2020.07.10  私が出会った忘れ得ぬ人々(24)
        下保昭さん――冒険あるのみですよ
                  
横田 喬 (ジャーナリスト)

 一昨年に肺癌のため九十一歳で亡くなり、この八月七日が三回忌に当たる。水墨を主とする日本画家だが、言行一致の稀に見る潔い人だった。「画壇の腐敗」を糾弾して日展を飛び出し、独立。ヘリコプターを駆使して普賢岳噴火口の危険なスケッチに挑んだり、揚子江への波乱含みの船旅を試みたり。口癖の「冒険あるのみ」を地で行く画家人生を貫いた。

 私が下保さんを取材したのは今から三十一年前の一九八九(平成元)年のことだ。彼が四十年近く所属した日展を飛び出した翌年に当たる。三十五歳で審査員、四十三歳で評議員と、異例のスピードで地歩を築き、「次は芸術院会員」と声がかかった矢先である。翻意を促す先輩画家たちの再三の説得も、固い決意は変えられなかった。

 ――芸術院会員になる話が元。何十人もの偉い人の所を回って運動し、土下座してお願いしろ。これぞという大物には大枚の金を包め、とまで言う。そんな下らんことはやれん。会員になったからって、絵が上手くなる訳でなし。画壇なんて自民党と一緒。腐り切ってしもうてリクルート(注:八八年に発覚した政財界がらみの汚職事件を指す)並みですよ。

 痛烈だが、高ぶったり、衒ったりせず、嫌味がない。反骨は生得のものだ。締め付けられるのが何より嫌いで、旧制砺波中(富山県)に通った戦時中は、軍事教練を徹底的にサボった。それが祟って、学科や実技の成績はいいのに、志望する京都の絵画専門学校に入学できない羽目に。戦後の混乱で「日本画滅亡論」が囁かれる中、京都で画家人生をスタートする。

 画塾に一応身は置くが、月に一回の研究会に出席するだけで、戦火に疲弊した都市の貧民街を転々。親元からの仕送りは絵の具代と酒代で放埓に使い尽くす。二十三歳の時の五〇(昭和二十五)年、日展に『港が見える』を出品し、初入選。以後、『求職』『旧オランダ商館』『港』『河岸』が連続入選。四年後の日展で、『裏街』が待望の特選(白寿賞)となり、それから三年後に『火口原』で再び日展特選。生一本の性格で鼻っ柱が強く、権威を恐れない。画塾に通い出した二十代の頃、画壇の大立者・中村岳陵と派手にやり合い、名を上げた。

 ――私が日展に出した「失業者」という題の絵を「プロレタリア的な画題だから変えろ」と言う。私は「何だろうと、放っといてくれ」とやったから、さあ大変。でも、この一件で岳陵さんとは逆に仲良くなり、年に一回東京で会うと、向こうから抱き着いて来る程だった。

 下保(敬称略)は富山県の西部、散居村の景観とチューリップ球根栽培で知られる砺波市の旧地主の家に生まれた。祖父も、父も、自分の信念を通す人で、特に祖父は美術の方面に嗜みがあった。そんな影響もあって、小学生の頃から自然に絵筆を握った。「大きな自然に惹かれ、冬の寒い時分の空の色とか、光みたいなものとかを、よく描いたようです。」

 自然のエネルギーや風景に惹かれるのは、長じてからも同じ。冬が長くて色彩感に乏しい富山で育ったせいか、墨絵やモノクロが基調の岩絵の具の絵を好んで描く。黒々とした山影、草木の妖しいざわめき、台風の時の不気味な空の色が印象的な七六年日展出品画「颱」。自然のエネルギーが一種の妖気となって感銘を呼ぶ。「墨は一発勝負だから好きだ。一本の描線に生命のリズムが直に出るところがたまらない。」と彼は言う。

 八一年には、『近江八景・下保昭展』を催す。近江八景とは滋賀県・琵琶湖畔の美しい眺めを代表する八つの景勝地を指す。古くは和歌に詠まれる名勝(歌枕)で、近世では葛飾
北斎や安藤広重の浮世絵版画が名高い。近代には今村紫紅の意欲的な出世作が知られる。下保は舟を出し、ヘリコプターを駆使し、名勝をスケッチ。独自の境地を示す彩色画・水墨画で彼流の「近江八景」「琵琶湖十景」を制作。「近江八景」の連作は日本芸術大賞を受ける。この画業は、後年の「中国シリーズ」「日本の山水シリーズ」を準備する礎となった。

 五十代に入って、下保は中国の自然の景観に惹かれ、十年ほど毎年のように現地に渡っている。揚子江の波が描きたい一心で、重慶から武漢へ船旅をした時のこと。雄大な眺めの渓谷を夜中に通り過ぎたのに気づき、通訳を介して船長と強談判、一般客も乗った船を引き返させる荒業も演じた。
 ――おかげで、朝もやの渓谷の景観を百枚もスケッチできた。お返しにその晩、船の乗客・乗員二百何十人かに残らず酒を振る舞ってね。僕が黒田節を唸り、持参したブランデーのボトル半分を一気にあおったら、やんやの大喝采。日本の李白だなんて、おだてられました。

 八五年、「水墨桂林」「水墨黄山」の連作で芸術選奨文部大臣賞を受ける。
 京都に居ても、酒が入れば気分は高揚する。時には郷里の砺波地方が無性に恋しくなり、真夜中だろうが自家用車のハンドルを自ら握って走り出したくなる衝動を覚える。交差点が赤信号だろうが突っ走りかねない勢いだから、家族は心配でならない。運転させないよう免許証をどこかに隠されてしまった、という打ち明け話も楽し気に私に対し口にした。

 ――絵描きは冒険できなくなったら、終わり。自分のスタイルは絶えず壊していかなきゃ。
 が口ぐせ。九一(平成三)年には、長崎県普賢岳の大噴火後の火口のスケッチに出かける。ヘリを使い、マグマが躍動する最中、ぎりぎりまで接近。ヘリもろとも吸い込まれそうな危険を冒し、速写する。命がけのスケッチを基に「岩漿吐煙」など迫力ある連作を生む。
 「冒険あるのみ」の口ぐせそのまま、古希を迎えた九七年にも、ヘリを使う。郷里・富山県の黒部川上流や立山・剣岳などを上空から取材し、「黒部幻瀑」などの傑作を生む。墨の滲みなどが生み出す陰影を生かし、静謐でいて気迫のこもる深遠な水墨世界を現出する。
 
 九九(平成十一)年、富山市内に富山県水墨美術館が設立され、「下保昭作品室」が常設される。彼の作品百点が同県に寄贈されたのを契機に同美術館設立が決まった経緯があり、他に富岡鉄斎や横山大観・竹内栖鳳など近代の美術作家約三十人の作品も収蔵する。
 対面は一度きりだったが、下保さんは忘れ難い記憶を私の胸に刻んだ。「天衣無縫」そのままの懐かしいお人柄であり、機会があれば、ぜひ一献酌み交わしたい相手だった。
2020.07.08  小池百合子都知事の再選
          ―機会主義者との対決が選択肢―

半澤健市 (元金融機関勤務)

 20年7月5日に都知事選が終わった。午後8時の開票開始に当確が出た。
小池50%、宇都宮・山本合計で40%なら1割の変動で接戦になると予想していたが大甘であった。実際は小池60%(366万票)、宇都宮と山本計で24%に終わり小池圧勝である。

《小池の勝因はなにか》
 一つは、小池本人の選挙用「長所」である。
強烈な権力志向。男性操縦術。テレビ取扱術の熟知。
高い演技力。状況適応力。対立軸の隠蔽。日和見力。ファッション。
哲学・思想・信条を発信しない。基本理念は新自由主義+日本会議的偏狭。
一言でいえば「高性能な機会主義者」の強みである。

二つは、プラス要因としてのコロナ危機である。
安倍政権の状況掌握と鈍い反応に比べ上記の特長を駆使した演技が優越した。
例えば「東京アラート」赤色橋の提示である。電通的宣伝以外の何者でもない。しかし
これが受けたのである。

三つは、野党とメディアと有権者の壊滅である。
「日本共産党」と「れいわ新選組」が僅かに野党的。でもその内容は「真面目に資本主義を実行せよ」というもので、微温的な社民的政策である。米民主党左派よりも温和である。
メディアは政党の哲学を示さない。専ら政治家幹部の離合集散と平板な政策の陳列に終始している。私はこれを学芸会報道と呼んでいる。弁士が原稿を読むだけで討論がない。
有権者は75年間の「戦後民主主義」体験によって、自らの日常行動・投票行動が政治を動かす(山本太郎演説の核心)という実感を失った。欧米、香港、韓国のリベラルに劣ること数段である。

《見通しは如何》
 2021年年初の日米首脳は現在と異なる人物であろう。
それまでの間、小池はコロナ退治と五輪成功を目指すが、客観情勢は逆風だ。
特にコロナは「大恐慌」以来の打撃を世界資本主義に与えるだろうからである。
とはいえ、彼女は様々な仕掛けを駆使して都政から国政への道を上ろうとしよう。

我々の力は小さい。しかしグローバルな金融資本主義への対峙以外に選択肢は存在しないと私は考えている。(20/07/06)



          都知事選結果を見て
          このままでは前途がない野党勢力

岩垂 弘 (ジャーナリスト)

「小池勝利」は予想されていたことだから、とくに感慨はない。だが、野党勢力について言えば、敗北するにしても、もう少し健闘するのではないかと私は思っていた。
なぜなら、小池候補はこの4年間の都政にこれといった業績を残していない上に、選挙直前に、その経歴に疑問を呈する本が刊行されたからである。さらに、このところ、安倍政権への支持率が下降しつつあることに象徴されるように、小池候補が属する保守陣営に対する有権者の信頼がゆらぎ、その分、リベラル・左翼を中心とする野党勢力への期待が増すのでは、などと考えていたからだ。が、野党勢力は予想以上の惨敗ぶりであった。

なぜ、惨敗したのか。それについては、すでに論評され尽くされているから、ここで繰り返すのは野暮というものだろう。でも、すでに言い尽くされたことを、この際、あえて一言いっておきたい気持ちを抑えることができない。
政治の世界では、野党が与党に勝つためには、これだけは忘れてはならないという必須条件が2つあると思う。一つは、野党が別々に候補を立てるのではなく、統一候補を立てるということだ。「敵」が候補を一本化して迫ってくるというのに、野党の側がバラバラでは勝てっこない。こんなことは、いわば常識である。もう一つは、選挙戦を開始するのは早ければ早いほどいい、ということだ。これもまた常識だ。

しかし、今回の都知事選では、こうした常識が顧みられなかった。野党勢力が小池都政に代わる都知事を誕生させたいという意欲があったら、4年前の都知事選の直後から、次期都知事選に向けての準備をスタートさせるべきであった。具体的には、その時点で野党統一候補を決め、それを支える地盤固めと有権者への働きかけに全力を傾けるべきであったが、そんな気配はついにみられなかった。
結局、今回の知事選では、公示直前に統一候補の擁立に失敗し、都知事選に臨む野党陣営の陣立ては、立憲民主・共産・社民、国民民主、れいわ新選組という3頭立てになった。これでは、勝てっこなかった。こうなってしまったのには、野党第1党の立憲民主党の執行部の責任が大きい、と思えてならない。

私が強調したいのは。こうした野党陣営の「常識違反」が今回の都知事選に留まらないということだ。いや、終戦から75年間、野党陣営はずっとこうした「常識違反」を国政で繰り返して来たように思う。こうした状況から脱しない限り、おそらく野党陣営は政権を
取れないだろう。
 総選挙が近い。そこでは、こうした「常識違反」を繰り返さないで、と望む有権者が少なくないはずだ。
2020.07.05  「本日休載」

今日7月5日(日)は休載します。

リベラル21編集委員会

2020.07.02  私が出会った忘れ得ぬ人々(23)
          草野心平さん――みんなが庶民が僕の理想

横田 喬 (作家)

 「蛙の詩人」こと草野心平さんは、真に楽しく愉快な人だった。御齢ちょうど八十歳になる三十五年前、東京・東村山市のご自宅を訪問。その絶妙な話術に、腹を抱えて爆笑した。氏が二十代後半の昭和六(一九三一)年のこと、赤貧洗うがごとき貧乏暮らしの中、東京・麻布で屋台のヤキトリ屋を開業した当時の失敗談である。取材時の録音テープを起こし、その顛末を再現すると、

 ―― 一本一銭のヤキトリを八本食べた客が十銭玉を手渡し、「二銭はチップ、取っとけよ」
と背を向ける。尊大な態度にカッと頭に血が上り、二銭の釣りを手に客を追っかけ、「チップなんて要らん」「いいから、取っとけ」と押し問答に。あげくが取っ組み合いの大喧嘩になり、巡査が駆け付け三田署のブタ箱へ放り込まれ、一晩明かす羽目になった。――

 十分な収入に縁遠い詩人暮らしは、戦前~戦後と本当に大変だったらしい。件のヤキトリ屋開業の折も、野ざらしの古屋台の購入代五円がなかなか工面できず、同郷の経済学者・櫛田民蔵氏を拝み倒してようやく金を借り、どうにか店開きへこぎつける。

 ――客に出すイス代わりの木箱を親しい仲の高村光太郎さん(彫刻家・詩人)の家へ自転車でもらいに行った。その木箱を積み込んだ帰り道、これで一件落着と気が晴れ晴れし、前を行く他の自転車を追い越したくなった。追い抜きに熱中し、九十九人まで抜いたところで勢い余り、下り坂の角の交番を目がけ自転車ごとまっしぐらに突っ込んでしまう。ガシャーンと内部をめちゃめちゃに壊してしまい、大目玉を食った。――

 釣り銭が元の喧嘩沙汰といい、自転車での追い抜き騒動といい、もう稚気丸出し。この劇烈珍妙な告白に接し、私は一遍にこの人が好きになった。そして、その記憶力にも舌を巻いた。随分古い話なのに、固有名詞や金額なんかがすらすら出てくる。話しよう次第で暗くなりかねない貧窮時代の回想が、人徳だろうかカラッと明るく響くのにも感心した。

 すっかり気持ちがほぐれ、かねてからの疑問である「蛙の詩人」のいわれ――なぜ、蛙が主役なのか、という素朴な質問をぶつけた。説明はいささか長く、
 ――日本を外から眺めてみよう、と十七歳で中国・広東の嶺南大へ入学した。大正十(一九二一)年のことで、(軍国主義日本の圧迫に対し)中国の学生たちは排日運動に立ち上がっていた。運動への共感と祖国への郷愁・・・。たまたま、大学のそばの沼に棲む食用蛙が夏、騒がしく猛烈に鳴く。子どものころ、郷里の田んぼでよく耳にした殿様蛙の合唱が思い浮かんだ。蛙同士、抱き合ってるイメージがふっと湧いた。

 日本に帰国後、二十代半ばで著した処女詩集『第百階級』は、人間が第一階級なら蛙は動物界の百番目位という意味。その蛙を「どぶ臭いプロレタリア」「明朗なアナキスト」と讃え、蛙のための一大宇宙を創り出す。
 ――蛙の憲法や政治は、みんなで歌うこと。総理大臣も要らん、みんなが庶民。今でも僕の理想だな。

 上下関係がよほど嫌いらしく、長年携わっている詩誌『歴程』との関わりも、「主宰ではなく、同人だから」とわざわざ念を押す。「若い人は先輩だ」と彼一流の警句を吐き、
 ――自分より例えば三十歳も齢若い人は、現代の先鋭・混沌の歴史をもろに背負っているから、その分、先輩。その先輩に負けないものを書こうとすると大変だ。日本の俳句や短歌が弱いのは、主宰者がいるから。
 と、たたみかける。

 私が「詩人の資質とは何でしょう?」と尋ねると、
 ――内にモンスターのようなものを持っている人。
 と即座に言い切った。波長が合ったのか、草野さんは何でも率直に話してくれた。同居するパートナーと思しき中年女性は、「今日は初めて聞く話が多い」と漏らす。帰りしなに、「晩酌はおやりですか?」と尋ねてみた。「毎晩、五合です。つまみは十品以上ないと、おかんむり」と件の女性。さすがは、と舌を巻いた。

 草野(敬称略)は一九○三(明治三十六)年、福島県いわき地方の旧上小川村(現いわき市)の地主の家に五人きょうだいの次男として生まれた。両親や兄姉らが上京した後、祖父母の許で育つ。生来癇が強く、幼少のころはよく引きつけを起こし人に噛みついたり、鉛筆や教科書を噛みちぎるなど奇行が目立った、という。

 進学した県立旧制磐城中学を四年で中退~上京して慶応普通部に一時学んだ後、語学学校で英語と中国語を学び、二〇年に中国へ渡る。入学した広州・嶺南大学は米国系のミッション・スクールで、英米人の教授や中国人学生に混じるただ一人の日本人学生として国際感覚と郷土感覚を同時に培う。

 在学中、中国革命の指導者・孫文やインドのノーベル賞詩人・タゴールらと対面し、感化を受ける。中国人の学友らと詩の研究会をこしらえ、詩作に励む。二十歳の時には短期間に「機関銃の射撃さながら」二百十編も書き上げ、「われながらあきれる」と『わが青春の記』に記している。が、排日運動激化のあおりで身辺に危険が及びかけ、翌々年やむなく帰国する。

 東京で詩人仲間から高村光太郎を紹介され、知遇を得る。二八(昭和三)年、処女詩集『第百階級』出版。広東時代に創刊した詩誌『銅鑼』の同人に岩手県花巻在住の宮沢賢治を勧誘する。詩誌の主唱者として彼は才能発掘には天才的で、その典型例が賢治だった。知人から贈られた賢治の詩集『春と修羅』を一読し、その才能に驚嘆。「第一に感ずるのは透明な音楽と色彩であり、語彙の豊富。彼は原始の眼で自然を見た」「詩人の名誉は対象に命を与える最後の言葉を最初に発見すること」と激賞している。

 四〇年、「対日和平」を掲げる汪兆銘を主席とする傀儡政権「南京政府」が成立する。同政府宣伝部長に就いた嶺南大同窓の親友・林伯生の手引きで、彼は宣伝部顧問の職を引き受け、南京へ渡る。以後敗戦まで五年余り南京に滞在し、宣伝活動を手伝った。敗戦時には当然ながら、自らの戦争責任に対する深刻な反省~悔悟を迫られたはずだ。

 四六年に帰国。五〇年、『定本 蛙』など一連の蛙の詩作によって第一回読売文学賞を受ける。二年後、居酒屋「火の車」を新宿に開店。詩を作る傍ら、読売新聞夕刊に汪兆銘をモデルにした小説『運命の人』を連載する。創作活動で目を引くのは、高年にさしかかってからの活発化だ。七四年からは年次詩集を十二冊も刊行。他界する前々年まで現役作家として作品を多産し、健在ぶりを示した。文化功労者推戴・文化勲章受章。

 一連の蛙の詩の中で、私が一番惹かれるのは「ヤマカガシの腹の中から仲間に告げるゲリゲの言葉」だ。蛙のゲリゲが仲間の制止を振り切って蛇の尻尾に食らいつく。が、当然ながら、返り討ちに遭って呑み込まれる。蛇の食道をギリギリ下っていく途中で、仲間たちに告げる最後の別れの言葉。

 ――(前略)こいつは木にまきついておれを圧しつぶすのだ/そしたらおれはグチヤグチヤになるのだ/フンそいつが何だ/滅多に死ぬか虎のふんどし/死んだら死んだで生きてゆくんだ/おれのガイストでこいつの体を爆破するのだ/おれの死際に君たちの万歳コーラスがきこえるやうに/ドシドシガンガン唄つてくれ(後略)

 「死んだら死んだで生きてゆくんだ」がなんとも奇抜で、この人ならではのセリフ。詩人・大岡信さんは草野さんの死後まもなく表した「弔辞」の中で、「ゲリゲの末期のせりふは、死をより大いなる生への入り口とする草野さんの思想をいち早くはっきり披瀝していた」とし、「その作品の中には何かしら宇宙感覚的な場があって、そこでは死の沈黙さへ不思議な歓びの世界に接してゐる」と述べている。全く同感だ。
2020.06.28  「本日休載」
今日6月28日(日)は休載します。

リベラル21編集委員会

2020.06.26  私が出会った忘れ得ぬ人々(22)
          荻村伊智朗さん――国際平和に少しでも尽くせれば光栄

横田 喬 (ジャーナリスト)

 新型コロナ禍でくさくさしている。気分転換に、スポーツを話題にスカッとしたい。荻村伊智朗さんは現役当時は卓球の世界チャンピオンに度々輝き、先の大戦敗戦で打ち沈む日本社会に光明をもたらした人だ。引退後はスポーツの指導者として平和外交の推進に尽くす。なかんずく、「米中ピンポン外交」~「米中正常化」に尽力した陰の功労者で、ノーベル平和賞ものと言ってもいい。

 私は『朝日新聞』記者当時の一九九三(平成五)年に氏を取材し、次のような記事(要旨)を記している。
 ――スポーツ界有数の国際派として知られる。国際卓球連盟会長は現在三期目で、外国産スポーツの国際競技連盟のトップを極めたのは日本人初の榮譽。七一年の世界選手権では中国の国際舞台復帰に尽力し、米中国交回復のきっかけをつくった。中年以上のスポーツ・ファンには「世界チャンピオンの荻村」として忘れられない名前でもある。

 「私自身の国際舞台は、初出場で優勝した五四年の英国での世界選手権が最初。戦争の記憶が尾を引き対日感情が悪く、ひどい嫌がらせを受けた。スマッシュをしようとすると観客が号砲用のピストルをドンとぶっ放す。でも、めげずに勝ち抜いて優勝したら、万雷の拍手。翌々年に行ったら、もうファンになっていて、ひいきしてくれる。この体験は私の人生のために本当によかった」

 「世界中には今でも何億という人々が日本人に悪感情を抱いている。金にものをいわせて現地の人々の心を踏みにじったりしてるから。早い話、国際連盟の会長が日本人では恥ずかしいという意識です。幸い、卓球にはモンタギュー初代会長以来、世界平和に貢献しようという伝統がある。スポーツを通じて国際平和に少しでも尽くせれば光栄という気持ちです」

 都立西高~日大芸術学部卒。高校当時から卓球を始め、強くなるために独特の工夫をこらしたハードトレーニングを己に課した。その甲斐があり、日大時代の五三年に全日本硬式選手権優勝。「で、世界選手権出場となったが、協会に金がなく出場費用八十万円は自弁。うちは母子家庭でそんな大金はない。さあ、という時、通ってた吉祥寺の卓球クラブの面々が三鷹や吉祥寺などの駅前で十円募金を始めてくれ、費用のめどがついた。そんな支えがあってこその初出場~優勝でした」。
想像以上にたくましい体格と豊かな話の内容にただただ圧倒された。――

 卓球は三㍍ほどの距離で双方が打ち合い、強いスマッシュの打球だと○・二五~○・三五秒で飛んで来る。体の反応には○・四五秒ほどを要し、打球の方向や回転を予め予測していないと対応できない。卓球選手は究極の反射神経と瞬発力を要求され、勝負を左右するのは先の先そのまた先の展開を読む心理戦と言っていい。「卓球とは、百㍍競走をしながら、ブリッジ(トランプ競技の一種)をするようなもの」「大変な身体的能力と同時進行形で最高の知的能力を要求されるスポーツ」と荻村(敬称略)は言う。

 基礎体力を付けようと井の頭公園で十㌔ほど走ったり、足腰のバネを鍛えるため四十㌔のバーベルを担いだままウサギ跳びを一㌔以上も試みたりした。独特の練習法として、卓球台の隅に万年筆のキャップを置き、バックハンドからの長いサーブでキャップを打ち払う練習を度々重ねる。初めは全くダメだったが、段々に十回に一回~五回に一回~十発十中と進歩していき、彼特有の強力な武器となっていく。

 日大在学中と社会人になって以降との延べ八年間で、世界選手権大会で金メダルを都合十二個も獲得し、各種国際トーナメントでの優勝は百回を超える。とりわけ五四年のロンドン大会では、男子シングルスと同ダブルスに同団体と金メダルを三個も獲得。優勝の立役者・荻村は、太平洋戦争に敗れて打ち沈む日本社会に世界的快挙をもたらした輝かしい存在として、水泳の古橋広之進、ノーベル賞の湯川秀樹と並ぶ国民的ヒーローと一躍化す。

 このロンドン大会で彼は英国人一般の日本人に対する先の大戦がらみの反感の根強さを思い知らされる。が、めげずに勝ち進んで世界王者の座に就いたとたん、ムードは一変する。荻村は言う。
 ――スポーツ外交すなわち民間外交の果たす役割の大きさを身に沁みて感じた。卓球を続けることに、もう一つの生き甲斐を覚えるようになった。

 この後、六一(昭和三六)年の世界選手権・北京大会を機に、卓球界は中国の時代に移る。が、彼は大会後の記者会見で、中国チームのマナーの悪さ(試合途中に勝手にプレーを中断、ベンチに返ってコーチと相談したりする行為)を指摘。「世界チャンピオンとしての自覚を持ってほしい」と、持ち前の率直さであえて苦言を呈する。

 翌年、彼は周恩来首相に直々招かれ、中国を訪問する。周は無類の卓球好きで知られ、内戦当時は延安の洞窟に卓球台を持ち込んで同好の毛沢東主席とラリーを交わした、と言われる。周は「中国は未だ貧しいが、卓球台位なら自給自足できる。あなたの経験と技を生かし、卓球の魅力を大衆に伝えてほしい」と口説く。快諾した荻村は以後度々訪中し、地方の農村部などを精力的に巡回~卓球の普及に協力した。

 その中国では六五年、かの「文革」による社会的大混乱が生ずる。卓球界でも元世界チャンピオンが自殺に追い込まれたりし、世界大会にも欠席が続く異常事態に陥る。七一(昭和四六)年に日本で開く名古屋大会を前に、荻村は周恩来との個人的パイプを生かし、中国チームの大会復帰を秘かに働きかけようと決意する。

 彼は日中文化交流協会の訪中代表団の一員として北京に乗り込み、「文革」後初めて周と再会する。「卓球というスポーツを通じて国際社会への扉を開くのが、中国にとって最良の方法。出場すれば、欧米など世界中の国々との交流回復が期待できる」と言葉を尽くして大会復帰を働きかけた。受け入れ側の日本では当時の日本卓球協会会長・後藤鉀二氏が中国招致を決断。アジア卓球連盟からの台湾追放という荒療治と引き換えに「中共」(当時の呼称)参加を実現する。

 当の名古屋大会は、注目の中国チームが六年間のブランクを感じさせぬ活躍ぶりを見せる。男女とも団体決勝は日本対中国のカードとなり、男子は中国、女子は日本が優勝した。中国の復活劇は卓球関係者を驚嘆させるが、世界中をさらに驚かすニュースが生まれる。
 中国と米国の男子選手同士のふとした接触~記念品の交換が始まりで、チームぐるみの友情が芽生える。米国の選手団は大会後、羽田~香港ルートで中国入りして歓待を受け、マスコミが世界中に大きく報道する。このピンポン外交はキッシンジャー大統領補佐官の訪中を誘発~中国の国連加盟~歴史的な米中国交正常化へと発展していく。周恩来は「小さな白球が地球を動かした」とコメントした。

 荻村は七三年にITTF(国際卓球連盟)の理事に選出され、世界各地への卓球の普及活動に全力を注ぐ。八七年、ITTF会長選挙に中国などの理事らに推されて立候補。白人の二代目現職を六十五票対三十九票の大差で破り、第三代会長に就く。非欧米系の人間が国際組織のトップに就くのは当時珍しく、話題を呼んだ。

 彼は母の美千枝さんの「将来は国際活動に尽くしてほしい」という意向を受け、高田馬場にある大学生向けの通訳養成学校へ中学生の頃に通学している。元外交官の講師から基礎をしっかり学び、英会話に堪能だった。おまけに生来雄弁で押しが強く、「日本人らしくない」という定評があった。

 会長就任後、彼は九か月の間にアジアや東アフリカ・中東・南アジアなど六十か国・地域の卓球協会を歴訪。ITTF会長としては初めてラテン・アメリカの国々も訪ねた。ITTF関係者は二~三時間の仮眠をとって仕事に奔走する姿に「まるでナポレオンのよう」と驚嘆した。彼の口癖はこうだった。
 ――歴史は守るもんじゃなく、作るもの。自分が地球の大統領になったつもりで、大きな視点から考えるんだ。
 七年後の九四(平成六)年、肺癌のため六十二歳で他界するが、彼の真価をよく知る人たちからは「ノーベル平和賞を取ってもおかしくない存在だった」と惜しむ声が上がった。
2020.06.21  「本日休載」
 
今日6月21日(日)は休載します。

リベラル21編集委員会

2020.06.18  沖縄県民の思いを発信し続けて
          新聞社初の女性編集局長・由井晶子さんを偲ぶ

岩垂 弘 (ジャーナリスト)

 6月23日は沖縄県の「慰霊の日」だ。沖縄戦で日本軍の組織的戦闘が1945年6月23日に終結したのにちなんで制定された沖縄県独自の公休日で、この日は県主催の追悼式が開かれ、沖縄戦で犠牲になった人たちに祈りを捧げる。毎年、この日が近づくと、私は長年にわたる沖縄取材で出会った人たちに思いをはせるが、今年は、4月15日に86歳で亡くなったジャーナリスト、由井晶子さんのことがひときわ脳裏を去来する。

 由井さんは那覇市の生まれ。戦後の1951年に早稲田大学政治経済学部新聞学科に入学、そこを55年に卒業すると沖縄タイムス社(本社・那覇市)の東京支社に入った。81年から83年までの本社勤務を除いて90年まで東京在勤。91年に取締役に就任、同年8月から92年12月まで本社編集局長を務めた。戦後の全国の新聞社で初めての女性編集局長だった。94年に取締役を退任し論説顧問に就任したが、97年に退任した。その後はフリーのジャーナリスト。
 そのかたわら、那覇市などが共催するジェンダーシンポジウム「うないフェスティバル」実行委員長、ハンセン病問題ネットワーク沖縄代表、琉球大学非常勤講師などを務めた。

 4月16日付沖縄タイムスに由井さんへの追悼文を寄せた仲程昌德・元琉球大教授は、その中で「女性や人権、基地を巡る問題……。幅広い活動歴が示すように、そこに彼女がいない場所はないというほど、徹底して現場に足を運び、自分の目で物事を捉えて発信する人だった」と書いている。
 要するに、由井さんはさまざまな分野の報道に携わったが、とくに力を注いだのは女性の権利、人権、米軍基地に関する問題だったということだろう。

 私が由井さんに初めて会ったのは、今から66年前の1954年のことだ。この年、私は早稲田大学政治経済学部に入学、同学部学生が集まる社会科学系のサークルに入会したが、そこにいた上級生の1人が由井さんだった(その時は富原姓を名乗っていた。その後、結婚して由井姓となる)。当時4年生で、沖縄からきていた「日本留学生」だった。当時、沖縄は米国の施政権下にあり、いわば“外国”だったから、沖縄からの学生は留学生扱いだったのだ。
 由井さんは沖縄タイムス東京支社に就職、私も少し遅れて全国紙の記者になったから、以来、報道関係の先輩である由井さんの仕事を遠くから見続けてきたわけである。
 由井さんの仕事で最も印象に残っているのは、やはり米軍普天間飛行場(宜野湾市)の名護市辺野古への移設問題に関する報道である。

 この問題の発端は、95年の米兵による少女暴行事件だ。これを機に普天間飛行場の返還を求める運動が盛りあがる。このため、日米両国政府によって「沖縄に関する特別行動委員会」(SACO)が設置される。96年には橋本首相とモンデール駐日米大使が普天間飛行場の全面返還を発表。その直後、SACOは「5年から7年以内の返還を目指す」「移設には十分な代替施設が必要」「代替施設として海上ヘリポートへの移設を検討」との中間報告を発表した。
 同年暮れ、SACOは最終報告を発表したが、そこには「海上ヘリポートの建設地は沖縄本島東海岸沖」とあり、建設地はあいまいな表現となっていた。が、97年、名護市辺野古のキャンプ・シュワブ地域が移設候補地とされた。
 これに対し、名護市で住民投票が行われ、辺野古移設反対が過半数を占めた。しかし、名護市の比嘉鉄也市長は海上ヘリ基地の受け入れと辞職を表明。99年には、稲嶺恵一知事(革新系の大田昌秀知事を破って当選した自民党推薦の知事)が新基地建設は辺野古沿岸地域と発表、岸本建男名護市長も新基地建設の受け入れを表明した。
 2004年、普天間飛行場近くの沖縄国際大学に米軍の大型ヘリが墜落して炎上、同飛行場の返還を求める県民の声は一段と高まった。このため、日米両国政府は2006年、移設先を辺野古沖とすることで合意する。
 ところが、2009年、民主、社民、国民新党3党連立の鳩山内閣が成立、鳩山首相が「移設先は最低でも県外」と宣言したことから、問題は新展開をみせる。が、鳩山内閣は辺野古に代わる移設先を見つけることができず、2010年、米国政府との間で「辺野古への移設」を再確認せざるを得なかった。混乱の責任をとって鳩山内閣は総辞職、後継の菅内閣も「辺野古移設」の日米合意の順守を表明。その後の安倍内閣は辺野古移設を推進し、ついに建設工事に着手する。
    
 こうした一連の動きを、由井さんは「連載 沖縄」と題して1997年から十数年間にわたって労働運動専門誌『労働情報』(発行所は東京)に書き続けた。この間、2011年には、その一部が単行本にまとめられ、『沖縄――アリは象に挑む』とのタイトルで七ツ森書館から刊行された。
 本書を手に取ると、米国政府、日本政府、政党、沖縄県知事、県議会、県民、名護市、名護市議会、名護市民が普天間飛行場移設問題にどう向き合い、行動してきたかがよく分かる。現地に足を運んで書いたものだけに、その記述は具体的で、説得力をもつ。
 
 本書には『労働情報』に載った59本の文章が収められているが、その中に次のようなタイトルのついた文章がある。
  「基地負担軽減の要求が全国に届かず」
  「公平、平等求める沖縄に『ヤマト不信』が募る」
  「ヤマトンチュの鈍さに『本土』不信が広がる」
  「ヤマト」とは本土、「ヤマトンチュ」とは本土の人を指す。

 私には、由井さんが連載を通じて訴えたかったのは、結局、これら3本のタイトルに集約されているのではないか、と思えてならない。
 沖縄県の面積は日本の国土のわずか0・6%に過ぎない。そこに在日米軍基地の約70%が集中している。これに伴う被害が後を絶たない。だから、由井さんによれば、沖縄県民は本土並みの基地負担とするよう、つまり基地負担の軽減を求めている、というのだ。なぜなら、日本国憲法第14条には「すべて国民は、法の下に平等であって、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない」とあるからである。
 なのに、政府も本土の人も見て見ぬふり。そこで、沖縄県民は政府と本土の人に不信を募らせているというのだ。由井さんは書く。
 「沖縄では、福島第一原発事故のすさまじい被害を沖縄の基地と重ねて考えないわけにはいかない。最も貧しいところに、危険でまた地球に害を及ぼすもの、最も嫌われるものを、経済振興というアメをつけて押し付ける。地元はアメによって潤い、それに依存せざるをえず、将来に負荷がかかり自立が困難になる。その構造は、基地も原発も同じだ」

 こうした沖縄差別に対して、沖縄県民は闘いを続けざるをえない。本書のタイトルの「アリ」は沖縄県民、「象」は日米両国と本土の人を指す、と私はみる。

 由井さんの基地問題へのこだわりは、一つには、少女時代の体験が強く影響しているのではないか、というのが私の推測だ。由井さんをよく知る人の話では、由井さんは沖縄戦の時は小学生であったが、旧制一中(現首里高校)の教員をしていた父親が、由井さんら家族を九州に疎開させたため、沖縄戦の直接の戦火は免れた。九州では転々とする生活だったという。父親は沖縄戦で重傷を負い、米軍の捕虜となった。由井さんは、戦争の悲惨さを身をもって体験した世代だったのだ。
 こうした経験から、由井さんは平和こそ最も大切なものとずっと考えていたのではないか。そうした思いから、基地は戦争につながるものとして許容できなかったのではないか。
2020.06.14  「本日休載」
 
今日6月14日(日)は休載します。

リベラル21編集委員会

2020.06.12  新型コロナウイルスに世界で最も安全な国はスイス、日本は5位
        米国の経済専門誌フォーブス報道の調査報告

坂井定雄 (龍谷大学名誉教授)

世界経済の調査報告では、世界でもっとも信頼されている一つ、米国の経済専門誌フォーブスが今月上旬に発表した、COVID19に関する250ページもの最近時点の大規模な世界調査報告。同誌によると、調査は130項目の数量的、質的項目について、全体で11,400点のデータ点数を採点、国別安全ランキングをつけた。
その結果、100ヵ国の順位で上位10か国はー
1位スイス、2位ドイツ、3位イスラエル、4位シンガポール、5位日本、6位オーストリア、7位中国、8位オーストラリア、9位ニュ-ジーランド、10位韓国。
米国は58位、ロシアは61位。
さらに下位の国々はー
96位ペルー、97位インドネシア、98位カンボジア、99位ラオス。100位バハマ。
さらに点数の低い国は、アフリカのサハラ以南の国々、南米、一部の中東と南アジアの島嶼諸国。
私なりにこの順位の理由を考えてみるとースイスの1位は、徹底したきれい好きで几帳面な国民性。ドイツの2位は、3月24日の「リベラル21」で「第2次大戦以来の、市民の団結が重要な事態」と題して紹介したメルケル首相の演説で示された、首相の決意と指導力、それに対する国民の信頼の成果だと思う。日本の5位はうれしい。PCR検査態勢が先進国の中では際立って不備だったが、多くの国民がマスクの着用、外出制限を忠実に実行、医師、医学専門家の水準の高さのおかげだった、と思う。ただし、まだ事態は進行中で、逆戻りも警戒しなければなるまい。(終わり)