2018.08.08 「日本政府は核禁条約に署名・批准せよ」
「8・6広島」で安倍政権批判の声相次ぐ

岩垂 弘 (ジャーナリスト)

 「日本政府は核兵器禁止条約(核禁条約)に署名・批准せよ」。8月6日は、米軍機によって広島に原爆が投下されてから73年。この日を中心に、今年も広島で原爆の犠牲となった人々を悼む慰霊の行事や、核兵器廃絶を求める大会・集会が繰り広げられたが、核兵器廃絶を求める大会・集会では、昨年7月に国連の会議で採択された核禁条約に参加しない日本政府に対し怒りの声が相次いだ。

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【8月6日朝の原爆ドーム】

 核禁条約は、122カ国(国連加盟国の6割)の賛成により採択された。その内容は「条約締結国は、いかなる場合も、核兵器の開発、実験、生産、製造、取得、保有、貯蔵のほか、核兵器やその管理の移譲、核兵器の使用、使用するとの威嚇、核兵器を自国内に配置、設置、配備することを行わない」とするもので、核兵器を全面的かつ厳密に禁止する画期的、歴史的な条約とされている。
 条約を採択した会議を主導したのは非核保有国や非同盟諸国で、米、露、中、英、仏のほか、インド、パキスタン、イスラエル、北朝鮮などの核保有国と、米国の核抑止力に自国の安全保障を委ねる日本やNATO(北大西洋条約機構)加盟国は会議に参加しなかった。発効には50カ国・地域の批准が必要で、これまでに14カ国が批准している。

 「8・6」を中心とする広島におけるさまざまの催しや大会・集会では、どこでも、この条約をめぐる論議があった。この条約が、今夏の「8・6」の最大の話題であったと言っていいだろう。
 
 6日に平和記念公園で開かれた広島市主催の平和記念式典には、強烈な夏の日差しが照りつける炎暑の中、被爆者、85カ国の代表、各都道府県別の遺族代表、一般市民ら約5万人(広島市発表)が参列した。参列者数は前年と同じだったが、連日の酷暑と、西日本豪雨が広島県下に甚大な被害をもたらし、今なお復興に追われている人たちが多いことを考えれば、今年の参列者数は、被爆から70余年たってもなお市民の間で原爆投下に対する抗議と犠牲者への慰霊の気持ちが衰えていないことを示しているといえるのではないか。参列者は今年も式典会場からあふれ、平和記念公園を埋め尽くした。

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【平和記念式典の会場に入れなかった人たちは、平和記念公園内のあちこちに
設けられたモニターテレビの前に集まり、式典を見続けた】
 
 松井一実・広島市長は「平和宣言」の中で核兵器禁止条約に言及し、「核抑止や核の傘という考え方は、核兵器の破壊力を誇示し、相手国に恐怖を与えることによって世界の秩序を維持しようとするものであり、長期にわたる世界の安全を保障するには、極めて危険極まりないものです。為政者は、このことを心に刻んだ上で、NPT(核不拡散条約)に義務づけられた核軍縮を誠実に履行し、さらに、核兵器禁止条約を核兵器のない世界への一里塚とするための取組を進めていただきたい」と訴え、日本政府には「核兵器禁止条約の発効に向けた流れの中で、日本国憲法が掲げる崇高な平和主義を体現するためにも、国際社会が核兵器のない世界の実現に向けた対話と協調を進めるよう、その役割を果たしていただきたい」と求めた。
 そこには、各国の政治指導者への訴えはあったものの、核禁条約に参加しない日本政府への批判はなかった。自民・公明の推薦で市長に当選した松井氏としては、安倍政権や政権与党に弓を引くことはできないということだろう。

 しかし、原水爆禁止団体や市民団体の大会や集会では、核禁条約に参加しない安倍政権への批判が噴出した。

 4日開かれた原水爆禁止日本国民会議(原水禁)の被爆73周年原水爆禁止世界大会・広島大会開会総会(2200人参加)で、あいさつに立った佐古正明副議長は、冒頭で核禁条約問題に触れ、「この条約は被爆者の皆さんや多くの人たちの努力によって成立したものだ。なのに、唯一の戦争被爆国である日本が参加せず、被爆者の皆さんを落胆、失望させている。アメリカとの軍事同盟によって得られる『核の傘』で平和を保ちたいというのが安倍政権の方針だが、真の平和は核兵器では実現しない。日本政府は直ちに条約に参加し、各国政府に対し参加するよう説得すべきだ」と述べた。

 同大会の分科会で講師を務めた川崎哲・核兵器廃絶国際キャンペーン(ICAN)国際運営委員(ピースボート共同代表)は、核禁条約の成立を「世界にとって大きな歴史的転換点」ととらえ、その内容を詳説したが、その中で、「条約は核兵器の開発、実験、生産、製造、取得、保有、貯蔵のほか、核兵器やその管理の移譲、核兵器の使用、使用するとの威嚇などを禁止しているが、これらの行為をいかなる形でも援助、奨励、勧誘することも禁じている。日本がアメリカの核の傘に頼るということは、日本のために核兵器を使ってくれ、と米国に頼むいうことだ。つまり、他国に核兵器使用を頼むということだ。そんなことは人道上許されることではない」と述べ、日本政府は条約への参加を急ぐべきだと強調した。
 
 6日に開かれた原水爆禁止日本協議会(原水協)の原水爆禁止2018年世界大会広島閉会総会(6000人参加)は「広島からのよびかけ」を採択したが、そこには、こうあった。
 「6月の米朝首脳会談によって、朝鮮半島の非核化と北東アジアの平和体制の確立にむけた歴史的な一歩も踏みだされました。しかし、アメリカの『核の傘』に深く依存する安倍政権は、核兵器禁止条約に背をむけるばかりか、『戦争する国』づくりに執念を燃やしています」「アメリカの『核の傘』からの離脱と核兵器禁止条約への参加を日本政府に強く求めましょう」

 生協の全国組織である日本生活協同組合連合会は5日、「2018ヒロシマ虹のひろば」を開催したが、主催者あいさつで登壇した本田英一会長は核禁条約に言及し「日本政府は、米国の核抑止力の中で日本の平和と安全を保障するとして、この条約に参加しないのはまことに残念である。被爆国の政府としてぜひこの条約に参加するよう求めたい」と述べた。
 
 こうした動き対して安倍首相はどう対応したか。
 首相は広島市主催の平和記念式典であいさつしたが、その中では「近年、核軍縮の進め方について、各国の考え方の違いが顕在化しています。真に『核兵器のない世界』を実現するためには、被爆の悲惨な実相の正確な理解を出発点として、核兵器国と非核兵器国双方の協力を得ることが必要です。我が国は非核三原則を堅持しつつ、粘り強く双方の橋渡しに努め、国際社会の取り組みを主導していく決意です」と述べるにとどまり、核禁条約には触れなかった。
 式典後の記者会見でも「核禁条約は我が国の考え方とアプローチを異にしているものだから、我が国として参加しないとの立場には変わりがない」と語り、これまでの方針を変えないことを明らかにした。

 日本の核兵器廃絶運動は、果たして日本政府の核政策・安全保障政策を変えることができるか、どうか。今年の「8・6」は、運動側にに根源的な課題を突きつけたように思えた。

2018.07.23 原自連VS産経新聞
韓国通信NO564

小原 紘(個人新聞「韓国通信」発行人)

 「原発ゼロ・自然エネルギー推進連盟」(略称原自連)が「原発ゼロ・自然エネルギー基本法案」を発表した(1月10日)。半年前のことである。
 この法案に対して産経新聞は社説で「亡国基本法案」と決めつけ、厳しい批判をくわえ、原発不要論に対する、これまで政府や推進派の学者たちが繰り返してきた「原発必要論」を展開した。
 批判された側は反論を産経新聞に掲載することを求めたが拒否された。「夢想の虚論」とまで批判しながら反論も認めないようでは既に「勝負あり」という気もするが、両者の主張をあらためて紹介した。
 原自連の吉原毅氏の反論は具体的な事実にもとづき大変説得力がある。さらに「美しき国土、国家を守る」という「保守」の立場から「原発即時ゼロ」を主張すべきと諭されては産経の面子は丸つぶれに等しい。「原発推進」か「ゼロ」の論争は実質的に終止符が打たれた。原発推進の主張は完全に破綻している。それでも再稼働に執着するのは正気の沙汰ではない。少し長文だが、産経の「社説」も吉原氏の「反論」どちらも読み応えがある。


 原発ゼロ法案 これでは国が立ちゆかぬ  産経新聞1月14日(日)社説
 「亡国基本法案」と呼ぶしかないだろう。
 小泉純一郎、細川護煕両元首相が加わる民間団体が発表した「原発ゼロ・自然エネルギー基本法案」にはそうした印象を受ける。直ちに全原発を廃止して、2050年までに太陽光や風力などの再生可能エネルギーに全面転換することを柱としている。そんなことが可能だろうか。万歩譲って実行できたとしても、現出する社会は、この基本法案が目指す「平和と安全」から、ほど遠いものになるだろう。
 電力を生み出すエネルギー源には、中長期の需給や時々刻々の発電量調整の必要上、多様性が求められる。ベストミックスとして、原子力発電から各種の火力発電、水力発電などまでが組み合わされているのはそのためだ。
  ゼロ原発・オール再生可能エネルギーは、夢想の虚論である。小泉氏らの法案は、原発を「極めて危険かつ高コストで、国民に過大な負担を負わせる」負の存在と非難している。一方、太陽光や風力発電の高い電気代が年々、家計に重くのしかかっている事実には触れていない。多くの原発の停止で、年間3.6兆~1.3兆円もの国富流出が止まらない。こうした不都合な現実からは目をそらすのか。
 高度技術化社会で最も便利なエネルギーは電力だ。安価で安定した電力の確保は、国と文明の維持・発展に不可欠の条件である。日本が先の不幸な大戦を避けられなかった理由が、海外からの石油の封鎖にあったことを思い出すべきだろう。
 途上国を中心に世界の人口は、これから増大の一途をたどる。生活水準の向上と人口増は、エネルギー需要の増加を意味する。小泉氏らは、日本が資源に乏しい島国であることを完全に無視している。ドイツが脱原発を標榜(ひょうぼう)できるのは、隣国のフランスから原発による電気の購入が可能であるからに他ならない。
 日本の原子力発電は、各原発の立地地域をはじめ再処理工場を抱える青森県の理解と、米国や英仏の協力の上に成立している。原発の全面廃止や核燃料サイクル政策からの一方的な撤退は、築き上げた信頼関係を土足で踏みにじる行為に等しい。人々を安易な脱原発論に巻き込む法案は、国民の絆にも水を差す。

 「原発即時ゼロでなければ国が立ちゆかぬ」
 産経新聞1月14日(日)社説「これでは国が立ちゆかぬ」への反論
                 原発ゼロ・自然エネルギー推進連盟 会長 吉原 毅
◎ 産経新聞社様におかれては、14日付社説において、私どもが10日に発表した「原発ゼロ・自然エネルギー推進基本法案」は「亡国基本法案」という印象をうけるものであり、「これでは国が立ちゆかぬ」と論評されています。
 さっそく論評をいただいたことに対しては、心より感謝申し上げる次第です。私どもの法案発表を契機として、今後、国民各位や国会の場で、原発ゼロの具体的な進め方について、活発な議論が行われることが、私どもの最も望むところであるからです。
◎ その上で、社説の論点を拝見すると、まず事実認識が正しくないことが多々あり、この機会に、御社においては、是非正しい情報をお調べになり、認識を改めていただければと願う次第です。
 まず「電力を生み出すエネルギー源は、中長期の需給や時々刻々の発電量調整の必要上、多様性が認められる。ベストミックスとして、原子力発電から各種の火力発電、水力発電などまでが組み合わされているのはそのためだ」ということです。もちろんベストミックスの考え方はわかりますが、私どもは「事故が起きれば国土消滅の危険がある、とてつもなく危険な発電装置であり、またコストが極めて高い原子力発電は、電力のベストミックスの中には入れるべきではない」
と考えます。
 御社は「太陽光や風力発電の高い電気代が年々、家計に重くのしかかっている」ことを「原発が必要であること」の根拠としていますが、これは御社が「自然エネルギーの世界情勢」を全くご存知ないための誤解だと思います。ぜひ私どもが世界を取材して制作したドキュメント映画「日本と再生」をご覧いただければと存じます。
 今や世界では、「太陽光や風力発電のコストは、化石燃料を大きく下回る、極めてコストの安いエネルギーである」ということが常識です。太陽光のコストは1kw時2円を割り込み、風力も数円にすぎません。経済専門誌である日経新聞(11月19日朝刊)などでも、世界のエネルギー調査機関の資料を掲載していますが、原発や化石燃料を大幅に下回っていることを示しています。
 こうした事実を反映して、今や、世界のエネルギーの主役は、太陽光や風力という自然エネルギーになっており、ここ数年加速度的に急増しています。
 例えば、太陽光は昨年100ギガワット純増し、380ギガワットを超えました。風力も600ギガワットを超えており、両者の合計は、今や1000ギガワットつまり原発1000基分に達しています。これに対して、原発は380ギガワットにすぎず、10年余り横ばいであり、稼働率も低く、完全に過去の遺物になっています。
 それでは、なぜ日本だけが自然エネルギーのコストが高いかというと、それは、政府の政策が不適切であるからです。日本の太陽光パネルや工事費は世界の数倍です。これはカルテル状態を放置し、競争が働かない状態にあるためです。また風力の場合は、環境アセスメントに多大な期間とコストを義務付けていることが大きいと日経新聞などが指摘しています。さらに、実際には8割が空いているのに、送電線の容量が一杯だとして接続を拒否したり、送電線の増強の費用として不当に高い接続コストを要求されていることが原因です。これらにより、我が国の自然エネルギーの価格は世界に比べて異常に高いのです。しかし、これらは政府の間違った政策のためであり、すぐに是正できます。
◎ 「日本が資源に乏しい島国」であると述べておられますが、アメリカの自然エネルギー学者であるエイモリー・ロビンズ博士は「日本はドイツの9倍の豊かなエネルギー資源がある。それは太陽光、風力、バイオマス、地熱、潮力、海流などである」と述べています。
 一例をあげれば、日本の農地460万ヘクタールを利用して「ソーラーシェアリング(営農発電:農作物をつくりながら空中で発電を行う)」を行えば、日本の電力需要の10倍の1840ギガワットの発電が可能です。これに風力や地熱、潮力、海流などを加えれば「日本はエネルギー資源の宝庫」です。そして、ドイツやデンマークなどを見ても、自然エネルギーは、地方経済・社会の飛躍的な発展をもたらす「地方再生の切り札」です。
◎ また「ドイツが脱原発を標榜できるのは、隣国のフランスから原発による電気購入が可能であるからだ」ということは、残念ながら全くの事実誤認です。事実は、2013年の段階で、ドイツはフランスに15テラワット時の電気を輸出し、フランスからは5テラワット時の電気を輸入しています。結果、10テラワット時の輸出超過であり、しかも、その傾向は年々ますます拡大しており、ドイツはフランスの原発の電気がなくても、全く問題ありません。
 実際にドイツ政府や電力会社の関係者に質問しても、「日本人はまだそんなデマを信じているのか」と呆れた顔をして、上記の回答が返ってきます。どうかこうした事実をご自分でお確かめくださればと思います。
◎ 最後に、「日本の原子力発電は、各原発の立地地域をはじめ再処理工場を抱える青森県の理解と、米国や英仏の協力の上に成立している。原発の全面廃止や核燃料サイクル政策からの一方的な撤退は、築き上げた信頼関係を土足で踏みにじる行為に等しい。人々を安易な脱原発論に巻き込む法案は、国民の絆にも水を差す」とありますが、これは「各原発の立地地域、青森県、米国や英仏との関係を維持する」ために「国土消滅というとてつもなく危険がある原発、コストが天文学的に高い原発を稼働せよ」という「倒錯した論理」そのものです。
 言うまでもなく「エネルギーは安全でコストの安い潤沢なもの」を選択すべきであり、「信頼関係や協力=過去のしがらみ」で選択すべきものではありません。「過去のしがらみ」を理由として「国土消滅というとてつもなく危険がある原発、コストが天文学的に高い原発を稼働せよ」という御社の主張こそ、まさに「亡国の主張」そのものです。

 中国も、欧州も、米国も、今、世界は、安全で、コストの極めて低い自然エネルギーの開発に全力をあげています。この「エネルギー革命」により、近い将来、外国は「コストゼロ」の潤沢なエネルギーを確保し、経済競争の面で、日本よりも圧倒的に有利な地位を手に入れます。日本がこの「エネルギー革命」に踏み切れないのは、ひとえに政府が「原子力ムラ」という利権集団に配慮して、「即時原発ゼロ」に踏み切れないためです。
◎ 2013年1月に逝去された加藤寛慶応義塾大学名誉教授の遺作は「日本再生最終勧告―原発即時ゼロで未来を拓く」でした。加藤先生は保守論壇の重鎮であり、御社も加藤先生には「正論」の執筆を依頼する等、その主張には大きな信頼を置いておられたと思いますが、加藤先生は「原発即時ゼロにすれば日本経済は大きく発展する」と主張されました。
◎ 原発ゼロ・自然エネルギーに転換すれば、テロやミサイル攻撃などの安全保障の面でも、エネルギー安全保障の面でも大きなメリットがあります。つまり「我が国の美しき国土、国家を守る」という「保守」の立場こそ、「原発即時ゼロ」を主張すべきなのです。その意味で、保守のオピニオンリーダーとしてご活躍されている御社にこそ、「利権にまみれ、富を誇れども社稷を思う心なき、原子力ムラ」を指弾し、「原発即時ゼロでなければ国は立ち行かぬ」という正論を主張していただきたいと強く願っております。
 以上の論点を述べた映画「日本と原発 4年後」と「日本と再生 光と風のギガワット作戦」は幹事長河合弘之が製作したものです。DVDを差し上げますので、是非ご覧いただいて、認識を改めていただきたいと思います。
 (全くの余談ですが、保守の一部には、将来の核武装のために、原発維持を主張する方々もいますが、実は核開発のために原発維持は全く必要ありません。原発はいかなる意味でも不要なのです。)


<韓国の脱原発>
 韓国が目ざす「脱原発」は「板門店宣言」で約束された朝鮮半島の「非核化」と一体のものだ。文大統領と金委員長の握手を快く思わない韓国の野党も保守系メディアも、そろって脱原発、非核化に懐疑的だ。

<吉原毅氏の講演会>
主催 「さよなら原発」あびこ
日時 2018年9月15日 14時~16時
会場 JR我孫子駅前 けやきプラザ9F   協力券500円



2018.07.20 協同組合が大同団結して連携機構を設立
   協同を通じて持続可能な社会の実現へ
        
岩垂 弘 (ジャーナリスト)

 東京・有楽町朝日ホールで、7月10日、「協同を通じた持続可能な社会へ」のスローガンを掲げた第96回国際協同組合デー記念中央集会が開かれた。国際協同組合デーとは、世界の協同組合組織である国際協同組合同盟(ICA)が協同組合運動を発展・普及するために設けたもので、7月の第一土曜日と決められており、毎年この日を中心に各国で記念の集会が開かれる。日本での今年の記念集会を主催したのは一般社団法人日本協同組合連携機構(JCA)だったが、これは今年4月1日に誕生したばかりの組織で、記念集会はいわばJCAのお披露目とも言える催しだった。

 JCAに加わっているのは、全国農業協同中央会(JA全中)、日本生活協同組合連合会(日本生協連)、全国漁業協同組合連合会(JF全漁連)、全国森林組合連合会(JForest全森連)、日本労働者協同組合(ワーカーズコープ)連合会(日本労協連)、全国労働者共済生活協同組合連合会(全労済)、全国労働金庫協会、全国農業協同組合連合会(JA全農)、全国共済農業協同組合連合会(JA共済連)、農林中央金庫、家の光協会、日本農業新聞、農協観光、全国農林漁業団体共済会、全国大学生活協同組合連合会(全国大学生協連)、日本医療福祉生活協同組合連合会(医療福祉生協連)、日本コープ共済生活協同組合連合会(コープ共済連)の18団体。会長は中家徹・JA全中会長。これは、日本の協同組合の連合会のほとんどを網羅したもので、日本の協同組合史上画期的なことである。 まさに、協同組合の大同団結が実現したといってよい。

 もっとも、これまで協同組合同士が協力し合う組織がなかったわけではない。これら18団体のほとんどの団体が参加する「日本協同組合連絡協議会(JJC)」という組織があった。参加団体はいずれもICAの加盟団体だが、1956年に、国内の協同組合間の連携と、世界の協同組合との連携強化を図るためにつくられた協議体で、いわば、ゆるやかな連携を前提とする任意団体であった。ゆるやかな連携にならざるを得なかったのは、日本では協同組合がよって立つ法律が各協同組合で違い、所管の官庁もバラバラ、事業の面でも場合によっては利害が対立する、といった事情があったからである。
 そのJJCが発展的に解消し、衣替えして発足したのがJCAだった。発足にあたっては、一般社団法人という法人格を備えたから、参加団体間の結束はより強化されたものとなった。  

 JCAによれば、JCAの目的は協同組合の健全な発展と地域のよりよいくらし・仕事づくりへの貢献だという。そのために、JCAは①協同組合間連携②政策提言・広報③教育・研究の3つの機能を備え、地域・都道府県・全国の各段階におけるさまざまな協同組合の間の連携を支援・拡大し、協同組合の力を結集して地域の課題の解決を目指すという。

 何が協同組合の大同団結を促したのか。それは、地域、とくに地方の農山村が、少子高齢化、経済格差の拡大などにより崩壊しつつあるという協同組合関係者の危機感だった。農山村の衰退により限界集落が増え、そこで暮らす人たちが生活を維持するのが困難になりつつあるという現実が、協同組合関係者を突き動かしたのである。第96回国際協同組合デー記念中央集会の冒頭に登壇した中家徹JCA会長は、あいさつの中で「地域が直面するさまざまな課題を解決するために協同組合が今こそ連携を強めなくてはいけない。そのためにJCAが設立された」と述べた。
 こうした経緯があったから、第96回国際協同組合デー記念中央集会は「協同を通じた持続可能な社会へ」というスローガンを掲げたわけである。

 中央集会では、JA全中、日本生協連、日本労協連、全国労働金庫協会、JCAの各役員によるパネルデイスカッション(テーマは「協同組合間連携を通じて持続可能な社会へ」)が行われたが、その中で、JCAの設立には別な動機もあったことが明らかにされた。 
 
 1つは、安倍政権による「農協改革」に対する協同組合陣営からの強い懸念である。
 政府の規制改革推進会議は2016年11月に「農協改革」を提言した。そこでは、JA全農の事業制限など農協の事業の根幹にかかわる方向が打ち出されていた。これに対し、農協陣営は「農協改革は農協自身によってなされるべきだ」と反発、JJCも「協同組合は『自治と自立』を原則の1つに掲げており、規制改革の名の下に協同組合の自主性、主体性が制限されることがあってはならない」という共同声明を出したほどだった。こうした政府による農協への“圧力”が協同組合陣営を結束させたようだ。

 もう一つは、世界の協同組合の動きから刺激を受けたことだ。
 協同組合運動が盛んな国の1つであるイタリアで2017年、3つの協同組合連合会が統合し、法人格をもったイタリア協同組合同盟(ACI)になった。JJCは代表団をイタリアに派遣してその経緯を視察し、協同組合がイデオロギーの違いを超えて統合し組織をより強固にしてゆくことが、協同組合の社会的存在感を高めることを学んだ。これが、JCAの設立につながった。

 中央集会は、協同を通じた持続可能な社会の実現を目指して力を合わせるをことを確認した。具体的には、国連が掲げるSDGs(持続可能な開発目標)の実現をはかるとしている。その目標は17項目にのぼる。つまり「貧困をなくそう」「飢餓をゼロに」「すべての人に健康と福祉を」「質の高い教育をみんなに」「ジェンダー平等を実現しよう」「安全な水とトイレを世界中に」「エネルギーをみんなにそしてクリーンに」「働きがいも経済成長も」「産業と技術革新の基盤をつくろう」「人や国の不平等をなくそう」「住み続けられるまちづくりを」「つくる責任 使う責任」「気候変動に具体的な対策を」「海の豊かさを守ろう」「陸の豊かさも守ろう」「平和と公正をすべての人に」「パートナーシップで目標を達成しよう」である。

2018.07.07 架け橋
韓国通信562

韓国の友人に日本のことを伝えたい
日本の友人に韓国のことを伝える


小原 紘(個人新聞「韓国通信」発行人)


40年も昔、韓国語の勉強を始めたころ、「日韓の架け橋」になりたいと真剣に思った。当時、「架け橋」はいっぱいあった。政治家や財界人、商社マンたちが渡った。韓国に対するステレオタイプ化された知識が溢れていた時代だった。それに対抗するつもりだった。仲間もたくさんいた。
ソウルオリンピック、サッカーワールドカップ日韓共同開催、そして「韓流ブーム」の到来。多くの普通の人たちが屈託もなく韓国にでかけるようになり、日韓新時代の到来を感じさせた。
「架け橋」をめざして始めた「通信」だが、日韓の距離がなかなか縮まらないことに苛立ち、漂流ぎみの感さえある。人間どうしの理解が難しいのに、隣国との「架け橋」とはおこがましい話なのかも知れないが、あきらめずに私の発見、思いを伝え続けていきたい。
前号の「通信」韓国語バージョンに対する感想文が届いた。

<韓国からの通信>
小原さんお久しぶりです。福島での写真撮影を終えた後、雑事に取り紛れ連絡できなかったことをお許しください。
今回送ってくれた二つの文章、とても嬉しく拝見しました。特に相良倫子さんいう中学生が書いた詩は若い人が書いたとは思えない成熟した内容なので驚きました。もちろん彼女の勉強の成果とは思いますが、沖縄の悲惨な歴史をこれほど生々しく、想像力を働かせ詩として表現したのには驚くばかりでした。本当に素晴らしい学生です。私の心に、深い悲しみの感情と、戦争のない平和な生き方が大切という彼女の思いが伝わってきました。
沖縄県知事の言葉にも彼女に通じる思いが込められているのを感じました。特に東アジアの平和問題に対する知事の考えと、安倍を始めとする戦争主義者たちへの叱咤、今回の米朝平和協定への期待を込めたメッセージは時宜にかなった適切な内容だったと思います。韓国でも、今回、文在寅政権が先頭に立って一気に南北停戦と平和協定協定の締結へと向かう兆候を見せています。来る7月には離散家族100名ほどが再会、遠くない将来、釜山から元山(ウォンサン/北朝鮮東の都市)経由でウラジオストックからベルリンに至る鉄道の開通も見込まれています。このような時に、沖縄で米軍基地と飛行場の拡張工事をするなんて全く馬鹿げたことです。ただ軍産複合体、大企業のためのものでしかありません。
私は沖縄の佐喜眞美術館を何回か訪ねたことがあります。行けばいつも感じることですが、まるで沖縄が米軍基地の中にあるような錯覚を受けました。沖縄は悲しい所であると同時に希望の島です。素晴らしい文章ありがとう ! 2018/06/28 鄭周河(チョン・ジュハ)

鄭周河さんは「通信」で数回取り上げたことがある。原発事故直後から南相馬を撮り続けた写真家。「奪われた野にも春は来るか」写真展が日本各地で開かれ反響をよんだ。厳しい福島の状況へ向けたカメラは悲しみと厳しさにあふれ、作品のどれもが悲しいほどに美しい。毎年、来日しては南相馬(原発事故)に寄り添うように撮影を続けている。左の写真は韓国の霊光(ヨングワン)原発を背景に無邪気に遊ぶ子どもたち。タイトル「火の中で~不安へ」。韓国現代美術館所蔵。福島原発事故を予測したかのような作品。彼の代表作。
562韓国通信NO

<ピンチ! 東海第二原発>
首都圏にあるから「廃止しろ」というのは過疎地にある原発に反対する人たちに失礼ではないかと思う。首都圏にあるから事故を起こせば大事故になるという話だが、問題はそれだけにとどまらない。法律で定められた原発の寿命40年を越えて稼働させることは原発業界にとっても日本中で原発に反対する住民にとって大問題なのだ。
事故発生率トップ(従って業界にとってはお荷物的存在)のポンコツ原発の再稼働がOKとなれば再稼働待ちの原発が「われもわれも」と雪崩を打って再稼働に走るのは目に見えている。
スポーツクラブに署名用紙を持ち込んで署名活動をした。いつの間にかスポーツジムが私の活動の場になってしまった。もちろん運動もして爽やかな汗もかいた。心と体の健康に良い。

翌29日、東海第二原発の所有会社日本原電本社(千代田区)に出かけ抗議行動に参加した。
デジカメを片手に取材の積りだったが、主催者から挨拶を頼まれる羽目になった。参加者たちは一様にその日用意した要請文の受け取りが拒否されたことを怒っていた。私はというと、裁判闘争依存、少人数の門前抗議だけではダメとまでは言わなかったが、「地域で話し合って、自治体から反対の声を」そして「住民の声で東海第二を包囲。その力で廃炉に」と訴えた。千葉県では多古町に続き銚子市議会が東海第二原発廃炉を求める決議。栃木県では茂木町に続いて真岡市で請願運動を展開、東京では葛飾区市民が請願運動を開始した。「皆さんの町でも包囲に加わってほしい」と挨拶を締めくくった。
夕方の首相官邸前のデモに参加する予定だったが暑すぎて省略。家に帰ったら関東地方が「梅雨明け」したとのこと。
サッカーワールドカップに熱狂する若者たち。ロカビリーやジャイアンツに熱中した自分の若い頃を棚に上げて眉をひそめることもないが、いい大人まで寝不足だなんて悲しい。日本チームの決勝リーグ進出の仕方に、国内から批判の声が上がった。世界からは例外なく「姑息なサムライジャパン」に批判が集まった。韓国の中央日報は「16強を逸した韓国チームに拍手。16強に進出した日本チームにはブーイング」と報じた。世界から孤立する日本を感じる。

<追記>

7月4日、駅頭で掲げるプラカード「危険!東海第二原発 動かすな」を準備しているさなか、お昼のNHKニュースが原子力規制員会による東海第二原発の新規制基準合格を伝えた。出鼻を挫かれた思いだったが以前から予想していたことなので驚きは少なかった。
「世界一厳しい規制基準」と安倍首相は胸を張るが、「安全を保証するものではない」(前田中委員長)。規制基準というモノサシだけで「合格」と判断しただけ。国民の疑問や不安にこたえない規制委員会が存在する意義は無くなった。
老朽、それも人口過密地帯にある首都圏原発を動かすいう非常識。私の知る限りでは99.99%の人たちが廃炉にすべきと答える。自信をもって1時間半立ち続けた。
規制委員会に甘い期待を持っていた人も含めて、こうなったら世論の力で「廃炉」にするほかないと感じたはずだ。「首都圏連絡会」を中心にチラシ配布、親会社の東京電力、日本原電抗議、反対署名、周辺自治体の「意見書」の採択も加速するはずだ。越えなければならないハードルがあり再稼働が危ぶまれるという指摘もあるが、ハードルを高くして廃炉に追い込むのは市民の力を置いてない。快晴の駅頭炎天下でプラカードを掲げ続けながら考え続けた。
2018.06.22   「護憲のハガキ」をどうぞ
    個人で憲法9条擁護を訴える

岩垂 弘 (ジャーナリスト)

 改憲をめぐる論議が盛んだが、こうした状況に危機感を抱き、1人で護憲の運動を起こした人がいる。東京都立川市在住の竹内良男さん(68)。日本国憲法第9条全文が刻まれた碑の写真を刷り込んだハガキをつくり、「憲法と戦争と平和を考えるきっかけになってほしい」と、希望者に配布している。

 竹内さんは東京で高校教員をしていたが、30年ほど前、修学旅行の生徒たちを引率して広島を訪れた。その時、被爆者の証言を聞き、衝撃を受ける。それを機に、悲惨極まる原爆被爆の実相をもっと知るために広島、長崎を訪ねるようになった。退職後も、広島を訪れ、慰霊碑を訪ねたり、被爆者の証言に耳を傾けてきた。ここ数年は、希望者を募って、慰霊碑や原爆や戦争に関する遺跡を巡るフィールドワークを組織する活動に取り組んできた。こうした活動により、竹内さんの“広島詣で”はすでに100回を超える。

 その一方で、“広島詣で”のかたわら、自らが主宰して2016年1月から、東京都北区でトークセッション「ヒロシマ連続講座」を開いている。ヒロシマに関わってきたさまざまな分野の人に原爆被害や戦争の実態を明らかにしてもらい、これを何を次の世代に伝えるのが狙いだが、この講座を思い立ったのは、首都圏在住の人たちの間では、ヒロシマへの関心が低いと痛感してきたからだという。
 原則として月2回、土曜日に開いており、この6月16日の講座で50回になった。

 竹内さんは、昨年10月の総選挙で改憲を目指す政党が議席の3分の2以上を占めたのを受けて安倍政権と自民党による改憲への動きが本格化したことに危機感を抱き、今こそ護憲の運動を起こさねば、と思い立った。そこで、思いついたのが、以前訪れたことのある、広島市出身の詩人・栗原貞子さん(1923~2005年)の墓地に立つ「護憲の碑」の写真を刷り込んだハガキをつくり、広く普及しようということだった。なぜなら、そこに日本国憲法第9条の全文が刻まれているからだ。

護憲碑
                       護憲の碑の表面
 栗原さんは“被爆詩人”として知られ、代表作は「生ましめんかな」「ヒロシマというとき」など。核問題にも終生、積極的に発言した。
 栗原さんの墓は、広島市安佐北区可部大字勝木にある。墓石の横に大きな石碑があり、表面に「護憲」と、裏面に第9条全文が彫り込まれている。9条全文のわきには「父栗原唯一 母貞子に捧ぐ」「一九九一年二月 長女眞理子建立」と刻まれている。眞理子さんは5年前に亡くなった。
 自治体や団体によって建てられた「護憲の碑」はあるが、個人によって建てられた「護憲の碑」は極めてまれだ。

九条
               護憲の碑の裏面には憲法9条が刻まれている
 竹内さんは、この表面と裏面を写真に撮り、これをはめ込んだ私製ハガキ2枚をつくった。「改憲に向けた動きが本格化するような報道がなされている今、改めてこの碑の訴えに、私たちはもう一度真摯に向き合うべきではないでしょうか」「このハガキが平和を願う人々の思いを乗せてあちこちに運ばれ、そのことを通じて、憲法と戦争と平和とを考えるささやかなきっかけになるといいな、と思います」「必要なら連絡くだされば、幾らでもお送りします」と竹内さん。

 竹内良男さんの連絡先 メールアドレスqq2g2vdd@vanilla.ocn.ne.jp 電話090-2166-8611

2018.06.15   50年続いてきた反戦デモ
          エンプラ事件で始まった「19日佐世保市民の会」

岩垂 弘 (ジャーナリスト)

 未知の人から送られてきた本をめくっていて、目を見張った。市民によって始められた反戦平和を目指す月1回のデモ行進が休むことなく50年続き、600回を迎えたという記述があったからである。私は半世紀以上にわたって反戦平和運動を取材してきたが、50年も続いたデモなんて聞いたこともないから、驚いた。長崎県佐世保市でのことである。しかも、そのデモのスタートが私の取材上の体験と深く関わっていたから、一層、そのデモの「50年」に引きつけられた。

 私に送られてきた本は『うち、おい達の崎戸という時代』。写真・中西務、文・中西徹。浮遊社(大阪市)の発行である。
 本書によれば、かつて長崎県西彼杵郡崎戸町(現西海市崎戸)に三菱鉱業崎戸鉱業所という海底炭鉱があった。1907年(明治40年)に採掘が始まり、戦時下の1944年(昭和19,年)には炭鉱労働者が7487人(うち2623人は朝鮮人)を数えたが、国策により、1968年(昭和43年)に閉山した。
 本書は、崎戸町で生まれた中西徹さんが、崎戸炭鉱の歴史と、そこで働き、生活した人びとの歴史を、その時々の世界と日本での出来事とからめながら、たどったものである。父が炭鉱付属病院のレントゲン技師を務めていたことから、中西一家の歴史も書かれている。

 本書によれば、崎戸炭鉱の閉山は1968年3月26日。閉山により中西さん一家が崎戸町を去ったのは同年1月19日のことだったが、その直前に日本を震撼させた出来事があった。崎戸町から20数キロ離れた長崎県佐世保市で起きた「エンプラ事件」である。

 エンプラ事件とは、米国の原子力空母「エンタープライズ」(75,700トン)が、中西さん一家が郷里を離れた1月19日に佐世保に入港(原子力空母の日本寄港は初めて)したことから、社会党、共産党、労働組合、新左翼系学生らが「エンタープライズの日本寄港を認めることは、ベトナムに対する侵略を続ける米国への佐藤内閣の協力、加担がさらに強まったことを示すもの」として、全国動員でこの日を中心に佐世保市で抗議行動を展開。1月17日には新左翼系学生が米軍基地突入を図ったため、機動隊が制圧を開始、逮捕者29人、負傷者92人(内訳は学生67人、警官10人、鉄道公安職員8人、報道関係者4人、一般市民3人)を出した事件だ。
               50年続いてきた反戦デモ
             「エンプラ入港阻止」の学生たちを制圧する機動隊
              (1968年1月17日、佐世保市の市民病院わきで)

 報道関係者4人のうちの1人が、東京本社から佐世保に出張して抗議行動を取材中だった私で、しかも最も重いけがをしたのが私であった。新聞社の腕章をつけていたのに警棒で乱打され、頭、顔、手、足など7カ所に傷を負い、全治10日間。
 一般市民、報道関係者に負傷者が出たことから、「制圧は過剰警備だった」との批判が市民の間で高まり、木村俊夫内閣官房長官も記者会見で「学生、警官隊の双方にかなりの負傷者を出したが、報道人を含めた一般市民にけが人が出たことは非常に申し訳ない」と謝罪せざるを得なかった。

 『うち、おい達の崎戸という時代』も、このエンプラ事件に触れていたが、私が目を見張ったのは、そこに、私の手記が転載されていたからである。それは、私が週刊誌『朝日ジャーナル』1968年2月4日号の「特集・流血の佐世保」に自分の体験を書いた「警棒の下で感じたこと」の一部だった。おのれの手記を読みながら、私は50年前の経験を思い出し、しばし感慨にひたった。

 エンタープライズは1月23日、抗議の声を背に佐世保港を去ったが、エンプラ事件をきっかけに、新しい反戦市民運動が生まれた。
 エンプラ入港からちょうど1カ月後の2月19日、佐世保市内の中心部から出発した1つのデモ行進があった。主婦、教師、商店主、サラリーマンら約150人。先頭には「エンタープライズが佐世保を汚した日、一緒に歩きましょう」と書かれた幕が掲げられていた。佐世保ペンクラブ会長・矢動丸廣さんらの呼びかけで生まれた「19日佐世保市民の会」である。
 戦前は日本海軍、戦後は米海軍に経済的に依存するところが大きかった佐世保では、それまで市民による反戦平和の運動はほとんどみられなかった。が、エンプラ寄港をきっかけに、それが芽生えたのだった。 
 
 それから、50年。この間、「19日佐世保市民の会」のことを思い浮かべることはほとんどなかった。ところが、なんと『うち、おい達の崎戸という時代』に「19日佐世保市民の会」の誕生とその後の活動についての記述があったのだ。そこには、こうあった。「市中心部の松浦公園に夕方の六時までに参集し、アーケードを駅方向に歩く。今年(二〇一八)一月で通算六百回。自由参加」。私は思わず叫んでしまった。「19日佐世保市民の会のデモはまだ続いていたんだ」

 矢動丸廣さんはすでに故人、現在の連絡先は長女の宮野由美子さんとあったので、宮野さんに電話をかけ、「市民の会」の現状を聞いた。
 それによると、毎月19日のデモは1日も休まず続けられてきたという。宮野さんが最初のデモに加わったときは20歳の短大生。結婚で佐世保を離れた時期もあったが、1989年以降は一度も欠かさず参加してきたという。
 参加者は毎回、どこからともなく集まってきた15人から20人。50人くらいになった時もあったが、3人の時もあった。「米原潜が佐世保港で放射能漏れを起こしたり、米軍の輸送機オスプレイが佐世保に飛来したりすると、参加者が増えますね。最近は、内外の政治情勢に不安を感じている人が参加してくるようです。佐世保は、有事の際には前線基地になるところですから」。デモの距離は2キロ。ゆっくり歩いて30分。シュプレヒコールもなければ、マイクもない。ただ黙々と歩く。

 「なぜ、こんなに長く続いてきたと思いますか」との問いに、宮野さんはこう答えた。「佐世保でもいろいろな集会やデモがありますが、労組の呼びかけで行われる場合が多く、一般市民が意思表示できるところがない。それで、誰でも参加しやすい私たちのデモに加わってくるのではないでしょうか」

 日本人は熱しやすく冷めやすいといわれる。そんな風潮に抗するように続けられてきた19日佐世保市民の会のデモ。その類い希な持続する志は、多くの人びとを勇気づけてくれるのではないか。
2018.06.06  安倍内閣は退陣せよ
          世界平和七人委がアピール   

 世界平和アピール七人委員会は6月6日、「安倍内閣の退陣を求める」と題するアピールを発表した。
 世界平和アピール七人委は、1955年、世界連邦建設同盟理事長で平凡社社長だった下中弥三郎の提唱により、人道主義と平和主義に立つ不偏不党の知識人有志の集まりとして結成され、国際間の紛争は武力で解決してはならないを原則に、世界平和実現、核兵器禁止、日本国憲法の擁護を目指して内外に向けアピールを発表してきた。今回のアピールは130回目。七人委が現内閣の退陣を迫るアピールを出したのは初めて。
 現在の委員は、武者小路公秀(国際政治学者、元国連大学副学長)、大石芳野(写真家)、小沼通二(物理学者、慶應義塾大学名誉教授)、池内了(宇宙論・宇宙物理学者、総合研究大学院大学名誉教授)、池辺晋一郎(作曲家、東京音楽大学客員教授)、髙村薫(作家)、島薗進(宗教学、上智大学教授)の7氏。
アピールの全文は次の通り。
安倍内閣の退陣を求める
世界平和アピール七人委員会

 5年半にわたる安倍政権下で、日本人の道義は地に堕ちた。
私たちは、国内においては国民・国会をあざむいて国政を私物化し、外交においては世界とアジアの緊張緩和になおも背を向けている安倍政権を、これ以上許容できない。
 私たちは、この危機的な政治・社会状況を許してきたことへの反省を込めて、安倍内閣の即時退陣を求める。


     █ 短信 █
米騒動100年記念フォーラム
「女一揆 魂を揺さぶられた越中の男たち」

 1918(大正7)年夏、富山県東部沿岸地域に端を発した米騒動は、全国の大都市、炭鉱などを巻き込み、ついに暴動までに発展した。「越中の女一揆」としてしられる米騒動は、民衆が政治の表舞台に躍り出た、いわば民主主義への第一歩を記した歴史的大事件である。それは確かに「越中の女一揆」ではあったが、女たちを支え、米騒動の意義を記録したのはまさに「越中の男たち」にほかならない。横山源之助、井上江花、細川嘉六という3人の男たちの魂を揺さぶり続けた米騒動とはいったい何だったのか。米騒動から100年にあたり、研究者やジャーナリストが米騒動の意味をひも解く。

 とき:6月9日(土)13:30~15:50

 会場:富山県民共生センター・サンフォルテ2Fホール
富山市湊入船町6―7。富山駅北口から徒歩10分。電話076-432-4500

 基調講演:細川嘉六ふるさと研究会代表・金澤敏子「鍋割月 越中の女たちは起ちあがった!!」
 
 徹底討論:「米騒動は何だったのか!! 魂を揺さぶられた男たち 横山源之助・井上江花・細川嘉六」。バネリストは魚津歴史民俗博物館長・麻柄一志、北日本新聞社相談役・河田稔、金澤敏子。コーディネーターはジャーナリスト・向井嘉之

 記念ライブ:楽屋姫ミニコンサート

 参加費:一般=前売1000円、当日1200円/大学生=前売500円、当日600円/高校生以下=無料

 主催・問い合わせ:米騒動100年記念フォーラム実行委員会(電話0765-72-2565)
                                                  (岩)

2018.05.28  私立大学の体育会権力
盛田常夫(経済学者、在ハンガリー)

教授会と体育会
 大手の私立大学はどこも体育推薦入学制度を保持しており、大学の知名度を上げる手段となっている。人気がある野球やサッカー、あるいはラグビー、それから箱根駅伝などメディアへの露出度が高いスポーツは、推薦枠も大きい。人気スポーツの1年間の推薦入学枠は1チームを形成できるレギュラー人数を超えるのがふつうで、レギュラーになれない多数の体育推薦入学者が洗濯や炊事、球拾いの雑務要員として合宿生活を支えている。
 私立大学の運営は教育や研究事項に責任を持つ教授会や学部長会議と、大学経営に責任をもつ理事会(事務組織の統括)の二つの系列に分かれている。体育推薦枠の扱いは理事会マターであり、教授会や学部長会議などが関与できることはほとんどない。学部長会議は、理事会あるいは体育部関係者が集まる会議で決定された各部の推薦枠を承認するという形式的な機能を受け持たされるだけで、教授会にいたってはその報告を受けるだけである。
 一応、各体育会加盟部の部長には教員が名を連ねているが、たんなる名誉職で、OB会や祝賀会で挨拶する程度の役割しか負っていない。体育会各部の監督やOB会がすべてを取り仕切っている。体育推薦で入学を決める権限も各部の監督やOBが握っており、ここに教授会が関与することはない。学部長会議で形だけ承認された体育推薦の総枠が、各専門学部に配分され、教授会はその枠を承認し、その枠内で推薦された学生の入学を承認するだけである。
 体育推薦で入学した学生が、各体育会の所属部とどのような約束を交わしているか、教授会は何も知らない。ほとんどが、体育会を辞める場合には自主退学することを入部(入学)の際の誓約書にしているようだが、そのような書類は教授会に提出されない。すべて体育会の各部で内部的に処理され、公になることはない。
 このように、私立大学における体育会は一つの独立した世界であり、各部の運営は推薦入学利権をもつ権力組織になっている。

体育会グループが事務組織を支配
 大学の先生はお世辞にも経営能力があるとは言えない。予算や事務人事にかかわることに何の力も発揮できない。だから、私立大学の経営は理事会を頂点とする事務組織が担っている。体育推薦制度が強固な大学では、この事務組織を担っているのが、体育会出身者である。
 私立大学にとって、体育会出身者が事務組織を担うことには多くの利点がある。一つは大学への忠誠心(大学ナショナリズム)である。有能でも他大学出身の職員は大学への忠誠心が希薄だから、なるべく多くの生え抜きの職員をとる傾向が顕著である。さらに、体育会出身者は上下関係の命令で動かすことができるから、「無駄な」議論を省くことができる。
 他方、この利点は欠点に転化する。事務能力より上下関係による親分子分の関係を職員組織に持ち込めば、革新的な大学経営の障害になる。軍隊的な関係が支配するところに、創造的な大学経営を展開する力はない。
 もちろん、大学によって、体育会出身者を優遇することなく、能力本位で自大学出身者を採用しているところもある。教授会と理事会の力関係によっても、大学経営のあり方が大きく異なる。
 たとえば、法政大学のように教授会組織が強い大学では、学長が理事長を兼務し、さらに教員が主要な常務理事を担当して、事務組織が独立権力を形成するのを防いでいる。しかし、民主的な運営を維持している法政大学でも、体育推薦入学制度は教授会が介入することができない聖域であり続けている。事務組織における体育会出身者が一つの利益集団を形成している以上、それと妥協しながら大学を運営する必要があるからだ。
 これが日本大学のように、事務組織に比べて教授会の力が弱く、体育会出身者で占められる理事会が圧倒的な力をもっている大学の場合には、まったく違った組織になる。創立者が経営を掌握している地方の大学では、教員採用に当たっても、理事会が口出しして、教授会の自治や権限が骨抜きにされている大学もある。

体育推薦の弊害
 体育推薦で入学した学生のほとんどは授業に出席せず、合宿所で1日の生活を送っている。これで授業の単位を修得することはできない。だから、体育会からプロスポーツに進んだ選手のかなりの部分は、卒業単位を取得することなく、4年で退学している。しかし、これも大学によってかなり様相が異なる。
 理事会が強いところでは、教授会に暗黙の(あるいは明示的な)圧力がかかり、体育会所属学生に合格点を与え卒業させている。他方、教授会が強いところではそのような介入は奏功せず、単位を修得することなく卒業することになる。体育会系学生の答案用紙はほとんどが白紙で、所属の体育会名が書いてある。試験が近づくと、担当教員に贈答品が届くこともある。また、顧問の教員に泣きつき、顧問が同僚教員に懇願することもある。定期試験に替え玉を出す事例も後を絶たない。
 スポーツが強すぎるのは大学教員としては困る。優秀な学生がそのような大学を避けるからだ。法政大学に勤務していた時など、「飯田橋体育大学」と揶揄されることもあった。古株の教員は大方体育会の制度に好意的だったが、若手教員は体育推薦制度に批判的だった。どうしたら体育推薦枠を減らすことができるか、その制度に風穴を開けることができるかを議論していた。そうすれば、優秀な学生を増やすことができると考えていた。体育推薦入学者に面接試験を導入したり、入学試験の点数を提出させたりして、教授会が入学審査に関われるような改善提案もした。しかし、何十年と続いてきた制度を変えるのは至難の業であった。
 友人が勤務していた立教大学の経済学部では、1980年前後に体育推薦枠を廃止した。もともと、体育会の権力が強くないところに、良識的な教授陣が断固とした決意を示したのだ。学力が不足する附属高校からの入学者についても、教授会は厳しい態度を打ち出した。

学校スポーツが盛んな日本
 私立大学で体育会が一つの権力を形成している実態を変えることは、ほとんど不可能に近い。これは日本における学校スポーツのあり方と密接に関係している。
 欧州では大学を含め、学校で部活動が行われることはほとんどない。自主的なサークル活動が小規模に行われることはあっても、学校組織が関与している部活動は基本的に存在しない。大学を含む学校は勉学の場であり、スポーツをやりたい人や他の趣味に精を出したい人は、それぞれ学校外のクラブでやれば良いと考えられているからである。素人の先生が他人の趣味やスポーツ活動に関与する必要はない。専門のスポーツクラブには専門のコーチがいる。そこで専門的な指導を受ければ良い。
 ところが、日本では中学校から部活動が盛んで、否応なしに部活動への参加が義務づけられ、専門でもない先生が私的な時間を削って部活動に献身している。それが高じて部活動が生きがいになる先生もいるようだ。こういう本末転倒な部活動の延長線上に、大学の体育会が存在すると考えれば、不合理な大学体育会が厳然として日本に存在することも理解できる。
 だから、私立大学の体育推薦入学制度の改革は簡単でない。

 それにしても、内田元監督の弁解が、安倍晋三の弁解に似ているのに驚いた。「私はそのような指示を出していないが、責任者である以上、率直に謝ります」と言いながら、何の責任もとらない。言葉で謝ればそれで批判をかわせると誤解しているようだ。「自分は直接見ていないし、指示を下したこともない」と自らの関与を否定して、自分の言葉や指示を伝達したコーチや学生に責任転嫁するのも安倍晋三と同じである。だから、いくら謝っても、誠意や真意が伝わらないのは当然である。
理事会No.2の人事担当常務理事という権力に到達した人物と安倍晋三に共通するのは、今の権力を手放したくないという卑しい魂胆だ。言葉の謝罪はいくらでもするが、それ以上の責任は取らない、取りたくないという態度が見え見えなのだ。何とも潔くないことだ。
2018.05.16  「デモ屋」と呼ばれた福富節男さん逝く
  ベトナム反戦や反安保闘争で奮闘

岩垂 弘 (ジャーナリスト)
 
 「安倍内閣は退陣せよ」と叫ぶ市民たちによって国会議事堂周辺で行われたデモが盛り上がった4月14日午後、国会議事堂からそう遠くない文京区民センターで、昨年12月18日に98歳で亡くなった、数学者の福富節男さんとお別れする会があった。1960年代から2000年代にかけて多くの反戦市民運動や反権力運動に参加し、常にデモの先頭に立っていたことから「デモ屋」との異名を奉られた福富さんにふさわしい追悼の集いだった。

     20180511福富節男さん400
         「会場には福富さんの遺影が飾られていた」

 福富さんは戦時下の1942年に東京帝国大学数学科を卒業した数学者だった。専攻は位相幾何学。戦後、日本大学教授となるが、大学の運営をめぐって大学当局と対立し、1962年、同大学を追われる。翌63年に東京農工大学助教授となり、同教授を経て83年に退官する。

この間、福富さんが反戦市民運動に登場してくるのは、1965年のことである。
 この年、世界の焦点となっていたベトナム戦争が一気にエスカレーションする。2月7日に米軍機が北ベトナムのドンホイ基地を爆撃したからである。「北爆」の開始であった。これを機に、世界各地で米国のベトナム政策に抗議する反戦運動が燃えさかる。
 日本では、4月24日、作家の小田実、開高健、哲学者の鶴見俊輔らの呼びかけで、ベトナムの平和を要求する人たち約1500人が東京都千代田区の清水谷公園から東京駅までデモ行進し、その後、集会を開いて「ベトナムに平和を!市民連合(ベ平連)」を発足させた。日本における本格的な反戦市民運動の誕生であった。
 ベ平連は、その後、月1回の定例デモのほか、アメリカのニューヨーク・タイムズ紙に反戦広告を出したり、徹夜ティーチ・インを開催したり、アメリカの著名な平和運動家を招いて日米市民会議を催したり、横須賀に寄港した米空母イントレピッドの水兵4人の脱走に手をかす、といった多様でユニークな運動を展開する。

 同じころ、「ベトナム問題に関する数学者懇談会(ベト数懇)」が結成される。福富さんや東京大学、九州大学などの数学者がメンバーだった。当時のメンバーによると、フランスの数学者、L・シュワルツがこの年4月に来日し、日本の数学者と懇談。その席で、シュワルツは、米国の数学者のS・スメールが反戦運動を行ったことからカリフォルニア大学バークレイ校の職を追われそうなので、日本でも彼の救援活動を進めてほしいと要請、これを受けて日本でも救援の署名運動を行うことになり、ベト数懇が結成されたという。
 
 5月22日、福富さんは清水谷公園に出かけていった。この日はベ平連の第2回定例デモの日で、清水谷公園はその集合地だった。そこに集まってくる人たちにスメール救援を訴えるためだった。福富さんがベ平連の集会・デモに加わったのはこれが初めてで、以後、福富さんはベ平連の活動にのめりこんでゆく。

 当時新聞社の社会部記者だった私は、1966年から大衆運動の担当になった。ベ平連も取材対象になったので、ベ平連のデモがあれば出かけて行った。
 ベトナム戦争が1973年に終息したのにともない、ベ平連は翌74年1月に解散するが、結成から解散までの間、数え切れないほどのデモをした。1970年は日米安保条約が固定期限(10年)切れを迎える年であったから、条約の自動延長に反対する運動が労組や平和団体によって展開された。ベ平連は「インドシナ反戦と反安保」を掲げて6月から7月にかけ、35日間に及ぶ「毎日デモ」を繰り広げた。

 ベ平連デモの現場に行くと、いつも必ず福富さんの姿をみかけた。ベ平連のデモには常連が多かったが、福富さんのデモ参加回数を上回る人は思いあたらない。
 福富さんといっしょに活動した武藤一羊さん(社会運動家)は、「お別れする会」でこう語った。「デモをやるときは、警視庁と交渉してコースを決めなくてはならない。福富さんはその交渉役だったが、いつも徹底的に粘った。デモにとってできるだけ効果のある道路を確保しようとしていたんですね。警察側もたじたじだった。それに、デモをやっていても、とっさの判断が見事で、しかも、それを直ちに行動に移す人でしたね」
 他団体との共同行動にも熱心だった。

 なぜ、これほどまでに反戦デモに没入したのか。おそらく、若いころの戦争体験が、福富さんを反戦運動に駆り立てていたのではないか、というのが私の推測だ。
 1919年にサハリン(旧樺太)に生まれる。父は薬屋のかたわら製氷業をしていた。東京の旧制高校を経て1942年10月に東京帝国大学数学科を卒業するが、卒業予定は43年春。太平洋戦争の戦況が緊迫してきたため半年も繰り上げ卒業となったのだった。
 卒業と同時に徴兵され、樺太の砲兵隊に配属される。その後、陸軍中央特殊情報部で暗号解読の教育を受け、44年11月にフィリピンに派遣される。まもなく戦況の悪化で45年1月、マニラを脱出し、敗戦は東京で迎えた。
 一番多感な時期に戦争に翻弄されたと言ってよかった。そうした体験が、福富さんの行動の奥に「戦争にはなんとしても反対しなくては」との決意を刻みつけていったのではないか。
 
 それから、デモというものについて福富さんが抱いていた考え方も大きく影響したのではないか、と私は思う。
 福田さんは、デモは人と人とを結びつけるコミュニケーションの手段として極めて有効、という考え方をもっていたようだ。つまり、自分の考えていることを不特定の多数の人々に知らせ、理解してもらうためには、道路を歩きながら、言葉なりプラカードなりで自分の意見を周りの人々に伝えるのが有効だと思っていたようだ。デモの効用を信じていたのだ。

 福富さん唯一の著書である『デモと自由と好奇心と』(第三書館刊、1991年)には、こんな一節がある。
 「政治的意見であれ、社会的要求であれ自由にそれらを表現する権利が人びとにはある。誰もこの権利を使うことを力で押しとどめてはならない。なにかを広くうったえたいとき活字や映像のメディアを利用できる立場のひとは国民全体からみればたいへん少数だ」
 「デモは誰にでもできる。デモによる表現は文章表現より粗く、詳しさ、精密さ、豊かさでは劣る。しかし誰でもが意見の表明に参加し、協力できるところに特色がある」
 「デモは不特定の人びとが見ている。屋内の集会では主題に関心があって入場した人びととむきあうのだが、デモはそうでない人びととも接することができる」
 福富さんといっしょに活動した人の1人は、追悼文の中で「福富さんは左翼の演説やシュプレヒコールの言葉では市民に伝わらないとよく批判し、街頭に出て自らの宣伝術をみがいていた」と述べている。

 「観客民主主義を止めなくては」という思いが福富さんに強かったことも影響していたように私は思う。権力の側は国民を「観客席」に押し込め、国民を管理・支配しようとする。だから、真の民主主義を実現するためには、私たちは「観客」とさせられることから抜け出さなければならぬ。国の主人公となるために、さあ、集会に出よう、デモをしょう。そう考えていたのだろう。
 
 カレーライスをつくるのが趣味だった。ある時、私の自宅にも送られてきた。
福富さんに最後に会ったのは、2011年10 月29日に開かれた「吉川勇一さん・武藤一羊さんの80+80=160歳を祝う会」でだった。吉川さんは元ベ平連事務局長。祝杯の音頭をとったのが福富さんだった。この時の会場が文京区民センターだった。
 
 私は、戦後の反戦市民運動は3人のヒーロー・ヒロインを生んだと考えている。
 まず、1960年の日米安保条約改定阻止運動で、たった2人で「誰デモ入れる声なき声の声の会 皆さんおはいり下さい」という横幕を掲げて安保反対デモを始め、反戦市民グループ「声なき声の会」を創設した画家の小林トミさん。次は、ベトナム戦争中、「アメリカはベトナムから手をひけ」と書いたゼッケンを胸につけ8年余にわたり毎日、自宅から勤務先まで通勤した団体役員の金子徳好さん。そして、福富節男さんである。
 小林、金子さんはすでに故人。福富さんも亡くなったことで、3人の足跡はいまや歴史となった。
2018.04.20 ノンフィクション作家の野添憲治さん逝く
中国人・朝鮮人強制連行の実態解明に挑む

岩垂 弘 (ジャーナリスト)

 戦時下の中国人・朝鮮人強制連行問題を追及してきたノンフィクション作家の野添憲治さん(秋田県能代市)が4月8日に膵臓がんで亡くなった。83歳。同じく九州で朝鮮人強制連行問題を追及してきた記録作家、林えいだいさん(福岡県田川市)も昨年9月に83歳で亡くなっており、私たちは、強制連行問題に関する先達2人を相次いで失ったことになる。まことに残念である。

 野添さんは、秋田県藤琴村(現・藤里町)の生まれ。新制中学を卒業後、山林や土木に関する出稼ぎや国有林の作業員をした後、能代市に移住。大館職業訓練所を修了後、木材業界紙記者、秋田放送ラジオキャスターなどを経て、著述活動に入った。
 最初は、出稼ぎ少年伐採夫や開拓農民らを取材し、その記録を刊行していたが、取材の対象は次第に、戦争中に日本に連行され、労働させられた中国人や朝鮮人の問題に移ってゆく。それは、国民学校(小学校)での経験が忘れられないからだった。

 太平洋戦争が始まった1941年に国民学校に入学したが、5年生の夏のことだ。先生に引率されて村役場へ行った。そこには若い中国人の男性2人が座らせられていた。身体は泥まみれ。野添さんは、仲間と一緒に彼らの顔に砂を投げつけた。その顔はみるみる砂まみれになった。
 それから20年後、野添さんは、彼らが「花岡事件」の中国人労働者であったことを知る。花岡事件とは、大辞林によれば、太平洋戦争下の1945年6月、秋田県大館市の花岡鉱山鹿島組出張所で強制的に働かされていた数百人の中国人が虐待・酷使に抗して集団逃亡を図った事件だ。連れ戻されたが、拷問で113人が死亡したとされる。野添さんが砂を投げた2人の中国人は、鉱山から山を越えて逃げてきた労働者だったのだ。
 「まことに申し訳ないことをした」という贖罪の気持ちが、野添さんを中国人や朝鮮人の強制連行の実態調査に向かわせる。

 取材は難航を極めた。敗戦からかなりの時間がたっていたから、当時のことを語れる関係者(朝鮮人・日本人)は少なく、また、中国人や朝鮮人がいた労働現場の多くはすでに廃墟になっていたからだ。
 そればかりでない。関係者に口を開かせるのは簡単ではなかった。日本人には「加害の歴史」を隠したがる人が多かったからだ。警官や企業の関係者につきまとわれたこともあった。そのうえ、世間では「朝鮮人の強制連行なんてなかった」と主張する人も出始めていた。

 それでも、野添さんはついに、戦時下の労働力不足を補うために日本が中国人と朝鮮人に対して行った強制連行と強制労働の実態を明らかにした作品を完成させる。『シリーズ 花岡事件の人たち 中国人強制連行の記録』第1集~第4集(社会評論社、2007~2008年)、『企業の戦争責任―中国人強制連行の現場から―』(同、2009年)、『遺骨は叫ぶ―朝鮮人強制労働の現場を歩く―』(同、2010年)である。
 これらは、野添さんが9年の歳月をかけてまとめた「現場からの報告」であった。野添さんが訪れたのは、中国人が働いていた事業所が135カ所、朝鮮人が働いていた事業所が37カ所にのぼった。こうした著作により、多数の中国人や朝鮮人が強制的に日本に連行され、鉱山、炭鉱、トンネル工事、ダム工事、発電所工事などで働かされていた事実が具体的に明らかにされた。

 「平和」と「協同」に関する報道に寄与したジャーナリストを顕彰する活動をつづける平和・協同ジャーナリスト基金(PCJF)は、こうした著作を高く評価し、2010年に第16回平和・協同ジャーナリスト基金賞奨励賞を野添さんに贈った。が、贈呈式の日は、秋田県内で強制労働を経験した人を韓国で取材中で参列できず、妻の征子さんが代理で出席した。
 式場で征子さんは野添さんの受賞あいさつを代読したが、そこには、こうあった。
 「27歳から中国人強制連行や朝鮮人強制連行の取材をやってきましたが、初めてお褒めの言葉を、公の場でいただきました。お礼をいたします。この機会に、強制連行のことが1人でも多くの人に知ってもらえたら、うれしいです」
 また、地元記者のインタビューには「過去を知らなければ、現在も未来も創造できない。私にとって証言者は宝です」と答えている。
 
 その後も、いくつかの著作を発表したが、中でも注目されるのは、野添さんが編著者となって刊行された『秋田県の朝鮮人強制連行――52カ所の現場・写真・地図――』(秋田県朝鮮人強制連行真相調査団刊)だろう。

 秋田県朝鮮人強制連行真相調査団は、同県に連れてこられ、働かせられた朝鮮人の実態を明らかにするために1995年に発足した民間団体で、その代表委員・事務局長が野添さんだった。その調査団が20年かけて追跡した実態をまとめたのが本書で、朝鮮人が労働していた事業所が秋田県内に77カ所あったこと、そこに約1万4000人いたことが明らかにされている。労働 中に亡くなった朝鮮人は墓地に埋められたが、名前の分からない無縁仏が多いという。
 調査団は調査と併せて、県内の事業所で労働中に亡くなった朝鮮人を慰霊する活動も続けてきた。事業所跡に慰霊碑を建てたり、そこで慰霊式を催すといった活動だ。

 その会報「秋田県朝鮮人強制連行真相調査団会報」が私のところにも送られてきていたが、2016年2月20日発行の第85号を最後に途絶えていた。「休刊になったのかな」と思っていたが、野添さんの訃報に「おそらく、闘病のために発行できなかったのだろう」と思った。

 面と向かって直接会話を交わしたことはないが、日本青年団協議会が主催する全国青年問題研究集会の分科会の助言者席で同席したことか何回かある。その時は、木訥(ぼくとつ)にして重厚な人という印象だった。その度に、私は「この人は、徹底的に現場にこだわる類い希なルポライターなんだ」と尊敬の念を抱いたものだ。