2023.03.30
映画「妖怪の孫」を見る
安倍政権とはなんだったかのか
小川 洋 (教育研究者)
映画「妖怪の孫」は、安倍晋三元首相の実体に迫った内山雄人監督の作品である。映画「新聞記者」などを企画した河村光庸が完成を待たずに急逝したため、企画プロデューサーとして元通産官僚の古賀茂明が加わって完成し、3月17日より全国各地で上映されている。古賀は作品中、インタビューアーとして出演もしている。題名の妖怪は、「昭和の妖怪」と呼ばれた岸信介を指す。
安倍晋三には当然、二人の祖父がいた。父親の晋太郎は、岸信介の長女である洋子と結婚したが、自身の父親である安倍寛の息子であることにプライドを持ち、「岸の女婿」と言われることは不本意だったといわれる。しかし映画では、安倍晋三は、あくまで岸信介の孫なのである。映画はその理由をその生い立ちから説明していく。
生育事情からみた安倍晋三
安倍晋三は、両親からの愛情を受ける機会が極めて少なかった。国会議員の父親はもちろん母親も、ほとんど自宅に落ち着くことがなかった。すでに書籍などでも紹介されている話だが、中学生になっても、晋三が夜、養育係であったウメさんの布団の中に入ってきたという逸話が紹介される。また「宿題は片づけた」という晋三に対して、白紙のノートを見たウメさんが宿題を完成させることもよくあったという。
それでも、安倍晋三にとって父親よりも母親の存在が大きかったようで、映画では、岸信介が達成できなかった憲法改正を実現することで母親に認めてもらいたかったのだと指摘する。そのため、元首相のアイデンティに安倍寛の孫である側面はなく、岸信介の孫であることにあったという。安倍晋三は、国家の基本法としての憲法の性格を理解しているのか首を傾げざるをえないような改憲論を繰り返したが、どのような形であれ、現行憲法を変更すること自体が彼の目指したことだったとすれば納得できる。
映画が紹介する彼の生い立ちから理解できることは多い。両親の愛情に満たされた家庭生活を経験できなかった故に、自我の成長が弱いものになったことは想像に難くない。一般に弱い自我の持ち主は、傷つくことを恐れ、防御線をなるべく遠くに置く。過度に防衛的であり攻撃的傾向が強くなる。元首相が、自分を批判する政治家やマスメディア関係者には反射的に敵対的に反応した。安倍政権時代に蔓延するようになった不寛容の気分は、多分に、この安倍の余裕のなさの裏返しだったと理解できる。
映画で紹介されている内容の多くの部分は、すでにテレビ報道などで紹介された映像であり、ところどころで挿入されるアニメーションである。また彼の生い立ちについては評伝などの関連本で紹介されていることがほとんどであった。独自に取材した部分は多くない。
インタビューから
映画による独自取材による箇所で、筆者の印象に残ったのは以下の三か所である。第一に、政界や企業のスキャンダルを積極的に取り上げているジャーナリストの山岡俊介氏のものである。氏は地元の安倍事務所と暴力団とのかかわりを追い続けていた。安倍事務所が工藤会系の暴力団員に襲われた事件についての裁判で、安倍事務所が暴力団を利用して選挙妨害行為をしていたことが認定されている。当然、安倍晋三にしてみれば触れてもらいたくない問題であり、大手メディアはこの問題をあまり報道しなかった。だが氏の証言はじつに生々しいものである。しかも彼は取材していた時期に、ビルの地下階段で何者かに突き落とされて大怪我をしている。関係者の関与が疑われているのである。
第二に、覆面での出演ではあったが、霞が関の二人の高級官僚が安倍政権時代の官僚たちの萎縮ぶりを具体的に証言していたことである。憲法解釈さえも易々と変更する官邸により不本意な仕事を命じられる。自他ともに認める優秀な人物であると自負して国家の官僚になった彼らが、人事権を盾に横車を押してくる官邸のやり様から感じていた屈辱感はいかほどのものだったか想像に難くない。
第三に、憲法学者の小林節氏へのインタビューである。氏は長期にわたって自民党の憲法検討部会の相談役として付き合ってきたが、第二次安倍政権以降は、「付き合いきれない」という気持ちになったという。筆者が想像していた以上に、自民党の世襲議員たちの多くが、国家の基本法としての憲法の意味も理解せず、明治憲法への郷愁に生きているのだという。安倍晋三も好んで使っていた「法の支配、民主主義、人権といった価値を共有する自由世界の一員」という科白は、外向け(外国向け)だけのものだった。
監督の内山氏が映画作成を終えて、自らの印象として安倍晋三の姿に「およそ成熟した大人の言動とは思えない」と述懐しているが、この評は、『安倍三代』(朝日文庫)でジャーナリストの青木理が述べている安倍晋三=「空虚な器」という評に重なるものである。
安倍晋三と不寛容な空気
青木理は、安倍晋三の学生時代、社会人時代を通じて、政治的な発言をしたのを誰一人として聞いていないこと、勤務先の会社では上司から「子犬のように可愛がられた」などのエピソードを指摘している。そのうえで青木は、「空虚な器にジャンクな右派思想を注ぎ込まれた」政治家(「日刊ゲンダイ」臨時特別号、2022年9月15日)と評している。
父親の死によって突然、38歳で国会議員になった安倍晋三は、周囲から「お前は子犬ではなく、偉大なお爺さんである岸信介の血を引いた高貴な狼だ」と持ち上げられたのだろう。読書や人との議論などを通じて深く思索したり、思想形成をしたりしたこともなければ、特定の思想家や作家などから強い人格的影響を受けた様子もない。空っぽの器には安っぽい「思想」が入り込む。
彼の脆弱なアイデンティティの核に祖父の岸信介がいたから、日中戦争・太平洋戦争における日本の加害を指摘する研究や報道などに拒絶反応をしたのも自然なことだった。それは社会に不寛容な空気を醸成することになった。リベラルな言論人たちを攻撃する人物、とくに旧日本軍の加害責任を否定する人物を重用した。百田尚樹、小川榮太郎、櫻井よしこ、さらに三浦瑠璃ら、それまで無名であったり、際物扱いされていたりした面々が、安倍政権時代には、テレビなどに頻繁に登場するようになった。稲田朋美や高市早苗、杉田水脈ら政治的業績の乏しい女性議員でも、安倍晋三が喜びそうな言動をとれば、党内で重用されたのである。
国民の戸惑い
筆者が鑑賞した新宿のシネマコンプレックスでは、封切直後の土曜の午後とはいえ、客席はほぼ満席であった。客の平均年齢は多少高めだったようだが、若い客も少なくなかった。多くの国民が、安倍政権とその時代とはいったい何だったのか、夢から醒めたように疑問を抱きつつあるようにも思える。旧統一協会問題やオリンピック汚職に始まり、安倍政権時代の疑惑の数々が司直の手によって、あるいはジャーナリストたちによって明るみに出るようになっている。多くの人に見てもらい、安倍政権の時代とは何だったのか、反省の議論の材料としてもらいたい。
2023.02.03
何度でもやり直せる現場の物語を大切に
映画「チョコレートな人々」
人にはそれぞれの物語というものがある。生まれてから亡くなるまでの間に、進学・就職・結婚と大きな節目を向かえ、その都度自分史を刻んでいる。ある人はプロサッカー選手になりたくて部活動で頑張って来ましたと、ある人はIT事業をやりたくで資金集めに奔走して来ましたと。雨の日も雪の日も・・・、成功も失敗も・・・と。そして最終的に、もう一度人生をやり直すことができたならと切に願う。
しかし、最近はこうした個々人の物語が見え難くなってきている。ソーシャルメディアの普及で情報は溢れかえっているというのに、現実で起きている出来事はどんどんと記号化し忘れ去られている。オリンピックの優勝も、ああ・・・で終わり。戦争で人が亡くなっても、ああ・・・で終わり。そして、ああ・・・の一言で記憶を忘却し続けている人々の姿そのものがまったく見えていない。本当は、たくさんの物語があるであろうに。
愛知県豊橋駅の近くに久遠チョコレートというお店がある。チョコレートの製造から販売までを手がけている会社だ。外見はちょっと小洒落た今風のお店なのだが、このお店で起きた物語が注目を集めている。物語は2003年に障がい者が働けるパン店を開業し、2014年に久遠チョコレートを立ち上げたところから出発している。久遠チョコレートの代表を務めている夏目氏はホームページ上において、障がい者雇用の促進と低工賃からの脱客を謳い、社会の中で輝き続け、チョコレートを手に取る人々にロマンを与え、豊かで明るい未来づくりを目指す、一般市場で通用するものを作り続けると公言している。こうしたことは実現するとなると相当な困難を伴うため、空想の範疇で終わってしまうことが非常に多いものだが、久遠チョコレートは現在スタッフ550名程の規模となり、その内の6割・350名程が障がいを持つ方々で構成されているというから驚きだ。もちろんチョコレートの品質も上々でカカオの香りが口いっぱいに広がり人気を博している。いったいどうして?どうやって?と多くの方がその理由を知りたいと関心を持たれるのではないかと思う。
この久遠チョコレートで起きた様々な物語が一本の映画になった。映画のタイトルは「チョコレートな人々」、もちろんドキュメンタリーだ。ストーリーは単なる美談ではなく、お店を運営していく中での失敗や困難も赤裸々に描かれている。そして、その困難をどう乗り越えたか、あるいは乗り越えられなかったか。

映画の中において、チョコレートは「暖めれば、何度だって、やり直せる」という言葉が何度も繰り返し使われている。人間に失敗はつきもの、完全な人間などどこにもいないのであり、問われるべきは失敗をどう乗り越え、過ちを繰り返さないことなのであろう。この映画を監督した鈴木祐司氏は、久遠チョコレートの取り組みを多くの人に知って見ていただきたいと、上映会場に足を運んでは観客との対話にも積極的だ。
失敗したからと人を切り捨てるのは簡単かも知れないが、人間はゴミではない。得意分野もあれば、不得意分野もある。できることもできないこともある。そうした中で互いに困難をどう乗り越え明日の幸せに繋げていくか。何度でもやり直せる社会は、何度でもやり直せる現場の物語から出発する。映画「チョコレートな人々」はそんなことを思わせてくれるのではないだろうか。久遠チョコレートの現場で働く人々の姿は美しい。
映画「チョコレートな人々」
2023年1月より、ポレポレ東中野、第七芸術劇場等で上映中。
HP http://www.tokaidoc.com/choco/
ツイッター https://twitter.com/tokaidocmovie
FB https://www.facebook.com/tokaidoc.movie
インスタグラム https://www.instagram.com/tokaidocmovie/
杜 海樹 (フリーライター)
人にはそれぞれの物語というものがある。生まれてから亡くなるまでの間に、進学・就職・結婚と大きな節目を向かえ、その都度自分史を刻んでいる。ある人はプロサッカー選手になりたくて部活動で頑張って来ましたと、ある人はIT事業をやりたくで資金集めに奔走して来ましたと。雨の日も雪の日も・・・、成功も失敗も・・・と。そして最終的に、もう一度人生をやり直すことができたならと切に願う。
しかし、最近はこうした個々人の物語が見え難くなってきている。ソーシャルメディアの普及で情報は溢れかえっているというのに、現実で起きている出来事はどんどんと記号化し忘れ去られている。オリンピックの優勝も、ああ・・・で終わり。戦争で人が亡くなっても、ああ・・・で終わり。そして、ああ・・・の一言で記憶を忘却し続けている人々の姿そのものがまったく見えていない。本当は、たくさんの物語があるであろうに。
愛知県豊橋駅の近くに久遠チョコレートというお店がある。チョコレートの製造から販売までを手がけている会社だ。外見はちょっと小洒落た今風のお店なのだが、このお店で起きた物語が注目を集めている。物語は2003年に障がい者が働けるパン店を開業し、2014年に久遠チョコレートを立ち上げたところから出発している。久遠チョコレートの代表を務めている夏目氏はホームページ上において、障がい者雇用の促進と低工賃からの脱客を謳い、社会の中で輝き続け、チョコレートを手に取る人々にロマンを与え、豊かで明るい未来づくりを目指す、一般市場で通用するものを作り続けると公言している。こうしたことは実現するとなると相当な困難を伴うため、空想の範疇で終わってしまうことが非常に多いものだが、久遠チョコレートは現在スタッフ550名程の規模となり、その内の6割・350名程が障がいを持つ方々で構成されているというから驚きだ。もちろんチョコレートの品質も上々でカカオの香りが口いっぱいに広がり人気を博している。いったいどうして?どうやって?と多くの方がその理由を知りたいと関心を持たれるのではないかと思う。
この久遠チョコレートで起きた様々な物語が一本の映画になった。映画のタイトルは「チョコレートな人々」、もちろんドキュメンタリーだ。ストーリーは単なる美談ではなく、お店を運営していく中での失敗や困難も赤裸々に描かれている。そして、その困難をどう乗り越えたか、あるいは乗り越えられなかったか。

映画の中において、チョコレートは「暖めれば、何度だって、やり直せる」という言葉が何度も繰り返し使われている。人間に失敗はつきもの、完全な人間などどこにもいないのであり、問われるべきは失敗をどう乗り越え、過ちを繰り返さないことなのであろう。この映画を監督した鈴木祐司氏は、久遠チョコレートの取り組みを多くの人に知って見ていただきたいと、上映会場に足を運んでは観客との対話にも積極的だ。
失敗したからと人を切り捨てるのは簡単かも知れないが、人間はゴミではない。得意分野もあれば、不得意分野もある。できることもできないこともある。そうした中で互いに困難をどう乗り越え明日の幸せに繋げていくか。何度でもやり直せる社会は、何度でもやり直せる現場の物語から出発する。映画「チョコレートな人々」はそんなことを思わせてくれるのではないだろうか。久遠チョコレートの現場で働く人々の姿は美しい。
映画「チョコレートな人々」
2023年1月より、ポレポレ東中野、第七芸術劇場等で上映中。
HP http://www.tokaidoc.com/choco/
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2022.06.15
安倍政権の残した傷跡
映画「教育と愛国」を見る
自身を安全な場に置きながら、他者に愛国心を要求する者は醜いだけでなく、しばしば愚かしく滑稽な姿を晒す。文科省の教科書調査官が、街のパン屋を取り上げた小学校の教科書にクレームをつけ、和菓子屋に差し替えさせたという、笑い話のような実例がある。第二次大戦中、野球から英語を追放した馬鹿げた歴史を想起させる。
近年、教育現場では「愛国心」教育が繰り広げられている。本作品は、安倍政権下で進められた教育現場の愛国心教育の実態を追った、大阪毎日放送ディレクターの斉加尚代氏が作成したドキュメンタリー映画である。この映画については、5月28日の本サイトに岩垂弘氏の推薦記事が掲載されているが、教育問題を専門とする筆者も筆を執っておきたい。愛国心教育に関する政策について、時系列的に整理しておこう。(下線部、筆者)
2006年、第一次安倍政権は教育基本法の改定を成立させた。ポイントは、教育の目標として「伝統と文化を尊重し、それらを はぐくんできた我が国と郷土を愛する…態度を養う」が加えられたこと。また、教育活動が「法律の定めるところにより行われる」として、法律によって教育内容をコントロールできるとしたこと。
2014年から、教科書検定において、「閣議決定その他の方法により示された政府の統一的な見解や最高裁判所の判例が ある場合には、それらに基づいた記述がされていること」などの項目が示され、教科書執筆者は研究者としての知見を脇に置き、時の政府の見解に沿った記述をするように求められることになった。
2015年、教育委員会制度に大きな改定が加えられ、教育委員の互選で選ばれていた委員長を首長が任命することとした。
学校教育法の改正によって、小学校では2018年、中学校では2019年から、HR活動などと同じ扱いだった「道徳」を「特別の 教科」とし、現場では教科書の使用義務が課されることとなった。
かくして、安倍政権下では政治が教育の現場に土足で踏み込んでいく情景が広がっていったのである。「『そもそも』には、『基本的に』の意味がある」など、珍奇な「閣議決定」を出し続けた内閣である。そのような政治家たちに、教育官僚や学校現場の教員が振り回される悲喜劇が繰り返されているのである。
映画は2012年に、大阪で開かれたシンポジウムの場面から始まる。当時大阪府知事だった松井一郎氏と安倍晋三氏、さらに安倍氏に近い憲法学者(と言っても憲法に関する学術書はないが)の八木秀次氏の三人である。ここで安倍氏は「政治が教育に関わるのは当然だ」と主張した。映画では教科書問題を中心にさまざまなエピソードを追っていく。
以下、印象に残ったエピソードを2,3取り上げたい。
歴史教科書問題
1990年代に活動を始めた「新しい歴史教科書をつくる会」の活動が取り上げられる。神武天皇など神話上の人物を取り上げたりする復古調の部分と、太平洋戦争を「大東亜戦争」と呼び、日本の防衛戦争・アジアを解放するための戦争と評価し、日本軍による加害行為を限りなく小さく見せる、歴史修正主義的記述が特徴である。この教科書は各地で政治家の後押しもあって一定の採択が見られたが、現在では採択率は不調である。
理由については筆者が以前に本サイトで紹介したが、検定の強化によって、他の大半の教科書で、慰安婦問題や強制労働などの記述が彼らの教科書と同様のレベルにコントロールされたからである。各地の教育委員会にしてみれば、政治家の圧力が弱まり、神話などにページが費やされて高校受験に不利な教科書を採択する理由は無くなる。
映画では、「つくる会」の主要執筆者である伊藤隆東大名誉教授のインタビュー場面がある。歴史教育の目的を問われた氏が「まともな日本人を育てること」と答える。質問者から「まともな日本人とは?」と問われると、虚を突かれたかのような表情を見せ、少し間をおいてから「左翼ではない」と答え、観客から失笑が漏れる。
この点、氏を弁護するわけではないが、歴史教育に携わったものとして少しばかり解説しておきたい。周知のとおり、戦前の歴史教科書は皇国史観によるものであったから、マルクス主義の唯物史観の研究者たちが教科書に関わることはありえなかった。しかし戦後は状況が変わった。古代の律令制や中世の荘園制など、社会構造を理解するうえで唯物史観は有効だったから、伊藤氏のいう「左翼」系の研究者が幅を利かせることになった。近代政治史で研究実績を積んできた伊藤氏にしてみれば、「左翼系」の研究者が跋扈することに不快感を抱き続けていたはずだ。氏には、教育を通じて国民を右翼思想に染め上げるというような、大それた意図はなかっただろう。伊藤氏の姿は、世間知らずの学者が政治に利用された姿なのである。
慰安婦問題
国会で自民党の杉田水脈議員が、ジェンダー問題の研究者である牟田和恵阪大教授が科学研究費を受給していることが問題だと発言している場面が出てくる。牟田氏は戦時性暴力もテーマとしていることから、従軍慰安婦についての論文も発表している。杉田議員は、さらに自らのツイッターで、その研究を「捏造」と決めつける投稿をした。
理系であろうと文系であろうと、研究者が資料などをいい加減に扱って間違った結論を出せば、他の研究者から指摘され、研究者生命が断たれることもありうる。水田議員は、月刊誌に「LGTBには生産性がない」なる「論文」を掲載させて、廃刊に追い込んだ人物だけあって、発言がじつに軽い。
当然の対応として牟田教授らは、水田議員を相手取って名誉棄損の訴訟を起こした。しかし地裁は、この5月25日、原告側の請求を棄却する判決を出している。判決理由は、互いに批判している中での発言だから、一方に否があるものではないということであった。政治家と研究者の議論を、酔っぱらい同士の口論程度のものとしか理解していないことを示すもので、批評する値打ちもない。
もともと水田議員は自民党議員としての実績もないのに、従軍慰安婦を否定する政治活動を熱心に行っていて、その極右的な言動が安倍晋三の目に留まり、中国地区比例区の候補者となって当選している。要するに安倍氏があまり表立っては言えない、彼の本心を伝える装置として採用された人物なのである。
そのほかにも、従軍慰安婦問題について安倍氏の指示を受け、国際会議の場で反論活動を展開した外務官僚が登場する。彼は私大卒の外務省官僚として初めて次官まで上り詰めている。安倍政権の時代には、安倍氏に気に入られるような活動をした人物が、異例な取り立て方をされた例が多くみられた。現在、官僚組織のモラルハザードが進行しているのは、その後遺症とも言えるが、後遺症が死に至る病にならない保証はない。
期待される教科書
学習指導要領では、教科「道徳」の教育目標は、徳目の押し付けではなく、「自己の生き方についての考えを深める学習」としている。では、誠実さという徳目をテーマとする学習で、スキャンダルにまみれて国会で数えきれないほどの嘘を吐き続けた総理大臣がいたことを取り上げてはどうだろう。しかも彼は憲政史上、最長期間、その座に座り続けた。なぜそのような人物が首相の座に座り続けられたのか「探求」する学習は、政治(主権者)教育としても格好のテーマだと思うのだが。そのような教科書を出す教科書会社は現れないものだろうか。
小川 洋(教育研究者)
自身を安全な場に置きながら、他者に愛国心を要求する者は醜いだけでなく、しばしば愚かしく滑稽な姿を晒す。文科省の教科書調査官が、街のパン屋を取り上げた小学校の教科書にクレームをつけ、和菓子屋に差し替えさせたという、笑い話のような実例がある。第二次大戦中、野球から英語を追放した馬鹿げた歴史を想起させる。
近年、教育現場では「愛国心」教育が繰り広げられている。本作品は、安倍政権下で進められた教育現場の愛国心教育の実態を追った、大阪毎日放送ディレクターの斉加尚代氏が作成したドキュメンタリー映画である。この映画については、5月28日の本サイトに岩垂弘氏の推薦記事が掲載されているが、教育問題を専門とする筆者も筆を執っておきたい。愛国心教育に関する政策について、時系列的に整理しておこう。(下線部、筆者)
2006年、第一次安倍政権は教育基本法の改定を成立させた。ポイントは、教育の目標として「伝統と文化を尊重し、それらを はぐくんできた我が国と郷土を愛する…態度を養う」が加えられたこと。また、教育活動が「法律の定めるところにより行われる」として、法律によって教育内容をコントロールできるとしたこと。
2014年から、教科書検定において、「閣議決定その他の方法により示された政府の統一的な見解や最高裁判所の判例が ある場合には、それらに基づいた記述がされていること」などの項目が示され、教科書執筆者は研究者としての知見を脇に置き、時の政府の見解に沿った記述をするように求められることになった。
2015年、教育委員会制度に大きな改定が加えられ、教育委員の互選で選ばれていた委員長を首長が任命することとした。
学校教育法の改正によって、小学校では2018年、中学校では2019年から、HR活動などと同じ扱いだった「道徳」を「特別の 教科」とし、現場では教科書の使用義務が課されることとなった。
かくして、安倍政権下では政治が教育の現場に土足で踏み込んでいく情景が広がっていったのである。「『そもそも』には、『基本的に』の意味がある」など、珍奇な「閣議決定」を出し続けた内閣である。そのような政治家たちに、教育官僚や学校現場の教員が振り回される悲喜劇が繰り返されているのである。
映画は2012年に、大阪で開かれたシンポジウムの場面から始まる。当時大阪府知事だった松井一郎氏と安倍晋三氏、さらに安倍氏に近い憲法学者(と言っても憲法に関する学術書はないが)の八木秀次氏の三人である。ここで安倍氏は「政治が教育に関わるのは当然だ」と主張した。映画では教科書問題を中心にさまざまなエピソードを追っていく。
以下、印象に残ったエピソードを2,3取り上げたい。
歴史教科書問題
1990年代に活動を始めた「新しい歴史教科書をつくる会」の活動が取り上げられる。神武天皇など神話上の人物を取り上げたりする復古調の部分と、太平洋戦争を「大東亜戦争」と呼び、日本の防衛戦争・アジアを解放するための戦争と評価し、日本軍による加害行為を限りなく小さく見せる、歴史修正主義的記述が特徴である。この教科書は各地で政治家の後押しもあって一定の採択が見られたが、現在では採択率は不調である。
理由については筆者が以前に本サイトで紹介したが、検定の強化によって、他の大半の教科書で、慰安婦問題や強制労働などの記述が彼らの教科書と同様のレベルにコントロールされたからである。各地の教育委員会にしてみれば、政治家の圧力が弱まり、神話などにページが費やされて高校受験に不利な教科書を採択する理由は無くなる。
映画では、「つくる会」の主要執筆者である伊藤隆東大名誉教授のインタビュー場面がある。歴史教育の目的を問われた氏が「まともな日本人を育てること」と答える。質問者から「まともな日本人とは?」と問われると、虚を突かれたかのような表情を見せ、少し間をおいてから「左翼ではない」と答え、観客から失笑が漏れる。
この点、氏を弁護するわけではないが、歴史教育に携わったものとして少しばかり解説しておきたい。周知のとおり、戦前の歴史教科書は皇国史観によるものであったから、マルクス主義の唯物史観の研究者たちが教科書に関わることはありえなかった。しかし戦後は状況が変わった。古代の律令制や中世の荘園制など、社会構造を理解するうえで唯物史観は有効だったから、伊藤氏のいう「左翼」系の研究者が幅を利かせることになった。近代政治史で研究実績を積んできた伊藤氏にしてみれば、「左翼系」の研究者が跋扈することに不快感を抱き続けていたはずだ。氏には、教育を通じて国民を右翼思想に染め上げるというような、大それた意図はなかっただろう。伊藤氏の姿は、世間知らずの学者が政治に利用された姿なのである。
慰安婦問題
国会で自民党の杉田水脈議員が、ジェンダー問題の研究者である牟田和恵阪大教授が科学研究費を受給していることが問題だと発言している場面が出てくる。牟田氏は戦時性暴力もテーマとしていることから、従軍慰安婦についての論文も発表している。杉田議員は、さらに自らのツイッターで、その研究を「捏造」と決めつける投稿をした。
理系であろうと文系であろうと、研究者が資料などをいい加減に扱って間違った結論を出せば、他の研究者から指摘され、研究者生命が断たれることもありうる。水田議員は、月刊誌に「LGTBには生産性がない」なる「論文」を掲載させて、廃刊に追い込んだ人物だけあって、発言がじつに軽い。
当然の対応として牟田教授らは、水田議員を相手取って名誉棄損の訴訟を起こした。しかし地裁は、この5月25日、原告側の請求を棄却する判決を出している。判決理由は、互いに批判している中での発言だから、一方に否があるものではないということであった。政治家と研究者の議論を、酔っぱらい同士の口論程度のものとしか理解していないことを示すもので、批評する値打ちもない。
もともと水田議員は自民党議員としての実績もないのに、従軍慰安婦を否定する政治活動を熱心に行っていて、その極右的な言動が安倍晋三の目に留まり、中国地区比例区の候補者となって当選している。要するに安倍氏があまり表立っては言えない、彼の本心を伝える装置として採用された人物なのである。
そのほかにも、従軍慰安婦問題について安倍氏の指示を受け、国際会議の場で反論活動を展開した外務官僚が登場する。彼は私大卒の外務省官僚として初めて次官まで上り詰めている。安倍政権の時代には、安倍氏に気に入られるような活動をした人物が、異例な取り立て方をされた例が多くみられた。現在、官僚組織のモラルハザードが進行しているのは、その後遺症とも言えるが、後遺症が死に至る病にならない保証はない。
期待される教科書
学習指導要領では、教科「道徳」の教育目標は、徳目の押し付けではなく、「自己の生き方についての考えを深める学習」としている。では、誠実さという徳目をテーマとする学習で、スキャンダルにまみれて国会で数えきれないほどの嘘を吐き続けた総理大臣がいたことを取り上げてはどうだろう。しかも彼は憲政史上、最長期間、その座に座り続けた。なぜそのような人物が首相の座に座り続けられたのか「探求」する学習は、政治(主権者)教育としても格好のテーマだと思うのだが。そのような教科書を出す教科書会社は現れないものだろうか。
2022.05.28
政治の圧力と介入から教科書を守れ
映画『教育と愛国』に拍手を送る
岩垂 弘 (ジャーナリスト)
力作である。『教育と愛国』と題するドキュメンタリー映画だ。107分。製作委員会製作。監督は斉加尚代(さいか・ひさよ)さん。毎日放送のディレクターである。ぜひ観賞をお勧めしたい。
この映画の基になっているのは、毎日放送が2017年7月に放送したテレビ番組『教育と愛国~教科書でいま何が起きているのか』である。この作品は、その年のギャラクシー賞テレビ部門大賞や、「地方の時代」映像祭の優秀賞などを受賞した。それに追加取材し、再構成したのが、今回のドキュメンタリー映画だ。
製作委員会がつくったブレス資料「教育と愛国」は、冒頭でこの作品について「ひとりの記者が見続けた“教育現場”に迫る危機 教科書で“いま”何が起きているのか?」と述べ、さらに「いま、政治と教育の距離がどんどん近くなっている。軍国主義へと流れた戦前の反省から、戦後の教育は政治と常に一線を画してきたか、昨今この流れは大きく変わりつつある」「本作では、毎日放送で20年以上にわたって教育現場を取材してきたと斉加尚代ディレクターが『教育と政治』の関係を見つめながら最新の教育事情を記録した」と続けている。こうした記述に、この作品をつくった狙いが端的に示されていると言える。
ブレス資料「教育と愛国」に載っている斉加さんの文章によれば、戦後日本の教育の理念は、旧教育基本法(1947年施行)にうたわれていた。その前文にはこうあった。「われらは、さきに日本国憲法を確定し、民主的で文化的な国家を建設して、世界の平和と人類の福祉に貢献しようとする決意を示した。この理想の実現は、根本において教育の力にまつべきものである」
要するに、教育の目的は「人格の完成をめざし、平和的な国家及び社会の形成者として、真理と正義を愛し、個人の価値をたつとび、勤労と責任を重んじ、自主的精神に充ちた心身ともに健康な国民の育成を期して行われなければならない」(旧教育基本法第1条)とされたのだった。
ところが、2000年代以降、教科書の記述が政治の力で変えられてきたという。なかでも、2006年に第1次安倍晋三内閣によって教育基本法が改正され、教育の目標に「伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛するとともに、他国を尊重し、国際社会の平和と発展に寄与する態度を養うこと」が付け加えられたことが、教科書の記述に決定的な変化をもたらした。つまり、新しい教育基本法に「愛国心を養う」ことが教育の目標の一つと規定されたことが、いまに至る教科書記述問題を引き起こしたという。
斉加さんによれば、それまでの教科書には、第2次世界大戦で日本人が受けた被害と、日本軍による加害の両面が記述されていたが、新しい教育基本法に「愛国心」条項が盛り込まれてからは、南京事件や日本軍の慰安婦問題、そして沖縄戦における住民の集団自殺などの戦争加害を記述した教科書に対し右派勢力から攻撃が行われるようになったという。
映画には、教科書に戦争加害を記述したのをきっかけに倒産に追い込まれた教科書出版社の元編集者や、授業で慰安婦を取り上げたために右派勢力からバッシングされた中学校教員、研究内容をめぐって「反日学者」と中傷された大学教授らが登場する。慰安婦問題や沖縄戦を記述する教科書を採択した学校には、抗議のハガキが殺到する……
極めつけは、教科書から「従軍慰安婦」と「強制連行」という表現がなくなったことだろう。
中学社会や高校の地理歴史、公民の教科書にあった「従軍慰安婦」と「強制連行」の記述について、教科書会社7社が昨年秋、相次いで訂正申請を文部科学相に出し、承認された。これは、安倍内閣を継承した菅義偉内閣が、昨年4月に慰安婦問題と強制連行をめぐる答弁書を閣議決定したのに伴い、その決定に従ったからだった。
その答弁書は、「『従軍慰安婦』または『いわゆる従軍慰安婦』ではなく、単に『慰安婦』という用語を用いることが適切」としていた。また、朝鮮半島から日本に連れてこられた人々については「朝鮮半島から内地に移入した人々の移入の経緯は様々であり、『強制連行された』もしくは『強制的に連行された』または『連行された』」とひとくくりに表現することは適切ではない」としていた。
これに対し、教科書会社側は、教科書の記述を単に「慰安婦」、「動員」などと訂正すると文科相に申請し、教科用図書検定調査審議会の審議を経て承認された。
こうした経緯を見てくると、教科書検定制度に問題の焦点があることが分かってくる。
学校で児童、生徒たちが使う教科書をつくるのは教科書会社だが、つくられた教科書がそのまま教育現場で使われるわけではない。教科書会社が文科相に認定を申請し、文科相が一定の基準に基づいて教科書として適切がどうか審査し、それに合格すれば、学校での使用が認められる、という仕組みになっている。
実際に教科書の記述を審査するのは、教科書調査官である。彼らは、教科書会社に対し決して「こう書け」とは言わない。提出された教科書に対し、「ここのところは基準に合わない」と意見を言うだけである。教科書会社側としては、なんとか合格の認定をもらいたいから、結局、調査官の意見にそった記述に変えたり、教科書として適切でないと指摘された記述を引っ込めたりする。一方、文科省には、政治家や諸団体からさまざまな意見や要望が寄せられる。
ブレス資料「教育と愛国」で、斉加さんは言っている。「取材の壁は厚かった。教科書をめぐる攻防を丁寧に描こうと考えたが、『圧力』そのものをカメラに収めることはできない。眼前で命令が下さればよいが、そうはいかない。『忖度』という言葉を教科書編集者は繰り返し使う。教科書検定制度が圧力と忖度の舞台であることが伺えた」
「教育に対する政治の急接近に危険性を感じ、切羽詰まる思いで映画を作った」。映画を撮り終えた斉加さんの言葉だ。
映画は5月13日に公開され、現在、東京都内のほか、仙台、福島、大阪、京都、大分の各市の映画館で上映中である。
2022.04.27
佐藤忠男を悼む
100人の外交官を必要とする今
映画評論家佐藤忠男氏(以後敬称略)が3月17日に亡くなった。享年91歳だった。
60年前に短期間、私は佐藤忠男と個人的接触をしたことがある。個人誌『映画史研究』の読者でもあった。私は、以来敬愛の念をもってその言動に注目してきた。
ここに一文を掲げて追悼に代えたい。
《自立した映画評論と映画の国際的媒介者》
佐藤が日本の映画界または日本文化に残した業績は二つある。
一つは、この国に自立した映像評論を確立したことである。
二つは、世界に映画の面白さを知らせるメディアを務めたことである。
佐藤以前にも優れた評論家は存在した。私は、直ちに飯島正、北川冬彦、双葉十三郎、南部圭之助、今村太平らの名前を挙げることができる。しかし、詰まるところ彼らの活動は20世紀におけるインテリによる大衆啓蒙であった。啓蒙が悪いというのではない。
私は佐藤の「自立した」言説をヨリ高く買うのである。
私のいう佐藤の「自立した映画論」とは、歴史の一部となった20世紀の「映像」(佐藤の場合は劇映画と記録映画)を平易な言葉で世界に紹介することであった。しかも凄いのはそれに成功したことである。
《例えば巨匠と新鋭の評伝》
彼の業績の一つに、黒澤明、溝口健二、小津安二郎、大島渚、今村昌平、篠田正浩ら映画人の評伝がある。それは国際的に通用し、国内的には生活者を肯かせる言説であった。
私は、佐藤が生活の言葉で監督諸氏を語るとき、その言葉に心から納得した。他の識者による監督論にも力作はある。しかし多くは上から視線の教科書であった。読者を博識にするが、同時にマニア化として結果した。
佐藤は戦時中に少年飛行兵を目指したが、戦後に大人たちが変節するのを見て自立の大事なことを悟った。鶴見俊輔という哲学者がいた。米ハーバード留学中に日米開戦を知り「日本人としては母国で敗戦を迎えたい」と考えた鶴見は、1942年の日米交換船で帰国した。佐藤は、鶴見らが始めた「思想の科学」グループに参加した。
その生活者的プラグマティズムに、旧制高校の教養主義と反対の「考え方」を見た。編集者として学び、読者との交流からも学んだ。その中心にあったのはむろん、世界大の「映画批評」である。その著作は、上述の監督論、日本映画史、映画理論、個別作品の批評、教育論、人生論など多岐にわたる。
佐藤忠男にも誤りや反省はあった。
たとえば彼は、黒澤明映画がダイナミズムを喪い仏教的観照に転換した流れを十分に説明できなかった。一方、原爆への恐怖から自己破滅を図る中小企業主を描いた『生きものの記録』(1955年)については、初見の低評価を塾考ののちに修正した。
《「外交官」としての佐藤忠男》
先に、佐藤は国際交流のメディアを務めたと書いた。
彼は日本国内の多くの映画祭を「企画」し、「司会」し、出品作を「審査」し、著作のほかに多くの「講演」した。戦争と映画の関係に絞って数冊の考察を書いたのも日本の研究者としては珍しいことである。彼の戦争映画論は今も戦争と映画を論ずるときの古典である。
海外の映画イベントには邦画と外国映画を紹介した。途上国映画は、自国の前近代が崩壊してゆく哀切を描くものが多い。そういう作品の紹介にも情感豊かな文章を書いた。
20世紀は映画の世紀であった。映像の世紀はいまも続いている。それを、生涯をかけて紹介し、検証し、証明した日本人は、佐藤忠男をおいてなかったと言っても過言でない。
《「大波小波」の佐藤忠男独学主義への違和感》
佐藤への弔意を述べた文章はまだ少ない。そのなかで『東京新聞』(4月15日夕刊)のコラム「大波小波」は佐藤追悼文である。その一部にこう書いている(■から■まで)。
■どんな映画にも学ぶべきものがある。それが作られた国の社会や歴史を知ることができる。佐藤が生涯にわたって抱いていた信念である。惜しむらくは、愚直なまでの独学主義が禍(わざわい)したために、年少世代がそれを現代思想にうまく接続できないでいる。■
「偉大な独学者、佐藤忠男」と題するこの短い匿名コラムを読んで、私は佐藤の生涯をうまく纏めていると思った。だが「独学主義」のこの部分で引っかかった。
佐藤は、その功罪を知りつつおのれの独学を誇りにしていた。事実、彼の国際的活動をみると、日本の外交官100人に相当するという印象をもつ。
年少世代にもその精神は接続されている。しかし映画世界の変化も世代を超えた劇的なものがあるだろう。
第一次世界大戦は「総力戦体制」開始の時代であった。
21世紀の戦争は、TVとSNSの画面で「戦闘を観戦する時代」となった。
その行方によっては人類が滅亡するかも知れない。
《100人の外交官必要とする今》
佐藤忠男は、天上でなにを感じているだろうか。100人の外交官を必要とする今、我々は新しい100人の育成・発展を真剣に考えねばならないのである。(2022/04/18)
半澤健市 (元金融機関勤務)
映画評論家佐藤忠男氏(以後敬称略)が3月17日に亡くなった。享年91歳だった。
60年前に短期間、私は佐藤忠男と個人的接触をしたことがある。個人誌『映画史研究』の読者でもあった。私は、以来敬愛の念をもってその言動に注目してきた。
ここに一文を掲げて追悼に代えたい。
《自立した映画評論と映画の国際的媒介者》
佐藤が日本の映画界または日本文化に残した業績は二つある。
一つは、この国に自立した映像評論を確立したことである。
二つは、世界に映画の面白さを知らせるメディアを務めたことである。
佐藤以前にも優れた評論家は存在した。私は、直ちに飯島正、北川冬彦、双葉十三郎、南部圭之助、今村太平らの名前を挙げることができる。しかし、詰まるところ彼らの活動は20世紀におけるインテリによる大衆啓蒙であった。啓蒙が悪いというのではない。
私は佐藤の「自立した」言説をヨリ高く買うのである。
私のいう佐藤の「自立した映画論」とは、歴史の一部となった20世紀の「映像」(佐藤の場合は劇映画と記録映画)を平易な言葉で世界に紹介することであった。しかも凄いのはそれに成功したことである。
《例えば巨匠と新鋭の評伝》
彼の業績の一つに、黒澤明、溝口健二、小津安二郎、大島渚、今村昌平、篠田正浩ら映画人の評伝がある。それは国際的に通用し、国内的には生活者を肯かせる言説であった。
私は、佐藤が生活の言葉で監督諸氏を語るとき、その言葉に心から納得した。他の識者による監督論にも力作はある。しかし多くは上から視線の教科書であった。読者を博識にするが、同時にマニア化として結果した。
佐藤は戦時中に少年飛行兵を目指したが、戦後に大人たちが変節するのを見て自立の大事なことを悟った。鶴見俊輔という哲学者がいた。米ハーバード留学中に日米開戦を知り「日本人としては母国で敗戦を迎えたい」と考えた鶴見は、1942年の日米交換船で帰国した。佐藤は、鶴見らが始めた「思想の科学」グループに参加した。
その生活者的プラグマティズムに、旧制高校の教養主義と反対の「考え方」を見た。編集者として学び、読者との交流からも学んだ。その中心にあったのはむろん、世界大の「映画批評」である。その著作は、上述の監督論、日本映画史、映画理論、個別作品の批評、教育論、人生論など多岐にわたる。
佐藤忠男にも誤りや反省はあった。
たとえば彼は、黒澤明映画がダイナミズムを喪い仏教的観照に転換した流れを十分に説明できなかった。一方、原爆への恐怖から自己破滅を図る中小企業主を描いた『生きものの記録』(1955年)については、初見の低評価を塾考ののちに修正した。
《「外交官」としての佐藤忠男》
先に、佐藤は国際交流のメディアを務めたと書いた。
彼は日本国内の多くの映画祭を「企画」し、「司会」し、出品作を「審査」し、著作のほかに多くの「講演」した。戦争と映画の関係に絞って数冊の考察を書いたのも日本の研究者としては珍しいことである。彼の戦争映画論は今も戦争と映画を論ずるときの古典である。
海外の映画イベントには邦画と外国映画を紹介した。途上国映画は、自国の前近代が崩壊してゆく哀切を描くものが多い。そういう作品の紹介にも情感豊かな文章を書いた。
20世紀は映画の世紀であった。映像の世紀はいまも続いている。それを、生涯をかけて紹介し、検証し、証明した日本人は、佐藤忠男をおいてなかったと言っても過言でない。
《「大波小波」の佐藤忠男独学主義への違和感》
佐藤への弔意を述べた文章はまだ少ない。そのなかで『東京新聞』(4月15日夕刊)のコラム「大波小波」は佐藤追悼文である。その一部にこう書いている(■から■まで)。
■どんな映画にも学ぶべきものがある。それが作られた国の社会や歴史を知ることができる。佐藤が生涯にわたって抱いていた信念である。惜しむらくは、愚直なまでの独学主義が禍(わざわい)したために、年少世代がそれを現代思想にうまく接続できないでいる。■
「偉大な独学者、佐藤忠男」と題するこの短い匿名コラムを読んで、私は佐藤の生涯をうまく纏めていると思った。だが「独学主義」のこの部分で引っかかった。
佐藤は、その功罪を知りつつおのれの独学を誇りにしていた。事実、彼の国際的活動をみると、日本の外交官100人に相当するという印象をもつ。
年少世代にもその精神は接続されている。しかし映画世界の変化も世代を超えた劇的なものがあるだろう。
第一次世界大戦は「総力戦体制」開始の時代であった。
21世紀の戦争は、TVとSNSの画面で「戦闘を観戦する時代」となった。
その行方によっては人類が滅亡するかも知れない。
《100人の外交官必要とする今》
佐藤忠男は、天上でなにを感じているだろうか。100人の外交官を必要とする今、我々は新しい100人の育成・発展を真剣に考えねばならないのである。(2022/04/18)
2022.03.26
宝田明の他界を悼む
―「ゴジラ」と「反戦平和」―
半澤健市 (元金融機関勤務)
《金融マンの私と東宝の関わり》
1950年代に、東宝の青春スターとしてデビューし、多様なジャンルで活躍した俳優宝田明(たからだ・あきら)が逝った。2022年3月14日であった。
東宝と、私が務めていた東洋信託銀行(現「三菱UFJ信託銀行」)との取引関係から私は入場券を購入する機会が多く、東宝ミュージカル、東宝歌舞伎、劇映画をよく観たものである。社内の映画同好会で、東洋信託本社が同居していた日本橋橋畔の野村證券講堂を借りて「二人の息子」(千葉泰樹監督/松山善三脚本・1961年)の上映会を催したことがある。
宝田が兄役で団地に住むエリートサラリーマンを、加山雄三が弟役で白タクの運転手を演じた。戦後企業社会のスタートの頃の話である。映画は、三世代家族が多かった家族共同体が、経済成長の道行きで変貌してゆくさま示した佳品であった。二人の息子である宝田と加山の新鮮な演技に感動したのを私はよく覚えている。
《宝田明における戦争と平和》
宝田明は「満州国」(現在中国東北地区)で満鉄勤務の家族として、1934年に生まれ、45年の大東亜戦争敗北で日本本土へ引き揚げた。その途上で彼は自分と近しい人々がソ連軍から、筆に書けない屈辱を受けたのを見た。彼は、チャイコフスキーやトルストイを生んだ「ソ連」を芸術の国として評価できないと語った。
彼は自らも加害者の一員であった戦争から学んだ「反戦平和」の理念を尊いものとして考えていた。それをテレビや講演で、芸能が話題の席でも話した。自分の反戦平和論にクセがあることを自認していたが、逆にそれは彼の真情をよく訴えるものであった。
《宝田と観客は大衆の誇りである》
なるほど宝田明は、黒澤明・小津安二郎・溝口健二ら巨匠作品への出演はなく、あっても主役を演ずることはなかった。しかしこの長身でスマートな二枚目は、東宝モダニズムによく似合い、メロドラマ映画やミュージカルの日本化で優れた達成を示した。
代表作「ゴジラ」の出演者として、「巨獣の姿、伊福部昭のテーマ音楽」と共に、世界の大衆によって記憶されている。
表現の自由と反戦の思想を、世論を忖度して曖昧にする演技者は、日本に多い。
しかし、このエンターテイナーは、自分の言葉で「反戦平和」を語った。
人々はそのことを密かに感じ続けていた。彼の訃報に対して人々は瞬時に反応した。
「Yahoo!」ニュース訃報欄に一日で750件を超える弔文が寄せられた。俳優と観客の「エンタメ共同体」は生きていたのである。私もその一人である。
宝田明よ 安らかに眠れ!
(2022/03/18)
2021.12.06
映画『モーリタニアン 黒塗りの記録』(原題:”The Mauritanian”)
アメリカの「人権外交」を考える
イギリス人のドキュメンタリー映画作家ケヴィン・マクドナルドが監督を務めたイギリス・アメリカ合作の作品である。アメリカでは今年2月に公開され、日本での公開は10月末であった。原作は、グアンタナモ収容所に14年間拘束された映画の主人公でもあるムハメドウ・スラヒが釈放後に書いた手記であり、2015年に河出書房新社から『グアンタナモ収容所 地獄からの手記』として邦訳も出ている。
主要登場人物は3名で、舞台は半分近い時間が無機質なコンクリートの部屋の中である。上映時間は2時間余。しかし弛緩した場面はなく、逆に畳み込むように場面は進み、観る者はさまざまな感情を掻き立てられる。
主要舞台は、キューバ島にあるアメリカ軍のグアンタナモ収容所である。主人公は、800名近い被収容者の一人、モーリタニア国籍の男性、スラヒである。彼は身柄を拘束されてから3年間、何の容疑で拘束されているのかも知らされず、裁判の予定も知らされていない。許可された外来者と面会する時は、独房から出る際に手錠だけでなく足も鎖に繋がれ、面会室では、その鎖は床に固定される。
彼が拘束された理由は、9.11事件の首謀者とされるビン・ラディンの一族の一人から彼の携帯に着信記録が一回あったことと、ドイツ留学中にアパートにアラブ系の学生を一晩泊めたことだ。この2件から、アメリカ軍はスラヒが、9.11の犯人たちをリクルートし組織するうえで重要な役割を果たしたという疑いをもち、モーリタニア政府に彼の身柄を求めた。2001年11月にモーリタニアの警察によって拘束されアメリカ軍に引き渡された。ちなみにコーランには、「旅人を助けよ」という教えがあるように、スラヒにとって、知り合いでもないアラブの学生に一晩の寝床を提供することは自然なことであったはずだ。
2人目は、アメリカの人権活動家としても知られていた女性弁護士ナンシー・ホランダー。スラヒの両親は初めにフランスの弁護士に息子の所在と弁護を依頼した。モーリタニアの旧宗主国はフランスである。しかしパリの法律事務所は、スラヒがアメリカ軍に拘束されていることから、アメリカの弁護士であり、アメリカ軍の施設に入構する資格のある彼女に弁護を打診した。ナンシーは引き受け、グアンタナモに赴く。
さらに3番目の登場人物は、海兵隊検事(Marine Prosecutor)であるスチュアート・カウチ中佐である。アメリカ政府は、グアンタナモに収容されている「容疑者」は、主権国家間の軍事紛争による捕虜ではなく、戦時国際法上の捕虜としての地位は認められないとして、法的な保護を一切認めていない。カウチ中佐は軍上層部から、スラヒが9.11事件の首謀者の一人であるとして、死刑判決を求めて起訴するよう指示される。
ホランダー弁護士はスラヒと面会し、弁護を引き受けるとともに、経過を記したスラヒの手紙を読みながら、アメリカ軍の作成した「調書」の閲覧を進める。一方のカウチ中佐も、起訴手続きを始めるために「調書」の閲覧を始める。しかし2人とも、当局から提供された「調書」の大部分は黒塗りされ、弁護するにも起訴するにも、その手掛かりさえ得られない。日本語題名の副題「黒塗りの記録」の由来である。
ホランダー弁護士は、調書のなかからスラヒが「犯罪事実」を詳細に語った自白を見つけて衝撃を受ける。弁護士事務所の助手は席を蹴って仕事から外れることを宣言する。不審に思ったホランダー弁護士がスラヒに自白した理由を問い詰めると、「自白」が壮絶な拷問によるものであったことが明らかになる。
カウチ中佐のほうは、職権によって「調書」の原稿にあたるメモの閲覧を執拗に求め、やはりスラヒが受けた想像を絶する拷問や親族への加害の示唆などの事実を確認する。カウチ中佐は収容所を訪問した際、独房の最低設定温度が摂氏12度となっていたことにも思い当たるのである。カウチ中佐は、キリスト教徒としての良心からもスラヒの起訴は不可能と主張して解任される。上層部や部下からは「売国奴(traitor)」と罵られる。
その後の展開は是非、映画を見て確かめてほしい。最後は、解放されたスラヒが故郷の人々の歓待を受ける実際の場面である。
グアンタナモ収容所は、やはり収容者の虐待が明らかになったアブグレイブ刑務所(イラク)と並んで、アメリカ政府の掲げる「人権外交」が、悪い冗談に響くような施設であった。アメリカ政府の掲げる民主主義と人権は、第二次大戦後の国際社会においてそれなりの輝きをもっていた時代があった。しかし、いつしか、それはアメリカの軍事的あるいは経済的国益の追及を隠す「イチジクの葉」に過ぎなくなっていた。今年8月末に発生したアメリカ軍のアフガニスタンからの撤退はそのことを白日の下に晒すことになった。アフガニスタンに「民主主義を根付かせる」として20年間にわたって駐留を続け、その間、アメリカ政府は1兆ドル(110兆円)を費やした。しかし、その大部分はアメリカの軍産複合体に流れ、残りはさまざまなNGOや統治能力のない腐敗したアフガン政府の高官たちの私腹を肥やす仕組みのなかに流れ込んでいた。タリバン勢力が首都を包囲すると、政府幹部たちは現金をトランクに詰めて真っ先に脱出したのである。
オバマ政権下では、グアンタナモ収容所閉鎖の方針が示され、収容者を各出身国に移送するなど、閉鎖に向けての作業が進められた。しかし、トランプは大統領就任前に、その閉鎖に待ったをかけ、彼の任期中は移送作業が中断され、バイデン政権が発足してから再開されている。
トランプ大統領が外交問題で「人権」に言及したのは、中国敵視政策に関連してウィグル問題を扱った際だけである。逆に、自国民に対する深刻な人権侵害が指摘される北朝鮮の金正恩とは無条件で3回も会談の機会をもった。またナチズムや軍国主義を清算し、戦後、民主主義国家としてアメリカと良好な関係を維持してきたはずのドイツや日本に対しては、軍の駐留経費負担や工業製品の対米輸出など、「不公正な関係」を指弾し続けてきたのである。トランプ政権は自らの手でイチジクの葉さえも投げ捨てたというべきだろう。
バイデン政権が発足して世界の多くの国々は暫しの安心を得ただろうが、当のアメリカではトランプのような政治指導者を生み出すマグマは社会のなかに溜まり続けている。どのような人物が次の大統領に就任するにせよ、アメリカ政府の姿勢は、民主主義や人権を掲げる国際協調から、より露骨な自国中心へと変わっていかざるをえない。二言目には「強固な同盟関係」を唱え、思考停止に陥っているかのような日本政府にとって、米軍のグアンタナモ収容所やそのアフガニスタン撤退から学ぶべきことは多いはずだ。
小川 洋(大学非常勤講師)
イギリス人のドキュメンタリー映画作家ケヴィン・マクドナルドが監督を務めたイギリス・アメリカ合作の作品である。アメリカでは今年2月に公開され、日本での公開は10月末であった。原作は、グアンタナモ収容所に14年間拘束された映画の主人公でもあるムハメドウ・スラヒが釈放後に書いた手記であり、2015年に河出書房新社から『グアンタナモ収容所 地獄からの手記』として邦訳も出ている。
主要登場人物は3名で、舞台は半分近い時間が無機質なコンクリートの部屋の中である。上映時間は2時間余。しかし弛緩した場面はなく、逆に畳み込むように場面は進み、観る者はさまざまな感情を掻き立てられる。
主要舞台は、キューバ島にあるアメリカ軍のグアンタナモ収容所である。主人公は、800名近い被収容者の一人、モーリタニア国籍の男性、スラヒである。彼は身柄を拘束されてから3年間、何の容疑で拘束されているのかも知らされず、裁判の予定も知らされていない。許可された外来者と面会する時は、独房から出る際に手錠だけでなく足も鎖に繋がれ、面会室では、その鎖は床に固定される。
彼が拘束された理由は、9.11事件の首謀者とされるビン・ラディンの一族の一人から彼の携帯に着信記録が一回あったことと、ドイツ留学中にアパートにアラブ系の学生を一晩泊めたことだ。この2件から、アメリカ軍はスラヒが、9.11の犯人たちをリクルートし組織するうえで重要な役割を果たしたという疑いをもち、モーリタニア政府に彼の身柄を求めた。2001年11月にモーリタニアの警察によって拘束されアメリカ軍に引き渡された。ちなみにコーランには、「旅人を助けよ」という教えがあるように、スラヒにとって、知り合いでもないアラブの学生に一晩の寝床を提供することは自然なことであったはずだ。
2人目は、アメリカの人権活動家としても知られていた女性弁護士ナンシー・ホランダー。スラヒの両親は初めにフランスの弁護士に息子の所在と弁護を依頼した。モーリタニアの旧宗主国はフランスである。しかしパリの法律事務所は、スラヒがアメリカ軍に拘束されていることから、アメリカの弁護士であり、アメリカ軍の施設に入構する資格のある彼女に弁護を打診した。ナンシーは引き受け、グアンタナモに赴く。
さらに3番目の登場人物は、海兵隊検事(Marine Prosecutor)であるスチュアート・カウチ中佐である。アメリカ政府は、グアンタナモに収容されている「容疑者」は、主権国家間の軍事紛争による捕虜ではなく、戦時国際法上の捕虜としての地位は認められないとして、法的な保護を一切認めていない。カウチ中佐は軍上層部から、スラヒが9.11事件の首謀者の一人であるとして、死刑判決を求めて起訴するよう指示される。
ホランダー弁護士はスラヒと面会し、弁護を引き受けるとともに、経過を記したスラヒの手紙を読みながら、アメリカ軍の作成した「調書」の閲覧を進める。一方のカウチ中佐も、起訴手続きを始めるために「調書」の閲覧を始める。しかし2人とも、当局から提供された「調書」の大部分は黒塗りされ、弁護するにも起訴するにも、その手掛かりさえ得られない。日本語題名の副題「黒塗りの記録」の由来である。
ホランダー弁護士は、調書のなかからスラヒが「犯罪事実」を詳細に語った自白を見つけて衝撃を受ける。弁護士事務所の助手は席を蹴って仕事から外れることを宣言する。不審に思ったホランダー弁護士がスラヒに自白した理由を問い詰めると、「自白」が壮絶な拷問によるものであったことが明らかになる。
カウチ中佐のほうは、職権によって「調書」の原稿にあたるメモの閲覧を執拗に求め、やはりスラヒが受けた想像を絶する拷問や親族への加害の示唆などの事実を確認する。カウチ中佐は収容所を訪問した際、独房の最低設定温度が摂氏12度となっていたことにも思い当たるのである。カウチ中佐は、キリスト教徒としての良心からもスラヒの起訴は不可能と主張して解任される。上層部や部下からは「売国奴(traitor)」と罵られる。
その後の展開は是非、映画を見て確かめてほしい。最後は、解放されたスラヒが故郷の人々の歓待を受ける実際の場面である。
グアンタナモ収容所は、やはり収容者の虐待が明らかになったアブグレイブ刑務所(イラク)と並んで、アメリカ政府の掲げる「人権外交」が、悪い冗談に響くような施設であった。アメリカ政府の掲げる民主主義と人権は、第二次大戦後の国際社会においてそれなりの輝きをもっていた時代があった。しかし、いつしか、それはアメリカの軍事的あるいは経済的国益の追及を隠す「イチジクの葉」に過ぎなくなっていた。今年8月末に発生したアメリカ軍のアフガニスタンからの撤退はそのことを白日の下に晒すことになった。アフガニスタンに「民主主義を根付かせる」として20年間にわたって駐留を続け、その間、アメリカ政府は1兆ドル(110兆円)を費やした。しかし、その大部分はアメリカの軍産複合体に流れ、残りはさまざまなNGOや統治能力のない腐敗したアフガン政府の高官たちの私腹を肥やす仕組みのなかに流れ込んでいた。タリバン勢力が首都を包囲すると、政府幹部たちは現金をトランクに詰めて真っ先に脱出したのである。
オバマ政権下では、グアンタナモ収容所閉鎖の方針が示され、収容者を各出身国に移送するなど、閉鎖に向けての作業が進められた。しかし、トランプは大統領就任前に、その閉鎖に待ったをかけ、彼の任期中は移送作業が中断され、バイデン政権が発足してから再開されている。
トランプ大統領が外交問題で「人権」に言及したのは、中国敵視政策に関連してウィグル問題を扱った際だけである。逆に、自国民に対する深刻な人権侵害が指摘される北朝鮮の金正恩とは無条件で3回も会談の機会をもった。またナチズムや軍国主義を清算し、戦後、民主主義国家としてアメリカと良好な関係を維持してきたはずのドイツや日本に対しては、軍の駐留経費負担や工業製品の対米輸出など、「不公正な関係」を指弾し続けてきたのである。トランプ政権は自らの手でイチジクの葉さえも投げ捨てたというべきだろう。
バイデン政権が発足して世界の多くの国々は暫しの安心を得ただろうが、当のアメリカではトランプのような政治指導者を生み出すマグマは社会のなかに溜まり続けている。どのような人物が次の大統領に就任するにせよ、アメリカ政府の姿勢は、民主主義や人権を掲げる国際協調から、より露骨な自国中心へと変わっていかざるをえない。二言目には「強固な同盟関係」を唱え、思考停止に陥っているかのような日本政府にとって、米軍のグアンタナモ収容所やそのアフガニスタン撤退から学ぶべきことは多いはずだ。
2019.11.02
スバル座と八千草薫
―日米映画競映への道と見れば―
東京・有楽町のスバル座が閉館になった。2019年10月の現実である。
この映画館は、戦後日本における「ロードショー」劇場の先駆者であった。敗戦後の一時期、スバル座のロードショーはアメリカ文化のショーケースの役割を果たした。初回上映作品は、『アメリカ交響楽Rapsody in Blue』、ジョージ・ガーシュインの伝記映画である。
《『我等の生涯の最良の年』の勝利》
新制中学生であった私にとって「スバル座」は憧憬の対象の一つであった。
スバル座で何本見たかの記憶はないが、記憶に残っている作品はある。
一本を選べばそれは、『我等の生涯の最良の年』である。
のちにマッカーシーの赤狩りへの抗議『ローマの休日』を撮ったウィリアム・ワイラー監督が放った大作である。46年のアカデミー賞を九つ取った。興行成績も戦前の『風と共に去りぬ』に次いで第二位となった。
同じ地方都市出身の三人の復員兵が、第二次世界大戦から帰還してからの物語である。
戦場は主に太平洋戦線という設定である。年長の陸軍軍曹(フレドリック・マーチ)は、妻(マーナ・ロイ)と男女二人の子供(娘はテレサ・ライト)のいる銀行管理職。30歳前後にみえる青年は空軍では飛行将校(ダナ・アンドリュース)だが、ドラッグストアの売り場で働いていた。戦場に出たのは新婚直後であったが帰国したら、妻はナイトクラブで働らき、夫の職探しに妻は冷淡で、浮気をしている。年少の海軍水兵(ハラルド・ラッセル=実際の海軍兵士、映画初出演)は空母の船底での作業に就いていた。空母に大きな衝撃が走り気がついたときには両手を失っていた。肘から先は義手であるがタバコも吸えるほどになっている。しかし両親にも恋人である隣家の娘にも知らせていない。三人の帰還兵は、それぞれ自分の問題をどう解決し、どのような生活を作り上げていったのか。
《戦中戦後を「生涯の最良の年」と見た米国》
細部を描く紙数はないが、一言でいえばワイラーはアメリカ映画のハッピーエンディングの伝統を大きく逸脱させることはなかった。しかし手放しの楽観主義ではない。戦後のアメリカを垣間見せる辛い場面も随所に挿入した。
厳格ではあるが家族思いの父親であるF・マーチが、戦利品である日本刀を前にして息子に戦場の現実を語る。息子は原爆の残忍について話す。二人の会話は日本人にとって愉快なものではないが、同時に穏やかに反戦への意思を示していて、米国万歳ではなかった。
廃棄予定の運命にある数百機の爆撃機B17が写る。その一機の操縦席に座って、爆撃体験を回想する飛行将校は、市民感覚を失っていて就職活動に苦労している。これも戦後の一面を語っている。The Best Years of Our Livesという原題は、勝者のアメリカを表現しながら、ある種の反語性の表現でもある。私はずっとそう思っている。
《敗戦国の復員兵はどう描かれたか》
このころ、日本でも復員兵の帰還は劇映画の一つのジャンルであった。
『戦争と平和』(東宝・46年・山本薩夫・亀井文夫監督)、黒澤明の『素晴らしき日曜日』(東宝・47年)、『酔いどれ天使』(東宝・48年)、『静かなる決闘』(大映・49年)、『野良犬』(東宝・49年)は、いずれも敗戦国の広義の復員兵映画である。『戦争と平和』は、妻岸旗江が夫伊豆肇戦死の報を聞き、伊豆の親友池部良と事実上の再婚をする。空襲の衝撃で池部が精神に異常をきたすなか、中国人に救出されていた伊豆が帰国してくる悲劇を描いた。しかしGHQの指導で大幅カットを迫られ、民主憲法制定万歳の不可解な作品となった。
これらの真面目な作品でも、しかし、天皇制や戦争責任への視点は排除されている。マッカーサー将軍の率いる「解放軍」は、観客や読者に分からぬように「検閲」を行っていたからである。
以上は、スバル座閉館を知って浮かんだ感想であるが、作品の評価はリアルタイムに私が考えたことではない。1935生まれの私は、同時代にはまだ、これらの映画のメッセージを理解できなかった。書いたのはのちに考えた結果である。
《宝塚歌劇の娘役による「日本女性」の表現》
1947年、スバル座が東京の米映画ファンを魅了していた頃、一人の美少女が宝塚歌劇団へ入り翌年に可憐な娘役としてデビューした。その女優の名は八千草薫という。私は宝塚歌劇を見たことがないし、八千草の映画も多くは見ていない。しかし2019年10月24日に88歳で逝った彼女についても、少しだけ書いておきたい。
印象が強い映画は、『宮本武蔵』、『蝶々夫人』、『雪国』の三本である。
いずれも映画女優としては初期の作品だ。
『宮本武蔵・三部作』(東宝・54~56年・稲垣浩監督)では、タイトルロール(三船敏郎)を慕う娘「お通」に扮した。この作品は、1956年にアカデミー賞の外国語映画賞(当時の名称は「外国語映画名誉賞」)を獲得した。
三船の武蔵、鶴田浩二の小次郎の熱演、稲垣のテンポのよい画面展開があった。東宝モダニズムがハリウッドの日本発見意欲に適合したのであろう。純情可憐な八千草と情熱的な演技で朱実に扮した岡田茉莉子が力を貸したかも知れない。『羅生門』(黒澤明・大映・50年)は51年に同じ賞を、『地獄門』(衣笠貞之助・大映・53年)は55年に衣装デザイン賞を取った。
『蝶々夫人』(1955年・日伊合作)は宝塚歌劇団がローマのスタジオで作った作品である。私は日本公開時に見たと思っているが、主役の八千草が美しく、「フジヤマ・ゲイシャ」的日本と言われようが、宝塚商業演劇の完成度にうっとりしたのを覚えている。のちにDVDが発売されたが、退色がひどくて失望した。オリジナルの色彩が前提だが、大画面で見る価値がいまでもあると思う。
『雪国』(東宝・1957年・豊田四郎)は、ノーペル文学賞を受賞しながら自裁した川端康成作品の映画化である。越後の温泉街を舞台に韜晦する日本画家(池部良)と芸者駒子(岸惠子)の間にあり、駒子の義妹葉子に扮した八千草は清冽な印象を残した。だが話は彼女を巻き込む悲劇となる。主人公は原作では作家とされている。
メディアの追悼には八千草演ずるテレビドラマへの言及があったが、私は見ていない。
一つ、調べがつかなっかったのは、私の見た帝劇の『ママの貯金箱』という芝居に彼女が出ていたかどうかである。これは、1946年に、エリア・カザンが監督第二作としたアメリカ映画を翻案したもので、ブルックリンに暮らす貧しい一家を描いた良質のホームドラマであった。
《期せずして実現した「日米映画競映」の勝敗は》
黒澤明は、戦中のエッセイにこういうことを書いている。
■現在、国民映画とアメリカ映画の競映をやったら、どっちに多くの見物人が入るだろうか? 例えば紅系(上映系統の名称)に「姿三四郎」、白系にフランク・キャプラ作品、ゲーリー・クーパー、マレーネ・ディートリッヒ作品と来たらどうだろう。負けたら切腹ものである。しかし、キャプラという奴は全くうまい。少なくとも僕よりうまいのは確実である。その上、敵のシナリオがリスキンときたらどうだ・・これも僕には勝目はない。よし、大河内伝次郎と藤田進でゲーリー・クーパーを、轟夕起子と花井蘭子でディートリッヒを圧倒したとしても苦戦は確実である■。(「一番美しく」、『新映画』、43年3月号)
黒澤が幻想した日米競映は、戦後に意識せぬかたちで実現したといえるであろう。
ウィリアム・ワイラーには黒澤明、稲垣浩が闘い、マーナ・ロイとヴァージニア・メイヨーには、京マチ子と八千草薫が対峙した。九つのアカデミー賞に対して二つの外国語映画賞ではあった。しかし英語以外のセリフの映画は一括して「外国語映画」に分類する差別的コンクールにあって、日本映画は善戦健闘したというべきであろう。私の「スバル座と八千草薫」は、すこし脱線したが、これも日本映画発展史の一コマと読んで頂ければ幸いである。(2019/10/30)
半澤健市 (元金融機関勤務)
東京・有楽町のスバル座が閉館になった。2019年10月の現実である。
この映画館は、戦後日本における「ロードショー」劇場の先駆者であった。敗戦後の一時期、スバル座のロードショーはアメリカ文化のショーケースの役割を果たした。初回上映作品は、『アメリカ交響楽Rapsody in Blue』、ジョージ・ガーシュインの伝記映画である。
《『我等の生涯の最良の年』の勝利》
新制中学生であった私にとって「スバル座」は憧憬の対象の一つであった。
スバル座で何本見たかの記憶はないが、記憶に残っている作品はある。
一本を選べばそれは、『我等の生涯の最良の年』である。
のちにマッカーシーの赤狩りへの抗議『ローマの休日』を撮ったウィリアム・ワイラー監督が放った大作である。46年のアカデミー賞を九つ取った。興行成績も戦前の『風と共に去りぬ』に次いで第二位となった。
同じ地方都市出身の三人の復員兵が、第二次世界大戦から帰還してからの物語である。
戦場は主に太平洋戦線という設定である。年長の陸軍軍曹(フレドリック・マーチ)は、妻(マーナ・ロイ)と男女二人の子供(娘はテレサ・ライト)のいる銀行管理職。30歳前後にみえる青年は空軍では飛行将校(ダナ・アンドリュース)だが、ドラッグストアの売り場で働いていた。戦場に出たのは新婚直後であったが帰国したら、妻はナイトクラブで働らき、夫の職探しに妻は冷淡で、浮気をしている。年少の海軍水兵(ハラルド・ラッセル=実際の海軍兵士、映画初出演)は空母の船底での作業に就いていた。空母に大きな衝撃が走り気がついたときには両手を失っていた。肘から先は義手であるがタバコも吸えるほどになっている。しかし両親にも恋人である隣家の娘にも知らせていない。三人の帰還兵は、それぞれ自分の問題をどう解決し、どのような生活を作り上げていったのか。
《戦中戦後を「生涯の最良の年」と見た米国》
細部を描く紙数はないが、一言でいえばワイラーはアメリカ映画のハッピーエンディングの伝統を大きく逸脱させることはなかった。しかし手放しの楽観主義ではない。戦後のアメリカを垣間見せる辛い場面も随所に挿入した。
厳格ではあるが家族思いの父親であるF・マーチが、戦利品である日本刀を前にして息子に戦場の現実を語る。息子は原爆の残忍について話す。二人の会話は日本人にとって愉快なものではないが、同時に穏やかに反戦への意思を示していて、米国万歳ではなかった。
廃棄予定の運命にある数百機の爆撃機B17が写る。その一機の操縦席に座って、爆撃体験を回想する飛行将校は、市民感覚を失っていて就職活動に苦労している。これも戦後の一面を語っている。The Best Years of Our Livesという原題は、勝者のアメリカを表現しながら、ある種の反語性の表現でもある。私はずっとそう思っている。
《敗戦国の復員兵はどう描かれたか》
このころ、日本でも復員兵の帰還は劇映画の一つのジャンルであった。
『戦争と平和』(東宝・46年・山本薩夫・亀井文夫監督)、黒澤明の『素晴らしき日曜日』(東宝・47年)、『酔いどれ天使』(東宝・48年)、『静かなる決闘』(大映・49年)、『野良犬』(東宝・49年)は、いずれも敗戦国の広義の復員兵映画である。『戦争と平和』は、妻岸旗江が夫伊豆肇戦死の報を聞き、伊豆の親友池部良と事実上の再婚をする。空襲の衝撃で池部が精神に異常をきたすなか、中国人に救出されていた伊豆が帰国してくる悲劇を描いた。しかしGHQの指導で大幅カットを迫られ、民主憲法制定万歳の不可解な作品となった。
これらの真面目な作品でも、しかし、天皇制や戦争責任への視点は排除されている。マッカーサー将軍の率いる「解放軍」は、観客や読者に分からぬように「検閲」を行っていたからである。
以上は、スバル座閉館を知って浮かんだ感想であるが、作品の評価はリアルタイムに私が考えたことではない。1935生まれの私は、同時代にはまだ、これらの映画のメッセージを理解できなかった。書いたのはのちに考えた結果である。
《宝塚歌劇の娘役による「日本女性」の表現》
1947年、スバル座が東京の米映画ファンを魅了していた頃、一人の美少女が宝塚歌劇団へ入り翌年に可憐な娘役としてデビューした。その女優の名は八千草薫という。私は宝塚歌劇を見たことがないし、八千草の映画も多くは見ていない。しかし2019年10月24日に88歳で逝った彼女についても、少しだけ書いておきたい。
印象が強い映画は、『宮本武蔵』、『蝶々夫人』、『雪国』の三本である。
いずれも映画女優としては初期の作品だ。
『宮本武蔵・三部作』(東宝・54~56年・稲垣浩監督)では、タイトルロール(三船敏郎)を慕う娘「お通」に扮した。この作品は、1956年にアカデミー賞の外国語映画賞(当時の名称は「外国語映画名誉賞」)を獲得した。
三船の武蔵、鶴田浩二の小次郎の熱演、稲垣のテンポのよい画面展開があった。東宝モダニズムがハリウッドの日本発見意欲に適合したのであろう。純情可憐な八千草と情熱的な演技で朱実に扮した岡田茉莉子が力を貸したかも知れない。『羅生門』(黒澤明・大映・50年)は51年に同じ賞を、『地獄門』(衣笠貞之助・大映・53年)は55年に衣装デザイン賞を取った。
『蝶々夫人』(1955年・日伊合作)は宝塚歌劇団がローマのスタジオで作った作品である。私は日本公開時に見たと思っているが、主役の八千草が美しく、「フジヤマ・ゲイシャ」的日本と言われようが、宝塚商業演劇の完成度にうっとりしたのを覚えている。のちにDVDが発売されたが、退色がひどくて失望した。オリジナルの色彩が前提だが、大画面で見る価値がいまでもあると思う。
『雪国』(東宝・1957年・豊田四郎)は、ノーペル文学賞を受賞しながら自裁した川端康成作品の映画化である。越後の温泉街を舞台に韜晦する日本画家(池部良)と芸者駒子(岸惠子)の間にあり、駒子の義妹葉子に扮した八千草は清冽な印象を残した。だが話は彼女を巻き込む悲劇となる。主人公は原作では作家とされている。
メディアの追悼には八千草演ずるテレビドラマへの言及があったが、私は見ていない。
一つ、調べがつかなっかったのは、私の見た帝劇の『ママの貯金箱』という芝居に彼女が出ていたかどうかである。これは、1946年に、エリア・カザンが監督第二作としたアメリカ映画を翻案したもので、ブルックリンに暮らす貧しい一家を描いた良質のホームドラマであった。
《期せずして実現した「日米映画競映」の勝敗は》
黒澤明は、戦中のエッセイにこういうことを書いている。
■現在、国民映画とアメリカ映画の競映をやったら、どっちに多くの見物人が入るだろうか? 例えば紅系(上映系統の名称)に「姿三四郎」、白系にフランク・キャプラ作品、ゲーリー・クーパー、マレーネ・ディートリッヒ作品と来たらどうだろう。負けたら切腹ものである。しかし、キャプラという奴は全くうまい。少なくとも僕よりうまいのは確実である。その上、敵のシナリオがリスキンときたらどうだ・・これも僕には勝目はない。よし、大河内伝次郎と藤田進でゲーリー・クーパーを、轟夕起子と花井蘭子でディートリッヒを圧倒したとしても苦戦は確実である■。(「一番美しく」、『新映画』、43年3月号)
黒澤が幻想した日米競映は、戦後に意識せぬかたちで実現したといえるであろう。
ウィリアム・ワイラーには黒澤明、稲垣浩が闘い、マーナ・ロイとヴァージニア・メイヨーには、京マチ子と八千草薫が対峙した。九つのアカデミー賞に対して二つの外国語映画賞ではあった。しかし英語以外のセリフの映画は一括して「外国語映画」に分類する差別的コンクールにあって、日本映画は善戦健闘したというべきであろう。私の「スバル座と八千草薫」は、すこし脱線したが、これも日本映画発展史の一コマと読んで頂ければ幸いである。(2019/10/30)
2019.06.06
「青い山脈」の成功と失敗
―亡き杉葉子を偲んで―
《ヤミ屋に囲まれて生まれた「青い山脈」》
■昭和24年1月に作曲されたこの曲のメロディーは、当時服部(良一)が大阪駅から京都駅へ行くすし詰めの電車の中で生まれた、という。ハッピ姿やハチ巻きの闇屋の大群がぎっしりと乗り込み、服部は身動きも出来ないまま、車窓からくっきりと見える美しい山脈(やまなみ)を眺めながら、健康的なメロディーを頭に画いていた。これと思った旋律が浮かんだので、忘れない中に直ぐに書き留めておかなければ、と考えた服部は、五線紙をカバンから取り出す隙もないので、ポケットの手帖を辛うじて引っぱり出し、手帖の鉛筆で、ハーモニカの略符1,2,3を使って素早く書き留めた。まわりの闇屋さんも、商売の計算をしている仲間と思ったのか、同情的に見てくれたので、電車が京都駅に滑り込むまでに、最後の小節を無事書き終って、目出度く「青い山脈」の名旋律が完成した。■
これは、三枚組のCD『服部良一―僕の音楽人生』(1989年、コロムビアミュージックエンターテインメント(株))に、音楽評論家瀬川昌久が書いた解説の一部である。
《「青い山脈」を選んだのは一人だけ》
30人ほどの映画同好グループで、「世界映画史上・私のベスト3」という人気投票をしたことがある。20年ほど以前と記憶する。上位には「天井桟敷の人々」、「ローマの休日」、「第三の男」、「ライムライト」といった不朽の名作が、邦画では小津安二郎、黒澤明、溝口健二の代表作が並んだ。
「青い山脈」を挙げたのは私一人だった。服部良一が「闇屋さん」に囲まれて名曲を作ったとき、私は13歳であった。「青い山脈」と杉葉子は、私にとって青春の象徴であったし、私の中では「戦後民主主義の象徴」であり続けた。
それは「青春」の輝きと儚さ、未成熟に終わった「戦後民主主義」をずっと想起させてくれたからである。原節子(教師島崎雪子)、木暮実千代(芸者)、若山セツ子(その妹)、池部良(受験浪人金谷六助)、竜崎一郎(独身の町医者)、伊豆肇(旧制高校生ガンちゃん)。彼らは既に映画に出演していた。特に原節子、木暮実千代、竜崎一郎は、戦意高揚作品の主役、準主役でもあった。杉葉子だけが唯一の「新人スター」である。その肢体の美しさに私は息をのんだ。私は今でも映画館のどの席の近くで見たか―混んでいて座席に座れなかったのである―をハッキリ覚えているし、その後テープやDVDで何度も見て場面の展開を覚えている。
《杉葉子と原節子は戦後民主主義の象徴だった》
今井正によるこの作品のあと、「青い山脈」は三回のリメイクがあったが、誰もが思い出すことはない。杉葉子はその後、成瀬巳喜男の「山の音」「めし」、市川崑の「結婚行進曲」「青春銭形平次」、田中絹代の「月は上りぬ」などで一定の評価を得たが、結局「青い山脈」の寺沢新子(旧制高等女学校5年生)の衝撃を超えられなかった。女子大出の英語教師を演ずる原節子は理念の具象化として表現されている。それもあって彼女の住まいが画面に現れることはない。杉葉子も「お母さんが二人いる」設定にもかかわらず、その家庭も画面に出てこない。主題歌「恋のアマリリス」の歌詞にある「姉と呼びたき師の君も悩み給うか恋の夜は」は新子の目線で見た雪子である。前編で、二人が女学校に近い小高い丘の芝生でおどる場面に、このメロディーは雪子が口笛を吹く設定で使われた。
《名曲だけが残るのだろうか》
監督の今井正はなぜか、服部作曲の「青い山脈」を高く評価しなかったという。しかし藤山一郎と美人歌手奈良光枝が吹き込んだレコードは空前のヒットとなった。70年後の今でも、懐メロのTV番組は、「青い山脈」の全員合唱で終わる。今井はそれでも、前編―前後編二本あったのだ―のタイトルバックに合唱で入れた。後編、恋人たちが砂浜に向かって銀輪を走らせる場面にも使った。婚約した原節子と竜崎一郎を望遠レンズに入るラストシーンでもゆっくりした旋律を歌い上げている。
私個人は、レコードB面で、二葉あき子が歌った「恋のアマリリス」を好む。杉葉子らは撮影中に後者をくちずさむことが多かったという。両曲は米国のポピュラー音楽家パーシー・フェースが、大編成オケ用に編曲して録音しているが、叙情性において映画タイトルバックのコーラスに遠く及ばない。
《人は71年前を知っているだろうか》
昭和24年は今から71年前である。そこから71年遡ると、1877年(明治10年)である。国会も憲法もまだ出来ていなかった。右大臣三条実美の時代である。官軍は西郷隆盛と西南戦争を戦う一方で、上野では内国勧業博覧会が開かれていた。「音楽取調掛」が「東京音楽学校」に改組されたのはこの10年後である。
私が「青い山脈」を見たときに、71年前のそういう過去を回想することはできなかった。ならば、私の「青い山脈」回想は、今の13歳に、伝わるであろうか。私は「青い山脈」を論じて次のことを伝えたいのである。
《歴史認識はバラバラにされ百田某が歴史を語っている》
昭和の前半に生まれた「青い山脈」は、その昭和を生き延び、平成をも生き延びた。されば、年相応に、老いたといわねばならない。「青い山脈」が夢見た生活水準は、その後40年ほどで実現した。GDP世界第二位になったからである。しかしそこが頂上だった。平成の30年間は、映画の恋人たちの成果が、次々にハゲ落ちる過程であった。更にいえば、もともと「青い山脈」の精神的な理念は実現されなかった。「男女同権」や「基本的人権」は、競争第一の企業社会の門前で立ちすくんだのである。同権の代わりに不平等と格差が、そして人権社会の代わりに同調圧力の共同体が出現したのである。「令和の御代」は、「青い山脈」の精神的側面の実現に失敗した日本の現実を、更に厳しい姿で我々に突きつけることになるだろう。人々は今、70年どころか、100年単位の長期展望を迫られている。同時に百田某の「歴史書」がベストセラーであるのが現実である。(2019/06/03)
半澤健市 (元金融機関勤務)
《ヤミ屋に囲まれて生まれた「青い山脈」》
■昭和24年1月に作曲されたこの曲のメロディーは、当時服部(良一)が大阪駅から京都駅へ行くすし詰めの電車の中で生まれた、という。ハッピ姿やハチ巻きの闇屋の大群がぎっしりと乗り込み、服部は身動きも出来ないまま、車窓からくっきりと見える美しい山脈(やまなみ)を眺めながら、健康的なメロディーを頭に画いていた。これと思った旋律が浮かんだので、忘れない中に直ぐに書き留めておかなければ、と考えた服部は、五線紙をカバンから取り出す隙もないので、ポケットの手帖を辛うじて引っぱり出し、手帖の鉛筆で、ハーモニカの略符1,2,3を使って素早く書き留めた。まわりの闇屋さんも、商売の計算をしている仲間と思ったのか、同情的に見てくれたので、電車が京都駅に滑り込むまでに、最後の小節を無事書き終って、目出度く「青い山脈」の名旋律が完成した。■
これは、三枚組のCD『服部良一―僕の音楽人生』(1989年、コロムビアミュージックエンターテインメント(株))に、音楽評論家瀬川昌久が書いた解説の一部である。
《「青い山脈」を選んだのは一人だけ》
30人ほどの映画同好グループで、「世界映画史上・私のベスト3」という人気投票をしたことがある。20年ほど以前と記憶する。上位には「天井桟敷の人々」、「ローマの休日」、「第三の男」、「ライムライト」といった不朽の名作が、邦画では小津安二郎、黒澤明、溝口健二の代表作が並んだ。
「青い山脈」を挙げたのは私一人だった。服部良一が「闇屋さん」に囲まれて名曲を作ったとき、私は13歳であった。「青い山脈」と杉葉子は、私にとって青春の象徴であったし、私の中では「戦後民主主義の象徴」であり続けた。
それは「青春」の輝きと儚さ、未成熟に終わった「戦後民主主義」をずっと想起させてくれたからである。原節子(教師島崎雪子)、木暮実千代(芸者)、若山セツ子(その妹)、池部良(受験浪人金谷六助)、竜崎一郎(独身の町医者)、伊豆肇(旧制高校生ガンちゃん)。彼らは既に映画に出演していた。特に原節子、木暮実千代、竜崎一郎は、戦意高揚作品の主役、準主役でもあった。杉葉子だけが唯一の「新人スター」である。その肢体の美しさに私は息をのんだ。私は今でも映画館のどの席の近くで見たか―混んでいて座席に座れなかったのである―をハッキリ覚えているし、その後テープやDVDで何度も見て場面の展開を覚えている。
《杉葉子と原節子は戦後民主主義の象徴だった》
今井正によるこの作品のあと、「青い山脈」は三回のリメイクがあったが、誰もが思い出すことはない。杉葉子はその後、成瀬巳喜男の「山の音」「めし」、市川崑の「結婚行進曲」「青春銭形平次」、田中絹代の「月は上りぬ」などで一定の評価を得たが、結局「青い山脈」の寺沢新子(旧制高等女学校5年生)の衝撃を超えられなかった。女子大出の英語教師を演ずる原節子は理念の具象化として表現されている。それもあって彼女の住まいが画面に現れることはない。杉葉子も「お母さんが二人いる」設定にもかかわらず、その家庭も画面に出てこない。主題歌「恋のアマリリス」の歌詞にある「姉と呼びたき師の君も悩み給うか恋の夜は」は新子の目線で見た雪子である。前編で、二人が女学校に近い小高い丘の芝生でおどる場面に、このメロディーは雪子が口笛を吹く設定で使われた。
《名曲だけが残るのだろうか》
監督の今井正はなぜか、服部作曲の「青い山脈」を高く評価しなかったという。しかし藤山一郎と美人歌手奈良光枝が吹き込んだレコードは空前のヒットとなった。70年後の今でも、懐メロのTV番組は、「青い山脈」の全員合唱で終わる。今井はそれでも、前編―前後編二本あったのだ―のタイトルバックに合唱で入れた。後編、恋人たちが砂浜に向かって銀輪を走らせる場面にも使った。婚約した原節子と竜崎一郎を望遠レンズに入るラストシーンでもゆっくりした旋律を歌い上げている。
私個人は、レコードB面で、二葉あき子が歌った「恋のアマリリス」を好む。杉葉子らは撮影中に後者をくちずさむことが多かったという。両曲は米国のポピュラー音楽家パーシー・フェースが、大編成オケ用に編曲して録音しているが、叙情性において映画タイトルバックのコーラスに遠く及ばない。
《人は71年前を知っているだろうか》
昭和24年は今から71年前である。そこから71年遡ると、1877年(明治10年)である。国会も憲法もまだ出来ていなかった。右大臣三条実美の時代である。官軍は西郷隆盛と西南戦争を戦う一方で、上野では内国勧業博覧会が開かれていた。「音楽取調掛」が「東京音楽学校」に改組されたのはこの10年後である。
私が「青い山脈」を見たときに、71年前のそういう過去を回想することはできなかった。ならば、私の「青い山脈」回想は、今の13歳に、伝わるであろうか。私は「青い山脈」を論じて次のことを伝えたいのである。
《歴史認識はバラバラにされ百田某が歴史を語っている》
昭和の前半に生まれた「青い山脈」は、その昭和を生き延び、平成をも生き延びた。されば、年相応に、老いたといわねばならない。「青い山脈」が夢見た生活水準は、その後40年ほどで実現した。GDP世界第二位になったからである。しかしそこが頂上だった。平成の30年間は、映画の恋人たちの成果が、次々にハゲ落ちる過程であった。更にいえば、もともと「青い山脈」の精神的な理念は実現されなかった。「男女同権」や「基本的人権」は、競争第一の企業社会の門前で立ちすくんだのである。同権の代わりに不平等と格差が、そして人権社会の代わりに同調圧力の共同体が出現したのである。「令和の御代」は、「青い山脈」の精神的側面の実現に失敗した日本の現実を、更に厳しい姿で我々に突きつけることになるだろう。人々は今、70年どころか、100年単位の長期展望を迫られている。同時に百田某の「歴史書」がベストセラーであるのが現実である。(2019/06/03)
2018.08.18
広島の演劇集団が群像劇『河』の京都公演へ
被爆直後の峠三吉らの苦闘を描く
「ちちをかえせ/ははをかえせ……」の詩で知られる広島の被爆詩人・峠三吉(1917~1953年)と、その仲間たちの敗戦直後の活動を描いた群像劇『河』が、広島の演劇集団の手で9月の8、9両日、京都市北区で上演される。演劇集団はこれを昨年12月の23、24両日、広島市内で上演したが、京都の人たちから「京都でも上演して」と声がかかり、これに応えることにした。「峠たちが原爆反対と民主主義の実現を求めて懸命に生きていた時代と、60余年後の今の日本の状況が実によく似ている。そのことを訴えたい」という。
『河』は、広島在住の劇作家であった土屋清(故人) の創作劇。1963年に広島で初演された。1948年から53年までの広島が舞台で、この間、50年には朝鮮戦争が勃発している。登場するのは、峠三吉や、峠らが結成した文学サークル「われらの詩の会」のメンバーだ。彼らは「反戦平和」を掲げて活動を始めるが、さまざまな困難に直面する。
それは、当時、日本が連合国軍総司令部(GHQ)、実質的には米軍の占領下にあったからである(それは、1952年4月28日に対日講和条約が発効し、日本が独立するまで続く) 。日本を占領したGHQは直ちに言論統制に乗り出し、「プレス・コード」を発令したが、それは、日本の新聞に占領政策への批判を禁じた規則だった。当然、原爆被害に関する報道も禁じられた。これは、一般人にも適用されたから、広島市民が、原爆について書いた文書を発表したり、配ったりすることはできなかった。小説など文学作品にもGHQによる検閲があった。
そんな環境の中でも、峠たちは反戦平和のための活動を続けるが、50年6月25日に朝鮮戦争が突発し、朝鮮半島で原爆が使用されるのでないか、という危機感が広島の市民の間で高まる。峠は「もし朝鮮人の上に原爆が落とされるようなことがあったら、ぼくら広島の人間の責任じゃ。急がんと」と焦る。
その年の「原爆の日」8月6日は広島市主催の平和記念式典も中止となり、広島では、集会・デモも禁止となる。そうした中で、峠らは、「戦争反対」「原子兵器禁止」「外国帝国主義は朝鮮から手をひけ」などと書いたビラをデパートの屋上からまいたり、ゲリラ的に集会を開く。
『河』はこうした峠らの活動を劇化したもので、4幕からなり、上演時間は2時間45分。
この劇が昨年12月の23、24両日、広島市西区の横川シネマで29年ぶりに上演されたわけだが、この公演を企画したのは、広島文学資料保全の会(代表・土屋時子さん、事務局長・池田正彦さん)の人たちだった。土屋時子さんは『河』の作者・土屋清の妻である。
同会は広島ゆかりの文学者の遺作を保存する活動を進めてきたが、ここ数年は、峠三吉をはじめ、やはり被爆詩人の栗原貞子、被爆小説家の原民喜の計3人の作品をユネスコの世界記憶遺産に登録させる運動に力を注いできた。広島市も共同推薦者に名を連ねる。
昨年は峠三吉生誕100年にあたったほか、土屋清の没後30年にあたった。そこで、同会内で「いろいろな意味で2017年は記念の年にあたるので、ぜひ『河』を再演しよう」という声が上がった。加えて、内外の情勢が、同会関係者を再演に踏み切らせた。
まず、この年、世界的には核とミサイルの問題をめぐる米国と北朝鮮の対立が激化し、両国間で核戦争が起こるのではないかと憂慮する声も上がって、世界は緊張の度を高めつつあった。国内では、安倍政権が「北朝鮮の脅威」を口実に総選挙に打って出たほか、北朝鮮による核攻撃に備えるとの触れ込みで避難訓練まで行われた。その上、安倍政権は「外国からの攻撃に備える」として、政権発足以来、特定秘密保護法、安保関連法、共謀罪法などを次々と成立させてきたから、これらが言論統制につながるのではと懸念する声が国民の間で聞かれるようになっていた。「いまの日本の状況は、峠らが生きていた終戦直後の日本のそれとそっくりではないか」。そんな危機感が、広島文学資料保全の会の人たちを、かつて上演された芝居の「再演」に向けて突き動かした。
制作は池田正彦、斉藤正恵、広田まり子の3氏。演出と峠の妻・春子役は土屋さんと決まった。キャスト(役者)は会社員や公務員、自営業者らで、プロの役者は1人もいない。いわば、臨時に集まって結成された演劇集団で、皆、仕事の合間をぬって稽古を重ねた。
思わぬ参加者もあった。登場人物の1人の「市河睦子」は実在した、「われらの詩の会」のメンバーだった林幸子(1929~2011年)がモデルだが、その役を林の孫の中山涼子さん(時事通信広島支社記者)が演じた。地元紙の報道によれば、広島文学資料保全の会を取材する中で土屋さんから『河』への出演を打診され、土屋さんらの意図に共感して出演をOKしたという。第3幕で、祖母の詩を朗読した。
「ああ お母ちゃんの骨だ ああ ぎゅっとにぎりしめると 白い粉が 風に舞う お母ちゃんの骨は 口に入れると さみしい味がする」
林の代表作とされる詩だが、地元紙によれば、会場からはすすり泣きも聞こえたという。
広島では4公演に約500人が観に来てくれた。予想以上の入りで立ち見が出るほどだった。次は京都公演だが、ここでは1964年にこの劇が上演されており、京都公演は実に54年ぶり。
京都公演の会場は紫明会館3Fホール(北区小山南大野町1番地 電話075-411-4970)。9月8日午後5時、9日午前11時、午後3時の3回公演。入場料は一般2500円、大学生1500円、高校生以下1000円(当日は500円増し)。前売りチケットの申し込みは、広島文学資料保全の会(℡・FAX 082-291-7615)または京都上演委員会・<株>三人社(℡075-762-0368 FAX075-762-0369)へ。
岩垂 弘 (ジャーナリスト)
「ちちをかえせ/ははをかえせ……」の詩で知られる広島の被爆詩人・峠三吉(1917~1953年)と、その仲間たちの敗戦直後の活動を描いた群像劇『河』が、広島の演劇集団の手で9月の8、9両日、京都市北区で上演される。演劇集団はこれを昨年12月の23、24両日、広島市内で上演したが、京都の人たちから「京都でも上演して」と声がかかり、これに応えることにした。「峠たちが原爆反対と民主主義の実現を求めて懸命に生きていた時代と、60余年後の今の日本の状況が実によく似ている。そのことを訴えたい」という。
『河』は、広島在住の劇作家であった土屋清(故人) の創作劇。1963年に広島で初演された。1948年から53年までの広島が舞台で、この間、50年には朝鮮戦争が勃発している。登場するのは、峠三吉や、峠らが結成した文学サークル「われらの詩の会」のメンバーだ。彼らは「反戦平和」を掲げて活動を始めるが、さまざまな困難に直面する。
それは、当時、日本が連合国軍総司令部(GHQ)、実質的には米軍の占領下にあったからである(それは、1952年4月28日に対日講和条約が発効し、日本が独立するまで続く) 。日本を占領したGHQは直ちに言論統制に乗り出し、「プレス・コード」を発令したが、それは、日本の新聞に占領政策への批判を禁じた規則だった。当然、原爆被害に関する報道も禁じられた。これは、一般人にも適用されたから、広島市民が、原爆について書いた文書を発表したり、配ったりすることはできなかった。小説など文学作品にもGHQによる検閲があった。
そんな環境の中でも、峠たちは反戦平和のための活動を続けるが、50年6月25日に朝鮮戦争が突発し、朝鮮半島で原爆が使用されるのでないか、という危機感が広島の市民の間で高まる。峠は「もし朝鮮人の上に原爆が落とされるようなことがあったら、ぼくら広島の人間の責任じゃ。急がんと」と焦る。
その年の「原爆の日」8月6日は広島市主催の平和記念式典も中止となり、広島では、集会・デモも禁止となる。そうした中で、峠らは、「戦争反対」「原子兵器禁止」「外国帝国主義は朝鮮から手をひけ」などと書いたビラをデパートの屋上からまいたり、ゲリラ的に集会を開く。
『河』はこうした峠らの活動を劇化したもので、4幕からなり、上演時間は2時間45分。
この劇が昨年12月の23、24両日、広島市西区の横川シネマで29年ぶりに上演されたわけだが、この公演を企画したのは、広島文学資料保全の会(代表・土屋時子さん、事務局長・池田正彦さん)の人たちだった。土屋時子さんは『河』の作者・土屋清の妻である。
同会は広島ゆかりの文学者の遺作を保存する活動を進めてきたが、ここ数年は、峠三吉をはじめ、やはり被爆詩人の栗原貞子、被爆小説家の原民喜の計3人の作品をユネスコの世界記憶遺産に登録させる運動に力を注いできた。広島市も共同推薦者に名を連ねる。
昨年は峠三吉生誕100年にあたったほか、土屋清の没後30年にあたった。そこで、同会内で「いろいろな意味で2017年は記念の年にあたるので、ぜひ『河』を再演しよう」という声が上がった。加えて、内外の情勢が、同会関係者を再演に踏み切らせた。
まず、この年、世界的には核とミサイルの問題をめぐる米国と北朝鮮の対立が激化し、両国間で核戦争が起こるのではないかと憂慮する声も上がって、世界は緊張の度を高めつつあった。国内では、安倍政権が「北朝鮮の脅威」を口実に総選挙に打って出たほか、北朝鮮による核攻撃に備えるとの触れ込みで避難訓練まで行われた。その上、安倍政権は「外国からの攻撃に備える」として、政権発足以来、特定秘密保護法、安保関連法、共謀罪法などを次々と成立させてきたから、これらが言論統制につながるのではと懸念する声が国民の間で聞かれるようになっていた。「いまの日本の状況は、峠らが生きていた終戦直後の日本のそれとそっくりではないか」。そんな危機感が、広島文学資料保全の会の人たちを、かつて上演された芝居の「再演」に向けて突き動かした。
制作は池田正彦、斉藤正恵、広田まり子の3氏。演出と峠の妻・春子役は土屋さんと決まった。キャスト(役者)は会社員や公務員、自営業者らで、プロの役者は1人もいない。いわば、臨時に集まって結成された演劇集団で、皆、仕事の合間をぬって稽古を重ねた。
思わぬ参加者もあった。登場人物の1人の「市河睦子」は実在した、「われらの詩の会」のメンバーだった林幸子(1929~2011年)がモデルだが、その役を林の孫の中山涼子さん(時事通信広島支社記者)が演じた。地元紙の報道によれば、広島文学資料保全の会を取材する中で土屋さんから『河』への出演を打診され、土屋さんらの意図に共感して出演をOKしたという。第3幕で、祖母の詩を朗読した。
「ああ お母ちゃんの骨だ ああ ぎゅっとにぎりしめると 白い粉が 風に舞う お母ちゃんの骨は 口に入れると さみしい味がする」
林の代表作とされる詩だが、地元紙によれば、会場からはすすり泣きも聞こえたという。
広島では4公演に約500人が観に来てくれた。予想以上の入りで立ち見が出るほどだった。次は京都公演だが、ここでは1964年にこの劇が上演されており、京都公演は実に54年ぶり。
京都公演の会場は紫明会館3Fホール(北区小山南大野町1番地 電話075-411-4970)。9月8日午後5時、9日午前11時、午後3時の3回公演。入場料は一般2500円、大学生1500円、高校生以下1000円(当日は500円増し)。前売りチケットの申し込みは、広島文学資料保全の会(℡・FAX 082-291-7615)または京都上演委員会・<株>三人社(℡075-762-0368 FAX075-762-0369)へ。