2019.03.17 「本日休載」
今日03月17日(日)は休載します。

リベラル21編集委員会

2019.03.11 京都大学学生寄宿舎「吉田寮」をめぐる存廃問題の経緯と今後の行方について(4)
食堂棟落書き事件によって世論は一気に離反した

広原盛明 (都市計画・まちづくり研究者)

 改装なったばかりの真新しい建物がある日突然一面の落書きによって汚されたとしたら、社会はいったいどう反応するだろうか。普通の市民なら器物損壊罪で落書きした当人を訴えるのが自然だろう。誰がやったのかわからなくとも
氏名不詳で訴えることができる。建物の所有者が誰であれ、落書きは明白な財産権の侵害なのだ。

 補修工事が完了し、オープンしたばかりの吉田寮食堂棟の内壁が一部の心無い寮生の落書きによって汚されたことは衝撃的な事件だった。年来、大学側と寮自治会の間で続けられてきた補修に関する合意が漸く成立し、大掛かりな補修工事が完了した矢先、食堂棟の真新しい壁一面が毒々しい落書きで汚されたのである。これは、明らかに公共建築物の破壊行為(バンダリズム)であり、反社会的行為である。その結果、これまで寮自治会との交渉を通して問題解決に努力してきた大学部局は学内強硬派の批判にさらされて孤立し、担当副学長が辞任に追い込まれることになった。

 2015年11月、代わって登場したのは大学側の意向を(交渉抜きに)寮生側に呑ませようとする強硬派を代表する副学長である。それ以降、寮自治会との話し合いは一方的に打ち切られ、2年後の2017年12月、教授会や部局長会議での議論の積み上げもなく、僅かばかりの役員会(総長及びそれを補佐する少数理事)で全寮生の退去を求める「吉田寮生の安全確保についての基本方針」が決定された。本来であれば、このような一方的な決定に対しては学内から多くの抗議の声が上がるはずであるが、食堂棟の落書き事件によって学内世論の信頼を失った寮自治会に対しては同情の声さえ上がらなかった。原因はいったいどこにあるのだろうか。

 私が大学の建築学科で学んできことは、建築に対する〝リスペクト〟である。新しい建築を設計することは楽しいが、それ以上に古い建物を補修して維持することが大切さだと教えられてきた。建築史の講義では、日本の古建築が関係者の血のにじむような努力によって守られてきたことを知って感激した。だから、建物を傷つけたり、壁に落書きするようなことなど思いもよらなかったし、そうした反社会的行為から建物を守ることが建築専門家の役割だと固く信じてきたのである。

 ところがこともあろうに、信じられないような反社会的行為が一部の寮生によって引き起こされた。私は、昨年9月に行われた「市民と考える吉田寮再生100年プロジェクト」(後述)の審査会の席上で、「吉田寮食堂に落書きすることは法隆寺の壁に落書きするのと同じことだ。万死に値する行為だ」と批判した。事実、吉田寮はこのことを切っ掛けに学内はもとより市民からも厳しい批判を受け、社会的に孤立するようになったのである。

 悲しいことに、当時の吉田寮にはこのような問題意識を持つ寮生が余りにも少なかった(いたとしても発言できなかった)。結局のところ自己批判もなければ原因究明への動きもないままに落書きは放置され、今も当時の無残な姿をさらし続けている。しかし、落書きを積極的に肯定しないまでも否定しない(むしろ許容する)このような状態は、やはり時代の流れとともに生まれてきたものであろう。大学の権威主義を批判する学生運動では、タテカンだけではなく建物の壁が至る所でスローガンの掲示板として用いられた。大学封鎖のバリケードには教室や研究室の家具が所構わず持ちだされ、乱暴に積み上げられて破壊された。全てが建築への〝リスペクト〟を否定する行為だったのだが、それに気づいた人は当時それほど多くはなかったのである。

 落書きはまた、当時の世界の若者たちに共通する「グラフィティ文化」という社会背景も有していた。私がニューヨーク・マンハッタンの研究所でスラム研究をしていた1970年代は、アメリカではグラフィティ文化の最盛期だった。マンハッタン島の家賃は恐ろしく高いので海峡を隔てたクイーンズから地下鉄通勤をしていたが、その電車は全身落書き(グラフィティ)で覆われていた。地上に出れば車窓に映る建物という建物は悉く落書き(グラフィティ)のカンバスと化していた。既存の権威を象徴する建物が全て落書き(グラフィティ)の標的となり、やがてはそれらが普通の建物にも広がっていった。下町全体が落書き(グラフィティ)で覆われるようになっていったのである。

 しかし、時代は大きく変わり、今では下町のスラムでも落書き(グラフィティ)はもうほとんど見られなくなった。人々の環境への関心が高まり、荒んだ空気が和らぐにつれて落書き(グラフィティ)は次第に姿を消し、代わって「アメニティ」がまちづくりのキーワードになった。コミュニティの主張や個性が建築や植栽のデザインで表現され、公共広場のマネジメントなどを通してアピールされる時代になったのである。

 ソーシャルネットワークサービスの普及の影響も大きかった。人々のコミュニケーションがソーシャルネットワークを通して飛躍的に拡大するにつれて、反権力の表現手段の一つでもあった落書き(グラフィティ)が効力を失っていった。私たち「21世紀に吉田寮を活かす元寮生の会」は、こうした時代の変化を踏まえて新しい方針を提起した。それが「市民と考える吉田寮再生100年プロジェクト」だったのである。(つづく)
2019.03.09 京都大学学生寄宿舎「吉田寮」をめぐる存廃問題の経緯と今後の行方について(3)、
建築家の努力によって吉田寮食堂棟が京都大学最古の建築物であることが明らかになった
            
広原盛明 (都市計画・まちづくり研究者)

 今から振り返ってみると、大学側にはどうやら吉田寮の保存計画などまったく眼中になかったようだ。1997年から2001年にかけて発行された『京都大学百年史』全8冊の中で、大学キャンパス内の建築物について触れているのは『総説編』(第8章、京都大学キャンパスと建築の百年)であるが、各年代の本部、教室、実験室、図書館、病院などが詳しく取り上げられているのに対して、吉田寮に関する記述はほとんど皆無と言ってよい。勿論、学内の歴史的建造物のリストの中にも入っていない。

 これは主として、第8章を担当した高橋康夫氏(建築学科教授、建築史)の執筆方針に基づくものであろうが、記述内容は全て各学部委員から成る編集委員会の総合的な検討を経ている以上、大学全体の価値観を反映していると言っても間違いないだろう。つまり、吉田寮は京都大学百年の歴史の中でもさほど重要な建築物とは位置づけられず、歴史的建造物として保存計画の対象にもなっていなかったのである。だから、学生部が学生厚生施設である老朽寄宿舎を新しく建て替えて近代化しようと考えても何ら不思議ではなく、むしろ当然の成り行きと言えた。2009年4月には大学側から「吉田南最南部地区再整備・基本方針(案)」が出され、食堂棟を取り壊して隣接地も含めた新棟(居住棟)の建設プランが提案された。

 それでは、取り壊される予定だった食堂棟とはいったいどんな建物なのか。吉田寮には北寮・中寮・南陵の3居住棟の他にこれらを繋ぐ管理棟と食堂棟がある。食堂は寮生がこれまで長期間にわたり調理人を雇って自主運営していたが、給料の支払いなどで運営が苦しいことから調理人の公務員化が課題となり、一時は大学が臨時職員として採用したこともあったと聞く。しかし、1986年以降は調理人が配置転換されていなくなり食事が出されなくなった。それでも食堂棟は、広い空間を活用して吉田寮生によるイベントのほか、寮外生にも開かれた演劇や音楽活動などの場としてその後も使用されてきた。

 大学側から食堂棟の取り壊し計画が明るみに出るに及んで、寮生たちの間には一気に警戒感が広がった。どのような切っ掛けで始まったのかは詳しく知らないが、民間設計事務所を主催する建築家・山根芳洋氏の協力で2012年2月に食堂棟の実測調査が実施され、食堂棟は1889(明治22)年に第三高等中学校寄宿舎の食堂として建設された建物が、1913(大正2)に吉田寮竣工に合わせて吉田寮の西隣に移築されて吉田寮食堂になったことが判明した。

 事態が大きく動いたのは、その直後の2012年4月のことである。大学側が新棟建設と食堂棟の取り壊しを決定し、これらに関する交渉を行わないことを自治会に通告した。しかし「吉田寮食堂取り壊しに関する説明会」に参加した多くの寮生たちの間から食堂棟補修の要求の声が再度上がり、食堂棟以外の吉田寮全体についても補修を求める声が大きくなった。注目されるのは、食堂棟の実測調査の結果が明らかになる中で大学側の態度が変化し、決定通告をいったん撤回した上で新棟および食堂棟の処遇については自治会と大学当局との間で継続協議することになったことである。

 事態はその後さらに大きく展開する。同年7月に行われた交渉では大学側が食堂棟の補修を認め、補修の大まかな方向性や確約案の検討を経て、9月に新棟建設・食堂棟補修などを合意した確約書が両者の間で締結された。その後、自治会と学生課及び担当副学長との間で補修についての協議が始まり、2014年4月から補修工事が着工され、2015年3月に竣工した。大きな間取りの変化はないが、腐朽した木材の入替、基礎の交換、耐震壁の導入などにより耐震性が向上したほか、ガス・水道・電気設備などが改修されたのである。

 大学側と寮自治会の間で食堂棟の補修に関する合意が成立し、大掛かりな補修工事が行われたことは、吉田寮の歴史上画期的な出来事だった。だが、これらの補修工事は、大学当局と自治会の話し合いだけで実現したのではない。困難な合意が成立し補修工事が実施された背景には、建築家・山根芳洋氏をはじめとする幾多の人々の努力があり、これを評価する大学内部関係者からの有形無形の支援があったことを忘れるわけにはいかない。山根氏の調査によって、食堂棟が旧制三高寄宿舎の食堂棟を吉田寮現棟の竣工に併せて移築されたものであり、京都大学最古の建築物であることを判明したからである。

 これを契機にして、吉田寮を明治・大正時代の歴史的建築資産と評価する声が建築専門家たちの中でも大きく広がっていった。2015年5月、日本建築学会近畿支部は京大の山極壽一総長宛に「京都大学吉田寮の保存活用に関する要望書」を提出し、同年11月には建築史学会が吉田寮現棟の保存活用を求める要望書を送付した。寮生たちがこれらの世論状況を積極的に受け止め、吉田寮の補修工事実現に向かって努力を重ねていれば、国立大学の歴史上前例のない成果を挙げることができたであろう。だが、このような社会の期待は、一部の心無い寮生の行為によって無残にも打ち砕かれた。それは、竣工後間もない食堂棟の内壁が見るに堪えない落書きによって汚されるという事件が発生したからである。(つづく)


2019.03.04  京都大学学生寄宿舎「吉田寮」をめぐる存廃問題の経緯と今後の行方について(2)
          昔の学生気質と今どきの学生ライフスタイルの違い

広原盛明 (都市計画・まちづくり研究者)

 「舎友会」という吉田寮の同窓会組織がある。1950年代後半から1960年代前半に寮生活を共にした超高齢者集団の集いである。毎年2回、定期的に会合を開く。1月は新年会、6月は寮母さんの追悼会だ。年々少しずつ参加者が減っていくが、それでも毎回20人前後の参加がある。これまでは近況報告と思い出話が多かったが、ここ1、2年は吉田寮の存廃問題が話題の中心となった。

 舎友会世代に共通する感情は、「今どきの寮生はなっていない!」「あんな汚い住み方はけしからん!」「みんな追い出してしまえ!」というものだ。自分たちが大切にしてきた吉田寮が余りにも汚く荒廃しているので、見るに堪えないという感情を抑えきれないからだ。大学の修理保全が行き届かないことがあるにしても、寮の荒廃の根本原因は寮生の自堕落な生活態度にある――こんな感情がみんなを一様に支配していた(いる)。

 当時の大学には「苦学生」が沢山いた。家が貧しくて学費を出せない、授業料が払えない、自分でバイトをしなければ食っていけない、下宿代が高いので入れない、...そんな学生がそこらじゅうにいたのである。だから、寮に入ることで初めて学業生活が成り立った寮生がほとんどだった。賄い付きの寮が苦学生たちを救ったのであり、寮生たちはそのことを心から感謝していた。寮の応募倍率はものすごく高かったので、大学に入るよりも寮に入る方が難しかったくらいなのだ。

 だから、当時の寮生は仲間意識が強かった。吉田寮は北寮、中寮、南寮の3棟に分かれていて、それぞれの棟には寮生の管理組織があった。総務以下さまざまな役割があり、寮生活の全てが寮生の自主管理のもとに営まれていた。ちなみに私は、体育会系(陸上競技部)ということもあって食堂係となり、その特権を利用してもっぱら空腹を満たしていたものだ。

 だが、こんな人間関係は大学紛争を境にしてぷっつりと切れてしまった。大学紛争が立場を異にする学内集団の対立を決定的にした結果、それが寮生にも及んで世代間の断絶となってあらわれたのである。とりわけ、紛争以前と紛争以後の世代の溝が深かった。紛争以前の牧歌的な世代は何よりも不毛の対立を嫌った。だから、紛争世代の教条的な主義主張には付いて行けなかった。かくて寮生の世代間交流がまったくなくなり、お互いに「あいつら」「おまえら」と呼ぶような関係になってしまったのである。

 だから、私が舎友会の席上で吉田寮の存廃問題を持出したときは参加者から総スカンを喰った。「そんなこと聞くだけでも腹が立つ」というわけだ。人間は老いるとますます頑固になる動物らしい。何しろ大学紛争以来何十年も同じ思いに凝り固まってきた連中だから、彼らの感情を解きほぐすことは容易でない。最初はあっさりと引き下がったが、でもこの世代を巻き込まなければ吉田寮の存続運動は成功しないことがわかっていたので、折を見ては問題提起を続けた。

 私が吉田寮の存廃問題を意識するようになったのは僅か数年前のことである。同志社大学人文社会科学研究所の共同研究会で同席した吉田寮在住の大学院生(中国からの留学生)から存廃問題が持ち上がっていることを聞き、これは何とかしなければならないと思ったのが最初だった。それ以降、同様の問題意識を持つ寮生たちと恒常的に接触するようになり、吉田寮の保存要望書を出した建築史関係の研究者とも意見交換することになった。その輪が京大公文書館に在籍していた教育史研究者にも広がり、吉田寮の意義を教育史と建築史の両面から裏付けることになった。さらに、都市計画の視点からも京都という街を形づくる歴史的資源として吉田寮を位置づける方向に視野が広がっていった。

 こうした一連の理論武装を終えてから、いよいよ「21世紀に吉田寮を活かす元寮生の会」(2017年10月、現役寮生も一部参加)の結成に踏み切った。元寮生の会は、老壮青の3世代から構成されている世にも不思議な組織だ。第1世代は1950年代後半から60年代前半に卒寮した「舎友会世代」、第2世代は1980年代後半から90年代前半卒寮の「ポスト紛争世代」、第3世代は現役寮生の「21世紀世代」である。3世代の年齢差は各々30歳前後、つまりティーンエイジャーを含む現役寮生、50歳代半ばの中堅クラス、80歳以上のウルトラシニアが混在している3層組織なのである。

 これで議論が噛み合うかというと、そこが面白いところだ。もともと私たちウルトラシニア世代は、今どきの寮生はこれまで受けてきた管理主義教育に反発する余り、それが正視にたえない自堕落なライフスタイルとしてあらわれている――と考えていた。ところが、目の前に現れた「21世紀世代」は意外にも礼儀正しく、実に「いい子」たちなのである(後に、彼らが寮生の中では少数派であることがわかったが)。そんなことで、彼ら自身も今どきの寮生たちの中でのギャップに苦しみながらも私たちと行動を共にしていることを知って、元寮生たちは世代を超えた友好関係を結ぶようになった。そして、そこから生まれた多彩な発想が困難な吉田寮存廃問題を解決していく道を切り開くことになっていくのである。(つづく)

2019.03.03  「本日休載」
今日3月3日(日)は休載します。

リベラル21編集委員会
2019.02.28  京都大学学生寄宿舎「吉田寮」をめぐる存廃問題の経緯と今後の行方について(1)
          大学当局と寮自治会との間で新しい合意は成立するか

広原盛明 (都市計画・まちづくり研究者)

 周知の如く、欧米の伝統的大学では寄宿舎がカレッジの中核に位置づけられ、教師と学生が生活を共にするコミュニティ空間として継承されてきた。寄宿舎は、教室、講堂、図書館、実験室などと共に高等教育にとって不可欠な教育施設の一環であり、寄宿舎のない大学の存在は考えられない。日本の旧制高校や旧制大学においてもこの伝統は引き継がれ、大正初期に京都帝国大学学生寄宿舎として建設された吉田寮は、その意味で日本の高等教育の生き証人であり、大学発展の歴史を象徴する建築物だと言える。

 吉田寮の教育史的、文化史的、建築史的価値を高く評価した日本建築学会(近畿支部)と建築史学会は、それぞれ2015年5月と11月に京都大学山極壽一総長に対して「京都大学学生寄宿舎吉田寮の保存活用に関する要望書」を提出し、その積極的活用を強く訴えた。これは吉田寮が1913(大正2)年建設の日本最古の現存する学生寮であるとともに、部材の多くが1889(明治22)年建設の第三高等中学校寄宿舎を転用したものであり、創建当時まで建築意匠や工法の特徴を追跡できる貴重な歴史的文化財であるからだ。

 吉田寮はまた「大学の街・京都」を象徴する建築物でもある。京都はとりわけ大学・学生と市民とのかかわりが深い都市であり、大学が市民生活や地域社会の中に溶け込み、アカデミック・インフラとしての役割を果たしている。そのことが、他都市には見られない京都独特のアイデンティティを形づくり、京都の品格と風格を一段と高めていることは間違いない。吉田寮は京都大学の単なる教育施設であるばかりでなく、京都市民の共有財産でもあり、歴史都市・京都を代表するシンボル建築の1つなのである。

 ところが不幸なことに、この数年間、大学当局と寮自治会の関係が急激に悪化し、両者の話し合いによって様々な問題を解決してきたこれまでの「合意システム」が機能しなくなった。理由は多々考えられるが、大学当局からすれば寮自治会による管理実態が不透明であり、話し合いによる解決を待っていては寮生活の秩序と安全を確保できないと映ったのであろう。一方、寮自治会からすれば、大学当局の話し合いの拒否は、寮自治会から管理権を奪って統制下におき、吉田寮の廃寮を含む建て替え計画を強行しようとしているのではないか...との不信を募らせることになった。

  こうした膠着状態が続く中で大きな転機が訪れた。大学当局は2017年12月、吉田寮の全寮生に18年9月末での退去を求める基本方針を突如発表した。多くの寮生は大学が用意した民間賃貸住宅などに移ったが、数十名の寮生は移転に応ぜず、事態は一触即発の状態で年を越すことになった。そして今年の1月17日、大学当局の申し立てにもとづき 京都地方裁判所が別人が寮に住まないようにするため、物件の占有や保管を裁判所が担う「占有移転禁止」の仮処分を決定し、地裁の執行官が寮を訪れ決定の公示書を掲示した。このことは、やがて寮生の強制退去を求める事態が遠からず訪れることを予測させるものだった。

 だがこの間、大学当局の強硬姿勢に対しては、学内はもとより市民やメディアからも多くの批判が寄せられた。各方面からの有形無形の働きかけが功を奏したのか、大学の姿勢に変化が生じたのは2月12日のことである。この日、大学当局は「吉田寮の今後のあり方について」と題する新たな方針を発表し、以下の提案を行った。
 (1)吉田寮現棟(食堂を含む)については寮生の退去を前提に、将来、安全確保に加えて収容人員の増加や設備の充実等を図りうる措置を講じた上で学生寄宿舎として供用する。
 (2)上記の措置を講じるにあたっては、現棟(旧来の建物)の建築物としての歴史的経緯を配慮する。
 (3)吉田寮新棟(最近の建物)については、2018年9月末日までに全寮生の退去を求めた基本方針を変更し、一定条件を満たせば、学生寄宿舎として供用する。
 (4)吉田寮の今後のあり方の詳細については、広く学内の意見を聞きつつこれからも検討を続ける。
 (5)新棟に居住し、責任ある自治に基づき共同生活の運営を行う意思のある寮生に対しては、話し合いを行う。

 これに対して寮自治会も従来の方針を転換し、2月20日「吉田寮の未来のための私たちの提案」と山極総長・川添学生担当理事宛の「表明ならびに要求」に関する新たな文書を発表した。その趣旨は以下のようなものだ。
 (1)自分たちが残していきたい吉田寮の在り方として、①経済的困難をはじめとする様々な事情を抱えた学生の福利厚生施設、②豊かな自治が行われ多様な人が集い交わる場、③吉田寮現棟の歴史的な価値を守る、という立場を明示する。そのために、大学当局に対して以下の表明ならびに要求を行う。
(2)2019年春季の入寮募集について、現棟に関しては実施しない(新棟は通常通りの日程で実施する)。
(3)安全性の担保されている吉田寮食堂の継続使用と清掃や点検といった吉田寮自治会による従来通りの現棟の維持管理を行うことを大学当局との合意にいたることをもって、吉田寮自治会は本年5月末を目途として現棟における全寮生の居住を取りやめることとする。
(4)現棟の老朽化対策に関する吉田寮自治会との建設的な話し合いを早急に再開することを求める。
(5)上記の要求について、大学当局への回答期限を2019年3月13日とする。

 以上がこれまでの簡単な経緯であるが、この問題に元寮生の私自身がどう関わってきたか、また市民はどのように考えているか、これからどのような方向に展望を見出すかなどなど、順次筆を進めたい。(つづく)

2019.02.24  「本日休載」
今日2月24日(日)は休載します。

リベラル21編集委員会

2019.02.17 「本日休載」
 
今日2月17日(日)は休載します。

リベラル21編集委員会

2019.02.10  「本日休載」
今日2月10日(日)は休載します。

リベラル21編集委員会

2019.02.03  「本日休載」
今日 2月 3日(日)は休載します。

リベラル21編集委員会