2018.02.09  『レーニン伝』を読む
          ――八ヶ岳山麓から(249)――

阿部治平 (もと高校教師)

ロシア革命の指導者レーニンの伝記は数多くある。
最近刊行された一冊、ヴィクター・セベスチェン著(三浦元博・横山司訳)『レーニン 権力と愛』(白水社 2017)は、そのあまたある「レーニン伝」のなかでは人情本版とも呼ぶべきものである。

この本は帯の惹句が好い。上卷おもて表紙のそれには「同志より、妻と愛人に信を置いた革命家の『素顔』」とある。この巻に描かれるのは、生い立ち、革命運動への参加、国外からの革命指導、そしてその間の妻や愛人との人間劇である。
下巻の帯の惹句は「『善を望みながら、悪を生み出した』革命家の悲劇」となっている。2月革命を受けてのロシアへの帰還、10月臨時政府の打倒と軍事クーデタ―による権力奪取、脳梗塞の発病を経て1924年に死去するまでが描かれる。
激しい革命活動のなか、(邦訳にして)40巻余の著作をどうやって残せたか、『唯物論と経験批判論』がなぜあのようにしつこいのか、『国家と革命』がかなりずさんな国家論なのはなぜか、といった類のことは書かれてはいない。

レーニンはロシア人としてはいかにも小柄だった(160cm!)。顔もどことなくアジア人を思わせる。本書の詳しい家系記載によれば、彼は19世紀ロシアの典型的なブルジョアの出ではあるが、生粋のロシア人ではなかったことがわかる。
スターリンは自分がグルジア(ジョージア)人でありながら、レーニンを「生粋のロシア人の天才」に仕立てたくて、レーニンの家系研究を禁止した。その方が後継者としては都合がよかったからだ。だが時代が下ってソ連崩壊の30年前には、蔵原惟人氏が、レーニンの祖母のひとりがカルムィーク(モンゴル)人だったことを書いている(『若きレーニン』新日本出版社 1969)。

レーニンの妻ナジェージダ・クルプスカヤについて、著者は上巻「序文」の中で、「通常描かれるような、働き者の主婦兼秘書という枠には収まらない姿が浮かび上がってくる。彼女がいなければ、レーニンは現実に成し遂げたような仕事を決して達成できなかっただろう」と述べている。レーニンは気の短い人で、疲れるとよく頭痛を起し、かんしゃくを爆発させた。クルプスカヤはそれをよく承知していて、散歩や山歩きに連れ出したという。
レーニンには愛人がいた。これも「序文」に、「彼は10年間にわたって、イネッサ・アルマンドという名前の、肉感的で、知性がある美貌の女性と断続的に愛人関係を続けた。彼らの三角関係は、レーニンとナージャ(妻)の感情面での生活の中心を圧倒的に占めていたので、本書のほぼ半分には、このことが織り込まれている。……レーニンがたった一度、人前で泣き崩れたのは、アルマンドの葬儀の時、自分の死の三年前のことだった」とある。
レーニン全集に『イネッサ・アルマンドへの手紙』があるが、レーニンの愛人が彼女だということを私は長い間知らなかった。

本書では、レーニンは理論を重んじたが、実際に臨んでは理論より便宜的方法があればそれを採用したという。これはそのとおりで、彼は社会主義原理に反して市場経済の導入をおこない、革命政権を経済破綻から救った(新経済政策NEP)。いま日本には鄧小平の改革開放をNEPとの連想で持上げる人がいるが、これは見当違いだ。
では、レーニンが残した悪とはなにか。
いまでは誰でも認めるように、「彼が作り出した悪の最たるものは、スターリンのような人物を、自分が亡きあとのロシアを指導する地位に残してしまったことである」
レーニンはかちえた権力を守るために、敵と見なした勢力を数多く殺し、労農大衆にも冷酷な手段を遠慮なく用いた。スターリンはそれを間違いなく継承し、何倍にも拡大深化させた。
20代の私にとってレーニンは神様だった。しかも「スターリン・カンタータ」こそ歌わなかったが、社会主義経済論としてはスターリンのものしか知らなかった。
だが、もし神様がソ連を指導しつづけていたら、「悪」を生み出さなかっただろうか。社会主義生産様式は(といえるか疑わしいが)、強力な官僚群とその指導者を必要とした。しかもロシア的専制主義の伝統がそれを促した。中国で毛沢東が「皇帝」になったのも似た理由である。ならばスターリンほどではなかったとしても、レーニンもまた冷酷な独裁者にならざるを得なかったのではないか。

革命から75年後、東欧・ソ連は内部から崩壊した。レーニンの社会主義の実験は失敗だった。生産手段の社会化や計画経済は幻想で、共産党官僚の独裁だけが現実だった。これでは人々は幸福になれないということははっきりした。
では、レーニンの革命は世界史上どんな意味をもつのか。私にはこの疑問が解けない。答えを求めて本書を読んだが、わからなかった。

本書の著者ヴィクター・セベスチェンはハンガリー人だが、東欧問題専門の定評あるイギリスのジャーナリストである。訳者の三浦元博・横山司両氏は元共同通信記者である。読みやすい日本文と「訳者あとがき」によって、その実力のほどがわかる。
2018.01.29  「オペレーションZ」が問いかけているもの
  -真山仁最新作(新潮社、2017年12月)を読む

盛田常夫(経済学者・在ハンガリー)

真山仁氏の最新作『オペレーションZ』は、日本の累積債務問題を扱った経済小説。ヘッジファンドの生き様を扱った小説『はげたか』でブレークした著者が、今度は日本経済が抱える債務課題に挑んだ作品だ。

周知のごとく、日本は1000兆円を超える政府累積債務を抱えている。OECD統計で見ると、2016年現在で、GDPの230%を超えている。OECD加盟国で200%を超えているのは、日本の他にギリシアだけだ。
計算を簡単にするために、現在のGDPを500兆円、累積債務を1000兆円、一般会計規模を100兆円、税収を60兆円として計算すると、累積債務は税収の17年分になる。それだけの債務を将来世代から借りている。逆に言えば、人口が大きく減り、老年人口が大幅に増える将来世代の税収から、これだけ積み上がった債務を処理する必要がある。

これが意味するところは何か。
日本社会は現在の生活水準を維持するために、将来世代の税収を前借りしている。しかも、この前借り状態が改善されるどころか、年々悪化している。前借り分が返済されるどころか、増えている。これが続くと、いったい日本社会はどうなるのか。債務が国債で処理仕切れない事態が生じれば、増税と社会保障の削減を行うしか方法がない。しかし、それを躊躇している間に、国内外の経済危機や経済事件がきっかけで、日本の国債が消化できず、国債価格が大幅に低下することになれば、歳出入の調整では財政措置が追いつかなくなる。そうなれば、もっと劇的な施策が必要だ。それが国家債務(国債)の割引きや棒引き、あるいは銀行の取り付け騒ぎが起きれば預金凍結だ。こういう事態が到来すると、日本経済は事実上破綻する。急激なハイパーインフレが起こり、国家の債権債務も、個人の債権債務もチャラになる。それで政府の債務・財政問題が解決されるが、日本経済への信用が崩れ、円は暴落して国民生活は急激に低下し、生活水準の低下に苦しむ時代が続くだろう。その時になって、安呆総理やアホノミクスを恨んでも後の祭りだ。何も脅かしや絵空事ではない。終戦後の日本や社会主義国家の崩壊時にどの国でも見られた光景だが、ギリシアやメキシコ、アルゼンチンの経済崩壊もそれほど昔のことではない。

そういう結末を明瞭に理解していなくても、若者たちは将来の社会保障に不安を抱いている。なんとなく、自分たちの年金がまともに受け取れない不安を持ち、健康保険の自己負担大幅増が強いられるのではないかと危惧している。残念ながら、その危惧が現実になる可能性はきわめて高い。他方、しかし今の生活からそれを実感することができないから、何をすれば良いのか分からない。まして、歳を取った世代には関係のない話だ。
政治家も国民も、財政赤字の累積がどのような影響や問題を惹き起こすかについて深刻に考えていない。なぜなら、一般国民は当座の生活をやりくりするのに精一杯で、将来の財政赤字累積の行く末を考えることなど思いもよらないからだ。一般国民の意識と利害はきわめて短期的である。だからこそ、政治家は国の将来を考えて政治に取り組むべきなのだが、国会議員は選挙が第一だから、国民の短期的で即時的な要求に沿った行動を取る。だから、政治家は増税や社会保障削減で国民生活に負担かける政策を極力避け、当座の生活が守られるような近視眼的な政策を維持することに奔走する。口では「財政健全化」を謳うが、誰も財政問題を深刻に考えていない。政治家の任期は短いから、遠い将来のことなど「後は野となれ山となれ」だ。官僚は行く末を案じても、政治家の決断がない限り、債務削減の予算を組むことはできない。だから、何時しか、気骨のある官僚は飼い慣らされ、政治家の要求を飲むか、管轄の省庁の予算が削られないように努めるだけだ。要するに、誰一人として将来社会が抱える深刻な問題の解決を模索することなく、近視眼的な政策が継続されていく。これこそ、1億総無責任体制である。
何時の時代も、国民は当座のことしか考えられないから、二進も三進も行かなくなったときに、政府の政策の失敗の付けを払わされるだけである。しかし、その時に大騒ぎしても、もう遅い。だから、社会は同じ過ちを何度も繰り返す。
 それどころか、在野には無責任な応援団がいて、時の政府におもねって、「日本の財政は破綻などしない」と叫んでいる。「財務省は債務だけを大きく見せているが、政府資産を考慮すれば、純債務はきわめて小さい。財政破綻の宣伝は財務省の企みだ」と放漫財政と債務の累積を擁護し、「日銀が引き受ける国債は対政府債権だから、政府部門を統合すれば、債務と債権はチャラになる」という無知な議論を恥ずかしげもなく披露している。そうやって、あわよくば政府の役職を手に入れ、各地の講演会に呼ばれて、あぶく銭を稼ごうという輩が多い。政府もそういう無責任な連中に目をかけ、内閣府参与とか、政府委員会委員というような役職をあてがっておだてる。こういう連中は、長年にわたって「原発は百%安全」だと宣伝してきた政府与党や原発会社、御用研究者と同じである。

 さて、『オペレーションZ』だが、山口1区選出の梶野(カジノ)首相が始めた「カジノミクス」によって、日本の財政赤字の処理が猶予ならない時を迎える。しかし、政治家も官僚も、財政赤字に大鉈を振ろうなどという考えもない。この段になって、カジノ首相は無責任にも首相の座を放棄してしまった。「前総理がバカな経済政策を続けた挙げ句に、体調不良を理由に逃げた」ために、副総理の江島が総理の地位に就く。そして、財政支出半減政策の実行を決断する。ただ、歳出100兆円を50兆円にするのではない。100兆円のうち、25兆円は国債償還費と利払いだから、それに手を付けないとすると、残りの基礎的収支75兆円から50兆円を削減する政策が必要になる。誰もが無謀だと分かっている。しかし、それをやらなければ、日本はもっと大きな危機に巻き込まれる。その歳出半減(事実上、3分の1化)プロジェクトの名称が、「オペレーションZ(OZ)」である。なぜ、Zなのか。オズの魔法使いの魔法にあやかってのことか、それともこれ以上は先がない最終政策だからなのか。

 「日本では国家の赤字が1000兆円を超えても、財政破綻しない。...国内の金融機関が手分けして日本国債の大半を買い取っているからだ。なのに、そのバランスを梶野総理が崩してしまった。カジノミクスという金融緩和策の一環として、日銀は10年物の国債の70%を債権でディーラーから買い続けている。それによって、大量のマネーを市場に放出して、意図的にインフレを興そうとしたのだ。その結果、国債を買う国内の投資家が激減した」。
 ところが、ある事件をきっかけにして起こった取付け騒ぎで、大手の生保会社が保有する国債1兆円を売って、騒ぎを収拾しようとする。しかし、市場で引き受け手が見つからない。日銀が買えば、ヘッジファンドが国債を売り浴びせ、国債のみならず、株式も為替も暴落する危機を迎える。そこで、副総理の江島が奔走して何とか市場の買い手を見つけ、とりあえず問題が深刻化する前に解決する。それからほどなく、「梶野総理は突如、辞意を表明した。理由は持病の心臓病の悪化だった。...あまりの無責任振りに国民が呆れ返る中、この修羅場を乗り越えるための後任総理として、江島副総理に期待が集まった」。
 もっとも、現実には「アベノミクス」総理が在任中の間は、ここまでならないだろうが、東京大地震の到来よりこの種の危機が起きる確率は高いから、現実とフィクションが交わらないとも限らない。

 それはさておき、江島総理は2年後に歳出を3分の1にすることを決断し、そのための具体的措置を作るプロジェクトチームを発足させた。そのチームが準備する政策案が、「オペレーションZ」である。
歳出を3分の1にするために何が必要か。それぞれ歳出の5%程度でしかない防衛費や公共事業費あるいは公務員人件費を削っても、とても追いつかない。「(歳出の3割を占める)社会保障関係費と(歳出の15-16%を占める)地方交付税交付金を、ゼロにするしかない」。これが「オペレーションZ」の核心である。しかし、こんな乱暴な案は国民に支持されないばかりか、野党のみならず、与党の支持さえ得られないだろう。しかし、江島総理は玉砕するがごとく、その実現に向かってプロジェクトチームに発破をかける。
 「日本はもはや絶体絶命の崖っぷちに追い詰められているんです。しかも、助けてくれる人は誰もいないと思った方がいい。すなわち、自力で打開できなければ、待っているのは、破滅のみ。....革命的歳出削減は、絵に描いた餅ではありません。...各自が歳入増と歳出減のために、必死で知恵を絞って戴きたい。さらに、これから私が行う大改革の先兵として命を懸けて欲しい」。

 しかし、歳出削減案が明らかになり、国会は江島総理の不信任案を一部与党議員の賛成を得て可決し、総選挙が始まる。江島総理が率いる保守党グループは造反者を除名し、梶野前総理の山口1区には、著名タレントを刺客に送り、「革命か亡国か」をキャッチフレーズに選挙戦を戦う。国民に歳出削減の必要性を訴え、それなりの手応えを感じるも、大きく議席を減らしてしまう。しかし、野党も過半数を取ることができない。
江島は総裁を解任され、少数で新党未来創造党を結成する。新しい総理には野党党首が選出され、「向こう10年間をかけて、予算の健全化を目指すが、今はまず、長き不況から脱出するための財政出動と減税を推し進めたい」と宣言する。こうして再び、日本は財政赤字拡大の道へと歩み始める。

 オズの魔法使いは、「皆が欲しいと願うものは、その人の中にある」という真実を語ったものだ。「本当に危機を感じなければならないのは、....国民の意識の低さ。それはお前たちのことだ」と言い放ったウーマンラッシュアワー村本の叫びも、同じ真実を語っている。

2017.12.20 商社マンの幻視で表現した戦後七〇年
―浅田次郎著『おもかげ』を読む―

半澤健市 (元金融機関勤務)

 浅田次郎の作品を初めて読んだ。泣いた。
主人公は退職歓送会の帰路、脳梗塞で倒れる。作者は、死の床にある男の脳裏に浮かぶ回想と幻影を描いていく。その内容は、少年時代から現在に至るまでの65年の人生の、思い出深い場面である。男の精神は、時に、身体をベッドに残して外へ浮遊してゆく。
両親を知らずに育った男は、苦学力行を経て「いい大学を出て大手商社のエリート」の生活を過ごしてきた。意識を失なったと見える彼が、病床で幻視したものには、見知らぬ年上の女との不思議な語り合いもあった。

 男の生きた時代は戦後70年間である。彼の回想は個人的なものと社会的な事件に彩られている。
男はノンポリだったらしく学生運動の回想は少ない。むしろ、彼が生まれた1951年の前後、日本社会がまだ混乱していた頃の、たとえば米軍空襲による被害者たち、占領軍米兵と日本人娼婦、中間層が形成される前の人々の貧しさ、朝鮮戦争による景気回復、それらが、細部にわたり活写される。

 両親のない主人公の設定には違和感が避けられない。
戦後物語の多くは、高度成長による家族共同体の崩壊過程を描いている。主人公の妻も両親が離婚した不幸な生い立ちの人物である。共同体のない環境からの出発を描く作家はなにを意識しているのか。ここには伏線がある。しかし主人公は、世間的には豊かで幸福な家庭を築き「経済の戦後」という価値を具現した。

 この舞台設定の意味は最後の数十ページで解明される。私は浅田次郎の魔術、または、プロの技に翻弄された。作家の眼は、「戦争の過酷と人間の業」を凝視する。悲劇は、再びの戦争や社会政策によって、解決できるのか。文学の存在理由の一つは、かかる問題提起であることを示している。

 私は、溝口健二が『雨月物語』(1953年・大映)で、京マチ子・田中絹代・水戸光子・森雅之・小沢栄によって表現した「戦争の過酷と人間の業」を、浅田次郎も文字によって表現していると感じた。
主人公はこのベッドで死ぬのだろうか。私は、野上弥生子の『迷路』の最後の場面を想起した。八路軍の投降勧告を容れて死の脱走を試みた主人公菅野省三は、背後から帝国陸軍の銃に撃たれる。倒れて意識を失った省三の生死を書かずに野上は長編小説を終えた。

 本書の帶に、浅田は「同じ教室に、同じアルバイトの中に、同じ職場に、同じ地下鉄で通勤していた人の中に、彼はいたのだと思う」と書いている。野上弥生子はある文章で、帰国した省三は民衆のなかに生きているだろうと書いた。
『おもかげ』の主人公竹脇正一(たけわき・まさかず)も、彼と戦後を併走した読者のなかに生き続けるであろうと私は思った。(2017/12/15)

■浅田次郎著『おもかげ』、毎日新聞出版、2017年12月刊、1500円+税
(『毎日新聞』、2016年12月~2017年7月の連載小説の単行本化)
2017.11.25 戦時下の反戦医師の足跡を掘り起こす
森永玲著『「反戦主義者なる事通告申上げます」――反軍を唱えて消えた結核医・末永敏事』         
         
岩垂 弘 (ジャーナリスト)


 無教会主義のキリスト教伝道者・内村鑑三の弟子で結核の先駆的研究者でありながら、戦時下に公然と反軍を唱えたため逮捕され、この世から抹殺された医師の足跡が、長崎新聞編集局長によって70余年ぶりに掘り起こされ、単行本になった。花伝社から出版された森永玲著『「反戦主義者なる事通告申上げます」――反軍を唱えて消えた結核医・末永敏事』である。当時の言論統制や思想弾圧の過酷な実態が明らかにされており、本書の母体となった新聞連載は2016年・第22回平和・協同ジャーナリスト基金賞奨励賞を受賞した。

 この本の主人公、末永敏事(すえなが・びんじ)は、これまで全く知られていなかった人物である。長崎新聞編集局長の森永さんも、これまで耳にしたこともなかった人物だった。なのに、なぜこの人物の生涯を追うことになったのか。
 昨年1月、長崎市に住む、敏事の遠縁にあたる人が、森永さんを訪ねてきた。「敏事の生涯を調べているが、自分たち親戚の調査では限界があるので、新聞社の力を借りたい」という依頼だった。森永さんはよく事情がのみ込めず「本当に実在する人物なのか」と半信半疑だったが、遠縁にあたる人についてきた人が懇意にしている学者だったこともあって、取材を始めた。
 なにせ末永敏事が亡くなってから70年以上もたっていたため、彼を知っている人も、彼に関する資料も極めて少なく、取材は難航した。半年かがりでその足跡の一部が明らかになり、それを、昨年6月15日から10月6日まで長崎新聞に連載した。それに加筆したのが本書で、それによると、末永敏事とはこんな人物であった。   

 1887年(明治20年)に長崎県の北有馬村(現南島原市)の医師の家系に生まれた。1901年(明治34年)に上京し、青山学院中等科に入学。まもなく内村鑑三に出会い、その影響でクリスチャンとなる。
 青山学院中等科を卒業すると帰郷し、医師を目指して長崎医学専門学校(現長崎大学医学部)に進む。同校を卒業すると、台湾で医師として働き、1914年(大正3年)、米国に留学する。結核を研究するためで、シカゴ大学やシンシナティ大学で学んだ。
 米国滞在は10年に及ぶが、この間、敏事は結核菌の基礎研究に関する論文を次々と米医学専門誌などに発表する。このころ、日本では、結核は死に至る病としておそれられ、国民病と呼ばれていた。森永さんは、これらの論文を結核予防会の専門家に読んでもらった。すると、「大正期に結核の分野で国際的な仕事をしたというのは驚異的な事実。パイオニアと呼んでいい」「国際舞台に立った最初の日本人医師だろう」といった感想が寄せられたという。
 
 1925年(大正14年)に帰国した敏事は、東京の帝国ホテルで、同じ無教会主義キリスト信者の女性と結婚式をあげる。敏事にこの女性を紹介したのは内村鑑三で、結婚式の司式を務めたのも内村だった(ただし、敏事はその後、この女性と離婚)。
 結婚した敏事は自由学園に就職するが、1929年(昭和4年)、故郷の北有馬村で開業。そして、1937年(昭和12年)には、茨城県久慈郡賀美村(現常陸太田市)で「末永内科病院」を開業する。翌1938年(昭和13年)には、同県鹿島郡の結核療養施設、白十字保養農園に移り、住み込み医師として働く。キリスト教伝道者で社会運動家の賀川豊彦の紹介だった。

 ところが、この年の10月6日、敏事は茨城県特高(特別高等警察)に逮捕される。51歳であった。
 本書によれば、1937年の日中戦争突入を受け、近衛文麿内閣は「国民精神総動員運動」を打ち出し、人と物を統制して戦争に集中させる国家総動員法を施行した。これを受けて、「国民職業能力申告令」が出された。医師の場合は、性別、診察能力、学歴・職歴、総動員業務従事への支障の有無などを地方長官へ申告しなければならなかった。
 しかるに、敏事は茨城県知事あてに郵送した回答書に「平素所信の立場を明白に致すべきを感じ茲(ここ)に拙者(せっしゃ)が反戦主義者なる事及軍務を拒絶する旨通告申上げます」と記したのだった。「内心に秘めた反戦思想が当局に露見したのではない。国家総動員の手続きに沿って、わざわざ文書で、総動員に従わないという信条を届け出たのだ」と森永さん。当局としては、危険思想の持ち主である“国賊”と断定して逮捕に踏み切ったということだろう。

 そればかりでない。旧内務省資料の『特高月報昭和十四年一月分』には、勤務先の白十字保養農園の事務長らに「現在日本の政治の実権は軍部が握って居る、近衛首相は軍部に乗ぜられて居る其(そ)の現はれが日支事変である。軍部の方針は世界侵略を目指して居る」「今次事変の当局発表新聞記事、戦争のニュースは虚偽の報道である」「今度の戦争は東洋平和の為であると言ふて居るが事実は侵略戦争である」などと語っていたと記されていた。

 敏事は、なぜこうした信条や見方をもつに至ったのか。森永さんは、彼が内村鑑三の薫陶を受けたことが影響しているのでは、とみる。内村は非戦思想の持ち主であった。

 敏事は1939年(昭和14年)、陸海軍刑法違反(造言飛語罪)容疑で起訴された。軍刑法は軍人を罰する法律だが、1930年代以降、民間人へも適用されるようになっていた。39年4月の水戸地裁での控訴審で禁錮三月の判決があり、敏事が上訴しなかったためこの刑が確定する。

 ところが、森永さんの追跡調査で明らかになったのは、ここまで。できる限り手を尽くしたが、これから後の彼の足跡はついにつかめなかった。
 戸籍によれば、敏事は1945年(昭和20年)8月25日、東京の「清瀬村」で死亡したことになっている。しかし、いくら調べても、彼が服役した刑務所、出所後の行動、死亡した場所、死亡の原因など、あらゆることが不明だったという。「清瀬村」を手がかりに東京都清瀬市の病院、とくに戦前、結核病棟を備えていたいくつかの病院に照会してみたが、敏事の記録は見つからなかった。
 
 要するに、出所から死亡までの6年間の足取りが空白であった。唯一、彼の足跡が残っていたのは、1943年(昭和18年)春、敏事が東京・新宿通りにあった、幼なじみが経営する歯科医院に立ち寄ったことだけだった。そのことが、院長の手記に記録されていた。それによれば、敏事は「汚れた背広がぼろほろに破れているのが異様で、ほおにけがをしたような痕があった」という。
 
 彼の生涯は、一言でいえば、結核研究のパイオニアであったにもかかららず、反戦主義者と申し出たがゆえに社会から抹殺され、世間からも忘れ去られたということだろう。森永さんは書く。「彼は歴史から消し去られた。危険思想の“国賊”とされたから、国際的医学者としての栄光も握りつぶされたのか。かといって、戦後に復活した共産党や宗教関係の戦時下抵抗者たちと並んでその名が記憶されることはなかった。従来の内村研究の中で敏事が重視されることもなかった」

 本書を読み終わった時、私の脳裏に去来したのは「再び思想弾圧の時代が近づきつつあるのでは」との不安であった。
 森永さんも、本書の「取材経緯」の最後を次のような文章で結んでいる。
 「本書の編集途中だった2017年6月、改正組織犯罪処罰法が成立した。改正法で新設される『テロ等準備罪』は、犯罪を計画段階で処罰する共謀罪の流れをくむ。『現代の治安維持法』と呼ばれる共謀罪が形を変えて出現したのだとすれば、では、これが何の始まりなのかを考えていく必要がある。近い過去の失敗をもう一度考える必要がある」
 今こそ、忘れ去られていた悲劇の結核医の孤独な生涯に思いをはせたいものである。

 森永玲著『「反戦主義者なる事通告申上げます」――反軍を唱えて消えた結核医・末永敏事』の定価は1500円+税。発行・花伝社
2017.10.02  アメリカのミリオンセラー書籍の紹介
         J.D. Vance,“Hillbilly Elegy”
 
小川 洋(大学非常勤教師)
                
 現在、アメリカで文字通りミリオンセラーとなっている本がある。J.D. Vanceの“Hillbilly Elegy: A Memoir of a Family and Culture in Crisis”(William Collins,2016,p.257)である。出版から2か月でThe New York Timesのベストセラーリストのトップに登場するという爆発的な売れ行きで、すでに紙媒体だけで100万部を超えている。日本アマゾンでは1,455円で販売され、日本語版『ヒルビリー・エレジー』も今年の3月に出版されている(光文社、1,944円)。

 筆者は、たまたまアメリカ滞在中の9月2日、ワシントンD.C.で開催された全米ブックフェスティバルで著者が登場する場面をテレビ中継で見た。招待された110名ほどの作家のうち、メインステージに登壇する機会を与えられた7名の一人であった。一時間に及ぶインタビューで、彼には連邦議会さらには次期大統領選挙に出馬を期待する声があること、著書の映画化の動きがあることなども紹介されていた。本人はいずれにも否定的であったが、バンス氏の本は、ベストセラーとして話題となっているだけでなく、一種の文化現象ともなっているのである。

 ではバンス氏とはどんな人物なのか。題名の “Hillbilly”という単語自体が日本人には馴染みのない言葉である。Hillはアパラチア山脈の山間部を指す。Billy(Bill)は男の子の名前として一般的だから、「山家育ちの男の子」ということだろう。またBilly clubで(警官の)棍棒という意味があるなど、細かなニュアンスは分からないが、文化的洗練とは縁遠く、教育に欠けて粗暴で貧困、などがイメージされるのだろう。彼の数代前の祖先はアイルランドからの移民で、アパラチア地方に定住している。

 彼の祖父母たちはケンタッキーの小さな街で生まれ育ち、1940年代に隣接するオハイオ州に移動する。ケンタッキーには炭鉱産業があったが生活は厳しく、第二次世界大戦で急速に発展していた製鉄企業に仕事を求めて移動したのである。1950年代には毎年ケンタッキーの人口の13%が他州に流出したという。ただし80年代には製鉄業も斜陽化するのだが。祖父母の長女である彼の母親から1984年に産まれたのが著者である。本書出版時には31歳ということになる。

 さて彼の生育環境はあまり恵まれたものでなかったことは想像されるが、実際は想像を絶するものがある。彼には6人の父親がいる。母親は18歳で妊娠し、彼の姉が産まれている。バンス氏は母親の2番目の夫との間の子どもである。その結婚も短期間で破綻しているので、彼が物心ついたころには3番目の父親だったことになる。著者に言わせれば、「回転ドアを出入りするように」、父親が変わったという。
 関係が悪くなるたびに両親は、家の内で罵り合うだけでなく、互いに食器などを投げ合う激しい喧嘩を繰り返すようになり、小さな子どもだった著者には家の中で落ち着ける場所がなかった。母親は結婚生活が破綻する度に、アルコールや薬物に走り、ある時は、車に同乗していた著者が重大事故に巻き込まれて命を落としそうになる。母親は薬物乱用治療のために、しばしばリハビリ施設に収容されている。

 劣悪な環境は家庭だけではない。彼の通った公立学校はオハイオ州でもっともレベルの低いものだった。少なからぬ生徒の家庭は、著者と同様の崩壊状態である。生活保護を受けている家庭も少なくない。アメリカでは多くの場合、生活保護には現金でなく「フードスタンプ(食料品購入券)」が渡される。もちろん酒類の購入には当てられない。しかし多くの受給者は、スーパーマーケットで多くの清涼飲料を購入し、それを下取り業者に売って、得た現金で酒類を購入していたという。
 高校の中退率は20%に及び、多くの女子生徒は妊娠して学校を去る。中学時代の彼は不登校気味、高校1年の平均成績は2.1だった。アメリカの高校では4段階評価だから、日本で言えば、5段階評価の2.5程度だろうか。つまり2と3の科目が大半ということだ。

 ここまで紹介した10代までの著者に、その後どのような人生が待ち構えていると想像できるだろうか。常習的失業者?でも、そのような生活では読者を惹きつけるような話題も文章も提供できないだろう。あるいは犯罪者?詐欺など知的に優れた犯罪者ならば、魅力的な本を執筆するのは可能だろう。犯罪者から立ち直って事業に成功した、というストーリーならば読者をいっそう惹きつけることもできるだろう。

 現実の彼はその後、アメリカでトップ3のイエール大学のロースクールを出て、アメリカ有数の法律事務所に就職し、現在はオハイオ州に戻って弁護士として仕事をしている。日本に当てはめれば、最底辺の高校のなかの落ちこぼれから、もっとも入学の難しい有力大学に進学して弁護士資格を取得した、ということになろうか。

 では、彼はどのようにそのようなキャリアを開いていったのか。いわゆる「地頭」が良かったことは間違いないだろう。陰に陽に祖母が、彼の不安定な生活を支え、学ぶことを応援し続けたのも大きい。また高校2、3年生の時に、優れた教員との出会いがあって、学ぶ意欲が刺激されたのも大きく、進学適性検査(SAT)で良好な成績をとるようになる。
 彼は高校を卒業すると海兵隊に志願してイラクへの派遣も含めて4年間を務める。除隊後、GIビル(兵役を務めた者に対する奨学金)などを利用して、オハイオ州立大学に入学して2年間で修了する。日本ではありえないが、夏や冬の集中講義を履修し、さらに海兵隊時代の教育歴も単位に加算されて4年間かかる課程を半分で卒業した。
 卒業後は専門職を目指し、さらにロースクールへの進学を考える。州立大学などの入学許可を得やすい大学を考えていたある日、州立大学のロースクール在学中の先輩が、レストランでアルバイトをしている姿に接し、気持ちを切り替えてアメリカでも屈指のロースクールであるイエール大学を志願することにする。この辺の彼の行動はコミカルでもあり読んでいて楽しい。

 本人も驚くが、イエール大学から入学許可を得る。しかも多額の奨学金が与えられるという好条件である。イエール大学のロースクール入学者の大半は、ハーバードなど、アメリカを代表するアイビーリーグと呼ばれる有力私立大学から進学してくる。彼は入学後、ある教授から「なんで州立大学卒などが入ってくるんだ」と侮辱されている。彼はその後、完成度の高い小論文を提出して、その教授に能力を認めさせたのだが。
 彼の入学許可は、おそらくアメリカのエリート大学の学生募集方針による。有力大学の多くは、学生の多様性を確保するために入学者の一定数を著者のような特異な経歴の人物を入学させるようにしている。彼はイエール大学に進学したお蔭で、レストランでのアルバイトどころか、1年目が終わる段階で、ワシントンやニューヨークの名だたる法律事務所の採用活動を経験する。一流レストランでの接待攻勢なども描かれて興味深い。2年間の課程修了後は、同級の女子学生と同じ法律事務所に就職し結婚もしている。

 さてこれだけの内容なら、ただ悲惨な子ども時代を過ごし、劣悪な教育環境の若者が成功した物語でしかない。それだけで、本書が大きな反響を呼ぶはずはない。本書が多くのアメリカ人の琴線に触れたのは、アメリカの貧困層とくにプアホワイトと呼ばれる白人貧困層の状況について率直な議論をしている点だろう。そこは、著者自身が育った世界である。

 著者によれば、失業など生活破綻の危機に晒される労働者たちの多くが、「企業が中国に行ってしまって我々は苦境に立たされているのだ」、「オバマ政権が企業を中国に行かせたのだ」など、攻撃的な議論をして、大統領選挙ではトランプの共和党に投票したのだという。
 しかし著者は、白人労働者の側にも大きな問題があると指摘する。彼らは、家族・親類の相互扶助関係や基本的な労働倫理(勤勉さ)を失っているという。「福祉を食い物にする怠惰な黒人(Welfare Queen)」というイメージは行き渡っているが、福祉に依存して勤労意欲も失っている多くの白人の姿を紹介している。原著の副題である「危機にある家族と文化の記憶」が、そのことを意味していることは明らかである。

 著者は統計資料なども紹介しながら、アメリカ中西部の白人労働者たちが抱える問題について、さまざまな考察も加える。もちろん単純な解決策を示せるわけではないが、本書は、アメリカ人の多くが見ることを避けてきた自らの恥部ともいえる部分を率直に語ることによって、とくに下層社会に滞留する白人たちに内省を求めるものともなっている。
 トランプ政権の誕生によって、世界はアメリカの将来に不安を抱いているのであるが、このような書籍が多くのアメリカ人たちに読まれ、積極的に支持されている限り、アメリカ社会の健全さに期待してもよいのではないか。
2017.09.22  科学的常識から権力犯罪を疑う
  青山透子『日航123便 墜落の新事実』(河出書房新社、1,600+税)を読む

小川 洋(大学非常勤教師)

 世界各地でテロ事件が続いている。その多くは社会不安を煽り、政治的不安定を引き起こすことを目的とするテロ組織によるものだろう。しかし、事件の中には科学的常識からして不審な点があって、権力犯罪の可能性を考えざるをえないケースもある。

全世界に衝撃を与えた2001年のアメリカ同時多発テロでも、ビルの不可解な倒壊過程など多くの不審点が指摘され続けている。分かりやすい一例をあげれば、乗っ取られたフライト93便の中では、携帯電話で家庭と連絡をとって事情を知った乗客の一部が犯人たちと格闘したとされている。しかし今でも富士山で携帯電話の通話が可能なのは7,8月のみである(DOCOMOを除く)。つまり電話会社にすれば、顧客(通話者)のいるはずのないところ(上空など)に電波を飛ばすのは無駄なだけで、基本的に航空機内からの携帯電話による通話は不可能である。

また2015年1月に発生したパリのシャリルー・エブド事件でも、アラブ系フランス人によるテロ事件とする公式見解に異議を申し立てた書籍が事件後間もなく出版された(『シャルリ・エブド事件を読み解く - 世界の自由思想家たちがフランス版9・11を問う』)。そこには様々な疑問点が列挙され、複数の寄稿者がイスラエルの秘密組織モサドの事件への関与の可能性を示唆している。日本語版も出版されており、5月に本サイトでも取り上げられている。
一例をあげれば、この事件では犯人に射殺されたはずの警察官の姿が、近くのビルから撮影していた市民の動画に残っている。しかし犯人の発射したマシンガンは空砲だったのか、当の警察官の頭部から1メートル近く離れた個所で白い煙のようなものを発生させている。現在でもユーチューブで確認可能である。至近距離からマシンガンの弾を頭部に受けていれば、頭部は粉砕され大量の流血があるはずであるが、まったくその様子はない。

 さて日本において、科学的常識からしてありえない公式見解が出され、公的な検証が終わっている事件としては、1985年8月に発生した日航123便の墜落事故がある。その事故報告書が科学的な検証に耐えうるものだと考えるものはほとんどいない。

事故報告書では、事故機はボーイング社による修理を受けていたが、その修理にミスがあったのが原因だったとする。羽田から大阪に向かうべく上昇していた事故機の後部隔壁に亀裂が入り、加圧されていた客室から垂直尾翼に向けて激しい空気の流出があり、垂直尾翼を破壊し、油圧系統もすべて使えなくなった結果、操縦不能となり墜落に至った、というものである。我々は高層ビルでエレベーターに乗れば、耳の異常を感じる。高度一万メートルで、突然、機内から大量の空気が流出すれば、激しい耳の痛みを生ずるだけでなく、酸素不足から直ちに意識を失うはずである。しかし、生存者の証言や機長らの交信記録から、そのような状況が発生しなかったことは明らかだ。

この7月、元日本航空の乗務員だった青山透子氏による『日航123便 墜落の新事実』が出版された。副題は「目撃証言から真相に迫る」である。青山氏は2010年に『天空の星たちへ 日航123便 あの日の記憶』(マガジンランド)を上梓し、亡くなられた元同僚への鎮魂の文と、ジャーナリストなどによって指摘されてきた事故の疑問点を取り上げている。今回の著書は、前著の出版後に連絡をしてきた遺族や、事故現場に近い小中学校に残されていた子どもたちの、事故当時の思い出を綴った文集など、その後に得た新たな情報をもとにしている。

新たな情報の一つは遺族の吉備素子さんから得た情報である。事故後の遺体などの処理について日航の態度に不満を抱いた吉備さんは、当時の日航の高木社長との直談判に臨んだ。「現在の作業を中止するよう、一緒に首相官邸に行って中曽根首相に直訴しましょう」と言ったところ、高木社長がブルブル震え出して「そうしたら私は殺される」と激しく怯えたなどの証言は興味深いものがある。彼女の証言の中には、警察関係者との話のなかで「事故の原因追及をするとアメリカと戦争になる」という話があったことも出てくる。

事故当時運輸大臣だった山下徳夫氏からも接触があって会食している。山下元運輸相が何を考えて青山氏との面談機会を自ら設定したかはわからない。その後14年に亡くなられているが、感触としては青山氏の事故原因追及の姿勢を、暗黙の裡に支持する意図があったのではないかと思われる。

その他、彼女のもとには当日の日航機の目撃証言が多く寄せられている。その地点を繋いでいくと、事故報告書の示した飛行ルートとは相当に異なっている。通常見ることのない場所で、異常に低空を飛ぶジャンボ機について、見間違えとか記憶違いということは考えにくいから、この一点だけでも事故報告書の信頼性は大きく揺らぐのである。

さらに彼女は上野村の小学校と中学校の文集を閲覧する機会を得る。事故前後の子どもたちの記憶が書き残されていたのである。その中には、墜落前の日航機の側を2基のジェット戦闘機が並走していたという証言がある。事故報告書や政府は否定しているが、多数の目撃証言が記録されている。また子どもたちの保護者には、営林署関係者なども含めて地元の地形を知り尽くしている人たちが多い。彼らが事故直後にほぼ正確に墜落地点(後に御巣鷹山と呼称される)の見当をつけていたにも関わらず、ラジオやテレビが、長野県など不自然に異なる方向を伝えていたことに多くの人たちが不審感を抱いたことも記録されている。

その他にも、当時の記憶を呼びおこした地元の人たちの証言が加わる。もっとも衝撃的なのは、早い段階で現場に入った地元消防隊員たちの、ガソリンとタールの異臭が立ちこめていたという証言である。消防隊員たちが燃焼物を間違えることは考えにくい。ガソリンが燃やされた可能性については、検視に当たった医師たちの、異様に炭化の進んだ遺体が多くあったとの証言とも一致する。ジェット燃料は一般家庭で暖房用に使われる灯油に近い成分であり、遺体が激しく損傷するはずはない。ガソリンとタールの混合物が使われたとすれば、武器である火炎放射器しかない。想像するにもおぞましいことだが、墜落後から翌朝までの間に、現場一帯で証拠隠滅のために火炎放射器が使用されたと考えるのが妥当である。

またジャーナリストや遺族には、公表されたボイスレコーダーの記録をもとに様々な分析を試みている人がいるが、じつはボイスレコーダーは「プライバシー保護のため」として、いまだに全面的に公開されているわけではないという。航空機事故において事故原因の調査に優先するプライバシーはありえないというのが国際常識だろう。

この事故(事件)をめぐる疑わしさは、当時の中曽根康弘首相の事故後の言動にも窺える。彼は軽井沢の別荘に滞在中であったが、事故発生時は帰京のため予定通り、旧国鉄(民営化は87年4月)の特急列車の車中であった。軽井沢駅を17時11分に発車し上野駅19時15分着であった。事故機は、18時24分異常事態発生、同56分墜落という経過をたどった。NTTの携帯電話サービスはまだなかったので、直接の連絡はなかったであろう。しかし、国鉄は内部連絡用に線路にそって電話線を引いている。首相には途中駅で事故の情報が入ったはずである。事実、彼は回想録(『中曽根康弘が語る』2012年、新潮社)の中では、「車内で報告を得た」と書いている。
しかし、官邸に戻った中曽根氏は記者の問いかけに対して、「ほう、そうなの?」と初めて知ったような反応をしている。また回想録では「防衛庁と米軍の間でやりとりがあったのではないか」と、他人事のような記述をしている。民間航空機の墜落事故にもかかわらず、「米軍と防衛庁が」と記述すること自体が、この事件がミサイル誤射などの軍事訓練による事故だったことを理解していたことを示している。

オスプレイの飛行ひとつとっても、日本政府はいまだ領空に関する主権を放棄したままである。日航機事故の犠牲者に対して、我々はまだ責務を果たしていない。事件の真相を明らかにし、責任を追及する努力を引き継いでいく必要がある。日本の真の主権回復は、このような作業をひとつずつ確実に積み上げていくことによるほかない。
2017.05.31  秋葉 洋さんと私
   韓国通信NO525

小原 紘 (個人新聞「韓国通信」発行人)

尊敬する職場の先輩だった秋葉洋さんが書き残した『戦争青春記』を読んだ。亡くなってから3年、夫人が自費出版した。
東京府立四中(現戸山高校)から陸軍幼年学校、士官学校に進み、卒業後、静岡県磐田の通信隊で敗戦を迎えた後、一般人として再出発するまでの記録である。
極東裁判の判決「デス・バイ・ハンギング(絞首刑)」のラジオ放送を聞いて、「私の青春が終わった」という記述がとても印象的だ。青春はひとさまざまだが、13才から「天皇の軍隊」のエリートとして育てられた経験もまぎれもない「青春」だったことに違いはない。
「とにかく面白いから読んで欲しい」ではあまりにも能がなさすぎる。本のあらましを紹介しながら一緒に組合活動をした者の目から見えた銀行員時代の姿をスケッチした。

<人生は自分が作るもの>
秋葉さんとは私が新入社員のころに出会った。初対面の私に、「君は不正義だらけの職場でどう生きていくつもりなのか」「自分の人生を切り開くつもりはないのか」と問い、所属する第二組合から少数組合への加入を求め、私に震え上がるような人生の選択を迫った。
銀行が組合をつぶすために正副委員長を解雇して、組合弾圧に狂奔していた真っただ中の時期だった。
秋葉さんは出世と無頓着に職場を生きた。仙人のように達観した生き方ではなく、また意地を張るふうでもなく、天衣無縫な自由な生き方だった。「文句を言わずに仕事をしろ」という会社の方針に「無条件降伏」した職場の大勢のなかで超然としているように私には見えた。
陸軍士官学校で日本の敗戦を公然と語った人間が、後半生の職場で、負けない戦(いくさ)に挑んだ。「団結と組織拡大があれば負けない」と組合切り崩しによって5%になった少数組合員に希望と展望を与え続け、職場で支持されて誰もが自由に加入できる組合づくりを目指した。組織のためではなく「一人ひとりのための組合」を活動の原点にした。- そのことは遠隔地の教師と結婚した女性組合員の転勤要求を組合員総がかりで実現させたことによく表れている。組合に加入したての私も窓口でプレートを着け、東京駅頭のビラマキ活動に参加した。わがままな要求だと一蹴した銀行も一従業員の生活を優先させようとする組合の要求を呑まざるを得なかった。

<たかが労働組合、されど労働組合>
第一組合員と女性差別是正の要求を掲げて全組合員が100日間も座り込んだ闘争も秋葉さんを抜きにしては語れない。
日本橋高島屋前、丸善の隣にある本店前は騒然となった。銀行はあわてにあわてた。組合分裂で出世した役員や支店長に反省文を書かせるという「ゲリラ戦」も展開した。考え抜かれた「作戦計画」を実行する知将ぶりだった。一瞬のうちに組合ニュースを書きあげる能力。彼の発言力と指導力は抜群だった。団体交渉に出席した銀行の役員たちは彼の前で「わるさ」をした子どものように沈黙した。
仲間を思いやる気持ちの深さと自分の信念を曲げない一途さを備えた不思議な人だった。酒を飲んでは職場の問題から日本と世界の政治情勢、そして音楽と文学と「愛」を語った。
日本信託銀行の労働組合については語りつくせない。
「労使協調」と「政労協調」に陥ったわが国の労働運動が問われてから久しい。最近では「賃上げ」から「働き方」まで政府にイニシアチブを握られるというぶざまさである。
それにひきかえ私たちの組合は要求の実現のためにガムシャラに運動をした。運動をしなくなったら組合はなくなる。賃上げ、ポーナス闘争では1年近くも妥結しないことが再三だった。経営者に忖度して早期妥結をはかる第二組合との違いは歴然だった。
賃金問題にとどまらず、残業手当問題、臨時雇い、パートタイマーの待遇改善、人員要求、差別待遇の改善にも心血を注いだ。真面目に職場のことを考えたら当然のことだった。「闘いが未来を開く」という秋葉さんの主張を組合員は共有した。「闘争至上主義」だと第二組合はさかんに批判を続けたが、「たたかわない」ことを宣言したに等しい組合は職場から支持を失なった。
「たかが組合運動」といわれることある。しかし組合員にとっては「青春」をかけた活動だった。第二組合からの加入が続き、第一組合の消滅を願った経営者の目論見は完全に破綻した。
組合間の差別も女性差別も大幅に改善させるという成果もあげた。金融産業、全産業のなかでも女性の役付き社員の数は屈指の多さを誇った。
「ゴマすり」が評価される企業では公平な人事考課はあり得ない。「昇級昇格は勝ち取る」ものだと秋葉さんから学んだ。生涯ヒラ社員を覚悟していた私も要求して課長、さらに次長に昇格した。
今や社会問題となった過労死や残業問題も早くから取り組まれた。組合の要求通り時間外手当をきちんと払ったら銀行は「潰れる」と経営者は悲鳴をあげた。ただ働きをさせて会社が利益をあげるなんて認めるわけはなかった。
運動の先頭に立って労働組合を支えたのは女性組合員たちだった。「女性が社会を変える。未来は女性の時代」というのも秋葉さんの口癖でもあった。
銀行に対する社会的批判が高まった時期、銀行の社会的責任について企業内外で積極的に発言を続けた。不動産融資に対する過剰融資についても団体交渉で再三とりあげた。融資の内容まで切り込んだ労働組合はあっただろうか。組合が組合員の生活を守るのは当然としても、会社のために国民の命を危険にさらす原発を擁護する電力会社の組合は明らかに反社会的だ。東芝でも原発事業にストップをかける健全な労働組合(社内世論があれば「倒産」は免れたはず。

<スーパー「銀行マン」の前史>
現役時代の沈黙を破って退職してから「真実」を語るひとがいる。立派なことに違いないが、秋葉さんは現役の職場生活で公然と信念を主張して、誰憚ることのない「ぶれない人生」を送った。漢籍、西洋文学に通じ、美声でシャンソン、ロシア民謡をよく歌った。堂々とした立ち振る舞いは社長も寄せつけないほど威厳に満ちていた。職場の若者たちを誰彼となく面倒を見る秋葉さんを慕って第一組合に加入する人も多かった。悩むなら「一緒に悩もう。そしてともに闘おう」と若者に向かって発言する大人は当時でも少なかった。
彼の前半生を解き明かしてくれた『戦争青春記』を読んで感動した読者なら、著者がその後どう生きたか知りたくなるはずだ。その疑問に答えるために銀行員時代の姿を紹介した。

軍人のエリートを育てる教育機関の非民主的な組織について著書の中で活写されているが、そのなかで、秋葉青年が何を考えどう行動したのかはとても興味深い。
「天皇は神ではない」と発言したばかりに、危険人物として営倉送りになった。軍規違反の発言と行動にもかかわらず不思議なことに上官や教官、仲間から共感を集めたという話に驚く。戦争を遂行するエリート養成機関で、このようなことが起きていたという意外性。結核を患い、退学処分も予想されながら、トップクラスの成績で卒業したという不思議さ。彼の並外れた能力がうかがえる。
『青春記』では学校生活と軍隊生活が中心に語られるが、淡い初恋、親兄弟、特に母親との思い出もつづられている。銀行員としては超破格だった秋葉洋さんの人格形成の歴史がわかり感動的である。
戦後生まれの職場の若者たちが、「上司の命令には絶対服従」する姿を見て、彼は軍隊時代を思いだしたに違いない。日本帝国軍隊の崩壊を目の当たりにした彼には、荒廃した職場が、崩壊した軍隊に重なって見えた筈だ。少数とは言え、団結した仲間がいた点は違ったが、軍隊の中で育んだ自由思想、平和思想で銀行職場に立ち向かわざるを得なかったのはなんとも皮肉なことだった。表面は変わったように見えても内実はいっこうに変わらない日本社会に苛立ってもいた。
「群れる」ことを嫌った秋葉さんの「自立」「自尊」の意識と感性が仲間から理解されず、孤立することもあった。しかし絶望することなく、「人を信じて頼らず」をモットーに、仲間をとことん信頼してわが道を行く人だった。
読みながら「君はどう生きてきたのか。これからどう生きるのか」と問われた気がした。「戦争を知らない子どもたち」と言われ続け、戦争の苦労話を耳にタコができるほど聞かされた世代のひとりとして、次の世代に平和な国を残せないとしたら本当に心苦しい。余生を(秋葉さんはこの言葉をよく使った)与えられた宿題の解決に努力するしかない。『戦争青春記』を彼の「遺言」として読んだ。
『戦争青春記』 秋葉 洋著 一葉社発行 定価1800円+税

<イヤー とにかく忙しい>
忙しいというか気が落ち着かない。今国会中の共謀罪成立をもくろみ、2020年には憲法を変えると断言した「あいつの」せいだ。顔は見たくないし、声も聞きたくないのだが、何を言いだすのか心配でテレビを見続けている。お友だちに便宜をはかったことが厳しく批判され罷免された隣国と日本ははどうしてこうも違うのか。韓国なら「あいつ」も当然罷免だ。韓国では日本の治安維持法をまねて作った国家保安法の廃止が強く求められているが、日本ではあらたに作ろうとしている。時代遅れ時代錯誤も甚だしい。国家の安全を政府が言いだしたらロクなことにならない。国会前にでかけて声を張り上げることが多くなった。愚痴を言うくらいなら一市民として声を上げたい。これも秋葉先輩から学んだ生き方だ。強行採決は無効だ。国会へ行こう!!
2017.05.10  「イスラム・テロ」を根底から問い直す―衝撃的な板垣雄三解説
  『シャルリ・エブド事件を読み解く』

坂井定雄 (龍谷大学名誉教授)

2015年1月7日、パリで風刺誌出版社「シャルリ・エブド」社を2人の男が襲撃、同誌編集長以下の編集スタッフ10人と警官2人が殺害された。犯人2人は逃走し、人質をとって印刷会社に立てこもったが警官隊に射殺された。ほぼ同時に、別の男が市内のユダヤ食品店を襲撃、客と店員を人質にして立てこもった。こちらの犯人も警官隊に射殺されたが、人質4人が死亡した。フランス当局は、「シャルリ・エブド」社襲撃犯の二人をアルジェリア系のフランス人だとして氏名も発表した。「シャルリ・エブド」はイスラム教をあくどく風刺し、イスラム教徒が絶対的に信仰するムハンマドまで戯画化して掲載、そのつど、国内のイスラム教徒とイスラム諸国から強く抗議されていた。
4日後の11日、パリはじめフランス全土で、“Je suis Charlie “ (わたしはシャルリ)をかかげた大規模(370万人と報道された)なデモが行われた。イスラエルからネタニヤフ首相がやってきて、デモに参加した。事件後、フランスをはじめ欧米諸国では、イスラム・フォビア(イスラム嫌悪)勢力による反イスラム・キャンペーンが強まり、治安当局によるムスリム(イスラム教徒)社会への監視が強化された。一方で、中東での偏狭なイスラム過激派IS(イスラム国)に、欧州諸国からの若者たちの参加が拡大していた。
このような厳しい状況下、事件から3か月後の15年4月、本書が米国で刊行された。中心となった編著者は米国市民でイスラム教徒のケヴィン・バレット。アラビア語・イスラム・人文学の研究者。「対テロ戦争」批判で最も著名な一人。
22人の執筆者たちは、「社会的・宗教的・民族的帰属も思想信条もいちじるしく多様で、個性的だ。研究者・ジャーナリスト・技術者・市民運動家・かって政権内部にいた人・緑の党・アフロアメリカン・ユダヤ教ラビ・カトリック思想家・プロセス神学者・シーア派法学者・イスラム思想家・イスラム終末論者など」(板垣雄三氏による)。
多様な執筆者たちに共通するのは、「シャルリ・エブド」事件はじめ数多くのテロ事件がイスラム・テロだとすることへの強い疑念だ。諸事件はイスラエルの強大な謀略機関モサドか各国の情報機関が実行した偽旗作戦(敵対する勢力を他者に攻撃させるために起こす欺瞞的な軍事行動やテロ)、謀略ではないかという疑念を消し去ることはできない。その背景にはイスラム・フォビア(イスラム嫌い)があることも確か。
 本書が発刊された以後も、15年11月13日にパリで発生した同時多発テロ事件(6カ所で爆発や銃撃があり、計130人が死亡、300人以上が負傷)をはじめ、イスラム教徒によるテロと治安当局がみなす大小の事件が発生している。中東を本拠とするIS(イスラム国)が犯人との関係を発表することも多いが、犯人の多くが現場で死亡しており、メディアは治安当局の発表に頼るだけだ。
 
本書は全体で481ページ、そのうち77ページが、板垣雄三東大名誉教授の解説。板垣氏は言うまでもなく、日本での中東・イスラム研究のリーダーだ。
 この「ウソと謀略に踊る世界の破局―どう向き合うか」と題した解説は、本書の理解を助け、原著刊行から現在までの2年の時間差を埋めただけでは決してない。第2次世界大戦後の、とくに欧米で発生した「9.11」をはじめイスラム教徒の犯行だと喧伝されたテロ事件が、実はイスラエルや欧米諸国の情報機関の謀略、偽旗テロである疑いがあることを、板垣氏は解説で鋭く追及している。
 そして板垣氏は「この『シャルリ・エブド』の本では、ウソと謀略の現況の出発点を、ケネディ大統領暗殺まで遡らせた。しかし、植民地主義・人種主義・軍国主義批判と、いのちの尊厳擁護の観点からは、起点を1953年イランのモサッデグ政権を倒したCIAによる軍事クーデターまで、さらに1948年のイスラエル国家樹立まで、引き上げるべきではないだろうか」と主張している。
 この解説ではまた、過激発言とフェイク(偽・でっちあげ)を多用して当選したトランプ米大統領についても触れられている。
 なお、本書の続編が、米国で出版されている。

ケヴィン・バレット編著、板垣雄三監訳・解説「シャルリ。エブド事件を読み解くー世界の自由思想家たちがフランス版9.11を問う」。第三書館。2017年5月発刊。
定価3500円+税
           20170510坂井寄稿写真

2017.03.10  今日のジャーナリズムの姿勢を鋭く問う
           『米騒動とジャーナリズム 大正の米騒動から百年』

岩垂 弘 (ジャーナリスト)

 大正期の日本を震撼させた米騒動から来年(2018年)で100年になる。その記念すべき年を前に『米騒動とジャーナリズム 大正の米騒動から百年』という本が刊行された。1918年(大正7年)夏に富山県東部沿岸地域に端を発し、全国に波及した米騒動の意義を追求したものだが、騒動が全国化する上で新聞が大きな役割を果たしたことが丹念な検証を通じて明らかにされており、はしなくも今日のジャーナリズムの姿勢を鋭く問う内容となっている。

 本書は、金澤敏子(ドキュメンタリスト・細川嘉六ふるさと研究会代表)、向井嘉之(ジャーナリスト)、阿部不二子(細川嘉六ふるさと研究会顧問)、瀬谷實(ジャパン・プレス・サービス代表取締役)の4氏の共著である。いずれも細川嘉六ふるさと研究会のメンバーで、金澤、向井、阿部の3氏は富山県、瀬谷氏は東京都の在住だ。
 
 細川嘉六は富山県出身の国際政治学者・社会評論家。東京帝国大学を卒業後、大阪住友総本店、読売新聞社などに勤務するが、その後、大原社会問題研究所に入所、労働問題や植民地問題を研究する。が、戦時下最大の言論弾圧事件とされる「横浜事件」に連座し逮捕される。戦後、第1回の参院議員選挙で共産党公認で全国区に立候補、当選する。

 金澤さんらは、郷土出身の細川の学問的業績を調べて行くうちに、細川が米騒動の詳細を最初に著した、いわば米騒動研究の先覚者であることを知り、米騒動の全容と歴史的意義を改めて解明する研究を思い立つ。研究は4年に及び、その集大成が本書である。

 本書によれば、1918年(大正7年)7月に富山県で起きた米騒動は「越中の女一揆」と呼ばれる。そのことからも分かるように、騒動の主役はおかかたち(女性たち)だった。
 本書によると、大正期の富山県は日本有数の米産地で、ここでつくられた米は主として富山湾の海岸から船で北海道へ送られていた。ところが、1914年(大正3年)に第1次世界大戦が始まったことで日本経済が好景気となり、米の需要が急増、米価が暴騰した。
 この影響をもろに受けたのが、富山湾沿岸の漁師町の人たちだった。もともと田んぼを持たず、貧しかった漁師町の人々は値段が高騰した米を買えなくなり、馬鈴薯で飢えをしのがざるを得なくなったからだった。
 
 こうした事態に声を上げたのが、台所を預かっていたおかかたちだった。著者の1人、金澤さんが言う。「相次ぐ米の暴騰に怒ったおかかたちは、米の買い占めなどで暴利をむさぼる米商人や富豪に対し、浜での米の積み出し作業阻止と米の安売りを強く要求しました。おかかたちは米を求め、まさに生きるために立ち上がったのです。儲けのためなら人間の命がどうなっても良いのかと抗議する、やむにやまれぬ必死の闘いでした」。これが、米騒動の発端だったという。
 
 金澤さんによると、この騒動は富山湾から全国津々浦々に伝わり、瞬く間に1道3府38県に広がった。騒動あるいは暴動に加わった民衆は数十万人にのぼった。政府は120地点に延べ9万2000人の軍隊を出動させて鎮圧にあたったが、全国で死者20数人、重傷者1000人余り、起訴された人7700人、そして死刑2人という痛ましい結果を残したという。一方、政府側は同年9月に寺内正毅内閣(軍人・官僚で組織されていた)が総辞職し、日本初の政党内閣の原敬内閣が誕生する。
 「米騒動は、日本の近代にあって、明治と昭和のはざまという時代に、新しい『民』の存在を確認することになったのです。米騒動は日本の最初の民衆運動であったと言えます」と金澤さん。

 ところで、著者たちが米騒動の全容を明らかにする上で役に立ったのは新聞だった。なぜなら、米騒動に関する資料はそう多くなかったからである。調べてみると、当時の新聞が米騒動を報道していた。そこで、著者たちはまず、米騒動に関する当時の新聞記事の収集に努め、富山県内の5紙、全国紙では20紙余りを収集した。こうして、地方紙、全国紙合わせて6000点の新聞記事が集まった。その一点一点を読解して行った。

 その結果、明らかになったのは、「富山日報」「北陸タイムス」「高岡新報」「北陸政報」などの地元紙が騒動の経過を詳細に報じていたことだった。
 例えば、1918年(大正7年)7月25日付の「富山日報」はこう書く。
 「下新川郡魚津町の漁民は近来の不漁続きに痛く困憊(こんぱい)し、生活難を訴ふる声日に高まり、果ては不穏の形勢を醸(かも)すに至りしは昨報の如くなるが、二十三日も汽船伊吹丸が北海道行きの米を積み取る為入港し、艀船(はしけぶね)にて積込みの荷役中、かくと聞きし細民等は、そは一大事也、さなきだに価格騰貴せる米を他国へ持ち行かれては、品不足となり益々(ますます)暴騰すべしとの懸念より、群を成して海岸に駆け付け米を積ませじと大騒動に及びし為、仲仕人夫(なかしにんぷ)も其(その)気勢に恐れを懐(いだ)き遂に積込みを中止したり、依(よ)って伊吹丸乗組員も此上(このうえ)群集せる細民と争うは危険なりと考え、目的の積込みを中止し早々に錨を抜いて北海道に向け出帆せり」

 この記事では、騒動に加わった人たちを「細民」としているが、他紙は「貧民」「女房共」「女軍」「女群」「女人団」「婦女団」などといった呼称を使っている。いずれにせよ、地元紙の報道は極めて積極的であった。

 しかも、富山県で発生した米騒動が全国化するきっかけとなったのも地元紙の報道であった。というのは、「高岡新報」の米騒動第1報(1918年8月4日付)が、翌8月5日付の大阪朝日新聞、大阪毎日新聞に掲載されたからである。それは「女軍米屋に薄(せま)る」「百七八十名は三隊に分れて」「町有志及び米屋を襲ふ」という3本見出しの記事だったが、これが全国紙に掲載されたことにより全国ニースとして全国をかけめぐった。これを機に米騒動は全国的規模に拡大する。米騒動が全国に知られるようになったのはメディアの力だったのだ。 
 これに対し、寺内内閣は騒動鎮圧のために軍隊を出動させるが、その一方で、報道機関に対し米騒動に関する記事の掲載禁止命令を出す。一部の新聞は発売禁止処分を受ける。新聞社側はこれに激しく反発し、各地で「寺内内閣の非違を弾劾し、其引責辞職を期す」記者大会が開かれる。そうした中で、同年8月25日に大阪で開かれた関西記者大会を報じた同26日付の大阪朝日新聞夕刊の記事が、政府に新聞弾圧の口実を与え、後に「白虹事件」と言われるようになる筆禍事件が起こる。

 本書の著者の1人の向井嘉之氏は、本書の中でこうつづる。
「米騒動ではジャーナリズムは明らかに民衆とともにあった。大正の米騒動では、少なくともジャーナリズムは民衆の視座から権力と対峙する峰を作った」
 そして、同氏はこう続ける。「戦後七〇年が過ぎた。そして民衆が全国で蜂起した米騒動から一〇〇年になる。筆者は今、これからの言論のゆくえ、ジャーナリズムのあり方に危うさを感じている。今こそ、『民衆』をキーワードにジャーナリズムを問い直す必要があるのではないかと思う。『民衆』という言葉がもし現代になじまないのであれば、『市民』と置き換えてもいい」

 1月21日、富山市内で『それは米と新聞から始まった』と題する講演会があった。本書が2016年第22回平和・協同ジャーナリスト基金賞奨励賞を受賞したことから、それを記念する催しで、著者4人がこぞって登壇した。向井氏も『米騒動とジャーナリズム』と題して講演、米騒動で新聞が果たした役割を語ったが、その中で、「新聞の役割は民主主義を強化することと、権力を監視することだ」と述べ、「なのに、今のジャーナリズムを見ていると、言論への権力の威圧が続いているのに、新聞社の社長らが首相と会食したりしている。そんなことでいいのか」と疑問を投げかけた。

 「米騒動とジャーナリズム 大正の米騒動から百年」の発行所は梧桐書院(東京都千代田区神田和泉町1-7-1。℡03-5825-3620)。407ページ。定価2000円(税別)
 
2017.03.04  ヒマラヤの花にとりつかれた人生の集大成
          ――八ヶ岳山麓から(213)――

阿部治平 (もと高校教師)

森田千里というひとがいる。1932年山口県生まれ。東京理科大学山岳部出身。埼玉県蕨市の中学の理科教師をしながらインド北部のヒマラヤ山域に通う。やがてヒマラヤへの憧憬は病となり、1990年ヒマチャルプラデシュ州クル谷の奥の町マナリに移り住み、25年を過ごす。クル谷は、第二次大戦前にチベット高原を横断した画家・哲学者のロシア人ニコライ・レーリヒ(1874~1947)が滞在した場所でもある。
森田さんは、以後自らも山に登りながら日本に引き揚げるまで、インドヒマラヤやカシミールの奥のラダクへ行く日本の登山隊やトレッキング隊のためにあれこれと世話をしてきた。
この人が植物図鑑を出版した。
『北西インドヒマラヤの高山植物ハンドブック』(A Handbook of Alpine Plants in Himalayan Region of Northwest India)である。同類のものとしては、すでに吉田外司夫『ヒマラヤ植物大図鑑』があるが大きくて重い。これを持ち歩くのを躊躇する向きには、森田図鑑が手ごろである。インドヒマラヤだけでなくネパールでも十分通用する。しかも索引がしっかりしているから使いやすい。

森田さんがついには移り住むことになったインドヒマラヤは、5000~6000メートル級の実に地味な山しかない。チョモランマ(エベレスト・サガルマータ)をはじめ、ダウラギリ、アンナプルナ、マナスルと8000メートル級の山がぞろぞろ連なるネパールヒマラヤとはかなり異なる。
なぜインドヒマラヤなのか。
ネパールヒマラヤは、学校の夏休みの時期は雨季で山へは入れない。それに森田さんがヒマラヤをめざしたころ、ネパールヒマラヤは、日本はもちろん、欧米からも登山隊が大量におしかける時代を迎えていた。森田さんはモンスーンンと人を避けて北西インドの山域を選んだのだろう。

ここで彼は心の琴線にふれる山と人に出会った。インドヒマラヤには低いとはいえ、登って満足でき、しかも8000メートル級登山への入門用としても適切な山はいくらでもある。それに中印国境紛争の影響を受けて、国境のインド側には自動車道路が山奥にまではいっていた。ネパールのようにベースキャンプまで長いキャラバンをする必要はなく、カネと時間が節約できたのである。
山ふところの農家はイネやトウモロコシの栽培とともに羊や山羊の多頭飼育をやる。夏は山、冬は麓とという移牧である。ヒマラヤ前山のダウラダール山脈の峠を越えてパンジャブ最上流の大峡谷に入ると、ここでいきなり、インド文化はチベット文化に変る。信仰はヒンズー教から仏教になり、あいさつも「ナマステ」から「ジュレ」になる(この地域については棚瀬慈郎著『インドヒマラヤのチベット世界「女神の園」の民族誌』(明石書店)がくわしい)。
森田さんが幸運だったのは、マナリでとびきり好い人に出会えたことだ。山岳ガイドのリグジン・ダラキーである。ラダク人のリグジンは、インド政府が山岳観光に目をつけ始めたばかりのころにガイドとして養成され、北インドきっての名ガイドとなった人である(2017・01死去)。森田さんは奥さんを説得し、退職金をはたいて、リグジンの世話でマナリの町はずれに「ヒマラヤン・ハワー・アシュラム」すなわち「風の風来坊」と称する山荘を建てた。

ここで彼はヒマラヤの花の写真を撮りまくった。山荘近辺の路傍、耕地の土手から標高4000メートル余りの植物限界まで、その数おおよそ4万である。うち整理の対象としたのが1万数千、図鑑に載せたのが1500前後である。それぞれに学名・和名・撮影地・インドヒマラヤにおける分布域・開花期・草丈・生態についての若干の注が付いている。学名表記をしたのは現地の人の利用も考えてのこと。当然のことながら、これには植物分類学のたしかな学術的裏打ちがある。完成までに10年かかったという。
森田さんは、通常我々が従うエングラー(H.G.A.Engler)の分類ではなく、大場秀章東大名誉教授の『植物分類表Syllabus of the Vascular Plants of Japan』によっている。森田図鑑にはエングラーとの主な違いが一覧表になっており、わかりやすい。
たとえばエングラーでは、ネギ属はユリ科にまとめられていたが、新しくネギ科が立てられてそこに入る。同じようにアカザ属はアカザ科だったがヒユ科が新設されそこに入る。ウルップソウ属はゴマノハグサ科からオオバコ科へ、マツムシソウ属はマツムシソウ科が廃止されスイカズラ科へといったようになる。

私はこの図鑑を見て、完成までに森田さんがどのくらい苦労したかを思って感動してしまった。もう四十年くらい前になるが、私は中国の地理書『中国自然地理綱要』(商務印書館)を故駒井正一金沢大学教授とともに翻訳して『中国の自然地理』(東京大学出版会)として出版したことがある。私たちの場合漢語が与えられていたから、それから学名を検索したのだったが、それでもひどく苦しんだ。もっとも私が微力だったから本当に苦心したのは相棒だった。
だが、まったくそういった手掛かりがなく、いきなり現物を見て、あるいは写真を分析して、何属までわかったとしても同種か異種かを判別、同定するのは容易なことではない。森田さんはそれをやっている。大学で植物学をやっただけの知見では、これほどの観察力は得られるものではない。
だいたい森田さんの生業である公立中学の教師というのは、天国と地獄、豪雨と旱魃が同時にやってくる職業である。家庭でくつろぐ暇も独学をする暇もない。森田さんは、いったいいつ分類学を自学自習したのか。
外形はそっくりでも別な種とすべきものがある。たとえば近頃店頭にプリムラという名前で売られている矮生のクリンソウがある。中国か日本原産のものをヨーロッパで改良したものだが、サクラソウPrimulaの仲間である。森田さんの図鑑にPrimula属は15種が列挙されている。
私には、プリムラ・グラブラPrimula glabraとプリムラ・グリフシィーPrimula griffithiiを見分けることはできない。だが森田さんは、グラブラの注に「林縁など湿気のあるところ。ノドは黄色。花は約10個頭上につける」とし、グリフシィーには「高山帯放牧地など土地の肥えた林縁。花は青紫色。ノドは黄色」としている。
花の色などが異なっても同じ種であることはまれではない。たとえばヒマラヤ名物に青いケシ(Meconopsis aculeata)がある。森田さんは「畑のほとり、民家・学校のわきなど(に生育する)。ネパール以西のインドにはM.aculeataがほとんどといわれている。色違いと産地の違うものを並べてみる」として、23葉の図を提示している。私のようなしろうとが見たら、青と白と赤のケシが同じ種とはとうてい思えない。

この図鑑には楽しいことに、ところどころにプリムラや青いケシなどいくつかの花の群落や、薬草としての利用の姿が紹介されている。巻末には森田さんがつきあったヒマラヤマーモットやネズミとともに、親しかった人々が紹介されている。
美しい花にとりつかれた人にこういう注文をするのは無理だとは思うが、私のように牧畜に目が行くものとしては、羊やヤギが好むシバムギモドキなどの仲間も入れてほしかった。
森田さんは「いずれはこの図鑑をたたき台にしてよりよいものがつくられるといいと思う」という。私も山登りが好きで花が好きな人がこの言葉を受け継いでほしいと思うことしきりである。(森田千里氏の人となりについては雑誌「山と渓谷」2017・03が詳しい)

ところで、このすばらしい本は自費出版である。どこの出版社も怖がって手を出さなかったらしい。そこで本書注文は下記まで。価格は5000円。
森田千里 〒338-0003 さいたま市中央区本町東7-2-1-1060
電話048-856-0645。E-mail:hawa_morita@yahoo.co.jp