2022.08.16 今こそかみしめたい。「日本は77年間、戦争をしなかった」と
終戦記念日に思う 

岩垂 弘 (ジャーナリスト)

 きょう8月15日(月)は「終戦記念日」。1945年8月15日に日本が「ポツダム宣言」を受け入れて連合国に無条件降伏し、太平洋戦争が終結しことから、8月15日がそう呼ばれることになったわけだが、終戦当時、私は10歳、国民学校(小学校)4年生だった。それから、77年。私の脳裏には、この間の日本におけるさまざまな出来事が去来し、いずれも忘れ難いが、本日、私の心を満たしている感慨は「この77年間、戦争に行かずにすんだし、そのうえ、日本が戦争を起こしたり、他国の戦争に巻き込まれなくてよかった」という思いだ。

 日本の近代国家としてのスタートは明治維新(1968年)である。それから、今年(2022年)で154年になる。そのちょうど中間点に当たるのが、なんと日本が太平洋戦争で敗北した1945年(昭和20年)だ。したがって、これまでの日本近現代史は、1945年を境に前半の77年と、後半の77年に分けることができる。

 戦争ばかりしていた日本
 ある時、私は「前半の77年」の日本の歴史をたどってみたが、事実を知れば知るほど驚嘆してしまった。なぜなら、この77年間、日本は戦争ばかりしていたからである。
 
 近代国家になった日本の最初の戦争は、1874年(明治7年)の台湾出兵である。1871年(明治4年)、琉球(沖縄の別名)の首里王府に貢ぎ物を納めた宮古の貢納船が宮古に帰島する際、台風に遭って台湾の東海岸に漂着し、乗組員69人のうち水死を免れた66人が山中に迷い込み、54人がパイワン族に首をはねられて死亡した。当時、琉球が日本に帰属するのか清国(中国)に帰属するのかが問題化していた。明治政府は「琉球人民の殺害されしを報復すべきは日本帝国の義務」として、軍隊を台湾に派遣した。

 これに次ぐ戦争は日清戦争である。朝鮮に対する宗主権の維持をはかる清国と、清国を朝鮮から排除して朝鮮を保護下におこうとした日本との武力紛争だった。1894年(明治27年)8月に始まり、9カ月続いた。
 次いで、日露戦争。1904年(明治37年)2月から05年9月まで続いたが、朝鮮及び満州(中国東北部)の支配権をめぐる日本とロシアの戦いであった。
 
 大正時代には、二つの戦争をする。一つは、第1次世界大戦への参戦だ。1914(大正3年)に勃発した同大戦は、植民地再分割をめぐる英独を中心とした帝国主義国同士の戦争で、主戦場はヨーロッパだったが、日本は中国におけるドイツの権益を入手しようとドイツに宣戦を布告し、兵力を山東半島に送り込み、南太平洋の赤道以北のドイツ領を占領する。
 もう一つは、シベリア出兵。1917年(大正6年)、ロシア革命が起き、ソビエト政権が成立する。これを打倒しようと、アメリカ、イギリス、フランスなどの列強がソビエト領内へ侵攻。日本軍も18年(大正7年)8月、シベリアに上陸し、22年(大正11年)10月まで革命勢力と戦った。

 昭和に入ると、戦争、戦争、また戦争である。1931年(昭和6年)に日本が始めた満州事変は1937年(昭和12年)には日中戦争となり、それが、1941年(昭和16年)12月8日からの太平洋戦争につながってゆく。そして、敗戦(1945年8月15日)となる。

 日中戦争から太平洋戦争に至る戦争は「15年戦争」と呼ばれる。「15年戦争」での戦没者は軍人・軍属約230万人、外地で死亡した民間人約30万人、内地の戦災死亡者約50万人、計310万人とされる。戦争相手国の犠牲者は、中国を中心に約2000万人にのぼると言われている。

 要するに、「前半の77年」は、ならしてみると、まるで10余年ごとに戦争に突入しているという印象であった。まさに日本近現代史の前半は、戦争の歴史だったのだ。なぜ、そうなったのか。「日本人は本来、戦争が好きな民族なんだろうか」。そんな思いに襲われたこともあった。

 日本に77年続いてきた平和
 しかるに、後半の77年、つまり太平洋戦争に負けた1945年以降の77年間、日本が自ら戦争を起こすことはなかった。そればかりでない。朝鮮戦争、ベトナム戦争、イラク戦争、アフガン戦争といった戦争があったが、日本がそれに巻き込まれることはなかった。だから、日本人が戦場で他国の人を殺すということはなかった。もっとも、日本が戦争の一方の当事者である米国に軍事基地を提供し、間接的に戦争に加担するということはあったが。
 私個人についていえば、10歳以降、日本が戦争の当事者になることはなかったから、軍隊に徴用されることはなかった。もし、私がもう少し早く生まれていたら、少年兵や特攻隊員として戦地に送られていたはずだか、私は、「遅れて生まれてきた少年」であったために、戦場に行かずにすんだ。
 
 ともあれ、日本近現代史の前半が「戦争ばかりしていた時代」であったことを考えると、後半がずっと平和な時代であったことは、日本の歴史上、特筆に値することではないか、と私は思う。

 77年間の平和は憲法9条があったから
 大乱が続いた世界で、日本はなぜ77年間も平和を保つことが出来たのだろうか。私は日本国憲法第9条があったからではないか、と考える。
 第9条は、「戦争の放棄、軍備及び交戦権の否認」をうたっている。これは、日本を占領した連合国最高司令官マッカーサーの発案だったとされているが、当時の日本の帝国議会(いまの国会)はこれを受け入れだ。
 当時の日本国民がこの規定を受け入れたのは、「15年戦争」を経験した日本国民の多くが、「もう戦争はもうこりごり」「戦争はイヤだ」「戦争を再び起こすまい」「平和が一番」といった思いに傾いていたからだと思われる。そうした心底からの思いが、その後も日本国民の間で多数を占め、度重なる改憲の動きを押し返してきた、というのがこの77年間の流れだ、と私はみる。

 加えて、敗戦以来、日本国民の間で営々と続けられてきた反戦平和運動、原水爆禁止運動などが果たしてきた役割も見逃せない。こうした運動が、国民の間に「戦争よりも平和を。そのためには、憲法9条を守らなくては」という意識を定着させてきたのは間違いない。
 終戦記念日に当たり、私は切に思う。「今こそ、日本戦後史における憲法9条の意義を語り合う時ではないか」と。

2022.08.11 8月3日 我孫子から
韓国通信NO702

小原 紘 (個人新聞「韓国通信」発行人)

 友人読者から「韓国通信」は「看板に偽りあり」と皮肉られた。韓国について考えることは山ほどあるのに、つい、日々起こる国内と世界情勢のほうに目が向いてしまう。
 2日、米国のペロシ下院議長が台湾を訪れ大騒ぎになった。激増するコロナ患者、長引くウクライナ戦争、国葬をめぐるニュースで私の小さな頭脳はパンクしそうだった。

 8月3日、モヤモヤした気分で駅前に出かけた。連日35度を超す猛暑である。熱中症を妻は心配したが水筒とタオルを持ってクソ暑いなか出かけた。
 ステッカーは「九条壊すな!」「戦争させない」にくわえて新作「国葬NO!」の3種。焼けつくような暑さを避けてバス停の屋根の下で立ち続けた。

 「私は国葬には絶対反対だね」と言いながら年配の女性が話しかけてきた。「安倍は悪い。そんな人のために何故税金を使うんだ」と語気を強めた。
 「国民の半分が反対しているのに政治に利用するために国葬をするのは死んだ人にも気の毒」と安倍に同情するようなことを言ったら、「気の毒なことはない。変な宗教からお金までもらって、自業自得だ。同情する必要はない」と、元気なおばさんに活を入れられてしまった。
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 写真を撮らせて欲しいと男性が声をかけてきた。「どうして?」と言ったら、「めずらしいから」と日本語がほとんどわからない中国人が翻訳機を持って話しかけてきた。

 「何故国葬に反対するのか」。翻訳されたスマホの画面を見て私が答えた。「国葬に値する政治家ではない」
 「何が問題なのか」と画面はたずねる。
 「一口では言えないけど安倍元首相は国政を私物化した挙句、嘘をついてごまかした」
 「選挙で彼を選んだのは国民ではないですか」。彼が画面に向かって話すと日本語画面が出てくる。同時通訳だ。
 「民主的に選ばれても、悪いことをしたら批判するのは当然」。彼はうなずく。
 「一人でこんなことをしても意味がないように見えるが」と厳しい質問がスマホの画面に映し出された。私は強気になって、「少数者が多数者になる可能性はある」
 彼はすかさずスマホに語りかけた。「日本の民主主義は素晴らしい。中国人として学びたい」
 「謝謝」。私が知っている唯一の中国語だ。
 「中国はどうしたら民主主義国家になれると思うか」。難しい質問には少しあわてた。
 「中国、韓国、アメリカの民主主義についてあまり関心はない。僕には日本の民主主義が大切。中国の政治については中国人が考えるべきだ」と突き放すと彼は深くうなずき、「日本に来たばかりなのに日本人とこんな話ができてとてもうれしい」

 日本語学校で勉強中という彼は別れ際に「あなたを尊敬する」とお世辞を画面に残して熱い握手をして改札ホームへ消えていった。
 基本的な疑問から始まり、運動論、民主主義にまで及んだ彼の質問に舌を巻いた。

 バス停でこちらを眺めていた小学生たちに写真を頼んだら、ワイワイガヤガヤと撮ってくれたのが上記の一枚だ。「国葬について知っている?」と聞かなかったことが悔やまれる。
 
 この日、駅頭で会ったもう一人の中国人留学生のことも触れておきたい。
 「先生何しているのですか」と声をかけてきた。戦争反対と憲法守れ、国葬反対のステッカーを説明した。彼は私がボランティアをしている日本語教室に通ってくる地元の大学に通う留学生だ。その彼から先月の初めにコロナに感染したらしいとSOSのメールが来た。紹介できる病院を探すのに苦労したが、結局救急車で病院に搬送され自宅療養をした。全快して久しぶりに駅頭で再会した。私のスタンディングに興味深げだった。

 国葬の話を聞いた時、わが国で国をあげて追悼する人物として真っ先に思い浮かんだのはアフガニスタンで凶弾に倒れたベシャワール会の中村哲医師だった。武力ではなく愛の力でアフガンのために尽くした日本人として世界に誇るべき人物だ。
 それに比べて評価が全く異なる人物、射殺した容疑者を通して明らかになってカルト宗教の広告塔になった故人を国葬することへの批判の声は日ごと高まっている。反社会的集団に汚染された多くの政治家が次々と明らかになり国葬どころではなくなった。「日本の民主主義は素晴らしい」。通行人の中国人がもらした感想が面映ゆく感じられた。

 <語り継がなければならないこと>
 NHKの連続ドラマ『ちむどんどん』のヒロインの母親役の仲間由紀恵は好きな女優さんだ。ドラマで沖縄戦の経験した親として子どもたちの幸せのために戦争の悲惨さを伝えるシーンの説得力に感動した。
 雑誌「通販生活」<2022盛夏号>で読者から寄せられた「語りつぐ戦争のはなし」を読んだ。五木寛之、草笛光子、八名信夫さんらの話も興味深い。
 戦争を体験した最後の世代生存者たちが語る空襲、疎開、引き上げの話は戦後77年、戦争体験のない世代に属する私にはいつもになく貴重に思えた。特集を組んだ作家森まゆみさんの仕事はとても貴重だ。「戦争を知らない」世代と言われ続けてきた私がいつの間にか先輩たちの経験を引き継ぎ、次の世代に伝える番になった。
 戦争を体験した人たちが次々と亡くなっていく。残された者に何が出来るのか。先月、はからずも80才を迎えた。まだ人生の賞味期限は切れていない。やるべきことは多い。

2022.08.03 「ヒロシマの痛みを再現したい」
原爆の絵を描き続ける元電器会社ドイツ駐在員

西村奈緒美 (朝日新聞記者)

 広島が8月6日に78回目の「原爆の日」を迎える中、「一人ひとりの不条理な死にこだわりたい」との思いで原爆の絵を描き続ける男性(93)がいる。きっかけになったのは、被爆者が描いた3千枚もの絵だった。
 
 その男性は奈良市に住む河勝重美さん。1929年に東京で生まれた。4人のきょうだいの三男。長男は学徒出陣し、戦病死した。両親は生きて帰ってほしいと百度参りを重ねたが、かなわなかった。
 自身は旧制中学を卒業後、上智大学で経済学を学んだ。ドイツの大学で博士号を取得後、松下電器産業(現在のパナソニック)に入社した。松下電器が欧州初の拠点をドイツに設けることになり、ドイツの駐在員を30年ほど勤めた。
 原爆に関心を寄せるようになったのは、17年前のある出来事がきっかけだった。旧制中学の級友だった岡田悌二(ていじ)さんから相談が舞い込んだ。国立広島原爆死没者追悼平和記念館が呼びかけている被爆の体験記に自身の体験談を送るので、独語の翻訳を受け持ってほしいという頼みだった。
河勝さん
左端に立つのが河勝重美さん。後景の絵は河勝さんが描いた原爆の絵(河勝さん提供)
 
 岡田さんとは長い付き合いだったが、原爆について詳しい話を聞くのは初めてだった。2005年は原爆投下から60年が経とうとしていた。半世紀以上の月日を経てようやく語ろうとする級友の姿に心を揺さぶられるとともに、原爆がもたらす終わりのない苦しみを知った。
 岡田さんは1945年4月、父親の転勤で広島に転校した。学徒動員のため、爆心地から3㌔ほど離れた工場で働いていた時に被爆。原爆が投下された午前8時15分は工場の外で作業をしていたといい、当時の様子をこう振り返った。
 
 「強烈な青白い光線と熱波、激しい爆発音と爆風とその揺り戻しを全身に感じた」
 自宅は全焼していたが、両親は無事だった。家族で避難すると、体調が悪化した。
 「両親は髪の毛が抜け、皮膚の毛細血管が破れ、全身にシミが出るようになった」
 「当時、原因がわからないままポックリと突然死する『ポックリ病』が言われていて、被爆で突然死するとわかった」
 生と死が隣り合わせの世界。
 「我々は幸い助かったものの、明日をも知れない心細い思いをした」
 岡田さんは原爆を「悪魔の兵器」と呼ぶ一方、こうも訴えた。
 「若い人たちは原爆の残虐性についてよく知らなければいけませんが、アメリカの非難のみに終わらず、世界全体が平和に生きていける体制を作ることが大事です。そのためには、世界の若者が交流して理解を深め、戦争や原爆について話し合えるようにすることが必要です」
 翻訳後、岡田さんの体験記を独語で読んだというドイツ人の知人から思わぬ反応があった。「原爆が広島と長崎に投下されたことは知っていたが、こんなにも残酷なものだとは知らなかった」
 
 原爆の実態を世界にもっと伝える必要があるのではないか。河勝さんは原爆について調べようと、広島平和記念資料館を訪ね、資料を集めることにした。
 資料館には被爆者が描いた絵3千枚が保存されていた。川に折り重なる無数の遺体の絵もあれば、手や足が焼けただれ、目玉が飛び出て垂れ下がる絵もある。寄せられる絵は今も増え続け、5千枚を超える。
 
 資料館に何度も通ううち、河勝さんは被爆者が描いた絵を見てもらうことが、原爆の惨状を訴えることになると考えるようになった。被爆者が描いた絵のデータのうち、2300点分を利用申請し、絵を整理していった。これらの絵をまとめた本を出版できないかとドイツの出版社に打診したところ、とんとん拍子で出版が決定。刊行を引き受けた出版社の社長は本を世に出す意義をこう語った。
 「被爆者が七転八倒して苦しんだ絵や文章を見て、何としてでも出版しなければという思いにとりつかれた。広島で何十万人が死んだというような数字の検証、記録、写真や軍(主に米軍)の報告書は、娘の焼死体の傍らで呆然と立ち尽くす両親の極限の悲しみの絵の前には何の説得力もない」
 
 2年後には日本語版を出版し、その後、英語版も出版。ロシア軍のウクライナ侵攻を受け、ロシア語版のデジタル書籍も予定している。
 本のタイトルは『原爆地獄』。編集には河勝さんと岡田さんに加え、旧制中学の級友だった工業デザイナーの栄久庵憲司(えくあん・けんじ)さんも加わった。栄久庵さんもまた、被爆によって父と妹を亡くしていた。栄久庵さんは本に収録された「私とヒロシマ―父と妹の死」の文章にこんな一文を寄せている。
 「十数万人が一度で命を失い、数十万人が被爆し、いまだその被害に苦しんでいる」
 岡田さんと、栄久庵さんはすでに他界している。
 
 被爆者が描いた絵と向き合ううちに、河勝さんは「広島の痛みを再現したい」と考えるようになった。「言葉よりも視覚に訴えた方が効果的ではないか」。そんな思いも募った。それで、自分も原爆の絵を描いてみようと思い立った。
 河勝さんの絵に登場するのは、無数の市民だ。「市民は歴史の中で埋もれてしまう存在」。河勝さんは原爆の惨劇を目の当たりにするにつれ、そんな思いを強くしていった。
 
 ある日、ドイツ軍の無差別爆撃を受けたスペインの都市、ゲルニカで自分の原爆の絵を展示したいと思いついた。1937年、自治政府が統治していたバスク地方の聖地ゲルニカを史上初の無差別爆撃とされる空爆が襲った。民衆を標的にした空からの無差別殺戮のさきがけとされ、パブロ・ピカソが怒りの絵筆をとって大作『ゲルニカ』を描き上げた。
 広島とゲルニカ市は同じ運命をたどった都市として、広島市長と広島平和記念資料館の館長が2018年にゲルニカ市を訪れ、原爆の焼土から芽を出した木の苗木を贈呈し、友好関係を結んでいた。
 資料館の関係者に相談したところ、シンポジウムで来日するゲルニカ市の実業家を紹介してくれた。原爆の絵をゲルニカ市の市民に見てほしいと伝えると、市の担当者に掛け合ってくれた。
 今年4月、ゲルニカへの空爆85周年の記念事業の一環としてゲルニカ市のカルチャーセンターで河勝さんの絵が展示された。炎に追われる人▽燃える原爆ドーム▽死傷者の顔など6点で、どれも見る者に原爆による苦しみを訴える。
 
 今年は原爆投下から77年を迎えるが、核軍縮を取り巻く環境は厳しい。
 2月に起きたロシアによるウクライナ侵攻では、プーチン大統領が演説で「ロシアは世界最強の核保有国の一つだ。我が国への攻撃は侵略者に悲惨な結果をもたらすのは誰も疑わない」と米欧に警告。戦略核の部隊を特別態勢にし、「核の脅し」を続けている。
 6月には核兵器禁止条約の第1回締約国会議がオーストリアで開かれ、日本からも被爆者や高校生の平和大使が参加したが、日本政府は核保有国が不参加であることを理由に参加しなかった。
 
 河勝さんは「『平和』という抽象的な概念には言葉のむなしさがある」と語る。個々の苦しみや痛みを引き受けようとするからこそ、戦争は絶対に繰り返してはいけないという怒りにも似た感情がわき上がってくるのだという。
 無差別攻撃を受けた一人ひとりの不条理な死を忘れない――。河勝さんはそんな思いを胸に、今度は長崎の絵を描こうと構想を練っている。

<西村奈緒美(にしむら・なおみ)>横浜国立大学大学院を修了後、時事通信社に入社。2013年に朝日新聞社に移り、奈良総局や東京本社社会部を経て、2021年から新潟総局。

2022.06.20  それぞれが可能な限りのスタイルで平和のための活動を
        「声なき声の会」が3年ぶりに6・15集会

岩垂 弘 (ジャーナリスト)

 6月15日(水)夕、参議院議員会館地下1階の会議室で、参加者約30人のささやかな集会があった。反戦市民グループの「声なき声の会」主催の「6・15集会」。62年前の日米安保条約改定阻止運動(60年安保闘争)の中で亡くなった東大生・樺美智子さんを追悼する恒例の集会だったが、ウクライナ戦争の最中とあって会場には緊迫感がただよい、「平和実現のために今こそ、1人ひとりが行動を起こさねば」という発言が目立った。
それぞれが可能な限りのスタイルで平和のための活動を
樺美智子さんを追悼するために国会南門前に集まった「声なき声の会」の人たち。
遠方に見えるのが国会議事堂(2022年6月15日午後7時過ぎ写す)

 1960年、岸信介・自民党内閣が日米安保条約改定案(新安保条約)の承認案件を国会に上程。社会党(社民党の前身)、労組、平和団体などによって結成された安保改定阻止国民会議が「改定で日本が戦争に巻き込まれる危険性が増す」と改定反対運動を展開。これに対し、自民党が5月19日、衆院本会議で承認案件を強行採決したため、これに抗議して全国から集まってきたデモ隊が連日、国会議事堂を取り囲んだ。
 千葉県柏市の画家、小林トミさんと、その仲間の映画助監督の2人が6月4日、「誰デモ入れる声なき声の会 皆さんおはいり下さい」と書いた幕を掲げ、新橋から国会に向けて行進を始めた。岸首相が「私は『声なき声』にも耳を傾けなければならないと思う。今あるのは『声ある声』だけだ」と述べたので、「声なき声の会」と名乗った。すると、沿道にいた市民が次々と行進に加わり、その人たちによって「声なき声の会」が結成された。
 6月15日には全学連主流派の学生たちが国会南門から国会構内に突入して警官隊と衝突、その混乱の中で樺美智子さんが死亡した。抗議の声があがる中、新安保条約は6月19日に自然承認となった。

 その後、声なき声の会は「日米安保条約に反対する運動があったことと樺さんの死を決して忘れまい」と、翌61年から毎年、6月15日に都内で集会を開き、集会後、国会南門で樺さんへの献花を続けてきた。
 が、2020年と2021年はコロナ禍のため6・15集会を中止し、国会南門での献花のみをおこなってきた。このため、今年は3年ぶりの6・15集会となった。

 この集会は何かを決議するということはしない。その代わり、参加者全員が発言する。それも、何を話してもかまわない。60年安保闘争との関わりや、自らの近況や、地域で起きていることを報告する人もおれば、内外の政治情勢に対する感想を語る人もいる。

 今年の集会も中高年齢者が多かったが、ロシアによるウクライナへの軍事侵攻が続いている時期での開催だっただけに、そのことに関連する発言が目立った。
 ある男性は「ウクライナの悲惨な現実が毎日報じられている。それを見ていると、自分は何でこう無力なんだろうという気持ちでいっぱいになる。何にもしないのはよくないと、在日ウクライナ人の集会に出かけていったが、戦争は止まない。どうすればいいんだろう」と語った。
 これに対して、さまざまな発言があったが、その中には、こんな提案があった。
 「かつてベトナム戦争に反対して運動したベ平連が掲げたスローガンに『殺すな!』というのがあった。今こそ、『殺すな!』と言わねば」
 「今こそ、私たちは世界に向けて『戦争反対』『安保破棄』と宣言しよう」

 ウクライナ情勢ばかりでなく、他の問題にも関心を持とう、という発言もあった。ある参加者は「ウクライナのことだけを考えていてはいけない。また、自分の国のことばかり考えていてはいけない。ミャンマーのこと、シリアのこと、中国の人権侵害にも目を向けなくては」と訴えた。

 運動の進め方についても、こんな発言があった。
 「平和を実現するためには、結局、1人ひとりが声を挙げてゆく以外にない」
 「自分のできることを背伸びしないで長く続けることが大切。例えば、街頭でスタンディングを続けるとか」
 「地に足がついた運動をやる必要がある。それには、個人、個人が地域でつながることが大切だ」
 「権力者に対して監視の目を持とう」
 「選挙には必ずゆきましょう」

 ウクライナ戦争を機に、日本国民の中で軍備増強や日米軍事同盟強化を望む声が強くなりつつあることを懸念する声もあった。68歳の男性は、こう話した。
 「5月5日の東京新聞に共同通信社が実施した世論調査の結果が載っていた。それによると、日米同盟関係を強化すべきが22%、今の同盟関係のままでよいが65%、同盟関係を薄めるべきが11%、同盟関係を解消すべきが1%。なんと日米安保条約破棄は1%に過ぎない。60年安保闘争は何だったのか」
 これに対し、72歳の男性から、こんな発言があった。
 「60年安保闘争があったから、政府は軍拡に走らず、経済成長の道を歩んだ。このため、平和がこれまで続いてきた。安保反対運動があったからこそ、私たちは平和に暮らせたのだ。この際、そうした事実を改めて認識したい」

 集会後、参加者たちは国会南門に向かい、南門に生花を供えて樺美智子さんを偲んだ。
2022.06.11   39年ぶりに“出会った”英国グリーナムコモンの女性たち
  米国の核ミサイル配備に抵抗して19年

岩垂 弘 (ジャーナリスト)


 6月3日の夜11時過ぎ、テレビのスイッチを入れたら、NHK・Eテレの画面で、高齢で大柄な外国人女性がしゃべっていた。画面の下の方に目をやると、小さく「レベッカ・ジョンソン」の文字。私は仰天してしまった。「39年前に、英国のロンドンで会った女性じゃあないか」。テレビの画面から、私は、その時の女性、レベッカ・ジョンソンさんが健在で今なお世界の核兵器廃絶運動の先頭に立っていることことを知り、改めてその生き方に感服せざるをえなかった。

 NHK・Eテレで放映された番組は『核ミサイルを拒んだ女たち 証言 グリーナムコモンの19年』と題するドキュメンタリーだった。2021年にフランスで製作された。

 1983年の秋、西欧で反核運動が高揚した。
 きっかけとなったのは、1979年12年に開かれた北大西洋条約機構(NATO)理事会の「二重決定」だった。一言でいうと、米国の新型中距離核ミサイル(パーシングⅡ、巡航ミサイル)のヨーロッパ配備を進める一方で、米国とソ連の間で中距離核戦力(INF)削減交渉を進める、という決定だった。
 これは、70年代後半からソ連がヨーロッパ向けに中距離核ミサイルSS20の配備を始めたことへの対抗措置だった。具体的には、83年後半以降にパーシングⅡ108基を西ドイツに、巡航ミサイル462基を英国、イタリア、ベルギー、オランダの5カ国に配備するというものだった。

 この決定に衝撃を受けたのは西ヨーロッパの市民たちである。「これでは、西ヨーロッパが米ソによる核戦争の舞台になるのでは」という恐怖がまたたく間に各国の市民の間に広がった。「ヨーロッパをヒロシマにしてはならない」という危機感から、「ノーモア・ユーロシマ」というキャッチフレーズが生まれた。「ユーロシマ」とは、「ヨーロッパ」と「ヒロシマ」をだぶらせた造語だった。

 81年後半から、西ヨーロッパ各国の首都や大都市で、米国の新型中距離核ミサイルの配備に反対する集会が相次いで開かれた。配備開始の83年秋には、配備反対の集会が最高潮に達した。とくに10月22日から30日にかけ、ボン、ロンドン、ローマ、パリ、ストックホルム、ウィーン、ブリュッセル、ハーグなどで大規模な反核集会が連続して開かれ、参加者は総計で約200万人に達した。世界のメディアは、こうした一連の反核集会開催を「西欧の“熱い秋”」と呼んだ。

 当時、全国紙の記者をしていた私は、これをこの目で見たいと、西ドイツと英国へ飛んだ。英国では、ニューベリーという町にあるグリーナムコモン米空軍基地へ向かった。ここに米国の巡航ミサイルが配備されることになったため、女性たちが基地周辺でキャンプしながら配備反対運動をしていると聞いたからだった。

 その米空軍基地は、ロンドンから西へ約80キロ、列車で約1時間のところにあった。牧場や林、畑が続く田園地帯のまっただ中だった。金網に囲まれた基地の周囲は約14キロ。金網の外の4カ所に、女性ばかりの「平和キャンプ」があり、その最大規模のものが基地正門のすぐ外にあった。そこには、ビニールとシートでつくられた粗末なテントが20ほど。女性たちはここに寝泊まりしながら、基地内の動きを監視していた。

グリーナムコモン基地の女性たち (2)
米国の核ミサイルの搬入に反対して英国のクリーナムコモン米空軍基地の周辺
でキャンプを張る女性たち(1983年10月15日、筆者写す)


 テントにいた女性によると、英国各地から集まった女性たちがここで「平和キャンプ」を始めたのは81年9月から。それ以来、「非暴力」をモットーに、基地正門前での座り込み、基地への侵入、金網に身体を鎖でくくりつける、といった活動を続けてきたという。
 英国人と名乗る若い女性が語った。「常時、キャンプにいるのは4、50人です。年齢は19歳から65歳まで。もちろん、英国女性ばかりではありません。米国、ドイツ、フランス、デンマーク、スウエーデン、オーストラリア、ニュージーランド、日本からも来ています」。レズビアンも加わっていた。

 これまでに逮捕されたのは延べ約400人。そのうえ、地元の自治体によって何度もテントが撤去された。でも、そのたびにキャンプを再建したという。夜、テントに石を投げられることもある。自然環境も厳しい。10月半ばというのに風は冷たく、私が訪れた時、女性たちは、たき火をしていた。真冬には氷点下になるとのことだった。

 その後、ロンドンで、「平和キャンプ」のリーダーのレベッカ・ジョンソンさんに会った。当時、29歳。彼女はオートバイに乗ってやってきた。これで、ロンドン-グリーナムコモン間を往復しているとのことだった。
 彼女は語った。「わたしたちには、人間を絶滅させる核戦争を起こさせない義務があると思うの。私たち普通の人間には、自分の体しかない。だから、この体を使って核兵器に立ち向かうしかない。それが、わたしたちの非暴力直接行動なんです。わたしたちへの支援は世界の各地に広がっています」

 それから1カ月後、グリーナムコモン米空軍基地に米国の巡航ミサイルが搬入された。これに対し、平和キャンプの女性たちは、12月12日に両手を数珠つなぎして基地を包囲する抗議活動をおこなった。これには、西欧各国から約3万人の女性が駆けつけ、基地を取り巻いた。
 NHK・Eテレで放映された『核ミサイルを拒んだ女たち 証言 グリーナムコモンの19年』は、キャンプの女性たちのさまざまな抗議活動を紹介したものだが、この時の基地包囲の映像も収められていた。

 グリーナムコモン米空軍基地への搬入を皮切りに、米国の新型中距離核ミサイルは西欧各国に次々と配備された。西欧の反核運動は敗北した形となったが、グリーナムコモンの女性たちは、「平和キャンプ」をやめなかった。

 ところが、1987年、西ヨーロッパに配備されていた米国の中距離核ミサイルとソ連が欧州向けに配備していた中距離核ミサイルをも含むすべてのINFを廃棄する画期的な条約が、レーガン米大統領とゴルバチョフ・ソ連共産党書記長の間で結ばれる。
 米ソ両首脳をINF全廃に踏み切らせたものは一体何だったのか。私は、グリーナムコモンの女性たちをはじめとする西ヨーロッパの民衆による大規模な反核運動もその一つだったんだと思い、INF全廃条約を心から歓迎した。

 この条約に基づき、グリーナムコモン米軍基地から巡航ミサイルが撤去されたのは1991年である。しかし、女性たちは「平和キャンプ」をやめなかった。彼女たちがキャンプを閉じたのは2000年。この年、この米軍基地が閉鎖されたからだった。

 レベッカ・ジョンソンさんは、その後も英国内外で反核運動を続けたようだ。労働党の国会議員になった、という話が日本に伝わってきた。
 『核ミサイルを拒んだ女たち 証言 グリーナムコモンの19年』は、彼女がICAN(核兵器廃絶国際キャンペーン)の共同議長を務めたことを伝えていた。ICANは、2017年に国連で採択された核兵器禁止条約の成立に貢献したとして、その年のノーベル平和賞を受賞した国際NGOである。39年前にロンドンで会った英国人女性は今や、世界の核兵器廃絶運動のリーダーとなっていたわけで、私は心の中で拍手を送った。

 それにしても、グリーナムコモンの女性たちの活動をドキュメンタリー映画にしたフランスの映画人に敬意を表したい。1954年に日本で起こり、世界に広がった核兵器廃絶運動で、最初に声を挙げたのはやはり女性たち(東京都杉並区の主婦たち)だった。でも、彼女たちを主人公にした映画はまだない。

2022.05.30 コロナ禍の二つの出来事とウクライナの教訓
 韓国通信NO698

小原 紘(個人新聞「韓国通信」発行人)

 山口県阿武町で起きた4,630万円の誤送金事件と知床の観光船遭難事故が連日マスコミを賑わしている。
 
 コロナで外出を控えてきた市民たちが観光地に繰り出し始めた矢先の海難事故。医療から見放された患者と医療従事者の過重労働、コロナ貧困などまるで無かったかのように、今も続く毎日3万人を越す感染者を無視して、この国は経済に舵を切った。
 船会社の責任は当然だが、無きに等しい安全対策を放置してきた国の責任はさらに重大だ。根っこは8年前に起きた韓国のセウォル号事件と同じ、経済優先、人命軽視が生んだ人災だ。船会社の社長を悪者にして済ますなら犠牲者たちは浮かばれない。

 同時期に露見した誤送金事件は9割ほどの資金が町役場に逆流するという複雑な側面を見せているが、振り込まれた人が金を「返さない(返せない)と」言い出して世論が炎上した。
 銀行関係者ならわかることだが、463件の振り込みを一人に振り込むことは断じてあり得ない。一瞬の操作で1億数千万円が騙し取られた三和銀行(現三菱UFJ銀行)事件以来、為替のオンライン操作は特別に厳しいチェックを受けるようになった。単純な操作ミスでも金融機関の責任である。原因は町側の振り込み依頼のミスしか考えられない。ずさんな振込み依頼を棚にあげて町は「被害者」になり、振り込まれた人を悪者にする構図である。

 冷静に考えたらそれほど難しい問題ではない。コロナ疲れのせいか、的外れの議論に終始している。バイデン大統領と岸田首相の共同声明もその例に洩れない。
 ウクライナとバイデン大統領来日のせいか、鬱々とした気分で五月も終わろうとしている。そろそろ「マスクは外そうか」と政府のオエライサンが言い出した。「アベノマスク」と「118回のウソ答弁」で政府の信用はガタ落ち、誰も信用しなくなった。
 ウクライナみたいになったら大変。バイデンの「米中戦争への招待」に日本中が金縛りになった。軍事予算を2倍に、日米同盟の強化、核を保有すれば「拡大抑止」になる。こんなデタラメな理屈が街に溢れている。どさくさ紛れに憲法を無視したコペルニクス的転換が行われようとしている。ウクライナから学ぶことは敵を作らないこと、アメリカの兵器産業のセールスマン、バイデンの口車に乗らないことだ。

 日本政府が戦争回避の努力をしているとは思えない。日々のウクライナ情勢の分析を防衛省の関係者に任せるテレビ報道から戦争が起こりそうな雰囲気がまき散らされる。平和憲法を持つ経済大国としてやれることは山ほどあるはず。  
 「理想論」、「平和ぼけ」と批判する人が多いが、武力に依らない平和の実現こそが現実味を帯び始めてきた。仮に社会保障費全額を軍事費に回しても平和の保障は全くない。

 全世界に平和使節団を送ることを提案したい。政治の仕組みが違う国に姑息なバイデン流「自由と民主主義」を押しつけず、殺し合い、戦争を避けるためにわが国が出来る世界貢献である。ウクライナ戦争から日本政府とメディアの「平和ぼけ」が見えてきた。
2022.05.26 少子化時代の高校入試
 ここでも進む格差の拡大

小川 洋 (教育研究者)
 
 かつての高校入試は、全県一斉・共通問題で実施されるものだった。それが大きく変わったのは1993年春、文部省(当時)が、進路指導から偏差値を追放せよ、と躍起になって旗を振った時からだった。多くの府県で推薦入試の拡大、入試の複数回実施など、受験競争の緩和策が採用され、また個性を尊重するという観点から面接や作文あるいは集団討論を課すなど、選考の多様化も進んだ。しかしここ10年余りは、推薦入試の縮小・廃止また入試回数を一回に戻すなど、全国的に学力回帰の傾向が強まりつつある。さらに学力試験の多層化ともいうべき変化もみられる。

15歳人口の急増・急減と通学区の撤廃
 80年代後半から90年代初め、第二次ベビーブーム世代が高校に進学し、どこの府県も増える生徒の受け入れ対策に追われた。それが受験競争の過熱化の原因でもあったのだが、90年代、15歳人口は一転して急減期に入った。全国の教育委員会は、入試改革の一方で統廃合を含む高校の再配置計画を始めたのである。

 2000年代に入ると、多くの府県で通学区制の見直しが進められた。戦後長らく普通高校を中心として通学区が設定されてきたが、規制緩和の流れもあり、通学区を再編ないし全廃する府県が相次いだ。22年段階では25都府県で通学区が全廃されている。他の道府県でも隣接学区の受験機会の拡大など、通学区制限を緩める動きが続いている。公式的な政策目的は、生徒たちの選択の幅を広げるというものだが、制限の緩和は必然的に人気のある高校(都市部の進学校など)と不人気な高校との二極化をもたらし、教育委員会にとっては統廃合の候補を絞りやすい環境が生まれる。地理的・歴史的に多様な地域社会を抱えた府県ならば、通学区の廃止が受験生の学校選択にそれほど大きな影響を与えないが、交通網の発達した大都市圏で学区制限がなくなれば、受験可能な学校数は大幅に増え、受験生の流れは大きく変化する。

 典型例として14年度に通学区が全面撤廃された大阪府がある。府では3年連続して定員を割った公立高校を原則として廃校とすることが、12年の条例改正によって決まっていた。今年度は人口5万を超える府最南部の阪南市にある府立高校が、3年にわたって定員を割ったとして廃校が決定された。前年度の入学者数は定員に1名足りなかっただけであり、入学者数の変動にあわせてクラス数を調整するという対策をとる余地もあったはずだ。大都市圏にありながら、市内に高校が一校もないという全国的にも異例な事態が生まれようとしている。

 関東圏では東京都が03年、埼玉県は04年、神奈川県は05年と、通学区が相次いで廃止され、大阪府も含め、いずれの府県でも偏差値に基づいた受験校選びの傾向が強まりつつある。かつて偏差値追放の火の手をあげた埼玉県でも、中学校の現場では偏差値を利用した進路指導が復活するなど、偏差値依存が顕著になっている。

「難関校」向けの入試問題
 しかし通学区の廃止は、選抜する側にも困難な問題をもたらした。応募者の学力水準は学校単位でいっそう均質化する。殊にいわゆるトップ校には、より広い地域から学力の最上位層が集中し、一般的な入試問題では受験生の得点が満点近くに集中して選考自体が困難になる。そこに登場するのが、自校作成や難易度の異なる入試問題である。学習指導要領の範囲から逸脱した難問は出せないから、難関校向けでは、単純に問題量を増やす、また思考力や創造力を問うとして、問題中の情報を複雑化するなどして、受験者間の得点差が開くようにするのである。

 例えば英語の場合、会話体の文章題では、一般試験では2人の会話だが難関校向けでは3~4人の会話にして、正解を見極めるには強い集中力や分析力が必要となるようにする。また長文読解問題では、難関校向けには文章の長さを一般入試の数倍にするほか、多少複雑な構文を加えるなどである。要するに大量の複雑な情報を如何に効率的に処理できるかが試される。
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 自校作成は2001年に東京都で始まった。初めに日比谷高校、その後、実施校を増やし14年からは15校を3つのグループに分け、共同して作成する体制に変更された。しかし、18年には再び自校作成が復活し、22年入試では11校(内1校は英語のみ)で実施されることになっている。岡山県の場合は一校のみの実施で事情は多少特殊である。岡山市と倉敷市では人口増加に応じて新設校が相次いで開設されたが、それぞれ全体で合格者を決めたうえで、機械的に各校に振り分ける方式が採用されていた。しかしそのなかで岡山朝日高校は、江戸時代の藩校から旧制一中の系譜につながり、有力な政治家や実業家を輩出してきた伝統校として特別視され続けていた。99年に岡山市内の5校は単独選抜となったが、朝日高校に学力最上位層が集中したこともあり、04年から自校作成問題が使われるようになった。

 神奈川県では13年まで、いわゆる難関校に自校作成が認められていたが、その後、見直しが進められた。22年は「学力向上進学重点校」など、県の指定する18校で共通学力検査の他、教育委員会が「筆記型特色検査」として用意する英語と国語の2題と、5つの教科横断型問題から学校の選ぶ2題が課される。千葉県でも22年に、共通学力テストの他に、県立千葉高校のみで県教委の用意する「思考力を問う問題」が初めて採用される。昨年秋に示された問題例は、共通試験より難度の高い数・英・国3科目を60分で解くものであった。

 埼玉県では17年から一般問題の他に、数学と英語に「学校選択問題」が用意されるようになり、22年入試では進学校と目される22校が採用している。また大阪府の公立高校では、16年に入試制度が大幅に変更され、一般入試では、国語・数学・英語の問題が難易度別にA(基礎的問題)、B(標準的問題)、C(発展的問題)の3種類が用意され、各高校が選択することになっている。22年度入試では進学校と目される普通高校27校がC試験を選択し、Aを選択しているのは職業系の専門学校が中心となっている。

今後の課題
 この30年ほど、公立高校入試方法は頻繁に変更され、その都度、教員や中学生は振り回されてきた。最近の学力回帰の傾向は自然な流れといえる。また少子化にともなう高校の再配置も避けて通ることのできないものであり、通学区制限の緩和も一つの選択肢である。ただし統廃合を進めるに際し、居住地に関係なくすべての中学生に高校教育へアクセスする権利を保障する制度設計は必要だ。

 また大都市圏の最上位校では受験生の均質化によって選抜が難しくなるという問題が生じている。その解決のために難度の高い問題を用意することには合理性がある。今のところ教育委員会が用意するものと個別の学校に委ねられる方式に分かれているが、自校作成には秘密保持の問題もあり、また作成に当たる教員の負担も無視できない。さらに受験生からすれば、塾などを利用した特別な対策が必要となり、経済的余裕のある家庭でないと受験準備も難しい。複数の問題を作成する場合、入試の公正さを保つ意味でも教育委員会が用意することを原則とするべきではないか。
2022.04.18 今こそ「ノーモア・ウォー ノーモア・原発」を
東京で「さようなら原発首都圏集会」      

岩垂 弘 (ジャーナリスト)

 「デモ行進では、ノーモア・ウォー、ノーモア・原発と叫びましょう」。集会の司会者がそう閉会あいさつをすると、会場から拍手が巻き起こった。4月16日(土)に東京都江東区の亀戸中央公園で開かれた「福島原発事故から11年 さようなら原発首都圏集会」。2011年3月に起きた東京電力福島第1原子力発電所事故を機に毎年春に「フクシマを忘れるな」をスローガンに東京で開かれてきた「さようなら原発集会」だが、今年は集会前にロシアのウクライナ軍事侵攻が始まり、その中でロシア軍による原発占拠が行われため、集会では、ひときわ「戦争そのもの、そして、戦争に使われかねない原発そのものをなくさなくてはいけない」といった訴えが溢れた。
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「会場の亀戸中央公園を埋めた参加者たち」

 集会を主催したのは、「さようなら原発」一千万署名市民の会。集会はこれまで3月に開催してきたが、新型コロナウイルスの感染拡大のため、2020年は集会を中止、2021年は参加人数を制限した首都圏規模の集会とした。市民の会としては、今年も3月中に開催したかったが、3月21日まで新型コロナウイルスまん延防止等重点措置が継続されていたため、開催を重点措置解除後の4月に延期。コロナ禍がまだ終息していないため、集会は首都圏規模となった。

 市民の会によると、参加者は2300人。自治労、日教組、私鉄総連、JR総連など旧総評系労組の組合員、生協組合員、護憲団体や市民団体の関係者らが集まった。
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 集会では、まず、市民の会呼びかけ人の鎌田慧さん(ルポライター)が開会あいさつをしたが、その中で鎌田さんは、次のように訴えた。
 「世界で悲惨なことが起きている。ウクライナで、ロシア軍が大量破壊や大虐殺をしているからだ。私たちはそれを止められない。まことに残念だ。この分だと、第2次世界大戦のような大戦になって、ホロコーストや広島・長崎のような大虐殺が起きるかもしれない」
 「ロシアが核を使うかもしれない恐れも出てきた。原爆が使われるかも知れないばかりでなく、原発が核爆弾と同じ役割を果たすことになるかもしれない」
 「しかるに、日本では、まるで火事場ドロボウ的な動きが出ている。安倍元首相や右派の人たちが、魚が水を得たように、ウクライナ情勢に乗じて軍備増強を唱えたり、非核3原則をやめて、核に対しては核で戦おう、なんて言い出していることだ。とんでもない発言だ」
 「私たちは、戦争が全くなくなるまで、そして、原発がなくなるまで、うまずたゆまず頑張ろう」

 次いで、各分野の代表が登壇したが、原子力資料情報室共同代表の伴英幸さんは「チョルノービリ原発占拠は驚愕だった。兵士たちは原発の近くに塹壕を掘ったと伝えられている。兵士たちには原発に対する知識はなかったろうから、放射線障害になったのではと心配している」と述べた。

 登壇者の訴えの中には、ウクライナ情勢とからんで政府や経済界に「ロシアからエネルギーが来なくなる場合に備えて原発再稼働を急ぐべきだ」との声が出ていることを注視すべきだ、との発言もあった。

 汚染水の海洋放出には反対
 福島原発刑事訴訟支援団の宇野朗子さんは、東電福島第1原発事故後の福島現地の状況を報告したが、その中で「事故から11年。今なお6万人が避難生活を余儀なくされている。子どもの甲状腺がんも増えている。なのに、政府は来年から、事故を起こした原発に貯まりつつある汚染水を海洋に放出しようとしている。そんなことをすれば、海の自然の体系が破壊されてしまう。都合の悪いことは水に流してしまおうなんてことは絶対に許せない」と訴えた。

 集会後、参加者は同公園周辺をデモ行進した。
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「福島第1原発の汚染水海洋放出反対を訴える人たち」

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「東海第二原発(茨城県東海村)の再稼働に反対する人たちの参加も」

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「ウクライナに平和を!」と書いたブラカードを背負った参加者も

2022.04.12 毎月3日に
韓国通信NO693

小原 紘 (個人新聞「韓国通信」発行人)

 我孫子駅頭でステッカーを掲げるようになってから6年たつ。
 金子兜太さんが書いた「アベ政治を許さない」を持って毎月3日に駅頭に立つ。ただそれだけ。気楽そうに見える1時間だが、終わって家に帰る時には緊張がとけてほっとする。

 スタンディングには前史がある。原発事故に抗議して毎週金曜日に首相官邸前に出かけるようになった。100回を超すあたりから参加者がめっきり減りはじめた。事故を「風化」させてなるものかと通い続けた。そこは多くの人たちとの出会いと学びの場、静かに考える時間になっていた。
 やがて金曜集会は安保法制反対の大きなうねりの中に溶解されていった。二つの集会が怒涛のようにひとつとなった歴史的な光景が今も忘れられない。多くの若者たちが合流した。1960年、安保条約が自然成立を迎えた日、高校の友人と議事堂前に座り込んだ55年前の記憶と重なる。雨上がりの雲間からのぞいた青空が印象にある。

 安保法制が強行採決され、地元に活動の場を移した。
 月一回の駅前行動。通り過ぎていく人たちを眺めながら、「こんなことして何の意味があるのか」と自問しながら、「これくらいしかできない」と自答を繰り返してきた。声をあげたりビラ撒きもしないずぼらぶりが長続きさせたのかも知れない。修行僧みたいに立っているだけで成果は求めない。「非国民」として排除される日まで続けるつもりでいる。

 今月の3日は生憎の雨だった。同時刻にいつもやってくる友人は「安倍政治の継続は許さない」のゼッケンを首からぶらさげ、私は「戦争反対!ウクライナに平和を」のステッカーを掲げた。安倍が首相をやめたらスタンディングはやめるつもりと言っていた彼だが、首相が菅になっても岸田になっても続けている。

<桜の花から戦争のきざし>
 世界中の政治家たちの顔がプーチンに見える。バイデン、習近平、マクロン、ゼレンスキーも岸田もプーチン顔だ。テレビの映像と音声が辛い。悲劇と狂気が溢れる日常。美しい桜さえ不吉に感じられる。
 ウクライナが広島・長崎、戦争末期の米軍機による空襲、沖縄戦、ベトナム戦争、南京大虐殺の蛮行、原発事故と重なる。核兵器の廃絶と恒久平和が求められる21世紀に「核戦争に備えて核保有」「敵が攻めてくる前に先制攻撃」「国のために武器を取れ」と想像もしなかった言説が巷にあふれだした。
 これが狂気でなくて何だろう。ウクライナ侵攻の露骨な政治利用! 日本政府の「にわか」平和主義と人道支援は戦争準備と裏表の関係にある。世界の反戦・反核運動と第三次世界大戦の分岐点に立つ現在、わが国の核兵器と敵基地攻撃能力の保有はアジアの緊張を一気に高めるに違いない。平和憲法を持ち世界平和に貢献すべき日本にアジアから注目が集まっている。核抑止力論はプーチンによって完全に破綻した。現実を冷静に受け止めたい。

2022.03.23 「ウクライナに平和を!原発に手を出すな!」
           東京で、さようなら原発緊急集会

岩垂 弘 (ジャーナリスト)


 「ウクライナに平和を」「原発に手を出すな」。2500人を超える人々のコールが、花冷えの会場に響き渡った。快晴の下、東京・代々木公園で3月21日(月・祝日)に開かれた「ウクライナに平和を!原発に手を出すな!3・21市民アクション」は、「戦争反対」と「脱原発」を訴える大合唱となった。
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「会場に林立する組合旗や団体旗」
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「会場につめかけた参加者たち」

 市民アクションの開催を呼びかけたのは、2011年の東日本大震災に伴う東京電力福島第1原子力発電所の爆発事故以来、脱原発運動をリードしてきた「『さようなら原発』一千万署名市民の会」と、「戦争をさせない1000人委員会」。
 ロシア軍によるウクライナへの軍事侵攻が今なお拡大するばかりか、プーチン・ロシア大統領が核兵器使用を示唆したり、ロシア軍がウクライナ国内の原発を占拠するなどの行為が伝えられているところから、市民の会、1000人委員会としては「さらに一般市民の犠牲者が増えかねない」「原発が戦争に使われる恐れが出てきた」と危機感を深め、急きょ、ロシアに停戦・即時撤退、原発への攻撃・占拠の中止を求める集会を計画したという。
 ロシア軍がウクライナに侵攻した2月24日以来、全国レベルの脱原発運動団体によるウクライナ反戦集会は初めてだ。

 集会は午後0時半に開会。参加者は「2500人以上」と発表されたが、日教組、私鉄総連、JR総連など旧総評系労組の組合員や護憲団体、宗教団体の関係者が目立った。
 
 集会では、諸団体の代表や関係者があいさつや報告をしたが、市民の会呼びかけ人の1人でルポライターの鎌田慧さんは、まず「ロシア軍は女性や子どもたちを攻撃している。これは人道にもとる。ロシア軍は1日も早く戦闘をやめ、撤退すべきだ」と発言。
 次いで、ロシア軍がウクライナの原発を攻撃・占拠していることに言及し、「原発が戦争にも使われる恐れがでてきた。原発はこれまでエネルギーを供給するものと考えられてきた今や今や戦争の手段に使われようとしている。こんなことは初めてのことで、原発が私たちにとって極めて危険なものであることが、改めて明らかになった」と述べ、「原発はそもそも核兵器から生まれたものだ。今こそ私たちは核からの脱却を目指さなくては」と訴えた。 

 続いて登壇した、やはり市民の会呼びかけ人の1人で作家の落合恵子さんは「メディアによる報道はさまざまで、何が本当の事実なのか私たちには分からない。しかし、私たちは、これだけは言える。『これは戦争なのだ。戦争ははやめろ』と」と話し、今こそみんなして反戦の声を挙げようと訴えた。さらに、「ウクライナ情勢を機に、元首相が、日本は米国と核兵器のシェアリング(共有)をすべきだなどと言い出した。加えて、国民民主党の玉木代表が、わが国の非核3原則を見直そうと言い出した。どちらも、時勢に便乗したとんでもない発言で、許せない」と述べ、日本の政界に起きている動きを注視するよう呼びかけた。

 骨折で歩行困難のため杖を突きながら登壇した、市民の会呼びかけ人の1人で作家の澤地久枝さんは「わたしは91歳。この歳になって、こんなブラカードをかかげてデモをしなくてはならない日がくるなんて思ってもみなかった」と切り出し、ロシア軍のウクライナ侵攻が澤地さんにとっていかに衝撃的なものだったかを表明した。
 そして、「目の前で肉親を殺されるウクライナの人たちの思いはいかばかりか」と、その心情に思いをはせた後、ロシア軍による原発占拠について「ロシア軍の占拠の狙いは何だろう。ウクライナ国民をおどかすために使おうというのだろうか」と強い懸念を表した。

 集会の最後は、参加者全員によるコール。それは「ウクライナに平和を」「原発に手を出すな」「戦争反対」「侵略はやめろ」の4つだった。その後、参加者は渋谷までデモ行進した。
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「参加者が持参したプラカード」
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「愛猫家も集会に参加」