2018.05.16  「デモ屋」と呼ばれた福富節男さん逝く
  ベトナム反戦や反安保闘争で奮闘

岩垂 弘 (ジャーナリスト)
 
 「安倍内閣は退陣せよ」と叫ぶ市民たちによって国会議事堂周辺で行われたデモが盛り上がった4月14日午後、国会議事堂からそう遠くない文京区民センターで、昨年12月18日に98歳で亡くなった、数学者の福富節男さんとお別れする会があった。1960年代から2000年代にかけて多くの反戦市民運動や反権力運動に参加し、常にデモの先頭に立っていたことから「デモ屋」との異名を奉られた福富さんにふさわしい追悼の集いだった。

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         「会場には福富さんの遺影が飾られていた」

 福富さんは戦時下の1942年に東京帝国大学数学科を卒業した数学者だった。専攻は位相幾何学。戦後、日本大学教授となるが、大学の運営をめぐって大学当局と対立し、1962年、同大学を追われる。翌63年に東京農工大学助教授となり、同教授を経て83年に退官する。

この間、福富さんが反戦市民運動に登場してくるのは、1965年のことである。
 この年、世界の焦点となっていたベトナム戦争が一気にエスカレーションする。2月7日に米軍機が北ベトナムのドンホイ基地を爆撃したからである。「北爆」の開始であった。これを機に、世界各地で米国のベトナム政策に抗議する反戦運動が燃えさかる。
 日本では、4月24日、作家の小田実、開高健、哲学者の鶴見俊輔らの呼びかけで、ベトナムの平和を要求する人たち約1500人が東京都千代田区の清水谷公園から東京駅までデモ行進し、その後、集会を開いて「ベトナムに平和を!市民連合(ベ平連)」を発足させた。日本における本格的な反戦市民運動の誕生であった。
 ベ平連は、その後、月1回の定例デモのほか、アメリカのニューヨーク・タイムズ紙に反戦広告を出したり、徹夜ティーチ・インを開催したり、アメリカの著名な平和運動家を招いて日米市民会議を催したり、横須賀に寄港した米空母イントレピッドの水兵4人の脱走に手をかす、といった多様でユニークな運動を展開する。

 同じころ、「ベトナム問題に関する数学者懇談会(ベト数懇)」が結成される。福富さんや東京大学、九州大学などの数学者がメンバーだった。当時のメンバーによると、フランスの数学者、L・シュワルツがこの年4月に来日し、日本の数学者と懇談。その席で、シュワルツは、米国の数学者のS・スメールが反戦運動を行ったことからカリフォルニア大学バークレイ校の職を追われそうなので、日本でも彼の救援活動を進めてほしいと要請、これを受けて日本でも救援の署名運動を行うことになり、ベト数懇が結成されたという。
 
 5月22日、福富さんは清水谷公園に出かけていった。この日はベ平連の第2回定例デモの日で、清水谷公園はその集合地だった。そこに集まってくる人たちにスメール救援を訴えるためだった。福富さんがベ平連の集会・デモに加わったのはこれが初めてで、以後、福富さんはベ平連の活動にのめりこんでゆく。

 当時新聞社の社会部記者だった私は、1966年から大衆運動の担当になった。ベ平連も取材対象になったので、ベ平連のデモがあれば出かけて行った。
 ベトナム戦争が1973年に終息したのにともない、ベ平連は翌74年1月に解散するが、結成から解散までの間、数え切れないほどのデモをした。1970年は日米安保条約が固定期限(10年)切れを迎える年であったから、条約の自動延長に反対する運動が労組や平和団体によって展開された。ベ平連は「インドシナ反戦と反安保」を掲げて6月から7月にかけ、35日間に及ぶ「毎日デモ」を繰り広げた。

 ベ平連デモの現場に行くと、いつも必ず福富さんの姿をみかけた。ベ平連のデモには常連が多かったが、福富さんのデモ参加回数を上回る人は思いあたらない。
 福富さんといっしょに活動した武藤一羊さん(社会運動家)は、「お別れする会」でこう語った。「デモをやるときは、警視庁と交渉してコースを決めなくてはならない。福富さんはその交渉役だったが、いつも徹底的に粘った。デモにとってできるだけ効果のある道路を確保しようとしていたんですね。警察側もたじたじだった。それに、デモをやっていても、とっさの判断が見事で、しかも、それを直ちに行動に移す人でしたね」
 他団体との共同行動にも熱心だった。

 なぜ、これほどまでに反戦デモに没入したのか。おそらく、若いころの戦争体験が、福富さんを反戦運動に駆り立てていたのではないか、というのが私の推測だ。
 1919年にサハリン(旧樺太)に生まれる。父は薬屋のかたわら製氷業をしていた。東京の旧制高校を経て1942年10月に東京帝国大学数学科を卒業するが、卒業予定は43年春。太平洋戦争の戦況が緊迫してきたため半年も繰り上げ卒業となったのだった。
 卒業と同時に徴兵され、樺太の砲兵隊に配属される。その後、陸軍中央特殊情報部で暗号解読の教育を受け、44年11月にフィリピンに派遣される。まもなく戦況の悪化で45年1月、マニラを脱出し、敗戦は東京で迎えた。
 一番多感な時期に戦争に翻弄されたと言ってよかった。そうした体験が、福富さんの行動の奥に「戦争にはなんとしても反対しなくては」との決意を刻みつけていったのではないか。
 
 それから、デモというものについて福富さんが抱いていた考え方も大きく影響したのではないか、と私は思う。
 福田さんは、デモは人と人とを結びつけるコミュニケーションの手段として極めて有効、という考え方をもっていたようだ。つまり、自分の考えていることを不特定の多数の人々に知らせ、理解してもらうためには、道路を歩きながら、言葉なりプラカードなりで自分の意見を周りの人々に伝えるのが有効だと思っていたようだ。デモの効用を信じていたのだ。

 福富さん唯一の著書である『デモと自由と好奇心と』(第三書館刊、1991年)には、こんな一節がある。
 「政治的意見であれ、社会的要求であれ自由にそれらを表現する権利が人びとにはある。誰もこの権利を使うことを力で押しとどめてはならない。なにかを広くうったえたいとき活字や映像のメディアを利用できる立場のひとは国民全体からみればたいへん少数だ」
 「デモは誰にでもできる。デモによる表現は文章表現より粗く、詳しさ、精密さ、豊かさでは劣る。しかし誰でもが意見の表明に参加し、協力できるところに特色がある」
 「デモは不特定の人びとが見ている。屋内の集会では主題に関心があって入場した人びととむきあうのだが、デモはそうでない人びととも接することができる」
 福富さんといっしょに活動した人の1人は、追悼文の中で「福富さんは左翼の演説やシュプレヒコールの言葉では市民に伝わらないとよく批判し、街頭に出て自らの宣伝術をみがいていた」と述べている。

 「観客民主主義を止めなくては」という思いが福富さんに強かったことも影響していたように私は思う。権力の側は国民を「観客席」に押し込め、国民を管理・支配しようとする。だから、真の民主主義を実現するためには、私たちは「観客」とさせられることから抜け出さなければならぬ。国の主人公となるために、さあ、集会に出よう、デモをしょう。そう考えていたのだろう。
 
 カレーライスをつくるのが趣味だった。ある時、私の自宅にも送られてきた。
福富さんに最後に会ったのは、2011年10 月29日に開かれた「吉川勇一さん・武藤一羊さんの80+80=160歳を祝う会」でだった。吉川さんは元ベ平連事務局長。祝杯の音頭をとったのが福富さんだった。この時の会場が文京区民センターだった。
 
 私は、戦後の反戦市民運動は3人のヒーロー・ヒロインを生んだと考えている。
 まず、1960年の日米安保条約改定阻止運動で、たった2人で「誰デモ入れる声なき声の声の会 皆さんおはいり下さい」という横幕を掲げて安保反対デモを始め、反戦市民グループ「声なき声の会」を創設した画家の小林トミさん。次は、ベトナム戦争中、「アメリカはベトナムから手をひけ」と書いたゼッケンを胸につけ8年余にわたり毎日、自宅から勤務先まで通勤した団体役員の金子徳好さん。そして、福富節男さんである。
 小林、金子さんはすでに故人。福富さんも亡くなったことで、3人の足跡はいまや歴史となった。
2018.04.20 ノンフィクション作家の野添憲治さん逝く
中国人・朝鮮人強制連行の実態解明に挑む

岩垂 弘 (ジャーナリスト)

 戦時下の中国人・朝鮮人強制連行問題を追及してきたノンフィクション作家の野添憲治さん(秋田県能代市)が4月8日に膵臓がんで亡くなった。83歳。同じく九州で朝鮮人強制連行問題を追及してきた記録作家、林えいだいさん(福岡県田川市)も昨年9月に83歳で亡くなっており、私たちは、強制連行問題に関する先達2人を相次いで失ったことになる。まことに残念である。

 野添さんは、秋田県藤琴村(現・藤里町)の生まれ。新制中学を卒業後、山林や土木に関する出稼ぎや国有林の作業員をした後、能代市に移住。大館職業訓練所を修了後、木材業界紙記者、秋田放送ラジオキャスターなどを経て、著述活動に入った。
 最初は、出稼ぎ少年伐採夫や開拓農民らを取材し、その記録を刊行していたが、取材の対象は次第に、戦争中に日本に連行され、労働させられた中国人や朝鮮人の問題に移ってゆく。それは、国民学校(小学校)での経験が忘れられないからだった。

 太平洋戦争が始まった1941年に国民学校に入学したが、5年生の夏のことだ。先生に引率されて村役場へ行った。そこには若い中国人の男性2人が座らせられていた。身体は泥まみれ。野添さんは、仲間と一緒に彼らの顔に砂を投げつけた。その顔はみるみる砂まみれになった。
 それから20年後、野添さんは、彼らが「花岡事件」の中国人労働者であったことを知る。花岡事件とは、大辞林によれば、太平洋戦争下の1945年6月、秋田県大館市の花岡鉱山鹿島組出張所で強制的に働かされていた数百人の中国人が虐待・酷使に抗して集団逃亡を図った事件だ。連れ戻されたが、拷問で113人が死亡したとされる。野添さんが砂を投げた2人の中国人は、鉱山から山を越えて逃げてきた労働者だったのだ。
 「まことに申し訳ないことをした」という贖罪の気持ちが、野添さんを中国人や朝鮮人の強制連行の実態調査に向かわせる。

 取材は難航を極めた。敗戦からかなりの時間がたっていたから、当時のことを語れる関係者(朝鮮人・日本人)は少なく、また、中国人や朝鮮人がいた労働現場の多くはすでに廃墟になっていたからだ。
 そればかりでない。関係者に口を開かせるのは簡単ではなかった。日本人には「加害の歴史」を隠したがる人が多かったからだ。警官や企業の関係者につきまとわれたこともあった。そのうえ、世間では「朝鮮人の強制連行なんてなかった」と主張する人も出始めていた。

 それでも、野添さんはついに、戦時下の労働力不足を補うために日本が中国人と朝鮮人に対して行った強制連行と強制労働の実態を明らかにした作品を完成させる。『シリーズ 花岡事件の人たち 中国人強制連行の記録』第1集~第4集(社会評論社、2007~2008年)、『企業の戦争責任―中国人強制連行の現場から―』(同、2009年)、『遺骨は叫ぶ―朝鮮人強制労働の現場を歩く―』(同、2010年)である。
 これらは、野添さんが9年の歳月をかけてまとめた「現場からの報告」であった。野添さんが訪れたのは、中国人が働いていた事業所が135カ所、朝鮮人が働いていた事業所が37カ所にのぼった。こうした著作により、多数の中国人や朝鮮人が強制的に日本に連行され、鉱山、炭鉱、トンネル工事、ダム工事、発電所工事などで働かされていた事実が具体的に明らかにされた。

 「平和」と「協同」に関する報道に寄与したジャーナリストを顕彰する活動をつづける平和・協同ジャーナリスト基金(PCJF)は、こうした著作を高く評価し、2010年に第16回平和・協同ジャーナリスト基金賞奨励賞を野添さんに贈った。が、贈呈式の日は、秋田県内で強制労働を経験した人を韓国で取材中で参列できず、妻の征子さんが代理で出席した。
 式場で征子さんは野添さんの受賞あいさつを代読したが、そこには、こうあった。
 「27歳から中国人強制連行や朝鮮人強制連行の取材をやってきましたが、初めてお褒めの言葉を、公の場でいただきました。お礼をいたします。この機会に、強制連行のことが1人でも多くの人に知ってもらえたら、うれしいです」
 また、地元記者のインタビューには「過去を知らなければ、現在も未来も創造できない。私にとって証言者は宝です」と答えている。
 
 その後も、いくつかの著作を発表したが、中でも注目されるのは、野添さんが編著者となって刊行された『秋田県の朝鮮人強制連行――52カ所の現場・写真・地図――』(秋田県朝鮮人強制連行真相調査団刊)だろう。

 秋田県朝鮮人強制連行真相調査団は、同県に連れてこられ、働かせられた朝鮮人の実態を明らかにするために1995年に発足した民間団体で、その代表委員・事務局長が野添さんだった。その調査団が20年かけて追跡した実態をまとめたのが本書で、朝鮮人が労働していた事業所が秋田県内に77カ所あったこと、そこに約1万4000人いたことが明らかにされている。労働 中に亡くなった朝鮮人は墓地に埋められたが、名前の分からない無縁仏が多いという。
 調査団は調査と併せて、県内の事業所で労働中に亡くなった朝鮮人を慰霊する活動も続けてきた。事業所跡に慰霊碑を建てたり、そこで慰霊式を催すといった活動だ。

 その会報「秋田県朝鮮人強制連行真相調査団会報」が私のところにも送られてきていたが、2016年2月20日発行の第85号を最後に途絶えていた。「休刊になったのかな」と思っていたが、野添さんの訃報に「おそらく、闘病のために発行できなかったのだろう」と思った。

 面と向かって直接会話を交わしたことはないが、日本青年団協議会が主催する全国青年問題研究集会の分科会の助言者席で同席したことか何回かある。その時は、木訥(ぼくとつ)にして重厚な人という印象だった。その度に、私は「この人は、徹底的に現場にこだわる類い希なルポライターなんだ」と尊敬の念を抱いたものだ。

2018.04.04 戦後平和運動のスター吉田嘉清さん逝く
運動の発展と統一に尽力

岩垂 弘 (ジャーナリスト)

 戦後平和運動のスターが逝った。平和運動家の吉田嘉清(よしだ・よしきよ)さん。3月21日、東京都杉並区の自宅で心不全で死去、92歳だった。ひたすら原水爆禁止運動の発展とその統一のために力を注いだ一生だった。
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 【吉田嘉清さん逝く】
 
 1926年に熊本県で生まれた。戦時下の44年、早稲田大学高等師範部に入学、そこから法学部へ進んだ。。
 敗戦とともに日本に進駐してきたGHQ(連合国軍総司令部)が矢継ぎ早に日本政府に民主化政策の履行を指令したことから、各分野で民主化が進む。早大でも、学園復興、学生の自主権確立、授業料値上げ反対などを掲げた運動が学生たちによって繰り広げられ、学生自治会の結成も進んだ。そんな中で、吉田さんは早大自治会委員長に選任される。全日本学生自治会総連合(全学連)の創立にもかかわった。
 
 ところが、50年6月に朝鮮戦争が勃発、GHQからの指令で政府がレッドパージ(共産主義者とその同調者の公職または民間企業からの追放)を始めると、早大でもレッドパージ反対闘争が起こる。10月17日、反対闘争を理由とした学生の処分に反対する学生たちが、大学本部で開会中だった学部長会議に乱入、これを阻止しようとした警官隊との衝突で吉田さんら143人が建造物侵入容疑で逮捕された。吉田さんはそのリーダーとされ、退学処分となった。日本学生運動史上、「第1次早大事件」と呼ばれる事件である。
 
 後年、吉田さんは当時のことを振り返り、こう語ったことがある。「あの戦争中、厳しい弾圧にもめげず戦争に反対した学生がいたことを知った。各分野でレッドパージが進行するのを見て、学園だけはそれを許してはならない、日本を再び戦前に回帰させてはいけない、と思った」
 
 私が早大に入学したのは1954年だから、大学構内で吉田さんの姿を見かけることはなかった。が、学生運動指導者としての吉田さんの令名は学内に鳴り響いていた。とりわけ、第1次早大事件で学生たちが大学本部に突入した際、吉田委員長が本部のバルコニーから学生たちに向けて行った演説が名演説であったと学生間で語り継がれていて、「吉田カセイ」は伝説上の人物となっていた。

 その時は、そんな伝説上の人物に会う機会があるとは思ってもみなかったが、私は仕事を通じてこの伝説上の人物に出会うことになる。
 早大を出た私は全国紙の記者となり、1966年から、社会部記者として「民主団体」担当になった。取材の対象は平和団体、労働組合、学生団体、青年団体、婦人団体、国際友好団体などだった。 当時、平和団体の代表的なものといえば、原水爆禁止関係の3団体であった。原水爆禁止日本協議会(原水協、共産党系)、原水爆禁止日本国民会議(原水禁、社会党・総評系)、核兵器禁止平和建設国民会議(核禁会議、自民・民社・同盟系)であった。取材で原水協を訪ねると、事務局長が吉田さんだった。

 原水爆禁止を目指すこれらの団体が出現したきっかけは、1954年に起きたビキニ被災事件である。太平洋のビキニ環礁で行われた米国の水爆実験で静岡県のまぐろ漁船・第五福竜丸が放射性降下物の「死の灰」を浴び、無線長の久保山愛吉さんが急性放射能症で死亡した事件だ。
 この事件は全世界に衝撃を与え、日本では東京都杉並区で自然発生的に主婦たちによる原水爆禁止署名が始まり、またたく間に全国に波及、署名は3200万筆を超える。こうした国民的な盛り上がりを背景に1955年夏、広島で第1回原水爆禁止世界大会が開かれ、これを機に広範な団体が参加する原水協が結成される。
 が、61年、原水協に対抗して自民・民社・同盟系の人たちが核禁会議を結成。さらに、63年には、運動論をめぐる意見の対立から、社会党・総評系が原水協を脱退して原水禁を結成し、原水禁運動は3つの潮流に分かれてしまう。
 原水協に残留した吉田さんは事務局長に就任。大会などにおける、その巧みな演説ぶりから「原水協の顔」と言われるようになり、その気さくな人柄から「カセイさん」と呼ばれた。
 
 63年以降の運動では、原水協と原水禁の間で対立抗争が続くが、評論家・吉野源三郎、英文学者・中野好夫らの呼びかけにより77年に協、禁に青年団、婦人団体、生協などの市民団体を加えた運動の統一が実現、世界大会も統一して開くようになる。吉田さんは協、禁、市民の3組織共闘の推進に力を注ぐ。
 運動の統一は国民に歓迎され、運動は空前の高揚を迎える。82年にニューヨークの国連本部で開かれた第2回国連軍縮特別総会に向けて3組織が共同して展開した「核兵器完全禁止と軍縮を要請する署名」は8000万筆を超す。そして、3組織は合わせて1200人を超すNGO代表団を軍縮特別総会へ派遣した。
 吉田さんは3組織の共闘のために尽力するかたわら、第五福竜丸の保存にも奔走する。
 
 しかし、事態は突如、思わぬ方向に急展開する。原水協に影響力をもつ共産党が、吉田さんを「独断専行があり、そのうえ原水禁・総評に屈服、追随した」と批判、原水協が吉田さんを代表理事から解任したからだ。「組織的統一に応じない原水禁や、安保、自衛隊を容認する社会党、総評と統一行動を行うことは反核運動を変質させるからまかりならん」というわけである。84年のことだ。吉田さんは統一世界大会準備委員会の委員でもあったが、原水協は吉田さんがその準備委員会へ出席することにも反対した。これに対し、吉田さんは共産党の批判にも、原水協による処分にも従わず、「違った立場、考え方があっても、反核平和のためには手を結ぶべきだ」「何よりも大衆が運動の分裂を望まず、統一を求めている」と主張し続けた。共産党は吉田さんを除名する。吉田さんを支持した哲学者の古在由重も共産党から除籍処分となったが、このことは文化人の間に波紋をもたらした。
 原水禁と市民団体は共産党と原水協のやり方に反発し、ついに86年に3組織共闘が瓦解し、原水禁運動は再び分裂してしまう。以来、その状態がずっと続いている。
 数年前から、脱原発運動や安保法制廃止運動では、原水禁を支える旧総評系労組と原水協を支える全労連系労組の共闘が行われるようになったが、原水禁と原水協には共闘の気配は全くない。
 
 吉田さんは原水協を追われた後、志を同じくする人たちと「草の根平和運動のセンターになりたい」と「平和事務所」を設立し、チェルノブイリ原発事故で被ばくしたエストニア共和国の人たちの救援運動などを続けた。その功績により、2010年、同国政府から赤十字勲章を授与された。
 
 葬儀・告別式は3月26日、近親者とごく少数の運動関係者、友人が参列して行われた。参列者の1人は「彼は奇人だった」ともらした。確かに、定職につくことなく、一生を大衆運動一筋で生きた吉田さんは、普通の市民の目には“奇人”に映ったかもしれない。が、定職につくことがなかった吉田さんが運動一筋に過ごせたのは、陰で吉田さんを支えた人がいたからだろう。妻のヒサ子さんである。
 出棺の直前、ヒサ子さんは「桜の開花を見ずに逝きました。しかし、モクレンやスミレの花を見ることができ、静かな臨終でした」とあいさつした。

 世界はまた核軍拡に向かいつつある。新たな原水禁運動の高揚が切に望まれるというものだ。「反核平和のためには広範な人々が手を結ばなくては」という吉田さんの訴えに今こそ耳を傾ける時ではないか。

2018.03.28  沖縄基地反対運動中傷番組、後退続く
          ―毎日放送再取材、訂正。MX「ニュース女子」打ち切り

隅井孝雄 (ジャーナリスト)
 
 毎日ラジオ(MBC)でフェイク発言を社長が謝罪した。MXテレビの沖縄誹謗「ニュース女子」はBPO(放送倫理・番組向上機構)の勧告うけて放送打ち切りに。偽ニュース番組を防ぐ努力が続いている。

▼毎日放送ラジオ 沖縄フェイク発言を社長命令で再取材、謝罪訂正放送
 毎日放送のラジオワイド番組で近藤光史パーソナリティーが、沖縄の基地反対運動について「純粋に反対運動をしている人は少ない」、「大部分は特定勢力から送り込まれている」、「中国や韓国の勢力が紛れ込み、内部から日本を分断している」などと発言したことが、問題となった(昨年12/26)。これについて毎日放送の三村恵一社長自らが記者会見(2/18)の席上「不適切な発言だった」と謝罪。その上で近藤パーソナリティーの沖縄に取材、番組での報告を命じた。
 近藤アナは自身の番組―毎日放送のラジオワイド「こんにちはコンちゃん、お昼ですょ!」のパーソナリティーとして沖縄県名護市を取材に訪れ、その結果を2月27日の番組でレポートした。「沖縄戦で肉親を亡くし、米軍普天間飛行場の辺野古移転反対運動に取り組む人に話を聞いた。家族の命を守りたいという思いがよくわかった」、「外部勢力が紛れ込み、日本を内部から分断しようとしていると発言したが、今回の取材ではそうした勢力はいなかった」などと番組内で語り、謝罪、訂正した。
 沖縄をめぐっては様々な偽言説がネット上にあふれている。社長が謝りの放送を謝罪し、再取材を命じたことで、毎日放送が見識をもった放送局であったことを示したといえよう。
 毎日放送は2017年1月29日、沖縄をめぐるフェイクニュースを徹底取材、偽の情報で基地反対運動誹謗する実態を明らかにするドキュメンタリー「沖縄さまよう木霊、基地反対運動の素顔」を放送し、文化庁芸術祭優秀賞、地方の時代優秀賞などを受賞している。

▼MXテレビ、「ニュース女子」放送打ち切り

 一方、沖縄基地反対闘争をテーマに、「日当をもらって座り込みに参加している」、「救急車の通行を妨害した」、「外部勢力が多数参加している」、「座り込みしているのはシルバー武闘派過激派集団だ」などの偽レポートを満載した「ニュース女子、沖縄特集」(MXテレビ2017年1月2日放送)は、「公正報道を旨とする地上波局も沖縄の基地反対闘争を誹謗するフェイクニュースを流すのか」と全国的に大きな問題となった。そして放送から1年以上がたった今年3月、東京メトロポリタンテレビ(MXテレビ、東京のローカルテレビ局)は3月いっぱいで番組を終了すると発表した。
 この番組については多くの市民から「基地反対闘争の参加者を誹謗中傷している」との抗議の声が殺到していた。BPO放送倫理検証委員会は、「MXが番組内容を適正にチェックせず、事実の裏付けもないまま放送したのは、重大な放送倫理違反だ」とする意見を公表(12/8)。さらにBPO放送人権委員会は、同テレビが市民団体「のりこえネット」代表の辛淑玉(シンスゴ)さんを、「過激で犯罪行為を繰り返す基地反対運動の“黒幕”であるかのように伝え、また人権や民族について取り上げる際に必要な配慮を欠いていた」として、名誉棄損、人権侵害にあたるとして、再発防止の努力を勧告した(3/8)。
 この番組はスポンサーであるDHCの子会社プロダクションが制作するいわゆる「持ち込み番組」。MXテレビは「DHCに対して、制作主体を局に移行したいと申し入れたが、同意を得られなかったため、番組終了を決めた」(朝日新聞3/2)という。3/26日が同局での最後の放送となった。
 MXテレビが放送中止を決めたことを受けて、「沖縄への偏見をあおる放送を許さない市民有志の会」は東京都内で記者会見(3/6)、MXの判断を歓迎するとともに、局として正式に謝罪すべきだと新たに申し入れたことを発表した。同会は「MX本社前での抗議は33回、デモ3回、屋内集会2回、延べ3000人を超す市民が、街頭右翼の妨害に負けず、声を上げ続けた成果」であると語った(3/7赤旗)。

 DHCは「ニュース女子」の制作を継続、 一部地方局での放送とYouTube送信をするとしているが、地上波テレビのほとんどは放送を打ち切るものとみられる。
1803 有志の会記者会見
写真説明.MX「ニュース女子」打ち切り歓迎、更に謝罪訂正をと記者会見、市民有志の会3/6 
2018.03.23  東海第二原発の廃炉を求める請願採択!!―我孫子市議会
           韓国通信NO551

小原 紘(個人新聞「韓国通信」発行人)


 3月19日の我孫子市議会本会議で市民有志が提出した請願が賛成22反対1で採択された。請願者1024名(他に延着分17名)という大型請願だった。

 市議会の最大会派清風会(自民系)8名のうち「造反」をした1名を除き、公明・維新を含む全会派が賛成した。壇上で意見表明をした清風会所属議員は――
 農業関係者として福島原発事件による放射能被害を受けた体験を語り、「市民感情として再稼働は認められない」「40年ルールを越えた20年後の未来に責任はもてない」また「科学技術は尊ぶべきだが、同時に謙虚であるべき」と述べ、自然エネルギーによる脱原発の未来が見えているとも語った。
 政府がベースロード電源として原発を位置づけ、次々と再稼働をさせる流れのなかで保守系議員の賛成演説と全会派一致による請願採択は予想外だった。
 不採択も考えられるなかで威力を発揮したのはやはり多数の請願者の存在だった。
 また原発の再稼働反対というと「原発の是非」論争になりがちだが、具体的に東海第二の危険性を訴えた市民の声が議員の心に届いたといえる。福島原発事故から7年目を迎えた今年、原発事故は「風化」どころか、事故の処理の目途もたたず、多くの被災者が故郷を失い、いまだに放射能の恐怖に怯えている実態が可視化されたことが請願の採択につながったといえる。

<地方が国を変える>
 我孫子に住んでから10年になる。かつて白樺派の文人たちが愛したこの地に引き寄せられるように越してきた。柳宗悦への尊敬の念は今も昔も変わらない。福島原発事故で放射能に汚れたこの土地から逃げ出すことを考えたことがある。放射能測定器RADEXを持ち歩き、金曜日に官邸前に抗議に出かける日々が続いた。住み続けていると同じ思いの人がたくさんいることを知った。ここで頑張ろうという思い。2年前に原発再稼働に反対する請願をひとりで市議会に提出したことがあるが今回は友人たちと相談して署名に取り組んだ。
 「地方の時代」といわれる。しかし地方自治の自主性、独立性の議論は乏しく財源と事務権限の委譲が話題になるくらいだ。今回の請願によって市議会は政府、原子力規制庁に意見書を提出する。勝手な想像だが、国にとって自治体の意見書などは「紙屑」みたいなもの。意見書に対する回答を聞いたことがない。それでも地方議会に期待するのは住民の声を国政に反映させたいと願ってのことだ。地方自治法99条にもとづく意見書提出を求める請願は国政参加への住民の強い意志表明である。有権者の約2割の得票で多数与党を占める歪んだ国政に地方の声が反映される仕組みはもっと尊重されていい。

<東海第二原発を廃炉に>
 今回の請願採択が廃炉にすぐ結びつくわけではない。日本原電は安全対策の費用捻出のために借金をして稼働を急いでいる。指をくわえて再稼働を許していいのか。茨城県外では昨年初めて栃木県益子町の請願を行った。それに続く我孫子市議会の請願採択は千葉県では初の採択だ。(茨城県内44市町村では昨年末まで27市町村が意見主提出)
 一地方自治体の意見書は「紙くず」扱いでも、次々と請願が採択されるなら紙屑ではなくなる。今回の採択は国が無視できなくなるような地方からの運動の「始まり」といえる。腐り切った政府に「喝!」を入れるためにどこでも誰でももっと声を上げていい。
以下は12日の市議会環境都市委員会で請願者を代表して私が用意した趣旨説明の全文である。許された時間はたったの5分、後半の部分が話せなかったのは残念だったが。

 2012年、我孫子市議会は「東海第二原発の廃炉を求める」請願を採択しています。
 再び同趣旨の請願をおこなうに至ったのは、原子炉の寿命とされる40年を超えて20年の延長をするという新しい事態をうけたものです。
 原則40年ルールは福島原発事故の反省から生まれたもので、現に1970年代に設置された沸騰水型原発10基は東海第二原発以外すべて廃炉が決まっています。まずこの異常な延長再稼働申請を指摘しておきたいと思います。
  それならば、この老朽原発は再稼働に値する原発なのでしょうか。私たちが知るところではまったくその逆です。
  ニューシア(NUCIA)「原子力施設情報公開ライブラリー」(2016.8現在)によると、東海第二原電を有する日本原電のトラブル情報は260件。同業10社の合計1193件の実に22%です。年間平均の発生頻度は2.3件と全国平均0.7件の3倍という多さです。
  プラント別では東海第二原発の年間トラブル発生率1.6件、これは全国平均0.8件の2倍です。日本原電は日本一危険な原発事業者であること。個別プラントでも東海第二原発はトラブル発生率がトップ水準だと理解されます。
  また福島原発事故の『国会事故調』報告書では東海第二原発は「外部電源が喪失したため、福島事故と同様の事態にならなかったのは『単なる幸運だった』」と指摘しています。こんな大切なことを新聞やテレビが教えてくれないのも問題です。
  もし事故が起れば我孫子を含めて首都圏の被害は想像を絶するものになるでしょう。再稼働どころではありません。直ちに廃炉(レッドカード退場)にすべきと考えます。
  今回の請願者には中学生・高校生などの若者たち、子を持つ母親たちが大勢参加しました。それだけわかりやすい請願内容だったからです。
  請願者には私のように「脱原発」を主張する人もいれば、原発を「条件付きで賛成」する人もいました。考え方の違いを乗り越えて、身近にある一番危険な原発から生活を守り、これ以上自然環境を破壊しないでほしいという思いで一致しています。
  委員会・本会議において全会一致で本請願を採択されるよう切に願うものです。

2018.03.22 原発推進と森友文書改ざんの安倍首相は退陣せよ
みぞれの中、「さようなら原発全国集会」
                 
岩垂 弘 (ジャーナリスト)

 東京電力福島第1原子力発電所の事故から7年周年を記念して、「いのちを守れ! くらしを守れ フクシマと共に 3・21さようなら原発全国集会」と銘打った集会が祝日の3月21日午後1時30分から、東京の代々木公園で開かれた。横なぐりのみぞれが吹き付ける中を、労組員、生協組合員、一般市民ら約1万2000人(主催者発表)が集結。もともとは原発再稼働に反対する集会として計画されたものだったが、折りから国会で森友学園への国有地売却にからむ決裁文書が改ざんされるという問題がヒートアップしているとあって、会場ではこの問題に対する発言が噴出、「国政を私物化する安倍首相は即時退陣せよ」の声があふれた。

 集会を主催したのは、内橋克人(経済評論家)、大江健三郎(作家)、落合恵子(作家)、鎌田慧(ルポライター)、坂本龍一(音楽家)、澤地久枝(作家)、瀬戸内寂聴(作家)の各氏ら9人の呼びかけでつくられた「さようなら原発一千万署名市民の会」。
 同会は昨年の3月20日と9月18日にも同じ会場で同趣旨の全国集会を開いたが、参加者は3月集会が1万1000人、9月集会が9500人だった。今回はこれを上回った。

 集会では、福島からの参加者や脱原発運動を進める人たちかが登壇。
 福島の人たちは「政府は、原発事故による避難者を、まだ放射能が高い地域に帰還させようとしている」「子どもを放射能から守る政府の対策が十分でない」「福島第1原発の事故がまだ収束していないのに、政府は、まるで原発事故などなかったかのように原発の再稼働を急ぐ。許せない」などと訴えた。
 
 原発ゼロ自然エネルギー推進連盟(原自連)の河合弘之・事務局長(弁護士)は「福島原発事故から7年。日本は原発を稼働しなくてもやっていけることが分かった。原発ゼロは可能なのだ。原自連は原発ゼロ・自然エネルギーへの転換を求めて結成された全国組織で、275団体が加盟している。先日、原発ゼロ・自然エネルギー基本法案の骨子を発表したが、これを踏まえて立憲民主党などの野党が原発ゼロ法案を提出した。これをぜひ成立させたい。脱原発・脱Co2・自然エネルギーへの転換はいまや世界的な潮流で、安倍内閣がいくら反対しても、やがてわれわれが勝つ」と述べた。
 ルポライターの鎌田慧氏は「原発問題はもう決着がついた。原発は安くもないし安定もしていない。むしろ、人間に敵対するものものと分かった。歴代首相の小泉さん、細川さん、鳩山さん、菅さん、野田さんもいまや原発ゼロ。原発再稼働を唱えるのは安倍さんだけ。なんとしても原発ゼロ法案を成立させよう」と訴えた。
 村上達也・元東海村村長は、東海第2原発の再稼働反対運動の現状を説明し、これへの協力を訴えた。
 
 森友問題でも安倍首相、安倍内閣に対する厳しい批判が飛び交った。
 作家の落合恵子さんは「森友学園の公文書改ざん問題で財務省職員が自殺した。人が自ら生命を絶つなんて大変なことである。こうしたことを生じさせた人の責任は重い。なのに、その責任を佐川元国税庁長官一人に押しつけようとしている。森友問題を引き起こした人たちは、民主主義を壊しつつあり、日本の憲政史上最低の人たちだ。昭恵夫人がこの問題に関わっているのは明らか。彼らに道徳心はあるのか。安倍首相の存在こそ国難だ」と述べた。
 
 「戦争させない9条壊すな!総がかり行動実行委員会」の福山真劫・共同代表は「安倍政権が5年も続き、矛盾が露呈してきた」として、まず、安倍首相のお友達のために便宜を図る国政の私物化、次いで改憲作業、第3に原発の再稼働をあげた。
 鎌田氏も「安倍首相は、国会で、自分や昭恵夫人が森友問題に関わっておれば、総理大臣や議員を辞める、と公言した。公開された、改ざん前の決裁文書を見れば、昭恵夫人の関与はもはや明らか」と述べ、「もう少しで安倍内閣を打倒できる」と呼びかけた。

 集会後のデモ行進は悪天候のため中止となった。
激しいみぞれのの中を会場につめかけた人たち 
①激しいみぞれの中を会場につめかけた人たち                      

「安倍内閣退陣」を訴えるプラカードをもった参加者
「安倍内閣退陣」を訴えるプラカードをもった参加者

{アベ政治を許さない」「戦争反対」の文字も   
「アベ政治を許さない」「戦争反対」の文字も
「厭戦」ののぼりをもった参加者も 
「厭戦」ののぼりをもった参加者も
2018.03.19 これも2020年が目標か?
大学入試改革――民間英語試験の導入について
            
小川 洋 (大学非常勤講師)
 

2020年
観光で来日した外国人と街を歩く機会がある。歴史的建造物がやたらと工事のシートで覆われている。主要鉄道駅でも工事が続いている。そこには「2020年完成予定」と書かれていることが多い。「東京オリンピックに合わせて」と説明する。次の訪問先がまたシートで覆われていると、「ここも2020年完成か?」と、皮肉を言われる始末だ。

なぜか大学入試センター試験も2020年に廃止され、「大学入学共通テスト」に模様替えすることになっている。第2次安倍政権発足後間もなく、センター試験の廃止と新しいテストの導入が提案され、その後、20年度に移行することとされた。技術的な問題も含めて、その実現性に多くの問題が指摘されたにも関わらず、期限が切られたのである。その過程については、本サイトですでに論じた(2017.08.24 安倍政権の危うい大学入試「改革」)ので、ここでは最近の英語試験の動きを取り上げる。

英語に関しては、当面4年間、従来のセンター試験と同様の試験と民間試験を併用し、その後は、民間試験に一本化するとされている。民間試験の利用については、大学側や高校側から反発や批判が相次いでいる。国立大学協会は、両者を課す方針を示したが、その扱い(加点)は、1割未満とする方針だと言われている。その後、東京大学は3月10日、「公正さ・公平さを担保できない」として、民間試験を利用しない方針を明らかにするなど、混乱が続いている。

民間試験
さて、民間試験として候補に挙げられているのは10種類程度といわれる。日本人に親しまれているのは、英語検定試験、Test of English as a Foreign Language (TOEFL)及び、TOEIC(Test of English for International Communication)あたりだろう。文科省は今後、これらのテストについて学習指導要領との整合性などをみて、採否を判断するとしているが、東大の方針にもみられるように、そもそも、高校教育以下の語学教育との整合性がろくに検討されていないにも関わらず、民間試験の導入ありきで話は進められてきた。不思議な話である。

常識的に考えれば、種々の民間英語テストについて、それぞれの目的、性格あるいは実施方法(年回数、料金、得点表示など)などについて検討し、センター試験よりも優れていて、大学入学者選抜に適したものがあるか否かを判断するのが先だろう。教育研究者は、試験の必要条件として、妥当性、公平性、実用性、二次効果、社会的公正の5項目をあげる。現在、候補となっているテストについて検討したい。

いくつかの民間試験
第一に、英語検定試験は日本の英語教育関係者たちが開発し、運用してきたもので、「高卒レベル」という試験も用意されているので、妥当性という点では問題が少ないかもしれない。しかし5級から1級までの7段階(準2級、準1級を含む)の各級の合否を判定する仕組みだから、大学としては選抜資料としてではなく応募資格として扱うしかない。

第二に、TOEFLは、文字通り、英語を母語にしない人が、英語による教育を受けるための能力試験である。アメリカのテスト機関であるEducational Testing Service(ETS)の運営によるものだ。英語圏の大学に進学する際に求められる。これがなぜ日本の大学教育を受ける能力試験になるのか、意味不明であり、妥当性の点でまず不適切というしかない。
筆者もかつて受験したことがあるが、高得点を取るためには、ラテン語由来の学術用語などのボキャブラリーが必要となる。日本語を学ぶ外国人が、日本語の新聞を読むために、一定数の漢字熟語を習得する必要があるのと同様である。英語でも学術的な文献や知識人向けの雑誌などを読むには、日常的な単語だけでは難しい。TOEFLは、おそらくネイティブ話者でも、教育水準の低い者が受験しても高得点はとれないだろう。そのような性格のテストである。

第三に、TOEICに至っては、ビジネス英語能力テストである。日本人がETSに働きかけて開発されたものだとされる。実際に受検者の3割が日本人であるが、非ネイティブ話者が英語を使って仕事をする能力を測ることが目的とされる。企業の採用条件によく使われていることは知られているところだ。
筆者はこれも数年前に受験している。TOEICにも何種類かあるが、45分100問のリスニングと75分100問の読解の2分野からなるテストが一般的だ。リスニングでは、回答欄の絵を見ながら指示にしたがって正解を選ぶ単純なものから、店と顧客との電話のやり取りを聞いてから答えを選ぶような複雑な問題もある。読解では電子メールのやり取りの文を読む問題も多く出される。たしかに日常的に英語で仕事をしていれば、慣れ親しむ世界であるが、それが大学入学の選抜資料として妥当か、考えるまでもないだろう。
何よりも公平性に問題がある。高校までの学習経験の中で、英文メールのやり取りをする機会のある生徒はほとんどいないだろうし、なによりもこのテストの特徴からして、根本的に公平ではありえない。このテストで高得点を取るには「慣れ」が必要だ。おそらくネイティブの英語話者でも、このテストの形式を事前に理解していなければ、好成績をとるのは難しいだろう。試験問題の持ち帰りは禁止されているし、試験準備のためには、主催者であるETSが編集・出版している問題集を購入せざるをえない。一冊3000円程度である。主催者は本番のテストよりも、これらの教材販売で利益を上げているのではないかと思われるほどである。
なによりも時間配分に慣れておかないと、時間切れとなってしまう。120分で200問を解答しなければならないのだ。とくにリスニングでは、解答直後に思い違いに気づいても、修正することはほとんど不可能だ。テスト対策を紹介するウエブサイトにも、さまざまな「コツ」を伝授する情報が溢れている。予備校や塾の提供する模擬テストを何回か経験し、講師のアドバイスを受けておかないと、本番で思うように解答できないはずだ。経済的に余裕のない家庭の生徒にとっては大変に不利になる。

試験の文化摩擦
最後に、ほとんど誰も論じていない重要な問題を指摘したい。TOEFLもTOEICもアメリカのテスト理論によって作成されている。アメリカは、さまざまな文化的背景をもった移民によって急速に形成されてきた社会である。大人数を効率的に選別するために高度に標準化された能力判定のシステム=テストが必要だった。徴兵や大学入学者選考に使える仕組みとして種々のテストが独特の発達を遂げてきたのである。テスト自体が、アメリカの歴史と文化に深く根差している。日本の試験文化とはおよそ異なった特徴をもつ。

例えば、出題される問題の中に採点されない問いが含まれる点である。通常のテストに、採点しない問題を潜り込ませ、その問題が将来的に使えるか否かのデータを集めていると言われる。また実際に出題された問題で、総得点の低い受検者に限って正答率が高く、高得点者が「誤答」する割合が高かった問題は採点されないという話もある。日本人にとって、これらのテストの採点はブラックボックスなのである。潔癖なほど透明性が求められ、些細なミスも社会問題になる国である。そのような試験が大学入試に使われることに、日本人は納得するだろうか。

大学入試に民間英語試験を利用するのは、公正さ、公平性、妥当性などの点から不適当というしかない。さらに、海外の試験を導入すれば、一種の深刻な文化摩擦を引き起こす可能性がある。そこまで文科省や関係者たちは考えて、民間試験の導入を検討しているのか。今からでも遅くはない。ボタンを掛け違えたのであれば、いったんボタンを外すのが早道である。
2018.03.16 子どもたちが「香害」で苦しんでいます(下)
 シリーズ「香害」第6回    
              
岡田幹治 (フリーライター)

 前回、「香害」に苦しむ二人の小学生を紹介しました。実はこの国の子どもは、生まれた直後から香りつき商品を使用されているのです。そして深刻な被害者は高校生にも、教師にもいます。

◆生後2日から香りつき沐浴剤
 いま多くの赤ちゃんが、生後2日目くらいに始める沐浴(乳児が感染症にかからないように配慮した水浴)で「香りつきの沐浴剤やボディソープ」を使われています。「赤ちゃんの気持ちをリラックスさせる、ほのかなオレンジの香り」などと宣伝する商品が多数、市販されているからです。
 哺乳瓶洗いも、かつては一般的だった煮沸消毒が減り、いまは洗剤(除菌剤)を使った薬剤除菌が主流になっています。赤ちゃん用衣類の洗剤・柔軟剤がたくさん売り出されており、中には「ひだまりフラワーの香り」(どんな香りなのでしょう?)をうたう商品もあります。

◆柔軟剤のニオイがきつい幼稚園も
 子どもが3歳くらいから通う幼稚園や保育園にも、ニオイの強いところが少なくありません。千葉県のある市に住む2児の母・Cさん(30歳代)は、その香害を実感した一人です。
 Cさんは独身時代から柔軟剤を愛用し、桃の香りのハンドクリームなどもよく買っていました。25歳ごろから、雨の日などに肩こりや頭痛がするようになり、妊娠中は悪阻がひどかった。
 症状はだんだん悪化し、昨年の夏ごろにはとても疲れやすくなり、さらに柔軟剤を使うと鼻が痛くなっていました。
 そして11月、長女(4歳)の幼稚園の保育参観に参加したところ、隣のお母さんの強い柔軟剤臭で激しい頭痛に襲われました。頭痛と体のだるさが4日経っても治らないため、アレルギー科クリニックを受診、化学物質過敏症(MCS)と診断されました
 Cさんはその後、合成洗剤などをすべて処分し回復に努めていますが、気になるのは長女のことです。長女が帰宅すると、髪の毛にも衣服にも体操着にも柔軟剤などのニオイがべったりついており、健康に悪影響はないか、心配でなりません。

◆中高校では制汗スプレーで被害
 中学、高校と学年が進むと、消臭除菌スプレーや制汗スプレーを使う生徒が増えます。札幌市の私立高2年のDさん(女性、17歳)は、その被害者の一人です。
 Dさんは中学入学のころから、香水・洗剤・タバコ・排ガスなどが苦手になりました。なんとか通学して卒業。私立高に進み、周囲で使用される制汗スプレーにさらされてから、頭痛・吐き気におそわれるようになり、次第に全身倦怠感・めまい・発熱・関節痛・食欲不振が加わって、通学が困難になりました。
 事情を話すと、自分のクラスでは協力が得られましたが、他のクラスでは得られませんでした。体育会系の部活動が盛んで、汗臭さを消すために制汗スプレーを使う生徒が多いのです。
 Dさんは防塵マスクを着けて通学していましたが、校舎の新築・学校祭での農薬散布などもあって症状はさらに悪化し、いまはほぼ休学の状態。大学進学をめざし、環境のよいところはないか、探していますが。

◆教師も被害者に
 校内の香害は、教師も襲います。
 埼玉県のある市に住む女性の臨時教員・Eさん(40歳代)は3年前、あるマンションに引っ越したとたんにシックハウス症候群(SHS)と思われる体調不良になりました。転居すると、ややおさまったので勤めを続けてきましたが、一昨年6月に勤務し始めた都立の特別支援学校で、強い柔軟剤臭のする生徒たちの指導が困難になりました。
 1クラス5~6人ですが、生徒の着替えやトイレ介助などで体を密着することが多い。校舎外での歩行訓練では一斉に虫よけスプレーをかけられますが、これが耐えられません。勤務1か月後に右股関節が激痛で2日間歩けなくなったこともありました。
 SHSからMCSに悪化した可能性があると管理職に訴え、生徒たちと接触しない仕事に変えてもらいましたが、間もなく教員の柔軟剤や整髪剤にも反応するようになり、更衣室にも職員室にもいられなくなりました。
 昨年2月に東京の専門クリニックでMCSの診断を受けたころには、食べたり歩いたりする力さえなくなり、任期を2週間残して退職しました。
 いまは回復に努める日々。小中高校と特別支援学校の教員免許を持っているので、臨時教員を務めてほしいとの申し出は絶えません。しかし、香害のある職場では勤務できないと断り続けています。

◆校内は香りつき製品を原則禁止に
 Dさんを診察したのは、札幌市の開業医・渡辺一彦医師(渡辺一彦小児科医院院長)だ。1000人を超すMCS患者を診察してきた渡辺医師は、学校が香害対策に消極的な背景をこう説明し、早急な対策が必要だと訴えています――。
 文部科学省の「学校環境衛生基準」が、ホルムアルデヒドなど6種類の揮発性有機化合物(VOC)を基準値以下にするよう定めているため、教育現場では、6種類のVOCが基準値以下なら、SHSは発生しないという誤解がいまだにまかり通っている(注1)。
 この結果、近年急増している柔軟剤・化粧品や消臭・制汗スプレーなど、香害による健康被害が軽視される。しかも、香り商品を使うかどうかは個人の好みの問題で、口出しできないという考えだから、MCSなどになった児童・生徒への配慮を指導できない。
 しかし、教育現場の香害はもはや放置できない状況だ。香害はタバコでいえば「受動喫煙」に当たるが、受動喫煙防止対策として厚労省は「学校は原則、敷地内禁煙」にする方針だ。同様の対策を香り製品についても早急に取るべきではないか。
 注1 学校が原因のSHSは「シックスクール症候群」と呼ばれることもある。
2018.03.14 啓蟄(けいちつ)をくわえて雀とびにけり(茅舎)  春が来た
  韓国通信NO550

小原 紘(個人新聞「韓国通信」発行人)

 本当のことを知りたいと誰もが思う。しかし政治の世界は嘘を真実と強弁する人たちで溢れている。3月3日、財務省国税庁に出かけて「嘘つくなーっ」と叫んだ。 テレビの前で怒った人たちがじっとしていられなくなってそのまま集まった感じ。すごいエネルギーだった。
 佐川長官、安倍首相、財務省が完全に追い詰められたのを実感した。ボクシングで言うならさしずめ「TKO」。将棋なら「詰み」である。「アキエサン、コッカイカンモン カモン カモン」とラップ調のコールに笑った。手作りのポスターをまた使うので「デモが終わったら返して」と言われて感動した。

 6日、電撃的に北朝鮮と韓国の首脳会談開催が発表された。9日には米朝トップ会談が発表された。
 濃厚だった戦争の気配から一転して戦争回避。「よかったなあ」と僕なんかは単純に喜んでしまうのだが、世の中はそんな単純ではないようで、歓迎どころか警戒を強めているようにも見える。
 日清戦争、日露戦争で朝鮮半島をめぐって日本と清国、ロシアがしのぎを削った。1世紀過ぎた現在、日米中露の思惑で「統一」さえも当事者が決められない状況になっている。
 日本政府の立場は中・露を意識したアメリカの尻馬に乗った露骨な対決姿勢。戦争の選択までアメリカにまかせる対米従属と、国民より米軍基地を優先する姿勢も明らかとなっている。朝鮮半島の危機、とりわけ危険な北朝鮮の存在を奇貨とした国民締め付けの意図もはっきりした。
 南北の関係改善の兆しを多くの海外メディアは核戦争回避として伝えたが、一旦米朝戦争が起きれば大被害を蒙るはずの日本は「信用できない」「微笑みに誤魔化されるな」と、あてが外れて「愚図って」いるように見える。
 
 連日、テレビ報道は「電撃的」ニュースは伝えるが、北朝鮮の狙いをミサイル製造、核開発のための時間稼ぎと報じるばかりで、ニュースキャスターやコメンテーターたちは「北朝鮮は嘘つき国家」と口を揃える。そのいい例が「天安号事件」を持ち出して北朝鮮を「テロ国家」と言い切ったコメンテーターがいたことだ。「嘘つき」、「テロ国家」と断定するようでは北朝鮮への国民の不信は増幅するばかり。2010年、韓国哨戒艦「天安(チョナン)」が沈没し、46人の海軍兵士が死亡した事件。李明博政府は北朝鮮の魚雷による沈没と発表。もちろん北朝鮮側は否定した。後に韓国の軍民合同調査団の専門委員が「暗礁と衝突した」、また他の専門家は「自軍の機雷による沈没」説を発表して政府見解と対立した。真相はいまだに明らかではない。
 「ウソばかり言う北朝鮮」という発言も一方的だ。どのような約束が反故にされたか客観的な事実を説明すべきだ。韓国政府の発表、米国政府の主張、日本政府は嘘をついたことはなかったのか。北朝鮮側の主張とともに精査する必要がある。
 日本が韓国・北朝鮮とともに核禁止条約に加盟をする時が来た。自民党政権が北と共同発表した「平壌宣言」(2002)の再確認、非核化と国交正常化、拉致問題の解決も近づく。なにもトランプ大統領にすがって「お願い」することはない。

 2001年8月、ピースボートで北朝鮮を訪問した時の思い出はつきないが、鮮明に記憶に残ったことがある。ツアーのバス乗降口で小学生くらいの少女が案内に立った。一行の数人がその子に質問をした。「日本についてどう思うか」。即座に「嫌いです(シルスムニダ)」という返事。親善目的で来た日本人に、「仲良くなればいいです」くらいの返事を期待していたので驚いて理由を聞いた。「歴史問題。過去の歴史に対する反省がないから」という返事に私たちは頭をかかえた。
 その翌年の平壌宣言以降、日本社会は拉致問題で北朝鮮に対する憎悪を燃やし続けてきた。不幸な日朝関係を克服することは容易ではない。来年は3.1独立運動から100年目の年である。100年の歴史に日本人としてどう向き合うか。また16年前の平壌宣言とどう向き合うかが北朝鮮との将来を考えるうえで欠かせない。「嘘ばっかり」などと云わないで克服するしかない。

 東京テレビの『カンブリア宮殿』で生活クラブ生協がとりあげられた。安心・安全な食品を求める購買者のニーズに応えて変貌する生産者。消費者の声(力)が市場経済を変え、本来の「人間経済」に変えていく取り組みが紹介されて感動的だった。
 那須のパスチャライズ牛乳は消費者のニーズが生みだしたもの。津波の大被害を受けた宮古の重茂漁協の活動を支えた生協組合員たち。組合員の国産鶏へのこだわりに応える養鶏業者。トマト100%のケチャップ製造に至るまでの苦労話や主婦たちが生き生きと参加(起業)する活動例など、これまで食品会社に依存してきた市場が生協組合員たちの努力によって変貌していく様子が紹介された。生産者との共生、福祉的活動まで視野に入れた生協活動は将来の社会のあり方を予感させるものだった。

 丸山茂樹さんはこの生活クラブ生協の草分け時代からかかわってきた。実践にもとづく生協の本質に関する理論化を踏まえ、共生社会のデザインを発表してきた。韓国留学を終えると韓国聖公会大学で協同組合論の講師として教壇にも立った。市民主体の「社会的連帯経済」を国際規模に広げようとする朴元淳ソウル市長の呼びかけに応えてGSEF(グローバル社会的経済フォーラム)の結成に参加、日本側の主要メンバーとして活躍している。A.グラムシ、K.ポランニーの研究に始まり、日本と世界各国で試みられている事例を紹介した近著『共生と共歓の世界を創る』が注目される。深刻な格差社会を克服するための新たな取り組みが提唱されている。同志であるソウル市長からの自筆日本語の推薦文も素晴らしい。一読をすすめたい。(社会評論社2200円+税)

「社会的連帯経済」を語る夕べのご案内 主催 社会的連帯経済研究会
第一部 3月24日14時から17時まで
 『共生と共歓の世界を創る』(丸山茂樹著)と『「日本語人」のまなざし』(井上良一著)を
 巡って
 会場明治大学駿河台キャンパス研究棟4階第二会議室 参加費無料
第二部 同日17時30分から19時30分まで
出版記念・懇親会 会場明治大学駿河台・アカデミーコモン1階カフェ・パンセ 
参加費3千円
                       

2018.03.10 子どもたちが「香害」で苦しんでいます(上)
     シリーズ「香害」第5回    
               
岡田幹治 (フリーライター)

各地の学校で、少なくない児童・生徒が「香害」に苦しんでいます。
仲間の子どもたちや教師が放散する柔軟剤の成分や、塗り替えられたペンキから放散される成分で、「化学物質過敏症(MCS)」や「シックハウス症候群(SHS)」を発症したり、悪化させたりする子どもたちです(注1)。
中には、登校できず、自室に閉じこもりきりの小学校6年生、校舎に入ることができず、異常寒波が襲ったこの冬、校庭の片隅に机と椅子を持ち出して個別指導を受けた小学校2年生もいます。
幼い香害被害者たちの実態を上・下に分けて報告します。
注1 MCSは、(多くの人が何も感じないほど)微量の化学物質にさらされると、頭痛・思考力の低下・目のかすみ・息苦しさなどの症状が出る病気。重症になると日常生活も仕事も続けられなくなる。SHSは、建物内の空気汚染が原因でMCSと似た症状になる病気。その建物を離れると、症状は和らぐ。

◆柔軟剤のニオイが満ちた授業参観日
南関東のある市の市立小6年のAくん(12歳)は、化学物質に敏感で、幼稚園児のころ近所の医師にSHSの可能性があると言われたことがあります。
軽いMCSの症状がある父母が、無垢材と漆喰づくりの自宅を新築。Aくんは幼稚園年長組のころからそこで暮らしてきました。
異変が起きたのは小2のときです。給食当番が着る給食着のニオイが気になるようになり、給食着がくさくて給食が食べられないこともありました。給食着は当番の子が週末に持ち帰って洗濯し、翌週の当番に引継ぐのですが、香りが長続きする高残香型柔軟剤を使う家庭が少なくないのです。
校内には児童や教師の衣服から放散される柔軟剤などのニオイが漂い、Aくんはそれを吸い込み続けたとみられます。柔軟剤臭は衣服などに移りますから、帰宅後、すぐに着替えなければなりません。
症状は徐々に悪化し、小5になると、体がいつもだるく、朝、なかなか起きられないようになりました。帰宅すると、すぐに横たわってしまいます。
そんな体調で迎えた4月下旬の授業参観日。教室内は子どもたちと参観する父母たちでいっぱいになり、柔軟剤のニオイが立ち込めました。Aくんの母は活性炭マスクをして参加しましたが、頭がくらくらし、壁を支えにやっと立っているほどだったそうです。
Aくんの体調はさらに悪化し、その日を境に登校できなくなりました。

◆自室に閉じこもって1年4か月
教育委員会の勧めもあり、自宅から車で10分ほどの小規模校に転校。9月に通学を始めると、他の学年に柔軟剤臭の強い子がおり、近づくと反応が起きます。夏休み中に校内でワックスがけが行われたことも影響しました。
校庭の片隅に机と椅子を出し、アシスタントティーチャーから個別指導を受けるようになったのですが、近くの農家がゴミなどを焼く煙が流れてきて、反応します。学習の場を図書室に移して間もなく、Aくんは突然、手足がマヒして動けなくなり、父が迎えに行く騒ぎになりました。以来、登校していません。
Aくんは嗅覚過敏が進み、ほとんどのものに反応するようになりました。自宅の周辺は柔軟剤などのニオイが漂っているので、外出もできない。反応の出ないパジャマを着て自室に閉じこもり、パソコンに向き合う日々がもう1年4か月も続いています(注2)。
注2 両親はAくんを東京の専門クリニックまで安全に連れていく自信がなく、まだ確定診断は受けていない。

◆校内のペンキ塗り替え後に発症
暑い夏も寒い冬も、校庭の片隅で個別指導を受けているのが、大阪府堺市の市立小2年のBくん(8歳)です。
Bくんは4歳のとき、母の実家で衣料用防虫剤がタンスにたっぷり置かれた部屋で寝た翌朝、まぶたが腫れあがり、全身に蕁麻疹(じんましん)が出て救急病院で手当てを受けたことがあり、やがてMCSになりました。
母が入学前にMCS児のための特別支援学級(病弱・身体虚弱教室)を設置してほしいと要請したところ「診断書が必要」と言われ、あちこち探した結果、ようやく入学式当日に高知市の病院の予約が取れました。母と子は入学式を欠席し、決死の覚悟で高知市へ飛び、診断書を書いてもらって提出しましたが、要請は聞き入れられませんでした。
洗剤・柔軟剤などのニオイに悩まされながら、普通学級で学んでいたBくんは、1年の3学期(昨年1月)に授業で紙粘土(樹脂粘土)を使った影響で、40度もの熱を出し、しばらく微熱が続きました。
春休み中に回復して4月に登校したとたん、春休み中に塗り替えられたペンキに反応して発熱や体調不良が続くようになりました。京都市のクリニックでSHSと診断され、「入ることのできる教室での個別指導、一時的な転校などの配慮も必要と考える」との診断書を提出しました。

◆校庭の片隅で個別指導
そこで始まったのが、校庭の片隅での個別指導です。普段はスクールサポーターが指導し、先生は時間の空いたときに見てくれるだけ。担任の先生に1週間も会わないこともありました。テント張りは禁じられており、降雨や強風のときは休まざるをえません(注3)。
注3 母は(Bくんが通学する)指定校の変更を考え、8~12月に3校を見学したが、それぞれ難点があったうえ、市の教育委員会から「指定校を変更するなら、一切のサポートを受けない一般児童として教室に入ること」などの条件をつけられ、あきらめた。

昨年12月でサポーターは打ち切りになり、今年1月からは特別支援学級の介護補助員と手の空いている教師(担任、支援学級などの教師、教頭・校長など)が指導する体制になっています。
寒い冬の間、Bくんは、綿のトレーナーにセーターやダウンコートを重ね着し、マフラー・手袋・ひざ掛け・使い捨てカイロを身につけて個別指導を受けています。

◆教育現場の配慮は不十分
Bくんを診察したのは、国立病院機構高知病院で2005年からMCS患者の診察を続ける小倉英郎医師です。定年退職し、現在は非常勤の小倉医師は、こう話しています――。
統計は取っていないが、MCSを発症する子どもたちが徐々に増えている印象がある。保育園や学校に通うようになり、合成洗剤や柔軟剤を使う家庭の子どもたちと接触したことがきっかけになる場合が多い。高知県では、MCSの児童は専用の特別支援学級に入って担任から個別指導を受けている。しかし、こうした配慮をしている地域は非常に少ないと聞いている。

◆岡田の3月の講演予定
▽生活のなかの化学物質
  第1部 広がる「香害」 岡田幹治
  第2部 化学物質過敏とつきあう 宮田幹夫
  3月18日(日)午後1時30分~4時20分
  ウィルあいち(愛知県女性総合センター)大会議室(名古屋市)
  問い合わせ:化学物質過敏症あいちReの会(fax 052-938-3557)