

 詩を作ったヤン・ヒウンさんは、1970年代の韓国の民主化運動で『朝露』を歌った反体制歌手として知られる。詩は彼女の歌手生活のエンディングを思わせる内容だが、実はそうではなかった。各地のローソク集会に参加して精力的に歌い、市民たちを感動させた。「若さはいらない」「沈む夕日を一緒に眺めてくれる友がいればいい」と人生をまるで達観したようでいて、社会変革の先頭に立つエネルギーに溢れた67才。
 有名な観光地はいくらでもあるのに、なぜか益子。「水先案内人」に指名されたのをいいことに、益子の「二つの美術館」を案内することにした。旅の終わりに真岡鉄道のSLに乗って少年少女時代に帰る。「人生の贈り物」になるかも知れない。

益子 二つの美術館
濱田庄司記念益子参考館 公開1977年
 濱田庄司(1894~1978)の自宅を活用、生前蒐集した陶磁器、漆器、木工、金工、家具、染織などが展示されている。展示品は国内、朝鮮、中国、中近東、ヨーロッパ各地、年代も多岐にわたる。住居、工房、登り窯から生前の民藝作家の生活ぶりがうかがわれる。
 濱田庄司を知るうえで柳宗悦、河井寛次郎、バーナード・リーチらとの交友を欠かせない。
 特に柳宗悦の民藝運動(白樺派文学にもつながる)に共感し、民の工芸に敬意を抱き続け、ともに「親しさのある美」と「心」を追求した。
 濱田は柳亡き後、日本民芸館の二代目館長に就任。二人は終生、民藝運動の同志だった。

韓国通信619(2)
 写真/左から濱田庄司 柳宗悦 河井寛次郎

関谷興仁陶板美術館「朝露館」 公開2016年
 陶芸家関谷興仁(1932~)が自身にとって大切な記憶を彫り続けた陶板作品を展示。テーマは「済州島4.3事件」「広島・長崎」「福島」「チェルノブィリ」「ホロコースト」「中国人強制連行の記録」など、無辜の死を迎えた、名も無い民への鎮魂、「悼」である。
 作家の執念が周囲の人たちの協力で実を結び、異色の美術館として3年前に一般公開。
 「温故知新」、静寂のなかに記憶と未来を語り続ける。また夫人の石川逸子の詩集『千鳥ケ淵へ行きましたか』の作品コーナーもある。
 常設展示の他に企画展、講演会、音楽会、映画会など多彩なイベントが取り組まれ、地域交流の拠点になっている。

 民が作りだす美を極上とし、優劣と偏見のない世界、互いの価値を認め合い、争いと無縁な世界を目指した民藝運動と朝露館が現代社会に問いかけるものに変りはない。ここへ若者ととともに訪れ、過去と現在、未来を語る有意義な時間を過ごしてほしい。

 運営は東京と地元のボランティア、財政は100名を超す会員の会費と入館料で支えられている。春秋の陶器市で賑わう益子に誕生した美術館は、参考館から徒歩でわずか数分のところ、林に囲まれた静寂のなかに佇む。朝露館のホームページは http://chorogan.org/