2021.05.15 「戦争特派員の墓場」―カンボジア戦争取材で
不明記者の妻が38年間の「捜索記」出版

金子敦郎(国際ジャーナリスト、元共同通信ワシントン支局長)

<著書紹介>
202105015金子原稿画像

『そして 待つことが 始まった―京都 横浜 カンボジア』
筆者: 石山 陽子
(養徳社刊、189頁、頒布価格1,500円)

 ジャーナリストの「権力の監視」には危険が伴うが、なかでも「戦争の監視」には命がかかってくる。カンボジア戦争は「戦争特派員の墓場」といわれ、5 年間で37人のジャーナリストが命を失った。その1人、石山幸基共同通信プノンペン支局長(当時)は1973年10 月、左派ゲリラ勢力クメール・ルージュの支配地域へ取材に入ったまま消息を絶った。石山記者と筆者・陽子夫人の結婚生活はわずか2 年余りだった。若い妻と幼い 2人の子どもを残してなぜ、そんな危険な取材を試みたのか。戦争特派員とは、そしてカンボジア戦争とは何なのか。それを追い求めた筆者の「長い旅」のルポと記録である。
 石山記者(30)は1973年10月プノンペン北、古都ウドン近くのクメール・ルージュ支配地域の村の人民委員会の招待を受けて取材に入ったまま戻らなかった。1 年半後の4 月クメール・ルージュが全土を制圧、 ひとつの戦争は終わった。だが、これは最高指導者ポル・ポトによる恐怖政治の始まりとなった。ポル・ポト政権は1979年1月ベトナムの支援を受けた親ベトナム勢力(現政権につながる)に主要都市部からは駆逐されて、西部ジャングルに立て籠る。米国と中国がこれを支援、親ベトナム勢力をソ連が支援、冷戦の代理戦争の長い内戦が始まった。

奇跡の出会い
 8年後の1981年夏、内戦激化の前の束の間の休息期に家族の陽子夫人、母親と兄を加えた共同通信調査団の現地調査が実現した。調査団は西部コンポンスプー州のポル・ポト派基地を訪問中に熱病(マラリアか)に倒れた石山記者を看病し、最後を看取った女性との奇跡的な出会いによって病死との確証を得た。しかし、内戦が続く中で石山記者の滞在地域や埋葬場所に近づくことはできなかった。

ジャングルの共同墓地
 それから7年後の2008年ようやく内戦がほぼ終息して現地調査を再開。翌2009年陽子夫人と長男、元共同通信の同僚らが、元ポル・ポト派ゲリラの案内でタイ国境に近いコンポンスプー州奥地のクチュオール山(表紙中央の山)ジャングルの埋葬場所に到達することができた。石山記者が消息を絶って以来38年目に入っていた。
 墓地確認を果たした翌2010年には、カンボジア戦争を取材した元戦争特派員ら数十人が米国、欧州、オーストラリアなどからプノンペンに集まり、取材先だった当時のカンボジア政府高官らも何人か亡命先から加わって再会、失った記者やカメラマンを追悼し、旧交を温めた。みんな歳は取ってもなお、意気盛んなジャーナリストたちだった。今も行方の分からない友人カメラマン2人の捜索を続けている者もいた。代理出席した陽子夫人を石山記者の顔なじみが取り囲んで石山記者の埋葬墓地を確認したことを喜び合い、カンボジア戦争取材の思い出話が行き交った。彼らの経験談を聞きながら、陽子夫人は彼らがそれぞれに「カンボジア戦争の記憶と痛みを引きずりながら今日まできた」と感じ取っている。
 カンボジア戦争は1970年 3月突然始まった。隣国ベトナムの戦争に巻き込まれまいとシアヌーク殿下(事実上の国王)は中立政策を掲げてきた。その殿下が外遊中に軍部右派ロン・ノル将軍が、米国の後押しでクーデターを起こして軍事政権を樹立、殿下を追放した。
 同時にベトナム派遣米軍は南ベトナム政府軍を率いて国境を越え、カンボジア領内に入り、ベトナム・ゲリラ掃討戦を開始した。これによってカンボジアではロン・ノル政権軍とクメール・ルージュとの内戦がはじまった。

ある「幕間」
 しかし、ロン・ノル政権にもクメール・ルージュにも、戦争の準備はなかった。隣国ベトナムから駆け付けたゲリラ戦争取材のプロ、国際報道陣にもカンボジア戦争の取材は勝手が違った。クメール・ルージュとは何者か。戦場はどこだ。ただ動き回る記者やカメラマンは銃撃にさらされ、捉えられるとすぐに処刑された。戦争勃発から9カ月の同年末までに26人の戦争特派員(記者、カメラマン、TVチーム・スタッフ)がこうして命を失った。
 米国はカンボジアに続いてラオスにも戦線を拡大、ベトナム・ゲリラが逃げ込む3 国国境地帯の「聖域」を破壊したとして、ベトナム戦争からの撤退のための秘密交渉を開始、米軍撤退に取り掛かった。1973年1 月には米国・南ベトナム政権と解放戦線・北ベトナムとの間でパリ和平協定が合意された。米国はベトナムから逃げ出すのに必要な一時的「戦闘抑制」つくりのために戦争を広げたのだ。このシナリオを描いたキッシンジャー米大統領補佐官は和平協定を「適当な幕間」と呼んでいた。

「愛された確信と誇り」
 石山記者はこの「幕間」の間にクメール・ルージュ支配の実相を取材にしようとしたのだ。他の犠牲者が戦闘に巻き込まれたり,拘束されて処刑されたりしたのと違って、石山記者はプノンペンへの帰還は許されなかったものの「客人」扱いされ、ある程度の取材も許されていうようだ。37人の犠牲者の中ではクメール・ルージュに殺害されなかった唯一のケースだった。筆者にとってこれは一つの救いではあった。
 しかし、この戦争は「カンボジア人のための戦争でもなく、カンボジアがよりより良くなるための戦争でもなかった」。不条理に満ちた戦争のために夫が逝ってしまったことに、筆者はやりきれない思いを抱いた。
 石山記者は手紙の中で、ここ(プノンペン)で西欧的すなわち植民地的スタイルにスポイルされて失敗した、やり直したいと夫人に訴えていた。その苦悩が危険な解放区取材へと駆り立てたのかもしれないと筆者は示唆している。
 心を揺さぶられる感動的な作品である。「本書を書き上げたのは、筆者の優れた表現力もさることながら、この「長い旅」を通して得た「私は1人の人に心から愛された」という「確信とほこり」だったと思った。
2021.05.04 世界の名作に触れる(4)
『静かなドン』の作家ショーロホフ――革命戦を辺境からの視点で描く

横田 喬 (作家)

 ショーロホフはこの大河小説を仕上げるのに、なんと十五年の歳月を費やしている。弱冠二十歳の折の1925年から書き始め、三年後に第一巻(全四巻仕立て)を発表し、たちまち大反響を巻き起こす。作品の完成度から若い青年の作品とは当初信じられず、既成作家の匿名作では、と噂されたりした。翌年に第二巻が出ると、彼は既に世界的作家の座にあった。第三巻はその四年後の33年に著され、最終の第四巻が40年に完成した。量的にも質的にも、この作品は革命後ロシア文学の最高傑作とされるに至る。

 ショーロホフは05年、南ロシア・ドン地方のコサック村で誕生した。父はロシア人で、母はコサックの農婦。モスクワ南東の地方都市出身の祖父の代にドン地方へ移住し、父は商店の番頭や製粉所管理人・家畜仲買人などを務めた。ショーロホフは私生児(後に父母は正規に婚姻)さながらに誕生して少年期は幸せではなく、中学も中退している。

 17年にロシア革命が勃発し、ドン地方は内乱の渦中に巻き込まれていく。十代前半の未だ少年の身でありながら、彼は軍属まがいにドンの赤衛軍の手伝いをし、食糧調達関係の仕事をしながら各地を渡り歩く。時には銃を手に反革命匪団と戦ったこともあったらしい。感受性の強い十代半ばの時期に味わったほぼ四年に及ぶ内戦。この生々しい体験が、後に彼が作家として育つために大きく役立っているのは間違いなかろう。

 国内戦が終わると、職を求めてモスクワへ。人足や会計係などをしながら、作家になる勉強を始める。ロシアや西欧の古典作家たちの多くの著作に親しみ、とりわけトルストイの
『戦争と平和』など歴史絵巻的な作品から強い影響を受けたようだ。国内戦当時のコサックの生活を題材に短編を色々試作するうち、革命戦を一つの全き姿で描きたいと志す。モスクワを去って郷里のドンに帰り、広く材料を集めて構想を練り、本格的に執筆を始める。

 『静かなドン』の巻頭には「コサック古謡」が引用され、こう綴られる。
 ――栄えある我らの土は 犂では起こされず・・・、/我らの土は馬の蹄で起こされた/栄えある土には コサックの首が播かれ、/我らの静かなドン(地域を指す)は 孤児で彩られ、/静かなドン(河を指す)の波は 父母の涙で満たされた

 コサックについて少々。私は高校在学当時の世界史の授業で、「ステンカ・ラージンの乱(17世紀後半)」と「プガチョフの乱(18世紀後半)」を教わった。共に帝政ロシア政府に対する大規模な農民暴動で、前者の名は有名なロシア民謡の主人公としてよく知られる。彼はアタマン(頭目)として反乱軍を率い、一時は辺境一帯を制圧するが、結局は敗北。モスクワの赤の広場で四つ裂きの極刑に遭っている。コサックの度々の反乱に懲りた帝政ロシア政府は自治権を剥奪し、国境警備や領土拡張の先兵として利用。国内の民衆運動の鎮圧などにも当たらせた。

 ショーロホフは伝記の資料が極めて乏しい。不幸な生い立ちが響いてか、自己についてほとんど語らぬ作家だったようだ。彼と同世代の文芸評論家・故桑原武夫氏は55年に訪ソした時、ショーロホフがレーニン勲章を受けた際の祝賀会に出席。その折の印象をこう記している。
 ――間近に見たこの文豪はロシア人としてはむしろ小柄で、頭髪は褐色。近頃専ら狩猟にふけると言われる彼の顔はこんがり日焼けして、その風姿には飾り気のない農民的なところがあり、どこか退役陸軍少将といった感じがあったことだけを言っておこう。

 『静かなドン』は第一回スターリン賞を受け、レーニン勲章も二度受けている。だが、スターリンとの関係は微妙だったようだ。稀代の独裁者は『静かなドン』を愛読し、ソ連文学を代表する最高傑作と評価。まだ若年だった作家と会見するが、反骨精神旺盛なショーロホフは臆することなく発言し、農民を苦しめるスターリン集団化への批判まで口にする。それでも許され、恐怖の圧制者に盾突きながら粛清を免れた稀有の例とされる。

 ショーロホフは27年以来、引き続いてソ連最高代議員に選ばれ、39年にはソヴィエト科学アカデミアの正会員にも選出された。が、彼はモスクワ中央にはあまり寄り付かず、文壇の動向なども気にせず、ドン地域にじっくり腰を据え、マイペースで執筆生活を送った。
 私生活では、「スターリン批判」で知られるフルシチョフ首相と親交があったようだ。同首相はドンの傍のウクライナ国境近くの地方の出で、炭鉱夫の経歴を持つ。内戦には赤軍政治委員として参加しており、その点でショーロホフとは縁があった。家族ぐるみの付き合いをし、記念写真が残っている。両人とも似たような背格好で、野人ふうの風姿も似たり寄ったり。ほほえましい印象を受けた。

 ショーロホフに戻る。『静かなドン』の刊行以外では32年に長編小説『ひらかれた処女地』(二部構成)の第一部を発表し、第二部を遥か後の60年に至ってようやく完成している。この作品は『ドン』の後編といってもいい内容で、『ドン』の時代の後に訪れるコサックたちの苦闘を描いている。この二大作以外は短編や中編を少々数えるだけで、寡作を誇りとしているかのようにさえ映る。

 ショーロホフは84年、七十八歳で亡くなった。その七年後にソ連は崩壊し、彼の地での共産主義の試みは一世紀と保たず、あえなく水泡に帰す。私は93年夏、政権崩壊直後のモスクワとペテルブルクを五泊六日の駆け足旅行で訪ねている。インフレの凄まじさや治安の危うさなどを目の当たりにし、国家崩壊の惨状をまざまざと知った。エルミタージュ美術館を案内してくれたペテルブルク大学の先生は「ブレジネフは美術館の財宝を横流しして、高級車を何台も買った」と証言。そんな退廃がまかり通るようでは、社会主義国家をちゃんと保てるはずがない、と実感した。

 モスクワ生活が長い旧知の日本人女性はロシア社会の近況について、こう言う。
 ――スーパーやホームセンターが街中にわんさと出来、お金さえ出せば何でもすぐ買えます。でも、乏しい年金だけでは食べていけないお年寄りなんかも数多くいて、巷では物乞いをする人々の姿をよく見かける。自由化で人々が本当に幸せになったかは、疑問です。
 新生ロシアの現在の大統領プーチンは長期にわたって絶対的権力を揮い、帝王にも比すべき独裁者の座にあるように映る。泉下のショーロホフの胸中は、いかばかりか。

2021.05.03 二十世紀文学の名作に触れる(3)
ショーロホフの『静かなドン』――ロシア革命の一大叙事詩

横田 喬 (作家)

 旧ソ連の作家ショーロホフ(1905年生まれ~84年没)は65年、長編小説『静かなドン』などが高く評価され、ノーベル文学賞を受けた。旧ソ連では58年のパステルナーク(作品は『ドクトル・ジバゴ』)に次ぎ、70年のソルジェニーツィン(同『収容所群島』)に先んじている。『静かなドン』は岩波文庫版(横田瑞穂・訳)で全八冊にも上る大河小説だ。私の家の書架に長らく眠っていたが、コロナ禍最中の今春、メモを取りながら十日近くを費やしてなんとか読了。内容を私なりに紹介しようと思い立った。

 『静かなドン』はロシア革命の一大叙事詩と言っていい。南ロシアのドン地方に焦点を合わせ、そこに生きるコサックたちの波乱万丈な人生を多方面にわたって描き、彼らの運命を賭けて奔流する革命の大河を映し出す。モスクワ中央に重点を置く革命の鳥瞰図ではなく、逆に革命に抵抗するドン反乱軍ないし白衛軍の勇敢かつ無知な行動とその没落過程を生き生きと描き出した絵巻物である。

 当時の首都ペテルブルクやモスクワなど中枢部でのソヴィエト権力の樹立は一時的な武力衝突を除き、ほぼ平和裏に行われた。が、旧ロシア帝国の外周部や諸民族地域ではソヴィエト政権樹立は血で血を洗う激しい武力衝突を伴った。物語には史実に残る実在の人物の名前が数多登場する。「ソ連建国の父」レーニンは本より、反革命軍側ではコルニーロフ最高司令官や後継のデニキンにウラル方面で一時覇を唱えたコルチャークらの各将軍たち。

 だが、主人公はそうしたお歴々ではなく、無名のコサックの平民だ。コサックとは、手元の広辞苑を引くと、
――もとトルコ語で「自由人」の意。15~17世紀のロシアで、領主の過酷な収奪から逃れるため南方の辺境に移住した農民とその子孫。のち半独立の軍事共同体を形成。騎兵として中央政府に奉仕し、ロシアのシベリア征服・辺境防衛に重要な役割を果たした。

 本編の主人公、グリゴーリー・メレホフは、ドン・コサックの運命を代表する存在として登場する。彼は集落の中農層に、コサック軍曹の次男として生まれる。長身で頑健な肉体と優しく強烈な心情を持つ彼は、安穏な時代なら模範的なコサック農民として安らかな生涯を終えたはずだ。が、戦争と革命が彼を悲劇のどん底に突き落とす。

 1914年に勃発した第一次世界大戦に騎兵として召集された彼は、初めて人をあやめる。逃げてゆく無抵抗の敵兵に一太刀斬りつけた彼は、
 ――(相手と)目を見あわせた。死の恐怖をたたえた目が、じっと動かずにグリゴーリーを見つめていた。やがてそろそろと膝を折った。(中略)ぜいぜいという嗄れ声がきこえてきた。グリゴーリーは目をつぶるようにしてもう一度軍刀を振りかざした。思いきり振りあげて打ちおろした一刀は、頭蓋骨を真っ二つにした。

 彼は後々までこの初体験が忘れられず、「こうなっちゃ、人間より狼の方がまだましだ」と、うめく。そして、ドン地方赤衛軍の組織者ポドチョールコフが白軍の士官たちを虐殺するのを見て、いきなりピストルを構える。これが彼の赤軍を離れる動機の一つとなるが、こうした衝動的な正義感が戦争ないし革命のさなかにずっと保たれるはずはない。

 グリゴーリーは優れた戦闘技術と見事な指揮能力によってコサック部隊の中で頭角を現し、やがて反乱軍コサック部隊の師団長にまでのし上がる。が、戦闘すなわち殺人を重ねる度、心は荒んでいく。血と酒と女の荒々しい暮らしの中、彼の心は空っぽで真っ暗になっていく。貴族出身の白軍司令官と感情的な衝突を起こし、一挙に中隊長に降等され、以後自滅
の道をひたすらたどっていく。

 哀しいかな、彼は学識と理知に欠け、組織に不可欠な統制とか秩序に対しコサック農民としての本能的反感が強すぎた。歴史への眼力を持ち得ない彼は状況の変化につれ、それに対する感情のおもむくまま、流動する。皇帝の軍から赤軍へ、赤軍から白軍へ、そして遂には匪団へと移りゆく。
 彼は未だ独身の応召前、隣家の人妻で美貌のコサック女アクシーニャに魅せられ、情交を結ぶ。宿命的恋愛は、戦乱を経ても消滅しない。戦火の中、彼は度々故郷を捨てるが、常にまた己の集落に舞い戻ってくる。コサックの野性的な美の象徴たる彼女が故郷に生きているからだろう。

 巻末、アクシーニャとの絶望的な逃避行の中、彼女は敵弾を浴びて息絶える。グリゴーリーは断罪が待つのを承知で単身、幼子が独り残された郷里の村へ舞い戻る。今や集落を取り仕切るのは革命委員会議長に就く幼友達ミシカだ。彼は共産主義の教えを忠実に学び、あらゆる苦難に堪えて革命への道を進み、ソヴィエト時代を迎えて栄光を手にした男だ。

 が、このミシカは抵抗力のない老爺に対し旧悪を咎めて無残に射殺するなど、非人間的冷酷さを剥き出しにする。それにひきかえ、グリゴーリーの心の動きは人間的に自然であり、ミシカより豊かで、より高い次元にあるように映る。反逆者と模範党員の両者を、表面に張られたレッテル通りに割り切ってではなく、より高次に描き出している。人はいかにあるべきか、人間の本性への深い省察が影を落とし、この作品を深めているように感じる。

 見落とせないのが自然描写の素晴らしさだ。例えば、第一巻の後半に綴られるこんな文章。
 ――夏は乾ききって、ぶすぶす燃えるように暑かった。ドンも部落のわきのあたりでは水量が減り、夏まえまでは激流をなして、滔々とながれていたあたりも今では浅瀬になって、子どもは背中をぬらさずに向こう岸までわたれた。(中略)牧場では枯れたブリヤン草が燃え、甘いにおいのするもやが目にみえない帷をなしてドンの岸辺にかかっていた。

 二十世紀の小説としては珍しく詩的な風景描写が多い。コサックは自然の子であり、ショーロホフにもコサックの血が半分(母方)流れている。自然描写が得手なのも、無理はなかろう。

2021.04.20  山本武利 『検閲官-発見されたGHQ名簿』(新潮新書)
          書籍紹介:GHQによる郵便物の検閲体制の研究

 小川 洋(大学非常勤講師)

 著者の山本武利は、軍事機密情報(防諜)の研究者で、『陸軍中野学校』(筑摩選書)など、多数の著書がある。『日本兵捕虜は何をしゃべったか』(文春新書)では、高級将校から兵士までの各レベルの軍事情報の漏洩事例を紹介し、日本軍の軍事情報管理がアメリカ軍に比べ、いかに杜撰なものであったかを論じている。
 戦後占領下、GHQの下で、放送・出版・新聞などのメディアおよび郵便物の検閲を担当したのが民間検閲局(CCD:Civil Censorship Detachment)であり、マッカーサー将軍の情報参謀であったC.ウィロビーが指揮を執っていた。CCDは1949年10月末をもって解体されるが、メディア検閲で集められた書籍・雑誌・新聞などの資料は、一括してメリーランド大学に収用された。図書館の地下倉庫に死蔵されていたが、77年にようやく予算が付き、日本人スタッフとアメリカ人研究者によって書籍と雑誌は一定の整理が行われた。文芸評論家の江藤淳が79-80年に現地でこれらの資料にあたり、その成果を『閉された言語空間-占領軍の検閲と戦後日本』(以下、『言語空間』)として89年に出版している。
 また資料整理には日本の国立国会図書館の職員も協力し、日本国内でも資料収集が進められ、国会図書館に関連コレクションが存在する。著者は2013年に国会図書館でCCDに勤務した日本人検閲官、2年分の完全な名簿、約14,000人分を発見している(著者は4年間で2万人台と推計している)。検閲に関わった大部分の人々は、占領軍に協力した過去を秘匿して生きたが、一部の関係者が人生の晩年期に入って、手記などの形で自らの経験を発表したり、研究者の取材に応じて証言したりするようになった。本書はそれらの資料や証言などに基づいた、CCDの郵便物の検閲に焦点を当てた研究成果である。戦後70年余を経て初めて明らかにされた貴重な研究である。

CCDの検閲体制
 CCDは、約4年間の活動期間中に2億通の郵便、1.36億通の電報、80万回の電話を検閲(盗聴)したという。検閲の対象となった郵便物は、戦犯容疑者や政治家など、ブラックリストに載せられた人物宛の他、一般国民が投函したものから2%程度が抽出されたという。後者については、占領政策についての世論の反応を読み取るためだった。
 検閲の実務にあたったのは、大部分が日本で高等教育ないしそれに準ずる教育を受けた人たちであった。外国語学校の学生はもちろん東大や慶応あるいは早稲田の学生が多く、女子の比率も3分1程度と高く、とくに津田塾の学生が目立った。なかには60代の元大学教授のような人々も加わっていた。給与は高かった。46年の翻訳職は月額700円、公務員の初任給が300円であった。彼らには知識人としてのプライドもあったから、生活難の時代とはいえ、同胞の私信を検閲するという仕事に、多かれ少なかれ疚しさや罪悪感に悩みながら働いた。
 郵便物の検閲作業は、現場の検閲官がキーワードを参考に、問題となりそうな文面の該当部分を英訳して監督官に提出し、監督官が上司に伝えるか否かを判断する仕組みになっていた。問題視された郵便物については、一通ごとにコメント・シートと呼ばれる用紙に内容がまとめられたが、その総数は45万枚に達したという。
 意外なことに検閲官名簿に木下順二の名前があがっている。名簿はローマ字書きだから、別人の可能性も否定できないが、著者はさまざまな状況証拠を積み上げて、進歩的文化人として代表的な劇作家であった木下順二その人であるとの結論に達している。木下は東京帝大の英文科で中野好夫の教えを受けている。CCDの英語能力テストでは高得点をとり、監督官の地位にあった。当時の木下は劇団を結成するなど、多くの課題を抱えていた時期であったが、経済的問題が生じなかったのは、彼がCCDから高給を得ていたからではないかとしている。のちに作家となる吉村昭も応募しているが、英会話力が低くて不採用となっている。
組織としては全国8都市に施設が置かれ、東京中央郵便局(現・JPタワー)に本部が置かれた。各部門のトップは白人があたり、現場の監督官レベルには多くの日系二世がつき、前線で検閲作業に当たるのは日本人だったという。当初は日系二世を大量に動員し、忠誠心などに不安のある日本人スタッフに頼る考えはなかったようだ。しかし、江藤によれば候補として集められた3,700人の二世のうち、検閲作業に耐えられる日本語能力をもっていると判断されたのはわずか3%、一定の訓練によって仕事が可能になると見込まれるものを含めても10%程度だったとされる。結果的に大量の日本人が採用された。

国を売った高級将校たち
 本書の最期の部分で著者は、占領軍への積極的な情報提供によって自己保身に走った日本軍の高級将校を「売国奴以外の何者でもなかった」という厳しい言葉で断罪している。彼らが提供した情報は、CCDのブラックリスト作成にも利用されたから多少の関係があった。不本意ながらも占領軍に協力したことを一生の心の傷として生きた2万人ほどの日本人と比べ、国土を灰燼に帰した責任を取るどころか、占領軍に取り入って旧軍の同僚を裏切り、さらには社会的地位まで確保した人物たちがいたのである。著者は一部の軍人しか取り上げていないが、当時、巣鴨刑務所のなかで米ソ対立のゆくえを注視しながら、「この対立が深まれば自分にも浮かぶ瀬がある」(獄中日記)と、自分をアメリカに高く売り込む算段をしていた岸信介もそのような人物たちの1人であったといえよう。

江藤淳について
 江藤淳について著者はいささか冷ややかである。江藤は『言語空間』のなかで、直接の名指しこそ避けているが、長洲一二(元・神奈川県知事)らをCCDの検閲官だったとしている。しかし著者は、それが明らかな事実誤認であることを指摘している。江藤は当事者ないし周囲の人から、その間違いを指摘されたはずだが、改版や文庫本化の際にも訂正していない。著者は江藤の不誠実さを暗に批判しているようだ。
 あらためて手に取った『言語空間』は奇妙な本である。詳細な脚注など、一見すると学術論文風であり、たしかに一次資料によって初めて明らかにされたCCDの実態が提示されている。しかしその一方で検閲指針などを紹介しつつ、自らの政治的見解を開陳するなど、政治批評の色合いを強く帯びているのである。例えば江藤はCCDが削除ないし禁止対象とした項目をあげ、「古来日本人の心にはぐくまれて来た伝統的な価値の体系の、徹底的な組み替えであることはいうまでもない」とするのだが、「極東軍事裁判批判」など占領軍として当然の政治的な項目の他にあげられているは、「神国日本の宣伝」、「軍国主義の宣伝」、「ナショナリズムの宣伝」、「大東亜共栄圏の宣伝」などである。これらのどこが「古来日本人の心」に根差すものなのか。
 江藤の研究の動機と結論は、GHQによる検閲によって、戦後日本のメディアの言論が歪められ、その歪みゆえに日本人が自由にものを考えられない状態が続いている、というものである。しかし、いまだ日本人は言語空間どころか物理的な空間さえ、アメリカ軍に脅かされ続けているのである。アメリカ軍に対して日本の歴代政権は、日本の空域でのほぼ完全な自由飛行を認め、軍用機が保育園の敷地に部品を落下させても、抗議ひとつ満足にできない。この事故に際し、「アメリカに反感をもつ勢力の自作自演ではないか」など、保育園に対する無責任な攻撃が数多くなされたという。同様の事件は繰り返されている。これもGHQの「隠微で苛烈な検閲」(『言語空間』の「あとがき」)によって日本人の思考が歪められた後遺症によるものなのか。江藤は病死した妻を追って99年に自死している。生きていたら、今の日本の政治・社会状況に対して、どのようなコメントをするか聞いてみたかった。

2021.04.10 二十世紀文学の名作に触れる(2)
『ペスト』の著者カミユとは――正義と自由を守るヒューマニスト

横田 喬 (作家)
                       
 フランスの作家カミユはこの作品を始め小説『異邦人』やエッセー『シーシュポスの神話』などの著作が高く評価され、1957年に43歳の若さでノーベル文学賞を受けている。日本人で同文学賞を受賞した川端康成は69歳、大江健三郎は59歳の時だったから、カミユがいかに早熟の天才だったか、分かる。そして、カミユは受賞の二年後、パリ近郊で自動車事故の巻き添えに遭い、急死してしまう。カミユの作品はよく「不条理の文学」と言われるが、死に方も不条理そのものだった。

 私はカミユの作品では『シーシュポスの神話』(新潮文庫、清水徹・訳)を最初に読んだ。三十代半ばの頃で、訳者が学生当時の先輩だった縁に基づく。強い感銘を受け、またとない人生訓を得た、と感じたのが忘れられない。
 ――シーシュポスはギリシャ神話に登場する人物だ。彼は巨大な岩を麓から山頂まで押し上げる刑罰を神々から課される。やっとの思いで頂上に近づくが、大岩は突如跳ね返り、真っ逆様に麓へ転げ落ちてしまう。逆戻りし、再び苦役に耐えるが、またまた岩は転げ落ちていく。果てしない不毛な苦役を、彼は宿命として引き受けざるをえない。

 シーシュポスに課された定めは不条理そのもの、と言っていい。作者カミユは植民地アルジェに育ち、様々な社会的矛盾や桎梏と直面。皮膚感覚で人生の不条理さを感得したのでは、と感じる。当時の私は新聞社の社会部記者として多忙な日々に明け暮れていた。雑多で些末な出来事に振り回され、こんな生き様で果たしていいのだろうか、と懐疑的になったりもした。そんな折、この神話に接し、目から鱗が落ちる思いの啓示を受けた。報いを何も求めぬ奉仕の精神にひたすら徹すれば、くよくよ思い煩うことなど何もない、と。

 カミユは1913年、北アフリカ・アルジェリアの小さな農村で生まれた。父はアルザス地方から植民地へ出稼ぎに来た農夫で、翌年秋に始まった第一次世界大戦に出征し、直後のマルヌの会戦で34歳で戦死した。スペイン系の母は未だ赤ん坊のカミユを連れて首都アルジェ市に引っ越し、場末の貧民街の狭いアパートで暮らし始める。彼は公立の小・中学に通い、様々な国籍や民族の貧しい人々の中で育ち、そんな境遇を通じて人生の意味を学んでいく。

 中学ではジャン・グルニエという思想家に教わり、アルジェ大学でもその指導を受け、哲学を専攻。傍ら、マルローやモンテルランの作品を愛読し、文学にも親しんでいく。二十歳の時にアルジェの医師の娘と最初の結婚をするが、すぐに別れている。大学時代は生活のため色々な職業に就き、貿易商の手代や自動車部品のセールスマンに測候所員などを務めた。34年にはファシズムの風潮に反対して共産党に入党するが、ソ連の身勝手な外交政策に納得がいかず、じきに脱党する。

 翌年、アルジェで劇団を旗揚げし、演出家・俳優として演劇活動に励む。38年、ジャーナリズムを志し、アルジェの地方紙に入社。この頃から小説やエッセーなど創作への構想を抱き始める。明くる年秋、ドイツ軍がポーランドに侵入して第二次大戦が勃発。彼はすぐパリに赴いて夕刊紙の記者となるが、ドイツ軍のフランス侵入に伴い南東部の大都市リヨンに疎開し、そこで二度目の結婚をする。

 41年1月に『シーシュポスの神話』を書き上げ、アルジェリアに戻って夫人の実家があるオランに一時暮らす。が、ドイツ軍の占領地帯での抵抗運動に加わるためリヨンに戻り、秘密出版を行う。この間に発表された小説『異邦人』やエッセーなどで文名を挙げ、マルローらとの交際が始まる。戦争の非人間性に対しての怒りを込めた『ドイツの友への手紙』を一通二通・・・と書き継ぎ、秘密裡に出版した。彼は戦場での破壊や殺人より、もっと残酷で非人間的な、人間の魂を引き裂き、尊厳を奪う収容所の拷問に対して憤りをあらわにしている。

 44年8月のパリ解放後、カミユは地下出版から公然出版に衣替えした新聞の主筆に就く。多くの社説を書き、戦後の政治的・思想的混乱の中にあって、時代に対する文学者の責任を明確にした。一方、戦中から戦後にかけて彼が著した戯曲『誤解』や『カリギュラ』が度々上演され、「不条理」の作家・思想家として揺るぎない地歩を固める。

 47年、マダガスカルに反乱が起き、当局が弾圧したことから、フランスの植民政策に強く反対した。当時発表した重要なエッセーに『犠牲者も否、死刑執行人も否』がある。殺人を合法化する革命的手段を排し、人類に対話の精神を回復させ、世界的デモクラシーの実現を願ったものだ。カミユの反抗的理論や政治的立場の根本を物語っている。

 51年には自身の反抗的理論を歴史的に裏付ける論文『反抗的人間』を発表。左翼の知識人との間に一年も続く論争を起こし、サルトルとは訣別することとなる。当時フランス国内だけでなく、欧州や東洋で様々な政治的事件が起こり、平和を脅かし、恐怖を振りまき、自由を束縛するような状況が生じた。カミユはそうした問題を取り上げてよく検討し、左翼とは異なる立場から論文や演説・声明書で抗議した。

 彼は「社会参加」の文学者らしく活発な社会的・政治的活動をしているが、いかなる政党にも属さず、イデオロギーにもとらわれず、正義と自由を守るヒューマニストとして活動している。56年のハンガリー事件の際は、ソ連軍の介入とカダル政権の弾圧に抗議した。が、左翼知識人たちとは異なる立場を示し、左右の全体主義思想にはっきりと反対した。

 60年正月早々、自動車事故の奇禍に遭い、彼は四十代半ばの若さで急死する。その死に当たり、敵も味方もその弔文の中で、この控えめで良心的な作家の誠実さを疑う者はいなかった。

2021.04.09 二十世紀文学の名作に触れる(1)
カミユの『ペスト』――不条理なものとの闘い

横田 喬 (作家)

 新型コロナ禍の時節柄か、フランスのノーベル賞作家アルベール・カミユの小説『ペスト』が日本でも最近よく読まれている、と聞く。アルジェリアのオランという地方都市で二十世紀半ば、稀代の悪疫ペストが突如蔓延する仮想の筋立てだ。主人公の若手医師が友人や知人らと手を携え、医療現場の最前線で困難な局面に必死で立ち向かう。その姿は新型コロナ・ウイリス蔓延の昨今、現場で懸命に戦う全世界の医療従事者らを想起させ、胸に迫る。

 194X年4月中旬のある朝、三十代半ばの内科医リウーが診療所を構える建物の階段口で一匹の鼠の死骸が見つかる。死骸を片付けた門番の老人は翌日、さらに三匹の鼠の血だらけの死骸を処理。リウーは車で往診に行く途中、ゴミ箱の上に十匹以上の鼠の死骸があるのを見かける。翌々日、門番の老人は穴倉から屋根裏にまで散乱する十匹の鼠の死骸を発見する。

 街中の工場や倉庫からは幾百という鼠の死骸が見つかり、巷のゴミ箱や溝の中も同じ。夕刊紙が取り上げ、市庁が乗り出す。鼠の死骸を車で収集~塵埃焼却場で処理した。が、事は刻々悪化し、四日目から鼠は外へ現れ、群れを成して死に始める。廊下や路地にひょろつき、きりきり舞いし、断末魔へ。ラジオ放送は「一日で6231匹の鼠が焼却された」と伝えた。
 
 被害が人間たちに及ぶ。鼠の死骸を処理した門番の老人はじきに39度5分の高熱を発して倒れる。頸部のリンパ腺と四肢が腫瘍し、脇腹に黒っぽい斑点が二つ現れ、「焼けつくよう」と激しい痛みを訴える。翌日昼、熱は40度に上がり、間断なく譫言を言い、吐き気が始まる。リウーが救急車を手配し、隔離病棟に運ばれるが、じきに息を引き取ってしまう。

 リウーが他の医師らに照会し、三週間余で二十人ほどが類似の症例で死亡した、と判明する。彼は「鼠の媒介による感染」「高熱や腫瘍などの症状」からペストの発症~流行を確信する。ペストは中世の欧州で大流行し、全人口の三分の一が死滅。感染者の皮膚が内出血して紫黒色になることから「黒死病」と恐れられた人類史上最も致死率の高い伝染病だ。

 市当局が用意した収容能力八十床の隔離病床は直ぐに満床となる。ペスト発生から三週目、死者は三百人を突破する。当局は学校の雨天体操場に五百の病床を設けるが、全部ふさがる。次いで、高いコンクリート塀で囲まれた広大な市立競技場が患者の収容所に充てられ、隔離用のテントが数多設けられる。騎馬の警備隊が市中をパトロールし、ペスト菌を伝播しかねぬ犬や猫を殺す発砲音が市中に轟きわたる。夏場には連日、百名ばかりの死者(市の人口は当時約二十万人)が出た。

 ペストと強い暑気は街からあらゆる色彩を消し去り、あらゆる喜びを追い払ってしまう。
市西方の別荘街では火災が頻発した。喪の哀しみと不幸から半狂乱になった人々がペストを焼き殺そうという幻想に駆られ、自宅に放火するためだった。市当局は消灯時刻を制定し、午後11時を境に市中が完全に闇に沈むよう取り計らう。

 死者が次々と増えるため、棺が不足を来たす。柩は繰り返し使用され、墓地には巨大な墓穴が二つ掘られた。男性用と女性用、それぞれの穴に遺体が次々と投棄され、遂には穴は一か所になる。男女の別なく次々と投棄され、生石灰を被せ、その上に土が被せられた。市民たちは絶望に慣らされ、放心したようにうんざりした目つきをし、町中が待合室のようになっていく。ペストは各種の価値判断を封じてしまい、人々は衣服や食糧品の質を意に介さなくなる。何事にも無感動で、諦めと辛抱の日々をひたすら送るに過ぎなかった。

 医師リウーの役割は治療ではなく診断だった。「ペスト患者」と記述し、登録し、宣告するのが務めだ。救済するのではなく、知識を役立てること。連日20時間働き、4時間しか眠らなかった。たまたま旅行者としてこの街を訪れ災厄に出合った新聞記者ランベールは「傍観者に留まるのは恥ずべきこと」と口にする。患者の隔離所に充てられたホテルの管理者としてボランティアで活動に打ち込む。

 神父パヌールは保健隊の一員としてペストとの闘いの最前線に加わる。教会での説教で、彼はこう説いた。
 ――神への愛は困難な愛であり、自我の全面的な放棄すなわち我が身の蔑視が前提。しかし、この愛のみが(ペストによる)近親者の苦しみと死を消し去ることを可能にします。

 そして、リウーの親友でペストに対抗する保健活動に参加した人物タルーはこう呟く。
 ――健康とか清浄というのは意志の結果であり、決して緩めてはいけないものだ。誰にも病毒を感染させぬ立派な人間とは、出来るだけ気を緩めぬ人間を指す。ペスト患者になるまいとするのは大層疲れることだ。

 病魔はやがてリウーの身辺近くにまで忍び寄ってくる。神父パヌルーや判事オトンの幼い息子フィリップ、そして親友のタルー・・・。リウーはその都度、感染の危険を顧みず身近に付き添って手当てを尽くし、高熱と腫瘍に苦しむ犠牲者を看取った。
 が、さしものペストの猖獗もいつかは峠を越す。翌年一月、ペスト衰退の兆しが表れ、三週連続して患者発生の統計は下降し、死者は減少していく。医師たちの処置も効果を挙げ、統計はこの病疫の衰退を明示する。ペストの終焉を表すように、二月には市の門が開かれる。広場という広場では人々が踊り狂い、市の鐘は午後中ずっと高々と鳴り響いた。

 カフェは久々に雑踏し、人々は喚き、笑い合った。リウーは人々の喜悦の表情を前に、(人間の中には軽蔑すべきものより賛美すべきものの方が多くあるのは確かだ)と感じる。そして、同時にこんな思いも味わっていた。
 ――ペスト菌は決して死ぬことも消滅することもない。今後も数十年にも渡って、家具や穴倉、そしてトランクやハンカチ、反古の中などに辛抱強く待ち続け、いつか人間に不幸と教訓をもたらすために出現する恐れは潜在していく。

 著者カミユはアルジェリアの首都アルジェで育ち、二度目の結婚後の一時期この物語の舞台オランでしばらく暮らした。オランにペストが蔓延した事実はないが、1849年にコレラが大流行し、1772人の犠牲者を生んだ史実は存在する。カミユは設定をペストに置き換えたものと思われる。

 小説『ペスト』が発表されたのは第二次大戦終結の直後。悪疫退治の話は、ドイツ占領軍と闘うレジスタンス運動の物語として読み替えることも可能だ。作者カミユの意図も、そうしたところにあったのかも知れない。が、それだけに止まらず、ペストを暴力や圧制や恐怖の対象と考えれば、この作品は不条理なものに対する闘いの普遍的な記録と言っていい。それがこの作品の寓意性であり、戦後の世界各国の読者に大きな感動をもたらした理由では、と思われる。

2020.11.13 革命の嵐の中で生き抜いた少年の記録
   ナクツァン・ヌロ著『ナクツァン―あるチベット少年の真実の物語』
                                            
宮里政充 (元高校教師)

はじめに
 この『ナクツァン―あるチベット少年の真実の物語』は、1950年代末に起こったいわゆる「チベット叛乱」を舞台としている。阿部治平氏は「解説―チベットと中国革命」の書き出しで、「本書は、中国革命に翻弄される時代にチベットで生を享け、そこで半生を送ったチベット人ナクツァン・ヌロの幼児期から少年時代の体験を記した書である。記憶の復元というかたちをとってはいるが、中国革命が少数民族に何をもたらしたかを示す第一級の歴史証言である」と述べている。さらに最後の部分で「荒野を血で染めた農民革命は、20世紀半ばに新たな皇帝支配と官僚専制国家を生み出した。民族自決あるいは高度の自治を望んだ少数民族のコミュニストも、民主と自由を中国革命に託した漢民族知識人も、皇帝支配と階級闘争の論理によって無残に踏みにじられた。それが毛沢東とその後継者たちによって、現在も過酷な運命を少数民族に強いているのである。そうであるがゆえに、ナクツァン・ヌロが卓抜した勇気をもって少年時代の記憶を文字にあらわしたのはかぎりなく尊いのである。この翻訳出版は日本のチベット近現代史研究に画期的な資料をひとつくわえたということができる」と述べている。
 私はこの「第一級の歴史証言」・「画期的な資料」としての評価に、さらに「チベット少数民族の優れた記録文学」という評価を加えたい。ナクツァン・ヌロは過酷な体験の「記録」ばかりでなく、同時にチベットの美しく豊かな自然の中で、信仰深く、つつましく生きる人々の姿をも印象深く描いているからである。

 アイデンティティーとしての「故郷」
 ナクツァン・ヌロは自分の故郷について次のように述べている。「君の故郷は何処だと問われれば、私の本当の故郷はチベットの東部、聖山アニェマチェン・ポムラの南側、高山シャル・ドゥン・リの麓、マチュ(黄河)の一八屈曲部の最初にあたる、マデ・チュカのチュカマという村(デワ)であると答える」。
 「本当の故郷」とは、作者は長く異郷で暮らしているということである。そのチュカマについてナクツァン・ヌロの叔父は誇らしげにこう語ったことがあった。「子供達よ、俺達のマデ・チュカマは、天下無双の土地だ。長大なマチュ(黄河)の、最初の屈曲部。山と、高原、谷のどこでも、草と水が豊かであり、馬やヤク、羊の放牧に適した土地。ディ、ゾモの乳が満ちる土地。馬を走らせるのによい土地。男たちがたくましく、荒々しいところ。美しい娘が生まれる所。清らかな教えが広まる土地。首長やアラク(筆者註:ヌロの名付け親・僧)が高貴である所。人々の力が高まる場所」。
 この言葉は旧約聖書「申命記」に何度も出てくる「乳と密の流れる地」、神がイスラエルの民に与えようとしている約束の地「カナン」を想像させる。そこは神の祝福に満ちた永遠の地である。同様に、チベット民族にとってはダライ・ラマが住む聖地「ラサ」を中心としたそれぞれの故郷(村)がカナンなのだ。ナクツァン・ヌロは言う。

  私の気持ちとしては、自分の前世で積んだ業により、あるいはアラクと三宝のお慈悲
 によって、このようなすばらしい土地に生まれたことを非常に嬉しく思っている。しか
 し、考えてみると悲しくなるのは、私は10歳から、この神の国のような土地を離れて、
 遠い異郷を放浪し、現在、すでに50歳を過ぎてしまったことである。故郷を離れてから
 現在に至るまで、心は故郷を離れることはなく、夢にさえ見るほどである。

 彼のこの言葉には自らの存在証明、チベット民族としてのアイデンティティーへの渇望が込められている。

 幸運にも生き延びて
  ナクツァン・ヌロは、1948年チュカマ(現中国甘粛省甘南チベット族自治州瑪曲県斉
 哈瑪)に生まれ、1964年玉樹州民族師範学校を卒業。チュマル県民衆法院副院長、
 チュマル県副県長などを歴任し、1993年に退官している。

 これが作者ナクツァン・ヌロについて現在私が得ている経歴のすべてである。この作品は1959年12月30日までの記録で終わっているが、その間の時代背景は阿部氏の「解説」に委ねたい。
 ヌロ兄弟はラサへの逃亡中に中国軍に捕らえられ、残虐な殺戮を目撃し、自らも暴力を受け、投獄され、親を殺されて残された多くの子どもたちが餓死していく中で、幸運にも生きながらえることができた。そして不思議な出会いによってナクツァン兄弟はチュマル・ゾンの学校へ入学する。この作品の最後は次の言葉で締めくくられる。

 今、本当に幸福の端緒を掴んだのだろうか? もしそうならば、飢えて死んでいった子供達は何と哀れであろう。こんな幸せな日に出会うことができなかったのだから。兄と私がこの様に幸せに暮らしているのを父が後生のバルドの中で見ることができたなら、少しは慰められるだろう。私達が成長したら、父のために法要を催す日も来るだろう。また故郷へ戻る日も来るだろう。その時親戚たちは、『何とすばらしい。ナクツァン家の二人の子供は生き抜いて、故郷へ戻ることができた』というに違いない。いつかきっとそんな日も来るだろう。」

 新しい記録文学への期
 チベット人ヌクツァン・ヌロが「幸福の端緒」を掴んだかに思われた後も、中国によるチベット弾圧は続き、文化は破壊され、人命は奪われ続けてきた。ただ、私は例えば『図説チベット歴史紀行』(石濱裕美子:著、永橋和雄:写真、ふくろうの本、1999年発行)や、『ネーコル チベット巡礼』(伊藤健司著 毎日コミュニケーションズ発行、1997年)や、『ダライ・ラマ「死の棘」を説く―輪廻転生――生命の不可思議』(十四世ダライ・ラマ著 取材・構成/大谷幸三・平成6年/発行所:株式会社クレスト社)などを読むことで、聖地を巡礼する少年ヌクツァン・ヌロ兄弟と同じ年代の少年たちや、その父親を彷彿とさせるたくましい男たちや、中国軍によって破壊されたガンデン寺を部分的に修復して修行に励んでいる青年僧たちや、五体投地という過酷な(としか思われない)歩行法で聖地を目指す男の姿などを見ることができる。それらの姿を見ると、ダライ・ラマ亡命後もチベット仏教は健在なのだ。本来、マルクス・レーニン主義、つまり唯物主義はチベット仏教ばかりでなく、世界の宗教とは相いれない。したがって、中国におけるチベット問題は中国政府がチベット仏教とチベットの高度な自治を認めない限り、永遠に解決しない。
 ところで、ナクツァン・ヌロは先述した略歴によると、それ相当の教育を受け、社会的な地位に就いている。私はそこへ至る経緯を知りたい、つまり『ナクツァン―あるチベット少年の真実の物語』の続編を読みたいと切望している。ヌロより5年遅れてチベット・アムド地方に生まれたトンドゥプジャという作家は、チベット民族の社会や文化を批判しながら、共産主義社会における新しい文学を生み出そうと苦闘したが32歳の時、道半ばで自らの命を絶った。『ここにも激しく躍動する生きた心臓がある』(チベット文学研究会訳/2012年/勉誠出版発行)という彼の作品集にはその険しい道のりが刻まれている。阿部氏が解説で述べているように、『ナクツァン―あるチベット少年の真実の物語』が「卓抜した勇気をもって」書かれたものであることは容易に肯ける。それ故に私は現代中国におけるナクツァン・ヌロによる「記録文学」の可能性を見たいのである。
 私は故郷チュカマで豊かな自然と親戚と家族に取り囲まれながら、続編の執筆に余念がないナクツァン・ヌロの姿を想像する。そして、彼の「卓抜した勇気」に心から声援を送りたい。

 ナクツァン・ヌロ著『ナクツァン―あるチベット少年の真実の物語』
 棚瀬慈郎訳・阿部治平解説 発行(2020年11月1日):集広舎。定価2700円+税

2020.08.08 戦争体験者の魂が乗り移るとき
―敗戦75年に読んだ春日太一著『日本の戦争映画』(文春新書)―

半澤健市 (元金融機関勤務)

 読み始めてしばらくは、戦後の戦争映画を恣意的に分類する平凡な書物だと感じた。
イデオロギーを排して「ニュートラル」な立場からという態度も消極的でつまらないと感じた。ところが読み進めていくうちに、不満の気分は残る一方で、登場する映画人たちの「魂」や「精神の鼓動」が私の胸に伝わり始めた。特に「第三章 大作と情話」あたりから文章の迫力が高揚する。引き込まれた私は一気に読了した。「魂」や「精神の鼓動」というのは誇張ではない。確かに私の気持に何かが起こったのである。

《愛しくてたまらなくなっていきます》
著者は執筆中に作品紹介を終わったところで、材料が少なすぎたと感じたという。そこで、コロナ自粛期間にも助けられ、新しく映画80本を見、脚本も読んだ。登場人物はほとんどが故人であるから、専ら文書資料を読み込んだ。本書の「おわりに」に次のくだりがある。

「わたし(春日)は気づきました。あまり注目していなかった作品、ただの娯楽映画だと思っていた作品であっても、それぞれに作り手たちの想いがほとばしっている、と。(中略)それぞれの作品、そしてそれを世に送り出した人々のことが、愛(いと)しくてたまらなくなっていきます。本書の冒頭では「できるだけ引いた視点で」と述べていますが、そうできなくなった自分自身がいました。特に、実際に戦争を経験した人たちがいかに戦争映画に向き合ったのか。自らの経験をどう反映させたのか。そのことは、知れば知るほど、『どうしても書きたい!』と思わずにはいられなくなっていました」。

一体、読書の醍醐味は「これが自分が読みたいと思っていた文章だ」と共感する瞬間である。私は本書にそれを感じた。その紹介によって、私は読者を『日本の戦争映画』へ誘いたいと思う。

著者の語る全部を紹介する紙幅はない。そこで人物を「笠原和夫・舛田利雄・須崎勝彌・松林宗恵の4人、作品を『二百三高地』、『連合艦隊』の2本に絞って書く。

《「乃木よ、泣くな」「お前、客は来んぞ」》
 『二百三高地』(東映・1980年)の脚本は笠原和夫、監督は舛田利雄である。
日露戦争で壮絶な戦闘が展開された旅順要塞の攻防戦を大きなスケールで描いた作品である。二百三高地とは旅順要塞のなかでも特に激戦が繰り広げられた場所の名前である。
笠原和夫は「戦争映画は営業以外の何物でもない」といい(雑誌「シナリオ」84年9月号)、戦争映画の基本的な作りは「観客を泣かせる」ことだと認識していた。次の挿話は笠原の心情をよく表現している。
『二百三高地』には、日露戦勝利後に乃木希典(仲代達矢)が明治天皇(三船敏郎)に戦況を報告する場面がある。シナリオ完成までの内幕を、笠原はこう書いている。

「実際は天皇一人だけが聞くんです。それで途中で乃木さんが言葉を詰まらせるんだけど、その時、山県有朋がそばにいて冷たい目でジロッと見てね、明治天皇も冷たい顔をして聞いていたというのが真実なんです。それで乃木は気を取り直して最後まで報告を読むわけだけど、そのとおりに僕は書いたんだよ。そうしたら、岡田さん(東映社長)はそれが困るんだと。それはまあ、真実には違いないんだけど、それだとお客は泣かないというんだよ(笑)。だから、そこは世間でよく言われているとおり、明治天皇と皇后がちゃんとお並びになって、その周りに側近がいらして、反対側には将官がズラッと並んで、そこで乃木がヨヨと泣き崩れると。そうすると天皇陛下が席をお立ちになって、『乃木よ、泣くな』と乃木の肩に手をお当てになられたと――そういうふうにしないと、『お前、客は来(こ)んぞ』と(笑)。何億も制作費をかけてるのに回収できないと言うんだよ」。(『昭和の劇』)

かくして明治天皇が乃木を慰労し、多数の犠牲者を出して「針の莚(むしろ)」にあった乃木が報われるという「泣かせる場面」となった。戦争を通して客を泣かせる作りを、笠原は「戦争情話」と呼んでいう。  

《「戦争情話」を超えた作品になった》
 「日本人が戦争映画を見るとき、どういう視点で見るかというと、“戦争情話”なんだね。何故かというと、日本人というのは単一民族で、皆んなで涙流したり喜んだりというのが好きなんだな。欧米人というのは、個人と個人が対立し、闘ったりするという関係。だから戦争映画作ってもシビアなんだ」、「お客は、戦争情話を見にくるということからも、俺は抵抗できないんだよな。多額の金を投入して回収しなければいけないんだから」(「シナリオ」84年9月号)
「情話」を『広辞苑』で引くと、「①真情をうちわけて語る話。また人情のこもった話 
②男女の愛情に関する物語 ③男女のむつまじい語らい。むつごと」と書いてある。

笠原和夫(かさはら・かずお、1927~2002年)は敗戦時、18歳。海軍大竹海兵団に所属していた。舛田利雄(ますだ・としお、1927年~)は17歳。学生時代に軍事教練に反抗して退学処分を受けている。
二人は、東映経営者の圧力に抵抗した。小学校教師(あおい輝彦)と少女(夏目雅子)の恋が、あおいの戦死で悲恋に終わる場面に日露友好のメッセージを挿入した。あおいがロシア兵と差し違えて死ぬ場面について舛田はこう書いている。
「最後の最後、あおいがロシア兵と差し違えるシーンは、アクションというより狂気そのものだね。最後は一対一の戦争になる。突き詰めて行くとそういうことになる。もちろん、あおいは戦争の犠牲者ではあるけど、同時にロシア兵からみれば、加害者なんだよね。笠原和夫の脚本のデッサン力は、そういうところに出る」、「戦場の狂気のなかで、登場人物のアイデンティティすら壊れていくわけでしょう」、「武器がなくなったら、相手の頸動脈を噛み切って、それで止めを刺そうとするわけだから、ここで戦場での極限の人間の行動を描こうとするいうのはありました」(自著『映画監督舛田利雄』)。
『二百三高地』は、笠原・舛田の魂によって「情話」で終わらない戦争映画となった。春日はそう評価している。

《「回天」から「大和」まで》
『連合艦隊』(東宝・1981年)は、脚本が須崎勝彌、監督は松林宗恵である。
須崎・松林のコンビは日本の戦争映画に多くの作品を残した。特に『人間魚雷回天』(新東宝・1955年)は初期の名作である。「回天(かいてん)」は人間が自ら中に入り、潜水して操縦し敵艦に命中させる特攻用魚雷のことである。「人間魚雷」と呼ばれた。映画はその特攻兵に選ばれた若者の苦悩と葛藤を描いた。

脚本の須崎勝彌(すざき・かつや、1922~2015年)は敗戦時に23歳。東北大学から学徒出陣、海軍少尉。海軍特攻隊の一員だったが飛び立ってはいない。多くの戦友を見送った須崎は、自著『カミカゼの真実』にこう書いている。
「僕達は重い勲章を一杯胸に付けた死刑囚でしかなかった。死刑囚の考える明日は、永久に陽の上がらぬ明日でり、太陽の輝きは、及ばぬ空想の中で光るのみであった」、「人間の死は、果たして一艦の沈没に値するであろうか、否」

監督の松林宗恵(まつばやし・しゅうえ、1920~2009年)は、敗戦時に25歳。龍谷大出身で僧侶でもあった。42年に東宝入社、同時に日大芸術学部にも通う。海軍予備生徒として、砲術学校を経て44年に海軍少尉となり、中国厦門(アモイ)の陸戦隊長として150名の兵を率いた。敗戦で捕虜となり厦門大学に収監される。帰国後、東宝に復帰。松林の『人間魚雷回天』に寄せる想いを弟子の映画監督瀬川昌治(せがわ・まさはる、1925~2016年)はこう語っている。

「生を抑えこむがんじがらめの状況下で、決死でなく必死を志願し、志願しながらもいかに死を納得するかに悩み、悩みを尽きることなく時間に押され、自らの死をもって敵を殺しに赴く若い命を、同じ目線で描こうと一心になっている、そういう作品だ。後に残るのは空しさ。人が人に強いる暴挙の底知れぬ愚かしさ。しかし決して絶叫はしない。最後まで学徒としての誇りを持ち続け、残る恋人も入水して後を追う。どこにも救いはない。だから二度とやってはならない。そういう訴えだ。」(『映画監督松林宗恵 まことしやかにさりげなく』)

《「鎮魂」と「父と子」》
 さて本題の『連合艦隊』である。
真珠湾攻撃、ミッドウェイ海戦、レイテ沖海戦、戦艦大和の沖縄特攻の戦闘を描いたスペクタクル巨編である。空戦、海戦を戦う将官に三船敏郎、池部良ら東宝のオールスターキャストを配し、庶民代表には軍隊に志願する弟(金田賢一)と学問のために「お前は生き残れ」という兄(永島敏行)の葛藤を置く。松林は娯楽映画「社長シリーズ」の職人監督として活躍した人である。
戦争映画とは『太平洋の翼』(1963年)以来、四半世紀近く離れていた。『連合艦隊』の監督を依頼されたとき、松林の枕許に多くの将兵が現れた。米内光政、山本五十六、予科練兵士、下士官、兵隊が次々に出てきた。そしてこう言った。

「松林、お前を生きて帰らせたのは、お前は第一線に出ても役には立たん。俄か作りの海軍士官じゃ、戦争では大して役に立たん。映画会社に籍があるのだから、将来映画監督になって、「連合艦隊」という映画をつくってくれ。我々がどういう気持ちで国を護るため戦争で闘ったかを。後の世の日本人に見せてやってくれ。そのために生きて還らせたのだそ。だからこの映画はお前が監督しろ、お前がやるのだ」(松林宗恵『私と映画・海軍・仏さま』)

松林はあらためて作品に二つの場面を設定した。
一つは、戦友への鎮魂である。松林は作品中の人物に「中鉢」という名前を与えた。須崎脚本では別の名前だった兵士である。中鉢は対米戦闘時に艦船甲板上で米機機銃掃射で松林の近くで腹を裂かれて死んだ水兵の名前だった。それと同じ名前を出すことで若い兵士の無念を少しでも供養したいと考えたのだと著者春日は解釈している。
二つは、子供への視点の提示である。松林は自分が子供を持ってから、その子供を戦場へ送る父親の気持を掘り下げたいと考えた。ラストシーンは一組の親子で締めくくった。大和に乗り込んだ父(財津一郎)と、特攻隊として上空から大和を見下ろす息子(中井貴一)である。
大和は沈み始める。谷村新司の主題歌「群青」が流れる。艦内で若者を助けようとして奮戦して落命した父の姿が映し出される。歌の一番が終わり羽田健太郎の弾く間奏のピアノが流れている間に、上空の息子の書いていた遺書が独白として読み上げられる。それは「群青」に感激した松林がこの間奏に合わせて入れたいと思い立ち、須崎に書いてもらった遺書であった。
「お父さん、親よりもほんの少しだけ長く生きていることが、せめてもの親孝行です。さようなら、妹たちよ、姉さん、さようなら……」
読みおえたところで歌の二番が流れはじめる。そして大和は沈み、息子の乗る戦闘機は空のかなたに消えていく。『連合艦隊』は松林にとっても須崎にとっても、最後の戦争映画となった。

《新世代の戦争映画論を》
 4人の映画人の、「魂」と「精神の鼓動」は、私の紹介で読者に伝わったであろうか。
日大大学院博士課程終了、娯楽映画や人気俳優に関する著作から見て、著者はエンターテインメントとしての映画に関心があるようである。しかし本書執筆で「戦争映画」に深く関わってしまった。戦前の戦争映画、戦争映画の国際比較、戦争論そのものついても新しい世代としての研究を進めて欲しい。
本書の『第三部 戦争映画の現在地』で、著者は『この世界の片隅に』(2016年)のアニメ映画監督の片渕須直(かたぶち・すなお、1960年~)と対談している。

『真空地帯』、『きけ、わだつみの声』、『ひめゆりの塔』から出発した世代の私に、『この世界の片隅に』も春日・片渕対談も新鮮であった。新世代の更なる戦争映画論を熱望して筆を擱く。(2020/08/05)
■春日太一著『日本の戦争映画』、文春新書・(株)文藝春秋、880円+税

2020.06.03  福竜丸保存に尽力した人びとを活写
           山村茂雄著『晴れた日に 雨の日に―広島・長崎・第五福竜丸とともに』

岩垂 弘 (ジャーナリスト)

 第五福竜丸という船をご存じですか。
 東京駅からJR京葉線に乗る。数分で4つ目の駅、新木場に着く。駅舎を出ると、北に向かって自動車道が延びる。明治通りだ。その歩道を数分歩くと、右手の木立の中に三角屋根の建物が見えてくる。都立第五福竜丸展示館だ。

 ここに展示されている第五福竜丸はかつて静岡県焼津港に所属していたマグロ漁船である。140・86トン、全長28・56メートル、幅5・9メートルの木造船。敗戦直後の1947年に和歌山県古座町(現串本町)で建造された。木造船の寿命は15年から20年だが、この船は建造から今年で73年。敗戦直後に造られた木造船としては現存する唯一の船とされる。

 数奇な運命をたどる
 一見、何の変哲もない古びた船だが、都立展示館という安住の地を得るまでは、まことに数奇な運命に翻弄され続けた。
 1954年1月22日に焼津を出港、漁場に向かったが、3月1日未明、太平洋のマーシャル諸島ビキニ環礁から北東の海上で操業中、米国の水爆実験に遭遇。実験によって生じた放射性降下物の「死の灰」を浴びた乗組員23人全員が放射能症にかかり、無線長の久保山愛吉さんが死亡した。水爆による初めての犠牲者だった。実験場周辺の島々の住民たちも「死の灰」を浴び、乗組員と同様の被害を受けた。これが、世界を震撼させたビキニ被災事件である。

 これを機に、東京都杉並区の女性たちが水爆禁止署名運動を始める。それは燎原の火のように全国に波及、ついに各界各層の諸団体と海外代表が結集する原水爆禁止世界大会が1955年夏に広島で開かれた。大会後、運動をさらに推進するため原水爆禁止日本協議会(原水協)が発足する。もっとも、1963年、運動の進め方をめぐる意見の対立から、社会党・総評系が原水協を脱退し、原水爆禁止日本国民会議(原水禁)を結成する。原水協は共産党系が主導権をにぎる。

 一方、被災した福竜丸はその後、政府に買い上げられ、東京水産大学の練習船となるが、船体老朽化のため廃船処分となり、東京のゴミ捨て場だった東京湾・夢の島に放置され、朽ちつつあった。そのみじめな姿に心動かされた都内在住の会社員が船体保存を新聞の投書欄で訴えたことから、同船の保存を目指す動きが芽生える。さまざまな曲折を経て、1969年、学者・文化人、宗教家、原水協・原水禁の両代表らを代表委員とする保存委員会が発足。そして、1976年、夢の島に都立第五福竜丸展示館が完成する。都が船体を買い上げ、永久保存を図るという形で決着をみたのだった。展示館ができたことで保存委は第五福竜丸平和協会と改称し、都からの委託で展示館の運営にあたることになった。

 多彩な群像が登場する保存運動
 こうした福竜丸がたどった稀有な航跡を、保存運動に参加した人びとの働きを軸にまとめたのが本書である。世間では、企業や団体、社会運動の歴史を書いた刊行物をよく目にするが、その大半は企業や団体、社会運動を運営した組織の動きを中心に編纂したものだ。が、本書は福竜丸がたどった歴史を、その保存運動に加わった人たちを主役にして描いたものだ。いうなれば、多彩な群像が登場して織りなす福竜丸保存運動史である。

 こうしたユニークな歴史関係本作りを可能にしたのは、本書の著者である山村茂雄さんが、数十年にわたって福竜丸と関わってきたからだ。
 1958年に原水協の事務局員になった山村さんは、主に情報・宣伝関係の仕事に携わったが、そこで、福竜丸保存運動に関わった。原水禁運動分裂後も原水協に留まり、事務局次長を務める。1988年にそこを退職すると、第五福竜丸平和協会の評議員、理事を務め、今は同協会顧問。
 要するに、山村さんは原水禁運動、それと連動した福竜丸保存運動の両方の一隅に身を置き、これらの運動を担ってきた人なのだ。その間、福竜丸保存運動で多くの人に出会った。いつか、その人たちのことを書きたいと思ってきたという。そこで、同協会が機関誌「福竜丸だより」の紙面を山村さんに提供、山村さんはそこに『晴れた日に 雨の日に』と題するエッセーを2010年から40回にわたって連載した。単行本化にあたり、それに加筆した。

 人間中心の福竜丸保存運動史が生まれた背景には、山村さんの世界観も投影しているのではないか、というのが私の見方だ。なぜなら、原水禁運動や福竜丸保存運動における山村さんの姿勢は、いうなれば、イデロギーや党派的立場を優先するといった行き方でなく、一貫して何事も人間中心でみてゆこう、というものだったからである。そこには、歴史をつくるのは結局、人間一人ひとりの営為だとの信念があったように思う。

 ともかく、本書を一読して最も印象に残るのは、福竜丸保存には各分野の実におびただしい人たちが参加してきたという事実である。そして、それぞれの人が、さまざまな場面で重要な役割を果たしていたことが活写されていて、感動を覚える。
 逆に言うと、おびただしい人たちによるボランタリーで献身的な努力があったからこそ、福竜丸は消滅を免れて半永久的な展示館に保存されるに至り、今では外国人を含め年間10万人の見学者を迎え入れるまでになっている、ということである。
 おびただしい人びとを福竜丸保存に駆り立てていたものは何か。それは「もうこれ以上、核兵器の犠牲者を出してはならない」という思いだった。

 大きかった美濃部都知事の存在
 ともあれ、本書には福竜丸を支えた人たちが登場するが、人数が多過ぎて、その一人ひとりを紹介できない。関心のある方は、ぜひ本書を手にとっていただきたい。
 登場人物の大半は普通の市民だ。しかも、目立たないところで船の保存に尽力していた人たち、例えば、展示館に納められる前の福竜丸を監視したり、船体の清掃を続けた筏師、壊れた個所の補修にあたった大工、船体を塗り替えたペンキ職らも実名で紹介されていて、「こんな保存活動をしていた人もいたのか」と、胸が熱くなる。

 著名人も登場する。その名を見て「えー、こんな著名人も福竜丸保存に加わっていたのか」と驚く人もいるに違いない。登場する著名人の数が多いので、その氏名を割愛したが、そのうちの1人をこの際あえて紹介しておきたい。それは、美濃部亮吉氏である。
 美濃部氏は1967年から79年まで東京都知事を務めた。都が福竜丸を保存委員会から買い上げ、都立の展示館に安置したのは1976年、つまり、美濃部都政下だった。当初、保存委は民間から募金を集め、それで展示館を建立しようとしていた。が、募金が目標額を達成できなかったため、都で保存してほしいと陳情、都はこれを受け入れたのだった。それを決断したのが美濃部知事だった。
 美濃部氏は社会・共産両党推薦で当選。美濃部都政を支えたのは「明るい革新都政をつくる会」で、その代表委員が評論家の中野好夫氏。中野氏は当時、福竜丸保存委の代表委員だった。「都知事が美濃部でなかったら、展示館は日の目をみなかった」というのが、当時の保存委関係者の見方だ。福竜丸展示館は美濃部都政が残した業績の一つと言っていいだろう。

 ところで、本書を読んで、「やはり歴史的な事象に関する建造物は何としても残すべきた」との思いを改めて強くした。
 広島の被爆を象徴するのは、あの原爆ドームである。戦後、これを残すかどうかで市民間で論争があったが、残そうという意見が勝ってドームは撤去を免れた。やがて、被爆都市・広島のシンポルとなり、世界遺産に登録された。それに引きかえ、長崎では、原爆で破壊された浦上天主堂をそのまま残そうという声が市民の間にあったものの、なぜか撤去され、被爆のシンポルにふさわしい建造物は長崎からなくなった。そのことを悔やむ長崎市民は少なくない。
 これに対し、「第3の核被害」とされるビキニ被災事件は、シンボルを持つことができた。それは、もちろん、福竜丸だ。今では「ビキニ被災事件の証人」と呼ばれるまでになった。確かな証人が存在することにより、ビキニ被災事件は人びとの記憶に永く留め置かれることになった。

山村茂雄著『晴れた日に 雨の日に―広島・長崎・第五福竜丸とともに』
発行・現代企画室 定価・2200円+税
第五福竜丸平和協会(03-3521-8494)でも扱っており、こちらは出版記念特価で1500円(送料込)
2020.05.23  コロナ明け、公立学校はボロボロになる
          ——八ヶ岳山麓から(313)——

阿部治平(もと高校教師)

先日江澤隆輔氏の『先生も大変なんです』(岩波書店、2020・3)を読んだ。結論を一口で言えば、これは大学生に読まれれば読まれるほど、教員志願者は減るであろうという本である。
書かれている内容は、主に小中学校の教員のおかれている状況で、私が教員現役時代経験しなかった新しい困難な問題を含んではいるが、すでに類書が指摘している学校教育の課題とおおきな違いはない。学校の実態は依然「ブラック企業」そのもので、「危険・きつい・汚い」の3K職場である。

本書には、表紙に「案内文」があって、これだけ読めば本書の内容はだれでも大体の見当がつく。以下にそれを記す。いずれの文言も頭に「教員は」とか「学校は」とつけるとわかりやすい。

昼休みがない
登校時間は勤務開始前
毎年増えていく仕事
子どものためなら……という善意
時間と手間をかけたがる文化
前例踏襲が積み重なる
裏では大仕事のクラス替え・行事
タイムカードも残業代もない
実は高くない給料
労働時間は世界第一位
勤務時間後も電話対応
見せる指導案ばかりに時間がかかる
公務分掌が複雑化
部活動顧問の半分は素人、しかも無給
断れない部活動顧問
子どもも多忙化
授業づくりをもっと研究したい
子どもを管理したがる学校
変形労働時間制でより多忙化
それでもかけがえのない教員という仕事のやりがい

私が最も重大だと感じたのは、教員採用試験の志願者数に関する次の文言である。
「一般に『三倍を切ると人材確保が難しい』と言われている中、2019年度の採用試験では、なんと競争倍率が1倍台の自治体も出てきました。
倍率がこの水準になると、選抜を乗り越えて教師になる、というプロセスが成立しにくくなり、教師は免許さえあれば誰でもなれる職業と化してしまう恐れがあります。教師の苦しい状況は、教員志望の人数、さらには将来にわたって教育の質にまで負の影響を及ぼしつつあるのです(ゴチックは原文のまま)」
「負の影響」とはなにか。教員志願者が採用数の3倍以下になると、力のないのがゴロゴロ入る。授業はいい加減になり、公立学校はボロボロになる。それがこの数年の変わらぬ全国的傾向だということである。
友人の教えるところでは、横浜市などの小学校では、倍率は10年以上前から1.0台~2.0台になっている。この結果、能力不足から自信を無くし、1、2年以内の退職者が増加する。そして必要な採用者数が増え、また力のないのが加わるという悪循環が始まるのである。これはもう横浜に限らない。

もう40年近く前のことだが、これに似た状況があった。1980年代初め、大都市圏の自治体では中学高校の生徒数の増加にやや遅れて応じ、学級定員を水増ししプレハブ校舎の公立中学高校を増設した。教員の採用枠も急速に拡大した。教員採用試験は都道府県ごとに実施し、一定の点数以上のものから教育委員会が面接して、メガネにかなったものを採用するというやり方で、必ずしも点数の多いものから順に採用したのではなかった。
当時も優秀なものは中央官庁、一流企業に就職していった。その反面、大都市近郊県の教員志願者は易しい一次試験に合格すればたいていは採用された。私の高校での経験では、そのなかには以下のような学力、常識の疑わしい人物がいた。

腐敗して糸を引くにぎり飯を食い、腹痛を起こして突然休んだ。
カタカナがちゃんと書けない。黒板に書く(板書)「シ」と「ツ」、「ケ」と「ク」の区別がつかない。
生徒の前で教科書を正確に読めないものもいた。
生徒の住所の「大字」が読めず「だいじ」とやって、同僚を面食らわせた。
英語の発音記号がわからないものだから、板書の単語に終始カタカナを振っていた。
部活動に夢中で、授業は事前準備もなくほら吹きに終始した。
その部活動では、生徒をぶん殴るしか指導の方法を知らなかった。
進学校に配属され、教科指導能力の不足が露呈した教員が、生徒からゴミを投げつけられたのがいた――教員の学力は一流大学の入試問題をほぼ解ける程度で間に合うのだが。

また新規採用の教員が増えた学校には、古参兵のような中年教師が職場を支配し、学校に出入りする業者の利権を独り占めするような状況もあった。力のない若手教員の中には、それに疑問をもつことなく、中年教師の権威に直ちに服するものも少なくなかった。
どんな職場でも能力のさまざまな人がいる。それが健全な職場だと私は思う。だが学校の場合、上に掲げたような教師が3人なり4人なり束になったら、教員の個人的不祥事を含めて、授業と学校運営は大きな問題を抱えることになる。コロナ以前かなり大きな社会問題とされた「教員間のいじめ」もこの延長上にある。
そうでなくても、学校なり教室なりが抱える問題が教員集団の能力を超えた場合(こういう場合が多い)、どうしても「前例踏襲」にこだわり、必要以上に「子どもを管理したがる」のである。

さらに昔ながらなのは、本書でも指摘するように、教員自身の持つ「時間と手間をかけたがる文化」である。制度や規則、教育委員会からの要求以上に、教師自身で自分の生活を忙しくしている習慣である。
授業の準備や反省に手間をかけるのではない。授業以外の部活動や事務(雑務)で、短時間でできることでも、あるいは短時間で仕上げるべきことでも長時間一所懸命やっているという姿を見せたがり、それを周りも高く評価する悪しき文化である。
かつて民間研究団体の話合いのとき、スポーツ関係の部活動顧問で「1年365日一日たりとも指導を休んだことがない」人がいた。これでは生徒を年間数百時間いや千時間余縛り付けることになる。本人も教材研究がいい加減になる。ここまでは教委も保護者も要求していない。
「不登校の生徒をこの半年毎日家まで呼びに行った」というものもいた。「ひきこもり」という言葉がまだ登場する前だったが、すでにこの方法では問題を深刻化させる危険があるということが、専門家の間では常識になっていた。だが、これに忠告すると、専門家の意見を取り入れるよりも、「熱心にやっているものにケチをつけるな」という感情のほうが勝っていた。
小川洋氏が『なぜ公立高校はダメになったのか 教育崩壊の真実』(亜紀書房2000)で公立学校の危機に警鐘を鳴らしたのは、もう20年も前のことだが、問題はより深刻化しているように見える。

朝日新聞に、東京大学教授・教育社会学の本田由紀先生による本書の書評があった。本田先生は本書の概略を語ったのち、その末尾に「冷静な分析と親しみやすい語り口に導かれて、学校という独特な世界の内部を覗き見させてくれる書」と記している。ノーテンキな話である。
教育学者が学校の内部を覗き見しているときではない。時代は学校を「独特な世界」ではないものとしている。
現に教員志願者の中にかなり能力の低い連中がおり、それが合格採用されるという危機的状況がある。公立学校の教育水準は下り坂を転がりつつある。破綻をどこかで食い止めなければならない。新型コロナウイルス感染問題が一段落すれば学校が始まる。本田先生が教育社会学者であれば、教員採用試験への応募者が多くなるにはどうすればよいか、一言あってもよいではないか。せめて教員の労働時間の短縮と賃金引き上げの必要性を世間に訴えてもらいたいというのは無理な要求だろうか。(2020・05・12)