2019.08.03 私が会った忘れ得ぬ人々(11)
前田常作さん ――絵は「行」であり「巡礼」

横田 喬 (作家)

 太平洋戦争敗戦の日から半月前の一九四五年八月二日未明、北陸の富山市を百数十機に上る米軍のB29爆撃機が襲った。二時間余の焼夷弾集中攻撃で市街地が全焼。約十一万人の罹災者を生み、死者が約三千人、負傷者は約八千人に上った。政令指定都市(広島など二十市)以外の地方都市では原爆被災地・長崎を別にすれば、全国で最悪の被害を被った。

 炎上する富山市街から十㌔余り南の田舎にある親類宅に、二つ年上の姉と私(当時十歳)に二つ下の弟の三人が疎開していた。両親や兄二人の身を案じつつ(幸い皆無事だった)業火が燃え盛る様を只々見守るしかない。子供心に彼我の科学技術力の圧倒的な差異を嫌というほど感じさせられ、日本はなんでこんなバカな戦争を始めたんだろう、と訝しく思った。

 空襲の翌々日、姉・私・弟三人で空襲で不通になった富山地方鉄道(富山市~立山山麓を結ぶ私鉄)の線路伝いに片道三時間ほどかけて富山市に到着する。市街地に入った途端、人体を焼く火葬場そっくりの何とも言えない嫌な臭いが充満していたのが今でも忘れられない。結局、両親や兄たちの避難先が判らぬまま、その日はすごすご引き返すほかなかった。

 富山県北部・入善町出身の洋画家・前田常作(敬称略)は、この空襲の一か月前に富山師範に在籍のまま徴兵検査を受け、市内の歩兵第三十五連隊に入営。地理に明るいからと空襲当夜は「市民誘導斑」に回され、市内の繁華街から市民を安全な地帯へ避難させる役目を負う。『朝日新聞』記者当時の私は彼を二度にわたりインタビューし、こんな証言を得ている。

 ――無差別じゅうたん爆撃で市内一帯が火の海。水に浸した筵を小脇に抱えて人々の避難誘導に当たった。避難先の神通川河原では、背中に火がついて燃える病気の人や、水面を流れる数々の死体、泣き叫ぶ親子らで地獄絵さながら。おばあさん二人が地べたに座り込んで「ナンマン、ナンマン(南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏)」と必死に念仏を口ずさむ。やはり応召した師範同級生の一人は直撃弾を受けて即死し、もう一人は重傷を負っています。

 富山県はよく「真宗王国」と言われるが、彼の亡父は真宗大谷派(東本願寺派)の檀家総代を務め、姉は真宗の寺に嫁いでいる。子供の頃から絵を描くのが好きで画家志望だった彼は戦後上京し、苦学しながら武蔵野美術学校を卒業。‘五五(昭和三十)年頃、広島で被爆~自殺した作家・原民喜の遺作『夏の花』を読み、富山空襲の折の記憶が蘇る。

――痛手を負った人間が光を求めるように踠くさまを前衛的に描ければ、と思った。
鎮魂への祈りを込めた抽象的なフォルムが作品『殖』シリーズに結実する。‘五七年、第一回国際青年美術家展で大賞を受け、翌年フランスへ留学が適う。パリで出会ったフランスの美術評論家から「あなたの絵には曼荼羅がある」と指摘された。曼荼羅はサンスクリット語で、曼荼は「心髄・本質」、羅は「悟る」の意である。そんな古色蒼然としたものではない、と初めは反発した。が、パリのギメー美術館へ通い、インドやネパール・中国・インドネシアなどの仏画や曼荼羅を見学するうち、考えが変わる。

「祈りが込められ、深遠なものが描かれている絵に一条の光を見出し、人々に感動を与えるものこそ美術の根源ではないか」と、思い至る。前田は「密教は深い教えで、悟らない人に悟ってもらうには図画を借りて示すほかない。空海は『請来目録』に、そう述べている。曼荼羅は宇宙の神秘な悟りへのいわば芸術的な視覚教育。いま流に言えば、テレビの考え方で悟りの境地を示したようなもの」と言う。

が、彼は日本に帰国後、自分なりの「曼荼羅」をいざどう描けばいいかの方法論を巡り、悶々とする。一年余りして、啓示を受ける。かつての日本人は『観音経』を読み、そこに生命の神秘を感じた。『般若心経』を読み、煩悩を離れる声明の知恵を見た。なぜ『観無量寿経』を、なぜ『法華経』や『観音経』などの仏典を自分は読もうとしないのか、と自問する。

中でも『観無量寿経』の観想の方法に惹かれた。西欧流の超現実主義的発想に近い、と感じたからだ。<恐ろしい地獄にも似た牢獄で、マガダ国王の后・韋提希夫人は釈尊の勧めに従って瞑想に耽り、光明燦然と輝く極楽世界を目の当たりにする。> 前田は毎朝、お経(『般若心経』ないし『理趣経』『観音経』の中の一つ)を上げてから仕事に入るのを日課と決め、絵日記を毎日描くことを「行」として己に課す。

――お題目や念仏・光明真言を唱えると、胸の中がすっきりし、集中力が湧いてくる。
経典や仏典が死後のことを説くのは、あくまで方便。根本は一瞬の生命をどう見つめるか。仏教は優れて現実的で、極めて現代的な教えです。東アジア唯一の仏教国に生きる我々は、もっと経典や仏典の教えを見つめ直す必要がある。

前田は四十代後半の頃、「絵を描こうという心は祈りの心につながっている」と西国巡礼の旅を発心する。熊野・那智の滝の傍らの那智山・青岸渡寺を手始めに、豊山・長谷寺、深雪山・上醍醐寺、新那智山・観音寺、補陀洛山・六波羅密寺、青葉山・松尾寺など西国三十三カ所の観音巡礼の旅をほぼ十年がかりで達成する。‘八九(昭和六十四)年、富山市で開いた回顧展で「西国巡礼シリーズ」の作品三十九点を初公開。ふだん美術館ではあまり見かけない素朴な感じのお婆さんたちも来場し、これらの作品に涙ぐんだり、手を合わせたりする姿が目立った。前田はこう言う。

 ――参拝で隣合わせたお爺ちゃんが、扉の向こうの観音様に「お参りさせてもらって有難うございます」と、お礼を言っている。目から鱗が落ちた。僕は感謝していないもんね。
 ――巡礼の原点は、見えない世界が見えるようになること。芸術も同じ。見えないものを見えるように表すわけだから。

 彼は密教の観法にある「入我我入」という言葉を大切にした。己が本尊に入り、本尊が己に入る。自分と本尊とが感応道交し、一体になる素晴らしい瞑想の法である。「両界曼荼羅を見ていると、入我我入が的確になされて描かれた感じがする。筆が生きているとは、描く対象と描き手が一体になっていること。真に素晴らしいものと出合った一瞬には無我夢中になって描く。何かが乗り移ったように対象との境目がなくなり、溶け込んでいく。そうした瞬間に出合うことが制作の至上の喜びなのだ」と説く。

 代表作の一つ「観想マンダラズ・シリーズ」では、画面下方に何百もの小さな仏像が遠近を付けて千体仏のように整然と描き込まれ、上方に大きな如来像が浮かぶ地平線に向かって、眩い光の波のように連なる。青っぽい色調の、どこか瞑想的な雰囲気を湛えた大画面は、壮麗な宇宙空間とその生命・霊気を感じさせる。

 ――北陸の暗い風土に育ったから、光に惹かれ、人間の内にある光明を描き出したい気持ちが人一倍強いのでしょう。私にとって、絵を描くことは「行」であり、「巡礼」なんです。
 こうして「曼荼羅の画家」と呼ばれるに至った前田は‘七九年に日本芸術大賞、’八九年に仏教伝道文化賞を受賞。京都市立大教授~武蔵野美大教授~同学長~同理事長を務め、二〇〇七年に八十一歳で亡くなった。

2019.07.01  私が会った忘れ得ぬ人々(10)
          高橋秀さん――自己の自立の無さが歯痒い
          藤田桜さん――望郷の思ひおのずと菊の頃  
 
横田 喬(作家)

 先々月の本欄で紹介した詩人・評論家、大岡信氏が異色の美術家・高橋秀さん(八八)のために詠んだ詩の一節に、こうある。「ワレメ――/そう聞くだけで/人々はある種のものを/想像し/或ひは微笑し/或ひは顔を赤らめる/歴史の神秘な谷間を思ひ/地質学の知られざる発見を思ふ/(ああコトバは偉大だ/たった一言で!)

 そして、私と大学の同窓で『朝日新聞』入社も同期だった故・根本長兵衛君(「朝日新聞」元ローマ特派員・企業メセナ協議会元専務理事)も、この高橋秀さんについて、秀逸な要旨次のような一文を書き残している。題して「『言行一致』、造形のマエストロ」。
 ――1980年のこと。縁あって秀さんとお近づきになる。酒豪の彼から酒席で歯に衣きせぬ、辛辣、かつ痛快極まりない、卓抜な日本イタリア比較論を胸のすく思いで拝聴した。
 秀さんの作品もじっくり拝見する。白やピンクの幾何学的なかたち、有機体を思わせる丸やかな形態の隅に置かれた色鮮やかな華麗な色彩の点や線、それに悩ましい割れ目が入ったリトグラフが多かった。いわゆる「エロティスムとユーモア」が基調になった作品だが、猥褻さやじめじめした性の暗さは全くない。破顔一笑する秀さんの明るい笑いを連想させる大らかなユーモアで、当てこすりや忍び笑いとは無縁な造形だ。ハイカラで流線型の形象なのだが、イタリア人にはオリエンタルな日本アートに見えるに違いない。これまで経験したことのないオリジナリティに、強いショックと感銘を受けた。――

 この高橋秀さんはイタリア在住の‘九六年、倉敷芸術科学大教授に就任する。’〇四年、四十一年に及ぶローマ生活を切り上げ、前々年にアトリエを築いた倉敷・沙美海岸に居を移す。隣の岡山市に在住する宗教家・黒住宗晴氏は文化方面にも明るく、私がかねて昵懇に願っている方だ。同氏を介し高橋秀さんの最近の消息を知り、頂いた資料から秀さんの長年の連れ合いで「コラージュ(布貼り付け絵)」作家・俳人の藤田桜さんの横顔も知るに至る。

 ご両人は戦後まもない頃、高名な挿絵画家・雑誌編集者だった中原淳一氏の許で知り合い、結ばれる。当時の秀さんは中原氏が手掛ける雑誌『ひまわり』や『それいゆ』に挿絵やカットを器用に描き、それなりに収入を得ていた。だが、(このままだと本業の絵画がだめになる)、と「人気者の危険」に本能的に感づく。結婚して何年目かの正月早々、秀さんは桜さんの前にがばとひれ伏し、こう懇願する。「絵画の制作に目鼻がつくまで、収入目当ての仕事は放棄する。当面しばらく、生活の面倒を見て頂きたい」。

 頭を下げた秀さんも潔いが、その胸中を察して快諾した桜さんも偉い。似合いのカップルの呼吸は須らく、こうありたいものだ。お二人には、美談がもう一つある。東京・世田谷にあった宅地を売却したお金で「秀桜留学基金」(一億円)を設定。つい三年前までの十年間、若い美術家を毎年三人ずつ海外へ送り出し、一年間自由に勉強する手助けをしてきた。これまた、なかなかできないことだ。

 春麗のこの四月半ば、私は前記の黒住さんの手引きで長閑な風光の倉敷・沙美海岸に秀・桜さん宅をカメラ担当の連れ合い同伴で訪問。酒盃を傾けながら半日近く歓談し、「人生百歳時代」を地で行くお二人の生き様とお人柄をとくと確かめさせて頂いた。
 俳人・桜さんは二〇〇五(平成十七)年、自作『句集』を刊行している。ローマ滞在中に詠んだ句が大半で、繊細な感覚と深い心を映す中に、母国への強い郷愁が滲み出ている。
 ――「小菊また殖やし異郷に年重ね」「浴衣着てローマの夏も捨て難し」「望郷の思ひおのずと菊の頃」「仔羊に焼き印を押す聖夜近し」「シーザーが虻に泣きべそカーニバル」――

 これに先立つ一九八二年、エッセー集『ローマでエプロンかけて』(新潮社)も著した。表題通り、一家の主婦としての奮闘ぶりが躍如とする。まずは、台所事情から。
 ▽春先から初夏にかけて。佃煮にする蕗が市内の川や池の辺りに一杯野生している。大きいのは太さ三㌢、長さ一㍍半もある。蕨も自然公園の土手などに生えている。秀さん・桜さんとも好物なので、季節には日本人の友人らと連れ立ち、摘みに行く。

 ▽魚屋は露天の朝市に十数軒が並ぶ。鰯や近海ものの小魚が生で入り、蝦や烏賊はアフリカから来る。季節によって鮪も大きな塊で入る。日本の魚屋のようにお造りにしたり、丁寧
に捌いてはくれないから、一~二㌔と塊買いした鮪の捌きは主婦の仕事になる。
 ▽調味料では、味噌作りをローマ在住の日本人の友人から伝受してもらう。大豆十五㌔に米・塩各六㌔で、約三十六、七㌔の美味しい味噌が出来上がる。大豆の粉で豆腐も作れるし、蒟蒻も手はかかるが大丈夫。夕食はすき焼きでとなると、朝から手間暇のかかること!

 さて、桜さんは主婦業とは別個に「布貼り付け絵」作家という、もう一つの顔を持つ。‘五二年から月刊保育雑誌『よいこのくに』(学習研究社)の表紙絵の専属作家となり、『ぴのっきお』など秀抜な作品を数々残す。‘七七年、ボローニャで出版された児童書イラストレーター選集には二十か国三十七作家の一人として選出されている。『芸術新潮』の‘八五年十二月号は「藤田桜の小裂(こぎれ)コラージュ」と題し、コラムに要旨こう記す。

 ――コラージュと思えないほどの、穏やかな色の諧調がある。ローマに在住し、この十年腰を据えて小裂と付き合ってきた藤田は、裂の主張や相性をすっかり手の内に収めているらしい。縁を重ねていく技法は、単に物質的な厚みではなしに画面に深みを作る。下絵や型紙を使わないフリーハンドの裁断が、このコラージュの上品さを支えている。
 
 高橋秀さんに話を戻す。少壮三十三歳でイタリア政府招聘留学生としてローマへ渡るが、その日本離脱の動機が彼らしく少々変わっている。前々年、新進洋画家の登竜門とされる「安井(曽太郎)賞」を授与されるが、そのため画商から新作の注文が相次ぎ、それをこなすのが苦痛で日本脱出を図った、と言う。
 壮年期を中心に四十一年もの長い歳月を異境イタリアで過ごした秀さんの異文化体験に基づく独特の観察眼は貴重だ。今の日本社会の在り様について、覚めた目でこう呟く。

 ――生活面・政治面・文化面と非常に悔しいが、日本は多分に見劣りする。なぜこんなに
育っていないのか、幼いのか、と悔しいながら感じる。鎖国体制の江戸時代の習性を引きずってか、自己の自立のなさ~自己主張のなさは歯痒いばかり。日本は経済ばかりが肥大化し、生活面全体の向上という思考が全く欠落している。
 ――政治面でも、イタリアはやはり大人だ。政治家のための政治ではなく、人民のための政治をしている。その点、日本はまた自民党が復権し、国民の間から馴れ合いに対する強い不満や怒りもない。離れ島という環境が災いしてなのか、暗澹とした思いに捉われる。
 ほぼ同世代の私自身も全く同感だ。
横田新628
    お二人の近影。左が高橋秀さん、右が藤田桜さん(今年四月半ば撮影)

 辞去間際、アトリエへ案内された。正面の壁にかなり大きな「磔のキリスト」像が掛かっている。(秀さんもミューズに魅入られた受難と献身の人に違いない!)瞬間、強い感動が身内を走った。
 なお、「高橋秀+藤田桜 『素敵なふたり』」と銘打つ企画展が七月六日から九月一日まで東京・世田谷美術館で開かれる。NHKのテレビ番組「日曜美術館」でも七月二十八日午前九時(再放送は八月四日午後八時)から特集が放映される予定だ。同展は九月から来年二月にかけて、倉敷・伊丹・北九州の各市でも順次開催される。

2019.06.22  〈いまごろ丸山眞男か〉という君へ(2)
    ―柄谷行人の「丸山眞男とアソシエーショニズム」を読む―

半澤健市 (元金融機関勤務)

《ポストモダンと丸山はどう結びつくのか》
 柄谷は丸山をいつどこで捉えたのか。
彼が、本格的に丸山を論じたのは2006年の「丸山眞男とアソシエーショニズム」が初めてであるらしい。しかし柄谷の問題意識は80年代に始まっていた。

 柄谷の丸山認識は、優れた「近代主義者」というほどのものであった。
 80年代、柄谷行人は「ポストモダニズム」の旗手の一人として認知されていた。
ポストモダンとは、「近代以後」または「後近代」の謂である。柄谷の近代批判は、「自発的な主体(主観)への批判」であった。自発的な意志なんてない。それは他人の欲望に媒介された結果にすぎない。主観は自由ではなく、「言語的な制度(システム)の中に規定されている」、つまり自由な個人主体というフィクションから出発するブルジョア的思想に過ぎないという批判であった。しかしそれは自由の否定ではない。1968年5月革命に象徴される運動は、アソーシエイティブ(結社的)な活動をめざしていた。

 しかし構造主義もポスト構造主義もすぐに資本主義の脱構造に追いつかれ体制内化する。日本のポストモダニズムもポスト産業資本主義と同義となってしまった。私(半澤)は、吉本隆明が、有名ブランド商品のモデルになった写真をよく覚えている。
 バブル経済もあって日本のポストモダニズムは、世界の先端を走っているように見えたが、実は近代の欠落を示しているのではないか。柄谷にはそういう思考が芽生えた。1984年頃に柄谷は、丸山がこの観点で近代に取り組んできたのではないかと考えた。

《知識人と大衆は乖離していない》
 日本のポストモダニズムが、知識人の批判をするときの立場は、インテリが大衆を上から目線でみていることを批判するものだった。しかし、日本はそんな知の階級社会なのか。そうではない。日本では知識人と大衆は乖離していない。乖離は西洋やアジアにはあるが、すでに徳川時代に養子縁組による階層モビリティーの動きが始まっていた。
柄谷は丸山による鶴見俊輔批判を例示している。鶴見は、抽象的な思想あるいは原理の支配を批判する。しかし実は庶民の視点ではなく知識人の視点からみている。日本では知識人が支配したことはないし、思想や原理が支配したことはない。そういう丸山の思考に柄谷は同意する。丸山の次の言葉を引用する。
■「イデオロギー過剰なんていうのはむしろ逆ですよ。魔術的な言葉が氾濫しているに過ぎない。イデオロギーの終焉もヘチマもないんで、およそこれほど無イデオロギーの国はないんですよ。/大衆社会のいちばんの先進国だ。ドストエフスキーの『悪霊』なんかに出てくる、まるで観念が着物を着て歩きまわっているようなああいう精神的気候、/われわれには実感できないんじゃないですか/思想によって、原理によって生きることの意味をいくら強調してもしすぎることはない」。■

 柄谷は、小林秀雄と正宗白鳥のトルストイの家出と野垂れ死にをめぐっての論争を例示した。小林は、プロレタリア文学が傑作を生まなかったとしても、彼らは思想に生きた。日本において初めて思想が「絶対的な普遍的な姿で」存在したのはマルクス主義だけであると「私小説論」で述べた。丸山は、針生一郎との対談でそう言った。

《丸山こそ唯一の批評家である》
 柄谷は1984年に「ポストモダニズムと批評」という論文のなかで、丸山の発言は真の意味での「批評」だと称賛している。丸山は本物の「批評家」だと言っている。柄谷のみるところ、批評とは方法や理論ではなくて「生きられる」ほかないものである。小林秀雄は、戦中に思想を捨て「実践的な没入」でのみ感受できるベルグソン哲学の方向へ向かった。丸山はそれを実感信仰だといって批判した。丸山こそ批評家を継続した唯一の人である。ここで正確に、柄谷による批評の定義を見ておこう。「いきられる」の意味をかんがえながら読んでほしい。
■それは日本固有の問題ではなく、カントの「批判」とともに出てきた問題である。思想は実生活を超えた何かであるという考えは、合理論である。思想は実生活に由来するという考えは、経験論である。カントは合理論がドミナントである時、経験論からそれを批判し、経験論がドミナントであるとき合理論からそれを批判した。彼は合理論と経験論というアンチノミーを揚棄する立場に立ったのではない。もしそうすれば、カントではなくヘーゲルになってしまうだろう。この意味で、カントの批判は機敏なフットワークに存するのである。ゆえに私(柄谷)はこれをトランスクリティークと呼ぶ。■

《共同体の「個人の析出」の精緻な難解》
 柄谷は政治学者にして批評家たる丸山眞男の思考様式を追跡する。そして丸山の「個人析出のさまざまなパターン」に達する。これは、1960年の日米箱根会議に丸山が提示した論文(英文)である。私にはとても難解で十分理解したとは言えないが、乗りかかった船だと思い、柄谷論文を抜き書きをする。それなりに整序はしたつもりである。

 丸山は、伝統的な社会(共同体)から個人が析出individuationされるパターンを考察した。これが近代化とともに個人が社会に対してとる態度を四つに分類した。タテ軸の上部に、「結社形成的associative」、下部に「非結社形成的dissociative」、ヨコ軸の右に政治的権威に対して「求心的centripetal」と左に「遠心的centrifugal」なそれぞれ態度をとる個人類型を、四象限に分けて配置する。そしてこの四つの傾向をもつ個人を次のような四タイプに分けた。

■「民主化した個人タイプ(D・democratization)」は、集団的な政治活動に参加するタイプである。中央権力を通じる改革を志向する。
■「自立化した個人タイプ(I・individualization)」は、そこから自立的するが、同時に、結社形成的である。市民的自由の制度的保障に関心をもち、地方自治に熱心である。
■「私化した個人タイプ(P・privatization)」は、「民主化タイプ」の正反対で政治活動の挫折から、政治を拒否して私的な世界にひきこもる。
■「原子化した個人タイプ(A・atomization)」は、政治に無関心であり、逃走的であるが、それゆえに突如としてファナティックな政治活動に参加する。権威主義的育たなリーダーシップに帰依し神秘的「全体」に没入する傾向をもつ。

 一般的にいえば、近代化が内発的でゆっくり生じる場合はIとPが多くなり、後進国の近代化の場合は、DとAが多くなる。四つのタイプが一生を通して純粋不変であることは希である。

《日本でタイプIが育たなかった理由》
 近代日本に特徴的なことは、伝統社会が残っていたのに「私化」と「原子化」が早期に登場し、かつ圧倒的に多かったことである。「自立化する個人I」が育たなかった理由を、丸山はこう書いている。
■日本における統一国家の形成と資本の本源的蓄積の強行が、/驚くべき超速度で行われそれがそのまま息つく暇もなく近代化―末端の村行政に至るまでの官僚制支配の貫徹と、軽工業及び巨大軍事工業を機軸とする産業革命の遂行となった/その社会的秘密の一つは、自主的特権に依拠する封建的=身分的中間勢力の抵抗の脆さであった。/ヨーロッパに見られたような社会的栄誉をになう強靱な貴族的伝統や、自治都市、特権ギルド、不入権をもつ寺院など、国家権力にたいするバリケードがいかに本来脆弱であったかがわかる。/「立身出世」の社会的流動性がきわめて早期に成立したのはそのためである。政治・経済・文化あらゆる面で近代日本は成り上がり社会であり(支配層自身が成り上がりで構成されていた)、民主化をともなわぬ「大衆化」現象もテクノロジーの普及とともに比較的早くから顕著になった。(『日本の思想』)■

... 続きを読む
2019.06.21   〈いまごろ丸山眞男か〉という君へ(1)
    ―柄谷行人による「丸山眞男の永久革命」を読む―

半澤健市 (元金融機関勤務)

 本稿は、思想家柄谷行人(からたに・こうじん、1941~)が書いた丸山眞男論の紹介である。紹介する理由は、私はこの論文―正確にはエッセイというべきか―に衝撃を受けたからである。(1)で柄谷論文の要約を行い、(2)でその「衝撃」につて述べることにしたい。私は、丸山眞男や柄谷行人の「熱心な読者」でなく、読書好きな人間として「普通の読者」であると思っている。にも拘わらず、私は柄谷の丸山新解釈が、昨今では希有な問題提起であると感じた。

 柄谷論文は、丸山による戦後初期の政治論文集『現代政治の思想と行動』(1957年、未来社)の中国語版(沈力衛成城大教授訳で2018年刊行)の「序文」として、2016年に書かれた。柄谷は、丸山が「中国でほとんど知られていない」と知り、日本でもそうであろうと考えて、丸山の仕事の「概観」を書こうとした。それを『世界』(2019年7月号)に掲載された本論文の「著者解題」で述べている。

■柄谷行人「丸山眞男の永久革命」の要約
 『現代政治の思想と行動』は、戦後の約10年余の間に書かれた。その時期は二つに分かれる。第一期は、日本占領下であって米国流の民主主義と共産主義思想が併存、対立した時期である。ここで丸山は戦時下のファシズムを論じた。第二期は、講和条約後であって日本経済が復興を始め、ナショナリズムが復活した時期である。丸山は、主に政治と文学を論じた。

《「無責任の体系」のはじまり》
 ファシズムを論じた理由は、当時がファシズム批判と反省の時期だったからである。当時、学会・論壇での批判は、一つはアメリカの民主主義の立場、二つは独占資本と国家の結託とする立場から発せられたものであった。丸山はこれと異なる立場で、日独のファシズムの違いに注目したのである。ドイツ(ナチズム)の場合、ワイマール憲法に発する「下からのファシズム」であり、日本のファシズム(天皇制ファシズム)は、天皇制・軍・国家官僚による絶対主義的な体制であり、民主主義の欠如の結果に生じたとするものである。丸山は、日本におけるファシズムを、ファシズム一般に解消することなく、考察しようとしたのである。

 二つの戦犯裁判において、ナチス幹部は自己の行為の責任を認めながら正当性を主張したのに対し、日本の戦争指導者は正統性を主張せず、自分の責任を認めることはなかった。そして天皇の命令に従ったのだといった。しかし明治憲法によって無答責の立憲君主であった天皇は、自ら命令する立場になかった。さすれば日本の戦争には行為の責任者がいないことになる。丸山はそれを「無責任の体系」と呼んだ。日本ファシズムは、資本主義経済の矛盾から生じた問題でもなく、デモクラシーを疎外する封建遺制の問題として片づけることもできない。丸山は「もっと根深い日本社会の特性として、あるいは思想的な伝統において見なければならない」と考えた。この問題意識は、のちの思想史研究の出発点となった。

《ファシズムと大衆社会》
 第二期の丸山は、ファシズムを大衆社会の中に置いて日独の比較を試みた。丸山は、共同体と市民社会の対比、つまり人々が共同体に属するか、自立的な個人としてあるか、の対比で考えていたが、この頃から異なる視点を導入した。個人がばらばらのアトム(原子)と化した状態から、ファシズムが生まれるという観点である。とすればワイマール民主主義から独裁体制が生まれたのも大衆社会に起因することになる。これは戦前の日本にも当てはまる。事実上半封建的な社会であったが、都市化やマスメディアの発展で、大衆社会化が生じていた。そういう状況下にあれば「突如としてファナティツクな政治参加に転化することがある」と丸山はのちに書いている。(「個人析出のさまざまなパターン」、1968年).農村共同体から出てきた人々は、自立的な個人でなく、浮動する者となる。労働者階級も例外ではない。柄谷は「このような状態は丸山がこれを書いた当時も、さらに、現在でも進行している。戦前のファシズムのようなものにはならないとしても、似たような現象はいつでも起こりうるのである」と書いている。

《市民論への展開》
 丸山は運動家としては市民運動を唱えた。市民というと、ホワイトカラーであり、ブルーカラーのイメージではない。そのため丸山の主張は、西欧個人主義の市民主義だとか、知的エリート主義だと非難された。しかし丸山の「市民」は、「自主的に他者とアソシエーション(結社)を形成する個人」である。ヨーロッパで自立的都市は各種ギルドの連合体として始まった。市民社会はアトムが集まったのではなく、諸個人のアソシエーションとして始まったのである。日本には市民都市はなく、民主主義もなかった。丸山によれば民主主義とは、選挙投票や議会制度のようなシステムではない。民主主義は、たえず自主的なアソシエーションを更新する「永久革命」である。安保闘争で、丸山が市民運動を鼓舞したのはこの観点からであった。彼は、学生運動家からは市民主義者として、旧左翼からは非マルクス主義者として、新左翼からは特権的なリベラル進歩派教授として、80年代にはポストコロニアル派から、ナシナリストとして非難された。しかしそれらは、丸山の知的背景や経験を知らぬ者の言葉である。

《「政治」という問い―講座派の批判的継承》
 丸山が取り組んだのは一貫してマルクス主義の問題であった。それは1930年代に始まった。日本のマルクス主義理論は、「講座派」、「労農派」の二派に分かれていた。講座派は、明治維新後の日本は、絶対主義国家であり、社会主義革命に先立ち、封建的残存物である天皇制・地主制を撤廃するブルジョア革命が必要だという「二段革命論」を唱えた。
労農派は、明治維新をブルジョア革命と見て維新後の日本を近代資本主義国家と規定し、社会主義革命を主張した。講座派は、ロシア革命の経験を日本に適用したコミンテルンの理論に盲従するものであった。立憲君主制があり、普通選挙法が成立していた1927年時点で「君主制打倒」を掲げるのは愚劣である。柄谷は一方で、「労農派の認識は、ある意味では正しかったが、ある意味ではまちがっていた」という。彼らは、資本主義が発展すれば、天皇制・地主制のような封建的遺制は自然消滅すると考えていた。そして日本社会の「政治的・観念的上部構造」を深く考察しなかった。労農派は宇野弘蔵らの経済学者を輩出したが、講座派は歴史学や文学で強い影響力をもった。

 丸山はなぜ講座派に強い関心を抱いたのか。
講座派の理論には、天皇制をはじめ、明治以後の日本に残る「封建遺制」への注視があったからである。彼らは封建遺制の説明には失敗したが、「天皇制とは何か」を問う契機を残した。「政治的・観念的上部構造」には、相対的な自立性があり、その解明という課題を残した。史的唯物論では、国家は支配階級がもつ暴力装置である。だが暴力だけで持続的な支配は不可能であり、服従する者の積極的同意が必要である。経済的下部構造に還元できない「自立した政治的次元」があるのだ。それは上部構造である思想史を問うことに重なった。丸山はこれらのテーマを考え続けた。その過程で、丸山はマックス・ウェーバー、カール・シュミット、アメリカの政治学などを導入して語った。そのため西洋新知識に依拠した非マルクス主義者とみなされた。しかし丸山の仕事はもっぱら講座派的関心から来たのであった。ファシズムと戦争の下で、それを一人で考え抜いたのである。

《揺るがぬ社会主義者として》
 丸山の仕事は、ドイツのフランクフルト学派に比較できるであろう。この学派はナチズムに敗北した後に、一部はアメリカに亡命して、思考を重ねて「ブルジョアイデオロギー」であるフロイトの理論を社会的な視野の中で採用した。丸山の仕事は、フロイトやフランクフルト学派とは無縁であったし、マルクス主義に内在する問題を追跡しない、欧米新学説の輸入者とみられていた。しかし、丸山の認識は日本におけるマルクス主義運動の体験からきたのである。彼の親友は、マルクス主義運動の経験者である文学者竹内好や武田泰淳であった。
 丸山は、彼を批判した左翼がほとんど転向したのちも、また90年代のソ連崩壊で社会主義の理念が疑われても、揺るがなかった。彼が一貫して追求したのは「社会主義」であった。ただし彼はそれを「民主主義」と呼んでいた。それは自主的な諸個人のアソシエーションを創り出すことと同義であり、それを「永久革命」と呼んだのである。

 以上が柄谷論文の要約である。客観的たろうと努めたが我流である。興味ある読者は、『世界』掲載の原文に当たられたい。「《》マーク」中にある小見出しは『世界』編集部がつけたものである。『現代政治の思想と行動』は、現在は『増補版 現代政治の思想と行動』(1964年初版、未来社)が流通しており、内容に多少の異同があることを記しておく。(2019/06/14)

2019.06.05  私が会った忘れ得ぬ人々(九)
          立花隆さん――ゼネラリストたることを専門とする専門家たらん

横田 喬 (作家)

 戦前日本の「知の巨人」が南方熊楠(敬称略)だとすれば、戦後日本のそれはさしずめ立花隆だろう。南方は生ける百科全書とも言うべき博識で鳴らしたが、立花も凄い読書量や博学な点では負けていない。菊池寛賞・毎日出版文化賞・司馬遼太郎賞などを受け、理系学問の分子生物学や脳科学への造詣が認められ、東大大学院特任教授にも任じている。

 今から三十五年前の一九八四(昭和五十九)年、私は東京・文京区内の自宅に彼を訪ね、差しで一時間余り取材している。当時の『朝日新聞』紙面から紹介記事(概要)を引くと、
 ――田中角栄元首相の“天敵”として名をはせたルポライター立花隆(四四)は、父の勤めの関係で長崎で生まれたが、小学校から高校途中まで水戸で育った。本名・橘隆志。
一見ソフトに映るが、なかなかの意地っ張りだ。田中金脈を追及した十年前の雑誌論文『田中角栄研究』。権力者に弓引く身への相手陣営からの圧力も陰に陽に厳しかった。相手が強ければ強いほどファイトを燃やし、ロッキード事件公判を欠かさず傍聴、筆誅の刃をとぐ。

 小学生のころ、休日に水戸の大きな本屋に行き、終日立ち読みを続けて飽きなかったほど読書好き。文献や資料の核心を見抜く力に優れ、仕事仲間は「本を読む天才」視する。東大でフランス文学と哲学を専攻。『日本共産党の研究』『農協 巨大な挑戦』は政界などに波紋を広げ、『文明の逆説』『宇宙からの帰還』は現代文明や人間存在の本質を問う。
 着眼のよさと実証の確かさ、平易で力強い文章。ニュージャーナリズムの地位を高め、「角栄追究と早く縁を切り、もっと次元の違う仕事がしたい」――
 
 『田中角栄研究』は‘七四(昭和四十九)年秋、月刊誌『文芸春秋』の肝いりで二十人ほどのチームを編成。登記簿や政治資金収支報告書など公開情報を徹底的に調べ上げ、それを基に関係者に当たって裏付けを取る地道な「調査報道」の典型だ。角栄の息がかかる室町産業の例が凄い。農民たちから河川敷だからと五千五百万円の安値で買い取った土地が国に堤防を造らせて立派な土地に化け、八十五億円もの法外な値上がり益を懐にする。この論文に目を通し、私は正直「やられた」と感じ、己の非才ぶりに愛想が尽きた。

 立花は「小学三年で漱石(『坊ちゃん』)を読み、六年の時にディケンズ(『二都物語』)を読んだ」というから、驚く。両親は文学青年・文学少女上がりで、父親は書評紙の編集者で、家の中には沢山の本があった。が、立花は読書一辺倒でもなく、中学では陸上部の活動に励みハイ・ジャンプ1㍍64㌢の新記録をマーク。青白い秀才タイプではなかった。

 受験勉強で大変だった高校時代も、欧米作家が中心の『世界文学全集』を半ばは読破。東大入学後は「文学研究会」でサークル活動に励み、ドストエフスキーやトルストイは代表作のほとんどに目を通す。彼の両親は共にクリスチャンで、彼自身も子供の頃から教会へ行かされ、キリスト教の影響が強い、という。文学専攻の意義について、こう言う。
 ――文学を経ないで精神形成をした人は、どうしても物の見方が浅い。想像力が十分に培われていないために、物事の理解が図式的になり易い。
   続きを読む  
... 続きを読む
2019.05.20  平成と令和の狭間に考える
 ―「平成流」は持続可能だろうか

半澤健市(元金融機関勤務)

 4月30日の天皇譲位と5月1日改元の報道が少しは落ち着いてきた。
この時点で明仁・美智子夫妻の「平成流」とその前途について書いておきたい。
話を三つほどに分けて考える。
一つは、明仁夫妻が完成した「平成流」の凄さである。
二つは、回路の欠如または「菊のカーテン」の存在である。
三つは、「平成流」の危うい前途についてである。

《明仁夫妻が開発した「平成流」》
 テレビ画面では結婚式パレードや、被災者に膝を折って声をかける二人の姿を断片的に見るにすぎない。その背景・実態について、原武史の『平成の終焉』(19年・岩波新書)の見事な実証分析によって私は多くの情報を得た。同書巻末の皇太子時代と天皇になってからの行幸啓の一覧表を仔細に見て、私はある種の感動を覚えた。二人は結婚から退位までの60年間に、全国都道府県をくまなく三回もまわった。皇太子時代に一巡、天皇時代に二巡している。原は二人の巡行回数、範囲、国民への視線を、昭和天皇のそれと大きく異なるものとして、「平成流」と名付けている。一言でいえば国民との対話と寄り添いである。なかでも1960~70年の皇太子時代に行われた地方住民との「懇談会」や、原爆資料館での表情、沖縄への頻繁な訪問に、共感をもって「戦後民主主義者」をみている。

一体、行幸啓は何に基づいて行われるのか。
日本国憲法は、第四条で「天皇は、この憲法の定める国事に関する行為のみを行ひ、国政に関する権能を有しない」とうたっており、第七条で10項目の国事行為が列挙されている。憲法学者の長谷部恭男は、「象徴としての公的行為を想定することができるという見解がある」という客観的な表現のあとにこう書いている。(『日本国憲法』、19年・岩波文庫)
■国会の開会式で「おことば」を述べ、外国の元首と親書を交換し、第二次大戦の激戦地におもむいて戦没者を慰霊し、大災害の被災地におもむいて被災者と懇談する。これらは、憲法の列挙する国事行為として理解することも、全くの私的行為として理解することも困難である。宮内庁を経て最終的は政府が責任を負うべき公的行為として理解すべきだとの見解である。

原は、前掲書にこう書いている。
■宮中祭祀と行幸は、国事行為と違って憲法に規定されていませんし、皇室祭祀令のような法律もありませんので、天皇の意思を反映させる形で増やしたり減らしたりすることができます。しかしそもそも、「象徴天皇の務めとは何か」という問題は、天皇が決めるべき問題ではなく、主権者である国民が考えるべき問題のはずです。憲法学者の渡辺治は、「天皇の退位をめぐる議論でもっとも欠けているのは、天皇がそれを『全身全霊をもって』果たせなくなることを最大の理由にしている『象徴としての行為』とは何かを国民が議論することではないでしょうか」と述べています(『朝日新聞』二〇一七年四月二二日)。

《国民を阻む菊のカーテンは健在》
 「退位論議に欠けているのは象徴としての行為とは何かの議論である」という渡辺治や原武史の意見に私は賛成である。今までの憲法論議は九条論議であった。「象徴天皇の務め」など人々の視野になかった。
議論好きなインテリもこのテーマを敬遠し、庶民大衆はそれは「お上」が決めることだと思っていた。インテリは、特に敗戦直後には、天皇制廃止を主張していた。日本資本主義はフランス革命前の絶対王政と同じ段階だとする分析がまかり通っていたのである。
天皇制を前提としてその在りようを論ずるなんて恥ずかしい。それが往事の潮流であり今に続いている。戦争犠牲者の慰霊を「革新勢力」が先取りすべきだという意見―たとえば臼井吉見の―は少数派であった。後知恵になるが、これは日本の知識人の知的怠慢だったといえる。

権力を持ち復古を望む者たちは怠慢ではなかった。彼らは明仁夫妻の「民主的」行幸啓を阻止できなかったものの警備強化、提灯奉迎の日常化、懇談会の消失で行幸啓の形式化を図った。

《「令和」時代にも平和が続くだろうか》
 祭祀と行幸は憲法に明示的な規定がない。
「それだからこそ」明仁夫妻は、自ら開発した「平成流」を自由にやれたのである。
しかしそれは、「だからこそ」自由にやれない状況にならないであろうか。
安倍政治は、日銀総裁・法制局長官・中央官庁幹部・NHK会長選任の慣行を破った。エリートたちは忖度し隷従する者たちとなった。集団的自衛権の行使すら可能とする法律を作った。本来なら天地が逆転するような話である。

徳仁天皇の「即位後朝見の儀」における発言の先帝との表現の違いが気になると指摘したのはノンフィクション作家保阪正康である。
平成元年(1989年)1月9日に明仁天皇は、「皆さんとともに日本国憲法を守り、これに従って責務を果たすことを誓い、国運の一層の進展と世界の平和、人類福祉の増進を切に希望してやみません」と述べた。
令和元年(2019年)5月1日に、徳仁天皇は、「憲法にのっとり,日本国及び日本国民統合の象徴としての責務を果たすことを誓い,国民の幸せと国の一層の発展,そして世界の平和を切に希望します」と述べた。
二つの文章は、似たものに見えるが、保阪によれば「日本国憲法を守り」と「憲法にのっとり」はちがうのであり、また徳仁の「そして世界の平和を切に希望します」への文章のつながり方も明仁の表現と微妙にちがうのだという。超ミクロな議論だが確かにこの意味も大きい。 

《日本最大の危機は令和の御代に》
 目を外に向けよう。汎世界的なポピュリズムの猖獗、その論理的帰結としての日米同盟の空洞化、貿易戦争の覇権戦争への転化、それが世界恐慌につながる危険、五輪・万博後の日本経済の崩落。何をとっても前途は悪材料ばかりである。元号を変えて世間が良くなるなら苦労はない。戦後最大の危機が日本に訪れるのは「令和の御代」においてであろう。平成と令和の狭間に考えた悲観的な感想である。(2019/05/17)
2019.05.16  新宿にウグイス
  一概ではない東京の姿

杜 海樹(フリーライター)

都心に住んでかれこれ20数年になる。はじめの頃は単に鉄道の利便性等からの理由であったが、実際に住んでみると思いがけない発見が次々とあり、気がつけば終の棲家にと選んでしまっている。新宿駅からそう遠くない所に住んでいると話すと、大概の人からは「人間の住むところではない」とか「土地が高い」とか言われるのだが、それは少し的外れな思い込みでしかない。

確かに、新宿の駅前や地下鉄の駅前といった日本有数の大繁華街に限定すれば、テレビのニュース等で報道されている通り、べらぼうに高い値段がついていて、一般のサラリーマンが住宅を取得することなど全く不可能に近い所となっている。だが、そうした高値がついている場所は概ね駅から1キロ圏内に限った話だ。新宿の高層ビル群とて新宿駅から約1キロ圏内にしか建っていない。その先には昔ながらの低層住宅街が広がっているのだ。新宿区の用途地域等都市計画図を見ても駅前周辺だけが商業地域であり、それ以外は基本的に住宅地域に区分されていることが明確に見て取れる。駅前の高層ビル群の開発は集中的におこなわれて来たが、その周辺には1960年代頃の町並みがかなり残されているのだ。北新宿などでは、今でも家賃1~2万円台のアパートが数は少ないが存在している。新宿は人口約35万人の住宅街でもあるのだ。

近隣の商店街を歩けば、木のリンゴ箱を逆さにした台の上に野菜を並べて売っている八百屋さん、長靴姿で水を撒きながらの魚屋さん、大きな秤で量りながら切り売りするお肉屋さん、朝5時には開店する豆腐屋さん等々も軒を連ねている。他にも味噌屋、佃煮屋、豆屋、煎餅屋、草履屋とある。買物は大型スーパーでもできるが、こうした個人商店で1つ1つ買っては手持ちの籠に入れて歩くスタイルも残っている。店の前を通れば「いってらっしゃい、今日はいいお天気で~」といった会話が常に聞こえてくる。都心の方が地域コミュニティーが成立しているのかも知れない。

街も静かなもので住宅地に入り込めば車なども滅多に通らず、朝はお寺の鐘がゴーンと響き渡り天気が良ければウグイスが枕元で起してくれる。夏になればカエルやセミが大合唱、トノサマバッタやヤモリもいる。直径2メートルを超えるような大木も結構あり、緑も想像以上に豊かだ。江戸時代からの寺社仏閣も残っている。陽が暮れれば銭湯が賑わい、どこからともなく夜鳴きそばもやってくる。町会が盆踊りを主催すれば、広場には数万人の親子連れが繰り出してくる。

台東区の谷中などは情緒ある風景で観光地と化す程の人気となっているが、都心にはこうした古き良き風情が残っているケースがかなりある。根津、千駄木、雑司ヶ谷、早稲田等々なども味わい深い。風情だけではなく町名にしても二十騎町、船町、納戸町、箪笥町、細工町、袋町といった呼称が今日でも使われ続けているのも興味深い。

東京の人口は今や1400万人にも膨れ上がろうとしているが、その内実は実に様々だ。大東京というイメージだけがどうしても先行しがちだが、地域の生い立ちや都市計画のあり方で町の姿は随分と違っている。何事もイメージだけではなく事実を丹念に見る必要があると改めて思う。私たちは今この時代に起きていることを丁寧に見ていく必要があろう。そうでないと話は上滑りする。
2019.04.06 私の桜物語
韓国通信NO595

小原 紘 (個人新聞「韓国通信」発行人)

例年になく日本列島は桜の話題で大騒ぎだ。「花見酒の経済」で浮かれた30年以上前のバブル経済を思いだす。行きどころを失ったカネが土地と株に向い、投機がさらに投機を呼んだ落ち着かない時代だった。今年の春の話題は、桜と天皇と来年に控えたオリンピックの話ばかり。「世も末」などと嘆くまい。
8年前の春は悲しみの桜だった。今年は、辺野古の海が潰されていく春。故郷を失った福島の人たちの怒りが花に沈む。

人体冷えて 東北 白い花盛り      金子兜太

私の部屋は0.11μ㏜/h 24×365=1m㏜を下らない。
「平成最後」という枕詞が至る所につく今年の春は不気味でもある。

<喜連川の桜>
私の記憶にある桜は静かで希望とつながるものが多い。
なかでも栃木県喜連川(きつれがわ)の桜並木は忘れられない。精神障害者のメンバーたちと前が見えないくらいの桜吹雪の中を歩いた。いつも暗い顔をしている彼らが桜の中で微笑んだ。天使のように輝いていた。希望を見た気がした。私が職場を去ってから、障害者の社会復帰を目指す「希望の施設」は閉鎖され、15年が経つ。満開の桜を見るたびに、喜連川の桜と心の優しい彼らを思いだす。

<冠岳山の桜>
 韓国の桜も美しい。全国至る所に桜があって花見を楽しむ人が多い。酒盛りなどはしない静かな花見だ。友人夫妻4人で歩いた汝矣島 (ヨイド)の桜並木も素晴らしかったが、何と言ってもソウルの冠岳山(カナクサン)の麓の桜は特別だ。
留学時代、友人たちと花見にでかけた。林の静寂の中に佇む桜、それは幻想的だった。韓国の人たちが桜を見ながら通りすぎて行くのに、日本人の私たちは大きな桜の木の下で、桜と焼酎に酔いしれた。韓国人から花は静かに見ることを教えられた。
韓国の桜の多くは日本の植民地時代に植えられたという話がある。代表的な例が慶尚南道鎮海の桜だ。毎年行われる「軍港桜まつり」は毎年多くの人で賑わう。かつて日本人が植えた桜を韓国人が楽しむという構図。日本が「鉄道を敷いた」、「学校を作った」という話に通じる。韓国人が日本の軍都だった鎮海の歴史を知らないはずはない。花の美しさには日本人も韓国人もない。

<千葉の桜>
今年の千葉県はウサンクサイ桜が注目の的だ。桜田義孝氏である。地元住民としては迷惑な「桜だ」が満開だ。
彼は従軍慰安婦問題で本音をしゃべって文科副大臣を棒に振った。その後初入閣を果たして、「失言」「撤回」「謝罪」を繰り返して「時の人」になった。これだけ笑いものになったら辞職してもよさそうだが、地元では意気軒高として八選を目指す不滅の散らない桜だ。
安倍首相とは日本会議、ブルーリボン着用のお友だち。大臣としての資格が問われても首相も本人も「職責を全うする」と強気だ。「虚偽(フェイク)」発言が常習化した首相、麻生大臣という「本丸」が平然としている以上、桜田氏も安泰というわけ。
彼のポスターに取り囲まれて暮らす住民の一人としては実に不愉快だが、桜田氏は「とかげのシッポ」のように切り捨てるのはもったいない人物だ。ボロはいくらでも出てくる。安倍政権崩壊に貢献するに違いない。マスコミも「言い間違い」を笑いものにせず、積極的にインタビュー取材をして、政権の中に蔓延する「ウソ」と「時代錯誤」「ファッショ体質」を明らかにしたらどうか。「桜田叩き」くらいで政権批判をしていると錯覚してはいけない。「本丸」の巨悪を叩く意地を見せて欲しい。選挙民としては「落選」運動に挑みたい。

<日韓関係で問われていること>~花見に浮かれている時ではない
最悪といわれる日韓関係を改善するために何が出来るのか。冷静に見て日韓どちらが感情的か。感情的になったら、次は手を振り上げるのが「行動心理学」の定説である。ネットウヨクたちも日本政府も聞く耳を持たない現在、聞く耳を持つ市民の冷静な判断に期待するほかはない。
最近の韓国の新聞「中央日報」と「ハンギョレ新聞」の記事を紹介する。最近、麻生副総理が主張し始めた韓国への経済制裁に対する反論である。

ハンギョレ新聞が3月14日付電子版の社説で、麻生副総理の経済制裁発言を紹介し、「事実上の脅迫に近い」「植民地時代の過ちを反省する態度がひとかけらも見えない」と批判した。日本では「解決済み」一本やり、韓国最高裁判決を撤回しろと主張するが、ハンギョレは「当時の強制徴用が違法だったから、請求権協定の対象にならないという判決は正当」。まして「裁判当初から弁論に参加していながら敗訴すると、承服できない」というのでは納得し難いと主張した。
興味を引くのは、経済制裁の急先鋒となっている麻生副総理の父親が多数の朝鮮人を強制労働させた麻生炭鉱の社長だったことにふれて、その息子が徴用工問題で「報復」を口にするのは理解しがたいと指摘したことだ。麻生氏の言動が韓日関係をさらに落ち込ませ、日本側に修復する意思が見えないと報じた。
また中央日報は3月7日付電子版で二回に分けて筑豊の田川の取材を「麻生炭鉱徴用残酷史」として掲載した。
取材班は、石炭事業から撤退し現在は麻生セメントとして操業を続ける麻生産業と、かつて炭鉱で命を落とした朝鮮人の納骨堂を訪れた。彼らは慰霊碑に「朝鮮人」の説明がないことに気づき、朝鮮人の受難の歴史を隠していることに衝撃を受ける。
更にレポートを読み進めてみよう。
「朝鮮人労働者はダイナマイト爆破など危険な仕事に従事させられ、毎日1~2名が亡くなった」。
「朝鮮人の寮は自由のない収容所だった」。「賃金はまともに支払われず、暴力が支配する職場だった」。「1944年に福岡県が作成した資料では麻生鉱業の労働者7996人のうち4919人が逃走した」。
太平洋戦争末期、労働力不足を補うために朝鮮に「国民徴用令」を適用し、日本国内の鉱山、建設現場に多くの労働者が投入された。筑豊地帯では、3万人あまりが労働に従事させられた(日本石炭統制会資料)。
以上が「中央日報」の記事からの抜粋だが、朝鮮人たちの徴用の実態を知る日本人は少ない。
筑豊でも麻生鉱業は群を抜く恐怖の現場だったというのは有名な話だ。麻生副総理に父親の会社のことを聞いてみたい気がする。「息子の私には関係ネェー」と言いそうだ。彼は「創氏改名は朝鮮人が望んだ」と、日韓併合は相手が望んだと言わんばかりの発言を公然とする人間でもある。
二つの新聞記事は麻生副総理に関するものだが、韓国では以前から麻生元首相と東条内閣の閣僚として戦犯に問われた岸信介の孫である安倍首相に特別の関心を寄せてきた。
侵略に対する反省を拒み、祖父の宿願だった自主憲法制定に執念を燃やす安倍首相と、朝鮮人労働者を酷使した炭鉱経営者麻生太賀吉の息子である麻生副総理のコンビが韓国人の目にどのように映っているかは想像に難くない。
安倍、麻生の両氏が日韓の理解と和解の前に立ちふさがっているという韓国側の指摘。私たち日本人はどう説明したらよいのか。

<あとがき>
「通信」NO595号を書き終え、コンビニに出かけた帰り道、保母さんに連れられて散歩している保育園児たちと一緒になった。桜並木にさしかかると子どもたちから歓声があがった。「サクラだ、サクラだ!」。見上げて指さす姿。私も一緒に立ち止まって見上げた。
青い空に子どもたちの声が吸い込まれていった。
何だか嬉しくなって、子どもたちに声をかけて僕も一緒に歩いた。すると向い側からまたもや同じくらいの年齢の子どもたちの一団が現れた。そしてまたもや桜を見て声をあげた。
「桜のトンネルを歩きましょう」という保母さんが言うと、子どもたちは「サクラのトンネル」と叫んだ。通りかかった大人たちから「カワイイ」という声があがった。桜並木が途切れると、次はチューリップ畑。生垣にはユキヤナギとレンギョウが白と黄色のコントラストを見せている。
偶然に出会った「凄い光景」を見て胸がいっぱいになった。理屈抜きの幸せな気分。子どもたちの喜ぶ顔って、なんて素敵なんだろう。千葉にも本当の桜が咲いた。
数年前の春。二月の那覇の与儀公園。やはり保母さんに連れられて満開の桜の下で遊ぶ子どもたちを飽かずながめ続けた。これも私の大切なお花見の記憶だ。
sakura.jpg
<写真/那覇与儀公園2012/02>
2019.04.05 私が会った忘れ得ぬ人々(七)
大岡信さん――出合い頭にヤッと切りつける呼吸

横田 喬 (作家)

 この四月五日は、詩人・評論家として数々の業績を残したこの人の三回忌に当たる。私は大岡さんから諸々の著作を通じ、「言葉とは何か」「人間とは何か」という根本的に大事な問いに対する貴重なヒントを一杯頂戴した。今から四半世紀余り前、『朝日新聞』記者だった私は「日本ペンクラブ」会長の彼にインタビューを試み、やりとりを交わしている。当時の記事から、その発言の骨子を紹介すると、

 「この十四、五年大病しなかったのは『折々のうた』(当時の『朝日新聞』朝刊に長期連載された人気コラム)を抱えていたから。根を詰めて二年もやるとガクンときて、少し休む。気が抜けるせいか、体がどこかギクシャクしてくる。その繰り返し。今はファクスがあるからいいけど、初めのころは外国に行く時なんか困った。書きだめしようとすると、どうしてもたるむ。百八十字のところを二百五十字も書いたり。短く歯切れよくやるには、出合い頭にヤッと切りつける呼吸。死ぬ気でやる位の覚悟でないと」

 「無謀なことを平気でやる性格なんです。三十二歳の時、何の見通しもないのに、自分の詩文の方が大事だからと、まる十年勤めた新聞社を突然辞めてしまった。幼子を二人抱えながら、家計への認識ゼロ。女房は『一緒になった時、無一文だったのだから、またそうなったと思えばいい』と、すごいことを言ってくれた。女房の着物を質に入れた金で地方から来た友人と飲んじゃったり、頭が上がりません」

 大岡さんは静岡県三島市に生まれ育った。富士山の湧き水が川になって市内を貫流し、その清冽な原風景に詩人の感性を触発される。「水が豊富できれいだったことは、僕にとって決定的でした」と言う。亡父は歌人で短歌雑誌を主宰しており、幼いころから文学的雰囲気に包まれて育ったことも幸いした。旧制沼津中~一高~東大国文科卒。読売新聞外報部記者を経て、明大教授~東京芸大教授を務める。『折々のうた』で菊池寛賞のほか、評論『蕩児の家系』が歴程賞、『紀貫之』で読売文学賞、詩集『故郷の水へのメッセージ』は花椿賞。‘九七年に文化功労者推戴、’〇三年に文化勲章受章。

 彼の手になる金字塔「折々のうた」は連載開始が一九七九(昭和五四)年一月で、打ち止めは二〇〇七年(平成十九)三月。休載期間を挟んで足掛け二十九年にわたり、掲載はなんと全六千七百六十二回を数える。私は社説は読まない日はあっても、一面下の「天声人語」と「折々のうた」は必ず目を通した。日々を生きていく上で、「うた」は何がしかの慰藉と時には有難い示唆をもたらすからだ。彼自身は、社告の「筆者のことば」でこう述べている。

 ――私たちは生活の中で、『これは!』と驚いたり心動かされるものに出会う。ささやかな『これは!』が人を生かす力にもなる。私はそれを古今の詩の中に求めてみたい。
 一九九〇年代に朝日新聞社を表敬訪問したニューヨーク・タイムズのトップは「恋の歌が新聞の一面に載るのは、世界でも朝日新聞だけ」と称賛している。

 大岡さん自身の詩人としての軌跡をざっと辿ると、東大国文科当時の作品「海と果実」は、
 ――砂浜にまどろむ春を掘りおこし/おまえはそれで髪を飾る おまえは笑う/波紋のように空に散る笑いの泡立ち/海は静かに草色の陽を温めている(第一連)――
 大胆で率直。それでいて、瑞々しく温和な響きが感じ取れる。

 ‘六八年刊行の『大岡信詩集』(思潮社)所収の詩「地名論」は、こうだ。
 ――水道管はうたえよ/御茶の水は流れて/鵠沼に溜り/荻窪に落ち/奥入瀬で輝け/サッポロ/バルパライソ/(中略)奇体にも懐かしい名前を持った/すべての土地の精霊よ/時間の列柱となって/おれを包んでくれ/(中略)名前は土地に/波動をあたえる/土地の名前はたぶん/光でできている/(中略)瀬田の唐橋/雪駄のからかさ/東京は/いつも曇り――
 機知に富む音とリズムが快く、微笑ませ、哄笑さえ誘う。が、思索的というのか、どこか考え込ませずにはおかない響きがある。

 ‘七〇年、俳人・詩人の安東次男や作家の丸谷才一らと「連句の会」を始める。連歌・連句の伝統に倣い、一つの詩を例えば五人の詩人が三~五行ずつ書き継ぎ、大きな一つの作品に仕上げていく試みだ。後には海外の作家や詩人らとも長期にわたって共同創作を試み、大岡は「共同でものを作れば作るほど、一人一人の個性が洗い出されてくる」と言っている。

 中年以降は散文詩も試みている。‘〇一年刊『世紀の変り目にしやがみこんで』(思潮社)所収の「雪童子」は四百字詰めで二十枚近い長行だ。調布にある自宅の仕事部屋の窓の向こうに植木林が広がる。植え替え時に空き地同然となった冬のある一日、「私はそこに面白いものを見てしまつた」。一面の白銀世界の中、五つ、六つ位の男の子が「プールのへりに立つた姿勢で、(中略)ザブーン、飛び込みをやつてのけたのである。/私は思はず声をあげて笑つてしまつた。」。男児はやがて雪原の上に寝そべり、空き地の一方の端から他方の端まで二、三十㍍の間をごろごろ、無我の境地で、余念なく転がり始める。「ああ、面白い見ものだつた。」/「『あんなふうにやれなきあ駄目だなあ』といふ思ひが油然と湧いた。」うんぬん。
 おしまいの締めが断然いい。平凡な大人はとかく「無我の境地」に縁遠いから。

 特筆しておきたいのは、文化面での彼の国際貢献の素晴らしさだ。年譜を見ると、三十代から六十代にかけて欧米やアジアなどの十数か国を足繁く訪問。講演を行なったり、当地の作家や文学者らと活発に交遊。返礼のようにフランスの高名なシャンソン歌手ジュリエット・グレコが来日し、大岡と共訳した「炎のうた」を歌ったり、公開対談に応じている。彼の諸作品は英・仏・独・中など七か国語に翻訳ずみだ。‘九〇年代半ばにはパリにある国立の高等教育機関コレ―ジュ・ド・フランスで二年にわたり集中講義を行ない、フランス政府から度々芸術文化勲章を贈られている。

 評論では、『詩人・菅原道真 うつしの美学』(’八九年、岩波書店)が感銘深い。道真は中年期に讃岐守(現在の香川県知事)となり、在任中に「寒早十首」という漢詩を詠む。当時の庶民の貧窮のさまを職業や境遇に即し、十首の詩として具体的に詠じたものだ。主題の中心は国家と個人の接触~衝突する最大の一点、租税(及び役務)の問題。彼は平安朝最高の漢詩文の使い手だが、範と仰ぐ中国の詩では同様の主題が詩の正統的主題の一つだった。 

 この「寒早十首」のお手本は白居易の「和春深」二十首で、道真は大和伝統の「うつし」から入り、「乗り移る」状態にまで行き得た。道真は貧富の問題を真剣に憂える、今で言う革新思想の持ち主だったようだ。そう考えると、異数の栄達を遂げた彼の既得権益層・藤原一門との衝突~大宰府配流~悶死という悲劇的宿命の謎が一挙に解け、一層哀れさを増す。

 ‘九五年の名著『日本の詩歌』(講談社)の「あとがき」で、彼は要旨こう述べる。
 ――和歌は日本の文学・芸術・芸道から風俗・習慣に至るまで根本のところを律してきた。漢詩の偉大な代表詩人菅原道真は、悲劇的な生涯そのものにおいて、日本の文明、文化全般に対する恐るべきアンチ・テーゼとなった。日本の詩歌に自己主張の要素が極めて乏しい理由について、思いを巡らさせられる。
 日本人一般に大勢順応型が多く自己主張が乏しいのは、「出る杭は打たれる」とこの菅公の悲劇が深層心理に響いているせいでは、と私は疑っている。

2019.03.13 私が会った忘れ得ぬ人々(6)
上野千鶴子さん ――私は育ちが悪いの
           
横田 喬 (作家)

 初対面は今から丁度三十年前の平成元年(一九八九)のこと。彼女は当時四十一歳、フェミニズム(女性解放論)切っての論客として売り出し中。富山県出身で京大文学部大学院修了。社会学・文化人類学・記号学などを専攻し、肩書は京都精華大助教授。若くして著書には『セクシーギャルの大研究』『資本制と家事労働』『構造主義の冒険』『女という快楽』『女遊び』などの話題作が数々あった。
 昼下がりにJR京都駅からほど近い寿司屋で落ち合い、寿司をつまみ生ビールのジョッキを傾けながら、しばらくやりとりを交わした。私の一番の関心は、保守的な風土の北陸に育ちながら、なぜ女性解放の旗手と仰がれる先鋭的な存在になったのか、という一点。彼女の説明はすこぶる明快で、なるほどなあと合点がいった。

 彼女は富山市内の開業医の家に生まれ、兄と弟との三人きょうだいの真ん中の独り娘。両親とりわけ父親に溺愛され、大事な箱入り娘として育つ。いわく、
 ――父は、女の子が自転車に乗るのは危ない、と練習をさせなかったほど。私は、自分を抑えることをしないで、ちやほや甘やかされて大きくなった。分をわきまえる育ちにならなかったのね。だから、自分の頭を抑えにかかってくるものにはガマンならない。自分では「私は育ちが悪い」と言ってるの。

 当時の彼女は、①挑発には乗る②売られたケンカは買う③ノリかかった舟からはオリない、を処世三原則として掲げていた。ケンカっ早く、かつケンカ上手で、この取材の直前には、作家・曽野綾子との論争が話題を呼んだ。
 曽野の上野批判(『新潮45』一九八九年九月号の「夜明けの新聞の匂い」)は、例えばフェミニズム批判として、
 ――私は昔から、いわゆるフェミニズム運動が嫌いである。
 ――昔からほんとうの実力ある女は、黙って働いて来た。戦前でも、だれも海女や行商のおばさんや電話の交換手さんのことをばかにしたり、彼女らはいなくていい存在だなどと思った人はいない。

 一方、上野による反批判(『月刊Asahi』’89年11月号の「女による女叩きが始まった」)はこうだ。
 ――「ほんとうの実力ある女は、黙って働いてきた」という言い方で、曽野さんは、私は実力があるから発揮してきた、実力を発揮できないあなたはしょせんバカなのよ、と言い放っていることになるのだ。 
 ――エリートの女はあまりにプライドが高いために、個人の問題を類の問題に結びつけることができない。その結果、彼女たちは強者の論理を身につけ、弱者への想像力を失ってしまう。エリート女のエリート主義は困りものだ、と自戒をこめて言っておこう。

 そして、フェミニズムは社会的弱者の運動であること、女が「実力を身につける」のに様々な構造的な障害があることが問題なのであり、その構造的な障害をなくそうというのがフェミニズム運動であることを諄々と説く。
 思うに、当時の曽野には上野に対する「上から目線」があったのではないか。カトリック作家として社会的栄光を手にする我が身と、京都の一私大の助教授ふぜいの論敵。少々たしなめてくれよう、と見くびる気持ちがなくはなかったか。だが、鋭利な頭脳と的確な言語表現力で勝負あり、私は上野の完勝と判定する。

 それから五年後の平成六年、思わぬ形で彼女との再会がかなう。都内で開かれた歴史家・色川大吉さんの新著出版記念パーティの席だった。色川さんは六〇年安保闘争へ参加~「底辺の視座」に立つ民衆史を研究し、行動する学者として私が深く尊敬する人物の一人だ。
 色川さんから祝辞のスピーチを述べるよう急に指名され、事前に用意のない私はへども
どしながらも務めをなんとかこなした。一息ついて辺りを見回すうち、参会者の中に上野さんが居るのに気づいた。あでやかな和服姿だったように記憶する。私は彼女に近づき、「一別来です」と祝杯のおかげもあって軽口をたたいた。彼女は私のことをちゃんと覚えていて、少々はにかんだような笑顔と言葉を返した。

 初対面のころ、上野さんは『朝日新聞』に「ミッドナイト・コール」と題するエッセイを連載していた。「かさばらない男」と題するその一編に、色川さんがこう紹介されている。
 ――「好きな男性は?」と聞かれて、わたしはすかさず「色川大吉さん」と答えてしまった。(中略)色川さんは小柄で風采のあがらない初老の歴史学者(ゴメンなさい)。見てくれはおしゃれでもなければ、カッコよくもない。このひとは、笑顔がすばらしい。相手の心の中を見透かすような哀しい眼をして、くしゃくしゃと笑み崩れる。
 そして、色川さんは旧制高校山岳部仕込みの山スキーが得意で、スキューバダイビングもやるし、ヒマラヤ登山もする体力は驚嘆に値すること。わたしは色川さんと講演旅行でオーストラリア各地をレンタカーで一千㌔も相乗りをした仲であること。等々を書き添え、「かさばらない」えがたい存在にして、「筋金入りのモラリスト」と敬意を示す。

 私は言いえて妙、と共感した。彼女の連載エッセイは着眼点・文章表現ともなかなか秀逸で、その才能には時として羨望や嫉妬めく思いさえ感じたことも正直に白状しておく。
 彼女はこの再会の前年に東大文学部助教授に迎えられ、二年後には教授に昇進する。彼女は初対面の折、大学の進学先を京大にしたことを「大当たりだった」と自認し、こう言った。
 ――関西は本音の文化だから、口先で何を言ってもビクともしない。東京人のように建前に捉われないから、カッコつけてもの言ってもダメ。しっかり鍛えられたのでよかった。
 上野さんは還暦目前の二〇〇七年、著書『おひとりさまの老後』がベストセラーになる。
独居老人をめぐる諸問題は、彼女自身の身の上とも重なる切実なテーマだったのだ。そして、四年後には五百頁もある大著『ケアの社会学――当事者主権の福祉社会』を著す。

 日本の老人介護(ケア)の現状を多角的・網羅的に考察。ケアを介護の担い手別に「国家」「市場」「市民社会」「家族」の四つに分類し、それぞれと照合する官・民・協・私の四セクターの現状を吟味する。そのベストミックスこそが「望ましいケア」へのカギと論じ、中でも「共助」に通ずる協セクターこそが枢要な位置を占める、と説く。
 近代には「家族」「市場」「国家」の三点セットが万能視されたが、二十一世紀ではこの近代トリオが限界に達し、第四のアクター「市民社会」こと協セクターに期待がかかる。新しい共同性、すなわち自助でも公助でもない共助の仕組みの考案である。

 協セクターへの追い風はNPO法と介護保険法の成立だ。首都圏や九州の生活クラブ系生協ではワーカーズコレクティブの活動が「食べもの生協」から「福祉生協」への事業拡大と転換を実現。生協以外でも、厚労省指定のモデル事業となった富山県のNPO法人「この指とーまれ」の小規模多機能型居宅介護の成功例もある。希望がないわけでは決してない。
 この著作は机上の理論研究より現場調査の分析考察に重きをおき、介護保険法の成立~実施にからむ八年に及ぶ全国の事例調査・研究の成果がぎっしり詰まっている。まさに「ケア学大全」と呼ぶにふさわしい労作だ。京大出身の彼女の東大招聘は正解だった、と感じる。