2019.08.17 「WOW! 年寄りが元気ダ」 外国人観光客がつぶやいた
韓国通信NO611

小原 紘 (個人新聞「韓国通信」発行人)

8月3日(土)、千葉県我孫子駅前で「安倍政治を許さない」「原発ヤメロ」のステッカーを、いつもの「三人の侍」で掲げた。「手賀沼の花火大会」のある土曜日。駅前の人通りはいつもより多かったが、若者がひとり近寄ってきて「ごくろうさま、ガンバッテ」と声を掛けてくれた外は皆無言で通りすぎて行った。暑さのせいだろう。

<新宿の繁華街は大騒ぎ>
夕方5時半から新宿「アルタ」前で開かれる「とめよう東海第二原発集会」に参加。青春時代を過ごした新宿の変貌ぶりにあらためて驚いた。「アルタ」と言われてもピンとこない、「二幸」なら知っている年配の人ばかりが集まった。集会での発言が、40年過ぎたポンコツ原発を再稼働させる「愚かさ」に集中したのは当然だった。
茨城県にある東海第二原発の30キロ圏内に97万人が住み、事故が起きれば首都圏の壊滅が予想される。くわえて日本原電は事故発生率日本一という危険な会社である。東日本大震災時には全外部電源が喪失して福島第一と同じ事故が発生するところだった(国会事故調報告書)。
日本一の繁華街新宿の街が放射能で汚染されて「死の街」になるとは信じられない。ここで声をあげデモをする意味はとても大きい。
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デモ行進は3百人は超えていただろうか。政党代表、著名人の挨拶もない首都圏の住民たちのデモは切実なだけにとても元気だった。通行人へのビラ渡し、ギターや太鼓の音がビルに反響して鳴りわたった。
夕方といっても相当な暑さである。途中でエスケープも考えたが、歩いているうちに気分が高揚しているのを感じた。
新宿ド真ん中の土曜日である。大勢の通行人たちは3百人余りの闖入者たちに戸惑いの表情を見せた。なかには生まれて初めてデモを見た若者もいたに違いない。デモをする側からデモを見る人を観察するのは結構面白い。無関心に見えても若者たちに何かが伝わっていくのを感じる。手を振るカップルもいた。
車の渋滞で長い信号待ちの時間、若者たちは突然現れた都心のデモに付き合ってくれた。
毎月3日、我孫子駅前でたった1時間のスタンディングを始めてから3年過ぎた。強行採決された安保法制の撤回を求める有志のささやかな運動である。「何になるの」という疑問がわくこともある。最近は割り切って、公然と今の政治に非を鳴らす大人がいてもいいではないか、若い学生たちに学校では教えてくれない「課外授業」になれば、という自負もある。
3百人の都心デモ。ドン・キホーテみたいだが結構楽しい。そこには原発に反対する人と無関心な若者、外国人観光客との出会いがあった。日本ではデモはガラパゴス化してるように見えるが、その日の新宿はそうではなかった。外国人観光客の存在に力を得たような気がする。

<スマホが捉えた「日本のデモ」>
蒸し暑さに閉口した外国人観光客が足を止めてスマホでデモ隊をさかんに撮りまくっていた。野次馬のような好奇心、彼らの「つぶやき」が聞こえてきた。

「これは何だ、パレードか?」
「日本に『デモ』をする人がいるとはオドロキ」
「NO NUKES, NO FUKUSHIMA, 珍しいものを見た」
「日本観光の貴重な記念写真ができた」
「年寄りばかりのデモ 不思議の国ニッポン!」
「年寄りが元気だなア」
「ポリスは親切で、デモ隊おとなしい これも不思議」
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私も楽しくなってデモ行進から離れてはデモを見る通行人を撮りまくった。

デモ行進は西口ガード下を抜け、青春の思い出のションベン横丁、今の「思い出横丁」から小田急、京王デパート前を通り、甲州街道直進、明治通りを左折して伊勢丹前から新宿区役所にいたるまでの短い距離を約1時間かけて練り歩いた。いつのまにか涼しい風が吹き出し気持ちがいい。こんなに外国人がいるのなら、新宿駅のアナウンスのように宣伝カーも英語、中国語、韓国語でアピールしたらどうだろう。国際的な注目を集めること請け合いだ。
見回したところ報道関係者の姿は見当たらなかった。それでもスマホでデモが国内外にSNSで拡散された。「日本の新宿でデモ隊発見!」。「東海第二原発廃炉」の画面がクッキリ映し出されたはず。
どうしたわけか、日本の主要メディアは政府を批判する集会やデモを報道しなくなった。2003年のイラク派兵反対運動以来、反原発運動、安保法制、共謀罪、国家機密法反対運動をマスコミは無視し続けてきた。

我孫子駅のホームから、「ドスン」という轟音とともに最後の花火が見えた。この日の「打ち上げ」みたいに感じられた。家に帰れば、猛暑のニュースをトップに、北朝鮮がまたもやミサイルをぶっ飛ばしたニュース。それに、「ホワイト国」適用を取り消したため韓国が反発、日本政府は「国際法違反」と韓国を批判したというニュース。
寝苦しい夜が続く。

2019.08.06 広報 あびこがスゴイ
韓国通信NO610

小原 紘 (個人新聞「韓国通信」発行人)

我孫子市の広報8月1日号に二人の高校生が登場した。
市が広島に派遣した中学生たちが高校生になった。彼らは小学校に出かけ、被爆地での体験を「出前講義」した。ちょっと信じられない話だ。
原爆投下から74年目を迎える今年、市の広報で彼らが平和への思いを語った。
平和や原爆についてあまり知らなかった中学生たちは、広島で被爆者から直接、原爆の恐ろしさを聞き、平和の尊さを学んだ。その体験をさらに若い人に繋げようという我孫子市独自のユニークな試みである。

この取り組みは、1985年(昭和60年)に採択された我孫子市「平和宣言」にもとづく平和事業の一環で、15年前から毎年、中学生を広島・長崎に派遣してきた。今年は12人の中学生を長崎に派遣する。市の広報は下記ホームページからご覧いただける。「記憶」を次の世代にどう繋げていくかという難しいテーマに対する市と我孫子市民の挑戦と言ってよい。
https://www.city.abiko.chiba.jp/shisei/kouhou/abiko/backnumber/
h31backnumber/20190801.files/190801_1S.pdf

 二面にもさまざまな平和事業が紹介されている。

派遣中学生について、我孫子市被爆者の会の的山ケイ子さんは語る。「私は原爆の話題をずっと避けてきた。派遣された中学生が、広島や長崎で聞いた被爆体験を堂々と小学生に語る姿に『あなたは被爆者として何をしてきたのか』と問われたように思った」。今年、彼女は中学生たちに同行する。懐かしい通学路を中学生と一緒に歩き、「平和を願う若者たちを連れてきた」と原爆で死んだ方々に報告したい、と抱負を語った。

<今年、長崎に派遣される12名の中学生のスケジュール>
8月8日 青少年ピースフォーラム参加、被爆者体験の聴講、被爆建物の見学
8月9日 長崎平和祈念式典参列、折り鶴の奉納、原爆資料館見学、インタビュー活動
8月10日 長崎歴史文化博物館見学

この他の我孫子市の事業を紹介する。
<「原爆に関する写真展」と「平和祈念の折り鶴展」>
8月6日~19日 アビスタ一階
<被爆74周年平和記念式典>
8月18日 午前9時30分~10時30分 会場 手賀沼公園「平和の記念碑」前
 黙とう、献花、派遣中学生の報告
<手賀沼灯篭流し>
8月18日 午後6時15分~ 手賀沼公園「平和の記念碑」前
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小さな町は効率が悪いという理由で市町村合併が盛んに行われた。人口13万人ほどの我孫子市も効率の悪い「ガラパゴス」みたいな町なのかも知れない。しかし小さな町だからこそ全体がよく見える。市民活動も活発だ。個人尊重の原点は「地方」にある。

2019.07.31 新宿ゴールデン街は日本の未来か幻想か
       極めて稀な多文化で平和な安全地帯

杜 海樹(フリーライター)

 東京新宿のゴールデン街と言えば、300店ほどのバー等が長屋形式で軒を連ね、朝まで呑だくれの溜まり場として名を馳せて来た所であり、よいイメージで語られることはほとんど無かった。戦後の闇市から、青線、新宿騒乱、ボッタクリ、地上げ屋騒動・・・とあり、怖い街の代表格のようにも言われてきた。しかし、時は流れ、あろうことかミシュランにも掲載され星2つもいただく日本を代表する安全で優良な観光地へと変貌して来たのだ。筆者自身もゴールデン街に通って長いが、客層の変化は十分実感できるものとなって来ている。

 現在、新宿区には127カ国の外国籍の方々が住民登録をして暮らしている。東南アジアや欧米に限らず、ありとあらゆる国の方々が住んでいると言っても過言ではない。そして、ゴールデン街にやってくる客層も、中国、韓国、ベトナム、アメリカ、オーストラリア、フランス、イタリア・・・と様々になっている。中でも欧米からの観光客はひっきりなしで夜な夜な言語を飛び越えた交流で盛り上り幸せな一時を過ごしている。国際交流という言葉が抽象的に使われることは多いが、実態として国際交流現在進行形の現場というものはなかなかあるものでもない。人種の坩堝とはまさに現在のゴールデン街のことと言っても過言ではなく、この光景を是非とも時代の一証人として目撃していただければと思う。
 
 第二次世界大戦以降、新宿区には中国や韓国出身の方々が数多く住んでおり、近年では新大久保のコリアタウンが有名となっているが、大久保周辺には国際交流促進のNGO等も多くあり、2000年にはゴールデン街の隣にある新宿区役所付近を拠点としたイベント「多文化探検隊」も開催されている。そして、国の違いを超えて助け合う関係を作り出していくことが模索され、母国語が異なる人々が集っての防災訓練も実施され一定の成果も共有されている。その甲斐あってか、新宿区のホームページは英語・韓国語・タイ語・フィリピン語・中国語・フランス語・ベトナム語・インドネシア語等々14カ国語で見られるようになっている。日本においては国際交流は笛吹けど踊らずという感が拭いきれないが、海外からの観光客がどっとやって来る中、少子高齢化・建築物の老朽化等が進む日本において、他とは少し異なるゴールデン街周辺の存り様は一つの未来の手本となり得るかも知れない。現状では地元の日本の方々がやや押し出されてしまっている感はあるが、多文化との共存が今後とも継続発展していくのか、それとも一瞬の幻想で終わるのか、まだその答えは誰も知らないが少しでも良い方向に行ってもらえればと思うところだ。

 ゴールデン街には経営者にもお客にも有名人というか一目置かれる方々が少なくない。歌手や俳優、作家や写真家といった職業の方々はひとつも珍しくなく、ギター片手に店を渡り歩いた流しの故・マレンコフ氏(ソ連時代の最高指導者マレンコフに似ているとのことから皆からそう呼ばれていた)やタイガーマスクのお面を被って新聞配達を続けている新宿タイガー氏などはゴールデン街で知らない人はいない有名人だ。お二方ともドキュメンタリー映画の主人公になっているので、詳しくは何かの機会にでも映画を見ていただければと思うが、自分自身の独自のスタイルを貫いて平和を願い、人生の伴奏者としてゴールデン街にやってくる人々に寄り添う姿は圧巻でもあり小気味良い。地域の独自性といったことが声高に叫ばれる今日だが、マレンコフ氏や新宿タイガー氏ほど地域の独自性に根付いたスターはいないであろう。

 ゴールデン街の店舗はどこも非常に小さい。3坪から5坪程度が平均値といったところで、狭い店の中に大きな体の外国人観光客が肩をすぼめて座っている姿は何ともユーモラスでもある。ある時、何でこんな狭いところにわざわざやってくるのか?と質問したことがあるが、返ってきた答えは「こんな狭い店は自分の国にはない」、「皆と話せて楽しい」といったものであった。

 日本には古来から茶の文化・侘寂の文化があるが、ゴールデン街の狭小空間は侘寂に通じているのかも知れないと思うこともある。バーカウンターの中の主は千利休、テーブルの上のグラスは茶器、壁の張り紙は掛軸・・・そう考えると狭い飲み屋の向こう側にも無限の宇宙が拡がっているように思えてくる。ゴールデン街の一時が誰にとっても結構なお点前でしたであってほしい。
2019.07.27  平和行進に参加する
          韓国通信NO608

小原 紘(個人新聞「韓国通信」発行人)

<故郷喪失>
  私には故郷(ふるさと)がない。15回も引っ越しをしたせいだろう。「どこから来てどこへ行くのか」という画家のゴーギャンの問いが妙に気になって、少年時代を過ごした土地へ自分探しの旅に出かけた。年齢のせいかも知れない。77才の誕生日の前日、妻と新宿の早稲田、昔の戸塚町あたりを探索した。
 この地に引っ越して来た当時、あたりは空襲で瓦礫だらけ、家がボチボチ建ち始めた頃だった。  
 両親と弟二人の五人家族。貧しくても幸せな毎日は、祖父が経営していた印刷会社が倒産したあおりをうけ、家中に差し押さえの赤紙が張られて幕を下ろした。父は心労のため倒れた。
 住んでいた場所はすぐ見つかった。辺りには見知らぬ景色が広がっていた。一帯にビルが立ち並んでいるなか、不思議なことに、わが家があった場所は空き地で駐車場になっていた。
  ここが玄関、風呂場、居間、などと想像してはみたが、懐かしさよりも過ぎ去った年月の喪失感に強くとらわれていた。幼な友だちは都市化の波に呑まれて「行方不明」としか言いようがない。年月の残酷さを思い知らされた。家の前にあった大学のテニスコート場跡に建てられた12階建のリーガロイヤルホテルに宿泊。窓から見える景色を呆然と眺めつづけた。
 「私は何者か そして どこに行くのか」
 思いつきの故郷探しだったが、ここにも故郷はなかった。死ぬまで、これまで以上に「生きよう」という決意のようなものが湧いてきた。
 新宿区戸塚町1丁目19番地。家の前を神田神保町、上野広小路、厩橋(うまやばし)行きの都電が走っていた。小学校の校歌で歌われた「清き流れの神田川」はドブ川になっていた。

<ヒロシマ・ナガサキ平和大行進に参加して>
  7月19日、東京オペラシティでチョン・ミョンフン指揮、東フィルの『新世界より』を聞く。故郷を喪失した者には「家路」のメロディが身にしみた。

平和行進に参加する 韓国通信608写真(2)

その翌日、我孫子市を通過する平和行進に参加した。この平和行進は広島を目指して根室を出発したものだ。
 ノーモアーヒロシマ・ナガサキ世界大会に合わせて毎年各地で催しが開かれる。1958年から始まった平和行進もそのひとつ。沿線の地域住民たちがリレー式で行進に参加する。集合時間の9時に私を含めた40人ほどが集まった。
 被爆の体験と核戦争反対の声を次の世代にどう伝えるかが大きな関心事になっているが、今年は韓国の檀国(タングク)大の学生アン・スルギさん(20)(写真左)が参加し、日本の学生4人も加わって行進は大いに盛り上がった。
 彼女はスポーツ学を専攻する活発なお嬢さんだ。あらかじめタブレットに書きこんだ日本語で挨拶をして参加者を感動させた。もし韓国語のスピーチを通訳しろと言われたら、私の額から汗がどっと噴き出したことだろう。
 彼女は7月2日、水戸を出発して我孫子まで約3週間かけて歩いて来た。疲れを見せず通行人に明るく手を降る姿はほほ笑ましく、熱中症が心配される暑さの中で行進参加者全員が約2時間半も元気に歩けたのはアンさんと若者たちのおかげだったといえる。
 休憩時間にアンさんの周りに、いたわりと感謝の言葉を伝えようとする人たちが集まった。彼女は紛れもなくその日の行進のマドンナだった。
 本人が「多く集まり過ぎた」と言うほど多額のカンパが集まった。長崎大会に参加予定の学生たちにも3万円を超すカンパが集まり、こちらもニコニコ顔だ。
 我孫子市の副市長が参加して横断幕を持って先頭を歩いた。その光景に北海道から歩いて来た男性が感心していた。
 我孫子市は毎年、平和学習の一環として中学生を広島・長崎に派遣し、報告集会を市の公式行事として行っている。また行進の到着地になった手賀沼公園には、市が建立した広島で被爆した石で作った「平和の記念碑」と、広島から分火した「平和の灯」がある。<下写真>
韓国通信608写真(3)

 他ではあまり例のない我孫子市独自の平和への取り組み。市民たちの長年にわたる運動が実った。ここにも白樺派発祥の地、理想主義、ヒューマニズムの精神が根づいているのを感じる。もっともこれは私の少々飛躍気味の感想ではあるが…。
 記念碑の前で記念撮影を終え、迎えに来た隣町の柏市の人たちにバトンタッチ。横断幕とアン・スルギさんたちを見送った。

 政府の「韓国バッシング」が連日報道されるなか、アンさんの参加は参加者に感銘を与えた。「仲良くしなければいけない隣国との対立を煽ってどうするの」という声が女性たちの間からあがった。
 反核、反原発、平和の思いは日韓市民共通の願いになっている。今回の彼女の参加で、さらに大きな市民の連帯と友情の輪が広がることだろう。
 国益と隣国の脅威ばかりを主張する愚かな政治によって失うものは余りにも大きい。それを乗り越えるのは賢い市民たちだ。

<ああ 投票率48.8%>
 参議院選で改憲発議3分の2を「阻止」できたことを素直に喜びたい。それにしても有権者の半数以上が投票しなかったとは信じがたい。議会制民主主義が問われなどと月並みの感想は言わない。政治に期待せず投票する権利を放棄する風潮。日本人全体が考えなければならない宿題だ。「戦前に逆戻り」を心配する先輩がたくさんいた。「まさか」。若かった私は冗談半分に聞いていた。先輩たちの感性が次の句に重なる。    
 戦争が 廊下の奥に 立っていた   渡辺白泉
 俳人は1940年「京大俳句」弾圧事件で特高に検挙された(1913~1969)。
2019.06.28  国会議事堂を知らないタクシー運転手
    大丈夫か、五輪の交通対策

岩垂 弘 (ジャーナリスト)

 タクシーに乗ることはまれだが、先日、急ぎの用があってタクシーに乗った。行き先は国会議事堂南通用門だったが、運転手は国会議事堂を知らなかった。このため、現地に着くまでに時間がかかってしまったが、都内を流しているタクシーの運転手に国会議事堂を知らない人がいると知って驚いた。来年は、東京オリンピックとあって内外の多数の人たちが東京にやってくる。その人たちの足となるタクシー側の受け入れ態勢は大丈夫だろうか。

 大雨に見舞われた6月15日午後4時50分、東京都豊島区のJR山手線大塚駅南口前の交差点でタクシーを拾った。同乗者は友人2人。運転手は人の良さそうな小柄な高齢者だった。
 乗車すると、運転手に「国会議事堂の南通用門まで」と告げた。この日午後5時ごろから、そこで、市民グループ「声なき声の会」による故樺美智子さん(1960年6月15日に行われた国会周辺の反安保デモで死亡した東大生)への追悼献花が予定されていたので、私たちはそれに参加しようと、タクシーを拾ったのだった。
 
 ところが、運転手から返ってきた言葉は「どこの議事堂ですか」だった。ここは、外国ではない。国会議事堂と言えば、わが国の国会議事堂と決まっている。都内で一番知られた場所といってよい。それだけに、あまりもの予想外の返事に私は面食らってしまい、すぐ言葉が出てこない。「日本の国会議事堂ですよ」という言葉が出かかったが、それは失礼になるな、と思って「首相官邸の近くです」と告げた。
 すると、運転手から返ってきたのは「首相官邸がどこか知らない」だった。そして、こう付け加えた。「国会議事堂の住所を教えてください」。運転手が、運転席に設置されているカーナビに手を伸ばしたので、「なるほど、この運転手はカーナビが頼りなんだな」と納得がいった。

 が、それからが大変だった。私が「千代田区だと思う」と告げると、運転手は「東京都ですね」と念を押してきた。「そうです」と答えると、彼は車を走らせながらカーナビに「東京都千代田区」と入力し、その上で「町の名前を言って下さい」と聞いてきた。私が、「平河町だったかな、それとも永田町かな」と迷っていると、見かねた、隣に座っていた友人がスマホを取り出し、それで国会議事堂の所在地を調べ、「永田町ですね」と加勢してくれた。それを入力した運転手は、さらにたたみ込んできた。「番地は?」。友人がまたスマホで検索し「1丁目7番1号」と叫ぶと、運転手はそれをカーナビに打ち込んだ。
 ホッとして窓外に目をやると、タクシーは靖国神社近くまできていた。
 
 タクシーは議事堂わきの憲政記念館の近くで止まった。「南通用門がどこなのか知らないので、これ以上ゆけない」という。やむなく、私たちはタクシーを降り、歩いて南通用門へ向かった。着いたのは午後5時25分。すでに献花は終わっていて、人影はなかった。私たちは持参の生花を門柱に立てかけて黙祷した。もう少し早く着いておれば、声なき声の会の人たちに合流できたかもしれない、と思いながら。

 私にはタクシーをよく利用した時代がある。1990年代までだ。そのころは、都内でタクシーを拾って、行く先の町名か主要な建造物、施設の名前を告げれば、最短距離でそこまで送ってくれた。国会議事堂や首相官邸を知らない運転手はまずいなかった。
 そのころ、ある運転手から、こう聞かされたことがある。「タクシー会社に採用されると、実際に街に出て客を拾う前に、まず、実務研修があり、主要な町名や名所、有名な建物の所在地を徹底的に覚えさせられたものです」。当時としては、タクシー運転手が仕事を始めるにあたっては、こうした教育期間が当然のこととして設けられていたということだろう。

 最近は、バス会社やタクシー会社で運転手の不足が深刻化し、運転手の確保に追われていると、よく耳にする。そういえば、「運転手募集」の広告をよく目にする。そうした現状では、採用した運転手に十分な実務研修を施す余裕がなく、運転手をすぐに現場へ出さざるを得ない、ということがあるのかもしれない。

 私たちが利用したタクシーは、都内に本社をもつタクシー会社の車だった。降り際、友人が「運転手さん、都内の町名や有名な建物の所在地をもっと勉強してよ」と話しかけると、彼は「そんなこと言われてもね。なぜって、間もなくこの会社を辞めるんだから」と言い残して走り去った。

 これからは、昔のように、タクシーに乗って行く先を告げたら、眠っていてもそこにゆけることを望むのは無理ということだろうか。オリンピックで東京にやってきた人たちがタクシーに乗って戸惑うことがないよう願わずにはいられない。

2019.06.20  不快になじめない私―「ウソ」で固めた東京オリンピック
     韓国通信NO604

小原 紘(個人新聞「韓国通信」発行人)

 友人たちと群馬の猿が京温泉へでかけた。赤谷湖畔の宿に二泊。月夜野、赤城山周辺のドライブと散策。夜の酒食の席は、談論風発、楽しく盛り上がった。
 しかし旅行の間中、四月以来の改元騒ぎと、天皇交代、トランプ大統領訪日、安倍首相の異様な露出風景が醸した不快さが心に残っていた。
 「いま、この社会の気流か気圧のようなものが急速に変わりつつあることを、どれだけの人びとが感じているだろうか」、「不快になずみ、不快を口にしなくなり、いつの間にか快不快の境界線も見えなくなっている」のは、「乏しい内面が、わたしたち自身を執拗に抑圧しているから、それは真の不幸をのぞむかのようだ」と作家辺見庸は苦悩をにじませ(『新・反時代のパンセ』)、「連日のオリパラ・ご退位さわぎにわたしは無言で毒づく。けっ、しゃらくせえ!」とエッセーを締めくくる。
 改元、天皇の交代劇、トランプの国賓接待劇は明らかに、首相による、首相のための「茶番劇」だった。彼が描く次の舞台は、改憲を懐に、国民的「祝祭」、オリンピックの場に移る。私は断然「不快」である。そして辺見の挑発に乗って毒づく。今からでも遅くない、オリンピックなぞ止(や)めちまえ!と。
 耳を貸す人はいるだろうか。現に競技場の建設は進み、チケットの販売予約も始まった。大勢のボランティアが嬉々として集まり、聖火リレーのコース、金メダル候補の話題でもちきり。開催日までのカウントダウンも始まった。
 政治利用やカネ儲けを目的にした「悪巧み」は、いずれ破たんするはずとタカをくくっていたが、善男善女、老若男女、こぞって一年後を楽しみにしているようにも見える。「反対」を唱えても、変人あるいは、「非国民」扱いされるのがおちかもしれない。それでもオリンピック「オール与党」の世情のなかで主張したい。実はオリンピック開催の期間中だけでも、喧騒を離れてどこか静かなところで暮らしたいと真剣に思っていた。「ニッポン! ニッポン!」の声で湧きかえる日本からの脱出。

<嘘と金で買ったオリンピック>
 放射能は「アンダーコンロール」と真っ赤な嘘を語った(2013年9月)安倍首相の得意げな顔が思い出される。許容放射能の国際基準1ミリ㏜を遥かに越す20ミリ㏜の避難地域の相次ぐ指定解除。「自主避難者」の住宅を取り上げて「安全」を言い繕う政府。オリンピック誘致をカネで買った疑惑で竹田恆和IOC会長は辞任に追い込まれた。
 ウソとカネにまみれたオリンピック招致後、目にあまる安倍政治の暴走が始まる。強行採決が相次いだ。首相の国政の私物化、「モリカケ疑惑」を官僚たちの「文書改ざん」「ウソ」で乗り切った。政府統計の「改ざん」でアベノミクスの偽装が露見した。昭恵首相夫人が国有地の払い下げに尽力したことも、100万円の寄付も「なかった」ことにされた。疑惑の人が夫とともに晴れやかにトランプ大統領歓迎宮中晩さん会に参加したことに誰も驚かない。首相の親友、加計孝太郎氏の請託も「なかった」ことにした。
 「平和でより良い世界づくりに貢献し、スポーツ文化を通して、世界の人々の健康と道徳の資質を向上させ、相互の交流を通して互いの理解の度を深め」「住みよい社会を作り、ひいては世界平和の維持と確立に寄与する」(オリンピック憲章抜粋)。
オリンピック精神と相いれない不道徳、不寛容な政治と社会的病理が深化した。
 在日外国人やLGBT(性的マイノリティ)に対する差別と、ヘイトがはびこる日本社会。北朝鮮や中国に対する敵愾心を煽り、軍事拡張にひた走る国。商業主義と巨大利権の横行。憲法の平和主義をかなぐり捨て、差別と国際協調破壊者のトランプ大統領に忠犬のように付き従うわが国に、「道徳の資質の向上と世界平和」を語る資格はない。社会のデタラメさを覆い隠すオリンピックと、それに浮かれる熱狂が、これから一年以上も続くと思うとうんざりだ。「オリンピック疎開」はやめて、醜悪で腐敗した「バベルの塔」を見てやろうという気持ちに今は傾きつつある。

<政治目的に利用されるスポーツと障害者たち>
 政治家たちが学ぶべきものはオリンピック精神、スポーツ選手たちのひたむきな努力とフェアープレイ精神ではないか。スポーツの世界は、「口先」「謀略」「権力」「忖度」「カネ」「ウソ」がはびこる政治の世界とは無縁の世界だ。政財界のオエライさんたちの頭には、「国威発揚」、「金儲け」、そのためのメダルの数しかない。彼らにとって選手たちは野望の実現のための手段に過ぎない。白血病を発症した水泳選手に対して「メダル候補なのに残念」と語った五輪担当大臣は、「手段」とされた選手をはじめ国民のヒンシュクを買った。
 NHKはパラリンピック関連報道に余念がないが、「アンダーコントロール」から始まった醜悪な国策オリンピックを美化する狙い、政府へのサービス、「忖度」としか見えない。パラリンピックで陽の当たるエリートたちと無縁な社会で暮らしている障害者たちの姿が見えない。「共生社会」という政府のウソ。政府が定めた障害者の雇用率を引き上げるために、各省庁が雇用障害者を水増しした。障害者には屈辱的、前代未聞の内閣総辞職に値する大事件だった。

<オリンピック成功のための国会決議>
 今から5年あまり前の2013年、衆参両院で「オリンピック成功に関する決議」が行われたのをご存知だろうか。オリンピックを「国際交流・国際親善、共生社会の実現、国際平和に寄与する意義深いもの」と位置付け、オリンピック開催は「元気な日本へ変革していく大きなチャンス、国民に夢と希望を与え」、「東日本大震災からの復興を着実に推進して、新しい日本の創造と我が国未来への発展に努める」という決議が、自由民主党、民主党・無所属クラブ、日本維新の会、公明党、みんなの党、生活の党の全会一致で可決された(日本共産党は決議提出には加わらなかったが、決議に賛成。反対は「オリンピックより福島を救え」と主張した山本太郎議員のみだった)。
 福島原発事故から2年後、誘致を喜び、政府に「ヨイショ」した頭脳の程度に驚かされる。

 東北の復興もなかば、福島原発の処理は未だ何の見通しも立っていない。避難生活者5万4千人、うち福島は4万2千人(2019/1現在)という苛酷な現実のなかで行われるオリンピックは、まさに「喪中のなかのお祭り騒ぎ」ではないのか。オリンピックに対する批判すら認めない全体主義的傾向、日本社会の劣化が始まった。 地震、水害、原発事故、戦争による不慮の中止も考えられるが、今からでも遅くない、やはり、オリンピックは自主返上すべきだ。
 オリンピック開催後の日本がどうなるか心配する人は多い。

2019.06.18  「住んでよし、訪れてよしの国づくり」とは?
     観光客の姿から垣間見える日本の姿

杜 海樹 (フリーライター)

 2018年、訪日外国人観光客数が年間3000万人を突破し過去最高の記録、そして、東京オリンピックに向けて4000万人の来日を望む等々の報道がされている。実際、日本各地の観光名所は海外からの観光客であふれており、東京都心でも日本人より海外からの旅行客の方が多いのでは?と思う日もあるくらいの状況となっている。自然発生的に日本に心から行ってみたい・・・という形での来日であれば、こんな嬉しい話はないのかも知れない。しかし、必ずしもそうではない?としたらどうであろうか。

 近年、インバウンド(訪日外国人旅行者)という言葉が使われるようになってきたが、海外からの旅行客が急増した理由が自然発生的でないことだけは確かなことと言える。
 時は小泉政権時代の2003年に遡る。国際交流を促進し経済を活性化させるためにと観光立国懇談会が設置され、最終的に副題を「住んでよし、訪れてよしの国づくり」という報告書がとりまとめられ「外国の人々が『訪れたい』、『学びたい』、『働きたい』、そして『住みたい』日本となることこそ、21世紀に日本が追求すべき国の価値である」といった提言がなされている。
 そして、観光立国関係閣僚会議が設置され、観光立国行動計画に基づくビジットジャパン事業として空港や港湾が再整備され、和食・城・寺社仏閣・温泉等々がPRされ、旅行客が急増する結果となっている。つまり、今日増え続けている旅行客の多くは国のプロジェクトに沿って来日して見ました・・・といったところなのだ。

 もちろん観光産業は平和憲法下の日本にあって、重工業や家電にとってかわる主力産業の一つとして、軍需産業とは異なる平和産業としての可能性を秘めており、そういう意味では大歓迎ではあるのだが、相変わらずの箱物、トップダウン方式という面は否めず、かつての全国総合開発計画時の教訓がどのくらい活かされているのかと疑問に思わざるを得ない面もある。観光客を受け入れる現場からは混乱と戸惑いの声も聞こえてくる。

 観光地だけでなく、東京都心の飲み屋街なども海外の観光ガイドマップに掲載されるようになり、既存の地元の常連客は次第に店から追い出される結果となり、飲み屋街は海外からの団体様で溢れかえりつつある。その様子は丁度高度経済成長期の日本人団体観光客の姿と重なって見える。そして、現場では歓迎の声よりも迷惑との声が聞かれるようになり、この先が思いやられる点もでてきている。

 一般に日本人の観光客に対するおもてなしの評価は極めて高いと言われているが、一度に大勢の観光客ともなるとやはり限度というものがあろう。海外からのお客の場合は、言語や生活習慣が全く異なり、特に宗教上の違いについては考えなければならないことが多々ある。そうしたソフト面の課題点を一定整理した上でないと良かれと思って行ったことがとんでもない問題を引き起こしてしまう危険性も考えられ、十分な検討をする必要があるのではないだろうか。

 また、過去の教訓という点では、高度経済成長期に日光が、バブル期には鬼怒川温泉がもてはやされ多くの観光客で賑わったわけだが、その後日光は「日光結構、もう結構」と揶揄され、鬼怒川温泉は大規模ホテルが倒産し続けた点にどう向き合うか?という問題も残っているであろう。日光は世界遺産に登録され都心からの直通列車も整備されているわけだが、観光客数は依然として伸び悩みを続けているのは何故なのか?といったところに問題の本質が隠れているようにも思える。

 さらに新しい問題として、海外からの旅行客は増加しても国内の旅行客は減少しているという点をどう考えるかということがあろう。海外からの旅行客の増大で宿泊代は高騰し予約も困難性を増す中、おもてなしをする側の日本人の実質賃金は減少を続けている。社会保障費の負担増、税金の負担増という問題もある。かつては気軽に行けた国内旅行もあきらめざるを得ない、じっと家の中に引き籠もらざるを得ないという現実にどう向き合うのであろうか。
 先日、都内の天麩羅屋さんに顔を出したところ、天麩羅を揚げていたのは2年前に来日したというインド出身の方、お客の多くは欧米からの観光客で地元の人の姿は見られなかった。そして、日本に来てまだ日の浅い職人さん?から「天麩羅は日本の味です」と言われ天麩羅を提供された訳だが、こうした姿が観光立国行動計画が指し示すところの日本のあるべき姿なのか?日本政府に是非お伺いしたいところだ。

2019.06.07  チバリヨー沖縄 !(下)
          韓国通信NO602

小原 紘(個人新聞「韓国通信」発行人)

<基地さえなければ>
 沖縄の観光客が増え続けている。昨年2018年の年間観光客は1千万人に迫り、外国人観光客も300万人を超えた。基地だらけの沖縄にこれほどの観光客。基地がなければ、パリ、ニューヨーク、ハワイなんか目じゃない。五年前に訪れた宜野湾北谷 (ちゃたん)町は、返還されたバンビ飛行場の跡地を利用してアメリカンスタイルの商店、遊戯施設を作り、活気ある町に変身を遂げた。レジャーランド化して若者や観光客で大賑わいだった。北谷は脱基地のお手本とも言われる。

<読谷村 (よみたんそん)をたずねた>
 今回の旅で印象に残った読谷村。
 「鉄の暴風」というイメージは、沖縄戦最初の米軍上陸地となった読谷村と重なるが、読谷村は不死鳥のように生き返った。
 「平和共存・文化継承・環境保全・健康増進・共生持続」、「ゆたさ(・・・)ある風水、優る肝心、咲き誇る文化や、健康の村」を村づくりの目標に掲げる。全村が壊滅した挙句、95%が米軍に接収された村が掲げるこの言葉は重い。役場正面には「政府は日米地位協定を抜本的に見直せ」と大書した横断幕が掲げられていた。

<憲法第九条に込められた不戦の誓い>
 読谷村の小橋川清弘(谷村史編集/元読谷村立歴史民俗資料館館長)さんからお話を伺った。
チバリヨー沖縄 !(下) 役場の入り口にある憲法第九条のレリーフから読谷村の平和への覚悟が伝わり感動した。村の形がオオトリ(鳳)に似ているのでオオトリが村のシンボルになった。「風水」※によって村役場を基地のド真ん中にしたという奇想天外な話。「風水」を根拠に、村役場など主だった公共施設を基地の中に作り、それが現在の村の中心になった。1997年に現町役場が完成。当時の山内徳信村長の「三代目 読谷村役場」という言葉が残されているので紹介する。<上写真/三代目読谷村役場> 村民あげての運動が実った喜びと決意が伝わる。※中国伝統の自然観のひとつ。都市、住宅、墓を地勢や方位、地脈、陰陽で決める。朝鮮・日本にも伝わり活用された。「鬼門」という言葉もその名残。



 嗚呼! 遂に村民の夢が実現した 読谷村の自治の殿堂として米軍基地・読谷飛行場の真ん中に誇らしく自信を持って建っているお前は 三代目読谷村役場なのだ 由緒ある座喜味城を腰当に、風水よく鳳凰の島として建っているのだ アメリカ軍にも大和政府にも読谷村の読谷村民だ、と訴え続け、戦い続けた村民の勝利だ  読谷村の自治・分権・参加民主主義・平和の殿堂として村民とともに輝き未来に向かって雄々しくはばたけ 1997年4月1日  読谷村長 山内徳信


<かがやく村>;
 小橋川さんは読谷村場の名前が刻まれた石碑の前で、「すべての地域に住む人のための役場。一人ひとりが読谷の主人」と役場の使命を説明した。「主権者は国民」と謳った日本国憲法を地域で生かそうとする「読谷村精神」に感銘した。<左下写真/読谷精神を語る小橋川氏>

チバリヨー沖縄 !(下) 読谷村は日本一人口の多い村。4万人を超えた。読谷村の次に人口の多い村は東海原発のある茨城県の東海村だ。基地と原発を抱えた二つの村。
 東海村の元村長村上達也さんに「東海村はいまだに何故、村なのか」と不躾な質問をしたことがある。「村こそ共同体の基本だ」」と彼は胸を張った。小橋川さんの話から、東海村の村上さんを思いだしていた。市町村合併が続き、道州制が浮上しているが、これは住民を効率よく管理するための主客転倒の発想だ。この時ほど「村民」になることに魅力を感じたことはない。

<悲劇を乗り越えて>
 1945年4月1日、雲霞のごとく押し寄せた米軍16,000名によって村はたちたまち占領され、村民は逃げまどった。読谷村の95%が米軍によって接収され、人権も生きる権利も奪われるなかで基地返還の運動が進められ、1997年には役場庁舎が、1999年には文化センターが基地内に建った。さらに2006年7月には飛行場の敷地190ヘクタールのうち140ヘクタールを返還させた。
町役場の展望室から、小橋川さんは運動広場、野球場、文化センターなどを説明しながら将来構想を語ってくれた。現在でも村の36%が米軍の通信施設、弾薬庫として使用されているという。が。
 本土の捨て石とされ、日本から切り離され、復帰後は基地を押し付けられてきた沖縄の縮図といわれる読谷村から、厳しさの中にも前途に明るい可能性が見える。本土復帰後、知事となった屋良朝苗は読谷村出身である。山内元村長の、日本国憲法を村政の基本精神とした村政の実績が、花開こうとしている。住民福祉を第一に、文化、観光都市を目指している。

<チビチリガマを前に小橋川さんが語った90分>
 小橋川さんから読谷村波平にあるチビチリガマの悲劇を聞いた。米軍に追われ避難した村民約140人が米軍の投降の呼びかけに対して、竹やりで抵抗したあげく、壕の中で火をつけ、毒薬注射で自殺、包丁や鎌で首を切るという集団自決が発生し85人が死んだ。凄惨な死の実態は有志の実態調査によってやっと83年になって明らかになった。
 悲劇は続く。洞窟から遺骨が収集され、入り口に慰霊のために「平和の像」が建てられたが右翼の集団によって87年に破壊された。海邦国体(1987年)で起きた「日の丸焼き捨て事件」に対する報復だった。私たち一行6人は再建された平和の像の前で集団自決とその後のいまわしい事件の説明に耳をそばだてた。傍を流れる小川、鬱蒼とした樹々に囲まれたガマ(壕)の中は暗く、74年前の悲劇をそれぞれに思い浮かべながら90分を過ごした。
 「集団自決」は米軍上陸後、沖縄各地で起きた。子どもや仲間を殺した忌まわしい事件を知られたくない人が多く、未だに全容は明らかにされていない。
 同じ読谷村にあるシムクガマでは逃げ込んだ約千人の村民が全員投降したため全員が生き延びたという説明に耳を疑った。シムクガマにいたハワイ帰りの村民が、米軍と交渉したためだ。
 前者は日本軍の方針に殉じ、後者は交渉によって生きる道を選んだ。この違いはどこから生まれたのか。「やはり教育の問題でしょうね」、戦争の悲惨さといのちの尊さを教えない最近の教育を小橋川さんは心配していた。

<旅の終わりに>
 旅の最終日、私たちは読谷村座喜味 (ざきみ)にある「やちむん(やきもの)の里」をたずねた。陶芸美術館朝露館の関谷興仁さんを中心とした、今度の私たちの旅には欠かせない訪問先だった。やちむんの里の起りは17世紀に遡るといわれるが、その後衰退した。首里城下に集められた陶芸家による「壺屋窯」から1972年に陶芸家金城次郎氏(故人)が読谷に工房を移すと、中堅の陶工4名が共同登窯を築き、読谷山焼を作り始めた。その後、首里から多くの陶芸家が移り住み、沖縄を代表する焼き物の里になった。現在50余りの工房があり、多くの陶芸愛好家が訪れる。
 チバリヨー沖縄 !(下) 民藝の柳宗悦、濱田庄司らによって沖縄独特の美が評価された沖縄の焼き物は読谷村に引き継がれている。
特に益子で活躍した濱田庄司が、「京都で道をみつけ、英国で始まり、沖縄で学び、益子で育った」と述懐するように、沖縄の陶芸と益子は縁が深い。広い敷地に工房、登り窯(写真上)が点在し、読谷村が誇る有力な「平和産業」となっている。実はこの地も米軍用地を利用したものだ。平坦地にこれだけ多くの工房が軒を並べて存在するのは珍しい。

 二泊三日の「琉球ぷらっと道中」。一行6人の平均年齢はおそらく70才を超えていたが、とても行動的で、沖縄料理にも観光地にも貪欲だった。今帰仁 (なきじん)グスク跡、恩納村の万座毛など沖縄観光の目玉と称される所もたずねては遺跡と豊かな自然美を堪能した。
 繰り返すことになるが、沖縄に多くの観光客が訪れ美しい自然と歴史・文化に驚嘆の声をあげる。その沖縄に日本政府は米軍基地を押し付け、さらに新しい基地を作ってアジアはもちろん世界に向けて軍事的威嚇を強めようとしている。非武装中立の琉球沖縄がアジアの交易の拠点となり交易と観光で繁栄する青写真もある。
 本土に住む人間として何ができるのか、本気で考える時が来た。
2019.05.14  5月1日(May Day) ラプソディー
   韓国通信 NO599

小原 紘(個人新聞「韓国通信」発行人)

1966年5月1日は日曜日だった。その日は就職してから1カ月たった5月1日、日曜日だったので「ひとり」でメーデーに参加した。まだ見習社員、もちろん労働組合員でもなかった。
なんとなく銀行に就職した。山陽特殊鋼をはじめ大手企業が続々と倒産する就職難の時期、やむなく選んだ職場だった。
退職するまでの30年間、毎年のようにメーデーに参加した。月初1日は忙しい職場なので、上司から嫌味をいわれながら参加し続けた。
「労働者の祭典」などといわれ、弁当を食べ、ビールを飲み、皆で歌った。天気はいつも快晴だったような気がするが。「晴れた五月の青空に~♫」というメーデー歌のせいかも知れない。それでも30年前までは、東京・代々木の中央集会には7~8万人の労働者が集まり、熱気と解放感に溢れていた。解雇された労働者、争議組合の労働者、他の金融の友人たちと一緒だった。

        20180514メーデー

久しぶりにメーデーに出かけた。代々木公園で開かれた第90回中央メーデーである。原宿駅は身動きがとれないほどの混雑ぶり。若者の大半は竹下通り、表参道方面へ流れていった。多くの組合旗と腕章姿が懐かしかった。昔もそうだったが、演壇の挨拶に耳を傾ける人はあまりいない。日本共産党の志位委員長の挨拶に拍手が起きたくらい。連合と一線を画す全労連のメーデーである。人数が少ないなりに、勢いと緊張感のある集会を想像したが、少し物足りなかった。

労働運動についてはまた別の機会に譲るとして、第90回中央メーデーのスローガンは「9条改憲反対! 辺野古基地建設阻止! 安倍政権は退陣を! 」、さらに、「なくせ貧国・格差、8時間働ければ暮らせる社会を! 外国人労働者との連帯・共生を! 原発ゼロ社会の実現を! 」だった。
 おそらく参加した人たち、私も含めて誰もが納得する最低限のスローガンに違いない。参加人数は2万人を少し上回るほどだったといわれるが、その日、好対照だったのは新天皇即位、新年号の最初の日だったこと。テレビは他に話題がないかと思われるほどにバカ騒ぎ、嬌態を演じた。
 新元号の発表以来このかた、メーデーのスローガンを口にするような人間はまるで「非国民」と言わんばかりの、現実の「塗り替え」が全国規模で行われた。
 渋谷を行進するデモの数倍、数十倍に匹敵する若者たちよ。君たちはそれほどにも新天皇即位が嬉しいのか。令和という年号に夢を託せるのか。君たちが口にしているソフトクリームから幸せがやって来るのか。生涯、非正規雇用者として働き、貧困と格差に怒りもせず、安倍首相以外に「適当な人がいない」と、戦争の準備をするアブナイ首相を支持し続けるのか。渋谷のスクランブル交差点から見える大スクリーンに映し出される天皇徳仁と妃の雅子の姿に歓声を上げ、新聞号外を嬉々として受け取る姿は、本当の君たちなのか。
たったひとりの人間を「象徴」として崇めることに異存はないのか。首相が天皇交代劇のプロデューサーのようにふるまうのは可笑しいと思わないか。テレビはこぞってメーデーを無視した。NHKは公平な公共放送と君たちは今でも信じているのか。
2019.05.10  記憶せよ
   韓国通信NO597
 
小原 紘(個人新聞「韓国通信」発行人)

4年前栃木県益子にオープンした陶板美術館朝露館は、陶芸家・関谷興仁さんが大切にしている言葉と出来事を陶板作品にして展示している。<美術館については、Hp http://chorogan.org/をご覧ください>
素材の粘土づくりから始まり、字を彫る細かく気の遠くなるような作業は、「記憶せよ」と自分の心に刻む魂の日々だった。膨大な作品ひとつひとつから、ひたむきな強い意志が立ちのぼる。

関谷さんの初期の作品に韓国の済州島4.3事件を扱った作品群がある。
済州島4.3事件とは、1948年に済州島で起きた虐殺事件。米軍政下にあった韓国政府が単独での制憲国会議員選挙の実施を決めたことから、南北統一による国家の樹立を求める島民がほう起し、軍・右翼集団などがこの鎮圧にあたり、数万人の島民が犠牲になったとされる。
関谷さんは、金明稙の詩を作品化した。詩のなかの「朝露(あさつゆ)」ということばが「朝露館(ちょうろかん)」命名の由来となった。日本からの解放後、島民たちを待ちうけた米軍と軍隊と右翼集団によって繰り広げられた残虐非道に、関谷さんは「心を締め付けられ、涙した」。済州島4.3事件が、陶板作家として活動を始めた記念碑的作品となった。

関谷さんの仕事は、済州島4.3事件をテーマに小説を書き続けた韓国の小説家、玄基栄(ヒョン・ギヨン)氏(79)の仕事と重なる。小説『順伊おばさん』で日本でも知られる玄基栄氏は、島民を見舞った悲劇を、発禁処分、逮捕にも屈することなく発表し続け、自らの創作活動を「記憶運動」と表現した。

玄基栄氏は「第3回済州4・3平和賞(済州島.4.3虐殺事件の真相解明・名誉回復事業から始まった国際平和賞)」を受賞、去る4月1日行われた授賞式で語った。
「記憶運動は冷戦勢力の大衆操作と大衆の無関心に対抗することです。4・3の真実を守るためには、絶えず振り返る再記憶の努力が必要です。言説や証言、証拠が絶えず喚起されなければなりません。これこそ忘却行為に抵抗する記憶運動です」
関谷さんと玄基栄氏はともに「記憶」と格闘した。

20190501マルセ太郎
在日舞台俳優マルセ太郎が記憶喪失に陥っている日本人を批判して、「記憶は弱者にあり」と語ったことを思いだす。弱者としての自覚がない人間は過去を忘れる。戦争の記憶が鮮明だった日本人は平和憲法を受け入れたが、教育と経済繁栄の中で戦争の記憶は「消された」。
あらためて朝露館の陶板作品を見る。チェルノブィリ、アウシュヴィッツ、ヒロシマ・ナガサキ、中国人強制連行、フクシマ、マレーシア、千鳥ヶ淵。どれも喪失した記憶を蘇えらせるものばかりだ。それらは「忘れさせよう」とする大衆操作と、無関心に逃げ込もうとする人々に対抗するものだ。朝露館は過去を振り返り、記憶を取り戻す努力を求め、言説や証言、証拠が喚起される場所だ。

戦争をしたがる人たちは、戦争の記憶を失わせようとする。8年前の福島原発事故でさえ、忘れさせようとしている。安倍首相と麻生財務相のウソも記憶から薄れていく。そうさせる火消し役を務めるNHK。「過去に引きずられるな」という「前向き」な言葉で過去を「忘れる」。元号騒ぎと天皇の交代とオリンピックの話題で未来は明るそうな雰囲気だが、マルセ太郎は、日本の将来は「暗い」と予言した。過去に「こだわる」必要はない。過去を直視することだ。権力者たちに都合の悪いことを忘れさせる<忘却行為>に抵抗する記憶運動が求められている。