2018.02.20   「近代の超克」論者の運命
    ―西部邁を送る―


半澤健市 (元金融機関勤務)

 2018年1月21日に評論家西部邁が自裁した。
気になる知識人の死に当たって一言書いておきたい。

《私にとっての西部邁》
 私が最初に西部邁を意識したのは、NHKテレビで宮崎勇(1923~2016)に食い下がる姿を見たときである。80年代の一時期だと思う。リベラル派の官庁エコノミスト宮崎が高度成長を軸に肯定的な日本経済論を語るのに対して西部は、経済優先主義を批判して日本近代論の土俵に引きずり込もうと執拗に挑戦していた。会話は平行線を辿って進み結論は出なかった。これは40年ほど前の記憶であり主観的に整理され過ぎているかも知れない。

次に西部邁本人と出会ったのは、20人ほどの読書会においてである。
90年代後半だった。福沢諭吉を論じた近著を語ってもらい討論に入った。西部は、福沢を近代主義者とする論を一面的だと述べた。それに対し大手全国紙の記者が「戦後民主主義」を自明の前提として西部に反論した。西部は語気を荒らげて証拠を示せと相手に迫った。その言語と迫力は、私が体験したビジネスの現場でも、稀にしか感じない強いものだった。しばらく沈黙が続いた。私は進行役であるのにパニクった。幸い、一緒にいた西部担当の雑誌編集者が取りなしてくれた。

《ニヒリズムの近代を論ずる『虚無の構造』》
 西部の死後、私は彼の著作を一つ読んだ。
『虚無の構造』(中公文庫・2013年、親本は飛鳥新社・99年)である。
その書物を半澤流に強引に要約して次に掲げる。

近代はニヒリズムの時代である。これが西部テーゼである。
「神は死んだ」に象徴される絶対価値の喪失=全ての価値の相対化。世界の全体像の消滅。大衆(大量)社会化による他者追随。自己証明(アイデンティティー)の喪失。これらをキーワードとして西部の近代批判が展開される。次のくだりがある。(■から■)
■かつてはニヒリズムとの死活をかけた思想の闘いがあった。その戦はおおよそニヒリズムの勝利に終わったとはいえ、その戦に投入された精神の真摯さが、その時代を魅力的なものにみえさせてさえいた。卑近な例でいえば、日本の文学史は、北村透谷、夏目漱石、芥川龍之介、太宰治、三島由紀夫といったふうに、ニヒリズムとの闘いの敗北を刻んでいる。
二十世紀末から二十一世紀へかけて、我々は最も消極的なニヒリズムを生きている。つまり自分がニヒリストであることを自覚せぬまま、ニヒリズムの諸断片を状況の推移に応じて次々とだらしなく垂れ流している。しかもそのことに現代人はおのれの「個性」を見出しているのだ。精神の表玄関で「ヒューマニズム」の表札をつけることによってニヒリズムを追い払いつつ、裏玄関からそれを迎え入れるという詐術を近代人は続けてきた。その結果、我々は、「実在」について想うことを忘れ、「当為」について考えることを禁句とし、さらに「虚無」について語ることをやめたのである。■

《ニヒリズムの克服はできるのか》
 ニヒリズムが近代の本質的な病であるから、近代そのものを克服しなければ、病は治らないというのが西部の主張である。「近代の超克」論である。
近代のキーワードである資本主義、市場原理、国民国家、基本的人権、民主主義、平等主義までが、批判と消去の対象となる。ラジカルである。戦後民主主義者は相当な衝撃を受ける筈である。
西部は、西洋思想のパノラマ様の解説によって―私見ではその根っこはエドマンド・バークとホセ・オルテガである―近代主義の単純性と虚妄を切りまくる。
バークが歴史、習俗、経験に依ったように、オルテガが「マス」(専門的知識人を含む大衆)を排して思想的知識人に依ったように、西部は歴史に多くを求める漸進主義と良識あるエリート支配を理想としたようである。彼の社会認識は、原理主義的であった。比べて政策認識は具体性に乏しく、いつも原理論に還っていった。そのギャップを本人も自覚しており知的な饒舌でそれを埋めようとした。その話術と叙述はある種の滑稽さを醸しだした。

《『東京物語』に共感する保守とリベラル》
 西部は資本論を読まずに安保闘争を闘った。そして「エリート知識人の卵」だと思っていた全学連闘士が「マス」であることを知った。一方、奉ずべき「伝統」は、戦前の富国強兵と戦後の高度成長がによって、ほぼ消滅していた。西部邁の味方はどこにも居ない。聡明な彼は早い時期にそれを悟ったと思う。近代の毒に汚染された我々には、彼の「近代批判」はおおむね滑稽である。だから彼はトリックスター(道化)となった。しかしシェークスピアの戯曲ではトリックスターが真実を述べることがある。

私の手許にTVを録画した一本のDVDがある。西部が佐高信と対談した日本映画「東京物語」論である。当時のCS局「朝日ニュースター」は保守対リベラル対決と銘打って、二年間にわたり、書物と映画について二人に語らせた。本にもなっている。この「東京物語」論議は対立どころではない。そこには日本の醇風美俗が近代化によって崩壊してゆく映像への愛惜がある。

私は西部邁の良い読者ではなかったが、気になる知識人ではあった。西部言説は難解でしばしばペダンティックであった。しかし右翼や保守と呼ばれる一群の論者にない、深い知見と強い心情に、私は打たれるところがある。西部の問題提起は、戦後民主主義への強力な批判であった。それは我々の胸底に地雷として埋め込まれたと私は思っている。(2018/02/13)

2018.01.09  映像は剣より強いか―三枚の写真をみて考える―
半澤健市(元金融機関勤務)

 最近みた三枚の静止写真をみて考えるところがあった。
一つは、ユージン・スミスの「楽園への歩み」
二つは、ジョー・オダネルの「焼き場に立つ少年」
三つは、写真誌表紙の「演説する米トランプ大統領」
以下に極私的感想を記す。

《ユージン・スミスの人間的リアリズム》
 ユージン・スミス(1918~1978)は、アメリカの生んだ報道写真家である。母国では、地方医師や助産婦、農業労働者、化学工場や鉄鋼工場、ニューヨークの芸術家の現場などを活写した。被写体のリアルな姿のなかに私は崇高な精神さえみることがある。(たとえば「赤ん坊を取りあげるモード助産婦」・1951)。スミスが活動した舞台はスペイン、イギリス、ガボン(アフリカ)に及んだが、日本との関係はさらに深い。戦中にはサイパン・硫黄島・沖縄、戦後は日立・水俣。沖縄では日本軍の迫撃砲により重傷を負い2年の治療を受けた。水俣では自ら反公害闘争側に立った。遂にはチッソ側の暴力で片眼失明する。

           ユージン・スミスの楽園への歩み
「楽園への歩み」(1946年)は、沖縄戦の負傷から再起後の作品。戦勝後のニューヨークで遊ぶ自身の子どもの写真だ。人間の美しさと希望が一枚の画面に凝縮されている。「ユージン・スミス写真展」は1月28日まで東京都写真美術館で開催されている。

 「楽園への歩み」から1年余以前に、おそらく1945年8月半ばに米従軍カメラマンが長崎で被爆した一人の少年を撮影した。のちに「焼き場に立つ少年」と呼ばれる一枚である。私はこの写真を戦後史の書物で何度か見ている。そのキャプションには、被爆少年の背中の赤児の生死は不明とあったように思う。しかし、2017年秋、集英社のPR誌『青春と読書』に、大竹まことが連載エッセイで、赤児は少年の死んだ弟で少年は火葬を待っていると書いていた。テレビのバラエティー番組の出演者だと思っていた大竹の、反戦の心情が滲み出た、この文章に私はうたれた。

《血のにじんだ唇をかみしめるその身ぶり》
 そしてローマ法王である。
2018年の年初にメディアは大要次の報道を行った。(■から■)
■ローマ法王フランシスコが、この写真をカードに印刷して配布するよう指示を出した。カードの裏に自身の署名と「戦争が生み出したもの」という言葉を記載するよう要請した。写真は、死亡した弟を背負い火葬場で順番を待つ1人の少年の姿をとらえたもの。原爆が投下された直後、米海兵隊の従軍カメラマン、ジョー・オダネル氏により撮影されたものである。写真の内容と由来が短いキャプションで説明されており「幼い少年の悲しみはただ、血のにじんだ唇をかみしめるその身ぶりの中にのみ表現されている」と記している■

            焼き場に立つ少年
「焼き場に立つ少年」は、20世紀の映像のなかで最も悲しい―日本人には最も辛い―映像の一つである。この米人カメラマン・オダネルは2007年に死んだ。美智子皇后は同年の誕生日談話でこの写真に言及している。

《今や、日本全土が治外法権になっている》
            DAYS JAPAN 2018年1月号表紙
 これは、月刊の写真報道誌『DAYS JAPAN』(2018年1月号)の表紙である。大星条旗を背にして、だれが、どこで、演説しているか。
写真説明にこうある。「2017年11月5日、大統領専用機で米軍横田基地に降り立ち、約2000人の米軍兵士と自衛隊員らを前に演説するドナルド・トランプ米大統領」。
雑誌の本文記事に見開き2頁の、広角でロングショットの写真がある。記事のタイトルは「占領下の日本 特集・日米地位協定」。2頁の写真には表紙写真説明に続けて次の言葉がある。「(大統領は)北朝鮮を意識してか、『どんな独裁者も国家も、アメリカを過小評価すべきでない』と述べ、『日本は重要な同盟国だ』と強調した。演説を終えると、大統領専用ヘリに乗り、東京上空を通って埼玉県のゴルフ場に向かった」。この写真は、「宗主国と植民地」に等しい日米関係の醜い構造を表現している。
特集は「1 刑事裁判権の及ばない空白地帯」、「2 元米海兵隊員の見た戦争 僕はこうして、イラクの最前線に行った」の二部構成で、日米地位協定の対米従属性とイラク侵略戦争の凄惨な現場体験を報ずる。私は、広河隆一が発行する雑誌の売り子ではないが、読者は是非とも本誌を手に取って欲しい。

以上が、年末年初の騒々しいテレビ番組を見てしまいながらも、自分で考えたつぶやきである。  (2018/01/05)


2017.12.12 三つの誕生会(下)
盛田常夫 (経済学者、在ハンガリー)

 コーシャ監督は旧体制時代に13本の映画を撮り、1968年にカンヌ映画祭に出品した「一万の太陽」は最優秀監督賞を受賞した。その縁で当時日本の舞台女優だった糸見
偲さんと出会い結婚した。映画監督を志した当初から、1956年の「ハンガリー革命」の体験を映画にしたいという思いを抱いていた。しかし、1956年動乱を「革命」と表現するのは、旧体制下では禁句だった。このテーマを追求した最後の映画が、日本でも上映されたA masik ember(「もうひとりの人」、1987年)であるが、16世紀のトランシルヴァニア地方で生じた農民一揆の指導者ドージャ・ジョルジュを扱った映画Ítélet(「判決」、1970年)も、「革命」の殉教者への思いを込めたものである。この映画制作の舞台裏を語る中で、スロヴァキアやルーマニアの映画人の積極的支援を得て、乗り気でないハンガリー政府から資金を得たという逸話が紹介された。そういえば、1968年は中・東欧地域、とくにチェコ-スロヴァキアの民主化運動が最高潮に達した年であり、日本では学生運動が過激化し始めた年である。そういう時代の空気に押されて、「革命」物の映画が制作された。この時期でしか制作が許されなかっただろう。もう一つ、夫人との出会いを通して、日本の伝統や文化への関心が広がり、それが「姥捨て山」のテーマを扱ったHószakadás(「ドカ雪」、1974年)という映画になった。
コーシャ監督は体制転換を契機に、政治家へ転身した。それ以後は映画を制作していない。体制転換以後、映画を制作することが簡単でなくなった。しかし、これを現FIDESZ政権の所為と短絡的に考えてはならない。旧体制時代はコルナイにしてもコーシャにしても、書籍を出版し映画を制作することは簡単でなかったが、不可能ではなかった。不可能どころか、常に実現する力が働いていた。共産党(社会主義労働者党)独裁の時代とはいえ、ハンガリーでは学者や文化人の活動の許容範囲は他国に比べて広かった。ここが非常に面白いところだ。旧体制時代に、旧体制の問題を批判的に指摘する仕事から生きる糧を得て、それぞれの分野の成功者となったのは人生の綾というべきか。コルナイは旧体制時代に国内外で出版した体制の批判的分析書の業績が認められてハーヴァード大学教授になり、コーシャは「ハンガリー動乱」を生涯のテーマにして、体制に疑念を提起する映画監督としての地位を築き、体制転換後には新生社会党の政治家へと後押しされた。
ところが、社会体制が自由化された途端に、書籍出版も映画制作も簡単でなくなった。人集めや金策に苦労しなければならなくなった。旧体制時代には人件費も印刷費も安価で、政府や管轄団体がOKを出せば、必要経費は賄えた。しかし、そのような牧歌的時代は終わった。市場経済へ歩み出したハンガリーでは、どんぶり勘定の資金援助は期待できない。また、体制転換以後の社会を映画にすることも分析することも簡単でなくなった。
冷戦時代には平和か戦争かの政治的スローガンを掲げるだけで良かったが、冷戦が終わった途端に社会をどう構築していくかの具体的で複雑な構想が必要になった。社会の活動が複雑かつ多層的になり、旧社会では考えられないような経済犯罪が生まれた。政治経済社会の大きな変化の裏で生起した事件や事象を丹念に辿り、体制転換過程で生じた歴史的犯罪を映画や書籍にするのは簡単ではない。それだけではない、政権の当事者である人々や同時代に生きる者が、その政治経済社会の背後で、どのような事件や犯罪が進行していたのかを客観的に分析することは難しい。それに比べれば、旧体制社会はきわめて単純な社会だった。支持するにせよ批判するにせよ、単純明瞭な社会だった。共産党も単純に社会主義を唱えていれば良かった。しかし、そういう牧歌的な古き良い時代は終わってしまったのだ。
 
 1994年に指揮者小林研一郎ハンガリーデビュー20周年を祝う会を組織し、オープンして間もないブダペスト・ケンピンスキーホテルで開催した。国立フィルのメンバーが各種の音楽プログラムを用意し、何度か小林と共演したソプラノ歌手パスティ・ユーリアが、小林のピアノ伴奏で、「藤棚の下に」というサトウハチローの詩にメロディを付けた小林少年14歳の作品を歌った。パスティ・ユーリアはオペラ劇場に所属する47歳の魅惑的なソプラノ歌手だった。その後、リスト音楽院の声楽家教授になった。
 それから長い時が過ぎ、2011年、東日本大震災の犠牲者鎮魂のために、マーチュアーシュ教会でモーツアルト「レクイエム」のコンサートを国立合唱団とともに企画した折、ユーリアが教え子のなかからソリストを手配してくれた。ところが、演奏会当日、17年振りに顔を合わせたユーリアを識別できなかった。私と同い年だが、あまりの変わりように、言葉が出なかった。それは別として、これを契機に、ホームコンサートやクリスマスコンサートに来てもらい、私もヘンデル「私を泣かせてください」を何度も一緒に歌わせてもらった。その後、乳がんが見つかり、闘病生活に入り、一緒に歌うことができなくなった。
 その代わりと言っては何だが、お嬢さんのカロシ・ユーリアが率いるジャズバンドを、何度かクリスマスパーティに呼んだ。リスト音楽院のジャズ科で歌唱を学び、ヴァーカルとして自らのバンドを率いている。その彼女に長男が生まれからは、パスティ・ユーリアは孫の世話に明け暮れている。
 70歳記念コンサートはリスト音楽院の公式行事として開催され、教え子の若い歌手たちが次々と素敵な歌声を披露した。舞台のスクリーンには若き日のユーリアの動画や写真が投影された。コンサートの最後にカロシ・ユーリアのジャズバンドが舞台に入り、ハッピーバースディを奏で、2時間ほどの記念コンサートがお開きになった。
 政治集会より、映画や音楽の集まりは、心を和やかにさせてくれる。ハンガリー経済や政府の経済政策の体たらくに苛つく毎日だが、芸術分野の集まりはハンガリー生活を豊かにしてくれる。

2017.12.11 三つの誕生会(上)

盛田常夫 (経済学者、在ハンガリー)

 11月から12月初めにかけて、立て続けに誕生祝いを兼ねた集まりがあった。一つは経済学者コルナイの新刊Látlelet(「私の診断」)の出版記念と90歳の事前誕生会を兼ねた会(2018年1月に90歳)。二つ目が映画監督コーシャ・フェレンツ80歳を記念したポートレイ映画上映と対話の会。三つ目がオペラ歌手でリスト音楽院声楽家教授パスティ・ユーリア70歳を祝うコンサート。それぞれ各界を代表する人物で、個人的な付き合いのある友人たちである。

 
 コルナイの出版記念会への招待状が週刊経済誌HVG社からメールで届き、出席の意思を事前に出版社に伝える必要があった。しかし、記念会当日まで、出席申し込みを保留した。というのは、新刊本はハンガリーの政治にたいするコルナイの現状認識を示したもので、「ハンガリーは2010年のFIDESZ政権発足時からU字カーブを描いて、後戻りする道に入った」、「独裁的な資本主義ははたして維持可能なシステムだろうか、中国のシステムを輸入することができるのだろうか」という紹介文が添付されていたからだ。この分析の適時性や正鵠さに頷くことができず、出席の意欲が沸かなかった。
 コルナイ経済学との付き合いは40年近くになるが、体制転換前までのコルナイの分析と、それ以後の分析では大きくスタンスが変わっている。体制転換以後は、政治的な発言が多くなっただけでなく、加齢とともに白か黒かという単純な二分法に陥り、分析の面白みがなくなった。だから、コルナイの書籍を翻訳紹介する仕事から手を引いてしまった。唯一、2005年に発刊されたコルナイの自伝だけは非常に良くできていて、ハンガリー語出版から1年も経たないうちに日本で出版(『コルナイ・ヤーノシュ自伝』日本評論社、2006年)することができ、その年の経済学書ベストテンに入るなど大きな反響を呼んだ。しかし、その後も、コルナイの政治経済の現状分析は平板で、それをまとめた書籍の翻訳依頼があっても引き受けなかった。
 出版記念会の前日、フィットネスクラブの更衣室で政治学者のケーリ・ラースロー(現オルバン首相の大学時代の恩師)と顔を合わせた折、「明日、コルナイの記念会で会うよね」と声をかけられ、つい「そのつもり」と答えてしまった。「各界からいろいろな人が集まるようだ」とも教えてくれた。10年前にハンガリー経済学会が主催した80歳の誕生記念会には、知人・友人の経済学者のみならず、当時のジュルチャニィ首相夫妻も参加していた。だから、今回も反政権の知識人・学者がのみならず、ジュルチャニィ率いる政党DMや社会党の政治家も参集するのだろうと予想した。
 記念会当日、HVG社へ出席の意思を伝えようとしてメールのリンクをクリックしたら、「すでに満席で参加受付は終了」というメッセージが返ってきた。「それでも出席したい方は空席がある場合にのみ入場可能」とあった。これで「行かない」決心がついた。
 私は、コルナイが考えるように、「ハンガリーは資本主義経済である」とは考えていない。そのことは2008年と2012年(改訂版)にハンガリーで刊行した拙著Valoság és örökség「現実とレガシー」(Balassi Kiadó)で分析している。資本家がいないどころか、発展した市場経済からもほど遠い「国庫経済」であるというのが、私の主張である。国民所得の半分を国庫に経由させ、補助金行政で動かしている経済にしかすぎない。まして、このようなハンガリー経済を、自生的な市場経済と資本主義企業家が躍動している中国と比べることなど意味がない。コルナイの分析はステレオタイプの類型化に陥って、新しい発見がない。だから、私は体制転換以後のコルナイの現状分析に関心がない。
 翌日、ケーリから、「会は大盛況で、多くの学者・知識人で一杯だった。コルナイは2時間も自説を語り続けて、今になって再び最初の著作である『経済管理の過度な中央集権化』(1956年発刊)を再説せざるを得ない現実に直面するとは思ってもいなかった」と意気軒昂に語ったという。そういう話を2時間も聞かなくて済んだのだから、やっぱり欠席して良かった。まして、反政権知識人の政治集会だったのなら、投票権をもたない外国人の私が行く必要もない。私自身は現政権の政策を好ましいとは思っていないが、現政権の政策だけが問題だとは思わない。それ以前に長期に政権を担ってきた社会党も、体制転換以後の経済社会体制の構築に責任があるし、それを支えてきた知識人にも責任がある。それを現FIDESZ政権だけの所為にするのは、あまりに近視眼的な社会分析だ。

2017.09.26  執筆10年を振り返る
  ―私の関心はどう変化したか

半澤健市 (元金融機関勤務)

《神奈川大学の研究会が発端》
 「リベラル21」に書く機会を与えられ、10年が経過した。「十年一昔」という。私的な感想を書くことを許して頂きたい。私にとっては大きな転機であったからである。
きっかけは神奈川大学(神大)大学院である。2006年3月まで田畑光永氏は同大学院教授であり私は院生であった。2007年夏に、学内の研究会で私は「財界人の戦争認識―村田省蔵の大東亜戦争」を発表した。接触がほとんどなかった二人がここで知り合って数日後、田畑さんから「経済・金融」を主にして、同年3月にスタートした「リベラル21」へ書かないかと打診があった。

《銀行員の仕事で書くことは多くない》
 半世紀以上前の学部卒業論文で何枚書いたか記憶がない(一枚とは400字詰め原稿用紙一枚のこと)。私は、1958年から40年間、大小二つの証券会社と中堅信託銀行の三つの企業に勤めた。仕事で、原稿用紙10枚以上の文章を書いたことはない。一度『信託』という業界誌に業界語に満ちた50枚書いたのが最高である。
世間では、銀行員は書く仕事が多いと思っているらしいが、普通の銀行員は長い文章を書かない。融資の稟議書、産業・企業調査、プロジェクト企画書、一部の業務日誌、役所への報告など長いものはある。しかし書式は定型化していて、オリジナルな文章が入り込む余地は殆どない。
勿論、金融機関でも業態により異なる。政府系金融機関やかつての興銀・長銀などプロジェクト金融を主とする金融法人では、おそらく「疑似アカデミズム」や「霞ヶ関文学」のような文字が書かれたであろう。私のいた企業では、「戦略」は大蔵省(現財務省)がつくり、「戦術」は戦略を遵守する経営者が示達し、「戦闘」は下っ端の兵士が白兵戦を展開した。

《証券取引では文書は後回し》
 証券取引についていうと、私が在籍した時期は証券・信託とも電話の交信によっていた。一回の電話で、数千万円から数十億円の取引が成立した。「そういう商売だと覚悟」すれば、何とかなることを私は学んだ。人間だから間違いもときには起こる。それに対処する生活の知恵も生まれた。今は電子化が進み取引額も大きいだろう。それもで咄嗟の判断で端末キーをクリックするのは電話会話と本質は同じである。もっとも引受業務のような取引、とくに国際間の仕事では文書が命となる。私自身は経験がないが、証券引受契約書は馬に食わせる程の分量がある。「ドキュメンテイション」と呼んでいた。
話が横道に逸れたが、田畑さんからの打診への諾否を私は真剣に考えた。1998年から2004年にかけて当時参院議員だった〝木枯らし紋次郎〟こと中村敦夫氏が発行する月刊新聞に外祇の記事紹介を書いた経験はあった。一回7枚、72回である。2004年から06年までの大学院博士課程で書いた論文の枚数は600枚であった。客観的には私は、すでに「書かない」銀行員ではなかった。しかし不特定多数の読者に書くのは初めてである。不安があった。しかし神大での田畑さんとの縁である。元TBSニュースキャスター、自民党ハト派宇都宮徳馬が発行した『軍縮問題資料』の元編集長からの提案に応じない手はないと結論した。

《「十年一昔」の気持の変化》
 この10年に私の気持ちや思考がどう変わったかを述べたい。
「経済・金融」関連記事を最初のころ随分書いた。2007年秋は、「リーマン恐慌」の前兆が出ていた時期である。私は1980年代の日本バブルの狂気と崩壊に立ち会った。専らその経験に基づいて論じた。その中には、私のバブル経験が生かされたものがあったかも知れない。
しかしこのジャンルには、時期はズレるが、早房長治氏、岡田幹治氏という朝日新聞のベテラン経済記者、在ハンガリーの経済学者盛田常夫教授という専門家がいた。
内外の経済を俯瞰したときに行き詰まりは明らかであり、しかも、出口が見えない。これはこの5年ほどを見ての私の強い印象である。世界の誰もが適切な回答をもっていない。世界経済は、新自由主義のあらゆる現場への浸透と失敗が同居している。そして的確な手が打たれないまま宙づりの状態にある。それどころか極端なポピュリズムが世界に蔓延している。
水野和夫氏のいうように市場は商品で埋め尽くされ、金利はマイナスになり、資本主義は死んだのか。あるいはシュンペータリアンのいうように創造的破壊で世界経済は蘇るのか。二者択一とは思わぬが、私のベクトルは前者に親近感をもっている。
世間では、高度成長に生きた高齢者は成功体験を忘れられず、バブル崩壊後にビジネスに入った青年たちは、ゼロ成長の中の格差拡大を自明と考えている。最近、経済に関する私の記事がないのは、私がいろいろ考えても出口なしという結論しか出ないからである。同じことしか書けないからだ。

《経済がダメなら他に何があるのか》
 選挙になると安倍政権は、経済第一だという。そしてアベノミクスが道半ばと訴える。しかし国会が始まると、防衛省を発足させ(07年)、東日本大震災(11年)後にも脱原発をうたわず、靖国に参拝し(13年)、集団的自衛権の行使容認を閣議決定した上、特定秘密保護法を施行し(14年)、集団的自衛権行使を可能にする安保関連法を成立させ(15年)、オバマ米大統領の広島・安倍首相の真珠湾の相互訪問により、米国の謝罪なしで「日米の歴史的和解」(=原爆投下容認)を行った(16年)、四面楚歌のトランプ米大統領に対しては安倍晋三首相のみが揺るぎない対米信頼を強化している(16~17年)。
安倍政権は「右傾化している」という認識は甘すぎる。それは決定的な誤認であ。私は、安倍政権は「ファシズム」政権だと考えるようになった。この見方は、同世代の友人や企業時代の同僚のなかでは、少数意見である。お前もついに気がふれたかという友人もいる。

《安倍政権はファシズム政権である》
 世論調査によれば、北朝鮮のミサイル発射に対する安倍政権の圧力強化策は、人々に支持されている。「Jアラート」の発令に関連して、桐生悠々の「関東防空大演習を嗤ふ」(1933年『信濃毎日新聞』)が話題になった。『東京新聞』などは大きく取り上げた。しかし世論は「Jアラート」に戸惑ってはいるが、「嗤って」はいない。桐生の「嗤う」は、信濃毎日の不買運動から彼の退社に帰結したのだった。
「Jアラートを嗤う」言説が「反日・国賊・非国民」だと批判されるのは近い将来だと私は予測している。年内総選挙で安倍はそう売り込むだろう。国が決めたことへの異論申し立てを排除する。資本主義か社会主義かの体制を問わず、これがファシズムの重要な特徴である。

《最初は反語のつもりではなかった》
 私の関心は、最近数回の「ファシズムは死語になったのか」に示されている。始めは「ファシズムは死語になってはいない」、という反語のつもりではなかった。どちらともいえないから調べてみようという問題提起のつもりだった。しかし少し書いているうちに反語として書く気になった。「ファシズムは死語ではない。むしろほとんど実態である」という意味である。ファシズムは―いや民主政治も、多くの思想と行動の殆どは―「思想としての」「運動としての」、「制度(法律)としての」、「実態としての」の四段階を経て完成するものだと私は考えている。読者は、2017年の今、わが祖国は上記のどの段階にあると考えるか。それともこういう問いがナンセンスと考えるか。
戦後の、何が、誰が、どんな誤りを犯して、こんな状況を生んだのか。私の暫定的な回答は、こういう問題の立て方自体がこういう事態を生んだのだ、というものである。ファシズムは、我々の外から来るものでもあるが、我々の内部からも生まれるのである。

《安倍政権の崩壊を見るまでは》
 大層な話に発展してしまった。次の10年を生きられると思わないが、安倍政権の崩壊を見るまでは書き続けたいと思う。末尾になったが、この10年間、拙く硬い文章を読んでいただいた読者に、感謝申し上げる。「護憲・平和・共生」のために、厳しい批判と暖かい激励を引き続きお願いする。(2017/09/17)
2017.05.26  国会論議の不毛を逆照射する対話
 ―『吉本隆明 江藤淳 全対話』(中公文庫)を読む

半澤健市 (元金融機関勤務)

 本書は、1965年から1988年の間に行われた、吉本隆明(1924~2012)と江藤淳(1932~1999)の対談の全記録である。五回の対談のタイトルは、「文学と思想」、「文学と思想の原点」、「勝海舟をめぐって」、「現代文学の倫理」、「文学と非文学の連理」であり、文学論義を軸にして、戦後思想、歴史認識、国家論、知識人論、サブカルチュア論、米軍占領論など、テーマは多岐にわたる。
親本は2011年に中央公論新社から出版。文庫化にあたり吉本へのインタビュー(2009年)や内田樹・高橋源一郎の解説対談が追加されている。

《左右対立ではない内在的対話》
 従来、江藤は右、吉本は左の評論家として評価されてきた。たしかに、二人の対話には緊張があり考えの衝突があるが、論争は相手への内在が強く意識されており、各回ともに不思議なケミストリーが醸し出されている。そこが特に面白い。本稿では、「現代文学の倫理」(雑誌『海』1982年4月号)の知識人論争に注目したい。
夏目漱石の研究から出発した江藤は、この対談以前に、米国に滞在して米軍の対日占領政策の研究に注力していた。『一九四六年憲法―その拘束』などはその成果である。吉本はこれらの研究についていう。
■交戦権がないと、万が一というようなことが国家と国家の間に起こった時、戦術、戦略上、どんなに不利なことがあっても、それを制し、抑止することができないんじゃないか、従ってこの条項を変えなくてはいけない。しかも江藤さんはこの問題について実証的に調べてこられたわけですね。それによると、もともとこれは連合国の占領軍がその政策上、日本の敗戦後の国家主権を制限しようというモチーフで歴然と設けた条項なんだから、国家主権を考える時にこの条項を変えるのは当然じゃないか、という論旨だと思うんです。この問題提起は、戦後日本の政治過程論とか統治形態論とかのレベルでいえば一つの業績として評価できる立派なものだと思うんです。しかし、江藤さんが、半年も一年もかかって調べて、確かにこうなっているんだろうと実証するほどの意味があるのかと考えると、その点は疑問に思うんです。(中略)

江藤さんから見ると、ぼくは理想主義者で、空想的、抽象的に見えるかもしれないけれど、ぼくは江藤さんが逆に非常にリアリストすぎると思うの。つまりこれは自民党でも社会党でも共産党でもいいんですが、彼らが政権を握れば、もういかようにもできる事柄、つまり知識人はせいぜい示唆を与える程度の役割ぐらいしかできないというようなことについて、あまりに熱心に追究するなんてことは意味ないんじゃないか。ぼくの知識人像というのはもっと根本的な問題、例えば国家、つまりいかなる国家であろうと、歴史のある時代に実現し、また歴史のある時代がくれば、きっとなくなってしまうだろう、そういう相対的なものなんだといういうようなことについての明瞭な認識、そういうことをピチッと決めていくみたいな、そういうことに携ったほうがいいんじゃないか■

《江藤の60年代論は「政治の時代」を強調》
 江藤は、1969年12月24日の『東京新聞』に「一九六〇年代を送る」というエッセイを書いた。そのなかで江藤はエリック・ホッファーという米国人のアフォリズムを、日本の文学者の精神状況にあてはまるものと感じて、引用した。それは次の通りである。
「一民族が外国の支配下に委ねられると、その民族のもつ創造性はおおむね、貧寒なものになる。これ〝民族的天才〟の無能化によるのではなく、外国人の支配に関する憤激があまりに強いため、民族をひとつのものにまとめすぎ、その結果、潜在的に創造的な個人は、かれらの力を完全な実現に必要な明確な個性を獲得できないからである。かれの内面生活は、大衆の感情と関心事にもっぱら刺激され形成される。多数の未開人部落のようにかれは個人として存在するのではなく、かたまった集団の一員としてのみ存在する」。いささかわかりにくい文章だが、占領された国の文化は様々な掣肘とそれへの反発によって、本来の自立的文化が開花できないと言っているのだろうと読んだ。
これを前置きにして、江藤は六〇年代論を展開する。吉本の江藤批判に対する応答となっている。
■六〇年代というのは、今からふり返ると良い時代だったという人もいるかも知れないけれども、実はきわめて政治的な十年間だった。つまり岸内閣の日米安保条約の改定に始まり佐藤内閣の沖縄返還交渉の終わった十年間です。私はその『東京新聞』のエッセイの中でなによりもまず文学者は、この政治的な文脈と、それと裏腹の所得倍増政策下の経済成長に左右されてきた、といっています。「これを」要するに、安保騒動と所得倍増計画によってはじまった一九六〇年代は、文学者にとってもまた政治と商業の十年間であった。ために文学そのものは疲弊し、おおむね解体と崩壊の一途をたどりつつあるというのが私の判断であり、・・・したがっていよいよ政治と商業にいそしみ、早いところ行きつくところまで行ってしまったらどんなものだろうかというのが私のいつわらざる感想である」と。その後に起こったことは、ほぼ正確にこの予感の通りでした。戦後の日本人は、第二次大戦の戦勝国の支配下にある知的、言語的空間で生きることを余儀なくされている。そういう状況の中ではどんなにそういうものが存在しないかのような顔をしてみても、人はなかなか「創造的な」な「個人」にはなれない。「憤激」の表現は、たとえば六〇年安保の騒ぎのような形をとることもあれば、異常な経済成長という形をとることもある。また通俗的な平和主義への同調という形をとることもあるし、一見高踏的な、その実、怠惰で無責任な政治に対する蔑視という形をとることもあるけれども、いずれにせよこれらはすべて「憤激」のさまざまな表現であることに変わりはない。(中略)

《私がなぜこんなことをしているのか》
 私(江藤)がなぜこんなこと(占領政策検証)をしているのか、それは結果的にある持続を確かめたいからです。つまりズバリ何かと言えばすぐピーンと通るようなそういう公明正大な知的空間を再建したいと私は思っているのです。まあ吉本さんは、そんなものはすでにあるとおっしゃるかもしれないけど、私はそうは思わない。そういう知的・言語空間を再建するためには、非常に面倒な論証の手続きがいるんです。いまや戦後三十七年も経ってしまいましたからね。
ぼくは吉本さんが理想主義者といわれたことはよくわかりますが、どうもあなたの理想主義にはラディカリズムが足りないような印象を受けます。型通りの理想主義といいますかね。ひょっとすると私のほうがもっとラディカルな理想を実践しているのかも知れないと思っているんです。■

江藤は、戦後の言論空間がGHQの占領政策がいかに日本の文学者―さらには日本知識人―を洗脳し、日本人の自立精神を奪ったかを実証しようとした。それは「ナショナリズム」を主軸にした戦後再審の意図があった。国家の共同幻想性を論ずる吉本への批判をも内包していた。

《対談の内在性と先見性》
 私がこの対談集を読んで強く印象に残ったのは次の三点である。
第一は、江藤の六〇年代論の画期性である。
第二は、相互理解への努力である。
第三は、いまここにある危機との関係である。

第一。1960年代の高度成長は戦後日本の明るい時代であったいうのが世間の常識である。私もそう思っている。すなわち、「政治の10年」の50年代に続く経済の時代である。高度成長の終焉をどこに見るかは判断が分かれる。長く見ればバブル崩壊の90年までの30年間、短く見ても第一次オイルショック崩壊までの14年間はある。
しかし江藤は、60年安保から72沖縄返還までで、政治の季節とする。しかも言論空間は、占領下だというのである。
なるほど、自覚していないほど恐ろしいことはない。米原子力空母に付き従う自衛隊の護衛艦―性能は新鋭空母―のテレビ映像を見ていると、江藤のラディカリズムが吉本の「型通りの理想主義」を凌いでいる。

第二。二人の論者は、激論を交わしているが、レッテル貼りの批判はしていない。戦後民主主義者が、今日のように説得力を失った理由はいくつかある。相手の立場を理解しようとせず、内在的な批判を怠たり、レッテル貼りをしてきたのは、そのひとつだと思う。江藤のナショナリズムが、ほとんど人種主義に傾斜していると批判するのは容易だが、リベラル側が江藤的言説に正面から対決してきたかといえば覚束ない。

第三に、二人のテーマが、今日の危機を先取りしていたことである。文学論争ではあるが、話題は戦後の思想・言説全般に及んでいる。私の事例紹介でわかりにくい読者は、是非本書に当たって二人の対話を熟読して欲しい。60~70年代の新左翼運動における吉本隆明の圧倒的な人気は何であったのか。近代日本が次々と輸入し消費し廃棄してきた新型理論の国産版であったのか。むしろ江藤のナショナリズムが鈍い光を放って読者を離さない。(2017/05/21)

『吉本隆明 江藤淳 全対話』(中公文庫)、2017年、1000円+税
2017.04.29 昭和の日あれこれ
昭和は日本の歴代元号の中で最も長い

松野町夫 (翻訳家)

4月29日は祝日「昭和の日」である。少し前までは「みどりの日」と呼ばれていたが、その後「昭和の日」に改名され、「みどりの日」は5月4日に移された。4月29日はもともと、昭和天皇の誕生日だったので、昭和時代には「天皇誕生日」と呼ばれていた。

4月29日の祝日は時代に応じて、「天皇誕生日」(1926~1989)、「みどりの日」(1989~2006)、「昭和の日」(2007~現在)と改名されてきている。

天皇誕生日 → the Emperor's Birthday
みどりの日 → Greenery Day
昭和の日 → Day of Showa

昭和時代 → the Showa period

昭和天皇 → the Emperor Showa, or Emperor Hirohito
英米では Hirohito (裕仁)のほうが通じやすい。
Hirohito: (1901–1989) the emperor of Japan from 1926 to 1989 (LAAD2英英辞典)

昭和は、昭和元年(1926年)12月25日から昭和64年(1989年)1月7日まで、約62年と2週間の期間、継続した。これは日本の歴代元号の中で最も長い。

江戸時代以前、元号は疫病や天変により数年で改元されることが多かったが、明治以降、元号は皇位の継承があった場合に限り改める(一世一元の制)となったため、明治以降の元号は必然的に長く続くことになる。たとえば、江戸末期から現代までの元号を見ても、文久(4年)、元治(2年)、慶応(4年)、明治(45年)、大正(15年)、昭和(64年)、平成(29年+α)というように、明治以降の元号の方があきらかに長い。

昭和時代の期間を日数で正確に表示すると、22,659日となる。
一般に期間(日数)は、エクセルのDATEDIF関数で求めることができる。
この関数は通常の関数一覧には表示されていないが、その書式は以下の通り:

=DATEDIF("開始日","終了日","D")
=DATEDIF("1926/12/25","1989/1/7","D")
=22659
この数値は 22,659 days を示す。

ウィキペディアのによると、「昭和」という語は漢学者・吉田増蔵が四書五経の一つ書経尭典の「百姓昭明、協和萬邦」から考案したもので、国民の平和と世界各国の共存繁栄を意味するという。

しかしその願いとは裏腹に、昭和時代、とくに昭和初期20年間のうち、1931年(昭和6)から1945年(昭和20)にいたる約15年間、日本は一連の戦争に明け暮れた。満州事変(1931-1937)、日中戦争(1937-1945)、太平洋戦争(1941-1945)。満州事変と日中戦争は日本の中国に対する侵略戦争であったが、太平洋戦争はアメリカ・イギリスを中心とする連合国と日本との戦争で、アジア・太平洋を中心に展開された。

1941年 12月8日,日本海軍はハワイのアメリカ海軍基地に奇襲攻撃をかけ,それを機に太平洋戦争は始まった。(中略)。日本軍は真珠湾攻撃と同時に香港,マレーシア,フィリピン,グアム島,ウェーク島などでも軍事行動を開始し,開戦を予期していなかったアメリカやイギリス軍に多大な損害を与えた。 1942年2月にはイギリスのアジア最大の基地シンガポールを占領し,イギリス軍の 13万 8000人の将兵を捕虜にした。3月にはオランダ領東インド諸島を制圧し,さらにビルマに侵攻してラングーンも日本軍の支配するところとなった。5月までにニューギニアまで制圧地域とし,東南アジアに広大な勢力圏を築き上げることになった。(ブリタニカ国際大百科事典 小項目版 2011「太平洋戦争」から抜粋)

日本は戦争初期こそ優勢であったが、その後、軍事力、物量に勝る連合国によって次第に劣勢に追い込まれ、1945年8月6日に広島に、9日に長崎に相次いで原爆を投下され、国の存続すら危ぶまれる状態に陥った。1945年8月14日、日本はポツダム宣言の受諾を連合国に伝えた。9月2日、東京湾に停泊するミズーリ号上で降伏文書への調印が行なわれ、こうして3年9ヵ月におよぶ太平洋戦争は、連合国の勝利、日本の無条件降伏で終わった。

太平洋戦争の終結を境に日本は劇的に変わった。日本はGHQの占領下におかれ、価値観が180度転回した。天皇制や軍国主義は否定され、民主主義の平和国家が目標となった。明治憲法に代わって平和憲法が制定され、主権は天皇から国民に移った。日本人の多くが戦後の自由・平等・民主主義を歓迎した。太平洋戦争はこうしてみると、天皇制ファシズムとデモクラシーの戦いだったことがわかる。

1945年(昭和20年)8月15日は、無条件降伏した屈辱の日ではなく、民主主義の平和国家を目指す現代日本の記念すべき旅立ちの日であった。日本史を時代区分すれば、明治維新から終戦までが近代日本で、これ以降を現代日本とすべきだと私は思う。戦後生まれの私は戦争を知らない。「昭和」という語をきくと、懐かしい、レトロな気持ちになり、多感な青春時代を思い出す。西岸良平の『三丁目の夕日』に出てきそうな人情味あふれた東京の下町が浮上する。

年号は元号ではなく西暦が望ましい、少なくとも、公文書は西暦に統一した方がよいと主張する私が、「昭和の日」をありがたがるのも少し変な話だが、象徴天皇制に異論があるわけではない。

テレビのワイドショーはこのところ連日「北朝鮮危機」を報道している。たしかに、極東の和平が一変する可能性は常にある。民主主義の平和国家・日本を維持するには、やはり、護憲・軍縮・共生の理念をもって行動する以外に方法はないと思う。

2017.03.28 「平和の灯」が消されるまで
 ―愛子さんの「怒りと悲しみと希望」―
 
半澤健市 (元金融機関勤務)

 愛子内親王は 2017年3月22日に学習院女子中等科の卒業式に出席した。
400人の卒業生が一人ひとり名前を読み上げられ、愛子さんは「敬宮愛子(としのみや・あいこ)」と呼ばれて起立したという。
彼女が書いた卒業記念作文「世界の平和を願って」が同日宮内庁から発表された。
それは、2016年5月の修学旅行で広島を訪れたときの感想を、書いたものである。

《原爆への「怒りと悲しみ」》
 卒業前の青空を見上げて彼女は平和に生きている自分が幸せだと思った。
その感情が湧いたのは、広島で大きな意識変化があったからである。
原爆ドームの前で突然、足が動かなくなった。平和記念資料館の展示に驚いた。現地をみて、原爆投下の「空間と時間」へ没入したのである。彼女はこう書いている。(■から■が原文の引用)

■原爆ドーム。写真で見たことはあったが、ここまで悲惨な状態であることに衝撃を受けた。平和記念資料館には、焼け焦げた姿で亡くなっている子供が抱えていたお弁当箱、熱線や放射能による人体への被害、後遺症など様々な展示があった。
これが実際に起きたことなのか、と私は眼を疑った。平常心で見ることはできなかった。そして、何よりも、原爆が何十万人という人の命を奪ったことに、怒りと悲しみを覚えた。命が助かっても、家族を失い、支えてくれる人も失い、生きていく希望も失い、人々はどのような気持ちで毎日を過ごしていたのだろうか。私には想像もつかなかった。
最初に七十一年前の八月六日に自分がいるように思えたのは、被害にあった人々の苦しみ、無念さが伝わってきたからに違いない。これは、本当に原爆が落ちた場所を実際に見なければ感じることのできない貴重な体験であった■

《平和への実践・思いやりと発信》
 オバマ米大統領のものを含む世界中からの折鶴を見た。慰霊碑に燃えつづけている「平和の灯」を見た。こういう平和のシンボルを見て、平和は世界中の願いであることを意識する。しかしそれはなかなか達成されない目標である。彼女は、平和は当たり前の日常だと思ってはいけないと考える。平和は人々は他人への感謝と他人への思いやりという行動から始まるのだと考える。そしてこう書いている。

■唯一の被爆国に生まれた私たち日本人は、自分の目で見て、感じたことを世界に発信していく必要があると思う。「平和」は、人任せにするのではなく、一人ひとりの思いや責任ある行動で築きあげていくものだから。
「平和」についてさらに考えを深めたいときには、また広島を訪れたい。きっと答えの手がかりが何か見つかるだろう。そして、いつか、そう遠くない将来に、核兵器のない世の中が実現し、広島の「平和の灯」が消されることを心から願っている■

《15歳少女の作文が与える衝撃》
 特異な環境下で人生を歩んでいる15歳の少女の文章は、私に衝撃を与えた。
それは次の三点の感覚に要約できると思う。
一つ 現場を見て過去の時空に没入できる感性と知性
二つ 「悲しみ」だけでなく「怒り」を表現していること
三つ 行動によって〈「平和の灯」を消そう〉という想像力
三つに共通するものは、自分の目で見、自分の頭で考え、自分の言葉で表現する、すなわち自立した精神である。

 後期高齢者の私は、旅行をして何を見ても「テレビで見た通り」という感想に落ち着くようになった。旅行の感想はメディア映像の再生産以上のものでなくなった。
 それに比べて愛子さんのタイムスリップ能力はどこから来るのだろうか。それは彼女の鋭い感受性からであり、歴史的に事柄を見ようとする知性によるものだと思う。

 私はかねてから日本人の戦争論には、「悲しみ」と「悼み」だけがあって「怒り」や「抗議」がない、と言ってきた。愛子さんは「原爆が何十万人という人の命を奪ったことに、怒りと悲しみを覚えた」と書いている。「怒り」が誰から誰へ向けてのものか。この文章ではわからない。しかし、原爆投下を決定し実行した当事者、不作為によってその実行を容認した当事者は、米大統領や彼女の曾祖父を含んでいて、しかもその数は多くない。彼女自身の意識はどうあれ、これが文章から導かれる論理である。

 バラク・オバマのプラハ演説はノーベル平和賞の理由となったが、そこでも核廃絶には長い時間がかかると言っている。それに対して、愛子さんは「そう遠くない将来に」と言っている。そして、その時には広島の「平和の灯」は消えるのだと考えている。「灯が消える」というイマジネーションに私はうたれた。

《国民の総意 VS 天皇制・時の政権》
 現在の天皇家の、歴史観・戦争観には戦後民主主義の「理想主義」の部分が、生き残っていると私は思っている。一方、実態としての戦後民主主義は、「戦争観なき平和論」、「自立意識なき防衛論」、「リアリズムなき護憲論」という「現実主義」によって批判され、気息奄々の状態だと私は感じている。
天皇制が「国民の総意に基づく」ように、日本政治の総体は国民の総意に基づくべきものである。戦後76年余り、国民の総意が理想的に政治に反映されたことはない。それが政治の現実というものであろう。

 しかし2017年の今ほど、その関係が「現実離れ」し、「乖離」している時もない。
我々は、敬宮愛子さんに学ぶところにいるのではないだろうか。(2017/03/25)

2017.03.13 無念を語る「語り部」への期待
 ―論文「死者のざわめき」を読む―

半澤健市 (元金融機関勤務)

 本稿は、宗教人類学者の山形孝夫氏(1932~)が、『世界』(2017年4月号)に書いた「死者のざわめき―語り継がれる「記憶の森」」の紹介である。私は、この文章に不思議な感情の高揚を感じたので、是非多くの人に読んで欲しいと思い、自己流の要約文を書く。(直接の引用は、■から■と表示する)

《死者のざわめきだけが聞こえる》
 東日本大震災の二年後、筆者は、仙台で開催された志賀理江子写真展「螺旋海岸」で不思議な経験をした。
■人間も、自然も、動物も全く動く気配がなかった。すべては根っこのあたりから破壊され、息の根を止められて静止している。そのほかには何もなく、近く見つめすぎると、ただ、ざわめきだけが聞こえてくる。まるで、死者の「語り」のように聞こえてくる。イタコによる死者の口寄せのようにである。人間だけではない。大津波に呑みみ込まれたおびただしい数の奇妙な岩石も、海岸線を蔽うようにるいるいと重なる黒松の倒木の行列も、波間に消えた魚市場も、ぐにゃりと曲がった鉄格子の窓も、夜中のカラスも、要するに二〇〇枚を超す一〇〇号大の写真のひとこまひとこまが、何かを語りかけ、つぶやいている。いったい、わたしは何を見ているのか。全くわからないままに、死者のざわめきだけが聞こえていた。■

 山形は、そこで体験した「仮想空間」と、会場を出てから見えた「現実空間」を比較する。果たしてどちらが現実なのか。彼は、そう自らに問うた。
 多くの事例を示し思考を重ねながら、筆者の考え出した答えは、近代のもつ無機質への批判であり、戦前の日本や現代のウガンダに存在した「共同体」再現への欲求であり、新たな「語り部」の出現への小さな期待であった。

《近代国家・近代科学の批判》
 たとえば近代批判は次のように現れる。
ここでいう、「もうひとつのこの世」とは、死者と生者が共生し、語り部の存在する共同体を示していると、私は読んだ。
■このたびの3・1の大津波が露呈したのは、日常に隠されたもうひとつのこの世の現実ではなかったのか、とわたしは思った。
そうした経験の地平からすると、わたしたちの生きてきた囲い込みと排除の論理に立つ近代国民国家も、幾重にも防御された民主主義のシステムも、なぜかフィクションのように見えてくる。耳ざわりのよい言葉遊びの擬態のように見えてくる。そして、そのようなフィクションの中心に、あたかも戦後日本の繁栄と正義の証しのように、さながら国家統治の原理のように原発安全神話が君臨していたのではなかったか。いったい、どちらがほんとうなのか。■

 山形の論理を要約しながら続ける。
 マルクスとフロイトは、「宗教は悩んでいる者のためいき」であり、「人類一般の強迫神経症」といった。そのような自然と人間の一元論で「死者のざわめき」に迫ることができないのである。

《古代から前近代までの先達の知恵》
 その昔、「日本列島」に住む人間は、自然に宿る「霊」(または「カミ」)を信じた。折口信夫は、タタリとは霊が立ち現れる場所を指すコトバだったと言い、山折哲雄は「タタル霊」を鎮める祈祷者のなかに、空海や最澄がいたのだと考えた。
古代から中世にかけて、死者のタタリを占うシャーマンの世界と、タタリを鎮静化する仏教僧とが、「カミ」と「ホトケ」に分業化し、相互補完的に共存して、近代に至るまで「死者のざわめき」をやさしく鎮静化してきた。
■そうした構図が総崩れに崩れ落ちたのは、広島と長崎に落とされた原爆という名の近代物理学の知恵の結晶である〈悪魔の炎〉であったのだ。日本流の宗教的に構築された家族主義も天皇制を支柱とする日本式ナショナリズムも、この〈悪魔の炎〉によって、消滅し、機能を失ってしまった。それが第二次大戦の結末である。「死者のざわめき」の震源を辿ると、どうしてもこの〈悪魔の炎〉に辿り着く。
 その時から数えて七十余年、東日本を襲った3・11の大災害が暴露したのは、東北の海辺の町々に今にいたるまでひっそり命脈を保ちつづけてきた、思えば懐かしい日本的家族共同体であり、その消滅であったのだ。■

《能のシテとワキ―語り部への期待》 
 山形は最後に、安田登の著作『異界を旅する能―ワキという存在』を引いて、能におけるシテとワキの役割を説明する。シテは、無念を残して世を去った霊である。主に遊行僧によって演じられるワキは、シテの無念を「分ける人」(分キ)なのである。そして「語り部」でもあるのだ。もともと「死者のざわめき」とは、山形が書いた書評の対象『死者のさわめき―被災地信仰論』(磯前順一著)のタイトルであった。

 書きながら山形の心に聞こえてきたのは、被災地から聞こえてきた「語り部」になりたいという切実な声であったという。大川小学校の悲劇を生き延びた若者、わが子を失って途方にくれる悲しみの母、父は大川小の先生だった若者たちである。我々は、谷中村の田中正造、水俣の石牟礼道子という先駆者をもっている。
 山形の文章は、多くの3・11論が、社会科学からの立論であるのに対して、宗教論の立場にたっている。この立ち位置は、しばしば「絆」、「癒し」、「慰め」に親和的だという批判を浴びる。その論点を意識しながらも、山形的視点は人間の心情に、深く浸透するものであり、教条的一般論への鋭い批判となっていると痛感する。(2017/03/10)


2016.10.26 ある青年の「戦争レジームからの脱却」論
―知って欲しいひとつの記録―

半澤健市 (元金融機関勤務)

 下記に掲げるのは、「海軍技術研究所」(技研)の嘱託だった28歳の青年が、戦中に書いた文章の一部である(■から■)。

■大東亜戦争は依然二重性的性格を帯びつつあり。一は我が資本主義的経済の死活をこれによりて賭せんとし、一は端的にアジアを欧米の侵略より解放せんとす。もし当局者にて、大東亜戦争の性格を完全に後者にまで変貌せしめんか、正に驚天動地の世界史的転換は、ここに実現せらるべしと。しかるに不幸にして当局者にその明察なく、遂に大東亜戦争は今日に及びたり。(略)

吾人明確に断定す。大東亜戦争の二重的性格こそは、我が国今日の窮境を招きたる最大要因なり。満州事変当時に比すれば、我が戦争目標は、一大進歩否一大変質を遂げたり。単なる権益主義は一掃せられ、八紘一宇と言い、東亜新秩序の建設と言う。しかもかくの如き標語の下、アジア解放の義戦に進まんとする帝国に随いて、同生共死を誓わんとするアジア人の誠に寥々たるは如何。これ実に原理的に我が大東亜戦争の目的が二重的性格より未だ蝉脱せざるが故なり。具体的には支那事変に於ける我が政策が二重的性格に終始し、支那民衆のみならずアジア民衆に対して、我が言行悉く相反するが如き印象を与え、美名を掲げて私利を図らんとする最も悪辣卑劣なる所行と感じせしめたる故なり。(略)

吾人はされば主張す。最悪の場合敵英米が無条件降伏を強要し来らば敢然これに応酬すべきなり。吾人は条件付講和を要求すと。条件とは何ぞ。吾人はビルマの独立を要求す、比島の独立を要求す、東印度諸島及旧仏印領の独立を要求す、マレエ人の完全自治を要求す、中華民国の半植民地的隷属地位よりの解放を要求す、香港を英国が再領有せんとすることに反対す(略)、朝鮮の独立は日本これを承認すと。しかして自らに就ては一言も述ぶる の要なきなり。しかして世界の輿論に向って宣すべし。我が大東亜戦争の目的は実に茲に存したり。■

海軍とは勿論、大日本帝国海軍である。書かれた時期は、1945年6月から7月中旬という。全文は、400字詰原稿用紙約45枚あった。なぜ書いたのか。時局の現状を「率直かつ自由に」書く課題を与えられたからである。
青年は、「国策転換に関する所見」として所内の会議でこの意見を発表した。一将官と東京帝大教授平泉澄が同席していた。平泉は「君は世界の大勢からときおこすが、吾人は国体の本義から出発しなければならない。本末を転倒した議論は、百害あって一利なしである」と反対した。青年は8月に入り嘱託の職を解かれた。

青年の名は日高六郎(1917~)。のちに社会学者として、「進歩的文化人」として名をなした。事後的に、この思考と行為に対して賛否を論ずるのは容易である。
しかし、である。
「政治的正当性」political correctness に対する批判は、米大統領選挙の候補者討論や欧州の移民問題に対する国家主義の復活など、様々な形態で風圧を増している。安倍政権は一貫して「戦後レジームからの脱却」の思想に拠り、自民党総裁の任期まで変更して、憲法改訂を目標にしている。

日高六郎の「国策転換に関する所見」は、安倍思想に比べ数周回も進んだ「戦争レジームからの脱却」論であり、真の「積極的平和主義」であり、誠の「政治的正当性」の表現だったと私は考える。「戦後民主主義」の位置を「青年」諸君は知らぬであろう。「戦後民主主義」を生きながらえ、今も一縷の望みをつないでいる高齢者として、ここに記録しておく。(2016/10/23)