2024.04.17  世界のノンフィクション秀作を読む(64)
        小林司(精神科医・作家)の『ザメンホフ』(原書房:刊)――エスペラント(世界共通語)を創ったユダヤ人医師の物語(下)

横田 喬 (作家)

 ◇伸びゆく言葉 
 度々の試行錯誤により、エスペランティストたちは権威に頼ることの誤り、団結の必要性などを学ぶ。事態打開には、しっかりした組織が要ると判り、「世界エスペラント協会」が1908年に結成される。提唱者は弱冠一九歳のスイス人の青年H・ホドラーだった。
 彼はスイスの有名な画家だった父親の遺産をこの協会の活動につぎ込み、立派な仕事を残した。この協会は現在でもオランダのロッテルダムに現存。ユネスコと協力し、毎年各地回り持ちの「世界大会」を主宰し続け、何回もノーベル(平和)賞候補に挙がっている。
 1910年、米国ワシントンで開かれた第六回世界エスペラント大会で、ザメンホフはエスペラントの将来について、こう述べている。「(エスぺラント公布という)目的を果たすには、私たち一人一人の働きによるか、あるいは政府の命令によるか。恐らく、私たちの事業は前者の方でしょう」。彼は世俗的な権威に頼ろうとする愚を戒めた。

 ザメンホフはエスペラントで書いた膨大な辞書も分厚い文法書も残さなかったが、沢山の文学の翻訳を残した。言葉のしなやかさは、文学作品を通じて初めて伸ばすことができる、と信じていたからだった。彼がエスペラントに訳した文学作品は大作だけでも十一あり、「ユダヤ人問題」を描いたものは二つ。一つはハイネの、もう一つはアレイヘムの作品。
 ハインリヒ・ハイネ(1797~1856)は日本ではドイツの「恋愛詩人」としてのみ知られているが、当時は革新思想の持主として有名だった。彼もまたドイツ生まれのユダヤ人であり、そのために死ぬまでずっと差別と偏見に苦しめられた。
 ハイネは小説『バハラッハのラビ』に何を描いたのか。ライン河西岸沿いの小村バハラッハに住むユダヤ教のラビ(聖職者)がふとしたことから虐殺の危険が身に迫っていることを察知。妻の手をとり、真夜中に命からがら舟で脱出するという物語だ。
 この作品に出て来る「パスコの夜の子殺しの疑い」は小説上の絵空事ではなく、後にロシアのキエフで起きた「ベイリス事件」として現実の出来事となる。無実の罪を着せられて処刑されたユダヤ人ベイリスをめぐり、同胞のレーニンやゴーリキたちが弁護に立ち上がったことは有名な事実だ。ハイネの小説は実は未完の作だったが、ザメンホフは訳した。

 ザメンホフは同じユダヤ人であるハイネに親近感を抱き、彼の説く革命精神とユダヤ人解放論に共鳴していた。その革命の具体的方策として国際語と国際的宗教を考えたのはザメンホフ自身である。彼はしばしば、「私がもしユダヤ人でなかったら、世界の民衆を一つにし、世界に平和をなどとは考えなかったでしょう」と述べ、これは私の使命とも言った。ザメンホフはハイネの詩を七作もエスペラントの入門書に載せている。また、ザメンホフが翻訳した文学書の大多数は、ハイネが推薦していた作家による作品だった。
 「自分はユダヤ人だ」という事を自覚していたザメンホフは、学生時代にシオニズム運動に熱中した。当時、各地から来たユダヤ人同士が、居住していた国の国語しか話せないために、お互いに意思の疎通が出来ないのを見た。国際語を先ず「ユダヤ人問題」(反ユダヤ人運動)の解決に宛てたいと考えたのは無理もなかった。が、彼は1905年の第一回世界エスペラント大会での見聞により、考えが大きく変わる。
 世界各国から来たエスぺランティストが和気藹々と話し合う姿を見て、「人類を一つにまとめることは可能だ」と確信できた。それによって、「ユダヤ人解放から、全人類の開放へ」と、ザメンホフは大きな思想的転換を遂げたのだった。

 ◇人間を繋ぐもの 
 エスペラントが少しずつ広まってくるにつれ、それは他の外国語と違い、人々を兄弟のようにしてしまう不思議な力を持っていることが感じられた。ザメンホフは、この力をエスペラントの「内在思想」と名付けた。ジュネーブでの1906年の第二回大会演説には、最も思想的な内容が盛り込まれ、民族差別に対する激しい怒りが込められていた。
 翌年、ケンブリッジで行われた第三回大会では「内在思想(民族間の友愛と正義)が含まれている主体はエスペラント普及運動である」として、こう述べている。「エスペラントのために働いている多くの人々を一つの共通の思想が結び付けており、その思想が彼らを励ましている。それは単なる言語としてのエスペラントを超えるものとしての内在思想だ」。
 彼の演説をよく読むと、「内在思想」とは彼がエスペラントを作った時の動機であり、これを広めようとする間ずっと抱き続けていた「民族間の兄弟愛と正義」という理想であることが判る。これはポグロムという過酷な体験から滲み出てきた理想に他ならなかった。

 ユダヤ人は第二次大戦後にイスラエル国を建てるまで、二千年にも亘って祖国と言うものを持たない流浪の民だった。彼らはユダヤ教とユダヤ文化を守ることによって「ユダヤ」という心の中にしかない国を生き長らえさせてきた。ゲットーに集まって住んだこともこの傾向を強めたに違いない。こうして、他民族もユダヤ人を特別視して眺めてきた。
 ユダヤ民族にとってのユダヤ教は、民族の生存をかけた心の糧ゆえ疎かにはできない。だが、特殊なユダヤ教にしがみついていたからこそ、他民族から迫害されるようになったのもまた事実。この迫害と差別とが、ザメンホフを「一つの人類」という夢に向かわせた。
 彼は1905年、知己に宛てた手紙の中でこう記している。
 ――人類が一つになるという思想は私の一生の目標であり、本質でもあります。私がエスペラントに携わらなくてもよくなったら、長い間準備してきた一つの計画(ヒレル主義:律法の内面性を重んじる思想を指す)に着手するつもり。この計画は、人々の心の中に精神的な架け橋を造ること。それによって、全ての民族は例え宗教が異なっていても兄弟のように仲良く一つにまとまることができます。それを具体化したのがヒレル主義なのです。
 同じ頃、別の知人宛てにこう書いている。「ヒレル主義の目的は、中立の人間的な大衆を創り出すこと。私は人類を一つにするという思想のための闘争者であり、不幸なヘブライ人を熱愛する者でした。これまでのエスペラントに関する全ての仕事は、私の生涯を捧げ尽くしたヒレル主義という考えの一部にしか過ぎません」。その手紙を記した直後の十月半ば、ロシアで大ポグロムが起きており、十日間で数万人のユダヤ人が死傷したと言われている。ザメンホフの命も風前の灯だった。

 「エスペラントによる人類改革には限界があり、人類を本当に一つにするには、宗教改革がどうしても必要なのだ」と、彼は確信していた。初めはユダヤ民族だけを救うことに夢中だった視線が、人類全体を救うことに広がった。現代のパレスチナやボスニア、アイルランド、チェチェンなどの紛争を眺めると、彼がそう考えたことも理解できる。
 1909年、ザメンホフは『雨』という詩を書いた。雨は差別や戦争に泣く群衆の涙の象徴ででもあろうか。それが当たっているとすれば、苦しんでいる大衆の中から湧き上がってくる革命の声を早くも、ザメンホフは聞き取っていたようだ。
 1914年、第一次世界大戦が始まった後、ザメンホフはロンドンのエスペラント雑誌に秘かに原稿を送付~掲載してもらう。彼は当時は未だ異様に映った「ヨーロッパ連合」の案をこう奨めていた。「同じ民族内で各家族が憎み合うことが不自然なのと同じく、人類の各民族間の憎しみは不自然なこと。恒久平和をかちとるためには『一民族が他民族を支配する』を、無くしてしまわねばならぬ」。この呼びかけを当時の人々は嘲笑ったが、今日では欧州共同体(EU)ができ、国際連合が活動する事態が現実になっている。
 世界大戦が始まると、三十年にわたってコツコツ積み上げて来たエスペラント運動は一瞬にして崩壊してしまった。病気がちのザメンホフが大戦中の三年を何とか生き続けることができたのは、賢妻クララのお陰だった。1916年4月14日夕、主治医の往診後に急で安らかな臨終を迎えている。享年57歳。文学者ロマン・ロランは追悼の辞をこう述べた。
 ――ザメンホフが偉かったのは、エスペラント故ではない。彼は新しく力強い社会の要求をはっきりと示したのだ。時代が人類を揺さぶっている深い熱望を彼は読み取ったのだ。

 ▽筆者の一言 ザメンホフに触れ、長らく忘れていた或る記憶が蘇った。六十年近くも昔の1960年代半ばの、私が朝日新聞記者だった当時の出来事だ。父親ほど年長の知人男性がエスペラントの文通相手に招待され、遠い北欧の地(確かフィンランドだったか?)へ旅立つ、という。日本経済は高度成長に入ったばかりで、海外渡航など未だままならない頃の話だ。件の男性は世渡りが余り上手でない書斎派タイプ。思いもかけぬシンデレラ・ストーリーに、相好を崩していた表情が忘れられない。記憶はそこまでで、あいにく後日談の方はプッツン。私もこの連載を終えたら、エスペラント習得にもっぱら励み、ロシアなりイスラエルの若い人とでも文通してみようかな・・・。
2024.04.16  世界のノンフィクション秀作を読む(63)
        小林司(精神科医・作家)の『ザメンホフ』(原書房:刊)――エスペラント(世界共通語)を創ったユダヤ人医師の物語(上)

横田 喬 (作家)

 ザメンホフ(1859~1917)は差別と偏見に苦しむユダヤ人としての苦闘の中から世界共通語としてのエスペラントを考え出した。筆者はエスペラントが生まれずにはいられなかった当時の社会情勢や、民族や国家とは何かという問題を詳述。ユダヤ人への民族愛から人類愛への思想へ、と変わっていったザメンホフの精神的発展の軌跡を的確入念に辿る。

 1881年3月13日午後、ロシア帝国の首都ペテルブルクで皇帝アレクサンドル二世の暗殺事件が起きる。エスペラントの創案者ラザル・ザメンホフは当時二二歳、故郷のポーランドを離れ、ロシアのモスクワ大学医学部に留学していた。1917年、すなわちソヴィエト革命が起きた年に亡くなるまで、彼の一生はロシアにおける革命のどよめきの中にあった。

 この暗殺事件が起きる一年半ほど前の1879年秋からユダヤ人留学生ザメンホフはモスクワで医学を学んでいた。生理学や内科学の有名教授たちが人気を集めていた医学部の教室には、色々な人種の若者たちが一杯ひしめいていた。それを見て、ザメンホフは人種や言葉の違いについて、それまでより一層深く考えるようになった。
 同級生の中には、後にロシアの作家になり、『かもめ』や『桜の園』などの戯曲を書いたチェーホフがいた。同じく苦学生だったチェーホフは生活に追われ、収入がいいユーモア雑誌へ寄稿をしていた。彼は後の90年春、三か月をかけてサハリンに旅し、流刑囚についてルポする。そのヒューマニズムは、ザメンホフに対して大きな影響を与えた。
 ユダヤ人は蔑まれていて、アルバイトの家庭教師にも雇ってもらえず、仕送りの少ないザメンホフは学友ともあまり交らず、自室に籠って勉強を続けるほかなかった。当時のロシアには、不安定な重苦しい空気が立ち込め、農業恐慌、不景気、政治的反動、革命運動の無力化が当時の情勢のあらまし。帝政による締め付けや弾圧が益々強まっていた。

 皇帝が暗殺されると、ロシア政府はこの襲撃にユダヤ人女性が加わっていたというデマを流した。これを利用してロシア人とユダヤ人とが互いに憎み合うように仕向け、皇帝政府への批判の目を逸らせようという企みだった。その結果、ロシア各地で「ポグロム(破壊)」が始まった。このロシア語の単語は、この時以来、「政府の扇動または黙認の下に行われる、ユダヤ人大虐殺の暴動」という意味に変わり、世界中の言語に広まった。
 それは、ロシアの南部からウクライナにかけて、ユダヤ人が沢山住んでいる地域に非常な勢いで流行し、1881年4月から翌年の半ば頃まで続いた。殆ど毎日のように、どこかの町で何の理由もないのに、暴動によってユダヤ人が一日に一万五千人も殺されたり、傷つけられたり、その財産を強奪されたりしていた。
 この残虐なポグロムを目の当たりにし、優しい心の持ち主だったザメンホフは愛国者に変わる。彼がモスクワに留学して二年目に、家庭の経済状況が悪化。学資送付が難しくなり、ポグロムの心配もあり81年夏に彼はポーランドのワルシャワ大学に転校しなければならなかった。そのワルシャワでも、その年のクリスマスの日にポグロムが勃発する。

 キリスト教徒たちがカトリック教会でミサを捧げている最中に、参拝者の懐中時計を掏り取ったスリが注意を逸らそうと「大火事だ!」と叫んだ。「大変だ!逃げろ!」という叫びで、群衆は大混乱。教会の戸口で二八人が死に、沢山の人々が傷ついた。教会の外にいた不良青年のグループが「ユダヤ人が犯人だ。襲おう!」と出任せをどなって扇動した。
 数千人の興奮した群衆は、ユダヤ人が集まって住んでいた地区に向かって津波のように襲いかかる。一五〇〇戸ものユダヤ人の店や家屋をめちゃめちゃに破壊し、商品を掠奪した。投石や残虐な暴行で一二人のユダヤ人が殺され、二四人に瀕死の大怪我を負わせ、多くのユダヤ人女性にも暴行を加えた。
 
 ザメンホフは家族を地下室へ素早く逃がし、大群衆の蛮行を窓越しにしばらく見守った。太い棍棒や斧などが振り回され、子供までが被害に遭っている。(ああ、僕は無力だ。残念だ!)悔しさで涙が溢れてくる。真っ暗で凍てつくような地下室の石炭置き場で、彼の一家は息を殺して丸二日半も潜んでいなければならなかった。長い長い恐怖の時間だった。ザメンホフの母親は未だ二歳の赤ん坊を抱き、怖がる幼い弟たちを一心になだめすかした。
 死と隣り合わせのクリスマスの数日は、彼の頭に終生忘れ得ぬ影を刻み込んだ。当時サンクト・ペテルブルクで、ユダヤ人向けに発行されていたロシア語の高級週刊誌『夜明け』1881年第51号は、この事件を詳しく報道した。ザメンホフは当時ワルシャワ通信員だったから、これは彼のレポートだろう。
 「ユダヤ人が教会で騒ぎを起こした」という根拠のないデマに基づき、群衆が罪もないユダヤ人を襲ったことに対する激しい抗議が、その報道の文面に読み取れる。教会の騒動は偶発的なもので不幸だったとしか言えないが、ユダヤ人に対する暴動は文明人のいとも野蛮な卑しめであった、と強調している。
 ザメンホフは医師になってからも、シオニズム(イスラエル文化の復興)運動に献身的な奉仕を重ねた。運動を介し彼はクララ(1863~1924)という娘と知り合い、1887年に結婚する。彼女の了解の下で、その持参金を全てエスペラントPRの活動資金に充てている。

 ◇世界に一つの言葉を 
 実はザメンホフは一九歳(ギムナジウム8年生)の折の1878年に、自分で創案した「エスペラント(世界語)」を殆ど完成していた。友人に話したところ、何人かが心を惹かれ、この新しい言葉を学びたいと言ってくれた。勉強してみると、余りにも覚え易いので皆驚いてしまった。年末、一同はワルシャワ市内のザメンホフ家で会合し、この言語の誕生を祝っている。その集まりでは、皆がこの言葉で話し、この言葉を讃える歌を合唱した。
 <民族の間の憎しみよ/倒れろ/倒れろ/もう時がきた!/人類全部は一つの家族に/一緒にならなければならぬ。>
 机の上には文法と辞書の他に、この新しい言葉に移し替えられた翻訳の文章が幾つか載っていた。だが、この仕事を世間に発表するには未だ若過ぎたので、彼は後五、六年待つことに決めた。仲間たちは半年後に卒業、散り散りになり、「世界語」学習から手を引く。
 ザメンホフは翌年にギムナジウムを卒業、モスクワ大学に進学する。この年八月のギムナジウム卒業時の成績表は、文科・理科十科目が全て「優」又は「特優」(ドイツ語・フランス語・ギリシャ語の三科目)。「非常に優秀で勤勉」という高い総合評価を受けている。

 時は移り87年夏、27歳のザメンホフはエスペラント図書の『第一書』を刊行する。小型の判型で40頁、表紙の裏に「この国際語の作者は私有権を永久に放棄する」「誰でもこのパンフを各国語に翻訳して良い」とあった。中身は「アルファベット」「文法一六カ条」「文例」「九一八単語の辞書」。「辞書」といっても、B5版一枚の紙の裏表にエスペラントとロシア語の単語が並べてあるだけの簡単な単語表で、巻末に折りたたんで貼り付けてあった。
 「まえがき」には、この国際語の思想が次のように紹介されている。「全世界が全く平等に持つことになる一つの共通の国際語を採用するのは、人類にとって計り知れない意味がある」「翻訳はこの中立で皆に通じる国際語に訳しさえすれば良く、国際的性格を持った作品ならば、最初からこの国際語で書くこともできよう。言語の障壁は倒れ、教育や思想、信条、望みなども共通なものとなり、各民族が一つの家族のように近づき合えるだろう」

 彼はまた、こう説く。
 ――言葉が違うことは、各民族の違いの根本を示しており、お互い同士の憎しみ合いを招いている。人間が出会った時には、言葉の違いが、何よりも先に目立つからだ。それで、お互いに理解し合えず、打ち解けない結果を招き、相手を異邦人だと感じてしまう。
 彼は続けて書いている。「国際語が直面していて解決しなければならない問題は次の三つだ。①」遊び半分でもマスターできるほど極度に易しいこと、②その構造のお陰で、国際交流に役立つ道具として使えるように作られていること、③世界が国際語問題に無関心ではいられなくする方法を見つけること。

 慣れてくると、ザメンホフの作った国際語は機械的だなどという感じは少しもせず、イタリア語のように美しく聞こえてくる。「英語よりも簡単で実用的であり、ドイツ語より正確に意味を伝えることができ、フランス語よりも滑らかだ」などと褒める語学者さえいた。
 『第一書』を出した翌88年、ザメンホフは新しいパンフ『エスペラント博士著・国際語 第二書』を出版する。その中で彼はこう記している。「もしも、どこか有力な学術団体でこの仕事を引き受けようと言ってくれる会があれば、手元にある材料を手渡し、私は喜んで舞台から永久に引き下がり、他の人たち同様に国際語の一人の友となりましょう」。他の国際語発明者たちが特許を取ったり、専有権を主張したり、使用権を請求したりしたのと比べると、何という慎ましさであろうか。
2024.04.08  世界のノンフィクション秀作を読む(62)
ガイア・ヴィンスの『気候崩壊後の人類大移動』(河出書房新社刊、小坂恵理:訳)――環境難民の世紀を生き延びる知恵(下)

横田 喬 (作家)

 ◇新しいコスモポリタン 
 今日はヨーロッパでもアジアでもアメリカでも、移民への敵意が露骨な時代を経験している。但し2022年には、ロシアとの戦争が始まり、ウクライナから数百万のウクライナ人が周辺国に避難せざるを得なかった。ヨーロッパの二〇カ国を対象とした調査では、移民を受け入れる規模と移民への好意的な態度の間には、次のような相関関係が成り立つ。
 「移民の割合がごく僅かな国は最も敵対的で、移民の存在が社会で大きな国は最も寛容である」。
 
 今世紀は何もかも変化する。これまで地元の町が均質で、それに強い一体感を持ってきた人たちには、「変化」は気がかりだ。アジア系、アフリカ系、ラテン系の難民がどっと押し寄せ、小さな町が都会になったら、大切な文化が失われる恐れがある。大きな集団の移動は大きな変化を伴う。早めに不安を解消し、不測の事態が起こるのを防がねばならない。
 アメリカがソーシャル・サービスに費やすコストは予算全体の一五%に過ぎず、EU加盟国の平均の半分程度。どの国でもこの支出は増やすべきだが、特にアメリカでは必要だ。社会の変化は困難を伴うが、多様性がイノベーションを促し、建設的な結果をもたらす。

 一四五カ国を対象に三〇年分を調べた大掛かりな研究によれば、移民の流入はテロリズムを増加させるより、むしろ減少させる傾向が強い。研究に関わった科学者たちによれば、移民によって経済成長が促されることが大きな理由だ。
 大移動の大半を占めるのは、気候変動の影響を受けた貧困国から富裕国への移民になるだろう。富裕国は、気候変動の恩恵を受けて豊かになる。ここで何らかの社会的公正を実現すれば、状況の改善が促され、受け入れ側も移民も新たな成長の恩恵を受けるだろう。
 先進国は、移住は安全を脅かすと決めつけるが、その発想は間違っている。今(2022年)も約二万人の子供らがアメリカで劣悪な環境の仮収容所に閉じ込められている。寒さに震え、お腹を空かせ、虱が体にたかり、瘡蓋だらけだ。EUはウクライナ難民こそ受け入れたが、他の場所からの亡命希望者への対応は徐々に悪化。北アフリカから海を渡って来る難民の捜索救援活動を犯罪行為と見做すまでになった。これからは移民に関する考え方を改めるべきだ。来る者を拒まず、強力で活気のある新規の伝統を築き上げねばならない。

 ◇安息の地、地球
 二一世紀には移住を通じて世界が再編される。極北の地に広大な新しい都市を建設する一方、熱帯の広大な地域を放棄して、新しい形の農業への依存が始まる。地理からは政治地図を取り除き、生態系に基づいた新しい計画を立てるべきだ。原則として、赤道、海岸線、小さな島、乾燥した砂漠などからは脱出しなければならない。
 カナダとアメリカにまたがる五大湖など内陸の湖沼系には大量の移民が押し寄せ、またアラスカが最も居住に適した地域になりそうだ。ロシアは温暖化の進行から最大の利益を得る可能性を秘めている。永久凍土の下の土壌には、世界最大級の炭素が眠っている。永久凍土が後退し栄養分に富んだ土壌が姿を現せば、耕作地としての利用が期待できる。
 何億人もの移民が安全な場所に落ち着くためには、国際的な合意の下に、現在の国家が所有する土地を強制的に購入。新しい都市やそこで生まれる産業を支えるための保障や出資を準備すべきだ。高緯度に位置する比較的安全な富裕国は「世話役」を引き受け、被害を受け易い貧困国の面倒を見なければならない。

 国民国家は地域毎に統合され、地政学的観点から新たな統一体が誕生するかも知れない。地球全体を自由に移動可能となれば、国の経済は活性化され、何十憶人もの命が救われて生活が向上するだろう。上手く運べば、世界のGDPは何十兆ドルも増加する可能性がある。
 国家を土台とする地政学的システムには、代りとなるシステムも存在する。小さくても強力な都市国家がその一つで、シンガポールがこれに該当し、ドバイ、マカオ、香港も含まれる。今後数十年のうちには、北欧諸国、カナダなど北極圏諸国が同様の連合を結成する可能性もある。国境を接する国は関係を強化するのが理にかなっている。
 環境の変化や貧困や世界的な不平等に対処して生き残るために、人類の大移動は不可欠なのだ。移住を促して支援することには、政策で優先的に取り組む必要がある。それを最善の形で実現するには、移住を強制したり動機を与えたりするよりも、障害を取り除く方が効果的だ。EUでは、加盟国の間で実質的に国境が存在しないことに注目して欲しい。

 ◇解決策へ先ずは計画樹立を 
 今世紀、移住の目的地は都市になるだろう。世界の人口の約60%が集中する沿岸都市は、他の場所の四倍のペースで海面上昇が進んでいる。例えばベネチアは年に75回は一部が水没する。二〇世紀半ば以降12万以上の住民が離れ、まもなく完全な博物館になるだろう。
 が、都市には価値のあるものが色々具わっている。東京やバンコク、更にはダッカやラゴスでさえ、完全に放棄されることはない。インフラに多額の投資が行われ、都市を守るための建設工事が進められている。オランダのロッテルダムは既に2メートルも水面下に没しているが、対策として水に浮かぶ住宅の建設や巨大な防壁の増築を計画している。
 解決策は、計画を立てること。将来の移民のために安全な都市を準備し、リスクの高い地区を対象に移転戦略を立て、世界規模の移住を円滑に進める方法を考えるのだ。移住先のコミュニティが最高の形で生活基盤を築くためには、計画策定に何十年もかかるかも。
 ルイジアナ州では、海抜の低い地域の住民を四〇マイル先の海抜の高い場所に移住させるため、五千万ドル近くを費やしている。気候変動の影響で移住を迫られるコミュニティを支援するプログラムの一環で、連邦政府が初めて資金を提供している。

 都市にとって今世紀最大のリスクは異常気象だ。旱魃に見舞われた故郷を逃れて都市に移住しても、その都市で洪水のリスクが高ければ何の意味もない。降雨の極端な多少は今後もっと増えそうだから、全ての都市に備えが必要とされる。中国政府は二〇三〇年までに、全国の八〇%の都市に「水を吸収する」能力を持たせることを公約している。
 バングラデシュの建築家M・タバスムは、自分で組み立てる高床式の住宅を難民用に設計、受賞した。材料は竹だが、嵐にも洪水にも耐えられる。建物の屋上などを利用して作られた庭は、猛暑や異常気象の抜本的解決策になる。今や市庁舎の半分は屋上が庭園で覆われている。屋上庭園は雨水を吸収でき、豪雨による雨水の流出の減少につながる。
 屋根などの表面を白く塗っても温度は下がる。真っ白な屋根は日光の八〇%を反射し、夏の午後で温度が約三一度も低下、室内の温度は最大七度低くなる。屋根の温度が低いとエアコンの費用が四〇%も節約される。屋根に石灰塗料を塗れば、室内の温度は最大で五℃下げられる。この低コストのツールの冷却効果は絶大で、仮に世界中の屋根を白くすれば、二酸化炭素の相殺効果は二〇年間に三億台の車を撤去した場合に匹敵する。

 二一世紀の避難都市は、気候変動の緩和にも取り組まねばならない。ニューヨーク州の都市イサカは革新的な投資プログラムを通じ、一億ドルを調達。二〇三〇年までに全ての建物で脱炭素を達成すると同時に新たな雇用の創出を目指している。フランス政府は、これから建設される公共建築は全て、素材の半分以上に木材を使うよう義務付けた。
 これからは数億人もの移民がやってきて新しい住居を必要とする。公共交通が移動の中心となる密集した都市の建設に取り組むべきだ。長距離の移動や重い荷物の運搬にもっと強力な乗り物が必要なら、電気自動車の出番でカープールかレンタカーを利用。公共交通機関は電気を動力源とし、料金を低く設定し、頻繁に運行する必要がある。

 都市にとっての今世紀最大のリスクは異常気象。新しい開発計画はこのリスクに適切に対応しなければならない。旱魃に見舞われた故郷を逃れて都市に移住しても、その都市で洪水のリスクが高ければ何の意味もない。気候変動のリスクを交換しているだけだ。
 人類は社会や政治や経済を網の目状に張り巡らせた挙句、その中に閉じ込められてしまった。罠のような構造物を自分で作り出しておき、その中で身動きできなくなった。だから危険な状況に放り出され、何十万年も暮らしてきた場所から大移動しなければ生き残れないような、何ともバカげた立場に置かれたのである。

 ▽筆者の一言 ヒマラヤに人工氷河を造る人、雪を降らせるために山を白く塗る人、遺伝子組み換え作物を古代の農法と組み合わせて育てる人・・・を紹介。より良い未来のために、地球をどのように作り変えていくか、設計していくべきか、を著者は真剣に説く。本書執筆のため、彼女はイギリスのNature誌(ロンドンを拠点とする権威ある総合科学学術雑誌)の仕事を辞し、現場探索の旅へ出ている。気候崩壊・地球の近未来に対する筆者の危機感は、それほど強かった。人類は今、内輪もめをしている時ではない。プーチンやネタニヤフといった手合いも、せめてこの一書に目を通す位の見識は具えていてほしい。
2024.04.06  世界のノンフィクション秀作を読む(61)
ガイア・ヴィンスの『気候崩壊後の人類大移動』(河出書房新社刊、小坂恵理:訳)――環境難民の世紀を生き延びる知恵(上)

横田 喬 (作家)

 イギリスの著名な女性サイエンス・ライターの筆者は、近年の地球温暖化による顕著な環境変化に注目。今後30年で環境難民が10億人に及ぶという驚くべき予測を紹介する。彼女は前代未聞の危機の内実を詳らかにし、対処すべき共生プログラムを示してくれる。

 大変動が間近に迫り、それは地球環境に変化を引き起こすだろう。グローバル・サウス(アジアやアフリカ、中南米などの新興国・途上国)は激しい気候変動に見舞われ、広い地域が居住不可能になり、大勢の人が住み慣れた場所から追いやられるだろう。今後五〇年間で気温も湿度も上昇し続ければ、もはや地球の広大な地域が、およそ三五億の人類にとって住めない場所になる。熱帯や沿岸から脱出し、かつての耕作地を手放し、大勢の人たちが新たに生活の拠点を探さなければならない。

 今や三〇年前と比べ、世界各地で気温が五〇℃を超える日は二倍に増えた。五〇℃と言えば、人間にとって致命的な暑さで、建物や道路や発電所にも深刻な問題が引き起こされる。極地は氷が急速に溶け始め、シベリアの一部は既に三〇℃の暑さを数か月連続で経験。
 バングラデシュでは、海抜が低い上に地盤沈下が著しい沿岸地域を始め、国全体が居住不可能になる恐れがある。今後数十年間は、富裕国も気候変動の影響を逃れられない。
 2020年に凄まじい森林火災に襲われたオーストラリアは気温の上昇と旱魃による被害が深刻化するだろう。アメリカの一部も状況は同じで、マイアミやニューオーリンズなどの都市を何百万もの市民が脱出し、オレゴンやモンタナなど気温が低くて安全な州に逃れて来るだろう。そうなると、新しい住民に住む場所を提供できる都市を建設する必要がある。

 インドだけでも、十億近くの国民が危険に晒される。中国では五億人が国内での移住を迫られ、ラテンアメリカやアフリカでは何百万人もが大陸を横断して移動しなければならない。人々は住み慣れた場所からの脱出を始めるだろう。否、既に移動は始まっている。
 イギリスではウェールズの首都カーディフで二〇五〇年までには全体の三分の二が水没すると予測される。追い詰められた大勢の人々がいきなり脱出を始めるかも知れない。国連の国際移住機関の予測では、今後三〇年間だけでも一五億人の環境難民が発生。今世紀半ば以降は人数が急激に増えると考えられ、その数は紛争や戦争でのそれの十倍に及ぶ。
 今回の問題は、人間社会がこれまで直面した問題の中で最も複雑で、解決が難しい。豊かな世界で既得権益を享受する人々の行動によって問題解決は遠のく。温室効果ガスの排出量は相変わらず増え続け、気温は上昇し、氷の融解は進み、気候変動は悪化する一方だと科学者は予測する。数十年以内には、世界は紛争が多発して大混乱に陥るリスクもある。
多くの人命が失われ、ひょっとしたら私達の文明も失われるかも知れない。

 ◇世界を一変させる四つの問題と故郷からの離散 
 火事、猛暑、旱魃、洪水の四つは、今世紀に私たちの世界を一変させるだろう。二〇二〇年、オーストラリアは異常な乾燥と熱波による大規模な森林火災で全人口の八〇%以上が被災し、三四人が死亡。六〇〇〇棟の建物が崩壊し、煙による汚染で四〇〇人が早過ぎる死を迎えた。木の上で立ち往生したコアラは、炎に包まれて絶叫しながら命を落とした。
 
 この山火事は、世界の傾向を反映している。南北アメリカ・ヨーロッパ・アジアと、山火事はあちこちで深刻化している。森林は元々湿気が多いが、気候変動によって高温で乾燥した状況が発生したため、落雷で発火し易くなった。カリフォルニア州は二〇二〇年に過去最悪の山火事を経験し、約一六八万ヘクタールが焼き尽くされ、一〇万人が避難した。
 旱魃に見舞われたアマゾンでは二〇一九年、山火事で大量の煙が発生。数千キロ離れた沿岸都市サンパウロでも空が真っ黒に覆われた。ヨーロッパでは、山火事が発生した複数の国で住民が避難を迫られ、ギリシャやポルトガルなど南欧諸国は記録的に深刻な被害に遭った。もはや火事の脅威から安全な場所はなく、湿地帯でも猛威を揮う。

 火事と同類の猛暑はそう目立たないが、命取りになる。三〇年前と比べ、気温が五〇℃を超える日が二倍に増えた。猛暑に高い湿度が加わった時の「湿球温度」が三五℃を超えると「生存の閾値」を上回り、健康な人でも熱中症で六時間以内に命を落としかねない。二〇〇三年にヨーロッパが熱波に襲われた時は、湿球温度が二八℃で七万人が命を落とした。激しい熱波の発生件数は一〇年毎に増え、数十憶人がその影響を受けると考えられる。
 深刻なアーバン・ヒート(人工的な排熱などが原因の都市特有の熱)の発生件数は一九八〇年代の三倍に増え、世界人口の五分の一がその影響下にある。気温が一・五℃上昇すると、世界の四四カ所のメガシティの四〇%以上が危険な猛暑を毎年経験するようになる。
モデル試算によれば気温が四℃上昇すると、世界が猛烈な熱波に襲われる日は今日の三〇倍以上に増え、アフリカでは少なくとも百倍に増加する。

 気温がここまで上昇すれば、必然的に世界中で死者が増加する。熱波に関連した超過死亡は、アメリカで五〇〇%、コロンビアでは二〇〇〇%も増えると予測される。将来の猛烈な熱波から最大の危険に晒されるのは、ガンジス川とインダス川流域の人口密集地域。ここには世界人口の約五分の一が暮らしていて、インド北東部とバングラデシュでは湿球温度が生存の閾値を超える可能性がある。一方、中国では、最も人口が多い地域(華北平原と東海岸)で、殺人的な熱波と危険な湿球温度が予想される。
アラブ首長国連邦などの国は、食料の九〇%を輸入している。現在、世界の食料の半分は、肉体労働に頼る小規模農家によって生産されている。世界の温暖化が進めば、外で肉体労働に従事できない日が増え、生産性が低下して食料安全保障が脅かされる。

 温暖化が進むと、陸地への降水量は減少する。今は南アジアや南米を中心に、何億もの人々が山岳氷河に依存しながら暮らしている。この貴重な水源が消滅すれば、穀倉地帯が丸ごと失われるリスクが発生する。南アジアでは約一億三千万人が、生活に必要な水を上流からの雪解け水に大きく依存している。今後、水の供給が頭打ちになり、氷河が消滅すれば、供給量は一気に減少する。
 
 旱魃は、最も多くの人々に影響を及ぼす。つい二〇年前、ボリビア高地には農村が栄えていた。ここで生産された玉蜀黍、ジャガイモ、アボカド、フルーツは、首都ラバスの市場で販売された。が、二〇一〇年までに、気候変動が村全体を荒廃させた。長引く深刻な旱魃によって作物は枯れ、家畜は命を奪われ、遂には村が死に絶えた。私がここを訪れた時には、九人の高齢者が残っているだけで、掘っ立て小屋で生き長らえていた。風雨に晒された顔をした七五歳のR・メンデスは、コカの葉を噛みながら身の上話をしてくれた。
 ――雨季なのに、数日ごとに全部で二〇分しか雨が降らない。最初は牛が、次に驢馬が死んだ。山羊が一番頑丈だ。
 七人の子供たちは村を次々と離れ、残っていた一人も三年前、家族を連れて出て行った。彼らは町や都市に向かう。コロンビアから中米まで目指して移動を続けるが、独特のショールに包んだ所持品を肩に背負い、何週間も続く野宿で疲れ切っている。発展途上国での農村から都会への移住が南米大陸で最も多いのも、ちっとも意外ではない。自作農は、一度でも凶作に見舞われると、耐え難い空腹に苦しむ恐れがあり、今や米から小麦まで殆どの主要作物の生産量が減少しているのだ。

 植物が成長するためには水が必要だ。温暖化が進むと、水が土壌や葉っぱから蒸発するスピードが加速する。しかも雨は定期的にも大量にも降らなくなる。こうしてヒート・ストレスを受けた植物(そして動物)は、以前より沢山の水を必要とする。温暖化が進むにつれ、農業の継続は困難になり、多くの場所で不可能に。結果、関係者は移住を迫られる。
 植物の細胞や組織や酵素は約三九℃で破壊され、植物全体が死滅することも多い。気温が三〇℃を超える日を一日経験する毎に、玉蜀黍の収穫量は一%減少し、旱魃になると二%に近づく。つまり熱波が三週間続くと、収穫量の四分の一が減少する可能性がある。
 アメリカは玉蜀黍の収穫量の半分を失い、現在のコーンベルトの大半も影響を受ける。旱魃を計算に入れると、損失量は八〇%以上にまで跳ね上がる。これは単に国内の大惨事として片付けられない。アメリカを筆頭とする四カ国からの玉蜀黍の輸出は、世界全体の九〇%近くに達する。地球の気温上昇は、玉蜀黍の輸出減少、食料危機の脅威に繋がる。

 地球の気温上昇が一・五℃に抑えられたとしても、何億もの人々が影響を受ける。海面の上昇に晒される陸地に少なくとも五千万人が暮らしている国は多い。中国、インドネシア、日本、フィリピン、アメリカなどが含まれる。もし地球の温度が二℃上昇すれば、少なくとも一三六のメガシティが影響を受け、今世紀中には何億人もが移住を迫られるだろう。ある科学者のチームはこう記した。「今世紀後半、海面の上昇に適応するための時間は極めて限られる。青銅器時代の幕開け以来、人類はこれ程の規模の海面上昇は未経験だ」。
2024.04.01  世界のノンフィクション秀作を読む(60)
 
小笠原弘幸(九州大大学院准教授:イスラム文明史)の『ケマル・アタチュルク』(中公親書)――現代トルコ建国の父の横顔(下)

横田 喬 (作家)


 ◇国民闘争の聖戦士(下)
 第一次大戦に敗れたトルコに対し西隣のギリシャが1919年、一方的に侵攻。翌々年、トルコ軍はギリシア軍にイノニュで勝利。小競り合いだったが、ケマルは大勝利として喧伝した。国民主権を強調する「基本組織法」が議会で採択され、大国民議会議長たるケマルに権力が集中する結果を生む。同法はまた、この国を「トルコ国家」だと言及した。ケマルを支持する議員は議会の過半数を占め、閣僚にも彼の支持者はこの時期増えつつあった。
 2月には、ロシア革命に勝利した赤軍がジョージア(旧名グルジア)に進軍、首都トビリシを占領し、ソヴィエト政権が成立する。トルコ側は迅速に対応し、かつて帝政ロシアに奪われたアルダハンなど三都市を取り返す。モスクワ大使フアトは交渉の末、港湾都市バトゥムを譲る引き換えに金貨一千万枚、ライフル四万五千丁、機関銃三百丁、野砲百門を引き出す。アナトリアの国境は確定~承認され、友好和親条約が締結された。

 6月、ギリシア軍の増援部隊がアナトリアに上陸~総攻撃を開始。エスキシェヒル、そしてキュタヒアと拠点が次々と陥落。迎え撃ったトルコ軍が手痛い敗北を被ると、脱走兵が続出、難民が流れ込んだアンカラはパニックに陥り、議会はケマルを総司令官に任命する。全権を掌握できる総司令官は、近代のオスマン帝国では皇帝のみが就任できる地位。破格の任命で、ケマルに全権を集中し非常事態の乗り越えを図る乾坤一擲の作戦だった。
 ガリポリの戦い以降、ケマルは「戦場で幸運をもたらす魔力を持っている」と信じられていた。以来、彼が積み上げてきた実績が、危機打開への希望を皆に抱かせたのである。後に彼はシニカルに回想している。「任命によって、反対派は私の処断を望んだのだ」。
 ケマルは、進軍するギリシア軍を更に内陸へ引き込むことで補給に負担を与え、反攻のための時間を稼ぐ作戦を取る。同時に「国民徴発令」を発布。民衆から、武器を始め車輌、衣服、食糧の提供を求め、また戦争のため放棄された物資は全て利用できるとした。

 こうして舞台は整った。決戦の地は、アンカラから僅か西方五〇キロのサカリヤ川東岸。8月23日、決戦開始。ギリシア軍は十万、トルコ軍は九万と、兵数はほぼ互角。が、装備の面では圧倒的にギリシア側が優越し、トルコ軍は劣勢だった。戦いが佳境に入る9月2日、要地チャル山が奪われると、議会は激しくケマルを非難した。
 が、ギリシア軍の攻勢は、既に限界。まもなく撤退を始め、トルコ軍は10日に総攻撃を開始。13日、ギリシア軍はサカリヤ川西岸への渡河を完了、戦いは終わった。勝報を受け、議会はケマルに元帥の位と聖戦士(ガーズィ)の称号を与えることを決定。人々は以後、彼を「ガーズィ閣下」と崇め呼ぶようになる。

 サカリヤ川での勝利は、事態を大きく動かした。機会を伺っていたエンヴェルは出番が失われたと判断、中央アジアへ去り、トルコ民族の独立運動に参加し、翌年夏に戦死する。タラ―トはベルリンで21年3月に、ジェマルはトビリシで同年7月に、いずれもアルメニア人暗殺者に殺害されていた。統一進歩協会の指導者として一時代を築いた三人は、ほぼ同時に歴史の舞台から去ったことになる。(時代はケマルの独り舞台へと刻々移っていく)
 22年秋、ケマルはイズミルで元市長の娘ラティフェと出会う。娘は24歳、ウスキュダルのアメリカン女子大出身。フランスやイギリスに留学経験のある語学に堪能な才媛である。ケマルとラティフェは急速に親しくなる。ケマルは彼女を「副官」と呼んだりし、娘は求婚を承諾し、翌年1月に結婚。新婦は新しいトルコの象徴として、積極的に活動する。地方遊説に同行し、外国メディアの取材を受け、女性運動に協力した。

 長く続いたローザンヌ講和会議は23年7月、調印。アンタキアなど北アラブ地域放棄という犠牲は払ったが、国民誓約で定められた国土のほとんどを確保し、不平等条約も廃止されるという、トルコ側の主張の多くが認められる形となった。ローザンヌ条約はトルコにとって悪夢とトラウマだったセーヴル条約を塗り替えた、輝かしい勝利と喧伝される。
 同年9月、「トルコは共和国に、アンカラは首都になるだろう」というケマルの談話が報道される。遷都は死活問題と考えるイスタンブルの人々は激怒した。ケマルは議会に周到に根回しをし、議会に憲法の修正を提案。<共和制の採択―大統領が首相を任命―首相が議員の中から閣僚を任命―政府に強力な権限を与える>修正案は激論の末に採択される。

 大統領にはケマルが選出され、ケマルはイスメトを首相に任命(外相も兼任)。フェヴズィは参謀総長、キャーズムは国防相、フェトヒは議会の議長に任命され、こうして23年10月29日、新生トルコ共和国が建国された。
 共和制の成立と共に、カリフ制の去就に注目が集まる。現カリフたるアブデュルメジドは反ケマル派のシンボルとなり、共和制の性急な導入に疑義を呈する談話を発表する。イスタンブル入りしたカラベキルやラウフにアドナンらは相次いでカリフに謁見した。24年3月3日、議会はカリフ制の廃止を圧倒的多数で決定(反対は一人だけ)。アブデュルメジドは翌日早朝、僅かな供を連れて祖国を離れ、オスマン帝国は名実共に消滅した。

 ◇父なるトルコ人
 ケマルの権力掌握を決定づける契機となったのが、26年6月に起こったケマル暗殺未遂事件。犯行を企図した旧進歩主義者共和党員フルシトが逮捕され、アンカラの独立法廷は、カラベキルやフアトら建国の元勲を含む同党員を全て逮捕。ケマルの行動は迅速で、公判の結果、19名に死刑判決が下る。彼の元副官アリフ、元統一進歩協会のジャンブラトやジャヴィトらが含まれていた。カラベキルら元勲たちは無罪となり、ケマルは彼らを救ったのは自分だとアピール。有罪こそ免れたものの、彼らの政治生命は完全に断たれた。

 こうして、遂にケマルは絶対的権力を手に入れた。イスメトを首相、フェヴズィを参謀総長と、政軍のトップに据えた上で、新世代のケマルの信奉者たちが、ケマル体制を支えるようになる。この夏には選挙が行われ、候補者は全てケマルによって選ばれた。11月、新たに開かれた国会において、ケマルは反対者のいない議会を手に入れる。

 議会では、カリフ制の廃止に引き続き、イスラムに由来する幾つもの制度が廃止された。曰くイスラム学院の廃止―近代的な教育機関への一本化、イスラム法に基づく法制度の廃止―週休日を日曜とする西暦の採用、トルコ帽の着用禁止を規定する「帽子法」制定・・・。
このトルコ帽禁止は、人々に大きな衝撃をもたらした。かつて帝国近代化の象徴だったトルコ帽が旧習の象徴となり、人々の心性に新しい時代の到来を悟らす。
 トルコ国民の西洋化・近代化を、帽子法や文字改革(ラテン・アルファベットの採用)と並んで大きく象徴したのが、苗字の制定だ。この時までトルコの人々は姓を持っていなかった。ケマルは西洋諸国のように、全ての国民は姓を持つべきだと考え、34年に姓氏法を制定。議会から「アタチュルク」(父なるトルコ人)の姓を贈られた。

 ケマルの断固とした政策の背景には、トルコ国民は迷信や宗教的反動から脱却し、科学を受け入れ、「文明化」せねばならない、でないと国際社会で生き残れないという厳しい現状認識があった。ヴェール着用の制限など女性解放にも一定の進展が見られた。だが、私生活では思うに任せず、個性の強烈なラティフェと度々衝突し、25年夏に遂に離婚に至る。
 37年の年末から、ケマルの体調は急速に悪化する。かつてラティフェが懸念した生活習慣は一向に改まっていなかった。昼過ぎに起床し、日に15杯の珈琲を飲み、3箱の煙草を空にする。つまみ無しで度の強い地酒ラクを1リットル近く飲み、朝まで来客や側近たちと議論や歓談を続け、早朝床に就く。寿命を縮めるのも当然だったろう。翌年8月に医師団が手術を行ったが病状は回復せず、11月10日朝、息を引き取る。57歳の生涯だった。

 ▽筆者の一言 私は2011年にトルコ国内を十日間ほど旅行している。重宝したのは、店舗の看板がローマ字表記だったこと。ケマルは全国民にローマ字の学習を強制し、自ら街頭に出て大衆の教化に努めた。この施策が国民の識字率向上や教育の普及に役立ち、民族意識の高まりにも大いに貢献した。アラビア文字の追放はイスラム教制御への思惑もからんでいた。現地でのガイド役はトム・クルーズ似のハンサムな青年(夫人は日本人女性)だったが、当今トルコ人の(薄っぺらい)イスラム信仰を指し、「なんちゃってイスラムだよね」と茶化して言ってのけた。トルコ人のイスラム信仰はケマルの世俗化政策により、かなり様変わりし、礼拝や禁酒などの戒律遵守はかなり緩い。そして、その世俗化こそが現代トルコの一定の繫栄を下支えしている、と私は観察した。ついでに言うと、トルコの人々の日本贔屓は聞きしに優り、私は旅行中、幾度か胸がジーンとする思いを味わった。

2024.03.30 世界のノンフィクション秀作を読む(59)
小笠原弘幸(九州大学大学院准教授:イスラム文明史)の『ケマル・アタチュルク』(中公新書)――現代トルコ建国の父の横顔(上)

  
横田 喬 (作家)
                   
 旧オスマン帝国の英雄で新生トルコ建国の父とされるケマル(1881~1938)。その救国の英雄がアタチュルク(父なるトルコ人)と敬称されるに至る道程をイスラム文明に詳しい筆者が詳述する。ケマル無かりせば、現トルコは存在し得なかった、とまで私は考える。

 バルカン半島の港町サロニカで1881年、ケマルは下級官僚の後嗣ムスタファとして誕生。洋式の小学校に通う十歳の頃、父親が急死する。少年は生得の負けず嫌いで、他の生徒と喧嘩、教師に激しく殴打されて血塗れに。驚いた祖母が退学させたという逸話が残る。三年後、サロニカの幼年学校に入学。フランス語や数学が良くでき、リーダー的存在となる。
 マナストゥルの予科士官学校を次席で卒業。99年、帝都イスタンブルの陸軍士官学校に入学する。オスマン帝国の中心地イスタンブルは一九世紀末、七十万の臣民と十万の外国人を抱える世界最大級の都市だった。帝国軍の将来を担う人材を育成するエリート校にはこの時期、帝国末期と共和制初期に活躍する、錚々たる面々が在籍していた。

 最も親しかったアリ・フアト(ジェベソイ)は、イスタンブルの参謀本部に勤める父イスマイル・ファズル将軍の息子。将軍は息子の親友をいたく気に入り、事あるごとに屋敷へ招待した。フアトには一学年下で同じく軍人の家系のキャーズム・カラベキルという知己がいて、ケマルに引き合わせた。このカラベキルは、後にケマルの最も力強い味方にして、政敵となる。ケマルの二学年上には、青年トルコ革命(後述)で一躍英雄の座を勝ち取るエンヴェル、そして国民闘争の元勲の一人レフェトがいた。

 1902年、ケマルは既定の過程を修了して少尉に任官。成績優秀者上位四〇名のみに許される参謀科(後に「陸軍大学」に改組)へ進学し、エリート将校への道が開かれる。翌年に中尉、翌々年秋には卒業試験に合格、大尉となり、任命を待つばかりになった。
 当時のオスマン帝国陸軍は六軍構成で、規模の順に「軍団」「師団」「旅団」「連隊」「大隊」に編成。第一軍は帝都イスタンブルを守護する近衛軍。第二軍はトラキア地方、第三軍はマケドニア地方・・・と地域別に守護を担当。ケマルは故郷と縁のある第三軍配属を志望した。帝国にとってマケドニアが要地であることを認識していたからだ。
 マケドニアは、オスマン帝国内で最も近代化が進み、経済も発展している地域だった。半面、民族構成が複雑で、ブルガリア、セルビア、ギリシアの干渉に常に晒されていた。この地の安定こそが帝国の命運を左右すると、参謀科卒のエリートたちは認識していた。

 ケマルはシリア赴任を経て07年秋、上級大尉に昇進してマケドニアの第三軍に転属。盟友フアトとフェトヒが迎え、ケマルは自身が設立した団体「祖国と自由協会」が消滅(「統一進歩協会」に合併)したと聞き、やむなく、フアトらも加盟していた新組織に参加する。
 もう一方の「オスマン自由協会」は前年、サロニカの郵便局員タラ―トを中心に結成された新組織。少なからぬ青年将校たちが加わっており、士官学校で二学年上だったエンヴェルや一〇歳ほど年長の軍人ジェマルらが頭角を現しつつあった。

 ◇ガリポリの英雄
 08年夏、立憲制の復活を掲げ、エンヴェルら第三軍の若手将校たちが革命を目指し挙兵する。皇帝アブデュルハミト二世は鎮圧の手が失敗すると、あっけなく彼らの主張を受け入れた。三〇年に及ぶ専制は終わりを告げ、憲法と議会の再開が約された(青年トルコ革命)。英雄エンヴェルはドイツ駐在武官を拝命(六年後には陸相に就任)し、颯爽とベルリンに渡る。ケマルの盟友フェトヒはパリ、フアトはローマに派遣された。
 しかし、ケマルはさしたる役割を担わぬままマケドニアに留まり、革命後まもなくリビアに派遣される。同年秋には西部国境方面を監視する任務に就いている。14年7月、サラエボ事件を機に第一次世界大戦が勃発する。翌年1月、ケマルは第一九師団長を拝命し、ガリポリ半島防備を担う。イギリス政府はダーダネルス海峡攻撃を決定する。
 海相チャーチルは作戦を立案した。二度の海峡突破作戦に失敗し、連合国軍は海峡の北西に伸びるガリポリ半島の攻略を図る。同半島は長さ約八十キロ、幅は六~二十キロ。中央部は高地を成し、最高地点は標高三百メートルを超す。半島の守備は第三軍が担い、ドイツ軍事使節団の団長ザンデルス元帥が統括役だった。ケマルは実戦でドイツ人が指揮を執るのを批判し、元帥との仲は最初から険悪だった。

 4月25日、半島の南西岸アルブルヌに七万人もの連合国軍が上陸し、死闘が始まる。ケマルは麾下の歩兵連隊を丘の上に配置。浮足立つ兵を「死ね!」と叱咤し、決死の銃剣攻撃の気構えで対抗。要地の丘を確保することに成功、オスマン軍は防御線を構築できた。この戦果で彼は勲章を授与され、司令部の設置場所は『ケマルの地点』と命名される。
 積年のライバルの陸相エンヴェルもケマルを訪ね、最高位の勲章を授与。彼を右翼北部地域の司令官に任じ、位を大佐に昇進させた。両軍は塹壕を挟んで対峙~激戦が続く。劣悪な環境下で、赤痢やチフスが蔓延した。8月9日、連合国軍はトルコ側陣地に砲撃の雨を降らせ、最前線で指揮を執るケマルは胸部を負傷(懐中の時計に被弾)している。猛攻をしのぐ中、援軍が陸続と到着し、半島を防ぎ切った彼は多数の勲章を授与された。12月19日、イギリス軍は撤退を開始、苦戦の責任を問われた海相チャーチルは辞任していた。

 16年2月、アルメニアの要地エルズルムがロシアの手に落ち、ケマルの第六軍団が出動する。彼は准将に昇進し、「将軍(パシャ)」と敬われる身となる。ケマルの指揮下には参謀長を務めるイスメト大佐がいて、両者は認め合い、喫緊の仲となる。
 翌年7月、アラブ戦線で戦う第七軍団の司令官にケマルが任命される。就任早々、彼は上司エンヴェルに抗議の書簡を送った。「ドイツ人は、戦争を長期化させることに利を得て、我々を植民地にしている」と。ドイツ側への不信は独りケマルに止まらず、上官であるジェマルらも等しく批判していた。10月、ケマルは司令官を辞任、イスタンブルに帰還する。

 ◇国民闘争の聖戦士(上)
 18年11月13日朝、ケマルはイスタンブルのアジア側、ハイダルパシャ駅に辿り着く。この日、六十隻を超える連合国艦隊がボスフォラス海峡に到着、宮殿沖に投錨していた。敵艦隊が海峡を我が物顔に往来し、あまつさえ宮殿を睥睨するなど、イスタンブルが帝都になって四世紀半、初めてのことだった。
 イスタンブルに戻ったケマルは同志たちと密談を重ね、現状打開への策を練る。オスマン政界は、統一進歩協会主流派が崩壊したため、再編へと向かっていた。協会は11月1日に活動を停止、それを受けて、非主流派が幾つかの新党派を結成していた。
 この頃、軍人として最も強い発言力を持つ一人のケマルは、事態打開へ様々な手を打つ。その一つは旧友フェトヒとの活動。フェトヒは統一進歩協会のリーダーとなるよう提案されながら、これを断り、新たにオスマン自由主義者民衆党を結成した。ケマルはこれに協力すると共に、その機関紙に出資、寄稿を重ね、同紙はケマルの英雄化に一役買う。

 この時期のケマルの同志は五人いた。政治家として活動するフェトヒにジャンブラト、元海相でケマルに劣らぬ名声を持つラウフ、そしてカラベキル。アンカラの第二〇軍団長であるフアトも、療養を理由としてイスタンブルに戻っていた。
 また、憲兵隊総司令官レフェト(ベレ)も同志に加わった。彼は1881年にサロニカで生まれ、ケマルと同年同郷。軍が解体されていく中、憲兵の協力は重要だった。ほぼ同世代の彼らは、まもなく本格的に開始される国民闘争を牽引した、革命の元勲となる。まもなく逮捕されるフェトヒとジャンブラトを除く、ケマル、ラウフ、カラベキル、フアト、レフェトは、後の研究者に、国民闘争の「最初の五人」と称された。
 程なく、彼らの謀議には、イスメト大佐も加わっている。彼らは幾度となく市街のケマルの部屋に集い、来るべき祖国の将来について議論を重ねた。国民闘争初期のプランは、ケマルのこの部屋で、彼らに依って作り上げられたと言っていい。

 19年1月末、統一進歩協会関係者に対する一斉逮捕が行われる。カラ・ケマルやジャンブラトら協会の領袖たち三〇名ほどが次々と捕えられるが、ケマルは逮捕を免れた。軍の信頼厚いケマルを逮捕した場合、軍が蜂起する可能性が危惧されたのである。抵抗運動に加わりうる主要人物は、次々と逮捕されていった。
 事態の悪化を観取したケマルたちは、イスタンブルでの活動に限界を感じざるを得なかった。密談を重ねた彼らは、帝国軍の武装解除を食い止め、国民を一つにまとめ、アナトリアで抵抗の基盤を築くことを目的とするようになる。この頃、残存するオスマン帝国軍三万五千人のうち実に一万九千人が反体制派の影響下にある第一五軍団に属しており、重要な抵抗の拠点と成り得る存在だった。

2024.03.15   世界のノンフィクション秀作を読む(58)
ウィリー・ブラントの『ナイフの夜は終わった』(朝日新聞社刊、中島博:訳)
――SPD党首の波乱に富む半生の自伝(下)
   

横田 喬(作家)

 1931年秋、ヒトラーの部下たちは、大嫌いな社会民主党政権の打倒を望んだ。その時、同党の左派が党と分裂した。私を含む多くの青年部員が新党に参加し、私はレーバーと激しく口論し、二人は苦い気持ちで喧嘩別れした。仲違いに苦しみ、私は社民党を去った。
 新党は、未だ若い私を政治問題の指導者の一人としたが、仕事は一切無給。私はリューベックの船舶ブローカーの会社に仕事を見つけ、後には私のために役立った船員、漁夫、沖仲仕といった人々と密接な関係を持つようになった。私はスカンジナビアの顧客とも友達となった。生活は苦しかったが、私はそれを克服できる強さを感じていた。

◇自由への脱出
 32年7月20日夕、私はリューベックの社会主義労働者の集会で演説した。我々は大衆を動員、ヒトラー政権に反対する連合を結成し、彼らのクーデターに抵抗することを期待した。だが、当時の失業者は約五百万人。彼らは絶望の余り、パンや仕事、あるいは制服さえも約束したヒトラーの許に走った者が多かった。
 翌年2月28日、議会大火事件が発生。社民党は既に非合法化されており、私は身元を隠すために変装し、ウィリー・ブラントという名を使って旅行した。カギ十字の旗で粗野に飾られたベルリンの街は俗悪そのものだった。だが、苦労にやつれた婦人、疲れ果てた労働者たちへの深い親近感により、ナチの勝利に対する怒りの感情は消えた。
 我がグループの秘密執行委員会はベルリン以外に海外にも拠点を設けるべき、と決定。オスロがそれらの基地の一つに選ばれ、私はオスロの事務局長に決まった。早暁、我々は海路デンマークのロランド島を指して出帆した。
 私は鞄一つと百マルクを持ち、自由世界に上陸した。オスロでは、ノルウェー労働党の機関紙の外報部長で経験豊かな政治家のフィン・モーを訪ねた。彼の斡旋で手当てを得、組合書記局の事務も少し引き受け、二、三か月後には、結構やっていけるようになった。
 ノルウェーの青年協会で働いたことは、私の生涯の最も幸福な時期に属す。私はここで、後にノルウェーの各界の責任者となった男女の青年と友達になった。R・セベリーインは議員~国防相・議会議長となったし、H・ランゲは現在の外相である。

◇ベルリンの地下運動
 毎日長時間、私は机に座って手紙を書き続けた。増大するヒトラーの独裁に対し、我々に何の力もないことを悟るのは辛かった。ドイツ人は、その褐色のテロ政権が第二次大戦へ国民を引きずり込むだろうことを悟らねばならなかった。が、手をこまぬいて傍観してもいられない。力の限り、論文や報告、覚書や決議文を書きまくった。
 36年末、同志たちとの会合がチェコで開催され、私も参加。恐ろしいモスクワの裁判方法が討論の中心に。赤いツアー(皇帝)スターリンは「イワン恐怖帝」を連想させ、両者の性格の酷似性が話題に上る。が、我々左派は、彼をヒトラーのファシズムに反対する信頼すべき仲間と考え、苦い真実を認めようとはしなかった。
 37年2月、私がスペインを訪れた折、内乱は既に八か月を経過していた。革命の実態は決してロマンチックなものでなく、残酷で混乱していた。私は書いた。「スターリンはフランコの打倒に興味は持っていたが、スペイン人民の将来については、彼ら自らに決定させようとは決して考えてはいなかった」。39年から翌年冬にかけて、フィンランドがソ連の侵略の犠牲になった時もそうだった。我々はファシズムに対する闘士たちを援助したように、ソ連の侵略に対して立ち上がった闘士たちを扶けた。

◇ナチの囚人
 百二十五年間、ノルウェーは完全に平和だった。軍事的伝統というものはなく、戦争が嫌いだった。国の全てのエネルギーを、国民の生活水準の引き上げ、模範的な社会立法の発展、一般教育の拡充のために注いできた。
 ヒトラーは公にはスカンジナビアの中立を認めていた。が、彼の命令により、ドイツ潜水艦は中立国の船舶も情け容赦なく攻撃。侵略前の数か月間に、ノルウェーは船舶五十四隻と乗組員三百八十人を失った。殆ど全ての船が警告もなく、いきなり魚雷攻撃を受けた。ノルウェーの抗議も、ベルリンでは蛙の面に水であった。
 ドイツ軍の攻撃は大胆極まるものだった。海陸空の共同作戦により、オスロを始め殆ど重要な港はその日のうちに占領され、南ノルウェーの空港と軍事補給基地も、二、三時間でドイツ軍の手に落ちた。周到な準備と精力的かつ不敵な行動が決定的役割を演じた。国王と政府は首都を離れ、二、三人の閣僚が、残務整理のため二、三日オスロに居残った。

 四月九日に始まった戦闘は北ノルウェーでは六月九日まで続いた。その二日前、国王と側近及び政府は英国へ逃れた。オランダとベルギーが降伏し、フランスの抵抗もたちまち打ち破られ、ヒトラーの大陸支配は既成事実化する。不安な日々にあって、勝利の信念を持ったのはチャーチルだけ。彼とて国民に「血と汗と涙」以外の何物も約束できなかった。
 私は非戦闘員だったが、そのことは私がゲシュタポの復讐から逃れる口実とはならない。
38年、ヒトラーは私の市民権を剥奪。翌年、私はノルウェー帰化を申請、半年後の国籍取得が見込まれていた。当時、私はノルウェー北方の谷間に住んでおり、出口は封鎖されていた。私はノルウェー軍の制服を着込み、数人の兵士と一緒に捕虜収容所に連行された。重苦しい日々が続き、私は徒に日を送った。暗黒の日々は四週間に及んだ。6月初め、我々は収容所から釈放され、私は無事にオスロへ帰った。

◇ベルリンの地下運動
 増大するヒトラーの独裁に対し、我々が無力であるのを悟るのは辛かった。毎日長時間、私はヨーロッパやアメリカに居る友人や同志に沢山の手紙を書いた。36年夏、私はベルリンの「メトロ」(地下組織)の責任者となった。同年の友人の学生から旅券を借り受け、写真を取り換え、個人的データを記憶し、本物そっくりに見えるように署名を練習した。
 ベルリンには、わが党員はまだ二百人もいて、五つのグループに編成されていた。我々はドイツの地下運動の抵抗グループの一つだった。毎朝、私は真面目な学生を装い、大学の図書館へ出かけ、誇張した泥くさいナチの文学を読み漁った。『わが闘争』も苦にならず、ローゼンベルグやその他のナチの「理論家」の関門をくぐって行かねばならなかった。
 ベルリンは独裁者の誇大妄想的症状を反映。オリンピックは何十万という外国人を集めた。ゲッペルスの宣伝に圧倒されないのは難しいことだった。私は「違法」の人物の生活にすっかり嵌り込んでいた。絶えず、誤魔化し、扮装する生活で、恐れおののく暮らしだった。私の頭は数字や暗号で一杯になり、それらは眠っている間も私を追い続けた。

 36年末、ドイツや各亡命地に居る同志の会合が、チェコで開かれた。私はここで初めてオットー・バウアーと出会った。彼はいわばこの会議の舞台裏の助言者で、その著作や論文は社会主義理論の素晴らしい入門書だった。34年、彼はオーストリアでファシズムに抵抗して武力闘争に決起。成功はしなかったが、勇敢に闘った現地社民党のリーダーだった。
 私は亡命中のバウアーのやり方に、非常な感銘を受けた。彼は熱心に敗北の原因を検討しようとした。私はベルリンでの経験を報告した。討論の中心になったのは、恐ろしいモスクワの裁判方法だった。告発・告白・執行のやり方は、我々の希望を消えさせてしまった。プロレタリアの独裁は、事実上ソ連人民の全てに対するスターリンの独裁となっていた。それでも我々は、未だ苦い真実を認めようとはしなかった。
 44年8月、パリが解放された。私は涙を流し、ヨーロッパが戦争と隷従のムチから救われるのを期待した。翌年4月、ヒトラー自殺。5月7日、ヨーロッパ戦争終結の報せに、冷静で控えめなスウェーデン人も、たちまち熱狂的な騒ぎに爆発した。
 45年10月、私は初めてドイツへ帰った。ニュルンベルクの戦犯裁判の報道のために、記者として派遣されたのだ。翌年12月には、ノルウェーの外交官としてベルリンに赴任。運命は私をベルリンへ引き戻してくれた。

▽筆者の一言 西独社民党党首のブラントが西独首相に就任する直前の1969年夏、当時朝日新聞社会部記者だった私は、夏休みを利用して西ヨーロッパを“駆け足”訪問。秘密っぽかった東ベルリン市内も一日だけだが、肉眼で観察している。貸し切りバスでの市内周遊だったが、「百聞は一見に如かず」。ソ連式の共産主義は、決して人々を幸せにはしない、という心証を固めた。街並みは西ベルリンと比べ格段に見劣りがし、行き交う人々は生気と笑顔に乏しく、一様に表情が硬かった。ブラント同様、実は私も学生当時は社会主義の側に夢を託した一人だった。しかし、東ベルリン街頭におけるこの観察は、私の胸の奥底に確かな波紋を広げ、己の従来の思い込みに対する強い「?」をしっかり提起したと思う。

2024.03.14 世界のノンフィクション秀作を読む(57)
ウィリー・ブラント(元西独首相)の『ナイフの夜は終わった』(朝日新聞社刊、中島博:訳) ――波乱に富む反ナチ闘争の自伝(上)

横田 喬(作家)


 著者(1913~1992)は東西冷戦期での東方外交(対ソ連)の功績でノーベル平和賞(71年)を受けた人物だ。十代で社会主義運動に身を投じ、北欧へ転進~辛苦の連続の反ナチ闘争を展開。第二次大戦後はファシズムに代わる共産主義との闘いに苦闘した。どのような逆境にもめげず、弾圧にも屈しなかった勇気の持主の素顔に触れてみたい。

◇ニューヨークにて
 1959年2月10日正午、私はオープンカーに立って、シティホールを指しブロードウェイを走っていた。街角には四列にも五列にも重なり、人々は両側の歩道に立ち尽くし、歓声を上げ、拍手し、小旗を振った。ビルの窓という窓から紙吹雪が降り、歓声が上がった。
 『西ベルリン万歳!』。赤の独裁に対して自由と人間的権威の第一線となって闘っているベルリンに対して、ニューヨークはその同情を示そうとした。アメリカ人は西ドイツを廃墟から立ち上がらせるために大きな犠牲を払った。ベルリンは戦後の最も深刻な危機の源の一つである。ソ連は政治攻勢の口実に使うために、危機を作り出してきた。
 彼らは共産圏の内部に自由なベルリンが存在することは邪魔だった。西ベルリンの復興、脈動する経済的、知的生活と、東ベルリンの灰色の廃墟との対照は余りにも大き過ぎる。連日、西ベルリンへ逃亡してくる男女の数――この十年間にそれは二百万以上にもなった――は、明白に事実を物語っている。私はベルリン市長であって、ドイツ連邦の外相ではない。私が望んだのは、ベルリンは決して降伏しない、ベルリン市民は頼りにできるのだということを自由諸国の人々に出来るだけ、はっきりと認識させることだった。

◇自由への脱出
 ヘルバート・エルンスト・カール・フラール(ウィリー・ブラントの本名)という少年は1913年12月、リューベック(バルト海沿岸の港湾都市)で生まれた。母は非常に若く、協同組合の売店の売り子だった。父がどんな人かは不明(然るべき市民だったが、事情あって婚姻には至らず)で、私は母方の姓を名乗った。
 家は居間と台所が一つずつの労働者住宅。四、五歳の頃、兵隊帰りの母方の祖父が同居するようになり、私は彼を“パパ”と呼んだ。汗臭く、軍服の臭いがした彼は私を非常に可愛がった。正直一途な男で、素晴らしく話上手。どんな質問にも答えることができた。
 彼は社会党の信奉者で、郷里の村の最初の党員の一人だった。八つ、九つの頃、私は忘れ難い経験をした。リューベックの労働者が一斉ストに入り、全面的な工場閉鎖へ。苦しい日々が続き、飢餓が悪地主のように台所に立っていた。私はパン屋の店先でロール巻きをもの欲しげに見つめた。たまたま居合わせた工場の支配人が、私にパンを二塊買ってくれた。息せき切って家へ辿り着いた私に、祖父は怖い顔でパンを返しに行くよう指示。「敵から買収されてはならんのだ。乞食じゃないんだから」と叱った。

 ヘルバートはよくでき、学級で一番だった。呑み込みが早く、本も貪るように読んだ。祖父から、今後は戦争なんかなくなるとか、(理想の政治が)永久に全ての不幸をなくさせるか、という話を好んで聞いた。彼は新しい社会民主党の領袖の面々を英雄視していた。
 1923年、インフレは頂点に達し、十歳の少年にはその原因は理解不能。その具体的な意味は、給料をもらったらすぐ食料品を買いに走らねばならなかった時によく判った。その翌朝には、その金はとっくに値打ちを失ってしまっていたから。新マルクが実施された時、旧紙幣の十兆マルクは新マルクでなら一ペニヒ(百分の一マルク)の価しかなかったから。
 十三歳になった時、私は成績優秀ゆえに高校進学の奨学金が賦与され、翌年、土地の有名な上級高校に入学する。その高校で送った四年間は、私の人生で重要な期間だった。そこで受けた立派な教育だけでなく、私は生まれて初めて異質の世界に入ったからだ。労働者階級出身の少年は、ほんの二、三人。若い共和国に同情を持つ教師もまた少なかった。

 高校を卒業後、私はいわば必然的に社会民主党青年部に入った。祖父も、私の母も、社民党の活発な党員であり、労働組合の組合員だった。言うならば、私は社会主義の中に生まれて来たようなものだった。だが、私が党組織の中で、何の苦労も失敗もしなかった訳ではない。青年運動は、基本的にはロマンチックな点が多かったので、私は惹きつけられた。ハイキング、親しい仲間、キャンプ生活などがあった。私は大自然が好きだった。北海やバルト海を訪れ、ライン河の一つの島で一夏を過ごしたことがある。私は、美しい丘、古城や廃墟、それらにまつわる神秘的な伝説の虜になってしまった。
 熱心に読書し、夜遅くまで人生の意義を論じ、宇宙の謎を解こうとした。もっと重要なことは、共同生活から学んだ実際の民主主義であった。社会主義青年運動は良い訓練となった。私は弁が立った。そのため十六歳で既に責任のある地位に付けられ、一時は地区支部長になったこともある。1930年、私は正式の党員として社会民主党に入党を許された。

 党員となるには十八歳以上でなければならなかったが、例外的措置が認められたのだ。ユリウス・レーバーが私の保証人となってくれた。リューベック社会民主党の指導者で、ドイツ議会の議員。演壇での豊富な言葉や表現力に満ちた身振りは、ローマ帝国の護民官もかくやと思わせた。彼はインテリではあったが、一般大衆や労働者は仲間扱いにした。彼らの胸底にあるものを表現し、その願望や希望を嗅ぎ取る的確な本能を持っていた。
 私は父親無しに大きくなり、私の生活にはどこか空虚な所があったが、レーバーはそれを充たしてくれた。彼は私にとって、教師や旧友以上のものであった。レーバーは私に自信と励ましを与えてくれ、その一方、私の若者らしい性急さをすかさず批判してくれた。

 1930年という年は、決定的な変化をもたらした。社会民主党は連邦政府から外れ、その影響力の多くを失っていた。我々は公私の集会でヒトラー青年団員と衝突し、言葉の弾丸で、あるいは拳を振るって闘った。九月、ナチは帝国議会に入った。百七人という強力なもので、第二の強力政党となった。その勝利は、左派政党の失敗に対する失望をより深くした。社民党青年部の間では党指導部に対する反感が高まった。

 失業者の数は月ごとに増えた。そのうちの何百万人は全く就職の当てもなかった。彼らは職を求めたが、政府は「生きるには少な過ぎ、死ぬには多過ぎた」補助金で彼らを追い払った。危機は革命手段を必要としていたが、社会民主党は決議以外には何一つ手を打とうとしなかった。青年と市民とを問わず、逆マンジ卍の襟章を付けた失業者の数が増えた。
 これまでは公衆便所の隅っこにしか書かれていなかったナチのスローガンが、今や公然と多くのビルの壁に、大きな幟に現れてきた。「ドイツよ起て! ユダヤ人に死を!」。ナチの突撃隊は、ナチに反対する者を倒し、殺すことによってドイツの“若返り”のために働いた。多くの街路が戦場となった。一方、社会民主党左派の急進化は、ナチの挑発と高まる経済危機によって、なお酷くなった。それは、青年と党指導部との亀裂を更に大きくした。

 31年夏、私は一人の友人とノルウェーへ旅行した。私はコペンハーゲンへ行き、そこから貨物船でベルゲンへ向かった。私はノルウェーの風光美や峡湾や氷河に夢中になった。ここには人工に損なわれない野生のままの自然があった。ノルウェーの国民はもっと強い印象を与えた。素朴な農夫は自然の威厳を具えており、自分の価値を知り、教養もあった。
 私が政治問題を議論した人々は滅多に「民主主義」という言葉を使わず、「フォルケスチーレ」という語句を使った。それは「人民の政府」という意味だ。近代的意味での民主主
は、欧州の各国家ほど古いものではない。が、公共の問題を処理し統制することに個人が実際に参画するという意味では、この語句は人々の良心に深く根差している。
 ヨーロッパの多くの国々に比べ、スカンジナビアの農民は決して自由を失っていなかった。封建制は存在していなかった。今度の旅行で私が最も感銘を受けたのは、階級や地位についての誇りが全くないという一事を知ったことだった。

 デンマークの社会民主主義者はベルリンでドイツ議会を見学~ドイツの民主主義の将来に対し、極めて悲観的だった。議会の食堂で、それぞれのテーブルが「中央党専用」とか「ドイツ国家主義者党専用」とか表記された札を見た。議員が一緒に食事もできない国では、民主主義を打ち立てることは極めて難しい話だ、とこのデンマークの友人は言った。
 コペンハーゲンでは議員たちは議会から食堂へ移ると、大抵は家庭や子供たちの話に興ずるか、一緒に二、三杯の酒を楽しむのが常だった。ノルウェーの議会では、同じ地区から選出された議員は、一緒に座ることになっていた。(万事に和気藹々・・・)

2024.03.09 世界のノンフィクション秀作を読む(56)
奥野克巳(立教大教授:文化人類学)の『はじめての人類学』(講談社現代新書)
――最近百年のダイナミックな知的格闘を一望(下)

横田 喬 (作家)

◇ボアズ(1858~1942)――「生のあり方」
 ユダヤ系のドイツ人だったボアズはドイツで物理学の博士号を取得後に地理学に転向した。86年にアメリカへ移住し、99年にコロンビア大教授となり、アメリカ初となる人類学博士課程の設置に尽力する。自身に関わる設問でもあった「移民問題」を自然人類学的な観点から研究。1908年から翌年にかけ、学生と共に大規模な調査を実施する。
 その結果、移民の子供たちの頭長幅指数で示される頭型が、親たちの世代に比べて変化していることが判った。アメリカで暮らし始めると、短頭のユダヤ人が長頭になり、長頭のシシリー人が短頭になることを示している。
 ボアズは研究において、十分な情報が集まるまで安易に物事を理論化することを徹底的に避けた。学生たちに可能な限り多くの民族誌データを集めるよう指導。データが大量に集積されると、自然と理論が浮かび上がってくるのだ、と説いた。前記の「移民問題」調査では、大学院生13名が週に1200人のペースで2万近いデータを収集したという。

 この調査により、移住後に年数が経ってから生まれた子供の方が、その変化の幅が大きいことが判明。つまり、短頭のユダヤ人も長頭のシシリー人も、在米年数が長くなればなるほど頭型が似てくる。民族ごとに多様な頭型がアメリカでは均一化していく傾向が示されたのだ。このことから、ボアズは移住先のアメリカという新しい環境において、身体的な変化が生じたと結論。最も変わり難いとされる頭型でさえ移住後に変形するならば、その他の形質上の特徴もまた移住後に変わっていくのだ、と彼は考えた。
 広範な調査の結果、彼の研究は環境に応じて変容する人間の適応能力の高さを示した。人間は先天的に身体つきが決まっているのではなく、置かれた環境によって変化する生き物だという事実を明らかにしたのだ。これは、人種というのは変わり得ないものだと断定し、ユダヤ人種の根絶を謳うナチス・ドイツに対抗する言説になり得るものだった。
 ボアズは、文化とは環境との関係や移住の経緯、隣接する文化からの借用など、歴史の積み重ねによって形成されるものだ、と主張。彼にとって、文化とは一つのまとまりとして見るべきものであり、文化の要素は他の要素との関係で理解されるべきものだった。

 ボアズによって提唱された人類学の重要なキーワードに、「文化相対主義」がある。全ての文化には価値があり、その全てに敬意が払われるべきだという考え方だ。それはボアズ以降に、人類学という学問を支える世界観や心構えとして、世界中に広がっていく。<私の文化と貴方の文化が違うことは当たり前。でも、そこに優劣の差は全くない。>
この考え方は、今でこそ腑に落ちるものであっても、このような概念は第二次世界大戦以前に於いては「常識外れ」だった。第二次大戦後、文化相対主義の考え方はグローバル化する現代世界に於いて共有されるようになった。前述したレヴィ=ストロースの構造主義と共に、この文化相対主義は特に世界に強い影響を与えたものだった。アメリカの人類学は、自分たちの学問を「文化人類学」と規定している。文化の概念は特に重要なものであり、「生の在り方」こそがアメリカの人類学では研究の対象なのだ。

 文化を「生の在り方」だと言い始めたのは、ボアズ門下のルース・ベネディクトとマーガレット・ミード。1920年代後半から1930年代前半にかけて、彼女たちは「生の在り方」を取り上げることこそが人類学の目的だ、と表明した。興味深いのは、そのような文化の定義がアメリカ固有の政治状況に連動しながら確立されていったという点だ。
 1930年代後半、プラグマティストであるジョン・デューイは共産主義やファシズムに対抗して、民主主義こそが自分たちが守るべき「生の在り方」だと述べている。彼にとって、民主主義とは単なる政治制度ではなく、生きていくための方法そのものだったのだ。アメリカの知識人層に浸透していったデューイの捉え方と相俟ち、ベネディクトやミードの「文化は生の在り方である」という考え方が広がったのだと言える。

 ベネディクトは第二次世界大戦開始後、アメリカ軍の戦時情報局に招集され、日本研究の仕事を委嘱される。その時の報告書を基に1946年に著書『菊と刀』を出版する。この著作の中で、彼女は日本の「恥の文化」と欧米の「罪の文化」を対比的に語っている。
 「恥の文化」では、善悪の絶対的基準となるものがない。人々は「世間の目」によって自分の行動を決める。日本人は、恥辱感を原動力としている。世間の目を気にし、恥をかかないように自己を抑制する。従って、彼らは恥をかくことがないよう、自分で自分を監視~「無我」の境地や「死んだつもりになって生きる」ことを理想としている、とする。
 ベネディクトが提示した分析の根底にあるのは、文化相対主義的な視点だ。彼女は欧米の文化と日本の文化、即ち「罪の文化」と「恥の文化」には優劣はないという前提から、持論を展開している。ただ、最終章の「降伏後の日本人」では論調がやや変化~「文化は学習可能だ」とし、日本はアメリカ流の民主主義国家に生まれ変わるべきと唱えている。

◇インゴルド(1948~)――「生の流転」
 インゴルドが世に知られるようになったのは、20世紀末から。彼は若い頃から「自然」と「社会」を切り分けて考える近代西洋の二元論的な思考法に違和感を抱き、それを乗り越える方法を探ってきた。遂に、人間を「生物社会的存在」だと捉える考えに辿り着く。   
 人間は常に生物学的で動物的な存在であり、同時に社会的関係の中を生きている存在でもある。そのどちらが欠けても、人間の本来の在り方とは言えない、という主張だ。彼に言わせれば、「生」とは固定された不動のものではない。絶えず動き続けて生成と消滅を繰り返し、変化するものなのだ。「生の流転」に目を向けるのが彼の人類学だ。
 彼は、人類学は<あらゆるものが「生きている」様を生け捕りにする>研究=実践だと考える。世界に耳を澄まし、世界について学びながら、未来に向かって生きていくための人類学を切り拓いた。型に捉われぬダイナミックな思索こそが彼流人類学の魅力なのだ。

 インゴルドは、父親(著名な菌類学者)から学問上の強い影響を受けた、と振り返っている。彼の父は植物や菌類を実地で観察し、野外調査の重要性を説いていた。そのため、フィールドワークを中心に置く人類学に進むことになった、と彼は語っている。
 彼は、人間を明確な境界を持った存在として捉える社会科学者に対し、否を突き付ける。人間には、自分とそれ以外を隔てる境界線などないのだ。全ての人は諸関係のメッシュ(格子を拵える断片)であり、どこまでも続く「線」から成る、と考えるのが人類学だとする。
 1990年代になると、インゴルドは「菌類人間」という造語を思いつく。「小さな塊」としての原核細胞と、細くたなびくような線状の鞭毛を併せ持つバクテリアから出発し、彼は独自の人類学を構想するようになったのだ。

 ケンブリッジ大学で人類学を専攻したインゴルドは、大学院当時の70~73年にかけての16カ月間、フィンランド北東部でフィールドワークを行った。その成果は76年に博士論文としてまとめられ、同年に『スコルト・ラップ人の現在』として出版される。
 トナカイ狩猟・漁労の民サーミは、12世紀以降に異なった言語・文化集団に分化。39~40年のソ連・フィンランド戦争と第二次世界大戦を経て、スコルト・サーミだけがフィンランドに残留し、トナカイ飼育・漁労及び賃労働で暮らしていた。
 インゴルドはこうした20代前半のフィールドワークに依って、己がどんな人間なのかを知り、環境への考え方を整理できた、と振り返っている。彼は現地の人々が狩猟したトナカイを飼育し、それを囮に野生動物を誘き寄せて狩る活動に注目している。飼育されたトナカイには所有権が発生し、牧畜への移行が開始。群れはどんどん拡大し、その大群を管理するための仕組みを導入するようになる。彼は生態学を縦横に活用~課題に挑んでいる。
インゴルドによれば、人類学とは、世界の真っ只中に分け入って、人々と「共に」考えること。彼は、大量虐殺に至る衝突、貧富の格差、環境汚染など、世界が臨界点に達している今日ほど、人類学が必要とされる時代はないとし、こう言う。「人類学の目的は、人間の生そのものと会話することだ」。

▽筆者の一言 インゴルドは言った。「人類学者は世界の中で哲学する。彼らが対象として選んだ人々と共に研究する――とりわけ、観察、会話及び参与実践に深く巻き込まれることを通じて」。彼によれば、人類学者は世界に入っていき、人々と共に研究する手法「参与観察」を通じて、世界の中で哲学をするのだ。そうした土台の上に、彼は人類学をこう捉えている。<背景や暮らしや環境などを問わず、世界中に住まう全ての人の知恵と経験を、どのように生きるのかというこの設問に注ぎ込む。これが、私が著書『人類学とは何か』の中で唱える研究分野だ。それを「人類学」と呼ぼう。>

2024.03.08  世界のノンフィクション秀作を読む(55)
   奥野克巳(立教大教授:文化人類学)の『はじめての人類学』(講談社現代新書)
   ――最近百年のダイナミックな知的格闘を一望(上)


横田 喬(作家)
                   

 人間とは何か?という根元的な問いは、古くて新しい。人間という存在は、数値化できない厄介な代物だからだ。本書は、その難問に真正面から取り組み、不確定で先行きの見えない現代を生き抜くための貴重なヒントを提示してくれる。

◇近代人類学が誕生するまで
 人類学が本格的に発展していくのは20世紀以降のことだ。19世紀には、文化や社会を原始から文明に至る直線的な進化の過程として捉える進化論的な考え方が広まるようになった。これはダーウィンによる生物進化論が興った時期と重なる。人類学者タイラーは「アニミズム」を提唱し、フレイザーは労大作『金枝篇』で呪術について考察した。
 進化主義的な説を唱えた19世紀の人類学者たちに対し、「ぬくぬくした研究室を飛び出し、人間の肌にまみれて研究を深めるべき」と20世紀の若い人類学者たちはフィールドワークの重要性を強調する。マリノフスキは人間の「実際の生」を直に観察し、生の全体性を描き上げようと試みた。
デュルケームは「集合表象」(集団の中で個人を拘束するもの)と「機能」に注目。研究対象にすべきなのは「社会的事実だ」と断じた。ある集団の人たちが太陽を神として崇めるのは、その社会で「太陽は神だ」という価値観が共有されているから。彼らは集団の中に共有されている「集合表象」に従っているのだ、と解説した。

 「集合表象」は未開社会と文明社会のいずれにも存在している。デュルケームは、それらを比較研究することで、人間社会の特質を探り出すことができると考えた。彼は当時入手可能だった豪州や北米の先住民社会の民族誌文献を活用~宗教や儀礼に関して考察した。
 彼はまた、『社会分業論』(1893年)の中で、分業の進んだ近代社会において、異なる暮らし方をする人たちが「有機的連帯」によって一つの社会を作り上げる様を描き出している。社会のあらゆる現象や事柄が互いに働き合う、即ち「機能」することで社会という全体が作り上げられていると考えたのだ。
 そうしたデュルケームの考え方は、フィールドワークを通じて人間社会の制度や慣習を分析しようとするマリノフスキの人類学に繋がっていく。マリノフスキはデュルケーム社会学を継承しつつ、制度や慣習の機能を文化や社会との関連において解明することを重視した。彼の研究はその後、「機能主義」人類学と呼ばれるようになる。

◇マリノフスキ(1884~1942)――「生の全体」
 ポーランド出身のイギリスの人類学者マリノフスキは1915年から18年にかけてニューギニア島北東沿岸沖のトロブリアンド諸島で、計三回・約二年間にわたる現地調査を実施した。彼は現地に暮らす人々が海を越えてカヌーで航海したり、呪文を唱えたりする行動を事細かに記録。そうした現地の人々の様々な活動が合わさることで、社会という全体が形作られているのだと唱えた。「機能主義」と呼ばれる彼の示した文化の見取り図は、19世紀以降の人類学を大きく刷新。彼以降、長期のフィールドワークを行った人類学者が書き上げた民族誌が蓄積されるようになり、20世紀の人類学が形成されていく。
 驚いたことに、マリノフスキは現地の人々に対する嫌悪感や敵意などを『日記』に露骨に綴っていた。<昨晩も今朝も、舟を漕いでくれる人を探したが見つからなかった。そのため、白人としての怒りと、ブロンズ色の肌をした現地人に対する嫌悪が高じ、・・・>。<現地人たちには未だに腹が立つ。特にジンジャー(現地人の名前)に対しては、(中略)死ぬほど殴りつけてやりたい位だ。> マリノフスキは、現地に暮らす自身の中で湧き起こった感情を受け止め、さらにそこに生きる人々へとその思いを広げている。

 衣・食・住などの生活様式には、個人の「欲求」を充足させるための「機能」があるというのがマリノフスキの文化理論の骨子だ。個人の基本的な「欲求」とは、新陳代謝、生殖、身体の安全や運動、成長、健康などのこと。即ち食べる、セックスする、運動する、などの人間としての当たり前の活動だ。
 マリノフスキはなぜ個人の「欲求」の充足という観点を重視したのか。それは、彼が人間を理解するためには、社会や文化的な次元に焦点を当てるだけでは不十分だと考えたからだ。社会的に作られた「制度」は、日常の人間の活動を通じて個人の「欲求」を充足させたり、抑制したりすることに深く関わっている。だからこそ人間理解のためには個人の生理的・心理的次元にまで目を向ける必要があるというのが、彼の仮説だった。

 マリノフスキ以前に、現地の言語を習得した上で調査を行った人類学者は少なかったし、現地で十年以上生活した人類学者もいなかった。以前の現地調査は実質に乏しく、調査報告は生気を欠いた、通り一遍のものになる傾向にあった。マリノフスキは、そのような報告書を書いても意味がない、と考えていたようだ。自分の内面まで赤裸々に吐露するフィールド日記を付ける営みは、彼によっては始められた「伝統」だ、と言ってもよかろう。
 マリノフスキは長期にわたって現地滞在することで、現地語を身に付けて人々と直接コミュニケーションを取った。そうすることで、人間の生きている様を描き出すのに有効な調査を実施する秘訣を発見したのだ。彼以降、人類学者はフィールドで「参与観察」という経験的な手法で調査を進めることが一般的になった。

◇レヴィ=ストロース(1908~2009)――「生の構造」
 私たちは遠く離れた辺境の地に住む人々を、長い間、「文明から取り残された人々」視し、「野蛮人」や「未開人」扱いしてきた。フランスの人類学者レヴィ=ストロースは、そういう考え方こそ非科学的だと指摘した。彼は自身の研究を通して、「未開人」の洗練された思考を人類学的に明らかにしたのだ。彼はブラジル奥地の先住民社会の親族体系や神話を詳しく調べ上げ、我々が一見気づかない、繊細な秩序が隠れていることを発見した。
 「文明社会」では、父と母と子による関係性を家族の基本単位と見做し、家族形態を理解しようとする。が、「未開社会」には、それには当てはまらない家族形態がある。父母のそれぞれの兄弟姉妹が全てチチやハハと呼ばれるような社会だ。チチ・ハハが沢山いる家族形態は長らく、父母の同世代の男女が乱婚する、劣った原始的な習慣の残存視された。
 レヴィ=ストロースは、そのような親族呼称の体系は、それぞれの社会や共同体が持つ規則の違いに過ぎない、と断じる。そして、その体系の中に普段は意識されていない「構造」が隠されている、と捉えた。彼は、「構造」こそが人類に具わった普遍的なものであると主張した人類学者である。言語分析の方法論を用いて親族体系や神話を研究し、人々が日々生きていく中で意識されていない「生の構造」が、そこに潜んでいると結論づけた。
 
 彼が編み出した理論は人類学の理論だけに止まらず、その後「構造主義」と呼ばれる思想にまで発展する。即ち、我々が生活している社会や文化の背後には目に見えない構造があり、人間の活動はその構造によって支えられているとする考え方だ。構造主義が20世紀半ばの欧米の思想界に及ぼした影響は絶大なものだった。この意味で、レヴィ=ストロースは人類学において最大級の功績を残した学者の一人と言える。
 構造主義の出発点は、彼が1955年に出版した『悲しき熱帯』という著作だ。これは、1930年代末に彼がブラジル奥地を旅してから20年近く経って世に出したもの。風変わりな人類学者が20年も前の体験を綴った、不思議な旅行記だった。その年、彼はもう40代後半。決して若くして名声を得たわけではなかった。

 レヴィ=ストロースはユダヤ教徒の家(父は画家)に生まれ、パリ育ち。ソルボンヌで哲学を学び、24歳で高校の哲学教師になる。三年後に辞職し、ブラジル内陸に調査旅行へ。さらに38年、ブラジル西部の高地の横断地図作成を企図。30頭の牛や牧童15人を伴う大規模なもので、その体験が人類学の必読書『悲しき熱帯』(55年刊)として実る。
 彼は同書の中で、現地人の四つの集団に言及する。中でも「ボロロ」は高度に精緻な社会構造と形象表現の体系を生み出していて、他の集団と比べて抜群と指摘。10のクラン(氏族)から成る150人のボロロが26の家屋に環状集落状に暮らしている様子を記す。
 彼は、祭礼の日に男たちの陰茎に取り付けられる「陰茎鞘」に注目。その儀礼を「出エジプト記」における割礼の起原と比較する論考(1980年)を記している。人間は特定のモノや現象を目の前にすると、そこから何らかの意味を見出そうとする。そして、それらを「記号」として読み取る。そのメカニズムを探ることが、構造主義の手法とも言える。
ポロロ社会の人々は亀頭を「鞘」で覆い、一方の『旧約聖書』の民は、亀頭を隠したまま包皮だけを取り除く。行動に差はあれ、根底には「文化」が「自然」に作用するという、隠された「構造」を同じように持っているのだ。