2019.03.13 私が会った忘れ得ぬ人々(6)
上野千鶴子さん ――私は育ちが悪いの
           
横田 喬 (作家)

 初対面は今から丁度三十年前の平成元年(一九八九)のこと。彼女は当時四十一歳、フェミニズム(女性解放論)切っての論客として売り出し中。富山県出身で京大文学部大学院修了。社会学・文化人類学・記号学などを専攻し、肩書は京都精華大助教授。若くして著書には『セクシーギャルの大研究』『資本制と家事労働』『構造主義の冒険』『女という快楽』『女遊び』などの話題作が数々あった。
 昼下がりにJR京都駅からほど近い寿司屋で落ち合い、寿司をつまみ生ビールのジョッキを傾けながら、しばらくやりとりを交わした。私の一番の関心は、保守的な風土の北陸に育ちながら、なぜ女性解放の旗手と仰がれる先鋭的な存在になったのか、という一点。彼女の説明はすこぶる明快で、なるほどなあと合点がいった。

 彼女は富山市内の開業医の家に生まれ、兄と弟との三人きょうだいの真ん中の独り娘。両親とりわけ父親に溺愛され、大事な箱入り娘として育つ。いわく、
 ――父は、女の子が自転車に乗るのは危ない、と練習をさせなかったほど。私は、自分を抑えることをしないで、ちやほや甘やかされて大きくなった。分をわきまえる育ちにならなかったのね。だから、自分の頭を抑えにかかってくるものにはガマンならない。自分では「私は育ちが悪い」と言ってるの。

 当時の彼女は、①挑発には乗る②売られたケンカは買う③ノリかかった舟からはオリない、を処世三原則として掲げていた。ケンカっ早く、かつケンカ上手で、この取材の直前には、作家・曽野綾子との論争が話題を呼んだ。
 曽野の上野批判(『新潮45』一九八九年九月号の「夜明けの新聞の匂い」)は、例えばフェミニズム批判として、
 ――私は昔から、いわゆるフェミニズム運動が嫌いである。
 ――昔からほんとうの実力ある女は、黙って働いて来た。戦前でも、だれも海女や行商のおばさんや電話の交換手さんのことをばかにしたり、彼女らはいなくていい存在だなどと思った人はいない。

 一方、上野による反批判(『月刊Asahi』’89年11月号の「女による女叩きが始まった」)はこうだ。
 ――「ほんとうの実力ある女は、黙って働いてきた」という言い方で、曽野さんは、私は実力があるから発揮してきた、実力を発揮できないあなたはしょせんバカなのよ、と言い放っていることになるのだ。 
 ――エリートの女はあまりにプライドが高いために、個人の問題を類の問題に結びつけることができない。その結果、彼女たちは強者の論理を身につけ、弱者への想像力を失ってしまう。エリート女のエリート主義は困りものだ、と自戒をこめて言っておこう。

 そして、フェミニズムは社会的弱者の運動であること、女が「実力を身につける」のに様々な構造的な障害があることが問題なのであり、その構造的な障害をなくそうというのがフェミニズム運動であることを諄々と説く。
 思うに、当時の曽野には上野に対する「上から目線」があったのではないか。カトリック作家として社会的栄光を手にする我が身と、京都の一私大の助教授ふぜいの論敵。少々たしなめてくれよう、と見くびる気持ちがなくはなかったか。だが、鋭利な頭脳と的確な言語表現力で勝負あり、私は上野の完勝と判定する。

 それから五年後の平成六年、思わぬ形で彼女との再会がかなう。都内で開かれた歴史家・色川大吉さんの新著出版記念パーティの席だった。色川さんは六〇年安保闘争へ参加~「底辺の視座」に立つ民衆史を研究し、行動する学者として私が深く尊敬する人物の一人だ。
 色川さんから祝辞のスピーチを述べるよう急に指名され、事前に用意のない私はへども
どしながらも務めをなんとかこなした。一息ついて辺りを見回すうち、参会者の中に上野さんが居るのに気づいた。あでやかな和服姿だったように記憶する。私は彼女に近づき、「一別来です」と祝杯のおかげもあって軽口をたたいた。彼女は私のことをちゃんと覚えていて、少々はにかんだような笑顔と言葉を返した。

 初対面のころ、上野さんは『朝日新聞』に「ミッドナイト・コール」と題するエッセイを連載していた。「かさばらない男」と題するその一編に、色川さんがこう紹介されている。
 ――「好きな男性は?」と聞かれて、わたしはすかさず「色川大吉さん」と答えてしまった。(中略)色川さんは小柄で風采のあがらない初老の歴史学者(ゴメンなさい)。見てくれはおしゃれでもなければ、カッコよくもない。このひとは、笑顔がすばらしい。相手の心の中を見透かすような哀しい眼をして、くしゃくしゃと笑み崩れる。
 そして、色川さんは旧制高校山岳部仕込みの山スキーが得意で、スキューバダイビングもやるし、ヒマラヤ登山もする体力は驚嘆に値すること。わたしは色川さんと講演旅行でオーストラリア各地をレンタカーで一千㌔も相乗りをした仲であること。等々を書き添え、「かさばらない」えがたい存在にして、「筋金入りのモラリスト」と敬意を示す。

 私は言いえて妙、と共感した。彼女の連載エッセイは着眼点・文章表現ともなかなか秀逸で、その才能には時として羨望や嫉妬めく思いさえ感じたことも正直に白状しておく。
 彼女はこの再会の前年に東大文学部助教授に迎えられ、二年後には教授に昇進する。彼女は初対面の折、大学の進学先を京大にしたことを「大当たりだった」と自認し、こう言った。
 ――関西は本音の文化だから、口先で何を言ってもビクともしない。東京人のように建前に捉われないから、カッコつけてもの言ってもダメ。しっかり鍛えられたのでよかった。
 上野さんは還暦目前の二〇〇七年、著書『おひとりさまの老後』がベストセラーになる。
独居老人をめぐる諸問題は、彼女自身の身の上とも重なる切実なテーマだったのだ。そして、四年後には五百頁もある大著『ケアの社会学――当事者主権の福祉社会』を著す。

 日本の老人介護(ケア)の現状を多角的・網羅的に考察。ケアを介護の担い手別に「国家」「市場」「市民社会」「家族」の四つに分類し、それぞれと照合する官・民・協・私の四セクターの現状を吟味する。そのベストミックスこそが「望ましいケア」へのカギと論じ、中でも「共助」に通ずる協セクターこそが枢要な位置を占める、と説く。
 近代には「家族」「市場」「国家」の三点セットが万能視されたが、二十一世紀ではこの近代トリオが限界に達し、第四のアクター「市民社会」こと協セクターに期待がかかる。新しい共同性、すなわち自助でも公助でもない共助の仕組みの考案である。

 協セクターへの追い風はNPO法と介護保険法の成立だ。首都圏や九州の生活クラブ系生協ではワーカーズコレクティブの活動が「食べもの生協」から「福祉生協」への事業拡大と転換を実現。生協以外でも、厚労省指定のモデル事業となった富山県のNPO法人「この指とーまれ」の小規模多機能型居宅介護の成功例もある。希望がないわけでは決してない。
 この著作は机上の理論研究より現場調査の分析考察に重きをおき、介護保険法の成立~実施にからむ八年に及ぶ全国の事例調査・研究の成果がぎっしり詰まっている。まさに「ケア学大全」と呼ぶにふさわしい労作だ。京大出身の彼女の東大招聘は正解だった、と感じる。
2019.02.19   カラマツ林の陰の小さなトタン葺きの小屋にいて
          ――八ヶ岳山麓から(276)――

阿部治平 (もと高校教師)

私は、人との付き合いが少ない暮らしだが、ノウサギとキツネとシカとリスとは顔なじみだ。野生の動物を見かけると「よう」と声をかけることにしている。
とりわけ冬が来て雪が降ると、彼らの活動の様子がわかる。すべては足跡である。ただし、リスは木の上の巣にいて、たまに木から降りてくるだけだが、これがどういうわけか道路をしばしば横切る。寒い朝の散歩の途中、飼犬がこれを見つけると理性を失って暴れまわる。
キツネとはこの冬まだ1回しか対面していない。餌が少ないのか、痩せてしっぽばかりが長い。やつは「コノヤロー」といった感じで斜に構えて私の方をじっと見ている。上品な感じもある。30mほどに近づくとさっと藪に隠れる。ノウサギとシカは足跡ばかりで、この冬はまだお目にかかっていない。

犬の散歩の帰りに思いついて、けもの穴を見に行った。6、7年前キノコを採っているとき見つけたのだが、小高い尾根にアナグマのものとおぼしき穴がまとまって4ヶ所ある。
私の集落には八ヶ岳の雪や雨の伏流水がにじみ出ているところがある。この湿地を「アーラ」という。不動産屋がそれといわないから「アーラ」に別荘を建ててしまい、あとであわてる人も多い。野生動物とはいえアナグマもキツネも「アーラ」を避けて穴を掘る。実にたいしたものである。
今回行ってみると、発見した当時に比べたら掘りだした土がびっくりするほど大きな盛土になっている。このぶんだともう何代も住んでいるらしい。盛土の上にうっすら雪が積っている。雪の上にキツネ特有の直線に並んだ足跡がある。もしアナグマの巣ならば、彼ら一家は穴の深いところで冬眠中である。ところが足跡がキツネだから、キツネは様子を見にお立ち寄りになったのか。あるいは家主のアナグマは引越しをして、キツネが間借りしているのかもしれない。いずれ春が来ればアナグマにお目にかかることになろう。

毎朝3時か4時に起きる。ストーブをつける。4時半にはかすかな車の音がする。信濃毎日新聞である。耳が遠くなって久しいが、これだけは気が付く。新聞をもってトイレに行く。
去年汲取り式トイレに「尻洗い装置」をつけた。
来客の何人かが、「治平小屋は景色も水も空気もきれいだが、トイレが問題だ」と苦情をいったためである。私はそれまで尻を拭いた後、なお風呂場で洗っていた。これはインド・ヒマラヤ遠征のとき、山岳ガイドから学んだ習慣である。だから「尻洗い装置」はもっぱら客のためだったが、使ってみるとはなはだいい気持である。そのたびこれを工夫発明した人は偉大だと感じる。
ところで私は、自分はもちろん男の客にはおしっこはカラマツ林でやるよう求めている。それでも2000ℓの容量がある便槽に1年に1800ℓほどたまり、1回2万円ほどの汲取り料が必要だった。装置を設置してからは、実に半年に1回業者に頼まなくてはならない。お客は節水に努めてもらいたい。

集落の新年会では、私が「尻洗い装置」をつけたといったのがきっかけで、いっときトイレ談議で盛り上がった。今だれもがトイレットペーパーを使うが、それ以前は何で拭いたかという話になった。年配の人がすぐ新聞紙や雑誌だったといったが、中年以下の人はこんなことも知らないらしかった。
「それ以前は……?」
「わら縄だ」という人がいた。私が、「この村では縄はもったいないから使わなかった。手ごろな長さに切った稲わらで尻を弾いたものだ。野グソはフキの葉っぱだった」と話したら、どういうわけかみなどっと笑った。


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2019.01.05  干支(えと)は漢字文明圏に広がる共通尺度

伊藤力司 (ジャーナリスト)

「今年は亥年、去年は戌年」は子供でも知っている。あちこちから頂く年賀状に、今年はさまざまな猪、去年は犬のデザインが描かれていた。絵心のある人にとって、年賀状を書く楽しみのひとつは毎年変わる12の動物のデザインを考えることにあるようだ。

それはそれとして干支とは十二支、つまり12の動物と十支、つまり甲(コウ きのえ)、乙(オツ きのと)、丙(ヘイ ひのえ)、丁(テイ ひのと)、戊(ボ つちのえ)、己(キ つちのと)、康(コウ かのえ)、辛(シン かのと)、壬(ジン みずのえ)、発(キ みずのと)と、順番を示す10の漢字とを組み合わせたものだ。今年2019年は「己亥(みがい)」の年となる。

「亥」という漢字には「無病息災を願う」意味が込められているというが、実際には亥年には災害や事故が発生する傾向がある。1923年の亥年には関東大震災があったし、1995年の亥年には阪神淡路大震災や地下鉄サリン事件が発生した。前回の「己亥」つまり60年前の1959年には名古屋を中心に一大被害を及ぼした伊勢湾台風が襲っている。どうか今年は大災害が起こりませんように!

今では「戊辰戦争」(1868年明治維新の戦い)、「辛亥革命」(1911年清朝打倒革命)くらいしか干支による年次を思い起こすことはないが、明治維新後に西暦が導入される前は干支による表記が年次を示す普通の尺度だった。漢字2字で年次が指定できるのは、漢字がわかる人にとっては確かに便利である。

物の本によると、干支は今から3000年ほど前の殷代の中国で発明され、漢代のころから広く使われるようになったとか。中国から徐々に周辺諸国に伝わり、日本、朝鮮、モンゴル、ベトナム、タイ、ビルマ、インド、アラブ世界、ロシア、ベラルーシなどにも広がったとされる。日本には5世紀末までに朝鮮半島の百済を通じて伝わったという。

これだけ広範囲に伝わったのは、漢字さえ知っていればたちどころに年次がわかるという簡便さの賜物だろう。干支は年次だけでなく、時刻や方位を指定するのにも使われた。だから日常生活にとって便利な必需品であったわけだ。また人間になじみのある12種の動物を組み合わせたことも親しみやすさを増したと思われる。

ところが中国では一般的でも国によってはあまり一般的でない動物もある。例えば「亥」は日本では「猪」だが、中国やその他の国では「豚」である。「丑」はどこでも「牛」だが、ベトナムだけでは「水牛」である。「寅」はどこでも「虎」だが、モンゴルだけでは「豹」となる。「卯」は「兎」が一般的だが、タイとベトナムでは「猫」である。「酉」はどこでも「鶏」だが、インドだけでは「ガルーダ」となる。

また明治維新以前の日本では年次だけでなく、日にちにも干支が指定されていた。今日(こんにち)ではすたれてしまったが、昔からの行事の日取りには干支が残っている。例えば「初午」は、2月最初の「午」の日に稲荷神社に参詣する日。「端午の節句」は5月初めの「午」の日で男児の誕生と成長を祝う日―今日では5月5日の「子供の日」。「土用の丑の日」ウナギなど「ウ」のつく食べ物を食べる日。「酉の市」では11月の酉の日に神社に市が立つ―などなど。

干支についてあれこれ書いてみたが、明治以来効用を失ってきた干支は21世紀の日本では自然に消え去るだろう。ただ毎年の年賀状にネズミ、ウシ、トラ、ウサギ、タツ(竜)、ヘビ、ウマ、ヒツジ、サル、ニワトリ、イヌ、イノシシの画が描かれ続けるだろうし、男女を問わず「自分は○○年生まれ」と述べて、つい年齢を告白してしまう?習慣は残るだろう。(了)
2018.10.24  「危機を好機に」挑む人々―英トットネス遠回り紀行<下>
伊藤三郎 (ジャーナリスト)

遠くて近い日本

 このリポートの発信地、イングランド南西部の田舎町トットネスは、日本から遠くて近い所。そして近年ますます近い存在になりつつあること、これも知る人ぞ知る。この町が進めるトランジション・ムーブメント、新しい「幸せの経済」を探す運動を広め、実践する思想家、芸術家や市民運動のリーダーたちの世界的な会合が、実は昨年、2017年の11月に初めて東京で開催。「しあわせの経済 世界フォーラム2017 in 東京」(以下「幸せフォーラム東京2017」)という大きな国際会議を主導したのは、明治学院大学国際学部教員、『スロー・イズ・ビューティフル』(平凡社)の著作で知られる文化人類学者、辻信一さん(メモ1)と、国際的な環境運動家でスウェーデン生まれの女性言語学者、ヘレナ・ノーバーグ=ホッジさん(メモ2)の二人。
 
 そして、地球の裏側のわがトットネスからも、この「幸せの経済」運動の元祖にしてシューマッハー・カレッジ創設(1991年)以来の校長、思想家のサティシュ・クマールさんが参加。世界中から集まった参加者に暖かな視線と励ましの言葉を送った。本稿のタイトルとなった「危機を好機に」も実はトランプ出現以来、クマールさんが折に触れて口にする忠告である。
 クマールさんはこの「危機を好機に」の真意を自らが編集する英国の雑誌『リサージェンス』で以下のように ―
 「危機は同時に好機でもあります。イギリスのEU(欧州連合)離脱やアメリカのトランプ政権誕生なども、見方によってはナショナリズムの意味を改めて考える絶好の機会なのです。(中略)偏狭なナショナリズムは“小さな心と大きなエゴ”の産物。一方、ローカリズム(地域主義)とインターナショナリズム(国際主義)は補完関係にあり、それを合わせた“グローカリズム”とは“大きな心と小さなエゴ”の表現です」
 
 さて辻さんのホームグランド、明治学院・白金キャンパスなどをメイン会場に2日間開かれた『幸せフォーラム東京2017』では、主催者を代表してヘレナさんはこう呼びかけた。
 「近代社会は根本的に誤った方向へ向かっている。各国が競って、果てしない“経済成長”を追い求めてきた結果、環境破壊、社会的格差、精神的貧困などの深刻な危機が世界を覆っている。私たちが今必要としているのは、これまでとは異なる“幸せの経済”というパラダイムへのシフトであり、無国籍大企業のためのグローバリゼーションから、人間と自然界の真のニーズに応えるためのローカリゼーションへの方向転換である。」
 「今回の『幸せフォーラム東京2017』は、こうした“幸せの経済”と“ローカリゼーション”をめぐる国際的な論議と実践を日本にも紹介し、また、日本各地のモデル地区を日本中に、そして世界に向けて発信するための場所です」

 ヘレナさんの名著『懐かしい未来』の舞台となったラダック、標高4000㍍の高地で1000年前の伝統を守り、最後の桃源郷と言われる地域から招かれた学者、芸術家。また、「森を守り、育む」森林農法で有機コーヒーを育てるメキシコ、タイ(カレン族)などの農家の人々。国内では2011・3・11のフクシマ原発事故をきっかけに「再生可能エネルギー」への転換運動を進める全国各地の代表や、集落住民主体の水力発電事業立ち上げなどで「コミュニティー再生のモデル」として注目される岐阜県の郡上市石徹白(いとしろ)地区(人口270人)からの「集落興し」運動のリーダー・・こうした幅の広い「幸せの経済」改革の先頭に立つ人々が一堂に会し、連帯のエール交換と生々しい現状報告で会場は終日盛り上がっていた。

 さてここで、この1年前の国際フォーラムを思い起こし、私自身の反省と「なぜいまトットネスへ?」の疑問に答えておきたい。
 私が朝日新聞のロンドン特派員だった1978~80年当時、英国は「鉄の女」サッチャー首相(保守党)誕生(1979年5月)から、サッチャリズムと呼ばれた「新保守主義」改革の嵐が吹いた。その時代を含めて半世紀を超える経済記者生活を「GNP(国民総生産)の拡大こそ国の発展、国民福祉向上の源」という“成長神話”の中で執筆を続けてきた。が、『幸せフォーラム東京2017』に参加し、日本を含む世界中の「幸せの経済」運動の担い手たちの白熱の議論を聞くにつけて「近代社会は根本的に誤った方向へ向っている」(ヘレナさん)という指摘を真正面から受け止めざるを得なかった。
 反省はそこに止まらない。この国際会議にせっかく参加しながら、世界的な「幸せの経済」運動の広がりをニュースとして書けなかったのはなぜか。本連載の冒頭で世界的な「幸せの経済」運動について、「知る人ぞ知る」と断ったのは、これはニュースに非ず、という先入観のなせる業だった。
 
 というのは、この運動の元祖シューマッハー生誕がすでに1世紀前の1911年、「GNPよりGNH(国民総幸福)の追求を」とブータン国王が提唱したのが1972年、そしてシューマッハー・カレッジができたのが約30年前・・・とても新しい動きとは言えない。それでも今回イングランドの田舎町まで出かけ「遠回り紀行」執筆へと私の背中を押してくれたのは、『幸せフォーラム東京2017』の仕掛人、辻さんの「スロー・イズ・ビューティフル」の叫びだった。ニュースは「news(新しい動き)」に限らず、伝えたい人たちが居るなら遅くとも書け、と私の耳には聞こえるのである。
   「幸せの経済 世界フォーラム2017 in 東京」2日目のプログラム表紙
      「危機を好機に」を志す人々―英トットネス遠回り紀行<下>  
 ここまで書き進んだ時、本当のニュースが届いた ― 『幸せフォーラム東京2018』が来月(11月)11日にまた東京で開催される、というのだ。今年こそ「幸せの経済」を探る世界各地からの生々しい報告と希望の声を、ニュースとして伝えたいと改めて思う。

 ここで話を振り出しのトットネスに戻し、ビールを生活必需品とする私にとってとりわけ印象に残った英国名物パブ(居酒屋)にまつわるお話を二つ紹介して、リポートを締めくくりたい。
 一つはトットネスの経済を元気づけようという運動に支えられ、一度消えた地ビール工場が復活した話。その主人公の名は「ニュー・ライオン醸造所」。1926年までトットネスに存在した名門地ビールが、地元の起業を支援する「リ・エコノミー運動」の支援によって見事蘇った。全町民の5%に当たる400人が出資した救援基金に加えて、ビール代1年分を前払いする会員には10%割引と専用ミニサーバーを提供。メンバーたちは毎月醸造所に集まっては町の繁栄にエールを交換して盛り上がるのだそうだ。私も、永住したくなった。

 もう一つは、トットネスでの最初の借家の隣に存在したパブの話。「The Albert Inn」という店の看板いっぱいに、お馴染みの哲学者アインシュタインの顔が。店の正面は地味な構えだが、裏にはダート川を見下ろす堂々の青空ビアガーデン。実はこの店は、町の長老や元気な若者たちのたまり場で、前回紹介した「トットネス通貨」を率先して受け入れるなど、「幸せの経済」運動の拠点のひとつなのだという。今回は取材のチャンスを失したこの店に、後ろ髪を引かれつつ帰国した。
 そう言えば、『幸せフォーラム東京2017』開催のリーダー、辻さんが、アインシュタインの名言として注目するのが次の一節 ― 「ある問題を引き起こしたのと同じマインドセット(心の持ち方、思考の型)のままで、その問題を解決することはできない」
 辻さんは「僕たちがこれまでくりかえしてきた過ちとはまさにこれなのではないか」と書き(『GNP(国民総生産)からGNH(国民総幸福)へ』)、市民のひとりひとりがGNP神話のマインドセットから脱皮しなければ、と説く。
 いま英国は欧州連合(EU)離脱をめぐって国論は四分五裂、「唯一の超大国」米国のトランプ大統領は地球環境問題や自由貿易体制で「アメリカ・ファースト」を振り回して世界中を困惑させている。もしや、「TTT(トランジション・タウン・トットネス)」運動の精神こそ、いま地球にのしかかる諸難問解決への唯一のマインドセット、とパブ「The Albert Inn」の看板は示唆しているのか。トットネスの人々のいまの日常生活こそ、「幸せの経済」への最短の道と腹を据えているのか、この居酒屋を再訪して旦那衆に確かめてみたい。

(メモ1)辻信一(つじしんいち) NGO「ナマケモノ倶楽部」(1999年設立)をはじめ新しい「幸せの経済」「リ・ローカリゼーション」などを探る幅広い環境・社会運動の呼びかけ人。大学の辻教室からはこうした改革運動を地方で実践する若いリーダーたちを多数送り出している。
(メモ2)ヘレナ・ノーバーグ=ホッジ 1975年外国人入域が許可されたインドの高地、ラダック地区への最初の移住者の一人。急速に進む開発とそれに伴うラダック文化と自然環境の破壊を憂い、地元の人々とともに「持続可能な発展」を目指す運動に取り組んだ。そのリポート『ラダック 懐かしい未来』は40ヵ国以上で翻訳され、世界中に大きな影響を与えた。

2018.10.23 「危機を好機に」挑む人々―英トットネス遠回り紀行<上>
伊藤三郎 (ジャーナリスト)

「小さきことはすばらしい」

 世界の危機を好機に ― そんな見上げた心意気で新しい「幸せの経済」を探す人々と出会った。場所は英国イングランドの南西部デボン州の南部にあるトットネス。今年8月末から9月初めにかけて、この小さくて美しい古都に逗留し、約8,000人の町民が「改革はまず自らの身の周りから」と明るく暮らす姿に目を見張った。

 「トランジション・タウン(transition town)」と呼ばれるこの町は、いま世界中の知る人ぞ知る。transitionとは「過渡期」、つまり生活の仕方、経済・社会の在り方全体を次の時代へと変革する、その最中の町。運動の柱は、地元の産物を地元で消費しようという「地産地消」、化石燃料よりも太陽熱、風力などの「再生可能エネルギーへ」、「自然との共生」、中央集権から地方自治を取り戻そうという「リ・ローカリゼーション」など、いずれも世界中に広がりつつある大切なテーマばかり。この運動の原点を一言で言うと「Small is Beautiful (小さきことはすばらしい)」。ドイツ生まれの英国人、経済学者であり思想家でもあったE.F. シューマッハーの言葉なのである(メモ1)。

 ところで私は昨年2月、『トランプに困惑する世界』と題する拙文を本ブログに寄せ、「トランプ政権はまだ発足直後(米大統領正式就任は同年1月)の混乱の中、世界は“一寸先は闇”」と書いた(2017/2/21掲載)。それから2年近く、トランプ大統領が強引に貫く「アメリカ・ファースト」外交と「予測不能」の暴言癖によって、世界中の困惑が続く中、トットネスの改革に取り組む人々の視線は「トランプの闇」のはるか先を見据える。その生き様は新しい時代への遠回りに見えて、実は「最短の道」なのでは、と受け止めた私は、記者OBら仲間内のブログ新聞に紀行文を寄せた(「メディアウオッチ100」2018/10/12,15,17 号 連載『「幸せの経済」を探す人々 ― 英トットネス遠回り紀行』)。本稿はそれを手直しした、上記『トランプに困惑する世界』の続編である。

 ロンドン・ヒースロー国際空港からレンタカーでイングランドの西南端方向へ約4時間。目的地のトットネスはダート川両岸のかなり急勾配の谷間に位置する小さな町だが、近づくほどにしっとり落ち着いた家並みとそれを包む豊かな緑と牧場の牛、羊・・その美しさに、しばし声も出ず。町の中心トットネス橋に着くと、先ずは予約した短期の借家を見つけて旅装を解く。橋のすぐ近くの2階建て、寝室3つのつましい一軒家。ここに前半の4泊、2軒目は丘の中腹の寝室4つの豪邸を借りて、町全体を一望できる丘の中腹に後半の4泊を。
       「イングランド南西部地図」
    連載『トットネス紀行』 地図(本番)10月9日

 ここで私事だが、こんどの取材の態勢についてひと言 ― 同行したのは妻(77歳)、息子(53歳)、娘(49歳)とその長男(つまり孫、20歳)という総勢5人のファミリー取材団。途上国の経済的自立などをテーマとする経済学者で、長年フィリピン・マニラ在住の息子(妻はアジア開発銀行勤務)。元旅行雑誌ライター、今はサラリーマンを亭主とし、プラス息子二人(大学生と高校生)という“標準家庭”の主婦である娘、俳句を趣味とする専業主婦のわが妻、そして退職後20年近くを経てなお現役記者のつもりの私。われわれ老夫婦は家族3人の介護付き、車の運転は専ら息子が、という“おんぶに抱っこ”の恵まれた旅だった。

 トットネスの人々の朝は早い。7時前から続々と開く食材の店。肉屋さんではハムやベーコンを、チーズ専門店では地元産の各種チーズからより取り、それに焼き立てのパンも買い込んでは「我が家」で朝飯を。夜は夜で、すべて地元産の野菜、肉類を自宅で料理、地ビールやワインが食卓を一層豊かにしてくれる。昼間は臨機応変に2組あるいは3組のグループに分かれて連日出掛けた。
 昼間の気温は摂氏20~25度、快適な秋空の下。トットネス橋のたもとからスタート、次第に勾配がきつくなる上り坂約1キロ。前半フォア・ストリート、後半ハイ・ストリートの両側に洒落たブティック、英国伝統のパブ(居酒屋)、小さな博物館などが道の両側にぎっしりと連なり、観光客と地元の人々でひねもすにぎわう。フランスの有名ブランドや米国の外食チェインの看板は一切見えず、それぞれに個性を持つ地元の専門店、商店がひしめく。そのプライドを裏付けるのは英国人が大切にする「温古知新」の美風なのだろう。中世には繊維貿易などで栄えた古都の歴史遺産を大切にする一方で、新しい「幸せの経済」を探すという世直し運動に町を挙げて取り組んでいる。

 この目抜き通りのど真ん中、二つの街路を区切るのがイーストゲイトアーチ。15世紀に再建された風格ある建築で、その名が語るとおり、その場所が旧市街の東端、新興の「フォア」地区との境目だ。11世紀築城の「トットネス城」名残の円形城壁が、ハイ・ストリートの頂上わきから町全体を睥睨(へいげい)。また、石造り建築の傑作「セントメリー教会(15世紀)」や、16世紀当時の商人・職人組合による自治の拠点だったギルドホール(現在は博物館)など古都のシンボルのほとんどが旧市街に鎮座している。
  「トットネス・イーストゲイト」(岩)「トットネスの町のシンボル、イーストゲイトアーチ」
 その旧市街のど真ん中、町民広場の日替わりマーケットがこの町の魅力を倍加する。「金、土」の二日間は年中無休の「何でも市場」。新鮮な海産物から骨董品、地元特産の天然繊維品などが所せましと並ぶ。それに日曜日の「食材市場」と5~9月の火曜日ごとに開かれる「手芸品市場」 ― 毎日のように世界各地からの人とモノで彩られる。

 さて、冒頭に触れたこの町挙げてのトランジション運動を支えるのが「トランジション・タウン・トットネス」(TTT)という非営利組織(NPO)。世界に先駆けて2006年にこのTTTが発足し、以来幅広い「幸せの経済」運動を支え続ける。中でも注目されるのがトットネス・ポンド(TP)という地域通貨の発行。最初は2007年「1 TP = 1ポンド」の紙幣を発行、その後電子マネー版も導入。現在地元の約160店舗が会員登録、地域内でお金を循環させることで「地産地消」を促進し、地域経済の発展に貢献している。

 8月のある日、地元紙「トットネス・タイムズ」がこの町の改革運動について貴重なことを教えてくれた。それは「編集長への手紙」欄に、英国海軍水兵だった老人が『植林を大切に』と訴えた大筋以下のような便りだった。
 『先日、ダート川ほとりで樫の木の植林が続けられている、というお便りを本欄で読んで二つのことを思い起こした。一つは、若い人の多くはご存じないと思うが、ダート(dart)川は昔「derte」川と表記され、その「derte」は樫の木を意味した。かつてはこのダート川の両岸に無数の樫の木が生い茂り、その樫の木を伐採して大量の軍艦(木造の帆船)が建造されたそうだ。
もう一つは1980年代に私が英国海軍水兵だった当時、たまたま出会ったオランダの水兵が「いまから約200年前、英国艦隊のネルソン提督が『コペンハーゲンの海戦(1807年)』でわがオランダ艦隊を丸ごと海の藻屑にしてくれた。お蔭でオランダ国民は大量の樫の木を植林した。その樫の木がいま漸く育ったところなのだ」と嘆いたのだ。さて、トットネスの皆さん、くれぐれも樫の木の植林を怠りなく ― 』

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2018.02.20   「近代の超克」論者の運命
    ―西部邁を送る―


半澤健市 (元金融機関勤務)

 2018年1月21日に評論家西部邁が自裁した。
気になる知識人の死に当たって一言書いておきたい。

《私にとっての西部邁》
 私が最初に西部邁を意識したのは、NHKテレビで宮崎勇(1923~2016)に食い下がる姿を見たときである。80年代の一時期だと思う。リベラル派の官庁エコノミスト宮崎が高度成長を軸に肯定的な日本経済論を語るのに対して西部は、経済優先主義を批判して日本近代論の土俵に引きずり込もうと執拗に挑戦していた。会話は平行線を辿って進み結論は出なかった。これは40年ほど前の記憶であり主観的に整理され過ぎているかも知れない。

次に西部邁本人と出会ったのは、20人ほどの読書会においてである。
90年代後半だった。福沢諭吉を論じた近著を語ってもらい討論に入った。西部は、福沢を近代主義者とする論を一面的だと述べた。それに対し大手全国紙の記者が「戦後民主主義」を自明の前提として西部に反論した。西部は語気を荒らげて証拠を示せと相手に迫った。その言語と迫力は、私が体験したビジネスの現場でも、稀にしか感じない強いものだった。しばらく沈黙が続いた。私は進行役であるのにパニクった。幸い、一緒にいた西部担当の雑誌編集者が取りなしてくれた。

《ニヒリズムの近代を論ずる『虚無の構造』》
 西部の死後、私は彼の著作を一つ読んだ。
『虚無の構造』(中公文庫・2013年、親本は飛鳥新社・99年)である。
その書物を半澤流に強引に要約して次に掲げる。

近代はニヒリズムの時代である。これが西部テーゼである。
「神は死んだ」に象徴される絶対価値の喪失=全ての価値の相対化。世界の全体像の消滅。大衆(大量)社会化による他者追随。自己証明(アイデンティティー)の喪失。これらをキーワードとして西部の近代批判が展開される。次のくだりがある。(■から■)
■かつてはニヒリズムとの死活をかけた思想の闘いがあった。その戦はおおよそニヒリズムの勝利に終わったとはいえ、その戦に投入された精神の真摯さが、その時代を魅力的なものにみえさせてさえいた。卑近な例でいえば、日本の文学史は、北村透谷、夏目漱石、芥川龍之介、太宰治、三島由紀夫といったふうに、ニヒリズムとの闘いの敗北を刻んでいる。
二十世紀末から二十一世紀へかけて、我々は最も消極的なニヒリズムを生きている。つまり自分がニヒリストであることを自覚せぬまま、ニヒリズムの諸断片を状況の推移に応じて次々とだらしなく垂れ流している。しかもそのことに現代人はおのれの「個性」を見出しているのだ。精神の表玄関で「ヒューマニズム」の表札をつけることによってニヒリズムを追い払いつつ、裏玄関からそれを迎え入れるという詐術を近代人は続けてきた。その結果、我々は、「実在」について想うことを忘れ、「当為」について考えることを禁句とし、さらに「虚無」について語ることをやめたのである。■

《ニヒリズムの克服はできるのか》
 ニヒリズムが近代の本質的な病であるから、近代そのものを克服しなければ、病は治らないというのが西部の主張である。「近代の超克」論である。
近代のキーワードである資本主義、市場原理、国民国家、基本的人権、民主主義、平等主義までが、批判と消去の対象となる。ラジカルである。戦後民主主義者は相当な衝撃を受ける筈である。
西部は、西洋思想のパノラマ様の解説によって―私見ではその根っこはエドマンド・バークとホセ・オルテガである―近代主義の単純性と虚妄を切りまくる。
バークが歴史、習俗、経験に依ったように、オルテガが「マス」(専門的知識人を含む大衆)を排して思想的知識人に依ったように、西部は歴史に多くを求める漸進主義と良識あるエリート支配を理想としたようである。彼の社会認識は、原理主義的であった。比べて政策認識は具体性に乏しく、いつも原理論に還っていった。そのギャップを本人も自覚しており知的な饒舌でそれを埋めようとした。その話術と叙述はある種の滑稽さを醸しだした。

《『東京物語』に共感する保守とリベラル》
 西部は資本論を読まずに安保闘争を闘った。そして「エリート知識人の卵」だと思っていた全学連闘士が「マス」であることを知った。一方、奉ずべき「伝統」は、戦前の富国強兵と戦後の高度成長がによって、ほぼ消滅していた。西部邁の味方はどこにも居ない。聡明な彼は早い時期にそれを悟ったと思う。近代の毒に汚染された我々には、彼の「近代批判」はおおむね滑稽である。だから彼はトリックスター(道化)となった。しかしシェークスピアの戯曲ではトリックスターが真実を述べることがある。

私の手許にTVを録画した一本のDVDがある。西部が佐高信と対談した日本映画「東京物語」論である。当時のCS局「朝日ニュースター」は保守対リベラル対決と銘打って、二年間にわたり、書物と映画について二人に語らせた。本にもなっている。この「東京物語」論議は対立どころではない。そこには日本の醇風美俗が近代化によって崩壊してゆく映像への愛惜がある。

私は西部邁の良い読者ではなかったが、気になる知識人ではあった。西部言説は難解でしばしばペダンティックであった。しかし右翼や保守と呼ばれる一群の論者にない、深い知見と強い心情に、私は打たれるところがある。西部の問題提起は、戦後民主主義への強力な批判であった。それは我々の胸底に地雷として埋め込まれたと私は思っている。(2018/02/13)

2018.01.09  映像は剣より強いか―三枚の写真をみて考える―
半澤健市(元金融機関勤務)

 最近みた三枚の静止写真をみて考えるところがあった。
一つは、ユージン・スミスの「楽園への歩み」
二つは、ジョー・オダネルの「焼き場に立つ少年」
三つは、写真誌表紙の「演説する米トランプ大統領」
以下に極私的感想を記す。

《ユージン・スミスの人間的リアリズム》
 ユージン・スミス(1918~1978)は、アメリカの生んだ報道写真家である。母国では、地方医師や助産婦、農業労働者、化学工場や鉄鋼工場、ニューヨークの芸術家の現場などを活写した。被写体のリアルな姿のなかに私は崇高な精神さえみることがある。(たとえば「赤ん坊を取りあげるモード助産婦」・1951)。スミスが活動した舞台はスペイン、イギリス、ガボン(アフリカ)に及んだが、日本との関係はさらに深い。戦中にはサイパン・硫黄島・沖縄、戦後は日立・水俣。沖縄では日本軍の迫撃砲により重傷を負い2年の治療を受けた。水俣では自ら反公害闘争側に立った。遂にはチッソ側の暴力で片眼失明する。

           ユージン・スミスの楽園への歩み
「楽園への歩み」(1946年)は、沖縄戦の負傷から再起後の作品。戦勝後のニューヨークで遊ぶ自身の子どもの写真だ。人間の美しさと希望が一枚の画面に凝縮されている。「ユージン・スミス写真展」は1月28日まで東京都写真美術館で開催されている。

 「楽園への歩み」から1年余以前に、おそらく1945年8月半ばに米従軍カメラマンが長崎で被爆した一人の少年を撮影した。のちに「焼き場に立つ少年」と呼ばれる一枚である。私はこの写真を戦後史の書物で何度か見ている。そのキャプションには、被爆少年の背中の赤児の生死は不明とあったように思う。しかし、2017年秋、集英社のPR誌『青春と読書』に、大竹まことが連載エッセイで、赤児は少年の死んだ弟で少年は火葬を待っていると書いていた。テレビのバラエティー番組の出演者だと思っていた大竹の、反戦の心情が滲み出た、この文章に私はうたれた。

《血のにじんだ唇をかみしめるその身ぶり》
 そしてローマ法王である。
2018年の年初にメディアは大要次の報道を行った。(■から■)
■ローマ法王フランシスコが、この写真をカードに印刷して配布するよう指示を出した。カードの裏に自身の署名と「戦争が生み出したもの」という言葉を記載するよう要請した。写真は、死亡した弟を背負い火葬場で順番を待つ1人の少年の姿をとらえたもの。原爆が投下された直後、米海兵隊の従軍カメラマン、ジョー・オダネル氏により撮影されたものである。写真の内容と由来が短いキャプションで説明されており「幼い少年の悲しみはただ、血のにじんだ唇をかみしめるその身ぶりの中にのみ表現されている」と記している■

            焼き場に立つ少年
「焼き場に立つ少年」は、20世紀の映像のなかで最も悲しい―日本人には最も辛い―映像の一つである。この米人カメラマン・オダネルは2007年に死んだ。美智子皇后は同年の誕生日談話でこの写真に言及している。

《今や、日本全土が治外法権になっている》
            DAYS JAPAN 2018年1月号表紙
 これは、月刊の写真報道誌『DAYS JAPAN』(2018年1月号)の表紙である。大星条旗を背にして、だれが、どこで、演説しているか。
写真説明にこうある。「2017年11月5日、大統領専用機で米軍横田基地に降り立ち、約2000人の米軍兵士と自衛隊員らを前に演説するドナルド・トランプ米大統領」。
雑誌の本文記事に見開き2頁の、広角でロングショットの写真がある。記事のタイトルは「占領下の日本 特集・日米地位協定」。2頁の写真には表紙写真説明に続けて次の言葉がある。「(大統領は)北朝鮮を意識してか、『どんな独裁者も国家も、アメリカを過小評価すべきでない』と述べ、『日本は重要な同盟国だ』と強調した。演説を終えると、大統領専用ヘリに乗り、東京上空を通って埼玉県のゴルフ場に向かった」。この写真は、「宗主国と植民地」に等しい日米関係の醜い構造を表現している。
特集は「1 刑事裁判権の及ばない空白地帯」、「2 元米海兵隊員の見た戦争 僕はこうして、イラクの最前線に行った」の二部構成で、日米地位協定の対米従属性とイラク侵略戦争の凄惨な現場体験を報ずる。私は、広河隆一が発行する雑誌の売り子ではないが、読者は是非とも本誌を手に取って欲しい。

以上が、年末年初の騒々しいテレビ番組を見てしまいながらも、自分で考えたつぶやきである。  (2018/01/05)


2017.12.12 三つの誕生会(下)
盛田常夫 (経済学者、在ハンガリー)

 コーシャ監督は旧体制時代に13本の映画を撮り、1968年にカンヌ映画祭に出品した「一万の太陽」は最優秀監督賞を受賞した。その縁で当時日本の舞台女優だった糸見
偲さんと出会い結婚した。映画監督を志した当初から、1956年の「ハンガリー革命」の体験を映画にしたいという思いを抱いていた。しかし、1956年動乱を「革命」と表現するのは、旧体制下では禁句だった。このテーマを追求した最後の映画が、日本でも上映されたA masik ember(「もうひとりの人」、1987年)であるが、16世紀のトランシルヴァニア地方で生じた農民一揆の指導者ドージャ・ジョルジュを扱った映画Ítélet(「判決」、1970年)も、「革命」の殉教者への思いを込めたものである。この映画制作の舞台裏を語る中で、スロヴァキアやルーマニアの映画人の積極的支援を得て、乗り気でないハンガリー政府から資金を得たという逸話が紹介された。そういえば、1968年は中・東欧地域、とくにチェコ-スロヴァキアの民主化運動が最高潮に達した年であり、日本では学生運動が過激化し始めた年である。そういう時代の空気に押されて、「革命」物の映画が制作された。この時期でしか制作が許されなかっただろう。もう一つ、夫人との出会いを通して、日本の伝統や文化への関心が広がり、それが「姥捨て山」のテーマを扱ったHószakadás(「ドカ雪」、1974年)という映画になった。
コーシャ監督は体制転換を契機に、政治家へ転身した。それ以後は映画を制作していない。体制転換以後、映画を制作することが簡単でなくなった。しかし、これを現FIDESZ政権の所為と短絡的に考えてはならない。旧体制時代はコルナイにしてもコーシャにしても、書籍を出版し映画を制作することは簡単でなかったが、不可能ではなかった。不可能どころか、常に実現する力が働いていた。共産党(社会主義労働者党)独裁の時代とはいえ、ハンガリーでは学者や文化人の活動の許容範囲は他国に比べて広かった。ここが非常に面白いところだ。旧体制時代に、旧体制の問題を批判的に指摘する仕事から生きる糧を得て、それぞれの分野の成功者となったのは人生の綾というべきか。コルナイは旧体制時代に国内外で出版した体制の批判的分析書の業績が認められてハーヴァード大学教授になり、コーシャは「ハンガリー動乱」を生涯のテーマにして、体制に疑念を提起する映画監督としての地位を築き、体制転換後には新生社会党の政治家へと後押しされた。
ところが、社会体制が自由化された途端に、書籍出版も映画制作も簡単でなくなった。人集めや金策に苦労しなければならなくなった。旧体制時代には人件費も印刷費も安価で、政府や管轄団体がOKを出せば、必要経費は賄えた。しかし、そのような牧歌的時代は終わった。市場経済へ歩み出したハンガリーでは、どんぶり勘定の資金援助は期待できない。また、体制転換以後の社会を映画にすることも分析することも簡単でなくなった。
冷戦時代には平和か戦争かの政治的スローガンを掲げるだけで良かったが、冷戦が終わった途端に社会をどう構築していくかの具体的で複雑な構想が必要になった。社会の活動が複雑かつ多層的になり、旧社会では考えられないような経済犯罪が生まれた。政治経済社会の大きな変化の裏で生起した事件や事象を丹念に辿り、体制転換過程で生じた歴史的犯罪を映画や書籍にするのは簡単ではない。それだけではない、政権の当事者である人々や同時代に生きる者が、その政治経済社会の背後で、どのような事件や犯罪が進行していたのかを客観的に分析することは難しい。それに比べれば、旧体制社会はきわめて単純な社会だった。支持するにせよ批判するにせよ、単純明瞭な社会だった。共産党も単純に社会主義を唱えていれば良かった。しかし、そういう牧歌的な古き良い時代は終わってしまったのだ。
 
 1994年に指揮者小林研一郎ハンガリーデビュー20周年を祝う会を組織し、オープンして間もないブダペスト・ケンピンスキーホテルで開催した。国立フィルのメンバーが各種の音楽プログラムを用意し、何度か小林と共演したソプラノ歌手パスティ・ユーリアが、小林のピアノ伴奏で、「藤棚の下に」というサトウハチローの詩にメロディを付けた小林少年14歳の作品を歌った。パスティ・ユーリアはオペラ劇場に所属する47歳の魅惑的なソプラノ歌手だった。その後、リスト音楽院の声楽家教授になった。
 それから長い時が過ぎ、2011年、東日本大震災の犠牲者鎮魂のために、マーチュアーシュ教会でモーツアルト「レクイエム」のコンサートを国立合唱団とともに企画した折、ユーリアが教え子のなかからソリストを手配してくれた。ところが、演奏会当日、17年振りに顔を合わせたユーリアを識別できなかった。私と同い年だが、あまりの変わりように、言葉が出なかった。それは別として、これを契機に、ホームコンサートやクリスマスコンサートに来てもらい、私もヘンデル「私を泣かせてください」を何度も一緒に歌わせてもらった。その後、乳がんが見つかり、闘病生活に入り、一緒に歌うことができなくなった。
 その代わりと言っては何だが、お嬢さんのカロシ・ユーリアが率いるジャズバンドを、何度かクリスマスパーティに呼んだ。リスト音楽院のジャズ科で歌唱を学び、ヴァーカルとして自らのバンドを率いている。その彼女に長男が生まれからは、パスティ・ユーリアは孫の世話に明け暮れている。
 70歳記念コンサートはリスト音楽院の公式行事として開催され、教え子の若い歌手たちが次々と素敵な歌声を披露した。舞台のスクリーンには若き日のユーリアの動画や写真が投影された。コンサートの最後にカロシ・ユーリアのジャズバンドが舞台に入り、ハッピーバースディを奏で、2時間ほどの記念コンサートがお開きになった。
 政治集会より、映画や音楽の集まりは、心を和やかにさせてくれる。ハンガリー経済や政府の経済政策の体たらくに苛つく毎日だが、芸術分野の集まりはハンガリー生活を豊かにしてくれる。

2017.12.11 三つの誕生会(上)

盛田常夫 (経済学者、在ハンガリー)

 11月から12月初めにかけて、立て続けに誕生祝いを兼ねた集まりがあった。一つは経済学者コルナイの新刊Látlelet(「私の診断」)の出版記念と90歳の事前誕生会を兼ねた会(2018年1月に90歳)。二つ目が映画監督コーシャ・フェレンツ80歳を記念したポートレイ映画上映と対話の会。三つ目がオペラ歌手でリスト音楽院声楽家教授パスティ・ユーリア70歳を祝うコンサート。それぞれ各界を代表する人物で、個人的な付き合いのある友人たちである。

 
 コルナイの出版記念会への招待状が週刊経済誌HVG社からメールで届き、出席の意思を事前に出版社に伝える必要があった。しかし、記念会当日まで、出席申し込みを保留した。というのは、新刊本はハンガリーの政治にたいするコルナイの現状認識を示したもので、「ハンガリーは2010年のFIDESZ政権発足時からU字カーブを描いて、後戻りする道に入った」、「独裁的な資本主義ははたして維持可能なシステムだろうか、中国のシステムを輸入することができるのだろうか」という紹介文が添付されていたからだ。この分析の適時性や正鵠さに頷くことができず、出席の意欲が沸かなかった。
 コルナイ経済学との付き合いは40年近くになるが、体制転換前までのコルナイの分析と、それ以後の分析では大きくスタンスが変わっている。体制転換以後は、政治的な発言が多くなっただけでなく、加齢とともに白か黒かという単純な二分法に陥り、分析の面白みがなくなった。だから、コルナイの書籍を翻訳紹介する仕事から手を引いてしまった。唯一、2005年に発刊されたコルナイの自伝だけは非常に良くできていて、ハンガリー語出版から1年も経たないうちに日本で出版(『コルナイ・ヤーノシュ自伝』日本評論社、2006年)することができ、その年の経済学書ベストテンに入るなど大きな反響を呼んだ。しかし、その後も、コルナイの政治経済の現状分析は平板で、それをまとめた書籍の翻訳依頼があっても引き受けなかった。
 出版記念会の前日、フィットネスクラブの更衣室で政治学者のケーリ・ラースロー(現オルバン首相の大学時代の恩師)と顔を合わせた折、「明日、コルナイの記念会で会うよね」と声をかけられ、つい「そのつもり」と答えてしまった。「各界からいろいろな人が集まるようだ」とも教えてくれた。10年前にハンガリー経済学会が主催した80歳の誕生記念会には、知人・友人の経済学者のみならず、当時のジュルチャニィ首相夫妻も参加していた。だから、今回も反政権の知識人・学者がのみならず、ジュルチャニィ率いる政党DMや社会党の政治家も参集するのだろうと予想した。
 記念会当日、HVG社へ出席の意思を伝えようとしてメールのリンクをクリックしたら、「すでに満席で参加受付は終了」というメッセージが返ってきた。「それでも出席したい方は空席がある場合にのみ入場可能」とあった。これで「行かない」決心がついた。
 私は、コルナイが考えるように、「ハンガリーは資本主義経済である」とは考えていない。そのことは2008年と2012年(改訂版)にハンガリーで刊行した拙著Valoság és örökség「現実とレガシー」(Balassi Kiadó)で分析している。資本家がいないどころか、発展した市場経済からもほど遠い「国庫経済」であるというのが、私の主張である。国民所得の半分を国庫に経由させ、補助金行政で動かしている経済にしかすぎない。まして、このようなハンガリー経済を、自生的な市場経済と資本主義企業家が躍動している中国と比べることなど意味がない。コルナイの分析はステレオタイプの類型化に陥って、新しい発見がない。だから、私は体制転換以後のコルナイの現状分析に関心がない。
 翌日、ケーリから、「会は大盛況で、多くの学者・知識人で一杯だった。コルナイは2時間も自説を語り続けて、今になって再び最初の著作である『経済管理の過度な中央集権化』(1956年発刊)を再説せざるを得ない現実に直面するとは思ってもいなかった」と意気軒昂に語ったという。そういう話を2時間も聞かなくて済んだのだから、やっぱり欠席して良かった。まして、反政権知識人の政治集会だったのなら、投票権をもたない外国人の私が行く必要もない。私自身は現政権の政策を好ましいとは思っていないが、現政権の政策だけが問題だとは思わない。それ以前に長期に政権を担ってきた社会党も、体制転換以後の経済社会体制の構築に責任があるし、それを支えてきた知識人にも責任がある。それを現FIDESZ政権だけの所為にするのは、あまりに近視眼的な社会分析だ。

2017.09.26  執筆10年を振り返る
  ―私の関心はどう変化したか

半澤健市 (元金融機関勤務)

《神奈川大学の研究会が発端》
 「リベラル21」に書く機会を与えられ、10年が経過した。「十年一昔」という。私的な感想を書くことを許して頂きたい。私にとっては大きな転機であったからである。
きっかけは神奈川大学(神大)大学院である。2006年3月まで田畑光永氏は同大学院教授であり私は院生であった。2007年夏に、学内の研究会で私は「財界人の戦争認識―村田省蔵の大東亜戦争」を発表した。接触がほとんどなかった二人がここで知り合って数日後、田畑さんから「経済・金融」を主にして、同年3月にスタートした「リベラル21」へ書かないかと打診があった。

《銀行員の仕事で書くことは多くない》
 半世紀以上前の学部卒業論文で何枚書いたか記憶がない(一枚とは400字詰め原稿用紙一枚のこと)。私は、1958年から40年間、大小二つの証券会社と中堅信託銀行の三つの企業に勤めた。仕事で、原稿用紙10枚以上の文章を書いたことはない。一度『信託』という業界誌に業界語に満ちた50枚書いたのが最高である。
世間では、銀行員は書く仕事が多いと思っているらしいが、普通の銀行員は長い文章を書かない。融資の稟議書、産業・企業調査、プロジェクト企画書、一部の業務日誌、役所への報告など長いものはある。しかし書式は定型化していて、オリジナルな文章が入り込む余地は殆どない。
勿論、金融機関でも業態により異なる。政府系金融機関やかつての興銀・長銀などプロジェクト金融を主とする金融法人では、おそらく「疑似アカデミズム」や「霞ヶ関文学」のような文字が書かれたであろう。私のいた企業では、「戦略」は大蔵省(現財務省)がつくり、「戦術」は戦略を遵守する経営者が示達し、「戦闘」は下っ端の兵士が白兵戦を展開した。

《証券取引では文書は後回し》
 証券取引についていうと、私が在籍した時期は証券・信託とも電話の交信によっていた。一回の電話で、数千万円から数十億円の取引が成立した。「そういう商売だと覚悟」すれば、何とかなることを私は学んだ。人間だから間違いもときには起こる。それに対処する生活の知恵も生まれた。今は電子化が進み取引額も大きいだろう。それもで咄嗟の判断で端末キーをクリックするのは電話会話と本質は同じである。もっとも引受業務のような取引、とくに国際間の仕事では文書が命となる。私自身は経験がないが、証券引受契約書は馬に食わせる程の分量がある。「ドキュメンテイション」と呼んでいた。
話が横道に逸れたが、田畑さんからの打診への諾否を私は真剣に考えた。1998年から2004年にかけて当時参院議員だった〝木枯らし紋次郎〟こと中村敦夫氏が発行する月刊新聞に外祇の記事紹介を書いた経験はあった。一回7枚、72回である。2004年から06年までの大学院博士課程で書いた論文の枚数は600枚であった。客観的には私は、すでに「書かない」銀行員ではなかった。しかし不特定多数の読者に書くのは初めてである。不安があった。しかし神大での田畑さんとの縁である。元TBSニュースキャスター、自民党ハト派宇都宮徳馬が発行した『軍縮問題資料』の元編集長からの提案に応じない手はないと結論した。

《「十年一昔」の気持の変化》
 この10年に私の気持ちや思考がどう変わったかを述べたい。
「経済・金融」関連記事を最初のころ随分書いた。2007年秋は、「リーマン恐慌」の前兆が出ていた時期である。私は1980年代の日本バブルの狂気と崩壊に立ち会った。専らその経験に基づいて論じた。その中には、私のバブル経験が生かされたものがあったかも知れない。
しかしこのジャンルには、時期はズレるが、早房長治氏、岡田幹治氏という朝日新聞のベテラン経済記者、在ハンガリーの経済学者盛田常夫教授という専門家がいた。
内外の経済を俯瞰したときに行き詰まりは明らかであり、しかも、出口が見えない。これはこの5年ほどを見ての私の強い印象である。世界の誰もが適切な回答をもっていない。世界経済は、新自由主義のあらゆる現場への浸透と失敗が同居している。そして的確な手が打たれないまま宙づりの状態にある。それどころか極端なポピュリズムが世界に蔓延している。
水野和夫氏のいうように市場は商品で埋め尽くされ、金利はマイナスになり、資本主義は死んだのか。あるいはシュンペータリアンのいうように創造的破壊で世界経済は蘇るのか。二者択一とは思わぬが、私のベクトルは前者に親近感をもっている。
世間では、高度成長に生きた高齢者は成功体験を忘れられず、バブル崩壊後にビジネスに入った青年たちは、ゼロ成長の中の格差拡大を自明と考えている。最近、経済に関する私の記事がないのは、私がいろいろ考えても出口なしという結論しか出ないからである。同じことしか書けないからだ。

《経済がダメなら他に何があるのか》
 選挙になると安倍政権は、経済第一だという。そしてアベノミクスが道半ばと訴える。しかし国会が始まると、防衛省を発足させ(07年)、東日本大震災(11年)後にも脱原発をうたわず、靖国に参拝し(13年)、集団的自衛権の行使容認を閣議決定した上、特定秘密保護法を施行し(14年)、集団的自衛権行使を可能にする安保関連法を成立させ(15年)、オバマ米大統領の広島・安倍首相の真珠湾の相互訪問により、米国の謝罪なしで「日米の歴史的和解」(=原爆投下容認)を行った(16年)、四面楚歌のトランプ米大統領に対しては安倍晋三首相のみが揺るぎない対米信頼を強化している(16~17年)。
安倍政権は「右傾化している」という認識は甘すぎる。それは決定的な誤認であ。私は、安倍政権は「ファシズム」政権だと考えるようになった。この見方は、同世代の友人や企業時代の同僚のなかでは、少数意見である。お前もついに気がふれたかという友人もいる。

《安倍政権はファシズム政権である》
 世論調査によれば、北朝鮮のミサイル発射に対する安倍政権の圧力強化策は、人々に支持されている。「Jアラート」の発令に関連して、桐生悠々の「関東防空大演習を嗤ふ」(1933年『信濃毎日新聞』)が話題になった。『東京新聞』などは大きく取り上げた。しかし世論は「Jアラート」に戸惑ってはいるが、「嗤って」はいない。桐生の「嗤う」は、信濃毎日の不買運動から彼の退社に帰結したのだった。
「Jアラートを嗤う」言説が「反日・国賊・非国民」だと批判されるのは近い将来だと私は予測している。年内総選挙で安倍はそう売り込むだろう。国が決めたことへの異論申し立てを排除する。資本主義か社会主義かの体制を問わず、これがファシズムの重要な特徴である。

《最初は反語のつもりではなかった》
 私の関心は、最近数回の「ファシズムは死語になったのか」に示されている。始めは「ファシズムは死語になってはいない」、という反語のつもりではなかった。どちらともいえないから調べてみようという問題提起のつもりだった。しかし少し書いているうちに反語として書く気になった。「ファシズムは死語ではない。むしろほとんど実態である」という意味である。ファシズムは―いや民主政治も、多くの思想と行動の殆どは―「思想としての」「運動としての」、「制度(法律)としての」、「実態としての」の四段階を経て完成するものだと私は考えている。読者は、2017年の今、わが祖国は上記のどの段階にあると考えるか。それともこういう問いがナンセンスと考えるか。
戦後の、何が、誰が、どんな誤りを犯して、こんな状況を生んだのか。私の暫定的な回答は、こういう問題の立て方自体がこういう事態を生んだのだ、というものである。ファシズムは、我々の外から来るものでもあるが、我々の内部からも生まれるのである。

《安倍政権の崩壊を見るまでは》
 大層な話に発展してしまった。次の10年を生きられると思わないが、安倍政権の崩壊を見るまでは書き続けたいと思う。末尾になったが、この10年間、拙く硬い文章を読んでいただいた読者に、感謝申し上げる。「護憲・平和・共生」のために、厳しい批判と暖かい激励を引き続きお願いする。(2017/09/17)