2019.04.20 「今だけ、金だけ、自分だけ」に傾斜した社会
平成とはどんな時代だったか

岩垂 弘 (ジャーナリスト)

 あとわずかで「平成」時代が終わり、「令和」時代となる。平成は30年で幕を閉じるわけだが、平成とは結局、どんな時代だったのだろうか。そうした設問に答えるには、多面的な角度から総合的に分析すべきだろうが、そうした作業は専門家に任せて、ここでは、平成の世の巷の一角で生きてきた1人の人間として、過ぎ去りゆく時代への表層的な印象を書いておきたい。

 「平成」末期にある日本の世相を一言でいうとどうなるか。私には、「『今だけ、金だけ、自分だけ』という『3だけ主義』がまんえんする社会」という表現が一番ぴったりするのではないか、と思えてならない。

 私が「今だけ、金だけ、自分だけ」というフレーズを耳にしたり、メディアで散見するようになったのは、ここ2、3年のことのような気がする。日本農業新聞によれば、「今だけ、金だけ、自分だけ」というフレーズは、東京大学大学院の鈴木宣弘教授が『食の戦争』(文春新書、2013年)の中で使ってから広まったという。
 ともあれ、「今だけ」とは、将来のことは考えず、目先のことだけしか見ない、考えないという刹那的、近視眼的な思考・行動のことであり、「金だけ」とは、全てを金銭面だけからとらえるという拝金主義的な生き方のことだろう。そして、「自分だけ」とは、自分のことしか考えず、他人や社会のことには目もくれない、つまり、自分ファースト的な生き方のことを指すとみていいだろう。

 こうした「3だけ主義」が人びとの間で次第に強くなっていったのが「平成」という時代の主要な一側面だったんではないか、というのが私の実感だ。これには、さまざまな要因があったと思われる。

 まず「今だけ」という行動パターンが人びとの間に浸透していったのには、その背景に経済的要因があったからではないか。
世界でも稀にみる連続的な高度成長を続けてきた日本経済が失速したのは、平成3年(1991年)のことだ。いわゆる「バブル崩壊」である。これを境に日本経済は停滞期に突入する。しかも、それは予想を超えた長期のものとなり、その後「失われた20年」と呼ばれるようになる。安倍政権によるアベノミクスも日本経済が低迷から脱出する決定打とならず、最近では「日本経済は今や“失われた30年”に向かいつつある」と述べる経済学者も現れる始末だ。
 この間、日本経済の沈滞を強烈に印象づける出来事があった。それまで世界2位の地位を維持してきた日本のGDP(国内総生産)が、中国に抜かれて世界3位になってしまったことだ。平成23年(2011年)のことである。

 省みると、バブルの崩壊までは、すなわち昭和の時代までは、人びとは「経済は無限に右肩上がりの成長を続ける」と信じ込んでいた。このため、将来に明るい展望を持つことができた。ところが、平成時代に入って経済の停滞が長期にわたるようになると、未来に明るい展望を持てなくなった。むしろ、不安に襲われるようになった。これでは、人びとが「将来のことを考えてあくせくするよりも今の今を大切にしよう」という生き方に傾いていったのも当然というものだろう。

 平成に入ってまもなく起きた世界的な出来事もこの傾向に拍車をかけた。平成3年(1991年)のソ連消滅である。
 第2次世界大戦後、世界を支配してきたのは、2大超大国の米国とソ連だった。米国は資本主義陣営の、ソ連は社会主義陣営のリーダー。両国は「東西冷戦」で対決し、時には核戦争の危機さえ到来した。が、ソ連の消滅により、世界は一つ、それも米国一極の体制に変わった。地球はグローバルな世界となり、人と物が国境を越えて移可能動になったから、巨大な経済力で世界経済を支配するようになったのは多国籍企業だった。日本の企業もグローバル化に対応するための効率化を迫られ、合理化が進んだ。

 それまでの日本企業の成長を支えてきたのは終身雇用・定年退職・企業内組合の三つだった。グローバル化で効率化を迫られた企業は終身雇用と定年退職をやめた。この結果、労働者の身分と生活は不安定になった。なぜなら、終身雇用制度と定年制があったからこそ、労働者の暮らしは安定し、将来を見越して生活設計ができたからである。
 労働形態も「正規」と「非正規」に分断された。非正規社員は非正規社員より労働条件が悪いから、その日暮らしに精一杯で、とても将来に向けて生活設計をする余裕などない。
 こうした労働環境の変化も、人びとを「今だけ」にこだわらざるを得ない状況に追い込んでいったと言える。

 「金だけ」がはびこるようになったのはなぜか。私の見方はこうだ。
 第2次大戦後の日本が高度な経済成長を遂げるようになったのは、私の感覚では昭和35年(1960年)以降のような気がする。この年、60年安保闘争(日米安保条約の改定に反対する運動)があり、闘争直後に発足した池田勇人内閣が「高度経済成長・所得倍増」の実現を掲げたことが、高度経済成長に向けて突進するきっかけとなった。その後、日本経済は年々、平均10%以上の経済成長を達成する。まさに「奇跡」だった。
 これに伴い、人びとの価値観も変わった。「金があれば何でも手に入る」「金がすべて」といった、金に至上の価値を置く考え方が人びとの心をとらえ、拝金主義が広がった。高度経済成長が始まる前の日本社会では、金品への崇拝はあったものの、その一方で、学識とかモラルにも高い価値を認める規範みたようなものが存在していたように思う。
 拝金主義の横行は、人びとの心をすさんだものにした。金をめぐる犯罪は平成になって増えたように思う。
 社会保障が十分でないことも、人びとを金に執着させるようになった一因だろう。


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2019.04.19 憲法改正国民投票のCM野放しに批判
民放連、形ばかりのガイドライン発表

隅井孝雄 (ジャーナリスト)

▼国民投票CM野放し、改憲派に有利だと批判の的
国民投票法では投票2週間前からのテレビスポットが禁止されているが、それまでの間は自由とされている。民放連は「国民投票運動の自由を尊重する」として反対派,賛成派のCMについての量的規制は行わないと決めている。それに対し「改正派を利する」との批判が寄せられている。
護憲派市民グループや護憲派政党は国民投票が始まることになれば、資金豊富な改憲派がテレビCM枠を大量に買い占め、世論誘導に活用するのではないかと強い警戒感を表明している。
20054_憲法国民投票1
(1)国民投票の流れ(18年11月7日東京新聞より}

▼民放連ガイドライン公表、立憲民主、国民民主はCM規制主張
そんな中、3月20日、日本民間放送連盟(民放連)が、「憲法国民投票ガイドライン」を公表した。
 民放連ガイドラインでは、特定の広告主のCMが一部の時間帯に集中して放送することを避ける、売名につながりやすい個人出稿のCMは扱わない、児童、青少年の出演は十分な配慮を行う、企業広告や商品広告に付加して意見や主張を盛り込む広告は扱わない、CM内で国民投票CMであることを明示する・・・・などとしている。
 また政党や政治活動を行う団体がCMを出す場合、公職選挙法の禁じる選挙事前運動と混同されないよう、党首や代表者に限定するとした。
 さらに、「視聴者の心情に過度に訴えかけ、事実と異なる印象を与えると判断されるCMは取り扱わない」ともしている。ガイドラインは合わせて19項目。しかし、民放連が規制をかけるのではなく、あくまで最終判断は放送する局に任される。
 特定広告主が特定の時間帯に集中ことを回避するよう婉曲に促していると受け取られているが、あいまいな表現にとどまっており、資金豊富な組織がCMを集中的に投入する可能性がある、という問題は残ったままだ。
 これに対し、立憲民主党はCMでの意見表明を全面禁止する案を、国民民主党は政党のCMを禁止し、民間団体のCMも5億円を上限する案を提案している。

 ▼アメリカはCM多用、ヨーロッパはCM原則禁止
 アメリカでは国民投票は行われていないが、州の住民投票はひんぱんに実施されている。そしてスポット・コマーシャルが州単位のテレビ放送、市町村単位のラジオ放送で多用されている。基本的には規制条項はなく、言論、表現の自由の一環とされている。日本の民放連もアメリカの制度にならったものとみられる。
 ところが公共放送が主流のヨーロッパでは、CMによる意見広告は原則禁止であり、それに伴って、住民投票、国民投票の広告放送はほとんどの国で認められていない。
 2016年6月にイギリスでEU脱退か否かの国民投票が行われた際、イギリスの公共放送BBCは積極的な自主番組を数多く編成、放送した。
「アワー・ワールド、世界は今、ユーロピアン・ドリーム」は欧州統合の動きを65年にさかのぼるとともに、一つの欧州という理念の揺らぎをとらえるドキュメンタリー番組であった。
また「EU移民の真実」では英国に移民してきた人々の、貢献、苦難、問題点を中立的な視点からとらえた。さらに国民投票の直前には「EU国民投票大討論会」と銘打つ長時間テレビ討論を、BBCプレスセンターから公開生放送した。
 BBCワールドのネットワークを活用しパリ、オランダ、スコットランドからの生中継放送を4日間にわたって生放送で伝えた。
 イギリスにもCMを財源とする、民間放送があるが、国民投票法ではCMによる放送は禁止されていたため、もっぱら報道番組として編成が組まれ、テレビ討論番組の形式での国民的論議が展開された。この中にはソーシャルメディア上のライブストリーミングも含まれていた。

 ▼テレビCMでの国民投票キャンペーンは邪道、番組で世論喚起を
 元広告会社出身で、国民投票CMが野放しにされている危険性を訴えている本間龍さんによると、日本では巨大広告会社D社が政府広報系のCM枠を一手に握っている。広告枠に投下する資金が仮にあったとして、枠は自民党、国民会議系の「広告主」が事前に抑えてしまうことが可能だ、という。

20054_憲法改悪国民投票2
(2)CM規制を主張する本間龍氏(元博報堂)

 現在、ある特定著名企業が地上波、地上波系BSの43番組でCMを流している。あまりにも繰り返し流れるので、誰でもが一度は目にする。そしてなぜかそのうち70%は報道系の番組だという。扱い代理店はD社。この枠が、国民投票になるとそっくり改憲派のCM枠に転化するのではないかと、一部の広告関係者の間でうわさされている。
 こんなうわさが出るのも、水面下での国民投票準備が進んでいることを示唆しているのではないだろうか。
 日本国憲法を変えるか、第9条を柱とする平和憲法を守るのか、15秒、30秒のスポットCMでキャンペーンするという発想自体に問題がある。
民放は憲法に関する国民投票を儲けの対象にするべきではないだろう。報道番組を積極的に制作することで、市民の関心を盛り上げることに貢献すべきではないか。またNHKにもBBCにならって、憲法問題を深く掘り下げる番組、討論番組など編成し、数多く放送するよう要望したい。

2019.04.18 農業の崩壊、それとどう闘うか
――八ヶ岳山麓から(280)――
                           
阿部治平(もと高校教師)

2017年夏、わが村の野菜栽培を揺るがすニュースが流れた。一部の畑でブロッコリーが黄色くなって枯れ、商品として市場に出せなくなったのである。原因は作物に寄生するテンサイ・シスト線虫である。
さらに2018年夏、標高のやや低い畑のセロリーやブロッコリーが発育不全のため、商品にならなくなったことが問題となった。この原因は夏の高温障害と見られた。
私の村は、水田と畑が相半ばする。農業総生産額は41.9億円だが、野菜が29.4億円で70%をしめ、花卉5.3億円がこれに次ぎ、かつて生産額のほとんどを占めたコメは5億円である。野菜の中心は夏場の生産全国一のセロリー、さらにブロッコリー、ホウレンソウである。というわけだから野菜栽培が農家経済を左右する。

まず線虫の話から
土壌にはさまざまな線虫が棲息する。ジャガイモの根に寄生し、生育不良を起こすものがジャガイモシスト線虫である。戦後北海道の一部地域がこれに汚染されていることがわかった。もともとアンデス山脈地域が「原産地」で、それがオランダ・フランスの一部に伝染したのだが、北海道への伝染ルートはわからない。雄雌別体で、メスが死んでも卵は丸い包嚢つまりシスト(cyst)に包まれて長年生き、それが孵化するとまたジャガイモの根に寄生する。包嚢状態では駆除が難しい。
わが村では、一部の畑でブロッコリーのできが悪いのが2,3年続いた。途中経過は省略するが、2017年9月最終的に植物検疫官が現地調査をし、日本では未発生のテンサイシスト線虫(Heterodera schachtii)であることを確認した。キャベツ・レタス・ブロッコリー・カリフラワーなどのアブラナ属、テンサイ(甜菜)などのフダンソウ属が宿主である。昨年末にはトマト(ナス属)も宿主植物とされた
http://www.maff.go.jp/pps/j/information/kinkyuboujo/hs.html)。
いま畑34ヘクタールがこのシスト線虫に汚染されている。どういう経路でいつ入ってきたのかわからない。これは耕土について移動するから、汚染畑に人や農機を入れることはできない。
2018年の1年間、私は現役の農家ではないものだから、シスト線虫発生のニュースを聞いても、ただただ県や国当局の対策を見ていただけだった。村当局も長野県と農水省の専門家を頼りにした。農水省が県当局と協力してとった蔓延防止策は、土壌の移動防止措置の実施・発生畑における宿主植物の植栽の自粛・土壌消毒の実施などだった。
海外ではシスト線虫退治には農薬が用いられているが、日本ではこれがまだ厚労省に認可されていないから使えない。対抗作物として野生トマトの一種が有効らしいが、まだ導入されていない。とりあえずは土壌燻蒸剤 のDD剤を使用して除去しているが、完全に駆除できるわけではない。だが、完全でなくても線虫の生育密度が減少すれば、その害も減少するから作物ができないわけではない。
昨年末、専門家が生育密度を検査した結果、基準値以上の9ヶ所の畑は2019年度も防除を継続することとし、そのほかの基準値以下の畑は、耕土の洗浄を続けながら、アブラナ属など宿主植物の作付けも可能となった。もちろん以前の生産を取りもどすことはできない。
この災難は、本当は個人の問題ではないが、個人情報保護という理由で汚染畑は公表されていない。農家としても自分の畑にわけのわからない疫病神が住み着いたなんて、誰にも知られたくはない。当局からの情報も該当農家に通知されるだけである。
村の中には、まだ汚染が拡大していない耕地のサンプリング調査をした方がよいとの意見もあったが、昨年村当局は作物に異常があったときは「役場に連絡をください」というにとどめた。今まで農家から連絡があったとは聞いていない。

高温障害について
長野県でセロリーの主産地は、松本平と諏訪地方の高冷地である。諏訪ではわが村を中心とした八ヶ岳西麓の標高1000m前後の耕地である。わが村の気候は、最寒月の1月の平均気温は氷点下3.2℃、最暖月の8月の平均気温は21.6℃、年降水量1284mmだから亜寒帯湿潤気候といえよう。
セロリーは「諏訪3号」と呼ばれる白い部分の多い、冷涼を好む品種である。寒冷期産地静岡県とのリレー栽培の協定が結ばれ、これによって季節的出荷量のバランスをとり、価格の安定につなげている。
従来からセロリーやブロッコリー栽培地は、温暖化のために少しずつ標高の高い畑へ移動していた。ところが2018年は7月中旬から8月上旬まで最高気温が30℃を超す日が続いたため、セロリーは標高1000m以下の大面積にわたる畑で商品にならなくなった。ブロッコリーも数年前から標高の低い他地区では、生育不全のために畑でひき潰したり、刈取ったりすることがあったが、昨年はわが村でも標高1000m以下では同様の災害が生まれた。
温暖化効果ガスは増加の一途をたどっている。今後も高温障害は避けられないものと考えなければならない。このままでは、夏場の他の作物にも被害が及ぶ危険がある。
考えられる対策は、より冷涼な高地へ耕地を移すか、新品種を導入するか、作物を花卉などに転換するかである。開墾するとすれば、対象は非農業振興地域の山林だからカネと時間がかかる。
新品種については全然見通しがないわけではない。今年になって長野県野菜花卉試験場(塩尻市)が、既存品種より2割ほど収穫量の増加が期待できるセロリーの新品種を開発したと伝えられた(信濃毎日新聞2019・03・14)。これが比較的温暖な気候でも栽培できるのを期待している。とはいえ、実際に商品生産をするまでには、農家が新品種の特徴を知り、栽培技術を習得しなければならないから、2年や3年はかかる。作物転換も新品種の導入と同様の時間とカネがかかる。

迫りくる破局、それとどう戦うか
今年はセロリーもブロッコリーも標高の比較的低い畑では、栽培をあきらめるしかない。現状は破局とは言えないまでも、それが迫っていることは確実である。
私は、以上の災害情報を主に農家2人から得た。その1人はシスト線虫の被害を受けた畑の持主だったが、事実を躊躇することなく語った。私はこの危機的状況を聞きながら、60数年前の桑畑から西洋野菜への転換を思い出した。
明治時代から続いたわが国の養蚕・生糸生産は、1957年ピークを迎えたものの、翌58年には繭値の暴落があって徐々に減少し、69年には中国に追い越された。わが村では60年前後から繭の安値に悩まされた農家が桑畑の桑の根を引抜いて、大根・キャベツ・セロリー・レタスなどの野菜栽培と乳牛飼育に転換した。70年代に牛乳がだめになると、野菜栽培は村全体に拡大した。当時、新作物の導入を主導したのは農協で、現場では県当局と農協の若い技術者が頑張って栽培技術を普及した。
いま、わが村は60数年前と似た状況に直面している。
かつてはコメに頼りながら、養蚕に代わる新しい農作物を導入した。現在は農業以外の収入の方が多い第二種兼業が多くなっているから、養蚕の崩壊期ほどの全面的な農家経済の危機とはなっていない。だが、シスト線虫は駆除方法がかなりわかっているのに対して、温暖化対策は見通しが立ちにくい。障害が続けば野菜栽培をやめるものも出る。
農業で生きてきた村である。生業の荒廃は精神の荒廃に通じるかもしれない。線虫と高温障害のほかにも、後継者問題や小規模耕地・遊休農地の整備、さらには外国人労働者の導入など、課題は山積している。これを何とかしなくてはならないと思うが、自分がすでに年を取り過ぎたのが残念である。

2019.04.17 スポーツ選手の体調と精神状態

盛田常夫 (経済学者、在ハンガリー)

高地トレーニングに問題ないか
 池江璃花子選手が白血病を患っているというニュースに衝撃を覚えた。前途ある若い選手が病魔に襲われたことに言葉もない。
 このニュースを聞いてすぐに思ったことは、高地トレーニングの影響である。日本水泳連盟は定期的に高地トレーニング合宿を行っているが、頻繁な高地トレーニングが10代の若い選手の体に与える影響について、医学的な調査や研究が行われているのだろうか。選手個人によって影響は異なるだろうが、意図的かつ一時的に赤血球を増やすことを繰り返すことに健康上の問題はないのだろうか。水泳連盟は専門医グループとの共同調査を行い、健康への影響を見極めるべきだろう。
 同じことは、萩野公介選手についても言える。萩野選手については、精神的な問題を指摘する人もいるし、「イップス」のような状態だと指摘する人もいるが、ベストにほど遠い状態を見れば、たんなる精神的なものではないと考えられる。血液検査で問題が見つからないから精神的なものだというのは早すぎる。もっと精密な検査で体全体の状態をチェックすべきではないだろうか。どこかに問題があるはずである。
 スポーツ連盟は選手の健康状態チェックの頻度を上げて、選手の体の状態を常時把握している必要がある。とくに、肉体を限界まで追い込む練習を繰り返している水泳、自転車、陸上中長距離の選手の場合には、定期的な検査を行う必要がある。いかに自然環境を利用するとはいえ、人為的に赤血球増加のトレーニングを組み入れれば、耐久力が増すというメリットだけでなく、体調変化によるデメリットがどこかに生じるはずである。記録も大切だが、選手の健康は何よりも優先されなければならない。選手生活を終えた後、日常生活に不都合を生じるような健康状態に陥ってはならない。
 自転車競技ではドーピング問題が常に指摘されているが、薬物や血液を使ったドーピングだけが問題だとは思われない。繰り返される高地トレーニングもまた、自然環境を利用する一種のドーピングではないだろうか。各スポーツ連盟は、ドーピングに認定されないから高地トレーニングを繰り返しても良いという姿勢ではなく、選手の健康にどのような影響を与えるのか、多くの専門医や研究者を巻き込んで多面的に検討すべきではないか。

肉体的な状態がメンタルを支える
 スポーツ選手に限らず、一般人の生活においても、メンタル状態を決めるのは基本的にフィジカルな状態である。いくらメンタル面が強くても、フィジカル面に問題があれば、精神的な克服には限度がある。
 テニスの錦織選手は全豪以後の大きな大会での早期敗退が続いた。一見して、勝負への集中力や執着力が弱くなっていると感じるが、しかしそれはたんにメンタルなものではないと思う。
 現在の世界のテニス界は30歳を超えたビッグスリーと20歳前後の若い選手との世代交代の闘いになっている。急速に力を伸ばしている若い選手のほとんどは体が大きく、190cmを超える長身から放つサーヴィスは平均時速で200キロを超える。一昔前の大柄な選手は、サーヴィス力はあっても、ストロークに難のある選手がほとんどだった。ところが、現在台頭している若い選手は皆、サーヴィスも良ければストロークも良い。簡単にストロークミスをしない。
 この若手選手の台頭が錦織選手を苦しめている。相手のストロークをはるかに凌駕するストローク力が錦織選手のランキングを支えてきた。ところが、ここにきて若い選手のストローク力が予想以上に良いので、以前のように錦織選手が簡単に優位性を発揮することができなくなっている。他方、若い選手のサーヴィス力は一流だが、錦織選手のサーヴィス力は三流である。若い選手のサーヴィス平均時速が200キロを超えるのにたいし、錦織選手のファーストサーヴィスの平均時速は175キロ前後である。女子の大阪なおみ選手とほぼ同じである。ランキングが低い選手相手でも、このスピードでは苦しい闘いが続く。小さなトーナメントでも、息が抜けない試合が続く。錦織選手のトーナメント早期敗退は予想の範囲内にある。
 全豪オープン4回戦、対カレーニョ・ブスタ選手との試合はスリリングなゲームとして楽しめたが、錦織選手にとってたいへん疲れる試合だった。試合が5時間にもなった主要な原因は、自らのサーヴィスゲームでセットを締めるべき所で、締めきれなかったところにある。こんな長時間の試合の後に、ジョコヴィッチ選手と試合ができるわけもなく、途中棄権になった。サーヴィススピードを時速10キロアップできれば、要所を締めて、試合時間を短縮できる。錦織選手にもう少しだけサーヴィス力があれば、カレーニョ・ブスタ戦は3時間以内で終わっていた。サーヴィス力のなさが、2時間の余計な闘いを強いた。グランドスラム大会は決勝まで7試合あるから、このような試合を続ける限り、決勝進出はほど遠い。マスターズ1000のタイトルがないのも、サーヴィス力の不足が原因である。
 もちろん、錦織選手はサーヴィス力の向上に努力しているはずだが、ファーストサーヴィスの速度に変化は見られない。以前に比べて、センカンドサーヴィスの速度が時速で10キロほど上がっているが。遅いファーストサーヴィスをチェンジアップのように使い、コーナーから外に逃げるコントロールの効いたサーヴィスで勝負することが増えたが、スピードがなければ、ゲームが進む毎にチェンジアップが見抜かれて簡単に叩かれる。
 錦織選手には、サーヴスピードを少なくとも時速10キロ上げることを可能にしてくれるコーチが必要だ。この課題にチャン・コーチはまったく不適任である。錦織選手は適切なアドヴァイスを与えてくれるコーチを選ぶべきだ。それをしないのは、最初から速度を上げることを諦めているか、自らの課題の捉え方が間違っているか、それとも有能な若手の台頭に向上心を失ったかのどちらかである。

2019.04.16 果たして「間抜けな女スパイ」なのだろうか――
米中新冷戦のはざまからこぼれた「?」
 
田畑光永 (ジャーナリスト)

 奇妙な話である。3月の30日(土曜日)の午後、1人の中国人女性が米フロリダ州パームビーチにあるトランプ大統領の別荘「マールアラーゴ」に不法に侵入したかどでつかまったというニュースがあった。これが日本に伝えられたのは4月3日だったが、その時はすでに米連邦検察によって訴追されたということであった。
3日は中国の劉鶴副首相がワシントンで米側のライトハイザー通商代表、ムニューシン財務長官と通商、知財保護など、いわゆる両国間の「新冷戦」をめぐる、予定表に載っているものとしては最後の2日間の交渉を始めた日であったから、微妙な時に奇妙な事件が起きたものと誰しも驚いたはずだ。
 報道によればこの女性は張玉婧(チョウギョクセイ)という名で32歳。自分は別荘内のホテル(この別荘は会員制のリゾートホテルでもある)のプールの会員だと称して中に入り、さらに「国連在米中国人協会」の会合に出席するという理由で建物に入ろうとしたが、そういう会合は予定されていなかったために、怪しまれ、身柄を拘束されたという。
 奇妙なのはここからである。張は拘束されたとき2通のパスポート、携帯電話、カメラなどを所持していたが、ホテルの部屋からはさらにノートパソコン、携帯電話4つ、USBメモリー、ディスクなどが発見され、中には外部からコンピュータを操る「マルウエア」(不正プログラム)が入ったUSBメモリーもあったというのだ。
 そして張の言うことには、チャールズという米国人の友人に誘われて上海から米に来た。会議に出席し、できればトランプ大統領と中米関係について話したいと思ったのだそうである。
米当局はチャールズなる人物を探したが、勿論、見つからなかった。
 この件について、中国外交部の陸慷(リクコウ)報道官は9日の記者会見で、「現地の中国領事館がすでに当事者と連絡をとって、必要な援助を与えている。米側にも法に基づいて、公正、妥当な処理により、中国公民の合法的権益を保証するよう要求している」と当り障りのないコメントをしているだけだ。
 さて、奇妙というのはほかでもない。当人がいかにもスパイらしい所持品やらつじつまの合わない話やらで、わざと自分をスパイのごとく見せかけているからである。うそを言って、白昼、警戒厳重な場所(大統領は当時は不在であったが、ここに滞在中であった)に入ろうとしたり、ホテルの部屋にいかにも怪しげなものを大量に置いたままにしたりと、本物のスパイがこんなバカなことをするはずがない。この話にはなにか裏がなければおかしい。
 その裏を見通すために、まずこの件はいったい誰の利益になる(可能性がある)かを吟味してみよう。先述したように、米中両国間の通商(だけとは言えないが)をめぐる交渉の最終段階が迫っている時期のことだから、それと関連付けで考えてみると、まず米はどうか。
 米としては中国がスパイまで使って、交渉を有利に進めるための材料を集めていたと自国民、はたまた世界を信じ込ませることができれば、世論を味方につけることができるかもしれない。しかし、米にとってそんな小細工が必要な交渉とも思えないし、一方の中国はこの茶番に身に覚えがなければ、交渉態度に変化があるとは考えられない。
結局、米がこんなバカな真似をすることはない、と見て間違いないであろう。それでは中国側か。
 今度の交渉の難問の1つは、中国の官民いずれにしろ、米の技術を盗んでいるかどうか、盗んでいたとすれば、それを今後どう防ぐか、である。もとより中国側は「中国は技術を盗むようなことはしない。盗んだこともない」という態度だから、わざわざ誰かに中國のスパイの真似事をさせるのは、中国自身には「百害あって一利もない」ことは誰の目にも明らかである。
 となると、この件を仕組んだのは米でもなければ中国でもない第3者ということになる。しかし、こんな茶番を仕組む人間がどこにいるか、これだという答えはわいてこない。
 そうこうするうちに4月13日、米のメディアが伝えたところでは、米の連邦検察が12日、張を不法侵入とウソの証言で起訴したということだから、いずれ公判廷で張自身も口を開くであろうし、検察の調査結果も明らかにされるであろう。
 そこで真実が明かされるまでの頭の体操として、私なりの推測を聞いていただきたい。まず、張の行動が伝えられたからといって、すでに見たように米中どちらのプラスにもならないことははっきりしている。
 では、どちらかのマイナスになるか。この設問にしいて答えるとすれば、中国のマイナスになる可能性はある。いくら見え透いた茶番とはいえ、「中国のスパイか」という活字や声が世界中で見えたり、聞こえたりすることは、交渉で「技術を盗むな」という指弾を受けている中国にとっては迷惑千万であるはずである。それで米国の世論が中国に対する警戒心を高め、米政府の交渉態度がよりきびしくなることも予想のうちには入ってくる。それがこの茶番の狙いではないか。
 そんなことを誰が仕組んだか。もとより証拠はないが、中国内の習近平に反感をもつ勢力が頭に浮かぶ。というより、この奇妙なできごとはそう考える以外に、合理的な説明が見当たらない。さらに妄想を発展させれば、張が持っていて押収されたUSBメモリーの中には、ひょっとしたら習近平のアキレス腱ともなりうる中国の国家機密がひそませてあったりしたのでは・・・となる。
 繰り返すが、なんの証拠もない推測である。しかし、アンテナを思い切り広角度にして、今後の両政府当局者の一挙手一投足に目を凝らしていれば、ハタと膝を叩くようなことがあるかもしれない。(190413)

2019.04.15 大阪府議会、大阪市議会でも維新旋風の煽りを喰って野党各派は激減した
大阪維新はなぜかくも強いのか(2)

広原盛明(都市計画・まちづくり研究者)

 2019年4月7日の大阪ダブル選挙投開票日から1週間、選挙の全貌が次第に明らかになってきた。統一地方選の後半が控えているので各党の選挙総括はこれからだが、野党各派は総括作業に苦しむのではないか。それほど見事な負けっぷりであり、単なる負け惜しみのコメントだけではすまされないからだ。まずは、知事選と大阪市長選の結果を地域別に見よう。以下は、その概要である。
(1)知事選では、政令市(大阪市、堺市)、府下31市、同10町村のいずれを取って見ても吉村候補(維新)が小西候補(自公、他)をほぼ6:4の割合で圧倒した。大都市から町村に至るまで維新票が平均して6割(強)を占めたことは、維新が浮動票の「風」に乗っているのではなく、安定した固定票によって支えられていることを示している【表1】。
(2)大阪市長選では、衆院選挙区別に見ると若干の差はみられるもの、いずれの選挙区においても松井候補(維新)が過半数の得票で柳本候補(自公、他)を大きく引き離した。また、大阪市における維新票は、知事選70万票(6割強)、市長選66万票(6割弱)でその差がきわめて少ない。「入れ替え出馬」という奇策が「知事・市長セット投票」という有権者の選択行動に結びつき、事前に不利が予想されていた市長選情勢を覆す結果となったのである【表2】。
Table1and2.jpg

次に、府議選、市議選の結果の傾向についてである。前回統一地方選における両選挙の党派別得票数をまだ入手していないので詳細な比較はできないが、総じて大阪は府議選、市議選ともに革新・リベラル勢力が(著しく)後退しており、かっての支持層であった無党派層の大半が維新に流れているとみられる。
(1)府議選、市議選の党派別得票数は、維新が府議選では過半数、市議選ではそれに近い比重を占めて圧倒的な存在を示した。これに対して自民は両選挙とも2割前後、共産はその半分の1割前後、公明は府議選では1割、市議選では1.5割強であり、立民は影が薄い。【表3】。
(2)府議選は、定数1の選挙区が全53選挙区の6割近い31選挙区を占め、第1党派が議席を独占する傾向が強い(いわゆる「小選挙区制」の影響)。維新は、前回選挙の1人区で自民から議席を奪って躍進したが、今回は31選挙区で26議席(8割強)の議席を獲得し、また定数2以上の選挙区でも第1党の位置を譲らなかった。その結果、維新は前回の40議席に対して51議席を獲得し、過半数を制したのである。これに対して公明は現状を維持したものの、自民は9議席を失って15議席に後退した【表4】。
(3)大阪市議選は定数1の選挙区がなく、定数2が5選挙区(2割)、定数3以上が19選挙区(8割)と事実上の中選挙区制である。その影響で府議選のように大きな議席変動が起こることは少ないとされていたが、それでも今回は維新の躍進で共産が9議席から4議席へ半減(以上)するという激変が生じた。共産は市議会運営においてもこれまで無視できない影響力を発揮してきただけに、今回の大幅減によって議会運営に構造的な変化が起こることも予想される【表5】。
Table345.jpg
【表はクリックすると拡大します】

 今回の大阪ダブル選挙(知事、大阪市長選)の結果については、各紙とも大きな紙面を割いて分析しているのであまり付け加えることもないのだが、府議選・市議選の結果はそれに劣らず重大な影響を与えるものと思われる。そのことに言及した数少ない解説記事に、毎日新聞(4月11日)の分析がある。以下、抜粋して紹介しよう。
 「7日投開票の大阪市議選(定数83)で共産党大阪市議団が9議席から4議席に半減し、56年ぶりに本会議で代表質問できない『非交渉会派』になる可能性が浮上している。大阪維新の会の大勝で立憲民主党は議席を得られず、議会の総保守化が進行している。大阪市議会では、代表質問権などを持つ『交渉会派』になるには内規で5議席が必要だ。共産党市議団が非交渉会派になれば、1963年以来。共産は今回、22人を擁立したが、瀬戸一正団長ら現職4人と元職2人を含む18人が落選。このままでは議会運営委員会に入れず、本会議での一般質問もできなくなる」
 
 選挙結果を受けて、すでに公明には大きな変化が生まれている。大阪都構想の住民投票に向けての協議に公明が入らなければ、次期衆院選で公明現職がいる関西6選挙区で対抗馬を立てる―と維新から恫喝されているからだ。既得権益を何よりも大事にする「常勝関西・公明」のこと、「虎の子」の衆院6議席を失うことなど想像もできないだろう。いかなる犠牲を払っても取引に応じることは容易に予想されることから、遠からず大阪都構想法定協議会での議論が始まるだろう。そのとき、「反維新」各会派はいかなる行動をとるのか、これからの新たな戦略なしには事態に対応できない。今回の選挙総括はそのことと密接に結びついている。(つづく)

2019.04.14 「本日休載」

今日 4月 14日(日)は休載します。

リベラル21編集委員会


2019.04.13 天皇と元号の更新は“新時代”なのか
―「時代」はもっと広義、現実の日本の何が変化したのか

坂井定雄(龍谷大学名誉教授)

9日朝のNHKニュース、政府が高額紙幣の更新を決めたことを「新しい時代をことほぐ狙いがあるものとみられる」と報じていた。NHKに限らず、民放も新聞も、新天皇が即位し、新元号「令和」が施行された際に、新聞も放送も、「新たな時代」をもっと騒ぎ立てるのではないか。
いうまでもなく憲法では、「天皇は日本国の象徴であり日本国民の統合の象徴であって、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基づく。(第1条)」、「皇位は世襲のものであって、国会の議決した皇室典範の定めるところにより、これを継承する」(第2条)、「天皇は、この憲法の定める国事に関する行為のみを行い、国政に関する権限を有しない」(第4条)など8か条が定められている。
しかし、元号については、憲法にはなく、元号法(昭和54年制定)で「元号は政令で定める」とあるだけで、前回 、今回のように内閣が決定したのち、その元号を公表した翌日から施行されることになっている。
憲法で国家の公式暦日を西暦にするか、固有の和暦にするかを全く記載せず、下位の政令で定めたのは、世界では他に例のないという。もちろんイスラム諸国のように、西暦を公的には使用しながら、宗教歴も使用する国はあるが、それは宗教行事の場合などに限られている。日本では第2次大戦敗戦後、現行憲法を制定したさい、なぜ、西暦と和暦の併用にしたのか。おそらく、西暦一本化の主張に和暦使用を固執する保守派が強く抵抗し、一本化はできなかったのだろう。
いずれにせよ、現行法のもとで、天皇が崩御し、後継天皇が即位して、元号が変わっても、それによって政治も、社会も、国民生活も文化も変化するはずがない。
それなのにマスメディアが、「新時代」だとか、「時代が変わった」と騒ぐのは怪しい。時代の意味を勝手に変えるな!歴史学もマスメディアも、日本史時代区分を下記のように、区分してきたはずだ(ウイキペディアによる、西暦)
旧石器時代: 数十万年前―約1万年前
縄文時代:  約12000前―紀元前3世紀
弥生時代:  紀元前3世紀―紀元3世紀
 古墳時代:  3世紀後半―8世紀初頭
 飛鳥時代   6世紀末―710年
 奈良時代   710年―794年
平安時代   794年―1185年
鎌倉時代   1185年―1333年
南北朝時代  1336年―1392年
室町時代  1336年―1573年
戦国時代  1493年―1573年
安土桃山時代 1573年―1603年
江戸時代  1603年―1868年

明治時代  1868年―1912年
大正時代  1912年―1926年
昭和時代  1926年―1989年
平成時代  1989年―2019年

上記のように、時代は、江戸時代まで特定の天皇の在位した期間を指すわけではない。明治以降はそれぞれの天皇の在位期間となったが、新天皇の就任で国と国民生活にかかわる重要な何かが変わってはならないはずだ。せいぜい紙幣のデザインを変えるのも、麻生財務大臣は、天皇が変わったためだ、とは言わなかった。最初に紹介したNHKの「新しい時代をことほぐ」などということを、麻生大臣はさすがに口にしなかった。
新時代などと、はしゃぎたてるのは感心しない。それだけの変化は何もないではないか。ウイキペディア(今日現在)の「時代」の記述を紹介させていただく。苦労して書いているようだが、本来の時代区分以外に、「平成時代や昭和時代は、天皇の在位によって区分されている」と扱っている。

ウイキペディア(2019.4.19)
時代(じだい)とは、時間の継続性の観点で特徴を持った1区切りを指す。観点によって様々な使われ方がある。
歴史の分野では、政治や社会の形態の変化によって時代を区切る(時代区分)。国家体制が明確になっている時代であれば、政権の在処の変遷によって時代を区分する。日本の江戸時代、鎌倉時代などは当時の実質的中央政府である幕府の所在地を時代の名としている。飛鳥時代のように権力者にとって主流な文化として体系化され、普及し、栄えていた文化を時代の名とする場合もある。
平成時代や昭和時代は、天皇の在位によって区分されている(一世一元の制)。
それ以前の歴史(先史時代)では、生活の状態を規定する道具を持ってその生活状態を代表させ、時代の名としている。旧石器時代(打製石器)や弥生時代(弥生土器)等がその例である。時代の名としては使わないが、石器、青銅器、鉄器などの使用も時代を分けるものと見なされる。同様に、広い範囲に影響を与えるような道具や機械などによって時代を分けることもある(テレビの時代など)。
より古い時代は、地質学の分野であるが、そこでは代と紀を用いて体系的に名前を付ける。ただしやや通俗的に上記のような、たとえば恐竜時代といった表現は存在する。
その他にも、象徴的な事柄や社会の情勢、流行、栄えたもの、あるものの幕開けや区分、終わりを「時代」と表現する場合がある。また、最近では、通俗的な表現にとどまってはいるが、ファッションなどの風俗の在り方で時代を区切る考え方も普及している。

2019.04.13 サーカス博覧会
■短信■
サーカス博覧会
原爆の図 丸木美術館で企画展

 日本の近代サーカスの始まりは、軽業集団・曲馬団の一座が、江戸時代末期に来日した外国サーカスの影響を受け形づくられたものです。軽業、足芸、曲馬といった日本の伝統芸能を残しながら、日本独自のサーカス文化が花開き、その文化は朝鮮半島にも及びました。
 本展では、近年のサーカスや見世物小屋を彩った絵看板やポスターなどの貴重な実物資料、記録映像などを多数展示し、さらに、サーカスに惹かれ、その内外の姿を見つめた画家や絵本作家、写真家の作品も紹介します。サーカス創成期から集められた約120点の作品をご覧いただけます。
 主な出品作家は志村静峯(絵看板・絵師) 、津崎雲山(同)、丸木俊(画家)、澤田正太郎(同)、本橋成一(写真家) 、スズキコージ(絵本作家)ら。

期間:5月26日(日) まで
開館時間:9時~17時
休館日:月曜日
会場:原爆の図 丸木美術館(埼玉県東松山市下唐子1401 電話0493-22-3266)
入館料:一般900円、中高生または18歳未満600円、小学生400円
主催:サーカス博覧会実行委員会(原爆の図丸木美術館、ポレポレタイムス社、新宿書房)
アクセス:★自動車の場合 関越自動車道東松山インターより小川方面10分★電車の場合 池袋駅より東武東上線急行に乗り、東松山駅、森林公園駅、つきのわ駅のいずれかに下車。森林公園駅からタクシーで12分、徒歩で50分。東松山駅東口から(日曜除く)市内循環バスに乗り、丸木美術館東で下車、徒歩15分。つきのわ駅から徒歩30分
(岩)
2019.04.12 上滑りする日本の世論

盛田常夫 (経済学者、在ハンガリー)

 外国に居て日本のニュースに接するたびに、日本の政治家の意見や世論があまりに上滑りしているのが気になる。政治家が未来社会の方向性を示すのではなく、次の選挙の人気取りのために、あらゆる問題や機会を自らの知名度の向上のために利用しているとしか思われない。世論もまた、そのような俗な政治家と同じレベルで、短期的な利益を追い求め、複雑な問題の理解に努力しようとしない。その場しのぎの場当たり的な政治と世論が、日本社会の土台を劣化させているように思える。

問題の根源を知ろうとしない
 消費税であれ沖縄の基地問題であれ元号であれ、人々は問題の根源を知ろうとせず、政治家の浅薄な言動を鵜呑みにしている。
 なにゆえに税収を上げなければならないのか。20年分近い税収を前借している日本の予算はいつまでもつのか。税収を上げなければ日本の将来はどうなるのか。
これらの問題を深く考えることなく、多くの国民は国が何とかしてくれるはずという根拠のない淡い期待を抱き、政治家の言動に一喜一憂している。政治家はポイント還元や軽減税率など基本問題の周辺の事柄に人々の眼を向けさせ、いったい何のための増税なのかを丁寧に説明しない。「経済学者」と称するいかさま「学者」は、国債が国内で消化されている限り財政破たんは起きないとか、政府の債務は日銀の債権だから、相殺されて債務がチャラになるとか、とても学者とは言えないような馬鹿な言動を吐いても、世の中で食っていける。「経済学者」ほど、いかさまな職業はない。それもこれも、現代の「経済学」はイデオロギーの域を超えていないからである。アベノヨイショの「経済学者」ほど、インチキ学者が多い。
国債が国内で消化されている場合には最終的な債務は国民が負い、国債の多くが国外の投資家・投機家の手にある場合には最終的な債務はそれらの投資家が負うという違いがあるだけだ。後者の場合には、投資家は利益確保のために、投機的な動きを繰り返すから、そのたびに、国民経済が国外の投機に晒される影響を受けるが。
当たり前のことだが、永遠に国家債務を積み上げることはできない。やがて政府の首が回らなくなり、債務を減らすために、借金棒引き政策を実行せざるを得なくなる。その時に、国債所有者がすべての債権を失うだけでなく、普通の銀行預金ですら、預金封鎖にともなうハイパーインフレよって無に帰す。すべての近代国家は戦争の度に、国家債務のリセットを行ってきたし、社会主義体制崩壊はハイパーインフレで債務債権を帳消しにして、新しい社会構築の出発点を形成した。
日本の場合、南海トラフ地震や根室沖地震が同時に発生、あるいはそれに原発事故が重なる場合には、戦争と同程度の被害をもたらす。政府は国家再建のために財政を捻出しなければならない。少なくとも債務の軽減を図り、過去の債務から解放されないと、思い切った手が打てない。そのための手っ取り早い方法が預金封鎖であり、封鎖の間にハイパーインフレが債権・債務を帳消しにする。この結末に政治家も「経済学学者」も責任を取らないし、取れない。「あとは野となれ山となれ」という政治家や「学者」を甘やかしてきたのが国民だから、国民が最終的な責任を負うということである。浅薄な安倍政治が続くのも民意だとすれば、国民はその結果も甘受しなければならない。
こういう深刻な問題を回避するために、税収の前借りを続けてはいけないのだ。しかし、政治家も国民も、当座のことしか考えない。こういう上滑りの政治が蔓延している限り、日本の将来はきわめて危ない。上滑りの浅薄な宰相や政治家が日本を動かしている限り、日本の未来は明るくない。

沖縄基地問題と元号
 象徴天皇制になってから天皇の実質的な地位は変化しており、国家形態からは立憲王政だが、実態上は議会制民主主義と王政の残骸の混合形態である。王政の下で発案された元号を有難がるのは、日本国民の民主主義の民度が低いことの表れにほかならない。王政の残滓である元号を使いたい人は使えばよいが、日常的には無用の長物である。それを政府が強制するのは王政の残滓を国民に強要することに他ならない。
 こういう問題を考えることなしに、新元号に沸き立つ世論は悲しい。元号を文化というなら使いたい人が使えばよい。しかし、民主主義国家なら公文書で強制するのは間違っている。
 安倍首相は東京五輪招致に際の演説で、「原発問題はすべてコントロールされている」と平気で嘘をついたが、沖縄辺野古基地建設でも「サンゴはすべて移植されている」と、出まかせの嘘をついている。こういう誠実さに欠ける政治家は信用ができない。自らの権力の維持と人気取りのために、あらゆることを利用しているだけだ。リオ五輪の閉幕式でも、自らがスーパーマリオに変身する人気取りの演出で、国家予算から10億円を超えるお金が支出された。こういう宰相の低能さや不誠実さを見抜けない国民は、いずれ自らの身にその付けが回ってくること知らなければならない。
 ネット右翼は沖縄基地を日米同盟の維持・発展から不可欠だと主張しているが、日本とアメリカとの間の軍事関係は誰が見ても「同盟」などというものではなく、戦後占領が延長された「軍事従属」である。アメリカに従属していることを認めたくない右翼が、真の民族主義者であるはずがない。アメリカに身をゆだねる政治姿勢が民族主義であるはずがない。それこそ彼らが好んで使う「売国奴」だろう。昔から、日本の右翼や保守政治家はアメリカへの従属から目をそらし、「従属」を合理化するために、「同盟」という用語を使うようになったが、言葉の問題ではないのだ。
 平成時代に戦争はなかったというが、湾岸戦争やイラク戦争に出撃するアメリカ軍を支援してきたことを忘れている。戦後最大の戦争犯罪であるヴェトナム戦争で、日本のアメリカ軍基地、とくに沖縄の基地はフル稼働で利用された。他民族の殺戮に日本の米軍基地が使われたことについて、日本人はきわめて鈍感だ。アメリカに従属しているから、自分たちは関係ない、知らなくて済むということではあるまい。しかし、「民族的な自立や主権」を意識することのない日本人には、こういう問題に思いをはせることが難しい。

 ふるさと納税の返礼品も同じである。事の本質から逸脱して、いつの間にか返礼品競争を行うようになっている。税処理の担当職員だけでなく、返礼品の仕入れ・発送を担当する職員を配置しなければならない。それは皆、コストである。大きな都市の場合にはその経費は相対的に小さいかもしれないが、小さな町では経費負担が重いはずである。そうなると、何のための「ふるさと納税」が分からない。
 消費税、元号、沖縄基地、ふるさと納税も、皆、根本問題を避けて上滑りしている。何が真の問題なのかに関心をもつことなく、目先の利益に一喜一憂して、浅薄な政治家の罠に落ちている。何とも情けない。