2019.01.15  安倍政権への不信感強まる
  2019年の年賀状にみる市民意識

岩垂 弘(ジャーナリスト)

 今年も友人、知人から、たくさんの年賀状を受け取った。それらの一枚一枚を手にして強く印象に残ったのは、市民の間で安倍首相とその政権に対する不信感が前年に比べて一段と深まっていることだった。

 私はこれまで毎年、多くの友人、知人と年賀状の交換をしてきたが、これまでの年賀状の文面といえば、「明けましておめでとうございます」とか「初春のお慶びを申し上げます」とか、あるいは「謹賀新年」とか「賀正」といった、いわば新年を言寿ぐ決まり文言や、旧年中の厚誼に対する謝意と自分や家族の近況・消息を伝える文面が大半であった。
 が、ここ数年、世界や日本の政治・社会状況に対する感想、それに自らの政治的主張や決意を表明した年賀状が増えてきたように思う。以前は、年賀状では政治的なことへの発言は控えるというのが一般的な慣習だったが、年賀状でも政治的なことに意見を述べる人が増えてきたということだろう。

 今年は、安倍政権が昨年中に次々と強行した政策に言及した文面が目立った。その強行ぶりは、一部の有権者をして「安倍政権のやりたい放題に腹立たしいことの多い一年でした」(東京都中野区・元生協職員)、「腹の立つことばかり。数え上げるときりがありません」(東京都品川区・元政党書記)と言わしめたほどだった。
 中でも、まず、安倍首相と自民党が、暮れの臨時国会で改憲案を憲法審査会に提示しようとしたことが有権者の反発を招いたようだ。例えば――

 「安倍極右政権は昨年、平和憲法の改悪案を国会に提起できませんでした。……平和を守る日本国民の闘いは今年もたゆみなく続きます。孫子の代にまで平和国家日本を引き継ぎましょうぞ」(東京都練馬区・元新聞記者)
「多くの人びとの幸せといのちを脅かす政治の暴走をなお止められずにいます。しかし、安倍首相が昨年中に何としてもやりたかった改憲発議=9条に自衛隊を書き込み、アメリカの戦争に加担させる=は阻んでいます。そこに希望があります」(東京都杉並区・元労組書記)
 
 そのほかにも、自民党による改憲を拒否する文言が多々あった
 「憲法や民意無視の政治、格差・貧困の拡大など心配事が多いです」(東京都小平市・元生協役員)
 「日本人民の57%が憲法を改める必要なし、と思っているようです」(千葉市・元会社員)
「『戦争のない世界』の実現をひたすら祈念します。安倍政権の憲法いじりは断固反対です」(埼玉県上尾市・元新聞記者)
 「平和憲法の遺伝子組み換えを狙う改憲勢力と四つに組んで戦争への道を封じましょう」(長野県諏訪市・大工)
「安倍改憲。ぜひともSTOP!」(東京都国分寺市・弁護士)
 「民主主義無視、ウソとごまかしのアベ政治を許さない。日本国憲法の正念場です。民主主義の正念場です」(東京都千代田区・出版社代表)
 「九条改憲論外、安全保障は軍事でなく徹底した平和外交で向き合ってほしい」(東京都昭島市・元会社員、元教員)

 安倍政権が、米軍基地建設のために沖縄県名護市の辺野古沿岸部に土砂を投入したことに衝撃を受けた人も多かったようだ。
 「昨年、私が最も強く衝撃を受けたのは安倍政権による沖縄・辺野古への土砂投入です。本土でいえば松島湾を埋め立てて米軍基地をつくるという話です。知事選挙に示された県民の意思は完全に無視されました」(東京都杉並区・男性)
 「旧冬ついに沖縄では本島辺野古浜に米軍新基地建設工事の土砂投入が始まりました。あの美しい海を埋め立て自然を破壊し、沖縄人の自治と民主政を抑圧し戦争体制を築こうとする時勢に対して、些かでも抵抗したいと念願します」山梨市・団体役員)
 「昨年3月、沖縄の普天間や辺野古に出かけ、辺野古の埋め立てに対し、カヌーに乗って抗議する人びとをまのあたりにして強い印象を受けました」(埼玉県所沢市・大学教授)
 「辺野古への土砂投入は、『地方自治への蹂躙』であるとして、地元浦安で同志の人々とともにデモを行いました」(千葉県浦安市・文芸評論家)
 「沖縄の心に寄りそう→踏みにじる/安保法(戦争法)→平和安全法/武器輸出→防衛装備移転/ウミを出し切るという舌先三寸―朝日・素粒子― 腸が煮えくりかえる言葉のごまかし……」(東京都中野区・元区議会議員)
 「周辺諸国との緊張を緩和するために、軍拡は不要、米海兵隊は帰って貰い普天間は閉鎖、辺野古新基地は中止」(東京都昭島市・元会社員、元教員)

 加えて、安倍政権が「防衛計画の大綱」と「中期防衛力整備計画」の閣議決定にあたって大規模な軍拡を打ち出したことも、有権者に憂慮をもたらしたようだ。年賀状にこう書いてきた人がいた。
 「米ロとも使える核兵器を目指しており、1987年のIMF条約(中距離核ミサイル廃棄)さえも、無きものにされかねません。日本でも安倍政権は27兆円もの防衛費をつぎこんで、トランプの危険な軍事政策につき従っています」(広島県府中町・研究者)
 「防衛大綱で歴代政府が憲法違反と判断してきた攻撃型空母の保有に乗り出すなど専守防衛から逸脱するなど、安倍首相の独裁者ぶりが止まりません」(神奈川県伊勢原市・元高校教員)
 「戦争NO! アベ軍拡路線許さじ」(東京都世田谷区・民宿経営)
 
 こうした「安倍政治」に愛想を尽かした人は、ついにこんな声をあげている。
「『アベ政治を許さない』今年もこれを掲げて」(長野県下諏訪町・医師)
「トランプと安倍がひっくり返るまでは死ぬに死ねない!!」(東京都世田谷区・元新聞記者)
 「『安倍政権は終わり』にしたいですね。みんなで力を合わせましょう 」(さいたま市・女性)
2018.12.15 「通信費を節約し、貯蓄で将来に備えたい」
生協組合員の意識調査まとまる

岩垂 弘 (ジャーナリスト)

 第2次安倍内閣が発足してから、今月26日で満6年を迎える。その安倍内閣は発足以来、「アベノミクスでデフレからの脱却を図る」と声高に叫び、首相自身も「5年前に日本を覆っていた重く暗い空気はアベノミクスによって完全に一掃することができた」(今年8月12日の山口県下関市での講演)と、アベノミクスの成果を強調するが、果たして実態はどうなのか。このほど、日本生活協同組合連合会から発表された「2018年度全国生協組合員意識調査」を見ると、アベノミクス下の国民の生活実態は首相のお見立てとはかなりかけ離れたもののようだ。

 日本生協連によれば、現在、地域購買生協の組合員は2187万人で世帯加入率は37%。加入率の高さからみて、生協組合員の生活意識は国民のそれを示していると見ていいだろう。
 
 日本生協連の「全国生協組合員意識調査」は、組合員の、暮らしや購買に関する意識・行動などの実情を明らかにする目的で、1994年から3年おきに実施している。今回の2018年度調査は9回目。
 今回の調査は、日本生協連加盟の地域購買生協のうち組合員数上位30位までの生協の組合員が対象。組合員6000人に調査票を郵送したが、回答を寄せた組合員は3653人で、回収率は61.4%。

 調査項目は多岐にわたるが、その中で、昨年と比べて、商品・サービスの購入に積極的になったかどうかを聞いた。それに対する回答は――
 「どちらかといえば積極的になったと思う」が8・1 %。「ほとんど変化はないと思う」が56・1 %。「どちらかといえば消極的になったと思う」が22・8%。
 消極的になった人にその理由を聞いた。すると、消費増税後の2015年調査では「物価が上がったから」が第1位だったのに対し、今回は「収入が増えない(減った)から」の53・6%が最も多かった。

 調査では、組合員に対し、今後節約したいこと、お金をかけたいことを聞いた。その結果は――「節約したいもの」「やや節約したいもの」の第1位は通信費(51・9%)、第2位は葬儀(36・3%)。
 「お金をかけたいもの」「ややお金をかけたいもの」の第1位は「貯蓄など将来への備え」50・3(%)だった。

 これらの調査結果から浮かび上がってくるのは、異次元の金融緩和政策を軸とするアベノミクスの恩恵を受ける富裕層とは対照的に、アベノミクスにより生活費を節約せざるを得ない上に不安が募る将来に向けて貯蓄に走らざるを得ない一般市民の姿ではなかろうか。

2018.12.10 わが集落の70周年記念集会で話したこと
――八ヶ岳山麓から(271)――

阿部治平(もと高校教師)

私の住む集落は、先日入植70周年の記念式典と宴会を開いた。
私がいるのは長野県の八ヶ岳西麓の山間集落であるが、歴史は短い。敗戦直後の1948(昭和23)年、古くからの集落すなわち親部落の次三男や満蒙開拓団の引揚組18軒ほどが、海抜1200mの共同入会地オオバタケに入植したのが始まりである。

当時のオオバタケはバラの仲間とススキに覆われた石だらけの土地で、高木といえばズミくらいしかなく、ところどころに松の幼木が入り込む荒地であった。ここは親部落にとってはまぐさ場であり、炭焼場であり、カヤ場でもあった。
敗戦後国は植林を進めたから私たち子供も動員され、中学2年生のときにはオオバタケにカラマツを植えに行った。65年後の今日、カラマツは20メートル余りに延び、24号台風ではばたばた倒れて電線を切断し、80数時間の停電を引き起こした。
当時は農業といえば稲作を意味したが、開拓農家には水田がなかったから、食料米は親部落の親兄弟に頼らざるを得なかった。現金収入の道は種ジャガイモやキャベツなどの栽培と酪農であったが、たいして金にならなかった。農閑期にはたいてい出稼ぎをしていた。その後は高原野菜のセロリー・ブロッコリー、それに花卉に特化した農業を行うようになっている。

時代を戻すと、1960年代末には別荘地建設が始まった。三井だのなんだのという開発会社が親集落の土地を買ったり借りたりして開発に励んだ。別荘を建てた人々のかなりの人が退職するとここに居着いてここをついの棲家とした。私も80年代に親部落から分家してオオバタケの住人になった。
バブル経済に入るころにはペンション団地なるものができた。「脱サラ」の人々がこれにとびついたが、バブルの崩壊と運命を共にした。いまも営業しているペンションはあるけれども、これを続けようとする人は少ない。
21世紀に入ると、にわかに県外からの非農家移住者が増えた。2018年のいま、住民登録をしている人は130世帯300人あまりである。だが農家は10軒余りで、集落(行政的には区)に正式加入しているのは70軒のみ。ほかは集落にかかわろうとしない人たちである。
以上が簡単なわが集落の歴史である。


さて70周年式典だが、この日は新旧世代をあわせ100人ほどが集まった。笑い声があちこちで起き、和気あいあいの雰囲気だった。まず93歳の最長老が電気を引いたときの苦労話をし、両親が移住組の中学生がオオバタケを故里とほめたたえ、最近移住した女性が野菜栽培の失敗談をした。
式典の数日前、私にも主催者から「何か面白い話をしてくれ」という依頼があった。私はひそかに喜んだ。というのは、いつか話したいと考えていたことがあったからである。
もともと親部落のものは、共同入会地オオバタケで自由にキノコや薬草を取っていた。お盆が近づくと子供たちは「盆花」を取りにでかけた。この習慣のため、いまでもキノコを採りながら別荘地へ入り込んだり、クロスズメバチを追って他人の玄関先を走り抜けたりするのである。
ところが新築の家が建つたびに、レンゲツツジ、キキョウ、ユリなどはなくなった。サクラソウやザゼンソウの群生地もほとんど消えた。かわってカラマツ林のなかのしゃれた家の周りに「私有地につき立入禁止」「野草やキノコの採取禁止」の看板が立つようになった。なかには川で魚を釣るこどもを「勝手に庭先に入った」と怒る人もいる。
私はこうしたことが不満だったので、これを話そうと思った。だが直接話しては座がしらける。そこで開墾以前のオオバタケの「先住民」センジュウの話をした。

蛇取りセンジュウさは、村に家がなく嫁もおらず、村人からは少し頭が弱いと思われていた。ススキで屋根を葺いた縄文式住居のような小屋に住んでいて、誰かにもらった着物を着てふんごみ(もんぺ)をはき、風呂に入らないから顔は黒くて、着物のえりはあかでぴかぴかしていた。腕にはマムシに噛まれたとき、毒を吸い出した切傷がいくつかあった。
彼はおもにマムシやシマヘビを取ったり、キキョウ・リンドウなどの薬草の根を掘ったりして村人に売り、それで生計を立てていた。子供からは敬称で呼ばれ、「センジュウさの足音を聞くとヘビが逃げる」と信じられていた。センジュウさは頼まれると繭袋に蛇を入れて村に下りてきて注文に応じた。といっても現金とは限らず、シマヘビ1匹米1升といった物々交換が主であった。だが、村人がしょっちゅう蛇を食うわけではなかったから、子供心にもセンジュウさが蛇取りだけでどうやって食っているのか不思議だった。

私たちはマムシは生きたまま焼酎に漬けて、風邪などひいたときの飲薬とし、切傷や打身には塗薬にした。彼はシマヘビの頭を口にくわえ、上手に皮をむいた。村人は、シマヘビは田植や収穫などの疲れたとき薬として食った。皮をむきS字状にして串にさし、これを焼くか、自在鉤の上に刺して燻製にした。八ヶ岳山麓には昆虫食の伝統があったから、私たちはヘビを食うことに抵抗はなかった。私も食べたことがあるが、硬くてそううまいものではない。
子供にとってオオバタケは家から遠いために、親部落から行くのはちょっとした冒険だったから、たいていは集団で出かけた。敗戦直後とはいえ、軍国少年のガキ大将は、年少のものに「ルーズベルトのベルトが切れて、チャーチルチルチール空回り空回り」と歌わせたり、「腹減った兵隊さんがペコペコ跳んでくー」と進軍ラッパを怒鳴らせたりした。

私たちが行くとセンジュウさは喜んで、貴重なクロスズメバチの巣や、アナグマの巣穴の場所を教えてくれた。お盆の花取りに行くとキキョウやオミナエシ、ユリなどのあるところを教えてくれた。私はサルナシやアケビ、マタタビなどのありかもセンジュウさから教わった。
私たちと話すとき、彼は東京のことばを使ったので子供心にも不思議に思った。彼は冬になるとオオバタケからいなくなった。当時はマイナス20℃になる日も普通にあったから掘立小屋ではしのぎ切れず、避寒のために甲州や東京など暖かい地方に行ったのかもしれない。そうだとすれば、そのとき東京言葉をおぼえたに違いない。
中学生のころ、彼の姿がなくなった。だれも彼がいつ死んだか知らない。戸籍がわが村にあったのかも知らない。
私は、「先住民」センジュウの話をここで終りにした。

本当はもう一言いいたかった
蛇取りセンジュウのいた当時はみんな貧しく、やたらに働き、けちけち暮らしていた。どろぼうもいた。しかし、村人は誰が盗んだかわかっても、あからさまには咎めなかった。だからセンジュウのような人でもオオバタケで生きてゆけたのだ。
だから新来の方々も「私有地につき立入禁止」といった看板など立てないでほしい、誰かが自分の家の庭先でキノコを採っていても、おっかない顔で見ないでいただきたいといいたかった。
しかし「先住民」センジュウの話では、私の言いたいことが分かった人はいなかっただろう。これがこの70年間の世の中の移り変わりというものかもしれない。だが、私には悲しい変化である。

2018.11.01  「社会運動情報センター」の設立を
運動を広げ、力強くするために

岩垂 弘 (ジャーナリスト)

 「社会運動の情報センターみたようなものが必要ではないか」。以前からからそう思ってきたが、そうした思いを一層強くする機会が先ごろあった。9月17日(月・祝日)に東京・代々木公園で開かれた「いのちをつなぎ くらしを守れ フクシマと共に 9・17さようなら原発全国集会」での見聞である。

 私は、「さようなら原発全国集会」が代々木公園で開かれるたびに、そこへ出かけてゆく。取材のためだ。
 会場に行くルートも決まっている。JR山手線の原宿駅で降りると、前方に五輪橋が見える。それを右に渡ると、真っ直ぐの歩道が伸びる。それを進み、2つ目の信号のところで道路を渡ると、公園の入り口だ。遠方に野外ステージが見えてくる。集会は野外ステージ前の広場で行われる。

 いつもそうだが、五輪橋の手前あたりから、2つ目の信号までの歩道の両側、それに公園の入り口付近に、チラシや機関紙を抱えた人たちが立っていて、集会会場に向かう人たちをつかまえる。手渡されたチラシや機関紙を受け取る人もおれば、受け取らない人もいる。
 私は、出されたチラシや機関紙をすべて受け取ることにしている。もっとも、今回は左手で手提げ袋を下げていたので、右手のみでそれらを受け取らざるを得なかった。しかも、なにしろおびただしい数なので、右手でつかめきれなかったチラシや機関紙があった。
 家に帰ってそれらを数えてみたら32枚あった。現場で受け取れなかったものがあり、それに私が通ったコースと別な場所でも配っていたから、この日、会場周辺で配られたチラシや機関紙は膨大な数だったろう。

 ところで、私が手にした32枚のチラシや機関紙の内訳は、反原発・脱原発関係11、改憲・安保関連法反対関係5、沖縄・辺野古新基地関係2、三里塚の農地強制収用関係2、共謀罪関係1、武器輸出関係1、731部隊関係1、慰安婦関係1、ベトナム反戦運動関係1、社会主義関連1、冤罪関係1、政治団体・宗教団体の機関紙5。政治団体・宗教団体の機関紙を除けば、大半が集会、講演会、映画の上映会などの開催を知らせるチラシであった。

 とりわけ印象に残ったのは、ほとんどのチラシが、全国レベルの大組織がつくったものでなく、市町村レベル、あるいは地域の小さな団体が作成したものだったことである。これらの団体には宣伝力がない。そこで、「さようなら原発全国集会」には大勢の人がやって来るに違いないと、チラシを抱えて集まってきたのだろう、と私は思った。

 正直言って、私は驚いた。地域にはこんなにも多彩な政治的課題を掲げた小さな運動団体・グループが多数存在していることに、である。その人たちが、自らチラシを配る。その熱意に心打たれた。と同時に、これまで半世紀以上にわたって社会運動(大衆運動)を見てきた私には、以前から気になっていたことが甦ってきたのである。「気になっていたこと」とは、日本の社会運動が1980年代以降、大同団結に向かうよりは、むしろ、細分化への道をたどってきたことだ。
 
 社会運動とは、自立した個人、個人が共通の目標に向かって行動を共にすることである。しかし、その共同行動が少人数にとどまっていては、運動は力を持ち得ない。つまり、多数の人びとが参加する運動になって初めて世論を動かすことができるのだ。それゆえ、個人の自主性を尊重しながらも小異を捨てて大同団結することが社会運動に求められる原則なのだ。その場合、まず、求められるのは、それぞれの組織を解体して新しい組織をつくるという組織的統一ではなく、それぞれの組織を維持しながら、共通の課題で統一行動を推進することだと言ってよいだろう。

 しかるに、1980年代以降続いてきたのは、分裂と細分化であった。これには、1980年代半ばに起きた原水爆禁止運動の再分裂が濃い影を落としている。
 もっとも、近年、安倍政権があまりにも性急に軍事化を進めたため、関係団体間に危機感が高まり、集団的自衛権行使容認の閣議決定、安保関連法、共謀罪に反対する運動や改憲阻止運動では、全国レベルでの団体共闘が成立した。脱原発運動の面でも団体間共闘が行われるようになった。が、草の根レベルでの団体共闘も進んではいるものの、まだ全国化していない。

 だから、32枚のチラシや機関紙を目の前にして、私は改めてこう思ったのである。
 「多種多様な社会運動団体が発する情報を集め、それらを全国に発信することができれば、個々の運動団体が発する情報が多くの市民に届き、多くの市民がそれらの情報を共有することができるはず。そうなれば、各種の運動がもっと拡大し、大きな流れをつくることができるのではないか。そうなれば、政治への影響力も増す」
 「そのためには、各社会運動団体が発する情報を集め、発信するセンターが必要だ。世はインターネット全盛時代。それを駆使すれば、そうカネをかけなくてもセンター設立は可能ではないか。要はインターネット練達の士の協力を得られるかどうかだ」
 センターの名称は「社会運動情報センター」としたらどうか。
2018.10.17  40周年を迎えた読書サークル
    哲学者・古在由重の理念を実践し続けて

岩垂 弘 (ジャーナリスト)
  
 一般市民を会員とする読書サークルが、スタートから40周年を迎えた。どんな活動であっても、中断することことなく、ずっと40年も継続してきたというケースはまれ、と言っていいだろう。こうした長期にわたる活動を可能にした理由には様々な要因が考えられるが、決定的な要因は、この読書サークルの主宰者であった老哲学者の理念がサークル参加者の心を強くとらえ、老哲学者が亡くなった後も、参加者全員がその理念を引き継ぎ、実践してきたからだと思われる。

 9月8日、東京・内幸町の日本記者クラブ会議室で「版の会40周年を祝う集い」と称する会があった。主催は版(ばん)の会。同会の会員、会員OBら20数人が集まった。
   
 版の会とは、真下信一(1906年~1985年) が1977年に東京都内で始めた、一般市民を対象にした読書サークルである。真下は哲学者で、当時は名古屋大学名誉教授、多摩美術大学学長。読書会の会場が東京・四ツ谷駅近くの喫茶店「版」であったところから、サークル名を「版の会」とした。

 ところが、例会を数回行ったところで真下が病気になり、出席できなくなった。その時、真下に頼まれてサークルの主宰者を引き受けたのが、真下の親友の古在由重だった。1978年2月のことである。当時、76歳。
 古在はマルクス主義哲学を確立した哲学者と知られ、戦争中は治安維持法違反で逮捕され、拘禁された。戦後は、東京工業大学講師、専修大学教授、名古屋大学教授を務め、1965年に名古屋大学を定年退官した後は、ベトナム反戦運動や原水爆禁止運動などの大衆運動に積極的に加わった。そのかたわら、若い人たちを集めて「哲学サークル」や「古在ゼミ」を続けるなど、若い人たちを念頭に置いた教育に力を注いだ。
 
 真下から版の会を引き継いだ古在は、版の会を「哲学塾」と呼び、独自のやり方を発揮する。それがどんなものであったかは、版の会8周年を記念して刊行された版の会編の『コーヒータイムの哲学塾』(同時代社、1987年)をひもとくと、よく分かる。古在は同書の「まえがき」を書き、エッセイを寄せているが、それらの中でこう述べている。

 「人生とはなにか? 世間や社会や自然といわれているものはなにか? それらのうちにいきる人間の本質とはなにか? 歴史とはなにか? これらについては、たとえぼんやりしたものであっても、人はなんらかの観念あるいは疑問をもっているにちがいない」
 「人はいかに生くべきか? いまこの時代にあって、なにをなすべきか? はたらく者たちは、どんな階級的な哲学を身につけるべきか?」
 「この『哲学塾』はそのような展望のもとに成立した三〇人ほどの集まりにほかならない、しかもそれはコーヒーをのみながらの気楽な勉強会である」(以上、「まえがき」から)

 「喫茶店のあつまりでは、毎回なにかの古典をテクストとして、これを中心にみんなで話題をすすめてゆく。もちろん、わたし自身がしゃべる時間がながくなるけれど、なるべく参加者たちが意見や感想をのべる時間をのこしておく。(テクストを)えらぶのは参加者たちの運営にあたる人たちであり、それらのテクストはわたしの話のなかにでてきたもの、またはいま世間の話題になっているものがおおい」
 「『塾』の参加者は二〇人か三〇人にかぎることにしている」(以上、エッセイから) 

 当時の参加者によると、塾は月1回。塾の参加者は10代から70代までで、職業は中・高校生、大学生、サラリーマン、主婦、教員などだったという。『コーヒータイムの哲学塾』の巻末には、哲学塾で取り上げたテキスト一覧が掲載されているが、そこには、E・ノーマン、中江兆民、幸徳秋水、宮本百合子、福沢諭吉、カント、ルソー、トルストイ、ベルグソン、芥川龍之介、石川啄木、戸坂潤、丸山真男、三木清、加藤周一、小林多喜二、マルクス、エンゲルスらの作品が並ぶ。

 古在の、こうした哲学塾に対する理念と運営方針は、塾参加者たちの心をつかみ、塾参加者に受け入れられた。そして、塾参加者たちの間では、古在に対する信奉が高まった。とともに、塾参加者たちの読書熱は高まり、同時に人生や社会、世界や政治に対する考察も深まった。『コーヒータイムの哲学塾』には、塾参加者たちが、塾で取り上げた作品中の心に残った言葉をいくつか挙げ、それに対する感想やコメントを記しているが、それを読むと、それぞれが、読書という行為から何を学び、何を得たかが分かって興味深い。   
 ところが、古在は1990年3月に死去する。88歳だった。古在は12年間にわたって、版の会の主宰者を務めたことになる。
 これを機に「古在さんがいない読書会なんて意味がない」と、版の会を去った人も少なくなかった。が、残りの会員は会の続行を決め、以後、古在のやり方を踏襲しながら、例会を1度も中断することなく、ずっと続けてきた。会場は喫茶店が閉店したのであちこち転々としたが、昨年秋からは、東京・大塚の生協東京高齢協の会議室を借りている。
 現在の会員(参加者) は十数人である。テキストは、古典を取り上げることはまれで、憲法、経済、エネルギー、環境、国際、現代史などの分野のタイムリーな課題に迫った著書を取り上げることが多い。

 「版の会40周年を祝う集い」では、出席者全員が「版の会と私」というテーマでスピーチをした。
 ある男性OB会員は「当時、高校の教員をやっていたので、版の会で得た知識がとても役に立った。ベルグソンというフランスの哲学者を知ったのも版の会だった。それまでは、全く知らない人物だったから、すごく新鮮だった」と語った。
 女性のOB会員は「古在先生には実に多くのことを教えていただいたが、一番印象に残っているのは、先生が『民主主義とは、いちばん分かりやすく簡潔に言えば、人をばかにしないことだ』とおっしやったことです。この言葉は忘れられません」と話した。
 現役の女性会員も「古在さんには、世相の見方を教えてもらった」と語った。
 古在死去の後に会員になった元教員の女性は、こう話した。
 「会にはいろいろな考え方の人がいて、とても勉強になる。テキストにいろいろな本が取り上げられるので、それを読むと自身の人間の幅が広がるような気がする」

 世は、電子メディア全盛で、活字文化は衰退する一方だ。が、息の長い「版の会」の活動は、やりようによってはまだまだ活字文化も捨てたものではないと感じさせてくれるというものだ。

2018.09.24  イデオロギーよりアイデンティティだ
    韓国通信NO571

小原 紘 (個人新聞「韓国通信」発行人)

翁長氏急逝に伴う沖縄県知事選は氏の遺志を受け継ぐ玉城デニー氏と佐喜眞淳氏による事実上の一騎打ちとなった。
翁長氏が辺野古基地に反対し続けた理由は基地を当然のように押し付け、基地公害を放置する政府に対する怒りからだった。かつて「捨て石」にされた沖縄が本土復帰後も戦前と同様に差別され続けてきたことへの怒り。彼はすべてのウチナンチュー(琉球人)にこの不条理を訴え続けた。「オール沖縄」の主張は保守政治家の翁長氏だから強い説得力を持ちえた。

翁長氏の「イデオロギーよりアイデンティティ」という訴えは、貶められている差別にかかわらず、沖縄が不毛な議論を続けることへの危機感から生まれた。
 かつて私が勤めた職場は「差別のデパート」と言われた銀行だった。仕事は二の次にして、会社は労働組合と組合員いじめに狂奔した。結果、金融再編の荒波に呑みこまれ、職場は藻屑と消えた。差別される側もする側も不幸になることを身に染みて学んだ。
今年の6月23日沖縄慰霊の日、翁長知事は朝鮮半島非核化に触れて、基地政策の変更を求めた。国際情勢の変化にもかかわらず、アメリカ従属のイデオロギーにしがみ続けるわが国の姿から、かつて私の職場が消えたのと同じ危うさを感じる。

イデオロギーよりアイデンティティ(その2)
福島原発事故で私たちは多くのことを学んだ。避難地区を次々に解除して高濃度の放射能汚染地区に帰郷を勧め、戻らない人たちを「自主避難者」として支援から切り捨てる。責任逃れとオリンピックのための「偽装」がますます露骨になっている。これを容認するイデオロギーはありえない。

17日、東京・代々木公園で開かれた「さよなら原発」集会の参加者は少なかった<主催者発表8千人>。再稼働運転中の原発は既に9基(内2基は点検中)、再稼働申請中は東海第二を含めて17基という事態をどう考えたらいいのか。
原発ゼロ・脱原発の可能性として原自連(原発ゼロ・自然エネルギー推進連盟)の運動に注目したい。小泉元首相が実質の言い出しっぺである。彼は大学の恩師、故加藤寛氏の「遺言」で「開眼」、脱原発論者になった。都知事選で脱原発を掲げた細川元首相を担いで惨敗したことは記憶に新しいが、その後も脱原発の講演行脚を続け、脱原発には「右も左もない」と愛国的心情を吐露しながら独自の運動をすすめてきた。その活動が中核となり昨年結成された原自連には既存の多くの団体・個人が参加し、今や脱原発運動の中心になりつつある。原自連の「原発ゼロ」の主張は立憲民主、共産党、社民、自由各党に支持され、今年「原発ゼロ基本法案」が国会に提出された。

なかでも原自連の会長に就任した前城南信金理事長の吉原毅氏の活動は目を見張るものがある。講演活動を中心とする小泉氏とは対照的に市民運動との連携、反原発の集会に欠かせない存在となった。とかく「反体制」「左翼」と見られがちな反原発運動に「脱イデオロギー」、「右も左もない」立場から有言実行する姿はこれまでにない運動の可能性を感じさせる。11日の経産省前の抗議集会)、15日の我孫子の講演会、17日の「さよなら原発」集会と一週間のうちに彼の話を3回も聞く機会を得た。

講演会に参加した高校生たち
15日、我孫子市の市民団体が主催した吉原氏の講演会に約120名の聴衆が集まった。金融マンがあれほど「おしゃべり」なのは意外だった。そういう私に「あなたも相当おしゃべり」と言われてしまった。確かに預金を集め、融資する仕事は口が達者でなければできない。私は社長にならなかったが。
2時間に及んだ講演会は、自然エネルギーが経済的にも安全性からも断然有利なことを中心にわかりやすく、とても好評だった。
主催者を喜ばせたのは当日参加した三人の高校生たちが感想を寄せてきたこと。全文を紹介できないのが残念だが、あらましを紹介したい。


「これまで、原発について深く考えたことはなかったが、話がスッと頭に入ってきてとても楽しく学ぶことができました」「『原発問題に右も左もない』という吉原先生の言葉を強く受け止めました」
「東日本大震災の原発は不幸中の幸いで何とか日本壊滅を免れたことを聞いて、今度こんなことが起きたら間違いなく日本は壊滅してしまうのに、国で働いている大人たちが対策を練ろうとしないのだろうか、原発をやめようとしないのかと思いました」
「お堅いイメージがあるように見えたのですが、とてもわかりやすくまとめられていて経済や歴史など幅広く触れながらテンポよく話してくれるので気軽に参加しやすいし、話の幅も広く、様々な考えを聞けて飽きない時間でした。


素直で素晴らしい感想だ。吉原氏の話が高校生たちの胸にしっかり届いたようだ。

「とめよう!東海第二原発首都圏連合会」が取り組んでいる自治体への請願活動が急速な広がりを見せている。この活動が注目されるのは、地域の地道な署名活動によって改めて原発への関心を呼び起こしている点だ。草の根運動によってすそ野が広がり新たな展望を拓きつつある。<次回号へ続く>
2018.09.18 「首都圏を壊滅させる東海第二原発の再稼働を許すな」
  さようなら原発全国集会が気勢

岩垂 弘(ジャーナリスト)

 「首都圏を壊滅させる東海第二原発の再稼働を許すな」。9月17日(月・休日) 午後、東京の代々木公園で「いのちをつなぎ くらしを守れ フクシマと共に 9・17さようなら原発全国集会」が開かれたが、日本原子力発電の東海第二原子力発電所(茨城県東海村、出力110万キロワット) の再稼働に対する国の原子力規制委員会の判断がこの11月に出ると予想されるところから、集会で登壇した各界代表は口をそろえて「再稼働反対」を唱え、原発の再稼働と輸出を推進する安倍政権の打倒を訴えた。

 集会を主催したのは、内橋克人(経済評論家)、大江健三郎(作家)、落合恵子(作家)、鎌田慧(ルポライター)、坂本龍一(音楽家)、澤地久枝(作家)、瀬戸内寂聴(作家)の各氏ら9人の呼びかけでつくられた「さようなら原発一千万署名市民の会」。
 市民の会は毎年、3月と9月に脱原発を目指す全国集会を東京で開いているが、今年の9月集会には三連休中にもかかわらず、北海道と沖縄を含む全国各地から、労組員、護憲団体関係者、生協組合員ら約8000人(主催者発表)が集まった。
  20180917IMG1.jpg
                会場を埋めた参加者

  20180917IMG2.jpg
              会場に林立する組合旗やのぼり

 午後1時半から始まった集会で最初に登壇した鎌田氏は、まず「原発はイヤだという声が日本中に広がりつつある。しかも、東京電力福島第一原発事故で避難した人たちは、元の生活に戻ることができず、逆に追い詰められている。なのに、電力会社と安倍政権はさらに原発を推進しようとしている」と切り出し、こう続けた。
 「東海第二原発は東京から110キロのところにある首都圏唯一の原発だ。人口が過密の首都圏に原発をつくらせてしまったのは、我々の運動が弱かったためだ。原発の運転期間は30年と言われてきたが、東海第二原発はこの11月で稼働開始から40年を迎える。なのに、原子力規制委はさらに20年の運転を認めようとしている。人道的にも道徳的にも許されることではない。人を犠牲にして金儲けをしようという原発の稼働はもうやめるべきだ」

 次いで登壇した澤地さんは「福島のことは何も解決していない。にもかかわらず、政府は福島の人たちを切り捨てた。そして、原発を再稼働させ、原発を外国へ輸出しようとしている。日本はお金が支配するいやな国になってしまった。原発問題にそのことが一番よく表れている。私たちは原発を絶対に認めないということをここで再確認しましょう」と訴えた。

 東海第二原発訴訟原告団の大石光伸氏は「東海第二原発は、ここから110キロしか離れていない。そして、その30キロ圏には96万人が住んでいる。そればかりでない。首都圏には3000万人が暮らしている。もし、事故が起きれば、首都圏はとんでもないことになる。再稼働は国にとってもリスクが高いはずだ」「なのに、原子力規制委は、東海第二原発を突破口にして、40年を過ぎた原発をさらに20年間次々と再稼働させようとしている。そうであれば、我々としては、東海第二原発の再稼働を阻止し、これを突破口に原発の全廃を実現しようではないか」と話した。

 「戦争させない9条壊すな!総がかり行動実行委員会」の福山真劫・共同代表は、安倍政権が行っている政策で許せないものが3つあると指摘、第1に憲法改悪を進めていること、第2に沖縄の辺野古に新しい米軍基地の建設を進めていること、第3に米朝首脳会談を機に東アジアに平和を確立させる機運が高まっているのに北朝鮮の脅威ばかりを強調していること、を挙げ、「私たちの力で安倍内閣を打倒しよう」と呼びかけた。
  
         20180917IMG3.jpg
             大きなプラカードを持った参加者

          20180917IMG4sml450.jpg
         沖縄の辺野古新基地建設に反対するプラカードも

2018.09.13   後藤新平の自治三訣に感銘
   「人の世話をせよ、そして、むくいを求めるな」

岩垂 弘(ジャーナリスト)

 「LGBT(性的少数者)は子どもをつくらない、つまり生産性がない」。自民党議員による暴言、失言が後を絶たない。全部の議員とは言わないが、国会議員の質的な劣化が進んでいるように思えてならない。そんなことを考えていたら、明治・大正期の政治家、後藤新平の言葉に出合って感銘を受けた。戦前には、こんな政治家もいたんだな、と改めて思い知らされた。

 7月末に藤原書店から内山章子著『看取りの人生――後藤新平の「自治三訣」を生きて』が刊行された。
 著者の内山章子(うちやま・あやこ)さんは、当年90歳。民法学者で法政大学教授、札幌大学学長などを歴任し2002年に亡くなった内山尚三氏の夫人だが、明治・大正期の政治家であった後藤新平(1857~1929年)の孫である。

 朝日新聞社編の『日本歴史人物辞典』によれば、後藤新平は岩手県水沢市の出身。医学で身を立て、内務省衛生局に勤務するが、その後、台湾総督府民政長官、貴族院勅撰議員、南満州鉄道初代総裁、外務大臣、東京市長、内務大臣などを歴任する。「大風呂敷」とあだ名されるほどアイデア溢れる施策で新分野の開拓に貢献。政治家としては本流からはずれた政界の惑星的存在であったが、大隈重信と並び国民に訴えかける政治家として人気を持っていたという。

 後藤の長女・愛子と衆院議員・著述家の鶴見祐輔(戦後、第1次鳩山内閣の厚生大臣に就任)が結婚したのが1911年(大正元年)で、2男・2女が生まれる。長女が後の社会学者・上智大学名誉教授の鶴見和子、長男が後の哲学者・評論家の鶴見俊輔、次女が章子さんだった。
 
 章子さんによれば、これまでの人生の大半は、高齢になってから病に倒れ、長期の療養生活を余儀なくされた母・愛子、父・祐輔、姉・和子の看護に費やされた日々だったという。このため、大学進学の夢を絶たれた章子さんは、和子を看護中の2004年に大学入学資格検定試験に挑戦、合格すると京都造形芸術大学を受験し入学する。そこを8年かけて卒業する。その時、84歳になっていた。
 
 『看取りの人生――後藤新平の「自治三訣」を生きて』は、60余年にわたって両親、姉を看護し、看取った経験を書きつづった記録である。日本における希有な一族の歴史を、その1員、いわば「黒子」として内側から見続けてきた回想録だけに、まことに興味深い。

 本書の中でとりわけ印象に残ったのは、章子さんが母からことあるごとにたたき込まれたという「後藤新平の自治三訣」である。
 章子さんによれば、それは「人のお世話にならぬよう 人のお世話をするよう そしてむくいを求めぬよう」というものだったという。これは、人間は自立して生きよ、社会奉仕をせよ、その際、報いを求めるなということだろう。おそらく、後藤の日常生活でのモットーであり、座右の銘であったと思われる。
 私がこの言葉に感銘したのは、今日の日本人に自立意識が乏しく、あまりにも「大勢順応」の気風が強い上に、今の日本社会を支配しているのが『今だけ カネだけ 自分だけ』という刹那的な私益追求第一主義の風潮だからである。

 私は、後藤新平という政治家がいたことは知っていた。が、どんな人物なのか、どんなことをしたのか知らなかった。これまで耳にしたことと言えば、東京市長として関東大震災後の東京の復興に尽力したということぐらいだった。これを機に彼について勉強してみたい、と思うこのごろである。
2018.09.08 東海第二原発は廃炉にするしかない!~水戸集会に参加して~
   韓国通信NO570

小原 紘(個人新聞「韓国通信」発行人)

9月1日、茨城県水戸市で開かれた、東海第二原発(茨城県東海村)の再稼働に反対する集会には同県県民を中心に近県から約千人が参加、会場は終始熱気で溢れた。
主催者を代表して挨拶に立った小川仙月さんは、原発と関わりある地域として、原発が立地する「立地地元」、原発によって被害を受ける「被害地元」、原発でつくられた電力を消費する「消費地元」を挙げた。集会にはこの三つの地元を代表する人たちが集まった。原発から45キロの栃木県益子町から多数の人たちが集会に駆けつけたことが報告された。

◇「原子力明るい未来のエネルギー」は福島県双葉町に設置されていた標語である。立地地元の双葉町は経済的に潤ったが、明るい未来はなかった。少年時代にその標語を作った大沼雄二さんは「騙されていた」と集会の壇上で怒りの声を震わせた。
◇桜井前福島県南相馬市長は津波と原発事故で孤立した南相馬が、政府とマスコミによって切り棄てられたと、被害地元となった当時を振り返った。宇宙飛行士は南相馬の子どもたちに「宇宙から見た都会は光り輝いていたが、南相馬周辺は暗かった」と語った。消費地元の東京を福島が支えてきた理不尽さ。「トリチウムを放出するなら、いっそのこと東京湾に放出しろ!」と、桜井前市長は被害地元の怒りを露わにした。
私は以前取材したことのある井戸川前双葉町長を思いだした。彼は政府の責任をトコトン追及して辞任に追いこまれた。桜井氏も前回選挙で落選。二人に共通するのは、正論を述べたために「潰された」ことだ。
◇原中勝征元日本医師会会長(元茨城県医師会会長)は子どもの甲状腺ガンが他県に比べて70倍も多い福島の実態に触れ、「因果関係はない」という政府の無責任ぶりを指摘した。
◇常陸農協の秋山組合長は「農民は保守的と言われるが、首都圏に食糧を供給する立場から原発の再稼働に反対するのは農業者として当然」と言い切った。
◇原自連(原発ゼロ・自然エネルギー推進連盟)の河合弘之弁護士は「今、国が亡びるかどうかの瀬戸際に立っている」と述べ、「万が一にも事故はあってはならない」「最も危険な東海第二は首都圏を壊滅させる」と警告した。
◇立地地元の村上・元東海村村長は原子力研究所誘致の顛末、軟弱地盤に原発を含め原子力関連施設が続々と建設され、東海村と茨城県が日本でも最も危険な地域になったことを紹介、国に騙されてきた無念を語った。
この他、東海村で福祉法人を経営している伏屋淑子さん、中島栄美浦村長、茨城県生協連会長の佐藤洋一さんらの挨拶は2時間に及び、集会参加者に感銘と勇気を与えた。

当日の模様は下記ユーチューブで見ることができる。
https://www.youtube.com/watch?v=BJ-o53wlPAM
 小川仙月さんが挙げた三つの「地元」は、地域によって異なる原発との関わりを表現したものだが、このような「区分け」に異議を唱えたい。多額の助成金が落ちる「立地地元」、30キロ圏内は避難が必要という「被害地元」、電力の受益者である「消費地元」という区分けは、福島第一原発事故が明らかにしたそれぞれの地域の実態を明らかにはしたが、将来のことを考えるとこうした区分はあまり意味はない。東海第二原発を例にとるなら、事故が起きたら、関東・中部・東北のすべてが「被害地元」になるのは明らかだ。
原発の立地自治体に対して「命より金」を選んだなどと非難しても始まらない。同じように、地方の犠牲で都会が繁栄しているという見方も捨てた方がいい。
デモ行進中、二人の茨城県の人と話した。彼らは一様に県民の「保守性」を嘆き、他県の「無関心」に展望を失っているように感じられた。千葉から参加した私に「ごくろうさま」と言う必要はない。茨城県だけが「地元」ではない。首都圏すべてが「地元」という理解が必要だ。それは国内すべての原発についても言える。
土曜日の午後、千人を超すデモは水戸っ子たちを驚かせた。11月の再稼働期限まであとわずか。30キロ圏内の五市一村の同意がなければ再稼働できないところまで市民は追いつめた。周辺自治体の反対決議が相つぎ、東海第二原発は市民たちによって包囲された。

      20180906小原紘


<我孫子の朝鮮人虐殺事件の続き>
前回、関東大震災時に千葉県我孫子で遭難した朝鮮人のことを紹介したら反響があった。「知らなかった」と衝撃を語ってくれた我孫子市民祖母から聞いて知っていた人。事実を記録として残した『我孫子市史』を評価する感想もあった。市の歴史編纂に関わっている方からは「関係者の縁者が現存しているため」「事実関係のみを記述することになった」と市史編纂の苦労を聞くことができた。
自分の町の恥ずかしい事件を「通信」で取り上げたのは、知らなかった事実を知った衝撃を伝えたかったからだ。「通信」には書かなかったが、「市史」を読みながら関東一帯で繰り広げられた「朝鮮人狩り」全体を思い浮かべた。
何故、市民たちがあのような集団殺人に走ったのか。時代背景とそこから生まれた時代の空気のなかで、「自分だったらどうしただろうか」と自問した。歴史は自分と無関係ではない。客観性と科学性が求められるのは当然だが、現在と自分とのつながりの中で歴史を考える。単純に過去を称賛、断罪してすむことではない。

9月3日、我孫子駅頭でのスタンディングを終えた仲間と事件現場の八坂神社に立ち寄り、我孫子で虐殺された朝鮮人の慰霊をした。95年前の3日に事件は起きた。
私には狭い境内から悲鳴と喧騒が聞こえたように感じられた。
2018.08.30 東海第二原発の再稼働を許すな
脱原発団体が取り組み強化へ

岩垂 弘 (ジャーナリスト)

 首都圏にある唯一の原子力発電所である日本原子力発電の東海第二原子力発電所(茨城県東海村) が再稼働するかどうかが決まる時期(今年11月) が迫ってきた。このため、再稼働に反対する脱原発団体は危機感を深め、9月1日から連続して反対集会を開く。

 東海第二原発は沸騰水型で出力110万キロワット。ここでつくられた電力は東京電力、東北電力を通じて関東、東北に供給されてきた。ところが、2011年3月の東日本大震災で外部電源を喪失し、津波の影響で非常発電機3台のうち1台が停止するなどの被害を受けた。このため、運転を停止し、それが現在も続いている。

 日本原電は同原発を再稼働させるため国の原子力規制委員会へ再稼働を申請していたが、規制委は去る7月4日、同社が提出していた安全対策の基本方針が、東日本大震災後の新しい規制基準を満たしていると認めた。

 日本の原発は、元々30年運転を前提に設計されたといわれる。が、運転期間についての明確な規定がなく、いわば、制限がなかった。だが、東日本大震災に伴う東京電力福島第一原発の事故後、原子炉等規制法が改正され、原発の運転期間は40年となった。ただし、安全対策が新しい規制基準をクリアーすれば、20年に限って、運転延長が認められることになった。

 東海第二原発の運転開始は1978年11月28日。したがって、今年11月27日で40年を迎えることになる。日本原電はその再稼働を実現するため、運転の延長を規制委に申請しており、これが認められれば、20年間の再稼働が可能になる。
 安倍政権は原発の再稼働の推進に躍起で、規制委も同原発の延長運転を認めるのではないか、との危機感が脱原発運動関係者の間に高まっている。

 脱原発団体によれば、東海第二原発は稼働40年を目前としたオンボロ老朽炉で、そのうえ東日本大震災で被災した危険な原発だという。だから、安全性に強い不安があるというのだ。
 それと、周囲に多数の人々が居住している点も不安材料だという。「東京の端までたった100キロしかなく、しかも周囲に人口が密集している。30キロ圏内に96万人が住んでおり、いったん事故が起きれば大変なことになる。首都壊滅も考えられる。東海第二原発は絶対に再稼働させてはいけない」と、脱原発運動関係者は口をそろえる。

 そして、脱原発運動関係者が懸念しているのは、東海第二原発の20年延長運転が認められれば、今後、運転期間40年を過ぎた古い原発が次々と再稼働するのではないかということだ。なぜなら、もし、東海第二原発の年延長運転が認められれば、それは、運転期間40年を過ぎた古い原発では初めてのケースとなるからである。

 脱原発団体の今後の取り組みの一部を紹介しよう。
 まず、9月1日(土)午後1時30分から、水戸市の駿優教育会館8階音楽ホールで「東海第二原発再稼働STOP!!茨城県大集会」が開かれる。大集会実行委員会の主催。だれでも参加できる。桜井勝延・前南相馬市長、河合弘之弁護士(脱原発全国弁護団)らのあいさつが予定されており、午後3時30分からデモ行進。

 9月15日(土)午後2時から、千葉県我孫子市の、けやきプラザ9F(我孫子南近隣センター)ホールで、吉原毅さん(城南信用金庫顧問、原発ゼロ・自然エネルギー推進連盟会長)の講演会がある。演題は「原発を即時ゼロにすれば日本経済は大発展する」。主催は「さようなら原発」あびこ。協力券500円。 

 9月17日(月・休日) には、「さようなら原発」一千万署名市民の会が東京・代々木公園で「いのちをつなぎ くらしを守れ フクシマと共に 9・17さようなら原発全国集会」を開く。午後0時30分開会、午後3時10分にデモ行進出発。

 そして、10月20日(土)午後6時30分から、とめよう! 東海第二原発首都圏連絡会が東京・神田の日本教育会館3階ホールで「東海第二原発運転延長STOP!《首都圏大集会》」を開く。ルポライター・鎌田慧、吉原毅、前東海村村長・村上達也さんらの講演、夫婦漫才コンビのおしどりマコ・ケンさんの出演が予定されている。参加費は500円。