2019.12.08 「本日休載」

今日 12月 8日(日)は休載します。

リベラル21編集委員会


2019.12.06 私が会った忘れ得ぬ人々(15)
倍賞美津子さん――「どこか地が出ちゃう。化かそうとしてもダメね」

横田 喬 (作家)

 前回取り上げた倍賞千恵子さんの実妹・倍賞美津子さんも、姉に引けを取らぬかつての美人女優で且つ実力ある演技派として知られる人だ。随分昔になるが、今から三十五年前の一九八四(昭和五十九)年、当時『朝日新聞』記者だった私はこの女優さんを単独インタビューしている。彼女の簡便な横顔紹介を兼ね、まずは当の紙面を引こう。

 ――茨城ゆかりの芸能人に女優の倍賞美津子(37)がいる。東京生まれの姉・千恵子が四歳の昭和二十年、東京大空襲で焼け出され、筑波山の北の母の郷里・大和村(注:現桜川市羽田)に疎開する。田舎暮らし六年、美津子の方は疎開先で生まれた。食糧難のひどい時代のこと、「スイカやトマトを近所の畑から失敬しちゃって、おなかの足しにした。青くさいトマトの味は今でも忘れられないな」と美津子。やんちゃな個性がのぞく。

 都電の運転士だった父に従い、一家は東京に戻ると下町・滝野川で長屋暮らしへ。芸事好きの姉妹はSKD(松竹歌劇団)を経て映画界入り、と同じコースをたどる。さっさとフリーになった美津子はプロレスラー、アントニオ猪木の妻となる傍ら、個性派の異色女優の道へ。映画『復讐するは我にあり』の肌も露わな体当たり演技で四年前、ブルーリボン助演女優賞。
豊かな肢体、成熟した女の美しさを買われて、テレビのCM“Ms.ニッポン”に登用され、話題を呼ぶ。カラッと明るく、「家庭第一、仕事はその次。いろんな役をやっても、どこか地が出ちゃう。化かそうとしてもダメね」。――
 
 美津子は近年、主にテレビを舞台に活動。昨秋から新シリーズが始まったTBS日曜劇場「下町ロケット」(原作、池井戸潤)で主役・阿部寛の母親役を演じ、好評だった。柔らかい雰囲気や声などから、優しく包み込んでくれるような母親役が似合う。‘〇七年のテレビドラマ「東京タワー~オカンとボクと、時々、オトン~」で貫録あるオカン役を演じ、非常に好評。以降、主人公の母親や祖母役を演じる機会が目立って増えた。

 前回の千恵子の項でも述べたように、両親は戦前の東京で市電の運転士をしていた秋田出身の父と車掌さんだった茨城出身の母のカップル。美男と美女同士の当時珍しい職場恋愛結婚である。戦後、茨城の疎開先から戻った両親と五人きょうだいは滝野川の三軒長屋で暮らす。二間と台所だけで風呂はなく銭湯通いだから、絵に描いたような下町暮らしだった。

 三女の美津子は大人しかった次女・千恵子と違い、子供のころから勝気だった。末の弟が虐められていると代わりにとっちめたり、「女のガキ大将」だったとか。五つ年上の千恵子と同じく容姿に優れ、姉の影響もあって早くから劇場舞台に憧れる。が、映画には全く興味がなく、SKDをやめたら全く別な世界へ行きたかった、という。

 が、二十一歳の頃、楽屋に一本の電話が入る。「勝新太郎です。映画に出てほしい」。偽物ではと疑い、怖いので友達に付き添ってもらいホテルへ行くと、本物の勝新がいる。うわぁと目を見張り、脚本を貰ったら、すごく面白い。共演に石原裕次郎・仲代達矢・三島由紀夫ら錚々たる名前も。‘六九年、五社英雄監督「人斬り」で勝新太郎が扮する土佐藩郷士・人斬り(岡田)以蔵の馴染みの女郎を演じて京都市民映画祭新人賞を受け、好スタートを切る。

 同年の松竹入社第一作は森崎東監督「喜劇 女は度胸」。以後、森崎作品の常連になり、八本の映画に出演する。‘八五年の「生きてるうちが花なのよ死んだらそれまでよ党宣言」では旅回りのストリッパー・バーバラ姐さんを颯爽と演じる。が、恋人(原田芳雄)は原発ジプシーという設定で、美浜原発の放射能漏れ事故~事故隠蔽へ暴力団が暗躍といった社会の暗部も描かれる。美津子は言う。
 ――監督は先の戦争中に青春期を過ごし、国家に対し凄く怒りを持っていた。役柄を掴もうと数日前に現地入りし、街歩きをしたり、銭湯で地元の人と話したり。土地の空気を丸ごと取り込むよう努め、役作りを工夫した。

 姉・千恵子が確立した「しっかり者の長女」路線は踏襲せず、次女・三女の特質「自由でいて頼もしげ」なキャラクターで勝負に出る。ある種行き当たりばったり、出たとこ勝負の危うさは伴うが、誰もがふっと頼りにしたくなるキャラだ。スリムな体形でソプラノ声の姉と違い、胸や腰の大きいグラマーでハスキー声の彼女ならではの選択かも。

 美津子は社会派志向を強め、独立プロの仕事も多くなる。演技派として転機を迎えるのが七九年の今村昌平監督「復讐するは我にあり」。緒形拳が扮する殺人強盗の妻役で出演し、全裸の入浴シーンでも話題になった。夫が家出してもへこたれず逞しく生き抜いていく生命力あふれる女性を見事に表現し、ブルーリボン賞助演女優賞、日本アカデミー賞優秀助演女優賞。美津子はこう言う。
――大変なシーンでも、役者は監督を信頼すればできる。血を吐くほど苦労して絞り出したセリフがとても大切だ、と教えて頂いた。優しくも残酷にもなれる人間の深さを教わった。

 ほかにも、話題作では巨匠・黒澤明監督の八〇年「影武者」と九〇年「夢」、新藤兼人監督九五年「午後の遺言状」、市川準監督九七年「東京夜曲」などに出演。そして、八五年には前記の森崎監督「生きてるうちが花なのよ死んだらそれまでよ党宣言」、神代辰巳監督「恋文」、崔洋一監督「友よ、静かに瞑れ」に出演。この三本の総合評価で、この年の数々の映画賞の主演女優賞を総取りし、日本映画界を代表する演技派俳優としての地位を確立する。

 私生活では四十歳の折に、十六年連れ添った夫・アントニオ猪木と協議離婚。最初に姉・千恵子においおい泣きながら電話を入れ、「とりあえず、おいで」と家へ来るよう誘われた。
その後、ショーケン(萩原健一)との艶聞騒ぎなどもあったが、一人娘・寛子を女手一つでちゃんと育て上げ、高校~大学は米国へ留学させて無事に独り立ちさせている。

 実は五十歳の時の’九七年、直腸癌が判明。患部の直腸を全摘出~人工肛門を着ける決断をし、大手術に成功する。長い療養生活から再起すべく、水泳やジム通いに励んで体力回復に努めた。夜は読書に当て、オルテガ・イ・ガセットの哲学書などを読み耽り、「心の貴族たれ」という言葉に励まされた、という。映画雑誌のインタビューに、「菩薩とマリアと、エロス。そういう女性に、私はなりたい」と答えている。

 その少し前、倍賞姉妹は月刊「婦人公論」誌上で六頁にも渡る長い対談を交わしている。美津子の娘・寛子が赤ん坊だった時分、千恵子がベビー・シッターとして泊りがけで面倒を見たり。代わりに、千恵子が運悪く骨折した際は美津子の許に一か月も居候し、トイレの付き添いから入浴の世話まで面倒を見てもらったり。姉妹の親密さがつぶさに紹介される。美津子が「先に道標を作ってもらい、感謝している。凄い先輩」と呟けば、千恵子も「そんじょそこらに居ない(立派な)役者さん」と讃え、エールを交換し合っている。

 仲が良く、共に一流であり続ける姉妹はなかなか居ない。父母の代に地方から上京してきた「東京二代目世代」の最も有名な成功例でもあろう。学歴や肩書に依ってではなく、仕事の場で独力で己を磨き上げた女性たちゆえ、とりわけ感服する。

2019.12.01 「本日休載」
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2019.11.24  「本日休載」

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2019.11.21 「月的生活」を進めた志賀勝さんをしのぶ
藤野 雅之(元共同通信社記者)

 11月16日、東京・東銀座のカフェでこの夏に急逝した志賀勝さんをしのぶ会があり出席した。志賀さんは1949年生まれだから8歳年下である。読書新聞の記者をしていた1980年代初め、大阪の詩人金時鐘さんの夫人姜順喜さんが大阪の谷町商店街で開いていた居酒屋「すかんぽ」で時鐘さんに紹介されたのである。その頃の志賀さんは在日朝鮮人問題に関心を持ち、時鐘さんに出会ったのだろう。
 それ以来の付き合いだが、志賀さんと会うことはそれほど多くはなかった。1990年代末になって「月と太陽の暦」のカレンダー発行を志したようだが、この辺りの私の記憶ははっきりしない。今、「月と季節の暦」というHPを見ると、東京に「月の会」が発足したのが2003年とあるが、その前後のことが記されていないからである。カレンダーが出ると、私は勤めていた通信社のルートで紹介記事を書いた記憶がある。その時、浅草に近い花川戸の狭いマンションを訪ねたのだが、その前には志賀さんは高砂だったか、東京東端の下町に住んでいたと記憶している。
 志賀さん自身は1990年代だったか、シベリア鉄道でユーラシア大陸を縦断した折に、夜の広大な白樺林を照らす白い月を見て感動した体験から月について考えるようになったと書いているが、私はそんなに単純な動機ではないだろうと疑っている。
 ここで私のことを言えば、1969年に初めて沖縄を訪れ、復帰後の76年から与那国島与那国島サトウキビ刈り援農隊を2015年まで呼びかけてきたので、沖縄の年中行事やさまざまな祭りに自然に関心を抱くようになった。その沖縄で感じたのは、役所や学校、農協などの行事は太陽暦(新暦)で行われるが、普段の生活は太陰暦(旧暦)で行なっていることだ。言うなれば、建前としては新暦だが、村や地域での暮らしは旧暦なのである。
 援農隊が働くキビ刈りや製糖工場の日程はもちろん新暦で組まれる。しかし、キビ刈りが続く2〜3ヶ月間には、ジュウルクニチ(旧暦1月16日祭)やサンガツサンニチ(旧暦3月3日の浜下り祭)、年によっては清明祭(シーミーサイ、春の彼岸)などの沖縄独自の年中行事がある。農協のスケジュールはこれらの日は作業をして休まないのだが、実際には、島の人はこれらの日は働かない。お祭りを優先して仕事には出かけないのである。本土で育った私にはこれに初めて出合った時は大変なカルチュアショックだった。
 その後、韓国や中国、台湾などを訪れた。これらの国でも旧暦は生きている。東南アジアでも旧暦が使われている国は多い。聞くところによると、アメリカ・インディアンの暮らしも同じだという。中央アジアやイスラム圏は、今はイスラム暦が使われているが、イスラム暦については知らないので、旧暦との関係があるのかどうか。
 以前、友人の記録映画監督の姫田忠義さんがフランスとスペインの国境地帯バスク地方のドキュメンタリーを1970年代末に撮った時、バスク人の形質人類学的な性質には東アジア人と同質の要素があり、キリスト教が入る前には東アジアと文化的同質性があったと考えられるとフランス形質人類学研究所の研究結果を教えられた。新暦はキリスト教の世界観が基盤になって生まれ、それが西欧の近代合理主義に発展して近代化を推し進めていったのだが、キリスト教以前には旧暦文化が一般的だったと考えられることを教えられた。
 そういえば、オーストリアの田舎で、木造家屋の資材となる木材はオーストリアでは古くから新月の夜に伐採すると、木材が長持ちするので、同国では現代でも地元の人はそれを守っていると聞いたことがある。これは日本でも同じ考え方が長く続いてきた。だから法隆寺のような世界最古の木造建築が生まれたのである。これは新月という旧暦の意味をいつ耐えるものだが、日本が西欧の合理主義(実は本当は不合理なのだが)に影響を受けて、木材伐採について、そういうこだわりを捨ててしまった。だから近年の日本の木造建築はせいぜい50〜60年程度しか持たないのである。そこにはもちろん、建築メーカーの販売戦略もあるだろう。だが、それが文化の破壊につながることをメーカーや消費者はどれだけ意識しているだろうか。
 志賀さんは、ここまで私が書いてきたようなことを自らの言葉ではあまり語っていない。しかし、彼の著書や続けてきた活動の根底には、こういう哲学というか文明観があるように私は考えている。
 2003年に志賀さんが始めた「月の会」はその後、日本各地に広がり、大きな活動の力になっている。それは各地に今まではひっそりと維持されているに過ぎなかった年中行事や通過儀礼などを改めて見直す動きになっている。さらには地域で密かに続けられてきたその地の野菜や花などの再発見と栽培の拡大に繋がってきている。そういう活動の意味は、地域で生活する女性たちの共感を得て広がってきたのである。
 女性の体は本来、月と深い関係がある。出産や死(死は男性もだが)が月の満ち引きと関係があることも今では知られているし、そもそも女性の生理周期が月と関わっている。だから、志賀さんの活動に多くの女性が参加されているのは故ないことではないのである。しのぶ会の出席者に女性が多かったのもそのことを反映している。
 近年、女性の社会参加が声高に叫ばれているが、そのわりにこれが日本ではなかなか進まないのは、男性をも含めて、これまで述べてきたような哲学、文明観が理解されず、深く浸透していないからもしれない。
 志賀さんが月の会で進めてきた活動は、西欧近代合理主義が行き着く果てのあるものが、気候変動による極端な環境破壊で、これは今や人類の生き残りをかけた課題にさえなっている。そういう世界の危機に向けたオールタナティヴな生き方を提示する庶民レベルの活動である。そして、人類の歴史にとっても大きな意味を持つ活動であることを私は疑わない。
 ここ数年は、駒形の隅田川に面した広い窓のある彼のマンションから花火大会を見る会や月待ちの会などで訪れることが多かった。今年の隅田川花火大会を心待ちにしていたのだが、連絡がないまま、私よりはるかに若い志賀さんが亡くなるとは思っても見なかった。心残りである。
  

2019.11.17  「本日休載」

今日11月17日(日)は休載します。

リベラル21編集委員会

2019.11.12 一週間の物語
韓国通信NO620

小原 紘(個人新聞「韓国通信」発行人)

 瞬く間の一週間だった。好きなことができるのは健康であることにくわえて、妻に家事の負担を押し付けているからだ。大いに反省と感謝をしなければならない。
 記憶を頼りにこの一週間を振り返った。

10月29日
 東京葛飾の関谷興仁邸に出来上がった陶板作品を取りに伺った。完成した作品は韓国の金敏基の詩『朝露』の原詩と、それを翻訳した日本語版である。韓国の民主化闘争のなかでヤン・ヒウンが歌った『朝露』は私には記念碑的な詩歌だ。それを陶板に彫ってみたいという長年の夢がかなった。<写真下>
韓国通信620写真(1)

 「夜もすがら 葉に結ばれた 真珠より 美しい 朝露のように」から始まる詩は、多くの韓国人が共有する軍事独裁と闘った記憶であり、現在も彼らの心の中に生き続けている。

30日と31日 
 11月17日の我孫子市議選を前に立候補予定者たちが一斉にビラ配布を始めた。応援したい何人かの候補者に手伝いを申し出たら、早速一人の候補者が2500枚のチラシを持ってやってきた。私が苦労しているのを見かねた妻が手伝ってくれ、2日間で配布した。「地域から国を変える」私の将来構想、挑戦の一環である。

 3日、スポーツクラブで「コアバランス」「骨盤エクササイズ」と「ズンバ」に参加。
 最近、体のバランスがよくないので腹筋と股関節を鍛えている。「ズンバ」はラテンのリズムに合わせる激しい踊りだが、インストラクターにうっとり、声も出すのでストレス発散にもなる。

11月2日  
 毎週土曜に外国人に日本語を教えるボランティアを始めてから10年になる。先週は教材に「我孫子を知ろう」、今回は「コスタリカを知ろう」をテーマに。「コスタリカ」はスペイン語で「豊かな海岸」という説明、カリブ海に浮かぶ「楽園」、軍隊を持たず教育に力を注ぐ小国について勉強。「世界の軍事費が貧困を無くすために使われたらどんなに素晴らしいか」などと生徒たちと話し合った。普通の教科書ではできない手作り授業に目下夢中である。

11月3日
 文化の日。73年前に新憲法が公布された日。もとをたどれば「天長節」-明治天皇の誕生日。
最近11月3日を「明治の日」と変えて天長節を復活させる動きがある。時代錯誤と笑ってはいられない。美しい国ニッポンを目指す安倍自民党は、もはや「何でもあり」、歯止めがきかない。
 3日は恒例の全国統一行動日、駅前で「アベヤメロ」のステッカーを掲げた。この日は気合いを入れて1時間半のスタンディング。ステッカーは他に「東海第二原発廃炉」「選挙で社会を変えよう」と三種類を用意した。
 午後から手賀沼周辺で開かれていた野鳥の会等が主催する「バードフェスティバル」にでかけた。日本中、外国からの参加者も多い日本最大級の「鳥のフェスティバル」会場を3時間ほど散策した。<写真/会場風景>子ども連れの参加者が多かった。
韓国通信620写真(2)

11月4日 
 ハローワーク勤務時代の旧友3人と船橋で「パークゴルフ」を楽しむ。子どもから年寄りまで楽しめるゴルフ「もどき」のスポーツ。1日のプレイ代は1100円。プレイをしながら、同年代男性3人が話すことは健康と家族の話題にくわえ「あきれた政治」の話などなど。青空の下、林の中にこだまするボールの快音に癒された。5時間で1万歩にも満足。

11月5日
  『週刊金曜日』の「関電の原発マネー不正還流を告発する会」の記事を読み、早速入会手続きをした。大阪地検に関電役員の収賄、特別背任罪を問う告発人の一人になった。
 インチキ「第三者委員会」の調査、検察の捜査を待つまでもなく、市民の力で関電のみならず、原発ムラの暗闇を糺すことを期待したい。http://kandenakan.html.xdomain.jp/ホーム・ページから趣旨説明と申し込み用紙が出てくる。
 入会には①申込書②委任状③入会金500円(1口)が必要だが、真相究明を市民たちの力で成功させたい。あなたも是非告発人に ! 関電利用者以外の人も参加できる。

<無責任時代の本格到来>
 かつて植木等が歌った「無責任一代男」。「イルイル、そんな奴」と笑いこけた時代もあったが、今では、ビンボーと病気、老後の生活不安は「自己責任」と突き放され、政治家、官僚、大企業の社長たちの笑えないほどの無責任ぶりに言葉を失う時代となった。
 去る9月19日、東電刑事訴訟で東京電力元経営陣全員に無罪判決が下された。あれだけの事故が起きても誰も責任をとらない無責任体制に司法がお墨付きを与えた。判決は裁判官が職務を放棄した「結論ありき」の裁判だった。
 かつて原発を差し止めた二人の裁判官が今回の地裁判決について語った。以下、『週刊金曜日1254号』から抜粋。
 井戸謙一元金沢地裁裁判長は、この判決は、「原発は安全ではない、と宣言したことに等しく、今後事故が起きても責任を問えない不可解な判決。これで安全確保に力を注ぐべき経営者のモラルハザードが加速されるだろう。関電の裏金事件を見ても電力業界のモラル低下は深刻」と述べる。
 また樋口英明元福井地裁裁判長も、「文科省の地震調査研究推進本部が『10メートルを超える津波の到来の可能性が今後30年の間に20%に及ぶ』とした長期評価を無視した東電経営者の安全性に対する無自覚、無関心さは『故意に近い過失』だ。経営者の責任は免れないと」東京地裁判決を厳しく批判した。
 日本は果たして法治国家といえるのか。司法まで権力者に忖度して東電の経営者を守り、政府の原発推進策に寄り添った。ハロウィンで大騒ぎする日本の若者にくらべ、命がけで権力と闘う香港の学生たち。パークゴルフ場での三人のオジサンたちの話は尽きない。
2019.11.10  「本日休載」

今日11月10日(日)は休載します。

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2019.11.06 人生の贈り物   詩 楊姫銀(ヤン・ヒウン) 訳 小原 紘
韓国通信NO619

小原 紘(個人新聞「韓国通信」発行人)

♪ 春の山に咲く花が そんなにも こんなにも美しいとは
この歳になるまで 本当に知らなかった
もしも誰かが 私の人生の歳月を返してくれると言っても
笑いながら 静かに「結構よ」と云うつもり
先の見えない 霧雨のような若さなら
考えただけでも 大変だから 今の方がずっと好き
それが人生という秘密 それは 人生が与えた うれしい贈り物

♫ 春の山に咲く花が そんなにも こんなにも美しいとは
この歳になるまで 本当に知らなかった
私の人生という花がすべて咲き また 散ったその後に
初めて 私の心に ひとつの花が入って 咲いていた
ベンチに座って 何も語らず 頷きながら
私の心がわかってくれる友がひとり ひとりでもいたなら
ただ座って 何も語らず 沈む太陽を
一緒に眺めてくれる友がいるなら それ以上 望むことはない
それが人生という秘密 それは人生が与えたうれしい贈り物   <ヤン・ヒウン>

韓国通信619(1)
https://www.youtube.com/watch?v=UxFX-IoHjRQ  集会で「朝露」を歌うヤン・ヒウン2016/11/26

 高校時代の同級生8人と栃木県益子へでかけることになった。それも一泊旅行だ。
 これが「最期の旅行になるかも…」という幹事のつぶやきを聞いて、『人生の贈り物』という詩が思い浮かんだ。
 花の美しさに気づき、友への感謝と自分の人生へのいとおしさが静かに語られる。
 旅行には、2011年の災害に見舞われた福島の同級生が参加するし、今回の水害で大きな被害を蒙った千葉からも二人が参加する。参加者はそれぞれこの詩のように人生を語るのかも知れない。

 詩を作ったヤン・ヒウンさんは、1970年代の韓国の民主化運動で『朝露』を歌った反体制歌手として知られる。詩は彼女の歌手生活のエンディングを思わせる内容だが、実はそうではなかった。各地のローソク集会に参加して精力的に歌い、市民たちを感動させた。「若さはいらない」「沈む夕日を一緒に眺めてくれる友がいればいい」と人生をまるで達観したようでいて、社会変革の先頭に立つエネルギーに溢れた67才。
 有名な観光地はいくらでもあるのに、なぜか益子。「水先案内人」に指名されたのをいいことに、益子の「二つの美術館」を案内することにした。旅の終わりに真岡鉄道のSLに乗って少年少女時代に帰る。「人生の贈り物」になるかも知れない。

益子 二つの美術館
濱田庄司記念益子参考館 公開1977年
 濱田庄司(1894~1978)の自宅を活用、生前蒐集した陶磁器、漆器、木工、金工、家具、染織などが展示されている。展示品は国内、朝鮮、中国、中近東、ヨーロッパ各地、年代も多岐にわたる。住居、工房、登り窯から生前の民藝作家の生活ぶりがうかがわれる。
 濱田庄司を知るうえで柳宗悦、河井寛次郎、バーナード・リーチらとの交友を欠かせない。
 特に柳宗悦の民藝運動(白樺派文学にもつながる)に共感し、民の工芸に敬意を抱き続け、ともに「親しさのある美」と「心」を追求した。
 濱田は柳亡き後、日本民芸館の二代目館長に就任。二人は終生、民藝運動の同志だった。

韓国通信619(2)
 写真/左から濱田庄司 柳宗悦 河井寛次郎

関谷興仁陶板美術館「朝露館」 公開2016年
 陶芸家関谷興仁(1932~)が自身にとって大切な記憶を彫り続けた陶板作品を展示。テーマは「済州島4.3事件」「広島・長崎」「福島」「チェルノブィリ」「ホロコースト」「中国人強制連行の記録」など、無辜の死を迎えた、名も無い民への鎮魂、「悼」である。
 作家の執念が周囲の人たちの協力で実を結び、異色の美術館として3年前に一般公開。
 「温故知新」、静寂のなかに記憶と未来を語り続ける。また夫人の石川逸子の詩集『千鳥ケ淵へ行きましたか』の作品コーナーもある。
 常設展示の他に企画展、講演会、音楽会、映画会など多彩なイベントが取り組まれ、地域交流の拠点になっている。

 民が作りだす美を極上とし、優劣と偏見のない世界、互いの価値を認め合い、争いと無縁な世界を目指した民藝運動と朝露館が現代社会に問いかけるものに変りはない。ここへ若者ととともに訪れ、過去と現在、未来を語る有意義な時間を過ごしてほしい。

 運営は東京と地元のボランティア、財政は100名を超す会員の会費と入館料で支えられている。春秋の陶器市で賑わう益子に誕生した美術館は、参考館から徒歩でわずか数分のところ、林に囲まれた静寂のなかに佇む。朝露館のホームページは http://chorogan.org/
2019.11.05 私が会った忘れ得ぬ人々(14)
     倍賞千恵子さん――もっと自分の可能性を試したい

横田 喬 (ジャーナリスト)

 映画「男はつらいよ」の寅さんこと寅次郎の少年期を描く「少年寅次郎」が目下NHKテレビで放映中だ。年末には、山田洋次監督の松竹映画「男はつらいよ」の新作(第五十作)公開も予定されている。寅さんと言えば、妹役「さくら」の存在が欠かせない。「朝日新聞記者」当時の私は今から三十五年も前の一九八四(昭和五十九)年に「さくらさん」こと女優・倍賞千恵子さんと単独インタビューをしている。先ずは当の記事(骨子)の紹介から。

 ――茨城ゆかりの芸能人に女優の倍賞千恵子(43)。東京生まれの千恵子が四歳の昭和二十年、東京大空襲で焼け出され、筑波山の北の母の郷里・大和村(注:現桜川市羽田)に疎開する。田舎暮らし六年、食糧難のひどい時代のこと、「末の弟をおぶって近くの山にキノコを、田んぼにイナゴをとりに、よく通いました」。けなげな個性がのぞく。

 都電の運転士をしていた父に従い、一家は東京に戻ると下町・滝野川で長屋暮らしへ。芸事好きの彼女はSKD(松竹歌劇団)を経て映画界入り。"下町の太陽"とうたわれ、ご存じ「寅さん」映画に欠かせぬ兄思いの「さくらさん」として松竹の看板女優に。

 三年前、東宝映画『駅』の汚れ役に挑戦。キネマ旬報主演女優賞をはじめ各種の映画賞をごっそりさらう。翌年、古巣の松竹を円満退社、フリーで再出発へ。私生活では離婚劇も経験した。「優等生」「女らしい女」というレッテル返上をめざし、「いつも後ろ盾がある立場では甘くなる。もっと自分の可能性をためしたいんです」。
 茨城の名残は何より言葉。「アクセントが変、って時々注意されます」。――

 かの「寅さん」映画の第一作が一九六九年に初めて誕生して今年でちょうど半世紀。主役の車寅次郎を演じた故・渥美清は不在ながら、「さくら」をはじめ「夫」・前田吟や「倅」・吉岡秀隆らは健在だ。松竹は「男はつらいよ」第五十作の年内公開をめざし、昨秋、スタジオでのセット撮影や東京・柴又でのロケを開始。過去のシリーズの名場面と組み合わせ(第四十九作と同じ方式)、新作をこしらえる手はずだ。終盤ごろ、「倅」の恋人役で活躍したゴクミ(後藤久美子)の二十三年ぶりの作品復帰も話題を呼んでいる。

 倍賞家は、秋田出身の父は戦前の東京で市電の運転士を務め、茨城出身の母は今のスチュアデス並みの花形職業だった車掌さん。美男と美女同士の当時珍しい職場恋愛結婚である。戦後、茨城の疎開先から戻った滝野川での三軒長屋の暮らしは二間に台所だけ。風呂はなく銭湯通いだから、絵に描いたような下町暮らしだ。

 子供は五人きょうだいで、長女・次女(千恵子)・長男・三女(美津子:後の映画女優)・次男。揃って体格と運動神経に恵まれ、女児は芸事好き。暗い戦前・戦中を知る両親は、子供たちの希望を生かしてやろうと図る。千恵子をピアノや声楽のレッスンに通わすため、母親は保険の外交員をして稼ぎ、長女も昼間の高校に受かりながら家計を助けようと夜間に代えて働いた。

 「SKDのホープ」だった千恵子は十九歳の一九六一(昭和三六)年にスカウトされ、松竹専属の秘蔵っ子として映画界入り。三作目の五所平之助監督のメロドラマ『雲がちぎれる時』にバスガール役で出て爽やかに働く女性の清々しさを好演し、早速注目される。'六〇年代前半は日本映画は未だ量産の時代で、彼女は年に十本前後もの作品に出ているが、役柄のほとんど全てが工員や店員といった働く女性。女子大生やお嬢様といった役ではなく、どの作品でも健気に働き、ぐれたりせず弟妹をちゃんと引っ張っていくお姉さんタイプだ。

 六三年には山田洋次監督の「下町の太陽」に主演する。レコード大賞新人賞を受けた彼女のヒット曲の映画化だが、荒川近辺の化粧品工場で働きつつ愛や人生について真摯に思いを巡らす清潔感あふれる娘の役を好演。下町庶民派のキャラクターを早々と確立する。実生活では次女だが、優等生タイプの長女らしさ、しっかり者のイメージが定着していく。

 明朗青春映画に出演しながら、演技力の要る文芸映画での難しい役どころも徐々にこなし、女優として着実に成長していく。さりげない演技で生活感を表現できる天与の資質に目をとめたのが名伯楽・山田監督。'六九年、フジテレビのドラマの映画化である「男はつらいよ」で、主人公・車寅次郎(渥美清)の異母妹・さくら役を演じる。この作品は、主演の渥美が自身の不良少年時代に付き合ったテキ屋たちの思い出を山田監督に語ったのが発端。山田がイメージを膨らませ、日本映画が生んだ最も大衆的な人気者・寅さんを世に送り出す。これがヒットして続編が作られ、続編も成功してシリーズ化し、九六年の第四十八作まで続いてギネスものの空前の長期シリーズとなり、同年の渥美の病没でピリオドを打った。

 連作に毎回登場する「さくら」は寅さんの妹だが、気ままな旅暮らしの寅次郎の身を案じながら見守る実質的には姉のような存在だ。いや時として母でさえあり得、渥美は「さくらは菩薩です」とまで言っている。寅さんは「さくら」に甘え、彼女の言うことなら何でも聞き、彼女にだけは我儘の言い放題。それでも「さくら」は「お兄ちゃん、お兄ちゃん」と寅さんをかばい、甘えを許していく。「とらや」の叔父夫婦なども何かというと彼女に頼り、これはもう長女的性格そのものと言っていい。

 昨秋、民放BSテレビで「寅さん」特集番組があり、山田監督と倍賞千恵子が対談。こもごもこう語っている。
 ――(山田)寅は放浪者だが、その愛情は太陽のよう。さくらは定住者で、愛情は水のよう。高度成長期のモーレツ日本人のアンチテーゼとして寅さんを描いた。実際、渥美さんは車も背広も持たなかった。五十年前、ちゃぶ台が姿を消してから日本(の社会)は変わった。
 ――(倍賞)(「寅さん」シリーズには)玉手箱のようにいろんな(宝物のような)物が詰まっていた。社会や人間について、いろいろ学ばせて頂きました。

 山田と千恵子の黄金コンビは引き続く。七〇年、炭鉱離職一家の母を演じた「家族」。七七年の「幸福の黄色いハンカチ」では、刑務所帰りの夫(高倉健)を待ち侘びる役を彼女は好演。爽やかな涙を誘う名品となり、数々の映画賞を独占する大ヒットになる。また、八〇年の「遥かなる山の呼び声」でも再び高倉と共演。地に足の着いた大人の恋を細やかに見せた。高倉との息の合うコンビは八一年の「駅/STATION」(降旗康男監督)でも実現。この間に主要な映画賞の女優賞をほとんど獲得している。

 千恵子は、ごく若い頃からスクリーンの中で健気に働き、周囲から頼りにされる日本の長女役をしっかり演じてきた、といえよう。五つ年下の妹・美津子も周知の通り実力派の美人女優だ。次回は、美津子の方を紹介したい。