2020.04.04 私が出会った忘れ得ぬ人々(19)
木内幸男さん――「野放図なようで集中心が強い」

横田 喬 (作家)

 いま世間を騒がせている新型コロナウイルスのせいで、楽しみな春の選抜高校野球大会が中止になった。高校野球といえば、取手二高~常総学院のかつての名監督・木内幸男さんの面差しが想い浮かぶ。茨城出身の朴訥で飄々としている、御年八十八歳の御仁だ。

 もう三十六年も以前の一九八四(昭和五九)年十月の『朝日新聞』紙面に、私の記事がこうある。
 ――この夏、甲子園をわかせ、県民を歓喜させた取手二高球児たちの全国制覇。その伸び伸び野球を演出した前監督木内幸男(五三)は土浦市生まれ。同校監督として苦節二十八年、最後の夏を飾る劇的な栄光だった。決勝戦九回裏の窮地をしのいだ大胆的確な投手交代の采配は、「監督のプロ」の手練のほどを実証した。

 現役当時の巨人・長島の大きな写真を自宅に飾り、「野放図なようで集中心が強いところは私も同じ」。土浦市の新設私立高、常総学院に三顧の礼で迎えられ、今秋から新監督に。「五年以内にまた甲子園へ行きます」――
 実は、木内さんとは差しで二時間余もやりとりし、この分量の優に十倍は書ける中身の濃いお話を伺っている。ユーモアたっぷりで、こくがあり、当世の高校生論としても考えさせられる節が多々あった。企画上の制約に捉われず、なぜもっと突っ込んで書かなかったのか、と未だに悔やまれる。

 この折の取手二の優勝は、誰もが「まさか」と思うほど予想外で劇的だった。決勝戦の相手は、後に共にプロ入りする全国屈指の好投手・桑田真澄と強打の四番打者・清原和博のKKコンビを擁する強豪私立のPL学園。取手二は公立校のハンデもあり、とても敵いそうにない、というのが事前の大方の感触だった。
 が、いざ試合が始まってみると、名門PLの都会ふうで緻密な組織野球に対し、茨城の泥くさく野性的な球児たちは「のびのび野球」で善戦敢闘。なんと4対3と一点リードのまま、土壇場のPL九回裏の攻撃を迎える。

 取手二のエース石田は硬くなって腕が縮んだか、PLの先頭打者にいきなり本塁打を見舞われ、あっという間に4対4の同点。動揺するまま、石田は次打者に死球をぶつけてしまう。(こりゃまずい)。テレビの実況中継を見守る私は十中八九PLのサヨナラ勝ちだろう、と踏んだ。ここで木内監督が放った手練の勝負手が後に「木内マジック」と称えられる奇策である。

 うなだれる石田をライトへ下げ、控え投手の柏葉を急遽リリーフに送る。その柏葉が一死をとるや、一呼吸ついた石田を再びマウンドへ。気合のこもった投球で石田は四番・清原を三振に、五番・桑田を三塁ゴロに仕留め、同点のまま試合は延長戦へ。取手二は十回表に五番の捕手・中島の3ラン・ホーマーなどで8対4の劇的勝利を収め、甲子園球場をうずめた大観衆を沸かす。
 急場での控え投手起用は、今で言うワンポイント・リリーフ。当時はプロ野球でも珍しく、ましてや高校野球では見られぬ変則的な采配だった。が、木内監督の脳裏には石田や柏葉の正念場での心理状態や力量発揮に対する的確な見極めがちゃんとあり、成算が十分あっての一手だったのだ。

 木内さんは、こう振り返る。
 ――試合で勝つにはチームプレーが肝心。ランナーが出たら、打者は鋭くゴロを転がすのが鉄則で、大振りして凡フライでは駄目。が、いつ頃からか、言う通りせん子に「こら!」と叱っても一向に怖がらず、効き目がなくなった。何か手はないか、と頭をひねりました。

 で、一計を案じる。子供らは小遣い銭が減るのを何より嫌がる。監督の指示に違反したら罰金を取る仕組みとし、違反一回に付き罰金十円と取り決める。一回百円ではまずいが、十円なら許容範囲ではと考えてのこと。たかが十円と言うなかれ、少年たちは懐が寒くなるのを案じる。目の色が変わり、口で言い聞かすより、よっぽど効きめがあった。

 ――練習も、単純な反復ばかりでは飽きがくる。控え選手を含め二手に分け、実戦形式の紅白試合を数多くやらす。試合の運び方を考えさすため、全員に順番で主将役をやらせ、打順の編成や投手交代なんかも一切任す。こっちはネット裏で腕組みしとればいいんだから気楽やし、あははは。
 高校野球にありがちな、しごき抜く猛練習とは対極の行き方、とも言える。交代で主将役をやらせると、指揮ぶりから度胸の有無や勝負勘の良し悪しが知れる。ネット裏で観察を重ね、個々の性格の特徴を洗い出して全員の「査定表」をこしらえ、ここぞという場面での采配に存分に生かした。

 試合形式の紅白戦もマンネリ化してはだめ。勝負に真剣になるよう、褒美と罰則を用意。前述のミス一回に付き十円の罰金が「ちりも積もれば山」、一シーズンにン千円位はたまる。勝った方は各人ジュース一本をもらって喉を潤し、負けた側は全員何㌔かのランニングを課される決まりに。
 自主性といえば、木内監督は選手たちの男女交際を公認。彼らは好きな女の子の名前をバットに記し、そのご利益もあってかヒットを連発したという伝説も生んだ。木内野球は管理野球の真逆を行く「のびのび野球」だったのは確かなようだ。

 公立の取手二高での木内さんは教員身分でなく用務員扱いのため、月給は六万二千円という薄給。糟糠の妻・千代子さんは質屋通いや新聞配達をしたり、キリンビール取手工場へ働きに出て家計を支えた。暗い話を好まぬ木内さんはからりと明るく、こう笑い飛ばした。
 ――二十何年も監督をやれば、野球部の教え子たちが取手の街中にわんさといる。居酒屋で飲んでも、八百屋や魚屋で買い物をしても、「(懐の怪しい)監督から金が取れるかい」と全部ただ。だから、素寒貧でも何とかかんとか、やってこれたんですわい。

 郷里の土浦に誕生~開校三年目の私立高・常総学院から三顧の礼で迎えられ、取手二の全国優勝を置き土産に八四年秋、同学院野球部新監督へ。金銭には恬淡としていて、自伝によると学校側の「契約金二百万円、月給三十五万円」という条件を自身の申し出で「契約金百万円、月給二十五万円」に下げてもらった、という。「最初から沢山もらわん方が気が楽で、伸び伸びやれるから」。

 公約通り、就任三年目の八七年春の選抜で甲子園初出場を達成。同年夏の選手権大会で甲子園準優勝。以来、常総学院を甲子園常連の野球名門校として着実に定着させていく。七十代を迎えた今世紀に入り、二〇〇一年の選抜では強豪校を相手に次々と接戦をものにし、決勝で仙台育英を七対六で降し初の全国優勝。〇三年夏の大会決勝では現在米大リーグで活躍中のダルビッシュ投手を擁する東北高と対戦。バントを使わない強攻策で打ち崩し四対二で快勝し、見事優勝している。

 取手二高~常総学院と二十代から八十歳の高齢になるまで高校野球の監督一筋に五十一年間、まさしく空前絶後の野球人生と言っていい。甲子園出場は春七回で優勝・準優勝が各一回、夏十五回で優勝二回・準優勝一回。

 常総学院で教えを受けた仁志敏久氏(元巨人・現「侍ジャパン」コーチ)は言う。
 ――言動の一つ一つにちゃんと理由があった。選手自身がしっかりと自分の意見を持つ、そんな自主性のある野球を教えてもらった。黙ってついて来い式で選手を型にはめがちな日本の高校野球界では珍しいタイプの指導者です。
 プロ野球でも活躍した松沼兄弟(取手二高出身)や仁志氏ら数々の名選手をはじめ、教え子からは高校野球や社会人野球の監督が五人も誕生している。「木内野球」のDNAは着実に拡大再生産を遂げつつある。

2020.03.27 ヤマアラシに見習い猫に学ぶ
           私たちに本当に必要なものは何?

杜 海樹(フリーライター)

  心理学の方面で使われることも多い“ヤマアラシのジレンマ”という有名な寓話がある。ヤマアラシとは、体の大部分を鋭い針毛で覆われた小動物で、大概の動物園に行けば目にすることができる動物だ。そのヤマアラシは、冬の寒さを凌ぐ時、他の動物同様に仲間同士が身を寄せ合って暖を取るというのだが、体毛が針毛であることから、近づきすぎるとお互いを針で刺し合う結果となってしまい暖を取るどころではなくなってしまう。そうかといって離れていては寒さは防げない。ヤマアラシは近づけば痛いし遠ざかれば寒いという葛藤に悩まされることになる訳だが、次第に中間点というか双方が許容できる距離を見つけて安定していくという話だ。現在のヤマアラシはというと、お互い争うことなく針毛を折り畳んで皆仲良く並んで温々と暖まっているという。人間社会にもこうした芸当が当たり前の様にほしいところだ。
 
 かつて、宮城県石巻市沖の田代島という小さな島に“垂れ耳ジャック”という名の人気者の猫がいた。片耳がペコンと垂れていたことからそう呼ばれていた猫で、人間のアイドル歌手顔負けの人気があり、猫好きの間ではかなり名の通った猫であった。人気者の猫というと、丸々と太っていて可愛らしいとか、子猫の様に甘えてくる等のイメージで想像されるかと思うが、ジャックの場合は全く違っていた。その風貌は人気という言葉から連想するには余りにもかけ離れていて、常にオドオド、毛はボサボサ、隅っこ暮らしの毎日・・・といったとても残念な雰囲気満々の猫であった。だが、そんなジャックを人々は次々と応援したのであった。ジャックの姿は、どこか公園の片隅に佇むホームレスの様でもあり会社の隅に追い込まれた窓際族の様でもありで、存在し続けていること自体が人気の源泉であったという珍しい猫であった。人間にもジャックのような魅力がほしいところだ。

 そのジャックの棲んでいた田代島は別名“猫の楽園”とも呼ばれている猫島だ。元々は養蚕のネズミよけとして猫が飼われていたというが、次第に半野生化し、現在は漁業の守護神的存在として島の地域猫として暮らしているという。その田代島に、2011年3月11日、大津波が襲った。島は10メートル程の波にのまれたという。震災当時、島の猫たちはどうなった…という心配の声が飛び交った訳だが、何と猫たちは真っ先に高台へと走って逃げ、ほとんどの猫たちが無事だったという。断っておくが、島の猫たちに大津波の経験があるわけもなく、ましてや避難訓練など受けたことは当然ない。地震の後には津波が来るとか、高台が安全だとか誰かに教えられた訳ではない。それにもかかわらず高台へ一目散に逃げたというのだから驚きだ。人間にも猫の様な基本性能がほしいところだ。
2019.12.16 『ぼくはイェローでホワイトで、ちょっとブルー』を読んだ
―平成おうなつれづれ草(11)―

鎌倉矩子 (元大学教員)

ブレイディみかこ著『ぼくはイェローでホワイトで、ちょっとブルー』(新潮社、2019)を読んだ。新潮社の月刊情報誌『波』に連載されていたものだが、最初の16回分が単行本化されたと知り、もう一度読みたくなったのである。
本書は私に、私の知らなかった英国を運んできた。それは、「えっ、今の英国はそうなっているの!」という驚きを私にもたらした。
舞台となるブライトンは、白人労働者が多いまちである。「白人労働者が多い」とは、「貧しい与太者が多い」の代名詞であるらしい。しかも、アフリカからの、中東からの、東欧その他からの移民が、それに混じって暮らしている。公営住宅を購入・改装してお洒落に暮らすミドルクラスも混じるようになった。LGBTが多く、ママが二人の家庭、パパが二人の家庭の子も稀ではない。
多様性の見本市のようなところ、それがブライトンだ。その中で息子が育ち・育てられていく様子が、たくさんのエピソードによって綴られている。話は中学校に入るときに始まる。

「元・底辺中学校」という選択
英国ではこどもが通う小中学校を、公立校であっても保護者が選ぶのだという。
みかこさんの夫はアイルランド人である。二人はともにカトリック家庭の出身であるところから、息子の小学校にはカトリック校を選んだ。そこは市のランキングで常にトップを占める名門校で、富裕な家庭の子が多く、みんなが仲良しで、息子はそこで幸せに過ごした。そのまま中学もカトリック系へ進むと誰もが思っていたが、ある日近隣の公立中学校から見学会への招待状が届いたことで、思わぬなりゆきとなる。
その中学校は、以前は「底辺中学校」にランクされていたが、いまは中ほどに上昇しているので、みかこさんが勝手に「元・底辺中学校」と呼んでいるところだ。見学会に行ってみると、校長も教師もフレンドリーで教育熱心。音楽教室の装備もイケているし、生徒たちは楽しそうだ。カトリック中学の見学で、教師が怠けものを見放している光景を見たことがあるみかこさんは、「元・底辺中学校」をすっかり気に入ってしまうが、しかし息子に、そこに行けとは言わなかった。
夫は、息子が本当にそこに行きたければ行っていいが、俺は反対だと言った。理由の第一は、「あそこは白人だらけだから(お前はそうではない)」。この裏には、むしろ中富裕層社会のほうが人種的多様性に富んでおり、ポリティカル・コレクトネス(=弱者の不当差別をしない)が守られているという事情がある。第二は、「誰もが行きたがるカトリック校への入学特権をわざわざ捨てることはない(わざわざ階級を下がることはない)」である。
最後に息子が、「元・底辺中学校」を選んだ。

子どもとレイシズム(人種差別)
中学校に通い始めた息子は、はじめてレイシズムの現実を味わう。
ある日は街で、知らない車が彼の前に止まり、男がわざわざ窓をあけて、「ファッキン・チンク!」の言葉を投げつけてくる(チンクは中国系東洋人種に対する侮蔑言葉)。
ある日は学校で、一緒にミュージカルの練習をしている友人ダニエルが、黒人の女の子に侮蔑的な陰口を叩くのを聞いてしまう。「ブラックのくせにダンスが下手なジャングルのモンキー。バナナをやったら踊るかも」と笑っていたのだ。
帰宅してからも憤りがおさまらない息子に、みかこさんがかける言葉が印象深い。
「無知なんだよ。誰かがそう言っているのを聞いて、大人はそういうことを言うんだと思って真似しているだけ」
「つまり、バカなの?」
「いや、頭が悪いってことと無知ってことは違う。知らないことは、知るときが来れば、その人は無知でなくなる」
ダニエルは頑固で、二人はなかなか仲直りできない。変声期を迎えたダニエルを息子が助けようとしても、「そんな春巻きを喉につまらせたような東洋人の声は嫌だ」と言い放つ始末だ。
そういう二人の距離が一挙に縮まるシーンも印象的だ。ミュージカル本番の日、ダニエルは舞台で失声してしまう。危機を救ったのは息子だ。とっさに舞台裏から大声で歌い、ダニエルは口パクでその場をしのいだ。舞台を終えたダニエルは息子に「サンクス」と言い、携帯番号をたずねる。「お前教えたのか?」と聞く父親に息子は答える。
「うん。教えない理由はないから。それに無知な人には、知らせなきゃいけないことがたくさんある」

貧しい友だち
息子のバンド仲間のティムは貧しい。「どんな夏休みだった?」と聞いたら、「ずっとお腹が空いていた」と答えたほどに貧しい。母親はシングルマザーで、一家は公営の低所得者用団地に住んでいる。ティムは自分の制服が擦り切れ、兄のお古を着ているが、それを仲間にからかわれている。
息子とみかこさんは何とかしたいと思う。そこで、みかこさんが関わっている「制服リサイクル活動」の中の一着を彼に融通しようと決める。でも、「あげる」と言えばティムは傷つくだろう。妙案が浮かばないうちにティムが家にやって来る。
息子が紙袋を差し出して「これ持って帰る?」と言ったとき、ティムは一度は「いいの?」と応じたが、やはり「お金払うよ。こんどくるとき持ってくる」などと言い始め、三人の会話はもつれてしまう。ややあってティムと息子との間に交わされた会話が深い。
「でもどうして僕にくれるの?」
「友だちだから。君は僕の友達だからだよ」。
ティムは「サンクス」と言い、息子とハイタッチをして玄関を出て行った。団地へと坂道を上がって行き、立ち止まり、右手で両目をこする仕草をするのが見えた、とみかこさんは書いている。

エンパシーの時代
「ライフ・スキル教育」という教科があるそうだ。息子はこの教科が好きで成績もよい。期末試験には「エンパシーとは何か」という問題が出た(エンパシーは通常、「感情移入」「共感的理解」などと邦訳される)。
難しいなあ、という父親に息子は言った。
「簡単だよ。“自分で誰かの靴をはいてみること”(=“他人の立場に立ってみること”)って僕は書いた」
息子によれば、授業で先生が、これからは“エンパシーの時代”だと言って、ホワイトボードに大書したのだという。息子は言う。「EU離脱や、テロリズムの問題や、いろんな混乱を僕らが乗り越えていくには、自分と立場の違う人や、自分と違う意見を持っている人の気持ちを想像してみることが大事なんだって」
みかこさんは考える。シンパシーsympathyとはある種の感情(たとえば同情)のことだが、エンパシーempathyとは、もし自分がその人だったらと想像してみる力、つまり知的作業のことであると(下線筆者)。ありとあらゆる分断と対立が深刻化しているこの英国で、11歳の子どもが、いまエンパシーについて学んでいるのは、特筆に値することであると。
私の心に、最も深く刻まれた箇所である。

ぼくはたぶんヘテロ(異性愛者)
現在の英国の中学では、「ライフ・スキル」の授業の一環として、LGBTQのことが教えられる(Qはクエスチョニング)。ダニエルの父親は激怒するが、間に合いはしない。
その授業があった日、帰り道で子どもたちが、自分の性的志向についてあっけらかんと語り合う場面がおもしろい。息子とティムは「ぼくはたぶんヘテロ(異性愛者)だ」と言い、ダニエルは「僕はヘテロ以外にはありえない」とむきになる。しかしオリバーは「自分はまだわからない(Q)」と言った。彼は仲間うちでも最もマッチョな少年だというのに。そんなオリバーにダニエルはショックを受けるが、やがてこう言う。「時間をかけて決めればいいよ」
ダニエルはこれまで、差別発言が激しいので、だんだん仲間から疎んじられ、逆にいじめられるようになっていた。しかし彼は彼なりに、少しずつ変わっているようなのだ。

ぼくはどっちかというとグリーン
息子は中学2年目の半ばにさしかかった。2月、ブライトンでは、学生の多くが地球温暖化対策を訴えるデモに参加した。中学校は、優秀校の多くが子どもたちの参加を許したが、「元・底辺中学校」は許さなかった。
息子は参加できない悔しさを「仲間外れにされている感じ」だと嘆き、みかこさんは「そういう気分をマージナライズド(周縁化されている)って呼ぶんだよ」と教える。
息子はさっそくこの言葉を折り込んで自作のラップを歌い上げた。「……♪気分はマージナライズド/♪感じてるんだマージナライズド/♪いつもそうさマージナライズド」。
「ははははは」とみかこさんが笑い、「やっぱ、バンド名はグリーン・イディオット(緑のバカ)がいいんじゃない?」と言ったとき、息子にある連想が走った。
それは彼が中学校に入学したころ、ノートの端に書きつけた「ぼくはイェローでホワイトで、ちょっとブルー」の落書きである。それは母親のエッセイのタイトルにもなった。
「あれさ。いま考えると、ちょっと暗いよね。あの頃は新しい学校に不安があったし、レイシズムみたいなことも経験して陰気な気持ちになっていた。でも、もうそんなことないもん」
「ブルーじゃなくなったの」
「いまはどっちかっていうとグリーン。グリーンには『未熟』とか『経験がたりない』とかっていう意味があるでしょ。今僕はそのカラーだと思う」。
まったく子どもというやつは止まらない。ずんずん進んで変わり続ける。と、みかこさんは書く。
たしかに、たった1年半の間に、少年たちはずいぶん変わったのだ。

いまこの時代に
分断、貧困、対立、憎悪。これらは決して英国だけの現象ではない。ここ日本にも、すでにそれらは存在する。しかも年々悪化していると思われ、私はときどき、暗澹たる気持ちになる。
しかし本書は、「希望」という言葉を私に思い出させてくれた。たとえ厳しい環境であっても、たくましく、健やかに、前進する人が育ちつつあると知るとき、こころに灯るのは希望である。私が本書に惹きつけられた理由は、まさにこの点にある。
本書は息子の成長記録であるが、しかし同時に母親みかこさんの生き方の記録でもある。この純でやさしく、力に満ちた少年は、みかこさんの作品だとさえ思えるのだ。
みかこさんって何者? そう思う人は多いに違いない。1965年福岡市生まれ。保育士・ライター・コラムニスト。音楽好きが高じてアルバイトと渡英をくり返し、1996年よりブライトン在住、と本書カバー裏にはある。みかこさんがいかにしてみかこさんになったか。これについては、彼女のもうひとつの著書『子どもたちの階級闘争―ブロークン・ブリテンの無料託児所から』(みすず書房、2017)を併せ読むことをおすすめしたい。
(2019/12/8記)

2019.08.03 私が会った忘れ得ぬ人々(11)
前田常作さん ――絵は「行」であり「巡礼」

横田 喬 (作家)

 太平洋戦争敗戦の日から半月前の一九四五年八月二日未明、北陸の富山市を百数十機に上る米軍のB29爆撃機が襲った。二時間余の焼夷弾集中攻撃で市街地が全焼。約十一万人の罹災者を生み、死者が約三千人、負傷者は約八千人に上った。政令指定都市(広島など二十市)以外の地方都市では原爆被災地・長崎を別にすれば、全国で最悪の被害を被った。

 炎上する富山市街から十㌔余り南の田舎にある親類宅に、二つ年上の姉と私(当時十歳)に二つ下の弟の三人が疎開していた。両親や兄二人の身を案じつつ(幸い皆無事だった)業火が燃え盛る様を只々見守るしかない。子供心に彼我の科学技術力の圧倒的な差異を嫌というほど感じさせられ、日本はなんでこんなバカな戦争を始めたんだろう、と訝しく思った。

 空襲の翌々日、姉・私・弟三人で空襲で不通になった富山地方鉄道(富山市~立山山麓を結ぶ私鉄)の線路伝いに片道三時間ほどかけて富山市に到着する。市街地に入った途端、人体を焼く火葬場そっくりの何とも言えない嫌な臭いが充満していたのが今でも忘れられない。結局、両親や兄たちの避難先が判らぬまま、その日はすごすご引き返すほかなかった。

 富山県北部・入善町出身の洋画家・前田常作(敬称略)は、この空襲の一か月前に富山師範に在籍のまま徴兵検査を受け、市内の歩兵第三十五連隊に入営。地理に明るいからと空襲当夜は「市民誘導斑」に回され、市内の繁華街から市民を安全な地帯へ避難させる役目を負う。『朝日新聞』記者当時の私は彼を二度にわたりインタビューし、こんな証言を得ている。

 ――無差別じゅうたん爆撃で市内一帯が火の海。水に浸した筵を小脇に抱えて人々の避難誘導に当たった。避難先の神通川河原では、背中に火がついて燃える病気の人や、水面を流れる数々の死体、泣き叫ぶ親子らで地獄絵さながら。おばあさん二人が地べたに座り込んで「ナンマン、ナンマン(南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏)」と必死に念仏を口ずさむ。やはり応召した師範同級生の一人は直撃弾を受けて即死し、もう一人は重傷を負っています。

 富山県はよく「真宗王国」と言われるが、彼の亡父は真宗大谷派(東本願寺派)の檀家総代を務め、姉は真宗の寺に嫁いでいる。子供の頃から絵を描くのが好きで画家志望だった彼は戦後上京し、苦学しながら武蔵野美術学校を卒業。‘五五(昭和三十)年頃、広島で被爆~自殺した作家・原民喜の遺作『夏の花』を読み、富山空襲の折の記憶が蘇る。

――痛手を負った人間が光を求めるように踠くさまを前衛的に描ければ、と思った。
鎮魂への祈りを込めた抽象的なフォルムが作品『殖』シリーズに結実する。‘五七年、第一回国際青年美術家展で大賞を受け、翌年フランスへ留学が適う。パリで出会ったフランスの美術評論家から「あなたの絵には曼荼羅がある」と指摘された。曼荼羅はサンスクリット語で、曼荼は「心髄・本質」、羅は「悟る」の意である。そんな古色蒼然としたものではない、と初めは反発した。が、パリのギメー美術館へ通い、インドやネパール・中国・インドネシアなどの仏画や曼荼羅を見学するうち、考えが変わる。

「祈りが込められ、深遠なものが描かれている絵に一条の光を見出し、人々に感動を与えるものこそ美術の根源ではないか」と、思い至る。前田は「密教は深い教えで、悟らない人に悟ってもらうには図画を借りて示すほかない。空海は『請来目録』に、そう述べている。曼荼羅は宇宙の神秘な悟りへのいわば芸術的な視覚教育。いま流に言えば、テレビの考え方で悟りの境地を示したようなもの」と言う。

が、彼は日本に帰国後、自分なりの「曼荼羅」をいざどう描けばいいかの方法論を巡り、悶々とする。一年余りして、啓示を受ける。かつての日本人は『観音経』を読み、そこに生命の神秘を感じた。『般若心経』を読み、煩悩を離れる声明の知恵を見た。なぜ『観無量寿経』を、なぜ『法華経』や『観音経』などの仏典を自分は読もうとしないのか、と自問する。

中でも『観無量寿経』の観想の方法に惹かれた。西欧流の超現実主義的発想に近い、と感じたからだ。<恐ろしい地獄にも似た牢獄で、マガダ国王の后・韋提希夫人は釈尊の勧めに従って瞑想に耽り、光明燦然と輝く極楽世界を目の当たりにする。> 前田は毎朝、お経(『般若心経』ないし『理趣経』『観音経』の中の一つ)を上げてから仕事に入るのを日課と決め、絵日記を毎日描くことを「行」として己に課す。

――お題目や念仏・光明真言を唱えると、胸の中がすっきりし、集中力が湧いてくる。
経典や仏典が死後のことを説くのは、あくまで方便。根本は一瞬の生命をどう見つめるか。仏教は優れて現実的で、極めて現代的な教えです。東アジア唯一の仏教国に生きる我々は、もっと経典や仏典の教えを見つめ直す必要がある。

前田は四十代後半の頃、「絵を描こうという心は祈りの心につながっている」と西国巡礼の旅を発心する。熊野・那智の滝の傍らの那智山・青岸渡寺を手始めに、豊山・長谷寺、深雪山・上醍醐寺、新那智山・観音寺、補陀洛山・六波羅密寺、青葉山・松尾寺など西国三十三カ所の観音巡礼の旅をほぼ十年がかりで達成する。‘八九(昭和六十四)年、富山市で開いた回顧展で「西国巡礼シリーズ」の作品三十九点を初公開。ふだん美術館ではあまり見かけない素朴な感じのお婆さんたちも来場し、これらの作品に涙ぐんだり、手を合わせたりする姿が目立った。前田はこう言う。

 ――参拝で隣合わせたお爺ちゃんが、扉の向こうの観音様に「お参りさせてもらって有難うございます」と、お礼を言っている。目から鱗が落ちた。僕は感謝していないもんね。
 ――巡礼の原点は、見えない世界が見えるようになること。芸術も同じ。見えないものを見えるように表すわけだから。

 彼は密教の観法にある「入我我入」という言葉を大切にした。己が本尊に入り、本尊が己に入る。自分と本尊とが感応道交し、一体になる素晴らしい瞑想の法である。「両界曼荼羅を見ていると、入我我入が的確になされて描かれた感じがする。筆が生きているとは、描く対象と描き手が一体になっていること。真に素晴らしいものと出合った一瞬には無我夢中になって描く。何かが乗り移ったように対象との境目がなくなり、溶け込んでいく。そうした瞬間に出合うことが制作の至上の喜びなのだ」と説く。

 代表作の一つ「観想マンダラズ・シリーズ」では、画面下方に何百もの小さな仏像が遠近を付けて千体仏のように整然と描き込まれ、上方に大きな如来像が浮かぶ地平線に向かって、眩い光の波のように連なる。青っぽい色調の、どこか瞑想的な雰囲気を湛えた大画面は、壮麗な宇宙空間とその生命・霊気を感じさせる。

 ――北陸の暗い風土に育ったから、光に惹かれ、人間の内にある光明を描き出したい気持ちが人一倍強いのでしょう。私にとって、絵を描くことは「行」であり、「巡礼」なんです。
 こうして「曼荼羅の画家」と呼ばれるに至った前田は‘七九年に日本芸術大賞、’八九年に仏教伝道文化賞を受賞。京都市立大教授~武蔵野美大教授~同学長~同理事長を務め、二〇〇七年に八十一歳で亡くなった。

2019.07.01  私が会った忘れ得ぬ人々(10)
          高橋秀さん――自己の自立の無さが歯痒い
          藤田桜さん――望郷の思ひおのずと菊の頃  
 
横田 喬(作家)

 先々月の本欄で紹介した詩人・評論家、大岡信氏が異色の美術家・高橋秀さん(八八)のために詠んだ詩の一節に、こうある。「ワレメ――/そう聞くだけで/人々はある種のものを/想像し/或ひは微笑し/或ひは顔を赤らめる/歴史の神秘な谷間を思ひ/地質学の知られざる発見を思ふ/(ああコトバは偉大だ/たった一言で!)

 そして、私と大学の同窓で『朝日新聞』入社も同期だった故・根本長兵衛君(「朝日新聞」元ローマ特派員・企業メセナ協議会元専務理事)も、この高橋秀さんについて、秀逸な要旨次のような一文を書き残している。題して「『言行一致』、造形のマエストロ」。
 ――1980年のこと。縁あって秀さんとお近づきになる。酒豪の彼から酒席で歯に衣きせぬ、辛辣、かつ痛快極まりない、卓抜な日本イタリア比較論を胸のすく思いで拝聴した。
 秀さんの作品もじっくり拝見する。白やピンクの幾何学的なかたち、有機体を思わせる丸やかな形態の隅に置かれた色鮮やかな華麗な色彩の点や線、それに悩ましい割れ目が入ったリトグラフが多かった。いわゆる「エロティスムとユーモア」が基調になった作品だが、猥褻さやじめじめした性の暗さは全くない。破顔一笑する秀さんの明るい笑いを連想させる大らかなユーモアで、当てこすりや忍び笑いとは無縁な造形だ。ハイカラで流線型の形象なのだが、イタリア人にはオリエンタルな日本アートに見えるに違いない。これまで経験したことのないオリジナリティに、強いショックと感銘を受けた。――

 この高橋秀さんはイタリア在住の‘九六年、倉敷芸術科学大教授に就任する。’〇四年、四十一年に及ぶローマ生活を切り上げ、前々年にアトリエを築いた倉敷・沙美海岸に居を移す。隣の岡山市に在住する宗教家・黒住宗晴氏は文化方面にも明るく、私がかねて昵懇に願っている方だ。同氏を介し高橋秀さんの最近の消息を知り、頂いた資料から秀さんの長年の連れ合いで「コラージュ(布貼り付け絵)」作家・俳人の藤田桜さんの横顔も知るに至る。

 ご両人は戦後まもない頃、高名な挿絵画家・雑誌編集者だった中原淳一氏の許で知り合い、結ばれる。当時の秀さんは中原氏が手掛ける雑誌『ひまわり』や『それいゆ』に挿絵やカットを器用に描き、それなりに収入を得ていた。だが、(このままだと本業の絵画がだめになる)、と「人気者の危険」に本能的に感づく。結婚して何年目かの正月早々、秀さんは桜さんの前にがばとひれ伏し、こう懇願する。「絵画の制作に目鼻がつくまで、収入目当ての仕事は放棄する。当面しばらく、生活の面倒を見て頂きたい」。

 頭を下げた秀さんも潔いが、その胸中を察して快諾した桜さんも偉い。似合いのカップルの呼吸は須らく、こうありたいものだ。お二人には、美談がもう一つある。東京・世田谷にあった宅地を売却したお金で「秀桜留学基金」(一億円)を設定。つい三年前までの十年間、若い美術家を毎年三人ずつ海外へ送り出し、一年間自由に勉強する手助けをしてきた。これまた、なかなかできないことだ。

 春麗のこの四月半ば、私は前記の黒住さんの手引きで長閑な風光の倉敷・沙美海岸に秀・桜さん宅をカメラ担当の連れ合い同伴で訪問。酒盃を傾けながら半日近く歓談し、「人生百歳時代」を地で行くお二人の生き様とお人柄をとくと確かめさせて頂いた。
 俳人・桜さんは二〇〇五(平成十七)年、自作『句集』を刊行している。ローマ滞在中に詠んだ句が大半で、繊細な感覚と深い心を映す中に、母国への強い郷愁が滲み出ている。
 ――「小菊また殖やし異郷に年重ね」「浴衣着てローマの夏も捨て難し」「望郷の思ひおのずと菊の頃」「仔羊に焼き印を押す聖夜近し」「シーザーが虻に泣きべそカーニバル」――

 これに先立つ一九八二年、エッセー集『ローマでエプロンかけて』(新潮社)も著した。表題通り、一家の主婦としての奮闘ぶりが躍如とする。まずは、台所事情から。
 ▽春先から初夏にかけて。佃煮にする蕗が市内の川や池の辺りに一杯野生している。大きいのは太さ三㌢、長さ一㍍半もある。蕨も自然公園の土手などに生えている。秀さん・桜さんとも好物なので、季節には日本人の友人らと連れ立ち、摘みに行く。

 ▽魚屋は露天の朝市に十数軒が並ぶ。鰯や近海ものの小魚が生で入り、蝦や烏賊はアフリカから来る。季節によって鮪も大きな塊で入る。日本の魚屋のようにお造りにしたり、丁寧
に捌いてはくれないから、一~二㌔と塊買いした鮪の捌きは主婦の仕事になる。
 ▽調味料では、味噌作りをローマ在住の日本人の友人から伝受してもらう。大豆十五㌔に米・塩各六㌔で、約三十六、七㌔の美味しい味噌が出来上がる。大豆の粉で豆腐も作れるし、蒟蒻も手はかかるが大丈夫。夕食はすき焼きでとなると、朝から手間暇のかかること!

 さて、桜さんは主婦業とは別個に「布貼り付け絵」作家という、もう一つの顔を持つ。‘五二年から月刊保育雑誌『よいこのくに』(学習研究社)の表紙絵の専属作家となり、『ぴのっきお』など秀抜な作品を数々残す。‘七七年、ボローニャで出版された児童書イラストレーター選集には二十か国三十七作家の一人として選出されている。『芸術新潮』の‘八五年十二月号は「藤田桜の小裂(こぎれ)コラージュ」と題し、コラムに要旨こう記す。

 ――コラージュと思えないほどの、穏やかな色の諧調がある。ローマに在住し、この十年腰を据えて小裂と付き合ってきた藤田は、裂の主張や相性をすっかり手の内に収めているらしい。縁を重ねていく技法は、単に物質的な厚みではなしに画面に深みを作る。下絵や型紙を使わないフリーハンドの裁断が、このコラージュの上品さを支えている。
 
 高橋秀さんに話を戻す。少壮三十三歳でイタリア政府招聘留学生としてローマへ渡るが、その日本離脱の動機が彼らしく少々変わっている。前々年、新進洋画家の登竜門とされる「安井(曽太郎)賞」を授与されるが、そのため画商から新作の注文が相次ぎ、それをこなすのが苦痛で日本脱出を図った、と言う。
 壮年期を中心に四十一年もの長い歳月を異境イタリアで過ごした秀さんの異文化体験に基づく独特の観察眼は貴重だ。今の日本社会の在り様について、覚めた目でこう呟く。

 ――生活面・政治面・文化面と非常に悔しいが、日本は多分に見劣りする。なぜこんなに
育っていないのか、幼いのか、と悔しいながら感じる。鎖国体制の江戸時代の習性を引きずってか、自己の自立のなさ~自己主張のなさは歯痒いばかり。日本は経済ばかりが肥大化し、生活面全体の向上という思考が全く欠落している。
 ――政治面でも、イタリアはやはり大人だ。政治家のための政治ではなく、人民のための政治をしている。その点、日本はまた自民党が復権し、国民の間から馴れ合いに対する強い不満や怒りもない。離れ島という環境が災いしてなのか、暗澹とした思いに捉われる。
 ほぼ同世代の私自身も全く同感だ。
横田新628
    お二人の近影。左が高橋秀さん、右が藤田桜さん(今年四月半ば撮影)

 辞去間際、アトリエへ案内された。正面の壁にかなり大きな「磔のキリスト」像が掛かっている。(秀さんもミューズに魅入られた受難と献身の人に違いない!)瞬間、強い感動が身内を走った。
 なお、「高橋秀+藤田桜 『素敵なふたり』」と銘打つ企画展が七月六日から九月一日まで東京・世田谷美術館で開かれる。NHKのテレビ番組「日曜美術館」でも七月二十八日午前九時(再放送は八月四日午後八時)から特集が放映される予定だ。同展は九月から来年二月にかけて、倉敷・伊丹・北九州の各市でも順次開催される。

2019.06.22  〈いまごろ丸山眞男か〉という君へ(2)
    ―柄谷行人の「丸山眞男とアソシエーショニズム」を読む―

半澤健市 (元金融機関勤務)

《ポストモダンと丸山はどう結びつくのか》
 柄谷は丸山をいつどこで捉えたのか。
彼が、本格的に丸山を論じたのは2006年の「丸山眞男とアソシエーショニズム」が初めてであるらしい。しかし柄谷の問題意識は80年代に始まっていた。

 柄谷の丸山認識は、優れた「近代主義者」というほどのものであった。
 80年代、柄谷行人は「ポストモダニズム」の旗手の一人として認知されていた。
ポストモダンとは、「近代以後」または「後近代」の謂である。柄谷の近代批判は、「自発的な主体(主観)への批判」であった。自発的な意志なんてない。それは他人の欲望に媒介された結果にすぎない。主観は自由ではなく、「言語的な制度(システム)の中に規定されている」、つまり自由な個人主体というフィクションから出発するブルジョア的思想に過ぎないという批判であった。しかしそれは自由の否定ではない。1968年5月革命に象徴される運動は、アソーシエイティブ(結社的)な活動をめざしていた。

 しかし構造主義もポスト構造主義もすぐに資本主義の脱構造に追いつかれ体制内化する。日本のポストモダニズムもポスト産業資本主義と同義となってしまった。私(半澤)は、吉本隆明が、有名ブランド商品のモデルになった写真をよく覚えている。
 バブル経済もあって日本のポストモダニズムは、世界の先端を走っているように見えたが、実は近代の欠落を示しているのではないか。柄谷にはそういう思考が芽生えた。1984年頃に柄谷は、丸山がこの観点で近代に取り組んできたのではないかと考えた。

《知識人と大衆は乖離していない》
 日本のポストモダニズムが、知識人の批判をするときの立場は、インテリが大衆を上から目線でみていることを批判するものだった。しかし、日本はそんな知の階級社会なのか。そうではない。日本では知識人と大衆は乖離していない。乖離は西洋やアジアにはあるが、すでに徳川時代に養子縁組による階層モビリティーの動きが始まっていた。
柄谷は丸山による鶴見俊輔批判を例示している。鶴見は、抽象的な思想あるいは原理の支配を批判する。しかし実は庶民の視点ではなく知識人の視点からみている。日本では知識人が支配したことはないし、思想や原理が支配したことはない。そういう丸山の思考に柄谷は同意する。丸山の次の言葉を引用する。
■「イデオロギー過剰なんていうのはむしろ逆ですよ。魔術的な言葉が氾濫しているに過ぎない。イデオロギーの終焉もヘチマもないんで、およそこれほど無イデオロギーの国はないんですよ。/大衆社会のいちばんの先進国だ。ドストエフスキーの『悪霊』なんかに出てくる、まるで観念が着物を着て歩きまわっているようなああいう精神的気候、/われわれには実感できないんじゃないですか/思想によって、原理によって生きることの意味をいくら強調してもしすぎることはない」。■

 柄谷は、小林秀雄と正宗白鳥のトルストイの家出と野垂れ死にをめぐっての論争を例示した。小林は、プロレタリア文学が傑作を生まなかったとしても、彼らは思想に生きた。日本において初めて思想が「絶対的な普遍的な姿で」存在したのはマルクス主義だけであると「私小説論」で述べた。丸山は、針生一郎との対談でそう言った。

《丸山こそ唯一の批評家である》
 柄谷は1984年に「ポストモダニズムと批評」という論文のなかで、丸山の発言は真の意味での「批評」だと称賛している。丸山は本物の「批評家」だと言っている。柄谷のみるところ、批評とは方法や理論ではなくて「生きられる」ほかないものである。小林秀雄は、戦中に思想を捨て「実践的な没入」でのみ感受できるベルグソン哲学の方向へ向かった。丸山はそれを実感信仰だといって批判した。丸山こそ批評家を継続した唯一の人である。ここで正確に、柄谷による批評の定義を見ておこう。「いきられる」の意味をかんがえながら読んでほしい。
■それは日本固有の問題ではなく、カントの「批判」とともに出てきた問題である。思想は実生活を超えた何かであるという考えは、合理論である。思想は実生活に由来するという考えは、経験論である。カントは合理論がドミナントである時、経験論からそれを批判し、経験論がドミナントであるとき合理論からそれを批判した。彼は合理論と経験論というアンチノミーを揚棄する立場に立ったのではない。もしそうすれば、カントではなくヘーゲルになってしまうだろう。この意味で、カントの批判は機敏なフットワークに存するのである。ゆえに私(柄谷)はこれをトランスクリティークと呼ぶ。■

《共同体の「個人の析出」の精緻な難解》
 柄谷は政治学者にして批評家たる丸山眞男の思考様式を追跡する。そして丸山の「個人析出のさまざまなパターン」に達する。これは、1960年の日米箱根会議に丸山が提示した論文(英文)である。私にはとても難解で十分理解したとは言えないが、乗りかかった船だと思い、柄谷論文を抜き書きをする。それなりに整序はしたつもりである。

 丸山は、伝統的な社会(共同体)から個人が析出individuationされるパターンを考察した。これが近代化とともに個人が社会に対してとる態度を四つに分類した。タテ軸の上部に、「結社形成的associative」、下部に「非結社形成的dissociative」、ヨコ軸の右に政治的権威に対して「求心的centripetal」と左に「遠心的centrifugal」なそれぞれ態度をとる個人類型を、四象限に分けて配置する。そしてこの四つの傾向をもつ個人を次のような四タイプに分けた。

■「民主化した個人タイプ(D・democratization)」は、集団的な政治活動に参加するタイプである。中央権力を通じる改革を志向する。
■「自立化した個人タイプ(I・individualization)」は、そこから自立的するが、同時に、結社形成的である。市民的自由の制度的保障に関心をもち、地方自治に熱心である。
■「私化した個人タイプ(P・privatization)」は、「民主化タイプ」の正反対で政治活動の挫折から、政治を拒否して私的な世界にひきこもる。
■「原子化した個人タイプ(A・atomization)」は、政治に無関心であり、逃走的であるが、それゆえに突如としてファナティックな政治活動に参加する。権威主義的育たなリーダーシップに帰依し神秘的「全体」に没入する傾向をもつ。

 一般的にいえば、近代化が内発的でゆっくり生じる場合はIとPが多くなり、後進国の近代化の場合は、DとAが多くなる。四つのタイプが一生を通して純粋不変であることは希である。

《日本でタイプIが育たなかった理由》
 近代日本に特徴的なことは、伝統社会が残っていたのに「私化」と「原子化」が早期に登場し、かつ圧倒的に多かったことである。「自立化する個人I」が育たなかった理由を、丸山はこう書いている。
■日本における統一国家の形成と資本の本源的蓄積の強行が、/驚くべき超速度で行われそれがそのまま息つく暇もなく近代化―末端の村行政に至るまでの官僚制支配の貫徹と、軽工業及び巨大軍事工業を機軸とする産業革命の遂行となった/その社会的秘密の一つは、自主的特権に依拠する封建的=身分的中間勢力の抵抗の脆さであった。/ヨーロッパに見られたような社会的栄誉をになう強靱な貴族的伝統や、自治都市、特権ギルド、不入権をもつ寺院など、国家権力にたいするバリケードがいかに本来脆弱であったかがわかる。/「立身出世」の社会的流動性がきわめて早期に成立したのはそのためである。政治・経済・文化あらゆる面で近代日本は成り上がり社会であり(支配層自身が成り上がりで構成されていた)、民主化をともなわぬ「大衆化」現象もテクノロジーの普及とともに比較的早くから顕著になった。(『日本の思想』)■

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2019.06.21   〈いまごろ丸山眞男か〉という君へ(1)
    ―柄谷行人による「丸山眞男の永久革命」を読む―

半澤健市 (元金融機関勤務)

 本稿は、思想家柄谷行人(からたに・こうじん、1941~)が書いた丸山眞男論の紹介である。紹介する理由は、私はこの論文―正確にはエッセイというべきか―に衝撃を受けたからである。(1)で柄谷論文の要約を行い、(2)でその「衝撃」につて述べることにしたい。私は、丸山眞男や柄谷行人の「熱心な読者」でなく、読書好きな人間として「普通の読者」であると思っている。にも拘わらず、私は柄谷の丸山新解釈が、昨今では希有な問題提起であると感じた。

 柄谷論文は、丸山による戦後初期の政治論文集『現代政治の思想と行動』(1957年、未来社)の中国語版(沈力衛成城大教授訳で2018年刊行)の「序文」として、2016年に書かれた。柄谷は、丸山が「中国でほとんど知られていない」と知り、日本でもそうであろうと考えて、丸山の仕事の「概観」を書こうとした。それを『世界』(2019年7月号)に掲載された本論文の「著者解題」で述べている。

■柄谷行人「丸山眞男の永久革命」の要約
 『現代政治の思想と行動』は、戦後の約10年余の間に書かれた。その時期は二つに分かれる。第一期は、日本占領下であって米国流の民主主義と共産主義思想が併存、対立した時期である。ここで丸山は戦時下のファシズムを論じた。第二期は、講和条約後であって日本経済が復興を始め、ナショナリズムが復活した時期である。丸山は、主に政治と文学を論じた。

《「無責任の体系」のはじまり》
 ファシズムを論じた理由は、当時がファシズム批判と反省の時期だったからである。当時、学会・論壇での批判は、一つはアメリカの民主主義の立場、二つは独占資本と国家の結託とする立場から発せられたものであった。丸山はこれと異なる立場で、日独のファシズムの違いに注目したのである。ドイツ(ナチズム)の場合、ワイマール憲法に発する「下からのファシズム」であり、日本のファシズム(天皇制ファシズム)は、天皇制・軍・国家官僚による絶対主義的な体制であり、民主主義の欠如の結果に生じたとするものである。丸山は、日本におけるファシズムを、ファシズム一般に解消することなく、考察しようとしたのである。

 二つの戦犯裁判において、ナチス幹部は自己の行為の責任を認めながら正当性を主張したのに対し、日本の戦争指導者は正統性を主張せず、自分の責任を認めることはなかった。そして天皇の命令に従ったのだといった。しかし明治憲法によって無答責の立憲君主であった天皇は、自ら命令する立場になかった。さすれば日本の戦争には行為の責任者がいないことになる。丸山はそれを「無責任の体系」と呼んだ。日本ファシズムは、資本主義経済の矛盾から生じた問題でもなく、デモクラシーを疎外する封建遺制の問題として片づけることもできない。丸山は「もっと根深い日本社会の特性として、あるいは思想的な伝統において見なければならない」と考えた。この問題意識は、のちの思想史研究の出発点となった。

《ファシズムと大衆社会》
 第二期の丸山は、ファシズムを大衆社会の中に置いて日独の比較を試みた。丸山は、共同体と市民社会の対比、つまり人々が共同体に属するか、自立的な個人としてあるか、の対比で考えていたが、この頃から異なる視点を導入した。個人がばらばらのアトム(原子)と化した状態から、ファシズムが生まれるという観点である。とすればワイマール民主主義から独裁体制が生まれたのも大衆社会に起因することになる。これは戦前の日本にも当てはまる。事実上半封建的な社会であったが、都市化やマスメディアの発展で、大衆社会化が生じていた。そういう状況下にあれば「突如としてファナティツクな政治参加に転化することがある」と丸山はのちに書いている。(「個人析出のさまざまなパターン」、1968年).農村共同体から出てきた人々は、自立的な個人でなく、浮動する者となる。労働者階級も例外ではない。柄谷は「このような状態は丸山がこれを書いた当時も、さらに、現在でも進行している。戦前のファシズムのようなものにはならないとしても、似たような現象はいつでも起こりうるのである」と書いている。

《市民論への展開》
 丸山は運動家としては市民運動を唱えた。市民というと、ホワイトカラーであり、ブルーカラーのイメージではない。そのため丸山の主張は、西欧個人主義の市民主義だとか、知的エリート主義だと非難された。しかし丸山の「市民」は、「自主的に他者とアソシエーション(結社)を形成する個人」である。ヨーロッパで自立的都市は各種ギルドの連合体として始まった。市民社会はアトムが集まったのではなく、諸個人のアソシエーションとして始まったのである。日本には市民都市はなく、民主主義もなかった。丸山によれば民主主義とは、選挙投票や議会制度のようなシステムではない。民主主義は、たえず自主的なアソシエーションを更新する「永久革命」である。安保闘争で、丸山が市民運動を鼓舞したのはこの観点からであった。彼は、学生運動家からは市民主義者として、旧左翼からは非マルクス主義者として、新左翼からは特権的なリベラル進歩派教授として、80年代にはポストコロニアル派から、ナシナリストとして非難された。しかしそれらは、丸山の知的背景や経験を知らぬ者の言葉である。

《「政治」という問い―講座派の批判的継承》
 丸山が取り組んだのは一貫してマルクス主義の問題であった。それは1930年代に始まった。日本のマルクス主義理論は、「講座派」、「労農派」の二派に分かれていた。講座派は、明治維新後の日本は、絶対主義国家であり、社会主義革命に先立ち、封建的残存物である天皇制・地主制を撤廃するブルジョア革命が必要だという「二段革命論」を唱えた。
労農派は、明治維新をブルジョア革命と見て維新後の日本を近代資本主義国家と規定し、社会主義革命を主張した。講座派は、ロシア革命の経験を日本に適用したコミンテルンの理論に盲従するものであった。立憲君主制があり、普通選挙法が成立していた1927年時点で「君主制打倒」を掲げるのは愚劣である。柄谷は一方で、「労農派の認識は、ある意味では正しかったが、ある意味ではまちがっていた」という。彼らは、資本主義が発展すれば、天皇制・地主制のような封建的遺制は自然消滅すると考えていた。そして日本社会の「政治的・観念的上部構造」を深く考察しなかった。労農派は宇野弘蔵らの経済学者を輩出したが、講座派は歴史学や文学で強い影響力をもった。

 丸山はなぜ講座派に強い関心を抱いたのか。
講座派の理論には、天皇制をはじめ、明治以後の日本に残る「封建遺制」への注視があったからである。彼らは封建遺制の説明には失敗したが、「天皇制とは何か」を問う契機を残した。「政治的・観念的上部構造」には、相対的な自立性があり、その解明という課題を残した。史的唯物論では、国家は支配階級がもつ暴力装置である。だが暴力だけで持続的な支配は不可能であり、服従する者の積極的同意が必要である。経済的下部構造に還元できない「自立した政治的次元」があるのだ。それは上部構造である思想史を問うことに重なった。丸山はこれらのテーマを考え続けた。その過程で、丸山はマックス・ウェーバー、カール・シュミット、アメリカの政治学などを導入して語った。そのため西洋新知識に依拠した非マルクス主義者とみなされた。しかし丸山の仕事はもっぱら講座派的関心から来たのであった。ファシズムと戦争の下で、それを一人で考え抜いたのである。

《揺るがぬ社会主義者として》
 丸山の仕事は、ドイツのフランクフルト学派に比較できるであろう。この学派はナチズムに敗北した後に、一部はアメリカに亡命して、思考を重ねて「ブルジョアイデオロギー」であるフロイトの理論を社会的な視野の中で採用した。丸山の仕事は、フロイトやフランクフルト学派とは無縁であったし、マルクス主義に内在する問題を追跡しない、欧米新学説の輸入者とみられていた。しかし、丸山の認識は日本におけるマルクス主義運動の体験からきたのである。彼の親友は、マルクス主義運動の経験者である文学者竹内好や武田泰淳であった。
 丸山は、彼を批判した左翼がほとんど転向したのちも、また90年代のソ連崩壊で社会主義の理念が疑われても、揺るがなかった。彼が一貫して追求したのは「社会主義」であった。ただし彼はそれを「民主主義」と呼んでいた。それは自主的な諸個人のアソシエーションを創り出すことと同義であり、それを「永久革命」と呼んだのである。

 以上が柄谷論文の要約である。客観的たろうと努めたが我流である。興味ある読者は、『世界』掲載の原文に当たられたい。「《》マーク」中にある小見出しは『世界』編集部がつけたものである。『現代政治の思想と行動』は、現在は『増補版 現代政治の思想と行動』(1964年初版、未来社)が流通しており、内容に多少の異同があることを記しておく。(2019/06/14)

2019.06.05  私が会った忘れ得ぬ人々(九)
          立花隆さん――ゼネラリストたることを専門とする専門家たらん

横田 喬 (作家)

 戦前日本の「知の巨人」が南方熊楠(敬称略)だとすれば、戦後日本のそれはさしずめ立花隆だろう。南方は生ける百科全書とも言うべき博識で鳴らしたが、立花も凄い読書量や博学な点では負けていない。菊池寛賞・毎日出版文化賞・司馬遼太郎賞などを受け、理系学問の分子生物学や脳科学への造詣が認められ、東大大学院特任教授にも任じている。

 今から三十五年前の一九八四(昭和五十九)年、私は東京・文京区内の自宅に彼を訪ね、差しで一時間余り取材している。当時の『朝日新聞』紙面から紹介記事(概要)を引くと、
 ――田中角栄元首相の“天敵”として名をはせたルポライター立花隆(四四)は、父の勤めの関係で長崎で生まれたが、小学校から高校途中まで水戸で育った。本名・橘隆志。
一見ソフトに映るが、なかなかの意地っ張りだ。田中金脈を追及した十年前の雑誌論文『田中角栄研究』。権力者に弓引く身への相手陣営からの圧力も陰に陽に厳しかった。相手が強ければ強いほどファイトを燃やし、ロッキード事件公判を欠かさず傍聴、筆誅の刃をとぐ。

 小学生のころ、休日に水戸の大きな本屋に行き、終日立ち読みを続けて飽きなかったほど読書好き。文献や資料の核心を見抜く力に優れ、仕事仲間は「本を読む天才」視する。東大でフランス文学と哲学を専攻。『日本共産党の研究』『農協 巨大な挑戦』は政界などに波紋を広げ、『文明の逆説』『宇宙からの帰還』は現代文明や人間存在の本質を問う。
 着眼のよさと実証の確かさ、平易で力強い文章。ニュージャーナリズムの地位を高め、「角栄追究と早く縁を切り、もっと次元の違う仕事がしたい」――
 
 『田中角栄研究』は‘七四(昭和四十九)年秋、月刊誌『文芸春秋』の肝いりで二十人ほどのチームを編成。登記簿や政治資金収支報告書など公開情報を徹底的に調べ上げ、それを基に関係者に当たって裏付けを取る地道な「調査報道」の典型だ。角栄の息がかかる室町産業の例が凄い。農民たちから河川敷だからと五千五百万円の安値で買い取った土地が国に堤防を造らせて立派な土地に化け、八十五億円もの法外な値上がり益を懐にする。この論文に目を通し、私は正直「やられた」と感じ、己の非才ぶりに愛想が尽きた。

 立花は「小学三年で漱石(『坊ちゃん』)を読み、六年の時にディケンズ(『二都物語』)を読んだ」というから、驚く。両親は文学青年・文学少女上がりで、父親は書評紙の編集者で、家の中には沢山の本があった。が、立花は読書一辺倒でもなく、中学では陸上部の活動に励みハイ・ジャンプ1㍍64㌢の新記録をマーク。青白い秀才タイプではなかった。

 受験勉強で大変だった高校時代も、欧米作家が中心の『世界文学全集』を半ばは読破。東大入学後は「文学研究会」でサークル活動に励み、ドストエフスキーやトルストイは代表作のほとんどに目を通す。彼の両親は共にクリスチャンで、彼自身も子供の頃から教会へ行かされ、キリスト教の影響が強い、という。文学専攻の意義について、こう言う。
 ――文学を経ないで精神形成をした人は、どうしても物の見方が浅い。想像力が十分に培われていないために、物事の理解が図式的になり易い。
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2019.05.20  平成と令和の狭間に考える
 ―「平成流」は持続可能だろうか

半澤健市(元金融機関勤務)

 4月30日の天皇譲位と5月1日改元の報道が少しは落ち着いてきた。
この時点で明仁・美智子夫妻の「平成流」とその前途について書いておきたい。
話を三つほどに分けて考える。
一つは、明仁夫妻が完成した「平成流」の凄さである。
二つは、回路の欠如または「菊のカーテン」の存在である。
三つは、「平成流」の危うい前途についてである。

《明仁夫妻が開発した「平成流」》
 テレビ画面では結婚式パレードや、被災者に膝を折って声をかける二人の姿を断片的に見るにすぎない。その背景・実態について、原武史の『平成の終焉』(19年・岩波新書)の見事な実証分析によって私は多くの情報を得た。同書巻末の皇太子時代と天皇になってからの行幸啓の一覧表を仔細に見て、私はある種の感動を覚えた。二人は結婚から退位までの60年間に、全国都道府県をくまなく三回もまわった。皇太子時代に一巡、天皇時代に二巡している。原は二人の巡行回数、範囲、国民への視線を、昭和天皇のそれと大きく異なるものとして、「平成流」と名付けている。一言でいえば国民との対話と寄り添いである。なかでも1960~70年の皇太子時代に行われた地方住民との「懇談会」や、原爆資料館での表情、沖縄への頻繁な訪問に、共感をもって「戦後民主主義者」をみている。

一体、行幸啓は何に基づいて行われるのか。
日本国憲法は、第四条で「天皇は、この憲法の定める国事に関する行為のみを行ひ、国政に関する権能を有しない」とうたっており、第七条で10項目の国事行為が列挙されている。憲法学者の長谷部恭男は、「象徴としての公的行為を想定することができるという見解がある」という客観的な表現のあとにこう書いている。(『日本国憲法』、19年・岩波文庫)
■国会の開会式で「おことば」を述べ、外国の元首と親書を交換し、第二次大戦の激戦地におもむいて戦没者を慰霊し、大災害の被災地におもむいて被災者と懇談する。これらは、憲法の列挙する国事行為として理解することも、全くの私的行為として理解することも困難である。宮内庁を経て最終的は政府が責任を負うべき公的行為として理解すべきだとの見解である。

原は、前掲書にこう書いている。
■宮中祭祀と行幸は、国事行為と違って憲法に規定されていませんし、皇室祭祀令のような法律もありませんので、天皇の意思を反映させる形で増やしたり減らしたりすることができます。しかしそもそも、「象徴天皇の務めとは何か」という問題は、天皇が決めるべき問題ではなく、主権者である国民が考えるべき問題のはずです。憲法学者の渡辺治は、「天皇の退位をめぐる議論でもっとも欠けているのは、天皇がそれを『全身全霊をもって』果たせなくなることを最大の理由にしている『象徴としての行為』とは何かを国民が議論することではないでしょうか」と述べています(『朝日新聞』二〇一七年四月二二日)。

《国民を阻む菊のカーテンは健在》
 「退位論議に欠けているのは象徴としての行為とは何かの議論である」という渡辺治や原武史の意見に私は賛成である。今までの憲法論議は九条論議であった。「象徴天皇の務め」など人々の視野になかった。
議論好きなインテリもこのテーマを敬遠し、庶民大衆はそれは「お上」が決めることだと思っていた。インテリは、特に敗戦直後には、天皇制廃止を主張していた。日本資本主義はフランス革命前の絶対王政と同じ段階だとする分析がまかり通っていたのである。
天皇制を前提としてその在りようを論ずるなんて恥ずかしい。それが往事の潮流であり今に続いている。戦争犠牲者の慰霊を「革新勢力」が先取りすべきだという意見―たとえば臼井吉見の―は少数派であった。後知恵になるが、これは日本の知識人の知的怠慢だったといえる。

権力を持ち復古を望む者たちは怠慢ではなかった。彼らは明仁夫妻の「民主的」行幸啓を阻止できなかったものの警備強化、提灯奉迎の日常化、懇談会の消失で行幸啓の形式化を図った。

《「令和」時代にも平和が続くだろうか》
 祭祀と行幸は憲法に明示的な規定がない。
「それだからこそ」明仁夫妻は、自ら開発した「平成流」を自由にやれたのである。
しかしそれは、「だからこそ」自由にやれない状況にならないであろうか。
安倍政治は、日銀総裁・法制局長官・中央官庁幹部・NHK会長選任の慣行を破った。エリートたちは忖度し隷従する者たちとなった。集団的自衛権の行使すら可能とする法律を作った。本来なら天地が逆転するような話である。

徳仁天皇の「即位後朝見の儀」における発言の先帝との表現の違いが気になると指摘したのはノンフィクション作家保阪正康である。
平成元年(1989年)1月9日に明仁天皇は、「皆さんとともに日本国憲法を守り、これに従って責務を果たすことを誓い、国運の一層の進展と世界の平和、人類福祉の増進を切に希望してやみません」と述べた。
令和元年(2019年)5月1日に、徳仁天皇は、「憲法にのっとり,日本国及び日本国民統合の象徴としての責務を果たすことを誓い,国民の幸せと国の一層の発展,そして世界の平和を切に希望します」と述べた。
二つの文章は、似たものに見えるが、保阪によれば「日本国憲法を守り」と「憲法にのっとり」はちがうのであり、また徳仁の「そして世界の平和を切に希望します」への文章のつながり方も明仁の表現と微妙にちがうのだという。超ミクロな議論だが確かにこの意味も大きい。 

《日本最大の危機は令和の御代に》
 目を外に向けよう。汎世界的なポピュリズムの猖獗、その論理的帰結としての日米同盟の空洞化、貿易戦争の覇権戦争への転化、それが世界恐慌につながる危険、五輪・万博後の日本経済の崩落。何をとっても前途は悪材料ばかりである。元号を変えて世間が良くなるなら苦労はない。戦後最大の危機が日本に訪れるのは「令和の御代」においてであろう。平成と令和の狭間に考えた悲観的な感想である。(2019/05/17)
2019.05.16  新宿にウグイス
  一概ではない東京の姿

杜 海樹(フリーライター)

都心に住んでかれこれ20数年になる。はじめの頃は単に鉄道の利便性等からの理由であったが、実際に住んでみると思いがけない発見が次々とあり、気がつけば終の棲家にと選んでしまっている。新宿駅からそう遠くない所に住んでいると話すと、大概の人からは「人間の住むところではない」とか「土地が高い」とか言われるのだが、それは少し的外れな思い込みでしかない。

確かに、新宿の駅前や地下鉄の駅前といった日本有数の大繁華街に限定すれば、テレビのニュース等で報道されている通り、べらぼうに高い値段がついていて、一般のサラリーマンが住宅を取得することなど全く不可能に近い所となっている。だが、そうした高値がついている場所は概ね駅から1キロ圏内に限った話だ。新宿の高層ビル群とて新宿駅から約1キロ圏内にしか建っていない。その先には昔ながらの低層住宅街が広がっているのだ。新宿区の用途地域等都市計画図を見ても駅前周辺だけが商業地域であり、それ以外は基本的に住宅地域に区分されていることが明確に見て取れる。駅前の高層ビル群の開発は集中的におこなわれて来たが、その周辺には1960年代頃の町並みがかなり残されているのだ。北新宿などでは、今でも家賃1~2万円台のアパートが数は少ないが存在している。新宿は人口約35万人の住宅街でもあるのだ。

近隣の商店街を歩けば、木のリンゴ箱を逆さにした台の上に野菜を並べて売っている八百屋さん、長靴姿で水を撒きながらの魚屋さん、大きな秤で量りながら切り売りするお肉屋さん、朝5時には開店する豆腐屋さん等々も軒を連ねている。他にも味噌屋、佃煮屋、豆屋、煎餅屋、草履屋とある。買物は大型スーパーでもできるが、こうした個人商店で1つ1つ買っては手持ちの籠に入れて歩くスタイルも残っている。店の前を通れば「いってらっしゃい、今日はいいお天気で~」といった会話が常に聞こえてくる。都心の方が地域コミュニティーが成立しているのかも知れない。

街も静かなもので住宅地に入り込めば車なども滅多に通らず、朝はお寺の鐘がゴーンと響き渡り天気が良ければウグイスが枕元で起してくれる。夏になればカエルやセミが大合唱、トノサマバッタやヤモリもいる。直径2メートルを超えるような大木も結構あり、緑も想像以上に豊かだ。江戸時代からの寺社仏閣も残っている。陽が暮れれば銭湯が賑わい、どこからともなく夜鳴きそばもやってくる。町会が盆踊りを主催すれば、広場には数万人の親子連れが繰り出してくる。

台東区の谷中などは情緒ある風景で観光地と化す程の人気となっているが、都心にはこうした古き良き風情が残っているケースがかなりある。根津、千駄木、雑司ヶ谷、早稲田等々なども味わい深い。風情だけではなく町名にしても二十騎町、船町、納戸町、箪笥町、細工町、袋町といった呼称が今日でも使われ続けているのも興味深い。

東京の人口は今や1400万人にも膨れ上がろうとしているが、その内実は実に様々だ。大東京というイメージだけがどうしても先行しがちだが、地域の生い立ちや都市計画のあり方で町の姿は随分と違っている。何事もイメージだけではなく事実を丹念に見る必要があると改めて思う。私たちは今この時代に起きていることを丁寧に見ていく必要があろう。そうでないと話は上滑りする。