2017.09.26  執筆10年を振り返る
  ―私の関心はどう変化したか

半澤健市 (元金融機関勤務)

《神奈川大学の研究会が発端》
 「リベラル21」に書く機会を与えられ、10年が経過した。「十年一昔」という。私的な感想を書くことを許して頂きたい。私にとっては大きな転機であったからである。
きっかけは神奈川大学(神大)大学院である。2006年3月まで田畑光永氏は同大学院教授であり私は院生であった。2007年夏に、学内の研究会で私は「財界人の戦争認識―村田省蔵の大東亜戦争」を発表した。接触がほとんどなかった二人がここで知り合って数日後、田畑さんから「経済・金融」を主にして、同年3月にスタートした「リベラル21」へ書かないかと打診があった。

《銀行員の仕事で書くことは多くない》
 半世紀以上前の学部卒業論文で何枚書いたか記憶がない(一枚とは400字詰め原稿用紙一枚のこと)。私は、1958年から40年間、大小二つの証券会社と中堅信託銀行の三つの企業に勤めた。仕事で、原稿用紙10枚以上の文章を書いたことはない。一度『信託』という業界誌に業界語に満ちた50枚書いたのが最高である。
世間では、銀行員は書く仕事が多いと思っているらしいが、普通の銀行員は長い文章を書かない。融資の稟議書、産業・企業調査、プロジェクト企画書、一部の業務日誌、役所への報告など長いものはある。しかし書式は定型化していて、オリジナルな文章が入り込む余地は殆どない。
勿論、金融機関でも業態により異なる。政府系金融機関やかつての興銀・長銀などプロジェクト金融を主とする金融法人では、おそらく「疑似アカデミズム」や「霞ヶ関文学」のような文字が書かれたであろう。私のいた企業では、「戦略」は大蔵省(現財務省)がつくり、「戦術」は戦略を遵守する経営者が示達し、「戦闘」は下っ端の兵士が白兵戦を展開した。

《証券取引では文書は後回し》
 証券取引についていうと、私が在籍した時期は証券・信託とも電話の交信によっていた。一回の電話で、数千万円から数十億円の取引が成立した。「そういう商売だと覚悟」すれば、何とかなることを私は学んだ。人間だから間違いもときには起こる。それに対処する生活の知恵も生まれた。今は電子化が進み取引額も大きいだろう。それもで咄嗟の判断で端末キーをクリックするのは電話会話と本質は同じである。もっとも引受業務のような取引、とくに国際間の仕事では文書が命となる。私自身は経験がないが、証券引受契約書は馬に食わせる程の分量がある。「ドキュメンテイション」と呼んでいた。
話が横道に逸れたが、田畑さんからの打診への諾否を私は真剣に考えた。1998年から2004年にかけて当時参院議員だった〝木枯らし紋次郎〟こと中村敦夫氏が発行する月刊新聞に外祇の記事紹介を書いた経験はあった。一回7枚、72回である。2004年から06年までの大学院博士課程で書いた論文の枚数は600枚であった。客観的には私は、すでに「書かない」銀行員ではなかった。しかし不特定多数の読者に書くのは初めてである。不安があった。しかし神大での田畑さんとの縁である。元TBSニュースキャスター、自民党ハト派宇都宮徳馬が発行した『軍縮問題資料』の元編集長からの提案に応じない手はないと結論した。

《「十年一昔」の気持の変化》
 この10年に私の気持ちや思考がどう変わったかを述べたい。
「経済・金融」関連記事を最初のころ随分書いた。2007年秋は、「リーマン恐慌」の前兆が出ていた時期である。私は1980年代の日本バブルの狂気と崩壊に立ち会った。専らその経験に基づいて論じた。その中には、私のバブル経験が生かされたものがあったかも知れない。
しかしこのジャンルには、時期はズレるが、早房長治氏、岡田幹治氏という朝日新聞のベテラン経済記者、在ハンガリーの経済学者盛田常夫教授という専門家がいた。
内外の経済を俯瞰したときに行き詰まりは明らかであり、しかも、出口が見えない。これはこの5年ほどを見ての私の強い印象である。世界の誰もが適切な回答をもっていない。世界経済は、新自由主義のあらゆる現場への浸透と失敗が同居している。そして的確な手が打たれないまま宙づりの状態にある。それどころか極端なポピュリズムが世界に蔓延している。
水野和夫氏のいうように市場は商品で埋め尽くされ、金利はマイナスになり、資本主義は死んだのか。あるいはシュンペータリアンのいうように創造的破壊で世界経済は蘇るのか。二者択一とは思わぬが、私のベクトルは前者に親近感をもっている。
世間では、高度成長に生きた高齢者は成功体験を忘れられず、バブル崩壊後にビジネスに入った青年たちは、ゼロ成長の中の格差拡大を自明と考えている。最近、経済に関する私の記事がないのは、私がいろいろ考えても出口なしという結論しか出ないからである。同じことしか書けないからだ。

《経済がダメなら他に何があるのか》
 選挙になると安倍政権は、経済第一だという。そしてアベノミクスが道半ばと訴える。しかし国会が始まると、防衛省を発足させ(07年)、東日本大震災(11年)後にも脱原発をうたわず、靖国に参拝し(13年)、集団的自衛権の行使容認を閣議決定した上、特定秘密保護法を施行し(14年)、集団的自衛権行使を可能にする安保関連法を成立させ(15年)、オバマ米大統領の広島・安倍首相の真珠湾の相互訪問により、米国の謝罪なしで「日米の歴史的和解」(=原爆投下容認)を行った(16年)、四面楚歌のトランプ米大統領に対しては安倍晋三首相のみが揺るぎない対米信頼を強化している(16~17年)。
安倍政権は「右傾化している」という認識は甘すぎる。それは決定的な誤認であ。私は、安倍政権は「ファシズム」政権だと考えるようになった。この見方は、同世代の友人や企業時代の同僚のなかでは、少数意見である。お前もついに気がふれたかという友人もいる。

《安倍政権はファシズム政権である》
 世論調査によれば、北朝鮮のミサイル発射に対する安倍政権の圧力強化策は、人々に支持されている。「Jアラート」の発令に関連して、桐生悠々の「関東防空大演習を嗤ふ」(1933年『信濃毎日新聞』)が話題になった。『東京新聞』などは大きく取り上げた。しかし世論は「Jアラート」に戸惑ってはいるが、「嗤って」はいない。桐生の「嗤う」は、信濃毎日の不買運動から彼の退社に帰結したのだった。
「Jアラートを嗤う」言説が「反日・国賊・非国民」だと批判されるのは近い将来だと私は予測している。年内総選挙で安倍はそう売り込むだろう。国が決めたことへの異論申し立てを排除する。資本主義か社会主義かの体制を問わず、これがファシズムの重要な特徴である。

《最初は反語のつもりではなかった》
 私の関心は、最近数回の「ファシズムは死語になったのか」に示されている。始めは「ファシズムは死語になってはいない」、という反語のつもりではなかった。どちらともいえないから調べてみようという問題提起のつもりだった。しかし少し書いているうちに反語として書く気になった。「ファシズムは死語ではない。むしろほとんど実態である」という意味である。ファシズムは―いや民主政治も、多くの思想と行動の殆どは―「思想としての」「運動としての」、「制度(法律)としての」、「実態としての」の四段階を経て完成するものだと私は考えている。読者は、2017年の今、わが祖国は上記のどの段階にあると考えるか。それともこういう問いがナンセンスと考えるか。
戦後の、何が、誰が、どんな誤りを犯して、こんな状況を生んだのか。私の暫定的な回答は、こういう問題の立て方自体がこういう事態を生んだのだ、というものである。ファシズムは、我々の外から来るものでもあるが、我々の内部からも生まれるのである。

《安倍政権の崩壊を見るまでは》
 大層な話に発展してしまった。次の10年を生きられると思わないが、安倍政権の崩壊を見るまでは書き続けたいと思う。末尾になったが、この10年間、拙く硬い文章を読んでいただいた読者に、感謝申し上げる。「護憲・平和・共生」のために、厳しい批判と暖かい激励を引き続きお願いする。(2017/09/17)
2017.05.26  国会論議の不毛を逆照射する対話
 ―『吉本隆明 江藤淳 全対話』(中公文庫)を読む

半澤健市 (元金融機関勤務)

 本書は、1965年から1988年の間に行われた、吉本隆明(1924~2012)と江藤淳(1932~1999)の対談の全記録である。五回の対談のタイトルは、「文学と思想」、「文学と思想の原点」、「勝海舟をめぐって」、「現代文学の倫理」、「文学と非文学の連理」であり、文学論義を軸にして、戦後思想、歴史認識、国家論、知識人論、サブカルチュア論、米軍占領論など、テーマは多岐にわたる。
親本は2011年に中央公論新社から出版。文庫化にあたり吉本へのインタビュー(2009年)や内田樹・高橋源一郎の解説対談が追加されている。

《左右対立ではない内在的対話》
 従来、江藤は右、吉本は左の評論家として評価されてきた。たしかに、二人の対話には緊張があり考えの衝突があるが、論争は相手への内在が強く意識されており、各回ともに不思議なケミストリーが醸し出されている。そこが特に面白い。本稿では、「現代文学の倫理」(雑誌『海』1982年4月号)の知識人論争に注目したい。
夏目漱石の研究から出発した江藤は、この対談以前に、米国に滞在して米軍の対日占領政策の研究に注力していた。『一九四六年憲法―その拘束』などはその成果である。吉本はこれらの研究についていう。
■交戦権がないと、万が一というようなことが国家と国家の間に起こった時、戦術、戦略上、どんなに不利なことがあっても、それを制し、抑止することができないんじゃないか、従ってこの条項を変えなくてはいけない。しかも江藤さんはこの問題について実証的に調べてこられたわけですね。それによると、もともとこれは連合国の占領軍がその政策上、日本の敗戦後の国家主権を制限しようというモチーフで歴然と設けた条項なんだから、国家主権を考える時にこの条項を変えるのは当然じゃないか、という論旨だと思うんです。この問題提起は、戦後日本の政治過程論とか統治形態論とかのレベルでいえば一つの業績として評価できる立派なものだと思うんです。しかし、江藤さんが、半年も一年もかかって調べて、確かにこうなっているんだろうと実証するほどの意味があるのかと考えると、その点は疑問に思うんです。(中略)

江藤さんから見ると、ぼくは理想主義者で、空想的、抽象的に見えるかもしれないけれど、ぼくは江藤さんが逆に非常にリアリストすぎると思うの。つまりこれは自民党でも社会党でも共産党でもいいんですが、彼らが政権を握れば、もういかようにもできる事柄、つまり知識人はせいぜい示唆を与える程度の役割ぐらいしかできないというようなことについて、あまりに熱心に追究するなんてことは意味ないんじゃないか。ぼくの知識人像というのはもっと根本的な問題、例えば国家、つまりいかなる国家であろうと、歴史のある時代に実現し、また歴史のある時代がくれば、きっとなくなってしまうだろう、そういう相対的なものなんだといういうようなことについての明瞭な認識、そういうことをピチッと決めていくみたいな、そういうことに携ったほうがいいんじゃないか■

《江藤の60年代論は「政治の時代」を強調》
 江藤は、1969年12月24日の『東京新聞』に「一九六〇年代を送る」というエッセイを書いた。そのなかで江藤はエリック・ホッファーという米国人のアフォリズムを、日本の文学者の精神状況にあてはまるものと感じて、引用した。それは次の通りである。
「一民族が外国の支配下に委ねられると、その民族のもつ創造性はおおむね、貧寒なものになる。これ〝民族的天才〟の無能化によるのではなく、外国人の支配に関する憤激があまりに強いため、民族をひとつのものにまとめすぎ、その結果、潜在的に創造的な個人は、かれらの力を完全な実現に必要な明確な個性を獲得できないからである。かれの内面生活は、大衆の感情と関心事にもっぱら刺激され形成される。多数の未開人部落のようにかれは個人として存在するのではなく、かたまった集団の一員としてのみ存在する」。いささかわかりにくい文章だが、占領された国の文化は様々な掣肘とそれへの反発によって、本来の自立的文化が開花できないと言っているのだろうと読んだ。
これを前置きにして、江藤は六〇年代論を展開する。吉本の江藤批判に対する応答となっている。
■六〇年代というのは、今からふり返ると良い時代だったという人もいるかも知れないけれども、実はきわめて政治的な十年間だった。つまり岸内閣の日米安保条約の改定に始まり佐藤内閣の沖縄返還交渉の終わった十年間です。私はその『東京新聞』のエッセイの中でなによりもまず文学者は、この政治的な文脈と、それと裏腹の所得倍増政策下の経済成長に左右されてきた、といっています。「これを」要するに、安保騒動と所得倍増計画によってはじまった一九六〇年代は、文学者にとってもまた政治と商業の十年間であった。ために文学そのものは疲弊し、おおむね解体と崩壊の一途をたどりつつあるというのが私の判断であり、・・・したがっていよいよ政治と商業にいそしみ、早いところ行きつくところまで行ってしまったらどんなものだろうかというのが私のいつわらざる感想である」と。その後に起こったことは、ほぼ正確にこの予感の通りでした。戦後の日本人は、第二次大戦の戦勝国の支配下にある知的、言語的空間で生きることを余儀なくされている。そういう状況の中ではどんなにそういうものが存在しないかのような顔をしてみても、人はなかなか「創造的な」な「個人」にはなれない。「憤激」の表現は、たとえば六〇年安保の騒ぎのような形をとることもあれば、異常な経済成長という形をとることもある。また通俗的な平和主義への同調という形をとることもあるし、一見高踏的な、その実、怠惰で無責任な政治に対する蔑視という形をとることもあるけれども、いずれにせよこれらはすべて「憤激」のさまざまな表現であることに変わりはない。(中略)

《私がなぜこんなことをしているのか》
 私(江藤)がなぜこんなこと(占領政策検証)をしているのか、それは結果的にある持続を確かめたいからです。つまりズバリ何かと言えばすぐピーンと通るようなそういう公明正大な知的空間を再建したいと私は思っているのです。まあ吉本さんは、そんなものはすでにあるとおっしゃるかもしれないけど、私はそうは思わない。そういう知的・言語空間を再建するためには、非常に面倒な論証の手続きがいるんです。いまや戦後三十七年も経ってしまいましたからね。
ぼくは吉本さんが理想主義者といわれたことはよくわかりますが、どうもあなたの理想主義にはラディカリズムが足りないような印象を受けます。型通りの理想主義といいますかね。ひょっとすると私のほうがもっとラディカルな理想を実践しているのかも知れないと思っているんです。■

江藤は、戦後の言論空間がGHQの占領政策がいかに日本の文学者―さらには日本知識人―を洗脳し、日本人の自立精神を奪ったかを実証しようとした。それは「ナショナリズム」を主軸にした戦後再審の意図があった。国家の共同幻想性を論ずる吉本への批判をも内包していた。

《対談の内在性と先見性》
 私がこの対談集を読んで強く印象に残ったのは次の三点である。
第一は、江藤の六〇年代論の画期性である。
第二は、相互理解への努力である。
第三は、いまここにある危機との関係である。

第一。1960年代の高度成長は戦後日本の明るい時代であったいうのが世間の常識である。私もそう思っている。すなわち、「政治の10年」の50年代に続く経済の時代である。高度成長の終焉をどこに見るかは判断が分かれる。長く見ればバブル崩壊の90年までの30年間、短く見ても第一次オイルショック崩壊までの14年間はある。
しかし江藤は、60年安保から72沖縄返還までで、政治の季節とする。しかも言論空間は、占領下だというのである。
なるほど、自覚していないほど恐ろしいことはない。米原子力空母に付き従う自衛隊の護衛艦―性能は新鋭空母―のテレビ映像を見ていると、江藤のラディカリズムが吉本の「型通りの理想主義」を凌いでいる。

第二。二人の論者は、激論を交わしているが、レッテル貼りの批判はしていない。戦後民主主義者が、今日のように説得力を失った理由はいくつかある。相手の立場を理解しようとせず、内在的な批判を怠たり、レッテル貼りをしてきたのは、そのひとつだと思う。江藤のナショナリズムが、ほとんど人種主義に傾斜していると批判するのは容易だが、リベラル側が江藤的言説に正面から対決してきたかといえば覚束ない。

第三に、二人のテーマが、今日の危機を先取りしていたことである。文学論争ではあるが、話題は戦後の思想・言説全般に及んでいる。私の事例紹介でわかりにくい読者は、是非本書に当たって二人の対話を熟読して欲しい。60~70年代の新左翼運動における吉本隆明の圧倒的な人気は何であったのか。近代日本が次々と輸入し消費し廃棄してきた新型理論の国産版であったのか。むしろ江藤のナショナリズムが鈍い光を放って読者を離さない。(2017/05/21)

『吉本隆明 江藤淳 全対話』(中公文庫)、2017年、1000円+税
2017.04.29 昭和の日あれこれ
昭和は日本の歴代元号の中で最も長い

松野町夫 (翻訳家)

4月29日は祝日「昭和の日」である。少し前までは「みどりの日」と呼ばれていたが、その後「昭和の日」に改名され、「みどりの日」は5月4日に移された。4月29日はもともと、昭和天皇の誕生日だったので、昭和時代には「天皇誕生日」と呼ばれていた。

4月29日の祝日は時代に応じて、「天皇誕生日」(1926~1989)、「みどりの日」(1989~2006)、「昭和の日」(2007~現在)と改名されてきている。

天皇誕生日 → the Emperor's Birthday
みどりの日 → Greenery Day
昭和の日 → Day of Showa

昭和時代 → the Showa period

昭和天皇 → the Emperor Showa, or Emperor Hirohito
英米では Hirohito (裕仁)のほうが通じやすい。
Hirohito: (1901–1989) the emperor of Japan from 1926 to 1989 (LAAD2英英辞典)

昭和は、昭和元年(1926年)12月25日から昭和64年(1989年)1月7日まで、約62年と2週間の期間、継続した。これは日本の歴代元号の中で最も長い。

江戸時代以前、元号は疫病や天変により数年で改元されることが多かったが、明治以降、元号は皇位の継承があった場合に限り改める(一世一元の制)となったため、明治以降の元号は必然的に長く続くことになる。たとえば、江戸末期から現代までの元号を見ても、文久(4年)、元治(2年)、慶応(4年)、明治(45年)、大正(15年)、昭和(64年)、平成(29年+α)というように、明治以降の元号の方があきらかに長い。

昭和時代の期間を日数で正確に表示すると、22,659日となる。
一般に期間(日数)は、エクセルのDATEDIF関数で求めることができる。
この関数は通常の関数一覧には表示されていないが、その書式は以下の通り:

=DATEDIF("開始日","終了日","D")
=DATEDIF("1926/12/25","1989/1/7","D")
=22659
この数値は 22,659 days を示す。

ウィキペディアのによると、「昭和」という語は漢学者・吉田増蔵が四書五経の一つ書経尭典の「百姓昭明、協和萬邦」から考案したもので、国民の平和と世界各国の共存繁栄を意味するという。

しかしその願いとは裏腹に、昭和時代、とくに昭和初期20年間のうち、1931年(昭和6)から1945年(昭和20)にいたる約15年間、日本は一連の戦争に明け暮れた。満州事変(1931-1937)、日中戦争(1937-1945)、太平洋戦争(1941-1945)。満州事変と日中戦争は日本の中国に対する侵略戦争であったが、太平洋戦争はアメリカ・イギリスを中心とする連合国と日本との戦争で、アジア・太平洋を中心に展開された。

1941年 12月8日,日本海軍はハワイのアメリカ海軍基地に奇襲攻撃をかけ,それを機に太平洋戦争は始まった。(中略)。日本軍は真珠湾攻撃と同時に香港,マレーシア,フィリピン,グアム島,ウェーク島などでも軍事行動を開始し,開戦を予期していなかったアメリカやイギリス軍に多大な損害を与えた。 1942年2月にはイギリスのアジア最大の基地シンガポールを占領し,イギリス軍の 13万 8000人の将兵を捕虜にした。3月にはオランダ領東インド諸島を制圧し,さらにビルマに侵攻してラングーンも日本軍の支配するところとなった。5月までにニューギニアまで制圧地域とし,東南アジアに広大な勢力圏を築き上げることになった。(ブリタニカ国際大百科事典 小項目版 2011「太平洋戦争」から抜粋)

日本は戦争初期こそ優勢であったが、その後、軍事力、物量に勝る連合国によって次第に劣勢に追い込まれ、1945年8月6日に広島に、9日に長崎に相次いで原爆を投下され、国の存続すら危ぶまれる状態に陥った。1945年8月14日、日本はポツダム宣言の受諾を連合国に伝えた。9月2日、東京湾に停泊するミズーリ号上で降伏文書への調印が行なわれ、こうして3年9ヵ月におよぶ太平洋戦争は、連合国の勝利、日本の無条件降伏で終わった。

太平洋戦争の終結を境に日本は劇的に変わった。日本はGHQの占領下におかれ、価値観が180度転回した。天皇制や軍国主義は否定され、民主主義の平和国家が目標となった。明治憲法に代わって平和憲法が制定され、主権は天皇から国民に移った。日本人の多くが戦後の自由・平等・民主主義を歓迎した。太平洋戦争はこうしてみると、天皇制ファシズムとデモクラシーの戦いだったことがわかる。

1945年(昭和20年)8月15日は、無条件降伏した屈辱の日ではなく、民主主義の平和国家を目指す現代日本の記念すべき旅立ちの日であった。日本史を時代区分すれば、明治維新から終戦までが近代日本で、これ以降を現代日本とすべきだと私は思う。戦後生まれの私は戦争を知らない。「昭和」という語をきくと、懐かしい、レトロな気持ちになり、多感な青春時代を思い出す。西岸良平の『三丁目の夕日』に出てきそうな人情味あふれた東京の下町が浮上する。

年号は元号ではなく西暦が望ましい、少なくとも、公文書は西暦に統一した方がよいと主張する私が、「昭和の日」をありがたがるのも少し変な話だが、象徴天皇制に異論があるわけではない。

テレビのワイドショーはこのところ連日「北朝鮮危機」を報道している。たしかに、極東の和平が一変する可能性は常にある。民主主義の平和国家・日本を維持するには、やはり、護憲・軍縮・共生の理念をもって行動する以外に方法はないと思う。

2017.03.28 「平和の灯」が消されるまで
 ―愛子さんの「怒りと悲しみと希望」―
 
半澤健市 (元金融機関勤務)

 愛子内親王は 2017年3月22日に学習院女子中等科の卒業式に出席した。
400人の卒業生が一人ひとり名前を読み上げられ、愛子さんは「敬宮愛子(としのみや・あいこ)」と呼ばれて起立したという。
彼女が書いた卒業記念作文「世界の平和を願って」が同日宮内庁から発表された。
それは、2016年5月の修学旅行で広島を訪れたときの感想を、書いたものである。

《原爆への「怒りと悲しみ」》
 卒業前の青空を見上げて彼女は平和に生きている自分が幸せだと思った。
その感情が湧いたのは、広島で大きな意識変化があったからである。
原爆ドームの前で突然、足が動かなくなった。平和記念資料館の展示に驚いた。現地をみて、原爆投下の「空間と時間」へ没入したのである。彼女はこう書いている。(■から■が原文の引用)

■原爆ドーム。写真で見たことはあったが、ここまで悲惨な状態であることに衝撃を受けた。平和記念資料館には、焼け焦げた姿で亡くなっている子供が抱えていたお弁当箱、熱線や放射能による人体への被害、後遺症など様々な展示があった。
これが実際に起きたことなのか、と私は眼を疑った。平常心で見ることはできなかった。そして、何よりも、原爆が何十万人という人の命を奪ったことに、怒りと悲しみを覚えた。命が助かっても、家族を失い、支えてくれる人も失い、生きていく希望も失い、人々はどのような気持ちで毎日を過ごしていたのだろうか。私には想像もつかなかった。
最初に七十一年前の八月六日に自分がいるように思えたのは、被害にあった人々の苦しみ、無念さが伝わってきたからに違いない。これは、本当に原爆が落ちた場所を実際に見なければ感じることのできない貴重な体験であった■

《平和への実践・思いやりと発信》
 オバマ米大統領のものを含む世界中からの折鶴を見た。慰霊碑に燃えつづけている「平和の灯」を見た。こういう平和のシンボルを見て、平和は世界中の願いであることを意識する。しかしそれはなかなか達成されない目標である。彼女は、平和は当たり前の日常だと思ってはいけないと考える。平和は人々は他人への感謝と他人への思いやりという行動から始まるのだと考える。そしてこう書いている。

■唯一の被爆国に生まれた私たち日本人は、自分の目で見て、感じたことを世界に発信していく必要があると思う。「平和」は、人任せにするのではなく、一人ひとりの思いや責任ある行動で築きあげていくものだから。
「平和」についてさらに考えを深めたいときには、また広島を訪れたい。きっと答えの手がかりが何か見つかるだろう。そして、いつか、そう遠くない将来に、核兵器のない世の中が実現し、広島の「平和の灯」が消されることを心から願っている■

《15歳少女の作文が与える衝撃》
 特異な環境下で人生を歩んでいる15歳の少女の文章は、私に衝撃を与えた。
それは次の三点の感覚に要約できると思う。
一つ 現場を見て過去の時空に没入できる感性と知性
二つ 「悲しみ」だけでなく「怒り」を表現していること
三つ 行動によって〈「平和の灯」を消そう〉という想像力
三つに共通するものは、自分の目で見、自分の頭で考え、自分の言葉で表現する、すなわち自立した精神である。

 後期高齢者の私は、旅行をして何を見ても「テレビで見た通り」という感想に落ち着くようになった。旅行の感想はメディア映像の再生産以上のものでなくなった。
 それに比べて愛子さんのタイムスリップ能力はどこから来るのだろうか。それは彼女の鋭い感受性からであり、歴史的に事柄を見ようとする知性によるものだと思う。

 私はかねてから日本人の戦争論には、「悲しみ」と「悼み」だけがあって「怒り」や「抗議」がない、と言ってきた。愛子さんは「原爆が何十万人という人の命を奪ったことに、怒りと悲しみを覚えた」と書いている。「怒り」が誰から誰へ向けてのものか。この文章ではわからない。しかし、原爆投下を決定し実行した当事者、不作為によってその実行を容認した当事者は、米大統領や彼女の曾祖父を含んでいて、しかもその数は多くない。彼女自身の意識はどうあれ、これが文章から導かれる論理である。

 バラク・オバマのプラハ演説はノーベル平和賞の理由となったが、そこでも核廃絶には長い時間がかかると言っている。それに対して、愛子さんは「そう遠くない将来に」と言っている。そして、その時には広島の「平和の灯」は消えるのだと考えている。「灯が消える」というイマジネーションに私はうたれた。

《国民の総意 VS 天皇制・時の政権》
 現在の天皇家の、歴史観・戦争観には戦後民主主義の「理想主義」の部分が、生き残っていると私は思っている。一方、実態としての戦後民主主義は、「戦争観なき平和論」、「自立意識なき防衛論」、「リアリズムなき護憲論」という「現実主義」によって批判され、気息奄々の状態だと私は感じている。
天皇制が「国民の総意に基づく」ように、日本政治の総体は国民の総意に基づくべきものである。戦後76年余り、国民の総意が理想的に政治に反映されたことはない。それが政治の現実というものであろう。

 しかし2017年の今ほど、その関係が「現実離れ」し、「乖離」している時もない。
我々は、敬宮愛子さんに学ぶところにいるのではないだろうか。(2017/03/25)

2017.03.13 無念を語る「語り部」への期待
 ―論文「死者のざわめき」を読む―

半澤健市 (元金融機関勤務)

 本稿は、宗教人類学者の山形孝夫氏(1932~)が、『世界』(2017年4月号)に書いた「死者のざわめき―語り継がれる「記憶の森」」の紹介である。私は、この文章に不思議な感情の高揚を感じたので、是非多くの人に読んで欲しいと思い、自己流の要約文を書く。(直接の引用は、■から■と表示する)

《死者のざわめきだけが聞こえる》
 東日本大震災の二年後、筆者は、仙台で開催された志賀理江子写真展「螺旋海岸」で不思議な経験をした。
■人間も、自然も、動物も全く動く気配がなかった。すべては根っこのあたりから破壊され、息の根を止められて静止している。そのほかには何もなく、近く見つめすぎると、ただ、ざわめきだけが聞こえてくる。まるで、死者の「語り」のように聞こえてくる。イタコによる死者の口寄せのようにである。人間だけではない。大津波に呑みみ込まれたおびただしい数の奇妙な岩石も、海岸線を蔽うようにるいるいと重なる黒松の倒木の行列も、波間に消えた魚市場も、ぐにゃりと曲がった鉄格子の窓も、夜中のカラスも、要するに二〇〇枚を超す一〇〇号大の写真のひとこまひとこまが、何かを語りかけ、つぶやいている。いったい、わたしは何を見ているのか。全くわからないままに、死者のざわめきだけが聞こえていた。■

 山形は、そこで体験した「仮想空間」と、会場を出てから見えた「現実空間」を比較する。果たしてどちらが現実なのか。彼は、そう自らに問うた。
 多くの事例を示し思考を重ねながら、筆者の考え出した答えは、近代のもつ無機質への批判であり、戦前の日本や現代のウガンダに存在した「共同体」再現への欲求であり、新たな「語り部」の出現への小さな期待であった。

《近代国家・近代科学の批判》
 たとえば近代批判は次のように現れる。
ここでいう、「もうひとつのこの世」とは、死者と生者が共生し、語り部の存在する共同体を示していると、私は読んだ。
■このたびの3・1の大津波が露呈したのは、日常に隠されたもうひとつのこの世の現実ではなかったのか、とわたしは思った。
そうした経験の地平からすると、わたしたちの生きてきた囲い込みと排除の論理に立つ近代国民国家も、幾重にも防御された民主主義のシステムも、なぜかフィクションのように見えてくる。耳ざわりのよい言葉遊びの擬態のように見えてくる。そして、そのようなフィクションの中心に、あたかも戦後日本の繁栄と正義の証しのように、さながら国家統治の原理のように原発安全神話が君臨していたのではなかったか。いったい、どちらがほんとうなのか。■

 山形の論理を要約しながら続ける。
 マルクスとフロイトは、「宗教は悩んでいる者のためいき」であり、「人類一般の強迫神経症」といった。そのような自然と人間の一元論で「死者のざわめき」に迫ることができないのである。

《古代から前近代までの先達の知恵》
 その昔、「日本列島」に住む人間は、自然に宿る「霊」(または「カミ」)を信じた。折口信夫は、タタリとは霊が立ち現れる場所を指すコトバだったと言い、山折哲雄は「タタル霊」を鎮める祈祷者のなかに、空海や最澄がいたのだと考えた。
古代から中世にかけて、死者のタタリを占うシャーマンの世界と、タタリを鎮静化する仏教僧とが、「カミ」と「ホトケ」に分業化し、相互補完的に共存して、近代に至るまで「死者のざわめき」をやさしく鎮静化してきた。
■そうした構図が総崩れに崩れ落ちたのは、広島と長崎に落とされた原爆という名の近代物理学の知恵の結晶である〈悪魔の炎〉であったのだ。日本流の宗教的に構築された家族主義も天皇制を支柱とする日本式ナショナリズムも、この〈悪魔の炎〉によって、消滅し、機能を失ってしまった。それが第二次大戦の結末である。「死者のざわめき」の震源を辿ると、どうしてもこの〈悪魔の炎〉に辿り着く。
 その時から数えて七十余年、東日本を襲った3・11の大災害が暴露したのは、東北の海辺の町々に今にいたるまでひっそり命脈を保ちつづけてきた、思えば懐かしい日本的家族共同体であり、その消滅であったのだ。■

《能のシテとワキ―語り部への期待》 
 山形は最後に、安田登の著作『異界を旅する能―ワキという存在』を引いて、能におけるシテとワキの役割を説明する。シテは、無念を残して世を去った霊である。主に遊行僧によって演じられるワキは、シテの無念を「分ける人」(分キ)なのである。そして「語り部」でもあるのだ。もともと「死者のざわめき」とは、山形が書いた書評の対象『死者のさわめき―被災地信仰論』(磯前順一著)のタイトルであった。

 書きながら山形の心に聞こえてきたのは、被災地から聞こえてきた「語り部」になりたいという切実な声であったという。大川小学校の悲劇を生き延びた若者、わが子を失って途方にくれる悲しみの母、父は大川小の先生だった若者たちである。我々は、谷中村の田中正造、水俣の石牟礼道子という先駆者をもっている。
 山形の文章は、多くの3・11論が、社会科学からの立論であるのに対して、宗教論の立場にたっている。この立ち位置は、しばしば「絆」、「癒し」、「慰め」に親和的だという批判を浴びる。その論点を意識しながらも、山形的視点は人間の心情に、深く浸透するものであり、教条的一般論への鋭い批判となっていると痛感する。(2017/03/10)


2016.10.26 ある青年の「戦争レジームからの脱却」論
―知って欲しいひとつの記録―

半澤健市 (元金融機関勤務)

 下記に掲げるのは、「海軍技術研究所」(技研)の嘱託だった28歳の青年が、戦中に書いた文章の一部である(■から■)。

■大東亜戦争は依然二重性的性格を帯びつつあり。一は我が資本主義的経済の死活をこれによりて賭せんとし、一は端的にアジアを欧米の侵略より解放せんとす。もし当局者にて、大東亜戦争の性格を完全に後者にまで変貌せしめんか、正に驚天動地の世界史的転換は、ここに実現せらるべしと。しかるに不幸にして当局者にその明察なく、遂に大東亜戦争は今日に及びたり。(略)

吾人明確に断定す。大東亜戦争の二重的性格こそは、我が国今日の窮境を招きたる最大要因なり。満州事変当時に比すれば、我が戦争目標は、一大進歩否一大変質を遂げたり。単なる権益主義は一掃せられ、八紘一宇と言い、東亜新秩序の建設と言う。しかもかくの如き標語の下、アジア解放の義戦に進まんとする帝国に随いて、同生共死を誓わんとするアジア人の誠に寥々たるは如何。これ実に原理的に我が大東亜戦争の目的が二重的性格より未だ蝉脱せざるが故なり。具体的には支那事変に於ける我が政策が二重的性格に終始し、支那民衆のみならずアジア民衆に対して、我が言行悉く相反するが如き印象を与え、美名を掲げて私利を図らんとする最も悪辣卑劣なる所行と感じせしめたる故なり。(略)

吾人はされば主張す。最悪の場合敵英米が無条件降伏を強要し来らば敢然これに応酬すべきなり。吾人は条件付講和を要求すと。条件とは何ぞ。吾人はビルマの独立を要求す、比島の独立を要求す、東印度諸島及旧仏印領の独立を要求す、マレエ人の完全自治を要求す、中華民国の半植民地的隷属地位よりの解放を要求す、香港を英国が再領有せんとすることに反対す(略)、朝鮮の独立は日本これを承認すと。しかして自らに就ては一言も述ぶる の要なきなり。しかして世界の輿論に向って宣すべし。我が大東亜戦争の目的は実に茲に存したり。■

海軍とは勿論、大日本帝国海軍である。書かれた時期は、1945年6月から7月中旬という。全文は、400字詰原稿用紙約45枚あった。なぜ書いたのか。時局の現状を「率直かつ自由に」書く課題を与えられたからである。
青年は、「国策転換に関する所見」として所内の会議でこの意見を発表した。一将官と東京帝大教授平泉澄が同席していた。平泉は「君は世界の大勢からときおこすが、吾人は国体の本義から出発しなければならない。本末を転倒した議論は、百害あって一利なしである」と反対した。青年は8月に入り嘱託の職を解かれた。

青年の名は日高六郎(1917~)。のちに社会学者として、「進歩的文化人」として名をなした。事後的に、この思考と行為に対して賛否を論ずるのは容易である。
しかし、である。
「政治的正当性」political correctness に対する批判は、米大統領選挙の候補者討論や欧州の移民問題に対する国家主義の復活など、様々な形態で風圧を増している。安倍政権は一貫して「戦後レジームからの脱却」の思想に拠り、自民党総裁の任期まで変更して、憲法改訂を目標にしている。

日高六郎の「国策転換に関する所見」は、安倍思想に比べ数周回も進んだ「戦争レジームからの脱却」論であり、真の「積極的平和主義」であり、誠の「政治的正当性」の表現だったと私は考える。「戦後民主主義」の位置を「青年」諸君は知らぬであろう。「戦後民主主義」を生きながらえ、今も一縷の望みをつないでいる高齢者として、ここに記録しておく。(2016/10/23)

2016.09.02  NHKの朝の連続ドラマを見て思いだした。
          韓国通信NO498

小原 紘(個人新聞「韓国通信」発行人)

 私が中学生だったある日のこと、父親が仕事帰りに『暮しの手帖』を買ってきた。以来、わが家の近くの本屋から、その変わった名前の雑誌が届けられるようになった。
 当時、父親は通産省(現在の経産省)に勤め、電気製品などの工業製品の規格や品質管理に関わっていて、民間の雑誌が行う「商品テスト」に興味を持ち、とても感心しているようだった。
 中学生の私には『暮しの手帖』はそれほど面白いものではなかったが、表紙のデザインが明るくてお洒落、記事がわかりやすい雑誌を読み続けた。
 もちろん洋服の型紙や料理のレシピには見向きもしなかったが、エッセー類はよく読んだ。なかでも戦争体験の特集記事で、敗戦で引き揚げる満州の開拓団の想像を絶した苦労の手記、国民を見棄てた軍隊の話がとても強烈に印象に残っている。
 「暮しの手帖」は家族の誰もが触れ、読むことのできる雑誌だった。生活の知恵、アイディア満載の雑誌のなかで私が興味を引かれたのは、やはり「商品テスト」だった。あの頃のわが家にはまだテレビはなかったが、便利な家電製品が続々と登場し始めた時期だった。
 今、振り返ってみると、あの「商品テスト」は「安全」「便利」「経済性」を伝えるわが国の消費者運動の先駆けだったような気がする。結論だけではなく経過が写真入りで丁寧に説明されていたので説得力があった。実証して見せることの大切さを学んだ気がする。
 東芝や日立という名だたるメーカーもさぞ驚いたことだろう。信頼できる情報によって消費者の選択が可能になったことは素晴らしいが、作る側も大きな刺激を受けたはず。私の父親も実はそれを面白がっていた「フシ」がある。
 戦後の早くから主婦の立場から生活改善の要求を掲げ行動した「主婦連」の活動は消費者運動につながり大きな成果をもたらしたが、『暮しの手帖』が果たした功績も大きかった。

消費者「大不在」の時代
 消費者庁が発足して消費者が尊重される時代になったように見える。しかし尊重どころか軽視、時には馬鹿にされていると感じることが多い。
 世の中は便利そうな商品で溢れている。しかし不良品・欠陥商品も氾濫している。故障したパソコン、デジカメ部品の「在庫なし」、修理より「買い替え」をすすめられた人も多く、私もまだ使えそうな新品に悔しい思いをしたことがある。企業の理屈を優先させた最たるものだ。聞いただけも「インチキ」商品と思われる商品はゴマンとある。私には関係のない領域だが、「ダイエット」関連、健康、美容のコマーシャルがやたらと目につく。どれもがマユツバもので、言いたい放題の「無法地帯」を思わせる。
 飲むだけで一カ月に5キロも10キロも体重が減る。20才も若返る。歩けなかった人がジョギング。どれも「売り上げNO1」と豪語して買う気を誘う。メーカーは勿論のことテレビや新聞などの媒体の責任は大きいが、最近では厚労省認定、大学との共同開発などと「産・学・官」が提携する無責任体制も広がりを見せる。
 買わなければ被害に会わないという意見は「詐欺にあう方が悪い」と言わんばかりだ。こんな無法が許されてよいはずはない。企業に甘すぎる行政も問題だが、安易で便利なものを追い求めてきた私たちの側にも責任の一端はある。経済成長(景気対策)と企業の「もうけ」を優先させる政治と経済のあり方を変えるためには、消費者の自覚が求められる。原発も賢い消費者ならあり得ない選択だった。
 庶民の幸せを実現するために個人の自立を説いた花森安治を思いだした。

 暮しの手帖88号の思い出
 2000年88号の『手帖』の表紙を思い出す。通算388号だが、100号になると「初心に帰って」1号から始めるので88号というのも面白い。
 その号でジャーナリストの増田れい子さんが「ピアノ」という随筆を寄せている。あるピアノリサイタルの感想である。何故ピアノが『暮しの手帖』に?
 読み直してわかったこと。ピアノに憧れた少女時代。戦争のために学べなかった増田さん。それでもピアノが大好きでコンサートに通い続けた。
 自分が果たせなかった夢を大人になってから挑戦し続ける人たちがいる。その夢に寄りそう若いピアノ教師(当時20代後半だった)と増田さんが出会った。その生徒たちが「先生」のリサイタルを開くという。2000年6月のことだ。音楽会に増田さんは招待され、好きなショパンの曲を聴き、それまで経験したことのない「一滴の甘い果汁のような音は生涯忘れない」と演奏の感想をつづった。
 増田れい子さんのジャーナリストとしての活動は『暮しの手帖』が目指していたものにつうじるところがある。ブランド志向とは無縁で、彼女は普通に生活する人間の幸せを常に追求してきた。ピアノを弾きたい人々の「夢」をかなえようとする音楽教師の生活から生まれたピアノの音色に深く感動した。彼女のエッセーは並みの音楽評論を越えた、自分を含む「人生評論」の趣きさえある。
 2000年には花森安治はすでになく、このエッセーを書いた増田さんも4年前に亡くなられた。生活を大切にする姿勢はこのエッセーにも引き継がれていた。

 鄭周河さんを見送る
 韓国の写真家鄭周河さんが日本での巡回写真展が一段落して帰国する日(8月24日)、見送りに成田に出かけた。
 原発事故直後から福島県南相馬を撮り続けた彼の一連の作品は各地で強い印象と感動を与えた。芸術家としてすでに評価は高いが、人間を幸福にしない近代文明に疑問を投げかけ、「反原発」で国境を越えた地球規模の市民の連帯を考える市民運動家としても魅力的だ。
 来年4月から新宿の「高麗博物館」を皮切りに三回目の巡回展が予定されている。
 彼とは福島県白河に続き、長野県松本市での写真展まで出かけ、大いに交流を楽しんだ。彼は酒を飲むと「クジラ」だった。巡回写真展のタイトル「奪われた野にも春は来るか」を彫った私の陶板作品が気に入って韓国に持ち帰るという、ちょっと「いい話」も生まれた。

 朝露館
 益子の朝露館には陶芸家関谷興仁さんの陶板作品が展示されている。春と秋のみ毎週末3日間の公開だが、言葉が軽くなった昨今、作品の存在は重みを増している。開館2年目を迎え、多方面から注目を集め、また朝露館を支える人たちも増え続けている。
 樹の幹に「君の名前を彫り給え」という詩を思いだす。忘れてはならない大切な言葉をコツコツと関谷さんは陶板に刻み続けてきた。
 鄭周河さんが韓国に持ち帰る私の陶板作品は、ここでつくった。私は体験教室で作陶をしながら、原発事故で「野を奪われた」福島の人たちの無念と、韓国の詩人李相和の、日本に奪われた国への慟哭の思いを指先に込めたつもりだ。
 私の作品を韓国に持ち帰る交換条件に、鄭周河さんから、福島原発が起きる前に発表した原発のある風景―海辺で遊ぶ子どもたちが描かれた作品(タイトル「不安―火の中に)をいただいた。署名入りにすると「お値打ち」ものだが、無署名のまま私の「宝物」として部屋に飾ることにした。  
 夏も終わる。1923年9月1日。関東大震災による死者・行方不明者10万人余り。そのなかで数千人の朝鮮人が虐殺されたことを忘れない。詩人李相和はそれを目撃した。
2016.06.16  昔ばなし大学講演会「子どもたちに幸せな未来を」の動画
    メール通信「昔あったづもな」第63号

小澤俊夫 (小澤昔ばなし研究所所長)

 福島みずほ・小澤ジョイント講演会として5月24日、吉祥寺公会堂で行われたこの講演会の様子をYouTubeにアップしました。動画は前半だけですが、福島さんの講演は全部入っています。国会での厳しい質問とはひと味違って、ユーモアあり、落語家的しゃべりもあって、楽しく、かつ内容の濃い講演でした。福島さん、実は落語が好きなのだそうです。
 講演の前と後に、シンガーソングライター、橋本美香さんがギターの弾き語りをしてくれました。自作の「戦争と平和」。
 この講演会の音声記録は全部、既にYouTubeにアップしてあります。なお、福島さんのホームページには、当日の全映像がアップされています。
 女性国会議員というと、電波停止という強権でメデイアを脅したり、「歯舞」が読めない大臣だったりします。ぼくは、福島さんというしっかりした人に、これからも国会議員として、憲法擁護、安保諸法廃案、反原発で力を発揮してもらいたいと切望しているところです。
 YouTubeで「子どもたちに幸せな未来を」と検索していただくと出てきます。ぜひご覧いただき、知り合いの方々にも紹介してください。(2016.6.9)
2016.06.07  意味づけが変わった知覧特攻平和会館
    メール通信「昔あったづもな」62号

小澤俊夫 (小澤昔ばなし研究所所長)

 昔ばなし大学の「昔ばなしの言葉シンポジウム」第3回を鹿児島県国分で開いた後、約20年ぶり知覧特攻平和会館を訪問した。噂には聞いていたのだが、この平和会館の意味づけがすっかり変わっていることに衝撃を受けた。若き命を国に捧げたことの賛美に終始していたのである。そこには、あの特攻攻撃が如何に無謀なものであったか、いかに現実離れしたものであったか、あの計画の責任は誰にあったのか、という問題はまったく隠されてしまっていたのである。しかも若き命たちは、死ぬ日を前にして、苦しみ、悲しみ、酒を飲んで暴れた者もいたそうだが、そんなことにはまったく触れない展示ばかりだった。
 若くして死んでいった者たちは、またしても国家の都合で、その死を礼賛されることになってしまっていた。

 第二次大戦末期、アメリカ軍が沖縄に上陸して、日本は追いつめられた。そのとき、日本各地、及び韓国、中国に派遣されていた陸軍航空隊の若者たちが知覧に集められて、沖縄を攻撃するアメリカ艦船への体当たり攻撃に出撃したのだった。17歳から23歳くらいまでの若者たちが、体当たりに出撃して死んだ。その数1000名をはるかに越えたとのことだった。
 親や家族に向けて遺した遺書がたくさん並べられてあった。みんな立派な言葉で別れを告げてあった。涙なしには読めない。ひとりひとりの写真もあった。軍服もあった。別れの食事の風景。出撃の風景。そして、アメリカ軍が撮影した、撃墜される瞬間の映像も流されていた。特攻隊が乗って行ったといわれる陸軍の戦闘機も現物が展示されていた。いくつかの軍用旅館の女将さんたちが、当時の様子を話す映像もあった。

 だが、ぼくが約20年前に訪れた時には、旅館の女将さんだったというおばあさんが、若者たちが死を目前にして苦しんだ様子を赤裸々に語ってくれた。ある者は泣きわめき、ある者は父や母の名を叫び、ある者は酒に逃げて暴れていた、と話してくれた。「お国のために命を捧げますなんていうのは、表面だけで、ほんとはそんなもんじゃなかった」という言葉に、ぼくはその時衝撃を受けた。そして「それが本当だろう」と思った。
 戦争中にはよく言われたものだ、「兵隊は天皇陛下万歳と叫んで息を引き取った」と。だが、戦地から生きて帰ってきた男たちからは、「みんな、母ちゃんとか、女房や子どもの名前を呼んで死んでいった」と聞かされた。それが本当だと思った。

 今回見た平和会館の展示は、すべて、「天皇陛下万歳!」を示す展示だったのだ。出撃直前の朝飯の写真があったが、みんなにこやかな顔で、まるでこれから遠足にでも行くような表情だった。そんなはずはないではないか。
 特攻隊が乗っていたという戦闘機の実物が展示されていた。それは古臭いがれっきとした戦闘機だった。だが、指宿在住の元社会科教師だった方の説明では、「戦闘機は全くおんぼろで、練習機まで特攻機として使われた。水上飛行機まで特攻機として使われたが、時速200キロしか出ないので、海上で待ち伏せしている時速500キロのグラマン戦闘機に次々撃ち落とされた」ということだった。若者は犬死させられたのだ。この点でも真実は伝えられていないのである。

 平和会館のどこにも、あの戦争はそもそも無謀な戦争だったことは書いていない。いわんや、おんぼろ飛行機に乗って敵艦に突っ込むという自爆戦術の愚かさは何処にも書いていない。あの愚かな、無謀な自爆戦術を誰が考案したのか、その追及もない。練習機や水上飛行機でグラマン戦闘機に対抗できると、誰が考えたのかの調査もない。まるで、あの特攻攻撃が国民の自発的総意として生まれたかのような展示である。

 知覧特攻平和会館は、今や、「こんなに多くの若者が、お国のために尊い命を捧げたんだよ」ということだけを宣伝する場所になってしまった。「だからあんたたちもお国のために命を捧げなさいよ」と人々に訴える場所になってしまった。靖国神社と同じ、忠君愛国の宣伝の場となってしまったのである。
 知覧には年間50万、60万人の観光客が訪れるということだった。生徒、学生も訪れるだろう。訪問者は、お国のために命を捧げることが感動的なことなのだと、学ぶだろう。
 一方では、安全保障諸法が成立してしまっている。国は兵隊を必要としている。この平和会館は若者やその家族に、国のために命を捧げる準備をさせる教育の場にされてしまっている。海上自衛隊の隊員が多数見学に来ていた。お国のために死んでいった若者を賛美する石碑もあった。
 統制国家、軍事国家へと目指している勢力が、戦争中の若者の死を礼賛することによって、庶民に麻酔をかけようとしている。日本という国は、重大な局面に立たされていると思う。(2016.6.1)
2016.04.16 メール通信「昔あったづもな」 第61号
講演会「子どもたちに幸せな未来を」

小澤俊夫(小澤昔ばなし研究所所長)

 昨年国会で強行採決された「安保関連法」は、ついに施行されました。現在と将来の若者を戦争に駆り立てる準備が整えられつつあります。7月に予定されている参議院選挙では、自民・公明党に絶対に勝たせてはなりません。そのためには野党が小異を捨てて、護憲、反原発、安保法廃棄で団結しなければなりません。そして、毎日の生活のなかでは、お母さんたちが安心して子供を預けられる保育所を、国家の責任でちゃんと整備させなければなりません。若者たちが将来への夢を持って働ける職場を整えさせなければなりません。
 ぼくは昔話の研究者であり、庶民が伝承してきた貴重な文化財としての昔話を、その美しい姿のまま、壊さないで伝承しようと主張している人間なのですが、日本が戦争する国になってしまえば、庶民の伝承文化財などあっという間に壊されてしまいます。そして、若者たちは殺し合いの場に駆り出されるのです。そんな日本にすることは決して許せません。そこで、昔ばなし大学としても、初めて、子どもたちに幸せな未来を贈ろうという講演会をすることにしました。
参議院議員として国会で護憲、反原発、安保法廃棄で頑張っている福島みずほさんに来ていただいて、直接お話をうかがい、勉強しましょう。ぼくたちの意見も聞いていただきましょう。そして会の参加者同士の連帯も強めましょう。子どもたちに幸せな未来を贈るために。(2016・4・8)

昔ばなし大学 講演会
「子どもたちに幸せな未来を」
講演・進行 小澤俊夫
ゲストスピーカー 参議院議員 福島みずほさん

福島みずほさんは、参議院予算委員会などで安倍首相に鋭く切り込んでいます。
数年前、「子どもゆめ基金」が廃止されそうになったとき、ぼくは全国の署名を集めたのですが、そのとき力になってくれて、廃止から救ってくれたのが福島さんでした。今回、お忙しい中、ぼくの希望を受け入れて、ぼくとジョイント講演会をすることになりました。福島さんのお話を真近で聞けるいい機会なのでどうぞいらしてください。
小澤俊夫


■演題 「子どもたちに幸せな未来を」
■日時 5月24日、火曜日。午後6時45分から8時30分まで。
■ 会場 武蔵野公会堂
   (JR吉祥寺駅、京王井の頭線吉祥寺駅公園口徒歩2分)
*会場は以前、国立オリンピック記念青少年総合センターとお知らせしましたが、武蔵野公会堂に変更になりました。それに伴って、申し込み不要になりましたので、知人、友人の方々も誘ってご自由においでください。
■入場料 500円 当日、会場で申し受けます。

問い合わせ先: 小澤昔ばなし研究所
〒214-0014 川崎市多摩区登戸3460−1  
パークホームズ704
e-mail :mukaken@ozawa-folktale.com
Tel/fax: 044-931-2050