2024.02.09  生協の能登地震災害支援募金が7億円に
   日本生協連が発表
                                 
岩垂 弘 (ジャーナリスト)

 2月6日、東京で、生活協同組合(生協)の全国組織である日本生活協同組合連合会(組合員3041万人)の土屋敏夫会長と藤井喜継専務の新年記者会見があった。能登半島地震への生協の対応と、全国生協の2023年度事業概要と2024年度方針が発表されたが、印象に残ったこと2点を紹介する。

 まず、能登半島地震への対応である。発表によれば、地震発生直後の1月3日に全国の会員生協に「令和6年能登半島地震災害支援募金」を呼びかけた。その結果、1月31日までに7億円の募金が寄せられた。まだ集約中のものもあり、募金は今後さらに増える見込みという。地震災害発生後、団体・企業が支援募金を行っているが、これまで発表された募金達成額の中では断トツの額だ。
 日本生協連は、1995年1月17日に起きた「阪神・淡路大震災」の時も組織を挙げて支援募金活動をし、約15億円を集めている。
 今回寄せられた募金は、義援金(被災した方に直接配分)と支援金(被災地への支援活動のための費用)として被害の多かった自治体や、被害者支援活動を行う団体などへ送金するという。

20生協が職員を現地に派遣
 それから、もう一つ見逃せないのは、全国の主だった生協が、職員を現地の生協「コープいしかわ」に派遣し、同生協の事業継続と地域支援活動に取り組んでいることだ。発表によると、1月29日現在、以下の20生協が職員を派遣している。
 コープさっぽろ、コープあおもり、コープあきた、生協共立社、コープみらい、コープぐんま、コープながの、東都生協、ユーコープ、パルシステム神奈川、生活クラブ連合会、コープぎふ、ならコープ、コープこうべ、コープCSネット、鳥取県生協、とくしま生協、生協ひろしま、生協くまもと、コープみやざき

協同組合の価値に「平和・非暴力」を加えるよう提案へ
 発表で印象に残った2点目は、日本生協連として「平和への取り組み」を強めようと具体的な方針を明示したことである。
 協同組合の世界的な組織である国際協同組合同盟(ICA、本部ジュネーブ)には、いわば憲法ともいうべき規定がある。「協同組合のアイデンティティに関するICA声明」だ。
 それは「定義」「価値」「原則」という3つの項目から成り、「価値」という項目には「協同組合は、自助、自己責任、民主主義、平等、公正、そして連帯の価値を基礎とする。それぞれの創設者の伝統を受け継ぎ、協同組合の組合員は、正直、公開、社会的責任、そして他人への配慮という倫理的価値を信条とする」と書かれている。
 この「価値」について改定の動きが出ているそうで、日本生協連としては、この「価値」に「平和・非暴力」を加えることをICAに提案したいという。

ニュースレター発行へ
 さらに、平和への取り組みの1つとして、2024年度から、日本生協連として、定期的に「ニュースレター」を発行するという。すでに発行された0号には発行の意義が述べられているが、そこには「日本生協連では、戦後80年を前に、生活協同組合として、組合員とともにあらためて平和について考え、発信していくニュースレターを発行します」とある。

「私たちは非力であっても無力ではない」
  二ュースレター0号には、次のような同生協連・嶋田裕之専務の“発刊の辞”が載っている。
「ロシアによるウクライナへの軍事侵攻は2年が過ぎましたが、依然収束の兆しはありません。 昨年 10 月にはじまったイスラエルとパレスチナの武力紛争では、子どもを含む多くの犠牲が生まれています。唯一の被爆国である日本として、平和とよりよい生活のためにという理念を掲げてきた私たち生活協同組合として、武力による解決には強く反対する立場です。私たちの力だけでは戦争や紛争を止めることが出来ないのも実情ですが、こうした現実を前にしながらも、 決して諦めることなく『私たちは非力であっても無力ではない』の思いで多くの組合員・役職員が取り組んでいます。……毎年 8 月にヒロシマ・ナガサキで開催している『ピースアクション』には全国から延べ約 3000 人の組合員が集まり、平和について考え、学んでいます。1人 人の願いや思い、行動が寄せ集まってさらに大きく広がっていくことは、無力でない証明ですし、そのようなきっかけ作りをしていくことが商品やサービスを売るだけではない、私たち生活協同組合の重要な役割の一つです」

 第1号は2月後半の予定で、テーマは「第五福竜丸と生協」。第2号のテーマは「ピースアクション in オキナワ」、第3号のそれは「ピ―スアクションの舞台裏」である。

2024.02.05 私の敗北主義
韓国通信NO736

小原 紘(個人新聞「韓国通信」発行人)

  ウクライナとロシアの戦争が止まない。2022年2月24日のロシアによる軍事侵攻から間もなく2年になる。
 私はそれまでウクライナについてあまり知らない、というより関心がなかった。
 ウクライナを支援するアメリカとNATO諸国と日本。対するロシアとベラルーシ、北朝鮮という構図。わが国の世論は反プーチンで足並みを揃えた観がある。
 昨年10月にはハマスの攻撃に端を発したパレスチナとイスラエルの戦争が始まった。イスラエルの常軌を逸した無差別攻撃に世界中から即時停戦を求める声が高まる一方だ。国連は停戦を決議したがイスラエルの攻撃は激しさを増すばかり。アジアに目を転ずると韓半島も一触即発の状態にある。世界的規模の戦争に発展する可能性もある。

 戦争に勝者も敗者もない。映像を見るだけで何もできない私は無力感に陥るばかりだ。戦争は勝敗が決すれば終わるはずだが、その兆しも見えない。
 強者のロシアとイスラエルが敗けるのは考え難い。家庭内の喧嘩なら親の一喝で力の強い子が悪い子にさせられて終わるものだが、戦争はそうはいかない。交渉による停戦が不可能なら、弱者であるウクライナとパレスチナが負けるしかない。正義弱者を応援する人たちからブーイングが飛んできそうだが、これ以上の被害を回避するためにはゼレンスキー大統領とハマスが敗北を決断する他ない。
 「負けるが勝ち」と言うではないか。
 武力に頼らず、あらためて当事者が冷静に議論を尽くすことを望む。今後の安全保障、損害賠償を含めて話し合って欲しい。国際世論は勇気ある敗北宣言を評価し、公正に敗者を後押しするに違いない。理性の前に力は跪き正義は勝つ。

<勝利にこだわる愚かさ>
 敗北を認めなければ、勝つまで戦うことになる。
 かつてわが国の戦争指導者が国体の維持にこだわったためにどれほど甚大な犠牲を強いられたか思い出すべきだろう。敗北は早ければ早いほどいい。
 世界の恒久平和を謳う憲法を持つわが国は戦争の支援をしてはいけない。憲法の理念に悖るばかりか戦争を長引かせるだけだ。始まったら簡単に終わらないのが戦争である。万が一、わが国が戦争をするなら、早々と負ける覚悟をしたほうがいい。二つの戦争から学ぶことは何よりも戦争を始めないこと。同盟国の存在は極めて危険だ。戦争を始めるのもやめるのも決められないからだ。勝つ戦争はないことを心に銘じたい。

<政治不信の極み>
 能登半島地震の復興支援が一向に進まない。行政の不作為~人災が指摘されている。裏金作りで揺れる政権と同じ穴のムジナの石川県知事の資質も疑われる。「やってる」感を演出する首相と知事の防災服が白々しい。
 国民より政権維持に執着する岸田首相は今や火だるま状態。無能な議員と高い歳費(給与)。首相をはじめ議員たちには憲法の理念を実現する熱意がまったくと言っていいほど感じられない。政党助成金と企業献金で私腹を肥やす実態が日を追うごとに浮き彫りになっている。手口は極めて悪質。自民党は「やらずボッタクリ」の利権集団に堕ちた。これでは災害救助と復興が後手に回るのは当然だ。わが国の将来が思いやられる。
 メディアは妥協せずに大いに頑張って欲しい。曖昧な灰色決着はご免だ。検察が許しても主権者の私たちが許さない。原発、辺野古、貧困、軍拡、改憲、パーティー券。怒る材料があまりにも多すぎて、めまいがする。

<特ダネ>
 菅直人元首相を毎月1回の駅前スタンディングに誘った。政界を77才の若さで引退して一体何をしようとするのか。怪訝に思い手紙を書いた。
 年金生活者たちが毎月、「原発廃棄」「安保法制反対」「平和」のステッカーを駅前で掲げる活動を紹介して、「一緒にやらないか」と誘った。
 吉祥寺から我孫子までは1時間半かければ可能な距離である。楽隠居するつもりなら「喝」を入れるつもりだった。案の定というべきか、来月3日は先約があるので参加できないという返事が来た。自身の引退には一切触れず、引き続き、国会活動を通して「原発ゼロ」「再生可能エネルギー」問題に取り組んでいくと添え書きがあった。

 “デート”は不調に終わったが、菅さんとは2019年9月に代々木公園で開かれた反原発集会で立ち話をしたことが今回の手紙のきっかけとなった。動かぬ証拠写真と「通信」からの抜粋を紹介する。
 政治家の仕事はボランティア活動の側面がある。彼にかつての市民運動家の自負を期待した。元首相をお客扱いする気はさらさらなく、手紙では、防寒対策と自前のプラカードを準備するよう伝えた。
 送られてきた「レポート」には新年の決意が語られていたので少しホッとした。元首相も議員バッジをはずせばただの一市民。菅さんへの呼びかけはそんな思いが込められていた。彼のこれからの活躍に期待したい。

さよなら原発9_16

 9 月 16 日、代々木公園の「さよなら原発」の会場で元首相の菅直人さんと話をする機会があった。彼はお孫さんを連れての参加だった。
 政治家として原発 の危険性を見抜けなかった不明を恥じ、反原発への熱い思いを率直に語ってくれた。(私には)かつての民 主党政権には言いたいことはいっぱいあるが、「事故当時、首相が麻生や安倍でなくてよかった」と感想を述べ、事故当時の状況に話が及んだ。次の世代のために「このままでは死ねない」。共通の思いをしばし語り合った。
2024.01.24  記憶喪失の国から
        韓国通信NO735

小原 紘(個人新聞「韓国通信」発行人)

 喪中ハガキをもらうと、亡くなった人への感謝をしたためて返信するのが習わしになった。年賀状は今年限りという人も増えた。友人の「断捨離」みたいで少し寂しい。電話で「おめでとう」と言うオメデタイ人はいなかった。
 能登半島大地震が「戦争前夜」と地続きのように感じられる。「民主主義の危機」を口にする首相の姿は白々しいばかりだ。

<この際…>
 『文豪たちが書いた関東大震災』(石井正己著、NHK出版)で、震災直後、「此の際」という言葉が大流行したのを知った。「此の際ですから御辛抱ください」「何でも構わない 此の際だから」と寛容の気持ちを込めたらしい。私には寛容より万事休した状況のなかで「どうでもいい」という投げやりな気分を読みとった。
 昨今のお粗末な政治家を目の当たりにして、此の際、怒りよりあきらめムードが生まれてくるようで心配だ。方向性と展望を見失ったまま、日本はどこへ漂着するのか。かつてアジア侵略、米英との戦争に突入した「なりゆきまかせ」が思い起こされる。

<経済大国・軍事大国の底が見えた>
 能登半島大地震の被災者の救助と地域の再建が急がれているが、隔靴掻痒、歯がゆいばかりだ。
地震は防げないとしても、せめて被害を最小限にできないものか。経済大国を自負する日本にやれないはずはない。地方切り捨ての政治をやめること。災害に強い住宅の建設、格差のないインフラ整備が思いつくが、アメリカに言われるまま軍事費を増やす政府には荷が重すぎるのかも知れない。此の際、教科書で習った政治の基本に立ち戻ろう。戦争準備より生活優先。「此の際」、日本の政治を変えなければならない。

<不幸中の不幸>
 地方軽視は原発立地、沖縄の基地負担に端的に表れている。今回の地震は原発を増やそうとする岸田政権には打撃だったはず。不誠実ながらも志賀原発の電源がストップして油が流出したことを電力会社は認めたが、政府は原発については口をつぐんだままだ。マスコミ各社も「不幸中の幸い」と報じるだけ。事故にならなければ安全とでも言うつもりか。安全な原発があるなら教えて欲しい。此の際、GDP第3位に浮上した原発を全廃したドイツを見習うべきだ。 
 それにしても今回の地震で原発不要の世論が盛り上がらないのは不思議だ。原発を推進する政府と忖度したマスコミは福島事故から13年になる福島事故の記憶も教訓も忘れたようだ。まさに「不幸中の不幸」。地震から政治の実態が見えてきた。此の際、将来の子どもたちのために政権を刷新するほかない。但し滅びゆく自民党の刷新は不要。此の際、私たちは諦めない覚悟が求められていないか。地震で命拾いをしたと喜ぶ不届きな連中にはとどめを。 
2023.12.26 年の瀬 雑感

韓国通信NO734

         
小原 紘(個人新聞「韓国通信」発行人)

★ マイ年賀状のタイトルは「送自迎新(そうじげいしん)」 

韓国通信734


自民党政治に別れを告げ、新時代を迎える願いを込めた。 (挿入絵はコミック『進撃する巨人』より借用)

★手賀沼散歩
 この三年の間、意識して散歩をするようになった。体力維持、コロナに負けないために。手賀沼散策の魅力は野鳥と花々、樹々と水辺の景色にある。コロナのおかげで自然との距離が近くなった。 

★地震・雷・火事・オヤジ…
 怖いもの順に並べたものだそうだ。父親を怖がる人は少なくなったが、権力の象徴だとすれば納得。怖いものが増えた。戦争、地球の温暖化、原発、コロナ…。

★関東大震災
 関東大震災から100年。朝鮮人・中国人・社会主義者の虐殺事件に関心が集まった。NHKラジオは文豪たちが書いた「関東大震災」を13回に分けて放送。総合テレビはカラー映像化された関東大震災を放映、朝鮮人虐殺を含めた100年前を鮮やかに再現して見せた。映画『福田村事件』は改めて震災と流言飛語について世に問うた。いつも閑散としている地元の映画館に大勢の観客が押し寄せた。

★病院生活
 生まれて初めて入院生活を経験した。入退院を繰り返して合計5回。コロナで付き添いは禁止。本をたくさん持ち込んだ。消灯時間は午後9時。夜が苦痛だった。ロボットのような可愛い担当の看護師たちと忙しそうな医師に戸惑った。運動不足解消のために病院中を歩き回った。

★友人の死
 療養中の友人が会いたいというので自宅へ見舞った。
 「もうだめかも知れない」という彼に「無理して頑張る必要はない、自然体で生きて」と励ました翌日不帰の人となった。彼とは兄弟のように付き合い多くのことを学んだ。3カ月たった今も、死を現実として受けとめられないでいる。「生まれたことに感謝、人生を楽しんだ君は大往生にふさわしい」と弔辞を結んだ。

★駅前のスタンディングと「ズンバ」
 35才から始めたピアノの練習は20年間続いた。小品ばかり、それもゆっくりしたテンポの曲ばかりと揶揄されたが気にもとめなかった。さまざまな曲と出合ったが、大岡昇平の『雪の宵』、滝廉太郎の『憾』は忘れ難い。
 首相官邸前の反原発集会に3年間通い叫び続けた。活動の場を国会前からわが町の駅前に移動して7年になる。スタンディングに何の意味があるかと自問することもあるが、「ハチドリ精神」で今日に至る。アマゾンのハチドリ伝説~山火事にハチドリが火を消すために水滴を落とし続けた。「そんなことをして何になる」と首をかしげる動物たちに「自分にやれることをやるだけ」とハチドリが答えたように。
 「ズンバ」はラテンのリズムに合わせて踊るダンスのこと。スポーツジムで15年間続けている。インストラクターの動きを見ながら体を動かすだけ。いっぱしのダンサー気分でいるが最近は体が思うように動かなくなった。ストレスと運動不足の解消には打ってつけだ。

☆助教殖産が無くなった
 作家の徐京植さんが亡くなった。突然の訃報は帰国したばかりの鄭周河さんからもたらされた。鄭さんは先日徐京植さんと会ったばかり。足腰が弱くなったのを見て心配していた。二人は福島原発事故直後の南相馬で出会った。徐さんは写真展「奪われた野にも春は来るのか」を公開する「火付け役」のひとり。2013年、写真展を日本で開催する意義について述べている。
 「震災と原発事故からすでに二年。時は確実に巡り再び春は来る。あれほどの出来事を経験したというのに、もう忘却の気配が色濃く漂いはじめている。鄭さん作品と李相和の詩に導かれて、ひとりひとりの痛みと苦悩に改めて想像を馳せてみる時である」。
 在日韓国人作家として日本、時には韓国社会に対しても感性豊かな鋭い発言を続けた。日韓両市民はかけがえのない人物を失った。11月に放映されたアーカイブシリーズ/ガザに暮らして(1)(2)の対談が見納めとなった。代表作品に『子どもの涙』、『プリモ・レーヴィへの旅』がある。

★関東大震災で殺された三人の朝鮮人
 我孫子市議会9月定例会で「我孫子事件」が取り上げられた。
 虐殺事件に対する見解を問われた市長は、「根拠のない話が無責任に広がり、自警団関係者が検挙・投獄される痛ましい事件だった」と語り、「今後も起こりうる現実を憂慮する」とも述べた。虐殺を認めない小池都知事、「記録がない」と不誠実な態度に終始した松野官房長官(当時)と上川外相に比べるとまともな答弁といえる。残念なことは、市長の答弁は「我孫子市史」をなぞっただけで、「わが町」に起きた虐殺事件が他人事のように聞こえたことだ。
 広島・長崎に毎年中学生を派遣して平和学習を実施している市政とは矛盾していないか。今後の我孫子市民に課せられた課題となった。

★眠れない
 イスラエルのガザ消滅宣言に唖然とした。それを支持するバイデン米政府。歴代首相が決まり文句のように語る「価値観を共有する」アメリカの正体である。
 世界の恒久平和を宣言したわが国はそのアメリカに追随して戦争の道を歩もうとしている。眠れない。戦争抑止と称して軍拡と先制攻撃を語る政治家たちが私の眠りを奪う。だから「送自迎新」。

 裏金問題で政界は大揺れだが、メディアの熱中ぶりとはしゃぎぶりは要注意だ。モリ・カケ・サクラ、安保法制、学術会議への干渉、防衛予算の倍増、沖縄の基地、統一教会、低賃金と物価高騰などは眼中にないようだ。政局にうつつを抜かした挙句の元の木阿弥が目に見えている。誰が首相になろうと大臣になろうと同じ。「勝手にしろ」と言いたい。これからも眠れない日が続くのだろうか。
ハチドリ202312

ハチドリ(写真)は頑張るしかない。
2023.12.23 日本の学校教育は変われるか?

 PISA2022の結果などから
                 
小川 洋 (教育研究者)

教育の問題か、指導者の責任か
 先日、国際学力調査の一つであるPISA(生徒の学習到達度調査)の調査結果が発表された。3年ごとに行われてきたが、コロナ禍で4年ぶりに実施された2022年度の結果である。今回、日本の生徒たちは81の参加国・地域中、「読解力」は前回の15位から3位、「数学的リテラシー(応用力)」が6位から5位へ、「科学的リテラシー」は5位から2位へと上昇し、ともに世界トップレベルを維持した。日本の教育関係者、とくに行政担当者たちはホッとしていることだろう。ただ2018年度調査で全分野とも1位となった中国(北京・上海・江蘇・浙江)は今回参加していない。

 PISAは、もともと石油危機などの経済問題に直面したOECD加盟国が、子どもたちの学力水準が各国の経済力と強く結びついているとして、2000年度に始めたものである。その後、発展途上国なども参加するようになっている。今回、三分野とも一位がシンガポール、その他、上位に台湾、韓国、カナダ、ヨーロッパ各国が来る。経済破綻が危惧されているアルゼンチンは数学66位、読解力58位、科学60位である。なるほどと思う人も多いだろう。

 日本の生徒たちは当初から一貫して好成績を残しているのだが、この30年ほど経済は停滞が続き、先進国の中での経済的地位を落とし続けてきた。最近、GDPは4位にまで下がった。2000年には2位だった一人当たりGDPは、22年には32位にまで落ちた。コロナ禍でも、ある程度の経済成長を続けた国が多いなかで、日本経済の不振ぶりは目立っている。つまり日本では、経済力と子どもたちの学力との相関が薄いのである。日本の教育の何かが間違っているからなのか、あるいは優秀な国民を生かし切れない指導者たちが悪いのか。

多様な学校教育-日米比較
 1980年代、アメリカの文化人類学者トマス・ローレン(Thomas P. Rohlen)が、灘高校から公立普通高校、職業高校、定時制高校までを一定期間、観察し、アメリカの教育と比較した『日本の高校』(サイマル出版、1988年、友田泰正訳、原著 “Japan's High Schools”,1983)を出版している。筆者にとっては目を開かれるような本であった。ローレンは灘高を初め普通高校の授業を観察し、その高度な内容に驚き、日本の高校生の知識量はアメリカの大学卒業生レベルだと指摘している。
 同じような話は多く、例えばハーバード大学の教員が、初年次科目で第一次世界大戦の背景と経過について講義した際の話として、講義終了後、一人の学生が目を輝かせてやってきて、「今日の先生の授業のお陰で、なぜ先の大戦を第二次というのか、初めてわかりました」と、感激した様子で述べたという。

 ローレンは以下のように指摘する。アメリカの高校生にとって、高校時代とは「実験の時期である。人間関係とか、余暇とか、あるいは仕事かを通じて、青年は、何とかして大人の存在を探り当てようとする。多くの青年が(さまざまな経験-飲酒や性行動や旅行など)を通して、現実がどのようなものかを学んでいく。経験による学習は成長の一部であり、われわれが理想とするところは、より多くの自由や選択権を親や教師が与えることであって、それを制限することではない」と。ただ、ローレンは同時に、そのような高校生活は悪夢でもあるとする。薬物、中絶や銃などの問題の深刻さは「経験や自由」と裏腹の関係にあるからだ。
 翻って日本では、学校教育は、「もっぱら生徒個人に知識をつめこもうとし」、「全人的な発達や内発的な探求心を育むものとなることはほとんどなく」、「人間の多様な可能性を開花させようとしておらず、そのために偏った結果(高水準の知識)が生じている」と指摘するのである。

 このような文章を紹介していると、筆者が関わってきた教育官僚たち-文部官僚、教育委員会の指導主事-の反論の声が聞こえてくるような気がする。いわく、「現在の学習指導要領でも、生徒たちの探求心や多様性を大事にする教育を強調しています」と。しかし、1980年代後半、文部省(当時)が「個性尊重」を提唱し始めると、全国の小中学校が一斉に「個性を育てる教育」を学校目標に掲げるという悪い冗談が本当になる国である。その後も学校にはさまざまな「改革」が持ち込まれたが、それらの多くは上面だけであったり、近年では教育ビジネス参入の呼び水であったり、学校文化を変革するものではなかった。40年ほど前のローレンの指摘は根本的なところで変わっておらず、いまでも正しいと考える。

筆者の個人的な経験-無味乾燥な授業
 筆者は1970年代前半に大学を卒業後、首都圏の公立高校の社会科(地歴・公民)教員として30年ほど勤務してきた。教員になる直前と教員になった直後、衝撃的な経験をしている。最初の経験は教育実習の際のことである。大学に近い公立中学校での実習機会をもらった。中学校は団地を含む住宅地にあった。当時、山手線内側の団地に住むには、大手企業の中堅社員程度の収入がなければ難しかった。担当教授によれば、生徒の学力水準は高く、区内のモデル校であり、先生方も優秀であるということであった。
 実習は指導教員の授業参観から始まる。指導教員は年齢的にも中堅の男性教員であった。授業は教科書の単元ページの最初の一行目から始まった。教科書を読み上げるわけではないが、授業は教科書の行単位に沿って進み、教科書の太字の個所の手前になると話を止めて、生徒を指名し太字に該当する個所を答えさせるのである。「賢い」生徒たちは効率的に知識を吸収するだろうが、多くの子どもにとって授業は退屈極まりなく、忍耐する時間でしかなくなる。

 ついで、教員になって間もない時期である。当時、全国的に取り組まれていた同和教育に関する校内研修会があった。日本史専攻だった筆者が部落差別の起源について話題提供することになった。当時は研究も深められており、中世荘園のなかに農業以外の様々な技術を持つ人々が集住する地域(散所)があり、近世の被差別部落の起源のひとつではないかとする学説などを紹介した。
 ところが、私の話が終わると、40前後の社会科教員は、「部落差別の起源は、徳川時代の武士政権が、一般農民たちが反抗する気持ちを持たないよう、彼らの下により低い身分を置いたというのが正しい理解です」、「間違った考えを生徒たちに持たせないように気を付けましょう」とまとめたのである。筆者は絶句し、参加したある教員は「それでは洗脳だ」と小声で呟いたものだ。その社会科教員は間もなく指導主事として「出世」していった。

今後の課題
 筆者自身のその後の教職経験などから、日本の学校と教員の体質はあまり変化していないと考えざるをえない。とくに小中学校の義務教育学校は文科省の縛りがきつく、個々の教員の「逸脱を防ぐ」様々な仕組みがあり、じつに画一的な教育が行われている。最近の不登校の急増は、一部の子どもたちにそのような学校への拒否反応が広がっていることを示しているであろう。

 また高校教育は相変わらず大学受験に縛られている。大学進学希望者が少ない高校では授業が成り立たないケースが少なくないことが、そのことを示している。「教育困難校」という不思議な語が半ば行政用語となっている。また通信制高校に通う生徒が急増している。
 2016年に18.1万人だった在籍者数は昨年度26.5万人と、6年間で5割近くも増えている。高校の機能不全も隠せなくなっている。

 日本の社会・経済の回復のためには、教員や生徒たちにより多くの自由を与え、より豊かな経験をさせ、子どもたちの成長を支える学校教育への転換が必要ではないか。PISAの順位はヨーロッパ諸国やカナダ程度まで落ちた方が、おそらく日本経済を活性化させる人材の育成に繋がるように思われる。そのような教育改革に舵を切る指導者たちの出現が望まれる。
2023.12.18 『南相馬日記』その3   鄭周河 (写真家)
韓国通信NO733

小原 紘(個人新聞「韓国通信」発行人)

<佐々木孝先生のこと>
 11 月 2 日、佐々木淳さん夫妻と再会した。5年前に 彼の父親である佐々木孝先生( 2018年逝去79才 )がなくなった。それまで弔問できなかったのはコロナ渦で暫くの間日本とご無沙汰していたためだ。
 先生と同居している子息の淳さんとはよく夕食をともにした間柄である。 素敵な料理と娘の愛ちゃんの可愛らしさが心に残っていた。言葉が通じなくても家族をあげての歓待は忘れられないものになった。
 認知症の妻を看病していた先生が亡くなり、残された奥さんがどうしているのか、南相馬に来てからずっと気になっていた。
 11月1日、夕食に原町通りにある釜山食堂に出かけた。その店は以前 何度か行ったことのある食事のできる「飲み屋」である。店内に客はなく、白く冷たい光だけが窓越しに照らす淋しげな食堂をぼんやりと眺めていた。食欲もなく酒も飲む気も失せてホテルに戻ろうとした時、右側の小さな路地が佐々木先生の家に行く道だと気がついた。何回も通ったはずの 道だったが、夕闇で気づかなかった。
 佐々木先生のお宅へ行こうと思った。日本のお悔やみの仕方がわからない不安があり、突然の訪問に先方が当惑するのではないかと考えたが、翌日、とにかく 出かけることにした。
 先生とは長い付き合いではなかったが格別なものだった。やさしい人柄の先生からたびたび自宅に招かれた。胸襟を開いてこれまでの人生と人生観を語ってくれ、夕食に親しい友人を呼んで紹介してもらったこともある。
 先生は日本、中国、韓国の青年たちとの交流、学習会、一緒にコーラスをする活動に力を注いでいた。
 それは 3·11東日本大震災後から始まった。私の拙い英語力で知りえた先生について記しておきたい。
 佐々木先生の夫人は中国人。 在日朝鮮人の徐京植先生との出会いが佐々木先生に大きな影響を与えたようだ。
  何回も聞いた話である。幼い頃、外出先から南相馬に戻ってくると遠くに無線塔が見えて「ああ、家に帰ってきた」とほっとした思い出。 3·11以後、福島に住む在日朝鮮人たちの生活難。また無線塔の建設作業に従事した多くの朝鮮人が犠牲になったことを知った。 何をすべきか考えた末に始めた活動である。だがその夢もこころざし半ばで消えてしまった。
韓国通信733
<写真/佐々木孝氏/「モノディアロゴス」ネット記事より転載>

 韓国でも翻訳された名著『原発禍を生きる』の著者として知られる先生はスペイン思想の研究者だった。 清泉、純心女子大学の教授を務めた後、2002年に祖父の家がある南相馬に移り住み、原発事故当時、年老いた母親と妻の美子さんを看病していた。 彼は国の避難指示を拒否してそのまま南相馬に暮らし続けた。日常の不条理をかみしめながら、活動範囲を家から半径1キロ以内と定め、原発事故に抵抗し闘った。 この時期に書いた記録が上記の本だ。 苦悩を全身で受け止めながら、真心と親切、反逆の心で武装して生きた。

 南相馬のもう一人の友人、西内さんは対照的な付き合いだった。西内さんは私の写真撮影にいつも付き合ってくれた。南相馬に到着したその日からずっと案内役をしてくれた。一仕事終えると馴染みの飲み屋で寿司と刺身で酒を酌み交わした間柄。佐々木先生とは対照的に自宅に行ったことも家族と会ったこともない。今回は体調を崩して会えずじまいだった。お見舞いに行くにも家がわからない。気がかりな日本人の友人である。

 佐々木先生の死を考えると気持ちの整理がつかない。遺影に向かって「三拝」しても、気持ちは晴れなかった。夫人は寝たきりの状態のまま。 運命は天が与えるものなのだろうか。 健康だった先生が癌で亡くなり、先生の介護を受けていた認知症の妻は生き続けている。それも 植物人間の状態で。挨拶しようと枕元へ近づくと、いびきをかいて眠っていた。 いや、いびきをかいて生きながらえていたというべきだろう。
 淳さんに「写真をとっていいか」と聞くと構わないという。撮影することの倫理的な意味を考えしばらく躊躇った。夫人の姿を見るのは最後と思いシャッターを押した。夫人は少し口を開いたまま眠っていた。
 暇乞いをして玄関に行くと、下駄箱の上に先生と孫娘の愛ちゃんが一緒に写った写真が思い出の品とともにかざられていた。 敦さん夫妻と孫娘と昏睡状態の妻が今でも先生の存在の重さを感じて暮らしているように見えた。
 別れ際に淳さんが一冊の本を差し出した。岩波文庫の『大衆の反逆』。 著者はヨセ・オルテガ・イ・ガゼット、訳佐々木孝である。先生はガゼットを大変尊敬して、亡くなるまで研究を続けたという。 2006年から翻訳を始め、2018年に脱稿。亡くなる直前の2018年12月に子息に出版を言づけた。
 訪れるたび、冬でも夏でも小さな部屋の片隅にあるパソコンの前に座って私を迎えてくれた先生を思い出す。 介護と絶望と希望の日々にパソコンから放出する荒い粒子に飲みこまれるかのように体を悪くしたのがわかったような気がした。15歳になった愛ちゃんは、2泊3日で東京へ公演を見に出かけて会えなかった。
 黒い静寂の中を、よろめくようにホテルに戻った。夜来の 雨が降った道路は夜になると冷たく空気を下ろす。 生と死とその境界にいっぺんに出合い、帰る足は冷たかった。その晩、 酒は飲めなかった。

<なにかチグハグ…>
 希望の牧場の牛たちと別れたのは午前9時50分。 ちょうどいい時間と思いながらカーナビを検索したら福島駅到着は12時5分と出た。乗る予定の新幹線は11時30分だ。 何とか間に合わせようと、必死になって車を飛ばした。 喉が渇いて手に汗がにじんだ。前を行く大型トラックが高速道路にもかかわらず80キロで走っているのがもどかしかった。
 福島駅に到着して、新白河駅の待ち合わせの時間がなんと 11時30分だったことに気がつき、またもや慌てた。待ち合わせの時間と乗る時間を取り違えていたのだ。アウシュヴィッツ平和博物館の事務所に1時間半の遅れを連絡した。私のためにはるばる長野、千葉からやってくる塚田さんと小原さん、また小渕館長には申し訳ないことをしてしまった。

<嗚呼、牛たちよ、君たちは幸せか>
 列車が走り出すと、5日の間に南相馬で見て感じたことが頭の中に押し寄せてきた。 何よりも「希望の牧場」で別れた牛たちの姿が脳と目に鮮明に浮かんできた。 お腹の下まで糞につかりながら食べている白菜の葉っぱと草は体にいいのだろうか。 草はベージュ色の1トンバックに盛られていたもので、すでに発酵していた。草がどこから来たのか、どんなに危険なのか私は知っていた。 南相馬を中心に数キロ内外には平地の田んぼと畑は二種類だけになっている。 一つは太陽光パネル。もう一つは客土を入れた工事現場である。 
 希望の牧場
 <左写真/鄭周河氏提供「希望の牧場」>
 
 除草すべき土地にしみ込んだ放射能は洗い流すことができず、含まれた危険とともに切り離され、1トンバックに入れられた草を牛が食べているのだ。
 牛は安全なのか? 牧場主の吉沢正巳さんは道徳倫理的に悪人なのか? 自分の信念と目的のために牛の殺害を拒否したのは適切なことなのだろうか? 残酷ではないか? 牛たちは幸せか? それらの牛に不適切な餌を提供し、強制的に生存させる意味があるのか? 私たちは吉沢さんをどう見るべきか? 彼が腐ったカボチャと放射能を含んだ草を餌にすることは間違いと非難できるのか? あの牛たちは人間の所業を証明する最後の証言者だが、その労苦に対する償いは何だろうか? もしかしたら、眺めているだけの私が間違っているかもしれない。
 この不条理な状況に直面して、カミュが遂げられなかった克服の帰結のように、結局は順応して再び転がり落ちた石を山の上に押し上げながら人生の誇りを感じるのは最善だろうか? 神が与えた刑罰を私たちの人生に自負心として受け入れることは最善なのだろうか? それが最善の拒否であり反抗なのだろうか?
 絶え間ない疑問が、車窓をかすめる風景とともに、私の脳裏をぐるぐると駆けめぐる。しばらくは何もできそうにない。 アウシュヴィッツ博物館の塚田さんはすべてわかった表情で日本酒を勧め、私は遠慮せず酔うに違いない。その夜、私たちは本当に酔った。 私も小原さんも塚田爺も一緒に!  <南相馬日記3終わり> 

 『奪われた野にも春は来るか』-鄭周河写真展の記録(高文研2015.8.1)―には各地で開かれた写真展の主催者、来館者の発言が収められている。事故の「風化」が指摘されるこの時期にこそお勧めしたい刺激に溢れた内容である。巡回展のスタートとなった南相馬ての成功は今回登場した故佐々木孝氏の理解と努力に負うところが多い。何故、タイトルが「奪われた野にも春は来るのか」なのか。不気味なほどに美しい写真から何を感じるか。佐々木孝、徐京植、高橋哲哉氏らが語った内容については次回に紹介したい。間もなく14年目を迎える原発事故について鄭周河さんとともにあらためて考えてみたい。
2023.12.07 汚染水放流という非常識
韓国通信NO732       
 
小原 紘(個人新聞「韓国通信」発行人)

 政府は放射能汚染水を「処理水」として海に放流し続けている。緘口令が敷かれたように最近は「汚染水」という言葉さえ聞かれなくなった。口にしただけで「非国民」扱いの雰囲気さえある。異議を申し立てた中国政府や韓国の市民たちは常識をわきまえない「反日」扱い。専門家と市民たちの懸念、漁民たちの不安は全く無視されたままである。原発事故を起こした国の何という不遜・傲慢さだろうか。

 政府は原子力国際機関(IAEA)のお墨付きをもらい「この紋所が 目に入らぬか」と言わんばかりだ。周知の事実であるが、IAEAは決して安全とは言っていない。
 小泉進次郎元環境大臣が放流直後の福島で刺身を食べて「安全」をアピールした。これが次期首相を狙うエリート議員の姿だ。新聞・テレビは政府見解の検証すらしない。衆院予算委員会で立憲民主党の泉代表が「ていねいな」説明をして中国を説得すべきだと岸田首相に迫った。野党第一党がこの体たらくだ。
 魚が食べられなくなってから汚染水をどうやって回収するのか。世界中の漁民たちから賠償を求められたらどうするのか。間違いなく後世の日本国民が支払うことになる。
 魚好きの私は魚を食べ続けている。「今だけ」の自分が情けない。罪悪感でいっぱいだ。今からでも遅くない。放流は中止すべきだ。

 『南相馬日記』の続編をお届けする。福島をこよなく愛する韓国人写真家鄭周河さんの思いが伝わる出色のレポートである。

『南相馬日記』その2     鄭周河
<南相馬から白河へ>
 今日は11月3日。南相馬から同じ福島県の白河に行く日だ。白河 にはアウシュヴィッツ平和博物館があり、塚田元理事長に会いに行くことになっている。 アウシュヴィッツ平和博物館は市民たちが作ったNPO法人が運営している。   
 1988年にポーランド政府から遺品資料等を借りて日本全国を巡回展示することから始まり、2000年4月に栃木県塩谷郡塩谷町に常設館を開館後、2003年に福島県白河市に移転し再開館した。 正会員88人、賛助会員514人、支援団体26という大規模な博物館で、常設展示のほか各種のイベントが開催される。

 うれしいことに、小原さんが今回も私のために通訳をしてくれることになった。 2017年、白河で開かれた「奪われた野にも春は来るのか」写真展に通訳ボランティアとして参加された時が初対面だった。彼の通訳のおかげで塚田さんをはじめ会員の皆さんと楽しい交流ができたという記憶がある。 個人新聞「韓国通信」を発行して日韓問題を中心に友人たちに配信している。今年81才の彼は銀行を早期退職して韓国に語学留学。金芝河の詩をハングルで直接読みたくて韓国語を学び始めたといううれしい存在だ。最近体調を崩されたと聞いていたが私のために付き合ってくれるという。感謝いっぱいだが、彼の日韓交流に賭ける情熱には驚かされる。

 いつもより早く起きた。 6時過ぎ、しばらく南相馬の朝の町を生硬の思いで眺めながら、のんびりと朝食を食べた。 昨日の夕方に見たユーチューブのアドバイスどおりに野菜を食べてからから炭水化物を摂った。 そのせいかお腹の具合はいい。
 南相馬初日の夕食の後だった。浴場で500ccの缶ビールを飲みながら20分ほど半身浴をしていたら、急にめまいがして息苦しくなった。たったビール1缶で酔うはずはなく、体が支えられない状態になった。 風呂からあがりしばらく冷たい床に横になっていると元気になった。 どうやらアルコールとお湯で血圧が急に上がったようだ。壁伝いに部屋に戻って横になったが胃の痛みが消えなかった。

 食事を終え、時計を見るとまだ8時前。ここから 福島駅までは約1時間である。小原さんからの連絡では11時半に新幹線に乗ればいいはず。 まだ時間に余裕がある。希望の牧場をもう一度訪問して牛たちに別れの挨拶をしてからでも間に合いそうだ。
 早速、車を運転して浪江に向かった。 行く途中に感じる感情は来る時とは全く違う。 それは寂しい感情でも悪い感情でもない。   
 この地域に対する日本政府の対応と、今もなお暮らしている住民たちの無味で平穏無事な雰囲気に多少怒りを感じるのと同時に、失望した気持ちが複合されているように感じられた。以前来た時には道路の周辺に"汚染土再使用反対"の小さなペナントが縦長に掛けられているのを見た。 当時は住民の怒りが少しは残っていた。 今回はいくら走り回ってもペナントひとつ見当たらなかった。
 消えた数多くの汚染土1トンバックの山はどこかに移動されたはず。 道路か畑の下に埋められたのかも知れない。隠したところで 放出される放射能の総量は変わることはないはず。汚染土が堅固に固体化されたことで住民たちの意識も固体化されたのだろうか。ここはとてものどかで平安だ。 いや、慣らされて諦めている姿に見える。 私の判断が間違っていればいいのだが、町の様子はそんな風だった。

 突然、数日前のことを思い出した。
  双葉町の海辺の近くで隠蔽された汚染土を見て、車を北に走り続けた。 海岸に近い道路はとてもよく整備されていた。 しかし、海が見えない。 2011年3月11日の津波によって大被害に遭ったせいか、立派で高い防波堤が作られていた。 辺りに数多くの太陽光パネルが設置されていて、所々に新しい人家が見え、墓地が見えた。 墓地を生活者の近くに置いていること、土盛りがない点が韓国とは違う。 日本では死者の存在は韓国より淋しい存在ではないように見える。 集落の中にも、田んぼにも、野原にも墓がある。 大部分が黒や灰色の大理石でしつらえた墓地は、墓前に供えられた菊の花さえなければ、よく手入れされたさまざまな墓碑石が、同じ空間に集めたインスタレーション作品のように見える。厳粛な 気持ちでさらに北上した。

  10月30日。遠くに高い煙突から白い煙が湧き出て、雲のように広がっているのが見えた。 北泉(きたいずみ)海岸にある東北電力の原町火力発電所だ。 南相馬に来るたびに立ち寄ってきた。 2011年11月に初めてここに来た時に感じた荒涼とした雰囲気が思い出される。 発電所の隣の海岸が海水浴場なので、海からおよそ百メートル離れたところにある高いコンクリート階段が津波でひどく破損したままの姿で私を迎えた。 激しい風が煙突にぶつかって泣くように音を立て、波の音はさながらバックグラウントミュージックのように深くすすり泣いていた。 曇り空だったが、空と発電所と海が一体となってそこにあった。

<サーフィンを楽しむ若者に衝撃>
 今回訪れたこの地は不思議なくらいに暖かく、風が吹いていても穏やかだった。 道路脇に駐車して道路から海岸をめざして高い防波堤を苦労して登った。そこから はるか向こうに広々とした海が一望でき、透明な風が吹き寄せていた。おかしなものに気づいた。海辺で泳ぐ人たちがいるのだ。 よく見ると水泳ではなくウィンドサーフィンだった。 急に胸がどきどきした。 こんなことってあり得るのか。 ここは福島第一原発からさほど遠くないところだ。 韓国から汚染水「放流/投棄」を「心配/怒り」をいっぱい抱いてやってきた私にはとても理解できない。 不思議な光景は、私の末梢神経を深く刺激し私の全身を揺るがした。
 走った、走った。走りながらカメラを鞄かから取り出し、とりあえずワンショット。 海に向かって、その理解できない光景を映像に残すために! そして息を吐きながら、あらためて砂浜と発電所の煙突。サーフボードを抱えて海に向かう数人の若者たちを確認した。 心臓が止まりそうなくらいに戦慄が走った。若者たちの想像を絶する無心な行動はどこからくるのか。
2023福島

<写真/南相馬原町火力発電所/まだ防波堤は築かれていない/2013/3 筆者撮影>

 (日本の)国家が途切れることなく世論を操作しているからなのか? あるいはそれに対する反抗なのか? それとも陶酔なのか? さらに何人かを発電所の煙突を背景に撮影した。 もちろん、笑いながら、「君はとても素敵だ」というダイアン·アーバス式感動の言葉と目つきを送りながら。
 註)ダイアン・アーバス(Diane Arbus, 1923年3月14日 - 1971年7月26日)は、著名なアメリカの女性写真家。「アブノーマル」な人間を撮影したことで知られる。

 鄭周河さんの『日記』は続く。翻訳者としては能力を超えた量と内容に少々ため息がでそうだ。しかし原発事故、再稼働、汚染水の放流という現実に流されている感のある私たち日本人にとって、久しぶりに訪れた韓国人写真家が見た福島の感想はとても刺激に満ちた内容である。白河に到着後、災害セターで開催中の油彩展を見学、お目当ての塚田元理事長、小渕館長らと懇親後、翌々日は徐京植さんと会うなど多忙な日程をこなした。続編を期待したい。
2023.11.28 韓国の写真家・鄭周河(チョンジュハ)氏が久しぶりに来日した

              韓国通信NO731
                                 
小原 紘(個人新聞「韓国通信」発行人)


 まずは彼の紹介から。
 彼は東日本大震災直後から福島県南相馬で写真を撮り続けてきた。日本に併合された祖国の光復を願った李相和の詩に因んだ『奪われた野にも春は来るのか』という写真集を発表。日本各地で開催された写真展は大きな反響を呼んだ。NHK「こころの時代」(2013年)でも紹介された。百済芸術大学教授を退職後、現在は写真家として、また地域の環境団体でも活躍中。(写真/筆者撮影)
私の拙い韓国語で交わした話で印象に残ったのは、まず南相馬(福島県)の変貌だ。次いで汚染水の放流問題、関連する韓国の大統領と日本の政治の在り様についてだった。
 寄稿をお願いしたら早速、文章が送られてきた。多忙な鄭周河氏に大変なご負担をかけてしまった。間もなく13年目を迎える未曽有の原発事故を経験した日本人には耳の痛い貴重なレポートである。彼の目に日本と福島の現実がどう映ったのか。彼の文学的表現に頭を抱えながらハングルの翻訳に挑戦した。なお同氏は10月29日に来日、11月8日に帰国した。
韓国通信731図(1)


    『南相馬日記』
              鄭 周 河 (写真家 全羅北道完州自然を守る連帯代表)

 韓国は今、汚染水と処理水をめぐって混乱を極めている。尹錫悦政府が説明する処理水と国民が考える汚染水のことである。福島第一原発から発生した汚染水は処理水なのか、汚染水かという問題。韓国では本末転倒した異常な混乱が生まれている。汚染水を処理する先端技術のALPSとスイスのアルプスとの違いほどの可笑しな混乱である。
 去る8月24日の第一回放流(投棄)開始以来、日本から伝えられるニュースも混乱に輪をかけた。汚染されたものを海に放流しても問題はないという話も、処理が難しい三重水素(トリチウム)を海水に薄めて捨てるという話も、空中に拡散して見えない放射能のように私たちの頭の上をぐるぐると回っている。
 (訳者註/日本政府に迎合して放流を「可」とした大統領。韓国では議論が深まるどころか混乱が生じていると指摘する。アルプスの比喩には笑ってしまうが、「科学的に証明された」とする怪しげな政府見解を疑わない日本の混乱ぶりとあまり変わらない。付言するなら中国政府の反対意見も国民がどれほど理解しているかも疑わしい)
 2011年から毎年欠かさず訪れた南相馬はコロナのため中断を余儀なくされ実に3年ぶりである。
 到着した翌日30日の朝、福島駅でレンタカーを借りて霊山に行く途中、アイスクリーム店で車を停めた。客が多かった。駐車中の車はバイクを含め10台ほど。おそらく観光を楽しんでいるのだろう。大きな道路から山側に向かう。渓谷を抜けて走っているとおかしなことに気がついた。かつて積み上げられた汚染土が見あたらない。山裾のあちこちには空き家が見える。柿の木に太豊柿がたわわに実っているのは以前と変わりないが、原発事故後、汚染土を1トンバッグに詰めて谷のあちこちに積んだ景色がほとんど見あたらない。目に付くのは太陽光パネルだった。山の斜面にもパネルが見えた。太陽が傾き始めた。予定があるので南相馬へ急いだ。

 <変わった南相馬>
 南相馬は私には慣れ親しんだ町である。何回も訪れ、親しい友人たちが住む町でもある。だがその町が変わっていることに気が付いた。定宿にしてきたホテルもそうだった。当地にはふさわしくないほどきれいになっていた。そして大きくなっていた。南相馬図書館前の大通りの向かい側だけでも大きなホテルが三軒ある。中でも私が泊まるホテルが一番大きい。以前、友人の西内さんがご馳走してくれた素朴な蕎麦屋も立派になっていた。その隣には水産物加工品の店ができていた。従業員に聞いてみると数十年前からある店だという。3年前まで存在さえ気がつかなかったほど立派な店舗だった。

 <希望の牧場の牛から学ぶ>
韓国通信731図(2)

 ホテルにチェックインした後、再び車で出かけた。小高から浪江に入ると「希望の牧場」がある。今ではよく知られているこの牧場は、原発事故当時、経営者だった吉沢正巳さんが経営している。牛が丘陵のあちこちに放牧されている。電気鉄条網に囲まれた中で牛が一生懸命に草を食んでいた。以前と変わりがない。復興もない。復興がこの場所を避けているように見えた。牧場を横切る高圧線の鉄塔は東京に向かって威容を誇るが、牧場周辺の風景は美しく、糞だらけの畑に足を踏み入れて粗末な餌に鼻を押しつけ生き続ける牛たちの懸命な姿は以前のままである。「復興と汚染と存在」の行き着くところは証明する必要もないだろう。しばらく不安な気持ちを抱きながらも、長時間をかけた牛たちとの再会だった。<写真/生き続ける牛たち/撮影/鄭周河氏>
 牧場主の吉沢さんは不在だった。出直すしかない。さらに山の方へ車を走らせた。
浪江の向こうは高い山が広がっている。いくつかの貯水池とダムがあるところだ。以前、西内さんと放射能測定器で測ったことがある。彼から放射能がとても高い所だと教えてもらった。風が太平洋側から陸地へ吹くと、海に面した村の数値はそれほど高くないが、風が山の方に上るにつれて木や葉、田畑、池やダムに溜まった水に大きな影響をもたらす。所々に設置された線量計では山の中腹の放射能の数値は村に比べて5倍から10倍も高い。依然としてこの地の放射能危険度は気が滅入るほどだ。
 ところで又もやおかしなことに気がついた。この地域の山地にも汚染土を包み上げていた光景が見当たらない。かつてあった場所でしきりに工事をしている作業員たちとダンプカー、工事用掘削機が目に付いた。大量の汚染土は一体どこに行ったのだろうか。
何年か前に日本の首相が汚染土を再活用すると発言したことがある(2016年7月環境大臣承認)。東京ドーム11個分(約1400万立米)くらいと言われる汚染土はこれまで集めたものだけ。爆発した原発からずっと噴出し続ける放射能物質は、汚染水だけでなく空中に広がり再び雨や雪となって地上に舞い落ち汚染土になるはずだ。汚染土は死を運ぶ。それにも拘わらず日本の政府は汚染土の再活用を実行するという。
 絶望が期待と希望を断ち切るものなら、今はまさに絶望の時ではないのか。期待や夢は怒りを忘れさせるばかりで何の解決にもならない。
 翌日、再び希望の牧場に出かけた。折しも吉沢さんが掘削機で牛に餌を与えているところだった。
 しばらくすると軽トラックに大きなカボチャをぎっしり積んだ二人がやってきた。牛の餌を提供しようとやって来たようだ。ひとつ60キロもありそうな巨大カボチャ。近づいて見るとすべて売れない傷もののようだ。
 ここの牛は原発事故後からずっとここで生き続けてきた。殺処分を政府が命じた意図は一面で理解しつつも、生き続けてきた牛は私たちに何を語っているのか。牛の存在は、人間の欲望が生んだ途方もない惨事の壮絶な証明であると同時に不安に満ちた未来でもある。牛たちは生き続けながら人間に何を語り続けるのかと牛を見続けながら思った。私たちは人間がしでかした間違いに気づき、反省し贖罪することが出来るのかと。本当に原発事故は疑問だらけなのだ。

 <欺瞞、官民一体の事故隠し>
 南相馬に戻る国道6号線周辺に数百メーターにわたってフェンスが設置されていた。フェンスには南相馬と相馬両市が毎年7月に開く野馬追いの絵と「津波の被害を乗り越えて復興へ!」というスローガンが大きく書かれていた。見た目には市が設置した広告看板に見えなくもない。だがフェンスの向こう側は大量の高濃度汚染土を積んで置いていた処でもある。何年も前この地を訪れた時に広範な土地の膨大な量の汚染土に驚いたが、その当時の驚きに加えフェンスに書かれていた言葉と絵には嘆かわしさを感じないではいられなかった。「欺瞞」という言葉が浮かんだ。
 ところで今回来てみると、積み上げられていた黒い1トンバッグは消え、三角形の形に汚染土を詰め込んでいるのが見えた。大型だが露出した状態である。その土のところどころに草が生え、中側の隅には土を積み上げた跡があった。ここで何が行われているのか。ことによると汚染土再活用の一場面なのかもしれない。フェンスのある道路に植えたばかりの街路樹に小さな張り紙がかけられていた。その張り紙にはこの地の住民たちによる復興と明るい未来への思いが書かれていた。その中の一つには「福島浜通り桜プロジェクト、30年後のふるさとに与える言葉」「2016年から5年、私たちは忘れられない復興を夢みて次の5年に邁進しよう」と書かれていた。
 これを書いた人に、これほど痛切に熱望する復興の中身について尋ねてみたいところだ。
 さらに双葉町に近い海岸通りでも同じような風景があった。道に大きなフェンスが作られ、内側には汚染土をうず高く積み上げている光景を目にした。土から植物が伸び、覆った薄手のビニールが朽ち、風に吹かれる隙間から草が伸びていた。風に舞うビニールが旗のようにはためいていた。空に向かう風に乗って私の体に入ってくるのは何か。
韓国通信731図(3)
<写真/鄭周河氏撮影>
 韓国に「牛を失って牛小屋を直す」という諺がある。失敗して初めて自分が怠けていたことに気づくという意味だ。
 現在の福島は太陽光パネルで満ち溢れている。化石燃料と核エネルギーに対する対案を示すもので、エネルギー転換を図ろうとするもっとも重要な大切な措置と考えられる。原発事故という人類史上稀にみる災難に見舞われてはじめて考え出し、実践しようというのが、この単純な太陽光パネルの実践だった。太陽光パネルが太陽光を反射して私の目を刺す。自分たちの怠慢を棚に上げて、これ以外のものは目にするなと言わんばかりだ。

 「反省のない社会には絶望する」と18日東京で開かれた「東海第二原発の再稼働を許さない首都圏大集会で」原発学出小出裕章さんと元東海村村長の村上達也さんが700名の参加者の前で異口同音に語った。反省しない人たちの「未来志向」。鄭周河さんが見抜いた太陽光バネルは「怠慢」、「安易」「欺瞞」の象徴かも知れない。汚染水の放流、原発回帰、原発マフィアの跋扈という真の解決に程遠い現実がある。
 集会後、肌寒さを感じる11月の神田の書店街に「原発やめろ」「東海第二再稼働反対」のデモ行進の声が響いた。
鄭周河氏は新らたな写真集を企画している。人間の愚かさを見据える希望の牧場の牛たちが主人公だ。殺処分を免れた牛たちから私たちは何を学ぶことができるのか。日本での発刊を大いに期待したい。
2023.11.18 不登校問題を考える

      希望を持てない国にしたのはだれの責任か

小川 洋 (教育研究者)


大時代的な、あまりに大時代的な
 去る10月中旬、滋賀県東近江市の小椋正清市長(72歳)が、フリースクールについて、「国家の根幹を揺るがしかねない」、「不登校は親に責任がある」などと発言し、各方面から批判を浴びた。フリースクールは個人や民間企業、NPO法人が、それぞれの理念のもとに不登校児童・生徒を受け入れて教育を提供する。スクールは授業料を徴収することで維持されている。また基準を満たせば、学校の出席扱いを受けることもできる。
 不登校問題については、1989年の法務省の報告書が出されたころから見方が大きく変わってきた。報告書は、それまで一般的に使われていた「登校拒否」に代えて「不登校」の語を提案し、子どもの人権保障という観点からの課題を整理したものだった。そこでは不登校が保護者の責任という議論も完全に否定された。それからすでに30数年が経っている。「国家の根幹」という大時代的な表現を含め、市長の発言はこれまでの不登校問題についての調査・研究を無視した乱暴な議論というしかない。

内務省の亡霊か
 しかし、氏のキャリアを考えると、その発言も不思議ではないのかもしれない。氏は大学卒業後、滋賀県警に就職し地方警察官僚一筋の人生を歩んできた。地方警察は1947年まで、国内の治安維持を主務とする内務省の重要部門であったわけだが、内務省は学校の校長や教員の人事・服務・就学督励などの日常の管理運営に関わる事務についても集権的に管理していた。文部省もあったが、教科書など教育方法や教員養成(師範学校)など、どちらかといえば教育のソフト面の運営を担うにとどまっていた。
 とくに1930年代に軍国主義教育が徹底されるようになると、内務省は治安維持法を使って、大学では33年の京大滝川事件などで思想統制を徹底し、学校教育では同じ33年の教員赤化事件の教員弾圧によって、軍国主義教育推進に障害となる可能性のある教員の排除を徹底した。つまり警察官僚にとって、学校も警察と同様、治安維持と国民の戦争動員の装置であるべきだったのである。
 現在の警察組織には、その時代の意識がまだ底流に残っているのだろう。小椋市長は地方警察のエリート官僚として、この内務省の精神を色濃く受け継いだと思われる。学校に来ない子どもの親の責任を問い、不登校の子どもの教育機会を与えるための公費補助などは論外、と考えている。発言が報道され、各方面からの批判を浴びた市長は、「関係者の方々に不快な思いをさせた点は詫びる」が、「信念を持って発言している」として、発言を撤回しなかったことからも、そのことは明らかである。

不登校児童・生徒数は5年で倍増した
 さて不登校児童・生徒数を確認しておこう。先に発表された文科省の報告によれば、22年度の小中学校の不登校児童・生徒数 299,048人、在籍児童・生徒に占める不登校児童・生徒の割合 3.2%となった。17年度には、不登校児童・生徒数は144,031人、割合は1.5%だったから、この5年で不登校は倍増している。
 この急増の原因や背景については、今後の十分な検討が必要だ。しかし、この間、コロナ禍で臨時休校の期間があったり、オンライン授業となったりしている。通学とか通勤には、一種のイナーシャ=慣性が働いている。毎日のルーティンになっている動作がなんらかの理由で途切れると、大人でもそれまでしていたことの意味に急に疑問が生じたりすることがある。不登校の急増の背景には、子どもたちの学校の意味や価値への疑問が一気に噴き出したという面があるのではないか。

楽観的な時代があった
 さて、ここで少し話題を変える。筆者は埼玉県で長年、公立高校の教員を務めてきた。首都圏、関西圏を中心に1980年代は新設校ラッシュの時期であった。第二次ベビーブーム人口と60年代の大都市圏への若年人口の大規模な移動の要因が重なって、15歳人口が爆発的に増加したのである。神奈川県では長洲 一二知事のもと「100校計画」が掲げられて、実際に70年代から80年代にかけて100校が新設されたのである。多くの普通科高校の教員は、大学受験に向けて生徒たちの学力を養成することが主要な仕事と考えていた。教員の多くはそれぞれの教育理念をもっているのであるが、授業で意識されるのは基本的に受験学力である。
 しかし多くの新設校では思うような教育活動ができなかった。新設校が受け入れる生徒たちの学力はマチマチであったし、必ずしも大学進学を希望する生徒たちばかりではなかったからだ。このへんについては筆者の『なぜ公立高校はダメになったのか』(亜紀書房、2000年)に詳しく書いたので関心のある方は手に取っていただきたい。
 ある時、そのような新設校から次のような話が伝わってきた。進路指導主任の教員が学年集会で、有力大学に進学した卒業生の事例を紹介して次のように生徒たちに説教したというのである。曰く、「大学卒業後の彼は、誰もが知る有名企業に就職し、素敵な女性と結ばれ、子どもも授かって幸せな生活をしている」、「だから君たちも受験に向けて努力を惜しまないように」と。そして学年の担任教員たちに向かって、「さあ、これで生徒たちには火を付けた。あとはよろしく」と。ちょっと出来すぎた話で、作り話のように聞こえるだろうが、当時の新設校には有りがちな景色であった。

失われた30年と学校
 当時でも、この教員の話を真に受けて「火が付いたように」受験に向けて猛勉強に励んだ生徒が多くいたとは思わないが、今時、こんな説教を教員が真顔で生徒に向かってしたら、生徒たちは戸惑い、白けた気分になるばかりであろう。
 いまの生徒たちが育ってきたこの十数年、日本経済は低迷を続け、保護者の収入もよくて横ばい、悪ければ下がってきた。親の収入に期待できない生徒たちは進学のため、奨学金を借り入れなければならない。奨学金を利用している学生は全体の5割に達している。そのほとんどが利子付きである。借入額は平均で324万円、利子分を会わせて返済額は400万円とされる。大卒の平均年収の2倍近くの借金を抱えての社会人としてスタートとなるのである。
 卒業しても非正規雇用にしかありつけないかもしれない。首尾よく「有力企業」に就職できたとしても、その企業がいつまで存続するか、またその企業に居場所があるかも怪しい。社会の動きに疎い生徒でも、あまり明るい未来が見えないことは肌感覚で分かっているはずである。
 子どもたちに学校に通う理由として、将来のより良い生活保障しか示してこなかった日本の学校が、現在の子どもたちから疑問符を突き付けられるのも当然ではないか。不登校児童・生徒の急増はそのことを示している。

政治家の責任
 この30年ほどの日本は、若者に明るい未来を示すことができず、どちらかといえば、不安に満ちた薄暗い未来しか示せなくなっている。政治家としては、そのような社会をもたらした責任を感ずるべきなのだが、小椋市長は、高みから市民を見下ろし、説教するという時代錯誤的な姿勢を示している。
 足元を見ればわかるはずだ。琵琶湖東岸は工業地帯であり以前から外国人労働者人口が増加してきた地域である。東近江市にもブラジル人学校があるように、民族的、文化的多様化が進んでいる。不登校問題だけではなく、このような新しい状況への対応も求められてもいる。筆者はフリースクールが不登校問題の適切な解決法だとは考えない。学校自体が変わらなければ不登校問題の根本解決はないはずだ。政治家たちには、冷徹な社会認識に基づいた政治判断と行動が求められている。
2023.10.27  離日のキユーバ大使を合同送別会で送る
        友好団体の8団体が

岩垂 弘 (ジャーナリスト)


 間もなく帰国する駐日キューバ大使のミゲル・A・ラミレス氏の送別会が10月18日、東京・東麻布のキューバ大使館で行われ、日本側から政治、経済、スポーツ、文化など各界の関係者約60人が参列したが、これに先立つ9月20日には、キューバとの友好を目指す日本の友好団体による同氏の合同送別会が行われた。一国の大使の離任にあたって、着任地の友好団体がこぞって送別会を催すという例は極めてまれだ。

 ラミレス氏は2019年11月に日本大使に着任。従って、4年間、その責務を果たしたことになる。ちょうと、日本におけるコロナ禍と重なった時期だけに、大使としての業務を遂行するのに困難が伴ったこともあったようである。大使館で行われた送別会では、そうした苦労をねぎらう発言もあった。

8つの友好団体が共催
 友好団体による合同送別会は9月20日夜、東京・後楽園の料亭で開かれた。主催したのは、アメリカの対キューバ経済封鎖とキューバの主権を考える有志の会、キューバ友好円卓会議、CUBAPON(日本キューバ連帯委員会)、思想運動、全日本民主医療機関連合会、日本アジア・アフリカ・ラテンアメリカ連帯委員会、日本キューバ科学技術交流委員会、日本キューバ友好協会の8団体。各団体から計50余人が参加した。会費制であった。
 招かれたのは、ラミレス氏とその夫人、2等書記官のダイロン・オヘダ氏、それに、通訳の山中道子さんら。

 会場正面には日本語とスペイン語で書かれた看板がかかっていた。そこには「ありがとう、ラミレス大使。友情は永遠に。」とあった。

花束を受け取ったラミレス大使夫妻
              花束を受け取ったラミレス大使夫妻
 合同送別会では、友好団体の各団体代表から「ラミレス大使を巡る思い出」が述べられた。「いつも気軽に会ってくれた」「キューバに関することで相談すると、すぐ対応してくれた」といったものが多く、どれも、その最後は謝辞で締めくくられた。

友好運動のあり方を変える―対等・平等の関係に
 それらを聴きながら、私は「ラミレス大使が友好団体の面々を引きつけたのは、あのことではなかったか」と思った。「あのこと」とは、ラミレス大使が果たした、キューバと日本間の友好運動のあり方を巡る改革である。

 日本におけるキューバ友好運動の最大のイベントと言えば、「全国キューバ友好の集い」である。キューバとの友好運動を進める日本の団体の関係者と駐日キューバ大使館員が、一堂に会する行事で、2009年5月に第1回が東京で開かれ、以後、2年に1回開催されてきた。
 でも、「全国キューバ友好の集い」とはいうものの、駐日キューバ大使館が主催するイベントで、集いは大使館の主導で進められてきた。集いはまるで労組や大衆団体の集会のような趣で、会場正面の演壇で大使館関係者がキューバ政府の政策や「革命の大義」を話し、友好団体の参加者は会場正面に向かって座り、それらに耳を傾けるというスタイルだった。最後に宣言や決議を採択したが、大半は大使館側によって起草されたものだった。

 ところが、2022年11月30日に日キューバ大使館で開催された「第7回全国キューバ友好の集い」は、これまでと一変した集いだった。
 まず、主催が大使館であることは変わらなかったが、日本キューバ友好協会、キューバ友好円卓会議、、CUBAPONの3団体が後援団体に名を連ねた。
 会場風景も変わった。会場の隅に演題が設けられ、集いの冒頭に、そこでラミレス大使が歓迎あいさつをした後、友好団体代表や、友好人士が、キューバの現状、キューバで暮らした経験、友好運動の進め方などについて発言した。これまでの「集い」にあった決議とか宣言の採択はなかった。

 いわば、大使館側が集いを主導するという従来のやり方をやめて、キューバ側と日本側が対等の立場で会話をしようというやり方に変わったのだった。
 なぜ、このような開催形式に変わったのか。関係者によれば、日本側の一部の友好団体の関係者が大使館側に「キューバと日本の友好関係をもっと深めるためには、双方が対等・平等の立場で向き合うことが望ましい」と申し入れ、ラミレス大使がこれを受け入れたからだという。友好運動側が大歓迎したのはいうまでもない。

 合同送別会の最後はラミレス大使のあいさつ。そのなかで、大使はこう語った。
 「こんな集まりを開いてくださり、感動している。外交官になっててまもなく、日本を訪れたことがあった。日本の魅力にひかれ、日本大使になりたいと思った。でも、なかなかその機会がなく、インド、インドネシア、中国の大使を務めた後、ようやく日本大使になった。大いに感激した。というわけで、日本には長年にわたって愛情を感じてきた」
 「日本では、多くの人が私を支援してくれた。お礼を申し上げる。とくに、友人になった日本の人たちが、長年にわたって続いている米国によるキューバへの経済封鎖に反対してくれた。感謝する」
 「残念なことが一つある。私が在任した期間はコロナウイルスの時期だったので、何も動けない時があったことだ。やむをえず、オンラインで講演したが、これでかえってたくさんの友人を得た」

日本とキューバの友好運動に大きな貢献
 私は思う。ラミレス大使の決断は、日本とキューバの友好運動に対する大きな貢献ではなかったか、と。そして、こう思うのだ。「こうした貢献があったからこそ、キューバ友好団体の関係者にとっては、ラミレス大使がより親しみやすい存在となり、合同送別会の開催に至ったのだ」と。