2023.09.21
私は人間であって、国家の付属物ではない
私と日本国家の関係
戦場における殺人は「手柄話」か
私は1960年代のはじめに大学を卒業し、埼玉県北部の県立高校へ就職した。私は沖縄本島の北部に生まれ育っていたので、まわりののどかな環境にはすぐに慣れ、親しい同僚もたくさんできた。なり手の少ない山岳部の顧問にさせられて、いきなり北岳に登ったり、文学好きな仲間と同人誌を出したりもした。
職場には朝鮮半島や中国大陸の戦場から帰還してきた同僚が数名いた。彼らは授業や部活動の指導や校務に熱心であり、また良き家庭人であった。私は彼らに親しみと尊敬の念を持っていた。だが、間もなく彼らのうちの何人かに強い抵抗感を持つようになった。その彼らは酒の席などでよく自らの戦闘体験を語ったが、その内容の多くは、銃剣で住民を刺殺した時の手応えや、女が転げまわるので強姦を遂げるのに苦労したなどの、いわば「手柄話」だったからである。彼らにとって戦場という非日常的な環境と戦後の平和な日常とが、何の違和感もなくつながっているように思われた。
私は戦争中に東シナ海沿岸のガマ(洞穴。そこは風葬として使われており、人間の白骨が納められていた)で息をひそめ、目の前の川を海へ向かって流れていく日本兵の死体を眺め、照明弾の降る山中を逃げ回り、祖父が米兵に射殺され、捕虜収容所で祖母をマラリアでなくし…、などなどの体験は私の心に沁みついていた。「手柄話」は受け入れがたいものだった。
パソコンで「ベトナム戦争・写真」を検索すると、おそらく韓国兵士と思われる若者たちが人間の生首をぶら下げて得意顔でカメラに向かっている姿が出てくる。この兵士たちは、戦争が終わって、家族のもとへ帰って、さて、どういう生活を送っているだろうか。やはり「手柄話」に花を咲かせているのだろうか。
「手柄話」にできない人たち
私の親戚の男性は、中国大陸から帰還はしたものの働く意欲を失い、たまに日雇いの仕事をもらってその日暮らしをしていた。父はその彼を薪割りやサトウキビの収穫などで雇うことが多かった。私は一度だけその彼から戦地での体験を聞いたことがある。彼は松を切り倒し、枝を細かく切り落とした後で中休みをしていたとき、私と並んで座り、松林の向こうの東シナ海に目をやりながら絶え入りそうな声で言った。
「上官の食器を洗いながら、飯盒にこびりついたご飯粒を食べるのが一番の希望だった…」
私は彼がはるか向こうの大陸でどのような戦闘体験をしたかは知らない。彼はそれ以上は語らなかった。苦しそうな横顔だった。
私の兄は鉄血勤皇隊の一員であった。鉄血勤皇隊とは沖縄戦で日本軍の正規部隊として併合された、14~16歳の少年兵隊のことで、その任務は実際に戦闘に参加する班と、村々を回って情報を日本軍に提供する班とに分かれていた。いわゆるスパイである。戦闘班は多くの戦死者を出したが、兄は後者に属していて命拾いをした。その兄から「生き残った者の負い目」を聞かされたのは、ごく最近のことである。
『帰還兵はなぜ自殺するのか』(デイヴィッド・フィンケル著、古屋美登里訳、2015/02/10亜紀書房)は、イラン・イラク戦争(1980~1988)から帰還してきた元兵士たちの痛々しい姿を、ペンタゴン(米国防総省)の自殺防止会議の調査報告に沿いながら明らかにしているが、胸が詰まって先へ読み進めない箇所が何か所もあった。
上野千鶴子氏の書評(毎日新聞夕刊(2016/03/15)の一部分を紹介したい。
「フィンケルの「帰還兵はなぜ自殺するのか」によれば、アフガニスタンとイラクに派遣された兵士は約200万人、うち50万人がPTSD(心的外傷後ストレス障害)に苦しみ、毎年240人以上の帰還兵が自殺している。ある日戦地へ行った夫が帰ってくる。夫は抑鬱(よくうつ)と暴力とで、人が変わったようになっている。妻には、愛する夫の変貌がどうしても理解できない。夫は精神科に通い、苦しみ抜いて、その苦しみから解放されるために死を選ぶ。米陸軍には自殺防止会議がある。自殺対策は軍の重要課題なのだ。海の向こうの話ばかりではない。日本でもイラク派遣の自衛官のうちすでに29人が自殺している。
国民の平均自殺率を超える異常な数字だ。戦死者は出さなかったのに、自殺者を出したのだ。」
「ボディカウント」
『戦争とデータ—死者はいかに数値となったか』(五十嵐元道著、中公選書2023/07)によると、ベトナム戦争においてアメリカ軍の代表的作戦である「索敵殲滅作戦」(後に「掃討作戦」と呼び替えられた)は文字通りゲリラを片っ端から殺害しようという作戦であった。そこで敵や味方の遺体の数を数える「ボディカウント」が軍事作戦の重要な指標として利用された。「アメリカ軍にとって、ボディカウントは数少ない明確で利用可能な統計データ」(p129)となる。
そういえば、ヒトラー配下にあって600万にも及ぶユダヤ人殺害に関わったアドルフ・アイヒマンにとっても、600万人のユダヤ人には人権も家族も友人も恋人も将来の夢も喜びも悲しみもない単なる数値でしかなかった。しかも彼はただ「ヒトラーの命令に従った」だけであった。したがって彼は死刑判決が下された後も無罪を主張し続けたのである。
私は「人間」でありたい
殺戮し殺戮される戦場の情景は「人間」には耐えられない。だから戦闘のさなかであれ帰還後であれ、人間として狂うのは人間であることの証明なのだ。
私はひとりの人間であって、日本国家の付属物ではない。したがって「ボディ」として「カウント」される存在にはなりたくない。「神国日本」の政治体制を整え、「八紘一宇」という「正義」を実現させるために「滅私奉公」を絶対的な倫理として国民に強要し、東南アジア、中国大陸そして沖縄などで累々と「ボディ」の山を積み上げてきたかつての日本の歴史を、そのまま受け入れることはできない。「そのまま」というのは、「国家権力と私とを同一化させたまま」という意味である。
私は人間でありたいので、国家とは距離を保ちたい。国家権力者が保守的であれ革新的であれ関係なく。現在、目の前で派閥争いを繰り返している権力者たちのために自分や家族の命を捧げられるかどうか、冷静に考えたい。 (2023/09/15)
宮里政充 (元高校教師)
戦場における殺人は「手柄話」か
私は1960年代のはじめに大学を卒業し、埼玉県北部の県立高校へ就職した。私は沖縄本島の北部に生まれ育っていたので、まわりののどかな環境にはすぐに慣れ、親しい同僚もたくさんできた。なり手の少ない山岳部の顧問にさせられて、いきなり北岳に登ったり、文学好きな仲間と同人誌を出したりもした。
職場には朝鮮半島や中国大陸の戦場から帰還してきた同僚が数名いた。彼らは授業や部活動の指導や校務に熱心であり、また良き家庭人であった。私は彼らに親しみと尊敬の念を持っていた。だが、間もなく彼らのうちの何人かに強い抵抗感を持つようになった。その彼らは酒の席などでよく自らの戦闘体験を語ったが、その内容の多くは、銃剣で住民を刺殺した時の手応えや、女が転げまわるので強姦を遂げるのに苦労したなどの、いわば「手柄話」だったからである。彼らにとって戦場という非日常的な環境と戦後の平和な日常とが、何の違和感もなくつながっているように思われた。
私は戦争中に東シナ海沿岸のガマ(洞穴。そこは風葬として使われており、人間の白骨が納められていた)で息をひそめ、目の前の川を海へ向かって流れていく日本兵の死体を眺め、照明弾の降る山中を逃げ回り、祖父が米兵に射殺され、捕虜収容所で祖母をマラリアでなくし…、などなどの体験は私の心に沁みついていた。「手柄話」は受け入れがたいものだった。
パソコンで「ベトナム戦争・写真」を検索すると、おそらく韓国兵士と思われる若者たちが人間の生首をぶら下げて得意顔でカメラに向かっている姿が出てくる。この兵士たちは、戦争が終わって、家族のもとへ帰って、さて、どういう生活を送っているだろうか。やはり「手柄話」に花を咲かせているのだろうか。
「手柄話」にできない人たち
私の親戚の男性は、中国大陸から帰還はしたものの働く意欲を失い、たまに日雇いの仕事をもらってその日暮らしをしていた。父はその彼を薪割りやサトウキビの収穫などで雇うことが多かった。私は一度だけその彼から戦地での体験を聞いたことがある。彼は松を切り倒し、枝を細かく切り落とした後で中休みをしていたとき、私と並んで座り、松林の向こうの東シナ海に目をやりながら絶え入りそうな声で言った。
「上官の食器を洗いながら、飯盒にこびりついたご飯粒を食べるのが一番の希望だった…」
私は彼がはるか向こうの大陸でどのような戦闘体験をしたかは知らない。彼はそれ以上は語らなかった。苦しそうな横顔だった。
私の兄は鉄血勤皇隊の一員であった。鉄血勤皇隊とは沖縄戦で日本軍の正規部隊として併合された、14~16歳の少年兵隊のことで、その任務は実際に戦闘に参加する班と、村々を回って情報を日本軍に提供する班とに分かれていた。いわゆるスパイである。戦闘班は多くの戦死者を出したが、兄は後者に属していて命拾いをした。その兄から「生き残った者の負い目」を聞かされたのは、ごく最近のことである。
『帰還兵はなぜ自殺するのか』(デイヴィッド・フィンケル著、古屋美登里訳、2015/02/10亜紀書房)は、イラン・イラク戦争(1980~1988)から帰還してきた元兵士たちの痛々しい姿を、ペンタゴン(米国防総省)の自殺防止会議の調査報告に沿いながら明らかにしているが、胸が詰まって先へ読み進めない箇所が何か所もあった。
上野千鶴子氏の書評(毎日新聞夕刊(2016/03/15)の一部分を紹介したい。
「フィンケルの「帰還兵はなぜ自殺するのか」によれば、アフガニスタンとイラクに派遣された兵士は約200万人、うち50万人がPTSD(心的外傷後ストレス障害)に苦しみ、毎年240人以上の帰還兵が自殺している。ある日戦地へ行った夫が帰ってくる。夫は抑鬱(よくうつ)と暴力とで、人が変わったようになっている。妻には、愛する夫の変貌がどうしても理解できない。夫は精神科に通い、苦しみ抜いて、その苦しみから解放されるために死を選ぶ。米陸軍には自殺防止会議がある。自殺対策は軍の重要課題なのだ。海の向こうの話ばかりではない。日本でもイラク派遣の自衛官のうちすでに29人が自殺している。
国民の平均自殺率を超える異常な数字だ。戦死者は出さなかったのに、自殺者を出したのだ。」
「ボディカウント」
『戦争とデータ—死者はいかに数値となったか』(五十嵐元道著、中公選書2023/07)によると、ベトナム戦争においてアメリカ軍の代表的作戦である「索敵殲滅作戦」(後に「掃討作戦」と呼び替えられた)は文字通りゲリラを片っ端から殺害しようという作戦であった。そこで敵や味方の遺体の数を数える「ボディカウント」が軍事作戦の重要な指標として利用された。「アメリカ軍にとって、ボディカウントは数少ない明確で利用可能な統計データ」(p129)となる。
そういえば、ヒトラー配下にあって600万にも及ぶユダヤ人殺害に関わったアドルフ・アイヒマンにとっても、600万人のユダヤ人には人権も家族も友人も恋人も将来の夢も喜びも悲しみもない単なる数値でしかなかった。しかも彼はただ「ヒトラーの命令に従った」だけであった。したがって彼は死刑判決が下された後も無罪を主張し続けたのである。
私は「人間」でありたい
殺戮し殺戮される戦場の情景は「人間」には耐えられない。だから戦闘のさなかであれ帰還後であれ、人間として狂うのは人間であることの証明なのだ。
私はひとりの人間であって、日本国家の付属物ではない。したがって「ボディ」として「カウント」される存在にはなりたくない。「神国日本」の政治体制を整え、「八紘一宇」という「正義」を実現させるために「滅私奉公」を絶対的な倫理として国民に強要し、東南アジア、中国大陸そして沖縄などで累々と「ボディ」の山を積み上げてきたかつての日本の歴史を、そのまま受け入れることはできない。「そのまま」というのは、「国家権力と私とを同一化させたまま」という意味である。
私は人間でありたいので、国家とは距離を保ちたい。国家権力者が保守的であれ革新的であれ関係なく。現在、目の前で派閥争いを繰り返している権力者たちのために自分や家族の命を捧げられるかどうか、冷静に考えたい。 (2023/09/15)
2023.08.29
海洋放出という悪夢
韓国通信NO727
ついに汚染水の海洋放出が始まった。廃炉作業が一向に進まないうえに12年間に溜まった134万トン余りの汚染水入りの貯蔵タンクの光景に心を痛めてきた人は多い。だが放出すれば廃炉が進む保証はない。海にまで放射能汚染が広がるだけではないのか。
政府、東電と漁業者たちとの約束は完全に無視された。繰り返された約束はそんなに軽いものだったのか。金をいくら積んでも約束を破ってよい理由にはならない。誠実さが微塵も感じられない安易な強行決着だ。
問題は福島の海だけではない。日本の周辺、世界の海の汚染にわが国は責任を持てるのか。将来予想される「偶発債務※」は日本全土を売却しても間に合いそうにない。まさに売国的判断と言える。※将来の発生を見込んだ補填義務を債務として計上する会計上の処理
NHKを始めとする大半のメディアは「海水で薄めたから安全」「汚染水ではなく処理水」と主張する政府の見解を繰り返すばかりで、放出を疑問視する国内世論と中国、韓国をはじめとする国際世論を非科学的な過剰反応と決めつける。
放流された汚染水が将来にわたり魚介類、海藻等に与える影響を心配する専門家の知見も無視された。安全とはその場限りの放言に過ぎない。数十年後、岸田首相も私たちもこの世にいない。東京電力もあるかどうか。最終的に一体誰が責任をとるのか。世界的規模の未来に対する壮大な「つけまわし」を怖れる。
「今だけ、金だけ、自分だけ」
新自由主義的風潮に対する警句の対象が、今や個人レベルを超えて世界に、特に大国に広がっている。ロシアとウクライナの戦争に端的に表れている自国の利益優先主義。
今回の海洋放出もその例にもれず、自国の利益を優先させる身勝手で横着なふるまいと言える。「自分(自国)の利益をはかって何故悪い」と言われては返す言葉はないが、放流にせよ、正義の戦争にせよ、抑止力強化にせよ、その先には世界の破滅が待ち受けているのを無視した暴言と言える。
汚染水はこれから数十年にわたり放出され続ける。事実が風化するおそれもあるが、「持続可能な社会」「地球環境を守る」を掲げる世界の運動のなかで、放流ストップの声は止むことはないだろう。地球村の声に逆行する政治は厳しく糾弾されるに違いない。
組踊『肝髙(きむたか)の阿麻和利(あまわり)』

<写真/「あまわり浪漫の会」ホームページより。肝高の阿麻和利とは - 現代版組踊 肝高の阿麻和利 公式サイト (amawari.com)>
8月21日、妻と娘の三人で沖縄の中高生たちの舞台を鑑賞した。10年ほど前に沖縄のホールで、4年前に東京国立劇場で見たので今回で3回目だ。コロナで中断していた東京公演は溢れんばかりの熱気に包まれた。
15世紀、勝連城(かつれんじょう)の城主だった悲劇の阿麻和利を英雄として蘇らせたミュージカル。若者たちのエネルギーに圧倒された。「今だけ、金だけ、自分だけ」とは無縁な若者たちのひたむきな姿から大人たちはどう生きるべきかが問われたように感じられた。公式サイトの閲覧をおすすめしたい。
<アジア版NATO同盟>
キャンプデービッドで開かれた韓米日首脳会談で中ロ北朝鮮対日米韓の対立構造が決定的となった。専守防衛をかなぐり捨てた日本が実質的な軍事同盟に突き進んだと言われている。わが国が掲げてきた平和主義からは信じがたい状況が生まれつつある。
南北朝鮮はかつてない挑発行為を繰り返している。米中対立が生んだ「台湾有事」は、わが国を巻き込んだ戦争を予感させる。戦争のためには敵国に対する憎悪が欠かせないと言わんばかりに、最近は悪人としてプーチン、金正恩、習近平がしばしば登場する。かつての「鬼畜米英」のスローガンが思い出される。太平洋戦争が始まるころの社会状況もこんな風だったのではなかったのか。
<ウクライナは正義か?>
去る6月に地元で開かれた講演会でのこと。
講師のウクライナ人でアメリカの大学教授がウクライナとロシアの歴史を語った後、世界の民主主義を守るためにはウクライナは絶対に負けられないと熱弁をふるった。ウクライナ支援の募金活動をしている国際交流協会主催の講演会である。内容は予想されたものだったが、会場にいた長崎の被爆二世という女性が立ち上がった。
「どんな理由があっても戦争はしてはいけないというのが私の信念。戦争に勝つという立場ではなく、どうしたら戦争をやめることができるのか研究して欲しい」。会場からは期せずして大きな拍手が起きた。講師に対する拍手より大きく感じられたほど、多くの人たちの共感の拍手だった。
単純に善と悪に分けて戦争を軽々しく考える風潮の中で彼女の発言に異論はなかった。戦争をさせない、やめせる努力が今ほど求められている時はない。平和こそ正義。偶発的に発射ボタンを押して全面戦争になる可能性さえある。抑止力で平和を維持する発想は危険この上ない。憎悪が戦争を生む。憎悪は何のために誰が作り出すのか。そのことを子どもたちにきちんと教えてあげられる大人でありたい。
小原 紘(個人新聞「韓国通信」発行人)
ついに汚染水の海洋放出が始まった。廃炉作業が一向に進まないうえに12年間に溜まった134万トン余りの汚染水入りの貯蔵タンクの光景に心を痛めてきた人は多い。だが放出すれば廃炉が進む保証はない。海にまで放射能汚染が広がるだけではないのか。
政府、東電と漁業者たちとの約束は完全に無視された。繰り返された約束はそんなに軽いものだったのか。金をいくら積んでも約束を破ってよい理由にはならない。誠実さが微塵も感じられない安易な強行決着だ。
問題は福島の海だけではない。日本の周辺、世界の海の汚染にわが国は責任を持てるのか。将来予想される「偶発債務※」は日本全土を売却しても間に合いそうにない。まさに売国的判断と言える。※将来の発生を見込んだ補填義務を債務として計上する会計上の処理
NHKを始めとする大半のメディアは「海水で薄めたから安全」「汚染水ではなく処理水」と主張する政府の見解を繰り返すばかりで、放出を疑問視する国内世論と中国、韓国をはじめとする国際世論を非科学的な過剰反応と決めつける。
放流された汚染水が将来にわたり魚介類、海藻等に与える影響を心配する専門家の知見も無視された。安全とはその場限りの放言に過ぎない。数十年後、岸田首相も私たちもこの世にいない。東京電力もあるかどうか。最終的に一体誰が責任をとるのか。世界的規模の未来に対する壮大な「つけまわし」を怖れる。
「今だけ、金だけ、自分だけ」
新自由主義的風潮に対する警句の対象が、今や個人レベルを超えて世界に、特に大国に広がっている。ロシアとウクライナの戦争に端的に表れている自国の利益優先主義。
今回の海洋放出もその例にもれず、自国の利益を優先させる身勝手で横着なふるまいと言える。「自分(自国)の利益をはかって何故悪い」と言われては返す言葉はないが、放流にせよ、正義の戦争にせよ、抑止力強化にせよ、その先には世界の破滅が待ち受けているのを無視した暴言と言える。
汚染水はこれから数十年にわたり放出され続ける。事実が風化するおそれもあるが、「持続可能な社会」「地球環境を守る」を掲げる世界の運動のなかで、放流ストップの声は止むことはないだろう。地球村の声に逆行する政治は厳しく糾弾されるに違いない。
組踊『肝髙(きむたか)の阿麻和利(あまわり)』

<写真/「あまわり浪漫の会」ホームページより。肝高の阿麻和利とは - 現代版組踊 肝高の阿麻和利 公式サイト (amawari.com)>
8月21日、妻と娘の三人で沖縄の中高生たちの舞台を鑑賞した。10年ほど前に沖縄のホールで、4年前に東京国立劇場で見たので今回で3回目だ。コロナで中断していた東京公演は溢れんばかりの熱気に包まれた。
15世紀、勝連城(かつれんじょう)の城主だった悲劇の阿麻和利を英雄として蘇らせたミュージカル。若者たちのエネルギーに圧倒された。「今だけ、金だけ、自分だけ」とは無縁な若者たちのひたむきな姿から大人たちはどう生きるべきかが問われたように感じられた。公式サイトの閲覧をおすすめしたい。
<アジア版NATO同盟>
キャンプデービッドで開かれた韓米日首脳会談で中ロ北朝鮮対日米韓の対立構造が決定的となった。専守防衛をかなぐり捨てた日本が実質的な軍事同盟に突き進んだと言われている。わが国が掲げてきた平和主義からは信じがたい状況が生まれつつある。
南北朝鮮はかつてない挑発行為を繰り返している。米中対立が生んだ「台湾有事」は、わが国を巻き込んだ戦争を予感させる。戦争のためには敵国に対する憎悪が欠かせないと言わんばかりに、最近は悪人としてプーチン、金正恩、習近平がしばしば登場する。かつての「鬼畜米英」のスローガンが思い出される。太平洋戦争が始まるころの社会状況もこんな風だったのではなかったのか。
<ウクライナは正義か?>
去る6月に地元で開かれた講演会でのこと。
講師のウクライナ人でアメリカの大学教授がウクライナとロシアの歴史を語った後、世界の民主主義を守るためにはウクライナは絶対に負けられないと熱弁をふるった。ウクライナ支援の募金活動をしている国際交流協会主催の講演会である。内容は予想されたものだったが、会場にいた長崎の被爆二世という女性が立ち上がった。
「どんな理由があっても戦争はしてはいけないというのが私の信念。戦争に勝つという立場ではなく、どうしたら戦争をやめることができるのか研究して欲しい」。会場からは期せずして大きな拍手が起きた。講師に対する拍手より大きく感じられたほど、多くの人たちの共感の拍手だった。
単純に善と悪に分けて戦争を軽々しく考える風潮の中で彼女の発言に異論はなかった。戦争をさせない、やめせる努力が今ほど求められている時はない。平和こそ正義。偶発的に発射ボタンを押して全面戦争になる可能性さえある。抑止力で平和を維持する発想は危険この上ない。憎悪が戦争を生む。憎悪は何のために誰が作り出すのか。そのことを子どもたちにきちんと教えてあげられる大人でありたい。
2023.08.15
青天井の爽やかさを味合わせよう
―「権威主義国」を封じ込めるのでなく
アメリカのバイデン政権は9日、中国に対して半導体、人工知能(AI)それに量子技術の先端3分野での中国への投資を規制する政策を発表した。具体的にはこの3分野の中国への投資案件は政府への届け出を義務付け、最先端の半導体と量子技術は原則として禁止、AIも軍事につながる技術は禁止する方向で検討しているという。これまでも軍事や監視技術にからむ企業への株式投資を制限していたが、今後は直接投資をも禁止することになる。
アメリカはこれまで先端的な半導体分野などでは、米人技術者が中国企業で勤務したり、先端技術の製造装置を中国へ輸出したりするのを禁止するなどの措置をとってきたが、今回は資金が中国のこの分野の企業へ流れるのを止めようとするものである。自由な経済活動を基本とするアメリカがこうした措置に踏み切るのはきわめて異例である。
もっとも報道によれば、今後は「産業界からの意見を募った上でルールを決め、・・・その後に準備期間を設けると、発効時期は2024年になる可能性がある」(『日経』8月11日)そうだが、資金の動きを制限する措置がはたして米経済界の理解をえられるのかどうか、注目されるところである。
一門外漢の見方を言わせてもらえば、私はこの政策は、今、アメリカの対中国政策としては適当でない、というより逆効果であると思う。もし、これが実施されることになっても、日本は追随しないことを望む。
現在の世界の最大の対立点は、しばしば「民主主義対権威主義」だと言われる。ここでもそれを借りて議論を進めるとすれば、「民主主義」側諸国としての望ましい世界像は、「権威主義」側の諸国を「民主主義」側に引き込んだ世界である。
なぜそれが望ましいか。われわれの周辺の「権威主義国家」は中國、北朝鮮、ミャンマーといった諸国であるが、自分がこれらの国の国民だったらと想像すると、窓のない部屋に閉じ込められたような閉塞感にとらわれるからである。国の最高権威者がどのように決められたかを知ることはできない、その人物がいつまでその地位に留まるのかもわからない、そしてその疑問を口にすることもできない。そんなことをすれば、時には命に係わる危険を伴う。そういう状況自体がまず無条件に「悪」である。人間の本性に逆らうからである。
国民を窓のない部屋に閉じ込める「悪」だけではない。その体制を守るために最高権威者は自らの権威をまもるためにさらに「悪」をなす。自分が非凡であることを証明しなければならないが、それは世界に通ずるルールに従っていてはまず不可能である。どうするか。ルール破りの「悪」で大多数の自国民を喜ばせなければならない。
考えつくことは、国民に自分たちは他国民に勝る民であると信じさせることで、それには周辺国を屈服させるのがもっとも効果的である。今、まさにロシアのプーチンがウクライナでやっているのがそれである。
ある国がこういう状態にあることは他国にとっては甚だ危険であり、迷惑である。しかし、その状態を自ら相手に先んじて武力で変えさせることは、それ自体また「悪」である。一国の体制を変えることはその国の国民だけの権利である。
とすれば、「権威主義」のもとに暮らす国民に彼らの状況が外の世界にはどう見えるかをきちんと知らせることがまず必要である。しかし、それはなかなかに難しい。「権威主義」の国には言論、報道の自由がないか、きわめて乏しいのが現実だからである。
しかも、その国の「権威主義」指導者や政府に批判、非難、制裁を加えても、それらは「敵からの攻撃」として、かえって国民を団結させる材料とされる可能性が高い。勿論、それを理解する国民も一定割合はいるであろうが、「外国からの内政干渉を排除」という言葉の持つ求心力には及ばないのが通例であろう。
では、どうすればいいのか。結局、「民主主義」の姿を「権威主義」の下に暮らす人々につぶさに見せるしかない。「民主主義」だからといって、勿論、全てがうまくいくとは限らないわけであるから、あらゆる欠陥、盲点、国民の不満をさらけ出して見せるのだ。できれば、多くの留学生でも出稼ぎ労働者でも受け入れて、民主主義の裏も表も見せるのだ。勿論、天井のない、自由な空気の流れも一緒に。
米バイデン大統領が中国を「唯一の競争相手」として、抑え込もうとするのは、間近に選挙を控えた身としては、民主社会においても大向こうのウケを狙うには有効かもしれない。
しかし、理性的な政策判断としては外から「権威主義国」の天井に穴を開けようとするのは、相手に敵を意識させるだけで、逆効果である。相手の体制の非をならすのではなく、青天井のさわやかさを「権威主義国」の国民に知ってもらう努力こそが有効であると私は信じる。
日米関係の慣例として、今回の投資規制案もいざ実施という段階では日本もおそらく同調を求められる。しかし、それは相手を頑なにするだけであるから、これまでの慣例はご破算にしてもらいたい。
スウェーデンの調査機関「V-Dem」によると、2021年時点で「民主主義国が89カ国なのに対して、権威主義国は90カ国で、世界の人口の7割にあたる54憶人が権威主義の下で暮らしている」そうである。(『毎日』2022年12月8日、『ニュース最前線』)
「権威主義」のトリセツも新版が必要である。(230811)
田畑光永 (ジャーナリスト)
アメリカのバイデン政権は9日、中国に対して半導体、人工知能(AI)それに量子技術の先端3分野での中国への投資を規制する政策を発表した。具体的にはこの3分野の中国への投資案件は政府への届け出を義務付け、最先端の半導体と量子技術は原則として禁止、AIも軍事につながる技術は禁止する方向で検討しているという。これまでも軍事や監視技術にからむ企業への株式投資を制限していたが、今後は直接投資をも禁止することになる。
アメリカはこれまで先端的な半導体分野などでは、米人技術者が中国企業で勤務したり、先端技術の製造装置を中国へ輸出したりするのを禁止するなどの措置をとってきたが、今回は資金が中国のこの分野の企業へ流れるのを止めようとするものである。自由な経済活動を基本とするアメリカがこうした措置に踏み切るのはきわめて異例である。
もっとも報道によれば、今後は「産業界からの意見を募った上でルールを決め、・・・その後に準備期間を設けると、発効時期は2024年になる可能性がある」(『日経』8月11日)そうだが、資金の動きを制限する措置がはたして米経済界の理解をえられるのかどうか、注目されるところである。
一門外漢の見方を言わせてもらえば、私はこの政策は、今、アメリカの対中国政策としては適当でない、というより逆効果であると思う。もし、これが実施されることになっても、日本は追随しないことを望む。
現在の世界の最大の対立点は、しばしば「民主主義対権威主義」だと言われる。ここでもそれを借りて議論を進めるとすれば、「民主主義」側諸国としての望ましい世界像は、「権威主義」側の諸国を「民主主義」側に引き込んだ世界である。
なぜそれが望ましいか。われわれの周辺の「権威主義国家」は中國、北朝鮮、ミャンマーといった諸国であるが、自分がこれらの国の国民だったらと想像すると、窓のない部屋に閉じ込められたような閉塞感にとらわれるからである。国の最高権威者がどのように決められたかを知ることはできない、その人物がいつまでその地位に留まるのかもわからない、そしてその疑問を口にすることもできない。そんなことをすれば、時には命に係わる危険を伴う。そういう状況自体がまず無条件に「悪」である。人間の本性に逆らうからである。
国民を窓のない部屋に閉じ込める「悪」だけではない。その体制を守るために最高権威者は自らの権威をまもるためにさらに「悪」をなす。自分が非凡であることを証明しなければならないが、それは世界に通ずるルールに従っていてはまず不可能である。どうするか。ルール破りの「悪」で大多数の自国民を喜ばせなければならない。
考えつくことは、国民に自分たちは他国民に勝る民であると信じさせることで、それには周辺国を屈服させるのがもっとも効果的である。今、まさにロシアのプーチンがウクライナでやっているのがそれである。
ある国がこういう状態にあることは他国にとっては甚だ危険であり、迷惑である。しかし、その状態を自ら相手に先んじて武力で変えさせることは、それ自体また「悪」である。一国の体制を変えることはその国の国民だけの権利である。
とすれば、「権威主義」のもとに暮らす国民に彼らの状況が外の世界にはどう見えるかをきちんと知らせることがまず必要である。しかし、それはなかなかに難しい。「権威主義」の国には言論、報道の自由がないか、きわめて乏しいのが現実だからである。
しかも、その国の「権威主義」指導者や政府に批判、非難、制裁を加えても、それらは「敵からの攻撃」として、かえって国民を団結させる材料とされる可能性が高い。勿論、それを理解する国民も一定割合はいるであろうが、「外国からの内政干渉を排除」という言葉の持つ求心力には及ばないのが通例であろう。
では、どうすればいいのか。結局、「民主主義」の姿を「権威主義」の下に暮らす人々につぶさに見せるしかない。「民主主義」だからといって、勿論、全てがうまくいくとは限らないわけであるから、あらゆる欠陥、盲点、国民の不満をさらけ出して見せるのだ。できれば、多くの留学生でも出稼ぎ労働者でも受け入れて、民主主義の裏も表も見せるのだ。勿論、天井のない、自由な空気の流れも一緒に。
米バイデン大統領が中国を「唯一の競争相手」として、抑え込もうとするのは、間近に選挙を控えた身としては、民主社会においても大向こうのウケを狙うには有効かもしれない。
しかし、理性的な政策判断としては外から「権威主義国」の天井に穴を開けようとするのは、相手に敵を意識させるだけで、逆効果である。相手の体制の非をならすのではなく、青天井のさわやかさを「権威主義国」の国民に知ってもらう努力こそが有効であると私は信じる。
日米関係の慣例として、今回の投資規制案もいざ実施という段階では日本もおそらく同調を求められる。しかし、それは相手を頑なにするだけであるから、これまでの慣例はご破算にしてもらいたい。
スウェーデンの調査機関「V-Dem」によると、2021年時点で「民主主義国が89カ国なのに対して、権威主義国は90カ国で、世界の人口の7割にあたる54憶人が権威主義の下で暮らしている」そうである。(『毎日』2022年12月8日、『ニュース最前線』)
「権威主義」のトリセツも新版が必要である。(230811)
2023.07.19
大規模金融緩和政策を検討する(その8)
マグマが爆発する条件
盛田常夫 (在ブダペスト、経済学者)
故安倍元首相やアベノヨイショは、これだけ国債を発行し、日銀が引き受けてもハイパーインフレにならないのだから、さらに大きな国債発行で景気を浮上させて良いのではないかと考えた。20年先まで税収を前借しながら、「財政均衡主義は悪だ」と騒ぎ立て、さらに大きな債務を累積させても日本経済が傾くことはないと考えている。これに「れいわ新選組」も同調し、右も左も、「赤字国債歓迎」の大唱和である。こういう無責任な輩が政治責任を取ることはない。馬鹿を見るのはいつの時代も一般国民だ。
戦時・戦後インフレの教訓
20世紀の近代国家における高率のインフレあるいはハイパーインフレは、財政的裏付けのない戦時国債や復興国債の発行、あるいはよりプリミティヴな政府紙幣の発行によってもたらされた。第一次世界大戦で敗れたドイツはワイマール共和国を樹立して新たな国造りの出発を図ったが、戦費と巨額な戦後賠償を賄うために、財政(生産)の裏付けのない通貨を発行せざるを得なかった。これが近代国家の歴史上初めてのハイパーインフレを惹き起こした。
いったんハイパーインフレが生じると、債権債務関係が大きく変化する。一般に資産価値は大きく減価し、逆に債務は大きく軽減される。社会経済生活が大混乱に陥り、新たな通貨制度が確立されるまで大きな社会混乱が続く。安定化への過程で、債権債務関係の調整が始まるが、インフレ前の債権債務関係に戻す調整は不可能であり、社会経済は債権債務をリセットした状態から再出発せざるを得ない。このような社会経済の大混乱のなかでも、実物資産をタダ同然に取得して、一躍大資産家になる者がいる一方、他方で資産のほとんどを失って無一文になる者もいる。
第二次世界大戦後もまた、敗戦国を中心に、高率のインフレやハイパーインフレが生じた。日本も例外ではなく、戦時国債を無価値にする高率のインフレが発生し、他方で国民の貯蓄もまた無価値になった。欧州のハンガリーではワイマール共和国のハイパーインフレを上回るインフレに見舞われた。中央銀行券であれ、政府紙幣であれ、財政(生産)の裏付けのない通貨発行が、ハイパーインフレを惹き起こした。財政的裏付けの規模に応じてインフレ率は異なるが、20円で1万円を刷りまくると、他の条件を無視して単純計算すれば、500倍のインフレが生じることになる。
1990年代前半のユーゴスラヴィア内戦でも、セルビアのミロシェヴィッチ首相が国立銀行を私物化し、紙幣の増刷で戦費を賄おうとしたために、ワイマール共和国、戦後ハンガリーに匹敵するハイパーインフレが生じた。まさに、20円で10万円札、100万円札を印刷させた政治家が、国の経済社会を崩壊させたのである。
ドイツはもちろん、EUが公的債務に厳しい上限を課しているのは、このような歴史を繰り返さないための知恵である。それに比べて、日本の政治家は歴史に学ぶことなく、財政赤字の縮小努力を「ザイム真理教」とあざ笑い、次の選挙で勝つために、当座の景気浮揚やバラマキ政策を提唱して有権者の関心を惹こうとしている。こういう不健全で不埒な政治経済社会が、無傷のまま生き延びることができると考えるのは大間違いだ。社会経済法則の貫徹によって、必ず歴史の鉄槌を受けることになろう。
体制転換恐慌の教訓
ハイパーインフレは戦争を経由しなくても発生する。1989年に始まった社会主義体制の崩壊は、「体制転換恐慌」(拙著『体制転換の政治経済社会学』2020年、日本評論社、45-49頁)を帰結し、すべての国で高率のインフレが続いた。とくに旧ソ連の共和国では年率1,000%を超えるインフレが発生した。比較的インフレ率が低かった中東欧でも年率30~40%のインフレが数年続き、経済混乱が大きかったポーランドでは1,000%を超えるインフレが数年続いた。
社会主義体制下では経済統制によって、隠れたインフレのマグマが溜まっていた。市場価値から乖離した人為的な価格設定や為替レートの設定は、鎖国と統制下では問題を顕在化させなかったが、潜在的なマグマとして経済社会に蓄積されていた。鎖国が解かれ経済が対外開放されて統制の枠が外れるやいなや、隠されていたマグマが一挙に噴出した。私は統制経済下での各種社会的負債を「体制負債」と名付けている(上掲書、33-34頁)。社会主義国家の崩壊によって、過去の累積債務(体制負債)から社会が耐え切れなくなった結果が、体制転換によるハイパーインフレである。セルヴィアはそれに加えて、内戦の戦費調達による野放図な通貨供給が、歴史的ハイパーインフレを惹き起こした。
プリミティヴな通貨発行であれば、即座にハイパーインフレを惹き起こすが、経済統制が続いている限り、それがすぐに顕在化することはない。もちろん、統制下では抑圧された厳しい生活を送ることを余儀なくされ、その統制が解かれた時に、一挙に矛盾(マグマ)が爆発する。これが社会主義体制崩壊による「体制転換恐慌」であり、その一つの現象が高率のインフレあるいはハイパーインフレとなって現象した。
マグマはいつか爆発する
第二次世界大戦以後の資本主義経済は経済発展によって基礎体力が大きく成長し、経済構造が複雑化している。国民経済相互間の経済発展格差やインフレ格差も単純に推移していない。したがって、財政ファイナンスを行ったから直ぐにハイパーインフレになるという単純な関係はもはや存在しない。
他方、基礎体力が現在よりはるかに弱かった戦前の資本主義経済でも、簡単にハイパーインフレが生じたわけではない。その発生はそれを誘発する社会状況に依存する。歴史的に見て、戦時や終戦時の社会的崩壊状況において、ハイパーインフレが生じている。戦時中に生産や貯蓄の裏付けのない国債が大量に発行されれば、直にハイパーインフレを惹き起こす。あるいは一定程度のタイムラグを経て、終戦に伴う物資の不足状態が、生産(財政)の裏付けのない戦時債務を無効化する経済法則を貫徹させる。
公的累積債務が許容される規模は国民経済の基礎体力に関係する。経済的基礎が盤石でも、巨額の政府債務は政府の経済社会政策の自由度を限りなく狭める。日本が戦争を起こす確率は限りなく小さく、戦時的物資の強制調達がハイパーインフレを惹き起こす確率はゼロに近い。それでは日本経済は財政ファイナンスを続けても盤石だろうか。
日本社会にとって、最大の脅威は自然災害(大規模震災)である。もし巨大規模の震災が起こり、巨額資産を喪失する状況になれば、終戦時と同じ経済崩壊状況が生まれる。この場合でも、政府債務の水準が低ければ、財政支出の拡大が惹き起こすインフレを可能な限り低く制御することが可能である。しかし、すでに債務の累積が飽和状態にあれば、物資不足が惹き起こすインフレがハイパーインフレに転化する可能性は高い。政府に財政的余力がない日本の場合、巨額の追加政府支出は物資の高騰を惹き起こし、それが全般的なハイパーインフレを惹き起こす可能性は高い。現在の水準を大幅に超える財政ファイナンスは大きな社会的問題を惹き起こすだろう。
爆発の条件
累積債務はいずれかの時点で、何らかの方法で、部分的あるいは全面的に解決を迫られる。どのように説明しようと、国債は将来の税収を担保にした債務証券であり、政府債務が将来の税収の先取りであることに変わりはない。現在の財政赤字が続く限り、政府債務の累積を止めることができないばかりか、労働力が減少し、経済が縮小する日本社会が、累積し続ける債務問題を解決できる見通しはない。確実に到来が予測される南海トラフ地震や首都直下地震が生じたときに、巨額の債務を抱える政府(自治体)がさらに巨額の震災復興債券を発行すれば、ハイパーインフレを誘発する可能性が高い。その時に右往左往しても手遅れだ。思考実験で累積債務を減少できると主張しても、何の気休めにもならない。経済学者が空想的な思考実験を繰り返している間にも、経済危機は静かに進行している。
「ブダペスト通信」7月14日
2023.07.18
今年、私の誕生日が祝日になった!
韓国通信NO724
小原 紘(個人新聞「韓国通信」発行人)
韓国では7月17日「制憲の日」(憲法記念日)が祝日だったことがある。私の誕生日か゜7月17日なので、韓国が国を挙げて私の誕生を祝っているようで気分がよかった。いつの間にか祝日でなくなったが、そのかわりでもあるまい、今年、日本では、私の誕生日が祝日「海の日」と重なった。
「海の日」は、制定当初は7月20日だった。明治天皇が「明治丸」で東北巡行して横浜港に帰着した7月20日にちなんで制定された。「海の恵みに感謝して日本の繁栄を願う」というのが趣旨らしいが、牽強付会の典型、明治天皇と海を強引に結び付けた感じがしてならない。
その後、祝日法が改正され、「海の日」は「7月の第3月曜日」とされた。今年は、それが「7月17日」であったわけである。海を大切にするなら、放射能汚染水を海に捨てるなんてとんでもないことだ。
「美しい風習を育てつつ、よりよい社会、より豊かな生活を築きあげるために定められた」国民の祝日数は現在16。学校も会社も休みになるのはうれしいことに違いないが、「海の日」を始め訳のわからない祝日が実に多い。昔の「天長節」が文化の日。昭和天皇の誕生日が昭和の日に、もちろん今の天皇の誕生日もある。神武天皇の即位を祝う建国記念日。春季・秋季皇霊祭だった春分の日と秋分の日を含めると、わが国の祝日は天皇関連だらけということになる。
祝日ごとに、「今日も休みがとれるのは 天皇サマのおかげです」という歌が聞こえてきそうだ。どうして日本人はこんなに天皇が好きなのか。不思議な国ニッポンである。
韓国の祝日数は15で日本とほとんど同じだ。
韓国の財界からは「休みが多すぎ」と不満の声が上がる。もっと働けというのは日本も韓国も同じらしい。7月17日の祝日がなくなったのは惜しまれるが、韓国の祝日は概してシンプルでわかりやすい。
3.1独立運動記念日、8.15光復節(独立記念日)、国のために殉死した人を祭る顕忠日6.6、建国記念~開天節10.3、子どもの日5.5は日本と同じだが、韓国には春分と秋分の祝日はない。「訓民正音」※の公布を記念したハングルの日10.9はいかにも韓国らしい。釈迦誕生日3.27、クリスマス12.25、メーデー5.1は仏教とキリスト教と労働者に配慮しているようでほほえましい。
戦前と戦後の政治が色濃く残ったわが国の祝日、意味不明の祝日を再考したらどうか。単に祝う観点ではなく、記憶する視点も大切にしたい。そのための国民的議論が求められている。貴方だったらどんな祝日・記念日を作りますか。
戦争が 廊下の奥に 立っていた 渡邊白泉
いつの間にか戦争になっている。人々のこころの薄暗い廊下から戦争はやってきたのだ。 金子兜太選 俳句百選より。
※訓民正音 表記文字ハングルの仕組みを「訓民正音」として世宗王が公布 1443年
2023.07.14
大規模金融緩和政策を検討する(その7)
なぜ、政府勘定と日銀勘定は統合できないのか
盛田常夫 (在ブダペスト、経済学者)
2017年3月14日、J。 スティグリッツ(コロンビア大学)が日本政府の招きに応じて、経済財政諮問会議で講演した。スティグリッツは用意したスライドの1枚に、わずか2行で、Cancelling government debt owned by government (BOJ) ・ Overnight reduction in gross government debt - allaying some anxieties「政府(日銀)が保有する債務を無効にする。粗政府債務は、瞬時に減少-不安はいくらか和らぐ」(諮問会議事務局訳)と記した。一部のアベノヨイショは、これを「政府と日銀の債務債権は相殺されてなくなる」と解釈し、ノーベル経済学賞受賞者の不用意な発言をご宣託と崇め奉り、「財政危機はない」ことの論拠として利用するようになった。
政府勘定と日銀勘定を統合することはできない
政府と日銀は法的に親会社と子会社の関係にはない(法的関係)。しかし,実体的に日銀は政府に従属して、政府のファイナンスを請け負っている(実体的経済的関係)から、スティグリッツが主張するように、国民経済計算上、政府と日銀の収支勘定は統合相殺(連結)することが可能だろうか(連結決済の可能性)。これを図解すると、次のように示される。
一般政府勘定と日銀勘定

スティグリッツが不用意に記した論点は、「日銀保有の国債債権と政府の国債債務は、親会社(政府)と子会社(日銀)の貸借関係にあるから、二つの勘定を連結(統合)して考えれば、国債債務は実質1040-590=450兆円まで減額される」というものである。
前号で記したように、国債は政府が将来の納税者の税収を担保にした担保証券であり、日銀に対する借用証書ではない。連結決済によって相互の貸し借りなら相殺可能だが、第三者に対する債務をなかったもの(債務不履行)にすることはできない。持ち手が変わっても、第三者への債務は存在し続ける。日銀に融資の形(かた)として差し出した担保証券をなかったものにすることができるのは、日銀が保有国債資産を放棄(政府債務免除)する場合だけである。それは日銀が債務超過に陥ることを意味し、即座に中央銀行としての存在を失う。それだけのことである。だから、実際問題として、国債の帳消しは実行できない。アベノヨイショの頭の中の観念的操作として可能なだけのことである。
第三者への債務を消すことはできない
アベノヨイショやスティグリッツは連結決済(勘定統合)によって、すべての債権債務が相殺されると単純に考えているようだが、それは間違いである。二つの会社(勘定)を統合(連結)しても、すべての債権債務関係が相殺されるわけではない。当事者相互の貸し借りは相殺されるが、当事者外の第三者に対する債権債務関係は引き続き、どちらかの勘定に反映される。当然のことである。当事者相互の債権債務と第三者への債権債務を混同しているのが、アベノヨイショたちである。
二つの会社が合併する、あるいは親会社と子会社の会計を連結する場合、相互の債権債務は相殺されても、第三者にたいする債権債務は引き継がれる。第三者に対する子会社の債務は親会社が引き継ぐ(親会社の資産がその債務分だけ減額される)。第三者に対する債権債務は、必ず当事者のどちらかの勘定に反映される。債務は資産減をもたらし、債権は資産増をもたらすだけのことだ。
GDP統計を含む国民経済計算体系では、非金融部門の勘定体系と金融部門の勘定体系は厳密に分離されている。金融部門の勘定体系は非金融部門の物財サーヴィスや資金の流れを反映するように構築されており、この二つの部門を勝手に統合することは許されない。つまり、国民経済計算体系の観点からも、一般政府勘定と日銀勘定を連結(統合)することは許されない。頭の中で統合を夢想するのは勝手だが。
政治家や御用エコノミストの放言を許す学界
日銀が保有する国債価値を相殺(なかったものに)することは思考実験として可能なだけである。一部のエコノミストによる、「政府と日銀は政府部門に属するから統合的に考えれば、政府債務と日銀債権は相殺される」という主張は、国民経済計算体系上も実際の手続き上からもできない。統合「思考」によって、政府債務額が実際に減ると考えるのは、空想による錯誤である。
他方、実際問題として、日銀は国債債務の半分を引き受けているのだから、日銀がもっと危機感をもつべきだろう。債務上限の法的制限や議論すらない日本で、野放図に債務を累積させれば、日本経済は余力を失い、ますます後がない状況に追い込まれる。経済先進諸国が曲がりなりにも債務上限を保とうとしているのに、日本だけが債務を際限なく累積させている。それは地下に形成されるマグマのように、溜り続ける。将来世代が払うべき「ツケ」とは、そのマグマの爆発である。
この問題についても、理論経済学を専攻する学者から明確な批判がないのはきわめて不可解である。政治的な議論だと考えて距離を取ろうとしているのか、それともまったく関心がないのか、あるいはこの議論を判断する知識を持ち合わせていないのか。政府の累積債務がこれほど深刻な状況になっているにもかかわらず、経済政策の評価から距離をとる日本の学界論壇の状況は異常だと言わざるを得ない。
「ブダペスト通信」7月10日
2023.07.13
大規模金融緩和政策を検討する(その6)
国債はどのような債券か
盛田常夫 (在ブダペスト、経済学者)
大規模金融緩和は、主として、日銀が市場から国債を大量に買い上げる形で実行され、10年の緩和政策の結果、事実上、日銀が財政ファイナンスを行う状況になっている。ところが、先進国の中でも債務上限を課していない日本では、このような危機的状況を転換させる議論がなく、詐欺まがいの議論や政治家の放言がメディアを汚染している。
金融緩和政策は国家債務を積み上げている
日銀が緩和政策を開始してから10年で政府が発行した国債は、すべて政府の累積債務として積みあがっている。緩和政策10年で、実に300兆円の国債が追加発行され、国債発行残高(国債累積額、地方債200兆円を含まない)は2021年に1,000兆円を越える水準になった。対GDP比でおよそ190%(地方債を含めると200%を超える)、税収のおよそ20年分に相当する。一般会計歳出額に占める赤字国債の割合はおよそ45%の水準で推移し、これは税収の75%に当たる(表参照)。これほどの財政赤字を抱えている経済先進国は日本だけである。しかも、赤字国債なしに歳出を維持できない日本の財政は、赤字の累積を止めることができず、半永久的に財政の底抜け状態が続く。
国債発行額とその指標(各年度、単位:億円、%)

注:国債依存率は、(4条債+特例債)/一般会計歳出額。
出所:財務省「国債発行額の推移(実績ベース)」より
この段になっても、政治家は無責任な言動で問題を隠蔽し、国民は政治家の無責任な扇動に踊らされて、問題の深刻さを理解することができない。無責任なアベノヨイショの御用エコノミスト(御用学者)は、財政問題の深刻さを指摘する論者を「ザイム真理教」などと揶揄し、財政再建のための赤字縮小は不要だと考えているようだ。財務省が財政均衡主義に立っていると非難するが、ここ20年の歴史を見れば、毎年赤字国債を発行し続け、日本の財政は赤字底抜け状態だ。御用エコノミストは、さらに赤字国債を発行して景気を高揚させよという政治家の無責任な主張を後押ししているに過ぎない。20円で1万円が作れると喧伝する、大道手品師のような詐欺師である。陳腐な錬金術を披露し、無責任な政治家とグルになって国民をだますイカサマ師である。
財政ファイナンスを許容する論拠
政府の赤字国債発行を支えているのは日本銀行である。大規模金融緩和が実行される直前の日銀の国債保有額はおよそ113兆円(2013年1月15日)である。緩和政策10年を経過した時点のそれは、およそ587兆円(2023年5月12日)である。保有増加額は10年間の新規国債発行額をはるかに超えている。既存の国債をも積極的に買い入れた結果である。これによって、日銀は政府発行の国債の57%を保有することになり、事実上の財政ファイナンス状況を生み出すことになった。
これだけの政府赤字を積み上げ、日銀の資産内容を悪化させても、金融・不動産業を除いて、就業人口が拡大しなかったばかりか、消費需要を増やすことも製造業を活性化することもできなかった。にもかかわらず、政府と日銀は緩和政策の見直しを拒否し、緩和政策を継続するのみである。あたかも基礎疾患を抱える高齢者に、過剰な栄養を与え、無駄な薬物を大量投与している状態である。過剰な栄養は余剰エネルギーとなって体に蓄積されて不健全な肥満をもたらし、過剰な薬物投与は基礎疾患の重症度を高めている。
このような状況になっても、緩和政策を支持してきたエコノミストは十年一日のごとく「デフレからの脱却」を唱えて、緩和政策の継続を主張するだけである。また、一部のエコノミストは政府の国債発行がハイパーインフレを惹き起こしていないことを根拠に、無責任な政治家と声を合わせて、さらなる国債発行による日銀ファイナンスを積極的に利用することを求めている。その論拠として主張されているのは、以下の二点である。
一つは、政府累積赤字が国内貯蓄の裏付けをもつ限り、国外からの投機的投資にたいする脆弱性はないという主張である。いま一つは、政府と日銀はともに政府部門だから、これを統合して考えれば、政府の負債と日銀の資産が相殺されて、政府債務は激減するという主張である。この二つの主張は累積債務を問題視することはないという議論の論拠として「発見」されたもので、これほどの財政ファイナンスを行ってもハイパーインフレが発生しない理由として考えられた論拠である。
国債とは何か
アベノヨイショは国債を「国の借金」と表現することを極端に嫌う。逆に、国債は国の債務であると同時に、「国民の債権」だと表現して、問題の深刻さを中和させようとしている。いったい国債とはどのような債券だろうか。
国債は「将来のキャッシュフロー(将来税収)」を担保にした担保証券であり、将来の納税者にたいする債務証券である。この担保証券が日銀の所有になっても、その性格は変わらない。日銀が国債を保有する行為は、この担保証券を担保にして、政府に資金を融通することを意味する。最後の貸し手である日銀は徴税権を持たないから、この担保証券を形に(買い)取って、政府の代わりに徴税することはできない。だから、日銀は保有国債(政府への融資)を相殺(帳消し)して、この債権分を放棄することはできない。この点は非常に重要なポイントである。
故安倍元首相が繰り返し主張したように、政府と日銀は親会社と子会社の関係にあるから、政府の国債債務と日銀の保有の国債(債権)は相殺できるという主張は成り立たない。政府は野党の質問趣意書に答えて、「日銀は政府の子会社ではない」という答弁書(令和4年5月24日付答弁書)を用意したが、この回答はあくまで法的関係について回答したものである。この点はさらに次回で詳述するが、法的関係からだけでなく、社会経済関係においても、上述のごとく、政府発行の国債と日銀保有の国債は相殺できない。したがって、この論点に関する故安倍元首相ほかの主張は虚偽である。
日本の公的債務が深刻なのは、すでに税収のおよそ20年分が前借りされているという事実である。しかも、財政再建の目途が立たず、国の債務は増え続けている。50年先を見据えても、労働力人口が減り、納税者が減りつづける日本に、積み上がった公的債務を減らすめどはまったくない。アベノヨイショの「学者」やエコノミストは、これだけ国が借金してもハイパーインフレが起きないのだから、インフレを気にせずに、さらに国債発行で景気を上昇させるべきだと主張している。これはハイパーインフレが発生する社会経済条件にかかわるものであり次回以降で詳述する。
もう一つの論点である「国内貯蓄の裏付けがある」とは、逆に言えば、国内貯蓄が政府債務の形に押えられていることを意味する。既述したように、赤字国債は「将来の税収というキャッシュフロー」を担保にした担保証券である。もし、ハイパーインフレが発生すれば、終戦直後のように、国債価格が暴落し、事実上の国債債務の裏付けとしての国内貯蓄も限りなく減価する。すべてがご破算になり、債権債務関係はリセットされる。債権債務の強制終了によって国の債務は消滅するが、政府債務の担保である貯蓄も無価値になる。そういう状況を創り出さないために、平時から政府の債務水準を適切に管理することが重要なのである。だから、欧州では政府の債務上限を厳しく管理している。アメリカでも法律で債務上限が規制されている(繰り返し修正されているが)。平時では債務上限の危機が国民経済に与える影響はそれほど大きいとは言えない。それでも債務水準を管理することに意味があるのは、戦争や自然災害など莫大な社会的犠牲を伴う事態にたいして、政府の制御能力を維持し、経済社会を崩壊の危機から守るための人類の知恵である。それは20世紀の戦争の時代から引き継がれた歴史的教訓である。将来の危機に備えることなく、当座の景気促進だけを考える思考は、イソップ物語の「キリギリス」的思考である。
このように見れば、「国内貯蓄に裏付けされている限り、債務の累積に問題ない」という議論の脆弱性が明らかになる。「今すぐに首都圏直下型地震が起きないから、特別な準備は必要ない」という議論と同じである。結末の恐ろしさを考えれば、無責任な言動の浅はかさが際立つ。「浅はか」と片付けるには、あまりに罪が深い。詐欺的言動だと言わざるを得ない。
「ブダペスト通信」7月8日
2023.07.12
大規模金融緩和政策を検討する(その5)
GDPが拡大する社会的条件
盛田常夫 (在ブダペスト、経済学者)
大規模金融緩和政策を支持するエコノミスト(「学者」と称する人を含め)や政治家は、緩和資金が個人消費を拡大し、それがGDPを押し上げると想定した。その論拠としているのが、「個人消費はGDPの7割を占めるから、個人消費を増やせばGDPが増える」という不正確な概念使用とトートロジー(同語反復)である。多くのエコノミストや政治家も、この一知半解のトートロジーに依拠して、個人消費に制限をかける消費税引上げに反対の論陣を張ったことも記憶に新しい。
定義式(恒等式)から因果関係を説くトートロジー
定義式は因果関係を説明するものではない。にもかかわらず、定義式をそのまま因果関係として捉えるのが、トートロジーである。たとえば、個人消費はGDPの7割を占めるから、個人消費を増やせばGDPが増えるという議論は、
10≡7+2+1
という恒等式で、「7を8に代えたら、10は11になります」と言っているのと同じで、GDPが増える社会的要因を説明するものではない。多くの人はこの種の同義反復的議論に騙される。医学上の多くの病名は症状を名付けたものが多いが、症状は原因ではない。だから、病名が疾病の原因を説明するものでないのと同様に、定義式は因果関係を説明するものではない。
そもそも、「個人消費がGDPの7割を占める」という表現それ自体が正しくない。GDP(国内総生産)は生産概念であって、消費概念ではない。だから、「消費がGDPの7割を占める」という言い方は間違いである。付加価値生産概念であるGDPは法人所得を積み上げて算出される。他方、「作られたものは消費される」という前提で、生産概念であるGDPは、総支出(GDE)に等しくなるはずだと仮定され、支出面からもGDPの大きさを統計として収集している。ここから、
GDP(国内総生産)≡ GDE(国内総支出){≡ 国内消費(C+G) + 投資(I) + 純輸出(ΔE) }
という統計的恒等関係が想定されている(Cは個人消費、Gは政府消費)。これを簡略に表現したのが、
GDP≡C+G+I+ΔE
という恒等式である。この恒等式から因果関係を読み取り。C(個人消費)の大きさがGDPを決めると主張するのが、一知半解の「エコノミスト(学者?)」と政治家である。
上の恒等式を二面等価と呼ぶことがある。国民経済計算上、この二つの数値が等しくなるという前提で統計数値を収集し確定する。実際問題として、二つの統計数値が一致することはない。しかし、その差をなるべく小さくするような操作を重ね、どうしても埋められない乖離を「統計不突合」として処理し、会計バランス(事後的収支)を構成する。「等価」という表現は誤解を受けやすいが、これは会計的なバランス(事後的収支)を表現するもので、それ以上の意味はない。
生産と支出(消費)の間には配分関係が存在するから、マクロ経済学の教科書では、
国内総生産≡国内分配所得≡国内総支出
と記して、「三面等価」と名付けている。ほとんどの教科書ではこれを「マクロ経済学の原則」などという大仰な表現で説明しているが、会計的事後バランス(恒等関係)を表現するものに過ぎない。
このように、GDPの定義式は収支バランスを表現するもので、因果(関数)関係を表現するものではない。だから、恒等式から直に因果関係を読み取るのは、分析上の誤りである。「エコノミスト」と称する人々を含め、多くの人々はこの種の初歩的な誤謬に嵌っている。
個人消費が経済成長を生み出す社会的条件
さて、10年にわたって続けられた大規模金融緩和によって、実際の個人消費はどのような推移を辿っただろうか。
家計・政府の現実最終消費の推移(暦年、単位:10億円)

注:現実最終消費とは、一般政府の最終消費から家計に再分配された部分を勘案した数値。
出所:国民可処分所得と使用勘定(2021年度国民経済計算表)
日銀と政府が一体となって巨額の通貨を市場に提供したにもかかわらず、ここ10年の間、消費者・一般政府の最終消費はほぼ400兆円の水準にとどまったままである。大量の資金を市場に注入したにもかかわらず、なぜ個人消費の増加が実現しなかったのだろうか。
日本経済は高度成長期を経て、安定的な成熟期に入り、労働力人口が高齢化し、かつ労働人口が縮小するという歴史時代を迎えている。この歴史社会的な認識をもたなければ、この状況を理解することはできない。近年の中国が達成した高度成長や戦後日本の高度成長を支えた諸条件を考えることによって、その回答が得られる。
経済成長が実現するためには、余剰労働力が市場経済の社会的分業の網の目に入り込むことが必要である。近代資本主義の経済成長から明らかなように、国民経済の高い成長率の達成は、市場経済の拡大に伴って、農村の余剰労働力が持続的に社会的分業に組み込まれる過程と一致している。新規の労働力が付加価値生産を増やし、労働者への支払賃金が増えて消費支出が増える。急激な労働力の出現は一時的に消費財需給をひっ迫させるが、賃金支払い総額が増え有効需要も拡大するので、消費財生産が増えるという循環的な上昇効果が出る。
実際、日本の高度成長期とされる1955年から1973年の18年間に日本の就業者数は4,090万人から5,259万人へと増えた。毎年、65万人近い新規労働力が日本経済に取り込まれた。社会的分業に組み込まれる労働力が、およそ30%も増加した。製造業に限ってみれば、1955年から1973年の同期間に、757万人から1,383万人へと8割強の急拡大をみた。これが日本の高度成長を支えた。市場に現れた労働者の消費需要が、消費財市場のボトルネックを押し上げ、消費財生産を促進するという成長循環が生まれた。これが日本の高度成長である。同じ状況は市場経済化が急速に進んだ中国でも観察される。
これにたいして、失われた30年と称される1990年から現在までの期間を見ると、1990年の就業者数6,250万人は2012年の就業者数6,280万人とほとんど変わっていない。社会的分業に取り込まれた労働力に量的変化がないのである。その後、大規模金融緩和も10年で第三次産業の就業者400万人ほど増えたことは前号に記した。他方、製造業の就業者数は2013年の1,041万人が2021年の1,045万人になっただけで、まったく増えていない。しかも、この製造業の就業者水準は1962年とほぼ同じである。つまり、製造業の就業人口は高度成長初期の時代にまで縮小しているのである。
このように、日本経済の成長・成熟・停滞・縮小という歴史的構造変化を見なければ、現状を正しく理解することができない。ところが、リフレ派と称する人々は日本経済の歴史的変化を捨象して、デフレという現象のみに注目して、あたかも通貨量が経済成長を決定するかのような議論を展開している。しかも、デフレ認識すら一様ではない。多くのエコノミストは「物価が下がり続ける現象」と説明する。しかし、物価は上がっていないが、下がり続けているわけではない。物価が上がらないことをデフレと呼んでいるだけである。事実認識が間違っているだけでなく、物価水準だけに目を奪われ、日本経済が抱える歴史的問題の認識が欠如している。
このように、日本経済の歴史的発展(成長・停滞・縮小)を理解せず、GDPとGDEの恒等式から個人消費拡大を唱えていては、有効な経済政策を打ち出すことができないのも当然である。
「良いインフレ」と「悪いインフレ」というトートロジー
そのことは、「良いインフレ」、「悪いインフレ」という議論にも関係している。良い悪いという主観的な判断で、インフレを評価しようというのだが、この議論もまたトートロジーである。なぜなら、「よいインフレ」とは「価格上昇が需要を喚起し、生産を刺激するという好循環を生むケース」、「悪いインフレ」とは「好循環を生まずに、価格だけが上昇するケース」を想定しているが、この設定そのものがトートロジーである。なぜなら、「良い結果(好循環)を生むのが良いインフレ」、「悪い結果(悪循環)を生むのが悪いインフレ」と言っているのと同じで、これは分析ではなく、無内容な同語反復である。
高度成長の歴史事例から明らかなように、新規の労働力が市場に参入すれば、消費需要が拡大し、消費財の需給がひっ迫するので価格上昇が持続的に惹き起こされる。他方で、労働力の拡大による生産拡大は、賃金支払い総額を増やし、作れば売れる状況が持続するので、生産も需要に応じて増えていく。これが高度経済成長期に見られる「好循環」である。好循環は貨幣的な現象ではなく、労働力の拡大という市場の構造的変化によって、需要が持続的に供給拡大を惹き起こす現象である。日本経済にはもはやこのような循環を惹き起こす社会的条件は存在しない。逆に、労働人口が減り、就業者が減っていくという時代に入っている。辛うじて第三次産業の就業者数の微増で就業人口全体の減少は始まっていないが、すでに製造業の就業人口は縮小過程に入っている。
このような歴史社会的条件を分析することなく、貨幣量と物価水準を議論しても得られる成果はない。量的な経済成長を至上目的にするような議論は、社会経済的分析として有効性を失っている。
「ブダペスト通信」7月5日
2023.07.06
大規模金融緩和政策を検討する(その4)
就業人口増加の実態
盛田常夫 (在ブダペスト、経済学者)
アベノミクスをヨイショしてきたエコノミスト、「学者」、政治家がこの政策の成果として強調したのが、就業人口の拡大とそれに伴うGDPの増加である。大規模金融緩和の10年で、就業人口は400万人も増え、それに比例してGDPも増えた。これが大規模金融緩和政策のほとんど唯一とも言える「成果」だが、この成果の内容を分析すると、アベノヨイショの自賛とは正反対の事実が明らかになる。
生産年齢人口の絶対的減少と就業者(労働力人口)の増加
日本社会はすでに高齢者社会に突入しており、生産年齢(15歳~65歳)人口は絶対的減少の時代に入っている。2000年以降、およそ20年間で、生産年齢人口は8,600万人から1,000万人以上も減少している。ところが、大規模金融緩和政策が実行に入った2013年から、就業者は6280万人から6,667万人(2023年2月)へと400万人の増加となっている。これはリフレ派が強調するアベノミクスの成果なのだろうか。
生産年齢人口が絶対的に減少する中、就業者人口が増えるという逆転現象はどのように生じたのだろうか。いったいどのような就業者増が観察できるのだろうか。
2012年は団塊世代が65歳に到達した年である。ここから65歳以上の男女の就業者が増大し、およそ10年間で300万人の増加を見た。さらに、女性の就業率は2012年の60.7%から70%超へとおよそ10%(実数で200万人強)の増加を見た。つまり、アベノミクスの効果とされた就業者400万人強の増加の中身は、65歳以上の高齢の就業者と女性の就業者の増加だったのである。これは経済成長の成果というより、世帯の生活水準維持のための就業者増とみるべきもので、アベノミクスの成果と強調するには、あまりに寂しい内容である。
実質的な雇用増は金融保険・不動産業
アベノミクスによる就業者の増加の内容はきわめて貧しいものだが、唯一、実質的な就業者増を実現した産業部門がある。それが金融保険・不動産業である。
以下の表から分かるように、アベノミクス10年が経過した段階で、第一次産業も第二次産業も就業者は増えていない。第二次産業の就業者数は高度成長の初期段階(1966年前後)の規模にまで縮小している。増えているのは第三次産業で、その多くは各種サーヴィス業である。生活水準維持のために、高齢者の定年延長雇用や女性のパートタイム就業の増加を反映したものだ。
注:最終列は,三次産業のうち,「金融保険・不動産業」を別掲したもの.
出所:労働政策研究・研修機構統計情報(2023年5月18日月8日更新)
そのなかで、金融保険・不動産業の就業者だけは、実質40万人の増加を見ている。大規模金融緩和による資産バブルを反映した就業者の増加である。
こうしてみると、アベノミクスと呼ばれる巨額の資金を供給した大規模金融緩和政策は資産バブルを惹き起こしたが、まったく日本の産業を発展させる原動力にはならなかった。労働力人口が絶対的に減少するという日本経済の歴史時代の中で、歴史の流れに抗う政策には効果はなかったというべきだろう。高齢期を迎えた日本経済に、強力な強精剤を大量に摂取させても、若い肉体を回復することにならないということだ。それどころか、無駄に将来世代への債務を積み上げ、財政健全化がほぼ不可能な状況をもたらすだけに終わった。にもかかわらず、今もなお、失敗が証明された政策が惰性的に維持され続けている。アベノミクスが嵌った無間地獄の罠からの脱却は簡単ではない。故安倍首相のみならず、アベノヨイショの御仁たちの罪は深い。
「ブダペスト通信」(2023年7月1日)
2023.07.05
大規模金融緩和政策を検討する(その3)
緩和資金はどこへ流れたか
盛田常夫 (在ブダペスト、経済学者)
大規模金融緩和は低利の資金をふんだんに供給することによって、企業は投資活動を活発化させ、消費者は購入意欲を高めるというのが、この政策の想定だった。しかし、緩和策が実行された10年の間、このシナリオはほとんど機能しなかった。どうしてだろうか。
ここでも、金融経済と実物経済の本質的な違いをまったく考慮しなかったことが、政策の実効性が失われた原因である。
低利でも新規投資をためらう中小企業
金利負担を無視できるほどの低利のローンがあるのだから、さぞかし企業は新規事業や商品開発に資金を利用するだろうと考えるのは、企業経営に携わったことのない素人の考えだ。金利が高かろうが低かろうが、借りたお金は返さなければならない。新規事業立ち上げのために融資を受けても、事業が成功しなければ、企業は大きな痛手を被る。とくに余力のない中小企業にとって、新規事業の失敗は企業の存続にかかわる。
だから、いくら金利が低くても中小企業はかんたんに資金を借りて、新規事業を立ち上げることはできない。しかも、日本は人口(市場)縮小へ向かっており、長期で見れば、消費財の需要は確実に縮小していく。それを考えれば、一時的な需要の増大があっても、既存事業ですら、簡単に拡大するわけにもいかない。これが中小企業の実情である。
これにたいして、内部留保を抱え資金的に余裕がある大企業は違う。コストが低い資金を借りることができれば、本業ではない財テクに、安価な資金を使うことができる。しかも、緩和が長期にわたり、金融市場や不動産市場が活性化することが予想されるから、内部留保を運用するチャンスであり、緩和資金を財テクに使うことが会社の利益を上げる。大企業でも新規事業への資金投入は慎重にならざるを得ないが、大きなリスクを抱える新規事業開拓より、財テクの方がはるかにリスクは低く投資効率が高い。したがって、製造業であれ商社であれ、資金的余裕がある会社は、金融緩和で安価な資金を得られるなら、それをまず財テクに利用することを考える。企業が借りた資金を技術革新や新商品開拓に向けると考えるのは、あまりにナイーヴである。
他方、消費者(家計)はどうか。金利が低いからと言って、日本の消費者がわざわざローンを組んでまで、急いで耐久消費財を購入しようとは思わないだろう。既存の耐久消費財の買い替えですら、そう簡単に決断できないだろう。そこはアメリカの消費者とは異なる。一般消費者からみれば、低利の資金があれば、なによりもまず住宅購入を考えるだろう。さらに資金的に余裕がある消費者であれば、投資目的の不動産購入も視野に入ってくる。
緩和資金は株式市場と不動産市場へ流れた
このような行動様式を考慮すれば、緩和資金が向かう先が明らかになる。一つは金融市場であり、いま一つは不動産市場である。
東証1部時価総額の推移(単位:兆円
出所:東京証券取引所(1千億未満切捨て)
個別企業の財テク規模は調査しないと正確には言えないが、株式市場の市場規模は、2013年春の金融緩和以降、およそ400兆円も拡大した。日銀自体が積極的に株式資産の取得(2023円5月現在でおよそ40兆円)に動き、年金管理機構(GPIF、年金積立管理運用独立法人)は株式投資上限引上げによって国内株式資産を増やした(およそ30兆円)。市中銀行の貸出は緩和政策10年で130兆円ほど拡大した。この貸金や企業の内部留保が緩和政策による株価上昇を見込んで財テクに利用された。
不動産市場も同様な傾向を示している。金融緩和によって、住宅不動産の購入が拡大した。首都圏の不動産市場は、金融緩和政策が始まった2013年以降、右肩上がりに価格上昇が続いている。消費者(家計)は利率が低く抑えられているときにマイホーム、あるいは投資資産としてマンションを買おうとするだろう。耐久消費財の買い替えを先送りして、資産形成に安価な資金を回そうとするだろう。企業もまた金融資産だけでなく、不動産投資に資金を振り向けていると考えられる。
注:2010年平均を100とした各年1月の指数。
出所:公益財団法人不動産流通センター不動産業統計集「不動産流通」25頁(2022年9月改訂)
大規模金融緩和政策が想定していたことは、緩和資金が製造業の投資資金となり、投資が活性化し、生産拡大によって賃金が上昇し、それが一般消費者の消費を上げるという循環である。緩和資金が金融市場や不動産市場を活性化させても、国民経済全体の好循環を生み出すことはない。手持ち資金に余裕のある企業や個人が緩和資金を財テクに利用すれば、金融業や不動産業の就業人口は増えるが、加工業の成長(就業人口の拡大)に結実しない。
このようにみれば、緩和資金の用途は、緩和政策が想定していたものとは異なる。緩和資金が製造業の投資拡大に向けられないことが分かった段階で、緩和政策を見直すべきであった。緩和政策を続ける限り、資産バブルが膨れ続け、他方で日銀の国債引受に歯止めがかからず、日銀の金融政策の自由度が狭まっていく。緩和政策の見直しは、遅くとも、政策実行から5年で判断をするべきであった。しかし、政治がそれを許さず、経済学者もまた、リフレ派の勢いに押されて、賢明な判断を推奨することができなかったのである。
「ブダペスト通信」2023年6月29日