83歳で大学を卒業、高齢者への励ましに
東京の主婦・内山章子さん
社会学者だった鶴見和子さん(故人)と評論家・哲学者の鶴見俊輔さんの妹の内山章子(うちやま・あやこ)さん(東京都世田谷区在住)が、この3月、京都造形芸術大学芸術学部通信教育部を卒業した。8年かがりの卒業で、その時、83歳だった。章子さんは6月24日、東京で「大学卒業を感謝する会」を開いたが、集まった友人・知人らはお祝いのスピーチの中で口々に「80代での大学卒業は珍しく、高齢者への励ましになる 」と、章子さんの“壮挙”を讃えた。

【感謝する会であいさつする内山章子さん】
章子さんは、政治家・著述家で戦後、参院議員や厚生大臣を務めた鶴見祐輔氏(故人)と、大正から昭和にかけて活躍した政治家・後藤新平の娘だった愛子さん(故人)の間に生まれた次女。鶴見和子さんは姉、鶴見俊輔氏は兄。章子さんの夫は政治学者で、法政大学教授、札幌大学学長、世界平和アピール七人委員会委員・事務局長などを歴任した内山尚三氏(故人)だ。
章子さんが人生の晩年になって大学進学を果たしたいと思ったのは、戦時下に青春時代を送ったため勉強する時間に恵まれなかったことと、その後の家庭の事情により高等教育を受ける機会がなかったからだという。「勉強したかったのに、私、かなわなかったのよ」
章子さんが2008年に自費出版したエッセー集『雪中花』によると、小、中学生時代は女子学習院の初等・中等科で過ごした。が、中等科(女学校に相当)は5年制だったにもかかわらず、戦時体制下の特別措置で4年制に短縮されてしまった。そのうえ、戦争激化とともに授業は週1回、あとは工場で真空管造りに従事させられた。1945年春に繰り上げ卒業。しかも、この間、母が疎開先の軽井沢で倒れ、父の命令で学校を休み、その看病に明け暮れた。
女子学習院卒業後、東京女子大学(専攻科)歴史学科を受験して合格するが、8月15日の日本敗戦で大学は休校に。1948年に卒業するが、この間、都内の鶴見家の住宅がGHQに接収されたため一家は転々、勉強どころではなかった。
東京女子大学を卒業した章子さんは保母(今は保育士と呼ぶ)をめざしたが、病気の母を抱えていた父は、娘の保母学校進学を快く思わず、章子さんは結局、保育園に就職した。3年間保育所に勤め、国家試験に合格すれば保母資格が得られるからだった。しかし、まもなく、章子さんはなぜか家人によって保育園から家に引き戻された。
「父は、姉と兄には外国の大学にまで留学させたが、なぜか私にはそうした機会を与えてくれなかったんですよ。子どもの1人を母親の看病に専念させたかったのかも知れませんね」と章子さん。
進学も就職もままならなかった章子さんは、やがて姉、和子さんの紹介で1950年、当時法政大学助教授だった内山尚三さんと結婚する。それから、2002年に夫が亡くなるまで52年間というもの専業主婦ひとすじ。74歳になっていた。
岩垂 弘 (ジャーナリスト)
社会学者だった鶴見和子さん(故人)と評論家・哲学者の鶴見俊輔さんの妹の内山章子(うちやま・あやこ)さん(東京都世田谷区在住)が、この3月、京都造形芸術大学芸術学部通信教育部を卒業した。8年かがりの卒業で、その時、83歳だった。章子さんは6月24日、東京で「大学卒業を感謝する会」を開いたが、集まった友人・知人らはお祝いのスピーチの中で口々に「80代での大学卒業は珍しく、高齢者への励ましになる 」と、章子さんの“壮挙”を讃えた。

【感謝する会であいさつする内山章子さん】
章子さんは、政治家・著述家で戦後、参院議員や厚生大臣を務めた鶴見祐輔氏(故人)と、大正から昭和にかけて活躍した政治家・後藤新平の娘だった愛子さん(故人)の間に生まれた次女。鶴見和子さんは姉、鶴見俊輔氏は兄。章子さんの夫は政治学者で、法政大学教授、札幌大学学長、世界平和アピール七人委員会委員・事務局長などを歴任した内山尚三氏(故人)だ。
章子さんが人生の晩年になって大学進学を果たしたいと思ったのは、戦時下に青春時代を送ったため勉強する時間に恵まれなかったことと、その後の家庭の事情により高等教育を受ける機会がなかったからだという。「勉強したかったのに、私、かなわなかったのよ」
章子さんが2008年に自費出版したエッセー集『雪中花』によると、小、中学生時代は女子学習院の初等・中等科で過ごした。が、中等科(女学校に相当)は5年制だったにもかかわらず、戦時体制下の特別措置で4年制に短縮されてしまった。そのうえ、戦争激化とともに授業は週1回、あとは工場で真空管造りに従事させられた。1945年春に繰り上げ卒業。しかも、この間、母が疎開先の軽井沢で倒れ、父の命令で学校を休み、その看病に明け暮れた。
女子学習院卒業後、東京女子大学(専攻科)歴史学科を受験して合格するが、8月15日の日本敗戦で大学は休校に。1948年に卒業するが、この間、都内の鶴見家の住宅がGHQに接収されたため一家は転々、勉強どころではなかった。
東京女子大学を卒業した章子さんは保母(今は保育士と呼ぶ)をめざしたが、病気の母を抱えていた父は、娘の保母学校進学を快く思わず、章子さんは結局、保育園に就職した。3年間保育所に勤め、国家試験に合格すれば保母資格が得られるからだった。しかし、まもなく、章子さんはなぜか家人によって保育園から家に引き戻された。
「父は、姉と兄には外国の大学にまで留学させたが、なぜか私にはそうした機会を与えてくれなかったんですよ。子どもの1人を母親の看病に専念させたかったのかも知れませんね」と章子さん。
進学も就職もままならなかった章子さんは、やがて姉、和子さんの紹介で1950年、当時法政大学助教授だった内山尚三さんと結婚する。それから、2002年に夫が亡くなるまで52年間というもの専業主婦ひとすじ。74歳になっていた。
夫の遺稿集を刊行し終えると、がぜん、勉強したくなった。若いころ、思うように勉強できなかったという思いが日ごとに募っていった。新聞広告で京都造形芸術大学芸術学部通信教育部を知り、2004年、76歳で同通信教育部芸術学科へ入学し、日本の文化、芸術を学んだ。そして、この3月、卒業式を迎えた。卒業論文は「呉春筆《白梅図屏風》についての一考察―蕪村と応挙の影響について―」。呉春は江戸時代中期に京都で活躍した文人画家である。
卒業まで8年もかかったのは、姉の和子さんが1995年に脳内出血で倒れ、およそ10年間の闘病生活を余儀なくされたからだ。章子さんはこの間、姉の看病に追われた。2006年に姉が亡くなると、姉の闘病生活を記録した『鶴見和子病床日誌』をまとめ、自費出版の形で刊行した。2007年夏のことだ。 このあと、ようやく自らの学業に没頭できるようになり、卒業式を迎えたのだった。
章子さんが東京・新橋のホテルで開いた「大学卒業を感謝する会」には、大学関係者、大学生活を通じてできた友人・知人、夫が大学でもっていたゼミの卒業生らが集まった。 最初にスピーチをした、章子さんの主任教授である中路正恒・京都造形芸術大学教授は「内山さんには鮮明な印象が残っている。岐阜県の飛騨、岩手県の花巻、それに北海道でフィールドワークをしたが、内山さんは高齢にもかかわらず、それらすべてに積極的に参加した。岩手県花巻の授業では、宮沢賢治の作品に出てくる、海抜830メートルの、なめとこ山に登った。男でも3時間半かかる山だが、内山さんはこれにチャレンジし、頂上を極めた。北海道では、アイヌから話を聞いたが、内山さんはここでも意欲的だった」と述べた。
次いでスピーチに立った同大学の三上美和・准教授は「内山さんは、少女のような喜々とした顔でうれしそうに話す学生でした。キャンパスで見る内山さんは、いっもリュックサックを背負っていて、それには本がいっぱい入っていた。最後に伸びた学生でした。その頑張りに感動しました」と話した。
最後にあいさつした章子さんは、その中で「8年がかりで大学を卒業できたのも皆様の支えと励ましがあったからです。深く感謝します。大学に入ったおかげで、北海道から沖縄にまで足を延ばすことができ、視野を広げることができました。しかし、学業はまだまだ未完成ですので、これからは成城大学で日本画について学ぶことにしました」と述べた。
章子さんの挑戦はまだまだ続きそうである。
卒業まで8年もかかったのは、姉の和子さんが1995年に脳内出血で倒れ、およそ10年間の闘病生活を余儀なくされたからだ。章子さんはこの間、姉の看病に追われた。2006年に姉が亡くなると、姉の闘病生活を記録した『鶴見和子病床日誌』をまとめ、自費出版の形で刊行した。2007年夏のことだ。 このあと、ようやく自らの学業に没頭できるようになり、卒業式を迎えたのだった。
章子さんが東京・新橋のホテルで開いた「大学卒業を感謝する会」には、大学関係者、大学生活を通じてできた友人・知人、夫が大学でもっていたゼミの卒業生らが集まった。 最初にスピーチをした、章子さんの主任教授である中路正恒・京都造形芸術大学教授は「内山さんには鮮明な印象が残っている。岐阜県の飛騨、岩手県の花巻、それに北海道でフィールドワークをしたが、内山さんは高齢にもかかわらず、それらすべてに積極的に参加した。岩手県花巻の授業では、宮沢賢治の作品に出てくる、海抜830メートルの、なめとこ山に登った。男でも3時間半かかる山だが、内山さんはこれにチャレンジし、頂上を極めた。北海道では、アイヌから話を聞いたが、内山さんはここでも意欲的だった」と述べた。
次いでスピーチに立った同大学の三上美和・准教授は「内山さんは、少女のような喜々とした顔でうれしそうに話す学生でした。キャンパスで見る内山さんは、いっもリュックサックを背負っていて、それには本がいっぱい入っていた。最後に伸びた学生でした。その頑張りに感動しました」と話した。
最後にあいさつした章子さんは、その中で「8年がかりで大学を卒業できたのも皆様の支えと励ましがあったからです。深く感謝します。大学に入ったおかげで、北海道から沖縄にまで足を延ばすことができ、視野を広げることができました。しかし、学業はまだまだ未完成ですので、これからは成城大学で日本画について学ぶことにしました」と述べた。
章子さんの挑戦はまだまだ続きそうである。