2018.04.26 「昭和の時代」を物語る写真集

―私的エールですが読んで下さい―

半澤健市 (元金融機関勤務)

 私事から始めることをお許し願いたい。
2018年4月16日開催の高校同期会の案内に「橋寿」記念とあった。意味不明のまま出席したら、幹事が「橋」は「ハシ=八四」の意味で八四歳の祝いだと説明した。
2年前の「半寿」の会は、「半」を「八十一」と読むのだと広辞苑に記述があった。

《新制中学・新制高校・六三制の同窓会》
 私の年代の高校進学者は、1947年に発足した新制中学の第一期生で、1950年に新制高校へ入った。旧制府立二中、現在の都立立川高校である。かつての進学校も今は一時ほどの勢いはないが、青春期の三年を過ごした母校に、私は自分なりの愛着がある。

当時、2・3年生の上級生は、全員男子の旧制中学からの移行組であり、我々新入生は「試験なしで中学に入った〈六・三型〉だ」と、揶揄された。「六・三型」とは、戦後改革による教育の「六・三制」と、ドアが開かずに大火災事故となった国鉄車両の名称「モハ六三型」とを掛けたマイナスのイメージの表現である。事故は「桜木町事故」(1951年)と呼ばれた。

幹事報告によると同期生の現状は次の通りである。卒業生411名(男女比は3対1)。その内訳は、連絡可能235、出席71、欠席89、無回答75、物故者・不明者176。
約2時間半の写真撮影、挨拶、雑談に自ら入り観察した私の印象は、「子供から大人になり再び子供へ還ってゆく動物」、これが人間だというものである。出席者の三分の一の言動は、思い込みと同じことの繰り返しであり、私には理解不能であった。私の言動も他人にはそのように映るのであろうと思った。

《『昭和の東京』というアマチュアの写真集》
 前振りが長くなりすぎた。私の伝えたいのは、上記の同窓会で知った一冊の写真集である。同級生である著者と話し込んでこの話になり、彼は親切にも送ってくれたのである。
その書名は『昭和の東京―街角の記憶』である。著者(=写真と文)は宮崎廷(みやざき・ただし)。この4月に刊行されたばかりである。
宮崎君の写真への興味と実践を、私は高校在学中には知らなかった。知ったのは15年ほど前である。彼は青梅線沿線から高校に通学していたが、大学は法政大学に進み、社会人としては地元の青梅市役所に勤めた。

同書の「はじめに」に宮崎君はこう書いている。(■から■)
■東京も中心街はすでに戦前の賑わいを取り戻していたが、街を行けば制服姿の米兵や外国人の家族とすれ違い、駅頭に立つ傷痍軍人が奏でるアコーディオンからは「異国の丘」のメロディーが流れ、戦争の影が消え去ったとは言えなかった。私が東京を撮影し始めたのはちょうどそんな時代で、都心へ通学するようになったのがきっかけである。
東京駅を中心として日本橋、銀座といった日本を代表する商店街は、田舎育ちの学生である私にとって別世界のような街であり、浅草へは出かけるたびに新しい発見のある楽しい盛り場だった。(略)本書に収録した写真は昭和30年頃から昭和の終わりまでに、東京の市井の人々の姿を中心に撮影したものである。(略)昭和という時代を支えてきた方々が古い記憶を呼び起こし、読者ご自身の昭和をたどるきっかけにでもして頂ければ幸いである■

《私の企業人時代に見た風景がいっぱい》
 私(半澤)の金融機関勤務は、短期間の海外研修を除いて、1958年から1995年にわたる約40年間、東京を離れたことがなかった。しかもその大半が日本橋であり、次いで丸の内と八丁堀であった。極私的視点になるが、本書18頁の空中写真「空から見た日本橋」(本書中の空中写真は朝日新聞社提供、これも実に良い)に、私が最初に入った企業である「野村證券」のビルが写っている。さらに私には―いや私だけには―その看板の下に「東洋信託銀行」という白地の社名看板が見えるのである。後者は前者が都銀二行とともに出資設立した信託銀行であった。そこで私は企業人人生の大半を過ごしたのだが、のちに「三菱UFG信託銀行」に吸収されてしまった。三菱と野村の社員はそんなことは知らぬであろう。一事が万事である。この写真集を時間をかけて見るとき、私は胸に迫るものを抑えることができない。

《あなたを感傷的にしたのちに深い思索をもたらすだろう》
 宮崎君はアマチュアではあるが、自己流で写真を撮ってきたのではない。彼は田沼武能という優れた写真家に師事して腕を磨いてきたのである。田沼氏は、本書をこう評価している。
■写真の良否にはプロもアマチュアもなく、如何にその時代を記録し、その記憶を語っているかが評価される。本書はその時代の東京の人々の暮らしから心意気までを語っており、「昭和の時代」を物語る第一級の記録である■

前振りだけではない。写真集紹介もお前の仲間褒めではないか。
そうではないつもりである。読者には是非、手にとって本書を眺めて貰いたい。
あなたはここに、「モノはなかったが夢はあった時代」の人々の笑顔と希望をみるだろう。高度成長が、「共同体」や「地霊」を破壊してゆくさまを、生活が向上する一方で、「日本の風景」が個性のない景色に変貌する寸前の姿を、あなたは見るだろう。それは、あなたに強い感傷の気持ちと深い思索をもたらすだろうと思う。(2018/04/23)

●宮崎廷(みやざき・ただし)著『昭和の東京―街角の記憶』。フォト・パブリッシング出版、メディアパル発売、2018年4月刊。2400円+税
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2018.04.25 2018沖縄県知事選はどうなる?

宮里政充 (もと高校教員)

翁長知事の苦境――「オール沖縄会議」の退潮と健康不安
翁長県政実現の原動力となった「オール沖縄会議」のホームページには、「辺野古への新基地建設を止めたい―。オスプレイの配備撤回、普天間基地の閉鎖撤去、県内移設断念を求めた『建白書』の精神を実現させるため、2015年12月14日、『オール沖縄会議』は結成されました。『オール沖縄会議』は多くの市民団体や政党、労働組合や経済界、個人に支えられています」とある。今、この「オール沖縄会議」に退潮の兆しが見え始めている。

その要因の1つ目は今年2月に行われた名護市長選で支援した稲嶺氏が敗れたことである。この敗北は「辺野古移設反対という民意」を背景に政府と闘ってきた翁長県政に大きな打撃を与えた。尤も県政与党が推す市長候補が敗れる傾向は昨年の宮古島(1月)、浦添市(2月)、うるま市(4月)と続いており、名護市長選のあとの石垣市(3月)でもその流れは止まらなかった。県政与党支援の候補が当選したのは南城市(1月)だけである。そして現在のところ、沖縄県内11市のうち、9市の保守系市長が「チーム沖縄」としてまとまり、「辺野古容認」、「基地より経済」などの政策を打ち出している。

2つ目は、「オール沖縄会議」の共同代表呉屋守将氏(金秀グループ会長。金秀グループは建設・鉄鋼業・商事会社・ガソリンスタンド・健康食品・ゴルフ場など幅広い分野におよぶ企業グループである)と、當山智士氏(大手ホテルグループ「かりゆし」社長)が相次いで脱会したことである。呉屋氏の場合は名護市長選の敗北の責任をとった形だが、その理由のほかに「オール沖縄会議」が辺野古基地建設の是非を問う県民投票の実施に消極的だということがある。その点は當山氏も同じである。両氏とも翁長知事の支持は続けると言っているが、今後の「オール沖縄会議」内の力関係の変化、たとえば政党色や革新色が表面化してくれば両氏のスタンスが変わることも考えられる。

3つ目は翁長知事の健康問題である。4月10日、知事は浦添市の総合病院で記者会見し、精密検査の結果、膵臓に腫瘍が見つかり今月中に手術を行うことを公表した。会見によれば、手術によって根治すると医師から言われているので手術後早期に復帰したい意向だが、秋の知事選に立候補するかどうかについては明言を避けた(4月11日・琉球新報)。沖縄自民党県連は知事選の日程が早まることも念頭に入れ、候補者選びを急いでいる。

アイデンティティーの闘い
2018年11月に予定されている沖縄県知事選は未確定要素が多い。今後本土政府は「チーム沖縄」にこれまでにないテコ入れをしてくるだろうし、「基地より経済」のスローガンは基地反対運動の展望が見えにくい現状ではかなりの程度県民に浸透していくものと思われる。
ただ、沖縄における米軍基地の問題は辺野古移設だけにとどまるものではない。米軍基地の過重な負担を強いられている現状は、戦後70余年にわたる沖縄全体の安全保障の問題であるだけでなく、沖縄に住む人々の歴史的・文化的アイデンティティーに関わる問題でもあるからだ。
1609年の島津の侵攻、明治の琉球処分、悲惨を極めた地上戦、米軍支配、本土復帰という歴史の流れの中で、米軍基地の存在は沖縄人(ウチナーンチュ)というアイデンティティーを阻害する大きな要素である。つまり、「基地の島沖縄」を自分のよって立つべき根拠として生きたいと思っているウチナーンチュはほとんどいない。名護市の渡具知新市長は「私は辺野古容認派ではない」と明言したが(2月7日、沖縄タイムス)、選挙期間中は辺野古移設に関わることには一切触れなかった。その傾向は他の首長選挙にもみられる戦術の特徴であるが、それは「米軍基地容認」を前面に出しては勝てないことを知っているからである。おそらく渡具知新市長は今後、市の財政が多少潤って福祉政策に予算が回せるようになった半面、辺野古新基地がもたらすさまざまな問題に直面せざるを得ないだろう。そしてその対応の仕方によっては名護市民や県民の信を失い、市長の地位を追われることも十分にありうるのである。

知事選へ向けて―県民投票への動き
辺野古移設工事に伴い、防衛省による無許可の岩礁破砕は違法として、県が国を相手に岩礁破砕の差し止めを求めた裁判で、沖縄那覇地裁の森健一裁判長は「県の訴えは裁判の対象にならない」として門前払いした(2018.3.13)。沖縄県は同月23日に控訴した。翁長知事に残されている次の手は辺野古埋め立ての「撤回」である。専門家の間では、埋め立て承認後でも、国の公益よりも県の公益の方が大きいと判断されるような出来事が生じたと認められる場合には「撤回」できるとの見方がある。翁長知事は2016年4月5日、毎日新聞のインタビューに応じて「撤回も視野に入れる」という考えを明らかにしている(2016.4.6)。名護市長選で辺野古問題については「県と国との行方を注視する」として態度を明らかにしなかった渡具知氏は、3月13日「県は判決に従うべき」という考えを明らかにした(3.3琉球新報電子版)。
 
 さて、ここへ来て「『辺野古』県民投票の会」という市民組織が動き始めた。 米軍普天間飛行場の移設に伴う沖縄県名護市辺野古の新基地建設問題で、建設の是非を問う県民投票を研究してきた学者や学生でつくるグループが「『辺野古』県民投票の会」を組織し、投票条例制定の請求に必要な署名集めを5月から始めることを表明した。請求代表者には呉屋守將金秀グループ会長、新垣弁護士、仲里利信前衆議院議員らが名を連ね、早ければ9月の統一地方選、遅くとも秋の県知事選と同日の投票実施を目指す。
会の代表に就いた一橋大大学院生の元山仁士郎さんは「条例制定による住民投票には確かに法的拘束力はないが、知事の行政権限である撤回と結びつくことで、法的拘束力を持ち得るものになると考える。」(4月18日 琉球新報)と意欲を示した。
県民投票には条例の制定が必要で、県議会へ提案するには有権者の50分の1の署名が必要である(地方自治法)。会としては10分の1(約115、000筆)の署名を目指している。署名期間は開始から2か月間である。「オール沖縄会議」の中には県民投票は翁長知事がリードすべきだという意見、県民を分裂させるので投票そのものをやめるべきだなどの意見があり、まとまっていない。

この秋の沖縄知事選はこれまで見てきたように波乱含みであるが、さらに特に米朝関係に歴史的な変化が生じた場合、知事選はどのような影響を受けるであろうか。(2018.4.21)

2018.04.24 転生ラマは本物といえるのか――ダライ・ラマの後継者
――八ヶ岳山麓から(256)――

阿部治平(もと高校教師)

チベット仏教の頂点にあるダライ・ラマ14世の後継者問題についての報道が目立つようになった。
朝日新聞は、3月7日にチベット亡命政府のロブサン・センゲ首相が「年内に高僧による会議を開き、後継者問題を議論する」と述べたとつたえた(2018・03・09)。
毎日新聞は、3月31日ダライ・ラマ14世のインド亡命60周年を1年前倒しした式典の席上、ダライ・ラマが「我々の文化と言葉を守り抜こう」と演説し、対立する中国を牽制し、さらにインドとの強固な関係を強調したという(2018・04・02)。
週刊文春(4月5日号)では、池上彰氏が「池上彰のそこからですか」で、チベット問題の起源とダライ・ラマの後継問題を論じた。
いずれの記事もダライ・ラマ14世のインド亡命60周年、82歳という高齢を意識している。どの記事でも懸念するのは、ダライ・ラマ14世の転生者問題である。パンチェン・ラマ10世の転生者探しのときの中国政府とダライ・ラマ側との確執が繰り返されるのではないかということである。

すでに30年近く前の1989年2月、パンチェン・ラマ10世はチベット自治区シガツェのタシルンポ僧院で急逝した。95年5月同僧院院長チャデル・リンポチェは中国政府によってパンチェン・ラマの転生者探索の責任者に任命され、「霊童」としてゲンドゥン・チューキ・ニマを捜しあてた。パンチェン・ラマの転生者は最終的にダライ・ラマが承認する慣行だったから、チャデル・リンポチェはひそかにインドのダライ・ラマ14世に認定を依頼し、この子供をパンチェン・ラマ11世として世に出そうとした。
ところがダライ・ラマは中国政府の発表前に、この「霊童」を11世として承認すると発表してしまった。この挙に江沢民主席は大いに怒り、霊童を両親とともに拉致監禁し、チャデル以下チベット側関係者を逮捕した。チャデル・リンポチェは「国家機密漏洩罪」「国家分裂罪」で懲役6年、さらに政治権利停止3年の刑を受けた。
江沢民は「清帝国以来、中国政府はダライとパンチェン両ラマの選定をやる権限がある」として、あらためて10世の転生者探しをやらせた。この結果得られた候補者3人の中から、くじ引きで新しい11世としてギェンツェン・ノルブを選んだ。このパンチェン・ラマ11世は、チベット人からは「ギャ・パンチェン」と呼ばれている。「漢人のパンチェン」あるいは「偽パンチェン」という意味である(「八ヶ岳山麓から」251参照)。

転生ラマはチベットにしかない不可解な存在である。チベットでは、偉大なラマ(師僧)は仏陀がこの世に下された化身であり、輪廻を超越した涅槃の境地に人々を導く菩薩と考える。日本でも輪廻を認めるし高僧崇拝はあるが、その転生者を現世に出現させることなど考えられない。だが現代でもチベット人はこれをあたりまえのこととして疑問は持たない。
しかし、この制度は仏教教義とはなんの関係もない。14世紀半ばにチベット仏教の一宗派によって勢力の維持拡大のために始まり、それが他宗派に蔓延したものである。

ダライ・ラマが属するゲルク派の創始者は改革者ツォンカパ(1357~1419)だが、ゲルク派の初めての転生ラマは、有力豪族の子ソナム・ギャンツォ(1543~88)で、これはのちにダライ・ラマ3世とされた。1世、2世はツォンカパの弟子と孫弟子ということになっている。また同じゲルク派第2の聖者パンチェン・ラマ制度は、17世紀後半から始まった。
いまチベット高原の大小寺院には転生ラマが乱立している。高位のラマの転生者は前任者の遺産を引継ぐ慣行があるから、転生ラマを生むことは家族にとっては権力を得るうえ、財産を増やす絶好の機会である。だから過去各地寺院の転生ラマ選定をめぐってはさまざまな不正が行われた。歴代ダライ・ラマのなかには毒殺を疑われるものもいる。

ダライ・ラマ14世自身は後継者問題だけではなく、転生ラマ制度そのものの存廃について何回か発言している。とりわけ2014年秋ドイツ紙との会見で、「チベット仏教の転生制度を廃止すべきだ」と述べたときには、各方面から強烈な反応があった。とりわけ中国外交部の華春瑩報道官は「チベット仏教の正常な秩序を大きく損なうもので、中央政府と信者は絶対に認めない」と激しく反発した。
唯物論の中国共産党が転生ラマ制度を維持しようというのは、まるで世界観の逆立ちのように見える。だが、これはチベット人社会から絶えず生まれる「造反」を、転生ラマを通して抑える必要があるからである。そのため中国政府は各地寺院の転生ラマを格付けし、対応する地方政府が転生ラマを認証する制度を作った。

ダライ・ラマ転生制度をやめたとき、中国政府にはなにがもたらされるか。
「中共好みの」ダライ・ラマを選定できなくなるのが最大の問題である。中共の認証を絶対条件とする各地の転生ラマの地位も怪しくなる。つまりチベット人を統治し抑える手段が弱められる。
一方チベット民衆にとっては、心の支えと民族の代表を失うことを意味する。身近の転生ラマに対しても尊崇の気持がなくなる。ダライ・ラマの活動によって地球規模で信者が増えたチベット仏教も衰弱してしまうかもしれない。

だが、ダライ・ラマ14世自身も制度の存廃について一貫した考えをもっていたわけではない。近年は周囲の声に押されて存続に傾斜しているようだ。
さきの朝日の記事によると、亡命政府のセンゲ首相は「ダライ・ラマ14世が自らの後継を選ぶべきだ」と語ったという。ダライ・ラマ自身も「チベット人民が決める」とか、「死ぬ前に後継者を選ぶ方がよい」と語ったこともあるから、センゲ氏の発言はこれを踏まえているらしい。
亡命政府が14世の生前に15世を選ぶとすれば、「生前の転生ラマ」という論理矛盾を生じる。それでもダライ・ラマ14世は15世認定するだろうが、それはもはや転生ラマではない。たんなる後継者である。
この場合中国政府は後れをとる危険性がある。というのは中国政府が慣行に従い14世逝去をぐずぐず待っている間に、15世の権威がチベット人地域全体に確立してしまうる可能性が高いからだ。亡命政府の狙いもこの辺にあるらしい。
亡命政府はダライ・ラマ15世を、おそらく亡命チベット人社会から選ぶだろう。すでに、うわさでは2000年にインドに亡命したカルマ派の黒帽派法王ウゲン・ティンレー・ドルジェだという。
中国政府は国内チベット人地域で転生者を探索して15世とし、現在のパンチェン・ラマ11世に認定させるだろう。だが「ギャ・パンチェン」が認定したダライ・ラマ15世をチベット民衆は「ギャ・ダライ」と呼んで崇拝しないだろう。すると15世は、信仰の対象としてははなはだあやしいものになり、チベット人に対する重石にはなりにくい。

来年はダライ・ラマのインド亡命60周年だから、後継者問題は一層具体化するだろう。これはチベット高原はもちろん、内外モンゴルやシベリアのブリヤート・モンゴル、さらには欧米の信者などにも影響する。すでに欧米では仏教といえばダライ・ラマというのが通り相場になっているから、政治的影響も大きい。亡命政府と中共中央がこれをどうさばくか見ものである。

2018.04.23 権力は腐敗する、安倍1強政治は絶対に腐敗する
安倍首相の日米首脳会談の目的はトランプ大統領との「私的取引」(ディール)にある

広原盛明(都市計画・まちづくり研究者)

 このところ、聞くに堪えない、見るに堪えない「底なし」の腐敗現象が目の前に広がっている。モリカケ問題に象徴される安倍首相(夫妻)の国政私物化の事実を隠すため、国会では閣僚や官僚の虚偽答弁が相次ぎ、さらには答弁との矛盾がないように大規模な公文書の改ざんまでが行われる始末。ウソを隠すためにウソを積み重ねるという「底なし」の絶対的腐敗現象が、国家統治機構全体に広がっているのである。

 加えて、「ノーパンしゃぶしゃぶ」以来といわれる財務官僚の退廃ぶりが赤裸々に暴露され、安倍1強政権の奉仕者となった官僚機構の腐敗現象がトップにまで及んでいる醜悪な事態が明らかになった。女性記者の人権を「言葉遊び」など称して散々蹂躙してきた福田財務次官が遂に辞職(更迭)に追い込まれ、福田次官の「人権擁護」を口実に真相の解明を妨害してきた麻生財務相も、漸くその政治責任・任命責任から逃れられない破目に陥ったのである。

 こんな折も折、安倍首相は内政の矛盾を外交で逸らすためか、トランプ大統領とのトップ会談に臨んでいる。しかも、疑惑渦中の昭恵夫人や柳瀬審議官(元首相秘書官)を引き連れての外交日程だ。米朝首脳会談直前の緊張した国際情勢の下で、ゴルフや宴会に同席する(だけの)昭恵夫人を同行させる必要がどれだけあるのか、国民の財産である国有地をタダ同然で払い下げる切っ掛けを作った昭恵夫人を国民の税金で外遊させることが果たして許されるのか――、こんな国民の疑惑や不信感を一切無視しての訪米だ。

 おそらく帰途の機中では、福田財務次官更迭後の政界対応や柳瀬審議官の国会喚問などへの対策をめぐって関係者の間での「鳩首協議」が行われるのだろう。安倍政権にとって未曽有の難局となったこの事態をどう乗り切るか、頂点に達している国民の不信感をどうやわらげるか、低下一方の内閣支持率をどう回復させるか、そのための起死回生の一打はあるかなどなど、関係者の間で集中協議が行われるのであろう。

 そう考えると今回の日米首脳会談の目的は、日米外交交渉などといった表向きの体裁はともかく、安倍首相の政権危機を乗り切るためのトランプ大統領との「私的取引」(ディール)になる公算が大きい。今回の安倍首相の最大の訪米目的は、おそらくはトランプ大統領から「拉致問題」解決のための約束を取り付けること、そのことを梃子にして国民の目を内政問題から逸らして世論の支持を回復させることにあるのだろう。だから、政権の危機を脱するためには国益などはお構いなしにトランプ大統領との「私的取引」に応じる可能性が高いということだ。

安倍首相は、かねがね北朝鮮の核・ミサイル開発の脅威を「国難」と喧伝することで自らの政権基盤を強化してきた。先の総選挙では選挙戦略として「北朝鮮問題」を取り上げ、その脅威を振りまくことで国民の不安を煽り(ミサイルからの避難訓練まで実施させた)、右派勢力を結集させた。また、1基1千億円ともいわれる「陸上型イージス」(ミサイル防衛システム)をアメリカから導入することについても早速予算化させた。いわば、安倍首相にとっての北朝鮮問題は「虎の子」なのであり、その時々の政治情勢に応じて自由に利用できる効果満点のカードなのである。

しかし、安倍首相にとっても泣き所はある。言うまでもなく、拉致問題の解決が遅々として進まないことだ。圧力一辺倒の安倍首相の方針に北朝鮮が応じるはずもなく、そのことが拉致家族や国民世論の厳しい批判を招き、新たな打開策が求められていた。進退窮まっていた安倍首相に対して、その窮状を打開する「千載一遇の機会」「最初で最後のチャンス」を与えたのが、今回の米朝首脳会談ではなかったか。

安倍首相は、自らが招いた国政私物化による政治危機を回避するために、そして懸案の拉致問題を解決するため、今回の日米首脳会談をフルに利用しようとするだろう。そのためには、トランプ大統領の「アメリカ・ファースト」の一方的要求に応じることも厭わないだろう。それが日米貿易の2国間交渉であろうと、TTPへの譲歩であろうと、アメリカからの武器輸入であろうと、如何なる代償を払ってでも自らの政治危機を乗り切るためにはトランプ大統領の要求を呑むのではないか。

安倍政権の危機は、モリカケ問題に象徴される国政私物化から生じた。その危機を脱するために、安倍首相は「拉致問題カード」をトランプ大統領との「私的取引」(ディール)に利用しようとしている。自らの私益のためには国益も顧みない――、ここに究極の安倍政権による国政私物化の姿があらわれている。

2018.04.22 「本日休載」
今日 4月 22日(日)は休載します。

リベラル21編集委員会


2018.04.21 韓国のローソクデモがわが国に与えた影響
韓国通信NO553

小原 紘 (個人新聞「韓国通信」発行人)

2012年12月に行われた選挙で52%を獲得して大統領になった朴槿恵は任期を一年を残し、国民から弾劾され、逮捕された。政権末期の支持率はたったの4%。女性大統領としてもてはやされた一時期もあったが、末路はあまりにも惨めだった。選んだ側にも責任があるのではないかと冷やかしたくもなるが、市民が下したのは不正は絶対に認めないという冷酷なまでの厳しい判断だった。
「お友だち」の便宜をはかり、法を曲げた点では安倍首相も朴槿恵もそっくりだが、4%の支持率と安倍首相の最新の支持率30%台では雲泥の差である。
昨年の総選挙で「圧勝」した自民党は有権者の25%の得票で284議席を占めた。上げ底第一党の総裁が首相になるという仕組みに首をかしげたくなるが、ここに至ってなお30%の支持率の背景には日韓両国の政治(倫理)に対する考え方の違いがあるように思える。
平和主義、基本的人権を謳った日本国憲法を否定する潮流。私たちはこれまで一体何を学んで来たのだろうか。明治維新から150年間の日本人の生き方、自分自身の生き方まで問われるようで空しくなる。

<救いが無いわけではない>
最近、国会周辺を始めとする各地で「異議申し立て」の行動が広がりを見せている。これまでにない新しい大衆の政治参加だ。原発事故以来、毎週金曜日に官邸前で繰り広げられてきた抗議デモが発端となったのは間違いない。
自然発生的、自発的な個人の活動のせいか「烏合の衆」と疑問視されたこともあったが、今では既存の団体や政党も無視できないほど運動の中心に成長した。怒りを声に出す人たちが着実に増え続けている。参加者に悲壮感はなく無理をしていないのもいい。「安倍的」な傲慢な政治とそれを支持する30%を打ち破る可能性が生まれつつある。選挙で世の中を変えることも可能だが、選挙だけでは変わらない限界を越えようとする新たな動きだ。

<日本と韓国の違い>
韓国のローソクデモがわが国に与えた影響は少なくない。集会では「韓国のローソクデモのように闘おう」という声がたびたび聞かれる。怒りをもって集まる人たちの心には忘れ難い事件として今でも生き続けている。
韓国のみならず日本の一部で文在寅新政権を「容共」「社会主義」政権と非難する主張がある。「大企業優先から人間優先社会」「貧富の格差是正」「何よりも平和」を掲げればそういう批判が出るのは当然だ。文在寅大統領が本当に社会主義者だという話は聞いたことがない。「原発をなくしたら経済競争に負ける」「最低賃金引き上げは中小零細企業に打撃だ」「北朝鮮の会話路線に騙されるな」、より民主的な憲法改正提案には「人気取り政策」などとい批判が続いている。公然と噂されていた李明博元大統領の露骨な金権ぶりと不法選挙は朴槿恵政権下では覆い隠されていたが、新政権の下で明らかになり逮捕された。「政治的報復」という非難もあるが「正常化」されたに過ぎない。
2007年に起きた巨大スーパーマーケットの大量解雇事件(映画『明日へ』で紹介され、感動を呼んだ。2014 年作品)は全面解決。KTX女性乗務員解雇事件も解決の見通しが立つなど多くの労働弾圧、政治弾圧事件で朗報が続く。ローソクの力が過去の歪みを正しているのがうかがえる。旧勢力にとって文政権は「恐怖政治」なのだろう。
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【スーパー店舗内で籠城を続けたパート社員たちが機動隊に包囲され、「カート」を押し出して店外に飛び出す感動的な映画最終場面】
「国家機密法」「安保法制(戦争法)」「共謀罪」など、憲法を無視した政権が、国有財産の不当払い下げ、脱法的な獣医学部の新設、さらに公文書の「改ざん」、「隠蔽」などで反国民的な性格を露わにした。麻生財務相、安倍首相の退陣ぐらいで済ましていいのか。朴槿恵には懲役24年の判決が下った。

<違いのルートをたどる新たな旅へ>
去年から韓国社会と日本社会に起きたさまざまな現象を見ながら考えてきた。この違いはどこから来るのか。韓国の風土と歴史に育まれた思考と行動。日本人として学ぶことが多いはずだ。もっと掘り下げて理解したいという思いが日増しに強まっている。
一昨年、大邱(テグ)を振り出しに全羅北道・南道を旅して「全琫準(チョンボンジュン)を追いかけて」という紀行文を韓国通信に連載した(NO499~505)ことがある。日清戦争前後、朝鮮半島全土で繰り広げられた東学農民戦争の足跡を訪ねた。
その後、ローソクデモに南部の農民たちが大挙してトラクターに乗りソウルの集会に「東学農民・全琫準」の旗を掲げて参加したことを知った。平等を求める東学の革命精神が今でも脈々と韓国社会に生きていることを知った。土着の思想や風俗、宗教、李朝時代の儒教思想についても知りたい。日本植民地時代の反日独立運動、済州島4.3事件、光州事件、民主化運動から今日のローソク革命に至る韓国人の歴史をあらためて学ぶつもりだ。私の韓国とのかかわりも新しい段階を迎えようとしている。全羅道の山と田園を訪ね歩く旅もしたい。旅先であいた口が塞がらないほど無残な日本について考えてみたい。

2018.04.20 ノンフィクション作家の野添憲治さん逝く
中国人・朝鮮人強制連行の実態解明に挑む

岩垂 弘 (ジャーナリスト)

 戦時下の中国人・朝鮮人強制連行問題を追及してきたノンフィクション作家の野添憲治さん(秋田県能代市)が4月8日に膵臓がんで亡くなった。83歳。同じく九州で朝鮮人強制連行問題を追及してきた記録作家、林えいだいさん(福岡県田川市)も昨年9月に83歳で亡くなっており、私たちは、強制連行問題に関する先達2人を相次いで失ったことになる。まことに残念である。

 野添さんは、秋田県藤琴村(現・藤里町)の生まれ。新制中学を卒業後、山林や土木に関する出稼ぎや国有林の作業員をした後、能代市に移住。大館職業訓練所を修了後、木材業界紙記者、秋田放送ラジオキャスターなどを経て、著述活動に入った。
 最初は、出稼ぎ少年伐採夫や開拓農民らを取材し、その記録を刊行していたが、取材の対象は次第に、戦争中に日本に連行され、労働させられた中国人や朝鮮人の問題に移ってゆく。それは、国民学校(小学校)での経験が忘れられないからだった。

 太平洋戦争が始まった1941年に国民学校に入学したが、5年生の夏のことだ。先生に引率されて村役場へ行った。そこには若い中国人の男性2人が座らせられていた。身体は泥まみれ。野添さんは、仲間と一緒に彼らの顔に砂を投げつけた。その顔はみるみる砂まみれになった。
 それから20年後、野添さんは、彼らが「花岡事件」の中国人労働者であったことを知る。花岡事件とは、大辞林によれば、太平洋戦争下の1945年6月、秋田県大館市の花岡鉱山鹿島組出張所で強制的に働かされていた数百人の中国人が虐待・酷使に抗して集団逃亡を図った事件だ。連れ戻されたが、拷問で113人が死亡したとされる。野添さんが砂を投げた2人の中国人は、鉱山から山を越えて逃げてきた労働者だったのだ。
 「まことに申し訳ないことをした」という贖罪の気持ちが、野添さんを中国人や朝鮮人の強制連行の実態調査に向かわせる。

 取材は難航を極めた。敗戦からかなりの時間がたっていたから、当時のことを語れる関係者(朝鮮人・日本人)は少なく、また、中国人や朝鮮人がいた労働現場の多くはすでに廃墟になっていたからだ。
 そればかりでない。関係者に口を開かせるのは簡単ではなかった。日本人には「加害の歴史」を隠したがる人が多かったからだ。警官や企業の関係者につきまとわれたこともあった。そのうえ、世間では「朝鮮人の強制連行なんてなかった」と主張する人も出始めていた。

 それでも、野添さんはついに、戦時下の労働力不足を補うために日本が中国人と朝鮮人に対して行った強制連行と強制労働の実態を明らかにした作品を完成させる。『シリーズ 花岡事件の人たち 中国人強制連行の記録』第1集~第4集(社会評論社、2007~2008年)、『企業の戦争責任―中国人強制連行の現場から―』(同、2009年)、『遺骨は叫ぶ―朝鮮人強制労働の現場を歩く―』(同、2010年)である。
 これらは、野添さんが9年の歳月をかけてまとめた「現場からの報告」であった。野添さんが訪れたのは、中国人が働いていた事業所が135カ所、朝鮮人が働いていた事業所が37カ所にのぼった。こうした著作により、多数の中国人や朝鮮人が強制的に日本に連行され、鉱山、炭鉱、トンネル工事、ダム工事、発電所工事などで働かされていた事実が具体的に明らかにされた。

 「平和」と「協同」に関する報道に寄与したジャーナリストを顕彰する活動をつづける平和・協同ジャーナリスト基金(PCJF)は、こうした著作を高く評価し、2010年に第16回平和・協同ジャーナリスト基金賞奨励賞を野添さんに贈った。が、贈呈式の日は、秋田県内で強制労働を経験した人を韓国で取材中で参列できず、妻の征子さんが代理で出席した。
 式場で征子さんは野添さんの受賞あいさつを代読したが、そこには、こうあった。
 「27歳から中国人強制連行や朝鮮人強制連行の取材をやってきましたが、初めてお褒めの言葉を、公の場でいただきました。お礼をいたします。この機会に、強制連行のことが1人でも多くの人に知ってもらえたら、うれしいです」
 また、地元記者のインタビューには「過去を知らなければ、現在も未来も創造できない。私にとって証言者は宝です」と答えている。
 
 その後も、いくつかの著作を発表したが、中でも注目されるのは、野添さんが編著者となって刊行された『秋田県の朝鮮人強制連行――52カ所の現場・写真・地図――』(秋田県朝鮮人強制連行真相調査団刊)だろう。

 秋田県朝鮮人強制連行真相調査団は、同県に連れてこられ、働かせられた朝鮮人の実態を明らかにするために1995年に発足した民間団体で、その代表委員・事務局長が野添さんだった。その調査団が20年かけて追跡した実態をまとめたのが本書で、朝鮮人が労働していた事業所が秋田県内に77カ所あったこと、そこに約1万4000人いたことが明らかにされている。労働 中に亡くなった朝鮮人は墓地に埋められたが、名前の分からない無縁仏が多いという。
 調査団は調査と併せて、県内の事業所で労働中に亡くなった朝鮮人を慰霊する活動も続けてきた。事業所跡に慰霊碑を建てたり、そこで慰霊式を催すといった活動だ。

 その会報「秋田県朝鮮人強制連行真相調査団会報」が私のところにも送られてきていたが、2016年2月20日発行の第85号を最後に途絶えていた。「休刊になったのかな」と思っていたが、野添さんの訃報に「おそらく、闘病のために発行できなかったのだろう」と思った。

 面と向かって直接会話を交わしたことはないが、日本青年団協議会が主催する全国青年問題研究集会の分科会の助言者席で同席したことか何回かある。その時は、木訥(ぼくとつ)にして重厚な人という印象だった。その度に、私は「この人は、徹底的に現場にこだわる類い希なルポライターなんだ」と尊敬の念を抱いたものだ。

2018.04.19 『食いつめものブルース』――上海の貧乏物語を読む
――八ヶ岳山麓から(255)――

阿部治平(もと高校教師)

むずかしいことや怒りたくなることをやさしく、深刻な問題をおもしろく書いた本である。舞台は上海、爆買いとも反日とも無縁な出稼ぎ中国人の生活記録。
副題は「3億人の中国農民工」(日経BP 2017)である。著者は山田泰司氏、1965年生れのノンフィクションライターである。

ひとくちで出稼ぎ農民といっても、農地を他人に託して大都会にまるごと移住するのと、主な生活基盤を大都会においたとしても農繁期には帰郷して農作業をやるのと、生活の基盤が村にあり農閑期だけ出稼ぎするのとでは、だいぶ生活状況が異なる。
山田氏はおもな登場人物を10人挙げて、それぞれの農民工になった経緯と現状を紹介している。たとえばこんなふうに。
ゼンカイさんは、2015年路上生活者に転落した。その年春節を田舎で過ごしてから廃品回収の仕事に復帰してみると、ペットボトル、古紙、鉄くず、板切れなどの価格が過去一年の3分の1に暴落しており、ついに5月、月1700元(3万2000円)のワンルームアパートの家賃が払えなくなったたためだ。このとき奥さんは麦刈りのため、いなかへ帰っていた。
「ゼンカイさんは、河南省に帰れば自宅と畑がある。ただ、河南にいても仕事がなく家族を食わせることができない。畑では年の半年で小麦、残りの半年でトウモロコシを作るが、収入は両方で年五千元(九万七千円)にしかならない。だからゼンカイさんは、二十年前に結婚してからずっと、出稼ぎをして妻と子供二人の家族を支えてきた。」

私(阿部)が中国ではじめて出稼ぎ農民に行きあったのは、人民公社が解散したばかりの1980年代はじめ、甘粛省蘭州市の駅でのことだった。布団を担いだ数十人の集団が同じコースをこまねずみのようにぐるぐる回っていた。知人が「見ろ。先頭の奴がどこへ行ったらいいかわからないんだ。まさしく『盲流』だ」といった。
都会人は、「仕事があるかないかわからないまま、田舎から都会へ流れてきた連中」という意味で、彼らを「盲流」と呼んでいたのである。
出稼ぎの初期は道路工事と建築が主だった。ビル建築の足場はいまでこそ鉄骨になったが、1980年代90年代はまだ竹竿を組み合わせたものだった。足場からの転落事故はしょっちゅうあった。死亡事故の補償金は、私の知っている限りでは都市住民の1ヶ月の賃金ほどだった。
やがて中国が世界の工場といわれるようになったとき、これらの人々の呼び方は「盲流」から「民工潮」となり、「農民工」とか「外来工」になった。呼び方が変わっても、バカにされていることに変りはない。農民工は、工場や建築現場だけではなく、廃品回収、家政婦、レストランのウェイトレスなどを含めて、きつい・危険・汚いという3K仕事の、それも最底辺のところを受け持ち、最低の収入に甘んじ、ゼンカイさんのようにいつ収入を失うかわからない生活をしている。

山田氏は、「2015年の秋あたりから、上海では農民工が多く住む郊外の家賃が高騰し始めた。賃金は中国経済の減速を背景に、よくて頭打ち、スマートフォンやパソコン市場の世界的な飽和から、これらをつくる中国の工場では残業が極端に減り、ライン工の給料は物価上昇分を差し引くと、ピーク時だった2014年あたりに比べ、実質半分程度に落ち込んだケースも少なくない」と書く。
耐えられなくなった彼らが故郷に帰る現象が2015年末から翌年の年頭にかけて続出した。ところが故郷で職にありつけないものが、また上海に逆戻りする。
山田氏が知り合いのもとからの上海人に、「上海もこの頃は暮らし向きが大変になってきた……」と話をむけると、「え?大変って、何がですか?誰が大変なの?」と、ほんとうに意外なことを聞いた、というようにきょとんとした顔でそう問い返された。どこかよその国で起きていることを聞くような反応を示して終りだったという。

「前の週まで数十軒の食堂が並び、B級グルメを求める人でごった返していたレストラン街が、翌週訪れてみると、店舗がブルドーザーで根こそぎ地面から引きはがされ、跡形もなくなるという事態が起きた」
取壊しの理由は違法建築だというが、上海通のタクシー運転手は、「違法建築の一掃が目的?そんなことを信じているのか。おめでたいな」といい、ほんとうの理由は農民工を上海から追い出すためさと語ったという。
これの大規模なものが去年11月北京であった。違法建築アパートから出火した大火災の現場周辺が市当局によって取り壊され、住民が強制退去させられたのである。
田畑光永氏はこの事件を本ブログでこう書いた。
「塀の内側全部の建物が取り壊され、瓦礫がそのまま積み上げられていた……少なくとも1キロ四方くらいはある広大なものであった。……報道によれば、先月18日の火事の後、北京市のトップ、蔡奇・共産党北京市委書記から違法建築に対する『大調査、大整頓、大整理』という号令が発せられ、住民は数日のうちに立ち退くよう命じられたという」(新・管見中国34)。
中国の為政者にとって農民工という存在が邪魔になって来たのだ。

さて農民工のふるさとだが、1990年代半ば、著者山田氏が友人の村を訪ねたとき、その兄の家で出た食事は、朝食がトウモロコシのお粥、昼はトウモロコシの汁うどん、夕食もトウモロコシの焼うどん、副食はダイコンのからいつけものだけ。肉は全然出なかった。
著者は「それでも、この食事がとれるのなら、餓死するようなことはない」「農民工のたくましさと寛容さを支えるすさまじいばかりの源の一端を見たような気がした」という。
この食生活は敗戦後4、5年までの私の村に似ている。そして私が知るかぎり、日中戦争さなかの山東省の農民の食生活と同じである。餓死はしないとしてもコメや大豆の良質の蛋白質が不足している。この食生活が例外と断言できないところが中国の泣きどころだ。どこの途上国だって戦争といった大災害がないかぎり、10年20年経てば以前よりは多少はましになっている。

著者によると、2016年末で出稼ぎ農民は2億8171万人である。中国人口の5人に1人が農民工だという(国家統計局公表)。労働人口にしたら3人に1人程度になるだろう。
党中央から末端までの官僚・研究者・都市住民のなかに、農民工を中国経済の原始的蓄積を担い、20年にわたる高度成長を支えた、なくてはならぬ存在だったと考えるものがはたしているだろうか。
中国の農民は生きるか死ぬかのところへ追い込まれても反抗しない。農民工もおなじこと。どんな理不尽のしうちにも耐えられるだけ耐える。これがこのルポルタージュを通して著者が語りたかったことではなかろうか。

2018.04.18 安倍内閣の支持率はなぜ高いのか(12)
―ウェーバー政治論とのギャップに呆然―

半澤健市 (元金融機関勤務)

 
ウェーバーの『職業としての政治』(岩波文庫)を読んだ。
日本の政治を長いスパンで見ると何処にいるかを知るためである。

《『職業としての政治』は死去前年のミュンヘン講演》 
安倍政治の崩壊は一寸先だと思う。メディアのテーマは「次は誰か」に移ると思う。
アベノミクスの失敗や安倍政治のファシズム性を総括しないで、政治家の権力闘争に話題を転換する。政治は永田町にあるというのがメディアの認識であり、政治家の固有名詞で政治を論ずるのが一般庶民の常識である。その伝統は良くないと思い私は読んだのである。

ドイツの社会学者マックス・ウェーバー(1864~1920)は、19年1月に「職業としての学問」、「職業としての政治」の二つの講演をミュンヘンで行った。
短いものだが、後者が彼の政治認識の核心である。

ドイツおよび世界の状況はどうだったのか。
年表から事象を並べてみる。
▼1919年
・ 1月 1日 ベルリンでドイツ共産党創立
・ 1月 5日 ドイツ労働者党(ナチス)結成
・ 1月18日 パリ講和会議始まる(~6/28ベルサイユ講和条約調印)
・ 1月19日 ドイツ国民議会選挙 社民163、中央88、民主75、独立社民22
    共産党不参加
・ 3月 2日 コミンテルン創立大会(モスクワ)
・ 5月 4日 北京学生示威行動(五・四運動)
・ 7月31日 ドイツ国民議会ワイマール共和国憲法を採択
・ 11月19日 米上院、ベルサイユ条約批准否決
▼1920年
・ 1月10日 国際連盟発足

《時代と問題意識》
 『職業としての政治』の訳者脇圭平は同書の「あとがき」てこう述べている。(■から■)この記述は、1945年後の数年間、日本を支配した知的・政治空間を想起させる。
■第一次大戦における敗戦の結果、ドイツ全土が騒然たる革命の雰囲気に包まれていた時期である。熱烈なるナショナリストでもあったウェーバーにとって祖国の敗北はたしかに大きなショックではあったが、それ以上に彼を悲しませ、やりきれない思いに駆り立てたのは、この戦争の結果(敗戦の事実)をあたかも「神の審判」のように受けとり、自虐的な「負い目の感情」の中で、ひたすらに「至福千年」の理想を夢み、「革命という名誉ある名に値しない血なまぐさい謝肉祭」にわれを忘れて陶酔し切っているかにみえる一部の前衛的な学生や知識人の善意ではあるが独りよがりな「ロマンティシズム」であった■

ウェーバーの政治論は、「政治とは国家間であれ、国内の人間集団間であれ、権力の分け前にあずかり、権力の配分関係に影響を及ぼそうとする努力である」と定義する。
そうであれば、究極の権力を持つ国家の正当性が問題になる。ウェーバーは政治支配の
類型に三種あるという。一つは伝統的支配、二つはカリスマ的支配、三つは合法性による支配である。正当化された国家に人々は服従する。その物質的な担保は、国家のもつ「暴力装置」である。

《三つの支配類型・伝統的・カリスマ的・合法的》
 三つの「理念型」は、歴史的な現実を反映させつつウエーバーが抽出した概念である。彼は、現代は合法的支配が大勢と見ながらも、カリスマ的支配も存在しうるとみていた。「カリスマ」はギリシャ語の「神から与えられた奇跡、呪術、預言などを行う超自然的・非日常的な力」のことである。カリスマ的支配はそういう能力を持つ指導者による支配である。カリスマに帰依した人々は服従する。ウェーバーは、歴史上の人物にそれを見たと同時に、当時の国際社会を見渡して、敗北したドイツにもその出現を幻視したのであろう。

ウェーバーの政治(=権力闘争とその分配)認識はリアルであった。しかし、彼の政治論の特色は、その過酷な現実主義には満足できず政治家の「責任倫理」を見ようとしたことである。彼は、政治家が権力を行使するときの昂揚した気分を「心情倫理」の達成とみた。しかしそれは「空虚」な達成であり、悲劇性があると考えた。
ウェーバーはいう。
政治家にとって「情熱」、「責任感」、「判断力」が重要である。
情熱とは「事柄」(仕事・問題・対象・現実)への情熱的献身である。
情熱が「責任感」と結びついてはじめて政治家をつくり出す。そのためには「判断力」が必要である。それは事物と距離を置いて見ることである。
これだけの発言でも、私はウエーバーの政治に対する精神性の大きさに感じ入る。

《倫理と政治の関係はなにかという問い》
 しかしウェーバーの考察は、遂に「倫理と政治の関係は本当はどうなっているのか」という問題に発展する。
■「ボルシェヴィズムやスパルタクス団(ドイツ共産党の前身。民社党最左翼で非合法の一派)のイデオローグたちも、彼らが行使するこの政治的手段のゆえに、軍国主義的独裁者とまったく同じ結果を招いているという事実に、われわれは気づいていないのだろうか。権力を掌握した者の人柄とディレッタンティズムという点を除いて、労兵評議会の支配と旧制度のどれか任意の権力者の支配と、一体どこが違うのか■

ウエーバーはこのように、政治目的のためには手段を選ばないというリアリズムに満足できない。それはフランス革命最終段階の恐怖政治への評価に関して以来、「近代のジレンマ」、「歴史の狡知」として指摘され論じられてきた。ウェーバーは百年前に死んだが、以降の歴史を見れば、ロシア革命、ナチス・日本軍のホロコースト、米国による日本への原爆投下、文化大革命などがその例証となるだろう。

「心情倫理」と「責任倫理」。これがウエーバー政治論の最後の論点である。
私の理解した限りでは、現実政治はともかく、「心情」が強ければ目的のために手段は正当化されるという論理は破綻する。心情倫理論の究極には最後は神が判定してくれるという思想があり、人間による責任の回避というのが、彼の結論である。
しかし「責任倫理」についても、矛盾はなくならない。これがウェーバーの問いかけだ。
■山上の垂訓は資産について「一切か無か」といっている。福音の徒は無条件的で曖昧さを許さない。汝の有てるものを―そっくりそのまま―与えよである。それに対して政治家は言うであろう。福音の掟は、それが万人のよくなしうるところでない以上、社会的には無意味な要求である。(略)さらにそこでは「汝のもう一つの頬も向けよ!」である。一体他人に人を殴る権利があるのか、そんなことは一切問わず、無条件に頬を向けるのである■

《明治150年の謳歌どころではない》
 マックス・ウェーバーの政治論は最後に宗教論、責任論にまで上昇する。
彼の強い危機意識にも拘わらず、ドイツにはヒトラー政権が実現し再び世界大戦に敗れた。日独伊三国同盟の一員として、昭和天皇を戴く大日本帝国も「大東亜戦争」を戦い、最後はほとんど全世界を敵として敗北した。
現在、国際社会での存在感で、日本は圧倒的にドイツにリードされている。ドイツが及第で日本が落第というつもりはないが、「明治一五〇年」の謳歌ではないだろう。
国のかたち、外交、国内政経、エルルギー、文化。150年を総括し次の150年を真剣に展望したい。このままでは地盤沈下あるのみである。(2018/04/15)

2018.04.17 トランプ政権安全保障担当補佐官にボルトン就任
極め付きの右派、米朝首脳会談に悪影響

坂井定雄(龍谷大学名誉教授)

トランプ米大統領の国家安全保障政策の策定・実施に最も大きな影響力を持つ担当補佐官3代目に9日、ジョン・ボルトン元国連大使が就任した。その4日後の13日、米国は英国、フランスの参加を得て、シリアへの軍事攻撃を行った。軍事介入の拡大に慎重だった前任者のマクマスター補佐官に代わって好戦派のボルトンが就任するのを待っていたようだ。
▼決まっていた国際機関の調査を待たず攻撃
米国防総省によると、地中海東部に展開する原子力潜水艦などの艦船から105発の巡航ミサイルを発射、シリアの化学兵器関連施設3か所を攻撃した。アサド政権は昨年も反政府勢力の支配地域を化学兵器で攻撃したことが確認されており、反政府勢力やその支配地域への残虐な攻撃で、多数の一般市民まで殺傷してきた。3月以来、反政府イスラム武装勢力が支配を続けてきたダマスカス東郊の東グータ地区を激しく攻撃・破壊して、数千人の一般市民を殺傷。ロシアの仲介で、一般市民の大半が北部の反政府勢力支配地域に向け退去したところだった。残った反政府勢力と一般市民に対して7日、政府軍は化学兵器を使用して、多数の死傷者が出た。現地医療機関の訴えで、世界保健機関(WHO)が調査、11日、5百人から有毒化学物質によるとみられる症状が確認されたと発表した。さらに化学兵器禁止国際機関(OPCW)が14日から本格的な調査を実施することになっていた。その調査を待たず,国連安保理での決議もないまま(ロシアの拒否権が予想されるにせよ)トランプ政権は、英、仏の参加を得て攻撃を実行したのである。
▼トランプ以上の右派好戦派
ボルトンは右派好戦派、ネオコン(新保守主義派、本人は否定)、アメリカ第一主義者、親イスラエル、イスラム嫌い、対イラン・対北朝鮮では武力攻撃による政権転覆を公然と主張したことがある。極端な右派としてのあらゆる批判、嫌悪が浴びせられてきた国務省育ちの政治家だ。政策的には、トランプと酷似している、あるいはそれ以上の右派だ。ボルトンの就任が5月に予定されている米朝首脳会談にどんな悪影響を及ぼすのか、予断を許さないとしかいえない。
▼イラク戦争への大量破壊兵器でっち上げ
2003年、米国のブッシュ政権(2001-2009年)は、フセイン政権下のイラクが大量破壊兵器を保有していると強硬に主張。調査を進めてきた国連が調査継続を主張するのを無視して、英国なども参加させてイラク戦争を開始した。3週間でフセイン政権は打倒された。当時、米国務省の次官だったボルトンは、イラク戦争への偽の“証拠集め”、開戦へと米国内と世界を扇動するために、力を注いだ。停戦後、米軍は徹底的な捜索をイラク全土で行ったが、核兵器、化学兵器をはじめ大量破壊兵器は全く見つからなかった。「イラクの大量破壊兵器」は存在せず、開戦するための米国のでっち上げだったのだ。米国がイラク国民に、そして世界に謝罪することは全くなかった。しかし米国は、その後の反米勢力との戦いを長く続けなければならず、さらに現在に至る中東全体に広がる悲惨な内戦の原因を作り出した。
▼ネオコンとボルトン
2001年の9.11米同時多発テロ事件、アフガニスタン戦争を発足第1年目に経験したブッシュ政権は、好戦的なネオコンが安全保障政策を支配する政権だった。大統領ブッシュ(息子)以下チェイニー副大統領、ラムズフェルド国防長官、ボルトン国務次官、ウォルフォウイッツ国防次官らがその中枢で、とくにウォルフォウイッツとボルトンがネオコン的政策で政権をリードした。ただしボルトン自身は、ネオコンの思想的なリーダーたちが旧左翼からの転向組であり、「自分はネオコンではない」と主張している。いずれにせよ、ボルトンを含むこの顔ぶれが、米国と世界をイラク戦争とその後の中東の戦争、内戦、テロの拡大に引きずり込んだのだ。
▼トランプ政権で解任、辞任は約30人
昨年1月にスタートしたトランプ政権の初代国家安全保障担当補佐官フリンは、大統領選中のロシア大使との接触はじめロシアとの近い関係が露見してわずか1か月で辞任。その後任のマクマスター補佐官は軍歴豊富な陸軍中将で、右派、アメリカ第一主義のトランプに対して穏やかにブレーキをかけてきたが、トランプとの不一致が次第にあらわれ、トランプの不快感が深まって解任に至ったと、米紙は伝えている。トランプはボルトンを補佐官にするチャンスを待っていたと見ていいだろう。
一方、ボルトン就任翌日の10日、トランプ政権の米国内安全保障担当補佐官トム・ボサートが辞任した。彼の役割は国内治安とくにテロ対策の担当だった。これで、トランプは政権発足以来、30人近い政権内の補佐官など幹部が辞任ないし解任された。
この結果、ボルトンで代表されるような、トランプ好みの右派、アメリカ第一主義に政権がますます偏向したことが確かだろう。経済、貿易、外交、環境、などすべてにわたる国際条約・協定からの米国の脱退、不参加、非協力がどれほどの害悪を世界全体に及ぼしているのか、さらにどれほど広げるのか。
いま世界で無批判にトランプ政権への支持を表明、ゴマをすり続けているのは安倍政権下の日本だけだ。北朝鮮問題では「日米韓」「最大限の圧力」と念仏のように唱え続けるだけ。恥さらしもいい加減にしてくれ。