2017.07.23  「本日休載」
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2017.07.14 モスル解放を祝う!住民復帰と再建は歴史的大事業
ISはバグダディの生死にかかわらず衰退していく

坂井定雄 (龍谷大学名誉教授)

 イラク第2の都市モスルが、偏狭・残虐なイスラム過激派「イスラム国(IS)」の支配からついに解放された。着の身着のままの女性たち、子供たち、ひげぼうぼうで、中には銃を掲げている市民たちが歓喜する姿を映像で見ながら、「よく生きていたね」「大変だね」と心から思った。
 本欄でも、2014年6月のISによるモスル占領以来、同市の過酷な支配と、シリア国境に近い町シンジャルでの、少数宗教ヤジディ教徒の虐殺、女性の性奴隷化と人身売買について、何回も書いてきた。約200万人の市民が住んでいた、この歴史と文化豊かなイラク第2の都市のIS支配下で、数千人の市民が殺され、約92万人(国連機関統計)が脱出して難民生活を送っている。そして、最後の攻防戦で、市の大半とくにISが多数の住民を人質にしてたてこもった市西部の旧市街は、激しい戦闘と米軍の爆撃でひどく破壊され、がれきの山になった。
 2014年6月、ISの指導者バグダディがモスルの歴史あるモスクで宣言した「イスラム・カリフ(首長)国」は、イラクではモスルを失い、支配地域は中北部の石油都市キルクークに近い一部地域とシリア国境に近い町数か所とその周辺だけ。シリアではISの“首都”だったラッカ市はクルド人主体の反IS・反政府のシリア民主軍に包囲され、支配下にあるのは北部・東部の小都市数カ所を含む砂漠地帯。最後の戦場はイラク・シリア国境地域になりそうだが、イラクでも、シリアでもISからの脱走が増えている。脱走するIS兵士たちのうち、チュニジア人らアラブ人は難民の中に潜り込むこともできるが、欧州諸国出身者らは移民出身であってもすぐ見分けられるという。
 イラク、シリアでのIS壊滅は遠くないとしても、ISはそれで消滅するのではない。ISは、イスラム教徒が多数を占める国―アフガニスタンやシナイ半島(エジプト)、内戦が続くリビア、イエメンなどで、さらにはフィリピンのイスラム教徒にまで手を伸ばし、「イスラム・カリフ国」の拡大に努めてきた。しかし、現地のイスラム過激派との協調や合体はどこでもあまり進んでいない。イラク、シリアとは事情がさまざまに違うのだ。
 イラク、シリアはイスラム教のカリフ制国家の長い歴史を経験してきた。第1次大戦でドイツとともに敗北したカリフ制オスマン・トルコは消滅。その後の英仏支配から両国は独立、やがてどちらも民族主義のバース党が権力を握った。イラクでは少数宗派スンニ派のフセインによる独裁支配がつづいたが、2003年、ブッシュ政権下の米国による「大量破壊兵器」疑惑を掲げたイラク戦争で壊滅。2005年の主権回復に伴う選挙で多数宗派のシーア派主導の政権となり、米軍の治安支援の下、シーア派優遇の政治が始まった。
 これに対し、地下に潜行した旧フセイン政権の軍と支配政党バース党の残存勢力が強力な反米武装闘争を継続。一方で故ビンラディンが組織したアルカイダとつながるイラクの反米イスラム過激派組織も武装闘争を継続。米軍の鎮圧作戦の拡大の中で06年、反米イスラム過激派組織が軍・バース党の残党勢力の一部を吸収して、最高指導者バグダディが現ISの前身組織「イラク・イスラム国」を宣言。2011年の「アラブの春」へのアサド政権の弾圧で内戦状態になったシリアに翌12年、侵攻、組織名を「イスラム国」に改称。反政府勢力の弾圧に全力を注ぐアサド政権軍が手薄となった北東部の油田地帯、イラク国境地域を占領した。14年6月にはイラクに逆侵攻してモスルを占領、バグダディをカリフ(首長)とする政教一致の「イスラム・カリフ国」の樹立を宣言したのだ。
 このようにイラクとシリアで、ISは生まれ、成長し、支配地域を拡げ、「イスラム・カリフ国」を宣言するまでになったのであり、他の国、地域とはイスラム教徒の人口が多くても、条件が異なっている。ISの定着、拡大は容易ではない。イラク、シリアでの縮小で、ISの本拠地からの支援も縮小している。他の国でも同じ道を歩むだろう。
 バグダディがすでに死亡しているとの、情報が多くなった。モスルを占領した直後、同市を象徴するモスクで「カリフ国」設立を世界に向かって宣言したバグダディが、その後、「カリフ」なら当然現れるべき機会にも全く姿を現さず、モスル攻防戦の最後には、ついにISにとって最も重要なはずの歴史的モスクまで、自ら爆破してしまった。いつ死亡したのかは不明だが、後継カリフを名乗れるような宗教的権威を持つ指導者が全くいなくなったことだけは確かだ。ISは衰退していくに違いない。

2017.07.09 「本日休載」
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2017.06.18  本日休載
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2017.06.13  明仁天皇の退位をめぐって

小川 洋(大学非常勤教師)

 6月9日、明仁天皇の生前退位を可能とする特例法が国会で成立した。天皇が退位の意向を示されたのは昨年8月であったが、皇室典範は生前退位を想定していなかったため、官邸や国会で議論が続けられてきた。この間、あまり表だって議論されることのなかった天皇のあり方をめぐって、さまざまな見解が表面化することになった。本稿では「生前退位」、「男系継承」、「天皇の役割」の三点について、歴史を振り返りながら論じたい。

生前退位
 結論から言えば、生前退位は歴史的に見て、皇室の伝統に近いものである。よく知られているように、平安後期には天皇は早くに子に譲位して退位し、院政を敷いて実権を握った。教科書的には院政時代と呼ばれるが、この形式は、断続的に江戸時代まで続く。江戸時代も5代にわたって院政が敷かれ、生前退位は繰り返された。

 ただ応仁の乱が始まった直後の1470年の後花園上皇の死去から1629年の後水尾天皇の院政開始までの150年間ほどは途絶えた。理由は簡単で、この時期には皇室が極端な窮乏に陥っていたからである。戦国大名が跋扈するなかで、天皇ばかりではなく公家の領地も在地勢力に奪われ年貢の納入も滞るようになる。

 皇室の財政窮乏がもっとも厳しかったのは、後柏原天皇(在位1500-1526)と、その後任の後奈良天皇(在位1526-1557)の時代である。後柏原天皇は、先帝の死後、即位の儀式を実施するまで、じつに21年間待たねばならなかった。室町幕府が経費の負担を嫌ったからである。時の管領が「大がかりな即位礼など無駄なことだ」と主張したと伝えられる。待ったなしの葬儀さえ滞り、後柏原天皇の先帝であった御土御門天皇の遺体は40日余りも放置されたという記録さえある。
 後奈良天皇も即位礼の実施まで10年かかっている。京都では後奈良天皇のアルバイトが微笑ましい話として言い伝えられている。裕福な市民が、多少の金銭を付けた短冊を御所の壁に掛けておくと、後日、短冊に天皇の和歌が認められて返されたという。今でも京都などの古書店で、その宸筆を見かけることがある。

 したがって、戦国期の混乱が収拾に向かうと皇室財政も一息つき、生前退位と院政が復活した。しかし幕府が初めに認めた皇室領は5万石程度と、中小大名並だったため、宮家は3家のみとなり、宮家に残った子女以外の多くは僧尼として京都などの寺院(門跡寺院)に入れられていた。皇位の安定的継続のために宮家の増設が必要と考えたのが、6,7代将軍の下で幕政を担当した新井白石である。朝廷の財政支援を拡大し、閑院宮家が成立した。

 本論の話題からは多少外れるが、この「対策」がその後、皇統断絶の危機を救うことになる。1779年に後桃園天皇が21歳の若さで急逝し、子どもは皇女一人のみという事態となった。そのため、崩御の事実をしばらく隠し、当時、宮家にあって唯一の男子であった閑院宮家の9歳だった師仁を天皇の養子として即位させた。光格天皇である。新参の分家からの即位だったためか、成人となった天皇は皇室の伝統の研究と行事の復活に熱心だった。御所の建物も、平安期の記録に基づいて幕府の資金で再現した(ただし現在の建造物は幕末のものである)。なお光格天皇の事績については藤田覚『幕末の天皇』(講談社)に詳しい。また光格天皇は院政を敷き、現時点では歴史上、最後の上皇となっている。

 では、なぜ明治憲法体制を整えた伊藤博文たちは、皇室の伝統ともいえる多くの前例を無視して生前退位を認めなかったのか。その理由は記録上も明らかである。生前の譲位を可能とすれば院政が復活し、天皇の政治的な「使い勝手が悪くなる」ということである。そもそも明治の元勲たちには、天皇を神格化して尊重する気持ちなどあまりなかったことは、よく知られている。したがって明治政府によって作り変えられた天皇制は「伝統」を無視したものと言える。

 戦後の憲法制定の際にも皇室典範を改正して生前退位を盛り込むことは可能だったはずである。しかし当時は、宮家に複数の男子がいて、皇室の断絶の可能性を危惧する声は少なく、典範の抜本的な改正の動きは鈍かった。また戦後の国家財政窮乏のなか、47年には11宮家が廃絶され皇籍を離脱している。
 生前退位の制度は、明治政府の政治的な理由によって否定された伝統の復活ともいえる。「伝統」を語ることの好きな「保守系」の人々の間には、生前退位に拒否反応を示す人もいるようだが、今一度、歴史を振り返って考え直すべきである。

男系の問題
 これも結論から言えば、男子による万世一系という物語は、古代国家形成過程に国史が編纂された際に「作られた」もので、日本の伝統とは言い難い。712年の古事記、720年の日本書紀編纂に際して、天皇の系図が示されたが、その際、モデルとした中国(唐)に倣って男系で示す必要があった。古代史の研究者の大半は天武天皇(在位673年-686年)より前の天皇の系図に信頼性があるとは考えていない。日本書紀にも推古天皇、皇極天皇と持統天皇の3名の女性天皇が記載されている。系図上では女系で皇位が継承されていないが、中国と異なって女系社会の要素の強かった日本の古代社会では、女系の継承があったと考える方が自然であろう。

 女性天皇を回避したがっている一部の保守派の態度の根には、『日本会議の研究』で知られるようになった菅野完が指摘しているように、女性蔑視の観念を強固に保持している中高年男性たちのメンタリティがある。子どもの頃から父権主義的な意識で生きて、高度経済成長期の成功体験をもつ中高年男性たちである。彼らにしてみれば、「女どもをのさばらせたくない」という感情が強い。理屈ではなく感情であるから、議論によって意見の相違を乗り越えることは難しい。理屈を言わせれば、「Y染色体を尊重してきたのだ」という、それこそ訳の分からない議論が出てくるのは、彼らの議論が感情に根差していることの証左といえよう。

 男系維持を主張する人たちが代替案として主張するのは、旧宮家の復活である。しかし、すでに廃絶からほぼ3世代目である。一般市民としての生活をしている家族である。朝のゴミ出しで挨拶していたような近所の人が突然に天皇家の後継ぎとなっても、逆に皇室の権威を傷つけるだけだろう。現皇室の若い女性たちは、明仁天皇を始めする皇族の薫陶を受けながら、皇室の伝統を体現する方々として成長されている。皇室の存続は絶対に必要だと考える国民は女性宮家の創設を支持するべきである。

天皇の役割
 5月21日の毎日新聞はトップ記事で、退位を検討する有識者会議のなかで「天皇は祈ってさえいればよい」と、陛下が国民の中に出てこられることに批判的な主張をする委員の発言があり、天皇がそのことに不快感を示されたと報じた。
 そのような「有識者」が、委員として選ばれたこと自体が驚きである。明治以降、いずれの天皇もその時々の政治的要請、あるいは自らの判断に基づいて、国内外を積極的に訪問されている。明治天皇も交通手段の不便な中、全国各地を訪問している。公家の中心人物程度にしか認識されていなかった天皇を国家元首として前面に押し出した明治政府の期待に応え、国民の前に姿を示したのである。また国内外からの戦争責任追及の動きがあるなかで昭和天皇が全国各地を隈なく回り、新しい「象徴」天皇の姿を模索したことはよく知られている。明仁天皇については言うまでもない。沖縄を始め東日本大震災後の東北地方、さらには旧南洋諸島の戦跡など、国民に寄り添う明仁天皇の姿勢は一貫している。

結論
 天皇の地位は「国民の総意」に基づく。いま、少子化による皇位継承の危機が国民に共有されている。後嗣が途絶えたところで天皇制度を廃止するという意見もありうるだろう。私個人としては愛子さまに皇位を継承していただきたい。憲法は男女平等を保障している。また現政権が「女性活躍」を謳っていることからも、今後の日本社会に良い刺激ともなるであろう。また愛子さまが国外の王族と国際結婚をされるようなことがあれば、グローバル社会への対応という意味でも今後の日本社会にとっては、プラスにこそなれマイナスにはならないだろうからである。
 女性天皇に否定的な人の中には、女性天皇が外国人と結婚すれば、日本の皇室ではなくなる、と心配する人がいる。日本の戸籍制度しか知らない頑迷で狭量な思考から、そのような議論が出る。仮に現実となっても、それは外交交渉により解決される問題である。

2017.06.04  「本日休載」

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2017.05.28  「本日休載」
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