2019.10.11  原発事故から8年半の福島を見る
          復興は進むが、傷痕なお深く                  

岩垂 弘 (ジャーナリスト)
     
 東京電力福島第1原子力発電所が東日本大震災で事故を起こしてから8年半たったのを機会に10月3日、被災地の福島県を訪れた。私の被災地・福島の現地見学は2015年2月、同年10月、2016年10月、2017年10月に次いで今回が5回目。被災地のごく一部を垣間見たに過ぎないが、その印象を一言で言えば、「防潮堤、鉄道、道路、公営住宅などのインフラ整備は進んだが、被災住民が被った傷痕はまだ回復せず、むしろ一部は深化している」というものだった。

 私の最初の原発事故現地見学は、NPO法人が企画した「原発問題肉迫ツアー」に参加することで実現したが、2回目以降は、埼玉ぱるとも会(生活協同組合パルシステム埼玉役員OB会)が毎年実施している「福島ツアー」に途中から加わることで続いてきた。
 今回の福島ツアー「福島のいまを見て、感じよう・2019」の参加者はパルシステム埼玉の元役員、組合員ら総勢18人。バスでさいたま市――福島県いわき市――富岡町――いわき市――さいたま市というコースを回った。案内役は旅館館主で「NPOふよう土2100」の理事長として大震災復興支援事業に携わる里見喜生さんと、生活協同組合パルシステム福島顧問の和田佳代子さん。
 
「福島ツァー」のバスが向かうのはいつも主として富岡町である。なぜなら、富岡町は東日本大震災で甚大な被害を受けた自治体の一つだからだ。同町は事故を起こした東電第1原発から南へ約10キロのところに位置し、大震災では津波に襲われたうえ、原発爆発による放射性物質が降り注ぐというダブルパンチを被った。このため、「全町民避難」という事態に追い込まれ、町役場も郡山市へ退避せざるを得なかった。同町にあった双葉警察署も隣町の楢葉町へ。埼玉ぱるとも会としては、その富岡町に毎年通うということを通じて原子力災害の定点観測を続けてきたわけである。

 案内役の里見さんによると、2019年9月現在で、福島県における津波や福島第1原発の事故で県内、県外に避難を余儀なくされている人は約4万人。ピーク時は約16万だったというから、震災から8年余を経てもなおピーク時の避難者の4分の1が、いまだに我が家があったところに戻れないでいるということになる。

 では、富岡町の場合はどうか。里見さんによると、避難した全町民1万3010人のうち、これまでに町に戻ったのは1080人に過ぎない。全町民の8・3%だ。帰還する町民が少ない理由はいくつもある。一つは、町民の中に今なお残留放射能に対する不安が強いこと。他には、避難した人たちの間で「生活に必要な商店、医療機関、老人介護施設、学校などの整備が十分でない」「すでに避難先で再就職し、いまさら郷里に帰れない。帰ったって働き口がないから」「子どもにも新しい友だちができて、いまさら帰れない」といった思いが強いという。つまり、「帰りたくても、帰れない」というのだ。
原発事故から8年半の福島を見る
        新しい装いの常磐線富岡駅
 私たちが最初に立ち寄ったのは、津波で消滅したJR常磐線の富岡駅跡である。同駅は津波によって駅舎、プラットフォームが破壊されたり、消失したが、新しい駅舎、プラットフォームが完成し、営業を始めていた。2年前にはプラットフォームのわきに万里の長城のように高く積まれていたフレコンバッグ(放射能に汚染された草や土などを詰めた黒い袋)は姿を消し、駅前に無残な残骸をさらしていた、津波で半壊した商店街も跡形もなかった。駅前には、ビジネスホテルができていた。その近くには、震災で住むところを失った人たちが入居する公営住宅が軒を連ねる。
 まるで、津波などなかったような明るい光景だったが、常磐線下り列車の運行は富岡駅までで、同駅から4つ先の浪江駅まではまだ不通とのことだった。

 その後、双葉警察署わきにある、津波で殉職した同署員2人の慰霊碑を参拝。そこから、夜の森地区へ向かった。道路の両側に見事な桜並木が続き、それを挟んで5000軒ほどの住宅街が広がる。震災で全戸に避難指示が出てゴーストタウン(無人地帯)となったが、2017年4月に一部を残して避難指示が解除され、避難地からここへ帰還する人が出始めた。が、里見さんによると、「ポツンポツンと灯がともるようになったのは5000軒のうち1000軒ぐらい。それも、定住でなく、月か週に一度家に帰るといった人が多い」という。
 バスは住宅街のメインストリートを走ったが、人の気配があまり感じられず、むしろ、壁や屋根が朽ちつつある家々が目についた。家屋は、7~8年人が住まないと、中から腐ってくると言われる。現に、住宅街では取り壊しが始まっている、とのことだった。

 住宅街に隣接する広大な田んぼは、見渡す限りのソーラーパネルと化していた。和田さんによると、農民たちは稲作の続行を望んだが、原発事故により田んぼが雑草やセイタカアワダチソウの野原と化したため、それがかなわず、太陽光による発電作業を共同で始めたのだという。パネルは11万枚というからかなり大規模だ。
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富岡町夜の森地区では田んぼの除染作業が行われていた

 夜ノ森駅構内近くの帰還困難地域(立ち入り禁止区域)では、田んぼの除染作業が行われていた。生い茂った放射能に汚染された雑草を刈り取る。次いで、放射能に汚染された表土をはがし、刈り取った雑草とともにフレコンバッグに詰める。それから、新しい土を敷き詰める――という作業だ。パス内の線量計は毎時0・28マイクロシーベルトを示していた。環境相が定めた除染が必要な放射線量は毎時0・23マイクロシーベルトである。
 ツアー参加者の中には「福島では、もう除染作業は終わったのでは」と思っていた人もいて、「まだ除染作業やっているのか」という驚きの声が上がった。
原発事故から8年半の福島を見る 原発事故から8年半の福島を見る
荒廃するケームセンター(富岡町の国道6号線沿線で)         壁が剥がれたパチンコ店(同)

 バスはそこから、国道6号線に出て、それを南下する。道路の両側は富岡町最大の商店街で、大型のガソリンスタンド、パチンコ店、ゲームセンター、寿司屋、レストランなどが並び立つ。が、その多くは壁が剥がれたり、窓枠が壊れたり、雑草に覆われるなどの荒廃が進んでいた。あまりの惨状に、参加者からは声もなく、皆、窓外を流れ去る廃墟のような光景を凝視し続けた。
「なぜ、朽ちつつある建物が放置されたままですか」との質問に、里見さんは言った。「このあたりは未だに放射線量が高く、立ち入り禁止区域になっているからです。皆さんも、ここで車を止めて外へ出ることはできません」

 ツアーが終わりに近づいた時、里見さんの口から出た言葉は「原子力災害はまだ終わっていません。いや、今なお進行しているんです」というものだった。そして、その証拠にと、地元紙・福島民報が毎日、紙面に『県内死者』を掲載していることを挙げた。
9月27日の『県内死者』欄には「直接死 1605人」「関連死 2278人」とあった。これは、26日午後5時現在の数字で、「直接死」は東日本大震災での津波による福島県内の死亡者数、「関連死」は避難の途中に亡くなったり、震災後に災害が原因の病気で亡くなったり、自殺した人の数で、その多くは原発事故にからむ死亡という。
「高市総務相はかつて、原発事故で亡くなった人は1人もいない、と言いましたが、原発事故にからむ死者が福島県では2200人を越し、なお増え続けているんです。しかも、今や、関連死の数が直接死の数を上回る。これは、もう殺人です」

 さらに、年が経るにつれて、被災住民に新たな悩みが生じている。例えば、避難地から元の居住地に戻った人には高齢者が多い。その人たちに介護を必要とする人が出始めている。が、介護施設がない。「どうしていいのか分からない」。そんな声が高まっているという。それから、農民たちの悩みも増している。農作物に対する東電の補償が終了したため、農民たちは自らの手で農作物を販売しなくてはならない。「外食チェーンなどに二束三文で買いたたかれて、という話をよく聞きます」と里見さん。漁民たちの間では「原発事故による汚染水が海に排出されるのでは」との不安が高まっているという。

 帰途のバス車内で、参加者全員が、見学を終えての感想を述べ合ったが、1人の女性の発言が心に残った。「復興とは、元に戻すということです。きょうの見聞から見ても、原発事故の被災地はまだ復興していません。インフラや人々の生活を1日も早く震災前の状態に戻さなければなりませんが、それだけでは復興したと言えない。真の復興とは、ひどい災害をもたらした原発を完全になくすことです」

 彼女の発言に共感したが、いま1つ、私の感想を付け加えたい。それはこういうことである。「原発を推進してきたのは、政治家、官僚、電力会社経営者、学者、マスメディア関係者らである。が、これだけの原子力災害を引き起こしながら、誰ひとり責任をとらない。こんなことが許されるだろうか」

 
2019.10.03  大学改革-何が目標なのか
          「スーパーグローバル大学」のその後

小川 洋 (大学非常勤講師)

 この6月上旬、筆者はフランス、ノルマンジーの小さな町のホテルに宿泊した。そこで魅力的な若いカップルと一緒になり、いろいろと話が弾んだ。ウクライナで学業を終えて仕事に就き、その後、デンマークに移り、現在はユトレヒトに住んでいるという。初夏のフランスで週末を過ごすために車でやってきたカップルは、「イタリアは住むには魅力的だが、仕事を見つけるのが難しく、あっても給与水準が下がるので、敬遠せざるをえない」という。今後も、より良い条件の仕事や生活を求めてEU内を移動していくのだろう。母語とロシア語、英語、デンマーク語を操り、現在、オランダ語の習得に努めているという。
 
彼らと話していて、2014年、政府・文科省の鳴り物入りで始められた「スーパーグローバル大学事業」を思い出した。日本の大学のグローバル化とグローバル人材の育成を目標に掲げ、「世界レベルの教育研究を求められる大学(Aタイプ)」14校、「日本社会のグローバル化を牽引する大学(Bタイプ)」24校が選定された。前者は東大、京大を始めとする主要国立11校と早慶の2校、後者は国立10校、公立2校、私立12校であった。
選定当時は、「国がエリート大学を認定した」など、当該大学はもちろん受験業界などは興奮気味だったが、6年が経過した現在、話題となることも少なく、事業は尻つぼみの感がある。理由としては、10年間予定されている補助金の額が年を追って削減されるなど、国自身の熱意が冷めていること、また一部の大学では、下に紹介したように、過大な目標を掲げて息切れしている様子があること、などが考えられる。
 
さて、ヨーロッパ最古のボローニャ大学をあげるまでもなく、古来、大学は国家や言語の違いを超えて、新しい知識を求める人々が集まる教育の場だった。現代では、ますます世界中の大学が教育研究の優秀さを競い、より多くの優れた学生を集めようと競い合っている。Aタイプに選ばれた東大の大学院は現在、12,800人中3,000人が留学生人である。同じく東工大では5,400人中1,200人が留学生であり、国籍は80カ国に及ぶ。Aタイプ大学に対して示された課題は、教育研究のいっそうの充実によって、「世界大学ランキング」の100位以内に入ることである。20年版では、東大、京大、東工大、東北大、大阪大の5校がトップ100にランクインしている。

しかし皮肉なことに、これらの大学がポイントを稼いだのは研究活動によってであり、国際交流など、国際性の指標は後退さえしている。ランキングを発表しているイギリスの評価機関が設定する指標は、イギリスやアメリカの大学に有利になるように組まれていることは、つとに指摘されている。ランクを上げるためには、多少不本意でも、評価機関の示す指標に合わせた取り組みを増やすことが求められる。
 これに対してBタイプの、とくに私大の取り組みは、だいぶ異なった様相を示している。次表は、各大学の掲げる主要な数値目標である(新潟にある大学院大学の国際大と、もともと国際性の強い国際基督教大と立命館アジア太平洋大の3校は省略した)。いずれの大学もそろって、海外大学との提携によって、海外留学生の呼び込みと日本人学生の海外留学(研修)の大幅な拡大をあげる他、主として英語による授業科目の拡大や英語を中心とした学生たちの語学力向上を目標に掲げている。
大学名おもな数値目標
芝浦工業大学日本人学生の海外留学100%(1.7%)、外国人留学生数29.4%(1.5%)、外国語での授業1,200科目(4科目)
上智大学日本人学生の海外留学2,124人(625人)、外国人留学生2,940人(1,358人)
東洋大学日本人学生の海外留学10.3%(2.9%)、外国人留学生比率8.5%(2.1%)、海外学生交換協定100校(39校)
法政大学日本人学生の海外留学1,500人(775人)、外国人留学生3,000人(669人)、全学部学生CEFR B1の取得
明治大学日本人学生の海外留学4000人(1,007人)、外国人留学生4,000人(1,570人)
立教大学海外留学生2,000人(500人)、外国人教員比率20%(14%)、
創価大学日本人学生の海外留学16.7%(7.0%)、外国人留学生14.5%(3.8%)、TOEFL-iBT80点を満たす学生17.9%(3.6%)、
立命館大学日本人学生の海外留学3,200人、外国人学生4,500人(1,341人、2015年)
関西学院大学日本人学生の海外留学2,500人(1,000人)
   各大学HPページより作成。( )内は2013年時点、東洋大については2014年。

これらの大学が、多かれ少なかれ参考にしたはずの先行例がある。今回もタイプBに選ばれている秋田公立国際教養大である。ミネソタ州立大秋田校の跡地に04年に開設された。開設にあたっては東京外国語大学長だった中嶋嶺雄を招き、授業のすべてを英語で行い、在学中に1年間の海外留学を義務付けるなど、英語力と海外経験を強調する教育を展開した。19年現在、入学定員175人の小規模校でありながら、49カ国・地域の190校の提携校をもつ。
国際教養大から卒業生が送り出されると、大手企業からの求人が殺到するなど、大学は一気に評価を高めた。タイプBの大学の多くは、この大学に似たカリキュラムや学習環境の整備を目指しているようにみえる。では、それらの目標が達成されたとして、どのような人材が育つのだろうか。ウクライナの若者のように、より良い条件の仕事や生活を求めて生まれ育った国、あるいは教育を受けた国を離れ、国境を自由に越えて移動するような人材だろうか。そうではあるまい。
国際教養大の教育が評価されたのは、世界経済のグローバル化の波に翻弄される日本企業が求める人材の需要に応えたからだ。国際教養大の卒業生の進路の内容は意外と地味だ。17年度の卒業生183人中、大学院などへの進学者は10名程度、IT分野や教員の「専門的・技術的職業」も約10名に留まり、大半が大手企業の営業、事務部門である。大学自身も、「有名企業400社への実就職率全国3位」という、教育情報企業の出した情報を誇らしげに掲げている。

少子化が進行し、熾烈な競争環境に置かれている私大の多くは、以前からキャリア教育の充実など、学生の就職支援を熱心に行ってきた。保護者、受験生にとっても、卒業生の就職実績は最大の関心事である。Bタイプの私大が送り出そうとしている、一定以上の英語力と海外経験をもつ人材は、企業内教育の手間が省ける即戦力として、企業からは歓迎されるだろう。選定された私大は事業を最大限に利用して、卒業生を有力企業に送り出す。それが大学の生き残りに大いに資する、と考えるのもやむを得ない。また、「グローバル化の牽引」という事業の目標も、実際的にはその辺りにあるのだろう。

しかし筆者は、大学がそのような短期的な目標に合わせた人材育成に集中することに、疑問を感じざるをえない。長期的に見れば、今後、世界の政治経済の重心は、中国やインドさらには東南アジア地域に移動していくはずだ。日本人もその環境変化の波に飲み込まれざるを得ない。またEU圏内でナショナリズムの動きが強まっているように、世界的には反グローバリズムの流れも生まれている。
そのような環境では、「英語で仕事ができる」というだけでは通用しなくなる。今後、よりいっそう複雑化する国際社会への深い理解はもちろん、グローバルに移動するために、居住地の文化への理解や現地の言語能力も求められるようになるだろう。大学には、より一層の多言語・多文化の環境づくりを進め、即戦力に留まることのない人材を育てていくことを期待したい。

最後に筆者の期待をもうひとつ。フロリダのディズニーランドでのインターンシップを提供する明治大学が、女子受験生の間で人気となっているという。大学の努力を否定するわけではないが、女性の地位向上を考えるのであれば、もっと野心的なプログラムを考えられないか。例えば、女性の政治進出の著しい国の議会での長期間のインターンシップはどうだろう。経験した学生の中から将来、世界的な尊敬を集める女性首相が出現することが目標だ。教育とは、その程度の先を見て行われるべきものだ。
2019.09.25  年配層は「侵略戦争」、若者は「やむを得なかった」
          信濃毎日新聞が調べた老若の戦争観

岩垂 弘 (ジャーナリスト)

 この9月19日付の本欄で、日本の新聞が8月15日の「終戦の日」前後に掲載した戦争に関する記事の内容について紹介したが、国会図書館で全国の日刊紙53紙に目を通していて、ひときわ私の目を引いた記事がいくつかあった。その1つが信濃毎日新聞の記事で、その中でも「昭和の戦争」に対する年配層と若者の見方を比較した記事だった。

 今夏、信濃毎日新聞の戦争に関する報道は極めて積極的だった。
 それを端的に示していたのは8月11日付朝刊の紙面だ。同社はこの日から、戦争に関する2本の続き物を同時に始めた。
 1本は第2社会面での「戦後74年 今、語らねば」である。これは、同月23日まで9回続き、元満蒙開拓団員(86歳)、インパール作戦に参加した元兵士(97歳)、長野空襲の被害者(89歳)、ソ連によるシベリア抑留者(103歳)、特攻艇隊員の生き残り(93歳)、満州(中国東北部)にあった731部隊の見習い技術員(89歳)、弟を戦争で亡くした元海軍兵士(93歳)らを登場させ、その体験を語らせていた。

 もう1本は、第1社会面での「空に問う平和 信州と日米安保」で、同月16日まで5回続いた。これは、今年5月ごろから同県の佐久地方で米軍の輸送機、南信地方で米軍のオスプレイ(垂直離着陸機)が目撃されるようになった事実を取り上げ、なぜこのようなことが起きるのかを追求したもので、日米安保条約の中身や米軍基地と隣り合わせで暮らす沖縄県民の生活を報じていた。

 これらの続き物とともに私の興味を引いたのは、同紙が8月14日付と15日付の「くらし」面で展開していた「いまどきトーク! 昭和の戦争どう思う?」という企画記事だった。
 同記事によれば、「戦後74年」を機に、若者と年配者に「今、昭和の戦争をどう思っていますか?」と尋ねた。具体的には以下のような4つの回答を示し、選んでもらった。
 侵略戦争であり、避けるべきだった
 国際情勢からして、やむを得なかった
 敗れたけれども、大義名分のある戦いだった
 いろいろ評価があって、分からない

 若者については、7月17日、長野、松本両市で、16歳から30歳までの若者30人に街頭で尋ねた。一方、年配者については、「くらし」面で60代から90代の回答者を募り、応募してきた26人に尋ねた。
 その結果はどうだったか。同記事によれば、次のようだった。
<若者>37%、30%、23%、C7%、どれでもない3%
<年配者>65%、どれでもない15%、12%、8%、0%

 どうやら、おおまかに言って、昭和の戦争を、若者は「やむを得なかった」、年配者は「侵略戦争」と見ているようなのだ。が、サンブルが少ないし、それに、新聞が行う世論調査のやり方(無差別抽出)とは違った調査の結果だから、若者や年配者の意識を正確に反映したものとは言えない、と反論する人がいてもおかしくない。でも、この結果から、それぞれの年代が過ぐる戦争に対してもつ見方を垣間見ることができるのではないか。

 この企画記事は、回答者から寄せられた意見の一部も載せている。年配者で「A(侵略戦争であり、避けるべきだった)」と答えた人が寄せた意見にはこんなものがあった。
 
 満州で終戦を迎えた長野市の男性(97歳)「今でもあの戦争は明らかに日本の侵略戦争であって、避けるべきだったと思っています」
 松本市の女性(69歳)「日本人はアジアの他民族に対する優越感があり、べっ視し、差別感情を持っていた。『その国土を支配してやらなければならない』という傲慢さによって、軍事力で支配してしまったと思っています」
 9歳で終戦を迎えた松本市の女性(83歳)「父は、体が弱かったので兵隊になれず、ダム工事で仕事していた。強制連行された朝鮮の人たちもいて、食事もろくにやらず働かせるので、栄養失調で亡くなる人がいたり、逃げ出す朝鮮人を殺してしまう軍人がいたりして、『なぜ、こんなひどいことを』と、父は涙ながらに語っていた」
2019.09.19 「8月ジャーナリズム」にみる日本人の戦争観
  ますます「被害者意識一辺倒」に

岩垂 弘 (ジャーナリスト)

 「8月ジャーナリズム」という言葉がある。真夏の8月を迎えると、新聞に戦争に関する記事があふれるからだ。いわば、新聞社にとっては恒例の報道活動だが、今夏は、例年になく、そうした記事が多かったように感じられた。そこでは、満州事変から太平洋戦争に至る「15年戦争」における日本国民の戦争体験がさまざまな面から詳細に紹介されていたが、それは、自らの戦争被害に言及し「悲惨な被害をもたらす戦争はもうこりごり」と回顧するものが大半で、日本が起こした戦争で多大な被害を与えたアジアの人びとに目を向けたものは極めて少なかった。
 
 戦後、新聞が「8月ジャーナリズム」と呼ばれるようになったのには、それなりの理由がある。6日の「広島原爆の日」、9日の「長崎原爆の日」、15日の「終戦の日」と、戦争がらみの記念日が続くところから、新聞各社としては、この期間、競って戦争と平和に関する報道に紙面を割いてきたわけである。そこから、 「8月ジャーナリズム」という言葉が生まれたわけだが、そこには、新聞が戦争と平和の問題に熱心になるのは8月の一カ月だけで、それが過ぎると途端にそうした問題にそっぽを向いてしまうではないかという揶揄も含まれていたと見ていいだろう。

 では、今夏はどんな紙面だったろうか。
 国会図書館では、全国の日刊紙53紙を閲覧できる。で、その全紙の8月紙面をひもといてみた。その結果、今夏は、近年ではとりわけ戦争に関する記事が多かったとの印象を受けた。53紙の77%にあたる41紙が、8月15日前後を中心に、戦争に関する企画記事を掲載していた。それは、続き物、特集といった形をとったものが多かった。企画記事のなかった12紙でも、戦争がからむ単発記事を掲載したところがあった。

 なぜ、今夏はこんなにも戦争に関する記事が多かったのだろうか。
 一つには、敗戦からすでに74年。戦争体験を語れる人が極めて少なくなってきたので、今こそ、数少ない戦争体験者にその体験を語ってもらわねばとの思いが新聞社側に強かったからではないかと思われる。
 それに、今年から「令和」になったことも影響していたと見ていいようだ。新聞としても「昭和時代の日本人の体験を新時代の令和に引き継がねば」というわけである。
 加えて、このところ、世界情勢が緊迫し、また戦争が起きるのではないか、日本もそれに巻き込まれるのでは、との不安が新聞関係者の間で高まり、「戦争だけは避けねば」との危機感が一部の新聞関係者をとらえていたようだ。

 さて、各新聞に載った戦争に関する続き物、特集、単発記事のすべてに目を通してみたら、戦争体験者にその体験を語らせたものが圧倒的に多かった。
 それらのタイトルの一部を紹介すると――北海道新聞「伝える 考える 戦後74年」、東奥日報「戦後74年 忘れない」、山形新聞「声 次代へ 戦後74年、昭和から令和」、河北新報「伝える戦禍 令和の夏に」、福島民報「74年目の記憶 令和 受け継ぐふくしまの戦争」、茨城新聞「語り継ぐ―あの夏 戦後74年」、千葉日報「令和につなぐ―戦争の記憶―」、新潟日報「にいがた 戦時の記憶」「薄れぬ思い 令和の世に」、信濃毎日新聞「戦後74年 今、語らねば」、読売新聞「戦後74年 令和に語り継ぐ」、北国新聞「令和に語り継ぐ戦争体験 石川の地から」、日本海新聞「伝える戦後74年目の証言」、佐賀新聞「失われゆく さが戦禍の証」宮崎日日新聞「戦争の影なお みやざき戦後74年」……といった具合である。

 次いで多かったのが、戦争遺跡・遺構の現状を紹介したもので、中日新聞、奈良新聞、西日本新聞、熊本日日新聞、大分合同新聞の5社がこれに挑戦していた。

 これらのテーマと違うテーマで「戦後74年」に迫った社もあった。神奈川新聞は「沖縄戦の記憶」と題する続き物を7回にわたって連載し、本土決戦のために多くの犠牲を強いられた沖縄県民の悲惨な体験を、沖縄戦の生き残りの証言をもとに報じた。
 静岡新聞は「悲しみのオリンピアン 戦場に散った県勢」と題する続き物で、ベルリン・オリンピックでメダリストになった競泳選手と、やはりベルリン・オリンピックで活躍したサッカー選手が、ともに太平洋戦争で戦死した事実を伝えた。来年の東京オリンピックにこと寄せたタイムリーな企画と言える。
 産経新聞は「眠れぬ墓標 令和の課題」と題する7回の続き物で、今なお海外に放置されている戦没者112万人の戦没者の遺骨収 集を訴えた。
 長崎新聞は「中国残留日本人は今」と題する続き物で、82歳の女性を取り上げた。

 ところで、圧倒的な分量の戦争体験者の証言に目を通していて、心にひっかかることがあった。それは、その大半が、専ら戦争被害者の立場からの証言であったことだ。
 続き物、特集に登場する戦争体験者は各紙ともほぼ共通していた。中国や東南アジア、太平洋で戦った陸海軍兵士、インパール作戦に動員された兵士、特攻隊員や飛行少年兵の生き残り、満州(中国東北部)からソ連に連行・抑留され兵士、満州から引き揚げてきた満蒙開拓団員とその家族、広島・長崎の原爆被爆者、米軍機の空襲に遭った民間人、米艦の艦砲射撃で被害を受けた民間人、戦争で父や兄弟を亡くした人たち……
 この人たちが語る戦争体験はまことに悲惨にして過酷で、戦争がもたらす苦しみ、悲しみが切々と伝わってきた。この人たちは口々に訴えていた。「戦争は嫌だ」「戦争は説対ダメ」と。

 だが、戦争で悲惨にして残酷な被害を被ったのは日本人ばかりではなかった。戦場となったアジア、太平洋地域の人たちもまた被害を受けた。なのに、今夏の紙面で見る限り、日本国民の多くは戦争を「被害者」の立場からのみとらえているように思えた。

少数だが「加害」にも目を向けた紙面も

 そうした傾向の中にあって、ごく少数だが、日本国民の「加害」にも触れた紙面があった。これは、戦争を「被害」と「加害」の両面から見ようという編集方針の表れだったのだろうか。いずれにせよ、それが一番目立ったのは東京新聞である。
 同紙は、この期間中、「つなぐ 戦後74年」というワッペンをつけて、多面的に戦争に関する記事を展開した。8月2日付紙面では、歴史教育者協議会委員長の山田朗・明治大教授に歴史認識のあり方について語らせている。「歴史認識とは国際理解でもある。同じ事象でも、立場によって伝えられ方は異なる。戦争で言えば、加害者側と被害側。八月十五日は日本人にとっては終戦の日だが、韓国人から見れば植民地支配からの解放の日という位置付けになる。どちらが正しいかでなく、他者の歴史認識を知ろうとしなければ、相互理解か進まず、対立が深まるだけだ」と、同教授。
 10日付紙面では、戦時中、瀬戸内海の大久野島にあった旧日本軍の毒ガス製造工場で働いていた男性(93歳)を登場させた。ここで造られたガスは日中戦争で多くの中国人を殺傷した。「私は被害者である前に加害者であり、犯罪者だった」と男性。11日付紙面では、中国戦線で、将校候補の見習士官が、捕虜の中国人を軍刀で処刑したのを目撃したとの元陸軍兵士(100歳)の証言を載せていた。

 朝日新聞は16日付紙面で、長野県在住の元満蒙開拓団員(84歳)の証言を掲載した。元団員は、戦後になってから、満州で自分たちが与えられた土地は、国が半ば強制的に中国人から買い上げたものだったと知った。「結果として中国の人々の土地を奪っていた。知らないうちに侵略に加担していたことがずっと苦しかった」

 埼玉新聞は、「語り継ぐ 戦争74年」と題する企画を6回にわたって連載したが、その中に、元特攻隊員(92歳)の証言があった。そこで、元特攻隊員は「中国やアジアの国々が日本に攻め込んだのではなく、日本の侵略戦争だった。大勢の命を日本軍が奪った」と話していた。日本の「加害」に言及した元特攻隊員の証言はこれだけで、強く印象に残った。

 私のこれまでの取材経験によると、日本における最大の社会運動である原水爆禁止運動は、当初は「被害者意識一辺倒」の運動だった。が、1990年代に入ると、原爆による被害は「被害」と「加害」の両面からとらえなくてはならないという見方が芽生え、それが次第に定着しつつある。
 しかし、今夏の「8月ジャーナリズム」で見る限り、戦争体験一般に関しては、大半の日本国民の視点は今なお「被害者意識一辺倒」だ。いや、私には、2013年ごろから、その傾向はかえって増しているように思えてならない。この年は、日本の首相が、終戦の日の全国戦没者追悼式で、アジア諸国への加害と反省に言及しなくなった年である。そんなことも戦争に関する国民意識に影響しているのだろうか。
2019.09.17 「安倍政権は原発推進や防衛力増強よりも防災に取り組め」
   東京で、さようなら原発全国集会

岩垂 弘 (ジャーナリスト)

 「政府は、防衛よりも防災を」。9月16日(月・休日) 午後、東京の代々木公園で「9・16さようなら原発全国集会」が開かれたが、9日に関東地方を縦断した台風15号がもたらした災害でいまだに千葉県で大規模な停電が続いているのに政府の対応が鈍いことを指摘する発言が目立ち、「安倍政権は、原発再稼働や防衛力増強に躍起だが、それよりも、まず自然災害から国民を守る対策に力を注げ」との声が相次いだ。

 集会を主催したのは、内橋克人(経済評論家)、大江健三郎(作家)、落合恵子(作家)、鎌田慧(ルポライター)、坂本龍一(音楽家)、澤地久枝(作家)、瀬戸内寂聴(作家)の各氏ら9人の呼びかけでつくられた「さようなら原発一千万署名市民の会」。
 市民の会は2011年の東京電力福島第1原子力発電所事故以来、毎年、3月と9月に脱原発を目指す全国集会を東京で開いているが、今年の9月集会には、連休中でしかも祝日にもかかわらず、関東を中心に、労組員、脱原発団体関係者、護憲団体関係者、生協組合員、一般市民ら約8000人(主催者発表)が集まった。昨年の9月集会も約8000人だった。
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             集会会場を埋めた参加者たち

 午後1時半から始まった集会で最初に登壇した呼びかけ人の落合さんは、まず「台風の影響で、千葉県ではいまだに大規模停電が続いている。全く信じがたいことです」と、政府の防災対策の遅れを指摘し、こう続けた。「その一方で、安倍政権は迎撃ミサイル、イージス・アショアの基地建設には熱心で、膨大な金を使ってアメリカから武器を買おうとしています。それも、アメリカの言い値で。今こそ、安倍政権に対し、防衛でなく防災を、と声を上げましょう」。
 落合さんは、また、「東電福島原発事故により今なお多くの人が避難生活を余儀なくされているのに、政府は復興オリンピックを名目に、もうフクシマは終わった、と言わんばかりの態度を見せている。福島はまだ決して復興していません。このことを広く訴えてゆきましょう」と訴えた。
 さらに、落合さんは、呼びかけ人の澤地さんが集会に寄せたメッセージを朗読したが、澤地さんはその中で「日本は世界に先駆けて原発をゼロにする義務があります。そのために働く政権をつくりましょう」と訴えていた。

 次いで、福島から集会に参加した人たちからの現地報告や、沖縄の米軍辺野古新基地建設反対運動への支援を訴える発言があった。
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            舞台から福島の被災地の現状を訴える人たち

 その後、「連帯あいさつ」に立った「戦争させない・9条壊すな!総がかり行動実行委員会」の福山真劫・共同代表は、こう呼びかけた。
 「このたび発足した安倍改造内閣の閣僚を見ると、日本会議系の議員が多い。いわば、極右内閣だ。別な言い方をするならば、原発推進内閣、福島切り捨て内閣、辺野古基地推進内閣である。こんな内閣は許せないと、本気で声を挙げよう」
 最後に登壇した呼びかけ人の鎌田さんは「韓国、香港、台湾では大勢の人が参加する民主主義のための闘いが続いている。だが、私たちの運動は弱い。日本でも原発ゼロを目指して運動を盛り上げよう。高速増殖炉もんじゅは廃炉になった。青森県六カ所村の核燃料再処理工場はいまだに稼働できない。これは、私たちの運動の成果だ。原発ゼロは必ず実現できる」と訴えた。
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               市民団体が掲げていたプラカード

 集会後、参加者は2コースに分かれてデモ行進した。
2019.09.11  厚労省改革若手チームが緊急提言
  この機会に労働法に接してみよう

杜 海樹(フリーライター)

 厚生労働省内の業務改革・組織改革こそが必要ではないかと、8月26日付で厚生労働省改革若手チームが「厚生労働省の業務・組織改革のための緊急提言」と題する提言書を公表した。
 
提言書によれば、厚労省に入省しても「生きながら人生の墓場に入った・・・」といった感想を抱く職員がいるほど職場が疲弊しているといい、若手を対象としたアンケートでも仕事が心身の健康に悪影響を与えるが58%、職員を大事にしない職場であるが45%といった結果になっているという。そして、他の省庁と比べて厚生労働省の職員1人あたりの業務量は著しく増大しており、厚生労働省自身が早急に働き方改革をおこなう必要性がある、残業代についても正当な額が支払われるべきだとしている。
 
厚生労働省と言えば、少子高齢化問題、年金問題、最低賃金問題等々生活に直接関わる重要課題を抱えている国民生活の要の行政機関だ。労働面においては、労働基準監督署、ハローワーク、労働委員会などを設置している。本来であれば、労働基準法の不正を正す立場にあるのが厚生労働省であろうが、不正がまかり通っている実態が内部からの指摘でも明らかとなってきたわけだ。かつてから中央省庁は霞ヶ関の不夜城などと揶揄されるくらいの残業温床地帯ではあったが、内部から改善の声が公表されることなどはほとんどなく、今更何を・・・?と思われる方もいるかもしれないが、ようやく中央省庁においても労働条件の改善が口にできるようになってきたということは歓迎すべきことであろう。
 
厚生労働省の職員等が加入している全労働省労働組合などは、ILO条約や日本国憲法を遵守し、職員の増員で労働行政の整備・強化を図ることが極めて重要であるとして「現下の雇用失業情勢をふまえた労働行政体制の拡充・強化をめざす請願署名」の取り組み等をおこなって来たりもしていた。しかし、それでも、事態の改善にはなかなかつながらないというのが実態であったのであろう。緊急提言が出された機会に何らかの変化が生まれることを期待したいところだ。
 
世間一般では、いわゆる「ブラック企業」問題が取り沙汰されているが、厚生労働省自身が長時間労働、残業代未払云々では日本の労働問題の改善等は進むわけがないであろうから。
 霞ヶ関の中央省庁にお邪魔することがよくあるが、近年の省庁内の光景は、コンビニエンスストアで買ったサンドイッチや菓子パンを貪りながら薄暗い部屋で1人パソコンと睨めっこをしているといったところで、ホントに大丈夫?と思ってしまうことが度々ある。
 厚生労働省なのであるから、労働法くらいは当然知っているだろうとつい勝手に思ってしまうが、近年、労働法を学校で教えないところも多いことから、職員として入省して来ても労働法を知らない可能性の方が高いのかも知れない。また、一般サラリーマンにあっては労働法など一度も目にしたことがないのかも知れない。労働法も、労働基準法はもとより、労働組合法、労働関係調整法、労働安全衛生法・・・と多岐にわたっている。今回の緊急提言を契機に労働法に目を通してみるのも良いことかも知れない。参考までに、労働基準法の主要部分を簡単に抜粋し紹介しておく。

労働基準法 ~抜粋~
第1条 労働条件は、労働者が人たるに値する生活を営むための必要を充たすべきものでなければならない。 
2 この法律で定める労働条件の基準は最低のものであるから、労働関係の当事者は、この基準を理由として労働条件を低下させてはならないことはもとより、その向上を図るように努めなければならない。
第5条 使用者は、暴行、脅迫、監禁その他精神又は身体の自由を不当に拘束する手段によって、労働者の意思に反して労働を強制してはならない。
第32条 使用者は、労働者に、休憩時間を除き1週間について40時間を超えて、労働させてはならない。
2 使用者は、1週間の各日については、労働者に、休憩時間を除き1日について8時間を超えて、労働させてはならない。
第37条 使用者が、第33条又は前条第1項の規定により労働時間を延長し、又は休日に労働させた場合においては、その時間又はその日の労働については、通常の労働時間又は労働日の賃金の計算額の2割5分以上5割以下の範囲内でそれぞれ政令で定める率以上の率で計算した割増賃金を支払わなければならない。
2019.08.31 記憶は弱者にあり
韓国通信NO613

小原 紘 (個人新聞「韓国通信」発行人)

「記憶は弱者にあり」。歴史から学ばない日本人を痛烈に批判し続けた喜劇俳優マルセ太郎(1933~2001)の言葉である。
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弱い存在の私たちが、侵略戦争を平然と肯定する政治家やエセ学者・文化人と一緒になって「国益」優先の発想から抜け出せずにいる。記憶する弱者の側にこそ正義はあるのではないか。この夏、ずっとそう考え続けた。
マルセさんが在日の立場から人権も正義もない日本に吼え続けたように、今年の夏、映画『太陽がほしい』で注目された中国人映画監督、班忠義 (バン・チュンイ)さんも人権と正義について、「政府と封建文化からの解放」「歴史の悪い部分を批判する勇気」を語った。

<今年も9.1がやってくる>
関東大震災は被災者340万人、死者9万人という未曽有の被害をもたらした。関東大震災から97年目になる今年の9月1日、新聞・テレビは突然思いだしたように震災報道一色になる。
関東大震災を教訓に災害に備えるのは当然だが、2011年に起きた東日本大震災から私たちは多くのことを学んだ。自然の前に人間がいかに非力か、科学技術への盲目的な崇拝、経済優先、金儲け社会に対する深い反省だった。福島原発事故から学んだ多くの人たちの思いだ。

<歴史の反省に立つ>
小池都知事が関東大震災で虐殺された朝鮮人犠牲者追悼式に追悼文を送らないという。知事就任以来3回目のパスである。超タカ派で知られた石原元知事をしのぐ小池知事の確信的超右翼ぶりがうかがえる。
震災直後、「不逞鮮人」の暴動、「井戸に毒を入れた」といったデマで警察と自警団が6千3百人もの朝鮮人、中国人、社会主義者たちを殺害した。あえて追悼文を送らないとはどういうことか。
知事は犠牲者に日本人も朝鮮人も中国人もないという。これは震災で死んだ人と、殺された人も同じと言っているのに等しい。その根底には「虐殺」だったかどうかはわからない、という「日本会議」独特の歴史認識がある。それは認識の違いというより、意図的な歴史の偽造、改ざんであるのはいうまでもない。

<忘れないために>
あまりにも酷すぎる関東大震災の「いまわしい」事件は認めたくない。「誰が」「どのように」と想像するだけで心は凍る。子どもたちにそのことを教えられる大人はいるだろうか。事実だが、語れないとしたら、「なかったことにする」人たちと異夢ではあっても、同床となる。
マルセ太郎さん、班忠義さんは、戦中戦後を反省しないまま現在に至った日本人の知的退廃ぶりを指摘する。指摘を待つまでもなく、令和の時代は自国中心の風潮に溢れる息苦しい社会だ。社会的弱者は切り捨てられ、新天皇即位、異常な韓国バッシング、オリンピック狂騒と、日本を一色に染め上げる知的退廃ぶりをさらす。
9月1日を前にして、私が知りえた身近なところで起きた、知りたくない虐殺事件を振り返る。

<千葉県の虐殺事件>
『行雲流水-ある大本教信者の数奇な生涯-』(石山照明著)は、主人公が少年期に見た震災後の衝撃的な虐殺現場から始まる。群馬県藤岡で起きた朝鮮人虐殺は17名にのぼった。
東京、神奈川で起きた虐殺事件が群馬でもあった。さらに千葉県でも324名が殺されたことを知って愕然とした。
震災のドサクサに官民一体となった殺戮事件。その真相はいまだに解明されていない。解明する意思もない国に代わり市民たちによる調査が続いている。
千葉の市民グループ編纂の『千葉の中の朝鮮』(2001年刊)をひもといてみた。
第9章「関東大震災と朝鮮人虐殺」は船橋市の馬込霊園にある慰霊碑の説明から始まる。震災の翌年、船橋仏教界が建てた「法華無縁塔」には市内各地で殺害され朝鮮人の遺骨が集められた。千葉県内では最多の100人近い最大規模だった。当時、船橋は鉄道の新線工事のために多くの朝鮮人が多数働かされていたところだ。
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また習志野練兵隊に「保護」された朝鮮人が連隊の中で殺され、さらに連隊から引き渡された朝鮮人が地域住民によって殺害された事実も明らかになり、あわせて12名が殺された。八千代市にある高津観音寺には1999年に慰霊碑がつくられ、毎年9月に慰霊祭が行われている<写真上>。
特異なケースでは朝鮮人と間違えられた日本人の行商一行が福田村(現野田市)で殺害された事件も取り上げられている。香川県から来た行商人の言葉使いが怪しまれ、9名が川に投げ込まれ溺死した。警察官が先頭になって虐殺に及んだ。
三ケ所の現場はいずれも自宅から車で40分くらいのところにある。

<わが我孫子でも>
自宅から歩いて徒歩7分くらいの所にある八坂神社の境内で3人の朝鮮人が殺された。この事件は『我孫子市史』に記録があるが、知っている市民はほとんどいない。
今年もここで夏まつりが盛大に行われ、神輿、山車、夜店で周辺は大いに賑わった。白昼の神域で、こん棒で撲殺された事件は想像を絶する。祭りの太鼓やカネの音に混じり「ヒエーッ」という叫び声が聞こえたような気がした。ヤマトの神は犠牲者の魂を慰めることができただろうか。楽しい祭りのなかで善男善女たちは撲殺された朝鮮人ことを少しでも思いだしただろうか。今年も9月3日に献花して慰霊をするつもりだ。

2019.08.23 高校では遅すぎる――低学力問題解決のために
――八ヶ岳山麓から(289)――

阿部治平(もと高校教師)

近刊の朝比奈なを著『ルポ・教育困難校』(朝日選書2019・7)は、高校の低学力問題に焦点を当てた著作である。氏はいわゆる研究者ではなく、高校・大学で低学力問題にずっと取り組んできた現場教師である。すでに8年前『見捨てられた高校生たち――『教育困難校』の実態-—』(学事出版 2011)によって、高校生の低学力問題を論じた。近著では『置き去りにされた高校生――加速する高校改革の中での「教育困難校」』(学事出版2019・3)がある。
本書には、低学力生徒の集まる高校の授業風景、低学力の実態、家庭の経済力と低学力の関係、ここで仕事をする教員の実態、進路指導の困難さ、低学力からの教員の脱出努力が語られている。
いままで教育行政から軽視されてきた低学力問題を、忍耐強く世に問うてきた氏の努力は敬服に値する。

以下、朝比奈氏の著作に寄りかかりつつ低学力問題について、私見を述べたい。
まず低学力のなかみについて。氏は、どの地域(都道府県)でも偏差値40台前半の合格安全ラインは、(受験業界でも)5教科(国・理・数・社・英)各100点の500点満点で220~230点程度だという。
だとすれば、こうした高校生は、小中学校で学んだ内容の5割以上がわからないことを意味する。いや問題はもっと深刻である。中学生減少の今日、公立高校では志願者数が定員に満たなければ、どれかの教科が0点でも合格してしまう場合がある。
氏は文部科学省が実施した2018年度の「全国学力・学習状況調査」の結果の上位県、中位県、下位県を各2校選び、このような高校生が全高校生のどれくらいの割合になるか試算している。氏が概ね「教育困難校」と位置づける偏差値44以下の高校に通う生徒の割合は、(地域により差異はあり、同じ数値でも同じ学力を示すとは限らないものの)最小の県で14%、多い県で40%超と、決して少なくないことがわかる。
それが全国にならしてみた場合どのくらいの割合になるか。本書にはそのものずばりで割合が示されていないが、かりに30%前後としたとき、高校入学者の3分の1は、きわめて低学力、小中学校段階で履修したはずの知識を半分も持たないこと、いいかえると高校進学率が100%近い今日、無視できない数の日本人が低学力であることを意味する。これは教育問題というよりは、社会問題であり政治問題である。

朝比奈氏は低学力問題への高校での取り組みと、行政の対処不足を論じているが、私の経験では、いくら学力をつけようとしても、高校生ではトウが立ちすぎていて、手の打ちようがないことが多い。授業がわからなくなった原因を突き止め、救い上げたと思ったことは数えるほどしかない。これは定時制と底辺校25年の経験による実感である。
彼らのかなりの部分は小学校低学年ですでに授業が分からず、学校が面白くないところになっている。つまり学習意欲を失っているのである。もちろん、高校で特定分野を学ぼうとする意欲があるものもいるが、それは少数である。
そのうえ低学力は問題行動(非行)と密接に関連している。子供はやることなすこと手加減というものを知らないが、底辺校ではその幼児性を引きずっているのがかなりいる。彼らの非行は刑法適用のレベルに到達している。

私が現役時代の生徒たちの話では、数学を例にとると、低学年で繰下がりの引算がわからない子が出る。ついで割算である。割り切れるものから始まり、余りのある計算に進む。子供によってはこれが難しい。そして分数に入る。割算と分数の関係を理解できないものがかなりでる。高学年で学ぶ分数の四則はまさに正念場、難関である。小学校教師ならば、私などよりもどの段階でつまずくか、もっと明確に回答できると思う。
もちろん小学校でも中学でも、わかりの遅い子にたいする指導はおこなわれている。これについて、ある経験者は私に「それは個別指導によってのみ、成果をあげられる。一斉授業の中で全員を救うことはほとんど不可能だ。低学力児童も適切な指導法を見出す力のある教員に恵まれれば力を伸ばせる。私はかつて学習障害児予備群の子どもに接する機会があったので、そのことは確信を持って言うことができる」と語った。
だから補習のための個別教育を受け持つ有能な補助教員を置くことがもっとも有効な解決策になる。そして今日、補助教員制度はあるけれども、その実態は自治体によってまちまちである。国の義務教育への負担が削減されているから、自治体のスタンスにより補助教員の配置は地域間格差が大きくなっている。

これに対して一般的に提唱されてきたのは、学級定員の削減、教師の雑務を引受ける学校事務員の増員である。しかし、もっと重要なことは、教養と技術の高い有能な小学校教員を確保することである。そのためには義務教育段階の教員の賃金増額と同時に、大学の教職養成課程を改善し専門性を高める必要がある。
したがってここで発言すべきは、小学校教員の専門性のレベルであるが、私には「まず子供好きでなければならない」というほかは、教養と技術がどの程度であるべきかわからない。これを教育研究者と現場教師に教えていただきたい。

高校改革に取組み、あるいはこれを地域に密着した高校に変革した実例は、以前から様々な形で紹介されてきた。朝比奈氏も当事者に面接して、その姿を紹介している。だが底辺校を魅力ある高校へ改革したのは、数少ない突出した例である。
というのは、学校というところは現場からの改革が困難なところだからである。かりに教員個人が低学力の克服を目指したとしても、徒労に終わることが多い。さいわいにも集団で動き出したとしても、成果が上がるまでには数年かかる。その間に一般教員と管理職の転勤が絶えずあって、主要メンバーが転出し無気力な教員が入込んで、それまでの努力が消えてしまうことはいくらでもある。
また一般に学校の管理職は自治体の教育行政の意向をうかがい、自治体の教育官僚は文科省の方針に忠実である。だから有意義な改革でも、それが文科省の方向と一致しなければ、現場だけでは継続的な指導ができる体制はなかなかつくれない。

学校は平等とか公平を重んじるところである。ところが人の能力は平等ではない。生きる環境もそれぞれだ。「バブル経済」が吹っ飛んで以後、貧富の格差は拡大した。貧困が次の世代に相続されることが明らかになり、その貧困が子供の学習能力に直接影響することも世間に知られるようになった。
このためか、高校教育無償化、高等教育無償化という政策が立て続けに打ち出されているが、これらは低学力の解消にはそれほど役立たない。朝比奈氏によれば文部科学省も高校のエリート教育に傾いていた関心を、ようやく低学力問題にも向けるようになったという。
ならば、義務教育段階への国のサービスをもっと手厚くし、費用と人材を投じて、基礎学力の充実を図ってほしい。「考える力」や「アクティブ・ラーニング(生徒参加型授業)」の基礎には、基礎学力と学びへの興味・関心が不可欠だからである。
だが、たとえ予算が十分で、教員に心身のゆとりがあり、どんなに熱心に補完教育を進めたとしても、落ちこぼれゼロにすることはできない。それでも「救えるものは最大限救う」これこそが教員の良心である。

2019.08.17 「WOW! 年寄りが元気ダ」 外国人観光客がつぶやいた
韓国通信NO611

小原 紘 (個人新聞「韓国通信」発行人)

8月3日(土)、千葉県我孫子駅前で「安倍政治を許さない」「原発ヤメロ」のステッカーを、いつもの「三人の侍」で掲げた。「手賀沼の花火大会」のある土曜日。駅前の人通りはいつもより多かったが、若者がひとり近寄ってきて「ごくろうさま、ガンバッテ」と声を掛けてくれた外は皆無言で通りすぎて行った。暑さのせいだろう。

<新宿の繁華街は大騒ぎ>
夕方5時半から新宿「アルタ」前で開かれる「とめよう東海第二原発集会」に参加。青春時代を過ごした新宿の変貌ぶりにあらためて驚いた。「アルタ」と言われてもピンとこない、「二幸」なら知っている年配の人ばかりが集まった。集会での発言が、40年過ぎたポンコツ原発を再稼働させる「愚かさ」に集中したのは当然だった。
茨城県にある東海第二原発の30キロ圏内に97万人が住み、事故が起きれば首都圏の壊滅が予想される。くわえて日本原電は事故発生率日本一という危険な会社である。東日本大震災時には全外部電源が喪失して福島第一と同じ事故が発生するところだった(国会事故調報告書)。
日本一の繁華街新宿の街が放射能で汚染されて「死の街」になるとは信じられない。ここで声をあげデモをする意味はとても大きい。
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デモ行進は3百人は超えていただろうか。政党代表、著名人の挨拶もない首都圏の住民たちのデモは切実なだけにとても元気だった。通行人へのビラ渡し、ギターや太鼓の音がビルに反響して鳴りわたった。
夕方といっても相当な暑さである。途中でエスケープも考えたが、歩いているうちに気分が高揚しているのを感じた。
新宿ド真ん中の土曜日である。大勢の通行人たちは3百人余りの闖入者たちに戸惑いの表情を見せた。なかには生まれて初めてデモを見た若者もいたに違いない。デモをする側からデモを見る人を観察するのは結構面白い。無関心に見えても若者たちに何かが伝わっていくのを感じる。手を振るカップルもいた。
車の渋滞で長い信号待ちの時間、若者たちは突然現れた都心のデモに付き合ってくれた。
毎月3日、我孫子駅前でたった1時間のスタンディングを始めてから3年過ぎた。強行採決された安保法制の撤回を求める有志のささやかな運動である。「何になるの」という疑問がわくこともある。最近は割り切って、公然と今の政治に非を鳴らす大人がいてもいいではないか、若い学生たちに学校では教えてくれない「課外授業」になれば、という自負もある。
3百人の都心デモ。ドン・キホーテみたいだが結構楽しい。そこには原発に反対する人と無関心な若者、外国人観光客との出会いがあった。日本ではデモはガラパゴス化してるように見えるが、その日の新宿はそうではなかった。外国人観光客の存在に力を得たような気がする。

<スマホが捉えた「日本のデモ」>
蒸し暑さに閉口した外国人観光客が足を止めてスマホでデモ隊をさかんに撮りまくっていた。野次馬のような好奇心、彼らの「つぶやき」が聞こえてきた。

「これは何だ、パレードか?」
「日本に『デモ』をする人がいるとはオドロキ」
「NO NUKES, NO FUKUSHIMA, 珍しいものを見た」
「日本観光の貴重な記念写真ができた」
「年寄りばかりのデモ 不思議の国ニッポン!」
「年寄りが元気だなア」
「ポリスは親切で、デモ隊おとなしい これも不思議」
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私も楽しくなってデモ行進から離れてはデモを見る通行人を撮りまくった。

デモ行進は西口ガード下を抜け、青春の思い出のションベン横丁、今の「思い出横丁」から小田急、京王デパート前を通り、甲州街道直進、明治通りを左折して伊勢丹前から新宿区役所にいたるまでの短い距離を約1時間かけて練り歩いた。いつのまにか涼しい風が吹き出し気持ちがいい。こんなに外国人がいるのなら、新宿駅のアナウンスのように宣伝カーも英語、中国語、韓国語でアピールしたらどうだろう。国際的な注目を集めること請け合いだ。
見回したところ報道関係者の姿は見当たらなかった。それでもスマホでデモが国内外にSNSで拡散された。「日本の新宿でデモ隊発見!」。「東海第二原発廃炉」の画面がクッキリ映し出されたはず。
どうしたわけか、日本の主要メディアは政府を批判する集会やデモを報道しなくなった。2003年のイラク派兵反対運動以来、反原発運動、安保法制、共謀罪、国家機密法反対運動をマスコミは無視し続けてきた。

我孫子駅のホームから、「ドスン」という轟音とともに最後の花火が見えた。この日の「打ち上げ」みたいに感じられた。家に帰れば、猛暑のニュースをトップに、北朝鮮がまたもやミサイルをぶっ飛ばしたニュース。それに、「ホワイト国」適用を取り消したため韓国が反発、日本政府は「国際法違反」と韓国を批判したというニュース。
寝苦しい夜が続く。

2019.08.06 広報 あびこがスゴイ
韓国通信NO610

小原 紘 (個人新聞「韓国通信」発行人)

我孫子市の広報8月1日号に二人の高校生が登場した。
市が広島に派遣した中学生たちが高校生になった。彼らは小学校に出かけ、被爆地での体験を「出前講義」した。ちょっと信じられない話だ。
原爆投下から74年目を迎える今年、市の広報で彼らが平和への思いを語った。
平和や原爆についてあまり知らなかった中学生たちは、広島で被爆者から直接、原爆の恐ろしさを聞き、平和の尊さを学んだ。その体験をさらに若い人に繋げようという我孫子市独自のユニークな試みである。

この取り組みは、1985年(昭和60年)に採択された我孫子市「平和宣言」にもとづく平和事業の一環で、15年前から毎年、中学生を広島・長崎に派遣してきた。今年は12人の中学生を長崎に派遣する。市の広報は下記ホームページからご覧いただける。「記憶」を次の世代にどう繋げていくかという難しいテーマに対する市と我孫子市民の挑戦と言ってよい。
https://www.city.abiko.chiba.jp/shisei/kouhou/abiko/backnumber/
h31backnumber/20190801.files/190801_1S.pdf

 二面にもさまざまな平和事業が紹介されている。

派遣中学生について、我孫子市被爆者の会の的山ケイ子さんは語る。「私は原爆の話題をずっと避けてきた。派遣された中学生が、広島や長崎で聞いた被爆体験を堂々と小学生に語る姿に『あなたは被爆者として何をしてきたのか』と問われたように思った」。今年、彼女は中学生たちに同行する。懐かしい通学路を中学生と一緒に歩き、「平和を願う若者たちを連れてきた」と原爆で死んだ方々に報告したい、と抱負を語った。

<今年、長崎に派遣される12名の中学生のスケジュール>
8月8日 青少年ピースフォーラム参加、被爆者体験の聴講、被爆建物の見学
8月9日 長崎平和祈念式典参列、折り鶴の奉納、原爆資料館見学、インタビュー活動
8月10日 長崎歴史文化博物館見学

この他の我孫子市の事業を紹介する。
<「原爆に関する写真展」と「平和祈念の折り鶴展」>
8月6日~19日 アビスタ一階
<被爆74周年平和記念式典>
8月18日 午前9時30分~10時30分 会場 手賀沼公園「平和の記念碑」前
 黙とう、献花、派遣中学生の報告
<手賀沼灯篭流し>
8月18日 午後6時15分~ 手賀沼公園「平和の記念碑」前
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小さな町は効率が悪いという理由で市町村合併が盛んに行われた。人口13万人ほどの我孫子市も効率の悪い「ガラパゴス」みたいな町なのかも知れない。しかし小さな町だからこそ全体がよく見える。市民活動も活発だ。個人尊重の原点は「地方」にある。