2008.04.17
石井桃子「ノンちゃん雲に乗る」
それは戦場に向かう若者のための作品だった
その人の訃報に接した時、私の脳裏にとっさに浮かんできたのは、その人がもらした一言だった。「そう、戦場に向かわなければならない青年たちが読んで心和むようなものを書きたかったのね。それが、『ノンちゃん雲に乗る』だったのよ」。その人とは、4月2日に101歳で亡くなった、児童文学者の石井桃子さんだ。その一言を私が聞いたのは、今から25年前のことである。
私が東京都杉並区荻窪に一人住まいしていた石井桃子さんを訪ねたのは1983年(昭和58年)1月21日のことだ。
当時、朝日新聞社は『新人国記』を連載中だった。1981年から始まった続き物で、都道府県ごとにそこを出身地とする著名人とその仕事を紹介するというものだった。私は岩手県と埼玉県を担当したが、埼玉県の取材で石井さんを訪れた。石井さんが浦和市(現さいたま市)生まれだったからだ。
当時、石井さんは75歳。すでに児童文学の第一人者としての名声が高く、とりわけ『ノンちゃん雲に乗る』の作者としてよく知られていた。私もこの作品を読んでいたし、鰐淵晴子主演で映画化された作品も観ていたから、石井さんへのインタビューを前にして心が躍った。
岩垂 弘 (ジャーナリスト)
その人の訃報に接した時、私の脳裏にとっさに浮かんできたのは、その人がもらした一言だった。「そう、戦場に向かわなければならない青年たちが読んで心和むようなものを書きたかったのね。それが、『ノンちゃん雲に乗る』だったのよ」。その人とは、4月2日に101歳で亡くなった、児童文学者の石井桃子さんだ。その一言を私が聞いたのは、今から25年前のことである。
私が東京都杉並区荻窪に一人住まいしていた石井桃子さんを訪ねたのは1983年(昭和58年)1月21日のことだ。
当時、朝日新聞社は『新人国記』を連載中だった。1981年から始まった続き物で、都道府県ごとにそこを出身地とする著名人とその仕事を紹介するというものだった。私は岩手県と埼玉県を担当したが、埼玉県の取材で石井さんを訪れた。石井さんが浦和市(現さいたま市)生まれだったからだ。
当時、石井さんは75歳。すでに児童文学の第一人者としての名声が高く、とりわけ『ノンちゃん雲に乗る』の作者としてよく知られていた。私もこの作品を読んでいたし、鰐淵晴子主演で映画化された作品も観ていたから、石井さんへのインタビューを前にして心が躍った。
2008.04.07
いいことをしている生協もある
2008.04.03
地の塩・一粒の麦に徹す
中島竜美さんを悼む
「彼こそ、地の塩、一粒の麦と呼ぶにふさわしい人だった」。1月10日に急逝したフリージャーナリストで在韓被爆者問題市民会議代表の中島竜美さん(80歳)を偲ぶ会が3月29日、東京・杉並区阿佐谷で開かれ、その死を悼んで集まった人たちは口々に在外被爆者、とりわけ在韓被爆者の援護のために半生をささげた中島さんの功績を讃えた。

中島さんは東京都出身。早稲田大学を卒業後、執筆活動に入った。東京から広島へ通い、もっぱら原爆被害者に関する取材にあたった。
1960年代の半ば、そのころ、韓国在住の被爆者の実情を日本に初めて紹介した中国新聞記者の平岡敬氏(その後、広島市長)と知り合う。広島、長崎で被爆した朝鮮人は太平洋戦争後、祖国に引き揚げるが、被爆地の政府(日本政府)からも韓国政府からも放置され、身体面でも生活面でも苦境のどん底にあった。中島さんは平岡氏を通じて在韓被爆者の実態を知る。こうして、在韓被爆者援護問題が中島さんにとって終生の関心事となる。
岩垂 弘 (ジャーナリスト)
「彼こそ、地の塩、一粒の麦と呼ぶにふさわしい人だった」。1月10日に急逝したフリージャーナリストで在韓被爆者問題市民会議代表の中島竜美さん(80歳)を偲ぶ会が3月29日、東京・杉並区阿佐谷で開かれ、その死を悼んで集まった人たちは口々に在外被爆者、とりわけ在韓被爆者の援護のために半生をささげた中島さんの功績を讃えた。

中島さんは東京都出身。早稲田大学を卒業後、執筆活動に入った。東京から広島へ通い、もっぱら原爆被害者に関する取材にあたった。
1960年代の半ば、そのころ、韓国在住の被爆者の実情を日本に初めて紹介した中国新聞記者の平岡敬氏(その後、広島市長)と知り合う。広島、長崎で被爆した朝鮮人は太平洋戦争後、祖国に引き揚げるが、被爆地の政府(日本政府)からも韓国政府からも放置され、身体面でも生活面でも苦境のどん底にあった。中島さんは平岡氏を通じて在韓被爆者の実態を知る。こうして、在韓被爆者援護問題が中島さんにとって終生の関心事となる。
2008.02.26
お懐かしや!三浦和義氏
暴論珍説メモ(番外)
あの三浦和義氏(この人のことをどういう肩書きで呼んだらいいのか分からない。新聞は「元社長」「元被告」「容疑者」などさまざまだが、ここではとりあえず「氏」にしておく)が23日、サイパンで米警察に逮捕されたというニュースには驚かされた。
日本の最高裁で5年前に無罪が確定した27年前の妻の一美さん殺しで、米警察があらためて逮捕したとなれば、新証拠が出たか、新証人が現れたか、ともかくそれ相当の材料があるからであろうから、これからのことは進展を見守るしかない。
なのになぜここに一文を載せようとしているか、まあ聞いてください、あの騒ぎのさなか、最初に本人にインタビューしたのはほかならぬこの私だったのですから。以下は老記者の昔話です。
当時(いつのことだったかもはっきりしません。ともかく騒ぎが最高潮の時です)私はTBSで『報道特集』(これは今でもあります)という番組のキャスターをしておりました。三浦氏への疑惑が深まり、三浦氏の家の前には毎日大勢の報道陣がつめかけて彼の話を聞こうとしていましたが、彼はそれに応じようとしませんでした。某有名芸能レポーターは毎日大きな花束を抱えて彼の家の玄関に立ちましたが、それでも会うことが出来ませんでした。
田畑光永 (ジャーナリスト)
あの三浦和義氏(この人のことをどういう肩書きで呼んだらいいのか分からない。新聞は「元社長」「元被告」「容疑者」などさまざまだが、ここではとりあえず「氏」にしておく)が23日、サイパンで米警察に逮捕されたというニュースには驚かされた。
日本の最高裁で5年前に無罪が確定した27年前の妻の一美さん殺しで、米警察があらためて逮捕したとなれば、新証拠が出たか、新証人が現れたか、ともかくそれ相当の材料があるからであろうから、これからのことは進展を見守るしかない。
なのになぜここに一文を載せようとしているか、まあ聞いてください、あの騒ぎのさなか、最初に本人にインタビューしたのはほかならぬこの私だったのですから。以下は老記者の昔話です。
当時(いつのことだったかもはっきりしません。ともかく騒ぎが最高潮の時です)私はTBSで『報道特集』(これは今でもあります)という番組のキャスターをしておりました。三浦氏への疑惑が深まり、三浦氏の家の前には毎日大勢の報道陣がつめかけて彼の話を聞こうとしていましたが、彼はそれに応じようとしませんでした。某有名芸能レポーターは毎日大きな花束を抱えて彼の家の玄関に立ちましたが、それでも会うことが出来ませんでした。
2008.02.20
1万号を超えた日刊の職場新聞
2008.01.02
憲法をめぐるせめぎ合い
岩垂 弘 (ジャーナリスト)
連合通信社が護憲テキストを発行
労働組合や市民団体にニュースを配信している連合通信社(東京都港区)が、『憲法をめぐるせめぎ合い――その今とこれから』と題するブックレットを出版した。同通信社製のチラシに「止まらない改憲策動に勝つための新たなたたかいの展望を示す一冊」とあるように、参院選後の新しい情勢を踏まえて平和憲法を守る運動をさらに強めるためにつくられたテキストである。これは、法律の専門家による「日本国憲法の解説書」や「憲法問題の解説書」ではない。改憲阻止の運動を進める自由法曹団で、運動の先頭に立ってきた坂本修弁護士(前自由法曹団団長)に「マスコミ・文化九条の会 所沢」がインタビューし、改憲問題の現状と、護憲運動の課題と展望を語らせたものだ。いわば、坂本弁護士による護憲のための実践レポートといってよい。
2007.12.23
金子徳好さんを悼む
反戦・反核に徹した行動の人
今年も、先輩、同僚、後輩、親友、知人らが相次いで亡くなった。行く年を送るにあたり、これらの人々に改めて思いをはせ、哀悼の誠をささげるが、とりわけ、この人の生き方と業績に敬意を表したいと思う。
この人とは、金子徳好(かねこ・とくよし)さんである。
金子さんは、一九二四年、東京・代々木で、大工の棟梁の四男として生まれた。東京高等農林学校(現東京農工大学)を中退後に応召。復員後は、渋谷区内で地域新聞や子ども向け新聞などを主宰し、一九五一年から全国銀行従業員組合連合会の機関紙編集に携わる。一九五六年には日本機関紙協会に移り、事務局長を経て副理事長となる。定年まで一年を残して一九八三年に退職した。その後、さまざまな活動に挑戦。ところが、六年前、脳梗塞で半身不随となりリハビリに専念していたが、今年の十一月二十六日、心筋梗塞で死去した。八十三歳だった。
日本機関紙協会とは、労働組合や市民団体による機関紙づくりを指導したり、応援する団体だ。金子さんはそこのリーダーとして、多くの編集者を育てた。労組機関紙や地域新聞の実情にも詳しく、自ら「ミニコミ研究家」と称した。なかなかの書き手で、『宣伝活動入門』『ミニコミ道場』などの著書があるほか、切り絵作家の妻、静枝さんと共著で『東京わが町』を出版したこともある。
自分でも地域紙を編集、発行した。とくに注目を浴びたものに、金子さんが居住地の東京・三鷹市で一九七九年から地元の仲間とともに発行した『みたか きいたか』がある。発行部数は、ピーク時には一千部に達した。
大の酒好き。それも日本酒党。明るく、気さくな人柄が多くの機関紙関係者を引きつけ、それらの人々の間では、「徳好(とっこう)さん」の愛称で呼ばれた。
しかし、金子さんの存在を世に知らしめたのは、「反戦ゼッケン通勤」だろう。すなわち、ベトナム戦争中、「アメリカはベトナムから手をひけ」と書いたゼッケンを胸につけ、毎日、三鷹市の自宅から港区の勤務先まで通勤したことだ。
それは、ひょんなことから始まった。一九六五年四月。金子さんは職場の仲間と酒を飲んだ。話題はもっぱらベトナム戦争だった。この年二月、アメリカ軍が北ベトナムへの爆撃(北爆)を開始したことから、ベトナム戦争はいっきにエスカレーションし、世界中で反戦運動が高まりつつあった。
酒席では「北爆反対の運動を始めなくては」「北爆反対のゼッケンをつけてデモンストレーションをするというのはどうか」などといった声があがった。仲間の一人が「事務局長の金子さんが先頭にたってやらねば」と口走ったのを受けて、金子さんは酔った勢いもあって「よし、やるぞ」と叫んでしまった。
酒席での約束とはいえ、いまさら後へ引くわけにはいかない。三日後、ゼッケンをつけて電車に乗ると、じろじろと奇異な目で見られ、なんとも恥ずかしかった。酔っぱらいにからまれたこともある。友人には「おれと話す間は取り外してくれ」と言われた。
それでもやめなかった。結局、ベトナム停戦が実現した一九七三年六月まで続けた。八年余がたっていた。三年目から、首から募金箱をぶら下げ、ベトナムの子どもたちへの支援を呼びかけた。ゼッケンを取り外した時、募金は百三十九万円を超えていた。
この間、七一年には戦時下の北ベトナムのハノイを訪れる機会があった。革命博物館を訪れると、「国際連帯の部屋」に自分のゼッケンが陳列されていた。日本を訪れた北ベトナム代表団に贈呈した古いゼッケンだった。
岩垂 弘 (ジャーナリスト)
今年も、先輩、同僚、後輩、親友、知人らが相次いで亡くなった。行く年を送るにあたり、これらの人々に改めて思いをはせ、哀悼の誠をささげるが、とりわけ、この人の生き方と業績に敬意を表したいと思う。
この人とは、金子徳好(かねこ・とくよし)さんである。
金子さんは、一九二四年、東京・代々木で、大工の棟梁の四男として生まれた。東京高等農林学校(現東京農工大学)を中退後に応召。復員後は、渋谷区内で地域新聞や子ども向け新聞などを主宰し、一九五一年から全国銀行従業員組合連合会の機関紙編集に携わる。一九五六年には日本機関紙協会に移り、事務局長を経て副理事長となる。定年まで一年を残して一九八三年に退職した。その後、さまざまな活動に挑戦。ところが、六年前、脳梗塞で半身不随となりリハビリに専念していたが、今年の十一月二十六日、心筋梗塞で死去した。八十三歳だった。
日本機関紙協会とは、労働組合や市民団体による機関紙づくりを指導したり、応援する団体だ。金子さんはそこのリーダーとして、多くの編集者を育てた。労組機関紙や地域新聞の実情にも詳しく、自ら「ミニコミ研究家」と称した。なかなかの書き手で、『宣伝活動入門』『ミニコミ道場』などの著書があるほか、切り絵作家の妻、静枝さんと共著で『東京わが町』を出版したこともある。
自分でも地域紙を編集、発行した。とくに注目を浴びたものに、金子さんが居住地の東京・三鷹市で一九七九年から地元の仲間とともに発行した『みたか きいたか』がある。発行部数は、ピーク時には一千部に達した。
大の酒好き。それも日本酒党。明るく、気さくな人柄が多くの機関紙関係者を引きつけ、それらの人々の間では、「徳好(とっこう)さん」の愛称で呼ばれた。
しかし、金子さんの存在を世に知らしめたのは、「反戦ゼッケン通勤」だろう。すなわち、ベトナム戦争中、「アメリカはベトナムから手をひけ」と書いたゼッケンを胸につけ、毎日、三鷹市の自宅から港区の勤務先まで通勤したことだ。
それは、ひょんなことから始まった。一九六五年四月。金子さんは職場の仲間と酒を飲んだ。話題はもっぱらベトナム戦争だった。この年二月、アメリカ軍が北ベトナムへの爆撃(北爆)を開始したことから、ベトナム戦争はいっきにエスカレーションし、世界中で反戦運動が高まりつつあった。
酒席では「北爆反対の運動を始めなくては」「北爆反対のゼッケンをつけてデモンストレーションをするというのはどうか」などといった声があがった。仲間の一人が「事務局長の金子さんが先頭にたってやらねば」と口走ったのを受けて、金子さんは酔った勢いもあって「よし、やるぞ」と叫んでしまった。
酒席での約束とはいえ、いまさら後へ引くわけにはいかない。三日後、ゼッケンをつけて電車に乗ると、じろじろと奇異な目で見られ、なんとも恥ずかしかった。酔っぱらいにからまれたこともある。友人には「おれと話す間は取り外してくれ」と言われた。
それでもやめなかった。結局、ベトナム停戦が実現した一九七三年六月まで続けた。八年余がたっていた。三年目から、首から募金箱をぶら下げ、ベトナムの子どもたちへの支援を呼びかけた。ゼッケンを取り外した時、募金は百三十九万円を超えていた。
この間、七一年には戦時下の北ベトナムのハノイを訪れる機会があった。革命博物館を訪れると、「国際連帯の部屋」に自分のゼッケンが陳列されていた。日本を訪れた北ベトナム代表団に贈呈した古いゼッケンだった。
2007.11.12
チェ・ゲバラの娘を招請へー小児科医、来年4月に来日か
岩垂 弘 (ジャーナリスト)
キューバ革命の英雄、チェ・ゲバラがボリビアで銃殺されてから40年。命日の10月9日には世界各地で追悼行事が行われたが、わが国では、ゲバラの娘、アレイダ・ゲバラさんを招く計画が進んでいる。
いまのところ、アレイダさんも日本初訪問を快諾し、時期は来年4月の予定。招聘団体としては、アレイダさんに父、チェ・ゲバラについても語ってもらう計画だが、日本でも没後40年を経てもなお熱狂的なゲバラ・ファンが多いだけに、彼女の来日は話題を呼びそうだ。
チェ・ゲバラはアルゼンチン生まれ。大学で医学を学んだが、メキシコ亡命中のカストロ氏(現キューバ国家評議会議長)と出会い、カストロ氏とともにバチスタ政権下のキューバに潜入し、1959年にキューバ革命を成功させた。
国立銀行総裁や工業大臣を務めるが、65年から、コンゴやボリビアで社会主義革命を目指したゲリラ戦を指導、67年10月8日にボリビアの山中で捕らえられ、翌9日、銃殺された。39歳だった。
ゲバラは、革命が成功した年の59年7月に親善大使として来日し、12日間滞在した。その間、広島を訪問し、原爆資料館を見学している。
2007.10.14
長谷川テルの紹介に功績 澤田和子さんを偲ぶ会が開かれる
岩垂 弘 (ジャーナリスト)
10月8日、大阪駅に近い大阪弥生会館で、ある女性平和活動家を偲ぶ集いがあった。百人近い参会者には大阪府下の人々が多かったが、東京や広島から駆けつけた人もいた。女性誌『あごら』は彼女の生涯を紹介する特集号を特別に制作し、集いに間に合わせた。つきあいのあった人たちが口々に彼女の功績を讃え、彼女の活動を引き継ぐことを誓ったが、いずれもその早過ぎる死を惜しんだ。彼女の名は、澤田和子さん。大阪市東淀川区で損保の代理店を営みながら、反核平和運動、護憲運動、女性の権利擁護運動、国際交流活動などに関わっていたが、今年1月、脳出血で倒れ、7月23日、多臓器不全で死去した。68歳だった。
2007.10.10
「被爆者の声」を英語でネット発信
岩垂 弘 (ジャーナリスト)
広島・長崎の原爆被爆者の「声」を収録し続けているジャーナリストの伊藤明彦さん(被爆者の声を記録する会代表)が、被爆者たちの恐怖の体験を海外の人たちにも共有してもらおうと、ボランティアの協力をえて、英語版のウエブサイトを始めた。インターネットに乗って世界中に運ばれる被爆者の「声」は、世界の人たちにどう受け取られるだろうか。インターネットの特質を生かした新しい試みだけに、どんな反響が戻ってか注目される。
伊藤さんは長崎市出身。長崎放送に勤務していた1968年から、被爆者を訪ね、その被爆体験を聞き、録音する作業を始めた。被爆体験というものがどんなものであったかを広く社会に伝えるためだ。やがて、こうした録音作業に専念するため放送局を辞め、早朝・深夜のパート労働で生活費をかせぎながら、作業を続けてきた。これまでに収録した被爆者の声は1840人分にのぼる。
伊藤さんは、収録した被爆者の声を、まずオープン・リールに、次いでカセット・テープ、さらにはCDに編集し、全国の図書館や平和関連施設、個人に寄贈してきた。














