2023.03.25
3.21 さようなら原発全国集会に参加して
韓国通信NO718
小原 紘(個人新聞「韓国通信」発行人)
東京・代々木公園で開かれた反原発の集会に全国から4千7百人が集まった。原宿駅前は祝日とあって大変な人で賑わっていた。だが、明治神宮前から会場へ向かうと人の列は激減。決して少なくはない4千7百人の集会がみすぼらしく感じられた。
開会冒頭、主催者を代表して鎌田慧さんが亡くなった大江健三郎さんへ感謝の気持ちを述べ、全員で黙とうを捧げた。澤地久枝さんも骨折をおして参加。「原発回帰」という異常事態に登壇者たちは口々に大江さんの遺志を継いで新たな運動のスタートを誓い合った。
≪ステージ登壇者たち≫
福島からの報告―「これ以上海を汚すな!市民会議」、「避難の協同センター」「甲状腺がん子ども支援ネットワーク」。新潟からは 「柏崎刈羽原発再稼働おことわりグループ」。脱原発首長会議から元湖西市長の三上元さん、原子力資料 情報室の松久保さんからの報告が終わると原宿と渋谷の二コースに分かれてデモ行進が行われた。
かつてこの会場に十万人近い人が集まった頃の活気を思い出す。首相官邸と国会議事堂前には毎週金曜日にシュプレヒコールがこだました。古い原発を再稼働させ、新しい原発まで作ろうという驚愕の政府方針に5千人足らずしか集まらなかったのは残念だ。
NHKは代々木公園の中にあると言ってよい。市民たちの運動を伝えることを使命としている韓国のメディアに比べNHKを筆頭とする日本のメディアの惰眠ぶりは異常だ。WBCでの優勝、首相のウクライナ電撃訪問で忙しかったとは言わせない。NHKは、汚染水を処理水と言いかえてまで政府の広報役をつとめ、眼下に見える集会を12年間無視し続けて来た。集会とデモ行進の画像を流すのは「公平」「中立」でないとでも思っているようだ。
≪当日のビラから≫
会場でもらったチラシを紹介する。
「南西諸島の戦場化を許さない3.27集会」「神宮外苑アクション!銀杏並木の聖地神宮外苑を守ろう」「とめよう東海第二原発・首都圏連絡会」「G7広島戦争サミット許すな」「現役自衛官セクハラ支援の会」「沖縄を再び戦場にするな」「落合栄一郎バンクーバー便りー放射線は何故危険なのか4.2講演会」
渋谷駅周辺は肩が触れ合うほどの賑わいだった。通行人の彼らには「フクシマを忘れるな」「汚染水を流すな」は発見だったかも知れない。集会を報道しないNHKよりデモ隊を見送る通行人たちのほうがよっぽど健康に見えた。日本にもデモをする人がいるのかと驚く外国人には、想像もしたことのない「日本発見」だったかもしれない。
≪3.21代々木公園の映像≫

会場風景

ステージ報告

デモ隊と通行人の出会い(渋谷スクランブル交差点)
≪着実に広がる独自の運動≫
12年間、私たちは大集会とは別に着実に独自の運動を広げてきた。
毎週金曜日の首相官邸前の集会に代わりに毎月第三金曜日に『首相官邸前抗議』が行われている。
青森でも宮城でも、佐賀でも毎月11日に「福島を忘れない」「原発イラナイ」の行動が行われている。
地域で声を上げている人たち。柏駅頭の反原発の街頭宣伝は3月4日に500回を迎えた(スゴイ!)。
毎月3日の「スタンディング」デーは全国各地で行われている。我孫子駅頭では2016年から。小出裕章さんたちは松本駅で。高槻の友人も。東久留米でも。
地元の「さようなら原発あびこ」からは元気な写真が送られてくる。ネットで調べると全国で無数の人たちが街角に立っている。
代々木公園に集まった人が5千人足らずと嘆くようでは地域で頑張っている人たちに申し訳ない。
反原発と安保法制反対の運動からわが国の市民運動がめまぐるしい飛躍を遂げたのを実感する。
代々木公園の会場には若者たちの姿もちらほら。うれしかった。
2023.03.23
STOP! 放射能汚染水を海に捨てるな
韓国通信NO717
小原 紘(個人新聞「韓国通信」発行人)
汚染水は単なるトリチウム水ではない。ALPSが除去できないストロンチウム90など、多くの有害放射性核種が含まれている。汚染水の保管場所がないというのは真っ赤なウソ、放流するための口実に過ぎない。放流は福島の漁民たちの生業を奪うだけではない、海に生きる世界のすべての漁民にとって脅威だ。福島の漁民への補償ですむ話ではない。
海が放射能汚染されれば生態系に深刻な影響を与える。だから放射性廃棄物の海洋投棄は国際条約で禁止されている。隣国の韓国や中国ばかりではない。世界中の漁業団体、環境団体が反対していることはあまり知らされていない。
濃度を薄めれば安全かのように盛んに宣伝されている。おかしな話ではないか。これまで溜まった汚染水と将来数十年にわたり発生する汚染水の放射性核種は、薄めても総量は変わらないはずだ。
事故を起こした張本人が実害はないなどと主張する資格はない。事故処理が進んでいるかのように見せかける事故隠し、原発を稼働するための口実に使われる。風評被害だけが問題ではない。日本のエゴが世界規模の食の安全を脅かし自然環境を破壊する。
海洋放棄をしない方法を主張する多くの専門家の意見を聞くべきだ。放棄は絶対に許されない。
鄭周河(チョン・ジュハ)さんから届いたお便り

原発事故直後から福島を撮り続けてきた韓国の写真家鄭周河さん(写真)から月刊誌『文化ジャーナル』に寄稿した記事が届いた。
写真展「奪われた野にも春は来るのか」が全国各地で開かれ話題を集めたのでご存じの方も多いはず。
彼はいわゆる報道写真家ではない。作品をとおして人間が生みだした科学技術と人間と自然をテーマにして原発事故を見つめ続けてきた。
百済芸術大学の教授という肩書に新たに「完州自然環境を守る連帯会議代表」の肩書が加えられていた。コロナのため毎年訪れてきた福島行きが実質不可能となった3年間に地元の環境保護運動に専念してきた姿がうかがわれる。
最期の写真展以降、久しぶりに届いたメッセージである。記憶する力と記憶させない力の相克。記憶に賭けてきた鄭周河さんの文章から汚染水放流への危機感が伝わる。
避けることのできない放射能問題―私たちはどう立ち向かうべきか
鄭周河 (チョン・ジュハ)
日本政府は今春4月から福島沖へ12年間水槽に貯めておいた核汚染水を放出するという。 正確な日付はまだ決まっていないようだが、4月頃というから、春が来てすっかり暖かくなる頃に始まるようだ。
全世界の人々がともに経験した•東京電力福島第1原発の1、2、3、4号機が爆発したのは2011年3月12日。 その前日に震度9の地震があり、その余波が津波となって日本の東側の海岸に押し寄せた。
始まりは津波だったが、私たち世界の人々に迫った苦痛の中心は核/放射能によるものだった。 津波による苦しみと被害は見落とすことはできないが、それは自然災害であり地球で生きていく人間の宿命といえる。日本だけでなく地球のあちこちで起きていることであり、災害に備えることは大変難しいので宿命と受け入れるのだ。
しかし、原発の爆発とともに起きた事態は全く違う。 すでによく知られているように、発電所周辺の防波堤の高さの設計ミス、低い地面に設置された非常発電機問題は人間の傲慢さに関連した科学的、人的ミスだ。 第二次世界大戦後、韓国戦争(朝鮮戦争)とベトナム戦争を経て成長した日本の経済は、まさにこの科学技術に基づいている。 アジアの盟主、あるいは脱亜を唱えるほど成長したといわれる日本は、その科学技術を土台に「安全神話」という傲慢な自信を国内外に標榜するに至った。
現在、福島原発周辺に保存されている汚染水は180万トンを超すと言われている。しかしこの数字は意味がない。すでに12年間に地中に沁み込んだ汚染水量の計測は不可能であり、放射能汚染濃度の計測・推測さえ不可能だ。
この間、日本政府は汚染水を遮断するために爆発した発電所周辺に凍土遮水壁を設置して汚染水流出を止めようとしたが、それは「手のひらで空を覆う」に等しいものだった。爆発当時の原子炉内の温度は1200度にも達し、これによって溶け落ちた核物質は液体状態で敷地地面深く入り込み、これを冷却するために注水した海水は直ちに核物質と混ざり地中に沁み込んだ。正確な計量は難しいが、現在でも爆発した原子炉から放出される汚染水は相当な量にのぼるはずだ。雨と雪、さらに風がこの地域を特定することなく流れ広がる放射能物質は人間の過誤から形成された刑罰の重要な断面を示していると言える。
間近にやってくる今年の4月に予定されている放射能放出問題はすでに数年前から計画されていた。日本政府は公然とアルプス(ALPS Advanced Liquid Processing System)の活用を公言していた。しかし汚染水から放射能核種を除去するにはこの装置は不完全なことが既に判明しており複数の情報機関、研究機関からも明らかにされてきた。特に三重水素で知られるトリチウム(Tritium)は除去できず一般水素より三倍も重い質量の核種は水素爆弾の材料に使用されるものだ。さらに最近ではアルプスが除去できる62核種の半分を超す核種に対する処理を撤回したという。どのような理由からだろうか?時間と経費を節約しようということか。
改めて、福島原発爆発事故を原点から考えてみると、なぜ福島に原発を建て、発電された電気をすべて東京に送電したのか。さらに東京周辺の海岸でなぜ原発を建設しないのかという疑問が湧く。 他の産業財とは異なり、エネルギー問題は生産の代価がはるかに一般的だ。 すべての国民は恩恵とそれに伴う代価を払って暮らしている。小さな家庭であれ大きな産業体であれ使用するエネルギー量の差はあるが、皆が消費しており、その代価も比例して支出することになっている。 だが、そのエネルギー生産による被害と処理の代価は公平ではない。東京で消費する電気エネルギーの生産を福島で支え、それに伴う被害は福島の住民が抱えるという構造の根幹にある生産と消費の地域的不均衡問題は非常に深刻な人権蹂躙ではないかと思う。日本で、そして世界の人々が福島を「エネルギー植民地」と呼ぶのは無理からぬことである。このような指摘が妥当なら、日本政府と東京電力が隠蔽しようとする核汚染水放流の理由と言い訳は、単に処理費用を減らそうとする姑息さだけでなく、最初からこれを薄めて皆の食卓に乗せて無かったことにしようとしているようで恐ろしい気がする。
#風景 1
東京電力第1原発から北西に14キロほど離れた浪江に「希望牧場」がある。 ここにはまだ約200頭の牛が住んでいる。 原発爆発当時、政府による「殺処分」命令に抵抗し、牧場主の吉沢正巳さんが12年間世話をしている。 数年前に吉沢氏に会い、なぜこのように難しい仕事を続けているのかと尋ねると、彼は「この牛たちは人間の欲望が作り出したあのとんでもない事件の証言者なので殺すことはできない」と答えた。
#風景2
現在私たちが放流を憂慮している汚染水貯蔵タンクは、福島県の霊山山脈の渓谷の所々に散在する汚染土の山と非常によく似ている。 この汚染土は黒い1トンバックに入れられ、まるでピラミッドのように、または堤防を築いたように置かれている。緑色のビニールで覆われていたり、時にはそのまま放置されていたりする。 そこを巡回していると、住民たちが設置した「汚染土再利用反対」という切なく揺れる旗に出会うことがある。
#風景3
多くのメディアが東京電力福島第1原発敷地周辺にある汚染水貯蔵タンクの映像を伝えている。そのタンクの数を知られたくない理由は、その汚染水の合計が120万トンであれ180万トンであれ、それが全てではなく、ひいてはそれで済む問題ではないからだ。 すでに放流された汚染物質と今後放流される汚染物質は、時間をかけて私たちを攻撃する隊列を整えているだけだ。 しかし、空中から撮った水槽タンクの整然とした整列は合理的思考の残忍な姿だ。一見格好よく見える軍隊の閲兵に似ている。(下写真/希望の牧場/よしざわ/「牛は証言する」)

この3つの風景が今の福島だ。 希望牧場の吉沢氏が小声で主張していたように、ここ福島には証言者が必要だ。 証言と記憶はいずれも「春」を「記憶/経験」しながら成立する。 その形成された風景を跡形もなく消そうとするのが、殺処分であり、汚染除去であり、汚染水の放流である。 そして時間が経てばかつて「あった」風景は「起源」(柄谷行人)を含んだまま時間の中に放流され、私たちの記憶と証言は錆ついて消えていくだろう。 だから、この3つの風景は消えることなく、その場に存在し続けなければならない。 理由は、私たちの記憶が未来に向けた証言につながらなければならないためだ。 汚染土を再利用してその跡を消し、汚染水を海に放流して皆に分配することで、苦痛が始まった起源の理由を曇らせ、被爆した牛を殺害して起源以前に戻そうとする試みはすべて「証言不能」へと続く。日本政府は今回の汚染水の放流を撤回する意思はなさそうだ。
中国と韓国を含む周辺国の安易な対処に支えられ、経済的代価を少なく払うという意志も見える。 このような意志に代案的提案が何の意味があるだろうかという、放流「汚染水」を「処理水」に変えて呼び、ひいては飲むこともできると唱える彼らの意見(麻生太郎副総理)を「受け入れ」ようとする提案がある。 1400万人が住む東京の中心部に湖を作り、よく処理されて飲める水を貯めて素敵な公園にして住民が自由に散歩、水泳ができるようにするなら、どれほど経済的で美しいことか。 この提案は日本政府だけでなく、核を基盤にエネルギーを得ようとするすべての国に捧げたい。<訳 小原 紘>
<「百姓JAPAN」のオススメ>
WBCで「サムライJAPAN」の快進撃が止まらない。テレビでプロ野球は滅多に見ないが、今回は特別だ。試合を見ながら繰り返されるアナウンサーの「サムライ」という言葉が耳障りになった。
「あいつはサムライだね」などと刀を持たない現代人にも日常的に使われる。悪い言葉ではない。硬骨漢へのほめ言葉だが、女性には使わない。
サムライの起源である武士は武器を持ってあるじのために命をかけて戦う人間だ。江戸時代に入ると士農工商という身分制度の最上位に置かれ、世襲によって体制を維持する階級集団になった。
江戸時代の医師で思想家の安藤昌益は、堕落した僧侶、儒者たちに加えて武士は不要な存在と断じ、土を耕す農民を人間の理想の姿と考えた。農中心の平等な人間中心の社会、平和な社会を理想とした。日本が世界に誇る「いのち」の思想である。日本代表は侍ではなく栄えある百姓として胸を張って戦ってほしい。百姓が言いにくいなら少しおしゃれにFarmer Japanでもいい。日本発、平和の使徒が世界に存在をアピールする意味は絶大だ。武より農。平和憲法を世界にアピールして欲しい。頑張れ百姓 Farmer JAPAN!
<尹錫悦大統領の来日>
12年ぶりの韓国大統領の訪日。わが国は日韓関係の「正常化」の期待一色。韓国では日本の主張を丸呑みにした前代未聞の大統領の独走に騒然。第二の「日韓併合」と危惧する声まで上がっている。日韓の動きに目が離せなくなった。韓半島と台湾の動きがあわただしい。有事を想定して石垣島では避難訓練が実施された。
2023.03.22
岸田政権の原発回帰を許さず
東京の「さようなら原発全国集会」に4700人
世界を震撼させた東京電力福島第一原子力発電所の事故から12年を経た3月21日(祝日)、東京の代々木公園で、「さようなら原発全国集会」が開かれた。集会を主催したのは、「さようなら原発」一千万署名市民の会。岸田政権が昨年の参院選直後に「原発再稼働」を打ち出したことから、会場には「岸田政権の原発回帰反対」のプラカードやシュプレヒコールがあふれた。

会場に集まってきた各地の労組員
「さようなら原発」一千万署名市民の会は、福島第一原発の事故直後に、作家の大江健三郎、落合恵子、澤地久枝、ルポライターの鎌田慧、音楽家の坂本龍一の各氏らの呼びかけで結成された市民団体。福島第一原発の事故直後から毎年3月に、東京で「さようなら原発全国集会」開いてきたが、コロナ禍のため2020年は集会を中止、2021年と2022年は参加人数を制限した首都圏規模の集会を開いてきた。今年はコロナ禍が下火となったため、4年ぶりの全国集会となった。サクラが開花した会場には、東日本の各地から旧総評系の労組員、生協組合員、平和団体関係者、一般市民ら4700人(主催者発表)が集まった。
集会が掲げたスローガンは「岸田政権の原発回帰反対!」「老朽原発の再稼働やめろ!」「放射能汚染水を海に捨てるな!」「フクシマを忘れない!」の4本。3本目のスローガンにある「放射能汚染水」とは、事故を起こした福島第一原発に貯蔵されている、トリチウムを含む汚染水のことで、政府は、これをこの春から夏にかけて海に放流すると公言している。

福島からやって来た女性2人

座り込んで原発汚染水の海洋放出反対を訴える人も
「さようなら原発」から「くたばれ原発」へ
集会は午後1時30分に開会。まず鎌田慧氏が主催者あいさつをしたが、その中で同氏は「原発被災地の福島県にかつて『原子力 明るい未来のエネルギー』という標語が掲げられていた。国はこの標語を使って原発を推進した。その結果はどうだったか。分かったことは、原発は未来をつぶすエネルギーであるということだった。この間、政府はうそをつき続け、膨大な国家予算を原発につぎ込んだ。その結果、原発は人間を破壊し続け、その一方で、日立や東芝や三菱重工業などが大もうけをした。こうしたことが分かったのに、岸田政権はとにかく原発を動かすんだと言っている。まさに恥知らずで、無知、無謀だ」と述べた。
さらに、同氏は「これまでは『さようなら原発』と言って運動をやってきたが、これからは、一人ひとりが『くたばれ原発』というスローガンを掲げて運動してゆこうではないか」と呼びかけた。
次いで登壇した澤地久枝さんは「岸田政権がやることは何もかも悪い。こんな悪い政府は安倍政権以来だ。おかげで、この国は悪い方に向かっており、日本はアメリカよりも右の方にいる」「沖縄の与那国島にミサイル基地をつくるという。台湾有事に備えるためだそうだが、もし有事という事態になれば、島の人たちの命はどうなるのか。原発でも同じことが言える。つまり、日本の中で、一部の人たちが切り捨てられつつある。こうしたことに『反対』の声を挙げましょう。反対の声を挙げなければ、政府は国民は賛成しているんだと受け取りますから」「『反対』を言うのに、勇気はいらない。これからは、頑張って『反対』の声を挙げてゆきましょう」と訴えた。
福島から参加した佐藤和良氏(これ以上海を汚すな!市民会議共同代表)は「新聞社の世論調査によれば、福島第一原発の汚染水の海洋放出に国民の5割以上が賛成だというが、福島県民の7割が海洋放出に反対している。政府はなぜ、この県民の声を聞かないのか。汚染水は薄めて流すと政府はいうが、いくら薄めても放射能の核種の量は変わらない」として、海洋放出計画の撤回を求めた。
集会は、最後に参加者全員で4本のスローガンを何回もコールし、デモ行進に移った
岩垂 弘 (ジャーナリスト)
世界を震撼させた東京電力福島第一原子力発電所の事故から12年を経た3月21日(祝日)、東京の代々木公園で、「さようなら原発全国集会」が開かれた。集会を主催したのは、「さようなら原発」一千万署名市民の会。岸田政権が昨年の参院選直後に「原発再稼働」を打ち出したことから、会場には「岸田政権の原発回帰反対」のプラカードやシュプレヒコールがあふれた。

会場に集まってきた各地の労組員
「さようなら原発」一千万署名市民の会は、福島第一原発の事故直後に、作家の大江健三郎、落合恵子、澤地久枝、ルポライターの鎌田慧、音楽家の坂本龍一の各氏らの呼びかけで結成された市民団体。福島第一原発の事故直後から毎年3月に、東京で「さようなら原発全国集会」開いてきたが、コロナ禍のため2020年は集会を中止、2021年と2022年は参加人数を制限した首都圏規模の集会を開いてきた。今年はコロナ禍が下火となったため、4年ぶりの全国集会となった。サクラが開花した会場には、東日本の各地から旧総評系の労組員、生協組合員、平和団体関係者、一般市民ら4700人(主催者発表)が集まった。
集会が掲げたスローガンは「岸田政権の原発回帰反対!」「老朽原発の再稼働やめろ!」「放射能汚染水を海に捨てるな!」「フクシマを忘れない!」の4本。3本目のスローガンにある「放射能汚染水」とは、事故を起こした福島第一原発に貯蔵されている、トリチウムを含む汚染水のことで、政府は、これをこの春から夏にかけて海に放流すると公言している。

福島からやって来た女性2人

座り込んで原発汚染水の海洋放出反対を訴える人も
「さようなら原発」から「くたばれ原発」へ
集会は午後1時30分に開会。まず鎌田慧氏が主催者あいさつをしたが、その中で同氏は「原発被災地の福島県にかつて『原子力 明るい未来のエネルギー』という標語が掲げられていた。国はこの標語を使って原発を推進した。その結果はどうだったか。分かったことは、原発は未来をつぶすエネルギーであるということだった。この間、政府はうそをつき続け、膨大な国家予算を原発につぎ込んだ。その結果、原発は人間を破壊し続け、その一方で、日立や東芝や三菱重工業などが大もうけをした。こうしたことが分かったのに、岸田政権はとにかく原発を動かすんだと言っている。まさに恥知らずで、無知、無謀だ」と述べた。
さらに、同氏は「これまでは『さようなら原発』と言って運動をやってきたが、これからは、一人ひとりが『くたばれ原発』というスローガンを掲げて運動してゆこうではないか」と呼びかけた。
次いで登壇した澤地久枝さんは「岸田政権がやることは何もかも悪い。こんな悪い政府は安倍政権以来だ。おかげで、この国は悪い方に向かっており、日本はアメリカよりも右の方にいる」「沖縄の与那国島にミサイル基地をつくるという。台湾有事に備えるためだそうだが、もし有事という事態になれば、島の人たちの命はどうなるのか。原発でも同じことが言える。つまり、日本の中で、一部の人たちが切り捨てられつつある。こうしたことに『反対』の声を挙げましょう。反対の声を挙げなければ、政府は国民は賛成しているんだと受け取りますから」「『反対』を言うのに、勇気はいらない。これからは、頑張って『反対』の声を挙げてゆきましょう」と訴えた。
福島から参加した佐藤和良氏(これ以上海を汚すな!市民会議共同代表)は「新聞社の世論調査によれば、福島第一原発の汚染水の海洋放出に国民の5割以上が賛成だというが、福島県民の7割が海洋放出に反対している。政府はなぜ、この県民の声を聞かないのか。汚染水は薄めて流すと政府はいうが、いくら薄めても放射能の核種の量は変わらない」として、海洋放出計画の撤回を求めた。
集会は、最後に参加者全員で4本のスローガンを何回もコールし、デモ行進に移った
2023.02.01
核廃絶に立ち向かう若者たち
Know Nukes Tokyoが語る核の現在
田中 洋一 (ジャーナリスト)
ロシアによるウクライナ侵攻が始まり、この2月で1年になる。侵攻開始から間もなく、プーチン大統領とロシアの軍事指導者は「ロシアは核大国である」と核の脅しを振りかざすようになった。
自宅で見ていたテレビのニュースで知った中村涼香さん(22)はショックだった。「人生で初めて核兵器の脅威を直接感じました」。上智大学4年で、核廃絶をめざす若者グループKnow Nukes Tokyo(以下、ノーニュークス)の共同代表を務めている。
核兵器は現に存在し、無くさなければいけないと活動してきた。でも、実際に核が用いられるとしたら、それは誤爆かせいぜい誤って使われるぐらい、と受け止めてきた。その核兵器の脅威を、戦争の手段として振りかざす権力者が現れたのだ。
「広島や長崎で起きたことが、また起き得るんだと初めて鮮明になりました」。78年前の原爆ではなく、核兵器の今について真剣に考えざるを得ない事態に遭遇している。
被爆女児のガンは男児の2倍
私はノーニュークスのことを年始めに横浜での市民集会で知った。若い世代が核廃絶に取り組み、ウィーンの国際会議に出席して……。何が彼らを突き動かしているのだろう。取材を申し込んだ。
メンバーは現在10人。中村さんのように東京の大学の学生が多いものの、北海道の高校3年生もいる。女性が8人、男性2人だ。
活動に参加する背景には、中村さんの場合、長崎で育った高校までの平和教育がある。長崎に原爆が投下された8月9日は全校生徒が登校して黙祷を捧げる。母方の祖母が被爆したこともあり、「核兵器を無くさなくっちゃ」と小学生の頃から思っていた。
大学に入学して上京すると、核問題を取材しているジャーナリストが広島出身の高橋悠太さん(22)と引き合わせてくれた。二人は2年後の2021年5月にノーニュークスを結成し、共同代表に就く。メンバーのうち5人は、2022年6月にウィーンで開かれた核兵器禁止条約の第1回締約国会議にNGOとして出席した。
21年1月に発効したこの条約は、核兵器の製造・使用はもちろん、威嚇も禁止する。これまでに92カ国が署名し、うち68カ国が批准の手続きを終えた。一方、米ロ中といった核兵器保有国と、米国の核の傘に頼る日本やNATO加盟国は参加していない。ただしドイツやオーストラリアなどはこの会議にオブザーバーとして参加した。
日本はオブザーバー参加さえ拒む。「核兵器の使用をほのめかす相手に対しては通常兵器だけでは抑止を効かせることは困難であるため、日米同盟の下で核兵器を有する米国の抑止力を維持することが必要」(外務省ホームページ)との立場で、「核兵器禁止条約では、安全保障の観点が踏まえられていません」との見解だ。
ウィーンでは締約国会議に先立ち、核兵器廃絶国際キャンペーン(ICAN)主催の市民社会フォーラムと地元オーストリア政府主催の核兵器の非人道性会議が立て続けに開かれた。
連続6日にわたる三つの会合に、ノーニュークスの徳田悠希さん(21)=上智大学3年=は他の4メンバーと共に出席した。
徳田さんは強く感じた。世界の若者は、広島・長崎で起きたことを学ぶと共に、自分たちにとって現在の核の脅威を語り訴えようとしている、と。
振り返って、日本ではどうか。「広島と長崎の事例を深く知らないと核廃絶を語りにくい空気感がある。これでは若い世代に運動は広がらない」。徳田さんはそう感じて帰国する。
誤解を避けるために言い添えると、東京育ちの徳田さんが今の活動に乗り出すきっかけは、中学の修学旅行で初めて広島に行ったことだ。2回目に話を聴いた被爆者は「僕がもう1回被爆するよりも、あなたが被爆する可能性の方が高いよ」と最後に触れた。彼が伝えたかったのは、これなんだな、と徳田さんの心に響いた。
徳田さんは核をジェンダーの視点から捉えたいと考えている。ウィーンでの核兵器の非人道性会議で発表した米国の生物学者メアリー・オルソンさんに注目している。彼女は2016年の国連軍縮部の文書に論文を載せている。
端的に要約する。広島と長崎の被爆者の医学データの分析から、誕生~5歳に被爆した女児がその後にガンを患う危険性は、誕生~5歳の男児の2倍高い。被爆した成人についても、女性の発ガン性は男性の50%高い--とする内容だ。被爆者の男女や被爆時の年齢でその後の発症に大きな違いがあることを明らかにしている。
被爆で少女と女性がより著しい身体的影響を受けることは、核兵器禁止条約の前文にも謳われている。だが、核兵器や軍縮を交渉する場には男性ばかり多い。その一方、徳田さんはウィーンの3会合に出席して「声が届きにくい人(女性や若者)たちの声に耳を傾けようという姿勢に希望を抱きました」と振り返る。
4月に東京でフォーラム開催
ノーニュークスは今年4月30日に東京で200人規模のフォーラム(集会)をオンライン併用で計画している。核兵器が使用されれば何が起きるのかを、被爆地の広島や長崎ではない地(東京)で共に考える機会にしたい。徳田さんはフォーラムで「ジェンダーと核兵器」のセッションを担当する。そして、こう言う。
「広島・長崎で起きたことを大事にしながら、核の今を語っていきたい。メアリー・オルソンさんが明らかにした核の身体的影響を基盤にしつつ、核兵器をジェンダーの視点から捉えていきたい」
任意のグループとして活動しているノーニュークスは一般社団法人格を取るための手続きを進めている。その狙いを、もう一人の共同代表である高橋悠太さん=慶應義塾大学4年=はこう語る。
「活動をすぐにはやめられなくすることです。長く続けてこそ、社会的な信用が増す」
これは一連の取材で私の気になっていたことだ。学生グループとして先駆的な活動だが、卒業後はどうするのか、と。
高橋さんは「卒業後、いわゆる就職は考えていません」ときっぱりと語る。ノーニュークスの資料には「私たちは反核運動を自らの生業とする……」と謳ってある。活動を通して暮らしを立てていくという、いわば独立宣言だ。
一般社団法人はNPOよりも柔軟に収益を生み出しやすい。例えば、ノーニュークスが既に実施している小中高校での平和学習の収益化だ。被爆地への修学旅行の前後にメンバーが学校を訪ね、今の世界の核問題を広島・長崎の被爆と合わせて語り伝える。
新たな法人の理事には、この取材で取り上げた中村・高橋・徳田の3人が手を上げている。
ノーニュークスのホームページは次の通り。https://www.know-nukes-tokyo.com/
(メールマガジン「歩く見る聞く86」1月27日に加筆)
2023.01.09
懸念は「コロナ」から「戦争」へ
2023年の年賀状にみる市民意識
岩垂 弘 (ジャーナリスト)
今年も友人、知人から、たくさんの年賀状をもらった。それらの一枚一枚を手にして強く印象に残ったのは、市民の間で「戦争」に対する懸念や危機感が深まりつつあることだ。
私はこれまで毎年、多くの友人、知人と年賀状の交換をしてきたが、これまでの年賀状の文面といえば、「明けましておめでとうございます」とか「初春のお慶びを申し上げます」とか、あるいは「謹賀新年」とか「迎春」、「賀正」といった、いわば新年を言寿ぐ決まり文言や、新年を迎えての抱負や決意のほか、自分や家族の近況・消息を伝える文面が大半であった。
しかし、ここ数年、世界や日本の政治・社会状況への感想、それに自らの政治的主張を表明した年賀状が増えてきたように思う。以前は、年賀状では政治的、宗教的なことへの発言は控えるというのが一般的な慣習だったが、年賀状でも政治的なことについて自分の意見をはっきり述べる人が増えてきた、というのが私の受け取り方だ。
私の記憶では、一昨年、昨年の年賀状は、「コロナ禍」一色だった。つまり、新型コロナウイルスに感染することへの恐怖とコロナ禍が社会生活に与える影響を心配する声が文面に溢れていた。が、今年はコロナ禍が終熄せず、むしろ感染者が増えているにもかかわらず、新型コロナウイルスへの恐怖を吐露したものはわずかだった。「コロナにかかったが回復した」という報告が2通あったが。
コロナに代わって、今年際立って多かったのは、「戦争」に言及した年賀状だった。私が1月8日まで受け取った年賀状は220通だが、そのうちさまざまな表現で「戦争」に言及していたのは51通(23%)にのぼった。
「戦争」への言及には、大まかに言って二通りあった。一つは、昨年2月24日のロシアのウクライナへの侵攻によって始まった戦争について言及したものだ。もう一つは、昨年12月16日に岸田政権が閣議決定した「安保3文書」、すなわち防衛費の大幅増額と敵基地攻撃能力の保有について言及したものだ。もちろん、ウクライナ戦争と安保3文書とは密接にからんでいるだけに、この2点を合わせて論じたものもあった。
以下、いくつかを紹介しよう。
まず、ウクライナ戦争に関して――
大軍拡競争への広がりを恐れる
「気がかりは、ロシアのウクライナへの戦争が今も続き、互いに相手を敵国と見なして武力の優位にのみに『安心』を求める大軍拡競争が、広がりつつあることです」(東京都杉並区・元労組役員)
「長崎で少年・少女時代を過ごした私たちにとって、ウクライナの情勢はとても他人事とは思えません。世界中にある戦争・紛争の地に1日も早く平安が訪れ、子どもたちに笑顔が戻ることを願っています」(茨城県つくば市・被爆者)
「戦火の中でもウクライナの人たちは、生きる希望を失わずに、寒さを我慢しながら懸命に世界に呼びかけています。私たちは何が出来るのでしょうか? 残念なことに、私が出来ることが思い浮かびません。それでも、小さな寄付をしたり、なぜこんな事になるのか歴史書をひもとき、考え、今の状況を記録に残す……そして、大切な事は決して諦めないないこと事!」(東京都世田谷区・出版社役員)
「昨年2月にウクライナ侵攻が始まり、私はやりきれない思いの日々を過ごしておりました。おそらく皆様も同様と思います。課外授業のゼミでは生徒達と共に第2次世界大戦中のヒトラーについて、まるで昔話のように学習していましたが、同じような戦争がこの地球上に再び起こってしまうとは本当に残念なことです。1日も早い終結を祈りたいと思います」(兵庫県三田市・中学校教員)
「今年こそ、戦争は止めたいものです」(さいたま市・写真家)
「ロシアによる非合法なウクライナ侵攻は、世界を震撼させました。この侵略に国連が機能しないことに歯がゆさを感じます。リーダーである政治家の使命を切望します。各国が、他国を軍事力で威嚇する手法に同意できません。アジアから、世界の人々と平和で安全・安心する、知力勇気を育みたいものです」(横浜市・ファゴット奏者)
一方、こんな賀状もあった。
「ウクライナの侵略戦争ですが、全世界がロシア制裁を行ってはおらず、アフリカや中南米などの対応や歴史的背景も注視したいところです」(公益財団法人職員)
では、岸田内閣による大軍拡路線に対する反応は――
増税による防衛費増額は許さない
「ロシアのウクライナ侵攻をきっかけに、この国が軍事大国を目指して危険な戦争への道を突き進むか、それとも外交を重視してアジアの平和を希求していくか、重大な岐路に立っています」(東京都国分寺市・写真家)
「岸田内閣の悪政は目に余るものがあります。『国防』の名のもとに、一気に『戦争国家』へと歩を進め、また原発事故の後処理もできないままで、『再稼働』『原発新設』へと舵を切り、国内の格差増大、貧困の蔓延をよそに、増税を打ち出しています。しかも、不満分子を抑え込むための監視体制(マイナンバー制度)の強行、マスコミへの露骨な介入による言論統制など、まさに戦前回帰という以外にありません」(東京都小金井市・ブログ編集長)
「租税負担と社会保障負担に財政赤字を加えた国民負担率は国民所得の約60%になり、政府の調査でも『生活苦しい』の回答が55%に増加。岸田政権はさらに国民1人当たり約4万円の軍拡増税施策。日本国憲法で決められた平和のうちに生存する権利の破壊が進み、心痛める日常です」(埼玉県熊谷市・元会社員)
「ウクライナの戦争は終わらず、憲法9条を持っているはずの日本は、あろうことか防衛費をどんどん膨らませてます。教育や子どもに使うべき税金が軍事に使われるのなら、断固拒否したい気持ちです」(東京都世田谷区・女性)
「ウクライナの戦禍や防衛費を倍にしようとする日本を見て、亡くなっていった多くの戦争体験者や被爆者や先輩たちは、私たちに何を言うだろうかと思います」(さいたま市・財団法人常務理事)
「平和どころか武装化・増税に汲々の岸田内閣の1日も早い退陣を願う年の初めです」(東京都中野区・元生協役員)
敵基地攻撃能力の保持にも反対
「ウクライナ侵攻に便乗して『敵基地反撃能力保持論』や『核兵器共有論』が台頭。かつて故佐藤栄作元首相が国是とした『非核3原則』はどこへ消えたのでしょう」(京都府長岡京市・元新聞記者)
「日本は、敵基地を攻撃できる国になってしまいました。アメリカの戦争に加担させられ、国民が被害を受けるないよう、それぞれの立場で頑張りましょう」(長崎市・元放送記者)
「ウクライナの硝煙に乗じて他国攻撃論が声高です。平和・専守の戦後が退いていきます。遅まきながら、抗する論の再構築が急務です」(東京都新宿区・元新聞記者)
日本の戦争国家化を拒否し、平和国家を取り戻そう
「米国の戦争は日本の戦争。台湾有事は日本の有事。恐ろしい時代になりました」(東京都豊島区・画廊主)
「安全保障関連3文書を読む。中国・北朝鮮に対するまるで宣戦布告。日中平和宣言、日朝平壌宣言はどこへ。ヤクザの殴り込みではあるまい」(東京都中野区・元区議会議員)
「日本国憲法で、この国の主人公として生きる事を学びました。ところが今、おかしな考えをする人が多いことが気になります。『戦争が起こるといけないから準備する』??? みんなでよく考えましょう」(さいたま市・無職の女性)
「大軍拡はやめ、9条を活かした平和を!」(長野県下諏訪町・医師)
「私も高齢ですが、ボケと老いに打ち勝ち、最後の力をふりしぼって戦争の足音を止めたい」(埼玉県川越市・元会社員)
「過去の社会運動が軍国主義に敗北を喫した教訓を深く胸に刻み、誤りを繰り返さない闘いを続ける決意です」(さいたま市・団体役員)
「ウクライナ戦争はグローバル危機へと広がり、日本も戦争ができる国へと突き進んでいます。今年は戦争国家を拒否し、平和国家・民主主義を取り戻す年にしなければなりません」(東京都千代田区・雑誌編集長)
平和運動は今度の事態に対処できるだろうか
ともあれ、私の年賀状上に展開されている、こうした市民の声は国民の多数派のそれではない。これが国民の多数派となるためには、平和運動に関わる陣営による大運動が必要となる。平和運動の陣営は過去、60年安保闘争、70年安保闘争でそれなりの盛り上がりを示すことができたが、戦後最大とされる今度の転換期で、果たしていかなる運動をつくりだすことができるかどうか。そのことに、日本の将来がかかっているような気がする。
2022.12.16
別れと 新たな出会い
韓国通信NO710
よくもまあ ぬけぬけと しゃあしゃあと
息を吐くように嘘をつく政治家たち。死んだ元首相はその典型的な人物だった。次の菅首相も、岸田現首相も、辞職した三閣僚も、退任を求められている閣僚もその類と言ってよい。「大丈夫かァ 日本」とついため息がでる。
最近逝った人たちがしきりに思い出される。エリート政治家とは無縁で真逆の人たち。同時代をともに生きた仲間が私に「よく生きろ!」と励ましているように感じる。
<忘れられない人>
喪中はがきのシーズン。亡くなった本人の家族からのはがきが多くなった。季節柄、イチョウや紅葉が目と体に沁みる。
昨年亡くなった仙台の私の従兄。2歳年上の彼は山を愛し囲碁がとても強い建築家だった。戦後、満州から引き揚げる帰路に母親を栄養失調で失った。歴史書をよく読み、たまに会うと戦争や政治について語って意気投合する仲だった。高校時代に登山仲間と野良犬を鍋にして食べた。飼い犬を思い出して泣いたという。やさしい兄のような存在だった。
80才になった途端、丈夫な体を誇っていた彼が大腸がんであっという間に亡くなった。コロナ渦のオリンピックのバカ騒ぎのさなか、病院は最後まで患者との面会を許さなかった。携帯電話だけが外界との唯一つながり。コロナと政治によって人のつながりが断ち切られた孤独死という思いが強い。
孤独死-もうひとりの友人
同じく2歳年上の職場の女性も忘れ難い。
動脈瘤剥離で2年近い闘病生活の末今年の夏に亡くなった。おしゃべり好きな彼女は最期まで昏睡状態のままだった。誰からも好かれる明るい人柄。組合の約半数を占める女性組合員の中心メンバーのひとりでムードメーカーでもあった。えくぼが可愛いい高卒出のお嬢さんが会社のイジメに鍛えられ、いつのまにかたくましい組合員に成長した。私が彼女知るようになったのは組合の差別撤回闘争を通してだった。
「母親の苦労を知ったら女性を差別できないはず」「女は三界に家なし」。彼女の抗議に人事担当常務は返す言葉を失った。「闘士」というイメージからはほど遠い笑顔がトレードマークだった。有言実行。闘争資金に社内預金のすべてをつぎ込んで皆を驚かせた。また、ほとんどの組合員がそうだったように彼女も転勤に次ぐ転勤を強いられた。職場での影響力を会社が恐れたからだ。
印象に残る事件があった。ボーナスの支給額が100円少ないからと受け取りを拒否した。職場の組合員は彼女一人だけ。書記長の私が加わり支店長と交渉をした。「たまたま100円少なくなった」と恐縮する支店長に彼女は一歩も引かずに女性差別に対する謝罪と支給の訂正を求めた。個人的に弁償するという支店長を断り、次回の支給時に穴埋めすることを約束させた。100円をそのままもらったら喜劇になるところだった。交渉経過は全職場に知れわたり他の支店長たちは首をすくめた。
最近職場の女性の均等処遇に関心が集まっているが、約50年も前の話だ。女性たちの頑張りで男女間の昇格、賃金格差はほとんど解消された。今から思うと奇跡のような話だが100人足らずの組合が日本橋の本店前に100日を超す座り込みと粘り強い交渉で勝ちとった成果だった。憲法と労働基準法を守れという主張を銀行は認めざるを得なかった。女性の管理職が続々と誕生し彼女も課長に昇格したのは言うまでもない。
最近、女性支店長、女性重役が脚光を浴びているが、彼女たちは所詮政府と企業の目玉商品みたいなもの。非正規雇用者に占める女性が多いことからもわかるように劣悪な労働条件と職場の男女差別は以前より一層深刻化している実態さえある。
彼女の笑顔を再び見ることはできない。だが、仲間とともに闘い抜いた彼女の人生は「誇り高き女性」として私たちに記憶されている。
「権利は勝ち取るもの」。日本信託銀行の労働組合員たちが苦労の末到達した確信である。「連合」初の女性会長となった芳野会長は大いに学んで欲しい。
<新たな出会い>
ぬけぬけ しゃあしゃあと生きるあの人たちと同時代に生きているのが恥ずかしい。「やられる前にやっつけろ」「先手必勝」は喧嘩の常道かも知れないが、平和憲法を持つ日本はここまで来た。先手であれ、後手であれ、戦争をしたらどうなるのか誰もがわかっている。これこそが憲法の神髄である。仮に防衛費を10倍に増やしても同じことだ。
12月3日、駅前で「戦争するな!」とプラカードを掲げていたら子供たちが話しかけてきた。「戦争はしてはいけない。日本は核武装してはだめ」と学校で習ったという。もっと話そうかと言うと、話しかけてきた子がうなずいた。
「おじさんも君たちと同じ年くらいの時に戦争が起きたら何もかもなくなると思った。周りの国々と仲良くしなければいけないのに戦争が起こりそうでとても心配」。後ろにいた子どもたちも聞き耳を立てている。中国、北朝鮮脅威論に振り回され、「ああでもないこうでもない」という大人たちにはない反応に感動した。「戦争のない平和な国を君たちに残したいと頑張っているけれど、君たちも関心を持ち続けて欲しい」。
土曜日の午後、部活帰りというジャージ姿の彼らは別れ際に「ありがとうございました」と頭を下げて立ち去った。高校生と思ったら地元の中学生だった。以前も高校生に「僕も同じ考えです」と声をかけられたことを思い出した。ビラ撒き、スピーカーを使った宣伝活動を考えたが、長続きさせるために横着してスタンディングを始めてから6年になる。毎月3日、一時間だけのアピール活動に頭を下げて通り過ぎる人。「がんばれ」と一言、手を振る人。「くだらない」と無視する人もいる。72回目のスタンディングの後半は地元「さよなら原発」の仲間と合流。1時間半の宣伝行動の疲れは若者たちとの話で吹き飛んだ。「変なオジサン」に話しかけるのは勇気がいるはず。未来への期待が持てそうな新たな出会いがあった。
小原 紘 (個人新聞「韓国通信」発行人)
よくもまあ ぬけぬけと しゃあしゃあと
息を吐くように嘘をつく政治家たち。死んだ元首相はその典型的な人物だった。次の菅首相も、岸田現首相も、辞職した三閣僚も、退任を求められている閣僚もその類と言ってよい。「大丈夫かァ 日本」とついため息がでる。
最近逝った人たちがしきりに思い出される。エリート政治家とは無縁で真逆の人たち。同時代をともに生きた仲間が私に「よく生きろ!」と励ましているように感じる。
<忘れられない人>
喪中はがきのシーズン。亡くなった本人の家族からのはがきが多くなった。季節柄、イチョウや紅葉が目と体に沁みる。
昨年亡くなった仙台の私の従兄。2歳年上の彼は山を愛し囲碁がとても強い建築家だった。戦後、満州から引き揚げる帰路に母親を栄養失調で失った。歴史書をよく読み、たまに会うと戦争や政治について語って意気投合する仲だった。高校時代に登山仲間と野良犬を鍋にして食べた。飼い犬を思い出して泣いたという。やさしい兄のような存在だった。
80才になった途端、丈夫な体を誇っていた彼が大腸がんであっという間に亡くなった。コロナ渦のオリンピックのバカ騒ぎのさなか、病院は最後まで患者との面会を許さなかった。携帯電話だけが外界との唯一つながり。コロナと政治によって人のつながりが断ち切られた孤独死という思いが強い。
孤独死-もうひとりの友人
同じく2歳年上の職場の女性も忘れ難い。
動脈瘤剥離で2年近い闘病生活の末今年の夏に亡くなった。おしゃべり好きな彼女は最期まで昏睡状態のままだった。誰からも好かれる明るい人柄。組合の約半数を占める女性組合員の中心メンバーのひとりでムードメーカーでもあった。えくぼが可愛いい高卒出のお嬢さんが会社のイジメに鍛えられ、いつのまにかたくましい組合員に成長した。私が彼女知るようになったのは組合の差別撤回闘争を通してだった。
「母親の苦労を知ったら女性を差別できないはず」「女は三界に家なし」。彼女の抗議に人事担当常務は返す言葉を失った。「闘士」というイメージからはほど遠い笑顔がトレードマークだった。有言実行。闘争資金に社内預金のすべてをつぎ込んで皆を驚かせた。また、ほとんどの組合員がそうだったように彼女も転勤に次ぐ転勤を強いられた。職場での影響力を会社が恐れたからだ。
印象に残る事件があった。ボーナスの支給額が100円少ないからと受け取りを拒否した。職場の組合員は彼女一人だけ。書記長の私が加わり支店長と交渉をした。「たまたま100円少なくなった」と恐縮する支店長に彼女は一歩も引かずに女性差別に対する謝罪と支給の訂正を求めた。個人的に弁償するという支店長を断り、次回の支給時に穴埋めすることを約束させた。100円をそのままもらったら喜劇になるところだった。交渉経過は全職場に知れわたり他の支店長たちは首をすくめた。
最近職場の女性の均等処遇に関心が集まっているが、約50年も前の話だ。女性たちの頑張りで男女間の昇格、賃金格差はほとんど解消された。今から思うと奇跡のような話だが100人足らずの組合が日本橋の本店前に100日を超す座り込みと粘り強い交渉で勝ちとった成果だった。憲法と労働基準法を守れという主張を銀行は認めざるを得なかった。女性の管理職が続々と誕生し彼女も課長に昇格したのは言うまでもない。
最近、女性支店長、女性重役が脚光を浴びているが、彼女たちは所詮政府と企業の目玉商品みたいなもの。非正規雇用者に占める女性が多いことからもわかるように劣悪な労働条件と職場の男女差別は以前より一層深刻化している実態さえある。
彼女の笑顔を再び見ることはできない。だが、仲間とともに闘い抜いた彼女の人生は「誇り高き女性」として私たちに記憶されている。
「権利は勝ち取るもの」。日本信託銀行の労働組合員たちが苦労の末到達した確信である。「連合」初の女性会長となった芳野会長は大いに学んで欲しい。
<新たな出会い>
ぬけぬけ しゃあしゃあと生きるあの人たちと同時代に生きているのが恥ずかしい。「やられる前にやっつけろ」「先手必勝」は喧嘩の常道かも知れないが、平和憲法を持つ日本はここまで来た。先手であれ、後手であれ、戦争をしたらどうなるのか誰もがわかっている。これこそが憲法の神髄である。仮に防衛費を10倍に増やしても同じことだ。
12月3日、駅前で「戦争するな!」とプラカードを掲げていたら子供たちが話しかけてきた。「戦争はしてはいけない。日本は核武装してはだめ」と学校で習ったという。もっと話そうかと言うと、話しかけてきた子がうなずいた。
「おじさんも君たちと同じ年くらいの時に戦争が起きたら何もかもなくなると思った。周りの国々と仲良くしなければいけないのに戦争が起こりそうでとても心配」。後ろにいた子どもたちも聞き耳を立てている。中国、北朝鮮脅威論に振り回され、「ああでもないこうでもない」という大人たちにはない反応に感動した。「戦争のない平和な国を君たちに残したいと頑張っているけれど、君たちも関心を持ち続けて欲しい」。
土曜日の午後、部活帰りというジャージ姿の彼らは別れ際に「ありがとうございました」と頭を下げて立ち去った。高校生と思ったら地元の中学生だった。以前も高校生に「僕も同じ考えです」と声をかけられたことを思い出した。ビラ撒き、スピーカーを使った宣伝活動を考えたが、長続きさせるために横着してスタンディングを始めてから6年になる。毎月3日、一時間だけのアピール活動に頭を下げて通り過ぎる人。「がんばれ」と一言、手を振る人。「くだらない」と無視する人もいる。72回目のスタンディングの後半は地元「さよなら原発」の仲間と合流。1時間半の宣伝行動の疲れは若者たちとの話で吹き飛んだ。「変なオジサン」に話しかけるのは勇気がいるはず。未来への期待が持てそうな新たな出会いがあった。
2022.11.23
関東大震災と中国人
韓国通信NO709
小原 紘(個人新聞「韓国通信」発行人)
去る11月12日、栃木県益子の朝露館で林伯耀(リン・ハクヨウ)さんの講演会が開かれた。

伯耀さん(写真上)は神戸在住の在日中国人二世。1939年京都丹波生まれ、今日まで在日として抑圧と差別のなかを闘い抜いてこられた。20人余りの参加者たちは2時間を超える穏やかだが熱のこもった話に聞き入った。

来年は関東大震災から100年を迎えるが、中国人の虐殺事件についてはあまり語られることはない。
震災直後の9月2日に戒厳令が布告されると警保局長名で「鮮人は不逞の行動を敢えてせん…(略)…震災を利用して各地に放火し石油を注ぎ放火せる者あり」と根拠のない情報が発信されたため、流言が広がり関東一円が混乱と恐怖に陥った。
6千人を超す朝鮮人虐殺事件。河合義虎、平沢計七ら10人の活動家の殺害(亀戸事件)。社会主義者大杉栄・伊藤野枝夫妻の殺害(甘粕事件)にくらべると中国人の殺害事件を知る人は少ない。最近になって多くの市民運動家、学者たちの研究によってその実態が次々と明らかになってきた。
<中国人虐殺は「誤殺」ではなかった>
全体で800人を超す中国人虐殺事件。日本政府は実態の露見を恐れ、中国政府の抗議と真相解明の申し入れに対して「朝鮮人と間違えて殺した」と奇妙な釈明をして隠ぺい工作をはかった。公権力は一切かかわりがないと口裏をあわせる閣議決定までした。だが、九死に一生を得た生存者と現場にいた目撃者、元中将遠藤三郎らの証言、政府の秘密資料によって計画的で残忍な殺害事件の実態が見えてきた。
林伯耀さんの話は続く……
殺害は横浜・川崎の工業地帯と現在の東京都江東区大島(おおじま)地区で集中的に発生した。当時の大島地区には第一次世界大戦後の景気に吸い寄せられように約2千人の中国人労働者が石炭運びなどの力仕事に従事していた。景気が一転して不況に陥ると、政府は「お荷物」となった中国人労働者の帰国を求めるようになり、日本の労働者との間に衝突事件が頻発、中国人排斥運動が起こるなど不穏な社会状況が生れた。一方中国では対華21カ条要求を背景に山東半島の利権問題から国民の不満が高まり5・4運動、反日・排日運動が盛り上がりを見せた時期でもあった。大震災時の朝鮮人虐殺の背景には3・1独立運動とそれに対する弾圧の記憶があった。同様に中国人への恐怖感が警察と軍によって共有されていたことが事件の背景にあったと言われる。
震災直後の白昼、中国人労働者たちが集められ大島地区は屠場と化した。斬殺、撲殺された約400人の死体は山と積み上げられ石油をかけて焼却され川に流されたと伝えられる。大勢の民間人が殺害に加わったが軍と警察の主導のもとに実行された事実は多くの目撃証言から明らかになっている。偶発的な事件ではなく、誤殺でもなかった。起こるべくして起きた虐殺事件だった。
<王希天は何故殺されたか>
1915年に留学生として来日した王希天は若干19歳の青年だった。悲惨な同胞たちの地位向上にかかわりを持ち、危険人物として監視対象となった。「僑日共済会」の会長としての献身的な教育活動、生活改善、生活扶助活動によって労働者たちに感謝され敬愛された。
留学生仲間には後に首相となった周恩来、生き延びて「大島事件」の詳細を伝えた王兆澄がいた。山室軍平、賀川豊彦、佐藤貞吉、沖野岩三郎らの支援、堺利彦、大杉栄、山川均らと交流。中国の将来を担う逸材と目されていた。
日中関係に影響力を持つ人物として日本政府から一目置かれていた彼が、震災から8日過ぎ亀戸にでかけたまま消息を絶った。
中国政府の問い合わせに政府は「行方不明」と回答、またもや隠ぺいが行われた。後に明らかとなった証言で亀戸警察署に留置後の12日早朝軍隊に連れ出され逆井橋のふもとで背後から日本刀で殺害されたことが判明。享年27歳。
殺害は明らかに王希天に対する敵愾心から生まれ、口封じが目的だった。
大震災の直後に平然とふるまった警察と軍の蛮行には唖然とするほかない。「亀戸事件」「大島事件」「王希天事件」は知れば知るほど「知らなかった」で済まされない衝撃的な事件だ。
<事実を知った私(たち)にできること>
今年83才の林伯耀さんは朝鮮人と中国人虐殺への謝罪を求めて運動をしている。政府とそれを支えてきた日本人に対する怒りを隠さない。差別が温存されている現実社会にも注目する。思わず名古屋入管で亡くなったスリランカのウシュマさんを思い出した。
二つの震災と三つの侵略戦争を「つぎつぎに なりゆく いきほい」(丸山真男『歴史意識の古層』」。何事もなりゆきまかせにする日本社会のゆくえが心配だ。かつて周恩来が語った「賠償を求めない。日本の人民もわが国の人民と同じく日本の軍国主義者の犠牲者だ」という言葉を私たちは都合よく安易に理解してはいないだろうか。習近平主席と握手をする際、歴史を知るなら首相として言うべき言葉があったはずだ。
『関東大震災と中国人虐殺事件』(今井清一著)、『関東大震災と中国人』(田原洋著)、『関東大震災中国人虐殺』岩波ブックレットNO217(仁木ふみ子著)、林伯耀講述『死者の恨・生者の恥辱』(日中草の根交流会発行)の一読をおすすめしたい。仁木さんは教員をするかたわら虐殺の真相をたんねんに調べあげ、フィールドワークを通して犠牲者の家族の救済活動をした活動家としても知られる。中国とどう向き合うべきか考えさせる好著だ。
林伯耀さんは来年9月1日に国会前で大集会を計画している。日本社会に活(喝)をいれようと全国を駆けめぐる多忙な毎日を送る。無念の死を遂げた王希天の魂がまるで林さんに乗り移ったかに思える先輩の活動に頭が下がった。
2022.10.28
語り継ぎたい「小繋事件」
東北の農民による100年余にわたる入会権闘争
10月16日付の「しんぶん赤旗」に載った小さな記事に引き寄せられた。「小繋事件 後世に残そう」「岩手 一戸町に100周年記念碑」という2本見出し、2段扱いの記事だった。岩手県一戸(いちのへ)町に、小繋事件(こつなぎじけん)100周年を記念する碑が建立され、15日に関係者が集まって除幕式が行われたという記事だったが、私にとっては、実に久しぶりに出合った小繋事件に関する情報で、さまざまな感慨がわき上がってきた。
小繋事件の舞台となった一戸町小繋は、盛岡市から北へ50キロ、青森県境に近い山村に展開する集落である。2015年の国勢調査では、集落の人口は30世帯、78人だった。ほとんどが農家。
集落を抱くようにして山がある。小繋山(山林の広さについては2000町歩という説もあれば1000町歩という説もある)だ。集落の農民は江戸時代からこの山に自由に立ち入り、薪炭材や木の実、山菜などを採取してきた。つまり、ここは、農民たちにとって生活のためになくてはならない入会地(いりあいち)だった。入会地とは、入会権(いりあいけん=一定地域の住民が、一定の山林原野を共同で利用する慣習上の権利)が設定されている地域のことである。
大正4年(1915年)、集落で火事が発生、ほとんど全戸が焼失した。そこで、農民たちは集落を再建するため小繋山に入り、木を伐採。これに対し、小繋山を所有する地主(茨城県在住)は住民の山への立ち入りを禁止し、時には力ずくで山への出入りを阻止。その一方で、地主側につく住民には入山許可を与えた。このため、集落は地主賛成派と地主反対派に分かれた。
大正6年(1917年)、反対派は「山に入れなければ生きてゆけない」と「入会権確認・妨害排除」を求める民事訴訟を起こす。小繋事件の始まりであった。
昭和7年(1932年)、盛岡地裁は反対派の訴えを棄却。 反対派は宮城控訴院へ控訴するが、昭和11年(1936年)、控訴棄却となる。
昭和19年(1944年)、地主が山林を利用して炭作り事業を開始。反対派は「炭焼きが本格化すれば住民の生活基盤が失われる」として、昭和21年(1946年)、再び「入会権確認・妨害排除」を求める民事訴訟を起こす。第二次小繋訴訟であったが、これも、昭和26年(1951年)、盛岡地裁で棄却となる。反対派は直ちに仙台高裁に控訴し、昭和28年(1953年)に調停が成立する。「地主は住民に対して山林の一部150町歩と現金200万円を贈与する。住民側は入会権など一切主張しない」という内容だった。これで、第二次小繋訴訟は幕を閉じる。
しかし、調停は一部の者たちによって結ばれたものだった。反対派は調停無効の申し立てをし、一方、賛成派は調停を受け入れ、贈与される土地を1人ずつ分けた方がよいとして、反対派に対し「共有物分割請求訴訟」を起こす。調停は、両派の溝を一層深くする。
両派の対立が深まる中、昭和30年(1955年)、反対派が出した調停無効の申し立ては退けられる。そして、その年の10月、岩手県警警官隊150人が集落を急襲し、反対派住民11人を、無断で小繋山の木を伐採したとして森林法違反容疑で逮捕、うち9人が起訴された。小繋事件は刑事事件に発展したわけである。
これに対し、盛岡地裁は昭和34年(1959年)10月、「集落に入会権は存在する。調停は無効」として森林法違反事件については無罪を言い渡す。まさに画期的な判決だった。が、仙台高裁は「入会権は調停で消滅している」として一審判決を覆し、逆転有罪判決。そして、最高裁は昭和41年(1966年)10月、被告側の上告を棄却し、被告たちの有罪が確定した。
「最高裁で負けたからといって住民が小繋山に入会うことをやめることはできない。入会いをやめるのは、農民として生きる権利を放棄することに等しい」。判決を聞いた被告の1人、山本清三郎さんはそう語ったと伝えられている。
農民たちの闘いは敗北した。が、渡辺洋三・東大名誉教授(民法・憲法専攻)は「小繋事件は、日本の林野入会権闘争の歴史に名を残す典型的事例である」と位置づけている(『北方の農民』復刻版、1999年刊)。
私が小繋事件を知ったのは、1959年のことだ。この年、盛岡地裁が小繋事件に関して「入会権は存在する」との画期的判決を下した時、私は全国紙の盛岡支局員だったからである。それがきっかけで、私はその後もこの事件に関心を持ち続けた。この事件の最高裁判決があった時は東京本社に移っていたから、この判決を最高裁の構内で聞いた。
最高裁判決に先立つ1953年ころから、小繋の農民たちの闘いを支援する人たちが現れる。なかでも、強く印象に残っているのは藤本正利さんである。早稲田大学の大学院で法社会学を学んでいた藤本さんは小繋の農民たちへの支援を思い立つと、小繋に移住し、そこで暮らしながら農民たちと共に闘った。1955年に森林法違反で逮捕された住民11人のうちの1人だった。
藤本さんの師であった戒能通孝さんは都立大学教授というポストを投げ打って弁護士となり、農民たちの法廷闘争の弁護に専念。法廷闘争といえば、岡林辰夫、竹澤哲夫両弁護士の弁護活動もめざましかった。
メディアの分野では、木原啓吉(朝日新聞新聞記者)、篠崎五六(ルポライター)、川島浩(写真家)、菊池周(ドキュメンタリーカメラマン)、菊池文代(周氏夫人) 、宗像寛(岩波書店編集者)の各氏らの活動が忘れ難い。いずれも1960年代から足しげく小繋を訪れ、農民たちの闘いや生活を記録した。
これらの人びとは皆、すでに故人だ。
今月15日に除幕式が行われた小繋事件100周年記念碑には「小繋の灯」と刻まれている。碑を建立したのは「岩手小つなぎの会」(宮脇善雄代表)。宮脇氏によれば、2017年に「事件から100年を記念する碑を建てよう」という計画が持ち上がり、5年かけて建立にこぎつけたという。岩手県内ばかりでなく、全国からカンパが寄せられた。
小繋事件をユネスコの世界記憶遺産に
記念碑建立の狙いは、「山は誰のもの」をスローガンに、地域に生きる住民が、地元で暮らす権利(入会権)を守るために闘った小繋事件を後世の人たちに伝えることにある。
これを思い立った契機の一つは、近年、入会権を再評価する機運が生まれてきたからだ、と宮脇氏はいう。
きっかけは、米国の経済学者だったエリノア・オストロムさんが、2009年に林や河川など共有資源(コモンズ)の保全管理に関する研究でノーベル経済学賞を受賞したことだった。以来、共有資源を保全、管理する上で地域の入会権が有効な役割を果たすのではないかという見方が強まりつつあるという。
宮脇氏らは、今、一つの運動に取り組んでいる。小繋事件の資料を国連教育科学文化機関(ユネスコ)の「世界の記憶」(世界記憶遺産)に登録させようという運動だ。すでに小繋裁判の全資料をデジタル写真に収めたそうだ。
岩垂 弘 (ジャーナリスト)
10月16日付の「しんぶん赤旗」に載った小さな記事に引き寄せられた。「小繋事件 後世に残そう」「岩手 一戸町に100周年記念碑」という2本見出し、2段扱いの記事だった。岩手県一戸(いちのへ)町に、小繋事件(こつなぎじけん)100周年を記念する碑が建立され、15日に関係者が集まって除幕式が行われたという記事だったが、私にとっては、実に久しぶりに出合った小繋事件に関する情報で、さまざまな感慨がわき上がってきた。
小繋事件の舞台となった一戸町小繋は、盛岡市から北へ50キロ、青森県境に近い山村に展開する集落である。2015年の国勢調査では、集落の人口は30世帯、78人だった。ほとんどが農家。
集落を抱くようにして山がある。小繋山(山林の広さについては2000町歩という説もあれば1000町歩という説もある)だ。集落の農民は江戸時代からこの山に自由に立ち入り、薪炭材や木の実、山菜などを採取してきた。つまり、ここは、農民たちにとって生活のためになくてはならない入会地(いりあいち)だった。入会地とは、入会権(いりあいけん=一定地域の住民が、一定の山林原野を共同で利用する慣習上の権利)が設定されている地域のことである。
大正4年(1915年)、集落で火事が発生、ほとんど全戸が焼失した。そこで、農民たちは集落を再建するため小繋山に入り、木を伐採。これに対し、小繋山を所有する地主(茨城県在住)は住民の山への立ち入りを禁止し、時には力ずくで山への出入りを阻止。その一方で、地主側につく住民には入山許可を与えた。このため、集落は地主賛成派と地主反対派に分かれた。
大正6年(1917年)、反対派は「山に入れなければ生きてゆけない」と「入会権確認・妨害排除」を求める民事訴訟を起こす。小繋事件の始まりであった。
昭和7年(1932年)、盛岡地裁は反対派の訴えを棄却。 反対派は宮城控訴院へ控訴するが、昭和11年(1936年)、控訴棄却となる。
昭和19年(1944年)、地主が山林を利用して炭作り事業を開始。反対派は「炭焼きが本格化すれば住民の生活基盤が失われる」として、昭和21年(1946年)、再び「入会権確認・妨害排除」を求める民事訴訟を起こす。第二次小繋訴訟であったが、これも、昭和26年(1951年)、盛岡地裁で棄却となる。反対派は直ちに仙台高裁に控訴し、昭和28年(1953年)に調停が成立する。「地主は住民に対して山林の一部150町歩と現金200万円を贈与する。住民側は入会権など一切主張しない」という内容だった。これで、第二次小繋訴訟は幕を閉じる。
しかし、調停は一部の者たちによって結ばれたものだった。反対派は調停無効の申し立てをし、一方、賛成派は調停を受け入れ、贈与される土地を1人ずつ分けた方がよいとして、反対派に対し「共有物分割請求訴訟」を起こす。調停は、両派の溝を一層深くする。
両派の対立が深まる中、昭和30年(1955年)、反対派が出した調停無効の申し立ては退けられる。そして、その年の10月、岩手県警警官隊150人が集落を急襲し、反対派住民11人を、無断で小繋山の木を伐採したとして森林法違反容疑で逮捕、うち9人が起訴された。小繋事件は刑事事件に発展したわけである。
これに対し、盛岡地裁は昭和34年(1959年)10月、「集落に入会権は存在する。調停は無効」として森林法違反事件については無罪を言い渡す。まさに画期的な判決だった。が、仙台高裁は「入会権は調停で消滅している」として一審判決を覆し、逆転有罪判決。そして、最高裁は昭和41年(1966年)10月、被告側の上告を棄却し、被告たちの有罪が確定した。
「最高裁で負けたからといって住民が小繋山に入会うことをやめることはできない。入会いをやめるのは、農民として生きる権利を放棄することに等しい」。判決を聞いた被告の1人、山本清三郎さんはそう語ったと伝えられている。
農民たちの闘いは敗北した。が、渡辺洋三・東大名誉教授(民法・憲法専攻)は「小繋事件は、日本の林野入会権闘争の歴史に名を残す典型的事例である」と位置づけている(『北方の農民』復刻版、1999年刊)。
私が小繋事件を知ったのは、1959年のことだ。この年、盛岡地裁が小繋事件に関して「入会権は存在する」との画期的判決を下した時、私は全国紙の盛岡支局員だったからである。それがきっかけで、私はその後もこの事件に関心を持ち続けた。この事件の最高裁判決があった時は東京本社に移っていたから、この判決を最高裁の構内で聞いた。
最高裁判決に先立つ1953年ころから、小繋の農民たちの闘いを支援する人たちが現れる。なかでも、強く印象に残っているのは藤本正利さんである。早稲田大学の大学院で法社会学を学んでいた藤本さんは小繋の農民たちへの支援を思い立つと、小繋に移住し、そこで暮らしながら農民たちと共に闘った。1955年に森林法違反で逮捕された住民11人のうちの1人だった。
藤本さんの師であった戒能通孝さんは都立大学教授というポストを投げ打って弁護士となり、農民たちの法廷闘争の弁護に専念。法廷闘争といえば、岡林辰夫、竹澤哲夫両弁護士の弁護活動もめざましかった。
メディアの分野では、木原啓吉(朝日新聞新聞記者)、篠崎五六(ルポライター)、川島浩(写真家)、菊池周(ドキュメンタリーカメラマン)、菊池文代(周氏夫人) 、宗像寛(岩波書店編集者)の各氏らの活動が忘れ難い。いずれも1960年代から足しげく小繋を訪れ、農民たちの闘いや生活を記録した。
これらの人びとは皆、すでに故人だ。
今月15日に除幕式が行われた小繋事件100周年記念碑には「小繋の灯」と刻まれている。碑を建立したのは「岩手小つなぎの会」(宮脇善雄代表)。宮脇氏によれば、2017年に「事件から100年を記念する碑を建てよう」という計画が持ち上がり、5年かけて建立にこぎつけたという。岩手県内ばかりでなく、全国からカンパが寄せられた。
小繋事件をユネスコの世界記憶遺産に
記念碑建立の狙いは、「山は誰のもの」をスローガンに、地域に生きる住民が、地元で暮らす権利(入会権)を守るために闘った小繋事件を後世の人たちに伝えることにある。
これを思い立った契機の一つは、近年、入会権を再評価する機運が生まれてきたからだ、と宮脇氏はいう。
きっかけは、米国の経済学者だったエリノア・オストロムさんが、2009年に林や河川など共有資源(コモンズ)の保全管理に関する研究でノーベル経済学賞を受賞したことだった。以来、共有資源を保全、管理する上で地域の入会権が有効な役割を果たすのではないかという見方が強まりつつあるという。
宮脇氏らは、今、一つの運動に取り組んでいる。小繋事件の資料を国連教育科学文化機関(ユネスコ)の「世界の記憶」(世界記憶遺産)に登録させようという運動だ。すでに小繋裁判の全資料をデジタル写真に収めたそうだ。
2022.10.03
福島からのメッセージ
<編集委員会から>
岸田政権が原発の再稼働と新増設を打ち出しました。しかし、東京電力福島第1原子力発電所の事故から11年たっても、事故によってもたらされた諸問題は解決されていません。メディアもこうした現状を的確に伝えていません。そこで、福島で反原発運動を続けている武藤類子さんが、8月6日に広島市で開催された「8・6ヒロシマ平和へのつどい2022」に寄せた「福島からのメッセージ」を紹介します。転載にあたっては「8・6ヒロシマ平和へのつどい事務局」の許可を得ております。
終わらない核被害
武藤類子 (福島原発告訴団団長)
8・6ヒロシマ平和へのつどい」に繋がる皆さまのたゆまぬ活動に、感謝を申し上げます。
原爆投下から77年の月日が経ちますが、核のもたらす被害は、今も福島へと続いています。
福島原発事故から11年、未だに「原子力緊急事態宣言」は発令されたままです。
福島第一原発は、冷温停止状態と発表された2011年の12月から、30年後ないし40年後までに廃炉にするというロードマップが示されていますが、実際には廃炉の最終形がどんな状態を示すのかすら提示できていません。ごく最近に1号機の圧力容器を支える土台の一部で、炉心溶融の高温でコンクリートが溶け鉄筋がむき出しになっていたことが分かり、原子力規制委員会も「安全な状態ではない」と言っています。高い放射線量に阻まれ、遠隔操作でも思うように作業は進まず、結局人が放射線量の高い非常に危険な場所での作業に駆り出されています。
避難区域の解除は、事故前の許容被ばく限度の20倍の放射線量で行われ、そこで子どもを含む住民が日常生活を過ごすことが促されています。
事故から10年を契機に、行政による避難者の切り捨てが顕著になり、提供された避難住宅をさまざまな事情で出ることができない避難者に対し、福島県が損害金としての2倍家賃を請求したり、裁判に訴える事態にもなっています。戻らない避難者の代わりに県外からの移住者支援に予算を付けて力を入れ、故郷はもはや違う人が住む違う町へと変わって行きます。
原発事故の被ばくによる健康被害は事故直後から徹底的に否定され、事故後多発している小児甲状腺がんさえ因果関係は認められていません。今年3月に当時6歳から16歳の甲状腺がん当事者が裁判を起こしました。そのような重荷を背負わさざるを得なかったことに心が痛むと同時に、大人としてできる限りの支援を呼びかけたいと思います。
原発構内に貯められているALPS処理汚染水を薄めて海洋放出する計画は、漁業者をはじめ農林業、観光業界なども反対をしていますし、福島の7割以上の地方自治体議会も、反対の意見書を国に送っています。多くの県民も反対し、さまざまなアクションを起こしていますが、東電は一部の工事を「認可が必要ない箇所だ」と言って強引に工事を始めています。
除染で集められた汚染土は「再生資材」と名を変えて、農地などで再利用する計画が進められています。汚染された樹木を、除染を兼ねると謳って木質バイオマス発電所で燃やすなど、本来閉じ込めて管理すべき放射性物質を意図的に環境に拡散しようとしています。
事故当時の東京電力経営陣の刑事責任は、強制起訴裁判で明らかにされた多くの証拠にも拘らず、東京地裁で無罪判決が下され、つい先日控訴審が結審したところです。判決は来年の1月に下されます。6月17日の民事の損害賠償裁判の最高裁の統一判断は信じがたいことに国の責任が認められませんでした。司法までもが、原子力行政に飲み込まれているのかと思わざるを得ません。
原発事故の被害はより見えなくされ、「復興」へと邁進する姿だけが取り上げられ、人々は事故の被害や不安について口をつぐむようになり、放射線防護への関心や対策は大きく後退しています。これが現在の福島の姿です。
原発は原爆と同じ技術を使った発電方法であり、原爆が抱えてきた「圧倒的な力のためには犠牲を厭わない」という冷酷な思想が受け継がれていると感じています。
ロシアのウクライナ侵略戦争により、原発が核兵器になり得ることを世界中の人が認識できたにも関わらず、この国の首相は、この冬に原発9基を再稼働する方針を発表しました。
今、世界中に核分裂による放射性物質が生成され、残され、放置され、漏れ出し、知らぬ間に命を脅かしています。人類は本来共存できないものと、ともに暮らしていかなければならなくなりました。
私たちは、今こそ世界の被ばく者と繋がり、力を合せて、この状況を少しでも良い方向に向けていかなければ、子どもたち、未来の人々に更に重い荷物を背負わせることになります。
広島で、長きに渡り大変な闘いをされ、少しずつ少しずつ道を開いて来られた皆さまと繋がり、ともに闘っていきたいと心から願っております。
本日の盛会を祈り、福島からの連帯のご挨拶とさせていただきます。
〈追記〉
1)7月22日、原子力規制委員会が「福島第1原子力発電所特定原子力施設に係る実施計画」の変更認可申請について認可し、8月2日、内堀雅雄福島県知事と吉田淳大熊町町長、伊沢史朗双葉町町長が、小早川智明東京電力社長と福島県庁で面会して、周辺地域の安全確保に関する協定に基づき「事前了解」を伝えた。8月3日より本格的な工事が始まった。
2)7月13日、東京地裁は東電株主代表訴訟で東電旧経営陣の責任を認め、会社に13兆3210億円の支払い命じる。
<武藤類子(むとう るいこ)さんの略歴>
1953年福島県生まれ。福島県三春町在住。版下職人、養護学校教員を経て、2003年に里山喫茶「燦(きらら)」を開店。チェルノブイリ原発事故を機に反原発運動にかかわる。福島原発告訴団団長、原発事故被害者団体連絡会代表。3・11甲状腺がん子ども基金副代表理事。著書に『福島からあなたへ』『10年後の福島からあなたへ』(大月書店)、『どんぐりの森から』(緑風出版)
2022.09.30
労働者協同組合法が施行へ
制定運動開始から40年余にして実現
労働者協同組合法が10月1日から施行される。労働者自身が出資、経営参加し、働く事業体を協同組合の一形態として認めようという法律だ。日本の歴史に初めて登場する新しい労働形態、新しい協同組合の形態で、まさに日本社会にとって画期的な出来事である。労働者の間で1970年代に芽生えた、働く者の主体性の確立を目指す運動が、40余年の歳月を経てようやく実現する。
労働者自身が出資、運営し、働く事業体
労働者協同組合法の第1条には、こう書かれている。
「この法律は、各人が生活との調和を保ちつつその意欲及び能力に応じて就労する機会が必ずしも十分に確保されていない現状等を踏まえ、組合員が出資し、それぞれの意見を反映して組合の事業が行われ、及び組合員自らが事業に従事することを基本原理とする組織に関し、設立、管理その他必要な事項を定めること等により、多様な就労の機会を創出することを促進するとともに、当該組織を通じて地域における多様な需要に応じた事業が行われることを促進し、もって持続可能で活力ある地域社会の実現に資することを目的とする」
この条文のキーポイントは、労働者協同組合を「組合員が出資し、それぞれの意見を反映して組合の事業が行われ、及び組合員自らが事業に従事することを基本原理とする組織」としている点だろう。ここに、この新しい協同組合の性格が端的に規定されている、と言ってよい。
きっかけは政府による失対事業打ち切り
こういった性格をもつ協同組合をつくろうという運動の誕生は1970年代に遡る。
きっかけは、71年に政府が、それまで政府の直轄事業で行ってきた失業対策事業への新規就労を禁止したことだった。いわば、失対事業の事実上の打ち切りだった。
このため、失対事業からあぶれた失業者を前にして、失対労働者の全国組織であった全日本自由労働組合(全日自労)は、自治体の事業を請け負うための「中高年・雇用福祉事業団」を自らつくり、失業者を吸収するという方式を編み出した。職を失った失対労働者が自ら雇用の確保に乗り出したわけである。自治体の事業を請け負うばかりでなく、自ら事業を創出することにも乗り出した。
こうした事業団が全国各地につくられ、1979年には「中高年・雇用福祉事業団全国協議会」が結成される。86年には「中高年・雇用福祉事業団(労働者協同組合)全国連合会」に改称する。この名称変えからも分かるように、事業団は自らを協同組合と規定したのだった。協同組合は、株式会社のような営利企業ではなく、非営利団体である。そして、組合員は「1人1票」、つまり平等だ。
92年には世界の協同組合組織である国際協同組合同盟(ICA)への加盟を認められ、それを受けて、中高年・雇用福祉事業団(労働者協同組合)全国連合会は93年、「日本労働者協同組合(ワーカーズコープ)連合会」と改称する。
ところが、労協関係者の悩みは、労働者協同組合に関する法律がないことだった。だから、組合を設立しても人格のない社団、すなわち任意団体に留まざるを得ない。これでは、事業を興しても社会的な信用を得られない。官公庁との契約では不利な立場におかれるし、「協同組合」と名乗っても任意団体では軽減税率の対象から外される。
このため、1980年代半ばから、日本労協連やワーカーズコレクティブ関係者によって、労働者協同組合法制化運動が続けられてきた。運動側の働きかけによって、国会内で「協同組合振興研究議員連盟」が発足、2020年春の通常国会に超党派の議員立法として労働者協同組合法案が提出され、臨時国会中の12月4日に参院本会議で可決され、成立した。
根底に“賃金奴隷”から解放されたいという宿願
私は1979年から、この運動の取材を続けてきたが、その過程で、「この運動は、労働者による自己解放のための闘いではないか」と思うようになった。
産業革命以来の人類の歴史は大まかに言って、2つの階級による闘いの歴史だ。2つの階級とは資本家階級と労働者階級である。産業の発展を支える企業を所有し、運営するのは資本家階級であり、その資本家階級に雇われて働くのが労働者階級で、別な言い方をするならば、企業の主人公は資本家であり、その主人公に使役させられるのが労働者という構図だ。かつては「労働者は“賃金奴隷”」という言い方もあった。
労働者階級はそんな地位に甘んじてきたわけではない。“賃金奴隷”から自己を解放して企業の、ひいては国家の主人公になろうと、団結してさまざまな闘いを展開してきた。その代表的なものが社会主義・共産主義運動だった。つまり、革命を起こし労働者を主人公とする国家を樹立することで自らを解放しようとしたのだった。
その一方で、それとは別のやり方で企業や地域の主人公になろうという運動に向かった労働者たちが海の向こうにいた。労働者自身が出資、経営し、働くという協同組合をつくり、運営するという行き方を通じて自分たちの宿願を果たそうというわけだ。自らの手による自己解放と、労働者を主体とする自治の確立。こうした運動の世界的に著名なものとしては、1844年に英国・ロッチデールで創設された「ロッチデール公正先駆者組合」、1956年にスペイン北部のモンドラゴンで産声をあげた工業協同組合がある。この2つは、世界の協同組合関係者にとって聖地となった。
それらに比べれば、日本での運動のスタートはかなり後発だが、労働者協同組合法の施行によっていよいよ待望の第一歩を踏み出したと言える。
労協法制化の過程で問題になったのは、組合員に労働基準法、最低賃金法、労働組合法などの労働関連法が適用されるかどうかの問題だったが、結局、適用されることになった。
ただ今、組合員は1万5000、事業高は350億円
日本労協連によると、同労協連加盟団体は28、それらの団体の2020年度総事業高は350億円、就労者は15,567人。他に高齢者生活協同組合の組合員が46,381人。事業内容は介護・福祉関連、子育て関連、建物管理、公共施設運営、若者・困窮支援、環境緑化関連などだという。
なお、労協法施行を前にして、日本労協連は9月30日午後3時から、東京・池袋の本部に労協法制定に取り組んだ組合員や国会議員を招いて「労働者協同組合法 施行記念イベント(前日祭)」を開催する。
岩垂 弘 (ジャーナリスト)
労働者協同組合法が10月1日から施行される。労働者自身が出資、経営参加し、働く事業体を協同組合の一形態として認めようという法律だ。日本の歴史に初めて登場する新しい労働形態、新しい協同組合の形態で、まさに日本社会にとって画期的な出来事である。労働者の間で1970年代に芽生えた、働く者の主体性の確立を目指す運動が、40余年の歳月を経てようやく実現する。
労働者自身が出資、運営し、働く事業体
労働者協同組合法の第1条には、こう書かれている。
「この法律は、各人が生活との調和を保ちつつその意欲及び能力に応じて就労する機会が必ずしも十分に確保されていない現状等を踏まえ、組合員が出資し、それぞれの意見を反映して組合の事業が行われ、及び組合員自らが事業に従事することを基本原理とする組織に関し、設立、管理その他必要な事項を定めること等により、多様な就労の機会を創出することを促進するとともに、当該組織を通じて地域における多様な需要に応じた事業が行われることを促進し、もって持続可能で活力ある地域社会の実現に資することを目的とする」
この条文のキーポイントは、労働者協同組合を「組合員が出資し、それぞれの意見を反映して組合の事業が行われ、及び組合員自らが事業に従事することを基本原理とする組織」としている点だろう。ここに、この新しい協同組合の性格が端的に規定されている、と言ってよい。
きっかけは政府による失対事業打ち切り
こういった性格をもつ協同組合をつくろうという運動の誕生は1970年代に遡る。
きっかけは、71年に政府が、それまで政府の直轄事業で行ってきた失業対策事業への新規就労を禁止したことだった。いわば、失対事業の事実上の打ち切りだった。
このため、失対事業からあぶれた失業者を前にして、失対労働者の全国組織であった全日本自由労働組合(全日自労)は、自治体の事業を請け負うための「中高年・雇用福祉事業団」を自らつくり、失業者を吸収するという方式を編み出した。職を失った失対労働者が自ら雇用の確保に乗り出したわけである。自治体の事業を請け負うばかりでなく、自ら事業を創出することにも乗り出した。
こうした事業団が全国各地につくられ、1979年には「中高年・雇用福祉事業団全国協議会」が結成される。86年には「中高年・雇用福祉事業団(労働者協同組合)全国連合会」に改称する。この名称変えからも分かるように、事業団は自らを協同組合と規定したのだった。協同組合は、株式会社のような営利企業ではなく、非営利団体である。そして、組合員は「1人1票」、つまり平等だ。
92年には世界の協同組合組織である国際協同組合同盟(ICA)への加盟を認められ、それを受けて、中高年・雇用福祉事業団(労働者協同組合)全国連合会は93年、「日本労働者協同組合(ワーカーズコープ)連合会」と改称する。
ところが、労協関係者の悩みは、労働者協同組合に関する法律がないことだった。だから、組合を設立しても人格のない社団、すなわち任意団体に留まざるを得ない。これでは、事業を興しても社会的な信用を得られない。官公庁との契約では不利な立場におかれるし、「協同組合」と名乗っても任意団体では軽減税率の対象から外される。
このため、1980年代半ばから、日本労協連やワーカーズコレクティブ関係者によって、労働者協同組合法制化運動が続けられてきた。運動側の働きかけによって、国会内で「協同組合振興研究議員連盟」が発足、2020年春の通常国会に超党派の議員立法として労働者協同組合法案が提出され、臨時国会中の12月4日に参院本会議で可決され、成立した。
根底に“賃金奴隷”から解放されたいという宿願
私は1979年から、この運動の取材を続けてきたが、その過程で、「この運動は、労働者による自己解放のための闘いではないか」と思うようになった。
産業革命以来の人類の歴史は大まかに言って、2つの階級による闘いの歴史だ。2つの階級とは資本家階級と労働者階級である。産業の発展を支える企業を所有し、運営するのは資本家階級であり、その資本家階級に雇われて働くのが労働者階級で、別な言い方をするならば、企業の主人公は資本家であり、その主人公に使役させられるのが労働者という構図だ。かつては「労働者は“賃金奴隷”」という言い方もあった。
労働者階級はそんな地位に甘んじてきたわけではない。“賃金奴隷”から自己を解放して企業の、ひいては国家の主人公になろうと、団結してさまざまな闘いを展開してきた。その代表的なものが社会主義・共産主義運動だった。つまり、革命を起こし労働者を主人公とする国家を樹立することで自らを解放しようとしたのだった。
その一方で、それとは別のやり方で企業や地域の主人公になろうという運動に向かった労働者たちが海の向こうにいた。労働者自身が出資、経営し、働くという協同組合をつくり、運営するという行き方を通じて自分たちの宿願を果たそうというわけだ。自らの手による自己解放と、労働者を主体とする自治の確立。こうした運動の世界的に著名なものとしては、1844年に英国・ロッチデールで創設された「ロッチデール公正先駆者組合」、1956年にスペイン北部のモンドラゴンで産声をあげた工業協同組合がある。この2つは、世界の協同組合関係者にとって聖地となった。
それらに比べれば、日本での運動のスタートはかなり後発だが、労働者協同組合法の施行によっていよいよ待望の第一歩を踏み出したと言える。
労協法制化の過程で問題になったのは、組合員に労働基準法、最低賃金法、労働組合法などの労働関連法が適用されるかどうかの問題だったが、結局、適用されることになった。
ただ今、組合員は1万5000、事業高は350億円
日本労協連によると、同労協連加盟団体は28、それらの団体の2020年度総事業高は350億円、就労者は15,567人。他に高齢者生活協同組合の組合員が46,381人。事業内容は介護・福祉関連、子育て関連、建物管理、公共施設運営、若者・困窮支援、環境緑化関連などだという。
なお、労協法施行を前にして、日本労協連は9月30日午後3時から、東京・池袋の本部に労協法制定に取り組んだ組合員や国会議員を招いて「労働者協同組合法 施行記念イベント(前日祭)」を開催する。