2017.02.22  君は蓑田胸喜を知っているか
   ―新劇「原理日本」の再演―

半澤健市 (元金融機関勤務)

《「原理日本」を書いた久板栄二郎》 
 「原理日本」とは、47年振りに「青年劇場」が再演した新劇のタイトルである。だが、本来「原理日本」は、戦前・戦中に超国家主義者蓑田胸喜(みのだ・むねき)が発行した雑誌の名前である。戦前の思想弾圧は多様で複雑な局面がある。1933年から1940年代に至る期間のなかで、刑法学者瀧川幸辰(たきがわ・ゆきとき、33年)、憲法学者美濃部達吉(35年)、古代史家津田左右吉(40年)の思想的抹殺は、アカデミズム弾圧の大きな事件だった。蓑田はこれら事件の主役であった。

1970年に書き下ろされ、同年に俳優座で初演された久板栄二郎(ひさいた・えいじろう、1898~1976)作の「原理日本」は、この三つの事件を題材にしている。それは、蓑田胸喜と彼を取り巻く知識人・政治家・軍部の言動を描いている。奇矯な人物の政治利用と使い捨て、インテリの抵抗と敗北、人々の処世と転向が正攻法のリアリズムで表現されている。時空は戦後に及び、時流に乗る知識人や敗北した国家主義者の混迷が描かれている。
久板は、プロレタリア芸術運動における有力な劇作家であった。「北東の風」(1937)が代表作とされる。戦後は、黒澤明の「わが青春に悔なし」、「白痴」、「悪い奴ほどよく眠る」をはじめ、木下恵介や衣笠貞之助らの名作映画の脚本家としても知られる。

『久板栄二郎戯曲集』(株式会社テアトロ、1972年刊)に載った9作品の最後にある「原理日本」は、私にはずっと気になる存在であった。戦後28年目に、久板がこれを書いた意味は何なのかを、知りたかったのである。

《天皇機関説事件と国体明徴》 
二、三の場面を戯曲から抜粋(=一部割愛を含む)して掲げる。
猿田は蓑田がモデル、広瀬は転向した新聞記者、林と平山は陸軍将校、壬生は歴史学者、浅香は歌人で猿田の旧友、ゆり子は猿田の庶子、山下は赤紙を受けた学生である。
山路は貴族院議員で、モデルは菊池武夫。

〈猿田筆の山路演説における美濃部批判の論理に関して〉
猿田 私が君、赤化共産主義の調伏に乗り出して十年。共産党は、佐野・鍋山ら最高幹部までが日本精神に転向だ。滝川幸辰、恒藤恭、末広厳太郎と、赤の温床である自由主義、デモクラシーを総なめにして、いよいよ、東大法学部の牙城に迫ったというわけだ。
広瀬 拝見したところ、烈々たる気迫は感じられますがね。論旨が、スーッとこう、来ないんです。
猿田 そりゃ君、ラジカルにも書けんじゃないか。ストレートに書いたら君、皇道派は熱狂するだろう。しかし、陸軍省や軍務局あたりに巣くう統制派の一味は何というか。一方を刺激するのはこの際まずいぞ。
広瀬 僕は、思想批判としていっているんです。論理にどうも飛躍があるようで。
猿田 飛躍? ふっふ、君ィ、活字で読ませる雑誌原稿とは違うぞ。あっはっはっは。見ていろ。今日の貴族院は沸くぞ。演説者が誰であるかもちゃんと計算して文を練ってあるんだ。

〈しかし山路演説は美濃部の見事な反論で一旦失敗する〉
 ま、お聞き下さい。理論が通っていようが、いまいが、今更どうだというんです。ここは、国体という錦の御旗をかざして、押し切ることですよ。
猿田 その通りだ。〝国体明徴〟とおれがいったのは、まさにそのことだよ。うむ。
 昨日と今日とでは情況が違ってきています。昨日までは、機関説は、一部の学者やインテリの間で論じられたにすぎなかったでありますが、新聞がれいれいしく書き立てたおかげで、一般国民の間にまでひろがったわけであります。
猿田 それなんだよ、困難は。
 困難? あべこべですよ。禍いを転じて福となす――一般の関心の高まったのを逆に利用してですね、一大国民運動を起こすのです。
平山 荒木閣下はいっておられました。機関説はまさに維新達成の前に立ちはだかる万里の長城だと。
林 これさえ打ち砕けばですね、われわれは天皇の御名によって何でもできる。天皇の統帥権の前には、政府、枢密院の骨董品共や、議会内の小雀共もシュンと黙るでしょう。国民は勇躍して戦争に立ち上がり、忠良無比なる若者は、欣然として死んでくれます。

《開戦前夜の「先生と学生」・戦後の現状分析》
山下 どうして弾圧されたんですか、そんなに脆く。
壬生 国民大衆の中に深く根をおろしていなかったからだ、とよくいわれるがね、それでは答えにならない。なぜ、根がおろせなかったか、だな。
(声をひそめ)国体・・・天皇制・・・国民の魂に深くしみこんでる・・・ね? これはもう、驚くべきもんだよ。もともと民主主義のないところへ、明治以来、小学校教育で叩きこまれた物の考え方だからね。・・・社会主義や労働運動などは、国体と相容れない思想だということで、池の水面に浮かんだ木の葉かゴミのように、わけもなく掬われてしまった。しまいには、歴史学者や、芸術家、宗教家まであっさりとね。理屈も何も要らないんだ。万世一系や紀元二千六百年を持ち出せば、国民はそれで納得したんだ。恐ろしいもんだよ。・・・津田博士や川波書房(モデルは岩波書店)が最後にやられたことで、人民の側に残っていた理性や良心は、小骨まできれいに抜かれてしまったわけだ。戦争への道ならしさ。

〈次は戦後の会話である〉
浅香 ゆりちゃん。心配するな。日本は軍備を捨てて平和国家になったんや。
ゆり子 天皇がいるわ。
浅香 わからん人だな。皇室は平和国家のシンボルやないか。長い眼で見ていたまえ。アメリカは日本を理解しているよ。財閥解体なんて命令出したけど、資本主義のアメリカが、日本の資本家を根こそぎするはずがない。あれはね、対日理事会のソ連派に対するゼスチュアさ。そのうちに財閥も生き返って来るし、いい時代がめぐって来るよ。(微笑で)僕はね、東京駅へ降りて、まず皇居に立ち寄ったんだが、あの広場で多数の人が草むしりをしている。それが全国から集まってきた清掃隊なんや。ここに日本人の心の古里がある。僕はそう思ったね。これがある限り、日本はきっと立ち上がれる。
ゆり子 どう立ち上がるの?
浅香 どうって? 平和な国としてさ。財閥解体なんて命令出たけど、あれは表向きのことでね、資本主義のアメリカが、日本の資本家を根こそぎするはずがない。今に財閥だってよみがえるし、繁栄がくる。
ゆり子 そこへまた大明神が現れて、火をつけて廻るのね? 八紘一宇の火を。

《久板栄二郎は何を書きたかったのか》
 久板の執筆意図は何だったのか。
1970年はどんな年だったか。68年以降、世界的な反戦反体制の運動が高揚した。米中関係は対立から共存への道が始まる。72年2月にはニクソン米大統領が訪中し、9月には北京で歴史的な日中共同声明が発表され国交が始まった。
国内では、68年の日大闘争・東大闘争から全共闘運動が全国化した。若者の「異議申し立て」の時代である。それは72年の連合赤軍事件に帰結した。一方、体制側は68年に「明治百年記念式典」を行い、ナショナリズムが国民の内面に浸透し始めた。高度成長は、経済ナショナリズムにつながったのである。

新左翼の思想は文化面では、なお続いていた。演劇界では異議申し立てが声高に叫ばれていた。世代とイデオロギーの対立である。この時期の戯曲は、ポストモダン思考に彩られて、情況を「相対化したり」「破壊したり」する作品が主流となった。八巻の『現代日本戯曲大系(第一期)』(三一書房)には、120本余の戦後作品が掲載されているが、1970年の作品として「原理日本」は載っていない。
当時70歳前半の久板栄二郎は、既に「旧派」で「過去の人」と見られていたようである。しかし「原理日本」は、新しさを過大評価する演劇界への、久板の異議申し立てであった。事実、久板自身が「おれの書けるものを、書きたいものを、おれの身につけた手法でできるだけ古いものをそぎ落として鋭く描く。(略)さっき〝居直り〟ということばを使ったけれども、大いに居直るつもりで「原理日本」を書いたんです」と発言している。(『久板栄二郎戯曲集』の村山知義、千田是也、久板の座談、三国一朗司会)

「原理日本」のテーマは、半世紀を生き延びて、我々に匕首を突きつけている。
私は2月18日に、大谷賢治郎が演出した青年劇場の舞台を観た。当時の久板の危機感と、いま「原理日本」を発見する意味がよく分かった。公演は26日まで続くが、入場券はほぼ完売のようである。何とか入手して観て欲しいのでこの感想を書いた。(2017/02/20)

2016.11.23  学ぶことの意義を知る
      映画『まなぶ 通信制中学 60年の空白を越えて』を観る

岩垂 弘 (ジャーナリスト)

 「学ぶってなんと素晴らしいことだろう」。その映画を見終わった時、私の心を満たしたのは、そんな感慨だった。その映画とは、通信制中学校で学ぶ高齢者たちを追ったドキュメンタリー映画『まなぶ 通信制中学 60年の空白を越えて』(92分)で、11月16、18の両日、東京都千代田区の日比谷コンベンションホールで有料試写会があった。

 『まなぶ 通信制中学 60年の空白を越えて』をつくったのは、映像ディレクターの太田直子さん(埼玉県蕨市)である。
 太田さんは、2010年に埼玉県立浦和商業高校定時制の授業と生徒たちを記録した『月あかりの下で~ある定時制高校の記憶』(製作著作・グループ現代)を発表、文化庁文化記録映画優秀賞、平和・協同ジャーナリスト基金賞荒井なみ子賞などを受賞したほか、日本映画ペンクラブ文化映画部門で 第1位に選ばれた。
 それに次ぐ作品がこんどの映画で、東京都千代田区立神田一橋中学校の通信教育課程に学ぶ高齢の生徒たちの姿を、2009年から5年かけて記録したものだ。太田さんは監督、撮影、語りを務めた。

 私は、夜間中学があることは知っていた。それを舞台とした劇映画やドキュメンタリー映画を観たことがあったし、それに誘発されて都内の夜間中学を訪れたこともあった。が、通信制中学という学校があるとは知らなかった。だから、大いに興味をそそられ、試写会場に出かけた。

 第2次世界大戦後、日本の学校制度は大きく変わった。1947年4月に始まった新しい学校制度では、義務教育は9年になった。小学校6年、中学校3年である。
 太田さんによると、敗戦直後は社会が混乱していたため、さまざまな事情で中学に進学できなかったり、進学しても途中で辞めざるを得なかった子どもがいた。このため、そうした子どもたちのためにつくられたのが、中学校の通信教育課程だった。当時は全国各地に設けられたが、その後、対象者が激減し、現在では、神田一橋中学校を含め全国で2校だけという。

 神田一橋中学校の通信課程の生徒は、月に2回の登校、つまり年間20回程度の面接授業(スクーリング)と、与えられた課題にレポートを提出するための自宅学習を通じて学ぶ。
 太田さんは、戦争直後の混乱や家庭の事情により学齢期に中学校を卒業できなかった60代から80代の男女6人の学習ぶりと家庭生活をカメラで追い続けた。

 映画は、都心の千代田区一ツ橋にある神田一橋中の校舎に登校してくる高齢者たちの登場で幕を開ける。喜々とした高齢者たちの明るい表情。高らかにあいさつを交わし、談笑する高齢者たち。その後、映画は、教室で先生を相手に英語や、国語、理科、習字、体育などを学ぶ少人数の高齢者たちの様子を映し出してゆく。太田さんは、彼らにカメラを向けながら、学齢期に中学を卒業できなかった理由を語らせる。

 家が貧しかったので、家計を助けるために小学校卒業と同時に奉公に出された人。やはり、家がまずしかったので、家事や育児を手伝わなければならず、そのせいで学校に通うのが難しくなった人。障害が理解されないことから孤立し、60歳になるまで自宅に引きこもっていた女性・・・

 中学校で学べなかった悲しみもまた深かった。「学校に行かずに子守りをしていた時、学生服をきた集団とすれ違い、思わず隠れた」と話す女性。「制服の生徒や修学旅行生を見ると惨めな気持ちになった」と語る人。国民学校初等科を終えた後、職人として50年働いた男性は、中学校に通えなかったのに、学生服を着て撮った写真を大事に保管していた。「憧れていたんですよ」。学生服を着て映画を観にいったこともあったという。「その方が安かったし」

 中学で学べなかったことを残念に思う気持ちが強ければ強いほど、「歳とってからでもいい。何としても中学で学びたい」という気持ちが募るようだ。そうした高齢者の思いが、ひたひたと画面から伝わってくる。それとともに、「何としても中学を卒業したい」という願いの奥には「学歴がないために世間から差別された」という思いもあることが、画面から伝わってくる。
 
 映画の後半は、同中学校で学ぶ2人の生徒の追跡が中心となる。
 その1人、12歳で奉公に出され、他人と関わることが苦手だった70代の男性は、学習の甲斐あって卒業証書を手にする。監督のインタビューに「これまでは、自分の考えしかなかった。教育を受けていないから世界が狭かった。分からないとだらけ、知らないことだらけだった。しかし、ここで学ぶことで、自分が豊になった。これまで見えなかったことが見えてきた」と語る。
 もう1人の、病に倒れた夫の介護を続けるかたわら、自身もうつ病を患いながらスクーリングに通って卒業証書を手にした女性は「学校にいると、青春になっちゃうの」「とにかく楽しかったわ」と笑う。
 この2人は卒業後、都立高校を受験し、ともに合格する。

 2人の発言は、まことに感動的だった。「学ぶこと」の意味を観客に示してくれたように思えた。2人が言いたかったのは「教育は人間を豊にする」ということではなかったか、と思った。
 太田さんも、会場で配られた「監督のことば」の中で、こう語っている。
 「カメラを向けながら、けらけら笑うおばあさんたちが、そのまま十代の少女のようにみえることがありました。自分の子どものような年齢の先生に注意されて小さくなったり。そんな姿をみてあらためて思うのは、『学校』という場の大切さです。教える人がいて、学ぶ人たちがいて、学ぶ何かがあって。そこでは、学ぶ人はみな自分なりに、自分を磨くためだけに学ぶ。その場所の意味を通っていた頃は感じませんでしたけど、『学校』って自分を育てるために行く場所なんだ、と」

 それにしても、映画を見終わった後、映画に登場していた高齢者が学齢期に中学校に通えなかったことの背景に「戦争」と「貧困」が濃い影を落としていたことが、強く印象に残った。
 例えば、ある女性は、人並みの生活をしていた家庭に育ったが、37歳で召集された父親が南太平洋の島で死亡(餓死)したため、残された一家は貧窮に陥った。彼女は家計を助けるために働かざるをえなくなり、国民学校高等科を中退、子守奉公に出た。「同級生の多くが新制中学に編入して行ったのに、自分は勉強できず悔しかった」
 戦争が、多くの子どもたちから「学ぶ機会」を奪ったという事実に胸が痛んだ。決して戦争を繰り返してはならない。改めてそう思った。

 『まなぶ 通信制中学 60年の空白を越えて』のモーニングロードショーが2017年3月25日(土)午前10時30分から、東京・新宿の「K’s cinema」(03-3352-2471)で行われる。問い合わせはグループ現代(03-3341-2863)へ。
 
2016.03.24  原節子の戦争と平和(5)
    ―伊丹万作版『新しき土』の物語―

半澤健市 (元金融機関勤務)

 『新しい土』はファンク版と伊丹版の二本が作られた。
映画史家貴田庄(きだ・しょう、1947~)が近著『原節子物語―若き日々』(朝日文庫、朝日新聞出版・2016年3月刊)でその事情を述べているので、それに従い経緯を簡単に紹介しておく。というのは拙稿「原節子の戦争と平和(2)」で、伊丹版の内容について私は殆ど触れていない。それが気になっていたからである。

《共同監督伊丹万作はなにをしたのか》
 伊丹万作は「共同監督」としてスタッフの一人であった。
その背景には、日独スタッフ仲介の適任者として川喜多長政が推した可能性、ナチスドイツ側が日本人を共同監督とすることを当初から考えていた可能性、のいずれもが考えられると貴田はいう。長政夫人川喜多かしこは戦後の回想で、日独共同の国策映画の監督を伊丹は受ける気はなかったが、最後はファンクの強い要請に応じたのだと書いている。
モダニスト伊丹は、ナチス的なるものには、反対の考え方の持ち主であった。その理由を逐一述べる余裕はないが、心ある読者には筑摩書房『伊丹万作全集』の一読をお勧めする。しかしその映画作家は、少しは自分の考えを反映させうる『新しい土』の脚本執筆にすら参加できなかった。

結局、彼の役割は日本を知らないファンクの画面に対する編集上のアドバイスをしたり、日独スタッフ間の調整役のようなものであった。最悪である。その過程で二人の関係は険悪となり、遂に、ファンク版と別に伊丹版が作られることになった。しかも伊丹版も脚本はファンクによるものである。伊丹万作の心身両面の苦労は大きかった。このときの過労が元々病弱だった伊丹の敗戦直後の死につながった。この認識は親しい関係者に共通するものだという。

《日独両国における『新しい土』》
 私は念のために、『新しい土』をネットで見たが画質は悪いが何とか筋は辿れた。かつて大スクリーンで私が見たのはこのファンク版である。

伊丹版はどう違うのか。
貴田の叙述から読みとれるのは次のことである。脚本が同じだから筋に大きな違いはないが、主人公の留学先がイギリスである。外国語会話は、ファンク版がドイツ語会話、伊丹版は当然ながら英語で進むのである。場面の違いはラストシーンにある。ファンク版では満州を守る日本兵の歩哨のクローズアップで終わるが、伊丹版は満州を警戒する歩哨のロングショットである。

『新しい土』の日独両国における上映は、興行界の話題以上のもの、「国民的事件」となった。日独共に史上希に見る大ヒットとなった。ドイツにおいてはゲッベルス宣伝相の主導と原節子の全国宣伝ツアーによるものである。日本国内では大衆だけでなく知識人の多くが観客となった。日本では伊丹版を最初に、次いでファンク版を―いわば「真打ち登場」として―公開した。見事な興行戦略であった。映画批評家は両者の詳しい比較を書いた。総じてファンク版が優れると評価されている。志賀直哉、齋藤茂吉らの文学者も感想を書いている。
売り込みに努力する川喜多夫妻、日独合作映画の監督を夢見て原節子をアテンドした義兄の熊谷久虎、彼らはドイツのあと、フランスではパリとその周辺、米国ではブロードウェイ、ハリウッドを巡ってから、帰国する。その間の有名監督やスターとの交流、企業化の進んだ興行界、進んだテクノロジーに目を見張る多くのエピソードが面白い。貴田庄の記録は、マニアックになりがちな映画専門書にあって、社会的な文脈をしっかりと抑えて書かれている。

《『新しい土』の物語はファシズムの物語である》
 『新しい土』の物語は、限りなく「愚作」に近い映画に関する物語である。そして日独の映画人が、ファシズムの怒濤に翻弄された物語である。「原節子の戦争と平和」は、その只中にあった、一人の美少女の物語である。(2016/03/20)
2016.03.14  映画評「サウル(シャウル)の息子」

盛田常夫 (在ブダペスト、経済学者)

 ネメシュ・イェレシュ・ラースロー監督になるハンガリー映画A Saul fia(Son of Saul、サウルの息子、2015年封切り、2016年日本上映)が、2016年オスカー賞(外国映画部門)を受賞した。1982年に「メフィスト」でオスカー賞を受賞したサボー・イシュトヴァーン監督から数えて34年振りの受賞である。すでに、2015年カンヌ映画祭グランプリ、2016年ゴールデングローヴ賞などかずかずの賞を受賞したこの映画は、これまでのアウシュヴィッツ物とはひと味違っている。舞台はアウシュヴィッツ=ビルケナウのユダヤ人強制収容所。1944年10月7日から8日の2日間の出来事を脚本にして制作されたものである。

舞台背景
 ユダヤ人強制収容所にはユダヤ人で構成される死体処理班が存在した。Sonderkommand(特殊任務)と呼ばれる特殊班は、ガス室で殺害された死体を処理する係で、死体を運び出して焼却炉へ運ぶ仕事やガス室の清掃、死体焼却後に遺灰を川に捨てる仕事を行っていた。外部には秘匿にすべき事実を知っているこの特殊任務班のユダヤ人は、生活上は他のユダヤ人から切り離されて生活し、他のユダヤ人よりは日常生活条件に恵まれていた。しかし、この処理班に属するユダヤ人は虐殺の生き証人でもあるから、ほかのユダヤ人と同様に、最終的に抹殺される対象であった。4ヶ月ごとに特殊任務班の全員がガス室に送られ、新たな特殊任務班が構成された。主人公のサウルは1944年秋に、この特殊班の属するハンガリー人である。
 主人公がどのようにしてここに連行されてきたのか、どのような家族構成だったのか、いかにして特殊任務班に入れられたのかの描写は一切ない。主人公のサウルの2日間の行動が、いっさいの説明なしで描写される。
 通常のアウシュヴィッツ映画の多くは、収容所内部での厳しい生活を描写し、蜂起の準備や蜂起を詳しく描き、最終的には連合軍による収容所解放を描くのが常だが、この映画には事の始まりも、事の終わりもない。一人の主人公の2日間の行動だけが、描写されている。

あらすじ
 1944年10月、特殊任務班は密かに蜂起の準備を行っていた。サウルは成り行きでそれに荷担するが、蜂起を主導するわけでも、それに自らの解放を賭けているわけでもない。たまたま、ガス室から運び出された死体の中に、息をしている男の子を見つける。ドイツ人医師は診断の後、子供の口をふさぎ窒息死させた。子供の死体は解剖するために診療室へと運ばれたが、サウルは診療室に入り込み、子供を見つめる。そこへ入ってきた医師に問い詰められる。サウルはその子を息子だというが、映画を見る限り定かではない。自らの分身をその子に見たのかもしれない。
その医師も同郷のハンガリー人だと分かり、子供の死体を秘匿するように頼む。サウルはとにかくその子をユダヤ教の儀式に従って葬ってやろうとして、狭い収容所の一角を奔走する。
 サウルは子供をユダヤの儀式にしたがって祈りをあげ、火葬ではなく、土葬にしたいと望む。そのために、収容所に連行されてガス室へ向かうユダヤ人の行列から、祈りの儀式を行うラビ(ユダヤ教の宗教者)を探すのに必死になる。この混乱のなかで、蜂起の準備として、女囚から受け取ったダイナマイト粉を落としてしまう。サウルは蜂起より埋葬に心を奪われていた。
翌朝、密かに死体を布袋に入れて外に運び出し、土中に埋めようとするが、そこでSonderkommandの蜂起が始まる。サウルは子供の死体を包んだ布袋を背負い逃亡する。逃亡の途中で穴を掘り、男の子を土葬しようとするが、追っ手が迫り、埋葬を諦め、川を泳いで向こう岸に渡る。しかし途中で布袋が手から離れ、流されてしまう。自らも溺れそうになるが、一緒に逃げた同僚に助けられ、向こう岸にたどり着く。小さな森の小屋で一休みするが、突然、サウルの眼前に一人の男の子が現れる。男の子がすぐに森に戻った後に、追手の銃声が鳴り響き、映画は終わる。
サウルが最後に見た男の子は幻想だが、埋葬しようとした男の子は息子ではなく、自らの分身だったのではないか。蜂起の準備を忘れるほどに、懸命に埋葬の祈りを準備し、土葬にこだわったのは、自らの死に場所を探したからではないか。

特殊な撮影手法
 この映画では特殊な撮影手法が使われている。始まりのスクリーンにはぼやけた映像が映し出され、次第に主人公の姿だけが鮮明に浮き出る。この映画の撮影では1台のカメラしか使われておらず、それが全編を通して、主人公サウルの背後あるいは横、正面を映し出すだけだ。主人公の映像は鮮明だが、サウルの周辺の映像は常にぼやけている。どこに居て何が起こっているかは分かるが、周辺状況に焦点が当たっていない。鮮明な画像は常に主人公の近傍だけで、あとは不透明な背景に閉じ込められている。いわば一人舞台のような、一人称の映画と言ってよい。主人公サウルの息づかいや心理描写がこの映画の主題である。
 映画制作予算の節約という意味がないわけではないが、こうしたカメラワークはこの映画の制作の考えにもとづいている。この映画はアウシュヴィッツのいろいろな場面を見せてはいるが、それは主人公が動き回る背景的な舞台にすぎない。主題はあくまで一人の主人公の一挙手一投足であり、彼の息遣いである。主人公一人を近接した撮影で焦点を当てることによって、彼の心理状態が感じられ、息遣いが聞こえてくる。
 このようなカメラワークは聴衆に苦痛をもたらす。主人公が目で見る大きな画面が、激しく動くと、映像を見る聴衆は目が回りそうな不快な気分になる。心地よい状態で映像を見ることができない。それはそうだろう。舞台は収容された100万人以上ものユダヤ人のほとんどが虐殺された場所だ。その舞台を見るのに、心地よく見てよいはずがない。聴衆も舞台の背景を想像しながら、主人公の息遣いを感じて苦しまなければ、この映画を観たことにはならないのだ。ポテトチップスを食べ、コーラを飲みながら見る奇想天外の娯楽映画とは違う。
 もう一つの特徴は、映像を飾る音楽が一切ないことである。あたかもドキュメンタリーをみているがごとく、すべての音は周囲の環境から発せられる声や叫び、雑音のみである。アメリカの娯楽映画の世界とは天と地ほど違う、現実の人間の営みが映し出される。

もう一つのハンガリー作品
 ハンガリーの小説・映画作品で、同様なテーマを扱ったものに、2002年にノーベル文学賞を受賞したケルティース作『運命ではなく』(Fateless、Sorstalanság、邦訳、岩崎訳、国書刊行会、2003年)がある。この自伝小説は、著者が15歳の夏に、日常生活から突然にブダペストの強制収容所へ連行され、その後、ブッフェンヴァルト(Buchenwald)の強制収容所へ移送され、翌年春の収容所解放からブダペストに帰還するほぼ1年のにわたる体験を淡々と描いた実話小説である。
 この作品も、いわば従来のアウシュヴィッツ物とはひと味違い、戦時下のふつうの日常生活から突然に非日常の世界へ放り込まれ、10ヶ月ほどの収容所の生活を淡々と描き、再びブダペストの日常生活に戻った少年時代の自分を描いたものだ。
 ノーベル賞受賞講演で語っているように、ケルティースの哲学は主体(主観)と独立した客体(客観)の存在を認めない。「客体」が「現実」であるのは、「自分」という「主観」を通してだ。その主観を経由しない客体は、彼にとって疎外されたものだ。この哲学的視点は、サルトルやカミュなどの実存主義的な現象主義に近い。この視点から、強制収容所を経験する少年が、その主観を通して観察した事象を、たんたんと叙述する。そこに、ケルティースの小説の特徴がある。だから、イデオロギーも、予見もない。そうだからこそ、逆に、人々はケルティースの世界に、自己を同化することが容易になる。
 彼にとって、ユダヤもナチも強制収容所も皆、与件であり客体である。それが「現実化」するのは、「自分」を経由する、つまり体験することを通してである。とすれば、人が生きていくことは、生きていく限り回転していく世界を受容していくことであり、その与えられた条件や環境の中でしか、人は自由でありえない。だから、そのような「現実」から独立した「運命」など存在しない。したがって、「運命」で過去や未来を断定することに意味はないし、「運命からの自由」という考え方も人の生き様を説明しない。「運命」と「自由」という二分法は「生きること」を表現するのにふさわしくない。これが『運命の不在』で読者に伝えたいメッセージである。
 ケルティースはこの小説の映画化を想定した脚本も記した。2005年に、サボー監督と組んでメフィストの撮影を担当してきたコルタイ・ラヨシュが監督する、小説と同名の映画の映画が制作された。昨2015年、ようやく日本でこのDVDが発売された。
映画化にあたっては、基本的なストーリーは維持されているが、原作にないアウシュヴィッツ性(強制収容所の苦難)が強調されすぎ、小説の主題が十分に描かれていない。     (2016年3月2日)
2015.12.23  原節子の戦争と平和(4)
    ―伊丹万作と家城巳代治―

半澤健市 (元金融機関勤務)

 「原節子の戦争と平和」から、十五年戦争に関する映画人の戦争責任の問題にたどり着いた。しつこいようだが、映画が―今ならテレビが―、百万人規模に影響を与えるから考察しておきたいのである。

GHQによる1946年1月の公職追放令の対象は、軍国主義者・超国家主義者であり映画関係者もその範疇にあると見られた。映画界では独自に戦争責任者を追究する声があがり、いくつかのグループが戦争責任者のリスト作りを行った。その過程で自ら戦争に関わった映画人に告発の資格があるのかという問題が浮上した。戦時中に戦意昂揚作品に関係しなかった映画人は殆どいなかったからである。抵抗を続けた批評家岩崎昶(いわさき・あきら)らの「自由映画人協会」の告発者に名を連ねた伊丹万作は、考え直してその署名を取り消したいと書いた。これが伝説となった文章「戦争責任者の問題」であり、1946年8月に創刊された『映画春秋』という雑誌に載った。翌月に伊丹は亡くなっている。次に掲げるのはそのハイライトである(■から■まで)。

■だまされたものが正しいとは、古来いかなる辞書にも決して書いてはないのである。だまされたとさえいえば、一切の責任から解放され、無条件で正義派になれるように勘違いしている人は、もう一度よく顔を洗い直さねばならぬ。しかも、だまされたもの必ずしも正しくないことを指摘するだけにとどまらず、私はさらに進んで、「だまされること自体がすでに一つの悪である」ことを主張したいのである。(略)
そしてだまされたものの罪は、ただ単にだまされたという事実そのものの中にあるのではなく、あんなにも造作なくだまされるほど批判力を失い、信念を失い、家畜的な盲従に一切をゆだねるようになってしまっていた国民全体の文化的無気力、無自覚、無反省、無責任などが悪の本体なのである。
このことは、過去の日本が、外国の力なしに封建制度も鎖国制度も独力で打破することができなかった事実、個人の基本的人権さえもつかみ得なかった事実とまったくその本質を等しくするものである。そして、このことはまた、同時にあのような専横と圧政を支配者に許した国民の奴隷根性とも密接につながるものである。■

伊丹万作は、あの戦争は少数者が国民を欺し国民は騙されたのだという言説を批判して戦争責任を国民各自の問題としたのである。しかし一億総懺悔論とはちがう。徹底した自己批判であった。
伊丹は、自分は病気だったので戦争映画の仕事をしなかっただけで、同業者の責任を告発する立場にないといい、事情を知らずにした告発署名を取り消すと書いたのである。モダニズムの映画作家が、結核の死の床で血を吐くように書いた一文を、私は戦争責任論の究極のものだと考えている。戦争を自分の問題として引き取っているからである。そして、70年先までを射抜いているからである。

もちろん、伊丹に対する批判もある。石井妙子(いしい・たえこ、1969~)というノンフィクション作家は「原節子とナチス」(『新潮45』、2014年1月号)のなかで、「伊丹万作は『新しき土』の後、病状が悪化し寝付くようになった。そのため戦争映画の製作に係わらなかったとされる。(略)「私は戦争に関する作品を一本も書いていない」と記している。だが、その彼は『新しき土』をどのように認識していたのであろう。彼は生前、この映画について語ることを好まなかったという」と書いている。
私(半澤)は、伊丹の文章はこのような懐疑をも予想して書かれたものと思うが、こういう指摘を公平のために記録しておく。

もう一人の映画人家城巳代治(いえき・みよじ)の発言に触れたい。家城は、1950年に、レッドパージで松竹を離れたのち、独立プロに拠って『雲流るる果てに』、『姉妹』、『ともしび』、『異母兄弟』などをつくり独自の境地を開いた監督である。その家城が、1946年9月号の『映画製作』に「映画芸術家の反省と自己改革について」と題して次のように書いた。一部を掲げる(■から■)。

■戦争とは何であるか、今次の戦争は何であったのか。日本の戦争は正しかったのか、正しくなかったのか、人は言うであろう。今頃何を言っているのか、日本はまちがっていたのだ、われわれは自由をソクバクされていた、民主的ではなかった、封建的であった、戦争は侵略戦争であったのだ。それは全部そうかもしれない、然し、それは結論だ。なぜそういう結論が出るのであるか。もしかすると、それは与えられた結論ではないのか。日本は戦争から派生したまちがいを犯したかもしれないが、その根本目的は、理念は正しかったのではないか。然し、これとても同様になぜ正しかったのかが問題なのだ。要するに、結論が先に与えられて、それをもはや正当なものとして反省を始めてはいないであろうか、と私は言いたいのだ。結論に至る過程こそ反省であろう。私は再び言う。今次の戦争とは何であったのか。正直の所、私は結論への途中にいる。(略)もし日本が勝っていたら、自分は正しかったとする人間ではないのか、勝敗によって結論が左右される人間ではないのか。私は慄然とする。問題はわたしという人間に返って来る。■

伊丹と家城に共通する問題意識は、戦争責任は自分の外でなく自分の内にあるという認識だ。しかし彼らの言説は大きなテーブルで討議されることはなかった。映画界の現実的な風土は結局は彼らを黙殺したのである。しかし私は、彼らの問題意識は、心ある映画作家の中に生き延びて今日に至っていると思っている。

映画界の公職追放はどうなったのか。結果をいうと、大手映画会社の役員、撮影所長、現場責任者などが短期間だけ追放された。固有名詞を挙げれば、城戸四郎、森岩雄、永田雅一、川喜多長政らであった。占領政策までを追いかけるのは本稿の視点ではない。(2015/12/20)
2015.12.17  原節子の戦争と平和(3)
―俳優は「着せ替え人形」なのか―

半澤健市 (元金融機関勤務)

 「原節子の戦争と平和」を書いていると関連する幾つかのテーマに導かれる。
一つは、俳優は職業の社会的な意味をどう考えているのか。
二つは、日本の映画人は戦争と平和をどう考えてきたのか。
三つは、映画観客はそういう問題をどう考えてきたのか。
こう書くと「たかが映画ではないか」、なぜそんなに問題を広げるのかという声がきこえる。「されど映画である」が私の答えである。20世紀の大半を通して映画はイデオロギーの拡散装置として大衆の心を掴もうとした。特に戦中の戦争映画はそうである。

1986年に行われた対談「戦争のなかのヒーロー」は、戦中に日本軍人を演じて活躍した俳優藤田進を相手にして監督・脚本家廣澤榮が俳優の回想を聞いたものである。
藤田進(ふじた・すすむ、1912~1990年)は、東宝で『海軍爆撃隊』、『ハワイ・マレー沖海戦』、『加藤隼戦闘隊』、『雷撃隊出動』などに出演し、非戦争作品では『姿三四郎』、『続姿三四郎』、『指導物語』などで豪快な日本男子を演じた。二人は撮影所時代の思い出を語っているが中に次の会話がある。

廣澤 キネマ旬報の『映画俳優全集』というのにご自身でおっしゃった言葉だろうと思いますが、《敗戦のとき、軍国主義のヒーローとしての自責から俳優をやめようと思うが、代わる職業も考えつかぬまま続けることにする》とありますが。
藤田 そうです。その通り。戦争が終わったが、じゃ何をやるかといっても、ぼくにはそれだけの能力がないわけで、また切り替えもきかない。それにすっかり嫌気がさして・・・。ということは、野坂参三が帰ってきたとき、代表で挨拶しろとかつぎ出されちゃったんです。その交渉にやってきたとき、おれは嫌だ、今まで軍の旗を振って、ちょうちん持ちをやってて、いま負けたからといってすぐそういうことはおれにはできない、って断ったんですが、みんなで検討したことだから是非やってくれといわれて・・・。そうしたら朝日新聞で、荒畑寒村なんかに、ずばりオポチュニストだと叩かれました。また一方では、お前は共産党に入党したのか、などといわれたりして・・・。とにかく、一般社会の人もそういうに感じておられるのだろうと思いました。また、飲み屋へ行けば行くで、「藤田さん、ぼくは、あなたの映画を見たんで海軍に志願した」とか、「特攻隊へ行ったんだ」とか言われると、やっぱり感じますよ、あんたの映画を見たからこうなったのだと・・・(笑)。
廣澤 私も、助監督の下っ端のカチンコ打ちだったけれど憲兵隊後援の防諜映画づくりに参加していた。それはまぎれもなく戦争に荷担し、加害者だった。そういう痛みは感じていますね。
藤田 ですからね、私はできるだけ表だったことはやりたくない、だからテレビなんかに誘われるんですがね、おれをそこまでさらし首にするなよと・・・。たまには断りきれずに出ることもありますが。
廣澤 あれだけおやりになって、どこかむなしかったということを言っておられますね。
藤田 それはもう、むなしさというのは今いわれたように、ぼくの心のどっかに、そういうむなしさというものが絶えずあったんだなあと、自分で思いますね。
(『講座日本映画4 「戦争と日本映画」』、岩波書店、1986年)

藤田は、戦後もしばらく映画出演を続けたが、60年頃からは会社経営に転じ映画出演回数は減った。1944年12月公開の『雷撃隊出動』(山本嘉次郎)で一式陸攻に乗り米戦艦に体当たりした藤田進は、1946年9月公開の『わが青春に悔なし』(黒澤明)では、滝川幸辰をモデルとした学者の弟子に扮し、娘に扮した原節子と結ばれたあと悲劇を迎える。死の四年前に、「タタキ上げ」の俳優の脳裏に、この時期の記憶が蘇り「野坂参三」「荒畑寒村」「オポチュニスト」などの単語が発せられたのは興味深い。
藤田進への問いは、岩波的発想からおそらく例外的に発せられたのであって、俳優の戦争責任は映画界全体では周辺的なものだったようである。今回は一つ目のテーマで終わる。(2015/12/16)
2015.12.15  原節子の戦争と平和(2)
―ナチスのアイドルとなった美少女―

半澤健市 (元金融機関勤務)

 原節子の戦争は『新しき土』(1937年)から始まった。
日独合作の日本最初の本格的「国際映画」である。1920年生まれの原節子が、横浜高等女学校をやめて女優になったのは1935年である。家庭の経済的事情と義兄の映画監督熊谷久虎(くまがい・ひさとら)の勧誘によるという。

当時の時代背景を年表から少し書きだしてみる。
1932年 「満州国」建国宣言、五・一五事件、独総選挙でナチス第一党に
1933年 ヒトラー首相就任、日独が国際連盟脱退を通告、京大滝川事件
1934年 『国体の本義とその強化の提唱』(陸軍パンフ)頒布
1935年 美濃部達吉の天皇機関説事件、二度にわたる国体明徴声明
1936年 二・二六事件、ベルリン・オリンピック、日独防共協定締結
1937年 盧溝橋事件(日中戦争の開始)、イタリア日独防共協定に参加

日本の映画人は、それまで外国映画が描く日本に不満であった。エキゾチシズムに彩られた奇妙な日本に苛立っていた。本物の日本を「発信」したい、輸出もしたいと考えていた。一方、ナチス政権は大衆動員の重要なメディアである映画の育成に注力していた。女優出身の監督レニ・リーフェンシュタールによるナチス大会の記録『意志の勝利』(33年)やベルリン五輪の記録『民族の祭典』、『美の祭典』(38年)はその成功例である。
『新しき土』の監督となるアーノルド・ファンクは、ロマン主義的な山岳映画の監督として知られていたが、レニ主演の『SOS氷山』(33年)は、ナチス宣伝相ゲッベルスの絶賛を受けた。このように両国映画人や政府の交錯した思惑が、日独合作映画『新しき土』を生んだのである。

『新しき土』はどういう映画なのか。
主人公輝雄(小杉勇)は婚約者光子(原節子)をおいてドイツ留学し、西洋近代主義の洗礼を受け帰国船中でジャーナリストのドイツ女性と懇意になる。帰国直後の彼に封建的な日本の制度は全てが桎梏に見えた。光子の父(早川雪洲)は困惑し親族会議を開く。光子は絶望して火山で投身自殺をはかる。気持ちが落ち着いてきていた輝雄は、日本的価値に目覚めて光子を救う。ラストシーンは、満州の大地に日本兵に護られて働く開拓民一家、すなわち輝雄と赤児を抱く光子の姿である。『新しき土』である。

この概要だけでかなり不自然な物語であることを察することができる。
脚本はファンクが書いたが、日本人の補助者が必要となり伊丹万作が共同監督となった。英米的モダニズムの作風を特色としていた伊丹にとって不満の多い筋書きであった。輸出を目論む川喜多長政の説得などもあり、結局ファンク版と伊丹版の二つが作られた。ファンク版のタイトルは『サムライの娘Die Tochter des Samurai』であった。ファンク版は、日本の風物の美や伝統、工業化の急展開、信頼に足る同盟国、満州進出の正当化などを描いている。一言でいえばオリエンタリズムによる日独同盟のプロパガンダである。火山の描写に得意技がうかがえる。伊丹版はファンク版の特色を削ぎ取る工夫を凝らしたが、伊丹の困惑を表現した作品に終わった。

日本では37年2月に、まず伊丹版が、続いてファンク版が公開され、いずれもヒットしたが、ファンク版の方がヨリ好評だった。ドイツの一流監督に美しく描かれた日本と日本人に観客は感激したのであろう。冷静、公平で批判的な批評は少なかった。
ドイツで3月に公開された『サムライの娘』は大ヒットになった。二ヶ月で600万人の観客を動員し最長の興行記録を残した。ベルリンでの公開日にはヒトラー、ゲッベルス、ゲーリングらナチスの首脳部が来場した。日本大使館でのパーティーで和服姿の原節子とゲッベルスが並んで写った写真が残っている。

冒頭に「原節子の戦争は『新しき土』(1937年)から始まった」と書いたのはこのことである。17歳の美少女は、三月から七月までの間、初めて外遊した。熊谷久虎、洋画輸入業者である川喜多長政・かしこ夫妻とともに、実質二ヶ月の間、ドイツ各都市を宣伝キャンペーンのために巡った。その間、多くのナチ関係者と会い、ヒトラー・ユーゲントの訓練所を見学し、ウーハー映画撮影所を訪ねた。パリでは人民戦線にコミットして『ラ・マルセイエーズ』や『大いなる幻影』を撮ったジャン・ルノアールに会っている。帰路はアメリカを回った。ハリウッドやニューヨークで知った映画先進国のシステムには学ぶものが多かった筈である。熊谷はもともと愛国的感情の強い人物だったが、公式行事の歓迎の裏で、人種差別を受けたことに衝撃を受けた。戦後の回想で熊谷はこう書いている。

「欧米を巡った五ヶ月のこの旅行は、自分が日本人であると云う自信を全く喪失してしまった。海外に在住する日本人の卑屈さもさる事ながら、三国同盟(ママ)を結んだ直後のドイツ人にすら、極端に言えば、人間扱いされない、つまり自分など白色人種以外は人間ではないよと云う態度なのである」。

それは更なるナショナリスティックな心情への傾斜をもたらした。実際、熊谷は帰国後の一時期、反ユダヤ主義的な「スメラ塾」なる右翼組織の実践運動に深く関わっている。原節子はこの義兄の考え方に多分に影響を受けたらしい。それに関しては、原が主演した『望楼の決死隊』(1943年)の監督今井正の証言がある。川喜多による『新しき土』の売り込みはヨーロッパでもアメリカでも失敗に終わった。

戦後に「民主主義」の理念を演じた原節子は、大東亜戦争中には兵士を戦場へ送り出す「銃後の女性」を美しく演じた。私の印象に残っているのは、『ハワイ・マレー沖海戦』(山本嘉次郎・42年)、『決戦の大空へ』(渡辺邦男・43年)における、兵士を激励し見護る「姉のような」女性像である。「若き血潮の予科練の 七つボタンは桜に錨」という歌詞は後者の主題歌「若鷲の歌」である。満州と朝鮮の国境に出没する「共匪」(共産匪賊=抗日ゲリラ)と戦う女性に扮した『望楼の決死隊』は例外的に直截なケースだったといえよう。
本稿の『新しき土』に関する情報はその多くを、四方田犬彦著『日本の女優』(岩波書店、2000年)に学んでいる。(2015/12/11)
2015.12.07  原節子の戦争と平和
―小津は「大東亜戦争はなかった」と考えたか―

半澤健市 (元金融機関勤務)

 ドイツの日刊紙『ディ・ヴェルト(世界)』は映画女優原節子の訃報記事に「日本人に対しては西洋的な美を、西洋には理想の日本人女性を体現した」と書いた(『東京新聞』、2015年11月27日夕刊、「共同」)。これは多くの日本人の感性に訴える妥当な指摘だと私には感じられる。

 2015年9月に他界していた原節子はある種の「聖性」をもっていたと思う。ここで私のいう聖性は、宗教的でもなく神秘的なものでもない。「日常性」、「大衆性」と対置できる「純粋さ」、「生活臭のなさ」、「抽象性」というほどの意味である。難しいことをいうつもりはない。たとえば林芙美子の『浮雲』の主人公は高峰秀子によって見事に表現された。それが原節子によってヨリ見事だったろうという想像は難しい。これは高峰をおとしめるのではない。たとえば『或る夜の殿様』(衣笠貞之助)で高峰秀子は美しい令嬢を好演している。

 優れた映画作家は彼女の聖性を重要な資源として、「理念」の映像化を図った。
今井正は『青い山脈』で、黒澤明は『わが青春に悔なし』で、木下恵介は『お嬢さん乾杯』で、吉村公三郎は『安城家の舞踏会』で、それぞれの手法で「戦後民主主義」や「自立する女性」や「新生活を受容する勇気」という理念を原節子を通して映像化したのである。総じていえば、作家たちは原節子を「世間知らず」の世界から「日常性」の世界に引き入れる実験によって、戦後的「理念」を逆照射して観客に訴えたのであった。美人女優原節子の日常性への自己投入、または現実受容は一面で観衆に救済感を与えた。しかも現実の受け入れは、妥協ではなく戦後的理念の実現またはその再構成であった。

 小津安二郎の場合は上記の作家たちとやや異なる。理念と現実との微妙なバランスがその核心である。小津へ反発する若い映画作家としてスタートし、のちに小津の評伝『絢爛たる影絵』の著者となった高橋治は、「そこにあったものがなくなる」を描くことが小津の思想だったと書いている。私はこの短い指摘を小津評価の最高の言葉として記憶している。私はそれを「最も美しいニヒリズム」と翻訳して記憶してきた。

 NHKBSが、原節子追悼として放映した『東京物語』を観て、私は戦争が小津に与えた衝撃の強さを感じた。日中戦争で毒ガス作戦にも参加し、中国人を殺めたであろう映画作家は、戦争を直接画面に表現することはなかった。戦後日本の映画界で、とりわけ戦後中期までは、戦前・戦中の小津は非力ながらも抵抗者として評価され、戦後の小津は戦争への考察や批判なしに小市民の生活を描く現実肯定派として評価されてきた。

 『東京物語』の場合、原節子の扮した平山紀子は戦争未亡人である。登場するときに彼女は既に日常性のなかにある。しかもその日常は八年前の夫の戦死によって傷ついている。だが未亡人として「家父長制社会」の秩序を守っている。『堕落論』(坂口安吾)の戦争未亡人とは対極の生活をしている。尾道から上京した夫の両親(笠智衆と東山千恵子)の接遇は、多忙な町医者の長男(山村聡)と美容院経営の長女(杉村春子)によって紀子に任された。彼女は両親に優しい態度で接した。それは夫への愛情表現の代償行為であったであろうし、同時に封建道徳への順応でもあった。彼女に両親が再婚を勧めるのは善意からには違いないが、それは彼女を平山家から排除する言葉である。両親はその残酷さをどこまで意識しているのか。日常性のなかで「純粋さ」を続けることに迷いが生じていることを紀子は義父に告白する。小津は、戦争未亡人紀子に「傷ついた日常性」から、自身で切り開く人生への選択を迫って映画にエンドマークを打った。紀子は義母の形見の時計を使うであろうか。小学校教師の次女(香川京子)は夏休みに東京の紀子を訪ねるであろうか。

 小津安二郎は人間存在の普遍性を描いた映画作家として世界的に高く評価されている。とくに『東京物語』は、世界映画史上の最高作品という栄光に輝いている。私はそのことを誇りに思う。
同時にこの作品は、過ぐる戦争を背景にした静かな反戦映画であり、我々への問題提起であることを私は徐々に感ずるようになった。戦死した夫を「思い出すことのない日もある」という紀子の台詞は、我々の戦争忘却への警告だと思うようになった。

 原節子の他界は「戦後の終焉」を象徴している。小津が言いたかったであろう「大東亜戦争はなかった」という考察が現実になりつつある。ラストシーンで香川京子の目に映る静かな内海は、南シナ海にもホルムズ海峡にも続いている。
2015.05.18 映画『ルンタ』について
    ―八ヶ岳山麓から(145)―

阿部治平(もと高校教師)


『ルンタ』という亡命チベット人を描いたドキュメンタリー映画を見る機会があった。「ルンタ」はチベット語で「風の馬」という意味である。手のひらサイズの粗末な紙のカードに馬や仏典、仏像が印刷してあって、チベット人はこれを山の頂上や峠などでばらまいて幸運を祈るのである。

もともと私は芸術的価値というものがわからない人間である。映画は「寅さん」どまり、小説は「坊ちゃん」「宝島」までである。息子は、監督の池谷薫という人は優れた映画人で、氏の「延安の娘」はよい映画だったといった。私は氏の『蟻の兵隊』(新潮社)という本は読んだことがあるが、その映画は全然知らなかった。

以前からヒマラヤを越えてインド・ネパール方面に亡命したチベット人社会のありかたに強い関心があったから、重い腰を上げて東京へ出かけた。というのは、チベット人居留地では亡命チベット人のうち高僧は比較的豊かで、一般僧侶がこれに次ぎ、俗人はその下、現地インド人が最貧だ。デカン高原南部のチベット人社会にはインド人を小作にした地主もいると聞いていたからである。

事前に渡されたリーフレットによれば、池谷氏は、チベットでの焼身自殺による中国政府への抗議が2015年3月までにすでに141人に及んでいること、またそれが「利他」や「慈悲」を尊ぶチベット人の高潔さから出ているものであることなどを世界に訴えたかったらしい。

見終わった印象をひとくちでいえば、映画はいたましくも美しいものだった。だが亡命チベット人の生活に気をとられていたものだから、私には少しもの足りなさが残った。同映画のオフィシャルサイトの「いいね!」ボタンを押した人が758人もいるところを見ると(本稿執筆時)、大勢の人に感動を与えているのに違いない。

テーマはチベット人の焼身自殺である。映画前半の舞台はインド・ヒマチャルプラデシュ州ダラムサラである。話はチベット人支援をしている中原一博という人を中心に展開する。

前半は、焼身自殺をした人を追悼し、その理由を我々に伝えようとするものであった。彼らの主張はおもにはダライ・ラマのチベット帰還要求、中国政府の民族と宗教に対する圧政への抗議である。もちろん自殺にいたる経過も主張も人によって少しずつ違う。共通するのは「人々の幸せを祈って死んでいきます」ということばだ。またすべてが政治的ではないが、その行為そのものが強烈な政治的メッセージである。

自殺した人の写真がずらりと並ぶ画面がある。足に障害を持つ僧侶は手だけでヒマラヤを越えてインドに亡命した。そして焼身自殺したのだ。燃え上がるほのおに包まれた青年男女の映像を見ると、仏教でいう「捨身飼虎」いう言葉がチベット人社会に生きていることをあらためて感じる。
画面には、インドで生きるチベット人も出てきた。なかでも20数年という長年の投獄にも屈服しない老僧。さらに2008年3月14日のチベット人地域一斉蜂起のあと、外国人ジャーナリストの前で中国政府の仏教と民族の抑圧を必死で訴えた、甘粛省夏河ラブラン大僧院の、あの少年僧がダラムサラで生きていることがわかった。

後半は中国チベット人地域、私が数年前まで働いていた懐かしいアムドの牧野であった。画面は、甘粛省南部のマチ(瑪曲)の町やラブラン大僧院など、僧俗のチベット人男女が焼身自殺をした場所をめぐる。競馬や食料品市場など至るところに武装警察がいる場面がある。とくに3月はダライ・ラマのインド亡命記念日もあり、2008年の蜂起(チベット人地域では三一四といった)もあったから、いまでも県庁所在地には警察・武警・解放軍が厳戒態勢を敷く。思えば悲しい光景である。

ここにも中原氏の姿があった。これには驚いた。中国当局が彼の正体を承知であえてチベット人地域に入れたのか、警戒の網の目をくぐることができたのか。

ところが中原氏と牧民青年との対話がなにかちぐはぐである。チベット人地域にはラサ・シガツェ方面とアムドとカムの三つの地方があり、それぞれの方言はほとんど通じない。中原氏はダラムサラのチベット語だから、通訳を通したので画面の会話はとんちんかんになったのであろう。

困ったのは、映画を見ているうちに、テーマが中原一博氏の業績や生き方の紹介なのか、それともチベット人の焼身自殺の実態とその背景を訴えるものなのかわからなくなったことだ。中原氏の広島呉市の実家が出てくる。氏が建てたチベット人のための学校、縫製工場が出てくる。アムドでは中原氏が牧畜についてちょっと事実と違ったことをいうが、さらに山に向かって「チベットに勝利を」と叫ぶ姿が出てくる。

あえていえば、ここに中国政府を代表する人物が画面に登場して、「チベット人の焼身自殺はなぜ悪いか」とか、「ダライ・ラマはなぜ悪党か」とか、「高度自治要求はなぜ中国を分裂させるものであるか」といったことを語ったら、映画はまた別な展開をしたかもしれない。
さて、映画を見てからタクブンジャ(1966~)というチベット人作家の小説集『ハバ犬を育てる話』(東京外国語大学出版会2015)を読む機会があった。原作者は中国青海省海南蔵族自治州の中学(日本の中・高校)教師。訳者はいずれもチベット専門家の海老原志穂・大川謙作・星泉・三浦順子の4氏である。

ここには9篇がおさめられているが、書名になった作品「ハバ犬を育てる話」は、狆に似た「ハバ犬種」の小型愛玩犬が人語をしゃべり、下級の役所に勤める主人の地位を踏み台にして周囲の人に取り入り、ついには県長のお気に入りにのし上がる。その間の権力をめぐる人と人の関係が哀れにも滑稽に描かれる。

中編「村長」は、チベット人村の良心的な村長が水路修理のために、上級の郷政府と借金の交渉をする話を軸にしている。村長は苦心惨憺、ようやく面会できた漢人郷長に陳情書を提出する。ところがチベット語の陳情書を見た郷長は色をなして怒る。村長はあらためて漢訳の陳情書を提出しなければならない。

民族自治地域では公文書は少数民族語でもよいはずであるが、そんなものはとうに反故になったのだ。このように、小説集『ハバ犬を育てる話』にはチベット人のやられっぱなしの状態がひとりごとのように描かれている。

ここには2008年の抵抗運動も、「信仰の自由を!」と叫ぶ場面もないが、あと一皮むけば、これが焼身自殺の背景にあることがわかる。『ルンタ』はせっかくのドキュメンタリー映画だから、そこまで分け入ってほしかったと思うが、これはむりな願いか。

チベット人も、新疆のチュルク系民族も、内モンゴル人も独立・自治などの自決権がある。だが現実にはチベット人の運命は中国政府と亡命政府の交渉でしか決められない。ところが現在の「中華民族主義」の盛んなありさまでは、チベット人地域の閉塞状況は長くつづき、交渉までは程遠いとみなければならない。

南北アメリカ・オーストラリア・北海道などの先住民族の運命からすれば、せっかく民族自決の機会をかちとったとしても、その文化と言語を維持する社会がなくなっていればどうにもならない。チベット人は自殺するほどの決意があるならば現状に耐えてほしい。その魂がどのように尊いとしても、いま焼身自殺をするなといいたい。シャカもダライ・ラマも自殺を禁じている。むしろ生きぬいて文化と言語とを守るために努力するほうが仏教と民族のためになると思うのである。

2014.11.25  「健さん」論はステレオタイプに収斂する
          ―高倉健追悼―

半澤健市 (元金融機関勤務)

以下は、以前に私が小さな同人誌に書いた日本映画『ホタル』(2001年)評である(***線の中に示す)。
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『ホタル』―感傷至上主義の「傑作」
 日本映画『ホタル』(2001年)に私は感動した。
その理由は二つある。一つは、映画が示した「戦後の生き方」への懐疑。二つは、次世代への歴史の継承を怠ったこと。この二つを降旗康男監督が見せてくれたこと。そのことへの共感がその理由である。二つは一つのことでもある。「高度成長至上主義」が戦後の生き方であった。その生き方は真の歴史認識との決別を意味した。

「生きるってそんなに余裕のあることじゃなかった」
 若い新聞記者が特攻隊生き残りの主人公に「山岡さんも藤枝さん(山岡友人。ただし昭和の終焉とともに自裁)も生き残られた。結果とはいえ、そのことが苦しみだったのでしょうか」と聞いたとき、高倉健が演じた山岡秀治はこう答える。
「生きるってそんなに余裕のあることじゃなかった。死ぬも生きるも、ただ前にまっすぐ進むことだったんだ」。これは戦後を生きた日本人には納得しやすい答えである。鹿児島にあって漁業で生き抜いた誠実な人物がいうのだから、尚のことである。作者はその生き方を批判していない。しかし問題提起はした。生きるために、戦争を忘れ、または忘れた振りをして「ただまっすぐ進む」ことが、どういう社会を作ったのか。

降旗は雑誌のインタビューでいう。「日本の世の中はどっちかわからないけれど曲がっちゃって、違う方向に向いてるような気がするんだけども」といい、アメリカに占領されても続いてきた日本的な人間関係の喪失を嘆いている。
「『ホタル』の主人公がこれからどうしようって前を向いた時に、自分を支えてくれるのは、五十年前に出会った金山少尉との触れ合いであり、そこからつながる女房との生活であったということなんです。一人一人が自分の気持ちの中から出発するしかない。そこからさらに自分を見つけていくしかもう道はないんじゃないかと思います。」(『正論』、2001年8月号)

「僕らが黙っとったら金山少尉はどこにも居らんかったことになる」
 知覧の旅館経営者山本富子(奈良岡朋子)は、観音像をつくり特攻兵士の遺品を遺族に届けることで死者の慰霊をしている。彼女は、金山少尉(朝鮮名キム・ソンジェ)の遺品を韓国へ届けることを、特攻隊の戦友だった山岡に依頼する。肝臓を病んで余命の短い山岡の妻知子(田中裕子)は、金山の恋人であった。山岡は「僕らが黙っとったら金山少尉はどこにも居らんかったことになる。・・あの言葉も想いも。なんの形もない言葉だけれど、それを遺族の方に伝えに行こうと思うんじゃ」と知子にも同行を求める。

舞台は韓国の寒村である。山岡夫妻を迎えた遺族の一人がいう。「ここにいるみんなはどう思っているか知らんが、私はキム・ソンジェは死んでおらんと信じている。朝鮮民族が日本帝国のために、それも神風で死ぬなんてことはあり得ない。わざわざ訪ねて来てくれて申し訳ないが話すこともない」。
山岡は、自分が金山少尉の出撃前に聞き取った遺書として次のようにいう。
「私はトモさん(知子)のおかげで本当に幸せでした。私は必ずや敵艦を撃沈します。しかし、大日本帝国のために死ぬのではない。私は朝鮮民族の誇りをもって、朝鮮にいる家族のため、トモさんのために出撃します。朝鮮民族万歳。トモさん万歳。ありがとう。幸せに生きて下さい。勝手な自分を許してください」。ここがクライマックスである。高倉健は知子役の田中裕子とともに主人公を好演した。

「戦後精神への懐疑と経験伝承への怠惰への悔恨」
 遺族との和解はならなかった。だが、現在までの日韓関係のなかでこの辺が限度だろう。そして、戦争映画に植民地の視点を導入し国際性をもつ作品になった。しばらく私はそう考えていた。しかし次第に私の理性は、上述の遺族の言葉に真理を見いだした。キム・ソンジェの敵は、知覧からは南西に位置する米機動部隊のなかにはいない。それは、東京の中心に存在するのではないか。山岡が伝達したキムのメッセージは、「トモさん」への愛情を人質にして、朝鮮人民を「大日本帝国」に抱え込むイデオロギーではないのか。もちろん山岡にはそういう意識はない。彼は自分の経験したこと、聞いたことをひたすら遺族に伝えようとして来たのである。
降旗康男は困難な状況を映画に取り入れて鋭い問題提起をおこなった。それは戦後精神への懐疑と経験伝承への怠惰への悔恨である。しかし代表的な監督と代表的な俳優の合作は、日本的な情緒と感傷の結晶として終わった。
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同時代の中に位置づける人物論が欲しい
 『ホタル』への、私の感情は、アンビバレントである。理において反発し情において共感する。高倉健は、東映娯楽作品の二枚目として出発し、任侠路線を担いアウトローの英雄として成長し、遂には日本的な情緒を見事に表現する俳優になった。メディアの「健さん」論は、その人間性、存在感、男らしさ、優しさ、寡黙、心配り、で一杯である。映画史的な文脈すら不在の、ステレオタイプな「人間論」に収斂している。
高倉健が名優であるなら、彼を同時代の中に位置づける人物論が欲しい。彼から降旗監督の問題提起への答えを聞きたいものである。文化勲章を受け、83歳で逝ったその生涯は、戦後日本70年の時代精神の推移を確実に反映している。私にはそう思われるからである。
反体制から体制確立の時代へ。叛乱から叛乱包摂の時代へ。反逆の大島渚から人情の山田洋次の時代へ。
高度成長からバブル崩壊、それに続く鬱屈と閉塞の四半世紀が過ぎ、信じられない反知性的言説が政権中枢から発せられている。『幸福の黄色いハンカチ』が名作であることを私は否定しない。同時に、何度見ても涙を禁じ得ないあの名作では、新しい「大国主義」、「新自由主義」の危険な路線に、正面から対峙できないと思う。

「労働者諸君!」は爆笑の言葉ではない
 「寅さん」映画が代表する、戦後教条主義への修正作法が、映画の世界を縮めてきたことが、小泉純一郎や安倍晋三を生んだ一因でもある。市場原理主義や、歴史修正主義をのさばらせる原因にもなったのである。
車寅次郎が、タコ社長の経営する印刷工場の青年たちに「労働者諸君!」と叫んだとき観客は爆笑した。しかし、2014年歳末のいまも、そのままでよいのであろうか。(2014/11/22)

■追記 『ホタル』は本11月25日NHK・BSプレミアムで21:00から放映されます。