2017.03.28 「平和の灯」が消されるまで
 ―愛子さんの「怒りと悲しみと希望」―
 
半澤健市 (元金融機関勤務)

 愛子内親王は 2017年3月22日に学習院女子中等科の卒業式に出席した。
400人の卒業生が一人ひとり名前を読み上げられ、愛子さんは「敬宮愛子(としのみや・あいこ)」と呼ばれて起立したという。
彼女が書いた卒業記念作文「世界の平和を願って」が同日宮内庁から発表された。
それは、2016年5月の修学旅行で広島を訪れたときの感想を、書いたものである。

《原爆への「怒りと悲しみ」》
 卒業前の青空を見上げて彼女は平和に生きている自分が幸せだと思った。
その感情が湧いたのは、広島で大きな意識変化があったからである。
原爆ドームの前で突然、足が動かなくなった。平和記念資料館の展示に驚いた。現地をみて、原爆投下の「空間と時間」へ没入したのである。彼女はこう書いている。(■から■が原文の引用)

■原爆ドーム。写真で見たことはあったが、ここまで悲惨な状態であることに衝撃を受けた。平和記念資料館には、焼け焦げた姿で亡くなっている子供が抱えていたお弁当箱、熱線や放射能による人体への被害、後遺症など様々な展示があった。
これが実際に起きたことなのか、と私は眼を疑った。平常心で見ることはできなかった。そして、何よりも、原爆が何十万人という人の命を奪ったことに、怒りと悲しみを覚えた。命が助かっても、家族を失い、支えてくれる人も失い、生きていく希望も失い、人々はどのような気持ちで毎日を過ごしていたのだろうか。私には想像もつかなかった。
最初に七十一年前の八月六日に自分がいるように思えたのは、被害にあった人々の苦しみ、無念さが伝わってきたからに違いない。これは、本当に原爆が落ちた場所を実際に見なければ感じることのできない貴重な体験であった■

《平和への実践・思いやりと発信》
 オバマ米大統領のものを含む世界中からの折鶴を見た。慰霊碑に燃えつづけている「平和の灯」を見た。こういう平和のシンボルを見て、平和は世界中の願いであることを意識する。しかしそれはなかなか達成されない目標である。彼女は、平和は当たり前の日常だと思ってはいけないと考える。平和は人々は他人への感謝と他人への思いやりという行動から始まるのだと考える。そしてこう書いている。

■唯一の被爆国に生まれた私たち日本人は、自分の目で見て、感じたことを世界に発信していく必要があると思う。「平和」は、人任せにするのではなく、一人ひとりの思いや責任ある行動で築きあげていくものだから。
「平和」についてさらに考えを深めたいときには、また広島を訪れたい。きっと答えの手がかりが何か見つかるだろう。そして、いつか、そう遠くない将来に、核兵器のない世の中が実現し、広島の「平和の灯」が消されることを心から願っている■

《15歳少女の作文が与える衝撃》
 特異な環境下で人生を歩んでいる15歳の少女の文章は、私に衝撃を与えた。
それは次の三点の感覚に要約できると思う。
一つ 現場を見て過去の時空に没入できる感性と知性
二つ 「悲しみ」だけでなく「怒り」を表現していること
三つ 行動によって〈「平和の灯」を消そう〉という想像力
三つに共通するものは、自分の目で見、自分の頭で考え、自分の言葉で表現する、すなわち自立した精神である。

 後期高齢者の私は、旅行をして何を見ても「テレビで見た通り」という感想に落ち着くようになった。旅行の感想はメディア映像の再生産以上のものでなくなった。
 それに比べて愛子さんのタイムスリップ能力はどこから来るのだろうか。それは彼女の鋭い感受性からであり、歴史的に事柄を見ようとする知性によるものだと思う。

 私はかねてから日本人の戦争論には、「悲しみ」と「悼み」だけがあって「怒り」や「抗議」がない、と言ってきた。愛子さんは「原爆が何十万人という人の命を奪ったことに、怒りと悲しみを覚えた」と書いている。「怒り」が誰から誰へ向けてのものか。この文章ではわからない。しかし、原爆投下を決定し実行した当事者、不作為によってその実行を容認した当事者は、米大統領や彼女の祖父を含んでいて、しかもその数は多くない。彼女自身の意識はどうあれ、これが文章から導かれる論理である。

 バラク・オバマのプラハ演説はノーベル平和賞の理由となったが、そこでも核廃絶には長い時間がかかると言っている。それに対して、愛子さんは「そう遠くない将来に」と言っている。そして、その時には広島の「平和の灯」は消えるのだと考えている。「灯が消える」というイマジネーションに私はうたれた。

《国民の総意 VS 天皇制・時の政権》
 現在の天皇家の、歴史観・戦争観には戦後民主主義の「理想主義」の部分が、生き残っていると私は思っている。一方、実態としての戦後民主主義は、「戦争観なき平和論」、「自立意識なき防衛論」、「リアリズムなき護憲論」という「現実主義」によって批判され、気息奄々の状態だと私は感じている。
天皇制が「国民の総意に基づく」ように、日本政治の総体は国民の総意に基づくべきものである。戦後76年余り、国民の総意が理想的に政治に反映されたことはない。それが政治の現実というものであろう。

 しかし2017年の今ほど、その関係が「現実離れ」し、「乖離」している時もない。
我々は、敬宮愛子さんに学ぶところにいるのではないだろうか。(2017/03/25)

2017.03.13 無念を語る「語り部」への期待
 ―論文「死者のざわめき」を読む―

半澤健市 (元金融機関勤務)

 本稿は、宗教人類学者の山形孝夫氏(1932~)が、『世界』(2017年4月号)に書いた「死者のざわめき―語り継がれる「記憶の森」」の紹介である。私は、この文章に不思議な感情の高揚を感じたので、是非多くの人に読んで欲しいと思い、自己流の要約文を書く。(直接の引用は、■から■と表示する)

《死者のざわめきだけが聞こえる》
 東日本大震災の二年後、筆者は、仙台で開催された志賀理江子写真展「螺旋海岸」で不思議な経験をした。
■人間も、自然も、動物も全く動く気配がなかった。すべては根っこのあたりから破壊され、息の根を止められて静止している。そのほかには何もなく、近く見つめすぎると、ただ、ざわめきだけが聞こえてくる。まるで、死者の「語り」のように聞こえてくる。イタコによる死者の口寄せのようにである。人間だけではない。大津波に呑みみ込まれたおびただしい数の奇妙な岩石も、海岸線を蔽うようにるいるいと重なる黒松の倒木の行列も、波間に消えた魚市場も、ぐにゃりと曲がった鉄格子の窓も、夜中のカラスも、要するに二〇〇枚を超す一〇〇号大の写真のひとこまひとこまが、何かを語りかけ、つぶやいている。いったい、わたしは何を見ているのか。全くわからないままに、死者のざわめきだけが聞こえていた。■

 山形は、そこで体験した「仮想空間」と、会場を出てから見えた「現実空間」を比較する。果たしてどちらが現実なのか。彼は、そう自らに問うた。
 多くの事例を示し思考を重ねながら、筆者の考え出した答えは、近代のもつ無機質への批判であり、戦前の日本や現代のウガンダに存在した「共同体」再現への欲求であり、新たな「語り部」の出現への小さな期待であった。

《近代国家・近代科学の批判》
 たとえば近代批判は次のように現れる。
ここでいう、「もうひとつのこの世」とは、死者と生者が共生し、語り部の存在する共同体を示していると、私は読んだ。
■このたびの3・1の大津波が露呈したのは、日常に隠されたもうひとつのこの世の現実ではなかったのか、とわたしは思った。
そうした経験の地平からすると、わたしたちの生きてきた囲い込みと排除の論理に立つ近代国民国家も、幾重にも防御された民主主義のシステムも、なぜかフィクションのように見えてくる。耳ざわりのよい言葉遊びの擬態のように見えてくる。そして、そのようなフィクションの中心に、あたかも戦後日本の繁栄と正義の証しのように、さながら国家統治の原理のように原発安全神話が君臨していたのではなかったか。いったい、どちらがほんとうなのか。■

 山形の論理を要約しながら続ける。
 マルクスとフロイトは、「宗教は悩んでいる者のためいき」であり、「人類一般の強迫神経症」といった。そのような自然と人間の一元論で「死者のざわめき」に迫ることができないのである。

《古代から前近代までの先達の知恵》
 その昔、「日本列島」に住む人間は、自然に宿る「霊」(または「カミ」)を信じた。折口信夫は、タタリとは霊が立ち現れる場所を指すコトバだったと言い、山折哲雄は「タタル霊」を鎮める祈祷者のなかに、空海や最澄がいたのだと考えた。
古代から中世にかけて、死者のタタリを占うシャーマンの世界と、タタリを鎮静化する仏教僧とが、「カミ」と「ホトケ」に分業化し、相互補完的に共存して、近代に至るまで「死者のざわめき」をやさしく鎮静化してきた。
■そうした構図が総崩れに崩れ落ちたのは、広島と長崎に落とされた原爆という名の近代物理学の知恵の結晶である〈悪魔の炎〉であったのだ。日本流の宗教的に構築された家族主義も天皇制を支柱とする日本式ナショナリズムも、この〈悪魔の炎〉によって、消滅し、機能を失ってしまった。それが第二次大戦の結末である。「死者のざわめき」の震源を辿ると、どうしてもこの〈悪魔の炎〉に辿り着く。
 その時から数えて七十余年、東日本を襲った3・11の大災害が暴露したのは、東北の海辺の町々に今にいたるまでひっそり命脈を保ちつづけてきた、思えば懐かしい日本的家族共同体であり、その消滅であったのだ。■

《能のシテとワキ―語り部への期待》 
 山形は最後に、安田登の著作『異界を旅する能―ワキという存在』を引いて、能におけるシテとワキの役割を説明する。シテは、無念を残して世を去った霊である。主に遊行僧によって演じられるワキは、シテの無念を「分ける人」(分キ)なのである。そして「語り部」でもあるのだ。もともと「死者のざわめき」とは、山形が書いた書評の対象『死者のさわめき―被災地信仰論』(磯前順一著)のタイトルであった。

 書きながら山形の心に聞こえてきたのは、被災地から聞こえてきた「語り部」になりたいという切実な声であったという。大川小学校の悲劇を生き延びた若者、わが子を失って途方にくれる悲しみの母、父は大川小の先生だった若者たちである。我々は、谷中村の田中正造、水俣の石牟礼道子という先駆者をもっている。
 山形の文章は、多くの3・11論が、社会科学からの立論であるのに対して、宗教論の立場にたっている。この立ち位置は、しばしば「絆」、「癒し」、「慰め」に親和的だという批判を浴びる。その論点を意識しながらも、山形的視点は人間の心情に、深く浸透するものであり、教条的一般論への鋭い批判となっていると痛感する。(2017/03/10)


2016.10.26 ある青年の「戦争レジームからの脱却」論
―知って欲しいひとつの記録―

半澤健市 (元金融機関勤務)

 下記に掲げるのは、「海軍技術研究所」(技研)の嘱託だった28歳の青年が、戦中に書いた文章の一部である(■から■)。

■大東亜戦争は依然二重性的性格を帯びつつあり。一は我が資本主義的経済の死活をこれによりて賭せんとし、一は端的にアジアを欧米の侵略より解放せんとす。もし当局者にて、大東亜戦争の性格を完全に後者にまで変貌せしめんか、正に驚天動地の世界史的転換は、ここに実現せらるべしと。しかるに不幸にして当局者にその明察なく、遂に大東亜戦争は今日に及びたり。(略)

吾人明確に断定す。大東亜戦争の二重的性格こそは、我が国今日の窮境を招きたる最大要因なり。満州事変当時に比すれば、我が戦争目標は、一大進歩否一大変質を遂げたり。単なる権益主義は一掃せられ、八紘一宇と言い、東亜新秩序の建設と言う。しかもかくの如き標語の下、アジア解放の義戦に進まんとする帝国に随いて、同生共死を誓わんとするアジア人の誠に寥々たるは如何。これ実に原理的に我が大東亜戦争の目的が二重的性格より未だ蝉脱せざるが故なり。具体的には支那事変に於ける我が政策が二重的性格に終始し、支那民衆のみならずアジア民衆に対して、我が言行悉く相反するが如き印象を与え、美名を掲げて私利を図らんとする最も悪辣卑劣なる所行と感じせしめたる故なり。(略)

吾人はされば主張す。最悪の場合敵英米が無条件降伏を強要し来らば敢然これに応酬すべきなり。吾人は条件付講和を要求すと。条件とは何ぞ。吾人はビルマの独立を要求す、比島の独立を要求す、東印度諸島及旧仏印領の独立を要求す、マレエ人の完全自治を要求す、中華民国の半植民地的隷属地位よりの解放を要求す、香港を英国が再領有せんとすることに反対す(略)、朝鮮の独立は日本これを承認すと。しかして自らに就ては一言も述ぶる の要なきなり。しかして世界の輿論に向って宣すべし。我が大東亜戦争の目的は実に茲に存したり。■

海軍とは勿論、大日本帝国海軍である。書かれた時期は、1945年6月から7月中旬という。全文は、400字詰原稿用紙約45枚あった。なぜ書いたのか。時局の現状を「率直かつ自由に」書く課題を与えられたからである。
青年は、「国策転換に関する所見」として所内の会議でこの意見を発表した。一将官と東京帝大教授平泉澄が同席していた。平泉は「君は世界の大勢からときおこすが、吾人は国体の本義から出発しなければならない。本末を転倒した議論は、百害あって一利なしである」と反対した。青年は8月に入り嘱託の職を解かれた。

青年の名は日高六郎(1917~)。のちに社会学者として、「進歩的文化人」として名をなした。事後的に、この思考と行為に対して賛否を論ずるのは容易である。
しかし、である。
「政治的正当性」political correctness に対する批判は、米大統領選挙の候補者討論や欧州の移民問題に対する国家主義の復活など、様々な形態で風圧を増している。安倍政権は一貫して「戦後レジームからの脱却」の思想に拠り、自民党総裁の任期まで変更して、憲法改訂を目標にしている。

日高六郎の「国策転換に関する所見」は、安倍思想に比べ数周回も進んだ「戦争レジームからの脱却」論であり、真の「積極的平和主義」であり、誠の「政治的正当性」の表現だったと私は考える。「戦後民主主義」の位置を「青年」諸君は知らぬであろう。「戦後民主主義」を生きながらえ、今も一縷の望みをつないでいる高齢者として、ここに記録しておく。(2016/10/23)

2016.09.02  NHKの朝の連続ドラマを見て思いだした。
          韓国通信NO498

小原 紘(個人新聞「韓国通信」発行人)

 私が中学生だったある日のこと、父親が仕事帰りに『暮しの手帖』を買ってきた。以来、わが家の近くの本屋から、その変わった名前の雑誌が届けられるようになった。
 当時、父親は通産省(現在の経産省)に勤め、電気製品などの工業製品の規格や品質管理に関わっていて、民間の雑誌が行う「商品テスト」に興味を持ち、とても感心しているようだった。
 中学生の私には『暮しの手帖』はそれほど面白いものではなかったが、表紙のデザインが明るくてお洒落、記事がわかりやすい雑誌を読み続けた。
 もちろん洋服の型紙や料理のレシピには見向きもしなかったが、エッセー類はよく読んだ。なかでも戦争体験の特集記事で、敗戦で引き揚げる満州の開拓団の想像を絶した苦労の手記、国民を見棄てた軍隊の話がとても強烈に印象に残っている。
 「暮しの手帖」は家族の誰もが触れ、読むことのできる雑誌だった。生活の知恵、アイディア満載の雑誌のなかで私が興味を引かれたのは、やはり「商品テスト」だった。あの頃のわが家にはまだテレビはなかったが、便利な家電製品が続々と登場し始めた時期だった。
 今、振り返ってみると、あの「商品テスト」は「安全」「便利」「経済性」を伝えるわが国の消費者運動の先駆けだったような気がする。結論だけではなく経過が写真入りで丁寧に説明されていたので説得力があった。実証して見せることの大切さを学んだ気がする。
 東芝や日立という名だたるメーカーもさぞ驚いたことだろう。信頼できる情報によって消費者の選択が可能になったことは素晴らしいが、作る側も大きな刺激を受けたはず。私の父親も実はそれを面白がっていた「フシ」がある。
 戦後の早くから主婦の立場から生活改善の要求を掲げ行動した「主婦連」の活動は消費者運動につながり大きな成果をもたらしたが、『暮しの手帖』が果たした功績も大きかった。

消費者「大不在」の時代
 消費者庁が発足して消費者が尊重される時代になったように見える。しかし尊重どころか軽視、時には馬鹿にされていると感じることが多い。
 世の中は便利そうな商品で溢れている。しかし不良品・欠陥商品も氾濫している。故障したパソコン、デジカメ部品の「在庫なし」、修理より「買い替え」をすすめられた人も多く、私もまだ使えそうな新品に悔しい思いをしたことがある。企業の理屈を優先させた最たるものだ。聞いただけも「インチキ」商品と思われる商品はゴマンとある。私には関係のない領域だが、「ダイエット」関連、健康、美容のコマーシャルがやたらと目につく。どれもがマユツバもので、言いたい放題の「無法地帯」を思わせる。
 飲むだけで一カ月に5キロも10キロも体重が減る。20才も若返る。歩けなかった人がジョギング。どれも「売り上げNO1」と豪語して買う気を誘う。メーカーは勿論のことテレビや新聞などの媒体の責任は大きいが、最近では厚労省認定、大学との共同開発などと「産・学・官」が提携する無責任体制も広がりを見せる。
 買わなければ被害に会わないという意見は「詐欺にあう方が悪い」と言わんばかりだ。こんな無法が許されてよいはずはない。企業に甘すぎる行政も問題だが、安易で便利なものを追い求めてきた私たちの側にも責任の一端はある。経済成長(景気対策)と企業の「もうけ」を優先させる政治と経済のあり方を変えるためには、消費者の自覚が求められる。原発も賢い消費者ならあり得ない選択だった。
 庶民の幸せを実現するために個人の自立を説いた花森安治を思いだした。

 暮しの手帖88号の思い出
 2000年88号の『手帖』の表紙を思い出す。通算388号だが、100号になると「初心に帰って」1号から始めるので88号というのも面白い。
 その号でジャーナリストの増田れい子さんが「ピアノ」という随筆を寄せている。あるピアノリサイタルの感想である。何故ピアノが『暮しの手帖』に?
 読み直してわかったこと。ピアノに憧れた少女時代。戦争のために学べなかった増田さん。それでもピアノが大好きでコンサートに通い続けた。
 自分が果たせなかった夢を大人になってから挑戦し続ける人たちがいる。その夢に寄りそう若いピアノ教師(当時20代後半だった)と増田さんが出会った。その生徒たちが「先生」のリサイタルを開くという。2000年6月のことだ。音楽会に増田さんは招待され、好きなショパンの曲を聴き、それまで経験したことのない「一滴の甘い果汁のような音は生涯忘れない」と演奏の感想をつづった。
 増田れい子さんのジャーナリストとしての活動は『暮しの手帖』が目指していたものにつうじるところがある。ブランド志向とは無縁で、彼女は普通に生活する人間の幸せを常に追求してきた。ピアノを弾きたい人々の「夢」をかなえようとする音楽教師の生活から生まれたピアノの音色に深く感動した。彼女のエッセーは並みの音楽評論を越えた、自分を含む「人生評論」の趣きさえある。
 2000年には花森安治はすでになく、このエッセーを書いた増田さんも4年前に亡くなられた。生活を大切にする姿勢はこのエッセーにも引き継がれていた。

 鄭周河さんを見送る
 韓国の写真家鄭周河さんが日本での巡回写真展が一段落して帰国する日(8月24日)、見送りに成田に出かけた。
 原発事故直後から福島県南相馬を撮り続けた彼の一連の作品は各地で強い印象と感動を与えた。芸術家としてすでに評価は高いが、人間を幸福にしない近代文明に疑問を投げかけ、「反原発」で国境を越えた地球規模の市民の連帯を考える市民運動家としても魅力的だ。
 来年4月から新宿の「高麗博物館」を皮切りに三回目の巡回展が予定されている。
 彼とは福島県白河に続き、長野県松本市での写真展まで出かけ、大いに交流を楽しんだ。彼は酒を飲むと「クジラ」だった。巡回写真展のタイトル「奪われた野にも春は来るか」を彫った私の陶板作品が気に入って韓国に持ち帰るという、ちょっと「いい話」も生まれた。

 朝露館
 益子の朝露館には陶芸家関谷興仁さんの陶板作品が展示されている。春と秋のみ毎週末3日間の公開だが、言葉が軽くなった昨今、作品の存在は重みを増している。開館2年目を迎え、多方面から注目を集め、また朝露館を支える人たちも増え続けている。
 樹の幹に「君の名前を彫り給え」という詩を思いだす。忘れてはならない大切な言葉をコツコツと関谷さんは陶板に刻み続けてきた。
 鄭周河さんが韓国に持ち帰る私の陶板作品は、ここでつくった。私は体験教室で作陶をしながら、原発事故で「野を奪われた」福島の人たちの無念と、韓国の詩人李相和の、日本に奪われた国への慟哭の思いを指先に込めたつもりだ。
 私の作品を韓国に持ち帰る交換条件に、鄭周河さんから、福島原発が起きる前に発表した原発のある風景―海辺で遊ぶ子どもたちが描かれた作品(タイトル「不安―火の中に)をいただいた。署名入りにすると「お値打ち」ものだが、無署名のまま私の「宝物」として部屋に飾ることにした。  
 夏も終わる。1923年9月1日。関東大震災による死者・行方不明者10万人余り。そのなかで数千人の朝鮮人が虐殺されたことを忘れない。詩人李相和はそれを目撃した。
2016.06.16  昔ばなし大学講演会「子どもたちに幸せな未来を」の動画
    メール通信「昔あったづもな」第63号

小澤俊夫 (小澤昔ばなし研究所所長)

 福島みずほ・小澤ジョイント講演会として5月24日、吉祥寺公会堂で行われたこの講演会の様子をYouTubeにアップしました。動画は前半だけですが、福島さんの講演は全部入っています。国会での厳しい質問とはひと味違って、ユーモアあり、落語家的しゃべりもあって、楽しく、かつ内容の濃い講演でした。福島さん、実は落語が好きなのだそうです。
 講演の前と後に、シンガーソングライター、橋本美香さんがギターの弾き語りをしてくれました。自作の「戦争と平和」。
 この講演会の音声記録は全部、既にYouTubeにアップしてあります。なお、福島さんのホームページには、当日の全映像がアップされています。
 女性国会議員というと、電波停止という強権でメデイアを脅したり、「歯舞」が読めない大臣だったりします。ぼくは、福島さんというしっかりした人に、これからも国会議員として、憲法擁護、安保諸法廃案、反原発で力を発揮してもらいたいと切望しているところです。
 YouTubeで「子どもたちに幸せな未来を」と検索していただくと出てきます。ぜひご覧いただき、知り合いの方々にも紹介してください。(2016.6.9)
2016.06.07  意味づけが変わった知覧特攻平和会館
    メール通信「昔あったづもな」62号

小澤俊夫 (小澤昔ばなし研究所所長)

 昔ばなし大学の「昔ばなしの言葉シンポジウム」第3回を鹿児島県国分で開いた後、約20年ぶり知覧特攻平和会館を訪問した。噂には聞いていたのだが、この平和会館の意味づけがすっかり変わっていることに衝撃を受けた。若き命を国に捧げたことの賛美に終始していたのである。そこには、あの特攻攻撃が如何に無謀なものであったか、いかに現実離れしたものであったか、あの計画の責任は誰にあったのか、という問題はまったく隠されてしまっていたのである。しかも若き命たちは、死ぬ日を前にして、苦しみ、悲しみ、酒を飲んで暴れた者もいたそうだが、そんなことにはまったく触れない展示ばかりだった。
 若くして死んでいった者たちは、またしても国家の都合で、その死を礼賛されることになってしまっていた。

 第二次大戦末期、アメリカ軍が沖縄に上陸して、日本は追いつめられた。そのとき、日本各地、及び韓国、中国に派遣されていた陸軍航空隊の若者たちが知覧に集められて、沖縄を攻撃するアメリカ艦船への体当たり攻撃に出撃したのだった。17歳から23歳くらいまでの若者たちが、体当たりに出撃して死んだ。その数1000名をはるかに越えたとのことだった。
 親や家族に向けて遺した遺書がたくさん並べられてあった。みんな立派な言葉で別れを告げてあった。涙なしには読めない。ひとりひとりの写真もあった。軍服もあった。別れの食事の風景。出撃の風景。そして、アメリカ軍が撮影した、撃墜される瞬間の映像も流されていた。特攻隊が乗って行ったといわれる陸軍の戦闘機も現物が展示されていた。いくつかの軍用旅館の女将さんたちが、当時の様子を話す映像もあった。

 だが、ぼくが約20年前に訪れた時には、旅館の女将さんだったというおばあさんが、若者たちが死を目前にして苦しんだ様子を赤裸々に語ってくれた。ある者は泣きわめき、ある者は父や母の名を叫び、ある者は酒に逃げて暴れていた、と話してくれた。「お国のために命を捧げますなんていうのは、表面だけで、ほんとはそんなもんじゃなかった」という言葉に、ぼくはその時衝撃を受けた。そして「それが本当だろう」と思った。
 戦争中にはよく言われたものだ、「兵隊は天皇陛下万歳と叫んで息を引き取った」と。だが、戦地から生きて帰ってきた男たちからは、「みんな、母ちゃんとか、女房や子どもの名前を呼んで死んでいった」と聞かされた。それが本当だと思った。

 今回見た平和会館の展示は、すべて、「天皇陛下万歳!」を示す展示だったのだ。出撃直前の朝飯の写真があったが、みんなにこやかな顔で、まるでこれから遠足にでも行くような表情だった。そんなはずはないではないか。
 特攻隊が乗っていたという戦闘機の実物が展示されていた。それは古臭いがれっきとした戦闘機だった。だが、指宿在住の元社会科教師だった方の説明では、「戦闘機は全くおんぼろで、練習機まで特攻機として使われた。水上飛行機まで特攻機として使われたが、時速200キロしか出ないので、海上で待ち伏せしている時速500キロのグラマン戦闘機に次々撃ち落とされた」ということだった。若者は犬死させられたのだ。この点でも真実は伝えられていないのである。

 平和会館のどこにも、あの戦争はそもそも無謀な戦争だったことは書いていない。いわんや、おんぼろ飛行機に乗って敵艦に突っ込むという自爆戦術の愚かさは何処にも書いていない。あの愚かな、無謀な自爆戦術を誰が考案したのか、その追及もない。練習機や水上飛行機でグラマン戦闘機に対抗できると、誰が考えたのかの調査もない。まるで、あの特攻攻撃が国民の自発的総意として生まれたかのような展示である。

 知覧特攻平和会館は、今や、「こんなに多くの若者が、お国のために尊い命を捧げたんだよ」ということだけを宣伝する場所になってしまった。「だからあんたたちもお国のために命を捧げなさいよ」と人々に訴える場所になってしまった。靖国神社と同じ、忠君愛国の宣伝の場となってしまったのである。
 知覧には年間50万、60万人の観光客が訪れるということだった。生徒、学生も訪れるだろう。訪問者は、お国のために命を捧げることが感動的なことなのだと、学ぶだろう。
 一方では、安全保障諸法が成立してしまっている。国は兵隊を必要としている。この平和会館は若者やその家族に、国のために命を捧げる準備をさせる教育の場にされてしまっている。海上自衛隊の隊員が多数見学に来ていた。お国のために死んでいった若者を賛美する石碑もあった。
 統制国家、軍事国家へと目指している勢力が、戦争中の若者の死を礼賛することによって、庶民に麻酔をかけようとしている。日本という国は、重大な局面に立たされていると思う。(2016.6.1)
2016.04.16 メール通信「昔あったづもな」 第61号
講演会「子どもたちに幸せな未来を」

小澤俊夫(小澤昔ばなし研究所所長)

 昨年国会で強行採決された「安保関連法」は、ついに施行されました。現在と将来の若者を戦争に駆り立てる準備が整えられつつあります。7月に予定されている参議院選挙では、自民・公明党に絶対に勝たせてはなりません。そのためには野党が小異を捨てて、護憲、反原発、安保法廃棄で団結しなければなりません。そして、毎日の生活のなかでは、お母さんたちが安心して子供を預けられる保育所を、国家の責任でちゃんと整備させなければなりません。若者たちが将来への夢を持って働ける職場を整えさせなければなりません。
 ぼくは昔話の研究者であり、庶民が伝承してきた貴重な文化財としての昔話を、その美しい姿のまま、壊さないで伝承しようと主張している人間なのですが、日本が戦争する国になってしまえば、庶民の伝承文化財などあっという間に壊されてしまいます。そして、若者たちは殺し合いの場に駆り出されるのです。そんな日本にすることは決して許せません。そこで、昔ばなし大学としても、初めて、子どもたちに幸せな未来を贈ろうという講演会をすることにしました。
参議院議員として国会で護憲、反原発、安保法廃棄で頑張っている福島みずほさんに来ていただいて、直接お話をうかがい、勉強しましょう。ぼくたちの意見も聞いていただきましょう。そして会の参加者同士の連帯も強めましょう。子どもたちに幸せな未来を贈るために。(2016・4・8)

昔ばなし大学 講演会
「子どもたちに幸せな未来を」
講演・進行 小澤俊夫
ゲストスピーカー 参議院議員 福島みずほさん

福島みずほさんは、参議院予算委員会などで安倍首相に鋭く切り込んでいます。
数年前、「子どもゆめ基金」が廃止されそうになったとき、ぼくは全国の署名を集めたのですが、そのとき力になってくれて、廃止から救ってくれたのが福島さんでした。今回、お忙しい中、ぼくの希望を受け入れて、ぼくとジョイント講演会をすることになりました。福島さんのお話を真近で聞けるいい機会なのでどうぞいらしてください。
小澤俊夫


■演題 「子どもたちに幸せな未来を」
■日時 5月24日、火曜日。午後6時45分から8時30分まで。
■ 会場 武蔵野公会堂
   (JR吉祥寺駅、京王井の頭線吉祥寺駅公園口徒歩2分)
*会場は以前、国立オリンピック記念青少年総合センターとお知らせしましたが、武蔵野公会堂に変更になりました。それに伴って、申し込み不要になりましたので、知人、友人の方々も誘ってご自由においでください。
■入場料 500円 当日、会場で申し受けます。

問い合わせ先: 小澤昔ばなし研究所
〒214-0014 川崎市多摩区登戸3460−1  
パークホームズ704
e-mail :mukaken@ozawa-folktale.com
Tel/fax: 044-931-2050

2016.03.18   「子どもには自ら育つ力がある 昔話に込められたメッセージに耳を傾けてみよう」(後編)
    メール通信「昔あったづもな」第60号

小澤俊夫 (小澤昔ばなし研究所所長)


(前号に続き、公文教育研究会インタビュー再録の後編をお届けします。後編のオリジナルサイトのURLは、http://www.kumon.ne.jp/kumonnow/special/029_2/です)

KUMON NOWスペシャルインタビュー

「子どもには自ら育つ力がある 昔話に込められたメッセージに耳を傾けてみよう」(後編)


研究者になるために決意した3つのこと
ぼくは大学での研究生活のあと、1992年に「昔ばなし大学」を全国で開講し、1998年に「小澤昔ばなし研究所」を創りました。グリム童話に始まり、昔話をずっと研究してきたわけですが、その間、迷いは一切なかったですね。

大学入学時、専攻していたドイツ文学では、優秀な仲間がたくさんいて、それに比べると自分は並の研究者だと気づきました。でも、昔話の研究者になりたい。そのためにはどうしたらいいか、3つのことを考えました。1つは幅を広げないようにすること。2つめは人より3倍時間をかけること。3つめは人より長期間やること。その原則でいままで来ています。逆に才能のありすぎる人はいろんなことをやりたがり、まとまった成果を上げられなくなります。学生たちを教えていた頃にも、よくこの原則の話をしました。

大学院卒業後、東北薬科大学でドイツ語を教えながら、グリムの勉強もずいぶんしました。初めてドイツへ渡航したのは36歳のときで、研究者としては遅いほうです。でもぼくは「いつか行けるだろう」と考え、焦らなかった。最初は世界のメルヒェンの百科事典を制作する手伝いのために半年間、その数年後に客員教授として招かれ、家族同伴で2年間ドイツに暮らしました。

「昔話は聞くのが楽しい」というのは、フィールドワークで実感していたので、息子たちにも聞かせたりしていました。そして今は孫に読んでいます。いや、逆に孫が読んでくれますね。もちろんぼくは、相づちを打ちながら一生懸命聞きます。相づちは、語りと対なので、とても大切です。お父さんもお母さんも、子どもが何かを言ったら、聞き流さないではっきり相づちを打って聞いてくださいね。

昔話は人間の成長の姿を語っている
大学で教えていた時は、学生を連れてあちこちの農村を訪ね、土地のおじいさん、おばあさんに聞き取りして、昔話を調べていました。ある78歳のおじいさんは、「うちのじんつぁま(=じいさま)から聞いた」と、12話も語ってくれました。「じんつぁま」から聞いたのは8歳くらいの時までで、大人になっては二度兵隊に行っているし、お孫さんにも語ったことがないという。なのに、なぜ70年前の話を思い出して語れるのか、不思議でした。

でも、1話終わると、ひじをついてじっと思い出している姿を見て気づきました。思い出しているのは昔話だけではなく、「じんつぁま」のたばこのにおいや囲炉裏のにおい、周りの暗さ……話を聞かせてくれた「じんつぁま」全体とその情景全体なのだ。それで昔話も思い出せたのだ、と。

「じんつぁまのこと、思い出すだろうね」と言うと、「うん、思い出すね」。その一言でぼくはそれを確信しました。話の言葉を覚えるのとは違う、語り手の姿、ぬくもりを覚えている。「じんつぁま」との強い人間的な結びつきがあるから、その「じんつぁま」が語ってくれた昔話を思い出せるのです。そうやって昔話は語り伝えられてきたのです。

そのおじいさんが「じんつぁま」から語り継がれてきたように、昔話は、おじいさん、おばあさんが孫に伝える「隔世遺伝」です。おじいさんは、昔は悪ガキだったわが子でも、今は親をやっている姿を見ているから、「子どもはちゃんと育つ」ことがわかっています。

昔話というと、「はなさかじい」など教訓ものが有名ですが、昔話にも「子どもの成長」が織り込まれています。教訓ものに登場するのは、じいさんかばあさんで、良いじいさんは最後まで良いじいさんと性格は変わりませんが、多くの昔話は主人公の性格は変わります。はじめは間が抜けていても、最後は賢くなる。

「三年寝太郎」のお話が好例です。寝てばかりいる若者が、あるとき悪知恵を出して長者の娘の婿になる話で、大人は「道徳的によくない」と言います。でも、ちょっとした悪知恵を働かせることは誰にでもあり、その意味で本当の人間の姿を伝えています。そして、「寝太郎」の姿は「若者の変化」そのものです。だからぼくはこの話が大好きです。

若いときにはいい加減でも、30~40歳になればちゃんとやっている。そんなぼくの「寝太郎理論」にあてはまる人はいっぱいますよ(笑)。ぼくは長い間大学で教えましたが、勉強しない学生がたくさんいました。でも卒業して20~30年も経つと、皆、すまして立派な大人になっていますから。

子どもは「育てる」のではなく「育つ」もの
大人は子どもを信頼しよう

昔話からわかるように、子どもは自らの力でちゃんと育ちます。それを理解し、子を信頼すればよいのですが、今は、親が子どもに口を出し過ぎてはいないでしょうか。

もみの木をご存じでしょう。我が家の息子たちが小さいとき、クリスマスツリーにしようと、庭にもみの木の苗を植えたら、少しずつ先の尖ったきれいな形に育ってきた。クリスマスが楽しみだと思っていたら、それらしく揃い始めていた上の方を、ある日植木屋さんにバッサリ剪定されてしまいました。がっかりしたんだけど、しばらくするとまた見事に先の尖ったきれいな形に戻ったのです。もみの木は「おれの姿はこういう姿なんだ」と主張しているのです。

もみの木でさえ、自分の意思を持ち、復元力がある。だから人間の子だって、「自分はこういう姿でありたい」という意思をもっているはずだと思うのです。大人が脇から「こうしなさい」「早くやりなさい」「もっとたくさんやりなさい」などと言うのは、大人の支配欲ではないでしょうか。大人がやるべきことは、子どもがもみの木みたいに、すくすく生きていけるよう手助けをすること。信頼し、育つ環境を作ってやることです。今、子どもはあまりにも手を加えられ過ぎている。人は盆栽ではないのです。

ぼくの母は、ぼくらの手が離れたころ、「わたしはうちのなかで空気のような存在でありたいと思っていたのよ」とポツリと言ったことがあります。空気はふだんはその存在に気づきませんが、でもなければ生きていけません。父はぼくらの家が戦後貧しかったときに、音楽好きなぼくらのためにピアノを買ってくれた。「こんなに貧乏なのに……」と、親戚からは批判されたようですが、父は「おれの自由教育が正しかったかどうかを証明するのはお前たちだ」とぼくらに言ったことがあります。ぼくは「証明できないはずはない」と思いましたね。父も母も、ぼくら子どもたちを完全に信頼していました。

その目で見ると、現代の親子関係の状況はとても気がかりです。「子どもは無限の可能性を持っている」とよく言いますが、それは「大人が干渉さえしなければ」という条件つきです。幼いときから、大人が子どもの可能性を一生懸命つんでしまっていないか、心配です。子どもは自ら成長し、変化するもの。そうした当たり前で大切なことを、昔話は教えてくれています。大人は、慌てずに焦らずに、子どもたちを信頼して、温かく見守っていてください。(了)

 
2016.03.16  「子どもには自ら育つ力がある 昔話に込められたメッセージに耳を傾けてみよう」(前編)
    メール通信「昔あったづもな」第59号

小澤俊夫 (小澤昔ばなし研究所所長)

 この「昔あったづもな通信」は、日本の社会や政治に対する私の意見を発信する場として運営しているが、私は昔話の研究者なので、昔話に寄せる私の思いや、昔話から私が何をくみ取っているかなども読んでいただきたいという思いがだんだん強くなってきた。ちょうどそんな時、「くもん教育」という独特な教育を展開している会社からインタビューを受けた。このインタビューは公文教育研究会のホーページの中の「KUMONnow」というコーナーに掲載されているが、よくまとめられているので、私の自己紹介のような意味でここに、二号にわたって再録させていただく。なおオリジナルのサイトのURLは、http://www.kumon.ne.jp/kumonnow/special/029_1/である。(2016・3・3)

KUMON NOWスペシャルインタビュー

「子どもには自ら育つ力がある 昔話に込められたメッセージに耳を傾けてみよう」(前編)

昔話は音楽と同じ。リズムの楽しさを壊してはいけない
みなさんは「昔話」というと、何をイメージしますか。昔話は、口で伝えられてきたお話です。口で伝えられてきたということは、「耳で聞いて」伝えられてきたということ。聞き終ったら消えてしまう、聞いている間だけのもので、音楽と同じ「時間にのった文芸」なのです。

昔話は同じ場面が出てきたら同じ言葉で繰り返します。これも音楽と同じです。しかも繰り返しはだいたい3回。たとえばグリム童話の『白雪姫』は、1度目は紐で、2度目は櫛で、3度目は林檎で殺されます。アニメや映画では林檎だけなので、ご存じない人もいるかもしれませんが、じつは3回殺されているのです。

音楽も、同じメロディを2回繰り返します。そして3回目は少し長く、一番強調されています。つまり3回目が一番大事だということです。これが音楽の基本的なリズムで、このリズムは昔話にもあります。白雪姫も林檎のシーンが一番長いでしょう。ホップ、ステップ、ジャンプという陸上競技のリズムも同じです。人間にとって、このリズムが一番自然だからです。

このリズムは、子どもだけでなく、大人にとっても心地よいもの。そしてその楽しさを壊さないことが大事です。けれども残念なことに、昔話に関しては、たくさん本が出ていたり映画にもなったりしていますが、3つのリズムの前の2つを省略してしまうなど、本来の昔話の「語り口」から離れてしまっているものが多いように感じます。そのことに気づいてもらい、「語り口」がきちんとしている文章を選んでほしいし、さらにそう指導できる人を日本中に広げたい。そんな思いから、全国各地で開く「昔ばなし大学」に、いま力を入れているところです。

「涙を知るのはいいことだ」
敗戦を迎えて父が言った言葉は忘れられない
ぼくは満州事変が起こる1年前、昭和5年に満州で生まれ、小学5年生までを北京で過ごしました。とにかくわんぱくで、悪さばかりしていましたね。当時暮らしていた中国の家は、隣家と屋根がつながっていて、屋根から屋根へひょいと伝い歩けるので、屋根伝いにどこまでも行ったりして。

父は満州で歯科医をしていましたが、その後政治団体に関わるようになります。昭和15年頃になると、父は「この戦争は勝てない」と言い出します。政治評論集を作り、軍部批判をしていたので、軍部からは睨まれ、自宅には毎日憲兵が来て監視されていました。

翌年には父以外の家族が日本へ戻り、その2年後には父も日本へ。東京の立川に住みましたが、そこにも今度は特高警察が毎日来る。それでも父は国のことを憂いて平気で軍部批判をするので、いつ捕まるかとヒヤヒヤする日々を過ごしました。

ところが結局そのまま終戦を迎えましたが、その後父が亡くなったとき、特高として監視していた方から、ていねいなお悔やみの手紙をいただいたのには驚きました。そうした方たちも、父が憂国をもって信念を貫く姿を、じつは慕っていたのかもしれません。そしてぼくも、こうした父の姿に大きな影響を受けたのは言うまでもありません。

父が敗戦直後には、「この敗戦は日本にとっていいことだ。日本は日清戦争以来、負けていないから涙を忘れてしまった。これで涙を知るのはいいことだ」と言ったのも忘れられません。そして、ぼくら子どもたちには、「お前たち、好きなことをやれ」と言いました。

母はクリスチャンで、ぼくらも教会の日曜学校に通い、賛美歌を習いました。それが我が家の音楽との付き合いの始まりでした。すぐ下の弟(=小澤征爾氏)は指揮者になりましたが、ぼくも音楽が大好きになり、コーラスは今も現役で続けています。

柳田國男先生の一言で、日本の昔話の研究を始める
音楽と同じくらい好きだったのが文学です。なかでも、医師であり神学者、音楽家でもあるシュヴァイツァーに心酔し、関連図書をたくさん読みました。そのうち原書で読みたくなり、ドイツ語を学ぼうと、ドイツ文学者の関泰祐(せきたいすけ)先生が在職されていた茨城大学へ進学しました。

2年目に、二人の先生がドイツ語の教科書としてそれぞれ「ふしぎなオルガン」と「グリム童話」を読んでくれたときに気がついたのですが、同じドイツのメルヒェンなのに何か違う。先生に質問すると、「グリムは昔話だから」と言うのです。それまでぼくは、グリム童話はグリムの創作だと思っていたので驚きました。そして昔話なら民族の考えや風習などが読み取れるのでは、と興味がわき、研究することにしました。

大学の図書館からグリム童話の原書を借り、辞書を引きながら読むと、がぜんおもしろい。衝撃的だったのが、日本の昔話と同じ話を2つ見つけたことです。1つは「たいこたたき」で、これは「天の羽衣」。もう1つは「コベルスさん」で、これは「さるかに合戦」と同じストーリーです。なぜこういうことが起きるのか。この時にグリムを卒論にしようと決めました。

研究を続けたくて東北大学大学院へ進み、修士論文を書いている時のこと、ドイツのある専門雑誌で調べたいことが出てきました。その雑誌は、日本民俗学の創始者である柳田國男先生の研究所にしかないことがわかり、ドキドキしながら訪問し、雑誌を見させていただきました。帰り際に柳田先生から、「何を研究しているのか」ときかれ、ものすごく緊張しながら答えました。ぼくが話し出すと、先生は「ちょっと待って」と、なんとぼくの言ったことをノートし始めたのです。こっちはまだ20代で駆け出しもいいところ。かたや80歳を越えられた先生は神様のような存在です!年齢差は関係なく、知らないことは全部吸収しようとする姿勢に、「学者とはこういうものか」と、感動しました。

ぼくは勉強したばかりだったので、うれしくていろいろ話しました。そしてお暇しようとすると先生が「きみ、グリム童話をやるなら、日本の昔話もやってくれたまえ」とおっしゃった。「そうか、ぼくは日本人なのだから、日本の昔話も研究しなくちゃ」と、その時に決めました。

柳田先生は、戦後の日本の昔話の状況をとても心配されていたのです。というのも、「昔話は無知な農民がつくったものだから、もっと文学的なものにしなければ」というブームが起こった結果、話の内容が変わったり、過剰な装飾が施されたりして、本来の昔話の姿ではないものが流布してしまっていたからなのです。
2016.02.25  竹の子採り
竹は中国渡来のものが多い

松野町夫 (翻訳家)

まもなく春の風物詩、竹の子採りが始まる。竹の子といえば、私はまず、モウソウチクを連想する。モウソウチクは「モウソウダケ」ともいうが、私の故郷、鹿児島ではふつう「モソダケ」と短縮して呼ぶ。モソダケの竹の子は、掘り出すのもわりと簡単で、美味で、しかも太いので量も多く、1個でほぼ家族全員にゆきわたる。

モウソウチクの名前の由来:
孟宗(もうそう、? - 271年)は中国三国時代の呉の人。歴代中国王朝は、儒教の考えを重んじ親孝行を特に重要な徳目とした。孟宗は孝行が特に優れた人物24人の一人に選ばれている。
孟宗が真冬、母のためにタケノコをさがし求め、竹林に入って哀嘆したところ、タケノコが生えてきたため母に食べさせる事ができたという。これがモウソウチク(孟宗竹)の名前の由来とされる。

百科事典によると、モウソウチクは、イネ科のタケ類のうち、日本一大きくなる種類で、大きなものは稈(かん)の直径20 cm、高さ20 mにもなるという。モウソウチクは中国原産で、日本への渡来は、1728年(京都、長岡京市)と1736年(鹿児島市郊外)など諸説あるが、全国へ広まったのは薩摩藩による琉球王国経由の移入によると考えられている。

竹はイネ科の多年生植物。ただし、独立のタケ科とする場合もある。東南アジアを中心に、世界に約600種、日本には500種あるという。なかでも、モウソウチク(孟宗竹)、マダケ(真竹)、ハチク(淡竹)はほぼ全国的に栽培され、用途が広く、三大竹とされている。

マダケ(真竹)は中国原産とも日本自生ともいわれるが、鹿児島ではマダケをカラタケ(唐竹)ともいうので、少なくとも鹿児島のマダケは、中国から渡来した可能性が高い。ハチク(淡竹)は中国原産。別名クレタケ(呉竹)。これも中国渡来の竹である。

竹の子採り
【竹の子の外観見の違い】 写真は以下のフウランさんのブログから引用した。
http://blog.goo.ne.jp/manpou336/e/50316c04259e56769f2d3cb64acec176

竹の子の収穫時期は種類により異なる。『旬の食材百科』によると、孟宗竹は3月から5月上旬、淡竹は4月中旬から5月下旬、真竹は5月から6月上旬というように。また地域によっても異なる。3年ほど前に、親友の所有する鹿児島市谷山の山林に親友と一緒に、4月初めに孟宗竹の竹の子採りに出かけたが、竹の子泥棒にすべて掘りつくされていて、収穫ゼロだった。この体験から、鹿児島では孟宗竹は3月と見たほうが安全確実である。