2022.08.02 二十世紀文学の名作に触れる(35)
『バーガーの娘』のナディン・ゴーディマ――人種差別に真正面から取り組んだヒューマニスト

横田 喬 (作家)

 サハラ以南の女流作家で初めてノーベル文学賞を受けたナディン・ゴーディマは母国・南アフリカの人種差別に真正面から取り組んだ。ユダヤ系の白人だった彼女は、イスラエル政府による対パレスチナ政策が南アのアパルトヘイトと本質的に相違はない,と言い切っている。彼女は黒人出身の最初の南ア大統領・故ネルソン・マンデラ氏とも親交があった。

 ナディン・ゴーディマは1923年、ヨハネスブルクから五十㌔ほど東のスプリングスという金鉱町で生まれた。父はリトアニアからのユダヤ系移民で、母もユダヤ系だがイギリス生まれの南ア育ち。父は時計の出張修理で鉱山を回って生計を立て、やがて宝飾店を構えるようになった。ゴーディマは「小さい頃から甘やかされて育った」と述懐している。
 スプリングスにある女子修道会の学校へ通うが、登校してもすぐ抜け出し、終業のベルが
鳴るまで外の草原を歩き回るような子だったらしい。この時期の思い出を問われ、「間断なく学校をさぼり、草原で一日中遊んでいた」と意識的に語り、文章にも記している。

 四歳から十歳までの時期、彼女はバレリーナになるのが夢で、バレエの練習に打ち込んだ。
が、ある日、突然心臓に良くないという理由で運動を止められ、学校通学も叶わなくなってしまう。その後は、いわゆる学校教育は受けていない。そうなったのは、母親の一方的な意向だったようで、背景には両親の不和と母親の恋愛があったらしい。ゴーディマは物真似が上手な子で、声色から仕草まで巧みに真似て見せては、大人たちを笑わせていたという。

 随分早い時期から、本を読み、文章を書くようになった。十歳前後の時期に短編らしきものを書き始め、十二歳の頃には読書録のようなものを付けている。だが、彼女の関心は当初から現実の方へ向かっていた。学校の図書館の本との出会いでは、アプトン・シンクレアの社会派小説『ジャングル』に感動した。彼女を魅了したのは、社会を対象に据え、その病理を抉り出していく、語り手の手際とそれを可能にする立場の取り方だった。

 49年に短編集『顔と顔を合わせて』で本格的な作家デビューを果たし、53年に最初の長編小説『いつわりの日々』を刊行。74年の著作『保護管理人』でイギリスの著名な文学賞であるブッカー賞を受ける。生涯に長編小説を十二作と二百以上の短編作品を著した。91年のノーベル文学賞授賞の理由は「彼女の壮大な叙事詩は『アルフレッド・ノーベルの言葉』に即した人文主義にとっての重要な利益であったこと」。

 ゴーディマの代表作『バーガーの娘』は五十六歳の時の作品だ。南ア文学史上、アパルトヘイト体制下の南ア社会にこれほどトータルな形で挑んだ作品はない。小説の長さから言えば、五作目の『賓客』が一番長いし、他にも長い作品は幾つかある。しかし、その凝縮された文体と複雑な語りが織り成す物語空間は、それまでの、またそれ以後の彼女のどの作品をも凌駕していよう。白人活動家のバーガー一家の生と死を描きつつ、南アの現代史の中で白人が南アの解放に参加していくことができるのか、その可能性を徹底して追求していく。

 このバーガーには実在のモデルがいる。白人活動家アブラム(通称「ブラム」)・フィッシャー(1908~75)とその家族だ。フィッシャーはアフリカーナ(アパルトヘイトを創りだした民族:オランダ系移民を主体に仏・独などから入植した人々が合流)の名門出身の弁護士で、オックスフォード大学で法律を修め、南アに帰国して弁護士となった。その時には既に南ア共産党の主要なメンバーとなっている。

 フィッシャーはANC(アフリカ民族会議)との共闘を推進。52年、アパルトヘイト法に対する大規模な不服従闘争に関連して百五十六名が逮捕された国家反逆罪裁判で弁護人を務め、全員の無罪を勝ち取っている。しかし、60年代に入ると、ANCは軍事部門を創設し、全国主要都市の政府機関に爆弾闘争を仕掛ける。指名手配中だったネルソン・マンデラが62年に逮捕され、その他のリーダーたちも次々と収監された。この裁判で弁護団の中心となったのがフィッシャーで、被告八名が死刑を免れたのは彼の手腕によるとされている。

 この裁判が結審した直後の64年秋、フィッシャー自身が逮捕されてしまう。二年後に終身刑の判決を受け、収監中に脳腫瘍に侵され、75年に死を迎えた。『バーガーの娘』には収監中の黒人活動家の大物として、後に黒人出身の最初の南ア大統領となるネルソン・マンデラの名前が度々登場する。ANCのシンパだったゴーディマはマンデラとも懇意な仲だった。

 弁護士だったマンデラは若くして反アパルトヘイト運動に身を投じ、64年に国家反逆罪で終身刑の判決を受けた。二十七年間に及ぶ獄中生活の後、90年に釈放される。翌年にANC議長に就任し、当時大統領だった白人のデクラークと共にアパルトヘイト撤廃に尽力。93年にデクラークと共にノーベル平和賞を受賞する。94年に南アフリカの全人種が参加した普通選挙を経て大統領に就任。民族和解・協調政策を進め、復興開発計画を実施した。

 マンデラは収監中も勉学を続け、89年には南アフリカ大学の通信課程を修了し、法学士号を取得。解放運動の象徴的存在となり、その釈放が全世界から求められるようになっていった。釈放直後に彼はゴーディマと旧交を温め、「獄中で『バーガーの娘』は読んだよ」と伝えたという。マンデラは文学好きでもあり、長い獄中生活の間にスタインベックやテニソン、シェリー、ドストエフスキー、トルストイらの諸作品を読破していた、といわれる。

 ゴーディマに戻る。彼女はユダヤ系の出身であるが故にイスラエル政府による対パレスチナ政策の是非をよく問われた。彼女の回答は「南アのアパルトヘイト政策と本質的な変わりはない」という否定的なものだった。親交のあったマンデラは2013年暮れに九十五歳で死去し、後を追うように翌年7月にゴーディマが九十歳で亡くなった。
 遺児(息子ユーゴと娘オリアヌ)が家族を代表してプレスリリースを出し、その一節にこうあった。「母が生涯で最も誇りに思っていたのは、ノーベル文学賞受賞と1986年の反アパルトヘイト活動家グループの反逆罪裁判で証言台に立ち、彼らが死刑から免れる一助になったことでした」。

2022.08.01 二十世紀文学の名作に触れる(34)
ナディン・ゴーディマの『バーガーの娘』――南アの人種差別に挑んだ意欲作

横田 喬 (作家)

 南アフリカの作家ナディン・ゴーディマは1991年、女性作家としては二十五年ぶりにノーベル文学賞を受けた。授賞理由は「その壮大な叙事詩が『アルフレッド・ノーベルの言葉』に即した人文主義にとって重要な利益であったこと」。アフリカ出身の女性としては初の受賞で、悪名高いアパルトヘイトに絡む内容ゆえに、母国では一時発禁処分も受けた。みすず書房版(訳:福島富士男、1996年刊)の二冊本を基に、私なりに内容の概略を紹介したい。

 ヨハネスブルク刑務所の門の前に押し寄せた人々の中に、十四歳の少女ローザ・バーガー
の姿がある。始まったばかりの生理の痛みに耐えながら、少女は差し入れの緑色のキルト(防寒用の上着)と湯たんぽをお腹に押し当てていた。母親が拘禁された折の出来事である。その後、白人活動家の両親が共に逮捕されてしまい、ローザは弟と共に田舎の親戚に預けられる。

 父のライオネル・バーガーは法廷で、大略こう意見陳述していた。
 ――私を苦しめたのは、人間に隷属を強い、人間を辱める行為でした。その野蛮な行為に、私はただ加担していた。この恐ろしい矛盾は、この国の白人たち全てが抱えている矛盾なのです。彼らは正義の神を崇拝しながら、その一方で肌の色を理由に差別を行います。人の子イエス・キリストの憐みをしきりに口にする一方で、同じ土地で共に暮らす黒い肌の人々を人間として認めない。この矛盾によって、私が生きていく根拠が真っ二つに裂かれていた。

 ――私の先祖のブール人たちは大移動を行い、農耕を基盤とした共和国を創りました。彼らは投げ槍による抵抗をマスケット銃によって抑え込み、銃の力によってこの地に太古から暮らしていた部族社会の人々を隷属させてしまった。白人が作り出したこの社会は、資本主義的生産様式と封建的社会形態の根源的な矛盾を覆い隠し、それを正当化しようとしてきました。人種差別がやがて招くに違いない悲劇に、私は背を向けることはできません。
 二時間近くに及んだ陳述を彼はこう締めくくった。
――私が本当の意味で有罪になるとすれば、それは私がこの国の人種差別を根絶させるために何もしなかったとされて、この裁判で無罪になる時です。

ローザたちの方に話を戻す。土曜日の昼下がり、田舎町のホテルのベランダは白人の客たちが占め、外の通りでは黒人の若者たちが白人客の投げ捨てるタバコの吸い殻を拾っていた。十六歳のローザは政治犯の婚約者となり、刑務所に面会に行く。狂おしいまでに政治犯の青年を恋していたから。
 やがて、母が病死する。その後、父ライオネル・バーガーは終身刑となり、ローザが二十三歳の時に獄中で病死した。獄中で瘦せ細っていく父は、大勢の聴衆を前に熱弁を揮った誰もが知る勇者ではなかった。獄中での弱々しい父の姿は、ローザしか知らないものだった。

 ローザはスウェーデン人のジャーナリストとレンタカーで旅をし、恋愛関係になる。ライオネルが死んで一年、ローザは黒人居住区に出入りしていた。白人の都市の背後に控える巨大な裏庭。穴ぼこだらけのまま放置された道路。二部屋しかない小さな住居が雑多な安物でごった返す。会合では、黒人中心の論客らがこんな具合に熱い討議を交わしていた。

 ――黒人だってことは、白人のやり方が黒人にとって最良の道だと信じ込むのを、もう黒人の側から拒絶するってことなんだ。
 <黒人のための階級闘争ではないんだ。人種闘争なんだ。未だにこんな抑圧を受けているのは、第一に黒人が黒人として団結してこなかったからだ。団結しようとする度に、それこそ人種差別的だと批判されたからだ。ANC(南アフリカ民族会議:反人種主義・非暴力主義を掲げる南アの中道左派政党の略称)はその批判をまともに受け入れてしまった。>
 ――我々の解放は黒人意識と切り離すことはできない。自分たちの存在に意識的になれば、もう奴隷ではいられなくなるからだ。

 ローザの自由を求める逃避行が始まる。(ささやかな自分だけの自由が欲しい。誰もが父や母のような活動家としての人生を私に求めている。)だが、ローザは自分だけの私的な人生を求めて南アを脱出する。二十七歳の彼女はパリを経由し、南仏ニースへ赴く。そこには父の最初の妻カーチャがひっそりと生きており、ローザは彼女の許でしばらく暮らした。

 まもなく、ローザは村のレストランで偶々同席したフランス人ベルナール・シャバリエと親しくなる。妻子ある学校教師で、博士論文を書き上げるためヴァカンスを利用して村に滞在していた。二人は英語とフランス語で会話を交わし、彼は論文の内容に関し「ラテン的なものの衰退」をテーマにするつもりだと打ち明け、その概略をこう説明した。
――フランス人の気質とか思考とかから、ラテン的なものを源とする力がどんどん衰退していくってことなんだ。フランス人の生活は益々アングロサクソン的に傾き、アメリカ的な発想に規定されてきてる。欧州共同市場とか、オタン(北大西洋条約機構)は関係あるね。
 
 二人はうまが合い、逢引きを重ね、熱い官能の日々を過ごす。二人で好んで釣りに出かけ、村の美術館へ絵を見に行ったりした。二人の間では隠し立てはなかった。ベルナールは単純明快に言った。「僕は妻や子供に混じって生活してる。一緒に暮らしてる訳じゃないんだ」
 二人に家はなかったが、彼は彼女とほとんど一緒に暮らしていた。彼はこう言った。「できるんだったら、君と結婚するだろう」。ローザが少しも反応しなかったので、彼は少し気分を害した。いま彼女を生かしているのは、彼が口にした他の言葉なのだ。

 論文の調査という名目で、二人はコルシカ島へ三泊四日の小旅行をし、二人っきりでいる喜びを味わった。二人はロンドンでも共同生活を送ろうと計画。ローザはパリに赴いたベルナールより一足先にロンドンへ行く。が、彼の地で出会ったのは、その男ではなく、その昔ローザの家で姉弟のように暮らしていた黒人の青年バーシーだった。ローザは彼に痛罵される。父の重圧に屈したこと、それに反発してヨーロッパに逃れたこと、「全てが白人の思い上がりだ」と。そして、ベルナールはとどのつまり、ロンドンには姿を現さなかった。

 ローザは秋晴れの爽やかな光に溢れるロンドンを後にして、南アに帰国する。そして、南ア最大の黒人居住区ソウェトの病院で働き始め、まもなく父と同じように刑務所の独房にたどり着くこととなる。ローザは自分が属すべき場所に戻ってきた。南ア~パリ~ニース~ロンドン~南アという軌跡を辿ることで、南アこそローザが帰属する場所だ、とくっきりと見えてくる。そして、亡霊のように付きまとっていたヨーロッパが点景となって消えていく。

 1977年10月19日。かつてないほど沢山の人が拘禁され、逮捕され、多くの団体と唯一の黒人新聞が禁止された。捉えられたのは殆どが黒人だった。数は少ないが白人も拘禁され、逮捕され、自宅軟禁となる。バーガーの娘もその中にいた。彼女ははっきりした嫌疑もなく拘禁された。国側はローザが他の有力女性リーダーと共謀し、コミュニズム及び(乃至は)ANCアフリカ民族会議を助ける陰謀を企てたとして告訴したいらしい。当局はいろいろと彼女のことを調べていたが、ヨーロッパ在留時については今イチ明確ではないようだった。

2022.07.08 二十世紀文学の名作に触れる(33)
『蠅の王』のゴールディング――倫理的・実存的な関心を貫いた異色作家

横田 喬(作家)


 プーチン・ロシアによるウクライナ侵略で明らかなように、人の心の中には「内なるナチズム」が潜んでいる。物理的に絶対な暴力と向き合った時の「正義」の脆弱性こそ、人間の根底にある「根源悪」の何よりの証明ではないか。イギリスのノーベル文学賞作家ウィリアム・ゴールディングが代表作『蠅の王』の中で提示するのは人の心の奥底に潜む闇の部分だ。

 ウィリアム・ゴールディングは1911年、イングランド南西部のコーンウォール州で生まれた。父は学校の教師で、科学的合理主義者であり、SF作家H・G・ウェルズの愛読者でもあった。ウィリアムは少年時代に父の書斎でウェルズを知り、バランタイン(十九世紀の少年冒険小説作家)の『珊瑚島』(1858)などの少年漂流物語やギリシャ文学、特に悲劇などに読み耽った。オックスフォード大学に進み、生物学~イギリス文学を専攻する。

 専攻の転換は、父親の無神論に反旗を翻したため。父の教える自然科学や強調する理性では知ることが到底叶わぬ現象に、強い関心を有していた。卒業後は定職に就かず、劇団の仕事などをやっている。39年にソールズベリ市の学校教師となり、少年たちの教育に当たる。
 翌年、海軍に入り、巡洋艦その他に乗り組む。ドイツの戦艦ビスマルクの撃沈やノルマンディー上陸作戦等々に参加する。ある時は乗艦が撃沈され、彼は三日間も海上を漂流したという。彼の小説の中で、しばしば戦争が深刻な意味を持っているのは、その体験と結び付けて考えると納得がいく。終戦後の45年、以前に勤務していた学校に復職。その頃からしきりに小説の創作に精力を傾け、作家業に目途がついた61年に教職を辞した。

 彼の名を一躍有名にするのが54年に発表した『蠅の王』である。多くの出版社に断られた末に、かの著名な詩人T・S・エリオットが最高責任者を務めるロンドンの出版社が刊行を引き受ける。原稿を読んだに違いないエリオットがどんな感想を持ったか。現代詩人のうちでエリオットほど人間の内なる暗黒を意識していた者はいなかった筈だ。そして、ゴールディングもまた現代の小説家の中で、そうした内なる暗黒を強く意識する者の一人だった。

 『蠅の王』は前記した『珊瑚島』のパロディとまでは言えずとも、この少年漂流記を意識して書かれたのは明白だろう。その系譜は、十八世紀のかの『ロビンソン・クルーソー』(ダニエル・デフォー作)や十九世紀の『十五少年漂流記』(ジュール・ヴェルヌ作)に遡ることができよう。これらの有名な小説は、元々は大人のための、それも人生の体験を十分に積んだ大人のための小説でありながら、今日では専ら少年文学として読まれている。

 そのような意味合いでは、『蠅の王』も少年文学の一つとして読むことも可能だ。が、先行した少年向け漂流記は、少年たちが力を合わせて生活していく善意の物語に終始するが、『蠅の王』の場合は全く異なる。ある者は内心に巣食う獣性に目覚め、少年たちは激しい内部対立から殺伐陰惨な闘争に駆り立てられていき、痛ましい二人の犠牲者さえ生んでいく。

 少年たちが理性的なるものを象徴する「法螺貝」を中心に生活しているうちは、佳かった。彼らは無邪気で、無垢であり得た。だが、やがてじわじわと何かが、子供たちの言葉で言えば「獣」が、大人の言葉でなら「悪」が、彼らの無垢を侵し始めていく。法螺貝を中心に理性的秩序を守っていこうとするラーフやピギー。それに反対するジャックもロジャーも、この「獣」が実は彼らの内面に巣食っている悪であることに気づこうとはしない。

 その点への理解が深まれば、『蠅の王』はおよそ少年文学とは縁遠い作品であることが知れる。ジャックたちが屠った豚の首を「暗黒への贈り物」として、外なるものへ捧げるのはそのことを物語っている。ただ、例外はサイモンという子だ。この子だけは内なる悪、内なる暗黒と対決する勇気を持っている。黒蠅のたかっている豚の首は「蠅の王」と呼ばれているが、サイモンがこれと対決する場面はこの作品中で最も重要な個所の一つだろう。

 だが、賢明で良心的なサイモンは悲劇的な結末をたどる。突然の落雷や豪雨の下、暗闇の中で「獣」と間違われ、ジャック指揮下の武闘派の少年たちによる棒切れの滅多打ちに遭い、無残な死を遂げる。ラーフの軍師格の思慮深い少年ピギーを待ち受ける運命も同じく非業だ。ジャック派の少年が落下させた大岩に襲われ、40㌳下の岩盤に落下し、惨死する。今や孤立無援のラーフを待ち受ける境涯は残酷だ。ジャックが指揮する少年たちは勢子さながらに嘗てのリーダーを駆り立て、森に放火さえしてじりじり追い詰めていく。

 米国のかのモダン・ホラー作家スティーブン・キングは、大人の小説に開眼した作品として、この『蠅の王』を挙げている。従来の児童物に物足りなさを感じていた14歳の時、巡回図書館の女性司書に「子供の本当のところが書いてある物語とは?」と質し、示されたのが『蠅の王』。夢中で読み、戦慄した。「邪悪なところもある子供がありのままに描かれている。世界は善悪がきっかり分かれているものではない。最後まで読んでも明確な答えが出ず、いつまでも心に残り、深く考えさせる物語があると知り、大人の小説に開眼した」と言う。

 ゴールディングに戻る。この後55年に、人類の原罪を描く『後継者たち』を発表する。冬が去り、春が来る。首長のマルに率いられた一族は、海辺から山の中へと移動してくる。平和で平穏な季節は過ぎ、そこでは嫉妬や怨恨、野心が渦巻く。そして、川の向こう岸には、彼らに取って代わろうとする新来者の姿があり、彼らの環境と運命は大きく変わっていく。ネアンデルタール人と人類の遭遇と軋轢そして闘争を描く奇想天外な寓話だ。

 彼は翌56年には『ビンチャー・マーティン』、64年に『尖塔』、80年に『通過儀礼』などを次々に発表。同年にイギリスの代表的な文学賞のブッカー賞を、83年にはノーベル文学賞をそれぞれ受賞し、93年に81歳で亡くなった。



2022.07.06 二十世紀文学の名作に触れる(32)
 ゴールディングの『蠅の王』――少年漂流物語の体裁で追究する人間の根源悪

横田 喬(作家)

 1983年にノーベル文学賞を受けたイギリスの作家ゴールディングの代表作が表題の『蠅の王』だ。「蠅の王」とは、聖書に出てくる悪魔ベルゼブル(ベルゼバブ)を指す。この作品は、ジュール・ヴェルヌの『十五少年漂流記』を架空の未来に移して翻案。少年たちの根源悪が生々しく噴出する様(私はプーチン・ロシアのウクライナに対する蛮行を想起した)を衝撃的に描いた問題作だ。新潮文庫(平井正穂:訳)版を基に概要を紹介してみたい。

 金髪の逞しい少年ラーフは南太平洋の孤島の浜辺で、似たような年頃で太っちょ・近眼のピギー(豚ちゃん)と出くわす。(原爆投下が疑われる)近未来の第三次世界大戦の最中、イギリスから疎開する少年たちを乗せた飛行機が敵の攻撃を受け、島に不時着したのだ。
 海岸は辺り一面椰子の木で覆われ、酷熱が漂っていた。ラーフは十二歳と数か月、両肩の幅や頑丈さは、将来,ボクサーになれそうだった。沖合に珊瑚礁が広がり、円弧を描く珊瑚に囲まれた礁湖が静まり返る。泳ぎの得意なラーフは礁湖の底からクリーム色の大きな法螺貝を拾い出す。吹く要領がわかった彼は深い、つんざくような音を辺り一面に響き渡らす。

 音は椰子の木陰に轟き、鬱蒼たる森の中へと広がってゆく。鳥が黒雲のように梢から飛び立ち、得体の知れぬものが叢の下でキーキー鳴いて逃げていった。六歳位の少年が椰子の木の間から姿を現す。金髪で、衣類は破れ、こちらの高台の方へとことこ歩いてくる。生ける印が砂浜一帯にはっきり現れ、多くの少年たちが酷熱の砂地を蹴って、近づきつつあった。
 ピギーは集まった子供たちの間を動き回り、名前を訊いて暗記しようと渋面をつくっている。子供たちは、ピギーの言いつけに素直に従った。ある者は裸になって衣類を手に抱え、学校の制服を半ば着て半ば脱いでいる者も。頭の髪も、褐色あり、金髪あり、黒髪あり、栗色あり、鼠色あり。ぶつぶつ言う者、囁いている者、何か思案している者、各人各様だ。最後の二人は双生子のサムとエリック。ずんぐりとした元気いっぱいな体つきをしている。

 少し間をおいて、一風変わった服装の少年たちがほぼ二列縦隊で行進して来た。半ズボンやシャツなどを手にぶら下げ、銀のバッジの付いた四角な黒い帽子をかぶっている。体は喉から足首まで、すっぽり黒い外套で覆われていた。左胸には長い銀の十字架が、そして首の所にはハムの紙飾りみたいな襞飾りが付いている。焼けつくような砂浜での汗水たらしての行進で、少年たちの顔は洗い立てのスモモのように真っ赤だった。
 ジャック・メリデューと名乗るリーダーの少年は、独りだけ帽子のバッジが金色。背が高く、瘦せて、骨ばっている。髪の毛は赤く、そばかすだらけの顔は愚かさのない醜悪な容貌を呈していた。傲慢さをさらけ出し、ジャックは「隊長になる」と名乗り出るが、選挙で決めることに一決。挙手の結果、法螺貝を吹いた特別な存在のラーフが隊長と決まり、ジャックの顔は屈辱のため紅潮した。ラーフはジャックが率いる合唱隊の指揮は任す、と約束する。

 ラーフにジャック、そして元気の良さそうな小柄な少年サイモンの三人が島の状況を調べに出発する。少年たちは山へ登る近道を探し、険しい登攀に挑む。崖を登り、かなり広闊な森の中へ出る。さらに山腹の窪地を越え、四角な山頂を極めた。青い花が咲き乱れ、一帯は蝶々の群れでいっぱい。島は舟の形をしていて、無人島らしかった。森の中で一か所、裂け目が見え、何かが引きずられた跡があり、飛行機の不時着した所らしかった。帰路、三人は森の入り口付近でつる草に絡まれ、キーキー悲鳴を上げている仔豚を見かける。

 ラーフは高台に少年たちを集合させ、今後の事を諮る。みんなで山の頂上に登り、薪用に枯れ木を引っ張り上げる。ピギーの眼鏡のレンズを利用して薪に点火し、ラーフは言った。
 ――狼煙をしょっちゅう上げていれば、大人たちが救助にやってきてくれるに違いない。いつかは救助されると思う。ただ(しばらくは)待っている必要がある。
 それから少し経ち、ラーフが水平線を見つめ、「煙だ!煙だ!」と叫ぶ。煙の下には煙突とおぼしき小さな点があった。サイモンとピギーは山頂を見上げる。火は消えていて、煙の跡かたもなく、狼煙の番人たちの姿もない。ラーフは狼狽し、地団駄ふんだ。
 ――畜生!狼煙を消しやがって!
 任務を放擲した狼煙の番人たちは隊伍を整え、豚の死体を担いで帰還する。顔を隈取したジャックが槍を高々と掲げ、意気揚々と叫ぶ。「どうだい!豚をしとめたんだぞ」。ラーフが詰る。「君たち、火を消してたじゃないか」「船が沖を通ったのだぞ」。ジャックは言い返す。「ぼくがみんなに肉を食べさせてやったんだ」「海辺近くで取り囲み、僕が喉をかき切った」。

 小柄な瘦せた少年サイモンは、独りで森の中へ入った。やがて棒切れの先に晒首になった豚の頭と対面する。黒山のように蠅がたかり、ぶんぶんと鋸の唸っているような音をたてていた。面前には蠅の王が棒切れの上に晒され、静まり返り、にやにや笑っていた。サイモンは絶望的になり、後ろを向く。蠅の王と沈黙の声を通して対話し、体が硬直する。巨大な口の中を覗き込んでいるのに気づき、彼はぶっ倒れ、意識を失ってしまう。
 目を覚ましたサイモンは気を取り直して森の中を進み、パラシュートと絡み合う腐りかけの死骸と遭遇する。みんなに早く伝えねばと気が焦り、山を駆け下りようとよろめき歩く。

 礁湖の方へ伸びている岩場では、ジャックたちが焚火を燃やし、豚肉を炙って宴を開いていた。急に雷鳴が轟き、大粒の雨がばさっばさっと音を立てて、降ってくる。稲妻が閃き、落雷の物凄い音が轟く中、少年たちの詠唱が甲高い調子で響き渡る。「豚を殺せ!ソノ喉ヲ切レ!」「豚を殺せ!ソノ喉ヲ切レ!」。その時、何物かが森の中から這うようにして出てきた。暗闇の中、棒切れが滅多打ちに振り下ろされ、「獣」は必死に這いだし、少年の一団は後を追って殺到する。惨劇の後、なんとサイモンの死骸が浜辺に漂っていた。

 ラーフとピギー、そしてサムにエリックの四人は隊伍をととのえ、城岩に立て籠るジャックら一味を訪ねる。奪われたピギーの眼鏡を返させる必要があったからだ。「泥棒!」と詰られ、ジャックは槍で激しく突いてき、ラーフが応戦。ジャックの指示でサムとエリックが一味に縛られてしまう。ロジャーが錯乱し、梃子を使い、絶壁の上の赤い大岩を落下させる。
 岩は顎から膝にかけ、掠めるようにしてピギーの体に衝突した。彼は四十㌳下へ墜落し、四角な赤い岩の上に仰向けに落下。頭が割れ、中身が飛び出し、真っ赤になった。ジャックがラーフに向かい、狂ったように喚く。「どうだ。君には一人も部下はいない」。はっきり殺意を込め、凄まじい勢いで槍を投げ、恐怖を感じたラーフは一目散に森の方へ逃げ出す。

 ラーフは果樹地帯へ出て、意地汚いくらい貪り食った。樹影の下にうずくまり、しみじみと自分の孤独をかみしめた。「さ、持ち上げろ!よいしょ!よいしょ!」。城岩の頂上から赤い大岩が持ち上げられ、落下。ラーフは弾き出され、枝にぶっつけられた。ぱちぱちいう音がし、煙が白と黄の筋となって、忍び込んでくる。ラーフは一目散に駈け、鬱蒼たるジャングルの中へ飛び込む。槍を握る追手は包囲線を狭め、激しい火勢を背に身近に迫ってくる。

 絶望的な恐怖に苛まれ、彼は森を駆け抜け、海辺へと向かった。木の根につまずき、転倒。立ち上がると、軍装に身を固めた1人の海軍士官が砂の上にいる。浜辺にはカッターが引き揚げられ、二人の水兵がいた。士官が笑顔で尋ねる。「君たちの煙が見えたんだよ。戦死者はいないだろうな?」
 ラーフは答えた。「二人だけ死にました」。(サイモンが死んだ。そして、ピギーも。――ジャックのやつが・・・)涙がとめどなく流れ、彼は体を震わせて嗚咽した。悲しみの激しい発作に、彼は身を委せて泣いた。この激情につりこまれて、他の少年たちも体を震わせて嗚咽し始める。士官は、心を動かされ、かなりどぎまぎした。

2022.06.22  平和主義の社会実現へ一筋の光明
        『非暴力という希望――いのちを最優先する社会へ』(青山正著、同時代社刊:税込み\2,200)

横田 喬 (作家)

 著者の青山正さんは仙台出身で68歳。東京で大学を卒業した後、会社勤務の傍ら長年にわたり市民運動の裏方役(広報紙を発行するなど)として地道に活動。十三年前に長野県内へ移住後は葡萄やリンゴなど果樹農業で生計を立てながら、3・11以降の脱原発への取り組みを日常活動として地道に続けている。私は朝日新聞社会部記者当時の三十余年前に取材を通じて懇意な仲になったが、東北人らしい実直・誠実な人物として太鼓判を押せる。

 プーチン・ロシアによる理不尽なウクライナ侵攻で胸が痛む日々だけに、『非暴力という希望』という書名に一筋の光明を感じる。青山さんは第二章「いのちと非暴力を巡る旅への誘い」の中で、こう訴える。
 ――インドを独立に導いた故ガンジーさんが唱えた「非暴力主義」の考え方は、とても積極的であり、巾が広くまた奥行きの深い思想でした。「平和への道はない。平和こそ道なのだ」という彼の思想は、私たちの日々の歩みと暮らしの中にこそ平和があるべきだと教えてくれます。

 青山さんは現下のロシア軍ウクライナ侵攻の雛形とも言うべき(プーチン・ロシアによる)チェチェン戦争の顛末について、巻末の<資料1>と<追補>に大略こう記す。
 ――ロシア連邦からの独立を目指したチェチェン共和国(面積は日本の四国ほど、人口百万人弱)に対し、エリツィン政権は1994年に大規模な軍事侵攻を開始。全土を破壊し、十数万人もの犠牲者を生んだが、小国チェチェンは徹底抗戦して大国のロシア軍(士気が低く、若い新兵が大勢無駄死にしていった)を追い詰め、実質的な勝利のうちに停戦に持ち込んだ。

 ――99年に始まった第二次チェチェン戦争では、開戦前に当時のプーチン首相が計画的な謀略テロ事件を仕掛けた。モスクワで起きた死者三百人とも言われる連続アパート爆破事件がそれで、チェチェン人犯人説をロシア政府が発表。開戦となり、エリツィン大統領の下で首相となったばかりのプーチン氏がロシア軍を指揮し、全土への無差別な空爆を行い、地上軍が全面的に侵攻。マスハドフ大統領ら独立派の指導者たちを全て殺害してしまう。

 ――(前記した)死者三百人とも言われるモスクワでの連続爆破テロは、後にロシアの情報機関FSBの自作自演の犯行だった、と判明する。当のFSBの要員だったリトビネンコ氏の告発により明らかとなったが、彼はその後亡命先のロンドンで暗殺されてしまう。プーチン体制下のロシアでは、以後も政権に批判的なジャーナリストや政治家の暗殺や投獄が相次ぐ。(旧ソ連KGB<国家保安委員会>幹部上がりのプーチンの陰湿な体質が覗く)

 青山さんは難民認定を求めて2006年にチェチェンから日本へ亡命してきた青年を個人的に支援(二年半後に原因不明のまま病死)した。チェチェン難民救済活動のため度々来日したチェチェン人の医師ハッサン・バイエフ氏とも親交を重ね、自身が代表を務める「チェチェン連絡会議」を立ち上げ、「市民平和基金」を設立して援助の手を差し伸べた。

 青山さんと私は1985(昭和60)年当時、国家秘密法(通称スパイ防止法)に対する反対運動を通じて知り合った。この法案は、外交秘密・防衛秘密を洩らした者を最高刑死刑に処する、というとんでもない内容。東京周辺で消費者運動や反原発運動など様々な市民活動に関わっていた無党派の若い世代の活動家たちが学習会を持ち、「国家秘密法に反対する市民ネットワーク」という活動体を立ち上げた。私は反対運動を伝える報道記者として度々このグループと接触を重ね、ブレーン格の青山さんと同憂の同志として親密な仲になった。

 反対運動を進める強い支えになったのがパンフ「秘密だらけの日本はイヤッ!」。秘密法が運用いかんで市民生活をいかに脅かすか、イラストをふんだんに使い、分かり易く解説。このパンフ配布によるPR効果や日比谷公園での大々的な反対集会。婦人団体や労働団体などとの共闘、イギリスの国会議員(自由党)ら情報公開運動の専門家三人の手弁当での応援来日など諸々の動きが相まち、中曽根内閣当時の自民党タカ派は法案提出を断念する。一連の経過を通じ、青山さんは思慮深い人物として私の脳裏に刻まれ、信頼し合える友人となる。

 彼はこの後、88年4月に月刊市民メディア「ピースネットニュース」を創刊する。折々の主要な活動テーマを拾うと――▽91年:湾岸戦争での反戦運動▽92年:「PKO協力法案」反対▽95年1月:「阪神・淡路大震災」被災者救援▽同年4月:ロシア・チェチェン戦争を機に「市民平和基金」設立▽2003年:「非暴力平和隊・日本」の活動に参加。そして、09年7月:二十一年続けた「ニュース」を休刊(長野県への移住のため)するに至る。
 東京当時の論考では、例えば「新ゴーマニズム宣言を読む」と題し、漫画家・小林よしのり氏の著書を寸評。「偏見と独断に満ちた傲慢的な本」と一刀両断に切り捨てる。その一方、童謡詩人・金子みすずの「私と小鳥と鈴」の可憐な詩句を引用したり。感動的なスペイン映画「蝶の舌」に対する深い感銘を綴ったり。柔らかな感性の一面ものぞかせる。

 青山さんは反戦~平和運動に献身する傍ら、反原発運動にも関わってきた。この著書の中では「坂田さんの危惧が現実となった福島原発事故」と題し、長野県下での脱原発への歩みを紹介している。須坂市の故・坂田静子さん(98年死去)はイギリスに住む長女の第二子の死産(原発からの放射能漏れの影響と推測される)を機に活動に参加。「原発周辺に放射能がばらまかれるなら、日本人は遠からず一億総ヒバクシャとなり、私たちの子孫に未来はない」と公言。個人で反原発のチラシや通信を配布し、資料室を開設するなどの草の根の活動を精力的に展開した。青山さんは彼女の遺志を受け継ぎ、農作業の合間に反原発の活動に参加。福島原発事故被災地の子供と親を招く「サマー・キャンプ」を毎夏、企画している。

 市民運動の裏方役を長らく担ってきただけに、本書には小田実・元べ平連代表の人間臭い裏話が披露されたりもする。反公害・反核運動をリードした宇井純・高木仁三郎・広瀬隆らお歴々とも親しい交流があった、と聞く。「社会変革」に詳しい上田紀行東工大教授(文化人類学)は「五十年近く平和と非暴力を追求してきた青山さんのような人がいるから(日本では)平和が保たれてきたのだ」とし、本書推薦の弁をこう述べている。
 ――それでも社会にはひどいことが多い。でも、そのひどさがこの程度で収まっているのは、それに声を挙げている人たちがいるからだ。青山さんは政治家ではない。今は長野で果物を栽培しつつ挑戦し続けてきた。その多岐にわたる軌跡がここにある。ロシアのウクライナ侵攻という、私たちの心が引き裂かれるこの時期だからこそ、青山さんの歩みを知り、言葉を聞きたい。
2022.06.07  二十世紀文学の名作に触れる(31)
『ブリキの太鼓』のギュンター・グラス――現代ドイツ最大の社会派作家
 
横田 喬(作家)


 中学一年の際に第二次世界大戦の幕開けを経験したギュンター・グラスはドイツ敗戦の直前、十七歳の少年兵として東方国境の最前線へ送られた。文字通り九死に一生を得る極限状況を体験し、戦後のドイツで良心的な社会派作家として不動の地位を築く。私は彼の自伝的な著書『玉ねぎの皮をむきながら』に接し、その運勢の強さに驚嘆。天の計らいか、と感じ入った。

 グラスは1927年、バルト海の港町ダンツィヒ(現ポーランドのグダニスク:当時は自由都市)に生まれた。ドイツ人の父親は食料雑貨店を営み、母はスラヴ系の少数民族カシューブ人で、『ブリキの太鼓』の主人公オスカルの人物設定そのまま。第一次大戦の敗戦国ドイツにヒトラー政権が成立するのが六年後の33年。この年、グラス少年は国民学校(今の小学校)に入学し、以後十代の青春期にかけてナチス政権の消長に境遇を左右される。

 ヒトラーは「ユーフェミズム」(わざと遠回しの言い方をすること)を活用した。「ドイツ国民を保護するための規制」を謳い、報道の自由を規制。「政治犯の再教育施設」を唱え、(ユダヤ人隔離用の)強制収容所を設立した。「官吏法」(非アーリア人は官職に就けないとの法令)を定め、「官吏団の民族的・人種的清掃と改組」と称し、ユダヤ人とは一言も名指しせずにユダヤ人の官吏・教授・裁判官などを罷免し、追放できる仕組みを作った。

 39年9月1日、ドイツ海軍の軍艦がダンツィヒ湾岸のポーランド軍事基地へ砲撃を開始。ドイツ軍はダンツィヒ自由都市に進駐し、ポーランド軍は七日間の抵抗後,降伏。これを機に第二次世界大戦が始まった。旧市街のポーランド郵便局の防衛に加わっていたグラスの母親の従兄弟は即決裁判で射殺(これも『ブリキの太鼓』での叙述そのまま)されている。

 一方、グラスの父親は36年にナチ党に入党し、グラス自身も翌年にナチスの青少年組織ヒトラー・ユーゲントの少年部に当たる「ユンクフォルク」(少年団)に加入している。グラス少年は十五歳でヒトラー・ユーゲントに入り、労働奉仕団員や空軍防空部隊補助員を務め、翌々年に応召。軍務に就くが二か月余で敗戦~米軍捕虜収容所で半年間の収容生活を送る。その後、デュッセルドルフで彫刻家・石工として生計を立てながら美術学校に通い、詩や戯曲なども書く。59年に発表した長編小説『ブリキの太鼓』で一躍有名作家となった。

 この出世作では、ドイツの戦前・戦中・戦後の在り方が故郷ダンツィヒとデュッセルドルフを舞台に、三歳で成長を止めた少年オスカルの下からの眼差しで生き生きと描かれる。雑居アパートの階段ごとに違う臭い――煮込みキャベツの匂い、洗濯物の下着や共同便所の臭いなどが漂ってくるかのように。そんな中、小市民たちはいつかナチスに迎合し、戦争に加担していく。戦後になると、自分たちの過去を忘れたかのごとく生きていく様子が示される。自分はナチという悪魔に騙されていただけだとし、厳しい反省がなされないまま。

 続いて61年に『猫と鼠』、63年に『犬の年』と同じく郷里ダンツィヒを舞台とする創作を発表。『ブリキの太鼓』と併せ「ダンツィヒ三部作」と呼ばれる。その後、フェミニズムを料理と歴史から描く『ひらめ』(79年)、『女ねずみ』(86年)、『鈴蛙の呼び声』(92年)と話題作を次々と刊行。99年には『私の一世紀』と題し、二十世紀の百年をそれぞれ一話ずつの短編を連ねて描き出す意欲的な趣向を試みている。

 グラスは60年代の頃からブラント旧西ドイツ首相(ドイツ社会民主党<SPD>党首)を支持し、社会民主党の選挙応援に奔走。「大連立」「小連立」と西ドイツの政権交代に貢献した。市民運動を組織化したり、時事的・政治的出来事で積極的に発言し、「社会参加」の代表的作家と目されるに至る。ドイツ再統一では、それが西ドイツによる東ドイツの一方的な吸収合併であるとして反対の論陣を張り、マスコミを敵に回すことも辞さなかった。

 前掲の大作『ひらめ』で壮大な構想の許に女性問題を扱う一方、80年代にはインド滞在などを通して、南北問題や環境問題の深刻さを痛感。文学でも第三世界の貧困や環境破壊の問題を視野に入れ始める。『女ねずみ』では、核戦争による人類滅亡のヴィジョンで深い絶望を表明しつつも、文学表現の可能性を極限にまで突き詰めようと努めた。

 99年にノーベル文学賞を受ける。授賞理由は「遊戯と風刺に満ちた寓話的な作品によって、歴史の忘れられた側面を描き出した」。彼はその賞金でロマ民族(ジプシー)などのマイノリティの保護活動を早速展開する。二十一世紀に入ってからも『蟹の横歩き』(2002年)などの話題作・問題作を提供し、右傾化する社会に対して彼なりの抵抗を示した。

 06年、自伝的作品『玉ねぎの皮をむきながら』を発表する。その中で、自分がナチスの「武装親衛隊員」だったことを記述し、波紋を広げた。問題の個所は「わたしはいかにして恐怖を学んだか」と題され、全十一章の中の第四章の部分(全五十四頁)。十七歳の最下級兵(戦車の砲手)として召集され、東方の最前線で負傷(幸い軽傷)~戦線を離脱~米軍の捕虜として敗戦を迎えるに至る顛末が生々しく事細かに綴られる。

 その一節に、彼はこう記す。「私は、最初はゆっくりと、やがて加速し、とうとう雪崩を打って大ドイツ帝国の崩壊が、組織立った混沌状態のうちに進行していくのを目撃することとなった」。敗戦寸前の45年四月半ば、ソ連軍の大部隊がポーランドとの国境のオーデル川・ナイセ川を越え、怒濤の勢いで進軍してくる。最前線で敵軍のロケット砲の猛烈な連続射撃を浴び、匍匐前進中のグラスは恐怖のあまり、ズボンの中で小便を漏らしてしまう。

 死体がそこら中に散乱する大混乱の中、十七歳の少年兵は本能的に退却の途を選ぶ。幾ばくかの変遷を経て、彼は六、七人のグループに属し、村の自転車屋の地下室に籠る。リーダーの曹長が激しい銃撃戦から逃れる方途を即断。「自転車に乗れ!全速力であっち側に行くんだ」と一同に命令を下す。が、グラスだけは自転車が苦手で乗れなかった。仕方なく、軽機関銃で援護する役を言いつかる。自転車で表に出た一同は敵の機関銃の斉射を浴び、瞬時に命を落とす。彼は家の裏口から逃れ、灌木の茂みに潜み、間道をたどって友軍の列に戻る。

 「武装親衛隊」がいかなる親衛隊であったかを問うことなしに、マスコミが飛びつき、大騒ぎになる。が、ひと月足らずで騒ぎは急速に終息する。その組織は「SS」の名で恐れられた親衛隊とは別で、戦争の進展と共に慌ただしく作られ、「十七歳以上」を急遽かき集め、絶望的戦線に投入した顛末が明らかになったからだ。私自身は原本に子細に目を通してみて、彼が文字通り紙一重のところで死線を脱した経緯を知り、その運勢の強さに舌を巻いた。
 
 グラスは14年に創作活動からの引退を表明。翌年、八十七歳で死去した。生前、彼はウクライナやパレスチナ、イラク、シリアなど現今の紛争地の状況を懸念。「まるで夢遊病者のように、世界大戦に突き進む可能性もある」と発言していた。現下のプーチン・ロシアによるウクライナ侵攻を見れば、その懸念が的外れでなかった、と知れる。停戦の兆しが見えない中、苛立つロシア軍が化学兵器や核兵器の使用を思い立たったりしないよう、請い願う。

2022.06.04  二十世紀文学の名作に触れる(30)
ギュンター・グラスの『ブリキの太鼓』――読者を仰天させる新奇な物語(下)

横田 喬(作家)


 1941年秋、ドイツ軍はモスクワ西方の戦線でロシア軍を相手に泥沼に落ち込んだ。十七歳の僕オスカルもまた、視界不明でもがいていた。そんな僕に「世界市民」の看板を掛けさせるよう導く教師たる小人の道化者べブラ師が立ち現れる。彼は(第三)帝国宣伝省と親しく、ゲッペルスやゲーリングといったナチスの成り上がり者の私室に出入りしていた。

 翌々年六月、オスカルは小人のべブラたち慰問団とドイツ軍の基地などを慰問するため、丸一年の旅に出る。シュトルプ~シュテッティン~ベルリン・・・と各地を巡業。一行のマドンナのロスヴィータと僕は恋仲になるが、彼女は連合軍の艦砲射撃に遭って亡くなる。
 オスカルはダンツィヒに戻り、やけくそのように歌った。夜道で歌い、明かりの漏れている屋根裏部屋とか街灯とか何やかやを、うっぷん晴らしにぶっ壊した。45年1月、ソ連軍がダンツィヒに侵攻。七百年かかって造られてきた街は、たった三日で灰に帰した。

ソ連兵三人が父マツェラートを地下室で尋問し、挙動不審(ナチスの党員章を隠そうとして)の廉で即座に射殺してしまう。その葬儀の日、オスカルはそろそろ寿命のブリキの太鼓を棺の中に投げ入れた。二十一歳になる僕は完全な孤児になり、(義母なのか愛人か)一つ年上の未亡人マリーアと(弟なのか倅か)クルト坊やに対する責任だけが残った。

 墓地の砂が棺や太鼓の上に積もるにつれ、僕もまた成長を始めた。それは先ず、鼻からの激しい出血で示され、全身がきしみ、ざわつき、ぽきぽき音を立てるので、それと分かった。その後、僕はマリーア母子と一緒に西方のシュトルブ行の貨車に乗る。マリーアの姉を頼りデュッセルドルフへ引っ越すためだ。道中で激しい痛みと共に成長を再開し、僅か94㌢だった僕の身長は10㌢近く伸びていた。痛みを伴う身長の伸びは、その後も続く。

 時は戦後の46年に移る。故郷を離れ、異郷のデュッセルドルフで暮らすオスカルは忌避していた父親と同じ商売ともいうべき闇屋商売から出発。傍ら美術修業を志し、彫刻の勉強を開始。それが縁で美術学校のヌード・モデルにスカウトされ、僕をモデルにして描かれた絵画が評判を呼ぶ。機嫌を損ねたマリーアといさかいが起き、僕らは別居するに至る。

 引っ越し先でオスカルはフルートが吹けるクレップと親しい仲になり、ギタリストのショレを見つけ、三人でジャズ・バンドを結成する。僕らはライン川沿いの野原を好んでジャズの曲目の練習に励み。楽団名を『ザ・ライン・リバー・スリー』と名乗った。
 僕たちはラインの岸辺で「タイガーラグ」を演奏中、野鳥を撃ちに来ていた旧市街の店の主シュム―と知り合う。彼は近くで思いにふけっていた妻を呼び寄せ、もう一曲を所望。
僕らが「ハイ・ソサイエティ」を披露すると、この妻女は「(うちの)酒場に欲しい、って言ってたのが見つかった!」と叫び、僕らはシュムーが営む「玉ねぎ酒場」に就職がかなう。夜九時から朝二時まで演奏、一人一晩十四・五マルクの条件で折り合いがついた。

 通りから見える「玉ねぎ酒場」は、多くのお馴染みの新奇な酒場にそっくり。贅沢なインテリアで、値段が割高。真っ赤なドアを入り、階段をどんどん下り、地下にあるナイトクラブに案内される。主人直々に客を出迎え、大層なジェスチュアを添える。客筋はビジネスマン・医者・弁護士・芸術家・舞台人・ジャーナリスト・映画人・著名スポーツ選手・州政府や市役所の高官たち。一言で言うなら当今、インテリと称される人々だ。

 店名の通り、客の全員に玉ねぎ一個ずつと豚や魚の形をした板切れ一枚に台所ナイフ一挺ずつが配布される。客たちは恭々しく受け取り、店主シュムーの合図一下、一斉に玉ねぎの皮むきにかかる。一枚、二枚、三枚・・・板切れの上で涙にむせながら、ひたすら玉ねぎが刻まれていく。どうしてだ?玉ねぎ酒場ならではの趣向だから。当たり前のサービスが所望なら、そういう向きの店へ行けばいいのだ。僕はこの酒場でのバンドを辞めた後、太鼓の演奏でレコードを出し、多額の収入を得る。その金でマリーアに商店を開かせた。

 オスカルは民衆大学の講座に出たり、「橋」と呼ばれていたイギリス文化センターに入り浸り、カトリック教徒とプロテスタント教徒と共に国民全員の戦争責任をめぐって議論した。いまコトをつついておけば、既に済ませたことになり、後に問題が持ち上がった時、良心のやましさを感じないでいられる。そんなふうに考えた人たちみんなと同じように、自分も共同責任を感じたものだ。

 僕オスカルは月に一度、市立病院のイルデル教授の許を訪ねた。教授が僕の症例を興味深いケースと見ていたからだ。看護婦たちは僕を歓迎した。僕の背中のコブに対して子供っぽい、悪意のないいたずらを仕掛ける。何か美味しいものを用意し、果てしのない、こんがらかった病院の内輪話をしてくれた。看護婦の白衣に包まれた二十人から三十人の娘たちの間で、オスカルは熱望される唯一人の男性だった。

 ある日、オスカルが借り犬を連れて家の近所を散歩中、犬が指輪を着けた女性の切断された薬指をくわえて持ってくる。これは後に分かるが、オスカルが秘かに心を寄せていた市立病院の看護婦ドロテーアのものだった。この様子をじっと見ていた近所の住人ヴィトラールが一件を警察に通報。オスカルは殺人の嫌疑をかけられ、逃亡するが、逮捕されてしまう。オスカルは精神障害と診断され、精神病院に収容される。彼は自身の幼少時からの記憶と過去を看護人に対し毎日三~四時間、僕のブリキの太鼓に語らせることとなる。

 僕オスカルが三十歳の誕生日を迎えたその日、殺人事件の真犯人が見つかり、僕は釈放される。看護婦べアーテが(医師ヴェルナーをめぐる三角関係の鞘当てから)嫉妬に駆られ、僕の看護婦(大事な)ドロテーアを殺害したというのだ。マリーアは三十本のローソク付きのケーキを持ってきて、こう言った。
 ――もう、三十だわ、オスカル。そろそろ真っ当な人間になるころよ。

 僕は内心秘かに呟く。(僕は無罪となって街頭に放り出され、列車や市電の中で、あの不吉な歌の文句を突き付けられるのだ。黒い料理女<僕の潜在意識の中での外的脅威の象徴>はいるのかい?いるいる!)

2022.06.02  二十世紀文学の名作に触れる(29)
ギュンター・グラスの『ブリキの太鼓』――読者を仰天させる新奇な物語(上)

横田 喬(作家)

 1999年にノーベル文学賞を受けた現代ドイツ最大の作家ギュンター・グラス(1927~2015)の代表作が表題の『ブリキの太鼓』だ。59年に発表(処女作)され、作家としての地位を確立した同作は文庫版(集英社:訳・高本研一)で三冊にも及ぶ大作。読む者を仰天させる全く新しいタイプの小説で、内容の要約は困難を極める。今回だけは(上)(下)二回とすることをご容赦願い、私なりの紹介を試みたい。

 精神病院の住人である三十歳のオスカルが看護人に対し、自らの生涯を語る形式で物語は展開する。1899年、ダンツィヒ近郊のジャガイモ畑で、オスカルの祖母アンナは逃げてきた放火魔の男を四枚重ねのスカートの中に匿い、追跡する官憲の手から救う。アンナはその男との間に、オスカルの母アグネスを授かる。アグネスは四つ年上の従兄弟ヤンと相思の仲だったが、結ばれぬまま、時は移る。第一次大戦終了間近の1918年夏、野戦病院の看護助手を務めるアグネスは入院患者の中の人気者マツェラートに心を奪われ、所帯を持つ。

 物語の舞台が国際都市ダンツィヒとあって、マツェラートはドイツ人でヤンはポーランド人、そしてアグネスはスラヴ系の少数民族カシュ―ヴ人だ(この設定は著者グラスの実在の両親の身元にそのまま当てはまる)。ダンツィヒの中心街にあるポーランドの郵便局に勤めるヤンは近くに食品店を構える従姉妹アグネスと夫婦ぐるみの付き合いを始める。アグネスは客あしらいが巧く、コンビのアルフレートは買い出し上手で料理好きだった。

 僕オスカルが誕生した時、両親は「三つになったら、ブリキの太鼓を買ってやろう」と言葉を交わす。僕は三歳までは順調に成長し、約束のブリキの太鼓を手に入れる。が、その誕生日の当日、店の地下室へ降りる階段からコンクリートの床の上へ故意に転落する。この事故後、オスカルは成長を停止(ナチスが台頭する不穏な時代に対する無意識の抵抗か)し、「永遠に三歳児のブリキの太鼓奏者」として生存していく道を選ぶ。

 異能者オスカルは太鼓を打つと共に大声を上げると、花瓶や時計などどんな高価な品々や窓ガラスでも粉々にしてしまう能力を手に入れる。この力は太鼓を奪われるという危機に際し、無意識の防衛規制として発現。六歳児として入学する小学校の画一的な授業や、退廃したキリスト教の教会、ナチスによって右傾化していく社会、などに対し向けられた。
 僕オスカルはまもなく、母とヤンがただならぬ仲であることに気づく。ヤンが我が家に遊びに来て、マツェラートが席を外した隙にすぐさまいちゃついたり、二人で示し合わせて外で逢引し、邪魔っけな僕をどこかに預けたりしたからだ。僕は様々な観察から、僕の実の父親はこのヤンに間違いない、と思い至る。

 ある日、両親と僕にヤンの四人でポンメルン湾(バルト海)の海岸に遊びに行った折のこと。岸辺に引き揚げられた一頭の馬の死体の頭部から大量のウナギが出てくる。母アグネスは、その光景に思わず嘔吐した。が、帰宅後は人が変わったように、ウナギをはじめいろんな魚を大量に食べ続ける。とうとう食中毒を起こし、あっけなく亡くなってしまった。

 1939年夏、十四歳のオスカルは三歳児の体型のままだ。生来親切で善良だった養い親のマツェラートはナチスの党務しか頭になく、冬季救済募金運動に没頭し、僕オスカルは独りぼっちだ。傷ついた太鼓を修理してもらおうと八月末、僕はヤンに会い、へベリウス広場のポーランド郵便局への同行(門番のコビュエラに太鼓の修繕をしてもらうため)をせがんだ。
同僚たちから不信の目で迎えられたヤンは、砂袋を窓口ホールの窓枠に積み上げる作業班へ。僕は二階の空き部屋の洗濯籠に横になり、同じく疲労困憊の太鼓共々眠りにつく。

 僕を起こしたのは、近くの機関銃か、それとも遠くの自由港の戦艦が二重砲塔から発した重々しい一斉射撃の余韻だったか。郵便局の近くで対戦車砲弾が轟然と炸裂。正面玄関に二発の榴弾が命中。窓ガラスが吹っ飛び、壁と天井の化粧塗りが落下し、三人の負傷者が出る。
 中庭で機関銃の音が響き、SS防郷団が攻撃を仕掛けてきた。部屋のドアを爆破し、中型の野戦榴弾砲を用い、郵便局の煉瓦の支柱を次々倒していく。恐慌状態に陥ったヤンは金切り声を上げ、すすり泣いた。門番のコビュエラは彼をポーランド語で罵り、唾を吐きかけた。
 午前四時ごろに始まった戦闘は、十時過ぎに終了。火炎放射器で目をやられ、全身が焦げた三十人ばかりの男たちが両腕を上げ、降伏。彼らと引き離された僕は己の小人性を活用し、巧く処刑を免れた。絶望的になったポーランドは十八日間の攻防戦の後すぐ、国家が滅びる。

 オスカルは背丈が足りず、店の手伝いをする気もなかったから、マツェラートはマリーア・トゥルツィンスキーを雇い入れた。僕の哀れな友人ヘルベルトの一番下の妹で、僕より一つ年上で名前の通り聖母マリアのようだった。数週間のうちに、店の評判を元通りにした。
 彼女は優しくて思いやりがある。必要に応じ、四週か五週ごとに僕に新しい太鼓を寄こしてくれた。丸顔で、目は冷静だが冷たくない。小さめの愛嬌のある、形のよさをもつ鼻。髪はブラウン、小柄な体に大きな乳房、豊かな尻。両脚はすらりとして、がっちりしていた。

 店を仕切っていたのはマリーアで、小売り商店に対し生まれながらのセンスを持っていた。マリーアこそオスカルの最初の恋の相手だった。マリーアは毎晩、僕をベッドに連れていってくれる。着替えを手伝い、優し気な疲れの浮いた顔を近づけ、毛布をかけてくれた。
 翌年夏、臨時ニュースがフランス戦線でのドイツの電撃的勝利を伝えていた頃、マツェラートは僕とマリーアを海水浴に行かせた。僕は幼児として女性側の脱衣所に入れられ、彼女はズロースを脱ぎ捨て全裸姿に。僕は飛び上がり、むしゃぶりついた。「いたずら坊主だこと! 飛びついて、何だか分からなくて、後で泣いている」。彼女は不思議そうに言った。

 やがて、寝床をどうするかが家族の間で問題になり、マリーアは「オスカル坊ちゃんとなら一つのベッドで十分。背丈が八分の一だもの」と言い放つ。週に二度、僕らは同じ一つの寝床で寝た。僕は十六歳を数え、落ち着きのない精神と眠りを追い払う要求を持っていた。
僕らは奇妙な関係を結ぶ。マリーアは身ごもり、僕の子だと確信するものの、彼女はじきにマツェラートの再婚相手に選ばれ、新しい継母のお腹の子(すぐ後に生まれたクルト)は僕の弟として運命づけられていく。

2022.05.07  二十世紀文学の名作に触れる(28)
『武器よさらば』のヘミングウェイ――戦争の非人道性を文学者として厳しく告発

横田 喬 (作家)

 ヘミングウェイほど行動的な作家は珍しい。第一次大戦に赤十字要員として従軍~負傷。スペイン内戦や第二次大戦にも従軍記者として参加した。彼が一貫して描いたのは、戦争というものが本質的に孕む悪である。現今のプーチン・ロシアによるウクライナ侵攻の惨状に照らしても、その非人道性は明らかだ。「侵略戦争の酷たらしさ」をヘミングウェイ張りに告発する作家が近々現れないものか。

 アーネスト・ヘミングウェイは1899年、米国中西部のイリノイ州に生まれた。父は医師、母は声楽家で、姉と妹四人がいた。父は活動的な人物で、釣りや狩猟、ボクシングなどをたしなんだ。彼は父からそれらの趣味の手ほどきを受け、生涯の人格を形成していく。
 高校卒業後の1917年、カンザスシティの地方紙の見習い記者になるが、すぐに退職。翌年、赤十字の一員として第一次世界大戦最中の北イタリアのフォッサル戦線に赴く。負傷兵を助けようとして自身も瀕死の重傷を負う。この折に病院で七歳年上の看護婦に恋をするが、実らずに終わる。この原体験が後年の著作『武器よさらば』のモチーフとなっていく。

 同年11月、第一次大戦が終結。負傷~本国送還の身となった彼は治癒後、カナダ・トロントの地方新聞のフリー記者を勤め、特派員としてパリへ渡る。ここでガートルード・スタイン(米国の作家・詩人)が開くサロンに出入りし、スタインやエズラ・パウンド(米国の詩人・批評家)の感化を受けて小説を書き始める。スタインは「(文章を)削りなさい」と教え、パウンドは「別世界を見ろ」と説いた。

 まず26年、出世作となる『日はまた昇る』を著す。主人公ジェイク・バーンズには相思の仲の女性ブレットがいた。が、彼は第一次大戦で下半身を負傷し、二人が体を通して結びつくことはない。ブレットは人との温もりなしでは生きられず、多くの男と関係を持つ。二人はスペインに旅行し、ブレットは若い闘牛士と出会って惹かれ、駆け落ちしてしまう。
 29年には『武器よさらば』を刊行する。前述したように、彼は北イタリア戦線で負傷~入院し、介護に当たってくれたアメリカ人の看護師アグネスと恋に陥った。が、帰国した彼に彼女は訣別の手紙を送ってくる。「好きだけど、恋人というより、母親のような感情。あなたは傷つくかも知れないけど」。この折のトラウマが止揚の機会を迎えるのが同作だった。

 主人公の「僕」すなわちジェイクが「戦争とおさらばしよう」と決意する契機が、戦史上も有名な「カポレット(現スロベニアのコパリード)の敗走」。17年10月24日から始まったドイツ軍の大攻勢で、イタリア軍は北東部の戦線で作戦の誤りから大敗北を喫する。半月余で捕虜になった24万人を含め、30万人もの兵力を一挙に失う。この史実がヘミングウェイを強く捉えたに違いなく、ジェイクの戦線離脱の直接の動機として位置づけられている。

 見逃せないのは、ヘミングウェイの戦争観だ。作中でジェイクと将校仲間や部下の兵士たちとの語らいを通じ、長引く大戦をどう感じているかが浮き彫りになる。将校たちは仲間内
では公然と厭戦気分を口にし、兵士たちは「戦争は質が悪い」「みんなが戦争を嫌ってる」と語り合う。ちなみに、この『武器よさらば』は、かの独裁者ムッソリーニ統治下のイタリアでは発禁処分に付されていた。戦争の実態を余りにも明らさまに描いたが故に、であろう。

 36年には『キリマンジャロの雪』を発表する。彼がアフリカへ狩猟旅行に出かけた折の体験が基。書き出しは「(アフリカ第一の高峰)キリマンジャロはマサイ語で“神の家”という意味で、その山頂には一頭の凍りついた豹が横たわっている」。現地での狩猟体験は余りにも過酷で、彼はアメーバ赤痢に罹り、一時はナイロビで療養生活を余儀なくされた。
 この後、36~39年にスペイン内戦が勃発すると、ヘミングウェイは行動派らしく現地に入る。人民戦線側へ積極的に関わっていき、40年に『誰がために鐘は鳴る』を著す。主人公ロバート・ジョーダンはファシズム打倒を志し、スペイン内戦に加わる。ファシストに家族を殺された女性マリアと現地で出会い、運命的な恋に落ちる。ジョーダンはやがて橋梁爆破~敵の行軍妨害の危険な任務に向かう。極限状態における極限の恋愛、と言えよう。

 そして52年、生前に刊行されてベストセラーになった最後の作品『老人と海』を著す。
キューバの年老いた漁師サンチャゴが独りで三日間にわたる死闘の末、巨大なカジキを釣り上げる。巨き過ぎて引き揚げられず、船腹に括り付けて帰港しようとするが、血を嗅ぎつけたアオザメたちが襲って来る。サンチャゴは必死で追い払おうとするが、カジキは次第に食いちぎられ、港に帰り着いた時には骨ばかりになっていた。老人はそれでもなお、敗れたとは思わなかった。同作は高い評価を受け、この年のピューリッツァ賞を受けている。

 この作品が大きく評価され、ヘミングウェイは54年にノーベル文学賞を受賞。が、同年に彼は二度の飛行機事故に遭う。二度とも奇跡的に生還したが、重傷を負い、授賞式には出られなかった。以降、これまでの売りだった肉体的な頑強さや行動的な面を取り戻すことはなかった。晩年は事故の後遺症による躁鬱など精神的疾患に悩まされるようになり、執筆活動も滞りがちになっていく。61年7月2日早朝、散弾銃による自殺を遂げた。享年61歳。

 第一次大戦以降、第二次大戦に至るまで、ヘミングウェイは作家として、またジャーナリストとして、数々の戦場に立っている。そうした生々しい体験を通じ、彼が一貫して描いたのは戦争というものが本質的に孕む悪だった。その生涯を通じ、彼が戦争の勝利の高揚を描いたことは一度もない。彼は“戦争の世紀”とも言われる二十世紀の冷静な観察者であり続け、戦争による人間性の破壊に対する冷徹な告発者であり続けた。
2022.05.06  二十世紀文学の名作に触れる(27)
ヘミングウェイの『武器よさらば』――人が生きていくことの不条理と戦争による人間性の破壊
 
横田 喬 (作家)

 米国シカゴ近郊生まれの作家アーネスト・ヘミングウェイ(1899~1961)は1954年、ノーベル文学賞を受けている。表題の作品『武器よさらば』は29年に刊行された代表作の一つ。人が生きていくことの不条理をとことん見据え、戦争による人間性の破壊(現下のプーチン指令下のロシア軍によるウクライナ侵攻でも明々白々)を厳しく告発する名作だ。新潮文庫版(訳:高見浩)を基に、私なりに作品の概要を紹介してみよう。

 (第一次大戦中の)あの年の夏、二十代の米国人の僕フレデリック・ヘンリーはイタリア軍に志願し、陸軍中尉として北イタリア戦線に居た。国境の山々では戦闘が行われたが、戦果ははかばかしくなかった。僕らは翌年八月に渡河し、ゴリツィアの街で寝泊まりした。
 明くる年春、親しい仲のリナルディ中尉に誘われ、イギリス軍の病院を訪ね、白い制服姿の看護師キャサリン・バークリーと顔を合わす。長身で金髪、小麦色の肌。瞳は灰色で、かなりの美人だな、と僕は思った。革で巻かれた籐製の杖を手にしていて、フランスの激戦地ソンムで去年戦死したイギリス人の婚約者の遺品、と打ち明ける。彼女は、こう呟いた。
 ――彼には全てを許して上げても良かった。でも、彼は戦争に行きたがっていたし、私も馬鹿だったのよね。そのうち、彼は戦死、それで一巻の終わり。

 帰路、リナルディが言った。「彼女は俺よりあんたの方が気に入ったようだな」。
 翌日の夕食後、イギリス軍の病院にキャサリンを訪ねる。庭のベンチに座り、暗闇の中で互いの顔を見つめ合った。熱いキスを交わし、恋人関係を確かめる。それから二日間、前哨地に行っていた。再会したキャサリンは「淋しかったわ、とても」と言い、両目を閉じた。
 腰に手を回そうとすると拒み、「私たち、くだらないゲームをしてるのよね」と呟いた。
 前線で僕はかなり上等な塹壕を訪ね、少佐や二人の将校とラム酒を飲んだ。四人の運転兵たちの所へ戻り、塹壕の中で話し込む。兵士たちは交々語った。「攻撃命令に逆らって兵隊たちが前進しないので、十人に一人が銃殺されたとよ」「ある軍曹は、壕から出ようとしない将校を二人射殺したって話だ」「戦争は質が悪い。みんながこの戦争を嫌ってるんです」

 外はすっかり暗くなっていて、オーストリア軍のサーチライトが背後の山並みの上を走った。四百二十ミリ砲か迫撃砲かの大きな砲弾が飛来し,煉瓦工場の前で炸裂。僕は運転兵らが潜む塹壕に駆け込んだ。チャチャチャ、という音がし、閃光が閃く。瞬間、自分が体の外に吹き飛ばされたような感じがした。俺は死んだのだ、と思い、僕の魂は宙に浮かんだ。
 一瞬の後、意識を取り戻す。両足がぬんめりと生温かく、一方の膝頭がなかった。運転兵の一人は重傷を負って絶命し、二人は軽傷で済んだ。僕は搬送車で仮手当所へ運び込まれ、軍医の診断によって野戦病院の病室に運ばれた。

 さらに僕はミラノに創設されたアメリカ病院に移される。入院まもなく、転勤になったキャサリンが現れる。溌溂として、とても美しかった。見た瞬間、僕は恋に落ちていた。自分の中の全てがひっくり返っていた。辺りに誰もいないと見てとるや、彼女は僕の方に覆いかぶさってキスしてくる。僕は彼女を抱き寄せ、心臓が大きく鼓動しているのが分かった。
 ――君が欲しいんだ。もう気が狂いそうだよ。
 ――私が愛してるってこと、これで信じてもらえる?
 (頭の中にはありとあらゆる感情が渦巻いていたが、素晴らしい気分だった。)

 医師は局部麻酔剤を使用し、僕の大腿部から鋼鉄の小さな破片を幾つも取り出した。レントゲンを撮り、体内に残る異物は醜悪で質が悪く残忍だ、と言う。膝をちゃんと直すため、二時間半も費やす大手術が行われる。キャサリンの存在が、僕には何よりの支えになった。
 その夏は、とても楽しい日々を過ごした。僕が松葉杖をついて歩き回れるようになると、二人で馬車に乗って公園を回る。差しで過ごす夜は素敵だった。彼女が病院に来た最初の日に二人は結婚したのだ、と僕らは言い交わし、その結婚記念日から経た月の数を数えた。

 脚の回復は速く、松葉杖~普通の杖~膝を曲げるための治療、と順調に進んだ。戦争はまだまだ続きそうで、病院には僕に三週間の病気予後休暇を取った後に前線へ復帰するよう指示する手紙が届く。計算すると、十月二十五日が前線復帰のリミットだった。事情を話すと、キャサリンはお腹に赤ちゃんができ、妊娠三か月の身と打ち明ける。
 当の十月二十五日、僕はスロベニアとの国境すぐ傍の町ゴリツィアに向かった。久しぶりに再会したリナルディは「この戦争には、もううんざりだ」と、ぼやく。翌日の晩、退却が始まる。ドイツ軍とオーストリア軍の大部隊が北方の戦線を突破し、山岳地帯の渓谷を下って国境方面へ進撃しているらしい。退却は整然と行われたが、四十㌔ほど西のウディネに向かう途中、幹線道路が大渋滞する。僕と兵士三人は搬送車で幹線を外れ、北方の間道に入る。

 夜来の雨で道がぬかるみ、搬送車がえんこ。僕らは車を捨て、徒歩でウディネを目指す。
 途中、ドイツ軍の幕僚車や自転車部隊に遭遇するが、幸い気づかれずに済む。が、友軍の誤射で兵士一人が射殺され、もう一人は逃亡。僕と残る兵士一人は一晩中歩き通してタリアメント川を目指す。夜明け前、川の岸辺に着き、僕は逃亡容疑の将校を検問中の憲兵に捕まる。
 一瞬の隙をついて僕は川に飛び込み、できるだけ長く潜った。浮上した後は材木につかまって下流へ下り、夜明け前に岸辺へ上がる。怒りは川の中で、義務感と共に洗い流されていた。その日、僕は歩き通してヴェネト平野を横断し、ヴェネツィアからトリエステへ向かう鉄道の線路に出た。汽車が来るのを待ち、貨車の後部の手すりに飛びつき、車上へ身を移す。

 翌日早朝、ミラノ駅に着いた時、僕は飛び降りた。この後、北方のスイスとの国境にあるマッジョーレ湖の湖畔の町ストレーザへ向かう。キャサリンが休暇を利用して静養に行ったのを知ってである。湖畔の小さなホテルの旧知のバーテンが「明日朝、当局は貴方を逮捕しに来ます」と知らせてくれた。彼は自分が所有するボートで湖の北方35キロ先のスイスへ脱出するよう、勧めた。夜半の十一時、僕とキャサリンは手荷物を携えボートに乗り込んだ。休まず漕ぎ続ければ、明日朝七時までにはスイス領に入れるだろう、とバーテンは言う。

 顔に風を受けながら、暗闇の中を漕いでいく。船体は軽く、漕ぐのも楽だ。僕は一晩中、漕ぎ続けて両手の皮が剥け、オールも握れない位に。そのうち、周囲はずっと明るくなり、岸辺が見えてくる。疲労困憊した僕はオールを引き揚げ、持参した大きな蝙蝠傘を開くと、傘が風を孕んでボートは前進していく。傘の推力は凄く、ボートは勢いよく進んだ。
 前方の入り江に明かりが瞬く。後五マイルは進まないと、スイス領に入れない。鞄を開き、サンドイッチを二つ食べてブランデーを飲み、疲れも吹っ飛ぶ。空が明るみかけると、沖合を走るエンジン音がし、モーターボートが姿を現す。カービン銃を背負う財務警察隊員四人が乗り込んでいたが、当のモーターボートはそのまま進み、やがて雨中に消えた。

 夜が明け、僕らはスイス領に入ったことを確信する。船着場には漁船が沢山係留されていて、キャサリンは「なんて美しい国なの」と呟く。僕らは税関でパスポートを検査され、尋問を受けた。「僕らはスイスにウィンタースポーツを楽しみに来た」と説明し、釈放される。
 僕らは馬車で近くのロカルノの町へ行き、ホテルに入った。その秋は雪が降るのがとても遅く、僕らは山の中腹にある山荘で暮らした。キャサリンのお腹の膨らみが目立ち始め、二人でチェスをして遊び、彼女は「二人一緒じゃないと、生きている気がしない」と言った。
 その冬は素晴らしい天気に恵まれ、僕らはとても幸せだった。キャサリンの出産が一か月後に迫った三月、僕らはローザンヌへ引っ越す。彼女は赤ちゃんに必要な物を町で買ってき、僕は運動のためジムに通った。時々二人一緒に馬車で田舎へ遠乗りに出かけ、楽しかった。

 ある朝、キャサリンがお腹の痛みを訴え、僕らはタクシーで病院へ。彼女は頻繁な痛みを訴えるが、午後になっても分娩ははかどらない。看護師は「とても危険な状態です」と僕に告げた。担当医が帝王切開を薦め、キャサリンは五キロもある男児を分娩。彼女の顔は全く血の気がなく、死んでいるように見えた。憔悴し切り、今わの際に、こう言い残す。
 ――二人でしたことを、ほかの女の人たちとしないでね。私に言ってくれたことを、言ったりしないでね。
 出血が何度も繰り返されたらしい。医師たちにも止められなかったのだ。僕はキャサリンが息を引きとるまで傍に付きっ切りでいた。男の赤ん坊は死産だった。僕は病院を後にし、雨の中を歩いて独りホテルに戻った。