2019.06.05  私が会った忘れ得ぬ人々(九)
          立花隆さん――ゼネラリストたることを専門とする専門家たらん

横田 喬 (作家)

 戦前日本の「知の巨人」が南方熊楠(敬称略)だとすれば、戦後日本のそれはさしずめ立花隆だろう。南方は生ける百科全書とも言うべき博識で鳴らしたが、立花も凄い読書量や博学な点では負けていない。菊池寛賞・毎日出版文化賞・司馬遼太郎賞などを受け、理系学問の分子生物学や脳科学への造詣が認められ、東大大学院特任教授にも任じている。

 今から三十五年前の一九八四(昭和五十九)年、私は東京・文京区内の自宅に彼を訪ね、差しで一時間余り取材している。当時の『朝日新聞』紙面から紹介記事(概要)を引くと、
 ――田中角栄元首相の“天敵”として名をはせたルポライター立花隆(四四)は、父の勤めの関係で長崎で生まれたが、小学校から高校途中まで水戸で育った。本名・橘隆志。
一見ソフトに映るが、なかなかの意地っ張りだ。田中金脈を追及した十年前の雑誌論文『田中角栄研究』。権力者に弓引く身への相手陣営からの圧力も陰に陽に厳しかった。相手が強ければ強いほどファイトを燃やし、ロッキード事件公判を欠かさず傍聴、筆誅の刃をとぐ。

 小学生のころ、休日に水戸の大きな本屋に行き、終日立ち読みを続けて飽きなかったほど読書好き。文献や資料の核心を見抜く力に優れ、仕事仲間は「本を読む天才」視する。東大でフランス文学と哲学を専攻。『日本共産党の研究』『農協 巨大な挑戦』は政界などに波紋を広げ、『文明の逆説』『宇宙からの帰還』は現代文明や人間存在の本質を問う。
 着眼のよさと実証の確かさ、平易で力強い文章。ニュージャーナリズムの地位を高め、「角栄追究と早く縁を切り、もっと次元の違う仕事がしたい」――
 
 『田中角栄研究』は‘七四(昭和四十九)年秋、月刊誌『文芸春秋』の肝いりで二十人ほどのチームを編成。登記簿や政治資金収支報告書など公開情報を徹底的に調べ上げ、それを基に関係者に当たって裏付けを取る地道な「調査報道」の典型だ。角栄の息がかかる室町産業の例が凄い。農民たちから河川敷だからと五千五百万円の安値で買い取った土地が国に堤防を造らせて立派な土地に化け、八十五億円もの法外な値上がり益を懐にする。この論文に目を通し、私は正直「やられた」と感じ、己の非才ぶりに愛想が尽きた。

 立花は「小学三年で漱石(『坊ちゃん』)を読み、六年の時にディケンズ(『二都物語』)を読んだ」というから、驚く。両親は文学青年・文学少女上がりで、父親は書評紙の編集者で、家の中には沢山の本があった。が、立花は読書一辺倒でもなく、中学では陸上部の活動に励みハイ・ジャンプ1㍍64㌢の新記録をマーク。青白い秀才タイプではなかった。

 受験勉強で大変だった高校時代も、欧米作家が中心の『世界文学全集』を半ばは読破。東大入学後は「文学研究会」でサークル活動に励み、ドストエフスキーやトルストイは代表作のほとんどに目を通す。彼の両親は共にクリスチャンで、彼自身も子供の頃から教会へ行かされ、キリスト教の影響が強い、という。文学専攻の意義について、こう言う。
 ――文学を経ないで精神形成をした人は、どうしても物の見方が浅い。想像力が十分に培われていないために、物事の理解が図式的になり易い。
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2019.05.20  平成と令和の狭間に考える
 ―「平成流」は持続可能だろうか

半澤健市(元金融機関勤務)

 4月30日の天皇譲位と5月1日改元の報道が少しは落ち着いてきた。
この時点で明仁・美智子夫妻の「平成流」とその前途について書いておきたい。
話を三つほどに分けて考える。
一つは、明仁夫妻が完成した「平成流」の凄さである。
二つは、回路の欠如または「菊のカーテン」の存在である。
三つは、「平成流」の危うい前途についてである。

《明仁夫妻が開発した「平成流」》
 テレビ画面では結婚式パレードや、被災者に膝を折って声をかける二人の姿を断片的に見るにすぎない。その背景・実態について、原武史の『平成の終焉』(19年・岩波新書)の見事な実証分析によって私は多くの情報を得た。同書巻末の皇太子時代と天皇になってからの行幸啓の一覧表を仔細に見て、私はある種の感動を覚えた。二人は結婚から退位までの60年間に、全国都道府県をくまなく三回もまわった。皇太子時代に一巡、天皇時代に二巡している。原は二人の巡行回数、範囲、国民への視線を、昭和天皇のそれと大きく異なるものとして、「平成流」と名付けている。一言でいえば国民との対話と寄り添いである。なかでも1960~70年の皇太子時代に行われた地方住民との「懇談会」や、原爆資料館での表情、沖縄への頻繁な訪問に、共感をもって「戦後民主主義者」をみている。

一体、行幸啓は何に基づいて行われるのか。
日本国憲法は、第四条で「天皇は、この憲法の定める国事に関する行為のみを行ひ、国政に関する権能を有しない」とうたっており、第七条で10項目の国事行為が列挙されている。憲法学者の長谷部恭男は、「象徴としての公的行為を想定することができるという見解がある」という客観的な表現のあとにこう書いている。(『日本国憲法』、19年・岩波文庫)
■国会の開会式で「おことば」を述べ、外国の元首と親書を交換し、第二次大戦の激戦地におもむいて戦没者を慰霊し、大災害の被災地におもむいて被災者と懇談する。これらは、憲法の列挙する国事行為として理解することも、全くの私的行為として理解することも困難である。宮内庁を経て最終的は政府が責任を負うべき公的行為として理解すべきだとの見解である。

原は、前掲書にこう書いている。
■宮中祭祀と行幸は、国事行為と違って憲法に規定されていませんし、皇室祭祀令のような法律もありませんので、天皇の意思を反映させる形で増やしたり減らしたりすることができます。しかしそもそも、「象徴天皇の務めとは何か」という問題は、天皇が決めるべき問題ではなく、主権者である国民が考えるべき問題のはずです。憲法学者の渡辺治は、「天皇の退位をめぐる議論でもっとも欠けているのは、天皇がそれを『全身全霊をもって』果たせなくなることを最大の理由にしている『象徴としての行為』とは何かを国民が議論することではないでしょうか」と述べています(『朝日新聞』二〇一七年四月二二日)。

《国民を阻む菊のカーテンは健在》
 「退位論議に欠けているのは象徴としての行為とは何かの議論である」という渡辺治や原武史の意見に私は賛成である。今までの憲法論議は九条論議であった。「象徴天皇の務め」など人々の視野になかった。
議論好きなインテリもこのテーマを敬遠し、庶民大衆はそれは「お上」が決めることだと思っていた。インテリは、特に敗戦直後には、天皇制廃止を主張していた。日本資本主義はフランス革命前の絶対王政と同じ段階だとする分析がまかり通っていたのである。
天皇制を前提としてその在りようを論ずるなんて恥ずかしい。それが往事の潮流であり今に続いている。戦争犠牲者の慰霊を「革新勢力」が先取りすべきだという意見―たとえば臼井吉見の―は少数派であった。後知恵になるが、これは日本の知識人の知的怠慢だったといえる。

権力を持ち復古を望む者たちは怠慢ではなかった。彼らは明仁夫妻の「民主的」行幸啓を阻止できなかったものの警備強化、提灯奉迎の日常化、懇談会の消失で行幸啓の形式化を図った。

《「令和」時代にも平和が続くだろうか》
 祭祀と行幸は憲法に明示的な規定がない。
「それだからこそ」明仁夫妻は、自ら開発した「平成流」を自由にやれたのである。
しかしそれは、「だからこそ」自由にやれない状況にならないであろうか。
安倍政治は、日銀総裁・法制局長官・中央官庁幹部・NHK会長選任の慣行を破った。エリートたちは忖度し隷従する者たちとなった。集団的自衛権の行使すら可能とする法律を作った。本来なら天地が逆転するような話である。

徳仁天皇の「即位後朝見の儀」における発言の先帝との表現の違いが気になると指摘したのはノンフィクション作家保阪正康である。
平成元年(1989年)1月9日に明仁天皇は、「皆さんとともに日本国憲法を守り、これに従って責務を果たすことを誓い、国運の一層の進展と世界の平和、人類福祉の増進を切に希望してやみません」と述べた。
令和元年(2019年)5月1日に、徳仁天皇は、「憲法にのっとり,日本国及び日本国民統合の象徴としての責務を果たすことを誓い,国民の幸せと国の一層の発展,そして世界の平和を切に希望します」と述べた。
二つの文章は、似たものに見えるが、保阪によれば「日本国憲法を守り」と「憲法にのっとり」はちがうのであり、また徳仁の「そして世界の平和を切に希望します」への文章のつながり方も明仁の表現と微妙にちがうのだという。超ミクロな議論だが確かにこの意味も大きい。 

《日本最大の危機は令和の御代に》
 目を外に向けよう。汎世界的なポピュリズムの猖獗、その論理的帰結としての日米同盟の空洞化、貿易戦争の覇権戦争への転化、それが世界恐慌につながる危険、五輪・万博後の日本経済の崩落。何をとっても前途は悪材料ばかりである。元号を変えて世間が良くなるなら苦労はない。戦後最大の危機が日本に訪れるのは「令和の御代」においてであろう。平成と令和の狭間に考えた悲観的な感想である。(2019/05/17)
2019.05.16  新宿にウグイス
  一概ではない東京の姿

杜 海樹(フリーライター)

都心に住んでかれこれ20数年になる。はじめの頃は単に鉄道の利便性等からの理由であったが、実際に住んでみると思いがけない発見が次々とあり、気がつけば終の棲家にと選んでしまっている。新宿駅からそう遠くない所に住んでいると話すと、大概の人からは「人間の住むところではない」とか「土地が高い」とか言われるのだが、それは少し的外れな思い込みでしかない。

確かに、新宿の駅前や地下鉄の駅前といった日本有数の大繁華街に限定すれば、テレビのニュース等で報道されている通り、べらぼうに高い値段がついていて、一般のサラリーマンが住宅を取得することなど全く不可能に近い所となっている。だが、そうした高値がついている場所は概ね駅から1キロ圏内に限った話だ。新宿の高層ビル群とて新宿駅から約1キロ圏内にしか建っていない。その先には昔ながらの低層住宅街が広がっているのだ。新宿区の用途地域等都市計画図を見ても駅前周辺だけが商業地域であり、それ以外は基本的に住宅地域に区分されていることが明確に見て取れる。駅前の高層ビル群の開発は集中的におこなわれて来たが、その周辺には1960年代頃の町並みがかなり残されているのだ。北新宿などでは、今でも家賃1~2万円台のアパートが数は少ないが存在している。新宿は人口約35万人の住宅街でもあるのだ。

近隣の商店街を歩けば、木のリンゴ箱を逆さにした台の上に野菜を並べて売っている八百屋さん、長靴姿で水を撒きながらの魚屋さん、大きな秤で量りながら切り売りするお肉屋さん、朝5時には開店する豆腐屋さん等々も軒を連ねている。他にも味噌屋、佃煮屋、豆屋、煎餅屋、草履屋とある。買物は大型スーパーでもできるが、こうした個人商店で1つ1つ買っては手持ちの籠に入れて歩くスタイルも残っている。店の前を通れば「いってらっしゃい、今日はいいお天気で~」といった会話が常に聞こえてくる。都心の方が地域コミュニティーが成立しているのかも知れない。

街も静かなもので住宅地に入り込めば車なども滅多に通らず、朝はお寺の鐘がゴーンと響き渡り天気が良ければウグイスが枕元で起してくれる。夏になればカエルやセミが大合唱、トノサマバッタやヤモリもいる。直径2メートルを超えるような大木も結構あり、緑も想像以上に豊かだ。江戸時代からの寺社仏閣も残っている。陽が暮れれば銭湯が賑わい、どこからともなく夜鳴きそばもやってくる。町会が盆踊りを主催すれば、広場には数万人の親子連れが繰り出してくる。

台東区の谷中などは情緒ある風景で観光地と化す程の人気となっているが、都心にはこうした古き良き風情が残っているケースがかなりある。根津、千駄木、雑司ヶ谷、早稲田等々なども味わい深い。風情だけではなく町名にしても二十騎町、船町、納戸町、箪笥町、細工町、袋町といった呼称が今日でも使われ続けているのも興味深い。

東京の人口は今や1400万人にも膨れ上がろうとしているが、その内実は実に様々だ。大東京というイメージだけがどうしても先行しがちだが、地域の生い立ちや都市計画のあり方で町の姿は随分と違っている。何事もイメージだけではなく事実を丹念に見る必要があると改めて思う。私たちは今この時代に起きていることを丁寧に見ていく必要があろう。そうでないと話は上滑りする。
2019.04.06 私の桜物語
韓国通信NO595

小原 紘 (個人新聞「韓国通信」発行人)

例年になく日本列島は桜の話題で大騒ぎだ。「花見酒の経済」で浮かれた30年以上前のバブル経済を思いだす。行きどころを失ったカネが土地と株に向い、投機がさらに投機を呼んだ落ち着かない時代だった。今年の春の話題は、桜と天皇と来年に控えたオリンピックの話ばかり。「世も末」などと嘆くまい。
8年前の春は悲しみの桜だった。今年は、辺野古の海が潰されていく春。故郷を失った福島の人たちの怒りが花に沈む。

人体冷えて 東北 白い花盛り      金子兜太

私の部屋は0.11μ㏜/h 24×365=1m㏜を下らない。
「平成最後」という枕詞が至る所につく今年の春は不気味でもある。

<喜連川の桜>
私の記憶にある桜は静かで希望とつながるものが多い。
なかでも栃木県喜連川(きつれがわ)の桜並木は忘れられない。精神障害者のメンバーたちと前が見えないくらいの桜吹雪の中を歩いた。いつも暗い顔をしている彼らが桜の中で微笑んだ。天使のように輝いていた。希望を見た気がした。私が職場を去ってから、障害者の社会復帰を目指す「希望の施設」は閉鎖され、15年が経つ。満開の桜を見るたびに、喜連川の桜と心の優しい彼らを思いだす。

<冠岳山の桜>
 韓国の桜も美しい。全国至る所に桜があって花見を楽しむ人が多い。酒盛りなどはしない静かな花見だ。友人夫妻4人で歩いた汝矣島 (ヨイド)の桜並木も素晴らしかったが、何と言ってもソウルの冠岳山(カナクサン)の麓の桜は特別だ。
留学時代、友人たちと花見にでかけた。林の静寂の中に佇む桜、それは幻想的だった。韓国の人たちが桜を見ながら通りすぎて行くのに、日本人の私たちは大きな桜の木の下で、桜と焼酎に酔いしれた。韓国人から花は静かに見ることを教えられた。
韓国の桜の多くは日本の植民地時代に植えられたという話がある。代表的な例が慶尚南道鎮海の桜だ。毎年行われる「軍港桜まつり」は毎年多くの人で賑わう。かつて日本人が植えた桜を韓国人が楽しむという構図。日本が「鉄道を敷いた」、「学校を作った」という話に通じる。韓国人が日本の軍都だった鎮海の歴史を知らないはずはない。花の美しさには日本人も韓国人もない。

<千葉の桜>
今年の千葉県はウサンクサイ桜が注目の的だ。桜田義孝氏である。地元住民としては迷惑な「桜だ」が満開だ。
彼は従軍慰安婦問題で本音をしゃべって文科副大臣を棒に振った。その後初入閣を果たして、「失言」「撤回」「謝罪」を繰り返して「時の人」になった。これだけ笑いものになったら辞職してもよさそうだが、地元では意気軒高として八選を目指す不滅の散らない桜だ。
安倍首相とは日本会議、ブルーリボン着用のお友だち。大臣としての資格が問われても首相も本人も「職責を全うする」と強気だ。「虚偽(フェイク)」発言が常習化した首相、麻生大臣という「本丸」が平然としている以上、桜田氏も安泰というわけ。
彼のポスターに取り囲まれて暮らす住民の一人としては実に不愉快だが、桜田氏は「とかげのシッポ」のように切り捨てるのはもったいない人物だ。ボロはいくらでも出てくる。安倍政権崩壊に貢献するに違いない。マスコミも「言い間違い」を笑いものにせず、積極的にインタビュー取材をして、政権の中に蔓延する「ウソ」と「時代錯誤」「ファッショ体質」を明らかにしたらどうか。「桜田叩き」くらいで政権批判をしていると錯覚してはいけない。「本丸」の巨悪を叩く意地を見せて欲しい。選挙民としては「落選」運動に挑みたい。

<日韓関係で問われていること>~花見に浮かれている時ではない
最悪といわれる日韓関係を改善するために何が出来るのか。冷静に見て日韓どちらが感情的か。感情的になったら、次は手を振り上げるのが「行動心理学」の定説である。ネットウヨクたちも日本政府も聞く耳を持たない現在、聞く耳を持つ市民の冷静な判断に期待するほかはない。
最近の韓国の新聞「中央日報」と「ハンギョレ新聞」の記事を紹介する。最近、麻生副総理が主張し始めた韓国への経済制裁に対する反論である。

ハンギョレ新聞が3月14日付電子版の社説で、麻生副総理の経済制裁発言を紹介し、「事実上の脅迫に近い」「植民地時代の過ちを反省する態度がひとかけらも見えない」と批判した。日本では「解決済み」一本やり、韓国最高裁判決を撤回しろと主張するが、ハンギョレは「当時の強制徴用が違法だったから、請求権協定の対象にならないという判決は正当」。まして「裁判当初から弁論に参加していながら敗訴すると、承服できない」というのでは納得し難いと主張した。
興味を引くのは、経済制裁の急先鋒となっている麻生副総理の父親が多数の朝鮮人を強制労働させた麻生炭鉱の社長だったことにふれて、その息子が徴用工問題で「報復」を口にするのは理解しがたいと指摘したことだ。麻生氏の言動が韓日関係をさらに落ち込ませ、日本側に修復する意思が見えないと報じた。
また中央日報は3月7日付電子版で二回に分けて筑豊の田川の取材を「麻生炭鉱徴用残酷史」として掲載した。
取材班は、石炭事業から撤退し現在は麻生セメントとして操業を続ける麻生産業と、かつて炭鉱で命を落とした朝鮮人の納骨堂を訪れた。彼らは慰霊碑に「朝鮮人」の説明がないことに気づき、朝鮮人の受難の歴史を隠していることに衝撃を受ける。
更にレポートを読み進めてみよう。
「朝鮮人労働者はダイナマイト爆破など危険な仕事に従事させられ、毎日1~2名が亡くなった」。
「朝鮮人の寮は自由のない収容所だった」。「賃金はまともに支払われず、暴力が支配する職場だった」。「1944年に福岡県が作成した資料では麻生鉱業の労働者7996人のうち4919人が逃走した」。
太平洋戦争末期、労働力不足を補うために朝鮮に「国民徴用令」を適用し、日本国内の鉱山、建設現場に多くの労働者が投入された。筑豊地帯では、3万人あまりが労働に従事させられた(日本石炭統制会資料)。
以上が「中央日報」の記事からの抜粋だが、朝鮮人たちの徴用の実態を知る日本人は少ない。
筑豊でも麻生鉱業は群を抜く恐怖の現場だったというのは有名な話だ。麻生副総理に父親の会社のことを聞いてみたい気がする。「息子の私には関係ネェー」と言いそうだ。彼は「創氏改名は朝鮮人が望んだ」と、日韓併合は相手が望んだと言わんばかりの発言を公然とする人間でもある。
二つの新聞記事は麻生副総理に関するものだが、韓国では以前から麻生元首相と東条内閣の閣僚として戦犯に問われた岸信介の孫である安倍首相に特別の関心を寄せてきた。
侵略に対する反省を拒み、祖父の宿願だった自主憲法制定に執念を燃やす安倍首相と、朝鮮人労働者を酷使した炭鉱経営者麻生太賀吉の息子である麻生副総理のコンビが韓国人の目にどのように映っているかは想像に難くない。
安倍、麻生の両氏が日韓の理解と和解の前に立ちふさがっているという韓国側の指摘。私たち日本人はどう説明したらよいのか。

<あとがき>
「通信」NO595号を書き終え、コンビニに出かけた帰り道、保母さんに連れられて散歩している保育園児たちと一緒になった。桜並木にさしかかると子どもたちから歓声があがった。「サクラだ、サクラだ!」。見上げて指さす姿。私も一緒に立ち止まって見上げた。
青い空に子どもたちの声が吸い込まれていった。
何だか嬉しくなって、子どもたちに声をかけて僕も一緒に歩いた。すると向い側からまたもや同じくらいの年齢の子どもたちの一団が現れた。そしてまたもや桜を見て声をあげた。
「桜のトンネルを歩きましょう」という保母さんが言うと、子どもたちは「サクラのトンネル」と叫んだ。通りかかった大人たちから「カワイイ」という声があがった。桜並木が途切れると、次はチューリップ畑。生垣にはユキヤナギとレンギョウが白と黄色のコントラストを見せている。
偶然に出会った「凄い光景」を見て胸がいっぱいになった。理屈抜きの幸せな気分。子どもたちの喜ぶ顔って、なんて素敵なんだろう。千葉にも本当の桜が咲いた。
数年前の春。二月の那覇の与儀公園。やはり保母さんに連れられて満開の桜の下で遊ぶ子どもたちを飽かずながめ続けた。これも私の大切なお花見の記憶だ。
sakura.jpg
<写真/那覇与儀公園2012/02>
2019.04.05 私が会った忘れ得ぬ人々(七)
大岡信さん――出合い頭にヤッと切りつける呼吸

横田 喬 (作家)

 この四月五日は、詩人・評論家として数々の業績を残したこの人の三回忌に当たる。私は大岡さんから諸々の著作を通じ、「言葉とは何か」「人間とは何か」という根本的に大事な問いに対する貴重なヒントを一杯頂戴した。今から四半世紀余り前、『朝日新聞』記者だった私は「日本ペンクラブ」会長の彼にインタビューを試み、やりとりを交わしている。当時の記事から、その発言の骨子を紹介すると、

 「この十四、五年大病しなかったのは『折々のうた』(当時の『朝日新聞』朝刊に長期連載された人気コラム)を抱えていたから。根を詰めて二年もやるとガクンときて、少し休む。気が抜けるせいか、体がどこかギクシャクしてくる。その繰り返し。今はファクスがあるからいいけど、初めのころは外国に行く時なんか困った。書きだめしようとすると、どうしてもたるむ。百八十字のところを二百五十字も書いたり。短く歯切れよくやるには、出合い頭にヤッと切りつける呼吸。死ぬ気でやる位の覚悟でないと」

 「無謀なことを平気でやる性格なんです。三十二歳の時、何の見通しもないのに、自分の詩文の方が大事だからと、まる十年勤めた新聞社を突然辞めてしまった。幼子を二人抱えながら、家計への認識ゼロ。女房は『一緒になった時、無一文だったのだから、またそうなったと思えばいい』と、すごいことを言ってくれた。女房の着物を質に入れた金で地方から来た友人と飲んじゃったり、頭が上がりません」

 大岡さんは静岡県三島市に生まれ育った。富士山の湧き水が川になって市内を貫流し、その清冽な原風景に詩人の感性を触発される。「水が豊富できれいだったことは、僕にとって決定的でした」と言う。亡父は歌人で短歌雑誌を主宰しており、幼いころから文学的雰囲気に包まれて育ったことも幸いした。旧制沼津中~一高~東大国文科卒。読売新聞外報部記者を経て、明大教授~東京芸大教授を務める。『折々のうた』で菊池寛賞のほか、評論『蕩児の家系』が歴程賞、『紀貫之』で読売文学賞、詩集『故郷の水へのメッセージ』は花椿賞。‘九七年に文化功労者推戴、’〇三年に文化勲章受章。

 彼の手になる金字塔「折々のうた」は連載開始が一九七九(昭和五四)年一月で、打ち止めは二〇〇七年(平成十九)三月。休載期間を挟んで足掛け二十九年にわたり、掲載はなんと全六千七百六十二回を数える。私は社説は読まない日はあっても、一面下の「天声人語」と「折々のうた」は必ず目を通した。日々を生きていく上で、「うた」は何がしかの慰藉と時には有難い示唆をもたらすからだ。彼自身は、社告の「筆者のことば」でこう述べている。

 ――私たちは生活の中で、『これは!』と驚いたり心動かされるものに出会う。ささやかな『これは!』が人を生かす力にもなる。私はそれを古今の詩の中に求めてみたい。
 一九九〇年代に朝日新聞社を表敬訪問したニューヨーク・タイムズのトップは「恋の歌が新聞の一面に載るのは、世界でも朝日新聞だけ」と称賛している。

 大岡さん自身の詩人としての軌跡をざっと辿ると、東大国文科当時の作品「海と果実」は、
 ――砂浜にまどろむ春を掘りおこし/おまえはそれで髪を飾る おまえは笑う/波紋のように空に散る笑いの泡立ち/海は静かに草色の陽を温めている(第一連)――
 大胆で率直。それでいて、瑞々しく温和な響きが感じ取れる。

 ‘六八年刊行の『大岡信詩集』(思潮社)所収の詩「地名論」は、こうだ。
 ――水道管はうたえよ/御茶の水は流れて/鵠沼に溜り/荻窪に落ち/奥入瀬で輝け/サッポロ/バルパライソ/(中略)奇体にも懐かしい名前を持った/すべての土地の精霊よ/時間の列柱となって/おれを包んでくれ/(中略)名前は土地に/波動をあたえる/土地の名前はたぶん/光でできている/(中略)瀬田の唐橋/雪駄のからかさ/東京は/いつも曇り――
 機知に富む音とリズムが快く、微笑ませ、哄笑さえ誘う。が、思索的というのか、どこか考え込ませずにはおかない響きがある。

 ‘七〇年、俳人・詩人の安東次男や作家の丸谷才一らと「連句の会」を始める。連歌・連句の伝統に倣い、一つの詩を例えば五人の詩人が三~五行ずつ書き継ぎ、大きな一つの作品に仕上げていく試みだ。後には海外の作家や詩人らとも長期にわたって共同創作を試み、大岡は「共同でものを作れば作るほど、一人一人の個性が洗い出されてくる」と言っている。

 中年以降は散文詩も試みている。‘〇一年刊『世紀の変り目にしやがみこんで』(思潮社)所収の「雪童子」は四百字詰めで二十枚近い長行だ。調布にある自宅の仕事部屋の窓の向こうに植木林が広がる。植え替え時に空き地同然となった冬のある一日、「私はそこに面白いものを見てしまつた」。一面の白銀世界の中、五つ、六つ位の男の子が「プールのへりに立つた姿勢で、(中略)ザブーン、飛び込みをやつてのけたのである。/私は思はず声をあげて笑つてしまつた。」。男児はやがて雪原の上に寝そべり、空き地の一方の端から他方の端まで二、三十㍍の間をごろごろ、無我の境地で、余念なく転がり始める。「ああ、面白い見ものだつた。」/「『あんなふうにやれなきあ駄目だなあ』といふ思ひが油然と湧いた。」うんぬん。
 おしまいの締めが断然いい。平凡な大人はとかく「無我の境地」に縁遠いから。

 特筆しておきたいのは、文化面での彼の国際貢献の素晴らしさだ。年譜を見ると、三十代から六十代にかけて欧米やアジアなどの十数か国を足繁く訪問。講演を行なったり、当地の作家や文学者らと活発に交遊。返礼のようにフランスの高名なシャンソン歌手ジュリエット・グレコが来日し、大岡と共訳した「炎のうた」を歌ったり、公開対談に応じている。彼の諸作品は英・仏・独・中など七か国語に翻訳ずみだ。‘九〇年代半ばにはパリにある国立の高等教育機関コレ―ジュ・ド・フランスで二年にわたり集中講義を行ない、フランス政府から度々芸術文化勲章を贈られている。

 評論では、『詩人・菅原道真 うつしの美学』(’八九年、岩波書店)が感銘深い。道真は中年期に讃岐守(現在の香川県知事)となり、在任中に「寒早十首」という漢詩を詠む。当時の庶民の貧窮のさまを職業や境遇に即し、十首の詩として具体的に詠じたものだ。主題の中心は国家と個人の接触~衝突する最大の一点、租税(及び役務)の問題。彼は平安朝最高の漢詩文の使い手だが、範と仰ぐ中国の詩では同様の主題が詩の正統的主題の一つだった。 

 この「寒早十首」のお手本は白居易の「和春深」二十首で、道真は大和伝統の「うつし」から入り、「乗り移る」状態にまで行き得た。道真は貧富の問題を真剣に憂える、今で言う革新思想の持ち主だったようだ。そう考えると、異数の栄達を遂げた彼の既得権益層・藤原一門との衝突~大宰府配流~悶死という悲劇的宿命の謎が一挙に解け、一層哀れさを増す。

 ‘九五年の名著『日本の詩歌』(講談社)の「あとがき」で、彼は要旨こう述べる。
 ――和歌は日本の文学・芸術・芸道から風俗・習慣に至るまで根本のところを律してきた。漢詩の偉大な代表詩人菅原道真は、悲劇的な生涯そのものにおいて、日本の文明、文化全般に対する恐るべきアンチ・テーゼとなった。日本の詩歌に自己主張の要素が極めて乏しい理由について、思いを巡らさせられる。
 日本人一般に大勢順応型が多く自己主張が乏しいのは、「出る杭は打たれる」とこの菅公の悲劇が深層心理に響いているせいでは、と私は疑っている。

2019.03.13 私が会った忘れ得ぬ人々(6)
上野千鶴子さん ――私は育ちが悪いの
           
横田 喬 (作家)

 初対面は今から丁度三十年前の平成元年(一九八九)のこと。彼女は当時四十一歳、フェミニズム(女性解放論)切っての論客として売り出し中。富山県出身で京大文学部大学院修了。社会学・文化人類学・記号学などを専攻し、肩書は京都精華大助教授。若くして著書には『セクシーギャルの大研究』『資本制と家事労働』『構造主義の冒険』『女という快楽』『女遊び』などの話題作が数々あった。
 昼下がりにJR京都駅からほど近い寿司屋で落ち合い、寿司をつまみ生ビールのジョッキを傾けながら、しばらくやりとりを交わした。私の一番の関心は、保守的な風土の北陸に育ちながら、なぜ女性解放の旗手と仰がれる先鋭的な存在になったのか、という一点。彼女の説明はすこぶる明快で、なるほどなあと合点がいった。

 彼女は富山市内の開業医の家に生まれ、兄と弟との三人きょうだいの真ん中の独り娘。両親とりわけ父親に溺愛され、大事な箱入り娘として育つ。いわく、
 ――父は、女の子が自転車に乗るのは危ない、と練習をさせなかったほど。私は、自分を抑えることをしないで、ちやほや甘やかされて大きくなった。分をわきまえる育ちにならなかったのね。だから、自分の頭を抑えにかかってくるものにはガマンならない。自分では「私は育ちが悪い」と言ってるの。

 当時の彼女は、①挑発には乗る②売られたケンカは買う③ノリかかった舟からはオリない、を処世三原則として掲げていた。ケンカっ早く、かつケンカ上手で、この取材の直前には、作家・曽野綾子との論争が話題を呼んだ。
 曽野の上野批判(『新潮45』一九八九年九月号の「夜明けの新聞の匂い」)は、例えばフェミニズム批判として、
 ――私は昔から、いわゆるフェミニズム運動が嫌いである。
 ――昔からほんとうの実力ある女は、黙って働いて来た。戦前でも、だれも海女や行商のおばさんや電話の交換手さんのことをばかにしたり、彼女らはいなくていい存在だなどと思った人はいない。

 一方、上野による反批判(『月刊Asahi』’89年11月号の「女による女叩きが始まった」)はこうだ。
 ――「ほんとうの実力ある女は、黙って働いてきた」という言い方で、曽野さんは、私は実力があるから発揮してきた、実力を発揮できないあなたはしょせんバカなのよ、と言い放っていることになるのだ。 
 ――エリートの女はあまりにプライドが高いために、個人の問題を類の問題に結びつけることができない。その結果、彼女たちは強者の論理を身につけ、弱者への想像力を失ってしまう。エリート女のエリート主義は困りものだ、と自戒をこめて言っておこう。

 そして、フェミニズムは社会的弱者の運動であること、女が「実力を身につける」のに様々な構造的な障害があることが問題なのであり、その構造的な障害をなくそうというのがフェミニズム運動であることを諄々と説く。
 思うに、当時の曽野には上野に対する「上から目線」があったのではないか。カトリック作家として社会的栄光を手にする我が身と、京都の一私大の助教授ふぜいの論敵。少々たしなめてくれよう、と見くびる気持ちがなくはなかったか。だが、鋭利な頭脳と的確な言語表現力で勝負あり、私は上野の完勝と判定する。

 それから五年後の平成六年、思わぬ形で彼女との再会がかなう。都内で開かれた歴史家・色川大吉さんの新著出版記念パーティの席だった。色川さんは六〇年安保闘争へ参加~「底辺の視座」に立つ民衆史を研究し、行動する学者として私が深く尊敬する人物の一人だ。
 色川さんから祝辞のスピーチを述べるよう急に指名され、事前に用意のない私はへども
どしながらも務めをなんとかこなした。一息ついて辺りを見回すうち、参会者の中に上野さんが居るのに気づいた。あでやかな和服姿だったように記憶する。私は彼女に近づき、「一別来です」と祝杯のおかげもあって軽口をたたいた。彼女は私のことをちゃんと覚えていて、少々はにかんだような笑顔と言葉を返した。

 初対面のころ、上野さんは『朝日新聞』に「ミッドナイト・コール」と題するエッセイを連載していた。「かさばらない男」と題するその一編に、色川さんがこう紹介されている。
 ――「好きな男性は?」と聞かれて、わたしはすかさず「色川大吉さん」と答えてしまった。(中略)色川さんは小柄で風采のあがらない初老の歴史学者(ゴメンなさい)。見てくれはおしゃれでもなければ、カッコよくもない。このひとは、笑顔がすばらしい。相手の心の中を見透かすような哀しい眼をして、くしゃくしゃと笑み崩れる。
 そして、色川さんは旧制高校山岳部仕込みの山スキーが得意で、スキューバダイビングもやるし、ヒマラヤ登山もする体力は驚嘆に値すること。わたしは色川さんと講演旅行でオーストラリア各地をレンタカーで一千㌔も相乗りをした仲であること。等々を書き添え、「かさばらない」えがたい存在にして、「筋金入りのモラリスト」と敬意を示す。

 私は言いえて妙、と共感した。彼女の連載エッセイは着眼点・文章表現ともなかなか秀逸で、その才能には時として羨望や嫉妬めく思いさえ感じたことも正直に白状しておく。
 彼女はこの再会の前年に東大文学部助教授に迎えられ、二年後には教授に昇進する。彼女は初対面の折、大学の進学先を京大にしたことを「大当たりだった」と自認し、こう言った。
 ――関西は本音の文化だから、口先で何を言ってもビクともしない。東京人のように建前に捉われないから、カッコつけてもの言ってもダメ。しっかり鍛えられたのでよかった。
 上野さんは還暦目前の二〇〇七年、著書『おひとりさまの老後』がベストセラーになる。
独居老人をめぐる諸問題は、彼女自身の身の上とも重なる切実なテーマだったのだ。そして、四年後には五百頁もある大著『ケアの社会学――当事者主権の福祉社会』を著す。

 日本の老人介護(ケア)の現状を多角的・網羅的に考察。ケアを介護の担い手別に「国家」「市場」「市民社会」「家族」の四つに分類し、それぞれと照合する官・民・協・私の四セクターの現状を吟味する。そのベストミックスこそが「望ましいケア」へのカギと論じ、中でも「共助」に通ずる協セクターこそが枢要な位置を占める、と説く。
 近代には「家族」「市場」「国家」の三点セットが万能視されたが、二十一世紀ではこの近代トリオが限界に達し、第四のアクター「市民社会」こと協セクターに期待がかかる。新しい共同性、すなわち自助でも公助でもない共助の仕組みの考案である。

 協セクターへの追い風はNPO法と介護保険法の成立だ。首都圏や九州の生活クラブ系生協ではワーカーズコレクティブの活動が「食べもの生協」から「福祉生協」への事業拡大と転換を実現。生協以外でも、厚労省指定のモデル事業となった富山県のNPO法人「この指とーまれ」の小規模多機能型居宅介護の成功例もある。希望がないわけでは決してない。
 この著作は机上の理論研究より現場調査の分析考察に重きをおき、介護保険法の成立~実施にからむ八年に及ぶ全国の事例調査・研究の成果がぎっしり詰まっている。まさに「ケア学大全」と呼ぶにふさわしい労作だ。京大出身の彼女の東大招聘は正解だった、と感じる。
2019.02.19   カラマツ林の陰の小さなトタン葺きの小屋にいて
          ――八ヶ岳山麓から(276)――

阿部治平 (もと高校教師)

私は、人との付き合いが少ない暮らしだが、ノウサギとキツネとシカとリスとは顔なじみだ。野生の動物を見かけると「よう」と声をかけることにしている。
とりわけ冬が来て雪が降ると、彼らの活動の様子がわかる。すべては足跡である。ただし、リスは木の上の巣にいて、たまに木から降りてくるだけだが、これがどういうわけか道路をしばしば横切る。寒い朝の散歩の途中、飼犬がこれを見つけると理性を失って暴れまわる。
キツネとはこの冬まだ1回しか対面していない。餌が少ないのか、痩せてしっぽばかりが長い。やつは「コノヤロー」といった感じで斜に構えて私の方をじっと見ている。上品な感じもある。30mほどに近づくとさっと藪に隠れる。ノウサギとシカは足跡ばかりで、この冬はまだお目にかかっていない。

犬の散歩の帰りに思いついて、けもの穴を見に行った。6、7年前キノコを採っているとき見つけたのだが、小高い尾根にアナグマのものとおぼしき穴がまとまって4ヶ所ある。
私の集落には八ヶ岳の雪や雨の伏流水がにじみ出ているところがある。この湿地を「アーラ」という。不動産屋がそれといわないから「アーラ」に別荘を建ててしまい、あとであわてる人も多い。野生動物とはいえアナグマもキツネも「アーラ」を避けて穴を掘る。実にたいしたものである。
今回行ってみると、発見した当時に比べたら掘りだした土がびっくりするほど大きな盛土になっている。このぶんだともう何代も住んでいるらしい。盛土の上にうっすら雪が積っている。雪の上にキツネ特有の直線に並んだ足跡がある。もしアナグマの巣ならば、彼ら一家は穴の深いところで冬眠中である。ところが足跡がキツネだから、キツネは様子を見にお立ち寄りになったのか。あるいは家主のアナグマは引越しをして、キツネが間借りしているのかもしれない。いずれ春が来ればアナグマにお目にかかることになろう。

毎朝3時か4時に起きる。ストーブをつける。4時半にはかすかな車の音がする。信濃毎日新聞である。耳が遠くなって久しいが、これだけは気が付く。新聞をもってトイレに行く。
去年汲取り式トイレに「尻洗い装置」をつけた。
来客の何人かが、「治平小屋は景色も水も空気もきれいだが、トイレが問題だ」と苦情をいったためである。私はそれまで尻を拭いた後、なお風呂場で洗っていた。これはインド・ヒマラヤ遠征のとき、山岳ガイドから学んだ習慣である。だから「尻洗い装置」はもっぱら客のためだったが、使ってみるとはなはだいい気持である。そのたびこれを工夫発明した人は偉大だと感じる。
ところで私は、自分はもちろん男の客にはおしっこはカラマツ林でやるよう求めている。それでも2000ℓの容量がある便槽に1年に1800ℓほどたまり、1回2万円ほどの汲取り料が必要だった。装置を設置してからは、実に半年に1回業者に頼まなくてはならない。お客は節水に努めてもらいたい。

集落の新年会では、私が「尻洗い装置」をつけたといったのがきっかけで、いっときトイレ談議で盛り上がった。今だれもがトイレットペーパーを使うが、それ以前は何で拭いたかという話になった。年配の人がすぐ新聞紙や雑誌だったといったが、中年以下の人はこんなことも知らないらしかった。
「それ以前は……?」
「わら縄だ」という人がいた。私が、「この村では縄はもったいないから使わなかった。手ごろな長さに切った稲わらで尻を弾いたものだ。野グソはフキの葉っぱだった」と話したら、どういうわけかみなどっと笑った。


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2019.01.05  干支(えと)は漢字文明圏に広がる共通尺度

伊藤力司 (ジャーナリスト)

「今年は亥年、去年は戌年」は子供でも知っている。あちこちから頂く年賀状に、今年はさまざまな猪、去年は犬のデザインが描かれていた。絵心のある人にとって、年賀状を書く楽しみのひとつは毎年変わる12の動物のデザインを考えることにあるようだ。

それはそれとして干支とは十二支、つまり12の動物と十支、つまり甲(コウ きのえ)、乙(オツ きのと)、丙(ヘイ ひのえ)、丁(テイ ひのと)、戊(ボ つちのえ)、己(キ つちのと)、康(コウ かのえ)、辛(シン かのと)、壬(ジン みずのえ)、発(キ みずのと)と、順番を示す10の漢字とを組み合わせたものだ。今年2019年は「己亥(みがい)」の年となる。

「亥」という漢字には「無病息災を願う」意味が込められているというが、実際には亥年には災害や事故が発生する傾向がある。1923年の亥年には関東大震災があったし、1995年の亥年には阪神淡路大震災や地下鉄サリン事件が発生した。前回の「己亥」つまり60年前の1959年には名古屋を中心に一大被害を及ぼした伊勢湾台風が襲っている。どうか今年は大災害が起こりませんように!

今では「戊辰戦争」(1868年明治維新の戦い)、「辛亥革命」(1911年清朝打倒革命)くらいしか干支による年次を思い起こすことはないが、明治維新後に西暦が導入される前は干支による表記が年次を示す普通の尺度だった。漢字2字で年次が指定できるのは、漢字がわかる人にとっては確かに便利である。

物の本によると、干支は今から3000年ほど前の殷代の中国で発明され、漢代のころから広く使われるようになったとか。中国から徐々に周辺諸国に伝わり、日本、朝鮮、モンゴル、ベトナム、タイ、ビルマ、インド、アラブ世界、ロシア、ベラルーシなどにも広がったとされる。日本には5世紀末までに朝鮮半島の百済を通じて伝わったという。

これだけ広範囲に伝わったのは、漢字さえ知っていればたちどころに年次がわかるという簡便さの賜物だろう。干支は年次だけでなく、時刻や方位を指定するのにも使われた。だから日常生活にとって便利な必需品であったわけだ。また人間になじみのある12種の動物を組み合わせたことも親しみやすさを増したと思われる。

ところが中国では一般的でも国によってはあまり一般的でない動物もある。例えば「亥」は日本では「猪」だが、中国やその他の国では「豚」である。「丑」はどこでも「牛」だが、ベトナムだけでは「水牛」である。「寅」はどこでも「虎」だが、モンゴルだけでは「豹」となる。「卯」は「兎」が一般的だが、タイとベトナムでは「猫」である。「酉」はどこでも「鶏」だが、インドだけでは「ガルーダ」となる。

また明治維新以前の日本では年次だけでなく、日にちにも干支が指定されていた。今日(こんにち)ではすたれてしまったが、昔からの行事の日取りには干支が残っている。例えば「初午」は、2月最初の「午」の日に稲荷神社に参詣する日。「端午の節句」は5月初めの「午」の日で男児の誕生と成長を祝う日―今日では5月5日の「子供の日」。「土用の丑の日」ウナギなど「ウ」のつく食べ物を食べる日。「酉の市」では11月の酉の日に神社に市が立つ―などなど。

干支についてあれこれ書いてみたが、明治以来効用を失ってきた干支は21世紀の日本では自然に消え去るだろう。ただ毎年の年賀状にネズミ、ウシ、トラ、ウサギ、タツ(竜)、ヘビ、ウマ、ヒツジ、サル、ニワトリ、イヌ、イノシシの画が描かれ続けるだろうし、男女を問わず「自分は○○年生まれ」と述べて、つい年齢を告白してしまう?習慣は残るだろう。(了)
2018.10.24  「危機を好機に」挑む人々―英トットネス遠回り紀行<下>
伊藤三郎 (ジャーナリスト)

遠くて近い日本

 このリポートの発信地、イングランド南西部の田舎町トットネスは、日本から遠くて近い所。そして近年ますます近い存在になりつつあること、これも知る人ぞ知る。この町が進めるトランジション・ムーブメント、新しい「幸せの経済」を探す運動を広め、実践する思想家、芸術家や市民運動のリーダーたちの世界的な会合が、実は昨年、2017年の11月に初めて東京で開催。「しあわせの経済 世界フォーラム2017 in 東京」(以下「幸せフォーラム東京2017」)という大きな国際会議を主導したのは、明治学院大学国際学部教員、『スロー・イズ・ビューティフル』(平凡社)の著作で知られる文化人類学者、辻信一さん(メモ1)と、国際的な環境運動家でスウェーデン生まれの女性言語学者、ヘレナ・ノーバーグ=ホッジさん(メモ2)の二人。
 
 そして、地球の裏側のわがトットネスからも、この「幸せの経済」運動の元祖にしてシューマッハー・カレッジ創設(1991年)以来の校長、思想家のサティシュ・クマールさんが参加。世界中から集まった参加者に暖かな視線と励ましの言葉を送った。本稿のタイトルとなった「危機を好機に」も実はトランプ出現以来、クマールさんが折に触れて口にする忠告である。
 クマールさんはこの「危機を好機に」の真意を自らが編集する英国の雑誌『リサージェンス』で以下のように ―
 「危機は同時に好機でもあります。イギリスのEU(欧州連合)離脱やアメリカのトランプ政権誕生なども、見方によってはナショナリズムの意味を改めて考える絶好の機会なのです。(中略)偏狭なナショナリズムは“小さな心と大きなエゴ”の産物。一方、ローカリズム(地域主義)とインターナショナリズム(国際主義)は補完関係にあり、それを合わせた“グローカリズム”とは“大きな心と小さなエゴ”の表現です」
 
 さて辻さんのホームグランド、明治学院・白金キャンパスなどをメイン会場に2日間開かれた『幸せフォーラム東京2017』では、主催者を代表してヘレナさんはこう呼びかけた。
 「近代社会は根本的に誤った方向へ向かっている。各国が競って、果てしない“経済成長”を追い求めてきた結果、環境破壊、社会的格差、精神的貧困などの深刻な危機が世界を覆っている。私たちが今必要としているのは、これまでとは異なる“幸せの経済”というパラダイムへのシフトであり、無国籍大企業のためのグローバリゼーションから、人間と自然界の真のニーズに応えるためのローカリゼーションへの方向転換である。」
 「今回の『幸せフォーラム東京2017』は、こうした“幸せの経済”と“ローカリゼーション”をめぐる国際的な論議と実践を日本にも紹介し、また、日本各地のモデル地区を日本中に、そして世界に向けて発信するための場所です」

 ヘレナさんの名著『懐かしい未来』の舞台となったラダック、標高4000㍍の高地で1000年前の伝統を守り、最後の桃源郷と言われる地域から招かれた学者、芸術家。また、「森を守り、育む」森林農法で有機コーヒーを育てるメキシコ、タイ(カレン族)などの農家の人々。国内では2011・3・11のフクシマ原発事故をきっかけに「再生可能エネルギー」への転換運動を進める全国各地の代表や、集落住民主体の水力発電事業立ち上げなどで「コミュニティー再生のモデル」として注目される岐阜県の郡上市石徹白(いとしろ)地区(人口270人)からの「集落興し」運動のリーダー・・こうした幅の広い「幸せの経済」改革の先頭に立つ人々が一堂に会し、連帯のエール交換と生々しい現状報告で会場は終日盛り上がっていた。

 さてここで、この1年前の国際フォーラムを思い起こし、私自身の反省と「なぜいまトットネスへ?」の疑問に答えておきたい。
 私が朝日新聞のロンドン特派員だった1978~80年当時、英国は「鉄の女」サッチャー首相(保守党)誕生(1979年5月)から、サッチャリズムと呼ばれた「新保守主義」改革の嵐が吹いた。その時代を含めて半世紀を超える経済記者生活を「GNP(国民総生産)の拡大こそ国の発展、国民福祉向上の源」という“成長神話”の中で執筆を続けてきた。が、『幸せフォーラム東京2017』に参加し、日本を含む世界中の「幸せの経済」運動の担い手たちの白熱の議論を聞くにつけて「近代社会は根本的に誤った方向へ向っている」(ヘレナさん)という指摘を真正面から受け止めざるを得なかった。
 反省はそこに止まらない。この国際会議にせっかく参加しながら、世界的な「幸せの経済」運動の広がりをニュースとして書けなかったのはなぜか。本連載の冒頭で世界的な「幸せの経済」運動について、「知る人ぞ知る」と断ったのは、これはニュースに非ず、という先入観のなせる業だった。
 
 というのは、この運動の元祖シューマッハー生誕がすでに1世紀前の1911年、「GNPよりGNH(国民総幸福)の追求を」とブータン国王が提唱したのが1972年、そしてシューマッハー・カレッジができたのが約30年前・・・とても新しい動きとは言えない。それでも今回イングランドの田舎町まで出かけ「遠回り紀行」執筆へと私の背中を押してくれたのは、『幸せフォーラム東京2017』の仕掛人、辻さんの「スロー・イズ・ビューティフル」の叫びだった。ニュースは「news(新しい動き)」に限らず、伝えたい人たちが居るなら遅くとも書け、と私の耳には聞こえるのである。
   「幸せの経済 世界フォーラム2017 in 東京」2日目のプログラム表紙
      「危機を好機に」を志す人々―英トットネス遠回り紀行<下>  
 ここまで書き進んだ時、本当のニュースが届いた ― 『幸せフォーラム東京2018』が来月(11月)11日にまた東京で開催される、というのだ。今年こそ「幸せの経済」を探る世界各地からの生々しい報告と希望の声を、ニュースとして伝えたいと改めて思う。

 ここで話を振り出しのトットネスに戻し、ビールを生活必需品とする私にとってとりわけ印象に残った英国名物パブ(居酒屋)にまつわるお話を二つ紹介して、リポートを締めくくりたい。
 一つはトットネスの経済を元気づけようという運動に支えられ、一度消えた地ビール工場が復活した話。その主人公の名は「ニュー・ライオン醸造所」。1926年までトットネスに存在した名門地ビールが、地元の起業を支援する「リ・エコノミー運動」の支援によって見事蘇った。全町民の5%に当たる400人が出資した救援基金に加えて、ビール代1年分を前払いする会員には10%割引と専用ミニサーバーを提供。メンバーたちは毎月醸造所に集まっては町の繁栄にエールを交換して盛り上がるのだそうだ。私も、永住したくなった。

 もう一つは、トットネスでの最初の借家の隣に存在したパブの話。「The Albert Inn」という店の看板いっぱいに、お馴染みの哲学者アインシュタインの顔が。店の正面は地味な構えだが、裏にはダート川を見下ろす堂々の青空ビアガーデン。実はこの店は、町の長老や元気な若者たちのたまり場で、前回紹介した「トットネス通貨」を率先して受け入れるなど、「幸せの経済」運動の拠点のひとつなのだという。今回は取材のチャンスを失したこの店に、後ろ髪を引かれつつ帰国した。
 そう言えば、『幸せフォーラム東京2017』開催のリーダー、辻さんが、アインシュタインの名言として注目するのが次の一節 ― 「ある問題を引き起こしたのと同じマインドセット(心の持ち方、思考の型)のままで、その問題を解決することはできない」
 辻さんは「僕たちがこれまでくりかえしてきた過ちとはまさにこれなのではないか」と書き(『GNP(国民総生産)からGNH(国民総幸福)へ』)、市民のひとりひとりがGNP神話のマインドセットから脱皮しなければ、と説く。
 いま英国は欧州連合(EU)離脱をめぐって国論は四分五裂、「唯一の超大国」米国のトランプ大統領は地球環境問題や自由貿易体制で「アメリカ・ファースト」を振り回して世界中を困惑させている。もしや、「TTT(トランジション・タウン・トットネス)」運動の精神こそ、いま地球にのしかかる諸難問解決への唯一のマインドセット、とパブ「The Albert Inn」の看板は示唆しているのか。トットネスの人々のいまの日常生活こそ、「幸せの経済」への最短の道と腹を据えているのか、この居酒屋を再訪して旦那衆に確かめてみたい。

(メモ1)辻信一(つじしんいち) NGO「ナマケモノ倶楽部」(1999年設立)をはじめ新しい「幸せの経済」「リ・ローカリゼーション」などを探る幅広い環境・社会運動の呼びかけ人。大学の辻教室からはこうした改革運動を地方で実践する若いリーダーたちを多数送り出している。
(メモ2)ヘレナ・ノーバーグ=ホッジ 1975年外国人入域が許可されたインドの高地、ラダック地区への最初の移住者の一人。急速に進む開発とそれに伴うラダック文化と自然環境の破壊を憂い、地元の人々とともに「持続可能な発展」を目指す運動に取り組んだ。そのリポート『ラダック 懐かしい未来』は40ヵ国以上で翻訳され、世界中に大きな影響を与えた。

2018.10.23 「危機を好機に」挑む人々―英トットネス遠回り紀行<上>
伊藤三郎 (ジャーナリスト)

「小さきことはすばらしい」

 世界の危機を好機に ― そんな見上げた心意気で新しい「幸せの経済」を探す人々と出会った。場所は英国イングランドの南西部デボン州の南部にあるトットネス。今年8月末から9月初めにかけて、この小さくて美しい古都に逗留し、約8,000人の町民が「改革はまず自らの身の周りから」と明るく暮らす姿に目を見張った。

 「トランジション・タウン(transition town)」と呼ばれるこの町は、いま世界中の知る人ぞ知る。transitionとは「過渡期」、つまり生活の仕方、経済・社会の在り方全体を次の時代へと変革する、その最中の町。運動の柱は、地元の産物を地元で消費しようという「地産地消」、化石燃料よりも太陽熱、風力などの「再生可能エネルギーへ」、「自然との共生」、中央集権から地方自治を取り戻そうという「リ・ローカリゼーション」など、いずれも世界中に広がりつつある大切なテーマばかり。この運動の原点を一言で言うと「Small is Beautiful (小さきことはすばらしい)」。ドイツ生まれの英国人、経済学者であり思想家でもあったE.F. シューマッハーの言葉なのである(メモ1)。

 ところで私は昨年2月、『トランプに困惑する世界』と題する拙文を本ブログに寄せ、「トランプ政権はまだ発足直後(米大統領正式就任は同年1月)の混乱の中、世界は“一寸先は闇”」と書いた(2017/2/21掲載)。それから2年近く、トランプ大統領が強引に貫く「アメリカ・ファースト」外交と「予測不能」の暴言癖によって、世界中の困惑が続く中、トットネスの改革に取り組む人々の視線は「トランプの闇」のはるか先を見据える。その生き様は新しい時代への遠回りに見えて、実は「最短の道」なのでは、と受け止めた私は、記者OBら仲間内のブログ新聞に紀行文を寄せた(「メディアウオッチ100」2018/10/12,15,17 号 連載『「幸せの経済」を探す人々 ― 英トットネス遠回り紀行』)。本稿はそれを手直しした、上記『トランプに困惑する世界』の続編である。

 ロンドン・ヒースロー国際空港からレンタカーでイングランドの西南端方向へ約4時間。目的地のトットネスはダート川両岸のかなり急勾配の谷間に位置する小さな町だが、近づくほどにしっとり落ち着いた家並みとそれを包む豊かな緑と牧場の牛、羊・・その美しさに、しばし声も出ず。町の中心トットネス橋に着くと、先ずは予約した短期の借家を見つけて旅装を解く。橋のすぐ近くの2階建て、寝室3つのつましい一軒家。ここに前半の4泊、2軒目は丘の中腹の寝室4つの豪邸を借りて、町全体を一望できる丘の中腹に後半の4泊を。
       「イングランド南西部地図」
    連載『トットネス紀行』 地図(本番)10月9日

 ここで私事だが、こんどの取材の態勢についてひと言 ― 同行したのは妻(77歳)、息子(53歳)、娘(49歳)とその長男(つまり孫、20歳)という総勢5人のファミリー取材団。途上国の経済的自立などをテーマとする経済学者で、長年フィリピン・マニラ在住の息子(妻はアジア開発銀行勤務)。元旅行雑誌ライター、今はサラリーマンを亭主とし、プラス息子二人(大学生と高校生)という“標準家庭”の主婦である娘、俳句を趣味とする専業主婦のわが妻、そして退職後20年近くを経てなお現役記者のつもりの私。われわれ老夫婦は家族3人の介護付き、車の運転は専ら息子が、という“おんぶに抱っこ”の恵まれた旅だった。

 トットネスの人々の朝は早い。7時前から続々と開く食材の店。肉屋さんではハムやベーコンを、チーズ専門店では地元産の各種チーズからより取り、それに焼き立てのパンも買い込んでは「我が家」で朝飯を。夜は夜で、すべて地元産の野菜、肉類を自宅で料理、地ビールやワインが食卓を一層豊かにしてくれる。昼間は臨機応変に2組あるいは3組のグループに分かれて連日出掛けた。
 昼間の気温は摂氏20~25度、快適な秋空の下。トットネス橋のたもとからスタート、次第に勾配がきつくなる上り坂約1キロ。前半フォア・ストリート、後半ハイ・ストリートの両側に洒落たブティック、英国伝統のパブ(居酒屋)、小さな博物館などが道の両側にぎっしりと連なり、観光客と地元の人々でひねもすにぎわう。フランスの有名ブランドや米国の外食チェインの看板は一切見えず、それぞれに個性を持つ地元の専門店、商店がひしめく。そのプライドを裏付けるのは英国人が大切にする「温古知新」の美風なのだろう。中世には繊維貿易などで栄えた古都の歴史遺産を大切にする一方で、新しい「幸せの経済」を探すという世直し運動に町を挙げて取り組んでいる。

 この目抜き通りのど真ん中、二つの街路を区切るのがイーストゲイトアーチ。15世紀に再建された風格ある建築で、その名が語るとおり、その場所が旧市街の東端、新興の「フォア」地区との境目だ。11世紀築城の「トットネス城」名残の円形城壁が、ハイ・ストリートの頂上わきから町全体を睥睨(へいげい)。また、石造り建築の傑作「セントメリー教会(15世紀)」や、16世紀当時の商人・職人組合による自治の拠点だったギルドホール(現在は博物館)など古都のシンボルのほとんどが旧市街に鎮座している。
  「トットネス・イーストゲイト」(岩)「トットネスの町のシンボル、イーストゲイトアーチ」
 その旧市街のど真ん中、町民広場の日替わりマーケットがこの町の魅力を倍加する。「金、土」の二日間は年中無休の「何でも市場」。新鮮な海産物から骨董品、地元特産の天然繊維品などが所せましと並ぶ。それに日曜日の「食材市場」と5~9月の火曜日ごとに開かれる「手芸品市場」 ― 毎日のように世界各地からの人とモノで彩られる。

 さて、冒頭に触れたこの町挙げてのトランジション運動を支えるのが「トランジション・タウン・トットネス」(TTT)という非営利組織(NPO)。世界に先駆けて2006年にこのTTTが発足し、以来幅広い「幸せの経済」運動を支え続ける。中でも注目されるのがトットネス・ポンド(TP)という地域通貨の発行。最初は2007年「1 TP = 1ポンド」の紙幣を発行、その後電子マネー版も導入。現在地元の約160店舗が会員登録、地域内でお金を循環させることで「地産地消」を促進し、地域経済の発展に貢献している。

 8月のある日、地元紙「トットネス・タイムズ」がこの町の改革運動について貴重なことを教えてくれた。それは「編集長への手紙」欄に、英国海軍水兵だった老人が『植林を大切に』と訴えた大筋以下のような便りだった。
 『先日、ダート川ほとりで樫の木の植林が続けられている、というお便りを本欄で読んで二つのことを思い起こした。一つは、若い人の多くはご存じないと思うが、ダート(dart)川は昔「derte」川と表記され、その「derte」は樫の木を意味した。かつてはこのダート川の両岸に無数の樫の木が生い茂り、その樫の木を伐採して大量の軍艦(木造の帆船)が建造されたそうだ。
もう一つは1980年代に私が英国海軍水兵だった当時、たまたま出会ったオランダの水兵が「いまから約200年前、英国艦隊のネルソン提督が『コペンハーゲンの海戦(1807年)』でわがオランダ艦隊を丸ごと海の藻屑にしてくれた。お蔭でオランダ国民は大量の樫の木を植林した。その樫の木がいま漸く育ったところなのだ」と嘆いたのだ。さて、トットネスの皆さん、くれぐれも樫の木の植林を怠りなく ― 』

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