2021.11.22 都会の目、村の目

         ――八ヶ岳山麓から(350)――
                   
阿部治平 (もと高校教師)


 ニホンジカ
 シカの害は年々ひどくなっている。
 別荘地帯のカラマツ林のなかで、おとなの男が2,3人何か作業をしていた。見ると小鹿が罠にかかっている。暴れる小鹿を抑えているもの、罠を引っ張って足から外そうとしているもの、それぞれだ。別な一人がプライヤーをもってきてワイヤをバチンと切った。罠から放された小鹿は、ものすごい勢いで逃げ去った。みんな大喜びだ。
 小鹿を助けられては困るなあと思ったが、男たちがあまり一所懸命なので「やめてくれ」とは言えなかった。この近くには、「罠がある、危険」という張紙がある。そこには「シカがかかっていたら発見者は連絡してほしい」という設置者の電話番号も書いてある。役場へ連絡すれば処置をする仕組みもある。わたしは今年になって2回罠にかかっているシカを見つけて関係先に知らせた。
 春先、畑の作物は野生の草木よりも早めに緑になる。これを狙ってシカがやってくる。ブロッコリーやセロリー、キャベツ、トウモロコシ、あらゆる野菜類はシカの餌になる。シカが2,3頭で苗を食えばその畑はもうおしまいだ。苗だけではない。生育中も収穫寸前でも作物を食う。そこで鹿よけのテープを張り巡らしたり、時々は花火で脅したりする。ところがシカのほかにハクビシンがやってきてトウモロコシなどを食い荒らす。作物に少しでも傷がつけば商品にはならない。
 稲作もやってはいるが、コメが安値だからあてにはできない。「手間賃を考えれば買って食った方が安い」という代物だ。いま百姓の生活は野菜に懸かっている。都会出身の新住民には「小鹿のバンビはかわいいな」よりも、映画「小鹿物語」を思い出してほしい。百姓はシカと同居はできないのだ。

 キノコ採り
 秋風が吹くと、雨上がりの翌日には林の中に人がぽつぽつやってくる。キノコ採りだ。キノコ好きのものはたいていそれぞれが毎年キノコの生える秘密の場所(シマといったかな?)をもっている。マツタケはあのモミの木の日なた側とか、コムソウ(ショウゲンジ)はあの松の大木の周りとか。ジコウボウ(ハナイグチ)は、まあ下手でも取れるから秘密ということはない。
 人はまず自分のシマを目指して林に入る。ところが、キノコの生える場所にいつのまにか別荘がたっている。そこをシマにしている者は悔しがるが仕方がない。未練がましくその周りをうろうろする。
 キノコ探しに夢中になって別荘の庭先に入ったことがあった。見ると「立入禁止」の札が立っている。そこの主人がおっかない顔をしてこっちをにらんでいる。「やあ、こりゃ申し訳なし」とあいさつしても無言でこちらの写真を撮っている。不法侵入の証拠にするつもりだろう。
 このあいだは、とある別荘の門の脇にムラサキシメジが生えかかっていた。それも弓なりの行列になっている。こんなことは一生に何度もない。胸が躍る。ところがあいにく別荘に人が来ている。2日もたてばキノコは傘が開いてしまう。「早く帰ってくれ」と祈るばかり。翌日行って見ると、ムラサキシメジは踏まれて砕かれた死骸の行列になっていた。
 村の上の林はもともと入会地だった。私有地であろうがなかろうが、我々は昔からキノコ採りや薪採りをやってきた。いきなり「立入禁止」とはなんだ。腹が立つ。とはいえ、このごろはキノコ採りもなんとなく後ろ暗い思いをするようになった。

 コロナ感染
 新型コロナウイルスの感染がはじまると、わが村でも役場や診療所はもちろん、農協のスーパーマーケットでもマスク・手洗いなしでは入れなくなった。
 ところが、本欄に新型コロナウイルスのPCR検査は有効ではない、ワクチンは有害という記事が登場した。著者は検査は受けない、新型コロナウイルスはインフルエンザ程度の問題しかないという。世界中で大騒ぎをしているからこれは「勇気ある発言」である。
 それにしてもおかしい。感染者が多すぎて病院に入りきれず、自宅で放置されて死ぬ人がいる。普通の風邪とは思えない。この方はもしや自分の都合のよい学説だけを取り上げて結論を導いているのではないかと思って反論しようとしたが、相手はさる医学者の理論を支持してこの学説に従っている。その学説を論破するなどわたしには到底できない。
 この方は学説に従って週末「小旅行」に出るという。「そりゃ、ちっとおっかねー」と思ううちに、わが村の別荘地帯へもマスクをした人がぽつぽつ来るようになった。どなたも「小旅行」にお見えになったものとみえる。
 わたしが「空気はきれいだし、人もいないからマスクはいらねぞ」と声をかけても、取ろうとはしない。これを弟に「都会の衆は非科学的だ」と話したら、「ばか、おめえにうつさねように用心してくださってるだぞ。ありがてえと思え」といった。
 ところが、諏訪大社の来年の御柱蔡の準備で集まった人から集団感染が出た。わが村にも一人、また一人と感染者がでた。役場は厳重に秘密を守っていて、どのような経路で感染したか明らかにしない。だが患者は町へ勤めている人らしい。小学校が2日間休校となったから、「なんだ」と聞くと学童2人感染という。
 わが地方の中心病院のコロナ感染者収容能力は、おそらく10人内外だろうから、感染者がちょっと増えただけで医療崩壊が起きる。観光客相手の土産物屋でも農協のスーパーマーケットでも店員は、「お客が来なけりゃ困る,来てうつされたじゃよけい困る」といった。死を迎える準備をしているわたしでも恐ろしいと思う。世界中で600万もの人が新型コロナウイルスで死んだという。インフルエンザとは比較にならない感染力である。
 さいわい、秋が来て全国レベルでは、新規感染者が急減した。それとともに土・日に別荘へ来る人はどっと増えた。だが林の中を散歩する人は、みなかたくなにマスクをしている。山仕事をしている友人もマスクをしている。「息が苦しかねーか」と聞いたら、「マスクをしねーで世間が渡れるか」という返事だった。
 もちろん、わたしも人の集まるところではマスクをつけるように心がけている。

2021.11.06 ひとりの人間がどう生き、なぜ「死」を選んだのか―

 赤木雅子さんが「赤木俊夫の真実を知りたい」という願いに国は応えるべき   

米田佐代子(女性史研究者)


 「森友学園」関連文書改ざん問題をめぐって自死した赤木俊夫さんの妻雅子さんが財務省の「資料不開示」決定に対し、取り消しを求めて提訴しました。毎日新聞デジタル版(10月29日配信)によると<学校法人「森友学園」への国有地売却を巡る決裁文書の改ざんを苦に自殺した近畿財務局職員、赤木俊夫さん(当時54歳)の妻雅子さん(50)は29日、財務省が改ざんの関連資料を不開示とした決定の取り消しを求める訴訟を大阪地裁に起こした。雅子さんが同日、大阪市内で記者会見して明らかにした>とあります。
 これに対して「しつこい」という非難があることに驚きました。身近かな人が自死という尋常でない選択をしたことに「なぜ?」と問い、「なにがあったの?」と確かめたいというのに、国が権力をもって「教えない」というのですからおかしいと思う。「知りたい」と思うのは当然ではないでしょうか。ましてやいちばん身近かにいた「妻」がそう思うのは。
 話はちがいますが76年も昔、わたしの兄は16歳の少年兵として敗戦2か月前の1945年6月に土浦の海軍航空隊から「特攻要員」としておそらく沖縄戦に投入されるため九州に送られる直前に「戦死」しました。戦死の公報には「B29ト交戦中戦死」とありましたが、戦後現地の土浦海軍航空隊が出した報告書には、応戦どころか防空壕に避難したところへ直撃弾が落とされ、防空壕が崩れて「埋没圧死」となっていました。しかもさらに生き残った同期の少年兵だった方たちを訪ねて話を聞くと、じつは兄は直撃弾が落ちた時そこにはいなかったらしいこともわかりました。わたしは何年もかかって「兄は何処にいたのでしょうか」と探して歩き、ついに兄が爆撃直前に壕を出て本部のある方向に走っていったのを見たという証言を得ました。「おそらく伝令の任務を果たそうとしたのではないか」とその方は言うのです。爆撃が収まってから兄が隊門近くのおびただしい遺体の中に並べられていたのを目撃したという方も現れました。「どこにも損傷がなく、眠るような死に顔だった」と言われ、それは「おそらく爆弾投下の時は強度の爆風によって遺体が損傷するものだが、兵は爆風除けの訓練を受けていたからとっさに呼吸を止めて伏せ、傷を負わなかったのだろう。しかし内臓破裂で即死するケースもある」という推測を語ってくださる方もありました。それらがすべて事実であったかどうかは、当時のことを知る方の多くが世を去られた今、確かめるすべはありません。戦争末期の中国や南方戦線で、また空襲や沖縄戦、広島・長崎の原爆投下等々のなかで「いつ」「どこで」どうやって死んでいったかもわからない方がたくさんいます。東日本大震災をはじめとする災害で、今も遺体さえみつからない方もいます。しかし、わたしは「兄を探す旅」のなかで兄を記憶し、その生と死を見届けようとしてくれたたくさんの人に出会って、ようやく彼がこの世に「生きたあかし」を遺したという思いをかみしめることができました。
 もちろん、赤木雅子さんのケースはこういう経験とは違います。しかし、赤木俊夫さんに「どうして?」と問いかけたい思いの深さを「しつこい」とは言語道断ではないか。彼が生きて語ることがない以上、残されたものは「資料」と「証言」によって答えを見つけ出すほかはない。その問いを「余計なことだ」と切り捨てていいか。わたしは、雅子さんの提訴に、国が誠実の応えることを求めます。
 そこで、また考えたことがあります。雅子さんは「妻」として愛する夫の死をうやむやにされたくないと願って提訴されたのだと思います。では女性にとって「妻」と呼ばれることにはどういう意味があるだろうか。じつは、わたしもつれあいが不意打ちの病に倒れ、命には別条ないものの長期入院必至という状況を経験中です。わたしはこの間、携帯電話不可、面会禁止を承知で1日おきに病院へ通い、大きな活字で印字した手紙をさし入れ続けてきました。そして10月の終わりに今後の方針を説明してくださる医師に付き添われて姿を現した彼は、まっさきに書きかけの原稿があると言い、「出版社に原稿が少し遅れると伝えてほしい」と意思表示したのです。そのときわたしは自分も「もう先がなく」、書くべき原稿は山のようにあることを知りつつ、彼がすぐに退院できなくてもパソコンを持ちこみ、指一本ででもキーボードをたたいてくれれば清書は引き受けるから、それも無理なら口述筆記でも、と覚悟しました。もともとわたしは60歳過ぎてからパソコンをおぼえたのですが、まったく独習で未だに指一本しか使えません。それで何万字もの原稿を書き、「やまんば日記」まで書きまくっているのですから、指が動きさえすればいいのです。
 それにしても、わたしはなぜ彼に自分の「しごと」を成就させたいと思いつめるのか。それは「家族」だから?「妻」だから?それも法律上認知された「妻」だから?病院では入院手続きや治療方針に同意の書類を出すとき、必ず「戸籍名」とともに患者との関係を「妻」と書きます。受付に行くと「入院している方との関係は?」と聞かれます。「配偶者です」というと「奥さまですね」と確認されるからつい「いいえ、ソトさまです」と混ぜ返したくなる(昔、押し売り電話がかかってきて「奥様ですか」と聞かれ、「いえ、ソトさまです」と撃退したことがある)が、もちろん病院ではそんなことは言わない。でも、もしこれが「同性婚」や「事実婚」を選んだカップルだったらどうするのだろう。コロナ禍で面会もできず、法律上の「妻」でないばかりに最後の看取りもできなかったという声を聴きました。そう思うと、わたしが「妻」を振りかざして「面会できますか」と迫っていいのだろうか。
 わたしが彼に会いたいと思い、「原稿を書きあげたい」という希望を実現させたいと思うのはなぜだろう。それは、彼が退職してから20年余り自分の研究に熱中、何べんも現地に調査に行き、新しい資料や論点を発見してはわたしに話して聞かせ、それはこれまでの歴史学が見落としてきた「地域民衆」のありようを考える視点に連なると感じてきたからではないか。その道程で東北を歩き、一人旅を心配したわたしがついて行くと「邪魔になる」と言いながら、花巻温泉でデビュー間もない大谷翔平選手の後輩という初々しい仲居さんに出会って意気投合したりしたこともあります。つまりわたしは、彼の「書きたい原稿」への思いをいくらかでも共有してしまったのです。それはもしかすると、かのプレイデイみかこさんのいう「empathy(エンパシー)」かもしれない。わたしは「彼の靴を履いてしまった」のだ、と。
 赤木雅子さんの俊夫さんへの思いを「しつこい」というのは論外として、「妻なら当然」と思う人にも考えてほしい。その「妻」とは法律上認知された人間のことだけではないのだということを。そして「empathy」を自覚する人は、きっとこの地上で会ったこともない人びとが抱える「いたみ」を理解する―つまり「他者の立場」に立つだろう。わたしが雅子さんに共感するのは、ひりの人間の生きたあかしを問うことによって、無数の人びとが苦しみながら生きようとする現実を共有しようとされる方だと思うからです。そういう思いを抱きつつ、わたしは「妻です」と名乗りながら病院へ通っています。
       (ブログ「米田佐代子のやまんば日記」2021年10月30日付に11月4日補筆)
2021.10.20  元毎日新聞記者・瀬下恵介さんを偲ぶ
       多くのマスコミ人を育てる

岩垂 弘 (ジャーナリスト)

 10月2日の夜のことだ。テレビのチャンネルをひねっていたら、画面に俳優の倍賞千恵子さんが登場していた。「豪華!寅さん祭りスペシャル[山田洋次監督厳選!感動名場面]」という番組だったが、そこで語り出した彼女を見た瞬間、私の脳裏に浮かび上がってきた顔があった。それは、元毎日新聞記者・瀬下恵介さんの顔だった。なぜなら、私は57年前に図らずも新聞記者として倍賞さんに直接会う機会に恵まれたが、それは、瀬下さんの突拍子もない挑戦のおかけで実現したものだったからである。しかも、私は、この番組の数日前に瀬下さんの訃報に接したばかりだったから。

 倍賞さんを記者クラブに呼んできた瀬下記者
 私が瀬下さんに出会ったのは57年前のことだ。
 朝日新聞東京本社社会部の記者だった私は東京五輪が開かれた1964年の2月から10月まで、東京・両国の本所警察署内にあった「墨東記者クラブ」(下町記者クラブともいった)に配属された。ここは、警視庁第七方面本部管内(東京の墨田、江東、江戸川、葛飾、足立の5区)の事件・事故を取材するための拠点で、新聞各社やNHKから記者やカメラマンが派遣されていた。そこで、私は毎日新聞社会部の瀬下記者と知り合いになった。

 当時、警視庁第七方面本部管内では事件・事故が多かった。このため、墨東記者クラブに詰めていた記者はとても忙しかった。それでも、たまに事件・事故のない日があり、まして雨の日などは、狭くて暗い記者クラブで時間をつぶすほかなかった。クラブ員は本を読んだり、居眠りをしたり、他社の記者と麻雀卓を囲んだりしたが、それでも、そうやって午前10時から夜10時までをクラブで過ごすのは退屈極まりなかった。

 9月に入ったばかりのころだった。その日も事件・事故がなく、クラブ員は暇を持て余していた。すると、瀬下記者が突然、声を張り上げた。「倍賞千恵子さんに来てもらおうじゃないか」
 倍賞さんは当時、新進の若手俳優で、歌手でもあった。歌『下町の太陽』が大ヒットし、彼女主演で映画化された(監督は山田洋次)ばかり。今風に言えば、人気急上昇中のアイドル。「下町を大いに宣伝してくれた彼女に、下町記者クラブとして感謝状を贈ろうじゃないか。彼女、下町の出身でもあるし」との瀬下記者の提案にクラブ員は皆仰天した。が、「こんなむさ苦しいところに来てくれるわけがない」とだれも相手にしなかった。
 でも、瀬下記者は記者クラブの隅にあった公衆電話に硬貨を投げ入れながら、どこかへ電話をかけ続けた。随分長い時間が過ぎ去った後、瀬下記者が突然叫んだ。「おーい、みんな、倍賞千恵子さんがくるぞ」

 瀬下記者によれば、電話をかけた先は松竹本社。倍賞さんを表彰したいから派遣してくれるよう頼んだところ、先方は難色を示したが、どうしてもと粘ったら、ついに「行かせましょう」と言ってくれた、とのことだった。

 10月1日、彼女は一人で本所署にやってきた。私たちは署長室を借り、そこへ彼女を案内し、コーヒーとケーキで彼女と懇談した。そして、彼女に「あなたは『下町の太陽』で、東京・下町の良さを全国に知らしめた」などと書いた感謝状と、太陽をかたどったガラスの盆を贈った。当時、彼女は23歳。「きれいだな」。クラブ員から、そんな声がもれた。
 彼女自身、大変驚いたようだった。後になって漏れ聞いたところでは、「わたし何も悪いことをしていないのに、どうして警察にゆかなくてはならないのかしら」と周囲に漏らしていたそうだ。

元毎日新聞記者・瀬下恵介さんを偲ぶ
   本所署記者クラブ員と懇談する倍賞千恵子さん(その右は筆者)
   =1964年10月1日、東京・本所署署長室で

 これには、後日談がある。9年後、私たちは倍賞さんと再会することになる。
 すでに墨東記者クラブから去っていた、私たち旧クラブ員から「また、倍賞さんに会いたい」との声が上がり、私たち旧クラブ員が、映画『男はつらいよ』シリーズのヒットを祝って、寅さんの妹さくらを演じた倍賞さんを招いたからである。
 私たちは、山田洋次監督、寅さん役の渥美清さんも一緒に招いた。1973年12月16日。銀座のレストランで私たちは3人と昼食を共にしたが、倍賞さんは大スターに変身していた。が、本所警察署長室での初対面の時に感じさせた庶民的な雰囲気を失ってはいなかった。
 この3人との交渉を担当したのはまたしても瀬下記者だった。

 ところで、墨東記者クラブが倍賞さんをクラブに招いたことは、明らかにマスコミ界では珍事と言えた。だから、この話題は、すぐ他の警察記者クラブに伝わった。「おれたちは、吉永小百合さんを招くぞ」などという威勢のいい声が聞こえてきた。しかし、結局、女性の俳優を招くことができた警察記者クラブは他には1つもなかった。そこで、私はこう思うようになった。「瀬下記者が着想し、実現させたことはまことにユニークな試みで、マスコミ界では画期的なことだったんだな」と。

 マスコミ寺子屋を創設し、マスコミ人の育成へ
 墨東記者クラブを去った瀬下さんは、その後、東京本社社会部、西部本社報道部、「サンデー毎日」編集部などに勤務した後、東京本社社会部遊軍長、サンデー毎日編集次長兼別冊編集長などを経てTBSブリタニカに移籍、「ニューズウィーク日本版」の創刊に関わり、同誌の初代発行人を務めた。その後、同社取締役を経て、1995年に同社を退社する。

 退職した瀬下さんは、同年、マスコミ寺子屋「ペンの森」を創設した。要するに、新聞記者、編集者などを養成するマスコミ塾である。
 またしても、私は驚いた。瀬下さんが倍賞千恵子さんを本所署の記者クラブに呼んできたときには、その突拍子もない着想に驚かされたが、彼が今度はマスコミ塾を開設したと聞いて、私は同じ感慨に襲われたのである。なぜなら、そのころも、新聞記者OBがマスコミ塾を始めるケースがあったが、長続きしなかったからだ。マスコミ人を育てる事業は極めて意義のある仕事だが、これを継続的に続けるためには資金と人材が必要で、始めるにはなかなか勇気のいる事業だったのだ。
 それだけに、「瀬下君がマスコミ塾を」と驚いたのだ。私の目には、「瀬下君はまたしても突拍子もないことに挑む積もりなんだ」と映った。

 塾開設直後に、私は東京・神田にあった「ペンの森」を訪ね、久しぶりに会った瀬下さんに「なんでマスコミ塾を始めたの」と尋ねた。が、彼はおちょぼ口をして「ふっ、ふっ、ふ」と満面笑みをたたえるばかりだった。これは、彼が得意なときにみせる動作だった。

 今年9月末に届いた「ペンの森」卒業生の集まり「瀬下塾・ペンの森OB会」の会報を見ていたら、瀬下さんが8月9日に老衰のため亡くなった、とあった。82歳。
 関係者によれば、「ペンの森」がこれまでに送り出したマスコミ人(新聞記者、編集者など)は、500人以上にのぼるという。大手の新聞社や出版社で活躍している人も少なくないそうだ。
 瀬下さんがこれまでに果たしたマスコミ界への貢献は多大なものだったと言っていいだろう。が、彼の死去を報じたのは毎日新聞だけだった。マスコミ界は報道を通じて彼の貢献を讃えるべきだったのではないか。

 ジャーナリストとしての生き方を学ぶ
 私は、彼の生涯から1つのことを学んだ。ジャーナリストは、時には突拍子もないことを考えてみるべきだ。そして、あれこれ思案するだけでなく、思いついたことに、失敗を恐れず果敢に挑戦してみることだ。そしたら、思いがけない道が開けるかもしれない――瀬下さんの生き方はそう言っているように感じる。
 謹んで瀬下恵介さんのご冥福を祈る。
2021.10.06  暑さ寒さも彼岸まで
          韓国通信 NO680

小原 紘(個人新聞「韓国通信」発行人)

 本格的な秋の到来。10月に入り、9月に報告できなかったことを思い出している。
 地域に住む外国人に日本語を教えるボランティアを始めてから10年以上になる。そこで、慣用句「暑さ寒さも彼岸まで」から彼岸花の話になった。
暑さ寒さも彼岸まで
 即座に中国人は「曼殊沙華」と理解したがフィリピン、イギリスには無いという。
 春分と秋分は理解しても、お彼岸と彼岸花に対する日本人の思いはなかなか伝えにくい。

 手賀沼湖畔(千葉県)に咲く彼岸花の横に種田山頭火の句が添えられていた。
 うつりきて お彼岸花の 花ざかり
 彼岸花には死の匂いがつきまとう。
 
 9月5日、千葉県八千代市の高津観音を訪れた。 
 同地に住んでいたころ、関東大震災直後、習志野騎兵連隊に収容された朝鮮人十数名の虐殺事件を知った。
小原_2021_10_02_B 
 関東大震災から98年。「防災の日」となった9月1日は震災の混乱に乗じて自警団によって殺された朝鮮人、中国人、社会主義者の慰霊の日でもある。
 午後2時から始まった高津観音の慰霊蔡に僧侶と市民二十数名が集まった。
 古老の記憶を頼りに地元の教員たちが遺骨6体を発掘して(1979年)観音寺に埋葬、以降毎年慰霊祭が行われてきた。韓国の市民たちの募金によって寄贈された鐘楼は「許す、だが忘れない」韓国の人たちの心として「通信」で紹介したことがある。

 震災時に虐殺された朝鮮人は6千数百名。風化する朝鮮・中国への侵略の記憶。だが歴史から学ぶ若い人たちも育っている(朝鮮人犠牲者追悼・調査実行委員会『いしぶみ』67号)。
 千葉県では広範な地域で324名の犠牲者が記録されている。白樺派の文人たちが愛した我孫子では3名が撲殺された。『我孫子市史』で記録されているが、知る市民はほとんどいない。
 駅前の八坂神社が事件の舞台になった。市史の他、市史資料として増田実の日記が残されている。9月3日の日記には「彼等(不逞鮮人)は見当たり次第に捕縛刺殺するも可なるべく…」と不安と動揺を伝える。大混乱の中で恐怖にかられたとは言え、集団的にこのような状況に陥ったとは信じがたい。
 9月3日、有志で神社を訪れ、献花、合掌した。今年で5回目のささやかな慰霊。世界に広がる差別と憎悪の連鎖。不安が頭をかすめる。我孫子市民として感じる居心地の悪さ。深紅の彼岸花が鎮魂の華であって欲しい。 <写真上/高津観音寺/下/法要風景>
2021.10.01 軍隊から引き渡された朝鮮人
千葉県八千代で98年後の慰霊祭

田中洋一 (ジャーナリスト)

 1923(大正12)年の関東大震災から、あと2年で100年になる。混乱の中で虐殺された朝鮮人の慰霊祭が千葉県北西部の八千代市で9月5日に営まれ、参加した私も思いを新たにした。この地では軍隊がいったん保護した朝鮮人を地元の住民に引き渡して処分させた事例が、教員OBたち市民グループの活動で明らかになっている。
 新型コロナ禍で一般参加に慎重な主催者に頼み、私は会場の高津山観音寺に向かう。集まった約30人は一昨年のほぼ3分の1に減ったという。慰霊祭は観音寺、地元旧住民の高津区特別委員会、千葉県における関東大震災と朝鮮人犠牲者追悼・調査実行委員会(実行委)の3者共催で営まれた。関連する巡回供養もあった。
 住民に引き渡して処分させた、とはどういうことなのか。第1次大戦の捕虜を収容した陸軍習志野俘虜収容所の跡が近くにあり、バラックと呼ばれていた。震災後は大勢の朝鮮人を収容していた。
 実行委の大竹米子さん(90)は中学教員時代、郷土史研究会の生徒を連れて、震災時に小学3年だった女性から聞き取りをした。話を要約すると、手足を縛られて道に座らされている朝鮮人3人を見た、3人は地区の共有地で殺されたと後で聞いた。
 中学生の調査活動が地元紙に載ると、この件を綴った日記が大竹さんに持ち込まれる。和綴じ、縦書きの備忘録のような日記だという。証言に文字の記録が加わり、軍隊の関与を見据える中で、この解明を重点目標として実行委が発足する(1978年6月)。
 日記の所有者と慎重に交渉した結果、ぎりぎりここまでは、と了解を得た文面が『いわれなく殺された人びと』(1983年、青木書店刊)に載っている。日記の1923年9月7日の項を引用しよう。
 「……皆労(つか)れて居るので一寝入りずつやる。午后四時頃、バラックから鮮人を呉れるから取りに来いと知らせが有ったとて急に集合させ、主望者(ママ)に受取りに行って貰う事にした」
 翌8日。「……穴を掘り座せて首を切る事に決定。(同書の中略)穴の中に入れて埋め仕舞ふ……」
 埋めた所は「なぎの原」と呼ばれる共有地だ。実は少数の地元の人がそこに塔婆を建て、殺された朝鮮人を密かに供養していた。

市民グループ粘り強く解明
 慰霊祭は「関東大震災朝鮮人犠牲者慰霊の碑」の前で営まれた。すぐ近くの「なぎの原」で、前記3者の共同で遺骨6体を発掘したのは1998年9月。慰霊の碑を翌年建立し、碑の下に6体を納めた。軍関与の朝鮮人殺害を日記で確認してから21年かかっている。
 この21年は長いようだが、軍関与の史実を残し伝えようとする使命感の実行委と、近親者の加害責任に触れられたくない地元住民との間隔を縮めるために必要だったと私は受け止めている。
 何回もダメになった末、「なぎの原」でやっと実現した遺骨発掘。だが、地元住民から条件がついた--専門の業者に任せる、マスコミに知らせない、記録はとらない。
 この時の住民側の心情を実行委の平形千惠子さん(80)はこう推し量る。「デマに踊らされたことを悔やみつつも、身近な親族が殺害に手を下したと騒ぎ立てられたくなかったのでしょう」
 「それでも発掘しなければ、ここに埋められたという事実を私たちは確認できません。だから掘るしかなかった」
 慰霊の碑そのものにも同様の葛藤があった。軍が関与して住民に手を下させたことを、実行委は何とか碑文に刻みたかった。だが、交渉を重ねた末に地元の合意は得られなかった。事件から80年近く経ってなお、加害責任の枷(かせ)は外れていないのだ。
 実行委が検討した幻の碑文が2017年の冊子に載っている。「……陸軍は、軍管理の下にあったこの収容者の中から指導者と見なされる者を、九月七日~九日、近接の数ケ所の集落に振り分けて『処分』することを命じた。……各集落は軍の命令の呪縛に縛られ長い間口を閉ざしてきた」。ことの本質はここにある。

若い世代の参加が道拓く
 慰霊祭で実行委の吉川清代表(88)はこう挨拶した。「若い皆さんの調査を通じて県内の事跡も徐々に明らかになっています」
 若手の歴史研究者が実行委に加わり、2年後の事件100年に向けて、『いわれなく殺された人びと』の新版を刊行する作業などに参加していることを指している。
 慰霊祭で献花した洪世峨(ホン・セア)さん(43)もその一人だ。彼女は韓国から専修大学に留学し、博士号を得た後も日本に留まり、IT企業で仕事をしている。
 関東大震災の朝鮮人虐殺は韓国で最近まで関心が持たれなかったそうだ。洪さん自身は来日するまで全く知らなかった。専修大と大学院で日本近代文学を学んでいると、実行委に加わる田中正敬教授たちのグループと接して歴史の問題に目覚めたという。
 洪さんが実行委に加わり4年になる。資料の翻訳や新刊の編集に携わっている。一世代上の先輩方が聞き取った音声資料を、使えるか/使えないか/使ってはいけないか--の吟味もしている。
 虐殺された朝鮮人たちを洪さんはこうみる。「働きに来たが、日本語はほとんど話せない名もなき民衆が殺された。その人たちのことを忘れずに記憶・記録することが真相究明につながります」
 実行委の先輩が調べてきた仕事を「韓国人の私が、自民族の歴史として受け継ぎ、伝えることに意味があるのではないか」と語る。高齢になった実行委の先輩のインタビューも手掛けている。
 それとは別に、実行委は大学生の現地学習も受け入れている。今年5月には立教大学異文化コミュニケーション学部の石井正子教授と学生5人が、朝鮮人の埋められていた「なぎの原」とその一帯を歩き、慰霊の碑が立つ観音寺で説明を受けた。
 2年女子はこんな感想文を寄せた。「加害者の子孫もいたということを聞いてはっとしました。……どこまでその過去と向き合い背負うのか、私達も問われていると感じました」
 「『流言を信じた自警団によって朝鮮人が殺された』という教科書の一文からでは見えてこない事実に、今後のフィールドワークでも目を凝らしていきたい」とは4年女子の感想文だ。
 立教大生を案内した平形さんは「若い人が来てくれるとうれしい」と言う。「2度と繰り返さないために、事実を忘れて欲しくない」からだ。背後に「虐殺の事実をなかったことにしたい人たちの動きが進みつつある」のをひしひしと感じている。(2021年9月21日)
<メールマガジン「歩く見る聞く 73」から転載>
2021.09.25  「歴史の墓堀人」色川大吉さん逝く
          民衆史という研究分野を確立した歴史家

岩垂 弘 (ジャーナリスト)

  歴史家であり社会運動家でもあった色川大吉さんが9月7日、山梨県・八ヶ岳山麓の自宅で亡くなった。96歳だった。学問と社会運動という二つの分野で多彩な足跡を残した色川さんだが、日本社会への最大の貢献は、歴史研究の面で「民衆史」という分野を確立したことだろう、と私は思う。そこに流れているのは、歴史をつくるのは英雄=ヒーローやエリートではなく、一般の名もなき民衆である、という視点である。

 千葉県佐原市生まれ。仙台の旧制第二高等学校を経て1943年、東京帝国大学文学部国史学科へ進学。が、戦況急迫とあって学徒出陣となり、土浦海軍航空隊へ入隊。そこから、三重県・答志島の特攻基地に配属された。
 そこで敗戦を迎えると、東京帝国大学文学部国史学科に復学し、そこを1948年に卒業する。文学部卒では就職できない時代。で、ブ・ナロード(人民の中へ)を目指して栃木県の足尾銅山の隣の粕尾という山村の新制中学の教員となるが、1年で挫折。上京して新協劇団の演出研究生に。やがて小松方正らと新しい劇団を結成するが結核にかかり、演劇への夢はついえる。その後、失業対策労働者などを経験したあと、歴史研究の道を歩む。

 最初に取り組んだのが明治の文学者・北村透谷。北村は東京の多摩地区を放浪していたことがあり、色川さんはその足跡を求めて何度も多摩地区へ足を運んだ。「いっそ多摩に住んだら」と地元の人に勧められ、八王子市に住み着く。1965年のことだ。1967年から東京経済大学教授。

自由民権運動の研究へ
 多摩地区の旧家を訪ね歩き、土蔵を開けてもらう。そこに収蔵されている古文書をみせてもらうためだ。色川さんによれば、土蔵という土蔵はほとんど開けてみたという。「当時の私は、いうなれば“歴史の墓堀人”だった」。色川さんが自著でそう書いていたのを読んだ記憶がある。
 そうした作業を繰り返すうちに、思いがけない史料に出くわす。自由民権運動に関するものだった。自由民権運動とは、明治7年(1874年)から始まった、国会開設、地租軽減、条約改正を政府に要求する全国的な運動である。それは、当時の政府首脳が「革命前夜」ともらしたほどの盛り上がりをみせた大衆運動だった。

 こうして、それまで歴史の暗い闇の中に埋もれていた多摩地区の自由民権運動の実像が、色川さんや色川さんの周辺に結集した人たちの手で次々と明らかにされていった。色川さんらが発掘した民権運動関係の史料で大きな反響を巻き起こしたものと言えば、なんと言っても「五日市憲法」だろう。

 これは、1968年8月、東京都西多摩郡五日市町(現東京都あきる野市)深沢地区の山村の土蔵から見つかった「日本帝国憲法」の草案で、発見者は、色川さんと東京経済大学色川ゼミの学生・新井勝紘さん(元専修大学教授、現高麗博物館館長)。
 自由民権運動では、全国各地の民権結社によって私儀憲法草案の起草が行われ、これまでに分かっているだけでも100編を超える。五日市憲法は、深沢地区の青年たちの集団討議を母胎に五日市の小学校の助教員・千葉卓三郎が起草したもので、民権期の他の憲法草案に比べて人権に関する規定が多く、極めて民主的内容をもつ憲法草案とされる。
 土蔵の奥深くに眠っていたこの憲法草案が色川さんらによって偶然発見されたのは、くしくも「明治百年」に当たる1968年。起草から実に87年たっていた。

 それから、もう一つ、民権動研究での色川さんの業績を挙げておきたい。須長漣造(すなが・れんぞう)の発見である。
 関東における民権運動といえば、埼玉県秩父の農民らからなる「秩父困民党」が借金の据え置きなどを求めてほう起した秩父事件がよく知られているが、武相(東京都南多摩地域から神奈川県相模原市周辺にかけての地域)でも、銀行や高利貸に「借金の10年据え置き」を求める農民による請願運動があった。時には、数千人の農民が集結するという大規模なもので、彼らは「武相困民党」と名乗った。政府による激しい弾圧で運動は敗北するが、この運動の指導者が南多摩郡谷野村(現八王子市)の豪農、須長漣造だった。
 多摩地区で古文書を探索していた色川さんは1960年、武相にこうした農民の運動があったことを突き止め、歴史に埋もれていた須長漣造を日本近代史に登場させた。

 色川さんの民権運動に関する著作は数え切れない。中でも『明治精神史』(黄河書房)、『困民党と自由党』(揺籃社)は名著と言われる。

 色川さんと民権運動との関係を紹介するとなると、色川さんが自由民権百年全国集会実行委員会の代表委員を務めたことも挙げなくてはなるまい。この実行委は、民権運動が最高潮に達した1881年(明治14年)から100年にあたる1981年(昭和56年)に記念の全国集会を開こうという狙いで発足した学者・研究者の集まりで、81年に横浜市で、84年には早稲田大学で、87年には高知市で、それぞれ全国的規模の集会を開いた。これには、秩父事件の遺族、学者・研究者、一般市民が多数つめかけた。

歴史を動かすのは底辺の民衆
 それにしても、歴史家の色川さんを民権運動の研究にかりたてたものは何だったのだろうか。色川さんが、私にこう語ったことがある。
 「60年安保闘争が私の研究に決定的な影響を与えた。闘争は前衛の裏切りもあって敗北したものの、無名の未組織大衆はすごいエネルギーを発揮した。それをこの目で見てから、私は民権運動についても底辺の民衆の視点から見直すようになった」
 日米安保条約改定阻止闘争に参加した経験が、色川さんをしてより一層民権運動の研究に傾倒させ、その研究を深めるなかで、歴史を動かす原動力は底辺の民衆であるという「色川史学」に到達したということだろう。

「水俣」「チベット」、そして「日市連」
 ところで、色川さんは自由民権運動の研究ばかりをやっていたわけではない。他にも実に多面的な研究活動と社会運動に足跡を残している。
 研究活動では、戦後日本最大の公害とされる水俣病の実態を解明しようと尽力したことを強調しておきたい。1976年に「不知火海総合学術調査団」を発足させ、自らその団長を務め、10年間もの長きにわたって調査を進めた。その成果は『水俣の啓示』上下二巻(筑摩書房、1983年)にまとめられている。
 1986年には、東北大学西蔵(チベット)学術登山隊学術班の班長として、中国青海省西寧からネパールのカトマンズまでのチベット高原を探検車で踏破し、学術調査を行った。
 これは、色川さんがかねてから抱いていた仮説「もう一つのシルクロード」を検証するための調査だった。シルクロードとは、太古以来、アジアとヨーロッパを結んでいた東西交通路のことで、一般的には、中国の北西部からタリム盆地を通り、ロシア、中国、インド、パキスタン、アフガニスタンが国境を接するパミール高原を越える道を指すが、色川さんは、これとは別に中国――チベット――インドを結ぶ文明交流路があったのでは、と考えた。
 高山病にかかりながら、途中、ヒマラヤ山脈の標高5000メートルの峠を越える、延長6200キロに及ぶ42日間の旅だったが、当時全国紙の記者だった私は、これに同行して取材する機会に恵まれた。
 そのほか、色川さんはユーラシア大陸を往来する旅に何度も挑戦している。

 社会運動面での活動では、1980年に作家・小田実さん、文芸評論家・西田勝さんらと結成した「日本はこれでいいのか市民連合」(日市連)が特筆に値する。色川さん自身が「反戦、反核、反天皇制の運動をになう日市連」と著作に書いていることでも分かるように、「ベトナムに平和を!市民連合」(べ平連)が解散した後の、市民を中心とする平和運動のとりでとなった。

 言論の自由を守る活動にも熱心だった。権力による言論統制の動きには反対の論陣を張った。1995年に、「平和」と「協同」の推進のためにペンをとるジャーナリストを顕彰するための「平和・協同ジャーナリスト基金」が発足した時、色川さんはその代表委員を引き受け、亡くなるまでそのポストにあった。

 心臓弁膜症と肝臓病の治療のため、1998年、標高1000メートルの八ヶ岳山麓の北杜市に移住し、そこで波乱の生涯を終えた。

「歴史の墓堀人」色川大吉さん逝く
山梨県北杜市の八ヶ岳山麓で過ごす色川大吉さん(右)=2009年6月25日撮影
2021.09.18 教員不足の解決に向けて
 教員の仕事をより魅力的なものにすることが必要だ

小川 洋 (大学非常勤講師)

 最近、義務教育とくに小学校の教員採用試験の倍率が低下し、教員の質の低下を懸念する声が聞こえてくる。
 公立学校の教員採用試験は二段階で行われる。教科の専門知識の他、教職教養の筆記試験さらには作文(小論文)、集団面接などを一次試験で課し、採用予定数の2~3倍程度まで絞り、二次試験で、教科専門知識や面接あるいは実技(模擬授業)などを課し、最終合格者を確定する。応募者が3倍以下では成り立たない仕組みである。
 しかし、2020年の福岡県では小学校教員の応募者が1.4倍にとどまるなど、多くの都府県(政令指定都市は独自に採用することができる)で採用予定人数の3倍を集めることが困難となっている。00年代にも大都市圏周辺では競争率が3倍を切る教育委員会が多かった。   
 横浜市では採用されても1,2年で退職する教員が増え、その分、採用数を増やさざるをえず、倍率がさらに低下する悪循環に苦しめられた。
 いまでも大半の教育委員会が、かろうじて二段階選抜を続けてはいるが、就職情報企業の表現によれば「小学校教員採用試験は、人物重視になっている」そうだ。だが実際問題、倍率が2倍程度では、教員に不向きな人物が紛れ込むことは避けられない。良質な教員を安定的に確保するためにできることを考えてみたい。

教員の需給関係
 教員需要は児童・生徒数によって決まってくるから、児童・生徒数の自然的増減と社会的増減によって左右される。1947-49年生まれの団塊の世代と1971-74年生まれの団塊ジュニアは、それぞれ最多年には269万人、209万人の出生があった。しかも団塊ジュニアたちは、高度経済成長に地方の団塊世代が大都市圏に大挙して移動して産まれた子どもたちだったから、70-80年代にかけて、学齢人口は大都市圏とくに大都市近郊に著しく偏った。
 一方、教員の供給は硬直的である。教員免許を取得するためには、免許取得可能な大学で学ぶことになるが、大学は準備して文科省から免許ごとに課程認定を受けなければならない。小学校教員免許については、旧文部省は抑制的な態度で臨み、大都市圏を除けば、地方国立大の教育学部のほか、各県に1校程度しか認めていなかった。現在でも東北地方や中国地方など、少子化の進む地方では国立1+私立1の二校という県が多い。
 一方の大都市圏では、爆発的な学齢人口の増加と規制緩和政策の流れに押され、文科省は私大を中心に小学校教員の課程認定を数多く下すようになる。小学校教員免許が取得できる大学は、現在、国立大学の52校に対して、私大は230校に上る。私大の総数は全国で592校だから、じつに4割近い私大が小学校教員養成課程を持っていることになる。私大のなかには教員や施設などの点で国立大に見劣りしない内容を備え、教員採用においても実績を上げているものも少なくない。
 しかし、よく知られているように現在、私大の4割が定員割れで、実質的に応募即合格状態の大学も少なくない。拙著『消えゆく限界大学』(白水社)で指摘したように、定員割れの私大の多くは短大が昇格したものである。そのような大学でも多くが小学校教員養成課程の認可を得ている。

両極端の教員養成
 小学校教員の保有する教員免許種には基本的に2つのパターンがある。幼稚園+小学校と小学校+中学校の2つである。文科省の統計によれば前者が約23%、後者が約60%である。女性教員に限れば前者は30%となり、地域別では大都市圏ほど前者の比率が高いものと考えられる。
 国立大の学生は、基本的にセンター試験(21年から「大学進学共通テスト」)を受験しているから高校までに5教科を広く学んでいる。入学後も、学習環境は恵まれ、一般的に小中学校の教員免許を取得する。教科ごとに数名の専門分野の教員が配置されるうえ、教育心理学などの周辺分野さらに教科指導方法の教員を配置するから、新入生定員100名程度でも教員数は最低でも60名程度は必要となる。私大でも小中の免許取得が可能な場合は、これに準じた教員が揃えられる。
 しかし幼稚園課程をもち小学校課程が追認された大学では、従来の教員をそのままに、最低限必要となる数名の教員を追加し、施設・設備も最低限の追加で済ませた大学も少なくない。これらの大学では、入学時の学力が担保されていない場合も少なくない。文科省が形式的な審査で課程認定した大学から送り出される免許取得者も、競争率の低迷する教員採用試験に臨む事態が生まれているのである。教員養成の実績が芳しくない大学に対しては、定期的な再審査で認定の取り消しを行うべきだろう。

求められる改革
 文科省は今年に入って全国の教育委員会に対し、小学校高学年における教科担任制を22年度から導入するよう指示した。以前から音楽など一部の授業は教科担任制が採用されることが多かったが、これからは英語や理科、算数、体育などの科目を教科担任制とすることが標準となる。メリットは多い。「中一ギャップ」という現象がある。学級担任制の小学校から教科担任制の中学校に移った子どもたちが、新しい環境で躓くことをいう。小学校高学年から科目担任制に慣れることによって、中学の生活への移行がスムースになる。その他に、教員側にも授業準備などに余裕ができるなど、負担軽減につながることが期待される。
 この動きに応じて、小中の免許保有者と幼小の免許保有者との間で担当学年が振り分けられていく傾向が強まるだろう。今後は幼小の免許取得者は1~4年生、小中の免許取得者は4~6年生の指導を担当するようにしてもいいのではないか。
 さらに、少子化が全国的に進行するなか、学校では使用しない教室が増え続けている。これらの教室を利用して幼稚園課程を公立学校制度のなかに吸収していけばいい。多くの先進国で幼稚教育は公立学校教育の一環として扱われている。日本が特殊なのである。幼稚園は教育基本法の特例として、戦後長らく個人や教会による経営が認められ、零細なものが多く、一般に教職員の身分も不安定である。これらの教員に一定の選考を課し、一定以上の能力と経験をもつものを公立学校教員として採用する。小学校免許を保有しない教員には採用後に研修機会を与えて小学校免許を取得させればいい。

 かつて大学教員をしていた間、地元の小中学校の教育活動に関わることがあったが、違和感をもつ場面も多かった。その一つは、やたらと「研究指定」が多いことだった。文科省や県教委からテーマを受けて一年間、実践研究に取り組むのである。テーマの意義に疑念を抱いてはいけない。「研究成果」の発表会には教育委員会や地元国立大の教員などの来賓が呼ばれ、その前で成果を発表する。発表直前には学校全体が極度の緊張に包まれるという。かつての共産主義国家の政治集会並みの権威主義的雰囲気であった。文科省以下各教育委員会および地元国立大の教員たちの小中教員に対する姿勢は、教育者としての独立心を育てるという姿勢に欠ける印象を受けた。
 ある時、勤務先の大学にフィンランドの小学校教員が来た。彼女はフィンランドと並んで国際学力調査で成績上位にある日本の学校教育の実情を知るため、研究休暇で都内の小学校に滞在中だった。日本の教員は、雑務が多く、官製研修に縛られ、教員としての人格を尊重される環境から程遠い。まずは、これらの環境を整理し、教員の仕事を魅力あるものにすることが、良質な教員を集める道であろう。
2021.09.13 DHCの化粧品は買わない
DHCテレビ裁判で辛淑玉さん勝訴

米田佐代子 (女性史研究者)
 
 9月冒頭の重要な出来事についての感想を書くのが遅くなりました。9月1日、2017年に東京MXテレビで放送されたDHCテレビによる人権団体「のりこえねっと」共同代表辛淑玉さんに対する誹謗中傷が、東京地裁で「名誉棄損」と断じられ、550万円の損害賠償とウェブサイトへの謝罪文掲載を命じる判決が出たことです。DHCの吉田嘉明会長は、かねてから朝鮮人・韓国人への口汚いヘイト発言を繰り返し、今も反省する気配がありません。わたしは以前コンビニでも買えるし安いので、DHCの化粧水などを買ったことがありますが、この事実が分かった時点で「不買」に踏み切りました。娘は通っていたジムがDHCの経営とわかったので退会、それでもハラの虫が収まらなかったので、この判決で少し溜飲が下がりました。
 これは「ニュース女子」事件として問題になったから覚えている人もいると思う。なにしろ沖縄の基地反対運動を「暴力や犯罪行為もいとわないものがやっている」と決めつけ、それを裏付けもなしに辛さんが資金を出してあおったとテレビ番組で宣伝したのですから「フェイク」とされたのは当然。辛さんは、自身が「日本人ではないということ、日本人ではない私が反戦運動に声を上げること、沖縄のことに思いを馳せること、そこを巧みに利用されたように思います」として裁判では「人種差別的」であることを主張しました。この点を裁判所は明示的に判断しませんでしたが、裁判に当たった佃弁護士は「ほかの名誉毀損訴訟と比べて、賠償額は極めて高い。人種差別的であることが、『諸般の事情』に含まれているとは思うが、明示的に書くのは難しかったのではないか」と語ったそうです。差別を包括的に禁止する法律がないためだそうです。DHC側は控訴すると言っているらしいが、やめてもらいたい。
 同じ9月1日は、1923年の関東大震災から98年、東京では実行委員会によって毎年この時起こった朝鮮人虐殺犠牲者追悼行事が行われていますが、この式典に毎年東京都知事が追悼文を送っていました。ところが小池知事になってから「犠牲者すべてに」哀悼の意を表しているからという理由で就任以来もう5年間も追悼文を送っていません。これも大きな問題です。震災の犠牲になった方々と、その混乱の中で日本人によって殺された朝鮮人を、「すべて」とくくってしまうことは、その責任を消してしまうことになる。
  戦後76年、日本がかつて朝鮮を植民地化し、「創氏改名」で本来の名前を奪い、「日本語強制」で民族のアイデンティティを奪った過去を「なかったことにする」わけにいかない。関東大震災の朝鮮人虐殺はその中から生まれたのだもの。それなのに巷に「嫌韓」本があふれ、ヘイトクライムがまかり通ることを、恥ずかしいと思わなければ。朝日新聞(9月2日付)には編集委員北野隆一さんの記事が出ていて「政府の中央防災会議報告書によると」関東大震災のとき「武器を持った多数者が非武装の少数者に暴行を加え殺害する、虐殺という表現が妥当する例が多かった」とあることを記憶しておこう。国でさえ認めている「虐殺」の事実を。
(『米田佐代子の森のやまんば日記』 から転載)
2021.09.01  国民こぞって熱狂した大会と国民的祝福から遠かった大会
 2つの東京オリンピックを“経験”して

岩垂 弘 (ジャーナリスト)

 2つの東京オリンピックを“経験”した。最初は今から57年前の1964年の東京大会、2度目は今回の東京大会2020である。前者では新聞記者として大会を取材したが、後者は大会が「無観客」で行われたから専らテレビ観戦だった。両大会とも開催時の日本の社会情勢と国民意識を色濃く反映したものだったというのが私の印象だ。

第18回オリンピック東京大会
 1964年10月に開催された第18回オリンピック東京大会は、東京・国立競技場を中心に行われた。20競技63種目に93カ国・5152人の選手が参加した。史上最多だった。
 
 国民の反応はどうだったのか。大会直後のNHKの世論調査によると、「今度の五輪は日本にとってプラスだったと思いますか」との問いの答えは「プラスだった」94・4%、「マイナスだった」4・2%、「分からない・無回答」1・3%だった。なんと、ほとんどの国民が東京大会を肯定的に評価したのである。国民の興奮・熱狂ぶりがうかがえるというものだ。
 
 競技の中で最もテレビの視聴率が高かったのは駒沢オリンピック公園内の駒沢屋内球技場で行われた女子バレー決勝戦(日本対ソ連)だった。当時、ソ連の女子バレーは世界最強と言われ、一方、急速に力をつけた日本チームは「東洋の魔女」と呼ばれていた。
 当時、私は全国紙の社会部の記者で、この日ソ決戦の取材を命じられた。試合は息詰まる接戦となり、緊迫感に包まれた会場を埋めた観客は終始総立ち。ついに日本が勝ち、ソ連選手は泣き崩れた。テレビ視聴率は85%だった。
 私はまた、大会最終日に行われたマラソンの取材を命じられた。折り返し点の調布市飛田給の甲州街道の道路脇に立っていると、エチオピアのアベベ選手が走ってきた。前大会(ローマ大会)の優勝者で、彼は東京大会も優勝、連覇だった。
 折り返し点には「英雄の姿を一目見たい」というおびただしい人々がつめかけ、身動きできないほどだった。
 こうしたことからも、1964年の東京五輪への国民の関心がいかに高く、共感の広がりがいかに大きかったかが分かるというものである。

 このことは、逆に言うならば、1964年五輪東京大会を誘致した東京都や政府の狙いが、多くの国民に受け入れられたということを意味する。

この時の五輪誘致の第1の狙いは、「国威発揚」だった
 1945年に終結した第2次世界大戦で日本は敗戦国になり、連合国軍(実質的には米軍)による占領下におかれた。対日講和条約によって日本が独立したのは1952年、国連加盟を認められたのは1956年である。
 敗戦国日本としては、早く世界の一流国の仲間入りをしたかった。五輪は、そのための格好の手段と考えられたのだろう。日本は、国連加盟前の1954年に1960年五輪大会に立候補している。この時は落選したが、1959年のIOC(国際オリンピック委員会)総会で1964年東京大会を勝ち取った。かくして、1964年東京大会は「日本の戦後復興を国際社会にお披露目する祭典」と位置付けられた。「アジア初の五輪」ということも国民の心をとらえた。

 五輪誘致の狙いの第2は、折から始まっていた「高度経済成長政策」に一層弾みをつけたいということだった。「五輪のため」となれば、国を挙げての投資が期待できたからだ。五輪開催決定によって、全国的な「建設ブーム」がもたらされ、東海道新幹線、東京モノレール、首都高速道路、東名高速道路の建設が急がれた。これもまた、国民の多くに歓迎された。

 さらに、政府が総理府に「オリンピック国民運動推進連絡会議」を設置し、公衆道徳、交通道徳、街並み景観の改善・整備を国民に呼びかけ、メデイアがこれに協力したことも、五輪への関心を高め、ナショナリズムをかきたて、国民の間に一体感を醸成することに成功したと言えるだろう。全国を走破した聖火リレーも一体感の醸成に一役買った。

第32回オリンピック東京大会2020
 一方、やはり国立競技場を中心に行われた今回の東京大会(大半は無観客)には、22競技539種目に205カ国・地域の選手約1万1000人が参加した。史上最多であった。規模は参加国・地域、選手とも前回の東京大会の2倍強であった。

国民の反応はどうであったか 良くなかった44%
 まず、NHKテレビ視聴率は、開会式56・4%、閉会式46・7%。
 世論調査では、8月21日~22日に行われたANN(テレビ朝日系)の調査結果が目を引いた。それによると、「あなたはこの時期にオリンピックを開催して良かったと思いますか、良くなかったかと思いますか」の問いにたいする答えは以下の通りだった。

良かった     38%
良くなかった   44%
分からない・答えない  18%

 つまり、今大会は4割未満の国民にしか祝福されなかったのである。別な言い方をするならば、今大会は5割近い国民には不評であったのだ。まさに、オリンピックという祭典に対する国民意識が真っ二つに分断された中での、盛り上がらぬ東京大会であった。
 事前の世論調査(朝日新聞)では、「開催反対」55%、「開催賛成」33%であった。こうしたデータからすると、大会の挙行によっても五輪に対する国民意識は劇的には変わらなかったということになる。

なぜ、こんな大会になったのだろうか
 まず、五輪東京大会が2度目であったことが挙げられよう。国民にとっては新鮮さを欠き、新たな関心が高まらなかったのではないか。
 第2は、日本国民の意識の中から、オリンピックへの幻想が消え失せつつあったからではないか。海外から伝わってくる五輪誘致を巡る贈収賄疑惑などによって、IOCは利権がらみの団体ではといった不信感が国民の間に生じていたように思う。酷暑の夏に東京で五輪を開催するなんて日本では考えられないことだが、そうなったのは米国のテレビ会社の営業方針だったと伝えられ、日本人なら誰しも「これはおかしい」と思ったはずだ。
 第3は、東京大会の開催理念がころころ変わったからである。最初は「復興五輪」、次いで「人類がコロナに打ち勝った証し」、それがまた「平和の祭典」に変わって、ついには「多様性と調和」。「これでは、一体何を世界に向かって訴えたいのか分からないではないか」といった声が国民各層から上がったのも当然だった。
 第4は、安倍首相の2013年のIOC総会における「フクシマはアンダーコントロールされている」という東京大会誘致演説への不信である。それから8年になるのに、東日本大震災に伴う東電福島第1原発の事故はまだ収束していないばかりか、事故原発から生じた放射能汚染水の処置に困って政府は海に流す構えだ。原発再稼働にも前向きだ。「安倍首相の誘致演説は世界をだましたことにならないか」という声があちこちで聞かれた。
 第5は、菅政権は自らの政権支持率向上のために五輪開催を利用したのでは、との疑念を多くの人が持ったからである。「新型コロナウイルス感染症が拡大しているから外出は自粛して、と国民に呼びかけながら、五輪大会を強行するのは論理的にも常識的にも矛盾する。「五輪の政治的利用は許せない」という声が続出したのも当然だった。

 さらに、大会直前に東京オリンピッ・パラリンピック競技大会組織委員会の関係者よる不祥事が噴出したことも大会への信頼を低下させた。「女性差別発言」による森喜朗・大会組織委員会会長の辞任、学生時代におこなっていたいじめを過去に自慢していたことを指摘されて辞任せざるを得なかった音楽責任者、過去のコントにナチスによるユダヤ人虐殺を揶揄するような形で組み込んでいたことを暴露されて解任された元お笑いコンビの演出担当者……。うち続く不祥事にあきれ果てた国民も多かったに違いない。

最後に開会式に対する個人的感想を述べておきたい
 4時間は長すぎると思った。そして、脳裏に次々と浮かんできた感想は次のようなものだった。「批判を恐れたためか、全体的に抑制が効き過ぎて、躍動感がなかった」「各方面に気を遣いすぎたせいか、多くのものを詰め込み過ぎた感じ」「強烈なアピールが感じられず、開会式を通じて何を世界に訴えたいのかはっきりしなかった(大会の理念が伝わってこなかった)」「日本文化を紹介する部門の発信が弱かった」
 要するに、わくわくするような感動を与えてくれる開会式ではなかった。でも、長時間にわたってプログラムを演じ続けた人たちやボランティアには敬意を表したい。

2021.08.27 「滅茶苦茶でごじゃりまするがな」
韓国通信NO676

小原 紘 (個人新聞「韓国通信」発行人)

 往年の喜劇人花菱アチャコを思い出す。困ると、とぼけ顔で「滅茶苦茶でごじゃりまするがな」と笑わせた。何がそんなに可笑しかったのか思い出せないが、小学生だった僕はよく笑った。
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 腹が立ち、胸塞がる毎日。
 政治家たちの無茶苦茶ぶりは笑えない。
 そんな政治家たちの思いあがりに付き合わされてきた。
 憲法など「クソ食らえ」と言わんばかりの傲慢さと国政の私物化には呆れるばかり。政権維持に汲々とするばかりで人々の不安な暮らしなどは二の次みたいだ。
 医療から見放されるという恐怖。誰に怒りをぶつけたらいいのか。無茶苦茶でござりますでは済まされない。
 世界から連日のようにコロナ感染と豪雨と山火事が伝えられる。「この世のものではない」という恐怖に震える被災者の声が聞こえた。
 すべては地球温暖化とかかわっている。日本沈没どころではない、地球が滅びる予感。世界が協調して温暖化対策に取り組まなければならない時に何をすべきか。感染対策に巨費を投じて配布されたマスクの滑稽さと悲しさ。脱炭素化のために原発を再稼働させようとする浅知恵。感染拡大防止の決め手として憲法に「緊急事態条項」が必要と言いだすずる賢さ。
 自民党政府の無茶苦茶ぶりを挙げればきりがない。
 希望はないのか。国民の命を守れない政権に退場してもらうほかない。「さいざんす」とトニー谷が相槌を打つ。野党がだらしないと、評論家のようなことは言うまい。希望は主張し続けることだ。
 輝く憲法9条~アフガンから見えた日本の平和力~
 アフガニスタン(以下アフガン)から米軍が撤収する。タリバン政権を危険視する声が大きい。国外脱出を急ぐ人たち。しかしアメリカが傀儡政権を見捨て軍事介入を断念したことを評価する声はほとんど聞かれない。アメリカが敗北した点ではベトナム戦争と同じ構図だ。タリバン政権そのものに恐怖感を抱くアフガン人がいる一方、旧政府の協力者、アメリカを中心とする多国籍軍の協力者が報復を恐れ、国外脱出しようとするのも容易に想像がつく。タリバン勢力の根絶を目的に派兵をしたアメリカの責任と40数か国、数万人に及んだ多国籍軍の責任を問う声はほとんど聞かれない。安保理決議に基づくとはいえ、イギリス・フランス・ドイツ・カナダ・オーストラリア等は付和雷同の参戦組だ。アメリカに梯子をはずされたことが混乱に拍車をかける。

<アフガンと日本>
 イラク戦争には「復興支援」の名目で自衛隊派遣をしたわが国だが、憲法と世論はアフガン派兵を許さなかった。復興支援金の支払いと給油活動は、アメリカに協力したことと変わりはないが、戦闘には加わっていない。
 日本政府の姑息なアフガン支援に比べて際立つのは民生支援と復興に献身した二人の日本人、国連高等弁務官緒方貞子と、「ベシャワールの会」の代表中村哲医師の活躍だ。二人は平和憲法を持つ日本を輝かせた。

 特に中村哲氏(写真)の活躍は国際協力、世界平和のあり方に教訓を与えた。国家による支援または介入はどのような理屈をつけても、する側の国益にもとづくもの。
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 中村哲氏らが繰り広げた灌漑づくりの活動は現地の人たちの生活に直結する支援だった。「テロ根絶」という軍事介入とは対極にある人道支援だった。
 一昨年、悲しいことに中村氏は現地武装勢力の襲撃によって殺されてしまった。タリバンによる殺害が疑われたが真相はいまだ明らかでない。
 他国を侵略しない。武器によらないで平和に徹する日本の平和主義が光輝いた。平和憲法が世界平和に貢献できることを中村医師は示してくれた。安保法制によって傷だらけになった感のある憲法第9条だが、彼の実践は平和憲法の価値を私たちに教えてくれた。
 人類がコロナで苦しんでいる時に世界は戦争をやめたらいい。正直そんなゆとりはない。米中対立のあおりを受けてわが国が戦争の当事者に、戦場になろうとする状況が生まれている。靖国神社に参拝する暇があるならコロナ対策と平和外交に全力を傾けて欲しい。
 コロナ、地球温暖化、自民党政府という三重苦によって辛い毎日が続くが、すべは人災である。人災は克服できる。人災を取り除くことだ。希望はある。

<2021年8月>
 今年の8月はやけに長く感じられる。家に閉じこもっているせいかも知れない。前回紹介した韓国の小説「そなぎ」にたくさんの意見や感想をいただいた。韓国理解に私の力が及ばないという反省もある。写真家の鄭周河さんから「多くの韓国人が共通に記憶する情の原点」という「そなぎ」への思いが寄せられた。
 戦争が終わってから76年の夏、全国戦没者追悼式と二つの原爆平和記念式の首相の挨拶は聞くに堪えなかった。ロボットに書かせ、読ませてもよかった。長崎の田上市長の平和宣言と比較すれば一目瞭然だ。被爆体験者の思いを紹介することから始まり、核兵器のない世界、平和憲法の理念のもと兵器禁止条約の批准を各国政府参加者に求めた。福島へのエール。原爆には国境がないこと。長崎を最後の被爆地とするよう全世界に訴えた。若者たちへの協力の呼びかけも忘れなかった。