2017.03.29 今こそ知ってほしいアラゴンの詩
4月から教員や学生となる方へ

岩垂 弘 (ジャーナリスト)

 4月は門出の季節だ。中には、4月から初めて教壇に立つ人や、初めて大学の門をくぐる人もいるだろう。私は、その人たちの新しい門出を祝って、フランスの詩人、ルイ・アラゴン(1897―1982年)の詩の一節を贈りたいと思う。この1年、この国の教育現場は荒廃しているのではと思わせる出来事や不祥事があまりにも多かったからである。

 ルイ・アラゴンは詩人であるとともに小説家でもあった。
 1914年に勃発した第1次世界大戦に従軍後、シュールレアリスム運動に加わり、その主要メンバーとなる。1927年にフランス共産党に入党。ソ連の詩人・マヤコフスキーの義妹エルザ・トリオレとの出会いを機に社会主義リアリズムに基づく小説を発表するようになる。1939年に始まった第2次世界大戦中は対独レジスタンス運動に身を投じ、レジスタンスを主題とする詩を発表し、フランス国民に広く愛しょうされた。大戦後はフランス共産党中央委員として活動するとともに多くの詩や小説を執筆した。
 
 私がこの詩人の存在を知ったのは、今から約60年前の1950年代のことだ。早稲田大学に入って出会った先輩から「フランスにこんな詩人がいるぞ」と教えられたのが、ルイ・アラゴンであった。
 当時、同大学では学生運動が盛んで、その先輩も学生運動に熱心だった。私は、その先輩との付き合いを通じて、そのころ、同大学の学生運動活動家の間でアラゴンの詩が熱烈に読まれていたことを知った。詩そのものに感動しての愛しょうだったのか、それとも、アラゴンが困難な状況の中で知識人として対独レジスタンス運動に加わったことへの敬意を込めた愛しょうであったのか、私には分からなかった。今では、おそらく、その両面からの傾倒だったのだろうと思う。

 先輩たちが、最も愛しょうしていたアラゴンの詩は、彼の代表作の一つとされる「ストラスブール大学の歌」の一節だった。
 この詩は、1945年に刊行された彼の詩集『フランスの起床ラッパ』に収められていた詩で、第2次世界大戦中、ナチス・ドイツ軍によって教授や学生たちが銃殺されたストラスブール大学の悲劇をうたった詩だ。先輩たちが愛しょうしていたその中の一節とは、次のようなものだった。
 「教えるとは 希望を語ること/学ぶとは 誠実を胸にきざむこと」(大島博光訳)
 
 この一節に初めて接したときの深い感動は、いまでも鮮やかに覚えている。その時、私の心をゆさぶった感慨は「この一節ほど教育・学問の真の意味を言い当てた字句はないのではないか」というものだった。そして、こう思ったものだ。「よし、大学に在学中は誠実を胸に刻もう。そして、将来、教壇に立つようなことがあったら、希望を語るよう努力しよう」と。それからは、「ルイ・アラゴン」という名前を耳にしたり、活字に出合ったりするたびに、思わずこの一節を口ずさんだものだ。 

 しかし、大学卒業後、私は新聞記者の道を選んだため、「アラゴン」は次第に遠いものとなっていった。思い出すこともなくなった。ところが、昨年、ひょんなことから「アラゴン」が私に甦ってきたのである。

 昨年11月18日夜、東京の日比谷コンベンションホールでドキュメンタリー映画『まなぶ 通信制中学 60年の空白を越えて』の有料試写会があった。映像ディレクターの太田直子さんが、さまざまな事情で中学を卒業できなかった高齢者が東京都千代田区立神田一橋中学校の通信教育課程で学ぶ姿を、5年かけて記録した映画だった。
 試写会後、会場でシンポジウムがあり、舞台に座っていた講師の1人の見城慶和さん(元夜間中学校教師・山田洋次監督の映画『学校』の主人公のモデル)が発言した。見城さんは「通信制の中学校があるということは知っていたが、そこで、どのような人たちが、どのように学んでいるかというようなことは全く知らなかった。この映画との出合いは感動の一言につきる」と語り、さらに、「学ぶことの意義」に言及して、こう述べたのである。「フランスの詩人、ルイ・アラゴンは言った。『教えるとは希望を語ること 学ぶとは誠実を胸にきざむこと』だ、と」

 その瞬間、観客席にいた私の胸に、大学時代に口ずさんだアラゴンの「ストラスブール大学の歌」の一節が甦ってきたのである。私は、60余年前にこの一節に出合った時の興奮を思い起こしながら帰途についた。
 
 教育活動の経験豊かな見城さんの発言を聴いて、私は、アラゴンの詩の一節ほど教育・学問の真の意味を言い当てた字句はないという自分の思いに自信を深めた。加えて、その後、まことに偶然なのだが、そうした自信をいっそう深めることになる。というのは、私が加わっている読書会の今年2月の例会のテキストが、堀尾輝久著『教育入門』(岩波新書、1989年刊)で、同書の末尾が、なんと次のような文章で結ばれていたからである。
 「フランスの詩人ルイ・アラゴンの詩に『教えるとは希望を語ること、学ぶとは誠実を胸にきざむこと』という一節があります。私たちの望む教育は、こうありたいものだと願うのです」

 こうしたことがあって、私は、自分の思いを教育関係の人たちに伝えたくなった。なぜなら、昨年来、教育現場で教員や学生の不祥事が多発していたからである。

 新聞を見ていると、教員の不祥事には、飲酒運転、わいせつ行為、体罰、暴言、情報漏えいなどといったものが多かった。
 そればかりでない。「教育現場でこんなことが」と驚いてしまうニュースに出合うことも少なくなかった。例えば、昨年11月には、東電福島第1原発の事故で福島県から横浜市に自主避難した小学生が、同級生から名前に「菌」をつけて呼ばれたり、「賠償金があるだろう」と金銭を要求されるなどのいじめを受け、不登校になったにもかかわらず、担任教師や校長がこうした事態を放置していたと報じられた。また、昨年暮れには、やはり原発事故で福島県から新潟市へ避難している小学生が、同級生や担任の教諭から名前に「菌」をつけて呼ばれ、学校を休んでいる、との報道があった。
 
 もちろん、大部分の先生は日々、身を粉にして真摯に教育に取り組んでおり、不祥事を起こす先生はごく一部に違いない。が、こうした報道に接するたびに「それにしても多すぎはしないか。なぜだろう」と考え込んでしまった。

 学生諸君についても、びっくりさせられたことがあった。その一つが、有名大学の学生による不祥事である。
 昨年5月には、東大生5人が、女子大生への強制わいせつ容疑で逮捕された。同年9月には、慶応大学が広告学研究会の学生4人を無期停学、または譴責(けんせき)処分とした。処分の理由は、研究会が借用していた合宿所で、未成年飲酒や性行為など「気品を損ねる行為をした」というものだった。さらに、同年11月には、千葉大学医学部5年生3人が、集団強姦致傷の容疑で逮捕された。
 こうした事件が連続的に報道されると、「学園はどうなっているんだろう」と思わずにはいられなかった。

 4月から教壇で子どもたちと向き合う人や、学園で勉強を始める人に伝えたい。「教えるとは 希望を語ること/学ぶとは 誠実を胸にきざむこと」とうたった詩人がいたことをぜひ知ってほしい、と。  

2017.03.21   「森友学園問題」や「共謀罪」にも怒りの声
    東京で「さようなら原発全国集会」

岩垂 弘 (ジャーナリスト)


 東京電力福島第1原子力発電所の事故から6年経ったのを機に、「いのちを守れ! フクシマを忘れない さようなら原発全国集会」と題する集会が3月20日午前11時から、東京の代々木公園で開かれた。国会で、国有地が不当に安い価格で森友学園に払い下げられた問題や、犯罪を計画段階で処罰する「共謀罪」の制定などが論議されている折りから、集会では「森友学園問題」の徹底的な解明を求める声や、「共謀罪」絶対反対の声が相次いだ。
フクシマ6周年集会 009
               「代々木公園の野外ステージ前を埋めた参加者」

 集会を主催したのは、内橋克人(経済評論家)、大江健三郎(作家)、落合恵子(作家)、鎌田慧(ルポライター)、坂本龍一(音楽家)、澤地久枝(作家)、瀬戸内寂聴(作家)の各氏ら9人の呼びかけでつくられた「さようなら原発一千万人署名市民の会」。
 3月4日から始まった、脱原発諸団体による東電福島第1原発事故から6年を記念する一連の集会の一つで、一連の集会では最大規模のものとなった。主催者によると、参加者は1万1000人。会場に林立する旗やのぼりから判断すると、参加者の主力は旧総評系の労組組合員、生協組合員、市民団体関係者らで、関東を中心に全国各地から参加があった。
 
 午後1時30分から始まった第2部では、各界の人々が登壇。
 最初に登壇して主催者あいさつをした落合恵子さんは「福島の原発事故で多くの人たちが今なお避難生活を余儀なくされているが、その人たちへの住宅無償支援がこの3月で打ち切られようとしている。いったい誰が事故を起こしたのか。原発事故に対し何の罪もない人への支援を打ち切り、生活を奪うとは何ごとか。これは、人としての権利を奪うものだ。住宅無償支援の維持を訴えよう。事故を起こした者に責任をとらせよう」と訴えた。
フクシマ6周年集会 017
              「核燃料サイクル廃止を訴える民医連関係者」

 福島県郡山市在住の野口時子さんは「事故直後は、世界各地や全国各地の団体が、避難先で暮らす福島の子どもたちを招いて保養キャンプを催してくれた。が、事故から6年。いまでは、そうした保養キャンプもほとんどなくなった。私たちは、福島の放射能被害が忘れ去られつつあるのか、とおそれている。放射性物質の半減期は30年といわれる。どうか、福島の放射能被害を忘れないでほしい」と訴えた。
 同じく福島県田村市から参加した武藤類子さん(福島原発告訴団ひだんれん)は「原発事故はまだ終わっていない。これから先どうなってゆくのだろうかと考えると、夜も眠れない。私たちのことを忘れないでください」と訴えた。

 脱原発運動をさらに推進しよう、という訴えもあった。
 河合弘之さん(弁護士、3・11甲状腺がん子ども基金理事)はこう述べた。「私がつくった映画『原発と日本』はすでに全国で10万人が観た。われわれの脱原発運動は必ず勝つだろう。なぜなら、世界の潮流はいまや脱原発で、われわれの運動はそれに沿ったものであるからだ」
 
 最後に登壇した鎌田慧さんは「原発事故の犠牲はあまりにも大きかった。しかし、ようやく裁判所が、原発事故の責任は国と東電にあるという判断を下した。こうした判断が今後、全国に広がってゆくだろう。そうなれば、原発の再稼働は時代遅れのものとなってゆくだろう。原発はすでにたそがれなのだ。加えて、東芝を見よ。原発に手を出したため赤字がかさみ、つぶれそうだ。にもかかわらず、安倍政権は原発の再稼働を進めようとしている。そればかりでない。共謀罪の法案を成立させ、沖縄に新たな米軍基地をつくり、平和憲法をつぶそうとしている。今こそ、力を合わせて安倍政権を打倒しよう」と呼びかけた。
フクシマ6周年集会 015
          「共謀罪反対を訴える人も」

 時が時だけに、国会で論議されている問題や、国民の間で話題となっている問題に関する発言も飛び出した。
 
 落合恵子さんは、主催者あいさつの中で「このところ、明けても暮れても不透明な問題があぶり出されてくる。森友学園問題もその一つで、私たちのものである国有地が不当に安い価格で森友学園に払い下げられた。その裏に誰がいるのか。誰がこの現実をつくったのか」と述べた。言葉を次いで「共謀罪」制定の動きに言及し、「このような醜悪で不平等な国と化したこの国を、何としても子どもや孫に残さないようにしましょう」と訴えた。
 ある団体代表も「共謀罪」問題を取り上げ、「政府は『共謀罪』国会提出を今週中にも閣議決定しようとしている。『共謀罪』の狙いは平和運動、脱原発運動の抑圧だ。なんとしても制定させてはいけない」と叫んだ。
 南スーダンの国連平和維持活動(PKO)での陸上自衛隊の日報を「破棄した」と発表しながら実際は陸上自衛隊内で保管していた問題を取り上げ、「国民の信頼を大きく失った」と批判した発言もあった。
フクシマ6周年集会 013
                  「林立する組合旗や団体ののぼり」

 集会後、参加者は原宿コース、渋谷コースに分かれてデモ行進した。
 
2017.03.03 脱原発団体が連続的な集会へ
東電福島第1原発事故から6年

岩垂 弘 (ジャーナリスト)

 国民の約6割は原子力発電所の再稼働に反対する。なのに、世界に衝撃を与えた原発事故はまだ収束せず、そればかりか核燃料サイクルはすでに完全に破たんしたにもかかわらず政府と電力業界は原発の再稼働を急ぐ。これが、この3月11日で東電福島第1原発の事故から6年を迎える日本の現実である。こうした状況を迎えて、脱原発を目指す諸団体は今年も「3・11」前後に脱原発を訴え、再稼働に抗議する行動を展開する。

 2月21日付の朝日新聞朝刊によると、同紙が同月18、19両日の全国世論調査で原発の運転再開への賛否を尋ねたところ、「反対」57%、「賛成」29%だったという。2011年3月11日の東日本大震災にともなう東電福島第1原発の事故直後の国民の間の「脱原発志向」は6割だった。それから6年経っても、国民の「脱原発志向」はいささかも風化していないということだろう。

 しかも、日本政府の原子力政策の破たんは、誰の目にももはや明らかである。
 まず、事故を起こした東電福島第1原発では、放射能に汚染された水の処理が進んでいない。原子炉建屋に流入し、放射能に汚染された地下水は捨てる場所がない。地下水の流入を阻止するための決め手として凍土壁をつくる策が試みられたが失敗、増え続ける汚染水はタンクで保管されているが、もう限界である。安倍首相は、東京オリンピック招致にあたって「汚染水は完全にコントロールされている」と演説したが、首相はこうした事態を今、どうみているのだろうか。
 さらに、同原発2号機格納容器でこの2月に検出された放射能は、毎時650シーベルトという衝撃的なものだった。調査ロボットも手が出せない天文学的高濃度の放射能で、人が浴びれば1分弱で死亡するとされる。このため、いまや廃炉作業のメドも全くつかない状況だ。

 政府の原子力政策が立脚している「核燃料サイクル」も今や、事実上破たんしていると言える。プルトニュウムとウランを燃料にして、消費した以上の燃料を生み出す「夢の原子炉」とされた高速増殖炉「もんじゅ」(福井県敦賀市)は、1兆円以上の事業費を投じたにもかかわらず事故続きで稼働することが出来ず、政府は昨年暮れ、ついに廃炉に踏み切らざるをえなかった。
 青森県六カ所村の核燃料再処理工場も「核燃料サイクル」を続けるためには不可欠の施設だ。原発から出る使用済み核燃料から再利用できるウラン、プルトニュウムを取り出すための工場で、1993年から2兆円以上を投じて建設が進められているが、2009年から本格稼働という予定がトラブル続出で23回も延期され、工場の完成は2018年度にずれ込むと発表されている。

 日本を代表する大企業の一つである東芝は、今、深刻な経営危機に陥っている。なぜ、そんな事態を招いたのか。それは、東芝が2006年に買収した米国のウェスチングハウス(WH)が、米国での原発建設事業で7000億円を超える損失を出したからである。
 2月25日付の朝日新聞は「東芝の自己資本は今年3月末時点で1500億円のマイナスとなって債務超過に陥る見通し。半導体事業の過半売却で1兆円超を調達し、来年3月末には自己資本を大きく回復させる方針だが、このままなら今年3月末時点で債務超過を解消できない公算が大きい」と報じている。このままでは、東芝株は東証1部から2部へ降格するのでは、との報道もある。
 原発事業は、大企業の屋台骨をゆるがし、果ては倒産に追い込みかねないほどのリスクを伴うことが明らかになったのだ。

 こうした事態にもかかわらず、安倍政権が2014年4月に閣議決定した「エネルギー基本計画」は、原子力を「エネルギー需給構造の安定性に寄与する重要なベースロード電源」と位置づけ、前政権(野田政権)が目指した「原発ゼロ」目標を取り下げ、原発の新設・増設も否定しない、というものだった。
 これをきっかけに、安倍政権と電力業界は原発の再稼働に躍起だ。日本は東電福島第1原発の事故後の2013年9月以降、全ての原発が停まるという「原発ゼロ」の状態が続いていたが、安倍政権は2015年8月に九州電力の川内原発(鹿児島県)1号機を再稼働させ、次いで、川内原発2号機、関西電力の高浜原発3、4号機(福井県)、四国電力の伊方原発(愛媛県)3号機を再稼働させてきた。
 さらに、近く九州電力の玄海原発(佐賀県)3、4号機を再稼働させる方針だ。

 本来なら、「脱原発」を願う国民世論を受けて野党第1党の民進党が「脱原発」を掲げて安倍政権と対決すべきだと思うのが、同党の蓮舫代表が、これまでの党公約の「2030年代原発ゼロ」を「2030年原発ゼロ」に前倒ししようとしたところ、支持母体の連合がこれに猛反発、前倒しを断念せざるをえなかった。

 「国会内がそうした状況ならば大衆運動を盛り上げて安倍政権と対決する以外にない」と、脱原発を掲げる各団体は、3月4日(土)から、それぞれ次のような行動を繰り広げる。
 ◆原発をなくす全国連絡会は、4日(土)13:30から、東京の日比谷野外音楽堂で「全国大集会 原発ゼロの未来へ 福島とともに」を開く。メインスピーチは元宇宙飛行士・ジャーナリストの秋山豊寛氏。14:45から銀座をパレード。
 ◆たんぽぽ舎、テントひろばなど市民団体は、11日(土)14:00から、東京・新橋の東電本店前で「東電福島原発事故から6年、東電は責任をとれ 原発事故被害者の住宅を奪うな!東電本店合同抗議」。
 ◆首都圏反原発連合は11日(土)17:00から、国会正門前と首相官邸前で「反原発!国会前大集会+首相官邸前抗議~福島・祈りを超えて~」を行う。
 ◆原発のない福島を県民大集会実行委員会は、18日(土)13:10から、福島県郡山市の開成山陸上競技場で県民大集会を開く。
 ◆「さようなら原発」一千万署名市民の会は、20日(月、春分の日)11:00から、東京・代々木公園で「いのちを守れ! フクシマを忘れない さようなら原発全国集会」を開く。13:30から作家の落合恵子、ルポライターの鎌田慧氏らが発言。15:00からデモ行進。

 各団体が独自の行動を繰り広げるというのでは、運動は吸引力に欠けるとの見方もあるが、脱原発運動では諸団体が共闘する統一集会がこれまで何度も開かれてきただけに、これからも統一集会が追求されるはずだ。
2017.02.24  不安だらけの2020東京オリンピック
    韓国通信NO517

小原 紘(個人新聞「韓国通信」発行人)


韓国の平昌(ピョンチャン)で開かれる冬季オリンピツクまで1年。ソウル市庁舎前にカウントダウンの時計が設置された。
去る9日、NHKニュースはソウルの街の表情と、冬季オリンピックに5割近い人が「無関心」と答えた世論調査を紹介し、「こんなに無関心で大丈夫?」と心配していた。
隣国のオリンピックに親切に気を配る「ゆとり」。3年後の東京オリンピックには問題はないのだろうか。NHKの「ノーテンキ」ぶりに呆れ果て今回の「通信」のテンションは上がった。

<怒りの声は無視されて>
オリンピックが東京に決まった直後、「信じられない」と怒りで口を震わせた福島の友人がいた。2013年、原発事故から2年、福島は原発の恐怖のどん底にあった。彼には日本中が誘致成功の喜びに湧いているのが悪夢のように感じられたようだ。喜色満面、得意げな安倍首相の「アンダーコントロール」という言葉から福島が「切り捨てられた」のを感じ取り深く傷ついた。
高濃度の放射能による汚染は続いている。事故は収束されないまま、被災者たちの涙と絶望を踏みつけ、オリンピックの準備が進んでいる。

<「原子力緊急事態宣言」はいまだに解除されていない>
「アンダーコントロール」は2013年の流行語大賞の候補に挙がった。真っ赤な嘘を大賞に選ばなかったのは首相に対する「気兼ね」、最近よく耳にする言葉では「忖度(そんたく)」だった。事実、その「嘘」は垂れ流しの放射能とともに実証され続けてきた。
福島第2号機格納容器で検出された650㏜の放射能は衝撃的だった。ロボットさえ手が出ない天文学的高濃度の放射能である。廃炉作業のメドも全くつかない。このまま放出が続けばどうなるのか。大気汚染はさらに広がり、避難解除どころではなくなる。
最悪のシナリオをたどるとオリンピックどころでない。地震も心配だ。こんなことを言うと、「何もできなくなる」と反論されそうだが、不安を無視して国全体が無邪気にオリンピックにのめり込む方が心配だ。安全を「保証しない」規制委員会が次々と原発の再稼働を認めていることも心配のひとつ。原発が増えた分だけ事故の可能性は増える。

<戦争になったらオリンピックはできない>
1940年の東京オリンピックは日中戦争のさなか、日米開戦の直前に中止になった。
戦争ができる国にしたいという安倍晋三の夢は南スーダンへの自衛隊派遣で実を結びつつある。彼の「愛国心」は北朝鮮、中国との戦争も視野に入れたもので危険このうえない。恒久平和を誓った憲法をかなぐり捨てる動きも切迫している。オリンピックと戦争を同時に行うことは考えられない。商業主義に染まり利権うずまくオリンピックとは云え、まじめにオリンピック開催を考えるなら平和志向に徹するべきだ。軍備の拡大と日米の軍事同盟の強化では戦争の抑止にはならない。真逆である。憎しみと不信を駆り立て、戦争をした過去の教訓を学びたい。戦争とオリンピックのどちらを選ぶか冷静に考えたい。

<テロの危険>
2001年9月11日に起きた「同時多発テロ事件」以来、多くの先進国はテロに苦しんできた。テロ事件のすべてをイスラム過激派集団の仕業とするのが一般的な理解だが、貧富の差が極端に二分化された社会ではテロはどの国でも起こりうる。トランプ米大統領に無限にすり寄るわが国がイスラム過激派の標的になる可能性は高くなった。くわえて先が見えない不満が鬱積した社会はテロの温床だ。わが国にもテロが起きる可能性は否定できない。
「だから」と首相は強い口調でテロからオリンピックを守るために「共謀罪」から名を変えた「テロ等準備罪」を主張するが、国民の不満を権力で抑え込むのは本末転倒だ。テロを心配するなら、とりあえず安倍首相が退陣するのが最善のテロ対策のように思える。
2020年までに何が起こるかわからないが、戦争と原発とテロ対策に無自覚なまま突き進んでいくのは怖ろしい。
自分の生活と国内外の政治に不安を抱く韓国の人たち。それを克服するための市民革命進行中の韓国にオリンピックにあまり関心がないと心配するNHKの頭の中も心配だ。

<ふるさと納税>
確定申告のシーズンである。わずかばかりの所得税の還付請求をするために毎年確定申告をしている。収入が年金だけなので申告は簡単だが、「ふるさと納税」をしているので申告書第二表の寄付金に記入、第一表で所得から引かれる金額の寄付金控除の欄に計上する。還付されたお金を次年度の「ふるさと納税」として振り込むのを毎年繰り返している。
この二、三年「ふるさと納税」が脚光を浴びている。寄付金を受けた各自治体が「お礼」として地域の特産品などを競っているのが話題になり、「ふるさと」でもないのに「お礼」につられて寄付をする人が多いらしい。2千円は持ち出しになるが残りの寄付金がそっくり次年度の税金が軽減される仕組み。寄付としては「せこい」感じは免れない。
この数年、私が寄付を続けているのは沖縄県の名護市である。辺野古基地に反対する名護市に政府が交付金を払わないという「兵糧攻め」を聞いて応援のつもりで「ふるさと納税」を始めた。市役所からは市長名の「お礼」の手紙とともに去年はバンフ「米軍基地のこと辺野古移設のこと」「名護市の米軍基地のこと」が送られてきた。「アッパレ!!」である。寄付者の名前、金額が市のホーム・ページで公開されている。暖かい辺野古基地反対へのメッセージがとても感動的だ。毎年、件数も金額もうなぎのぼりで増え続けている。
小原T

<マイ確定申告>
今回の確定申告で困ったことが起きた。マイナンバーの記入が求められたからだ。
ひとりひとりに番号を割り当て、個人のふところ具合を把握する狙いらしい。金持ちには厳しくすべきだが庶民まで一網打尽とは納得がいかないうえに、本当の狙いはさまざまな個人情報をリンクさせて、国による個人情報の一元的管理をするというとんでもないマイナンバー制度に私は反対だ。国民の不安にもかかわらず強行導入されたのは記憶に新しい。
マイナンバー制度に反対して確定申告書にマイナンバーを記入しないと還付が受けられないとは。
封も開けずに放置したままの「通知書」を開くのもシャクで空欄のまま提出した。友人に話すと「確定申告は受理されないはず」と言われて少し動揺した。
受信料を払うのは義務というNHKと10数年来論争を続けてきたが、今度は手ごわそうな国税庁が相手である。これまで平穏な市民生活を送ってきた一市民として国家を相手に理論闘争をせざるを得なくなった。
マイナンバー制度はこれからさまざまな場面で問題が生じてきそうだ。例えば自動車の免許更新、パスポートの更新、さらには介護の申請など公的サービスにもマイナンバーが絡んできそうで正直なところ、ため息が出そうだ。しかし、これまでマイナンバー抜きでも受けられた公的サービスが受けられなくなることが問題で、国による一元的な個人情報管理に屈服しなければ国民の権利が行使できない仕組みこそ問題のはずだ。
皆さんのご意見をお聞きしたい。

2017.02.17 日本の核兵器廃絶運動のあり方を批判
     「ラロック証言」の元米海軍提督が死去

岩垂 弘 (ジャーナリスト)


 1月11日付の「しんぶん赤旗」に載った訃報が目を引いた。そこには、元米海軍提督で、ミサイル巡洋艦プロビデンスの艦長を務めたジーン・ラロック氏が昨年10月31日に98歳で死去したとあった。「米艦船は日本に核兵器を持ち込んでいる」というラロック氏の証言は日本の各界に衝撃を与えたが、私はこのこととは別のことでも同氏に関心を持ち続けてきた。というのは、同氏が日本の核兵器廃絶運動のあり方に対し一つの疑問を呈していたからである。

 ラロック氏の証言とは、1974年9月10日、米国議会の上下両院合同原子力委員会軍事利用小委員会が開いた、核拡散の危険をめぐる公聴会で述べたものである。ラロック氏は当時、元海軍少将で、国防問題に関するシンクタンク「国防情報センター」の所長を務めていた。当時、共同通信ワシントン支局にいた佐藤信行氏によれば、証言の内容は次のようなものだったという(2009年8月の日本記者クラブ会報に掲載された「ラロック証言のいま―『核なき世界』へ」による)。

 「私の経験によれば、核兵器を積み込める艦船はいずれも核兵器を積み込んでいる。これらの艦船は日本や他の国々の港に入るに当たって、核兵器を降ろすことはない。核兵器を積み込める場合には、艦船がオーバーホールないし大規模な修理を受けるための寄港の場合を除いて、通常はいつでもこれらの核兵器を艦船内に積み込んだままである。これらの核兵器の一つをうっかり使ってしまうかもしれないという現実の危険性がある」

 この発言は日本国内に大きな反響を巻き起こしたが、日本政府は「米国がいかなる形にせよ、日本に核を持ち込む場合は日本政府との事前協議の対象になる」として、米艦船による日本への核兵器持ち込みを否定し続けた。しかし、いまでは、日米安保条約の改定時に日米両国政府間で「核持ち込みの密約」があったことが明らかになっている。

 ラロック氏の訃報に接した瞬間、私の脳裏に甦ってきたことがあった。平和運動家であった故熊倉啓安氏(1927~1995年)から聞いたエピソードだ。
 熊倉氏は日本平和委員会の専従活動家で、事務局長、副理事長、代表理事、顧問を歴任した。この間、原水爆禁止運動、基地反対闘争、日中・日ソ国交回復運動、日韓条約反対運動、反安保闘争、ベトナム人民支援運動、沖縄返還運動などに関わった。

 1978年5月には、米国に渡航した。この時期、ニューヨークの国連本部で第1回国連軍縮特別総会(SSDⅠ)が開かれたためだ。
 SSDⅠに対し、日本の原水禁運動団体、労働団体、市民団体、宗教団体は「国連に核兵器完全禁止を要請する署名運動推進連絡会議」を結成し、全国で署名運動を展開、署名は1869万筆に達した。この署名簿をたずさえた「国連に核兵器完全禁止を要請する日本国民(NGO)代表団」の502人がニューヨークに向かい、署名簿を国連事務次長に手渡した。熊倉氏もこの代表団に加わった。
 その後、代表団は12の班に分かれて各国政府や軍縮関係機関を訪れ、核兵器完全禁止に向けての努力を要請した。

 熊倉氏は第3班に加わり、ワシントンの「国防情報センター」にいたラロック氏を訪ねた。熊倉氏によると、班のメンバーの要請に「きみたちは来るところを間違えた。核兵器反対を言うなら、むしろ日本政府に向かって言うべきだ」と述べたという。「米国の『核の傘』のもとに安住していて反核を叫ぶことの矛盾を見事に突かれた思いでした。ショックでした」。帰国後、同氏が私にもらした述懐である。

 核兵器の拡散を恐れるラロック氏としては、核兵器の拡散を防ぐためには、まず各国の国民がそれぞれの国の政府に核兵器の製造や持ち込みをやめるよう働きかけるべきだ、と考えていたのだろう。が、それまでの日本の核兵器廃絶運動は、専ら、核兵器の禁止を国際社会に訴えるもので、米国の「核の傘」に頼って日本の安全保障を図ろうという歴代の自民党政権に対して「それを止めよ」と要求する運動は弱かった。それだけに、熊倉氏にとっては虚を突かれた思いだったのだろう。

 熊倉氏が、その後、ラロック氏の指摘を日本の運動にどのように活かしたらいいのかと考えていたのかどうかは私は知らない。が、同氏を通じて知ったラロック氏の指摘は、私にとって日本の核兵器廃絶運動を考える上で重要な視点となった。だから、日本の核兵器廃絶運動のあり方について意見を求められれば、ラロック氏の指摘を頭の隅に置きながら、意見を述べてきた。

 例えば、「週刊金曜日」1998年8月4日号に発表した『米国の「核の傘」の下で反核を叫ぶ矛盾』である。
 私はそこで、日本で開かれた反核集会に参加した海外代表が「米国の『核の傘』から抜け出さないと、日本は核軍縮で指導的役割は果たせない」「米国の『核の傘』の下にいることが日本の外交政策を制約している。日本は、米国の『核の傘』から脱却を」などと発言していることを紹介しながら、「日本の運動がこれまで掲げてきた最大にして最優先の課題は一貫して『核兵器完全禁止』または『核兵器廃絶』だった。ほとんどこれ一本やりだったといってよく、一部の団体はともかく、『米国の核の傘からの脱却』を運動の全面に明確に掲げたことは、運動全体としてはなかった」と書いた。   

 ところで、日本の原水禁運動団体、消費者団体、青年団体、婦人団体、宗教団体などは今、3月から国連で始まる、核兵器禁止条約締結に向けた会議に向けて、被爆者の団体である日本原水爆被害者団体協議会提唱の「ヒバクシャ国際署名」に取り組んでいる。「核兵器を禁止し廃絶する条約を結ぶようすべての国に求める」署名だ。
 ところが、日本政府はこの条約の締結に反対している。としたら、日本の運動としてはこぞって「被爆国の政府が核兵器禁止条約に反対するのはおかしい」と、日本政府に迫る運動も起こしてもらいたい。そう思わずにはいられない。一部の運動団体は「日本政府は核兵器禁止条約へ行動を」とのスローガンを掲げて活動しているが、まだ運動全体のものとなっていない。

2017.02.07  改めてこの船の航跡に注目しよう
          第五福竜丸建造から70年

岩垂 弘 (ジャーナリスト)

 東京・夢の島の一角に立つ「都立第五福竜丸展示館」を久しぶりに訪れた。毎年、「ビキニ・デー」の3月1日が近づくと、この展示館を訪ねてみようかという気持ちになるが、今年は、ここに展示されている船・第五福竜丸が建造から70年になるところから、それを記念する特別展が開かれていると聞き、訪れた。ここは訪れる度に私に強い印象を残すが、今回も改めてさまざまなことを考えさせられた。

 第五福竜丸は140・86トン、全長28・56メートル、幅5・9メートルの木造船である。敗戦直後の1947年、和歌山県の古座町(現串本町)でカツオ船として建造された。当時の船名は「第七事代丸」といい、神奈川県三崎港を母港にカツオ漁に従事した。その後、マグロ船に改造され、船名も「第五福竜丸」となり、静岡県焼津港を母港に遠洋マグロ漁に従事する。
 ところが、1954年3月1日、太平洋で操業中、マーシャル諸島のビキニ環礁で行われた米国の水爆実験で生じた放射性降下物の「死の灰」を浴び、乗組員23人が急性放射能症になり、無線長の久保山愛吉さんが死亡する。水爆による初めての犠牲者だった。実験場周辺の島々の住民たちも「死の灰」を浴び、同様の被害を受けた。これが、ビキニ被災事件である。

 この事件をきっかけに全国的な規模の原水爆禁止運動が起こり、世界に波及する。1955年にはバートランド・ラッセル(哲学者)、アルバート・アインシュタイン(物理学者)、湯川秀樹(物理学者)ら世界的に著名な学者11人により「将来の戦争は必ず核兵器が用いられるから、各国間の紛争の解決は平和的手段によってなされるべき」との「ラッセル・アインシュタイン宣言」が出され、これを受けて1957年には、核軍縮を目指す科学者の国際的集まり「パグウオッシュ会議」が発足する。
 原水禁運動団体はこの事件を忘れまいと「3月1日」を「ビキニ・デー」と名付け、毎年、この日前後に記念の集会を開き「核兵器禁止」を訴え続けてきた。この催しは今も続いている。

 “ビキニ被災事件の証人”となった福竜丸はその後、政府に買い上げられ、東京水産大学(現東京海洋大学)の練習船となるが、老朽化のため廃船処分となり、東京のゴミ捨て場だった夢の島に放置されていた。1968年、みじめな姿に変わり果てた福竜丸に心を動かされた一会社員の船体保存を訴える投書が朝日新聞の投書欄に載ったことがきっかけで、原水禁運動団体などが中心となった保存運動が起こり、1976年6月、公園に生まれ変わった夢の島に都立第五福竜丸展示館が完成する。船体を所有していた財団法人第五福竜丸保存平和協会(現在の公益財団法人第五福竜丸平和協会の前身)が船体を東京都(当時の知事は美濃部亮吉氏)に寄付し、都が展示館を建設して永久保存を図るという形で決着をみたわけである。展示館の管理は平和協会に委ねられた。

 今回の特別展は「この船を知ろう 第五福竜丸建造70年の航跡」と題され、福竜丸の船体わきで行われている。カツオ船、マグロ船、練習船それぞれの時代に関連する資料や船の図面、写真などが展示されており、これらを見て行くと、この小さな木造船がたどった数奇な運命に改めて驚かざるをえない。

 第五福竜丸平和協会によれば、木造船の耐用年数は15年から20年という。であれば、70年前に建造された木造船がいまだに現存していること自体、世界的にも極めて珍しいことと言ってよい。
 そのことだけでも、この船がもつ歴史的意義は大きいが、そのことに加え、この船の航跡もまた歴史的意義をもつと私は考える。なぜなら、この船が第2次世界大戦後の日本と世界の歴史を一身に背負ってきたように思えるからだ。
 すなわち、大戦直後には、日本の食糧難を救うために太平洋でカツオ漁やマグロ漁に活躍し、その最中に、米ソによる核軍拡競争がもたらした米国の水爆実験に遭遇、ヒロシマ、ナガサキに次ぐ第3の核被害の当事者となる。その後も水産大学生の練習航海に貢献し、ついには、廃船処分となってゴミ捨て場に棄てられながら、世界的な規模にまで発展した「核兵器廃絶運動」のシンボルとして甦る。まさに、戦後史をたどる上で欠かせない貴重な証人なのである。

 もし、ビキニ被災事件が闇から闇に葬られ、さらに夢の島でゴミになる寸前だった福竜丸に誰も気づかなかったとしたら、世界史は今とは変わったものになっていたに違いない。そう思うと、福竜丸が現存することの意義を痛感するとともに、ビキニ被災事件をスクープした読売新聞と、福竜丸の保存のために陰に陽に尽力した多くの人びとに改めて敬意を抱かずにはいられない。

 特別展とともに常設展示も見ることができる。そこでは、ビキニ水爆実験の実相、それによってもたらされた被害の実態、マーシャル諸島では被ばく住民の苦しみがいまも続いていること、ビキニ被災事件を機に核兵器廃絶運動が高揚したにもかかわらず、世界では今もなお核の水平・垂直拡散が続く事実が紹介されている。それらに目を注いでいると、福竜丸が、この63年間、身をもって訴え続けてきたことはまだ実現していないという現実が胸に迫ってくる。福竜丸の存在意義は、今後ますます高まるのではないか。

 特別展、常設展示を見ながら、私は第五福竜丸平和協会の初代会長を務めた三宅泰雄氏(地球化学者)が生前、好んで口にしていた言葉を思い出した。「福竜丸は人類の未来を啓示する」というものだった。ビキニ水爆の被災船・福竜丸の無言の姿こそ、人類が核兵器の存在をゆるして地球破滅の道に進むのか、それとも核兵器と戦争を廃絶して平和と幸福の世界を築きあげるかの選択を迫るものだ、という意味だろう。
 私は、この言葉を心の中で反すうしながら展示館を後にした。

                              ◇

特別展「この船を知ろう 第五福竜丸建造70年の航跡」は3月26日まで開かれている。
入館無料。開館9:30~16:00。月曜休館
東京メトロ有楽町線、JR京葉線、りんかい線、「新木場駅」下車、徒歩13分
TEL:03-3521-8494
2017.01.19 日本山妙法寺、平和運動でのさらなる精進を誓う
藤井日達山主の33回忌法要で

岩垂 弘 (ジャーナリスト)

 日本山妙法寺の藤井日達山主の33回忌法要が1月9日、千葉県鴨川市の同寺清澄山道場であった。「恩師行勝院日達聖人第三十三回忌」と題された法要には、厳しい寒さの中、同寺の僧侶、信徒をはじめ日蓮宗各宗派代表、インド、スリランカなど各国代表、海外の平和団体関係者ら約400人が参列したが、参列者たちは口々に山主の業績をたたえ、「山主の遺志を継ぎ、戦争への道を阻止するために平和運動を一層推進しよう」と誓い合った。

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「千葉県鴨川市の日本山妙法寺道場で行われた藤井日達山主の第33回忌法要」

 第2次世界大戦後が終わって70年余になるが、この間、日本をはじめ世界各地で「反戦平和」「核兵器反対」を掲げる運動があるところでは、黄色の僧衣を着て、「南無妙法蓮華経」と唱えながら、うちわ太鼓をうち鳴らす僧侶の集団があった。日本山妙法寺の僧侶たちである。
 日本山妙法寺の僧侶たちが参加した運動は、日本国内に限ってみても、東京・立川の米軍基地拡張反対運動、原水爆禁止運動、被爆者救援運動、日米安保条約改定阻止運動、ベトナム反戦運動、沖縄返還運動、成田空港建設反対闘争(三里塚闘争)、イラク戦争反対運動……と数え切れないくらいだ。 最近では、脱原発運動、憲法9条擁護運動、安保法制廃止運動などの現場で僧侶たちの姿をみかける。
 もちろん、その活動は地球全域に及ぶ。今でも、戦火が絶えないところ、紛争が続くところには、必ずといってよいほど同寺の僧侶の姿がある。

 藤井日達山主は、その日本山妙法寺の開創者である。1918年(大正7年)に日蓮系の一宗派として最初の日本山妙法寺を中国・遼陽に開創、1924年(大正13年)には静岡県内に日本最初の妙法寺を建立、以後、全国各地に同様の寺を建立し続けた。
 日達山主はその生涯を通じて膨大な法話を残しているが、その中で一貫して説いたのは、釈尊の教えの核心は「不殺生戒(ふせっしょうかい)」にあるという点だ。一言で要約すれば、「人を殺すな」ということだという。
 最大の殺生は人が人を殺す戦争である。そこから、日達山主は絶えず「世界平和」「核兵器廃絶」「軍備全廃」を訴え続けた。しかも、「絶えず行動を起こすこと」を説き、自ら平和運動の先頭に立った。老齢で歩行が困難になると、車イスで平和行進の先頭を歩んだ。

 世界各国の平和団体、宗教団体、先住民団体との交流・連帯にも力を注いだ。
 1982年は反核、軍縮を求める運動が世界的に高揚した年だった。同年6月にニューヨークの国連本部で国連主催の第2回国連軍縮特別総会が開かれたためだ。日達山主は、この総会に向けて米国大陸を横断する平和行進を提唱、日本山妙法寺の僧や信者が西海岸からニューヨークまで歩いた。車イスの山主はニューヨークで行進団を出迎え、さらにニューヨークのセントラルパークで開かれた国際NGO主催の100万人反核集会に参加して演壇から核兵器廃絶を訴えた。この時、山主は96歳だった。

 日本山妙法寺の平和運動は徹底した非暴力を基本としているが、それは、徹底的な非暴力運動でインドを英国からの独立に導いたマハトマ・ガンジーから学んだ。日達山主は1933年(昭和8年)10月にインドでガンジーと会見しており、山主自身、その著書『仏教と平和』の中で「ガンジーの非暴力に学んだ」と語っている。
 また、共通の目的を持つすべての人々が手を取り合うことの大切さをひたすら説き続け、平和運動の大同団結のために奔走した。日本国内では、分裂していた原水爆禁止運動の統一のために力を尽くした。

 日達山主の27回忌(2011年)に際し、日本山妙法寺は『報恩』という冊子を発行したが、宗教学者の山折哲雄氏は「日本山妙法寺」と題する一文を寄せ、その中でこう書いている。
 「藤井日達上人は百歳の長寿を全うした人である。その足跡はインドをはじめとして全世界に及び、平和運動と伝道活動に献身した稀にみる国際的な仏教者だった」
 「昭和二十年の敗戦以後、日本の仏教諸教団はこぞって平和主義を宣揚し、そして例外なく平和運動の戦列についた。しかし、そのときから今日にいたるまでの半世紀をふり返るとき、その平和運動の持続性と徹底性において、藤井日達の日本山妙法寺に及ぶものは一つもなかったといっていいだろう」

 33回忌法要では僧侶らによる読経の後、来賓のあいさつがあったが、S・R・チノイ・インド大使、D・G・ディサーナーヤカ・スリランカ大使らは、日達山主が仏教普及や日本と両国との友好親善で果たした功績をたたえた。
 米国から参加した平和運動家でカトリック神学者のジェイムズ・W・ダグラス氏(『ジョン・F・ケネディはなぜ死んだのか』)という大著があり、寺地五一・寺地正子訳で2014年に同時代社から出版された)は「私たちは1980年にワシントン州シアトル近郊のトライデント原潜基地の近くに『非暴力行動のためのグラウンド・ゼロ・センター』をつくり、トライデント核ミサイルに対する抗議活動をしたが、そこに藤井日達師が見えられ、共に祈ってくださった。おかげで、センターには希望と歓喜の明かりが灯された」と話した。

 英国の著名な平和運動家、ブルース・ケントCND(核軍縮運動)元会長は、メッセージを寄せた。そこには、こうあった。「藤井聖人の素晴らしいお言葉が、今も私の家の机の前に掲げられています。それは次のようなものです。『文明とは電灯のつくことでもない。飛行機のあることでもない。原子爆弾を製造することでもない。文明とは人を殺さぬことであり、物を壊さぬことであり、戦争をしないことである。文明とは相互に親しむことであり、相互に敬うことである』」

 法要では、吉田行典・日本山妙法寺大僧伽首座の「導師法話」があった。
 首座はその中で、次のように述べた。
 「日本政府の政策を見ていると、この国は変わり始めた。日本では、今、戦争への道が準備されている。集団的自衛権の行使、相次ぐ軍事的な立法、軍備増強、憲法改悪等を通じてだ。日本国民は再び甚大な苦難を経験することになるかもしれない。われわれは、平和憲法を守らなくてはいけない」
 「われわれは、世界の紛争を解決するためには、対話を通じて平和的で友好的な関係を確立しなければならない。人類は今、絶滅の淵にいる。われわれは、藤井日逹聖人の教えを思い出し、戦争のない真に平和な世界を創造することを誓う必要がある。お題目を唱え、平和のために一層行動することを互いに誓い合おう」

2016.12.13  スライス危険!「生前退位」をめぐる議論
    暴論珍説メモ(153)

田畑光永 (ジャーナリスト)

「象徴としてのお勤めについての天皇陛下のおことば」が今年8月8日に国民に伝えられてからすでに4か月が過ぎた。「おことば」を受けて政府はその間、安倍首相の私的諮問機関「天皇の公務の負担軽減等に関する有識者会議」(座長・今井敬経団連名誉会長)を設置し、11月には3回に分けて合わせて16人の専門家の意見を聞いた。そして12月7日の会合から論点整理に入った。有識者会議では14日にも論点整理を続け、年明けにそれを公表する段取りと伝えられる。
 私はことの進み方のゆっくりさに驚くと同時に、この間の経緯は天皇の「おことば」が提起した問題を解決するというよりも、第二次大戦後に制定された「日本国憲法」が規定するいわゆる象徴天皇制を、この機会に別のものに変容させていこうとする動きが表面化してきた期間であったように見える。 
 そのことは後で考えるとして、私自身が「おことば」を聞いてまず感じたのは、自らの身体能力の衰えを冷静に見つめ、なおかつそれを自分以外は言い出せないことを斟酌して、自ら地位を退く意思を明らかにするというのはなかなか出来ないわざだということであった。とすれば、「生前退位」に関する規定がないとしても、なんらかの方策を講じて、それを実現する条件を早急に整えるべきだ、というのが私の考えである。
 ところが、その後の事の進み方は丁寧といえば聞こえはいいが、実際は結論を出したくないのではないかと勘繰りたくなるほどゆっくりである。有識者を集めて「有識者会議」を設置したのだから、その人たちが知識を出し合って、せいぜい1か月くらいで結論を出すのだろうと思ったら、その前に今度は専門家を読んで1人ずつ意見を聞くことが始まった。それも16人もの専門家を3回に分けてというゆっくりペースである。
 そしてその16人専門家の意見というのを報道で見て驚いたのは、天皇が示唆された「生前退位」に賛意を表した人が意外に少なかったことである。私の計算では(だから間違っている可能性もあるが)、16人中5人に過ぎない。逆に否定的な人は8人、どちらなのかよくわからない人が3人であった。
 無識な私が憲法の「第一章 天皇」と「皇室典範」を読んだ限りでは、皇室典範の第三章「摂政」の条文を改正すれば、ことは簡単に思える。そこにはこうある、「第三章 摂政 第十六条 天皇が成年に達しないときは、摂政を置く。(第2項)天皇が、精神若しくは身体の重患又は重大な事故により、国事に関する行為をみずからすることができないときは、皇室会議の議により、摂政を置く。」
 つまり天皇の生存中に代理(摂政)を置かねばならないときにはそうすることを皇室典範も予期しているのである。ただその条件として第1項が未成年の場合、第2項が精神または肉体の事故または病気の場合、を想定している。制定時には現今の高齢化社会は想定されなかったとしても不思議はないのだから、天皇の高齢がその中に入っていないのは自然であって、高齢化社会の今、高齢による身体状況の不適を加えても何ら不都合はないはずである。
 ところが意見を聞かれた専門家には、この摂政の条件を緩和するという案は概して評判がよくない。勿論、それでいいという人もいるが、反対意見は高齢ゆえに公務から離れた天皇と摂政が並立する場合、その期間が長引く可能性があり、それは「象徴の二重性」を生んだり「国民統合の象徴」が分裂したりする、というのである。
 すでにある摂政という制度を使わないとすれば、あとは新しい取り決めをつくるしかないわけだが、そうなると特例法でいいか、恒久法にすべきか、と話はややこしくなる。
 それはそれで有識者に考えてもらうとして、専門家とされる人たちに先に書いたように「象徴天皇制」を別物にしようとするかのような発言が散見されるのが目についたことを取り上げたい。
それはどういう発言か。
 「天皇家は続くことと、祈るという役割に意味がある。それ以上のいろいろなことを天皇の役割と考えるのはいかがなものか」(平川祐弘氏)、
「天皇の仕事は昔から第一の仕事は国のため、国民のために祈ることだ」(渡部昇一氏)、
「歴代天皇は、まず何よりも祭祀を重要事と位置づけ、国家・国民のために神事をおこない、その後に初めてほかのもろもろのことを行った。・・・天皇はなにもしなくてもいてくださるだけでありがたい存在でることを強調したい。その余のことを天皇であるための要件とする必要性も理由も本来はない」(桜井よし子氏)
 天皇は言うまでもなく国家機関である。そして憲法20条は政教分離の原則を明確に規定している。天皇の役割の第一を祈ることとする考え方は、戦前の天皇制の「現人神」を引き継ぎ、日本を神国とすることに通ずる。それは八紘一宇から大東亜共栄圏へと拡大し、戦争の思想的バックボーンとなったのは歴史的事実である。
この思想は日本国憲法によってなくなったはずであるのに、時折、不死鳥のように姿を現す。2000年5月、当時の森喜朗首相が「日本の国はまさに天皇を中心としている神の国であるぞということをしっかりと国民に承知していただくために我々(神道政治連盟)は頑張ってきた」と発言し、おおきな物議を醸した。
今また天皇の生前退位の議論に紛れてこういう発言が出てきた。憲法第7条の「天皇の国事行為」には10の行為が列挙されていて、その10番目に「儀式を行ふこと」というのがあるが、これは引用した論者たちが言う「祈り」ではないはずだし、まして天皇の第一の仕事ではない。
有識者会議が論点整理の中でこうした発言をどう扱うか、よもや象徴天皇を現人神にもどそうとする議論の拡散に手を貸すことのないよう見張っていなければなるまい。     (16.12.11)


  ✧ 今年の女性文化賞が決まりました 最終回です ✧

今年の第20回女性文化賞はフリーライターの森川万智子さんに授賞が決まりました。

・森川万智子さんは1992年から、韓国人の文珠珠(ムン・オクチュ)さんが連行された戦地ビルマで預けていた軍事郵便貯金の支払いを求める運動を展開しました。95年からビルマの現地調査を始め、その間、文さんが問わず語りに話した「慰安婦」時代の体験を記録しました。文さん没後の97~98年、ビルマ(ミャンマー)に15ヵ月間滞在し、200人以上の現地の人びとへの聞き取りと、慰安所とされた建物の調査を行いました。
元「従軍慰安婦」だった女性たちの物語が、軍事郵便貯金原簿の写しや日本軍の正史ともいえる『戦史叢書』、ビルマ現地の日本軍兵補の思い出、慰安所関係者の当時の日記などで証明された例はきわめてまれで、貴重です。
著書に『文玉珠 ビルマ戦線 楯師団の「慰安婦」だった私』(1996年、梨の木舎)、『ビルマ(ミャンマー)に残る性暴力の傷跡』(1998年、自家版)、映像作品『ビルマに消えた「慰安婦」たち』(1999年、ビデオ塾)、『ビルマの日本軍「慰安婦」』(2000年)、『シュエダウンの物語』(2006年)。

・森川万智子さんは1947年3月福岡県太宰府市生まれ。山口県立下関南高校卒。66年から郵便局員として働き、労働運動を16年間続けました。86年退職、出版社・印刷会社勤務を経て、現在フリーライター。福岡市で小規模な老人介護施設を経営しています。
・連絡先は🏣811-1313 福岡市南区日佐4-23-9 

・女性文化賞は1997年に創設された手作りの賞です。文化の創造を通して志を発信している女性の文化創造者をはげまし、支え、またこれまでのお仕事に感謝することを目的としています。賞金は50万円、記念品として女性画家によるリトグラフ一点を贈ります。
・女性文化賞を20年間続けてきましたが、健康上など諸般の事情で今年をもって終わりにいたします。この志を継いでくださる方を期待しています。   2016年12月9日

〒152-0023東京都目黒区八雲3-29―20―104 電話・ファックス 03-3723―0483
                       高良留美子

2016.10.21 反戦のスタンディングをして逝ったスポーツ記者
むのたけじさんの影響か

岩垂 弘 (ジャーナリスト)

 10月15日から新聞週間が始まった。これに先立つ同月8日、東京・日比谷の日本プレスセンター内の日本記者クラブで、元朝日新聞記者・川島幹之(かわしま・もとゆき)さんを偲ぶ会があった。「日本報道界の拠点」といわれる同プレスセンターで行われる報道関係者を偲ぶ会と言えば、著名なジャーナリストを対象としたケースが大半だから、いわば無名の記者だった川島さんを悼む集いがここで開かれたことは特筆に値する。彼がいかに多くの報道関係者に愛され、慕われていたかを示す集いだったと言っていいだろう。

 川島さんは1945年6月、両親が疎開していた埼玉県加須市で生まれたが、母の父は七代目林家正蔵、弟は初代林家三平。いうなれば川島さんは林家三平の甥である。
 立教大学を卒業すると1969年に朝日新聞に入社し、甲府、福島、北埼玉の各支局員を経て北海道支社報道部員に。この間、甲府支局時代に結婚。その後、東京本社と西部本社の運動部員、東京本社整理部員、名古屋本社運動部次長、大阪本社運動部次長、東京本社運動部次長、大阪本社運動部長を歴任した。
 2005年に定年を迎えたが、その後もシニアスタッフとして鹿島(茨城県)支局長、横手(秋田県)支局長を務め、2012年8月、朝日新聞社を退社した。

 これらの社歴からも分かるように、川島さんは専ら運動部記者だった。運動部とはスポーツを取材する部署。つまり、ほぼスポーツ記者一筋だったわけである。現役時代の記事には『スポーツ界列伝』『スポーツ小噺』といったものがある。
 仲間同士の宴会では落語を披露することもあった。だからだろう。あだ名は「サンペイさん」だった。

 偲ぶ会には、かつての上司、同僚、後輩、それにリタイアしてから参加した市民団体の関係者ら約90人が集まった。特に印象に残ったのは、追悼の言葉を述べたすべての人たちが、口々に川島さんの人柄を讃えたことだった。そればかりではない。会場で配られた『ありがとう川島さん―川島幹之追悼集』に追悼文を寄せた人たちも皆、こぞって彼の人柄をほめていた。
 
 曰く「いつも穏やか」「思慮深く温厚」「明るく、さわやか」「洒脱な人柄」「粋で潔い」「無類の人の良さで、私たちを魅了した」「何ごとにも誠実だった」「正義感あふれる心優しき男だった」「生き様を通して、人間としての優しさと強さを教えて下さった」・・・
 偲ぶ会で、かつての同僚の1人は「川島さんが人の悪口を言うのを聞いたことがない」と話した。大阪本社運動部長時代の部下も、追悼集に「(川島さんは)いつも泰然自若として、大人の風格。・・・一癖も二癖もあり『俺が、オレが』意識の強い新聞社にあって、貴重なおおらかさを有していた」と書いている。
 一般的に言って、新聞記者は他人をほめることが少ない。むしろ、他人に対する論評は痛烈無比だ。そういう世界を生きてきた者からすると、特定の記者に対するこれほどの絶賛は聞いたことがない。
 こうした賛辞が通りいっぺんのお世辞でないことは、私が保証する。なぜなら、私もまた、これまで彼の人間性に接する機会がたびたびあったからである。

 私が初めて川島さんに会ったのは、1974年3月、朝日新聞北埼玉支局(埼玉県熊谷市)でだった。当時、朝日は埼玉県北部で販売部数を増やそうと、それまでの熊谷通信局(1人勤務)を支局に格上げし、支局長と支局員5人の計6人を投入して北埼玉版づくりに当たらせていた。支局員が異動し、新たに甲府支局からに赴任してきたのが川島さんで、私は支局長だった。もっとも、その後、私は社会部で、川島さんは運動部でそれぞれ働くようになったから、同じ新聞社社内にいても疎遠な間柄になった。
 ところが、それから39年後の2013年、私が参加している朝日OBの集まりに川島さんが加わったことから、つきあいが復活。翌14年の3月、私が関わる団体が企画したキューバ・ツアーに誘ったら、「一度行ってみたかった国だから」と即座にツアーに加わり、私たちは一週間、旅を共にした。
 しかし、帰国後間もなく、川島さんは肺がんを患い、今年5月2日に亡くなった。70歳だった。だれもが驚いた急逝だった。

 結局、支局での付き合いも、朝日OB会での付き合いも極めて短期間であったわけだが、そこで私が得た川島さんについての印象を言えば、偲ぶ会で同僚や後輩が話したり、追悼集に寄稿している人たちが抱いた印象と同じであった。
 
 それにしても、私にとって最大の驚きは、川島さんが、横手支局長を退任して埼玉県越谷市へ移って以降、脱原発の集会に参加したり、安倍政権による集団的自衛権行使容認の閣議決定や安保関連法案に反対する行動に参加していたことである。
 追悼集によると、川島さんが参加していた行動の一つが「南越スタンディング」。市民一人ひとりが「9条壊すな!」「戦争させない」「アベ政治を許さない」などと書かれたプラカードを掲げて週2日、越谷駅頭に立つ。肺がんが発症してからも、川島さんはスタンディングを止めなかった。
 
 偲ぶ会には、一緒にスタンディングをやっていた市民2人がかけつけ、「リハビリもしているというので、たとえ車いすになっても、いつの日かスタンディングに復帰してくれると思っていました。川島さんの逝去はあまりにも早すぎます。今の政治を立て直すため、まだまだ一緒に行動してほしかった」などと、早世を惜しんだ。

 彼は、私とのつきあいの場では政治に関して語ることはなかった。それだけに、こうした彼の一面を知って私は驚いた。そして、何が彼をこうした行動に突き動かしていたのだろうかと考えてきたが、追悼集を手にして納得がいった。
 
 秋田県横手市と言えば、去る8月21日に101歳で亡くなった反骨のジャーナリスト、むのたけじさんが在住していたところである。よく知られているように、戦意高揚のための記事を書いた責任を痛感し、敗戦の1945年8月15日に朝日新聞社を去り、郷里秋田県の横手市で週刊新聞『たいまつ』を発刊しながら反戦平和を訴え続けた人だ。
 追悼集によれば、川島さんは横手支局在任中にたびたび取材でむのさんを訪れ、その話に大変感銘を受けたという。よく「とってもかなわないや、すごい人だよ、いくとはっぱをかけられるんだよ」と話していたという。同じ新聞社の先輩、後輩としてウマが合ったのかもしれない。
 
 先輩記者だった武田文男さんが、追悼集に書いている。「(川島さんが入院前に病躯を押して“戦争法案”反対デモに加わったのは)百歳を超えて、なお反戦を唱える むのたけじ先輩へのエールだったのでしょう」
 むのさんの影響もあって、川島さんもまた、1人の人間として日本の前途に危機感を募らせていたのではないか。だから、病身にもかかわらず、その危機感を行動に移していたのだろう。そこにまた、私は彼の「誠実な生き方」を見た思いだった。  

2016.10.18 脱原発が県民に広く浸透
新潟県知事選で再稼働慎重派が勝利

岩垂 弘 (ジャーナリスト)

 10月16日におこなわれた新潟県知事選で、医師で原発の再稼働に慎重姿勢の無所属候補、米山隆一氏=共産、社民、自由推薦=が、同県長岡市の前市長で無所属候補の森民夫氏=自民、公明推薦=らを破って初当選した。この結果、安倍政権の原発推進政策は見直しを余儀なくされるのは必至で、衆院選を控えた野党共闘にも影響が出そうだ。

 新潟県知事選では、当初、これまで東京電力柏崎刈羽原発の再稼働に慎重だった泉田裕彦知事が4選出馬すると思われていた。これに対し、原発推進派の森氏も出馬を表明、このため、知事選は泉田氏と森氏の対決になるとみられていた。ところが、泉田氏が突然、不出馬を表明したことから、一時は森氏の無投票当選もあるのでは、との観測も出たほどだった。このため、全国の原発推進派は安堵し、一方、脱原発は泉氏の4選を期待していただけに落胆も大きく、危機感を深めた。
だが、次期衆院選新潟5区の民進党候補に内定していた米山氏が知事選告示1週間前の9月23日に民進党を離党し、知事選に立候補することを表明。これに対し、市民団体と共産、社民、自由の野党3党が米山氏を支援することを決定、最大野党の民進党は自主投票となった。民進党を支持する連合が森氏を支援することになったためだった。

 かくして、知事選は森氏と米山氏による事実上の一騎打ちとなった。争点は、原発の再稼働への賛否だった。なぜなら、同県には柏崎市と刈羽村にまたがる地域に巨大原発、すなわち東電柏崎刈羽原発(7基)があり、東日本大震災による東電福島第1原発の事故以来、稼働停止中だが、東電と政府はこれの再稼働を急いでいるからである。
 県知事に原発の再稼働を止める権限はないが、知事の同意が得られないと原発停止が長引く可能性がある。したがって、東電と政府は何としても知事の座に原発推進派をすえたかったわけである。一方、全国の脱原発派は、何としても泉田氏の再稼働慎重路線を継承する候補に勝ってもらいたかったわけだ。かくして、両派による激烈な選挙戦が戦われたのだった。
 
 組織力と資金力で劣る原発再稼働慎重派がなぜ勝利できたか。
一つには、市民団体と野党3党の共闘があったからと思われる。新潟県では、7月の参院選(1人区)で、野党統一候補が自民党候補を僅差で破って当選しており、その時の市民団体と野党の結束がまだ生きていて票固めで力を発揮した、と見て差しつかえないだろう。野党統一候補として当選した森裕子参院議員を知事選の選対本部長にすえたのも効いた。自主投票を決めた民進党が選挙終盤に蓮舫代表を送り込んだことも、少しは影響したかもしれない。

 それに、県外の脱原発派からの応援も勝利に貢献したのではないか。全国の脱原発団体は、傘下の人たちに、新潟県の友人、知人に米山候補に投票するようハガキや、電話、電子メールで依頼しようと呼びかけた。選挙運動を支援するために現地に人を派遣した団体もあった。こうした県外からの支援が新潟の有権者をふるい立たせたということもあったのではないか。

 でも、最大の勝因は、新潟県民の意識の変化ではないか。
 真の勝因を知りたくて、新潟市在住の元新聞記者に聞いてみた。彼は即座にこう言った。
 「原発再稼働慎重候補が勝った理由は、ひと言でいえば、新潟県民の意識の変化ですよ。県民意識の変化のきっかけは東電福島第1原発の事故です。新潟は福島の隣県。とても近いから、この5年の間に、県民は原発事故による被害の実態を知ったんですね。とりわけ、新潟県には福島県から避難してきた人たちが今なお3000人もいることが大きい。県民はその人たちとじかに接する中で原発事故がいかにひどいものかを知ったんですね」
 「中越地震の時、東電柏崎刈羽原発で火災が起きたことが決定的だったと言っていいでしょう。この時以来、多くの県民はこう思うようになったんです。あの程度の地震で原子力発電所で火災が起きた。もっと大きな地震がきたら、えらいことになるな、と」
 「要するに、原発事故で県民の意識が変わったんですね、原発の再稼働には反対だ、と。今度の知事選、言ってみれば県民の力の勝利ですよ」

 彼の話を聞きながら、私は、最近見た2つの光景を思い出していた。1つは、今月5日に目にした福島県の原発被災地の荒涼たる風景である。生き物が全くいないゴーストタウンと化した住宅街、朽ち行く家屋、雑草地と化しつつある稲田・・・。私は、その場に立ってこう思ったものである。原発被災地の惨状を知ったら、だれしも原発を再稼働させよなんて言い出せなくなるのではないかと。そして今、新潟県知事選の結果を見た私の心に浮かんでくるのは、「新潟でも原発被災地に思いをはせる人たちが増えつつあるのだ」という思いだ。

 もう一つの光景は、9月22日、滝のように降りしきる豪雨の中を「脱原発」を掲げて東京・代々木公園に全国から集まってきた人たちの姿である。約9500人。新聞・テレビはごく一部を除いてこの脱原発全国集会を報道しなかった。脱原発運動なんかやって何になるだろうと、軽視しているからだろう。
 でも、新潟県知事選の結果を前に私はこう思う。「脱原発運動は、鹿児島県知事選に続いてまた成果をあげた。これを機にさらに力をつけるにちがいない」と。