2019.07.18 韓国「バッシング」 鳴りやまず
  韓国通信NO607
          
小原 紘(個人新聞「韓国通信」発行人)

 従軍慰安婦問題から始まり(もっと遡れば歴史認識)、徴用工問題、自衛隊機照射問題、ついに輸出制限措置にまでエスカレートした日韓関係は今や「泥仕合」の観を呈している。日本政府の強硬姿勢に歩調を合わせてマスコミは「最悪の日韓関係」とはやし立てるばかり。「子供じみてないか」と眉をひそめる人も多い。
 政府発の一方的な韓国批判とそれに同調するマスコミ報道、政府の提灯持ちをする学者が続々と登場することには驚くばかりだ。

 おととしから昨年にかけて、拉致と核問題で北朝鮮の脅威を煽りまくった安倍政権は、今度は矛先を変えて韓国との対立を煽っているように見える。いささかウンザリするが、政権維持のために隣国を敵視することで失うものは大きい。
 こんな時こそ過去から学び、現実に起きている問題と冷静に向かい合うべきと思うのだが、マスコミも何を恐れているのか、おとなし(音無し)い。不勉強なのか、わかっていながら発言しないのか。政府の主張を鵜呑みにするようでは、ジャーナリズムも死んだに等しい。相手がハンコを押したから日韓併合条約も日韓条約も有効だと平然と言い切るなら、強制連行によって奴隷のように働かされた徴用工や慰安婦たちは切り捨てられ、眼中から消える。それでいいのか。日本政府の非情、横着ぶりに気づくはずだ。

<おろそかにされる事実。 悪用された韓国国会議長の「天皇発言」>
 韓国の文喜相(ムン・ヒサン)国会議長が米国ブルームバーグ社のインタビューで、従軍慰安婦問題の解決には「日本を代表する首相か※天皇(日王)の心のこもった謝罪(おわび)が必要」と発言したため日本で物議を醸した(2019/2/7) 。「天皇に謝れとは非常識」と、政府も右翼が血相を変え、そして一般市民も戸惑い、怒った。
 ※ハングルによる発言内容を検証する。まず、「首相か天皇」の「か」は韓国語で助詞나(ナ)の訳である。日本語の「か」と同じ意。従って「首相と天皇」ではなく、かなりざっくばらんに「首相でも天皇でも」という表現になる。また、天皇については「天皇」ではなく「日王」と表現しているが、韓国では一般的表現である。日本の「王」という表現に日本人は少し戸惑うはずだ。

 日本政府は直ちに抗議し発言の撤回を求めた。日韓関係を悪化させたことに気づいた文議長は、訪韓した鳩山由紀夫元首相との会談で、「(発言)で傷ついた人たちに謝罪する」と謝罪した(2019/6/13付韓国聨合ニュース)。
 この謝罪発言は、大騒ぎしたわりには日本で大きく報じられた形跡はない。そのため国会議長の発言は多くの人の記憶にいまだに不信感として残ったままだ。そればかりか日韓関係の不信材料のひとつとして文議長発言をいまだに非難し続けるマスコミもかなり多い。
 文氏の謝罪は、鳩山氏の発言-「韓国の国民感情からすれば理解できないわけではないが、日本の国民感情からすれば認められない」という主張に応えたものだ。鳩山発言は日韓相互の理解のためには柔軟で適切な発言だった。それに比べ、過日のG20大阪サミットでは文大統領との会談を拒絶した安倍首相の硬直した姿勢が際立つ。和解の糸口を見出す努力もなかった。

<安倍首相の責任逃れ>
 さらに問題なのは、文議長発言のカナメ、「安倍首相の謝罪」という指摘が、日本政府によって無視されたこと。それはマスコミも同じだが。首相は「天皇の責任発言」を鬼の首を取ったように批判するばかりで、自分に向けられた注文には知らんぷりするという図である。
 文議長の発言は「首相か天皇」という発言で、あらぬ方向に発展したが、あくまでも従軍慰安婦問題の現状を憂慮したものだった。2015年の政府間合意については当初から金銭の支払いとともに「誠意」が必要という議論があった。これに関連して国会で安倍首相が「直接お詫びをする気はないか」と質問され、「ない」と答弁したため首相の不誠実さが浮き彫りとなった。拙速な両政府の合意に、元従軍慰安婦たちと韓国国民から激怒の声があがり深刻な状況となっていた。文議長の発言の真意は慰安婦問題の解決のために日本側の誠意を求めたものだった。

 「天皇の責任」問題と慰安婦問題が完全にすり替えられてしまった。
 安倍首相は文議長の天皇発言を奇貨として、文議長からあらためて問われた謝罪を無視したばかりか、10億円で「不可逆的な解決をした」とうそぶき、問題を更に大きくしてしまった。これでは日本の内閣支持率45%の人たちは支持しても、韓国の99%は認めない。安倍内閣では慰安婦問題も徴用工問題も解決できないのは明らかとなった。
 天皇を防波堤にして自分に問われた問題を回避するのは天皇の政治利用という疑問もわく。
 最近の安倍内閣には、かつて日本の植民地とした国に対する軽視と侮蔑の姿勢が目に余る。アジア侵略の事実を認めないし、反省もない。トランプ頼みで拉致問題解決を期待したが、「当事者で話し合え」とたしなめられ?  「条件を付けずに金正恩委員長と話し合う」と言いだしても、相手にされないのは当然だろう。日本のマスコミを味方につけても海外から相手にされないようではアジアのなかで孤立するばかりだ。隣国の韓国と北朝鮮軽視がひょっとして安倍政権の墓穴を掘ることになるかも知れない。 

ドキュメンタリー映画「主戦場」が面白い

 日系2世のミキ・デサキ監督が慰安婦問題をめぐる論争を描いた映画。慰安婦問題をめぐって桜井よしこ等そうそうたる論客が発言。編集は一切なし、いわば各人が云いたい放題。結論は見た人にまかされる。
 余りの反響の大きさに登場する右派論者の一部が公開後に上映中止を求めて提訴した。これまで主張してきた内容が「あまりにもみっともない」と狼狽 (うろた)えたのかも知れない。監督は「日韓に横たわる問題の解決を望み、日韓間の相互理解になれば」と映画製作の動機を語った。4月上映開始後異例のロングラン、大ヒットとなった。この時期お薦めしたい映画だ。

北海道から広島まで 反核平和行進を続けるアン・スルギ(21)さん
 8月6日に開かれる広島原水禁世界大会に参加するために韓国の女子学生が来日した。5月6日に根室を出発、今月20日に我孫子に到着予定だ。通訳をかねて、彼女と2時間あまり行進することになった。真夏の徒歩による行進である。体調を整えて最後のゴール広島まで頑張ってほしい。天王台西公園から9時出発、11時半に手賀沼公園で集会後、柏へバトンタッチ。
 彼女に拍手を送ろう。一緒に歩きませんか ! 核兵器禁止条約調印を求める署名にもご協力を。
2019.07.17 参院選終盤戦で情勢はどう動くか
改憲勢力「3分の2割れ」をめぐる攻防(2)
               
広原盛明 (都市計画・まちづくり研究者)

 7月15日、各紙は参院選後半の選挙情勢に関する有権者調査(7月13、14日実施)を発表した。序盤情勢に関しては、各紙とも情勢分析にそれほど大きな違いはなく、自公与党が改選過半数を制するものの、維新等の改憲勢力を含めても3分の2に届くかどうかは微妙...というものだった。それが後半情勢に関しては、各紙によって若干見方が分かれてきているのである。

 例えば、日経新聞は1面トップの見出しで「改憲勢力3分の2迫る」と大きく打ち出し、2面でも「自民、選挙区で堅調」「比例も自民優位に」「1人区 野党共闘伸び悩み」と断定的に分析している。その背景には、(1)内閣支持率が49%に達し、不支持率35%を大きく上回っていること、(2)政党支持率でも自民党が43%で断トツ1位であり、2位の立憲民主党11%を大きく引き離していることがある。つまり安倍政権は、内閣支持率をみても政党支持率をみても極めて安定した政治基盤を築いており、どこから見ても負ける要素がないと見られているのである。

 これに対して、毎日新聞は「改憲 3分の2厳しく」「1人区 自民防戦」と反対の見方を示している。最大の理由としては、序盤情勢に比べて32カ所ある1人区で野党優勢の選挙区が5から7(岩手、宮城、新潟、山形、長野、愛媛、沖縄)に増えたことを挙げている。しかし、自民優勢の1人区が20もあり、残り5選挙区(青森、秋田、三重、滋賀、鹿児島)では接戦が続いているというので、前回2016年参院選で野党が獲得した11議席を超えることができるかどうかはわからない。

 一方、読売新聞は「与党 改選過半数の勢い」「1人区 自民優位」と分析しているが、「与党・改憲勢力2/3焦点」としてまだ明確な判断を下していない。ただ、勝敗の行方を決する1人区の情勢分析をみると、野党統一候補がリードしているのは3選挙区(長野、愛媛、沖縄)だけで、7選挙区(岩手、宮城、秋田、山形、新潟、滋賀、大分)が接戦、残り22選挙区は全て自民リードとなっている。これは、毎日新聞が野党優勢とした7選挙区(岩手、宮城、新潟、山形、長野、愛媛、沖縄)のうち4選挙区(岩手、宮城、新潟、山形)を接戦区とするもので、それが分析の分かれ目になっているのである。

 情勢がこのように流動しているためか、朝日新聞は情勢分析に消極的で明確な方向性を打ち出していない。その結果、選挙情勢分析というよりは世論調査結果の解説にほとんどの紙面を割いている。その中で気になるのは、第2次安倍政権の評価に関する質問と回答だ。質問は「第2次安倍政権が発足して6年半がたちました。安倍首相のこれまでの実績について、どの程度評価しますか」というもの。これに対する回答は「大いに評価する」9%、「ある程度評価する」54%、「あまり評価しない」24%、「全く評価しない」11%と、圧倒的に評価側に傾いている。

 消費税増税や老後年金に対する取り組みなどに関しては、これまでと同様に否定が肯定を上回っているが、安倍政権の6年半の「実績評価」にこれほどの肯定意見が寄せられるとは、意外にも意外と言わなければならない。私自身は、いったいどこがよくてこんな数字が出て来るのかさっぱりわからないが、世論調査の数字だからから受け入れるほかない。とはいえ、これが総体的な国民の意見であるとしたら、安倍政権の失政を追求する野党の選挙方針が宙に浮かないとも限らない。改めて選挙終盤戦の戦略を検討する必要があるのではないか。

 全体的な情勢はこれぐらいにして、注目すべき選挙区について少し感想を述べたい。取り上げるのは、大阪選挙区(定員4人)と京都選挙区(2人)だ。大阪選挙区は、維新が現職と新人2人を擁立し、自民、公明、共産現職3人が議席を守れるかどうかが焦点となっていた。序盤戦ではまだはっきりとした情勢がわからなかったが、後半戦では維新2人が当選圏内に入ったとの情勢が確定的となり、その煽りを喰って共産現職が弾き飛ばされそうな状況になっている。

 若手の共産現職は、国会論戦でも他党を圧する力量を発揮した実力派であるにもかかわらず、なぜポット出の維新新人候補がこれほどまでに支持を集めることが出来るのか、不思議でならない。聞けば、大阪ダブル選挙で圧勝した維新の勢いが今も続いており、維新は「大阪改革」の代表選手だと見なされているのだという。しかしそれ以上に、今回の参院選における共産現職の苦戦は、直前の衆院補選における共産現職の「惨敗」が大きく響いていると私は考えている。

 周知のように、この前の衆院補選(大阪12区)では共産現職が「無所属」になって出馬するという大胆な行動に踏み切ったが、結果は得票率9%で最下位、供託金を没収されるという前代未聞の惨敗に終わった(トップは維新新人、39%)。この作戦の誤りが運動員や支持者に与えた衝撃は殊の外大きく、多くの運動員がその時の衝撃から未だ立ち直れないでいるという。しかも、その時の総括が「市民と野党共闘の展望を切り開いた」というこれも前代未聞の内容だったので、多くの支持者からブーイングが起り、大規模な「共産離れ」が起ったというのである。

 今回参院選の共産現職の苦戦は、党幹部の再三再四の応援にもかかわらず運動員や支持者が動かないことにあるのだという。自らの失敗を棚に上げて𠮟咤激励するだけでは組織は動かない。このまま情勢が推移すれば敗北は決定的となり、共産現職は貴重な議席を失うことになるだろう。それでも総括はまた、「市民と野党共闘の展望を切り開いた」というものになるのだろうか。

 京都選挙区についてはどうか。京都は「非自民、非共産」を掲げる旧民主系勢力の牙城だ。それが国民と立民に分裂したとはいえ、その接着剤となる連合が依然として強力な投票動員力を持っていることには変わりない。今回の参院選では国民と立民は候補者擁立をめぐって主導権争いを繰り返した挙句、漸く国民が降りて候補一本化した。すでに自民現職が独走態勢にある以上、立民の候補者擁立の目的が共産現職の追い落としにあることは明白だった。

 しかし、共産現職は立民と1人区で野党統一候補の一本化に合意したこともあって批判を控えざるを得ない。こうした選挙戦術上の躊躇が影を落としているのか、立民新人候補の追い上げが急となり、後半戦になってからは立民のターゲットは共産現職に絞られ、「非共産」の旗を掲げた激烈な戦いとなっている。1人区では野党統一候補の一本化が漸く成立したものの、複数区では「切磋琢磨」が原則とのことで候補者調整は一切行われず選挙戦に突入した。京都選挙区はその最前線であり、選挙結果が今後の野党共闘の行方を占うシンボルともなっている。選挙終盤戦での両選挙区の動向に注目したい。(つづく)

2019.07.16 ■短信■
         ベン・シャーンが見た福竜丸
         13点のデッサンと漁師たち


 静岡県焼津港所属のまぐろ漁船「第五福竜丸」(乗組員23人)が、1954年3月に太平洋で操業中、ビキニ環礁で行われた米国の水爆実験で被ばくしてから、今年で65年になります。
 この事件は国際的な反響を呼び、米国の核物理学者ラルフ・ラップは1957年、ルポルタージュ『第五福竜丸の航海The Voyage of The Lucky Dragon』を発表しました。その時、米国の画家、ベン・シャーンが、その挿絵のために40点のデザインを描きました。その後、福竜丸の被ばくと、無線長・久保山愛吉さんの死に心を寄せたシャーンは、1960年代に1年がかりで彩色画の「ラッキードラゴン・シリーズ」11点を描きました。
 本展覧会には、彼のデッサン13点(港 出航 彼らの漁道具 漁 サンゴ礁の怪物 降下物 死んだ彼 病院にて 船主 写真家 報道から 未亡人 なぜ)が展示されており、福竜丸の水爆実験被災の航海をたどることができます。
 本展覧会は、第五福竜丸が保存されている都立第五福竜丸展示館が大規模改修され、今年4月にリニューアルオープンしたことを記念する企画展です。

日時:9月29(日)まで。9時30分~16時、月曜休館

会場:都立第五福竜丸展示館(東京都江東区夢の島2-1-1 夢の島公園内。JR京葉線、メトロ有楽町、りんかい線新木場駅から徒歩10分)

入館料:無料

主催:公益財団法人第五福竜丸平和協会(℡ 03-3521-8494)

(岩)
2019.07.15 「猫に学べ」
出町 千鶴子 (画家)

私は猫である。
猫舌なので、「喉元過ぎれば熱さを忘れる」ことはない。
鼻も目も耳もよく利くので、フェイクな寝床やかつお節、
啼き声巧みな魔物に騙されることもない。
平和な明日を迎えるために
身も心も清く正しく美しく。
今日もせっせと毛繕いをする。

猫の目
2019.07.14  「本日休載」

今日07月14日(日)は休載します。

リベラル21編集委員会

2019.07.13 最大限の交渉だけがイランとの戦争を防げる
(2019年7月8日付けニューヨーク・タイムズ掲載の署名寄稿)

坂井定雄 (龍谷大学名誉教授)

 米国内でも、トランプ政権によるイランとの戦争を避けるために、多くの人々が発言、努力を続けている。ここでは7月8日付けニューヨーク・タイムズ掲載の、ノーベル平和賞受賞女性二人の共同署名寄稿を全文紹介しますー

ノーベル平和賞受賞者のイラン、米国女性の発言
 イランは経済制裁の解除、米国はイランが核兵器を取得しない保証を求めている。いまこそ、話し合いの時だ(全文)

シリン・エバーディ(イラン人、自国での人権活動で2003年受賞)
ジョデイ・ウイリアムス(米国人、対人地雷禁止運動で1997年受賞)

 7月7日、イランは、ウラン濃縮の制限ー原子力発電のために必要な3.67%のウラン濃縮―を破ったと発表した。その制限は、2015年にイランと米国はじめ主要国の交渉合意で詳細に取り決めたこと。イランは、その制限を超えると警告していた。
 ロウハニ・イラン大統領は3日、「イランは必要なレベルの」ウラン濃縮をすると述べた。これに対しトランプ米政権は、イランが「核への野心と悪意ある行動を放棄するまで、厳しい経済制裁で“最大限の圧力”をかけ続ける」と応じた。
 私たちは、平和を求めて人生を捧げてきた米国とイランの市民として、われわれの国家が緊張を高めていることに、深く懸念している。
 トランプ政権の最大限の圧力政策は、私たちをペルシャ湾地域での新たな軍事紛争の瀬戸際に押しやり、さらに戦火を拡大した。テヘランは、核兵器の生産まではるか遠い所にいるが、ワシントンとの合意の失敗が、その核計画をもっと積極的に進める圧力になるかもしれない。これが、世界での危険な先行者とともに、無制限な核兵器拡散を導く可能性もある。
 ワシントンとテヘランは直ちに、核合意の他の署名国の支持の下に、双方の合意条項の原案作成開始をはじめ、できる限りの外交努力で事態の鎮静化に努めなければならない。
 イランは経済制裁の解除を望んでいる。米国は最低限、イランが核兵器を取得しない保証を求めている。米国とイランが互いの懸念に対応する合意に責任を持つことが必要だ。
 ロウハニ大統領は3日、テヘランの対応が全面的に取り消し可能であることを明確にして「われわれの行動は、一時間以内に以前の状態に戻ることが可能である」と明言した。彼の発言は、交渉を望んでいることを示している。
 この開け広げな提案は、紛争解決に異例な機会をもたらすもので、直ちに専門家と賢明な外交折衝によって対応する価値がある。米国は対話に応じることによって報いることができる。(注:米国のイランに対する)最大限の圧力政策は、イラク、イエメン、シリアでの、イランのより大きな“悪行”を導くだけだ。
 やり過ぎは危険であり、いまは用心深い対応が必要だ。イランが核合意を順守するための60日間の最終期限が7日に切れ、他の合意調印国―中国、フランス、ドイツ、ロシア、英国―は、核合意を尊重したが、米国は拒否した。イランはこれ以上、最終期限を延長しなかった。
 イラン内部では、米国との関係悪化が、人権擁護勢力をテロリスト、裏切り者とするイラン当局の姿勢を強めさせている。
 テヘランはすでに、人権弁護士のナスリン・ソトウデに対し、不公平な裁判で38年半の投獄、むち打ち148の判決を下した。人権擁護センター副総裁のナルゲス・モハンマディに対しては、イランでは先進的な人権擁護活動に21年の投獄を判決した。 
 これらの活動家たちは、人権尊重を要求する活動への抑圧に耐え続けてきた。米国との緊張が強まるなか、テヘランは人権擁護活動家たちへの締め付けを強化し、米国との共謀、“西側の理想”を称賛することへの当局の対応が柔軟になるとは見通せない。
 軍事紛争は、自由と民主主義への戦いを危険にするだけでなく、すでに米国の制裁で締め付けされているイラン経済へさらに打撃を与えるだろう。
 イラン人は制裁の再開後、通貨が60%下落し、失業の増加と生活費の上昇に大きな影響を受けている。食料価格は急騰し、一般国民は肉と野菜の代金を払いきれない。一方、支配権力に近い人たちは、制裁によってより盛んになった腐敗によって利益を得ている。
 イランの国境の外では、米・イラン紛争はイスラエル、イラク、サウジアラビア、イエメン、シリアを巻き込み、すでに分極化しているペルシャ湾地域をより危険な方向に引き離しつつある。
 この地域のすべての国の中でも、最も過酷な人道危機のイエメンは、イランが支援するフーチ勢力とサウジアラビアとアメリカが支援する勢力との戦闘が続いている。米国・イラン紛争の緊張の高まりは、イエメンの和平プロセスを危なくし、紅海沿岸の港の使用とイエメンへの支援物資搬入改善に悪影響しかねない。
 アメリカ国民にとっても紛争のコストは高い。何年もイランは、自国の自衛戦略の中で、中東の米軍を攻撃する用意を整えてきた。テヘランは鋭敏で,精巧なミサイル部隊を保有し、その戦力は、この地域での米国とその同盟国の利益に挑戦するだけの装備を備えている。戦争になれば、イラン、イエメン、そして米国の一般市民たち、多くの女性と子供たちは、避けられるはずの最高の代価を支払うことになるのだ。
 いまこそ、ワシントンとテヘランに正気をとりもどさせ、非軍人中心の最大限の外交アプローチで、われわれ関係諸国の間のもろい平衡を護るべきときだ。この地域での平和への呼びかけは決して強くはなく、その成功確率は決して高くはないのだが。(了)


       
2019.07.12 1970年代に社会主義への道を批判した市井人(3)
――八ヶ岳山麓から(287)――
                   
阿部治平 (もと高校教師)

以下は前々回、前回に引き続き、畏友中村隆承(1934~83)の遺稿から、1970年代に既存の社会主義の再生と、資本主義国における革命の可能性を考察した部分を要約し編集したものである。(中村隆承をLと記す。( )内は注、——以下は阿部のメモ)

ソ連社会主義に「自己復元力」はあるか
1970年代にはソ連社会主義に存在したマイナス面、自由と人権のない専制政治だけでなく、経済の停滞、貧困なども広く知られるようになった。
当時、日本では社会党の一部や共産党のマルクス主義者は、マイナス面の多くは科学的社会主義あるいはマルクス・レーニン主義原則からのスターリンの逸脱がもたらしたものだと主張し、さらにソ連や中国の社会主義に「自己復元力」があるとして、やがては本来の理想とする社会主義へ前進するはずだとする考え方があった。

Lはこれに対して、科学的社会主義の原則が何であるか明確でなければ逸脱も、復元の意味も分からないと主張した。たとえば「ユーロ・コミュニズムの党は、ソ連のチェコ侵入や異端派に対する弾圧を批判し、『現存社会主義』を自らの社会主義のモデルとしては採用しないとしたが、現存社会主義の本質規定を回避しているから、そのモデルと自ら目指す社会主義との関係はあいまいなままである。したがって逸脱の内容があいまいなままでは『自己復元力』があると主張しても全く説得力がない」と述べている。

Lは、「社会主義原則」には多様な解釈の余地があるからこれを基準とせず、西欧・日本における普遍的な価値理念である「自由」と「正義」の観点からこの逸脱を測り、「自己復元力」の有無を判定するのが正しい方法であると考えた。
西欧的な基準からすれば、「復元力」にとって重要なのは民主主義、とりわけ「政治選択の自由」である。自由の抑圧は真実を国民の目から隠すこと、同時に一方的に支配者に都合のよい世論を醸成する手段である。
――フルシチョフの「雪解け期」以後、サハロフやロイ・メドヴェージェフ、ソルジェニーツィンなど反体制派知識人は、その生存が認められても、なお改革運動は許されなかった。彼らの主張は、出版禁止・精神病院収容・国外追放などの手段で国民の目から隠され、ソ連の大衆が自国の歴史を知ることはなかった。

Lからみたソ連の労働者大衆は、情報を閉ざされて現状に甘んじ、自ら変革の必要を強く感
じてはいなかった。経済は遅いテンポながら安定発展に向かっていると思われた。イデオロギー教育は、初級から大学に至るまで徹底していた。たとえばロイ・メドヴェージェフのような正義漢でも、資本主義に対する社会主義の優位を語っていた(『ソ連における少数意見』岩波新書、1978)。
Lはさらに、「国家教義」となっているマルクスやレーニンの理論体系を基礎から再検討し、誤った部分を明らかにし、正しい理論に置き換えることなしには、反体制派は現状にゆさぶりをかけることはできないと主張した。
そして、すべての傾向は、ソ連社会において共産党の一党支配は持続し、「今後の1~2世紀において、自由と正義におけるソ連社会主義の後進性が克服される可能性は極めて薄い」ことを示していると判断した。スターリンの激動・悲惨の時代を経過したのちも持続する「党の指導性」下で、労働者国家として安定してしまっていると考えたのである。
――Lのこの判断のほぼ10年後にソ連は解体された。それは民衆の下からの「復元力」が主導権を握ったからではない。まずペレストロイカを契機に上からの「党の指導性」の崩壊がはじまった。それゆえか、ソ連解体後の中央アジア諸国、ソ連圏から解放されたバルカン諸国、そして当のロシアには、民主主義政治ではなく新しい形の専制支配が成立した。

社会主義政党の議会を通じた革命の可能性について
いまからほぼ60年前、日本では空前の規模の日米安保条約反対運動が起きた。同じ年の1960年11月、ロシア革命43年周年に「81ヶ国共産党・労働者党代表者会議の声明」が出された。ここでは発達した資本主義国における社会主義への「平和的移行の可能性」がうたわれた。これは57年の社会主義国共産党「宣言」をひきついだもので、レーニンの時代から1950年代までの暴力革命路線が放棄された画期的な「声明」であった。
日本ではもともと社会党は平和革命路線であったが、共産党も反帝反独占の「多数者革命」に路線変更し、社会主義体制が実現しても政治的自由を保障し、複数政党を認めるという綱領を採用したのであった。Lの以下の議論は、以上の事情を踏まえている。

Lは、「第一次世界大戦の末期には社会主義革命の大きな潮流が巻き起こった。この潮流の変化は1950年代末からはじまり70年までに完了した。変化の主な原因は、ハンガリー・ポーランド事件、中ソ対立、ソ連国内の体制欠陥の表面化、社会主義の権威の失墜と米ソ核兵器対決時代への突入である。今日では社会主義への全面的移行の時代は終わったといわねばならない」と、高らかに社会主義の優位性をうたった「声明」を全く信じていなかった。
むしろ「社会主義勢力による国家権力の完全掌握は、確固たる軍事力の基盤がなくては、カラ文句に過ぎないことは、多くの実例がこれを示している」とし、「国民の大半を統一戦線に結集し、議会で絶対的多数を占め、それに依拠して革命を行うという路線は現実的ではない。それは幻想である」といった。
なぜなら国民が体制変更を強く望まない以上、社会主義を目指す統一戦線派が議会で多数を占めることは考えられない。かりにそれが実現したとしても、「この場合の安定多数派は単なる改革スローガンに対する多数派ではなく、社会主義を目標とした社会の抜本的変革――例えば所有権の大幅制限を求める憲法改正――に賛成する多数派でなければならない」なぜなら社会主義的変革の中心は、主要な生産手段の所有・管理・運営を社会の手に移す生産手段の社会化だからである。
「このような時期においては当然一般の労働者のあいだでも、(生産手段の国有化や)新しい計画経済の構想と現行経済システムとの優劣の比較をめぐる論争が展開されることになるが、現状ではよほどの事態の変化がない限り、これは考えられないことである」
だから、かりに国会で統一戦線派が多数を占めたとしても、そこでやれることは資本主義社会の部分的改良であって、革命ではないと主張したのである。

Lは、「共産主義社会が歴史の発展の最高段階であって、そこから人類の真の歴史が始まり、それまでの歴史は前史であるといったマルクスの見解は、ユダヤ教やキリスト教のメシア思想の流れをくむものであり、人類社会の矛盾の多い構造を見落とした非科学的な一種のイデオロギー(虚偽意識)である」と考えていた。
そして、今日では、「マルクスのいう共産主義社会の『生産力があふれるように流れ出す』という説明は、欧米日では何の魅力も持たなくなった」むしろ生産力至上主義への反省が求められている。経済成長を抑制し、生活の簡素化を図り、自由と競争の原理を抑制して平等の実現を図るといった新しい価値観を社会に定着させなければならない、と主張した。
Lの日本革命についての結論は、「日本においては政治・経済を全く異質のシステムに急転換させる『革命』思想は現実的有効性を失いつつある。これに代わるものは、社会主義思想に依存しない、勤労者の権利と利益を守る(構造)改革を実現することである」というものであった。

以上で、ひとまず中村隆承の社会主義についての考察の紹介を終わる。彼の価値論、ソ連についての考察はべつの機会に紹介したい。
私は、学問から孤立した市井の人のなかに、中村隆承のような、日本の将来を勤労者の立場から真剣に模索した人物がいたことを忘れることはできない。それで彼の遺稿を要約・編集して以上の3篇を書いたのだが、彼の思想をうまくとらえられたかは自信がない。(終)


2019.07.11 1970年代に社会主義への道を批判した市井人(2)
――八ヶ岳山麓から(286)――
                   
阿部治平 (もと高校教師)

前回に続き、中村隆承(1934~83)の遺稿から彼のレーニン論を紹介したい。
(前回同様、中村隆承はL、( )内は注、——以下は阿部のメモ)

日本では、80年代になっても「レーニン主義とは、帝国主義とプロレタリア革命の時代のマルクス主義である」というのが通説であった。いや東欧・ソ連の社会主義体制が解体してからも、既存社会主義の否定的側面は「レーニン主義からの逸脱である」と説きつづけるマルクス主義者もいる。
Lはすでに70年代に、これを事物の表面しか見ない根拠のない見解だとしたうえで、「ソ連社会の基本構造はレーニンの理論と政策によって方向づけられたもので、スターリンは粗野な手段によってそれを肉付けしたのである」と結論づけていた。

レーニンについて、Lはこうメモしている。
「レーニンは民主主義の重要性について認識しており、プロレタリア革命も社会主義建設もブルジョア民主主義を徹底させることを基本課題としていることを認めていた」
ではなぜレーニンはメンシェヴィキやエスエルなどの政治的反対派、クロンシュタートの水兵や農民反乱、さらにはロシア正教の聖職者などに対して大量の銃殺をふくむ苛烈な弾圧を断行し、一党独裁へロシアを導いたのか。
Lはこう答える。それはレーニンが根っからの革命家であり、革命の事業が危機に瀕するたびに、理論にこだわらず、革命の現実的必要を基準として政策を変えたからである。しかもレーニンは、ロシアの後進的な専制政治の風土の影響を受け、潜在的な政治信条として民主主義の有効性に対する不信感を持っていた。革命を成功させるには、民主主義に対する不信感は強みとして働いたということができる。
レーニンにとって革命こそが正義であり、そのためには革命に反対し、あるいは態度を留保するものは悪であった。

反革命・政治的反対派に対する容赦ない弾圧に関連して、Lはレーニンの法理念をこう考えていた。
レーニンは革命後の法理念と司法体系に「プロレタリア独裁の強化」という明確な目標を与えた。具体的には反革命と反対派を取締まることであった。そのために全ロシア非常委員会ヴェ・チェ・カに公開裁判抜きの銃殺権を与えた。
レーニンは、(社会革命党(エスエル)の裁判をおこなうための刑法起草者の)クルスキーへ「銃殺刑あるいは国外追放の適用範囲をメンシェヴィキ・エスエル党員のあらゆる種類の活動に対して広げねばならないと思う」さらに「法廷はテロを排除してはならない。そういうことを約束するのは自己欺瞞だ」という手紙を書いた。
Lは、これが1926年の刑法典の第58条へと育ち、スターリンの血の粛清の法的武器となったと主張する。すでに1921年1月、レーニンは、「我々は数千人を銃殺するのをためらわなかった。今後もためらわないなら、この国を救うだろうと語り、トロツキーが前線で死刑を広く、断固として適用していることを称賛した」
レーニンがテロを強調したのは、テロをプロレタリア独裁の重要手段とみなしていたからである。レーニンの「革命的な正義の観念」と「革命的良心」は、キリスト教的伝統の下における「正義」とか「良心」とはかなり次元が違っていた。
Lは、これをレーニンがプロレタリア独裁至上主義に陥っていたためだという。この結果、法律の条文を「より広く適用」して被告人を無理やり有罪にすることや、告発側の証人のみで被告側の証人は認めないなどの被告人の人権を無視した裁判慣行が、レーニンの時代にすでに広がっていたのである。審理や裁判自体がプロレタリア独裁の勝利のために行われるのであるから、被告人となったものは進んで陳述し告発側に協力すべきものとされた。被告の人権を考慮するような考えはブルジョア思想とされた。かくして夫や父を告発する密告が奨励されたのである。

Lは、レーニンの法理念は革命を擁護するために、民主主義からかけ離れたものになったという。プロレタリア独裁の実態は、内戦が終結したのちの1921年以降は、党内反対派や非協力者たちに対する監視と弾圧となり、とても人間精神を高揚させるしろものではなかった。Lは「ここにイデオロギー過剰と倫理的虚無感の入り混じったソ連独特の道徳的状況を解くカギがある。レーニンはこれらすべてのことに責任があるといわなければならない」と明言した。
――従来赤色テロは、レーニンの名誉にかかわるため秘密とされてきた。テロの犠牲者数について、LはM.ラツイスによる1918年から1年半の犠牲者数8300をあげている。ソ連解体後の新資料による数値は、たとえば稲子恒夫著『ロシアの20世紀』(東洋書店 2007年、p180)を参照されたい。

Lは、レーニンの「党の指導性」というテーゼを重視して、次のようにその正負両面を分析している。
「レーニンは、1902年の『何をなすべきか』において『党の指導性』についての理論の骨格をきずいた。前衛政党なしにプロレタリア革命は達成できないという見解は、当時の情勢からすれば(革命を起こすうえで)非常な卓見というべきである」
だが、それは1917年10月革命後も共産党が一切を指導するという一党独裁の理論に変わった。1920年から21年の労働組合論争は、経済の運営管理に労働者大衆の参加と統制を大幅に認めようとするシュリアブニコフ、コロンタイらの「労働者反対派」と、経済運営は厳格な党の指導性の下に置かれるべきであるとするレーニンとの争いであった。
レーニンは「労働者反対派」に対してアナルコ・サンジカリズムとして攻撃し、将来にわたって大衆民主主義が党内に持込まれないようにするために、「分派活動の禁止」を大会で決議させた(1921年ソ連共産党第10回大会の結語――クロンシュタートの反乱の年)。
レーニンはトロツキーを批判するという形で、労働組合は労働者が『社会主義社会の運営方法を学ぶ共産主義の学校』であるというテーゼを打ち出して、『学ぶべき労働者』という概念を定着させ、一方で、『党の指導性』なしに共産主義社会の実現は不可能」として、「党の指導性」を至上の高みに持ち上げたのである。
レーニンは革命後においても、指導する前衛党と教育されるべき労農大衆という二極化された社会構造を不可欠なものと考えたから、共産主義に至る過渡期に必要な民主化された社会を将来展望として示すことができなかった。

Lは、M.レヴィン『レーニン最後の闘争』(1969年)から引用して、「それはすべての意見の不一致に分派的であるという焼き印を押すことによって一切の真の討論を窒息させるのに成功した」といい、また「『党の指導性』はスターリン時代にその対象領域を際限なく拡大し、政治・経済管理から教育・文化などに広がった。プロレタリア独裁はローザ・ルクセンブルグの懸念通り、党が代行したのである」として、この方面でもレーニンの歴史的責任は免れないと判断した。(続く)

2019.07.10 1970年代に社会主義への道を批判した市井人(1)
            ――八ヶ岳山麓から(285)――

阿部治平 (もと高校教師)

畏友中村隆承(Lと略記)は、1983年に49歳の若さで世を去った。
Lは1956年東京大学経済学部卒業後、志を抱いて農協の全国機関に就職した。世間的にはエリートのはずであったが、さほど出世しなかった。マルクス主義者と見られていたからである。
しかし、彼がマルクスやエンゲルス、さらにはレーニンを肯定的に見ていたのは、1960年代なかばまでであった。私はLとマルクス主義に関する議論をする機会がときどきあったが、知識と考察のレベルは等しくはなく、彼から教えられることの方が多かった。
76年Lに癌がみつかり、2度の手術の後、余命いくばくもないと知ったとき、彼は気力を振り絞ってみずからの思想を書き残した。遺稿は『中村隆承遺稿集』として、1984年夫人の手により自費出版された。
内容は、東欧とソ連解体のはるか以前、ソルジェニーツィンやサハロフに対する弾圧が行われた1970年代の思考である。考察に必要な資料は少なく、しかもLは学者でなく市井の人であったから、その内容はときに断片的であり、また過度に断定的であり、今となっては常識となった部分もないわけではない。
今年は中国の天安門事件、東欧の民主主義革命から30年である。私はこれを機にLが生きた証を世に問いたいと願い、彼の遺稿からいくつかのテーマを選ぶことにした。数篇に分けて述べるつもりであるが、まず社会主義理論に関する部分を要約、紹介する。(( )内は簡単な注。――線以下は阿部のメモ)

Lは、マルクスとエンゲルスについてこういう。
彼らは「労働者階級による社会主義革命」という新しい理念を創出し、この革命を達成することを生涯の第一義的課題とした。これを実践、発展させたのがレーニンである。マルクスとエンゲルスの『資本論』をはじめとする膨大な著作は、この革命が労働者にとって必要であり、達成可能であることを説得するための手段であり、また偉大な努力の結晶であった。
マルクスとエンゲルスは人の主観的意志とは別に、客観的な社会発展法則が存在することを確信し、それをもって彼らの社会主義理論が科学的であり真理であることの根拠として、革命への説得力を比類なきものにしようとした。

だがLは、彼らの社会発展の理論=史的唯物論は、社会の内在的要因を過度に重視しており、「内部矛盾による自己発展」という観点に依存しすぎていると考えた。歴史は社会の変化・発展が、内的要因とともに外的要因によってももたらされることを証明していると。
――Lと私は、人類史の上で、戦争・侵略、自然災害などの外的要因がしばしば重要な役割を果たしたことや、明治維新だけでなく、第二次大戦後の日本の敗北とその戦後処理なども革命と考えて議論した。

Lの認識では、マルクスとエンゲルスの認識過程には、19世紀中葉という時代的制約から、非科学的見解や事実に合致しない判断が相当入り込んでいた。なかでもヘーゲルの「理性は自らを歴史の中に表現する」という絶対論的認識論の影響を強く受けていたことが、歴史の発展要因として、生産力視点の強い内的要因一元論を貫く結果を生んだ。
封建制→資本制などの歴史発展段階論はヨーロッパ社会の歴史を要約したものであるにもかかわらず、社会発展の論理を一元化しようとするあまり、これを世界史的発展の法則として取り扱うことになった。このため非西欧社会の社会発展、あるいは停滞を十分説明できなかった。
――だが、日本の「アジア的生産様式」論争のなかでは、論者の一部はLと共通の認識であったと思う。私のような教師は、原始共産制―奴隷制―封建制―資本制」という図式にこだわったとき、ずいぶん無理な説明をしなければならなかった。中国の封建制を周王朝から辛亥革命まで数千年続いたとしたり、モンゴルの社会主義革命を資本主義段階を飛越えたものとする説が現れたりしたからである。

マルクスはヘーゲル的弁証法にこだわって、「外化」「物神化」「疎外」「自己現出」「本質と現象形態」などの概念を多用し、不十分な素材や事実の下でも、すぐに総括的に事態を一刀両断にするようなことをしばしばした。この思い切りの良さはマルクスの強みであって、彼らの理論の啓示性をそこなうものではなく、かえってそれを強めたけれども、科学的論証としては問題があった。『資本論』では流通・サービス労働の無視など、価値論に大きな欠陥を残した。
Lは、総じていえば、唯物弁証法といい史的唯物論といい厳密な科学性を備えたものではなく、現実の社会の発展法則をわかりやすくするといったものではなかったと判断した。
さらに、弁証法のテーゼが自然科学の真理の認識過程を正しく総括したなどという(エンゲルスに対する)評価はこじつけである。マルクスやレーニン以後の飛躍的な自然科学の発展にもかかわらず、マルクス主義哲学者はそれに対応した弁証法のテーゼの充実といったものは試みていない、ともいっている。

Lによれば、マルクスとエンゲルスが(生産手段の社会化と)生産の計画化によって資本主義社会における生産と消費の不適合を除去できると考えたことは、理論的にも実際的にも誤りであった。社会的生産と消費の不適合は、人類社会が工業化すればするほど拡大する。これは社会の基本的矛盾であって、この矛盾を社会主義によって解決しようというのは空想的である。
完全な計画経済は理論的には不可能であり、やろうとすれば常に試行錯誤的にならざるを得ない。また徹底しようとすればより強い中央集権化と官僚化が必要となり、その割に効率は低い。
――Lは、マルクスやエンゲルスの理論の中にある非科学な事例として、エンゲルスの『家族、私有財産、および国家の起源』と、『自然弁証法』をあげた。前者はルイス・H・モーガンの主著『古代社会(Ancient Society)』(1877年)の誤解にもとづく学説を鵜呑みにしたものである。

Lは、人間の歴史は階級闘争の歴史であると同時に、戦争と覇権の歴史であるとみていた。ロシアの1917年10月革命を準備した2月革命も、レーニンの理論による自覚した組織労働者の武力闘争の結果として起こったのではなく、第一次世界大戦の結果としての、半ば自然発生的な、民衆と兵士による反乱の結果として起こったものであった。
——私たちは、議論の中で10月革命はボリシェヴィキによる軍事クーデターであって、労農大衆による革命というにはあまりにも無理があるという結論に達した。

ロシア10月革命を成功させたのは、まちがいなくレーニンであった。Lによると、レーニンは天啓を受けた宗教家のように強い信念にみちて、初期の困難の克服と路線の設定に没入した。彼は民主主義の重要性を認識してはいたが、天性の革命家であり、理念や理想が現実の必要と矛盾するときはためらいなく後者を選んだ。
彼は労農大衆が革命の遂行に必要な責任感と能力を十分に身に着けていないと判断して、党機関の拡大とあらゆる部門での党の指令による管理の確立をはかった。またコロンタイなどこの路線の反対者(労働者反対派)に対して、「分派活動の禁止」の党大会決議をおこなって、可能であったかもしれないもうひとつの道を自ら閉ざした。
レーニンが晩年に戦いの対象とした官僚主義は、彼の敷いた路線の必然的産物だったのである。

スターリンは「革命の防衛」というレーニンの執念を引き継ぎ、他の指導者が理論や理念に執着する間に、党組織の拡大と農村部をはじめとする指導機関の整備に努めた。その後、彼はレーニンの組織論と分派活動の禁止を武器として、トロツキー以下のすべての競争者を粛清した。
Lは、1936年以降の大粛清も、またそれを是正できなかったのも、その責任の一部はマルクスの理論にひそむ権威主義的な要素、すなわちヘーゲル的絶対論的認識論や、党員は上級に絶対的に従うべしとするレーニンの集権的要求と民主的党運営の軽視にある。さらにスターリンのようなカリスマ的指導者に対しては逆らえないという、人間の弱さもその原因に付加えなければならない。
そしてLは、スターリンは(蛮行を繰り返したが)強制力と大衆の熱狂の力(そして大量の囚人労働)で農業の集団化と重工業化を強行し、シベリア開発の成果を上げ、独ソ戦を戦う戦力を築いたと一定の評価をしている。(続く)

中村隆承 略歴
1934年東京杉並区に生まれる。幼児期から43年(小学校4年)まで主に満洲(中国東北)で過ごす。43年年から高校卒業まで鹿児島県で生活する。
1952年鹿児島県立甲南高校卒業。同年東京大学経済学部入学。在学中、赤門消費組合で活動し、56年同大学卒業。全国購買農業協同組合連合会(全購連、のちの全農)に就職。62年全国農協中央会に出向。64年全購連に戻る。同年結婚。
76年10月癌を病み、千葉大学付属病院で大腸手術。81年2回目の大腸手術。85年永眠。
全購連在職中、「乳価安定施策の矛盾をつく」「畜産物価格政策の改善をめぐる問題点、上・中・下」ほか農業・農協関連の論文を発表した。またこの間、『資本論』、計画経済の可能性、ソ連経済の実態、平和運動のありかたなどについて、未公表の膨大なノートを残した。二男一女の父。








2019.07.09 参院選序盤の選挙情勢をどう見る
改憲勢力「3分の2割れ」がもたらすもの(1)
                
広原盛明 (都市計画・まちづくり研究者)

 7月6日、各紙は参院選序盤の選挙情勢に関する有権者調査(7月4,5日実施)を発表した。見出しは、朝日「自公、改選過半数の勢い、改憲勢力2/3は微妙」、毎日「改憲3分の2割れも、与党、改選過半数は確保」、日経(共同通信)「自公、改選過半数の勢い、改憲勢力2/3うかがう」というもの。各紙が挙って同じ情勢を報じているのだから、情勢分析の確度は相当高いと思える。残念ながら「自公、過半数割れ」は望むべくもない以上、焦点は「改憲勢力、3分の2割れ」に移ることになる。果たしてこれが可能なのか。もう少し、各紙の解説を紹介しよう。

【朝日】
 改憲発議が可能になる「3分の2」は164議席。自公与党に維新、与党系無所属を加えた「改憲勢力」は非改選79議席あり、改選で85議席が必要だ。自民、公明、維新の3党で計80議席前後となりそうで、85議席に届くかは微妙だ。

【毎日】
 自公は衆院で3分の2を確保し、参院では維新と、改憲に前向きな無所属議員と合わせて3分の2を占める。非改選の改憲勢力議員は79人で、3分の2の維持には85人の当選が必要だ。序盤情勢では自公維3党は69議席からの上積みを狙う。党勢が好調なら3党で85に達する可能性もある。

【日経(共同通信)】
 自民、公明両党は改選124議席の過半数63を超え、改選前の77議席前後まで積み上げる勢い。安倍政権下での憲法改正に前向きな「改憲勢力」は、国会発議に必要な3分の2以上の議席維持をうかがう。野党は立憲民主党が改選9議席からの倍増を視野に入れるものの、全体では伸び悩む。

 私が注目するのは、選挙公示日直後の有権者調査で早くも「改憲勢力3分の2割れ」の兆候が出ていることだ。本格的な論戦が始まる前段階でこのような兆候があらわれているのは、国民の間に流れている「安倍改憲」への根強い警戒心を示すものだろう。今後、安倍首相が改憲姿勢に前のめりになればなるほど、国民の警戒心はますます高まるに違いない。

 その一方、予想外だったのは1人区での野党共闘の不振ぶりだ。毎日新聞は「1人区、苦しい野党」「共闘空回り、優勢5区」と見出しでその実態をあまねく伝えている。表向きは野党共闘であっても、(1)立憲民主と国民民主の主導権争いが解消されず、互いの支援活動に腰が入ってないこと、(2)共産に対する他党支持層のアレルギーが根強いこと、(3)無所属の野党統一候補は18選挙区に上るが、政党色を抑え幅広い支持を得る狙いが十分に発揮されていないこと、などがその原因だという。

 それに、1人区はもともと自民が強い選挙区であること、野党統一候補はほとんど新人で名前が浸透していないこともある。ならば、もっと早くから野党共闘体制を確立し、候補者を決定して選挙運動を始めるべきであったが、野党第一党の枝野立憲民主代表が最後まで踏み切らずこのような事態を招いたことは誠に残念だと言わなければならない。もっとも今回の参院選における枝野代表の狙いは、かねてからの持論の如く「野党第一党の座を確実にする」(日経新聞コラム「大機小機」、7月6日)というものらしいから、野党統一候補のために全力を傾注することにはならないのだろう。

 しかし、より根本的な問題は、安倍政権の政策に賛成はしないが自民に投票するとする支持層が多数存在するという現実だ。朝日新聞によると、年金だけでは「2千万円不足」という問題に関しては、麻生金融担当相が報告書の受け取りを拒んだ対応について「納得できない」62%、「納得できる」16%と大差がついているにもかかわらず、納得できない層の比例区投票先は自民40%に達し、立民24%を大きく引き離している。また、消費税増税に「反対」する人の比例区投票先も自民40%、立民21%とこれも変わらない。つまり、政策に関係なく自民を支持する有権者が多数いるということだ。

 おそらくこのギャップは、政策の問題点がより明確になる中盤戦から終盤線にかけて縮小するものと思われるが、目下のところ「選挙戦が始まったばかりの現時点では、これらの問題に関する批判層が野党に大きく流れる状況までには至っていない」(朝日)というのが実態だろう。だが、果たしてこのような状況は起こりうるものなのか。

 私はその背景に、政策で政党を選択するという近代政治の基本が国民の間に充分に浸透していないことがあるのではないかと疑っている。また、その原因として野党がそもそも政権政党として国民に信頼されていないのではないかと思っている。民主党政権による無様な政権運営、野党転落後の見苦しい分裂劇、最近では元閣僚の自民入党など、野党の存在意義を揺るがす不祥事には事欠かないからだ。

 また、野党共闘の不振に関しても、これまで金科玉条の如く「自共対決」を掲げて野党共闘を拒んできた共産に責任がないとはいえないだろう。国民はいきなり「昨日の敵は今日の友」なんて言われても、そう簡単に信用することができないからだ。いずれにしても、政策を掲げるだけでは野党の存在意義を国民に納得させることはできない。それを示すのは政策を実行する政党の体質なのである。(つづく)