2018.10.26  日中首脳会談で大東亜戦争を語れるか(2)
    ―『保守と大東亜戦争』を読んで考える―

半澤健市 (元金融機関勤務)

 公平を期するために、林健太郎の例を挙げておく。林健太郎(1913~2004)はドイツ近現代を専門とした歴史学者で、マルクス主義から出発したが次第に離れていった。東大全共闘と強気に対決した伝説の人である。東大総長も務めた。林は「大東亜戦争肯定論」を否定し、林を「東京裁判史観論者」とする批判者と対決した。本書には、田中正明、伊藤陽夫、小堀桂一郎、中村粲らとの論争が記述されている。一々は挙げられないが、林の論戦は、主な舞台が『諸君!』、『正論』であるものの、大東亜戦争の侵略性に関する林はまともであり、批判者のエキセントリックさが目立つ。

《林vs中村のサワリは》
 ここでは中村粲との問答を掲げる。
中村粲(なかむら・あきら、1934~2010)は英文学者で獨協大学で教鞭を執った。
中村は大東亜戦争への道における中国の責任を強調した。中島の解説はこう書いている。
■(中村は)日米戦争の大きな要因は、中国が同じアジア人である日本人を裏切り続け、アメリカやイギリスを利用して保身を図った「策謀」にあるというのです。中国の「背信的二重外交」と「以夷制夷」(夷をもって夷を制する)という伝統的戦略こそ、日米対立の「底流」を構成してきたと主張し、中国外交のあり方を厳しく批判しました■
以下に中村・林の論議を問答形式に直して掲げる。

■中村粲
支那の歴史責任と呼ぶべきものは大民族主義、内部抗争、中華思想、そして背信あるいは詐術外交とでも名付けるべき対外戦略である。これら諸要素が相互に関連し合い、増幅し合って支那の混乱を生み出し、それが対外軋轢や紛争を惹起してきたところに支那の歴史責任の生ずる所以がある■

■林健太郎
(中村氏の主張は)日本が中国の領土を占領しその人民を支配することは善であり中国人がそれに反抗することは悪であるという認識が貫いている。/他国の領土に出兵しその土地と人民を支配するということは「侵略」以外の何ものでもあり得ないと私は思う。/当時の「革新的」軍人のイデオロギーは(私は)知悉しており、その浅薄、独善、非合理性を痛感させられた。彼等の企てたいくつかのクーデターは不発に終わったが、彼等が民間右翼と呼応して日本の政治に圧力を加え、その政権掌握は成らなかったそれだけ一層対外的進出を促進したことは、個人の経験を通じても十分に認識することができたのである。/この戦争によって、何と多くの青年たちが可惜生命を失ったことか。私自身も戦争末期に一等水兵としての生活を送ったが、これは日本に既に船が全くなくなっていたから生命に別状はなかった。しかし私は教師をしていたから教え子たちの中には帰らなかった学生が沢山いるし、そういう知識階級の子弟の他に更に大ぜいの若者たちの死とその親族の悲嘆が存在する。それを思うと「大東亜戦争」はアジアを解放した有意義な戦争だったなどという気に到底なれない■

■中村粲
私は林氏と正反対に、大東亜戦争の歴史的意義をきちんと認め、戦没者の行為をそれなりに評価し、民族共通の記憶の中に呼び覚まし続けてゆくことこそ、唯一の鎮魂であると信じてゐる。死者の生命を甦らせぬことが出来ぬ以上、彼等の犠牲的精神と行為を称揚し、栄誉あらしめ、記憶に留めてゆく他に慰霊と慰藉の途はないだろう■

《テキスト選択・革新の不在・背景説明に問題》
 私の感想を三つ書く。
一つは「テキスト」の選択は適切だったか。
二つは、革新との比較の不在はなぜか。
三つは、今日的意義の表現に失敗している。

第一 まず、中島が驚いたことに私は大いに驚いた。
田中美知太郎の文章に、中島は「私は驚くとともに、田中の論理に強い説得力を感じました。保守派だからといって、みんなが大東亜戦争に至るプロセスを肯定的に捉えていたわけではない。超国家主義に対して懐疑的なまなざしを向けながら同時代を生きていた保守思想家が存在する。そのことに安堵するとともに、ここに忘却された重要な論点があると直感しました」と書いている。
戦時中にものを考えるインテリであれば、この程度の時代認識をもつのは普通だと思う。それは私の読書歴を振り返っても、「保守・革新」、「左右」を問わず、このような認識はあった。問題は、それが抑圧されて知識人すべての敗北に終わったことである。
中島の選んだ「保守」は殆ど人文科学系の知識人である。社会科学者は少ない。既に日本の社会科学は権力の弾圧で崩壊していたのである。共産党の壊滅に始まり「中公」「改造」の廃業までに至る言論、思想の弾圧史を一々は述べない。
徳富蘇峰や箕田胸喜の「正統派」に是非取り組んでもらいたい。石原莞爾や保田与重郎のように戦後に「平和憲法」の精神を肯定した論者の分析も望みたい。
なぜそれが起こったのか。転向のカテゴリーで論じられるのか否か。
話は逸れるが、個人的な記憶では1950年代後半にTBSラジオ(当時は「ラジオ東京」)で中島健蔵、池島信平、高木健夫(読売新聞記者)の鼎談番組があり和気藹々と辛口批評を語っていた。

第二 保守論客が戦後の言論空間に及ぼした影響についての言及が少ないことである。
言説は空中に浮遊するのではなく時代認識、時代のイデオロギーに影響を与える。
本書に登場した論者は、ナショナリズム、天皇制、革命、戦争、資本主義、日米関係についてどう考えていたのか。中島が言及する限り、論点は東西対立の中での反共の砦論が基調となっている。反共は、東西冷戦終結後、主要な論点ではなくなった。戦後左翼が、東西冷戦終結について総括を出していないように、保守論客も反共思想の有効性が失われた今、何をもって保守理念の基調、基礎付けをするかの答えを見出していない。
その場合には、天皇制の再評価が必須になるだろう。一方で、現実政治と外交では、天皇制のゆらぎと対米従属が進んでいる。

第三 以上の数点が欠落していることで本書の今日的意義が見出しにくいことである。日本政治の現実は、「つくる会」や「日本会議」のような反動的で非知性的集団が、権力の中枢にある。本書にはこの事態に対する批判的言及がない。むしろ「反共宣伝」に利用される懸念さえ感じられる。

《林健太郎のメッセージに光明》
 私は本書に欲張りすぎた注文をしたかも知れない。
本書258頁の林健太郎のメッセージに、一筋の光明を見いだしたいと書いて結論とする。

〈この誤りを認めることを「自虐」などと言って拒否するのは「自卑」、すなわち自己を卑しめかえって自己を傷つけるものであることを忘れてはならない。〉
(2018/10/22)
■中島岳志『保守と大東亜戦争』、集英社新書、2018年7月刊、900円+税

2018.10.25   日中首脳会談で大東亜戦争を語れるか(1)
    ―『保守と大東亜戦争』を読んで考える―

半澤健市 (元金融機関勤務)

 靖国神社秋の例大祭への閣僚の集団参拝はピタリと止んだ。安倍晋三が習近平に会いに行くからである。この「ピタリ」ほど、政治家のご都合主義と軽薄な信念を示すものはない。

《リベラル保守による「保守言説」の再評価》
 著者中島岳志(なかじま・たけし、1975~)は大学へ入った1994年に、西部邁の『リベラル・マインド』(1993)を読んだ。この一冊は中島の人生に「決定的な意味」をもったという。
「保守」とは、人間に対する懐疑的な見方、理性の万能性への懐疑的な見方であり、他者との対話や議論を促進し相手に理があれば協議の上で合意形成するのが「リべラル」である。「革新」とは、理性への全面信頼、設計主義への確信、システムによる統治といった合理主義の思考であり、「自由」を抑圧する方向に傾斜する。彼が読み取った「リベラルな精神」をとは、おそらく、以上のようなことであった。

 さて、戦後政治を支配した自民党政権が、左翼の革新政策―広義のケインズ政策―を先取りしつつ高度成長を達成するなか、革新左翼は万年野党として保守政権を補完してきた。
この分析は戦後の政治経済論に伏流した言説である。私(半澤)は、とくに1960年以降には、金融社会の実務家としてこの認識を容認してきた。
今世紀に入り小泉政権による新自由主義、安倍政権による大国主義の政策が進んだ。
いまや改憲が具体的な日程にのぼりつつある。そのとき、「改憲が革新で護憲が保守」だという逆説的なテーゼは、具体的にどう作用するのだろうか。

本書は、戦後に「保守派」、「保守反動派」と呼ばれた知識人の言説を精読して再評価を試みている。内容は、西部邁グループの月刊誌『表現者』に連載したもので、登場する保守派の名前を登場順に掲げると次の通りである。

田中美知太郎、猪木正道、竹山道雄、下中彌三郎、河合栄治郎、福田恆存、池島信平、山本七平、会田雄次、林健太郎、田中正明、小堀桂一郎、中村粲である。

《「ビルマの竪琴」の竹山道雄は》
 上記の論者は職業、世代、思考も異なるが中島は、彼らの思考や言説には聞くべきものが多かったという。たとえば哲学者の田中美知太郎についてこう書く。
■田中はここではっきりと浜口雄幸内閣のような「リベラル派」を支持し、超国家主義からは距離をとっていました。彼は満州事変以降の「軍閥の独裁政治」を「いつわりの神聖観念の上に強行された」ものと捉え、「にせ天皇」が氾濫した歪(いびつ)な時代と捉えていました。軍閥独裁政治に対する嫌悪感を露にし、「二度とくりかえし経験したくない時代」と明言していました。/彼は戦前・戦中を主体的に経験し、戦後、保守の論客として活躍した人物でした。/その彼が、大東亜戦争に至るプロセスへの嫌悪感をつづり、超国家主義に対する痛烈な批判を展開していたのです。私は驚くとともに、田中の論理に強い説得力を感じました。保守派だからといって、みんなが大東亜戦争に至るプロセスを肯定的に捉えていたわけではない。超国家主義に対して懐疑的なまなざしを向けながら同時代を生きていた保守思想家が存在する。そのことに安堵するとともに、ここに忘却された重要な論点があると直感しました■(■から■が引用部分。「/」は中略を示す)

これを機に中島は保守論客の回想を読み漁った。
次に竹山道雄の反共言説に関して中島が引用しているところを挙げたい。
ドイツ文学者竹山道雄は、『ビルマの竪琴』で知られる。私は、1947年頃に、児童雑誌『赤とんぼ』に連載されたのを読んだ記憶がある。

■既定の前提から発する「上からの演繹」は、論理によって事実をゆがめてしまう。「天皇制ファッショ」がそのプログラムにのっとって歴史をつくったとする進歩主義の主張も被告たちが全体としてはじめから侵略の野心を蔵して共同謀議をしたとする極東裁判の判決も、共にこのあやまちを犯している。/はじめに原始共産社会があって、それから階級闘争の悪の歴史がつづき、最後に文明共産の理想社会に達するという、科学的理論の感情的に訴える部分が、ここには素朴な形で再現している。そして、この将校が熱心に説く国体明徴をきくと、そこに思いうかべられている一君万民の天皇とは、国民の総意の上にたつ権力者で、何となくスターリンに似ているもののように思われた。/革新勢力は、政党・財閥・官僚・軍閥による「天皇制」を仆そうとして、ついにはほぼ所期の目的を達した。その無謀な対外政策の結果、戦争はいよいよ広範囲に深刻となり、ついにはぬきさしならぬどたん場まで追いつめられた■

ここで「既定の前提」というのは唯物史観的思考のことである。ビルマの戦場で日英兵士が戦闘の合間に合唱で交歓する。「埴生の宿」を唄い合う。一人の兵士はビルマに残って戦友の遺骨を回収する。市川崑はこの作品を二回も映画にした。そいう叙情的な作品の書き手が、上記のような反共の言辞を発しているのに驚く。それを想像もしなかった自分は何を見ていたのかと思う。

《中島の革新批判はハンパでない》
 今のところはサワリの抜粋だ。全体に中島は、竹山の「ぬきさしならぬどたん場まで追いつめられた」論に同調的な記述をしている。それは彼のいう無謬と独断を内蔵した「革新」の思考が「どたん場」へ繋がりやすいからである。中島の「反革新」思考はハンパでない。しかし中島は全ての保守論客の発言に共感しているわけではない。(続く)

■中島岳志『保守と大東亜戦争』、集英社新書、2018年7月刊、900円+税
2018.09.20 毅然とした時代批判に感動する 
  ―斎藤貴男『「明治礼賛」の正体』を読んで

半澤健市(元金融機関勤務)

《国策「明治150年」への果敢な反論》
 ジャーナリスト斎藤貴男(さいとう・たかお、1958~)による70頁の小冊子は
安倍晋三の「明治礼賛」論を粉砕する快作である。
本書『「明治礼賛」の正体』は三章で構成され、第1章では政府による「明治150年」の様々な「モノ・コト・ヒト」のプレゼンテーション―詳細はhttps://www.kantei.go.jp/jp/singi/meiji150/portal/torikumi.html―が、明治維新と日本近代を美化するプロパガンダであることを暴露する。しかし宣伝は殆どが周到に準備されている。たとえば、2015年のNHK大河ドラマ『花燃ゆ』、同年下期の連続テレビ小説『あさが来た』、18年の大河ドラマ『西郷どん』。読者も薄々は感じていた「明治礼賛」が計画的であることがわかる。

第2章は、安倍政権が目指すものは何かを論ずる。
安倍晋三は、明治維新に始まる日本近代を明るい時代と捉えている。「富国強兵・殖産興業」政策が、大日本帝国の滅亡に帰結したことには目を向けない。斎藤によれば、安倍晋三政権の目標は「21世紀版の富国強兵・殖産興業」である。

《インフラ輸出と自衛隊と財界》
 それは具体的に何を指すのか。最大のものは「インフラシステムの輸出」である。
「新興成長国群に対して、計画的な都市建設や鉄道、道路、電力網、通信網、ダム、水道などのインフラをコンサルティングの段階から設計、施工、資材の調達、完成後の運営・メンテナンスまでを〈官民一体〉の〈オールジャパン体制〉で受注し、てがけていく」。これがビジネスモデルである。
民主党政権時代にも同じ概念はあったし実行も始めた。安倍政権では、「インフラシステムの輸出」の中核に原発の輸出が位置づけられている。さらに安倍政権は「独自の要素」を組み入れた。「資源権益の獲得」と「在外邦人の安全」である。13年にアルジェリアの天然ガス精製プラントが武装勢力に襲撃され、殺害された40人の外国人労働者のなかに10人の日本人技術者がいた。「独自の要素」の付加の原因である。

この問題は自衛隊の行動の問題に収斂する。実際、13年11月の自衛隊法改正につながった。海外の日本人保護は、憲法解釈の通説「専守防衛」の範囲を超える。そこでプラント輸出のプレーヤーたる経済界は、2000年代はじめから自衛隊の権限拡大を提言していた。2017年には日本経団連会長が「平和憲法の精神を継続した上で自衛隊の存在意義を明確にすべきだ」と述べた。安倍首相がその三日前に『読売新聞』(17年5月3日・憲法記念日)で自衛隊の存在を明記した改正憲法を2020年に施行したい」と述べたのに続いたのである。

《「新帝国主義」でネオリベと安倍保守が握手》
 斎藤の筆鋒はさらに進む。財界の関心は少子高齢化の国内市場にはない。巨大企業は外需に活路を求める。まさに「オールジャパン」の「インフラ輸出」である。このモデルは「インフォーマル(非公式)な帝国主義」ではないか。「インフォーマルな帝国主義」は、国際関係論の用語だという。「ここにおいて、新自由主義と新保守主義は補完し合い、融合するのである」と書いている。「新保守主義」は「明治礼賛」の別名である。
2014年に施行された改正貿易保険法は「戦争やテロリスクへの対応」を盛り込んだ。14年4月には「防衛装備移転三原則」が決まった。平たく言えば「武器禁輸三原則」の廃止である。政府は武器輸出も貿易保険の対象としていく方針を決めている。
明治礼賛と新型「帝国主義」の関係がわかってきた。

《明治礼賛に潜む虚妄を暴く》
 第3章は、「明治礼賛」の虚構性について多くの事例で論証している。
日本資本主義は先進列強をモデルとして琉球を含むアジア諸地域を差別し侵略した。そのイデオローグとしての吉田松陰のアジア侵略論や、自由民権運動を貶めたり社会ダーウィニズムを擁護する福沢諭吉への批判は痛烈である。

松陰の『幽囚録』からは、侵略的な次の言葉を引いている。
■今急いで軍備をなし、そして軍艦や大砲がほぼ備われば、北海道を開墾し、諸藩主に土地を与えて統治させ、隙に乗じてカムチャツカ、オホーツクを奪い、琉球にもよく言い聞かせて日本の諸藩士と同じように幕府に参觀させるべきである。また朝鮮を攻め、古い昔のように日本に従わせ、北は満州から南は台湾・ルソンの諸島まで一手に収め、次第次第に進取の勢を示すべきである。(奈良本辰也編著講談社刊『吉田松陰著作選』の現代語訳)■

福沢の文章からは、自由民権論を批判する部分を引いている。空論批判の意であろう。
■唯一方に偏して天然論を唱るは、医者の有るを忘れて医術を廃せんとする者に等しきのみ。畢竟政法は悪人の為に設け、医術は病人の為に備るものなり。(中略)然ば則ち天然の民権論は、今日これを言ふも到底無益にし属して弁論を費すに足らず。故に我輩は、国に政府を立てゝ法律を設け、民事を理して軍備を厳にし、其一切の事務を処する為には大小の官吏を置き、其一切の費用を支弁する為には国税を納め、以て国内の安寧を求むるの説を説く者なり。(『時事小論』、1881=明治14年)

《オルタナティブとしての「新しい小日本主義」》
 斎藤は安倍の明治礼賛の背景を批判するだけではない。
彼は対案として「新しい小日本主義」を提示している。「小日本主義」のルーツを、幸徳秋水・安部磯雄・内村鑑三・三浦銕太郎らに求めながら、三浦らの考えが武力による膨張には異を唱えながら、他国の経済的支配を否定しなかった点を問題視する。経済成長は幸福のための有効な手段だが、日本ではつねに経済成長が「目的化」され、人権や生命が疎かにされた。真の成熟を基礎とした考えを、斎藤は「新しい小国主義」というのである。最近面談した作家井出孫六の戦中体験を引きながら小国主義の意義を強調している。

《ぶれない強さの衝撃》
 斎藤貴男の小冊子から私は意外なほどの衝撃を受けた。それは彼の原理主義、または理想主義の強さによる。腰がゆらいだメディア、社会全体の同調圧力、何があっても低下せぬ内閣支持率などによって、普段はその意識がなくても本書を読んで、私はおのれの思考軸がぶれていることを感じる。私は斎藤説のすべてには同意しないが、彼の立ち位置の強さに粛然とした。私はこの冊子から勇気をもらったのである。(2018/09/15)

斎藤貴男『「明治礼賛」の正体』、岩波ブックレット、2018年9月刊、580円プラス税
2018.08.29 世界のポピュリズムへ新論点を提起
―真鍋弘樹『ルポ 漂流する民主主義』を読む―

半澤健市 (元金融機関勤務)

本書は、日本人ジャーナリストによる世界大の「民主主義崩壊」―正確には「崩壊の危機」―の報告である。朝日新聞記者の真鍋弘樹(まなべ・ひろき、1965~)は、今世紀初頭から現在まで,日本本土・沖縄・米国各地・欧州を経巡った。本書の主内容は、彼の見た庶民・大衆の実態である。記者は民主主義の「崩壊」の危機をみた。それは本当に崩壊なのか、または逆説的な復活なのか。いずれにせよそのメカニズムは何か。国際的な共通性は何か。経済的・歴史的な文脈は何か。別の選択肢はないのか。そんな欲張った視点で『ルポ 漂流する民主主義』という新書は書かれている。

《日・米・欧の「現状」と飛び出した魔神》
 記者は何を見出したのか。
2006年の日本で、真鍋記者は「失われた世代」の若者に聞いた。26歳の派遣社員の青年は、8年間に30数回の引っ越しをした。トヨタ・三菱・キャノン・YKK・いすゞなど日本を代表するメーカーの全国各地の工場で働いた。人材派遣会社の指示で、一カ所には長くて数ヶ月、短いときは一週間であった。こういう世代が生まれたのは、バブル崩壊後の10年、それに続く小泉構造改革の時期である。「痛みなくして成長なし」の路線は「地方の疲弊」と「雇用の不安定化」に帰結した。「今、世界で起きていることを、日本で先取りしたように体現した人々、それがロスジェネ(失われた世代)だった」と記者は書いている。

2015年のアメリカで、記者はロバート・パットナムという学者にインタビューした。『われらの子ども―米国における機会格差の拡大』(邦訳は創元社)を書いたハーバード大教授である。以下はその一部である。

問 アメリカンドリームはもう死んだのでしょうか。 
答 この国で現在、経済格差が広がっているのは間違いない。アメリカ人は従来、結果の平等より機会の平等を重視し、格差をあまり気にしてこなかった。だが、今はその機会の均等こそが失われている。/大人の場合、経済格差は個人の責任だという考え方もできる。だが、三歳の子どもに、「自己責任で困難を乗り越えなさい」という人はいないだろう。現状に警鐘を鳴らすために、子ども時代の機会不平等に注目した。

2016年のイギリスで、EU離脱の国民投票の結果が出る直前に、真鍋は英国独立党党首ファラージの記者会見に臨んでいた。「EUを疑う『ジーニー』は、魔法のランプから出てきた。もうランプの中に戻ることはないだろう.」と党首は発言した。ジーニーとは、ディズニー映画「アラジン」でランプをこすると出てくる魔神である。記者は、「反EUにとどまらず、反エリート、反移民の排外主義、自国ファーストといった既成政治を破壊する魔神は、世界各国でランプから飛び出し、決して戻ることはない・・・。そんな時代の訪れを宣言したかのように私には聞こえた」と書いている。

《ネガティブなキーワードと「茫然自失」の夜》
 おそらく数百人への取材で記者が見たものは、全世界で起こっている次の事象であった。「格差の拡大」、「富の偏在」、「中産階級の没落」、「国民の分断」、「他者への敵視」、「移民の排除」、「偏狭なナショナリズム」、「自国ファーストの思想」、「右傾化の進行」、「反知性主義」、「反中央集権」、「反エリート主義」、「反リベラリズム」、「代表制民主政治の危機」。民主政治の基本理念である「自由」、「平等」、「代議制度」が、剥落し形骸化し機能不全に陥っていた。

私(半澤)は、これら本書のネガティブなキーワードを好んで拾ったのではない。
ドナルド・トランプ米大統領の誕生は上記現象の象徴である。「反知性的ポピュリズム」の勝利である。国内外の階層間の巨大な裂け目の可視化である。

トランプ大統領誕生の夜を記者はこう書いている。
■トランプ当選の可能性が高まると、ニューヨークは恐慌に陥った。ニュース番組のキャスターたちは当惑を隠せず、ヒラリー・クリントンの勝利を祝うつもりで繁華街のタイムズスクエアに集まった市民たちの多くも、茫然自失の体だった。こういった市民は、トランプの言う「人々」には含まれていなかったのだ■

《現状は過去の構造に原因がある》
 真鍋記者は、これらの現象が、「ある構造」の結果であると考える。ここから先は、彼が明示していない部分を、私(半澤)が、自己流に解釈していることをお断りしておく。その構造とは、二つの世界大戦の過程で完成した「総力戦体制」である。戦後も、その変奏である国家のケインズ政策的介入という構造は、巨大な中間層を育てた。東西冷戦がこの構造を温存した。「ゆたかな社会」は、「資本主義のショーケース」だったからである。「第二次世界大戦後の米・欧・日では、分厚い中間層の存在が政治体制の安定を担保としてきたが、そのスタビライザー(安定装置)は、この三〇年間で知らぬうちに根腐れていた」と記者は書いている。しかし私は、「知らぬうちに」ではないと考える。労働者に与えすぎて資本蓄積が不自由になった。その上、冷戦崩壊で「ショーケース」は不要となった。儲かる資本主義を再生せねばならない。資本はそう考えたのである。

「新自由主義」、「ネオリベ」を戦略的イデオロギーとして、「グローバリゼーション」の快進撃が始まった。多国籍企業、国際金融資本の活動する市場は自由に国境を越える。「国家による資本の管理」から「資本による国家の管理」の時代になった。「経済格差の拡大」、「富の偏在」、「階層の分断」が加速する。先に私が本書から拾い挙げた数々の「ネガティブなキーワード」は、グローバリゼーションの浸透とそれに対応した人々の態度を表現している。

現実であれ幻想であれ、これらの人々の不満を掬いあげ、敵を外部に求めるのがポピュリズムである。ポピュリスト政治家が族生している。国際的にはナショナリズムを基盤として「外国(人)」、「難民」の排斥を訴え、国内的には「エリート主義」、「エスタブリッシュメント(既得権者)」、「中央政府」を批判する。そして「真の代表者の不在」―〈 Trump is NOT MY President 〉―への強い不満を発信する。

《記者によるオルタナティブの提案》
 トランプ当選の夜に茫然自失となったリベラルと同じように、ジャーナリストの報告はここで終わってもいい筈である。しかし真鍋記者は、こう書いている。
■トランプが体現する不寛容さと排除の論理に対して全米で起きた強いプロテストの動き
に強い共感を覚える。その一方で、私は何か割り切れない、引っかかりを感じ続けている。トランプを大統領に押し上げた支持者たちについてどう考えるか。ポピュリズムの手法が囲い込む「人々」にどのような視線を向ければいいのか。この大統領選を見てきた者として、一筋縄ではいかない思いに囚われる■

記者は、東浩紀、福山哲郎、井出英策、ベネディクト・アンダーソンらの意見に言及しつつ「リベラルで平等主義的な包摂のナショナリズム」という対抗軸を提案する。この選択肢には異論・反論が予想される。しかし、私は彼の見た現実の過酷さを想像して、提案とそれに続くであろう論争を歓迎する。

2017年2月、同じ朝日記者金成隆一の『ルポ トランプ王国』(岩波新書)の書評で私は次のように書いた。
■グローバリゼーションと技術進歩はなぜ起こったのか、の答えが欲しい。それをジャーナリストに求めるのは過剰な要求か。二〇世紀の資本主義から説かないと現状は理解できないと思う■

《「渾身のルポルタージュ」は誇張ではない》
 真鍋弘樹の意図がどうあれ、私の期待に応えた結果になったことは嬉しい。カバー裏の惹句に「世界で連続発生する『有権者の乱』を描き切った、混迷を極める国際社会への提言にして渾身のルポルタージュ」とある。本書はそれが誇張とは思えない力作である。(2018/08/25)

真鍋弘樹『ルポ 漂流する民主主義』、集英社新書、2018年8月刊、820円+税
2018.07.26 すべてを破壊する戦争に歌でノーを
音楽ジャーナリストが世界の反戦歌を紹介する本を出版
    
岩垂 弘 (ジャーナリスト)

 「日本がまた戦争が出来る国にするべく手はずを整えようとしている。戦争を体験した者として、戦争は絶対にだめだ!と伝えなくては」と、世界の反戦歌の傑作を紹介した『反戦歌 戦争に立ち向かった歌たち』を著した音楽ジャーナリストがいる。竹村淳さん。「反戦歌をとおして戦争の痛みや虚しさを知り、好戦的な人たちが戦意喪失することを願わずにはいられない」という。

 竹村さんは、ラテンアメリカの音楽に詳しいジャーナリストとして知られる。1981年から2005年までの24年間、NHK-FMでラテンアメリカとカリブ音楽のDJを務めた。現在は東京・目黒のラテン文化サロンCafé y Librosで「ラテン音楽パラダイス塾」を開講中だ。
 
 竹村さんは、日本が1945年8月15日に太平洋戦争で無条件降伏した時は8歳で、国民学校(小学校)3年生だった。それから70年余り。日本では戦争とは直接関わりのない歳月が続いてきた。それは世界に誇るべき素晴らしいことであり、素直に喜んでいいことだと思ってきた。
 ところが、ここ数年、日本がまた戦争が出来る国にするべく手はずを整えようとしているように思われ、またぞろ日本に戦争の足音が近づいているような不穏な空気を感じていた。

 そのことを痛切に実感させられたのは、2015年9月19日に参院本会議で、自民・公明両党ほかの賛成多数で安全保障関連法が可決、成立したことだった。「戦争を多少なりとも体験した者として、戦争は絶対にだめだ!と伝えなくてはとぼくは思った。戦争は相手国はもちろん、自国民の人権をも無視し犠牲にし、国土を疲弊させ、国富を消費し、誰をも不幸にする。そのことを一人でも多くの人になんとしても伝えなければ、とぼくは心の底から思った」と竹村さん。
 そこで、思いついたのが世界中の反戦歌について書いてみよう、ということだった。これまで人生で深く関わってきたのは音楽だから、その力を借りて心ある人びとの注意を喚起できるなら、戦争をしたい邪悪な連中と多少なりとも対決できるのでないかと感じたからだという。 
竹村淳さん写真 
竹村さん
 そこで世界の反戦歌について調べ始めたわけだが、あるわあるわ。出合った反戦歌はおびただしい数にのぼったが、そこから23曲を選び、各曲の歴史やエピソードをつづったのが本書である。
 23曲の内訳は、脈々と歌い継がれてきた反戦古謡が4曲、第1次世界大戦時のものが2曲、第2次世界大戦と原爆に関するもの5曲、インドシナ戦争・アルジェリア戦争・朝鮮戦争・ベトナム戦争に関するもの8曲、その他の戦争に関するものが4曲となっている。

 竹村さんが、まず推奨するのが、ボブ・ディラン(アメリカ)作詞・作曲の『戦争の親玉』だ。1963年に発表された。ベトナム戦争が激化しつつある時期だ。
 本書によれば、ここで歌われているのは、現代の戦争は昔のそれのように侵犯してくる敵との戦いとか、民族同士の争いとか、宗教上の対立といった人間くさい確執に起因するものではなく、戦争をビジネスとしている戦争屋が金儲けのために引き起こす戦争や軍需を喚起するための戦争が多いのではないか、ということだという。
 「ディランの、戦争屋の存在を見抜く慧眼、彼らを戦争の親玉として指摘してみせる表現力はあっぱれ。ディランはこの1曲だけでもただ者でなく、ノーベル文学賞にふさわしい逸材であることが分かる」

 目立って反戦歌が多いのはフランス。“反戦歌大国”と呼びたくなるほどだという。そのフランスから4曲が選ばれている。その1つ、『兵隊が戦争に行くとき』は、イヴ・モンタンが歌ってヒットした曲。作詞・作曲は歌手のフランシス・ルマルクで、1952年につくられた。
 第2次世界大戦が勃発すると、ルマルクは召集され、陸軍の軍楽隊に配属される。が、フランスはドイツ軍に降伏し、動員解除になる。ところが、ユダヤ人の家系の母がアウシュビッツ強制収容所に送られ、非業の死を遂げる。ルマルクは地下に潜って対独レジスタンス部隊に参加する。「彼の生い立ちや家族の歴史にふれると、ルマルクにとって反戦歌をつくることは必然だったことが理解できる」と竹村さん。
 以下は、『兵隊が戦争に行くとき』の中の一節(日本語訳・大野修平)。

 少しばかり死ぬために出発する
 戦争に 戦争に
 それはおかしな つまらないゲーム
 恋する者たちには似合わない
 それでも ほとんどいつも
 夏がまたやって来る時
 出かけなければならない

 日本からは5曲が選ばれているが、目を引くのは、なんといっても美空ひばりが歌った『一本の鉛筆』だろう。彼女は1974年8月9日に開かれた第1回広島平和音楽祭(広島テレビ主催)でこれを歌った。作詞・松山善三、作曲・佐藤勝。彼女は当時、34歳。

 一本の鉛筆があれば
 私は あなたへの愛を書く
 一本の鉛筆があれば
 戦争はいやだと 私は書く

 美空ひばりと反戦歌というと、なにかそぐわないという印象があるが、竹村さんによれば、彼女は1945年5月29日に米軍機による横浜空襲を経験し、戦争の恐ろしさを身をもって知っていた。そうした往時の体験が、反戦歌に向かわせたのではないか、とみる。
 
 私は、ひばりが第1回広島平和音楽祭でこの歌を歌ったことは知っていた。が、彼女が死の直前に、病魔と闘いながら再びこの歌を広島で歌っていたことを本書で知り、心うたれた。それは1988年7月29日の広島平和音楽祭のステージだった。第1回広島平和音楽祭から14年が経っていた。「おそらく自分の余命に思いを馳せ、この反戦の歌を初めて唄った音楽祭で唄う機会を絶対逃すまいと骨身をけずらんばかりにして駆けつけた、と思うのは考えすぎだろうか」と竹村さん。ひばりが52歳の生涯を閉じたのは、それから11カ月後のことである。

 「ざわわ ざわわ ざわわ/広いさとうきび畑は」で始まる寺島尚彦作詞・作曲の『さとうきび畑』も選ばれている。
 1964年にまだ米軍の統治下にあった沖縄を訪れた寺島が、沖縄戦の激戦地、摩文仁の丘で地元の人から聞いた言葉に触発されてこの曲をつくったとされる。完成までに3年かかった。風にゆれるさとうきびがたてる音を「ざわわ」とするまでに1年以上かかったという。森山良子や上條恒彦らが歌って広く知られるようになった。

 竹村さんは「おわりに」の中で、こう書いている。
「本書を書き上げてつくづく思うことは、どんな理由があろうと、一度始まってしまうと戦争は必ずや人類最悪の敵と化すということである。数え切れないほどの人命を奪い、限りなく国土を荒廃させ、膨大な戦費を空費し、人類にとっては百害どころか千害万害で、プラスになることはないに等しいと言わざるを得ない」
 「人類の叡智といえる反戦歌の傑作の数かずをとおして知っていだいた戦争の惨たらしさや空しさを、様々な方法で発信し拡散していただき、戦争は嫌だ!と願う仲間を増やしてもらいたいと願う」
 さらに、竹村さんはこう語る。「日本でも1960,年代から70年代にかけては、反戦歌を歌う歌手がいた。今はほとんどみかけない。出来れば、かつて歌っていた歌手を集めて反戦歌のコンサートを開きたい」

 竹村淳著『反戦歌 戦争に立ち向かった歌たち』 株式会社アルファベータブックス 定価2000円+税
 
2018.05.25  「国体」論による鮮烈な戦後批判
 ―白井聡『国体論―菊と星条旗』を読む

半澤健市(元金融機関勤務)

 気鋭の政治学者白井聡(しらい・さとし、1977~)の近著『国体論―菊と星条旗』は次のように始まる。(■から■)

■本書のテーマは「国体」である。この言葉・概念を基軸として、明治維新から現在に至るまでの近現代日本史を把握することが、本書で試みられる事柄にほかならない。「国体」という観点を通して日本の現実を見つめなければ、われわれは一歩たりとも前へと進むことはできないからだ。(中略)そのようなものとしての「国体」と手を切ったのが、敗戦後の諸改革を経た日本であり、現在のわれわれの政治や社会は「国体」とはおおよそ無縁なものになっている、というのが一般的な常識であろう。
しかし、筆者(白井)は全く逆の考えを持っている。現代日本の入り込んだ奇怪な閉塞状態を分析・説明することのできる唯一の概念が、「国体」である。■

《戦前・戦後の「国体」には三段階ある》
 惹きつける文章である。しかも新書にしては347頁の大冊である。
著者は、戦前と戦後の「国体」がそれぞれ、①「形成期」、②「相対的安定期」、③「崩壊期」の三段階を歩んだと述べる。
戦前の三段階のキーワードは、
①「近代主義国家=国民国家の建設」、副題が「天皇の国民」
②「アジア唯一の一等国」「大正デモクラシー」、副題「天皇なき国民」
③「昭和維新革命」「ファシズム」、副題「国民の天皇」である。
戦後は、
①「占領政策」「高度経済成長」
②「ジャパン・アズ・ナンバーワン」
③「失われた20~30(?)年」である。ほかに時代のキーワードがあるが省略。
詳細は原本に譲るが、ここでは私(半澤)が最も関心を惹かれた戦後日本の「国体」形成期についての内容を紹介したい。

《戦後「国体」の形成とその帰結たる現在》
 降伏の「御聖断」に至る過程で「国体護持」の客観的な定義が、支配層の誰にも明確に認識されていない。この「日本的」状況の記述を改めて興味深く読んだ。
天皇制崩壊の危機は日米支配層の取引で回避された。米側は天皇利用による占領政策の円滑な遂行を求めた。日本側は、形式上の「国体護持」でも可としながら、宮中・リベラル派官僚機構の主導による間接統治を求めた。そのディールが成立した。最初の面談で、天皇はマッカーサーを感動させたという神話が流布した。しかし日本占領の計画策定は1942年に始まっていた。マックの感動で始まったのではない。
占領下の主権は日本ではなくGHQの手中にあった。占領下の国会で新憲法が成立し発布される。その新憲法で日本は平和的な民主国家となり、対日講和条約(実体は日米安保)で独立した。世界第二の経済大国になった。そして日米同盟は対等の関係である。

《戦後国体への断固たる異議申し立て》
 白井の分析は、常識的「戦後論」への異議申し立てである。敗北したのに、天皇制の温存と米国の庇護の合作である「日米同盟」関係を、白井は「永続敗戦」と呼びつつその実態は「主人と奴隷」の関係だと強調する。我々は厳しい現実―たとえば沖縄、あるいは沖縄化する本土―に背を向けている。見たくないものはないことにして我々は70年余を過ごしてきた。神話を現実と見てきたのである。『国体論―菊と星条旗』の核心は、「天皇から米国へ」の主権の移転、その「不可視化」の成功論であると私は読んだ。
 
この「永続敗戦」のレジームにあって、米国は日本の国力回復が必要だった。東西冷戦の時代だったからである。1ドル360円の円安容認と自国市場の開放によって米国は日本の経済復興を支援した。反共の砦は日本だと考えてそうした。しかし日本という隷属者が、競争者となったとき米国は、「グローバリゼーション」戦略によって日本を攻撃する。冷戦終結で米国に敵はいなくなり、日本を護る必要性がなくなる。中国は統制された資本主義国家である。こういう客観的事実の変化があっても、この30年間、「永続敗戦体制」は、日本人に認識されず、再審判もされず、脱却への試みもほとんどなかった。白井は本書の結論部分(336~337頁)にこう書いている。

■「戦後の国体」の末期たる現在において現れたのは、「戦後日本の平和主義」=「積極的平和主義」=「アメリカの軍事戦略との一体化」(実質的には、自衛隊の米軍の完全な補助戦力化、さらには日本全土のアメリカの弾除け化)という図式である。(中略)朝鮮半島の緊張に対する日本政府の対処とそれに対する世論の反応は、「戦後の国体」の臣民たる今日の日本人が奉ずる「平和主義」の内実を明るみに出した。「平和主義」の意味内容の変遷は、「戦後の国体」の頂点を占める項が菊から星条旗へと明示的に移り変わる過程を反映している。今後の東アジア情勢次第では、「天皇制平和主義」を清算しない限り、われわれは生き残り得ないであろう■

《私の三つの率直な感想》
 「奇怪な閉塞状態を分析・説明することのできる唯一の概念が、『国体』である」という著者の目的は達せられたか。自負は本当であったか。以下は私の率直な読後感である。

第一 一点突破全面展開の強さ
戦後の日米関係について日本の従属体制を論じたものは多い。実際、白井著作においても明示的・暗示的に先行研究への言及がある。しかし個別の事態や事件を深く追及したものはあったが、「国体」というキーワード一語で、あるときはピンポイントに、あるときは強引な飛躍で、あるときは事柄の両義性をフルに応用して、これだけ執拗に論理を展開している、こんな言説は今までなかった。

第二 戦後論への鋭い問題提起
メディアや学会の戦後論は、「敗戦」が画期だという断続説から連続説へ次第に軸足を移した。その過程で起こったことは、「日米同盟」への言及欠落であり、そのなし崩しの承認であり、更には積極的肯定ですらある。多くのマスメディアにあって、安保批判はいまや「国賊」「非国民」の言語である。政治家の世界はどうか。いま日米安保即時撤廃をいう政党は一つもない。
しかし総体としては戦前・戦後の連続説に立つ白井分析は正面から日米同盟批判を行っている。奇矯な指導者を奉ずる二カ国の会談結果予測は困難だが、場合によっては「外交の安倍」が世界の孤児になる可能性もある情勢だ。

《思い切った明仁天皇への肯定》
 第三 明仁天皇への肯定的な評価
本書の帯で、思想家内田樹、経済史学者水野和夫、宗教研究者島薗進、ノンフィクション作家保阪正康の四識者が白井著作への短い賛辞を述べている。

白井聡は本書で、明仁天皇の「お言葉」(2016年8月8日のテレビ放送による実質的な生前退位宣言)に関して踏み込んだ発言をしている。白井は「お言葉」に衝撃を受けた。それは「この国の歴史に何度か刻印されている、天皇が発する、歴史の転換を画する言葉となりうるものと、筆者(白井)は受け取」り、「古くは後醍醐天皇による倒幕の綸旨や(中略)、孝明天皇による攘夷決行の命令、明治天皇による五箇条の御誓文、そして昭和天皇の玉音放送」の系譜につながると解している。現天皇発言に関して、「腐朽した「戦後国体」が、国家と社会、そして国民の精神をも破綻へと導きつつある時、本来ならば国体の中心にいると観念されてきた存在=天皇が、その流れに待ったをかける行為に出たのである」とまで述べている。
同趣旨の発言は、上記識者のうち内田樹からは公然と、保阪正康からも示唆的に発せられている。三人が同一意見だと私はいわぬが、彼らの思考ベクトルは概ね同方向だと思われる。これらの発言が意味するところは何か。私自身に今発言する準備はないが、「明治150年」は、安倍内閣が望む年ではなくなるのでないか。そういう予感をもっているとは書いておきたい。

改めての結論。白井聡の力作『国体論―菊と星条旗』が多くの読者を獲得することを期待する。(2018/05/19)

白井聡著『国体論―菊と星条旗』、集英社新書、集英社2018年4月刊、940円+税
2018.04.26 「昭和の時代」を物語る写真集

―私的エールですが読んで下さい―

半澤健市 (元金融機関勤務)

 私事から始めることをお許し願いたい。
2018年4月16日開催の高校同期会の案内に「橋寿」記念とあった。意味不明のまま出席したら、幹事が「橋」は「ハシ=八四」の意味で八四歳の祝いだと説明した。
2年前の「半寿」の会は、「半」を「八十一」と読むのだと広辞苑に記述があった。

《新制中学・新制高校・六三制の同窓会》
 私の年代の高校進学者は、1947年に発足した新制中学の第一期生で、1950年に新制高校へ入った。旧制府立二中、現在の都立立川高校である。かつての進学校も今は一時ほどの勢いはないが、青春期の三年を過ごした母校に、私は自分なりの愛着がある。

当時、2・3年生の上級生は、全員男子の旧制中学からの移行組であり、我々新入生は「試験なしで中学に入った〈六・三型〉だ」と、揶揄された。「六・三型」とは、戦後改革による教育の「六・三制」と、ドアが開かずに大火災事故となった国鉄車両の名称「モハ六三型」とを掛けたマイナスのイメージの表現である。事故は「桜木町事故」(1951年)と呼ばれた。

幹事報告によると同期生の現状は次の通りである。卒業生411名(男女比は3対1)。その内訳は、連絡可能235、出席71、欠席89、無回答75、物故者・不明者176。
約2時間半の写真撮影、挨拶、雑談に自ら入り観察した私の印象は、「子供から大人になり再び子供へ還ってゆく動物」、これが人間だというものである。出席者の三分の一の言動は、思い込みと同じことの繰り返しであり、私には理解不能であった。私の言動も他人にはそのように映るのであろうと思った。

《『昭和の東京』というアマチュアの写真集》
 前振りが長くなりすぎた。私の伝えたいのは、上記の同窓会で知った一冊の写真集である。同級生である著者と話し込んでこの話になり、彼は親切にも送ってくれたのである。
その書名は『昭和の東京―街角の記憶』である。著者(=写真と文)は宮崎廷(みやざき・ただし)。この4月に刊行されたばかりである。
宮崎君の写真への興味と実践を、私は高校在学中には知らなかった。知ったのは15年ほど前である。彼は青梅線沿線から高校に通学していたが、大学は法政大学に進み、社会人としては地元の青梅市役所に勤めた。

同書の「はじめに」に宮崎君はこう書いている。(■から■)
■東京も中心街はすでに戦前の賑わいを取り戻していたが、街を行けば制服姿の米兵や外国人の家族とすれ違い、駅頭に立つ傷痍軍人が奏でるアコーディオンからは「異国の丘」のメロディーが流れ、戦争の影が消え去ったとは言えなかった。私が東京を撮影し始めたのはちょうどそんな時代で、都心へ通学するようになったのがきっかけである。
東京駅を中心として日本橋、銀座といった日本を代表する商店街は、田舎育ちの学生である私にとって別世界のような街であり、浅草へは出かけるたびに新しい発見のある楽しい盛り場だった。(略)本書に収録した写真は昭和30年頃から昭和の終わりまでに、東京の市井の人々の姿を中心に撮影したものである。(略)昭和という時代を支えてきた方々が古い記憶を呼び起こし、読者ご自身の昭和をたどるきっかけにでもして頂ければ幸いである■

《私の企業人時代に見た風景がいっぱい》
 私(半澤)の金融機関勤務は、短期間の海外研修を除いて、1958年から1995年にわたる約40年間、東京を離れたことがなかった。しかもその大半が日本橋であり、次いで丸の内と八丁堀であった。極私的視点になるが、本書18頁の空中写真「空から見た日本橋」(本書中の空中写真は朝日新聞社提供、これも実に良い)に、私が最初に入った企業である「野村證券」のビルが写っている。さらに私には―いや私だけには―その看板の下に「東洋信託銀行」という白地の社名看板が見えるのである。後者は前者が都銀二行とともに出資設立した信託銀行であった。そこで私は企業人人生の大半を過ごしたのだが、のちに「三菱UFG信託銀行」に吸収されてしまった。三菱と野村の社員はそんなことは知らぬであろう。一事が万事である。この写真集を時間をかけて見るとき、私は胸に迫るものを抑えることができない。

《あなたを感傷的にしたのちに深い思索をもたらすだろう》
 宮崎君はアマチュアではあるが、自己流で写真を撮ってきたのではない。彼は田沼武能という優れた写真家に師事して腕を磨いてきたのである。田沼氏は、本書をこう評価している。
■写真の良否にはプロもアマチュアもなく、如何にその時代を記録し、その記憶を語っているかが評価される。本書はその時代の東京の人々の暮らしから心意気までを語っており、「昭和の時代」を物語る第一級の記録である■

前振りだけではない。写真集紹介もお前の仲間褒めではないか。
そうではないつもりである。読者には是非、手にとって本書を眺めて貰いたい。
あなたはここに、「モノはなかったが夢はあった時代」の人々の笑顔と希望をみるだろう。高度成長が、「共同体」や「地霊」を破壊してゆくさまを、生活が向上する一方で、「日本の風景」が個性のない景色に変貌する寸前の姿を、あなたは見るだろう。それは、あなたに強い感傷の気持ちと深い思索をもたらすだろうと思う。(2018/04/23)

●宮崎廷(みやざき・ただし)著『昭和の東京―街角の記憶』。フォト・パブリッシング出版、メディアパル発売、2018年4月刊。2400円+税
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【写真はクリックすると拡大します】
2018.04.19 『食いつめものブルース』――上海の貧乏物語を読む
――八ヶ岳山麓から(255)――

阿部治平(もと高校教師)

むずかしいことや怒りたくなることをやさしく、深刻な問題をおもしろく書いた本である。舞台は上海、爆買いとも反日とも無縁な出稼ぎ中国人の生活記録。
副題は「3億人の中国農民工」(日経BP 2017)である。著者は山田泰司氏、1965年生れのノンフィクションライターである。

ひとくちで出稼ぎ農民といっても、農地を他人に託して大都会にまるごと移住するのと、主な生活基盤を大都会においたとしても農繁期には帰郷して農作業をやるのと、生活の基盤が村にあり農閑期だけ出稼ぎするのとでは、だいぶ生活状況が異なる。
山田氏はおもな登場人物を10人挙げて、それぞれの農民工になった経緯と現状を紹介している。たとえばこんなふうに。
ゼンカイさんは、2015年路上生活者に転落した。その年春節を田舎で過ごしてから廃品回収の仕事に復帰してみると、ペットボトル、古紙、鉄くず、板切れなどの価格が過去一年の3分の1に暴落しており、ついに5月、月1700元(3万2000円)のワンルームアパートの家賃が払えなくなったたためだ。このとき奥さんは麦刈りのため、いなかへ帰っていた。
「ゼンカイさんは、河南省に帰れば自宅と畑がある。ただ、河南にいても仕事がなく家族を食わせることができない。畑では年の半年で小麦、残りの半年でトウモロコシを作るが、収入は両方で年五千元(九万七千円)にしかならない。だからゼンカイさんは、二十年前に結婚してからずっと、出稼ぎをして妻と子供二人の家族を支えてきた。」

私(阿部)が中国ではじめて出稼ぎ農民に行きあったのは、人民公社が解散したばかりの1980年代はじめ、甘粛省蘭州市の駅でのことだった。布団を担いだ数十人の集団が同じコースをこまねずみのようにぐるぐる回っていた。知人が「見ろ。先頭の奴がどこへ行ったらいいかわからないんだ。まさしく『盲流』だ」といった。
都会人は、「仕事があるかないかわからないまま、田舎から都会へ流れてきた連中」という意味で、彼らを「盲流」と呼んでいたのである。
出稼ぎの初期は道路工事と建築が主だった。ビル建築の足場はいまでこそ鉄骨になったが、1980年代90年代はまだ竹竿を組み合わせたものだった。足場からの転落事故はしょっちゅうあった。死亡事故の補償金は、私の知っている限りでは都市住民の1ヶ月の賃金ほどだった。
やがて中国が世界の工場といわれるようになったとき、これらの人々の呼び方は「盲流」から「民工潮」となり、「農民工」とか「外来工」になった。呼び方が変わっても、バカにされていることに変りはない。農民工は、工場や建築現場だけではなく、廃品回収、家政婦、レストランのウェイトレスなどを含めて、きつい・危険・汚いという3K仕事の、それも最底辺のところを受け持ち、最低の収入に甘んじ、ゼンカイさんのようにいつ収入を失うかわからない生活をしている。

山田氏は、「2015年の秋あたりから、上海では農民工が多く住む郊外の家賃が高騰し始めた。賃金は中国経済の減速を背景に、よくて頭打ち、スマートフォンやパソコン市場の世界的な飽和から、これらをつくる中国の工場では残業が極端に減り、ライン工の給料は物価上昇分を差し引くと、ピーク時だった2014年あたりに比べ、実質半分程度に落ち込んだケースも少なくない」と書く。
耐えられなくなった彼らが故郷に帰る現象が2015年末から翌年の年頭にかけて続出した。ところが故郷で職にありつけないものが、また上海に逆戻りする。
山田氏が知り合いのもとからの上海人に、「上海もこの頃は暮らし向きが大変になってきた……」と話をむけると、「え?大変って、何がですか?誰が大変なの?」と、ほんとうに意外なことを聞いた、というようにきょとんとした顔でそう問い返された。どこかよその国で起きていることを聞くような反応を示して終りだったという。

「前の週まで数十軒の食堂が並び、B級グルメを求める人でごった返していたレストラン街が、翌週訪れてみると、店舗がブルドーザーで根こそぎ地面から引きはがされ、跡形もなくなるという事態が起きた」
取壊しの理由は違法建築だというが、上海通のタクシー運転手は、「違法建築の一掃が目的?そんなことを信じているのか。おめでたいな」といい、ほんとうの理由は農民工を上海から追い出すためさと語ったという。
これの大規模なものが去年11月北京であった。違法建築アパートから出火した大火災の現場周辺が市当局によって取り壊され、住民が強制退去させられたのである。
田畑光永氏はこの事件を本ブログでこう書いた。
「塀の内側全部の建物が取り壊され、瓦礫がそのまま積み上げられていた……少なくとも1キロ四方くらいはある広大なものであった。……報道によれば、先月18日の火事の後、北京市のトップ、蔡奇・共産党北京市委書記から違法建築に対する『大調査、大整頓、大整理』という号令が発せられ、住民は数日のうちに立ち退くよう命じられたという」(新・管見中国34)。
中国の為政者にとって農民工という存在が邪魔になって来たのだ。

さて農民工のふるさとだが、1990年代半ば、著者山田氏が友人の村を訪ねたとき、その兄の家で出た食事は、朝食がトウモロコシのお粥、昼はトウモロコシの汁うどん、夕食もトウモロコシの焼うどん、副食はダイコンのからいつけものだけ。肉は全然出なかった。
著者は「それでも、この食事がとれるのなら、餓死するようなことはない」「農民工のたくましさと寛容さを支えるすさまじいばかりの源の一端を見たような気がした」という。
この食生活は敗戦後4、5年までの私の村に似ている。そして私が知るかぎり、日中戦争さなかの山東省の農民の食生活と同じである。餓死はしないとしてもコメや大豆の良質の蛋白質が不足している。この食生活が例外と断言できないところが中国の泣きどころだ。どこの途上国だって戦争といった大災害がないかぎり、10年20年経てば以前よりは多少はましになっている。

著者によると、2016年末で出稼ぎ農民は2億8171万人である。中国人口の5人に1人が農民工だという(国家統計局公表)。労働人口にしたら3人に1人程度になるだろう。
党中央から末端までの官僚・研究者・都市住民のなかに、農民工を中国経済の原始的蓄積を担い、20年にわたる高度成長を支えた、なくてはならぬ存在だったと考えるものがはたしているだろうか。
中国の農民は生きるか死ぬかのところへ追い込まれても反抗しない。農民工もおなじこと。どんな理不尽のしうちにも耐えられるだけ耐える。これがこのルポルタージュを通して著者が語りたかったことではなかろうか。

2018.03.03  これこそジャーナリスト必読の書
          鎌田慧著『声なき人々の戦後史』(上・下)を読む
      
岩垂 弘 (ジャーナリスト)

 まさにジャーナリスト、ジャーナリストを目指す人にとって「必読の書」と言っていいだろう。
 ;鎌田慧氏がルポライターの第一人者であること、その代表作が、愛知県豊田市にあるトヨタ自動車工場で期間工として6カ月間働いた体験をつづった『自動車絶望工場』であることは知っていた。が、その仕事の全容については、よく知らなかった。だから、本書を手にして、氏がこれまで発表してきたルポルタージュの全容を知り、大きな衝撃を受けた。
 
 まず衝撃を受けたのは、ルポルタージュの対象が、戦後日本のあらゆる事象・社会運動・事件・事故に及んでいたことである。それも、戦後史を画す大きなものばかりである。例えば、高度経済成長、巨大開発、原発、公害、資本と労働の対決、底辺労働、出稼ぎ、教育、いじめ、人権侵害、冤罪、基地などの諸問題だ。
 具体的には、むつ小川原開発、核燃再処理工場、柏崎刈羽原発、三井三池争議、国鉄の分割・民営化、JR福知山脱線事故、日航航空機事故、成田空港反対闘争、沖縄の米軍基地反対闘争、「狭山」「財田川」などの冤罪事件等々の取材過程がこと細かに明らかにされている。
 言うなれば、戦後日本の転換点となったいくたの重大な局面が、詳細かつリアルに記録されていて、まるで、戦後史をたどるような緊張感を覚えたほどだ。まさに、本書こそ紛れもなく「日本の戦後史」である。
 
 次に衝撃を受けたのは、氏のルポが、すべて現場からのレポートであったことである。身一つでよくもまあ北海道から沖縄まで全国至るところへ飛んで行ったものだと驚嘆してしまった。取材を思い立ったらすかさず現場へ向かう。こうした決断の速さ、腰の軽さ、タフな行動力にただただ敬服するほかなかった。最近は、あらゆる情報がネットで手軽に得られるとあって、現場を踏まないで原稿を書くケースも少なくない。本書は、「現場第一主義」がジャーナリストにとって何よりも肝要であることを教えてくれる。
 
 衝撃を受けたことの3つ目。これこそ私が最も印象に残った点だが、鎌田氏のルポが、すべて名もなき民衆の立場からの告発であるということである。氏は、巨大開発や空港建設で農地を奪われた農民、大企業や公営企業の合理化でクビを切られた労働者、過労自殺に追い込まれた労働者の遺族、炭鉱事故で亡くなった労働者の遺族、公害の被害者らの声にじっと耳を傾け、その悲痛な訴えを作品に込めてきた。氏が訪ね歩いた全国各地の「無名の人々」の数の多さに私は圧倒された。
 
 鎌田氏は本書の「プロローグ」でこう書いている。
 「戦後、日本は『経済大国』になったと言われる。しかしそれは、立場の弱い人びとにリスクを押しつけることで達成されたことを忘れるわけにはいかない。原発事故によって、都会で消費される電力を過疎地が支える構図が、はっきりと認識されるようになった。同じ構造は、エネルギー供給に限らず、私が取材を続けてきた労働現場にもあった。非人間的で危険な仕事はいつも、地方からの出稼ぎなど、立場の弱い人たちが担わされてきた。利益追求の犠牲となって、命を落とした人は数知れない」
 「成長の時代が終わっても、リスクを背負わされた人の割合はむしろ増えている。政府も企業もいまだに効率性だけを追い求めているからである」
 「私は戦後社会の現実を、犠牲を押しつけられる側から見続け、そのような犠牲のない世の中にしたい想いでルポルタージュを書き続けてきた」
 本書は、こうした氏の想いを伝える、いわば氏の半生史と言える。

 一貫して名もなき民衆の立場からものごとを見つめ、名もなき民衆の立場からルポを書くという鎌田氏の行き方はどうして培われたのだろうか。私はそんな問題意識を抱えながら本書を読み進んだが、それへの回答に出合った気がした。それは、氏の若いころの体験に根差しているようだ。
 
 氏は1938年、青森県弘前市で生まれた。父は鍼師。県立弘前高校を出て、1957年、東京都内の町工場(機械部品加工メーカー)に就職する。まもなくここを辞め、やはり都内の、謄写版印刷技術を教える学校付属の印刷部門に転職する。ところが、待遇が悪かったため従業員が労組を結成。これに対し、会社側は「全員解雇」を通告、労働争議に。結局、組合側が“勝利”するのだが、鎌田氏は「争議を通じて私は、労働者はいつでも簡単にクビにされる。自分たちを守るには団結と連帯が必要だ、ということを知る」。
 これを機に、氏は労働運動の組織者にあこがれる。「だが、どもって演説ができない。やはり自分は文章で社会問題にかかわっていくしかない、そのためにも大学に行って勉強し直そう」と思う。
 かくして、1960年、早稲田大学文学部露文科へ入学。ここを卒業すると、「鉄鋼新聞」記者、次いで月刊総合雑誌「新評」編集部員となり、やがて、フリーのライターとして独り立ちする。
 昨年10月、本書の出版記念会が開かれたが、そこでの鎌田氏の挨拶の一節が今なお、私の心のつかんで離さない。それは「私は、体制のイヌになりたくない」というものだった。

 本書は、朝日新聞青森版に2014年3月から2016年3月まで掲載された鎌田氏への聞き書き連載に加筆したもので、連載の聞き手は朝日新聞記者の出河雅彦氏。これだけのことを鎌田氏から引き出した出河氏の手腕に敬服する。
 もの書きを目指す人にぜひ一読を勧めたい。

  ■鎌田慧著『声なき人々の戦後史』(上・下) 聞き手・出河雅彦
藤原書店刊 上下各巻 定価2800円+税


2018.02.09  『レーニン伝』を読む
          ――八ヶ岳山麓から(249)――

阿部治平 (もと高校教師)

ロシア革命の指導者レーニンの伝記は数多くある。
最近刊行された一冊、ヴィクター・セベスチェン著(三浦元博・横山司訳)『レーニン 権力と愛』(白水社 2017)は、そのあまたある「レーニン伝」のなかでは人情本版とも呼ぶべきものである。

この本は帯の惹句が好い。上卷おもて表紙のそれには「同志より、妻と愛人に信を置いた革命家の『素顔』」とある。この巻に描かれるのは、生い立ち、革命運動への参加、国外からの革命指導、そしてその間の妻や愛人との人間劇である。
下巻の帯の惹句は「『善を望みながら、悪を生み出した』革命家の悲劇」となっている。2月革命を受けてのロシアへの帰還、10月臨時政府の打倒と軍事クーデタ―による権力奪取、脳梗塞の発病を経て1924年に死去するまでが描かれる。
激しい革命活動のなか、(邦訳にして)40巻余の著作をどうやって残せたか、『唯物論と経験批判論』がなぜあのようにしつこいのか、『国家と革命』がかなりずさんな国家論なのはなぜか、といった類のことは書かれてはいない。

レーニンはロシア人としてはいかにも小柄だった(160cm!)。顔もどことなくアジア人を思わせる。本書の詳しい家系記載によれば、彼は19世紀ロシアの典型的なブルジョアの出ではあるが、生粋のロシア人ではなかったことがわかる。
スターリンは自分がグルジア(ジョージア)人でありながら、レーニンを「生粋のロシア人の天才」に仕立てたくて、レーニンの家系研究を禁止した。その方が後継者としては都合がよかったからだ。だが時代が下ってソ連崩壊の30年前には、蔵原惟人氏が、レーニンの祖母のひとりがカルムィーク(モンゴル)人だったことを書いている(『若きレーニン』新日本出版社 1969)。

レーニンの妻ナジェージダ・クルプスカヤについて、著者は上巻「序文」の中で、「通常描かれるような、働き者の主婦兼秘書という枠には収まらない姿が浮かび上がってくる。彼女がいなければ、レーニンは現実に成し遂げたような仕事を決して達成できなかっただろう」と述べている。レーニンは気の短い人で、疲れるとよく頭痛を起し、かんしゃくを爆発させた。クルプスカヤはそれをよく承知していて、散歩や山歩きに連れ出したという。
レーニンには愛人がいた。これも「序文」に、「彼は10年間にわたって、イネッサ・アルマンドという名前の、肉感的で、知性がある美貌の女性と断続的に愛人関係を続けた。彼らの三角関係は、レーニンとナージャ(妻)の感情面での生活の中心を圧倒的に占めていたので、本書のほぼ半分には、このことが織り込まれている。……レーニンがたった一度、人前で泣き崩れたのは、アルマンドの葬儀の時、自分の死の三年前のことだった」とある。
レーニン全集に『イネッサ・アルマンドへの手紙』があるが、レーニンの愛人が彼女だということを私は長い間知らなかった。

本書では、レーニンは理論を重んじたが、実際に臨んでは理論より便宜的方法があればそれを採用したという。これはそのとおりで、彼は社会主義原理に反して市場経済の導入をおこない、革命政権を経済破綻から救った(新経済政策NEP)。いま日本には鄧小平の改革開放をNEPとの連想で持上げる人がいるが、これは見当違いだ。
では、レーニンが残した悪とはなにか。
いまでは誰でも認めるように、「彼が作り出した悪の最たるものは、スターリンのような人物を、自分が亡きあとのロシアを指導する地位に残してしまったことである」
レーニンはかちえた権力を守るために、敵と見なした勢力を数多く殺し、労農大衆にも冷酷な手段を遠慮なく用いた。スターリンはそれを間違いなく継承し、何倍にも拡大深化させた。
20代の私にとってレーニンは神様だった。しかも「スターリン・カンタータ」こそ歌わなかったが、社会主義経済論としてはスターリンのものしか知らなかった。
だが、もし神様がソ連を指導しつづけていたら、「悪」を生み出さなかっただろうか。社会主義生産様式は(といえるか疑わしいが)、強力な官僚群とその指導者を必要とした。しかもロシア的専制主義の伝統がそれを促した。中国で毛沢東が「皇帝」になったのも似た理由である。ならばスターリンほどではなかったとしても、レーニンもまた冷酷な独裁者にならざるを得なかったのではないか。

革命から75年後、東欧・ソ連は内部から崩壊した。レーニンの社会主義の実験は失敗だった。生産手段の社会化や計画経済は幻想で、共産党官僚の独裁だけが現実だった。これでは人々は幸福になれないということははっきりした。
では、レーニンの革命は世界史上どんな意味をもつのか。私にはこの疑問が解けない。答えを求めて本書を読んだが、わからなかった。

本書の著者ヴィクター・セベスチェンはハンガリー人だが、東欧問題専門の定評あるイギリスのジャーナリストである。訳者の三浦元博・横山司両氏は元共同通信記者である。読みやすい日本文と「訳者あとがき」によって、その実力のほどがわかる。