2019.10.08  明るい反戦小説に私は泣いた
          ―書評 飯島敏宏著『ギブミー・チョコレート』(角川書店)―

半澤健市 (元金融機関勤務)

《ウルトラマンの監督が書いた昭和の本郷》
 本書のオビにいくつかの惹句が書いてある。
■「少国民」と呼ばれた、ごく普通の子どもたちの物語。
■僕たちは、歌い、笑い、未来を見ていた。
■『ウルトラマンQ』、『ウルトラマン』監督の自伝的小説
■東京本郷で生まれ育った「弘」(ひろし・本書の主人公で洋服仕立屋の息子)は、悪ガキ仲間たちとともに、伸び伸びと子ども時代を謳歌していた。だが戦況の悪化は日常を変えていく。巧妙につきまとう特高警察、姿を消した外国人の友人、代用品になったお菓子――。芸術を愛し、自由の尊さを説く先生は学校から去り、替わりにやってきたのは軍国主義の先生たちだった。軍国主義的なしごきに耐え、疎開先ですきっ腹を抱えても「弘」たちは未来を見ていた。だが1945年3月、中学受験のために東京に戻った彼らを待ち受けていたのは想像を絶する大規模な空襲だった。

著者紹介によれば飯島敏宏(いいじま・としひろ)氏は、1932年生まれ。慶大文学部卒。東京放送入社、円谷特技プロダクションへ移り「ウルトラマン」シリーズを製作、出向した木下恵介プロでは「金曜日の妻たちへ」などを演出した。
 
《私は泣いた。なぜ泣いたのか》
 この「自伝的小説」を読み始めた私(半澤)は、作者の描く世界に、自分の「体験と記憶」「幻想と現実」を交錯させながら、次第に引き込まれていった。そして徐々に私の胸に熱いものがこみ上げてきた。私の目は潤んで来、ついに小さな嗚咽となった。主人公「弘」の世界も、「そうだったのか」「そうなんだよな」「この通りなんだよな」「しかし自分はちがう」とその涙声は叫んだ。

私はなぜ泣いたのか。
一つは、下町と山の手の交錯する本郷という地域共同体を見事に表現していること。その生活に作者がコミットしていることにである。本郷生まれの私も、小説の生活圏と時間とが、約10年間重なる。ここに描かれた共同体が自分が生きたそれと同じだと思った。登場人物に、私は実在した友達、隣人の名前を容易に重ねることができる。だが私は、主人公「弘」のようには、周囲にコミットできなかった。一人っ子の私の性格だったという以外に、自分ではその理由を考えられない。同時に、それが当時の自分の生きかたへの悔いと認識され、涙となったのである。
二つは、本書の最後が米進駐軍の黒人兵士との「ゴー・ストレート・オン」という会話で結ばれることである。小説「ギブミー・チョコレート」を読んできた読者は、この鮮烈な終幕に救われる。少なくとも私は衝撃を受けた。この作品は、通俗作品の装いをまとった教養小説であると思った。それで私は泣いたのである。

《歴史は断絶するのか連続するのか》
 私は、泣いてばかりいたわけではない。
日本の戦後は、戦中・戦前と連続しているのか。断続しているのか。
理屈っぽくいえば、歴史認識の基本に関わる問題を、この作品は提示し一つの回答を示している。私の世代は「断続」のセリフを丸山眞男によって理解し、「連続」のセリフを小林秀雄によって認識している。
丸山の言説は、敗戦直後の論文「超国家主義の論理と心理」の結語に現れた。
■日本帝国主義に終止符が打たれた八・一五の日はまた同時に、超国家主義の全体系の基盤たる国体がその絶対性を喪失し今や始めて自由なる主体となった日本国民にその運命を委ねた日でもあったのである。(『世界』、1946年5月号)

同様に、1946年1月雑誌『近代文学』の座談会「コメディ・リテレール 小林秀雄を囲んで」で小林は、出席者の本多秋五による小林の戦時中の姿勢への言及を受けて次のように発言した。
■大事変が終った時には、必ず若しかくかくだったら事変は起らなかったろう、事変はこんな風にはならなかったろうという議論が起る。 必然というものに対する人間の復讐だ。はかない復讐だ。この大戦争は一部の人達の無智と野心とから起ったか、それさえなければ、起こらなかったか。どうも僕にはそんなお目出度い歴史観は持てないよ。僕は歴史の必然性というものをもっと恐しいものと考えている。 僕は無智だから反省なぞしない。利巧な奴はたんと反省してみるがいいじゃないか。(出所:ウィキペディア)

《昭和が、あの戦争が消えてゆく》
 『ギブミー・チョコレート』に登場する庶民は、元気ではあるが「構造的な世間」には受け身で対面する傾きがある。敗戦に至る15年間を描いたこの作品で、主役の弘ら本郷に集う人々の生活は、終幕へと疾走する。戦況悪化に伴う生活の困難、中小企業の統合による混乱、兵士出征の増加・学徒動員・学童疎開による家族離散、東京大空襲による決定的な破綻。歴史の非情のなかで、小声で文句を言いながら、彼らは結局は大勢に従っていった。自分で状況を根っこから変えていくという思考がないのである。戦後の描写はないが、彼らは保守党が支配するレジームに依存した。歴史は彼らの外側から訪れふたたび外側へ去って行くのである。それは歴史は外部にあって連続しているという意識である。

著者飯島敏宏は、庶民の逞しさと明るさを描きつつも「あとがき」にこう書いている。
■あれから、74年が経ったいま、時間の消しゴムが消し去るように、僕たちの痕跡が、少国民が、昭和が、あの戦争が消えてゆく・・・再び、国民が「オタケサン」としか鳴けない時代が来ないようにと願って、本書を書きました。

この言い方は、歴史が庶民の外にる不条理な存在であるという見方への、自戒の弁であると私は読んだ。映像作家を主業とした飯島は、87歳にして初めて小説を書いた。軍事知識などに大きな誤認があり私には不満もある。しかし庶民の群像劇を描いたこの明るい反戦小説が、多くの読者を獲得することを、私は、泣いた「戦友」として、心から願うものである。(2019/09/28)

飯島敏宏著『ギブミー・チョコレート』(角川書店、2019年8月刊)、1800円+税


■短信■
講演「長崎で被爆した韓国人『徴用工』の闘い」

昨年10月に韓国大法院が出した「徴用工」判決以来、軍事、産業、観光と、さまざまな面で、日韓関係は悪化の一途をたどっています。
そこで、長崎で被爆した後、被爆者健康手帳の取得に向けて行政と闘ってきた韓国人「徴用工」を支援してきた河井章子さんに、その取り組みをお話ししていただき、徴用工問題や韓国人被爆者問題を考える時間にしたいと思います。多くの皆さんのご参加をお待ちしています。

日時:10月12日(土)。14:00~17:00

会場:愛恵ビル3F(公益財団法人愛恵福祉支援財団)
    東京都北区中里2-6-1 JR山手線駒込駅(東口)から徒歩2分、または地下鉄南北線駒込駅から徒歩7分

講師:河井章子さん(韓国の原爆被害者を救援する市民の会)

参加費:1000円(当日会場で集めます)

事前に申し込みを:申込先は竹内良男(090-2166-8611、qq2g2vdd@vanilla.ocn.ne.jp)

共催:ヒロシマ連続講座、在韓被爆者問題市民会議
(岩)
2019.09.13  世界を敵にした自滅への道(2)
 ―芦田均『第二次世界大戦外交史』を読む

半澤健市(元金融機関勤務)

前回に、抜き書きを次の三点、すなわち
・軍部独裁への道
・芦田の戦争総括
・日本降伏時の首脳発言
に関して書くと言ったが、順序を変えて「日本降伏時の首脳発言」を紹介する。

《連合国も多様な顔をもつ》
 ポツダム会談は、1945年7月17日から8月2日まで、ベルリン近郊のポツダムで、トルーマン米大統領、チャーチル英首相、スターリンソ連共産党書記長らの連合国首脳が参加して行われた。7月26日の「ポツダム宣言」(対日共同宣言)は、米・英両首脳・中華民国政府主席蒋介石の3名によって発せられた。ソ連が8月8日に参戦し、日本政府による8月10日の事実上の受諾回答は、ソ連を含む4カ国に対して行われた。以下は4国首脳による日本敗北直後の発言である(抜粋)。

アメリカ大統領トルーマン(降伏調印式直後に「対日勝利の日」を宣言し、演説)
東京への道は遠くかつ血なまぐさいものであつた。われわれは決して真珠湾を忘れず、日本の軍国主義者たちはミズーリを忘れないであろう。日本の軍閥によって犯された罪悪は、決して償われもせず、忘れられないだろう。日本軍閥の破壊し殺戮する能力は彼らから奪い去られた。しかしわれわれは未だわれわれの前途に横たわっている困難な任務を忘れず、また過去四年の試練をくぐり抜けて来たと同じ勇気、忍耐、熱意をもってこれらの任務に当るであろう。今次の勝利は武器による勝利以上のものであり、圧政に対する自由の勝利である。われわれの武装兵力を戦争において不屈たらしめたものは自由の精神である。われわれはいまや自由の精神、個人の自由および人間の威厳が、全世界の中で最も強力であり、最も耐久力のある力であることを知った。この勝利の日にわれわれは吾人の生活方法に対する信念と誇りとを新たにしたい。(本書下巻、475~476頁,「連合国首脳の声明」)

イギリス首相アトリーは1945年8月15日の深夜、要旨左の如き「日本の無条件降伏および終戦ほ英国民に告ぐ」の放送を行った。(7月26日の総選挙でチャーチルの保守党を破りアトリー党首の労働党が勝利した)

本日、日本は降伏した。最後の敵は遂に屈服したのである。/形勢は、当初は徐々に、やがては激しい勢をもって一変していった。アメリカ、イギリス連邦および連合国、最後にはソ連の有力な兵力が動員され、敵の抵抗は、遂にいたるところで打ち破らたのである。この際、イギリス本国、自治領、インドおよび植民地から、陸、海空軍に従軍し、日本に対する激烈な戦闘に加わって奮戦した兵員各位に深く敬意を捧ぐるとともに、また連合軍とくにアメリカに対して厚く感謝の意を表する。アメリカの偉大な努力がなかったならば、極東方面の戦闘は、さらに数年を要したことであろう。われわれはまたとくに日本軍の手中にある捕虜、オーストラリア、ニュージーランド、インド、ビルマおよびその他植民地において、日本の攻撃を蒙った友人たちの身上を思うが、やがてはそれらの人々の苦痛も、日本侵入軍が各地から一掃される日に、終止符をうたれるであろうことを喜ぶものである。(下巻、479~480頁、同上)

《半植民地中国と未熟な社会主義国家》
ソ連議長スターリン(9月2日の日本降伏文書調印にあたり演説)
日本は日露戦争によって一九〇四年にすでにわが国への侵略を開始した。二月に日露両国間の交渉が進捗している間に、日本は当時のロシア帝政の弱点を利用して宣戦布告を行うことなく突如、しかも背後からロシアを攻撃、旅順にあったロシア艦隊を奇襲、ロシアを敗北せしめた。日本はこの敗戦を利用して、南樺太をロシアから掠奪し、千島列島の支配力を強化した。これにとどまらず一九一八年ソヴィエト連邦が誕生するや、当時ソ連に対して敵性態度をとっていたのを利用して再びわが国を攻撃し、極東ロシアを占拠、四年間にわたりわが国民を塗炭の苦しみに陥れ、同方面地域を掠奪した。これだけではない。
一九三八年日本はウラジオストックを包囲せんとする企図の下に、ハーサン湖方面を攻撃し、翌年にはソ連領土に侵入を企て、シベリア縦貫鉄道を遮断し、ソ連を極東から分離せんとした。ロシア軍隊の敗北はわれわれ国民の心理に重大な烙印を捺した。これはわが国歴史の汚点である。わが国民は、日本が敗北して、この汚点が払拭される日を確信かつ待望していたが、いまや、この日は到来した。かくて南樺太と千島列島とはソ連に移譲されることとなった。今日以後これらの地域は、ソ連を海洋から孤立せしめる地点とはならず、また極東のソ連に、日本が攻撃を加える基地ともならないであろう。そしてこれらは今後、日本の侵略に対するわが国の防衛基地として、またわが国の海洋への接近の基地となるであろう。(下巻、476~477頁、同上)

国府主席兼軍事委員長蒋介石(8月15日、日本のポツダム宣言受諾直後、全中国国民に対して行った放送演説)
われわれ中国の同胞は「旧悪を念わず、人に善をなす」ということが、わが民族伝統の至高志貴の徳性であることを知らなければならない。
われわれが一貫して叫んできたことは、ただ日本の好戦的軍閥を敵とし、日本の人民を敵とは認めなかったことである。今日、敵軍はわれわれ盟邦の協力により打倒された。われわれは当然彼が一切の降伏条件を忠実に履行するよう厳重にこれを求めるものである。しかし、われわれは決して報復を企図するものではない。また敵国の無辜(むこ)の人民に対しては、なおさらに汚辱を加えんとするものではない。もしも、暴行をもって従前の暴行に報い、汚辱をもって従前の誤れる優越感に答えるならば、冤(うらみ)と冤と相報い、永(いにし)えにとどまるところはない。これは決してわれわれの仁義の師(いくさ)の目的ではないのである。(下巻、478~479頁、同上)

読者は、上掲の1945年夏の四人の勝利宣言どう読むであろうか。
トルーマンの興奮に満ちた「反撃成功」の言葉と、取って付けたような「圧政に対する自由の勝利」という言葉の落差に、私は、戦争の残酷なリアリズムを感ずる。
アトリーが、戦争に協力してくれた植民地に丁寧な謝辞と労いを述べている。ここに先進帝国主義国の狡知を感ずる。比べて「終戦の詔勅」で、大日本帝国天皇は「朕ハ帝国ト共ニ終始東亜ノ解放ニ協力セル諸盟邦ニ対シ遺憾ノ意ヲ評セサルヲ得ス」とだけ述べた。随分と薄情かつ狭量である。これでは東亜解放はできない。
スターリンの言葉からは、ソ連指導者が、対日戦争を「日本帝国主義の侵略戦争」として認識していたことを痛感する。70余年後に、27回の日ソ首脳会談で自己満足する安倍晋三外交が、「児戯に類する」失敗に見えてくる。
蒋介石が8月15日に行った演説には、中国人の哲学を感じる。最大の犠牲を払った中国人が、なぜこういう言葉を発することができるのであろうか。

芦田均は四人の勝利の弁を紹介したのち浩瀚な本書を次の言葉で結んだ。
■かくして第二次世界大戦の幕は閉じた。この大戦に飛び込むことによって、日本人は、永年積み重ねて来た政治、経済の信用を破壊し国を亡ぼすことになった。原因はいうまでもなく国の政治外交を渡すべからざる人の手に引き渡し、その国政と外交を誤った方向に導き、しかも軍閥の執権後に登用した外交家は極めて僅少の例外を除きその素質頗る粗悪であった。これが歴史のわれわれに教うるところである。
日本人が世界の諸国民と伍して今後民族にふさわしい生活を享受しようと欲するならば、われわれは再三再四この点を反省しなければならないと思う。(下巻、481頁、「第四九章 城下の誓」)(2019/09/05) (つづく)
2019.09.02 世界を敵にした自滅への道
―芦田均『第二次世界大戦外交史』を読む―

半澤健市 (元金融機関勤務)

 1945年9月2日は、敗戦日本の降伏文書調印の日であった。東京湾頭、米戦艦ミズーリの艦上で調印式は行われた。74年前に起きて今に続く恥辱である。

《権力政治を生きた外交官・政治家の遺言》
 私(半澤)は、この8月に芦田均が書いた『第二次世界大戦外交史』を読んだ。岩波文庫上下2冊で1000頁を超える長編である。一読では纏まった感想は書けない。しかし折角読んだのだから一部を書き抜いた。その中からさらに一部を書き抜いて紹介したい。抜き書きといえども、事実の重みは行間に現れると思うからである。

私の抜き書き箇所を、三点ほどに纏めれば次のようになる。
一つ 軍部独裁への道、軍事の思想、偏狭な軍事教育、軍内部の派閥争い、議会の「抵抗」
二つ 芦田はあの戦争の総括をどのようにしたのか
三つ 日本敗戦時におけるポツダム宣言発信国指導者の発言

外交官を経て政治家に転身した芦田均は、合理的な外交論を自らの信条としていたようである。今風にいえば、外交政策における可能な限りの説明責任の実践を重視したのであった。もちろん外交の本質が権力政治であるのは自明の前提である。そして大日本帝国を亡国に導いた原因を、未熟な政党政治、「軍閥暴走」、拙劣な外交に求めた。早速、芦田の言葉を聞こう。中略は「/」で示す。

《軍閥の台頭・非合理主義の勝利》
■満州事変を一つの契機として、日本の国家意思は統一を失い、軍が一つの武装した政治団体として出現し、いわゆる統帥権独立の名のもとに、軍の行動はすべて他の関与を許さないものとなった。/政府が軍部をコントロールしえなかった最大の原因はなんであったろうか。その根源を成すものは明治憲法の性格と、その運用に伴って形成された慣行であったといわざるをえない。/まだ、救済の道はあった。例えば、日清、日露の両戦役においては、統帥と政治との関係が一体不可分の立場で活躍することができた如きはその例である。/大正、昭和に入って、軍閥の力が急激に拡大され、政府はしばしば軍部に圧倒される情勢を馴致したのであるが、一九三六(昭和十一年)五月、陸海軍大臣が現役の将官から選ばれることを必要とする規定が制定され軍部の地位は確固不動のものとなった。(上巻、84~87頁、「日本ファッシズムと軍部」)

■日露戦争時のような厳正な軍紀―あるいは武士気質―が全く地に墜ちたことは、もっぱら軍の教育の変質的な傾向から生じたものである。太平洋戦争において香港、マニラ、シンガポール等の戦闘に際し日本軍の残虐な行為が指摘されたことは、日本二千年の歴史を通じてほとんど例のない事件であって、これもまた軍の教育方針の誤りを端的に示すものである。第一次世界大戦以後において我国の幼年学校、士官学校の教育、それに伴う軍隊の訓練等、すべてが偏狭に流れ、ヒューマニズムを軽視したことは争うべからざる事実である。軍は日本の青年に常識をさずけることを忘れて、軍人としての職責を重視するあまり、目的のために手段をえらばない風習を養った。従って政治経済学に関する常識に乏しく、部内の指導者としても。占領政策等の担任者として不適格な人間にしてしまった。/陸軍においては皇道派、統制派の派閥争いを生じ/軍の統一に少なからざる支障を与えていた。/軍紀の弛緩として指摘されたことは、軍閥の横行時代における下克上の弊風である。いわゆる青年将校が徒党を組んで上長の指揮命令に服せず、遂に自己の意思を強要して軍政軍令を左右した。(上巻、88~89頁、「日本軍閥の特異性」)

《芦田均と斉藤隆夫・議会における果敢な抵抗》
■国際連盟総会が満州事変をとりあげて日本の行動が侵略であるかどうかについてジュネーヴで論議を戦わしていた一九三三年一月のことである。/芦田均は政友会の代表として外交に関する質問を行うよう幹事長から求められた。/芦田の質問はまず満州に対する政策、次いで対支政策、対米、対ソ政策にわたって政府の意図するところをただした。

/山海閣には今なお銃声が轟いているし、諸外国は日本軍が遠からず北平に進出するであろうと見ている。我国民はこの紛争がどこまで拡がるのかということに多大の不安を抱いているのである。政府が現在の如くにただ手を拱いて見ているということであれば、中国の政治家をしてますます日本の真実を誤解させ、遂には絶望の極、何物を犠牲にしても日本に反抗する政策に転換させるおそれがある、中国の政治家を絶望の淵に追い込むことは彼を共産党の懐に追い込むことを意味する。/(対ソ、対米政策を問うたのち)この際、政府は速やかに我国大陸政策の限界を明らかにして、この基盤の上に東洋の平和を確立する具体案を示すべきである。さらにまた国内の政局を安定して憲法政治を確立し国民をして言論の自由に不安を感ぜしめる如き政治を改めなければ、日本の立つ国際情勢は容易に楽観を許さないものと覚悟しなければならぬ。

/芦田の演説はその頃の対満、対支政策を議会で批判した唯一のものであった。軍部は直ちに芦田を望ましからざる自由主義者のリストに加えたけれども、この演説が軍の大陸政策に毫末の変化を与えなかったことは勿論、政党の動向においても五・一五事件に発足した親軍的傾向は日とともに軌道に乗って進行を始めた。(上巻、150~154頁、「帝国議会のささやかなる抵抗」)

■第七十五議会開会の直後、一九四〇年二月三日の衆議院本会議において、民政党の斉藤隆夫は、国務大臣に対する質問に名をかりて、軍部の独走を痛撃した。この攻撃は米内内閣に向けられたものではなく、第一次近衛内閣、阿部内閣を通じて鬱積していた軍部独裁への反感が爆発したものであった。

/昨年十二月になってようやく近衛声明が出たということは、それまで日本は侵略主義であったがこの声明によって初めて侵略主義を放棄したということになる。これまで我国の政治家は国民に対しては日支事変は、中国より欧米列強の勢力を駆逐し、植民地搾取から中国を解放して、これを中国人の手に戻すのであると叫んで来たが、これは近衛声明と全然矛盾する一場の空言であったことになる。

《「八紘一宇」「東洋平和」「聖戦」は偽善に》
/われわれはすでに数年間戦って来た。一度戦争となれば、問題はもはや正邪曲直、是非善悪の争いでなく、徹頭徹尾の争い、優勝劣敗、弱者に対する征服なのであって、したがって「八紘一宇」だとか、「東洋永遠の平和」だとか、「聖戦」だとかいってみても、ことごとく空虚な偽善である。

この演説は国内の自由主義者がいわんとするところを大胆に述べたものとして、ひそかに痛快を叫んだものもあったが、陸軍は支那事変処理に関する悪質の批判だとして憤り、斉藤を除名すべしといきまき、米内内閣がその処置を政党に要求しなければ、陸軍大臣を引き下げると脅かした。/本会議における(斉藤)懲罰の決議に際し、これに反対した議員はわずかに七名(芦田を含む)であったが、自由主義の闘いとして除名問題は世間の注目を惹いた。(上巻、143~146頁、「帝国議会のささやかなる抵抗」)(2019/08/28)
(つづく)
2019.05.02 イスラム国(IS)に性奴隷にされ、ついに脱走し、闘い続ける女性の記録
新刊紹介
ナディア・ムラド、ジェナ・クラジェスキ著「私を最後にするために」
〈東洋館出版社、2018年11月初版、413ページ、1,800 円〉


坂井定雄(龍谷大学名誉教授)

 著者のナディア・ムラドさん(25)は、イラク人の少数宗派ヤジディ教徒。コンゴ民主共和国のデニ・ムクウエグ医師(63)とともに、2018年ノーベル平和賞を受賞した。二人の授賞理由は「戦争および紛争の武器としての性暴力を根絶するために尽力した」だった。それにさきだちムラドさんは2016年9月から、国連「人身取引に関する親善大使」に就任して、国際的な活動をしている。
 本書の原題は THE LAST GIRL (My Story of Captivity and My Fight against the Islamic State, 2017)
lastGirl.jpg
【英語版 The Last Girl のカバー写真】

 ムラドさんはイラク北部のシンジャル地方の村コジョで、ヤジディ教徒の一家に生まれ、育った。ヤジディ教はイラク北部からシリア、トルコの山間部に広がる、古代ペルシャの宗教の影響もあるといわれる一神教。七大天使とりわけ孔雀天使マラク・ターウースを神の化身として信じ、太陽に祈りをささげる。民族的にはイラクからトルコにかけての山間部に古代から住むクルド人と近く、クルド語を日常的には使用。総数50万人以下と推定されている。イラクのクルド人自治区議会では、少数の議席枠を得ている。
 シンジャル地方では、長年にわたり、クルド人自治区政府とイラク政府が治安維持を助けてきたが、2014年6月、イラクのイスラム過激派がシリア北東部のラッカを占領、「イスラム国」(IS)樹立を宣言。2016年6月にはISの大部隊がイラクに反攻。イラク政府軍はイラク第二の都市モスルから、ほとんど戦わずに撤退、「イスラム国」に支配を引き渡した。イスラム教スンニ派が大半を占める市政有力者たちは、シーア派の力が大きい中央政府への反感が強く、ISに好意的だったという。「イスラム国」の絶対的指導者バグダディもラッカから移り、事実上の首都宣言をした。
 モスルを占領したISは、8月、シンジャル地方の町々を襲撃、占領した。少しでも抵抗した多数市民のヤジディ教徒の男たち約5千人を「悪魔信仰者」として惨殺した。国連の確認情報によると、ISはヤジディ教徒の女性と子供5千人~7千人を捕まえ、うち女性は一部を戦闘員たちに配分し、残りをモスルで性奴隷(サビーヤ)として競売にした。子供たちは、戦闘員として訓練した。
 本書の著者のナディア・ムラドさんも、モスルで競売された女性のひとりだった。本書の中で彼女は詳述しているー「サビーヤは、所有者が自由に贈り物にしたり売り払ったりすることができる。なぜなら『それらは単なる所有物に過ぎないから』だと、イスラム国のパンフレットには記載されている」「サビーヤが妊娠した時は売ることはできない。所有者が死亡した場合、『所有者の財産の一部』として分配されるなどのルールがある。所有者は、奴隷が思春期に達していない年齢であっても、その奴隷が『性交に適して』おり、『それゆえその奴隷を楽しむのに性交なしでは不十分である』ならば、性交しても構わないとそのパンフレットには書かれていた。」「そこに記載される内容の多くには、ISの説明の裏付けとして、信奉者が言葉通りに信じてしまうことを期待して、コーランの詩文や中世のイスラム法の一部が抜粋して添えられている。それは身の毛もよだつ驚くべき文書だ」
 モスルに連れて行かれたナディア・ムラドさんも、大きな建物の中で競売にかけられた。最初は見るからに乱暴な大男が買った。しかし、あまりの怖さにムラドさんは、「別の大人しそうな痩せ男に『お願い、私を連れて行ってください』とすがりついた。その痩せ男は、私のほうを一目見ると、大男に向かってこう言った。『彼女は私のものだ』。大男は異議を唱えなかった。痩せたその男はモスルの判事で、彼にしたがわないものはいなかったのだ」「売買を記帳する戦闘員は『ナディア、ハッジ・サルマーン』と私たちの名前を声を出しつつ書とめたが、私の所有者の名前を口にしたときには、声が少し震えていた」。ハッジは、メッカ巡礼をすでに済ませたイスラム教徒への敬称。ムラドさんを買ってサビーヤにしたこのサルマーンは、単なる戦闘員ではなく、市の有力者、金持ちだったかもしれない。ナディアさんは、見張り役の部下とその家族が暮らす住宅に連れていかれ、毎日やってくるサルマーンに、女奴隷としてもてあそばれた。ナディアさんは、その有様を生々しく書いているが、残酷でとても転載をできない。
 何週間か後の深夜、ナディア・ムラドさんは、見張り役の3人が油断しているすきに2階の寝室から逃げ出したが、その夜のうちに捕まってしまった。サルマーンはムラドさんを見張り役たちに交代で犯させたうえ、サビーヤ市場で売り払った。新しい買主は、比較的おとなしい人物で、家にカギをかけて外出することもあった。数週間後、ナディアさんは、買主の外出中、モスルの多くの女性たちと同様、全身を覆い目だけを出すニカブで身を固め、家を脱出。ひたすら市外を目指して歩きつづけた。夕方、比較的に地味で、家族の声も聞こえる家にノックし、「キルクークに行くのですが、夕方でバスもタクシーもないので、一晩泊めてください」と頼んだ。若い息子と母親の女性が、暖かく承知してくれた。キルクークはクルド人部隊が安定支配する石油都市。無言でナディアさんの事情を察してくれた。翌日、息子に連れられて、妹としてニカブを被ったまま、ISの検問所3か所を通過、キルクークに無事脱出することができた、
 ムラドさんは、生き残った家族と携帯電話で連絡を取れた。その後、クルド人自治区内の国連の難民キャンプに入ることができた。ムラドさんは、そこから難民としてドイツに移住、2015年11月にスイスで開かれた国連少数者問題に関する大きなフォーラムに招かれた。そこで自らの生々しい体験を話した、それが新たなスタートとなり、
 3年後のノーベル平和賞受賞へとつながるナディア・ムラドさんの国際的な活動が展開することとなった。(了)
2019.02.05  論壇は国民に影響を与えられるか(2)
          ―奥武則著『論壇の戦後史』を読んで―

半澤健市 (元金融機関勤務)

 この状況のなかで『中央公論』1963年1月号に「現実主義者の平和論」が載った。筆者は高坂正堯(こうさか・まさたか)、ハーバード大留学から帰国した気鋭の京大助教授である。専門は国際政治で、同時期にハーバードの客員教授だった丸山真男と議論を重ねたが意見はあわなかったという。高坂論文は、加藤周一や坂本義和を意識したものであり、(非武装中立の日本)論への批判であった。高坂の立場は、理想主義者は権力政治への理解が不十分だというものであった。彼は、「核戦争になれば日本の防衛は不可能であるという坂本の指摘は正しいが、だからといってすべての武装がが無意味であるとはいえない」とした。高坂や永井陽之助をデビューさせたのは『中央公論』編集長だった粕谷一希(かすや・かずき)である。粕谷は、坂本との面談を望んだ高坂を坂本と引き合わせたが、結果を待っていた粕谷のもとに戻った高坂は「残念ですね。話が全然かみ合わない」と言ったという。

 《奥武則が「ポスト戦後」の時代と呼ぶ理由》
 現実主義が論壇に進出したものの、彼らが批判した「権力政治の理解の足りない」理想主義者が撤退したわけではない。ベトナム反戦、全共闘、それに寄り添った「『朝日ジャーナル』の時代」が続いた。
 一方で「現実主義者」は高坂からだけでなく、四方の物陰からせり上がってきた。
 一つは、『世界』が創刊時に排除したオールドリベラリストの系統を継ぐ者たちである。
その系譜を細かく紹介する紙数はないが、キーワードとして『心』、『自由』、『文藝春秋』、『諸君!』、『正論』、『WiLL』の誌名が挙がっている。奥は、現実生活派の『文藝春秋』の動きに注目している。たとえば『諸君!』について奥は次のようにいう。
 ■文藝春秋の『諸君』創刊は1969年7月号(誌名に「!」がついたのは70年1月号)。巻末の「創刊にあたって」で、池島信平社長は「世の中どこか間違っている――事ごとに感じるいまの世相で、その間違っていたところを、自由に読者と一緒に考え、納得していこうというのが、新雑誌『諸君』発刊の目的」と記している。「どこか間違っている」「世の中」の大きな部分が、池島にとって「革新」的な言論があふれる「論壇」だっただろう。巻頭には、福田恆存「利己心のすすめ」と清水幾太郎「戦後史をどうみるか」(後は、インタビュー)が並んだ。目次をみると、「どこか間違っている」の対象は、まず当時吹き荒れていた大学紛争と中国の文化大革命らしい■

 《「ポスト戦後」は「悔恨共同体」の消滅か》
 終章「ポスト戦後の時代―論壇のゆくえ」で、奥武則は、論壇の観点からは高度成長期を含めた時期を大きく「戦後」と捉えている。そしてその後を長い転形期と考えて「ポスト戦後」と捉えるのである。
 なぜそうなのか。国内外の状況の激変がそうさせるのである。「学歴エリート」の時代から「大卒グレーカラー」の時代へという大衆社会の出現、戦後左翼の希望だった中国における文革の混乱、大学反乱の帰結たる連赤のリンチ事件、日中国交回復の立役者田中角栄の失脚、ベルリンの壁崩壊と東西ドイツ統一、米国の一極支配、9・11のテロ、アフガン・イラク戦争、自衛隊の海外派遣、これら世界の激動の時代は決して「論壇」の消滅を意味しない筈である。
 しかし戦後論壇の出発点は丸山真男に代表される「悔恨共同体」の意識であったというのが奥論壇史の組み立てである。

「悔恨共同体」とは何か。丸山の文章によって確認しておくことも無意味ではあるまい。奥はこの心情の消滅をもって戦後論壇の消滅と考えているのである。
 ■我々の国にはほとんどいうに足るレジスタンスの動きが無かったことを、知識人の社会的責任の問題として反省せねばなるまい。(略)われわれは日本の「驚くべき近代化の成功」のメダルの裏を吟味することから、新しい日本の出発の基礎作業をはじめようではないか。(略)「これまで通りではいけない」という気持は、非協力知識人の多くをもとらえていた、と思います。知識人の再出発―知識人の専門の殻を超えて一つの連帯と責任の意識を持つべきではないか、そういう感情の拡がり、これを私は「悔恨共同体」と呼ぶわけです。(「近代日本の知識人」、『丸山真男集』第一〇巻)■

 《「うなぎの寝床」を研究の成果と見たいが》
 本書の構成について少しややこしい話をする。
 本書の「元版」は2007年5月に「平凡社新書」として刊行された。その内容は、本書では「終章 ポスト戦後の時代―論壇のゆくえ」として収録されている文章で終わる本書の大半と、95年から96年に、戦後50周年特集として毎日新聞に連載された「岩波書店と文藝春秋―戦後50年 日本人は何を考えてきたのか」(毎日新聞社が1996年に出版)の編集体験、さらには月刊誌『論座』(朝日新聞社)の2005年4月号に書いた記事「〈論壇〉の戦後史―いくつかの雑誌に即して」の短縮版である「補章 戦後「保守系・右派系雑誌」の系譜と現在」から構成されている。さらに、本書には「付論 「ポスト戦後」論壇を考える」が付き、「あとがき」があり、最後に保阪正康の「解説―次世代への継承」があり、そのあとに「参考文献一覧」「関連年表」があるのだ。「付論「ポスト戦後」論壇を考える」は、アップ・トゥー・デート意識から、西部邁の自裁から白井聡の『国体論』までが出てくる。小熊英二、大澤聡、与那嶺準、佐々木俊尚、加藤典洋、大澤真幸、孫崎享らが現れる。奥の執拗な研究心には頭が下がるが、本書の姿に建て増しを続けて「うなぎの寝床」状になった旅館を連想しないわけにはいかない。

 《インテリの言説は生活者に届くのか》
 以上が三つのポイント論であり感想である。
しかし実をいうと私は、そもそも論壇は大衆社会の生活者に影響を与えうるかという素朴な疑いを感じている。「悔恨の共同体」の住人たちが発声した知識人たちへの言説は影響を与えたのかという疑問も持っている。平均80年の寿命をもつ日本人の生活感覚に、強い影響を与える知的言説は多くない。人びとは、家族に始まり多くは企業に終わる「生活共同体」のなかで、人生観や世界観や処世の技を学ぶのである。「うなぎの寝床」はそういう問題意識に注目して展開して欲しい。これが私の本音の感想である。(2019/01/22)

 ■奥武則著『増補 論壇の戦後史』、(平凡社ライブラリー、平凡社・2018年10月刊、1300円プラス税)
2019.02.04  論壇は国民に影響を与えられるか(1)
          ―奥武則著『論壇の戦後史』を読んで―

半澤健市 (元金融機関勤務)

 本書は、早大出身の元毎日新聞記者奥武則(おく・たけのり、1947~)が書いた1940年代から現在までの論壇時評史である。

 《論壇史の力作に感じた三つの感想を書く》
 論壇とは何か。奥はそれを「国内外の政治や経済の動きなどさまざまな領域の、広い意味の時事的テーマについて、専門家が自己の意見を表明する場」と定義している。今も印刷メディアに残る「論壇時評」は、外部の識者が書くのが普通である。「毎日新聞」では、論壇時評の編集を奥が一人で担当し、90年までの3年間は自分で時評を書いた。学芸部長や論説副委員長も務めているが、本人は「論壇」専門家との意識が強いらしい。退職後は法政大教授(2003~17年)を務めた。

 私(半澤)は、本書を次のように要約できると読んだ。
「戦時の悔恨を共有する丸山真男や清水幾太郎たちを頂点とする〈戦後民主主義〉思想の黄金時代が、六〇年代の高度成長と学生反乱の時代を経て〈現実主義と経済主義〉に座席を奪われた。東西冷戦の終焉とともに、論壇自体の流動化が始まった。現在に至る30年間は、〈現実追随と偏狭排外〉の言説が〈論壇〉を支配している」。
この期間は、私の「青・壮・老」年時代と重なり、共感と反発、納得と意外感が去来した。

 時系列で論壇史を追う本書の、特に安保までの叙述は精彩を放っている。個別テーマは本書に譲るが、私の印象に強く残った三つのエピソードを論じて読後感とする。
一つは、『世界』発刊時のボタンの掛け違いである。
二つは、安保闘争の与えた論壇への衝撃である。
三つは、「ポスト戦後」時期の論壇の多様化または退廃である。

 《オールド・リベラリストとの決別は何を残したか》
 『世界』創刊時に編集者吉野源三郎は、安倍能成や美濃部達吉ら「オールド・リベラリスト」を含む統一戦線的な言論誌を構想した。創刊号(1946年1月)の執筆者は安倍能成、美濃部達吉、大内兵衛、和辻哲郎、三宅雪嶺、尾崎行雄、谷川徹三らであった。構想の第一歩にみえる。しかし背景には深刻な問題があった。美濃部達吉の二編の論文「日本歴史の研究に於ける科学的態度」、「建国の事情と万世一系の思想」の第二論文の扱いである。天皇機関説で思想弾圧の受難者になった憲法学者美濃部の第二論文は次のように結ばれていた(■から■)。
 ■国民みずから国家のすべてを主宰すべき現代に於いては、皇室は国民の皇室であり、天皇は「われらの天皇」であられる。「われらの天皇」はわれらが愛さねばならぬ。
(中略)そうしてまたかくのごとく皇室を愛することは、おのずから世界に通じる人道的精神の大なる発露でもある■

 戦前に初期天皇の実在に疑問を呈した美濃部が、このように「国民の皇室」「国民の天皇」に熱烈な愛情を吐露したのである。編集部内に第二論文の掲載可否を巡り議論が起こった。第一論文は、創刊号に載った。第二論文は、吉野源三郎による長文の釈明的説明(誌上では「編集者」と署名)を巻末に載せて4月号に掲載された。これが一つの契機となって『世界』は、新鋭の国立大系、左翼エリートの牙城となる。そして戦後15年間ほどの論壇形成の圧倒的な存在となった。
 オールドリベラリストの「同心会」とその雑誌『心』の原点は、岩波茂雄の人脈を中心に敗戦前後に作られた安倍能成、和辻哲郎、谷川徹三、志賀直哉、武者小路実篤、山本有三、長与善郎、田中耕太郎、石橋湛山、小泉信三、鈴木大拙、柳宋悦らの集団である。
このグループは、のちに保守的な思想・信条をもつ一派の源流となった。単純な分類は戒めたいが大雑把にはこういえるであろう。
 吉野は、のちの回想で「玄人筋からは金ボタンの秀才のような雑誌だと批評され」たと書いているが(『職業としての編集者』)、私に言わせれば、美濃部達吉らの排除は「ボタンの掛け違い」の開始だった。それは戦後民主主義の多様性欠落と脆弱さの起点になったのではないかと思われる。

 《安保闘争が生んだ論壇の現実主義》
 戦後の画期は、支配層にとっても、国民大衆にとっても、安保の攻防だった。一体、安保とは何だったのか。これは意外に定説がないのである。本書の解説を書いているノンフィクション作家保阪正康は、1986年の自著『六〇年安保闘争』で「いま〈六〇年安保闘争〉をふりかえってみるとき、戦後の日本がいちどは通過しなければならない儀式だったと分析するのが、もっとも妥当性をもっているように思う」と書いた。奥武則はこれに同意している。論壇では、敗戦から安保までの時間が「ネーションビルディング」―国家の基本原理を創出すること、または国民として〈子供から大人〉になること―の期間であったというわけである。「論壇という場でみれば、平和問題談話会が掲げ、『世界』を中心に多くの論者が説いた〈非武装中立の日本〉が、もっとも有力な〈大人〉候補であった」と奥は書いている。しかし岸信介政権が結んだ改訂日米安保は、日本経済の成長を背景とした「成人式」だった。この「通過儀礼」(保阪)を終えて、「大人」になった国は、それまでとちがうものとなった。間もなく疾走を始める高度経済成長下、論壇の様相も激しく変わっていくと奥は書いている。安保以後「ネーションビルディング」という大きな問題提起は国民に遠いものとなったのである。池田勇人内閣の所得倍増計画は予想以上の成果を挙げ、「三種の神器」が象徴する大衆社会が出現しつつあった。(つづく)

 ■奥武則著『増補 論壇の戦後史』、(平凡社ライブラリー、平凡社・2018年10月刊、1300円プラス税)
2019.01.07 四〇歳は「惨勝と解放」に何を見たのか
―堀田善衛『上海にて』を読む(2)―

半澤健市 (元金融機関勤務)


《戦争と哲学と歴史》 
一九四五年の春、堀田善衛は当時上海にいた作家武田泰淳と南京に旅行した。二人は南京の城壁に登った。その時に堀田は次のように考えた。
■中国戦線は、点と線だというけれど、こりゃ日本は、とにかく根本的にぜーんぶ間違っているんじゃないかな。この広い、無限永遠な中国とその人民を、とにもかくにも日本から海を越えてやって来て、あの天皇なんてものでもって支配できるなどと考えるというのは、そもそも哲学的に、第一間違いではないかな。/政治家どもは論外として、たとえば西田幾多郎とか安倍能成などという哲学博士どもは、こういうことを哲学の問題として考えてくれたことがいっぺんでもあったかな。/参謀肩章をぶら下げていばりちらしている連中は/ただの技術インテリにすぎない。/最終的に勝つ、なんということは、これは絶対不可能だ/■

眼前に紫金山の岩肌を見た堀田はこの体験が、のちに日本軍の南京虐殺事件をテーマにした『時間』という作品になろうとは考えてもいなかった。そして岩肌の美をこう書いている。
■『史前』、つまり人間の歴史以前、あるいは『史後』、人類が絶滅して、人間の歴史がおわり果てたときの風景、そういう徹底的なものを、眼前に、たしかにくりひろげて見せてくれるからである。自然は歴史以前にもこうだったでのであろう、そして歴史以後も、恐らくこうであろう。見た眼にはなんのかわりもないであろうという徹底したもの・・・。この場所に於ける現代、近代化、未来、それらのことを考えるためには、私にはもとより及ばぬことであるが――せめて毛沢東ほどに哲学者である必要があるだろう■

私(半澤)が驚くのは二点。一つは「中国戦線は点と線」という認識が、当時は常識ではなかったらしいことである。日中戦争下で、日本軍の支配が「点と線」に過ぎず「面」は中国人民の下にあったのは常識だと私は思っていた。しかしその見方は作家の観察であった。もう一つは堀田自身が、自然の徹底性を人間滅亡後の世界にまで時間軸を拡げて感じていることである。文学者的というより哲学者的である。
『上海にて』は、一九五七年に日本文学者団体の一員として中国を旅行し、さらに一九五九年に単身でインド旅行を経験したのちに書かれた。それがこの壮大なパースペクティブを語らしめたのかも知れない。作家は自分の眼で見たもの、聞いたこと、書物で読んだものを、時に融合し、時に峻別して語っている。

《漢奸の処刑を見る》
 漢奸の処刑を見て作家は次のことを書いた。
■漢奸とは、要するに日本軍の侵略戦争に対する協力者である。/どうしてそういう死刑執行などを見ることになったのか。その当時、漢奸や日本人戦犯の処刑は、屡々公開されていた。/日本人のうち、誰かひとりでも見てこれを、いかにその方法が残酷無慙なものであろうとも、とにかくそれを見た人がひとりでもいた方がいいであろう、と思い、嘔きたくなるのを我慢して大量の汗を流して、群衆のたちこめる濛々たる埃のなかに立っていたのであった。漢奸は、首筋から背中に高札をしばりつけられ、それに名前と罪名が黒々としるしてあった。引き立てられてその男は、護送車から転げ落ち、芝生に跪いた。高声な判決文朗読があって後、兵の一人が大きな拳銃を抜き出し、それを後頭部にあてがった。そこで、私は群衆の海にしゃがんでしまった。銃声一発、ついでもう一発、二発目は、恐らく心臓に対するとどめであったろう。それで終わりなのだ。/イデオロギーも思想も糞もあるものか、と私は思った。そうして、その場を一歩離れると直ぐに、私は到底担い切れないほどの重い、しかも無数の想念が襲いかかって来、その想念の数々のもう一つ奥に、死者と同じほどに冷たく暗い、不動な、深淵と言いたくなるような場所があることに気付かされた。漢奸の名において、中国では、戦中戦後、恐らく千を超える人が処刑された。

《惨敗と惨勝と解放》
 惨勝という言葉を堀田は一九四六年まで知らなかった。山東出兵以来、一八年に亘る日本の中国侵略、太平洋戦争、の苦しい戦いから両国の人民が免れ出たとき日本は惨敗し中国は惨勝した。彼が「惨勝」の字を初めて見たのは四六年夏、延安発行の『解放日報』紙上においてだった。
■当時、私は中国にいて、戦後のただならぬ現実を、いち早く「惨勝」としてうけとった中国の人たちの現実認識に深くうたれた。そして惨敗という、惨憺たる現実を、いち早く「終戦」と規定して、国民のうける心理的衝撃を緩和しようと企画した日本の支配層の、その、たとえて言えば隠花植物のような、じめじめとした才能にも、なるほど、と思わせられた。異様な具合式で、感心させられ、さえした。一民族の、どん底の基底というものは、結局、その民族の現実認識の能力如何にかかっている。勝利直後の、フタをあけてみたときの、中国は、いったいどんな工合であったのか。
十八年にわたる戦災、洪水、饑饉、内戦、日本側からの産業接収に際して起った混乱、損耗、救済物資と称する外国物資の氾濫、それによる民族資本、民族産業の崩壊、投機、倒産、天井知らずのインフレ、失業者、難民、そして内戦■

これらの惨勝経験を作家は細かく叙述している。それらの経験は、中国人民に国内外の世界と歴史の存在を認識させ、「解放」の意義をあらゆる階層の身体に叩き込んだ。堀田はそう強調している。
これに関連して私自身の小さな記憶を書いておきたい。『周恩来』(一九九一年・丁蔭楠DingYin-Nan監督)が、中国共産党七〇周年映画として日本で公開されたのをみた時、私は「抗日戦争の話が殆どない」ことに驚いた。金融マンだった私は、中国人の同僚にその理由を聞いた。彼は逆に、私の質問の意味を聞いた。惨勝を阿片戦争以来の反植民地闘争の勝利という見方もある。そういう観点からは、抗日戦争勝利は長い抗争の一コマに過ぎないのかも知れぬ。私の疑問は今度の読書で少し解けた。

惨勝の後に来た「解放」はどんなものだったのか。
堀田は一九四六年の国民党の徴用時代に、現地の大学で日本を語った。そこで大学生から受けた質問をこう回想している。「日本共産党は米占領軍を解放軍と規定したそうだが、資本主義国から来た軍隊が最終的に人民解放を支持するとは思えない。堀田の意見は如何」であった。まだ政治にうとい二八歳の作家はしどろもどろの答えしかできなかった。
解放とは何か。五七年の中国旅行時に、日本の作家たちは「革命」「革命以前」「革命以后」という言葉を中国人から聞かなかった。ほとんど「解放以前」「解放以后」の言語であった。
■そのことから、私は素人考えというものにすぎないかもしれないけれども、中国共産党と中国人民解放軍による、新民主主義革命というものが、革命そのものよりも、その実質実体としての、人民解放、中国の自然とその資源の、人民全体としての解放、人民と自然のエネルギーの解放として、つまり実質実体的なものとしてうけとられているということを、それは動かぬものとして感じさせられ考えさせられもした。/それはおそらく、明治維新のとき、御一新ということばによって、日本の歴史が、民族としても、個人としても、くっきりわけて把握されていた事情と似ているであろうと思われる。現在の日本における、戦前、戦中、戦後という区分けは、個人の人生においてははっきりしたものがあると思われるけれども、民族としては、戦争責任者が戦後の責任者として見事にえらばれ得るという事情によってくっきりと行っているという具合ではないと思われる■

《魯迅の墓を見なかった作家》
 堀田は一九四二年冬と四三年秋に魯迅を熱心に読んだ。改造社の全集を読んでその小説には感心しなかったが魯迅の写真に感じたという。当時の読書ノートに書いたことをこう書いている。
■十六年前の読書ノートには次のようにしるしていた。「魯迅の(写真の)あの、何よりも第一に、何ともいい様のない深い憂いを湛えた、うるんだ眼の裏には『村芝居』「故郷」のような風景が灼きついているのだ。そして幼年時代の回想が、かくまで美しく描かれるためには、『阿Q正伝』『吶喊』『狂人日記』などのような辛くいたましく、不気味な現実がなければならなかった。これは、この二つの系列は表裏一体のものだ。この二つが魯迅の眼だ・・・」。あれから十六年たった今日でも、私はそう思っている。

優しくて、冷酷で、それから正反対の形容をいくつでも並べることの出来るあの眼が、何か物凄いことを語りかけていた。魯迅と日本、魯迅がもった異民族交渉というものもまた、実に徹底的なものであった。その例を、多くのなかから一つだけあげておこう。次に引用するのは、魯迅が日本文で書いた「私は人をだましたい」という題で、『改造』の一九三六年四月号にのったものの末尾である。
「・・・云いたいことは随分有るけれども『日支親善』のもっとも進んだ日を待たなければならない。遠からず支那では排日即ち国賊、と云ふのは共産党が排日のスローガンを利用して支那を滅亡させるのだと云って、あらゆる処の断頭台上にも日章旗を閃かせして見せる程の親善になるだろうが、併しかうなってもまだ本当の心の見える時ではない。自分一人の杞憂かも知らないが、相互に本当の心が見え瞭解するには、筆、口、或は宗教家の所謂る涙で目を清すと云ふ様な便利な方法が出来れば無論大いに良いことだが、併し、恐らく斯る事は世の中に少いだろう。悲しいことである。・・・終りに臨んで血で個人の予感を書き添へて御礼とします。」
この文章の、最後の一行を平然と読みすごすことの出来る日本人も、中国人も、一九三六年当時も、また今日でも、恐らくいないであろう。その間に、「血」の歴史があり、「血」の歴史を経て、今日の中国と日本とでは、いまだに正式の国交すらないのである■

魯迅の小さな墓を、一九四五年に武田泰淳と見たことを回想して、堀田はこの文章を書いている。訪中の日本文学者たちは改修されて大きくなった魯迅の墓を見に行った。堀田は行かなかった。近代、現代の日中の歴史を比較してその在り方のちがいを痛感してこの作家は行かなかったのだと語っている。社会と文学、それの日中での認識の違いを彼は強く意識したのである。

《作家がここから四〇年で見たものは》
 引用ばかりで私の感想をいう紙数がなくなった。簡単に書く。
作家は一方で更に続くであろう解放と建設の困難を予感している。一方で新中国を希望に溢れた特異な理想郷になるだろうと展望している。本書は次の叙述で終わる。
■私は今回中国を旅して、革命解放が、同時に中国の悠久な歴史への復帰という面を、広く強くもっている、と感じてきた。毛沢東の詞「雪」にある、秦皇、漢武、唐宗、宋祖などの歴代王朝の歴史のなかに現在の中華人民共和国をおいてみるとするならば、それは、人民王朝時代とでもいうべきものであろうか■

四〇歳の作家の観察力に私は圧倒される。このときから六〇年が経った。二〇一八年までの歴史を知っている私は、しかし堀田善衛の予測力に成績をつけようとは思わない。更に四〇年を生きて一九九八年に死んだ作家が、インドの現実やスペインの芸術家やフランスの哲学者のなかに何を見たのか。私の興味はこの一点にある。閉塞の時代からの出口を求めて読書の旅を続けたいと思う。(2018/12/24)

2018.12.26 文学青年が政治を発見するとき
―堀田善衛の『上海にて』を読む―

半澤健市 (元金融機関勤務)

 『上海にて』の序文には一九五九年六月の日付がある。
敗戦後一四年を経て書かれたこの文章について、筆者は「私のこれまでに書いた、まとまりのないもののなかでも、もっともまとまりのないものである。まとまりをつけようと努力をした。が、それをとげることが出来なかった」と書いている。
たしかに本書は、エッセイでもあり、評論でもあり、歴史認識でもあり、ルポルタージュでもあり、旅行記でもあり、個人的な回想でもあるが、同時にそのいずれでもない作品である。「一年九カ月ほどの上海での生活は、私の、特に戦後の生き方そのものに決定的なものをもたらしてしまった」という。本書にはその「生き方」と「決定的なもの」が、溢れかえり、溢れ出ている。彼の全作品の原型を先取りしているのではないか。文庫で二〇〇頁余りの書物をそろりと読み取っていきたい。

《芸術至上主義の枠が破れた》
 慶応義塾大学の仏文科を出た二七歳の文学青年は一九四五年三月の東京大空襲の惨劇を見てから上海へ渡った。到着直後のある日、青年は次の場面に遭遇する。(■から■、「/」は中略、以下同じ)
■(アパートから)花嫁衣装を着た中国人の花嫁が出て来て、見送りの人々と別れを惜しんでいた。自動車が待っていた。私は、それを通りの向い側から見ていた。すると、そのアパートの曲り角から公用という腕章をつけた日本兵が三人やって来た。そのうちの一人が、つと、見送りの人々のなかに割って入って、この花嫁の、白いかぶりものをひんめくり、歯をむき出して何かを言いながら太い指で彼女の頬を三度ついた。やがて彼のカーキ色の軍服をまとった腕は下方へさがって行って、胸と下腹部を・・・。私はすっと血の気がひいて行くのを感じ、よろよろと自分が横断していると覚えた。腕力などというものがまったくないくせに、人一倍無謀な私は、その兵隊につっかかり、撲り倒され蹴りつけられ、頬骨をいやというほどコンクリートにうちつけられた。

/戦時中の時局向きのことを自ら遮断した、いわば芸術至上主義青年であった私の、一つの枠がそこで破れた、ということになろうか。/私は日本の侵略主義、帝国主義について、別して政治的、経済的、あるいは政治史、経済史的な理論的理解をもっていなかった。私の理解したものは、すべて、たとえばいまあげたような経験によるものであった■

「玉音放送」を現地で聞き堀田は敗戦国民となった。次いで自ら望んで中国国民党中央対日委員会に徴用されて一九四七年一月の帰国まで上海に滞在した。

堀田はなぜ上海へ行ったのか。
堀田はそこで何を見たのか。
堀田はそこから何を受け取ったのか。

一九四五年春といえば「大東亜戦争」は敗色濃厚であった。その時期に中国へ渡ったのは何故か。「酔狂」だと評した批評家もいた。堀田は、兵役を解かれ療養中に魯迅全集を読んでいたこと、渡航の手づるがあったこと、上海を踏み台にしてヨーロッパへ行きたかったことを理由に挙げている。その真偽の詮索はせず筆者の言葉を信じよう。彼の生涯を見ればその「酔狂」はある種の真実となったのである。

《上海の「混沌・混乱」と玉音放送》
 堀田が上海で見たものは八月一〇日までは半植民地中国、日本の敗戦後は解放された中国。それぞれの現実であった。しかし現実は一夜では変わらない。「敗戦=解放」の前後に共通するものは、圧倒的な「混沌・混乱」である。
日中の軍隊がいる。中国軍には国民党軍と共産党軍がいる。国共対立は内戦に転化し四九年に共産党の毛沢東が天下を取る。両軍のほかには全土に軍閥がいる。日本敗戦後は、日本軍の武装解除と全ての日本人の帰国を担う米軍が入ってくる。米国は国共内戦の調停者でありながら、両軍への関係は複雑だった。米軍・国民党が組み、共産軍をソ連が支援するという単純な図式はなかった。逆の場合すらあった。「魔都」上海市の人口は四六年末で四五〇万人、その多くは労働者、商人、サービス業者、農民、貧困者であった。

「混沌」を書く前に、堀田の「玉音放送」観を書き留めておく。我々は「玉音放送」を聞いて宮城前広場にひれ伏す人々をテレビ画面で何十回も見ている。堀田はこの放送をある印刷所で聞いた。上海では、日本政府が八月一〇日にポツダム宣言を事実上受諾したことを知って一一日から町中が戦勝ムードに沸いていた。そこへ玉音放送である。堀田は、戦中に日本へ協力した中国人―漢奸として処罰される―に関して天皇が何と言うかに注目して聞いた。
■あのときに天皇はなんと挨拶したか。負けたとも降伏したとも言わぬというのもそもそも不審であったが、これらの協力者に対して、遺憾ノ意ヲ表セザルヲ得ス、というこの曖昧な二重否定、それっきりであった。その余は、おれが、おれが、おれの忠良なる臣民が、それが可愛い、というだけのことである。その薄情さ加減、エゴイズム、それが若い私の軀にこたえた。放送がおわると、私はあらわに、何という奴だ、何という挨拶だ、お前の言うことはそれっきりか、それで事が済むと思っているのか、という、怒りとも悲しみともなんともつかぬものに身がふるえた。
あれから十四年、あの放送についてのいろいろな人の感想を読んだり聞いたりしたが、それを聞いて怒り出したという人には、会ったことがなかった。私は聞きおわって、これでは日本人が可哀想だ、というふうに思った。なぜ可哀想か。天皇のこんなふうな代表挨拶では、協力をしてくれた中国人その他の諸国の人々に対して、たとえそれがどんな人物であれ、またどんな動機目的で日本側に近づいて来たものにせよ、日本人の代表挨拶がこれでは相対することさえ出来やしないではないか・・・。
それはともあれ、国家、政治というもののエゴイズムをはっきりと教えてくれはした■

《「義勇軍行進曲」と「リンゴの唄」》
 堀田が遭遇した「暴動」と「リンゴの唄」について書く。
彼が従事した国民党宣伝部の仕事は、国民党政府の対日放送であった。国民党機関紙『中央日報』の論説の日本語訳から、自ら日本語や英語のアナウンサーまでやったらしい。
一九四六年晩秋の朝、彼はいつものように放送局へ行こうとしていた。そこで大勢の人々が黙々と一定の方向へ歩いていた。不気味な雰囲気が感じられた。そのうちゼネストが指令されたことが分かった。デモは警察本部へ向かっていた。難民や浮浪者による大道商売を市長が禁止したことへの抗議だというのである。違反した五〇人ほどの逮捕され警察で拷問を受けている。話はそれだけではない。学生らしい若者は『民主報』という左翼紙の発禁や学生三五名の銃殺への抗議デモだと言った。反米デモだという説もあった。日本人の引揚げが目的だった米軍が、日本人帰国後も居座り、大量の余剰物資を援助と称して国内市場に供給して、中国の民族資本を破壊している。その反米闘争だという。

堀田自身が「暴動などというものは、恐らく、たった一つの理由などで起こるものではない」といって暴動の原因を究明できていない。結局、デモに阻まれて放送局へ行けなかった。暴動はデパートの襲撃にまで発展したが一週間で収束した。市側は米軍戦車や日本軍から押収した装甲車で制圧に出た。男女の学生の集団が堂々と、田漢作詞になる「義勇軍行進曲」をうたって歩いているのにもぶつかった。これは、のちの中華人民共和国の国歌であり、当時は厳禁されていたものである。
このしばらく後、一二月二八日に堀田は上海を離れ、翌四七年一月に佐世保港に着き四日に上陸した。この待機期間に退屈した同船者が乗船してきた警官に戦後日本で流行の唄をうたわせた。

警官は「リンゴの唄」をうたった。堀田はこう書いている。
■約一年と九カ月、それこそ日本からの梯子をはずされてしまっていた私は、敗戦後にありうべき感情の基本というものが、恐らくは〝怒り〟であろうか、と推察していたので、この唄のかなしさ、おだやかさ、けなげさ、デリケートさに、つくづくびっくりしたのであった。もとよりしばらくして、/事情を諒解したが、いまでも私は、あの薄暗い船艙のなかでの演芸会で、若い警官がこの唄をうたったときのおどろきを忘れない。その後に、私はいわゆる「虚脱」ということも諒解したが、そのときは、なんという情けない唄をうたって・・・、という怒りをもって考えたことを正直にしるしておきたい■

《すべての文章を書き写したくなる
 本書の解説を大江健三郎が書いている。
大江の「このように引用しつつ語っていると、ついにはすべての文章を書きうつしてしまうことになりかねない」という言葉に同感する。二〇〇頁の本書の紹介にもう一回かけることになった。(2018/12/20)

■堀田善衛『上海にて』(集英社文庫、2008年刊、571円+税)

2018.11.23 『堀田善衛を読む―世界を知り抜くための羅針盤』を読む
   ―あと何冊読めるかという自問自答―
 
半澤健市 (元金融機関勤務)

生きているうちに、あと何冊本が読めるだろうか。
読書だけではない。全ての日常的な営みに関してそう思う。後期高齢者の心理である。

《気になっていた堀田善衛》
 一、二冊を読んだだけで、ずっと気になってきた著述家を、誰もが、持っている筈だ。私にとって堀田善衛(ほった・よしえ)はその一人である。最近、日本近代史家を囲む読書会で、中江兆民の研究者であるその学者は、堀田の『時間』を紹介した。南京事件を中国人インテリの視点で書いた小説である。占領下の南京で、日本軍将校に自宅を占拠されながら、彼は抵抗する。1955年に、「南京虐殺」を日本人の作家が書いていたのである。私はそれを読んだ。作家の深い悲しみと強い怒り。私は、衝撃を受け、知らなかった自分を恥じた。

作家堀田善衛は、1945年3月10日の東京大空襲を経験した直後に上海に渡った。国際文化振興会という組織の上海資料室に勤務するためである。現地で武田泰淳や石上玄一郎を知る。8月の敗戦後は、46年末まで中国国民党政府宣伝部に留用され、47年1月に帰国した。
私は、『海鳴りの底から』『若き日の詩人たちの肖像』を、半世紀以上前の雑誌連載中に断続的に読んだが、内容の記憶はほとんどない。そこで彼の作品を選んで読もうと思い始めた矢先に、『堀田善衛を読む―世界を知り抜くための羅針盤』が出たのである。

本書は、富山県富山市の「高志(こし)の国文学館」が、堀田善衛生誕100年特別展「堀田善衛―世界の水平線をみつめて」開催を機に企画した堀田文学の入門書である。編者に池澤夏樹・吉岡忍・鹿島茂・大高保二郞・宮崎駿・高志の国文学館を並べる。各編集者が堀田への思いの丈を綴った内容は「入門書」の水準を超える。そういう書物を、逐一紹介するのも芸がないので、池澤・吉岡・鹿島三氏と「高志の国文学館」の文章から、私の判断で選んだ部分を以下に挙げることにする。

《池澤・吉岡・鹿島》
 ■池澤夏樹(作家。1945年生まれ)
一九六六年から『若き日の詩人たちの肖像』の連載が始まった。これが面白かった。これは個人的な事情ですが、僕の父が福永武彦という作家で、堀田さんとは同い年です。/父に「あれは面白いですよ」と言ったら、「ああ、嘘ばっかり言う」と笑っていた。もちろんフィクションの部分も多いと思います。/自然主義私小説が誠実に、失敗や欠点、堕落も含めて己を語るというところで勝負しようとする。それ故に露悪的、自虐的になっていく。そういうことは一切しない。自然主義でなく、モダニズムの人だから。書き方に工夫もあれば、フィクションというか、仕掛けもある。

 ■吉岡 忍(ノンフィクション作家。1948年生まれ)
鴨長明や藤原定家も、ゴヤもモンテーニュも、堀田さんの手にかかると、我々と大して違わない現代人ですね。この把握の仕方の背景には、人間なんいようがいまいが、だだっ広くも峻厳な自然は遠い過去にも未来にも存在していて、そのちょっとした隙間を借りて、たまたま人間はそれぞれの時間にはひたむきに、時には愚かしくもグロテスクに生き、それが歴史として積み重なってきただけのことだ、という世界観がある。私にはそんなイメージがあるんです。

 ■鹿島 茂(フランス文学者。1949年生まれ)
日本の社会がかなり豊かになってくると、第一次戦後派的な、「国家の独走を許さない」とか「連帯を基にして何かをつくっていこう」というのが野暮ったく感じられた。実は僕もそう思っていたのです。ところが、グローバリズムによって格差がどんどん広がっていくと、いや、やはり彼らが言ったことは全く古びていないのではないか、と。逆に、今こそ本当の意味での労働組合とか左翼政党とか、そういうものをちゃんと立ち上げなければいけないのではないかという気になってくる。そうしないと、近衛新体制に流されていったのと同じ道をたどる可能性が多分にある。だからこそ、もう一回、堀田さんの本を読んでいく必要があると考えています。

《堀田発言のアンソロジーから》
 ■高志の国文学館による「堀田善衛二〇のことば」から三つ

■「何万人ではない、一人一人が死んだのだ。」
 何百人という人が死んでいる――しかし何という無意味な言葉だろう。数は観念を消してしまうのかもしれない。この事実を、黒い眼差しで見てはならない。また、これほどの人間の死を必要とし不可避的な手段となしうべき目的が存在しうると考えてはならぬ。死んだのは、そしてこれからまだまだ死ぬのは、何万人ではない、一人一人が死んだのだ。一人一人の死が、何万にのぼったのだ。何万と一人一人。この二つの数え方のあいだには、戦争と平和ほどの差異が、新聞記事と文学との差がある・・・。(『時間』より)

【解説】一九三七年の南京事件を中国人の知識人の視点から描いた長編小説『時間』(新潮社、一九五五年)。戦争という極限の「時間」がいかに人間を狂わせるか。何万人が死んだのではない、死んだのは一人ひとりの人間なのだと、戦争と人間存在の本質を問う。悲惨な歴史を繰り返さないために、過去の歴史を直視し、歴史から学ぶのだと堀田はいう。

■「インドで考えたこと」
 人々が、この世の中について、人間について、あるいは日本、または近代日本文化のあり方などについて、新しい着想や発想をもつためには、ときどきおのおのの生活の枠をはずして、その生活の枠のなかから出来るだけ遠く出て、いわば考えてみたところで仕方のないような、始末にもなんにもおえないようなものにぶつかったみる必要が、どうしてもある、とおもわれる。(『インドで考えたこと』より)

【解説】一九五六年、堀田はニューデリーで開催された第一回アジア作家会議に参加するためにインドを訪問した。『インドで考えたこと』(岩波新書、一九五七年)は、過酷な自然と貧困を抱えながら多様な文化を育むインドを肌で体験した記録であると同時に、日本に対する鋭い文明批評として読み継がれ、ロングセラーとなっている。

■「国家もまた永久不変ではなく」
 私が慶応予科に入るために上京したのが、一九三六(昭和十一)年の二月二十六日。まさに二・二六事件の当日でした。(中略)つまり、軍隊は反乱を起こすことがある。また、天皇がその軍隊を殺せと命令することもある、そういうことを認識させられたということです。
これは、生家が没落とたという経験とも重なって、国家もたま永久不滅ではなく、軍隊の反乱などによって崩壊することもあるのだという、中世の無常観ともつながる感覚を与えられたわけで、こうした経験は、私自身の人格形成に深い影響を与えているだろうと思われます。(『めぐりあいし人びと』より)

【解説】『めぐりあいし人びと』(集英社、一九九三年)は、ネルー、サルトル、ソルジェニーツィンらとの交友、追い求めた定家、長明、ゴヤの世界など、人々との出会いと交流を軸に語る自伝的回想録。親しい編集者に語るという構成を採ったため、行間から堀田の肉声が聞こえてくる。

《知の巨人のインフレに抗して》
 最近は「知の巨人」がどこにもかしこにもいるようだ。
言論は自由だから、私はだれそれへの命名に反対する気はないが、本書を一読しただけで私は、ここにこそ真にそう呼べる知識人の存在を予感する。しかもこのインテリは、庶民の目線も確かに持ち続けていた。私は堀田の作品を読み始めた。その結果を報告する機会をもちたいと思う。(2018/11/16)

■『堀田善衛を読む―世界を知り抜くための羅針盤』(集英社新書、2018年10月刊、 820円+税)

2018.10.26  日中首脳会談で大東亜戦争を語れるか(2)
    ―『保守と大東亜戦争』を読んで考える―

半澤健市 (元金融機関勤務)

 公平を期するために、林健太郎の例を挙げておく。林健太郎(1913~2004)はドイツ近現代を専門とした歴史学者で、マルクス主義から出発したが次第に離れていった。東大全共闘と強気に対決した伝説の人である。東大総長も務めた。林は「大東亜戦争肯定論」を否定し、林を「東京裁判史観論者」とする批判者と対決した。本書には、田中正明、伊藤陽夫、小堀桂一郎、中村粲らとの論争が記述されている。一々は挙げられないが、林の論戦は、主な舞台が『諸君!』、『正論』であるものの、大東亜戦争の侵略性に関する林はまともであり、批判者のエキセントリックさが目立つ。

《林vs中村のサワリは》
 ここでは中村粲との問答を掲げる。
中村粲(なかむら・あきら、1934~2010)は英文学者で獨協大学で教鞭を執った。
中村は大東亜戦争への道における中国の責任を強調した。中島の解説はこう書いている。
■(中村は)日米戦争の大きな要因は、中国が同じアジア人である日本人を裏切り続け、アメリカやイギリスを利用して保身を図った「策謀」にあるというのです。中国の「背信的二重外交」と「以夷制夷」(夷をもって夷を制する)という伝統的戦略こそ、日米対立の「底流」を構成してきたと主張し、中国外交のあり方を厳しく批判しました■
以下に中村・林の論議を問答形式に直して掲げる。

■中村粲
支那の歴史責任と呼ぶべきものは大民族主義、内部抗争、中華思想、そして背信あるいは詐術外交とでも名付けるべき対外戦略である。これら諸要素が相互に関連し合い、増幅し合って支那の混乱を生み出し、それが対外軋轢や紛争を惹起してきたところに支那の歴史責任の生ずる所以がある■

■林健太郎
(中村氏の主張は)日本が中国の領土を占領しその人民を支配することは善であり中国人がそれに反抗することは悪であるという認識が貫いている。/他国の領土に出兵しその土地と人民を支配するということは「侵略」以外の何ものでもあり得ないと私は思う。/当時の「革新的」軍人のイデオロギーは(私は)知悉しており、その浅薄、独善、非合理性を痛感させられた。彼等の企てたいくつかのクーデターは不発に終わったが、彼等が民間右翼と呼応して日本の政治に圧力を加え、その政権掌握は成らなかったそれだけ一層対外的進出を促進したことは、個人の経験を通じても十分に認識することができたのである。/この戦争によって、何と多くの青年たちが可惜生命を失ったことか。私自身も戦争末期に一等水兵としての生活を送ったが、これは日本に既に船が全くなくなっていたから生命に別状はなかった。しかし私は教師をしていたから教え子たちの中には帰らなかった学生が沢山いるし、そういう知識階級の子弟の他に更に大ぜいの若者たちの死とその親族の悲嘆が存在する。それを思うと「大東亜戦争」はアジアを解放した有意義な戦争だったなどという気に到底なれない■

■中村粲
私は林氏と正反対に、大東亜戦争の歴史的意義をきちんと認め、戦没者の行為をそれなりに評価し、民族共通の記憶の中に呼び覚まし続けてゆくことこそ、唯一の鎮魂であると信じてゐる。死者の生命を甦らせぬことが出来ぬ以上、彼等の犠牲的精神と行為を称揚し、栄誉あらしめ、記憶に留めてゆく他に慰霊と慰藉の途はないだろう■

《テキスト選択・革新の不在・背景説明に問題》
 私の感想を三つ書く。
一つは「テキスト」の選択は適切だったか。
二つは、革新との比較の不在はなぜか。
三つは、今日的意義の表現に失敗している。

第一 まず、中島が驚いたことに私は大いに驚いた。
田中美知太郎の文章に、中島は「私は驚くとともに、田中の論理に強い説得力を感じました。保守派だからといって、みんなが大東亜戦争に至るプロセスを肯定的に捉えていたわけではない。超国家主義に対して懐疑的なまなざしを向けながら同時代を生きていた保守思想家が存在する。そのことに安堵するとともに、ここに忘却された重要な論点があると直感しました」と書いている。
戦時中にものを考えるインテリであれば、この程度の時代認識をもつのは普通だと思う。それは私の読書歴を振り返っても、「保守・革新」、「左右」を問わず、このような認識はあった。問題は、それが抑圧されて知識人すべての敗北に終わったことである。
中島の選んだ「保守」は殆ど人文科学系の知識人である。社会科学者は少ない。既に日本の社会科学は権力の弾圧で崩壊していたのである。共産党の壊滅に始まり「中公」「改造」の廃業までに至る言論、思想の弾圧史を一々は述べない。
徳富蘇峰や箕田胸喜の「正統派」に是非取り組んでもらいたい。石原莞爾や保田与重郎のように戦後に「平和憲法」の精神を肯定した論者の分析も望みたい。
なぜそれが起こったのか。転向のカテゴリーで論じられるのか否か。
話は逸れるが、個人的な記憶では1950年代後半にTBSラジオ(当時は「ラジオ東京」)で中島健蔵、池島信平、高木健夫(読売新聞記者)の鼎談番組があり和気藹々と辛口批評を語っていた。

第二 保守論客が戦後の言論空間に及ぼした影響についての言及が少ないことである。
言説は空中に浮遊するのではなく時代認識、時代のイデオロギーに影響を与える。
本書に登場した論者は、ナショナリズム、天皇制、革命、戦争、資本主義、日米関係についてどう考えていたのか。中島が言及する限り、論点は東西対立の中での反共の砦論が基調となっている。反共は、東西冷戦終結後、主要な論点ではなくなった。戦後左翼が、東西冷戦終結について総括を出していないように、保守論客も反共思想の有効性が失われた今、何をもって保守理念の基調、基礎付けをするかの答えを見出していない。
その場合には、天皇制の再評価が必須になるだろう。一方で、現実政治と外交では、天皇制のゆらぎと対米従属が進んでいる。

第三 以上の数点が欠落していることで本書の今日的意義が見出しにくいことである。日本政治の現実は、「つくる会」や「日本会議」のような反動的で非知性的集団が、権力の中枢にある。本書にはこの事態に対する批判的言及がない。むしろ「反共宣伝」に利用される懸念さえ感じられる。

《林健太郎のメッセージに光明》
 私は本書に欲張りすぎた注文をしたかも知れない。
本書258頁の林健太郎のメッセージに、一筋の光明を見いだしたいと書いて結論とする。

〈この誤りを認めることを「自虐」などと言って拒否するのは「自卑」、すなわち自己を卑しめかえって自己を傷つけるものであることを忘れてはならない。〉
(2018/10/22)
■中島岳志『保守と大東亜戦争』、集英社新書、2018年7月刊、900円+税