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リベラル21編集委員会


2019.01.01 今年は護憲派にとって決戦の年
2019年の年頭にあたって

リベラル21編集委員会

 新しい年が明けました。今年は、本ブログにとって創刊13年目にあたります。読者の皆さんにはこれまでのご支援に心から感謝するとともに、引き続きご愛読くださるようお願い申し上げます。

 今年は、日本にとって画期的な岐路の年になりそうです。
 なぜなら、安倍首相が昨年(2018年)12月10日の記者会見で、「2020年に新憲法を施行したい」と語ったからです。安倍首相がこの方針を言明したのは一昨年(2017年)5月のことでしたから、首相としては、その方針に変わりのないことを改めて公言したことになります。
 この結果、首相の意を受けた自民党は、今年、改憲に向けての作業を加速させるでしょう。おそらく、自民党は衆参両院での改憲発議を急ぎ、改憲案が国会で承認されたら、改憲案をめぐる国民投票を行い、国民の賛同を得られれば2020年から改定憲法を施行というスケジュールを描いているものと思われます。

 自民党が狙う改憲の中身は「自衛隊の明記」「緊急事態条項の創設」「参院の合区解消」「教育無償化」の4項目ですが、最大の狙いが「自衛隊明記」、つまり9条改憲にあることはいうまでもありません。
 自民党によれば、9条に自衛隊を明記するにあたっては、1項(戦争放棄)と2項(戦力不保持)を残すという。このため、安倍首相は「9条に自衛隊を明記しても、これまでと何ら変わりがない」と明言しています。 

 しかし、自衛隊が憲法に明記されると、自衛隊が果たす役割は根底から変わってしまうのではないか。安倍政権によって制定された安保関連法ですでに限定的に可能になった、自衛隊による海外での武力行使を含む集団的自衛権の行使が、おそらく、全面的に認められるようになるでしょう。
 その結果、日米安保条約という名の軍事同盟で結ばれた米国とともに自衛隊は地球のあらゆる地域に出かけて行って戦うことになるのではないか。自衛隊員は米国のために戦う可能性が一段と増すでしょう。これは、多くの国民から支持されている「専守防衛に徹する自衛隊」像から逸脱します。
 
 しかも、このところ、安倍内閣は、9条改憲の前に自衛隊を「専守防衛」から解き放そうとしているのではないかと思わせる事象まで起きています。例えば、安倍内閣は12月18日、「防衛計画の大綱」と「中期防衛力整備計画」を閣議決定しましたが、そこで、事実上の「空母」の導入に踏み切りました。歴代内閣が、憲法に基づく専守防衛の観点から「攻撃型空母」は保有できない、との立場をずっと維持してきたにもかかわらず、です。これでは、「自衛隊を9条に明記しても、これまでと何ら変わりがない」との首相発言も信用できなくなります。

 自民党の攻勢に護憲派はどう対処しようとしているのでしようか。さまざまな活動が計画されていますが、護憲派にとっての最大のターゲットは7月に予定されている参院選挙です。
 現在、衆院、参院とも改憲勢力が3分の2を占めています。もし、護憲派がこの参院選挙で議席の3分の1以上を占めることが出来れば、自民党をはじめとする改憲勢力による参院での改憲発議を打ち砕くことができます。つまり、自民党の狙いを阻むことができるのです。
 参院選挙で護憲勢力が議席の3分の1以上を獲得するためには、1人区で護憲勢力が勝利することが必要です。それには、野党がまとまって統一候補を立てることが不可欠です。果たして、野党は統一候補を立てることができるかどうか。野党の責任は極めて重いと言わざるえません。
 これに対し、自民党は、参院選挙と衆院議員選挙(総選挙)を同時に行う「同日選挙」で参院選における野党の共同戦線を切り崩すのではないか、との見方が出ています。同日選挙となれば、野党間の選挙協力は難しくなり、1人区で野党統一候補を立てられなくなるはず、というのが自民党側の戦略です。
 
 こうしてみてくると、今年は護憲・改憲をめぐる決戦の年になりそうです。護憲派にとっては、まさに正念場です。

 ところで、私たちリベラル21編集委員会は、ブログのスタートにあたり、ブログの理念に「護憲・軍縮・共生」を掲げました。日本国憲法を護り、軍縮を促進し、お互いに助け合って共存するために努めようという宣言でした。
 私たちリベラル21編集委員会はこのところ、この理念に自信を深めています。なぜなら、新聞社各社の世論調査により、国民は今、改憲など望んでいないことがますます明白になってきたからです。
 例えば、日本経済新聞とテレビ東京が12月におこなった世論調査で、安倍首相に期待する政策を複数回答させたところ、「社会保障の充実」がトップで46%、以下、「景気回復」40%、「教育の充実」30%、「財政再建」28%、「外交・安全保障」26%、「政治・行政改革」16%と続き、最下位が「憲法改正」で10%でした。
 また、同月の朝日新聞の世論調査では、「安倍首相は2020年に新しい憲法を施行したいとの考えを改めて示しました。この安倍首相の姿勢を評価しますか」との問いに対し、「評価する」33%、「評価しない」48%でした。
 国民の意思はもはや明白です。 

私たちリベラル21編集委員会は、はなはだ非力ではありますが、今年も護憲の訴えを積極的にブログで展開してゆきます。 
 以上、年頭に当たっての私たちの決意をお伝えして、読者の皆さんへの新年のご挨拶といたします。                           
                                 2019年元旦
2018.12.31 「貫く棒」はいずこに
年末雑記(3)

田畑光永 (ジャーナリスト)

 いうまでもなく高浜虚子の「去年今年 貫く棒の如きもの」からの借用である。1950年の年末、虚子76歳のこの名句、あるいはすくなくともこの有名句には、さまざまな解釈と評価があることは、ネットをしばらく彷徨えば分かるが、ここでは「去年も今年をも丸抱えにして貫流する天地自然の理への思いをうたう」(大岡信)という解釈にしたがっておきたい。
 さて、日本漢字能力検定協会が公募した「今年の漢字」の1位は「災」であったそうだ。この結果は説得力がある。ちょっとした台風がとんでもない大量の雨を降らせ、道も家も押し流すという災害が頻発した。日本には安心して住める場所などどこにもないのではないか、とさえ思えるほどであった。それは日本だけの現象でなく、世界中のテレビニュースが毎日のように各地の災害を報じた。災害はなにも水害だけでなく、干ばつもあれば、突発的な地震、津波もあったが、夏の熱帯低気圧が雨を降らすというきわめて日常的な気象現象が大災害をもたらすという事態は、考えようによれば突発的な災害より恐ろしい。
 5~60年ほど前のことだが、農林省(当時)の西丸震也さんという技官(?)が温暖化の問題を指摘し、このまま気温が上がり続ければ梅雨末期に降る雨で大きな被害が出るようになると警告する文章を雑誌に載せた。それを読んで、私ははじめてこの問題を知り、ひどく驚いたことを今でも覚えている。その後、ローマ・クラブの「成長の限界」などが出て、経済成長と自然との関係に私も関心を持つようになったが、一方では、温暖化は人為によるものではなく、気候自体の長期的変動の範囲内だから心配いらないという説が唱えられたりして、対策が後手後手に回っているうちに今日の事態を迎えてしまった。これはもうわれわれの孫子の世代くらいでは到底元に戻すことはできないだろうから、人類は地上で暮らす場所を考え直さなければならなくなるのだろう。「貫流する天地自然の理」も人間はいつの間にかねじまげてしまったのかと嘆息するのみである。
 「災」が今年の漢字とすれば、その英語版として「○○ファースト」はどうだろう。D.トランプ氏が一昨年の米大統領選のさなかにこの言葉を使い始めた時には、普通人なら人前では使うのをはばかるような言葉をわざと喚いて、注目を集めるような野卑な人間が大統領職をねらうのか、民主主義はそこまで寛容なのか、と驚いたものだ。
 ところがこの人物はこの言葉を連呼しながら、当選を果たし、この言葉は今や多くの国の議会選挙や大統領選挙で大流行りである。皆が「おのれファースト」を唱え始めたら、最後は喧嘩になるしかないから、互いに考えを聞きあう忍耐心を持ち、最後は多数に従うという民主主義のルールがなんだか時代遅れになったような雰囲気さえある。
 長い歴史の末にようやくたどり着いた、人は誰でも自分の運命について平等に発言権を持つというこのルールは国家関係にも準用されるべきものとして定着しているか見えたのに、それが野心家によって軽々と足蹴にされる時代がきてしまった。
 東西対立が東側陣営の崩壊によって終息した前世紀末には、権力者による独裁政治は結局は民主主義に及ばない制度として世界に公認されたかに見えた。社会主義の故郷であったソ連邦は当時の大統領によって終焉を宣せられ、ロシアにもどって、大統領は選挙で選ばれることになった。ところが、現在そこに君臨するのはほとんど終身その地位にいるつもりではないかとさえ思える、かつての独裁者でさえ顔負けの大統領である。
 アジアの社会主義大国であった中国では、建国20年もたたないうちに革命指導者に対する行き過ぎた個人崇拝から発し、後に「10年の災厄」と公式に総括された政治運動で国内は大きく混乱した。後継者たちは社会主義の旗を掲げたまま「改革・開放」政策を唱え、外資を積極的に導入して、市場経済を実施することによって経済を発展させることには成功した。しかし、やがて政治も改革されるはずという内外の期待には背を向けたまま、現在の「国家主席」は今年、自らの発意で「一期5年、2期まで」という憲法の規定を廃止させてしまった。国民が国家主席にやめてもらいたくとも、それを実現するための手続きはあの国にはない。
 その中国でも共産党機関紙『人民日報』が主催して「今年の漢字」を公募する。そして今年の「今年の漢字」は「奮」と決まったと発表があった。この字は大きな鳥が田んぼから羽ばたいて飛び上がるさまをかたどったものとのことである。中国にも今年はいくつか台風が上陸したはずなのに、元気のいいことである。
 68年前の年末に高浜虚子が感じ取った天地自然の理は、ちょうどわれわれが生きてきた間に「貫く棒の如きもの」からすっかり姿が変わってしまったのか、それともそれをも含めて「棒の如きもの」なのか。ともかく今年もまもなく去年になる。
2018.12.30 「本日休載」

今日 12月 30日(日)は休載します。

リベラル21編集委員会


2018.12.28 あらためて聞きたい、「元号」は必要ですか?
年末雑記 2

田畑光永 (ジャーナリスト)

 来年の現天皇退位、新天皇即位に関連して、新元号をいつ公表するかで政府と自民党保守派が対立していると伝えられる。政府は国民生活への影響、混乱をさけるために5月1日の新天皇即位の1か月前をめどに事前公表を目指すのに対して、自民党内外の保守派が反対しているということらしい。
 新元号は政令によって定められるが、事前に公表すると新天皇即位までの間は2つの元号が併存することになり、「一世一元」の原則に反する、あるいは新元号は新天皇が自ら政令に署名して、「公布」されるまでは知らせないのが正しいありかただ、などが、事前公表への反対理由だと言われる。
 この反対論には驚く。元号をなにか「神聖不可侵」なものに祭り上げて、国民がその前にひれ伏す姿を望ましいとする発想が感じられるからだ。当然のことながら、元号といえども新天皇が即位したとたんにありがたくも天から降ってくるなどというものではない。「政府が考案を委嘱した有識者からの案を整理し、複数の原案を選ぶ。衆参両院の正副議長や閣僚らと協議したうえで1案にしぼる」(『日本経済新聞』12月21日)ものらしい。要するに官僚と政治家が決めるものだ。だからどうでもいいとまではいわないが、別にもったいないものと押し戴いて、天皇の署名を経て公布されるまでは絶対秘密にしておかねばならないというほどのものでもないだろう。
 元号変更に伴う混乱をさけるために4月中に公表するというのは、首相官邸事務方トップの杉田和博官房副長官の主張だそうだが、まっとうな考え方である。それに反対しているのが安倍首相に近い衛藤晟一首相補佐官が代表する保守派という構図だそうで、大体のことは「私の手で解決」したいはずの安倍首相は「よく話し合ってください」と逃げの姿勢とか(『毎日新聞』12月18日)。
 そこで聞きたいのだが、元号は必要なものなのだろうか。人間集団の住むそれぞれの世界が狭かった時代には、その集団独特の年号が必要でもあり、考案されただろうが、現在は一国独自の年号の必要性はほとんどない。というか、自分の生活を見回しても元号が生きているのは運転免許証と預金通帳の出し入れの期日の欄(これは元号なら2桁ですむからだと思われる)くらいしかない。菊のご紋章のついた「日本国旅券」は発行日も有効期限も西暦で記入されている。新聞は両方の併記が多いようだが、大体は西暦が先で「平成」は括弧のなかである。
 西暦に一本化するとなると、なにか日本独特の伝統を1つ捨てるような感覚があるのかもしれないが、それは考えすぎではないか。日本の歴史を読むにしても、当時の元号だけでは、出来事の後先はさっぱりわからない。どうしても西暦の助けを借りなければならない。
 1つ思い出す光景がある。1992年に天皇皇后両陛下が中国を訪問された。北京で中国科学院を訪れた際、入り口で芳名録への署名を求められた天皇は「明仁」と書いて、筆をおいた。中国側の接待員が「期日もお願いします」と言い、通訳からそれを聞いた天皇は軽く右手を振って、その場を離れた。その後、行われた宮内庁の随行員の記者会見で、私はその理由を尋ねたが、明確な答えは得られなかった。推測するに天皇は外国で「平成4年」と書くのも非礼だし、さりとて西暦も書きにくいということで書くのを避けたのではなかったろうか。
 もう1つ、こんなこともあった。たまたま同じ1992年だが、シンガポールで中国と台湾の代表の会談が、内戦の終結後初めて行われた。この時は、「双方はともに中国人であるということを確認し合った」のが会談の「成果」とされ、現在ではこれを北京政府は「92共識」(共通の合意)と名付けて振りかざし、蔡英文政権にそれを認めるよう迫っている。ところがこの時、その「共識」の日付を書くところで双方は対立した。北京政府側は西暦を主張し、台湾側は中華民国成立の1912年を元年とする中華民国暦を主張したのだ。そして、ともに譲らず、結局この時の合意文書は年号なしの日付だけとなった。それに今、勝手に「92共識」などと年号を付けて、認めろと迫られても、台湾側はおいそれとは呑めないかもしれない。
 閑話休題。元号のようなものは簡単で普遍的に通用するものがいい。そこにいろいろなものを載せて考えるとおかしなことになる。明治、大正、昭和、平成とならべれば、今はまだそれぞれの時代像を思い浮かべる人もいるだろうが、それも世代が代われば急速に色あせて、残るのはたいして意味のない漢字の行列だけだ。現代人にとって昔の元号がそうであるように。
 元号がなくなっても、天皇にはそれぞれ立派な名前があるのだから、その時代を表すには天皇の名前で表すほうが合理的であるし、それが歴史に残るほうが元号だけが残るよりいいのではないだろうか。官僚と政治家の自己満足のためにあるような元号制はやめようではありませんか。
2018.12.25 「米・中」が2大不人気! なぜ?
年末雑記 1

田畑光永 (ジャーナリスト)

 驚いた、米・中2国がそんなに不人気とは・・・。
私が購読している新聞(『毎日』)の読書欄で、書評を担当している執筆者が年末に「今年の3冊」を推薦する毎年恒例の記事で、今年は米・中の2国を扱った本をどなたも取り上げていないのだ。18人が3冊ずつ挙げているので、計54冊の中に、である。
 私は一応、中国を見てきたつもりだから、毎年、たくさん出る中国を扱った本のうち、どれが書評担当の執筆者のおめがねにかなって、「今年の3冊」に取り上げられるかを楽しみにしている。
 中国を見てきたといったところで、出る新刊のうち実際に読めるのはほんのわずかだから、自分の知らない本が取り上げられていれば、自らの不明を恥じるし、知っていて読まなかった本が取り上げられていれば、その本のどこがよいのかを知りたくなるし、たまに読んだ本が取り上げられていれば、「ふむふむ、この人もなかなかいいところに目をつけているではないか」などと悦に入る、という具合に、そのリストを眺めるのは年末の楽しみの1つなのだ。
 ところが今年は中国関連が1冊もなかった。不思議だ。なぜなら今年は春の全国人民代表大会という国会みたいなところで、今、習近平氏が座っている国家主席という役職の任期(これまでは1期5年で、2期まで)を憲法の規定からなくして、昔の共産主義国家のように、終身元首への道が開かれたり、春以降は米のトランプ大統領との殴り合いのように制裁関税をかけあう「米中新冷戦」が始まったりと、ニュースには事欠かなかった。一般の関心もそれなりに高かったはずだ。
 現に書店の棚にはこれでもか、といわんばかりに中国を扱った新刊が並んでいる。それなのに、これは読むに値すると書評を担当する人の目にとまる本が1冊もなかったとはどういうことなのか。
 と、不思議に思いながら、ふと気が付いてアメリカはどうかと探してみると、なんとこれまた皆無だった。
 アメリカの1年を振り返ってみると、前半はトランプ大統領と北朝鮮の金正恩委員長のシンガポール会談が大きなニュースとなり、後半は中国との貿易戦争とこちらも話題には事欠かなかったはずだ。
 となると、なんだかそこには共通の理由があるような気がしてきた。あれやこれや思いめぐらして、ようやくこれかとなった結論は、両国とも話題には事欠かなかったが、両国のトップが他国から見て好ましい印象をほとんど与えなかったからではないか、ということだ。
 習近平については、自らの権力を強めることに異常に執心している印象がまず先に立つ。この時代に自分の手で自分の任期を無制限にするというのは、世界の常識に逆行する異常な振る舞いとしか言いようがない。そればかりでなく、話題の「華為」(ファーウェイ)はともかく、防犯カメラの世界の2大メーカーが中国企業だというのも、別に悪事を働こうとは思わない国民にとってもうれしくない話だろうし、現に中国がジョージ・オーウェルの小説、「1984年」まがいの監視国家になりつつあることは事実である。
 したがって、学術書は別にして巷にあふれる一般の中国本は、まず中国に好意的でない。他人の悪口というのは、面白くないことはないにしても、それを真正面から取り上げて論評するのはいささか気がさすものだ。
 アメリカについても事情は似たようなものだ。いちいち紹介しなくても、現大統領の発言、振る舞いは大国のトップを務める人間についての常識的な姿からはみ出る部分が大きい。現に次から次へと要職の人間がやめていくのはこの人物の周辺がよほど異常な空気であることを物語っている。おそらくアメリカ国民はいつエンジンが暴発するか、いつブレーキがこわれるかわからない車に乗り合わせてしまったような気分ではないか。
 となると、こちらもなかなか書評の対象とはなりにくいのかもしれない。しかし、書評の問題はさておき、習近平、トランプの2人が正面から角突き合わせている現状は、考えてみれば深刻な事態だ。つまり、2人に共通する点は、自分の力を過信し周囲の助言を受け付けない、というか、もっと言えば助言をはねつけることで権力を誇示したいという性癖だ。
 もしも、その2人が・・・と考えると、いや、考えることはやめておこう。
2018.12.23 「本日休載」

今日 12月 23日(日)~24日(月)は休載します。

リベラル21編集委員会