2017.02.24  不安だらけの2020東京オリンピック
    韓国通信NO517

小原 紘(個人新聞「韓国通信」発行人)


韓国の平昌(ピョンチャン)で開かれる冬季オリンピツクまで1年。ソウル市庁舎前にカウントダウンの時計が設置された。
去る9日、NHKニュースはソウルの街の表情と、冬季オリンピックに5割近い人が「無関心」と答えた世論調査を紹介し、「こんなに無関心で大丈夫?」と心配していた。
隣国のオリンピックに親切に気を配る「ゆとり」。3年後の東京オリンピックには問題はないのだろうか。NHKの「ノーテンキ」ぶりに呆れ果て今回の「通信」のテンションは上がった。

<怒りの声は無視されて>
オリンピックが東京に決まった直後、「信じられない」と怒りで口を震わせた福島の友人がいた。2013年、原発事故から2年、福島は原発の恐怖のどん底にあった。彼には日本中が誘致成功の喜びに湧いているのが悪夢のように感じられたようだ。喜色満面、得意げな安倍首相の「アンダーコントロール」という言葉から福島が「切り捨てられた」のを感じ取り深く傷ついた。
高濃度の放射能による汚染は続いている。事故は収束されないまま、被災者たちの涙と絶望を踏みつけ、オリンピックの準備が進んでいる。

<「原子力緊急事態宣言」はいまだに解除されていない>
「アンダーコントロール」は2013年の流行語大賞の候補に挙がった。真っ赤な嘘を大賞に選ばなかったのは首相に対する「気兼ね」、最近よく耳にする言葉では「忖度(そんたく)」だった。事実、その「嘘」は垂れ流しの放射能とともに実証され続けてきた。
福島第2号機格納容器で検出された650㏜の放射能は衝撃的だった。ロボットさえ手が出ない天文学的高濃度の放射能である。廃炉作業のメドも全くつかない。このまま放出が続けばどうなるのか。大気汚染はさらに広がり、避難解除どころではなくなる。
最悪のシナリオをたどるとオリンピックどころでない。地震も心配だ。こんなことを言うと、「何もできなくなる」と反論されそうだが、不安を無視して国全体が無邪気にオリンピックにのめり込む方が心配だ。安全を「保証しない」規制委員会が次々と原発の再稼働を認めていることも心配のひとつ。原発が増えた分だけ事故の可能性は増える。

<戦争になったらオリンピックはできない>
1940年の東京オリンピックは日中戦争のさなか、日米開戦の直前に中止になった。
戦争ができる国にしたいという安倍晋三の夢は南スーダンへの自衛隊派遣で実を結びつつある。彼の「愛国心」は北朝鮮、中国との戦争も視野に入れたもので危険このうえない。恒久平和を誓った憲法をかなぐり捨てる動きも切迫している。オリンピックと戦争を同時に行うことは考えられない。商業主義に染まり利権うずまくオリンピックとは云え、まじめにオリンピック開催を考えるなら平和志向に徹するべきだ。軍備の拡大と日米の軍事同盟の強化では戦争の抑止にはならない。真逆である。憎しみと不信を駆り立て、戦争をした過去の教訓を学びたい。戦争とオリンピックのどちらを選ぶか冷静に考えたい。

<テロの危険>
2001年9月11日に起きた「同時多発テロ事件」以来、多くの先進国はテロに苦しんできた。テロ事件のすべてをイスラム過激派集団の仕業とするのが一般的な理解だが、貧富の差が極端に二分化された社会ではテロはどの国でも起こりうる。トランプ米大統領に無限にすり寄るわが国がイスラム過激派の標的になる可能性は高くなった。くわえて先が見えない不満が鬱積した社会はテロの温床だ。わが国にもテロが起きる可能性は否定できない。
「だから」と首相は強い口調でテロからオリンピックを守るために「共謀罪」から名を変えた「テロ等準備罪」を主張するが、国民の不満を権力で抑え込むのは本末転倒だ。テロを心配するなら、とりあえず安倍首相が退陣するのが最善のテロ対策のように思える。
2020年までに何が起こるかわからないが、戦争と原発とテロ対策に無自覚なまま突き進んでいくのは怖ろしい。
自分の生活と国内外の政治に不安を抱く韓国の人たち。それを克服するための市民革命進行中の韓国にオリンピックにあまり関心がないと心配するNHKの頭の中も心配だ。

<ふるさと納税>
確定申告のシーズンである。わずかばかりの所得税の還付請求をするために毎年確定申告をしている。収入が年金だけなので申告は簡単だが、「ふるさと納税」をしているので申告書第二表の寄付金に記入、第一表で所得から引かれる金額の寄付金控除の欄に計上する。還付されたお金を次年度の「ふるさと納税」として振り込むのを毎年繰り返している。
この二、三年「ふるさと納税」が脚光を浴びている。寄付金を受けた各自治体が「お礼」として地域の特産品などを競っているのが話題になり、「ふるさと」でもないのに「お礼」につられて寄付をする人が多いらしい。2千円は持ち出しになるが残りの寄付金がそっくり次年度の税金が軽減される仕組み。寄付としては「せこい」感じは免れない。
この数年、私が寄付を続けているのは沖縄県の名護市である。辺野古基地に反対する名護市に政府が交付金を払わないという「兵糧攻め」を聞いて応援のつもりで「ふるさと納税」を始めた。市役所からは市長名の「お礼」の手紙とともに去年はバンフ「米軍基地のこと辺野古移設のこと」「名護市の米軍基地のこと」が送られてきた。「アッパレ!!」である。寄付者の名前、金額が市のホーム・ページで公開されている。暖かい辺野古基地反対へのメッセージがとても感動的だ。毎年、件数も金額もうなぎのぼりで増え続けている。
小原T

<マイ確定申告>
今回の確定申告で困ったことが起きた。マイナンバーの記入が求められたからだ。
ひとりひとりに番号を割り当て、個人のふところ具合を把握する狙いらしい。金持ちには厳しくすべきだが庶民まで一網打尽とは納得がいかないうえに、本当の狙いはさまざまな個人情報をリンクさせて、国による個人情報の一元的管理をするというとんでもないマイナンバー制度に私は反対だ。国民の不安にもかかわらず強行導入されたのは記憶に新しい。
マイナンバー制度に反対して確定申告書にマイナンバーを記入しないと還付が受けられないとは。
封も開けずに放置したままの「通知書」を開くのもシャクで空欄のまま提出した。友人に話すと「確定申告は受理されないはず」と言われて少し動揺した。
受信料を払うのは義務というNHKと10数年来論争を続けてきたが、今度は手ごわそうな国税庁が相手である。これまで平穏な市民生活を送ってきた一市民として国家を相手に理論闘争をせざるを得なくなった。
マイナンバー制度はこれからさまざまな場面で問題が生じてきそうだ。例えば自動車の免許更新、パスポートの更新、さらには介護の申請など公的サービスにもマイナンバーが絡んできそうで正直なところ、ため息が出そうだ。しかし、これまでマイナンバー抜きでも受けられた公的サービスが受けられなくなることが問題で、国による一元的な個人情報管理に屈服しなければ国民の権利が行使できない仕組みこそ問題のはずだ。
皆さんのご意見をお聞きしたい。

2017.02.17 日本の核兵器廃絶運動のあり方を批判
     「ラロック証言」の元米海軍提督が死去

岩垂 弘 (ジャーナリスト)


 1月11日付の「しんぶん赤旗」に載った訃報が目を引いた。そこには、元米海軍提督で、ミサイル巡洋艦プロビデンスの艦長を務めたジーン・ラロック氏が昨年10月31日に98歳で死去したとあった。「米艦船は日本に核兵器を持ち込んでいる」というラロック氏の証言は日本の各界に衝撃を与えたが、私はこのこととは別のことでも同氏に関心を持ち続けてきた。というのは、同氏が日本の核兵器廃絶運動のあり方に対し一つの疑問を呈していたからである。

 ラロック氏の証言とは、1974年9月10日、米国議会の上下両院合同原子力委員会軍事利用小委員会が開いた、核拡散の危険をめぐる公聴会で述べたものである。ラロック氏は当時、元海軍少将で、国防問題に関するシンクタンク「国防情報センター」の所長を務めていた。当時、共同通信ワシントン支局にいた佐藤信行氏によれば、証言の内容は次のようなものだったという(2009年8月の日本記者クラブ会報に掲載された「ラロック証言のいま―『核なき世界』へ」による)。

 「私の経験によれば、核兵器を積み込める艦船はいずれも核兵器を積み込んでいる。これらの艦船は日本や他の国々の港に入るに当たって、核兵器を降ろすことはない。核兵器を積み込める場合には、艦船がオーバーホールないし大規模な修理を受けるための寄港の場合を除いて、通常はいつでもこれらの核兵器を艦船内に積み込んだままである。これらの核兵器の一つをうっかり使ってしまうかもしれないという現実の危険性がある」

 この発言は日本国内に大きな反響を巻き起こしたが、日本政府は「米国がいかなる形にせよ、日本に核を持ち込む場合は日本政府との事前協議の対象になる」として、米艦船による日本への核兵器持ち込みを否定し続けた。しかし、いまでは、日米安保条約の改定時に日米両国政府間で「核持ち込みの密約」があったことが明らかになっている。

 ラロック氏の訃報に接した瞬間、私の脳裏に甦ってきたことがあった。平和運動家であった故熊倉啓安氏(1927~1995年)から聞いたエピソードだ。
 熊倉氏は日本平和委員会の専従活動家で、事務局長、副理事長、代表理事、顧問を歴任した。この間、原水爆禁止運動、基地反対闘争、日中・日ソ国交回復運動、日韓条約反対運動、反安保闘争、ベトナム人民支援運動、沖縄返還運動などに関わった。

 1978年5月には、米国に渡航した。この時期、ニューヨークの国連本部で第1回国連軍縮特別総会(SSDⅠ)が開かれたためだ。
 SSDⅠに対し、日本の原水禁運動団体、労働団体、市民団体、宗教団体は「国連に核兵器完全禁止を要請する署名運動推進連絡会議」を結成し、全国で署名運動を展開、署名は1869万筆に達した。この署名簿をたずさえた「国連に核兵器完全禁止を要請する日本国民(NGO)代表団」の502人がニューヨークに向かい、署名簿を国連事務次長に手渡した。熊倉氏もこの代表団に加わった。
 その後、代表団は12の班に分かれて各国政府や軍縮関係機関を訪れ、核兵器完全禁止に向けての努力を要請した。

 熊倉氏は第3班に加わり、ワシントンの「国防情報センター」にいたラロック氏を訪ねた。熊倉氏によると、班のメンバーの要請に「きみたちは来るところを間違えた。核兵器反対を言うなら、むしろ日本政府に向かって言うべきだ」と述べたという。「米国の『核の傘』のもとに安住していて反核を叫ぶことの矛盾を見事に突かれた思いでした。ショックでした」。帰国後、同氏が私にもらした述懐である。

 核兵器の拡散を恐れるラロック氏としては、核兵器の拡散を防ぐためには、まず各国の国民がそれぞれの国の政府に核兵器の製造や持ち込みをやめるよう働きかけるべきだ、と考えていたのだろう。が、それまでの日本の核兵器廃絶運動は、専ら、核兵器の禁止を国際社会に訴えるもので、米国の「核の傘」に頼って日本の安全保障を図ろうという歴代の自民党政権に対して「それを止めよ」と要求する運動は弱かった。それだけに、熊倉氏にとっては虚を突かれた思いだったのだろう。

 熊倉氏が、その後、ラロック氏の指摘を日本の運動にどのように活かしたらいいのかと考えていたのかどうかは私は知らない。が、同氏を通じて知ったラロック氏の指摘は、私にとって日本の核兵器廃絶運動を考える上で重要な視点となった。だから、日本の核兵器廃絶運動のあり方について意見を求められれば、ラロック氏の指摘を頭の隅に置きながら、意見を述べてきた。

 例えば、「週刊金曜日」1998年8月4日号に発表した『米国の「核の傘」の下で反核を叫ぶ矛盾』である。
 私はそこで、日本で開かれた反核集会に参加した海外代表が「米国の『核の傘』から抜け出さないと、日本は核軍縮で指導的役割は果たせない」「米国の『核の傘』の下にいることが日本の外交政策を制約している。日本は、米国の『核の傘』から脱却を」などと発言していることを紹介しながら、「日本の運動がこれまで掲げてきた最大にして最優先の課題は一貫して『核兵器完全禁止』または『核兵器廃絶』だった。ほとんどこれ一本やりだったといってよく、一部の団体はともかく、『米国の核の傘からの脱却』を運動の全面に明確に掲げたことは、運動全体としてはなかった」と書いた。   

 ところで、日本の原水禁運動団体、消費者団体、青年団体、婦人団体、宗教団体などは今、3月から国連で始まる、核兵器禁止条約締結に向けた会議に向けて、被爆者の団体である日本原水爆被害者団体協議会提唱の「ヒバクシャ国際署名」に取り組んでいる。「核兵器を禁止し廃絶する条約を結ぶようすべての国に求める」署名だ。
 ところが、日本政府はこの条約の締結に反対している。としたら、日本の運動としてはこぞって「被爆国の政府が核兵器禁止条約に反対するのはおかしい」と、日本政府に迫る運動も起こしてもらいたい。そう思わずにはいられない。一部の運動団体は「日本政府は核兵器禁止条約へ行動を」とのスローガンを掲げて活動しているが、まだ運動全体のものとなっていない。

2017.02.07  改めてこの船の航跡に注目しよう
          第五福竜丸建造から70年

岩垂 弘 (ジャーナリスト)

 東京・夢の島の一角に立つ「都立第五福竜丸展示館」を久しぶりに訪れた。毎年、「ビキニ・デー」の3月1日が近づくと、この展示館を訪ねてみようかという気持ちになるが、今年は、ここに展示されている船・第五福竜丸が建造から70年になるところから、それを記念する特別展が開かれていると聞き、訪れた。ここは訪れる度に私に強い印象を残すが、今回も改めてさまざまなことを考えさせられた。

 第五福竜丸は140・86トン、全長28・56メートル、幅5・9メートルの木造船である。敗戦直後の1947年、和歌山県の古座町(現串本町)でカツオ船として建造された。当時の船名は「第七事代丸」といい、神奈川県三崎港を母港にカツオ漁に従事した。その後、マグロ船に改造され、船名も「第五福竜丸」となり、静岡県焼津港を母港に遠洋マグロ漁に従事する。
 ところが、1954年3月1日、太平洋で操業中、マーシャル諸島のビキニ環礁で行われた米国の水爆実験で生じた放射性降下物の「死の灰」を浴び、乗組員23人が急性放射能症になり、無線長の久保山愛吉さんが死亡する。水爆による初めての犠牲者だった。実験場周辺の島々の住民たちも「死の灰」を浴び、同様の被害を受けた。これが、ビキニ被災事件である。

 この事件をきっかけに全国的な規模の原水爆禁止運動が起こり、世界に波及する。1955年にはバートランド・ラッセル(哲学者)、アルバート・アインシュタイン(物理学者)、湯川秀樹(物理学者)ら世界的に著名な学者11人により「将来の戦争は必ず核兵器が用いられるから、各国間の紛争の解決は平和的手段によってなされるべき」との「ラッセル・アインシュタイン宣言」が出され、これを受けて1957年には、核軍縮を目指す科学者の国際的集まり「パグウオッシュ会議」が発足する。
 原水禁運動団体はこの事件を忘れまいと「3月1日」を「ビキニ・デー」と名付け、毎年、この日前後に記念の集会を開き「核兵器禁止」を訴え続けてきた。この催しは今も続いている。

 “ビキニ被災事件の証人”となった福竜丸はその後、政府に買い上げられ、東京水産大学(現東京海洋大学)の練習船となるが、老朽化のため廃船処分となり、東京のゴミ捨て場だった夢の島に放置されていた。1968年、みじめな姿に変わり果てた福竜丸に心を動かされた一会社員の船体保存を訴える投書が朝日新聞の投書欄に載ったことがきっかけで、原水禁運動団体などが中心となった保存運動が起こり、1976年6月、公園に生まれ変わった夢の島に都立第五福竜丸展示館が完成する。船体を所有していた財団法人第五福竜丸保存平和協会(現在の公益財団法人第五福竜丸平和協会の前身)が船体を東京都(当時の知事は美濃部亮吉氏)に寄付し、都が展示館を建設して永久保存を図るという形で決着をみたわけである。展示館の管理は平和協会に委ねられた。

 今回の特別展は「この船を知ろう 第五福竜丸建造70年の航跡」と題され、福竜丸の船体わきで行われている。カツオ船、マグロ船、練習船それぞれの時代に関連する資料や船の図面、写真などが展示されており、これらを見て行くと、この小さな木造船がたどった数奇な運命に改めて驚かざるをえない。

 第五福竜丸平和協会によれば、木造船の耐用年数は15年から20年という。であれば、70年前に建造された木造船がいまだに現存していること自体、世界的にも極めて珍しいことと言ってよい。
 そのことだけでも、この船がもつ歴史的意義は大きいが、そのことに加え、この船の航跡もまた歴史的意義をもつと私は考える。なぜなら、この船が第2次世界大戦後の日本と世界の歴史を一身に背負ってきたように思えるからだ。
 すなわち、大戦直後には、日本の食糧難を救うために太平洋でカツオ漁やマグロ漁に活躍し、その最中に、米ソによる核軍拡競争がもたらした米国の水爆実験に遭遇、ヒロシマ、ナガサキに次ぐ第3の核被害の当事者となる。その後も水産大学生の練習航海に貢献し、ついには、廃船処分となってゴミ捨て場に棄てられながら、世界的な規模にまで発展した「核兵器廃絶運動」のシンボルとして甦る。まさに、戦後史をたどる上で欠かせない貴重な証人なのである。

 もし、ビキニ被災事件が闇から闇に葬られ、さらに夢の島でゴミになる寸前だった福竜丸に誰も気づかなかったとしたら、世界史は今とは変わったものになっていたに違いない。そう思うと、福竜丸が現存することの意義を痛感するとともに、ビキニ被災事件をスクープした読売新聞と、福竜丸の保存のために陰に陽に尽力した多くの人びとに改めて敬意を抱かずにはいられない。

 特別展とともに常設展示も見ることができる。そこでは、ビキニ水爆実験の実相、それによってもたらされた被害の実態、マーシャル諸島では被ばく住民の苦しみがいまも続いていること、ビキニ被災事件を機に核兵器廃絶運動が高揚したにもかかわらず、世界では今もなお核の水平・垂直拡散が続く事実が紹介されている。それらに目を注いでいると、福竜丸が、この63年間、身をもって訴え続けてきたことはまだ実現していないという現実が胸に迫ってくる。福竜丸の存在意義は、今後ますます高まるのではないか。

 特別展、常設展示を見ながら、私は第五福竜丸平和協会の初代会長を務めた三宅泰雄氏(地球化学者)が生前、好んで口にしていた言葉を思い出した。「福竜丸は人類の未来を啓示する」というものだった。ビキニ水爆の被災船・福竜丸の無言の姿こそ、人類が核兵器の存在をゆるして地球破滅の道に進むのか、それとも核兵器と戦争を廃絶して平和と幸福の世界を築きあげるかの選択を迫るものだ、という意味だろう。
 私は、この言葉を心の中で反すうしながら展示館を後にした。

                              ◇

特別展「この船を知ろう 第五福竜丸建造70年の航跡」は3月26日まで開かれている。
入館無料。開館9:30~16:00。月曜休館
東京メトロ有楽町線、JR京葉線、りんかい線、「新木場駅」下車、徒歩13分
TEL:03-3521-8494
2017.01.19 日本山妙法寺、平和運動でのさらなる精進を誓う
藤井日達山主の33回忌法要で

岩垂 弘 (ジャーナリスト)

 日本山妙法寺の藤井日達山主の33回忌法要が1月9日、千葉県鴨川市の同寺清澄山道場であった。「恩師行勝院日達聖人第三十三回忌」と題された法要には、厳しい寒さの中、同寺の僧侶、信徒をはじめ日蓮宗各宗派代表、インド、スリランカなど各国代表、海外の平和団体関係者ら約400人が参列したが、参列者たちは口々に山主の業績をたたえ、「山主の遺志を継ぎ、戦争への道を阻止するために平和運動を一層推進しよう」と誓い合った。

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「千葉県鴨川市の日本山妙法寺道場で行われた藤井日達山主の第33回忌法要」

 第2次世界大戦後が終わって70年余になるが、この間、日本をはじめ世界各地で「反戦平和」「核兵器反対」を掲げる運動があるところでは、黄色の僧衣を着て、「南無妙法蓮華経」と唱えながら、うちわ太鼓をうち鳴らす僧侶の集団があった。日本山妙法寺の僧侶たちである。
 日本山妙法寺の僧侶たちが参加した運動は、日本国内に限ってみても、東京・立川の米軍基地拡張反対運動、原水爆禁止運動、被爆者救援運動、日米安保条約改定阻止運動、ベトナム反戦運動、沖縄返還運動、成田空港建設反対闘争(三里塚闘争)、イラク戦争反対運動……と数え切れないくらいだ。 最近では、脱原発運動、憲法9条擁護運動、安保法制廃止運動などの現場で僧侶たちの姿をみかける。
 もちろん、その活動は地球全域に及ぶ。今でも、戦火が絶えないところ、紛争が続くところには、必ずといってよいほど同寺の僧侶の姿がある。

 藤井日達山主は、その日本山妙法寺の開創者である。1918年(大正7年)に日蓮系の一宗派として最初の日本山妙法寺を中国・遼陽に開創、1924年(大正13年)には静岡県内に日本最初の妙法寺を建立、以後、全国各地に同様の寺を建立し続けた。
 日達山主はその生涯を通じて膨大な法話を残しているが、その中で一貫して説いたのは、釈尊の教えの核心は「不殺生戒(ふせっしょうかい)」にあるという点だ。一言で要約すれば、「人を殺すな」ということだという。
 最大の殺生は人が人を殺す戦争である。そこから、日達山主は絶えず「世界平和」「核兵器廃絶」「軍備全廃」を訴え続けた。しかも、「絶えず行動を起こすこと」を説き、自ら平和運動の先頭に立った。老齢で歩行が困難になると、車イスで平和行進の先頭を歩んだ。

 世界各国の平和団体、宗教団体、先住民団体との交流・連帯にも力を注いだ。
 1982年は反核、軍縮を求める運動が世界的に高揚した年だった。同年6月にニューヨークの国連本部で国連主催の第2回国連軍縮特別総会が開かれたためだ。日達山主は、この総会に向けて米国大陸を横断する平和行進を提唱、日本山妙法寺の僧や信者が西海岸からニューヨークまで歩いた。車イスの山主はニューヨークで行進団を出迎え、さらにニューヨークのセントラルパークで開かれた国際NGO主催の100万人反核集会に参加して演壇から核兵器廃絶を訴えた。この時、山主は96歳だった。

 日本山妙法寺の平和運動は徹底した非暴力を基本としているが、それは、徹底的な非暴力運動でインドを英国からの独立に導いたマハトマ・ガンジーから学んだ。日達山主は1933年(昭和8年)10月にインドでガンジーと会見しており、山主自身、その著書『仏教と平和』の中で「ガンジーの非暴力に学んだ」と語っている。
 また、共通の目的を持つすべての人々が手を取り合うことの大切さをひたすら説き続け、平和運動の大同団結のために奔走した。日本国内では、分裂していた原水爆禁止運動の統一のために力を尽くした。

 日達山主の27回忌(2011年)に際し、日本山妙法寺は『報恩』という冊子を発行したが、宗教学者の山折哲雄氏は「日本山妙法寺」と題する一文を寄せ、その中でこう書いている。
 「藤井日達上人は百歳の長寿を全うした人である。その足跡はインドをはじめとして全世界に及び、平和運動と伝道活動に献身した稀にみる国際的な仏教者だった」
 「昭和二十年の敗戦以後、日本の仏教諸教団はこぞって平和主義を宣揚し、そして例外なく平和運動の戦列についた。しかし、そのときから今日にいたるまでの半世紀をふり返るとき、その平和運動の持続性と徹底性において、藤井日達の日本山妙法寺に及ぶものは一つもなかったといっていいだろう」

 33回忌法要では僧侶らによる読経の後、来賓のあいさつがあったが、S・R・チノイ・インド大使、D・G・ディサーナーヤカ・スリランカ大使らは、日達山主が仏教普及や日本と両国との友好親善で果たした功績をたたえた。
 米国から参加した平和運動家でカトリック神学者のジェイムズ・W・ダグラス氏(『ジョン・F・ケネディはなぜ死んだのか』)という大著があり、寺地五一・寺地正子訳で2014年に同時代社から出版された)は「私たちは1980年にワシントン州シアトル近郊のトライデント原潜基地の近くに『非暴力行動のためのグラウンド・ゼロ・センター』をつくり、トライデント核ミサイルに対する抗議活動をしたが、そこに藤井日達師が見えられ、共に祈ってくださった。おかげで、センターには希望と歓喜の明かりが灯された」と話した。

 英国の著名な平和運動家、ブルース・ケントCND(核軍縮運動)元会長は、メッセージを寄せた。そこには、こうあった。「藤井聖人の素晴らしいお言葉が、今も私の家の机の前に掲げられています。それは次のようなものです。『文明とは電灯のつくことでもない。飛行機のあることでもない。原子爆弾を製造することでもない。文明とは人を殺さぬことであり、物を壊さぬことであり、戦争をしないことである。文明とは相互に親しむことであり、相互に敬うことである』」

 法要では、吉田行典・日本山妙法寺大僧伽首座の「導師法話」があった。
 首座はその中で、次のように述べた。
 「日本政府の政策を見ていると、この国は変わり始めた。日本では、今、戦争への道が準備されている。集団的自衛権の行使、相次ぐ軍事的な立法、軍備増強、憲法改悪等を通じてだ。日本国民は再び甚大な苦難を経験することになるかもしれない。われわれは、平和憲法を守らなくてはいけない」
 「われわれは、世界の紛争を解決するためには、対話を通じて平和的で友好的な関係を確立しなければならない。人類は今、絶滅の淵にいる。われわれは、藤井日逹聖人の教えを思い出し、戦争のない真に平和な世界を創造することを誓う必要がある。お題目を唱え、平和のために一層行動することを互いに誓い合おう」

2016.12.13  スライス危険!「生前退位」をめぐる議論
    暴論珍説メモ(153)

田畑光永 (ジャーナリスト)

「象徴としてのお勤めについての天皇陛下のおことば」が今年8月8日に国民に伝えられてからすでに4か月が過ぎた。「おことば」を受けて政府はその間、安倍首相の私的諮問機関「天皇の公務の負担軽減等に関する有識者会議」(座長・今井敬経団連名誉会長)を設置し、11月には3回に分けて合わせて16人の専門家の意見を聞いた。そして12月7日の会合から論点整理に入った。有識者会議では14日にも論点整理を続け、年明けにそれを公表する段取りと伝えられる。
 私はことの進み方のゆっくりさに驚くと同時に、この間の経緯は天皇の「おことば」が提起した問題を解決するというよりも、第二次大戦後に制定された「日本国憲法」が規定するいわゆる象徴天皇制を、この機会に別のものに変容させていこうとする動きが表面化してきた期間であったように見える。 
 そのことは後で考えるとして、私自身が「おことば」を聞いてまず感じたのは、自らの身体能力の衰えを冷静に見つめ、なおかつそれを自分以外は言い出せないことを斟酌して、自ら地位を退く意思を明らかにするというのはなかなか出来ないわざだということであった。とすれば、「生前退位」に関する規定がないとしても、なんらかの方策を講じて、それを実現する条件を早急に整えるべきだ、というのが私の考えである。
 ところが、その後の事の進み方は丁寧といえば聞こえはいいが、実際は結論を出したくないのではないかと勘繰りたくなるほどゆっくりである。有識者を集めて「有識者会議」を設置したのだから、その人たちが知識を出し合って、せいぜい1か月くらいで結論を出すのだろうと思ったら、その前に今度は専門家を読んで1人ずつ意見を聞くことが始まった。それも16人もの専門家を3回に分けてというゆっくりペースである。
 そしてその16人専門家の意見というのを報道で見て驚いたのは、天皇が示唆された「生前退位」に賛意を表した人が意外に少なかったことである。私の計算では(だから間違っている可能性もあるが)、16人中5人に過ぎない。逆に否定的な人は8人、どちらなのかよくわからない人が3人であった。
 無識な私が憲法の「第一章 天皇」と「皇室典範」を読んだ限りでは、皇室典範の第三章「摂政」の条文を改正すれば、ことは簡単に思える。そこにはこうある、「第三章 摂政 第十六条 天皇が成年に達しないときは、摂政を置く。(第2項)天皇が、精神若しくは身体の重患又は重大な事故により、国事に関する行為をみずからすることができないときは、皇室会議の議により、摂政を置く。」
 つまり天皇の生存中に代理(摂政)を置かねばならないときにはそうすることを皇室典範も予期しているのである。ただその条件として第1項が未成年の場合、第2項が精神または肉体の事故または病気の場合、を想定している。制定時には現今の高齢化社会は想定されなかったとしても不思議はないのだから、天皇の高齢がその中に入っていないのは自然であって、高齢化社会の今、高齢による身体状況の不適を加えても何ら不都合はないはずである。
 ところが意見を聞かれた専門家には、この摂政の条件を緩和するという案は概して評判がよくない。勿論、それでいいという人もいるが、反対意見は高齢ゆえに公務から離れた天皇と摂政が並立する場合、その期間が長引く可能性があり、それは「象徴の二重性」を生んだり「国民統合の象徴」が分裂したりする、というのである。
 すでにある摂政という制度を使わないとすれば、あとは新しい取り決めをつくるしかないわけだが、そうなると特例法でいいか、恒久法にすべきか、と話はややこしくなる。
 それはそれで有識者に考えてもらうとして、専門家とされる人たちに先に書いたように「象徴天皇制」を別物にしようとするかのような発言が散見されるのが目についたことを取り上げたい。
それはどういう発言か。
 「天皇家は続くことと、祈るという役割に意味がある。それ以上のいろいろなことを天皇の役割と考えるのはいかがなものか」(平川祐弘氏)、
「天皇の仕事は昔から第一の仕事は国のため、国民のために祈ることだ」(渡部昇一氏)、
「歴代天皇は、まず何よりも祭祀を重要事と位置づけ、国家・国民のために神事をおこない、その後に初めてほかのもろもろのことを行った。・・・天皇はなにもしなくてもいてくださるだけでありがたい存在でることを強調したい。その余のことを天皇であるための要件とする必要性も理由も本来はない」(桜井よし子氏)
 天皇は言うまでもなく国家機関である。そして憲法20条は政教分離の原則を明確に規定している。天皇の役割の第一を祈ることとする考え方は、戦前の天皇制の「現人神」を引き継ぎ、日本を神国とすることに通ずる。それは八紘一宇から大東亜共栄圏へと拡大し、戦争の思想的バックボーンとなったのは歴史的事実である。
この思想は日本国憲法によってなくなったはずであるのに、時折、不死鳥のように姿を現す。2000年5月、当時の森喜朗首相が「日本の国はまさに天皇を中心としている神の国であるぞということをしっかりと国民に承知していただくために我々(神道政治連盟)は頑張ってきた」と発言し、おおきな物議を醸した。
今また天皇の生前退位の議論に紛れてこういう発言が出てきた。憲法第7条の「天皇の国事行為」には10の行為が列挙されていて、その10番目に「儀式を行ふこと」というのがあるが、これは引用した論者たちが言う「祈り」ではないはずだし、まして天皇の第一の仕事ではない。
有識者会議が論点整理の中でこうした発言をどう扱うか、よもや象徴天皇を現人神にもどそうとする議論の拡散に手を貸すことのないよう見張っていなければなるまい。     (16.12.11)


  ✧ 今年の女性文化賞が決まりました 最終回です ✧

今年の第20回女性文化賞はフリーライターの森川万智子さんに授賞が決まりました。

・森川万智子さんは1992年から、韓国人の文珠珠(ムン・オクチュ)さんが連行された戦地ビルマで預けていた軍事郵便貯金の支払いを求める運動を展開しました。95年からビルマの現地調査を始め、その間、文さんが問わず語りに話した「慰安婦」時代の体験を記録しました。文さん没後の97~98年、ビルマ(ミャンマー)に15ヵ月間滞在し、200人以上の現地の人びとへの聞き取りと、慰安所とされた建物の調査を行いました。
元「従軍慰安婦」だった女性たちの物語が、軍事郵便貯金原簿の写しや日本軍の正史ともいえる『戦史叢書』、ビルマ現地の日本軍兵補の思い出、慰安所関係者の当時の日記などで証明された例はきわめてまれで、貴重です。
著書に『文玉珠 ビルマ戦線 楯師団の「慰安婦」だった私』(1996年、梨の木舎)、『ビルマ(ミャンマー)に残る性暴力の傷跡』(1998年、自家版)、映像作品『ビルマに消えた「慰安婦」たち』(1999年、ビデオ塾)、『ビルマの日本軍「慰安婦」』(2000年)、『シュエダウンの物語』(2006年)。

・森川万智子さんは1947年3月福岡県太宰府市生まれ。山口県立下関南高校卒。66年から郵便局員として働き、労働運動を16年間続けました。86年退職、出版社・印刷会社勤務を経て、現在フリーライター。福岡市で小規模な老人介護施設を経営しています。
・連絡先は🏣811-1313 福岡市南区日佐4-23-9 

・女性文化賞は1997年に創設された手作りの賞です。文化の創造を通して志を発信している女性の文化創造者をはげまし、支え、またこれまでのお仕事に感謝することを目的としています。賞金は50万円、記念品として女性画家によるリトグラフ一点を贈ります。
・女性文化賞を20年間続けてきましたが、健康上など諸般の事情で今年をもって終わりにいたします。この志を継いでくださる方を期待しています。   2016年12月9日

〒152-0023東京都目黒区八雲3-29―20―104 電話・ファックス 03-3723―0483
                       高良留美子

2016.10.21 反戦のスタンディングをして逝ったスポーツ記者
むのたけじさんの影響か

岩垂 弘 (ジャーナリスト)

 10月15日から新聞週間が始まった。これに先立つ同月8日、東京・日比谷の日本プレスセンター内の日本記者クラブで、元朝日新聞記者・川島幹之(かわしま・もとゆき)さんを偲ぶ会があった。「日本報道界の拠点」といわれる同プレスセンターで行われる報道関係者を偲ぶ会と言えば、著名なジャーナリストを対象としたケースが大半だから、いわば無名の記者だった川島さんを悼む集いがここで開かれたことは特筆に値する。彼がいかに多くの報道関係者に愛され、慕われていたかを示す集いだったと言っていいだろう。

 川島さんは1945年6月、両親が疎開していた埼玉県加須市で生まれたが、母の父は七代目林家正蔵、弟は初代林家三平。いうなれば川島さんは林家三平の甥である。
 立教大学を卒業すると1969年に朝日新聞に入社し、甲府、福島、北埼玉の各支局員を経て北海道支社報道部員に。この間、甲府支局時代に結婚。その後、東京本社と西部本社の運動部員、東京本社整理部員、名古屋本社運動部次長、大阪本社運動部次長、東京本社運動部次長、大阪本社運動部長を歴任した。
 2005年に定年を迎えたが、その後もシニアスタッフとして鹿島(茨城県)支局長、横手(秋田県)支局長を務め、2012年8月、朝日新聞社を退社した。

 これらの社歴からも分かるように、川島さんは専ら運動部記者だった。運動部とはスポーツを取材する部署。つまり、ほぼスポーツ記者一筋だったわけである。現役時代の記事には『スポーツ界列伝』『スポーツ小噺』といったものがある。
 仲間同士の宴会では落語を披露することもあった。だからだろう。あだ名は「サンペイさん」だった。

 偲ぶ会には、かつての上司、同僚、後輩、それにリタイアしてから参加した市民団体の関係者ら約90人が集まった。特に印象に残ったのは、追悼の言葉を述べたすべての人たちが、口々に川島さんの人柄を讃えたことだった。そればかりではない。会場で配られた『ありがとう川島さん―川島幹之追悼集』に追悼文を寄せた人たちも皆、こぞって彼の人柄をほめていた。
 
 曰く「いつも穏やか」「思慮深く温厚」「明るく、さわやか」「洒脱な人柄」「粋で潔い」「無類の人の良さで、私たちを魅了した」「何ごとにも誠実だった」「正義感あふれる心優しき男だった」「生き様を通して、人間としての優しさと強さを教えて下さった」・・・
 偲ぶ会で、かつての同僚の1人は「川島さんが人の悪口を言うのを聞いたことがない」と話した。大阪本社運動部長時代の部下も、追悼集に「(川島さんは)いつも泰然自若として、大人の風格。・・・一癖も二癖もあり『俺が、オレが』意識の強い新聞社にあって、貴重なおおらかさを有していた」と書いている。
 一般的に言って、新聞記者は他人をほめることが少ない。むしろ、他人に対する論評は痛烈無比だ。そういう世界を生きてきた者からすると、特定の記者に対するこれほどの絶賛は聞いたことがない。
 こうした賛辞が通りいっぺんのお世辞でないことは、私が保証する。なぜなら、私もまた、これまで彼の人間性に接する機会がたびたびあったからである。

 私が初めて川島さんに会ったのは、1974年3月、朝日新聞北埼玉支局(埼玉県熊谷市)でだった。当時、朝日は埼玉県北部で販売部数を増やそうと、それまでの熊谷通信局(1人勤務)を支局に格上げし、支局長と支局員5人の計6人を投入して北埼玉版づくりに当たらせていた。支局員が異動し、新たに甲府支局からに赴任してきたのが川島さんで、私は支局長だった。もっとも、その後、私は社会部で、川島さんは運動部でそれぞれ働くようになったから、同じ新聞社社内にいても疎遠な間柄になった。
 ところが、それから39年後の2013年、私が参加している朝日OBの集まりに川島さんが加わったことから、つきあいが復活。翌14年の3月、私が関わる団体が企画したキューバ・ツアーに誘ったら、「一度行ってみたかった国だから」と即座にツアーに加わり、私たちは一週間、旅を共にした。
 しかし、帰国後間もなく、川島さんは肺がんを患い、今年5月2日に亡くなった。70歳だった。だれもが驚いた急逝だった。

 結局、支局での付き合いも、朝日OB会での付き合いも極めて短期間であったわけだが、そこで私が得た川島さんについての印象を言えば、偲ぶ会で同僚や後輩が話したり、追悼集に寄稿している人たちが抱いた印象と同じであった。
 
 それにしても、私にとって最大の驚きは、川島さんが、横手支局長を退任して埼玉県越谷市へ移って以降、脱原発の集会に参加したり、安倍政権による集団的自衛権行使容認の閣議決定や安保関連法案に反対する行動に参加していたことである。
 追悼集によると、川島さんが参加していた行動の一つが「南越スタンディング」。市民一人ひとりが「9条壊すな!」「戦争させない」「アベ政治を許さない」などと書かれたプラカードを掲げて週2日、越谷駅頭に立つ。肺がんが発症してからも、川島さんはスタンディングを止めなかった。
 
 偲ぶ会には、一緒にスタンディングをやっていた市民2人がかけつけ、「リハビリもしているというので、たとえ車いすになっても、いつの日かスタンディングに復帰してくれると思っていました。川島さんの逝去はあまりにも早すぎます。今の政治を立て直すため、まだまだ一緒に行動してほしかった」などと、早世を惜しんだ。

 彼は、私とのつきあいの場では政治に関して語ることはなかった。それだけに、こうした彼の一面を知って私は驚いた。そして、何が彼をこうした行動に突き動かしていたのだろうかと考えてきたが、追悼集を手にして納得がいった。
 
 秋田県横手市と言えば、去る8月21日に101歳で亡くなった反骨のジャーナリスト、むのたけじさんが在住していたところである。よく知られているように、戦意高揚のための記事を書いた責任を痛感し、敗戦の1945年8月15日に朝日新聞社を去り、郷里秋田県の横手市で週刊新聞『たいまつ』を発刊しながら反戦平和を訴え続けた人だ。
 追悼集によれば、川島さんは横手支局在任中にたびたび取材でむのさんを訪れ、その話に大変感銘を受けたという。よく「とってもかなわないや、すごい人だよ、いくとはっぱをかけられるんだよ」と話していたという。同じ新聞社の先輩、後輩としてウマが合ったのかもしれない。
 
 先輩記者だった武田文男さんが、追悼集に書いている。「(川島さんが入院前に病躯を押して“戦争法案”反対デモに加わったのは)百歳を超えて、なお反戦を唱える むのたけじ先輩へのエールだったのでしょう」
 むのさんの影響もあって、川島さんもまた、1人の人間として日本の前途に危機感を募らせていたのではないか。だから、病身にもかかわらず、その危機感を行動に移していたのだろう。そこにまた、私は彼の「誠実な生き方」を見た思いだった。  

2016.10.18 脱原発が県民に広く浸透
新潟県知事選で再稼働慎重派が勝利

岩垂 弘 (ジャーナリスト)

 10月16日におこなわれた新潟県知事選で、医師で原発の再稼働に慎重姿勢の無所属候補、米山隆一氏=共産、社民、自由推薦=が、同県長岡市の前市長で無所属候補の森民夫氏=自民、公明推薦=らを破って初当選した。この結果、安倍政権の原発推進政策は見直しを余儀なくされるのは必至で、衆院選を控えた野党共闘にも影響が出そうだ。

 新潟県知事選では、当初、これまで東京電力柏崎刈羽原発の再稼働に慎重だった泉田裕彦知事が4選出馬すると思われていた。これに対し、原発推進派の森氏も出馬を表明、このため、知事選は泉田氏と森氏の対決になるとみられていた。ところが、泉田氏が突然、不出馬を表明したことから、一時は森氏の無投票当選もあるのでは、との観測も出たほどだった。このため、全国の原発推進派は安堵し、一方、脱原発は泉氏の4選を期待していただけに落胆も大きく、危機感を深めた。
だが、次期衆院選新潟5区の民進党候補に内定していた米山氏が知事選告示1週間前の9月23日に民進党を離党し、知事選に立候補することを表明。これに対し、市民団体と共産、社民、自由の野党3党が米山氏を支援することを決定、最大野党の民進党は自主投票となった。民進党を支持する連合が森氏を支援することになったためだった。

 かくして、知事選は森氏と米山氏による事実上の一騎打ちとなった。争点は、原発の再稼働への賛否だった。なぜなら、同県には柏崎市と刈羽村にまたがる地域に巨大原発、すなわち東電柏崎刈羽原発(7基)があり、東日本大震災による東電福島第1原発の事故以来、稼働停止中だが、東電と政府はこれの再稼働を急いでいるからである。
 県知事に原発の再稼働を止める権限はないが、知事の同意が得られないと原発停止が長引く可能性がある。したがって、東電と政府は何としても知事の座に原発推進派をすえたかったわけである。一方、全国の脱原発派は、何としても泉田氏の再稼働慎重路線を継承する候補に勝ってもらいたかったわけだ。かくして、両派による激烈な選挙戦が戦われたのだった。
 
 組織力と資金力で劣る原発再稼働慎重派がなぜ勝利できたか。
一つには、市民団体と野党3党の共闘があったからと思われる。新潟県では、7月の参院選(1人区)で、野党統一候補が自民党候補を僅差で破って当選しており、その時の市民団体と野党の結束がまだ生きていて票固めで力を発揮した、と見て差しつかえないだろう。野党統一候補として当選した森裕子参院議員を知事選の選対本部長にすえたのも効いた。自主投票を決めた民進党が選挙終盤に蓮舫代表を送り込んだことも、少しは影響したかもしれない。

 それに、県外の脱原発派からの応援も勝利に貢献したのではないか。全国の脱原発団体は、傘下の人たちに、新潟県の友人、知人に米山候補に投票するようハガキや、電話、電子メールで依頼しようと呼びかけた。選挙運動を支援するために現地に人を派遣した団体もあった。こうした県外からの支援が新潟の有権者をふるい立たせたということもあったのではないか。

 でも、最大の勝因は、新潟県民の意識の変化ではないか。
 真の勝因を知りたくて、新潟市在住の元新聞記者に聞いてみた。彼は即座にこう言った。
 「原発再稼働慎重候補が勝った理由は、ひと言でいえば、新潟県民の意識の変化ですよ。県民意識の変化のきっかけは東電福島第1原発の事故です。新潟は福島の隣県。とても近いから、この5年の間に、県民は原発事故による被害の実態を知ったんですね。とりわけ、新潟県には福島県から避難してきた人たちが今なお3000人もいることが大きい。県民はその人たちとじかに接する中で原発事故がいかにひどいものかを知ったんですね」
 「中越地震の時、東電柏崎刈羽原発で火災が起きたことが決定的だったと言っていいでしょう。この時以来、多くの県民はこう思うようになったんです。あの程度の地震で原子力発電所で火災が起きた。もっと大きな地震がきたら、えらいことになるな、と」
 「要するに、原発事故で県民の意識が変わったんですね、原発の再稼働には反対だ、と。今度の知事選、言ってみれば県民の力の勝利ですよ」

 彼の話を聞きながら、私は、最近見た2つの光景を思い出していた。1つは、今月5日に目にした福島県の原発被災地の荒涼たる風景である。生き物が全くいないゴーストタウンと化した住宅街、朽ち行く家屋、雑草地と化しつつある稲田・・・。私は、その場に立ってこう思ったものである。原発被災地の惨状を知ったら、だれしも原発を再稼働させよなんて言い出せなくなるのではないかと。そして今、新潟県知事選の結果を見た私の心に浮かんでくるのは、「新潟でも原発被災地に思いをはせる人たちが増えつつあるのだ」という思いだ。

 もう一つの光景は、9月22日、滝のように降りしきる豪雨の中を「脱原発」を掲げて東京・代々木公園に全国から集まってきた人たちの姿である。約9500人。新聞・テレビはごく一部を除いてこの脱原発全国集会を報道しなかった。脱原発運動なんかやって何になるだろうと、軽視しているからだろう。
 でも、新潟県知事選の結果を前に私はこう思う。「脱原発運動は、鹿児島県知事選に続いてまた成果をあげた。これを機にさらに力をつけるにちがいない」と。

2016.10.13 原発事故から5年半の福島を見る
遅々たる復興、進む荒廃

岩垂 弘 (ジャーナリスト)

 東京電力福島第1原子力発電所が東日本大震災で事故を起こしてから5年半たったのを機会に10月5日、原発事故被災地の福島県を訪れた。原発事故被災地・福島の現地見学は2015年2月、同年10月に次いで今回が3回目。被災地のごく一部を垣間見たに過ぎなかったが、今回の総体的な印象を言えば、「被災地の復興は遅々たるもので、むしろ一部では荒廃が進んでいる」という感じであった。

 最初の現地見学は、東日本大震災で被災した東北の人たちへの支援活動を続けている「NPO法人大震災義援ウシトラ旅団」が企画した「原発問題肉迫ツアー」に参加することで実現した。2回目は、埼玉ぱるとも会(生活協同組合パルシステム埼玉OB会)が主催した「福島ツアー」に加わっての現地見学。今回は、埼玉ぱるとも会と東京ぱるとも会(パルシステム東京OB会)が共催する「福島ツアー」に加わっての現地見学だった。

 今回のツアー参加者は生協の元役員、組合員ら総勢29人。バスでさいたま市――福島県いわき市――広野町――楢葉町――富岡町――いわき市――さいたま市のコースを回った。

 いわき市で、同市在住の「NPOふよう土2100」の里見喜生・理事長と合流、以後、里見理事長の案内で被災地を回った。
 同理事長によれば、今なお原発事故で避難を余儀なくされている人は福島県内だけで約12万人を数える。同理事長にいただいた資料によれば、いわき市の人口は約34万9000人だが、うち約2万4000人が福島第1原発に近く被害が甚大だった双葉郡(大熊町、双葉町、富岡町、楢葉町、広野町など)から避難してきた人たちで、仮設住宅だけでも3500戸以上にのぼるという。

 バスは四倉港に立ち寄った後、いわき市内の久之浜地区の「浜風商店街」へ向かった。
 東日本大震災で、いわき市の太平洋沿岸も津波に襲われたが、久之浜地区では、住民60人が津波に呑み込まれて死亡し、火災も発生した。家屋586棟が全半壊し、商店街を形成していた商店38軒も全滅。半年後、うち9軒が久之浜第一小学校の敷地内に仮設商店街をつくって営業を始めた。これが「浜風商店街」である。
 魚屋や食堂、酒店、理髪店など9軒。ところが、この商店街も来年3月には解散する。このままでは明るい展望がもてないからだという。商店街の人たちは私たちツアー一行を歓待してくれたが、その表情は心なしか寂しそうだった。
 私たちはとかく原発による被害に目がゆくが、東日本大震災の津波による被害もまだ回復せず、その後遺症はなお深刻であることを突きつけられた思いだった。

 いわき市から北上する。広野町を過ぎ、楢葉町に入る。楢葉町役場があり、そのわきの広場で仮設の商店街が営業していた。ちょうど1年前にもここに立ち寄ったが、商店街は昨年と同様人影もまばら。1年前と変わったことと言えば、商店街の外に「移動焼き鳥店」が駐車していたぐらいだった。
 そこから、さらに北上すると、道路の両側に田んぼが広がるが、どの田んぼも一面雑草に覆われ、すでに稲田の面影はなく、まるで原野のようだ。放射能に汚染されたため、稲作が不可能となったのだ。ちょうど1年前にもここを通ったが、この1年で、田んぼの原野化がいっそう進んだように思われた。
 加えて、野天に積まれた、放射能に汚染された廃棄物を詰めたフレコンバッグが増えたように思えた。里見理事長がいう。「放射能に汚染された廃棄物は、無害化することができません。ただ移動させるだけなんです」
 このあたりは、かつて福島県でも有数の米作地帯だった。美田のあまりにも変わり果てた姿に心が痛んだ。

 楢葉町は、福島第1原発から南へ20~12キロ。このため、原発事故後、同町の大半は、立ち入り禁止の「警戒区域」に指定され、住民は避難を強いられた。が、2012年8月、「避難指示解除準備区域」となり、昨年9月、避難指示が解除された。ただし、里見理事長によると、この1年で避難先から町に戻ったのは約800人。原発事故以前の町の人口は7500人だったから、帰還者は約1割ということになる。里見理事長が語る。
 「町民の心情をひと言で言えば、『戻りたくない』ではなく、『戻れない』ということでしょう」
 「町民が帰還に二の足を踏んでいるのは、第1に、子どもへの影響を懸念しているからです。残留放射能が子どもの健康に影響するのではという不安ですね」
 「第2の懸念は、病院、美容院、スーパーなどが不足していることです。これでは生活できないと」
 「まだあります。すでに他の市町村で就職してなんとか暮らしてゆけるようになった。帰還するとなると転職しなくてはならない。果たして働き口があるか不安なんです」
 同理事長の話を聞きながら、「避難指示が解除されても住民が町に戻らない。そうなれば、町は自治体として成り立たなくなるのではないか」と思わざるをえなかった。

 さらに北上すると、富岡町である。同町は福島第1原発から約10キロのところにあり、大震災では津波に襲われた上、原発爆発による放射性物質が降り注くというダブルパンチを被った。人口はただ今ゼロ。事故当時は約1万5000人が住んでいたが、放射線量が高いために今も全町民避難という事態が続いており、町役場も郡山市へ退避したままだ。

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富岡町の双葉警察署わきの公園に設置された線量計は「0.281マイクロシーベルト」 を示していた

 ここでは、まず、JR常磐線の富岡駅へ向かった。ここは昨年も訪れたが、その時はすでに駅舎は取り壊され、白っぽいプラットフォームだけが、かつての駅の面影を残していた。駅前には、津波で半壊した商店や住宅が、目を背けたくなるような無残な姿をさらしていた。
 それから1年後、駅前は一新していた。商店や住宅の残骸は取り払われ、更地になっていたからだ。これから先、その更地に何が造られるのだろうか。新しい街づくりの構想を示した看板等は見当たらず、復興の将来展望は見えてこなかった。
 駅前から少し離れたところに、かなりの数の、建築したばかりの瀟洒な住宅が立ち並んでいた。もちろん、人は住んでいない。
 「津波・原発事故の直前に建てられたものなんです。おそらく、ローンで建てたものでしょう。せっかく借金してマイホームを建てたのに、避難指示によりそれに住めない。しかも、避難先では借家暮らしだから家賃を払わなければならない。ローンと家賃の二重払い。避難民の苦難は、こんなところからもうかがえます」と里見理事長。

 富岡駅跡から、夜の森地区へ。ここも昨年訪れたところ。見事な桜並木が続き、それを挟んで住宅街が広がる。住宅街は、立ち入り禁止の「帰還困難区域」と、住民に一日のうち一定の時間のみ立ち入りを許される「居住制限区域」に分けられており、私たちは「居住制限区域」の中をバスで通り抜けた。
 そこは、昨年もそうだったが、完全な無人地帯で、さながらゴーストタウン。犬一匹、猫一匹見当たらず、空には鳥の姿もない。住家の庭には雑草が茂り、半ば朽ちかけた家も。
 
 森閑とした住宅街にも人の気配がするところがあった。住宅の除染作業がおこなわれていたからだ。今回のツアーに参加した私の友人はツアー中、至るところで放射線量を測っていたが、彼の線量計は、この住宅街周辺では毎時0.53~0.58マイクロシーベルトを記録した。環境省が示している一般人の放射線量の基準が毎時0.23マイクロシーベルト以下であることを考えれば、夜の森地区は異常に高い値だ。
 「こんなに線量が高くては、この地区の住民は当分、いや、かなり長期にわたって我が家に帰ることはできないだろう。なのに、政府は住民を帰還させることを前提に住宅の除染を続ける。この落差はいったいどういうことなのか」。そんな疑問が募った。

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無人の住宅街では除染作業がおこなわれていた=富岡町夜の森地区で

 夜の森地区の近くに、JR常磐線の線路と夜ノ森駅の駅舎があった。1年ぶりに見た線路と駅舎は、前年よりもいっそう荒涼とした姿をさらしていた。低い丘と丘の谷間を走る線路は伸び放題の雑草と雑木に覆われて、もはや線路が目に入らない。駅舎もジャングルのような雑木の中に埋もれてしまっていた。常磐線が再び開通することはあるのだろうか、と思った。
 夜ノ森駅周辺には、広大な田んぼが広がっていた。しかし、見渡す限り雑草の生えた田んぼと化し、秋だというのに、黄金の穂並みはなかった。「もう稲作は無理」と、農民たちはこの土地を利用した大規模なソーラー発電を計画中という。

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雑草地と化した田んぼ=富岡町夜の森地区で

 ツアーを終え、さいたま市へ帰るバスの中で、参加者全員が感想を述べ合った。
 「現地に来て、初めて原発事故の惨状を理解できた。百聞は一見にしかず。帰ったら、周りの人に福島を訪れるよう勧めたい」
 「原発事故はまだ収束せず、被災地の復興も進んでいないのに、安倍政権は原発の再稼働に躍起になっている。そんなこと、とても認められない」
 「被災地に来た大臣や国会議員が極めて少ないことを知った。原発事故による被害の実態を知るために、大臣や国会議員はもっと現地を訪れるか、現地に住むべきだ」
 私は「原発再稼働が推進される一方で、福島では棄民政策が進行しているという感じを受けた」と発言した。

2016.09.30  献身無私のオルガナイザー
    平和運動家・進藤狂介さんを悼む

岩垂 弘 (ジャーナリスト)

 戦後71年。この間、ひたすら平和運動に携わってきた人の訃報が相次ぐ。先日も平和運動家・進藤狂介さんが病没したのを知り、「これでまた1人、平和運動を裏方として支えてきた活動家がいなくなったか」と、惜別の情を覚えた。5月29日に死去、82歳だった。

 進藤さんに出会ったのは1966年である。私は当時、全国紙の社会部記者で、この年から「民主団体担当」になった。「民主団体」なんて今では死語だが、当時は革新系の大衆団体のことをそういった。「革新系」というのも今や死語と言っていいが、当時は社会党(社民党の前身)、共産党、総評(労働組合の全国組織。すでに解散)などをひっくるめて「革新陣営」あるいは「革新勢力」と呼んだ。そして、その影響下にある大衆団体を「民主団体」と呼んだのだった。

 私が取材で足を運ぶことになった民主団体は、具体的には平和運動団体、労働団体、学生団体、女性団体、国際友好団体などだったが、その中に、原水爆禁止関係団体があった。それは、3つあった。原水爆禁止日本協議会(原水協、共産党系)、原水爆禁止日本国民会議(原水禁、社会党・総評系)、核兵器禁止平和建設国民会議(核禁会議、民社・同盟系=どちらもすでに解散)だ。

 このうち、東京・港区御成門にあった原水協にいたのが進藤さんだった。当時、進藤さんはそこの専従事務局員で組織部に属していた。原水協の取材でお世話になった人の1人が進藤さんだったわけだが、ここで進藤さんと一緒に仕事をしていた同僚によると、進藤さんは山口県出身で、ここに来るまで山口県原水協の事務局員だった。抜群の事務能力を買われて原水協本部にスカウトされたのだという。 

 組織部での仕事は、原水協が主催する原水爆禁止世界大会の準備とか、核兵器問題や軍縮問題の資料集づくりとか、会議の議事録づくりとかいうものだったようだ。進藤さんと一緒だった元事務局員の1人は「原水協時代の彼の功績は、何といっても被爆問題国際シンポジウムの成功に寄与したことだろう」と語る。

 被爆問題国際シンポジウムとは、正式の名称を「被爆の実相とその後遺・被爆者の実情に関する国際シンポジウム」といい、国際準備委員会と日本準備委員会の共催で1977年7月21日から8月9日まで、東京、広島、長崎を結んで行われた。これには、海外から22カ国69人の専門家が参加し、日本側からも学者・研究者らが多数参加した。シンポジウムは、広島・長崎の被爆者を対象に調査を行い、その結果を医学的、社会的、文化的な見地から検討し、原爆が人間と社会もたらした影響を明らかにした。被爆の実相と被爆者の実情が総合的な見地から国際的に明らかにされたのは初めてだった。
 いわば、日本にとっても世界にとっても画期的なイベントとなったわけだが、このシンポには、当時、対立・抗争していた原水協・原水禁の両組織も全面的に協力し、両組織に距離を置いていた市民団体も協力した。このことが1つの契機となって、この年、原水協、原水禁、市民団体が統一して世界大会を開くなど、3つのブロックの共闘が実現する。

 このシンポで、進藤さんは日本準備委員会の事務局員を務めた。シンポの後に刊行された報告書の中で、日本準備委員会事務局長を務めた川﨑昭一郎氏(当時、千葉大学教授。現公益財団法人第五福竜丸平和協会代表理事)は「日本準備委員会の事務局を支えてくださった多くの方がたのなかで、とくに進藤狂介・・・の各氏にたいし、心から謝意を表したい」と述べている。  

 そんな進藤さんにとって、1984年、思いがけない転機が訪れる。この年、共産党が、原水禁、市民団体との共闘を推進してきた原水協執行部に「原水禁・総評と共闘してはならない」との方針を示し、これに従わなかった吉田嘉清・代表理事を、共産党の意向を体した原水協の全国理事会が解任したからである。原水協事務局の何人かは「共産党のやり方は納得できない」として吉田氏と行動を共にした。進藤さんも原水協を離れた。
 吉田氏らが、新たな活動の場として「平和事務所」を立ち上げると、進藤さんもこれに加わった。平和事務所が開催した「草の根平和のつどい」で、よく進藤さんを見かけた。
 また、吉田氏らが、旧ソ連のチェルノブイリ原発事故で被ばくしたバルト3国の国民を支援するための「エストニア・チェルノブイリ・ヒバクシャ基金」を創設すると、そのメンバーになった。バルト3国の被ばく者代表が来日すると、彼らを長崎に案内したりした。
 
 そのころの進藤さんの活動でとくに印象に残っているのは、神奈川県の生活クラブ生協の組合員グループを“引率して”8月6日を中心に「広島行動」をやっていたことだ。進藤さんとともに広島を訪れた女性組合員たちが、原爆関係の遺跡を見学したり、平和集会に参加して討議に熱心に耳を傾けていた光景を思い出す。1990年前後のことである。組合員たちが広島へ行く前には事前学習会があった。それをアレンジしたのは、もちろん進藤さんである。

 15年ぐらい前だったろうか。進藤さんは郷里の山口市へ帰った。がんを患ったため、その治療のためだったようだ。しかしながら、私はその後もほとんど毎年夏に、広島か長崎で進藤さんに出会ったものである。彼が8月6日には広島の、8月9日には長崎の反核平和集会に姿をみせていたからだ。その時の進藤さんは元気で、とても病身とは思えなかった。そのころは、「軍縮問題研究者」とか「被爆問題研究者」と名乗っていた。
 ただ、昨年、歩行中に倒れ、以来、外出もままならない日々だったようだ。

 「勉強家だった」「軍事問題や軍縮問題にくわしかった。文章も書けた」「いつも裏方に徹していた」「人と人を結びつけるのが得意で、根回しに長けていた」「とくに若い人を組織するのがうまかった」「献身無私の人」「けんかをすることもあったが、心がきれいな人だった」・・・進藤さんと一緒に仕事をした人たち、進藤さんと付き合いがあった人たちの進藤評である。
 平和運動家のほとんどがそうであったように、進藤さんもまた、その生活を支えたのは奥さんだった。進藤さんの奥さんが言った。「脇目も振らず平和運動一筋に生きた一生でした」。
 なんでそんなに平和運動に熱心だったのか。その理由を聞く機会はついになかったが、幼いころ、戦争を体験したのだろうか。残念ながら、今となっては分からない。遺体は、遺言により山口大学医学部に献体された。死してもなお世のため他人のために役立ちたい。いかにも進藤さんらしい最期と思った。
2016.09.23  「『もんじゅ』廃炉は脱原発運動の勝利だ」
    豪雨の中、東京で「さようなら原発」集会

岩垂 弘 (ジャーナリスト)

 「さようなら原発 さようなら戦争大集会」と銘打った集会が、9月22日、東京・代々木公園で開かれた。秋雨前線による豪雨が降りしきる中、全国各地から約9500人が集まり、「高速増殖炉『もんじゅ』の廃炉が決まったが、これは、私たちが長い間求め続けたきたことであって、脱原発運動にとって画期的な成果」「政府の原子力政策は明らかに曲がり角を迎えた。さらに運動を強化して原発のない日本、核武装とは無縁の日本を実現しよう」と気勢をあげた。

 東京で「脱原発」を掲げる大規模な集会が開かれたのは、今年3月26日にやはり代々木公園で開かれた「原発のない未来へ!つながろう福島!守ろういのち!3・26全国大集会」以来。主催は、作家の大江健三郎、落合恵子、作曲家の坂本龍一さんらが呼びかけ人となって生まれた「『さようなら原発』一千万署名市民の会」。

 開会は正午からだったが、その前から、JR山手線原宿駅から、レインコートに身を包んだり、傘をさして雨の中を会場の代々木公園にへ向かう人の列が続いた。
 会場に着くと、公園の野外ステージの前の広場には脱原発団体をはじめ労組、生協、市民団体などの旗やのぼりが林立し、色とりどりの無数の傘が広場を埋めていた。
 労組では、自治労、日教組、国労、JR総連、私鉄総連、全港湾など旧総評系の組合旗が目立ち、参加組合は北海道から九州にまで及んでいた。生協ののぼりは、パルシステム生協や生活クラブ生協など。もちろん、個人や仲間と連れだってやってきた思われる一般市民の姿もあった。
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             代々木公園の野外ステージ前広場を埋めた集会参加者

 第1部では、東京電力福島第1原発事故で被害を受けた福島県飯舘村の村民が、被災地の現状と課題を報告した。村民は「事故から5年半。メディアは東京の豊洲市場問題一色で、福島のことはほとんど報道されない。たまに報道されると、福島では復興が進んでいる、除染も進んでいるという話ばかり。しかし、まだ多くの県民が避難生活を余儀なくされており、行き場のない、除染廃棄物を入れたフレコンバッグが山積みになるばかり。原発事故による汚染水の処理問題も未解決で、そればかりか台風の影響で汚染水が増えている。これでは、復興が進んでいるとは言えない」と訴えた。
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          野外ステージから原発事故被災地福島の現状を訴える飯舘村の人

 第2部では、「市民の会」呼びかけ人で作家の澤地久枝さんが主催者あいさつをしたが、その中で澤地さんは、まず「きょうの新聞の一面で、高速増殖炉『もんじゅ』を廃止することになったと報じられている。これまで多くの人がやめるよう訴えてきただけに、これは歴史的なことだ」と「もんじゅ」の廃炉を歓迎。言葉を継いで「でも、安倍政権は原発再稼働を推進するばかりか、事故を起こした福島第1原発の廃炉費用を消費者の電気代に上乗せしようとしている。廃炉費用は東京電力が負担すべきであって、消費者にしょわせるなんてとんでもないことだ」と政府と東電を批判、「原発をなくすために、これからも力を合わせましょう」と呼びかけた。

 次いで、福島から参加した武藤類子さん(ひだんれん共同代表)や、詩人のアーサー・ビナードさん、俳優の木内みどりさんらが発言。
 ビナードさんは「広島を訪れたオバマ米大統領は、帰国後、核の先制不使用を言いだした。広島で話したことを具体化しようとしたのだろう。すると、安倍首相がこれに異議を唱えた。安倍さんは被爆国の首相ではないか。こんなこと許されることではない」と述べた。木内さんは「大雨の中、こんなに多くの人たちが集まった。天はなぜよりもよってきょう雨を降らせたのでしょうか。君たち、ほんとうにやる気があるのか、と私たちに問いかけたのではないか」と話した。

 最後に登壇したのは「市民の会」呼びかけ人でルポライターの鎌田慧さん。
 「安倍政権はようやく『もんじゅ』の廃炉を決めた。実に遅すぎた決定だが、それが持つ意味は重大で、日本の原子力政策がターニング・ポイントを迎えていると言いてよい」
 「ただ、政府が『もんじゅ』を廃炉にしても、高速炉の研究を維持すると言っていることに注目しなくてはいけない。それは、イコール核燃料サイクルをやめないということだからだ。そのことは、青森県六カ所にある、原発の使用済み核燃料の再処理工場の稼働を続けると言っていることで明白だ。この再処理工場はこれまで30年間にわたり22回も試運転を繰り返したのにいずれも中止に追い込まれたのに、まだやろうとしている」
 「なぜ、政府は核燃料サイクルをやめないのか。それは再処理工場でプルトニウムを取り出すためだ。プルトニウは原爆の材料になる。つまり、日本の核武装を目指しているからなのだ」
 「日本の原子力政策は破たんしつつある。脱原発を求める国民の声に耳を傾けない安倍独裁政権を打倒しよう」
 
 集会の後に予定されていたデモ行進は雨のため中止となった。
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                のぼりを持って集会に参加した大学生