2023.03.24 二十世紀世界文学の名作に触れる(60)
  
     『ジャングル・ブック』のキプリング――植民地時代が生んだ動物文学

横田 喬 (作家)

 十九世紀半ば~第二次大戦直後にかけて、植民地帝国イギリスはインドに広大な領土を持っていた。インド生まれのノーベル賞作家キプリングの出現は、いわばその植民地帝国の申し子とも映る。彼は「東は東、西は西」という言葉を残したことでも知られるが、その真意は東を西より貶めることにあったわけではなく、むしろその逆だったと言われる。

 ラドヤード・キプリングは1865年、英領インドのボンベイ(現ムンバイ)で父ジョン・ロックウッド、母アリスの間に生まれた。母はビクトリア朝時代の有名な「マクドナルド四姉妹」の一人で、「同席すると、決して退屈しない」女性だった、という。父は彫刻と陶器のデザイナーで、当時ボンベイに設立されたばかりの私立芸術産業学校の建築彫刻科主任教授を務めた。母方は名門に属し、最も年長の従兄弟スタンリー・ボールドウィンは1920~30年代に保守党の首相に三度、就いている。

 キプリングは幼時を回想して、こう記している。
 ――昼寝をする前に、(現地人の)家僕が地元で伝えられている物語やインドの童謡を聞かせてくれ、正装してダイニングで過ごす前になると、「パパとママには英語で話すのよ」と注意されるのだった。つまり、片や現地語で考え、夢を見て、片やそこから翻訳しながら、英語で話すのだった。

 ボンベイでの「強い光と闇」の日々は五歳で終わる。英領インド育ちの子供として、彼と三歳の妹アリスはイングランドに送られ、ポーツマスに到着。ホロウェイ夫妻の貸し別荘で六年間を過ごす。自伝でキプリングはこの時期を「恐怖」と呼び、ホロウェイ夫人による虐待と無視が「彼の文学人生の始まりを早めたかも」との皮肉について、こう述べている。
 ――七つか八つの子供は(特に寝入りばなには)満足げに矛盾したことを言うでしょう。それらの矛盾を嘘だとし、朝食の時に言い募られたら、人生は楽ではない。私は苛めについてもある程度は知っていたが、これは宗教的であり、かつ科学的である計算された拷問だった。だが、私が話をする時に必要だと悟った嘘は、文学活動の基礎になった、と推測できる。

 この頃には、父から送られた少年向けの物語を読むことに逃げ込んでいた。兄妹の許にはイングランドの親戚も訪問した。クリスマスの一カ月間は母方の叔母ジョージアナと夫の画家エドワードの家で過ごし、そのロンドン・フルハムの農場をキプリングは「私を救ってくれたと信じられる天国」と呼んだ。
 1877年春、母アリスがインドから戻り、兄妹を貸し別荘から連れ出す。翌年、キプリン
グは軍人の子供のために設立されて早々のカレッジに入学。最初はなじめなかったが、後には級友らと固い友情で結ばれ、ずっと後に出版される『ストーキーと仲間たち』の材料を提供した。在学中に英・仏・露の文学作品を愛読し、幾つかの詩を学友会雑誌に発表している。

 両親はキプリングをオックスフォード大学に進学させたかったが、学費を調達できず、また学力の判定もいまいちとあって、断念する。父のコネがあるパキスタンの都市ラホールで、彼のための仕事を探し出す。キプリングは小さな地方紙『シビル&ミリタリー・ガゼット』の編集助手として働き始める。後年、彼は当時を回顧し、こう言っている。
 ――私の英国での日々はとうに消え失せ、帰って来たのだ、という強い気持ちが湧いた。
 彼は社交クラブのメンバーとなり、様々な分野の在インドの英国人や現地のインド人と交流した。記事と並行して詩を書いて連載。86年、最初の詩集を刊行。新聞の編集者から短編小説の寄稿を求められる。87年までに39の小説を同紙に連載。その殆どは翌年出版された最初の短編集『高原平話集』に収められている。

 88年に英領インドのより大きな姉妹紙に転勤となり、その後もハイ・ペースで執筆は続けられ、毎週新聞に短編を掲載。41作を収めた6冊の短編集を出版。加えて、所属紙の特派員として多くの手記を執筆する。当時を回顧し、彼は「全て純粋な悦び、黄金の時間だった」と述べている。
 彼は文筆家としての将来を考え、新聞社の勤めを辞めてロンドンへ行き、大学で文学を学ぶことにする。89年3月、インドを離れ、東南アジアの各地や日本などを経て、サンフランシスコに到着し、米国各地やカナダを歴訪。ニューヨーク州では『トム・ソーヤーの冒険』で知られる作家マーク・トウェインと面会し、「強い畏敬の念」に打たれる。

 大西洋を渡り、同年10月に英国に到着し、すぐロンドンの文学界でデビュー。90年、雑誌に『兵舎のバラード』を連載し始め、たちまち有名になる。インドを舞台にした短編も好評で、新聞は「現代文壇の英雄」と呼び、作家スチーブンソンは書簡の中で「私以来の最も嘱望される若手」と評した。91年、再び航海に出て、南ア~豪州~ニュージーランドを経てインドに立ち寄った後、ロンドンに戻る。92年1月、26歳のキプリングは3つ年上のキャロラインと結婚する。夫妻は米国北東部バーモント州内の農場に小さな別荘を借りる。

 この「幸福の小屋」で四年間を過ごし、長女・次女・長男が誕生。有名な代表作『ジャングル・ブック』は、ここで書かれた。キップリングはこう記している。
 ――12月から4月までは、窓枠の高さまで雪が積もっている。そこで、狼に育てられた少年の棲むインドの森について、書いたのだった。中心的アイデアが頭の中で絞り出されると、後はペンが勝手にモウグリや動物たちに関するストーリーを書き始めるのを見ていた。
 当地での四年の暮らしの間に、彼は『ジャングル・ブック』の他に、短編集『その日の仕事』長編『勇ましい船長』詩集『七つの海』を出版した。当地への訪問者には、退隠後の彼の父親やイギリスの有名な作家コナン・ドイルの姿があった。

 二十世紀初頭、キプリングの人気は最高に達する。1907年、英国人として初めてノーベル文学賞を受ける。授賞理由は「この世界的に有名な作家の創作を特徴づける、観察力、想像力の独創性、発想の意欲と、叙情の非凡な才能に対して」。
 36年、キプリングは十二指腸潰瘍が基で七十歳で亡くなる。彼の有名な言葉「東は東、西は西」は東洋蔑視の象徴として受け取られがちだが、真意はその逆だった。(インドを深く愛した)彼の願いは、いつかは東と西とが融合することにあった、と言われる。

2023.03.16 二十世紀世界文学の名作に触れる(59)
 
      キプリングの『ジャングル・ブック』――独創的発想と非凡な叙情

                    
横田 喬 (作家)


 イギリスの作家ラドヤード・キプリング(1865~1936)は1907年、ノーベル文学賞を四十一歳の史上最年少で、英国人としては最初に受賞した。授賞理由は「その創作を特徴づける、観察力、想像力、独創性、発想の意欲と叙情の非凡な才能に対して」。かのディズニー映画でも有名な代表作『ジャングル・ブック』(新潮文庫・田口俊樹:訳)の核心部分を私なりに紹介しよう。

 ここはインド。シオニー山の一角の洞穴に、狼の一家が暮らす。ある温かい夕方、茶色い裸の赤ん坊が洞穴に迷い込み、追跡する片脚の悪い虎シア・カーンが引き渡せと脅す。母狼ラングリは「この子は私のもの。誰にも殺させない!」と一喝。虎は不承不承、姿を消す。
 ジャングルの掟では、狼の仔は自分の肢で立てるようになったら、月に一度の群れの集会でお披露目をする決まりだ。当の集会に特別参加のヒグマのバルーと黒豹のバギーラが後ろ盾として名乗りを上げ、群れのリーダーのアケイラは赤ん坊モウグリに仲間入りを許す。

 十年が過ぎる。父狼はモウグリに自分たちの仕事を教えた。草のざわつき、温かい夜の空気の気配、頭上の梟のあらゆる鳴き声、蝙蝠の鉤爪の跡・・・。それらジャングルにおける物事が全てモウグリに意味を持つまで教える。木登りはバギーラに教わった。この黒豹は、いつかシア・カーンがお前を殺そうとするだろう、と諭す。そして、こうも言った。
 ――齢老いたアケイラが次の狩りに失敗したら、群れが彼に刃向かう時が来る。急いで谷を降り、人間の小屋まで行くんだ。そこで人間が育ててる赤い花を取ってこい!

 バギーラが“赤い花”と言ったのは火のことだ。獣は皆、火を死ぬほど恐れており、そのため火を呼ぶ呼び方は百通りにも及ぶ。モウグリは「夕方になると、小屋の外に生えるやつだね」と確かめ、森の中を懸命に走った。村人たちの住む耕作地に入り、小屋の窓に顔を押し付け、炉の火を見た、朝が来、農夫の男の子供が内側に泥を塗った枝編みの籠に真っ赤になった炭を入れた。それを毛布にくるみ、牛小屋の牛の世話をしに、外へ出て来る。
 モウグリは小屋の角を回り、少年の前に立ち、籠を攫み取った。恐れをなした少年の叫び声が響く中、彼は霧の中に姿を消す。

 (彼らは僕にすごく似てた)農夫の妻がやっていたように、彼は籠に息を吹きかけながら言った。(何か食べる物をやらないと、こいつは死んでしまう)そう言って、赤い花の上に小枝や乾いた木の皮を落とす。丘の途中でバギーラに会った。彼は言った。
 ――アケイラは狩りに失敗した。夕べのうちに殺されていてもおかしくなかった。が、彼らはお前が必要だったから、ずっと丘の上でお前を探してた。
 その日は一日中、モウグリは洞穴の中で火の籠の世話をした。乾いた小枝をくべてやり、様子を見た。夜になり、岩場で群れの集会が開かれる。アケイラがリーダーの席を外れ、シア・カーンが(モウグリを指し)「そいつは人間だ、人間だ!」と騒いだ。遮るように、モウグリが火の籠を手に起立し、口を開く。「いかにも僕は人間だ。だから、ここに赤い花をちょっとばかり持ってきた。お前たち、犬どもが恐れるものを」
 モウグリは火の籠を地面に投げつけ、赤い炭の火が乾いた苔に燃え移り、炎が立った。怯える狼たちの真ん中に立ち、彼は燃える枝を頭上で振り回す。そして、枝でシア・カーンの頭を叩き、虎は恐怖に哀れな鳴き声を上げる。狼たちは吠えながら、みんな逃げ出した。

 何かがモウグリの中で激しく痛み始める。彼は息をつき、咽び泣いた。「僕はジャングルを離れたくない。僕は死ぬの?」バギーラは言った。「いや、死なないよ。それは人間が使うただの涙だ」「お前はもう人間の大人だ。子供じゃない。だから、ジャングルはお前を拒んだんだ」。モウグリはその場に座り込み、心臓が張り裂けそうなほど泣いた。彼は泣き止むと言った。「人間のところに行くよ。母さんにさよならを言わなくちゃ」。彼はみんなが暮らす洞穴まで行くと、母狼の毛皮に顔を埋めて泣いた。四匹の兄弟狼も悲しげに鳴いた。

 モウグリは丘を降り、村人が住む開墾地まで行った。ジャングルが近過ぎるから、さらに三十㌔は進んで、知らない土地までやって来た。谷が開けて、広大な平原に繋がっている。平原のあちこちで牛と水牛が草を食んでおり、小さな男の子がその番をしていた。その子がモウグリに気付いて騒ぎだし、百人ほどの村人たちが姿を現す。目を真ん丸にした女がモウグリの手足に残る咬み傷(狼の仔によるもの)に気付き、声を上げた。
 ――なんて可哀そうなの!メスワ、虎に攫われたあんたの子に似ていない?

 村一番の金持ちの妻メスワがモウグリを自分の家に連れ帰り、我が子のように世話をした。メスワが言葉を発すると、モウグリはそれを完璧に真似ることができ、暗くなる頃には既に小屋の中の多くの物の名前を言えるようになっていた。
 それから三か月。モウグリは人間のやり方や習わしを覚えるのに忙しかった。体に布を巻くこと、金を使うこと、土地を耕すこと・・・。イギリス軍のマスケット銃を持つ村の老ハンター、ブルデオが次々と珍しい話(「幽霊虎がメスワの倅をさらった」とか)を披露する。

 何人かの少年が朝早く牛や水牛を村から連れ出して草を食べさせ、夜、また連れて帰るのがインドの村の習慣だ。明け方、モウグリは大きなボス牛の背にまたがり、村の通りを進んだ。後ろに湾曲した長い角と凶暴な目をした、濃い鼠色の水牛たちが次々、モウグリの後に従う。彼は牧草地のある平原まで群れを追い立て、対面した狼の兄弟からこんな情報を得る。
 ――シア・カーンは一月姿を消してた。お前を油断させようとしたんだろう。それが夕べ、ジャッカルのタバキを連れて戻ってきた。お前の後を付け狙っているぞ。タバキに背骨を折るぞと脅したら、全部しゃべった。今日の夕方、お前を待ち伏せるという計略をな。
 虎は夜明けに豚を一頭仕留め、水も飲んでいる、という。モウグリは小躍りして言った。「なんて馬鹿な奴だ!それじゃ赤ん坊と一緒だよ!たらふく食べて、たらふく飲んで!」

 モウグリの計画は至って単純なものだった。大きな弧を描いて丘を登り、谷の高い方の入り口に辿り着く。そこから雄の水牛を一気に駆け降りさせ、谷の裾にいる雌の水牛たちとの間で、シア・カーンを挟み撃ちにするというものだ。獲物を食べ、水もたらふく飲んだシア・カーンには、闘うことも崖を登ることも出来まいというのがモウグリの目論見なのだ。
 彼は水牛たちに声をかけて落ち着かせ、狼の兄弟たちも群れの最後部で軽く吠え、遅れている水牛を急かせた。水牛を追い立て、谷の入り口までなんとか辿り着く。モウグリは両側の崖に目をやり、大いに満足する。ほとんど垂直に切り立ち、その崖にあるのは垂れ下がった植物の蔓や匍匐植物だけで、虎が登れるような足掛かりはどこにもなかったからだ。

 「もう、あいつはどこにも逃げられない」。モウグリは手を口に当て、谷底に向けて呼ばわった。彼の声が岩から岩へと撥ね、木霊した。かなり経ってから、腹を満たし、今眼を覚ましたばかりの虎の眠そうな、音を引きずるような吠え声が返ってきた。「誰だ?!」シア・カーンは言った。「僕だ、モウグリだ。兄弟、水牛を谷底に走らせろ!」
 水牛の群れは一瞬、斜面の縁で躊躇いはしたものの、狼が狩りの時の吠え声を腹の底から響かせると、船が急流を乗り切る時の勢いで次々に駆け出した。土煙が舞い上がり、石が飛び散った。一旦走り出した水牛を止めるなど誰にも出来ることではない。水牛の群れの凄まじい突撃。シア・カーンは慌てて涸れ谷の裾の方に走り出した。どこかに逃げ道はないかと、しきりに左右に眼を配りながら。が、崖は両側とも垂直に切り立ち、前に逃げるしかない。

 シア・カーンは獲物の肉と水とで腹が重たく、とても闘えるような状態ではなかった。水牛の群れは虎が今過ぎたばかりの水溜まりを越え、その鳴き声が小さな谷に響き渡った。谷の裾の方から応答の吠え声が聞こえて来る。シア・カーンが振り向いたのがモウグリにも見えた。次の瞬間、モウグリの跨る水牛が何かに躓きよろけ、何か柔らかいものの上を踏み越えた。頃合いを見て、モウグリは水牛の群れを落ち着かせ、泥沼の方へ向かわせた。
 シア・カーンは既に死んでいた。その死を嗅ぎ付けた鳶たちが既に集まり始めている。「兄弟たち、これが腰抜け野郎の死にざまだ」とモウグリは言って、首から下げた鞘に差しているナイフに手をやった。「どっちみち闘おうともしなかっただろうけどね。それでも、こいつの毛皮は集会の岩場に置くと見栄えが良さそうだ。早いところ片付けよう」

 村人たちはモウグリが狼たちを後ろに従え、頭上に虎の毛皮を載せて平原を横切っていくのを見届ける。モウグリたちが集会の岩場に到着すると、少年は宣言した。「人間の群れも狼の群れも、僕を追い出した。これから僕は、ジャングルで独りで狩りをするよ」
2023.03.13 二十世紀文学の名作に触れる(58)
      『古都』の川端康成――戦後日本文学の最高峰

横田 喬 (作家)

 川端は1968年のノーベル文学賞受賞の際、「日本の伝統のお陰」と謙遜。「名誉などというものは重荷となり、かえって委縮してしまうのでは」と危惧する言葉も口にした。四年後に仕事部屋でガス自殺を遂げたことを思い合わせると、痛ましい思いさえ湧く。両親に乳飲み子同然の頃に先立たれ、生来の無類の繊細さも相俟ち、記憶のない父母への思慕に飢えた生涯でもあった。

 川端康成は1899(明治三二)年、現在の大阪市北区天神橋一丁目に医師の父・栄吉(30歳)と母・ゲン(同34歳)の長男として生まれた。父は漢学や書画を嗜む趣味人で、自宅で開業医をしていたが、肺病で32歳で死去。母も翌年に同じ病で亡くなる。康成は父方の祖父・三八郎に引き取られ、茨木市宿久庄で暮らし始める。記憶のない父母(特に母性)への思慕~憧憬の念は後年の彼の諸作品に反映されるようになる。

 1912(大正2)年、旧制府立茨木中(現茨木高)に首席で合格。作家志望が兆し、『新潮』や『中央公論』など文芸誌を購読して新体詩や作文を綴り始める。翌々年に祖父・三八郎が死去し、天涯孤独の身となる。亡母の実家・黒田家の伯父(母の実兄)に引き取られ、明くる年から寄宿舎生活に入る。17(大正6)年、旧制一高文一(英文科)に入学。

 翌年秋、初めて伊豆への単身旅行を思い立つ。10月30日~翌月7日の八日間、修善寺から下田街道伝いに湯ヶ島へ旅をした。孤独な己を憐れむ思いと、そんな己を厭う念とに堪えられぬままの、出立だった。この時、道中で旅芸人一行と道連れになり、幼い踊り子・加藤たみと出会う。下田港からの加茂丸での帰京便では十代の受験生と乗り合わせた。齢若い彼らの無垢な善意や、踊り子たみの「野の匂ひがある正直な好意」は川端の精神の疾患を癒やし、解放した。この間の一部始終は、後年の作品『伊豆の踊子』(1926年発表)に結実する。

 私は六十代の頃(今から四半世紀ほど以前)しばらく東伊豆の山中で気ままに暮らし、伊豆のあちこちをマイカーで訪ね歩いた。川端が定宿にしていた湯ヶ島の旅荘「湯本館」も何度か訪問。年輩の女将さんから貴重な思い出話をいろいろ聞くことができた。彼女いわく、
 ――先生が当時乗船した加茂丸にたまたま乗り合わせた知人が下田にいて、「なんとも沈鬱な表情に強く胸を打たれた」と、話していました。

 本筋に戻る。川端は一高在学の三年間、寮生活を送り、同級の石浜金作の手引きで国内の流行作家(菊池寛・芥川龍之介・志賀直哉ら)やロシア文学の傑作などに馴染む。浅草オペラの観劇などにも度々出かけ、当時の体験や見聞が後年の作品『浅草紅団』(1929~30年、朝日新聞などに発表)に実る。20年、菊池寛を訪ね、援助~教えを乞う。翌年、同級の石浜金作や鈴木彦次郎、今東光らと同人誌『新思潮』を発行。23年、『文芸春秋』に参加。33年、『文学界』を創刊する。

 37年には創元社から小説『雪国』を刊行する。「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。」という周知の書き出しで始まる名作だ。夜の暗闇と一面の雪の白さを対比させる「夜の底が暗くなった。」という感覚的な表現の一文も利いている。親の金で勝手に暮らしている男・島村が芸者の駒子の許へ向かう。駒子の妹分の葉子と連れの病人の男。現実と回想を繰り返しながら交錯。詩的な美しさが輝きを放つ川端文学の最高峰とされる作品である。

 52年、『千羽鶴』を著し、芸術院賞を受ける。物語は、今は亡き不倫相手の成長した息子と会い、かつて愛した人の面影を宿すその青年に魅かれていく夫人。その女性の愛と死を軸に、美しく妖艶な夫人を志野茶碗の精のように回想する青年が、夫人の娘とも契る筋立てだ。
 翌々年、『山の音』を刊行。戦後日本文学の最高峰と評され、野間文芸賞を受ける。海外でも評価が高く、エドワード・サイデンステッカーの翻訳で71年に日本文学として初めて全米図書翻訳部門を受賞。川端の作家的評価を決定づけた。主人公・尾形信吾はある時、山の音を聞く。瞬間、死期を告げられたかに感じ、彼は死を意識した日々を過ごしていく。息子の嫁に抱く淡い恋情や主人公の様々な夢想、復員兵の倅の退廃などを点描。家族間の心理的葛藤を鎌倉の美しい自然や風物と共に描く。

 59年にゲーテ・メダル、61年に文化勲章を授与される。同年、新聞連載小説『古都』執筆準備のため、京都に家を借りる。同作は彼の最後の新聞小説で、ノーベル文学賞の対象作にも挙げられた。
 67年に『眠れる美女』を発表する。主人公の江口老人は、既に「男ではなくなった」老人限定の宿に招待されていた。そこは眠っている全裸の美女と一夜を共にするという趣向の秘密の倶楽部だった。何度も通ううち、自分の中の性が未だ完全に失われていないことに気付くが、娘には手を出さないという宿の規則を思い出し、老人は何度も思い止まるが・・・。

 68年にノーベル文学賞を受けた。授賞理由は「日本人の心の精髄を優れた感受性を以て表現、世界の人々に深い感銘を与えたため」。川端は受賞理由を「日本の伝統のおかげ」と語り、「名誉などというものは重荷となり、かえって委縮してしまうのではないか、と思う」とも言っている。
 71年1月、築地本願寺で愛弟子格だった三島由紀夫(前年11月に自衛隊市谷駐屯地で割腹自殺)葬儀・告別式の葬儀委員長を務める。翌72年4月、鎌倉の自宅から外出。逗子市のマンション内の仕事部屋でガス自殺しているのを発見される。享年七十二歳。

 川端は71年の都知事選の際、美濃部亮吉都知事の再選阻止に立った秦野章自民党候補(落選)の応援演説を引き受けた。その街頭演説を取材した同僚記者が「脈絡不明な節があり、(どこか)おかしいのでは」と話していたのが忘れられない。
2023.03.07  二十世紀文学の名作に触れる(57)
     川端康成の『古都』
     ――流麗な筆致で描く京都の面影、そして美しい双子の姉妹の数奇な運命


横田 喬 (作家)

 川端康成(1899~1972)は一九六八(昭和四三)年、日本人で初めてノーベル文学賞を受けた。受賞理由は「日本人の心の精髄を、すぐれた感受性をもって表現、世界の人々に深い感銘を与えた」。対象作品は小説『雪国』『千羽鶴』『古都』と短編『水月』など。小説三作の中では最も私の好みに合う『古都』(昭和四三年、新潮社刊)を私流に紹介してみる。

 千恵子の家の庭にもみじの古木があり、幹に小さいくぼみが二つある。そのそれぞれに、すみれが生えて、春ごとに花をつける。上のすみれと下のすみれとは、一尺ほど離れているが、年ごろになった千恵子は、(上のすみれと下のすみれとは、会うことがあるのかしら。おたがいに知っているのかしら)と、思ってみたりする。

 京都・中京の由緒ある呉服問屋の独り娘・佐田千恵子は両親に愛されて育ったが、悩みがある。自分が捨て子なのでは、という疑いだ。両親は否定し、「二十年前、祇園さんの夜桜の下に置かれていた可愛いい赤ちゃんをさらってしまったのだ」と、説明していた。本当は店の門口に捨てられていた子で、主・太吉郎が妻しげと図り、嫡子として届けたのだった。

 太吉郎は名人気質で、取引は番頭にまかせ、友禅の柄の工夫に熱中している。親しい仲の織屋の宗助を訪ね、ざんしんな柄の帯を織ってほしい、と頼み込む。千恵子が渡したパウル・クレエの画集からヒントを得たものだった。宗助の長男・秀男は腕は確かだが、ぶっきらぼう。「ぱあとして、おもしろいけど、なんかしらん、病的や」。端的なものいいで太吉郎を青ざめさせるが、この下絵で千恵子のために帯を織るのを承知する。

 五月のある日、千恵子は友だちの真砂子と高尾の奥の山村へ銘木の北山杉をながめに足をはこぶ。北山丸太の加工作業をしている村娘の中に千恵子そっくりの娘を見つけ、真砂子は「ほんまに似てる。不思議やなぁ」と驚く。
 そして七月の祇園祭の夜。千恵子は八坂神社の御旅所で、七度参りをしている自分にそっくりな娘を見かける。娘は食い入るように千恵子を見つめると、「あんた、姉さんや。神さまのお引き合わせどす」と目に涙をあふれさす。あの北山杉の村娘であった。

 苗子と名乗る娘はうちあける。「父は北山杉の枝打ちをしてて、渡りぞこのうて落ちて・・・。
 とうのむかしに・・・。そして、母も・・・」。さらに、(自分は)ふた子だった、と聞いている、とも話した。千恵子は足がふるえるほど、心がみだれていた。ふた子とはいえ、身分ちがいになっている、と見てか、苗子は対面を早々に切り上げようと図る。

 帰り道、四条大橋のたもとで、西陣機屋の息子の秀男が苗子を千恵子と見まちがえ、声をかけてくる。千恵子を秘かに慕う秀男は「わたしが考案した柄で帯を織らしてみてくれまへんやろか」と頼みこむ。当の千恵子はふっと、人のうしろにかくれていた。人ちがいと承知の上で、苗子は「へえ、おおきに」と口ごもり、「さいなら」と早々に会話を切り上げる。
 夜、寝床で千恵子は思った。(捨てた赤んぼが、なぜ苗子でなく、千恵子だったのか)(実の父が杉から落ちたのはいつ?)(山の奥の母のさとは、なんというところなのだろう)

 八月十六日の大文字は盆の送り火。翌日、千恵子は苗子に会いに出かける。菩提の滝でバスをおりると、苗子が一散にかけ寄ってくる。「よう来とくれやしたな。うれしいて、うれしいて・・・」。土の匂い、木の匂いが強かった。「きれいな杉木立が好きや。杉山の中へ入ったんは、はじめてやわ」と千恵子は言い、苗子は「人間のつくった杉どす」とこう言った。
 ――これで四十年ぐらいどっしゃろ。切られて、柱なんかにされてしまうのどす。うちは、原生林の方が好きどす。この世に、人間というものがなかったら、京都の町なんかあらへんし、自然の林か、雑草の原どしたやろ。おそろしおすな、人間て・・・・・・。

 杉林は、にわかに暗くなった。夕立ちがやって来、はげしい雷鳴がともなった。「こわい、こわい」と千恵子は青ざめて、苗子の手を握る。苗子は身をもって、おおいかぶさった。その温みが、千恵子のからだにひろがり、千恵子はしあわせな思いにひたる。夕立が通り過ぎ、千恵子は父や母のことを尋ねるが、返事は「知りまへん。うちも、ややこどした」。
 
 十月二十二日、秀男は苗子を誘い、時代祭(葵祭・祇園祭と並ぶ京都三大祭の一つ)を見に行く。祇園祭の夜、千恵子と見まちがえ、自分で考案した柄の帯を織ると約束。別人とわかった後も、苗子に対し心尽くしの帯を贈り、彼女はこの日その帯を締めてきていた。秀男は父親から千恵子とは「家柄が釣り合わない」と釘をさされている。苗子は秀男にプロポーズされる。苗子ははっきりした返事はしないが、身代わりだということは感づいていた。

 秀男の他にも千恵子に好意を寄せる青年はいる。同い年で幼馴染の大学生、水木真一である。千恵子の家より格上の呉服屋の次男で、十年余り前、祇園祭の長刀鉾に「お稚児さん」として乗った美青年だ。真一の兄・竜助は大学院生で、千恵子に好意を寄せ、佐田家の商売の実情を気遣っている。彼は千恵子と図った上で、番頭から内情をいろいろ問いただす。

 冬の日、使用人や客も帰った後、苗子は千恵子の家を訪ねる。両親にあいさつした後、千恵子は寝室に布団を二つならべた。苗子の床へ、だまってもぐってきて、「ああ、苗子さん、あたたかい」。苗子は千恵子を抱きすくめ、つぶやいた。「こんな晩は、冷えて来るのどすな」。
 あくる朝、苗子はじつに早起きし、千恵子をゆりさましてつぶやく。「これがあたしの一生のしあわせどしたやろ。人に見られんうちに、帰らしてもらいます」。

 粉雪は、夜なかに、降ったり、やんだりしたらしく、今はちらつき、冷える朝だった。
 千恵子は起き上がって、「雨具、おへんやろ。待って」と、自分のいちばんいい、びろうどのコオトと、折りたたみ傘と、高下駄とを、苗子にそろえた。苗子は首を振って、ことわった。千恵子はべんがら格子戸につかまって、永いこと見送った。苗子は振りかえらなかった。町はさすがに、まだ、寝しずまっていた。
2023.02.27  二十世紀文学の名作に触れる(56)
      『ドクトル・ジバゴ』のパステルナーク――旧ソ連での最初の反体制活動作家

横田 喬 (作家)

 パステルナークは1958年、ノーベル文学賞を受けた。授賞理由は「現代風の抒情的な詩、および大ロシアの歴史的伝統に関する分野における、彼の重要な功績に対して」。ソ連国内では当時、『ドクトル・ジバゴ』の内容はロシア革命を批判する内容と見なされ、ノーベル賞受賞を辞退するよう、圧力がかかった。彼が始めた反体制運動はソルジェニーツィンやその他の反体制活動家によって引き継がれ、拡大していった。

 ボリス・パステルナークは1890年、モスクワに生まれた。父レオニードはトルストイの『復活』の挿絵などでも知られる著名な画家で、母ロザリヤは優れたピアニストだった。父は純粋のユダヤ人、母はユダヤ系ドイツ人だったが、この家庭にはユダヤ教徒的な雰囲気は全くなく、芸術的香気そのものが漂っていた。作曲家のスクリャービン、ラフマニノフ、画家のレヴィタン、ヴルーベリ、作家トルストイ、そしてドイツの詩人リルケまでが一家の親しい友人だった。

 パステルナークの最初の熱中の対象は音楽だった。十八歳の頃の1903年当時からの六年間、彼は後期ロマン派の最も個性的な作曲家・ピアニストだったスクリャービンに師事し、作曲法の勉強に励んだ。が、絶対音感が自分に無いことを知って挫折。09年、モスクワ大学の歴史・哲学科に入った。もっとも、この音楽の勉強は無駄に終わったわけではなかった。
 「ドストエフスキーが単に小説家というだけではなく、ブローク(二十世紀初めのロシヤの象徴主義の代表的詩人)が単なる詩人だけではないように、スクリャービンも単なる作曲家ではなく、ロシア文化の永遠の祝祭の生きた体現」(『自伝的エッセイ』)だったからだ。
 12年、パステルナークはドイツに留学し、マールブルク大学で哲学を学ぶ。彼が師事した新カント学派のヘルマン・コーエン教授は、その文化哲学で彼に深刻な影響を及ぼした。「マールブルク学派が関心を持ったのは、科学がその二千五百年のその不断の著作行為の中で自身をいかに考えるかであった」――二〇年代の自伝的著作『安全通行証』にこう記した彼の考えは、ほとんどそのままドクトル・ジバゴの考えに生かされている。

 パステルナークが詩作に関心を持つようになったのは、08年~09年の頃からであり、最初に熱愛の対象となった詩人はブロークとリルケだったようだ。両人への愛情は生涯変わることなく続き、この『ドクトル・ジバゴ』にも明らかにその影を落としている。
 ――ブロークにとって散文は、そこから詩が生まれてくる源泉として留まっている。リルケにとっては、現代の小説家たち(トルストイ、フロベール、プルースト、北欧作家)の描写法、心理手法が、彼の詩の言葉、文体と切り離せないものとなっている。――
 やはり『自伝的エッセイ』に記されたこの言葉は、パステルナークがこの作品で散文と詩を融合させる独自のジャンルを生み出した秘密の淵源を垣間見せてくれている。

 彼の詩人としての出発は、象徴派と未来派の交差する地点で始まり、所属もフレーブニコフ(二十世紀初頭に実験詩を試みたロシアの詩人)やマヤコフスキー(2010~20年代に活躍したロシア・旧ソ連の未来派の代表的詩人)らより遥かに穏健な未来派系グループ「遠心力」だった。14年と17年にそれぞれ第一・第二詩集を刊行するが、真に独自な詩人としての出発は「一九一七年夏」の副題を持つ第三詩集『わが妹人生』(22年)である。
 
 パステルナークはソビエト政権が成立したこの時期に、敢て自然を謳った。より正確には外的な自然、現実と人間の内面との交感を謳った。はるか後の56年に書かれた自伝的メモで、彼はこの詩集について次のように回想している。
 ――1917年の意義深い夏、二つの革命の日付の中間期に在っては、人々と共に道が,樹々が、星々が集会を開き、演説をしているかと思われた。
 ここには『ドクトル・ジバゴ』の世界とほぼ等質の感覚が語られている。彼の詩的出発点はここにあったのであり、その後四十年、ここで認識した真実をこの詩人は裏切らなかった。

 第二次大戦後まもなく、ソ連国内ではスターリン=ジダーノフ(ソ連中央委員会書記:48~58年に前衛芸術に対する統制を実施した)による思想統制が始まり、パステルナークは作品発表の場を奪われていく。巻末に添えた詩編だけでも25編を数える畢生の大作『ドクトル・ジバゴ』を40年代後半から50年代前半にかけて完成させる。が、ソ連の文芸雑誌『ノーヴィ・ミール』はロシア革命を批判する内容と見做し、掲載を拒否(以後も88年までソ連国内では発禁処分)した。

 このため原稿は秘かに国外に持ち出され、57年にイタリアで刊行される。この本の内容が高く評価され、翌年に著者パステルナークに対するノーベル文学賞授与が決まる。これはソ連共産党にとっては侮辱的で許しがたい出来事だった。ソ連国家保安委員会(KGB)とソ連作家同盟による反対運動の末、パステルナークは受賞辞退に渋々同意する。ノーベル賞委員会への辞退の手紙には「ソ連当局の反応が辞退の唯一の理由」と述べられていた。この反対運動はソ連当局の国際的信用を大きく傷つける結果を招いた。

 ノーベル賞委員会はこの辞退を認めず、一方的に賞を贈った。このため、パステルナークは辞退扱いにはなっておらず、公式に受賞者として扱われている。彼が始めた反体制運動はソルジェニーツィンやその他の反体制活動家によって引き継がれ、拡大していった。
 パステルナークは60年(ノーベル文学賞受賞の翌々年)に七十歳で亡くなった。
2023.02.23  二十世紀文学の名作に触れる(55)
        パステルナークの『ドクトル・ジバゴ』――二十世紀最大の大河ロマン

横田 喬 (作家)

 1960年にノーベル文学賞を受けた旧ソ連の作家ボリス・パステルナーク(1890~1960)の代表作は『ドクトル・ジバゴ』だ。第一次世界大戦とロシア革命という波乱万丈の時代を背景に、無類に個性的な医師ジバゴと薄幸の美女ラーラが織りなす宿命的で悲運な恋愛。新潮文庫(訳:江川卓)版で(上)(下)二冊の大作を私なりに紹介してみたい。

 十歳の少年ユーリイ・ジバゴは母を肺病で失い、孤児になる。父親はとうに一家を見捨てて家出~道楽で身を持ち崩し、巨万の資産を蕩尽していた。モスクワで豪勢な生活をしていた当時と違い、暮らし向きは零落し、少年は母方のユーリャ叔父の許で育てられる。
 母の葬儀の日からジバゴは父の友人だった科学者グロメーコとその妻アンナに引き取られ、実子同然に暮らしていく。彼は医学の勉強に励む傍ら、詩人としても知られるようになった。そして、養家の一人娘トーニャと相思相愛の仲になり、二人は結婚する。

 二十世紀初頭のモスクワは圧制にあえぐ民衆の不満が高じ、街頭でのデモ騒ぎなど不穏な空気が強まる一方。市内の女子中学に通う16歳のラーラはロシアに帰化したフランス系の美少女で、聡明でさっぱりした気性だ。亡父の友人だった二枚目の弁護士コマロフスキーは、奸智に長けた冷血漢。何かと相談を持ち掛ける三十代半ばの未亡人を易々と手に入れ、美少女の娘の方も行きつけのレストランの個室に連れ込み、不倫の関係を結んでしまう。
 深く懊悩するラーラは憎い弁護士を内輪の宴席で狙い、隠し持ったピストルを発射。たまたま居合わせた医学生ジバゴが幸い軽く済んだ傷の手当をし、この犯行は内々に処理される。この悪徳弁護士こそ、なんとジバゴの父親を遊興の道に引き込んだ元凶だった。

 その後なんとか立ち直ったラーラは帝政打倒の革命に情熱を燃やす幼馴染の大学生パーシャと愛し合い、一緒になる。まもなく革命派と軍との衝突が起き、パーシャは希望してウラルへ旅立ち、ラーラも同行。1914年、ロシアは第一次大戦に突入し、対独戦へモスクワから軍隊が出動していく。戦争に敗れたロシアは革命から内乱へ。皇帝を監禁し、レーニンがモスクワへ入る。皇帝も地主もない労働者だけの国になるんだ、と人々は歓声を上げた。

 進路に悩んだ末、パーシャは教師の仕事を辞めて軍人になる道を選び、妻子を残してぺテルスブルクへ旅立つ。激動の最中、軍医としてウクライナ戦線で働くジバゴは看護婦として働くラーラと再会する。互いに惹かれ合うが、家庭を思い、行動は慎んだ。
 ロシア国内は内戦が激化。ジバゴはモスクワの家族の許へ戻る。革命軍の手に帰した都市は飢えと物資不足に喘いでいた。市内の屋敷は地区委員会に接収~管理され、個人の財産は没収~分配されている。ジバゴは愛用の楽器バラライカだけは取り戻すことができた。

 ジバゴが薪用に外の塀の板を剥がしていると、目つきの鋭い党幹部に誰何される。弟のエングラフだった。二人は打ち解け、彼の口利きで、一家は地方へ移り住む成り行きとなる。
 ウラル山脈の長いトンネルを抜け、列車は停車。ジバゴはスパイ容疑で捕まり、赤軍のストレーニコフ将軍に査問される。彼こそは戦死したとされるラーラの夫パーシャその人だった。彼は「革命の前には個の存在など許されん」と言い放ち、ラーラがユリアティンに居ることを告げ、ジバゴを釈放する。ジバゴらは山のふもとの田舎町ぺリキノに着くが、別荘は革命公正委員会によって封鎖されていた。やむなく近くの小屋で四人は暮らし始める。個人の資産が没収~分配されていく中、ジバゴは愛用の弦楽器バラライカだけは取り戻す。

 ある吹雪の夜、コマロフスキーが現れる。うまく立ち回ってか、今や法相の身だ、とか。広大な原野の開発のためウラジオストックへ赴く途中、と言う。ラーラの夫が失脚したことにより「御身ら二人に危険が迫っている」と彼は告げるが、ジバゴは信用できず、追い出してしまう。「見損なうな。そこまで腐っていないぞ!」と、コマロフスキーは吠えたてた。翌日、二人に別離の時が訪れ、ラーラは彼に伴われて娘と共に極東の地へと去って行く。独りになったジバゴは酒を煽り、彼女に捧げる詩を書き綴る夜を重ねる。

 1922年春、ジバゴは僻遠の地方からモスクワへ戻った。ネップ(新経済政策:食料税納付後の残余農産物の販売許可)導入の初期の頃だ。医師としての活動の傍ら、彼は自分の思想や医学観――健康と病気についてのエッセイや詩・短編などをパンフにして販売。生々として独創的な内容だったためによく売れ、ファンの間では高く評価された。が、やがて彼は医療活動をやめ、身じまいも構わなくなり、貧乏暮らしに徹するようになる。彼には時代に迎合する器用な生き方は性に合わず、むしろ世捨て人の方が似つかわしく思えたのだ。

 八年後の夏のある朝、モスクワの市街電車に乗っていたジバゴは心臓病で倒れ、帰らぬ人となる。故人の遺体が最後の居住地に運ばれ、次々と弔問に訪れる人々の中に、際立って様子の違う一組の男女がいた。進んで葬儀の一切を取り仕切った二人は、ジバゴに理解のある異母弟グラーニャ並びに最愛の女性ラーラだった。ラーラはジバゴと身近に暮らした一時期を想い起こし、誇りの感情とどこか安堵する思いに包まれていた。

 なお、巻末には「ユーリィ・ジバゴの詩編」として、25編(83頁分)の詩が添えられている。「第17編 あいびき」の一部を紹介すると――
「道が雪に埋まろうと/屋根屋根に高くつもろうと、/ぼくは足ならしに出てゆくよ――/きみが戸口に立っているから」(中略)「そして ブロンドの髪のあかりに/ほのかに照らされるきみの顔/プラトークまとったその姿態。/それから この寒々とした外套。」「睫毛の雪がうるんでいるよ、/きみのひとみには愁いがあるよ、/そして きみのおもかげの全体が、/一枚の布地で縫われてでもいるようだ。」「眉墨にひたした鉄で/強くくまどった線のように、/かつてぼくの心のひだに/深くきざまれたきみだった。」(後略)
2023.01.04 二十世紀文学の名作に触れる(54)
『ジャン・クリストフ』のロマン・ロラン――反戦平和をアピールし続けた理想主義者

横田 喬 (作家)

 ロランは若い頃、かのトルストイに私淑して文通を試み、弟扱いする返事をもらっている。反戦平和の理想を生涯のテーマに掲げ、数々の小説・戯曲・エッセイの執筆に心を砕く。第一次世界大戦の際には、フランスとドイツ両国に対し共に「戦闘中止」をアピール。国際的には評価されたものの、母国フランスでは好感されず、疎まれる状況が長らく続いたりした。

 彼は1866年、フランス中部のブルゴーニュ地方に生まれた。父は公証人、母の家系も公証人で、比較的恵まれた環境で育つ。中学に通う14歳の時に一家はパリへ転居する。三年後にスイスへ旅行し、フランスの文豪ヴィクトル・ユーゴーと偶々邂逅~その風姿に深い感銘を受ける。86年、エコール・ノルマルへ進学し、哲学・歴史などを学び、ピアノを嗜んだ。級友ポール・クローデル(後の詩人・劇作家・外交官)と音楽会に通い詰める。

 トルストイの『戦争と平和』を読んで感動。文通を試み、トルストイから「親愛な弟よ」と呼びかける長文の返事(フランス語)をもらう。ドストエフスキーやフローベールなどの作品にも親しんだ。89年に学校卒業と同時に歴史教授資格試験に合格し、翌々年までローマのフランス学院に留学する。ドイツの女流作家マイゼングークと知り合い、彼女を介しニーチェやワーグナーに関心を深め、ヨーロッパの国際関係に目を開く。

 94年から高等中学で教鞭をとり、翌年に文学博士の学位を取得し、エコール・ノルマルの講師となる。1903年、雑誌に『ベートーヴェンの生涯』を発表して大きな反響を呼び、ソルボンヌで音楽史を担当する。同時に小説『ジャン・クリストフ』を雑誌に連載し始め、12年に脱稿し、翌年にアカデミー・フランセーズ文学大賞を受けた。
 16年にはノーベル文学賞を受賞する。授賞理由は「彼の文学活動の高尚な理想主義に、人類の異なるタイプを描写した思いやりと真の慈愛に、敬意を表して」。

 ロランは『ベートーヴェンの生涯』(筑摩書房刊、訳:平岡昇)の序文に、こう記す。「この著作は、学問のために書かれたのでは決してない。これは傷ついた魂の歌であり、窒息しかけた魂が、息を吹き返し、再び身を起こして、<救世主>に捧げる感謝の歌である。フランスでは、何百万という人々、虐げられた理想主義者の一世代が、解放の言葉を今か今かと待っていた。彼らはそれをベートーヴェンの音楽に見出し、彼に助力を乞いに来た。」

 同書の中で、ロランはベートーヴェンを見舞った悲劇について、こう述べる。
 ――一七九六年(ベートーヴェンは二十五歳)からの五年の間に、聾疾が破壊の働きを始めた。夜となく昼となく耳鳴りの絶える時がなく、腹痛にも責め苛まれた。聴覚は次第に衰えていった。彼は自分の病気を人に気取られないように、人目を避けた。自分だけでこの恐ろしい秘密を守っていた。しかし、一八〇一年に、もう黙っておれなくなった。

 ベートーヴェンは二人の親しい友(医師と牧師)に秘密を打ち明ける。肉体の苦痛に、さらに他の種の懊悩が加わる。彼は絶えず激しい恋愛の熱情に取り憑かれていた。彼は恋愛の神聖さについて、一徹な考えを持っていた。彼の親友は「生涯、処女のような羞恥心を具えていた」と述べている。この天性の血気こそ、彼の霊感の最も豊かな源泉と言っていい。

 ベートーヴェンの以下の指摘は、実に示唆に富む。
 ――音楽は人間の精神から炎を吹き出させなければならない。
 ――音楽は、いかなる智恵、いかなる哲学よりも高い啓示である。……私の音楽の意味をとらえ得る者は、他の人々が這い回っているあらゆる悲惨から逃れうるであろう。
 ――神性に近づき、その光輝を人類の上に撒き広げることほど美しいものは何もない。
 
 代表作の大長編『ジャン・クリストフ』には、ベートーヴェンの面目が躍如とする。

 本題のロランに戻る。14年に第一次世界大戦が始まると、滞在していたスイスからフランスとドイツ両国に対し、「戦闘中止」を訴えた。この行動は国際的には評価され、アインシュタインやヘルマン・ヘッセら知名人との親善~交友が始まる。が、母国フランスでは好感されず、疎まれる社会的状況が以後長期にわたって続いた。

 17年にロシア革命が勃発すると、彼はいち早く支持を表明。レーニンの死やロシア革命十周年に際し、メッセージを送っている。白色テロに反対する「国際赤色救援会」にも参加したが、後年の独ソ不可侵条約の締結をきっかけにソ連批判を強め、没交渉となった。
 私生活では22年、スイスのレマン湖東岸に定住。26年にインドから詩人タゴールや政治家ネルーの訪問を受けている。フランスの作家アンリ・バルビュスと共に「反ファシズム国際委員会」を結成。世界各国の知識人に呼びかけ、32年にアムステルダムで「国際反戦会議」を開催し、「反ファシズム宣言」の公布を行った。

 著作活動では、小説『ピエールとリュース』(1920:ロランの平和への願いが託された二か月の切ない恋物語)、同『魅せられたる魂』(22~23:第一次大戦前後のパリで懸命に生きる一人の女性を描く大河小説)、戯曲『愛と死との戯れ』(25)、同『獅子座の流星群』(28)、エッセイ『闘争の15年』(35)、同『道づれたち』(36)などを発表。好評を得ている。
 日本との交流では、25年に高村光太郎・倉田百三・尾崎喜八・片山敏彦・高田博厚らが『ロマン・ロラン友の会』を結成。一部はロランと文通した。31年にロランとマハトマ・ガンディーがロランのスイスの自宅で会談した折には、高田博厚がロランの素描(後日に彫像作成の含み)のため招待を受け、同席している。

 43年から病床に就くが、翌年パリ解放を知ってソヴィエト大使館の十月革命祝賀会に出席。レジスタンス犠牲者追悼メッセージを送り、年末に原稿の校正を終えると永眠した。享年78歳。

2022.12.31 二十世紀世界文学の名作に触れる(53)
ロマン・ロランの『ジャン・クリストフ』――音楽への愛が綴る「青春の書」

横田 喬 (作家)

 西欧では比較文化論的な立場から、よく「ドイツ人は耳が利き」、「フランス人は目が利く」と言う。ドイツは楽聖バッハやベートーヴェンを、フランスは画聖セザンヌやルノアールを生んでいるからだ。が、1915年にノーベル文学賞を受けたフランスの文豪ロマン・ロラン(1866~1944)は耳の方に関心が深く、著作の一つに『ベートーヴェンの生涯』がある。今回の物語『ジャン・クリストフ』は、出だしはベートーヴェンを思わせる設定だ。が、むろん架空の筋立てで、主人公がたどる運命は正しく波乱万丈。岩波文庫版(訳:豊島与志雄)で全四冊から成る長尺の物語は、真の「青春の書」と呼ぶにふさわしい起伏に富む。

 クリストフはドイツ南部ライン河畔の小さな町に生まれた。代々音楽家の家柄で、父は宮廷劇場のヴァイオリニスト、祖父は指揮者だった。母は家事手伝い上がりで、それを苦にした父は酒に溺れる。クリストフは小学校で苛めを受けるが、ナポレオンやアレキサンダー大王の壮挙に想いを馳せ、その姿に自身を秘かになぞらえ、いつの日かの己の大成を夢見る。
 父は息子の音楽的天稟を信じ、スパルタ式教育を思い立ち、叱責と拳骨の雨を降らす。クリストフは涙を流しながら、朝晩三時間の特訓に耐えた。祖父は「音楽こそ人間の慰藉と光栄のための最高最美の芸術」と慰め、六歳の孫が小声で歌った自作のメロディーを褒め称える。祖父や父の縁もあり、クリストフは幼児ながらピアニストとして宮廷劇場にデビュー。大公殿下の覚えもめでたく、お抱え楽師として順調に滑り出す。

 十五歳のある日、クリストフは隣家の未亡人に招待されて訪問。同じ年格好の独り娘にピアノを教える運びになる。夫人は教養があり、クリストフに歴史や詩を教えた。彼は二人の美しい女性に対し、清い愛情を抱く。ピアノの稽古を介し、クリストフと娘は恋に落ちる。二人は将来を誓い合うが、それと知った夫人は娘に対し彼をくさし、微妙な影響を及ぼす。復活祭の旅行を挟んで若い二人は接触を断たれ、夫人は彼に冷たく宣告する。
 ――娘を引き寄せようなんて、思いもよらなかった。あなたは財産がないし、娘とは趣味が違っている。身分が違うんです。

 思春期での最も恐ろしい危機だった。絶望感は深く、彼は眠れぬ夜を度々味わう。ある夜、父親が酔余、近くの川にはまって溺死する。亡き父の美点を想い起こし、彼は神の声を聴く。「往け、往け、休むことなく!」「苦しめ,死なんばかりに!」「なるべき者になれ!」と。祖父も既に逝き、奉公暮らしの弟二人は独立。成人したクリストフは家屋を処分して母と借家暮らしを始める。休日の午後、郊外の果樹園で金髪の娘アーダと知り合う。豊満な体で肉感的だった。交際を重ねた二人は親密な仲になり、一夜を共にする。が、アーダの女友達から「彼女は貴方の弟エルンストともいい仲よ」と耳打ちされ、熱が一気に冷める。

 自棄気味のクリストフは飲酒にふけるようになる。いつも酒の匂いをさせ、笑い興じ、ぐったりして家に戻った。酒場からの帰路のある晩、母の兄ゴットフリートとたまたま出くわす。小柄な行商人だが、中々思慮深いところがあった。心中の苦しみを訴え、「自分は無用な人間だ」と嘆く甥っ子に対し、彼は懇々とこう訓す。「今日のことを考えるんだ。辛抱強く、信心深く、己が為しうる程度を」。クリストフは深く肯き、涙を拭った。

 持ち前の誠実さから、彼は既存の音楽に虚偽を感じ取り、果敢に行動へ出る。巨匠たちの作品を公然と批判。己の新作を演奏会で問うが、余りに斬新な内容に演奏家たちは戸惑い、聴衆は茫然とした。遂にはパトロンの大公殿下までが敵に回り、彼は四面楚歌の身に陥る。秋の休日、クリストフは近くの村へ出かけ、夜分に飲食店で憩いの一刻を過ごす。兵士十人ほどが乱入し、酔いしれた頭格の下士が居合わせた美しい村娘に目を付け、しつこく追い回す。見かねたクリストフが下士を蹴り飛ばし、一座の村の男たちと兵士たちが乱闘を始める。下士ら三人が深手を負い、残りは逃げ去る大騒動に発展し、村人らは仕返しを危惧した。責任を感じたクリストフは国外逃亡を決意。夜行列車に乗り、故郷を後に一路パリを目指す。

 パリに住み着いた彼は孤独だった。知人は僅か二人。その一人、若いユダヤ人コーンは大書店の店員で、パリの事情に明るく、ピアノの稽古の口を斡旋してくれた。コーンは文化方面に顔が広く、パリの大新聞の音楽批評担当のグージャールという男に引き合わす。が、この男は真の音楽には通じていず、辻褄合わせの評論で口に糊する手合いだった。

 しかしながら、クリストフにはやがてオリヴィエという心の通う同年配の友ができる。二人は恋人同士のように安アパートで暮らしを共にし始める。クリストフはパリで精神的に孤立するフランス人を多々見出したが、オリヴィエもその一人だった。彼は学校の教師という職を自分で返上し、経済的に困窮していた。「闘う方がいい」とけしかけるクリストフに対し、「勝利より精神の安静の方がいい」と抗弁するオリヴィエはこう付け足した。
 ――君らドイツは我々をひどく苦しめた(注:1870~71年の普仏戦争を指す)。が、我々の意識を覚醒させたのも君らドイツだ。君たちのお陰で、わが民族の意識は覚醒したのだ。

 クリストフは、なおも追い打ちをかける。
 ――腰抜けが多すぎる。誠実でありながら、卑怯である者が多すぎるのだ。君には血が不足している。先ずは、意欲しなければ。君たちは余りにも謙譲だ。我が祖国ヨーロッパ、就中君らの祖国フランスが危機に瀕している。奮起し給え。不足しているのは、病衰しているのは、精神でも心でもない。それは生命なんだ。生命が逃げ去りかけてるんだ。

 二人は陰鬱な思想に対する反動から、ラブレー風の叙事詩を一緒に制作し始める。その詩に基づき、クリストフは合唱付きの交響曲を作曲した。その総譜がパリで出版されると、イギリスで先ず非常な成功を収め、それがドイツにも伝播する。やがて、パリでも大いに称賛され、彼は世俗的な成功者に仲間入りするようになる。

 オリヴィエはクリストフを見出した男として光を浴び、社交的な招待が機縁となり、ジャックリーヌという美しい金髪娘と知り合う。二人は恋に落ち、結婚した。クリストフは口実を設け、オリヴィエから遠ざかった。彼はフランソアーズという三十ちょっと前の女優と親しくなり、パリ郊外に一軒家を借り、生活を共にする。が、二人は余りにも異なっており、同じく激しい気性だったため屡々衝突し、共同生活は長くは続かなかった。

 時が流れ、パリ生活十年を迎えたクリストフはオリヴィエとの親交が復活する。五月一日(メーデー)が近づき、ゼネストが有産者を脅かすという不穏な風説がパリ市内に広まった。当日、二人は人出を見物しに市中へ赴く。不慮の出来事から群集と警官隊が街頭で激しく衝突し、両人は離れ離れになってしまう。病弱なオリヴィエは阿鼻叫喚の渦中で、非運にも落命。クリストフの方は興奮する余り、警官から奪い取ったサーベルで相手を刺殺してしまう。お尋ね者となった彼は、親しい仲間たちの配慮でスイスの片田舎に匿われる身となる。

 クリストフを保護したのはドイツの同郷出身の開業医ブラウン。オリヴィエの非業の死を知り、悲嘆に暮れるクリストフは一心に居間のピアノに向かった。その楽の音に心惹かれ、ブラウンの美しい妻アンナが惑い、クリストフに魅かれていく。二人は恋に落ち、やがて肌を交わす。ブラウンへの罪の意識から両人は心中を思い立つが、短銃が故障していて果たせず、クリストフは家出する。重い苦悩を抱えながら、スイス各地をあてどなく彷徨い歩いた。

 十年の時が過ぎ、欧州の至る処でクリストフの作品が演奏されていた。老境を迎えた彼は髪がすっかり白くなり、パリで有名人としてもてはやされる。今や十代に成長しているオリヴィエの遺児ジョルジュと邂逅して会話を交わし、父親代わりに心を砕く。それからしばらくして、ジョルジュは花嫁と新婚旅行へ旅立ち、老衰したクリストフは静かな最期を迎えた。

2022.12.19 二十世紀世界文学の名作に触れる(52)
『チボー家の人々』のロジェ・マルタン・デュ・ガール
――大河小説完成に心魂を傾けて二十年


横田 喬 (作家)

 デュ・ガールは邦訳(白水Uブックス版)で全13冊に及ぶ大河小説を完成させるのに、1914~34年の実に二十年もの歳月を費やしている。一番のクライマックス、第一次世界大戦の際は、自動車輸送班に動員され、四年間にわたり戦場での緊張した生活を体験している。その筆致が真に迫り、緊迫感を帯びるのも当然と言えよう。

 ロジェ・マルタン・デュ・ガールは1881年、パリの西部近郊にあるヌイイ・シュル・セーヌ市で生まれた。法曹に携わるブルジョワ家系で、父は裁判所の代訴人だった。その家系には、代々裁判官・弁護士を数えるが、芸術家を出したのは彼を以て最初とする。司法関係の家系に生まれたことは、『チボー家の人々』での整然とした筋の組み立てを首肯させる。

 フェヌロン高等中学在学中の十七歳の時、校長マルセル・エベール神父に愛され、トルストイの『戦争と平和』を読むよう勧められ、文学に開眼する。後年の回想で彼はこう記す。
 ――この作家の発見は、私の青年時代における最も重大な出来事であり、作家としての私の将来に、最も永続的な影響を与えた。私は変わることのない熱意と、我を忘れるほどの驚きを以て幾度となく『戦争と平和』を読み返し、決定的に小説を書こうと決心をした。

 無数の人物が登場し、複雑多岐にわたるエピソードの上に立つ「息の長い小説を」と発心。彼はソルボンヌの文学部に進むが、卒業試験に失敗。国立古文書学院に転じ、考証学を学ぶ。卒業論文として、修道院遺跡に関する考古学的論文を書く。史実の選び方や材料の処理についてのしっかりした経験を身に付ける。1905年、同学院を極めて優秀な成績で卒業。08年、最初の長編小説『生成』を著す。文学を志す一人の青年を主人公に、同世代の同じ志向の青年幾人かを配し、当時の多感な若者たちの内心の苦悩を描こうとした。が、予めプランも立てず、僅か数週間で一気に書き上げただけに、習作まがいの節もなくはなかった。

 デュ・ガールは、時をおかず、次の大作『ジャン・バロア』に着手する。これは1894年、フランス全土を震撼させたドレフュス事件を背景とし、その前後にわたるフランス青年の思想的不安の状態、国家か正義かの問題。それと同時に十九世紀末の科学主義の攻勢による信仰動揺の様相、すなわち科学か信仰かの対決を主題とした作品だった。
 作者は、初めてその特質とする精緻な史実検索を基礎とした素晴らしい盛り上げの手腕を発揮する。この作品のために、彼は二十九歳から三十二歳に至る前後三年間の日時を費やした。が、折角の労作はいざ出版の間際に、思わぬ障害に出くわす。

 かねて出版契約のあったグラッセ書店からの、「これは小説ではなく、調査資料です」という慇懃無礼な思いもかけぬ出版辞退の通告だった。これは、この作品が如何にデュ・ガール一流の手堅い史実検索の上に立っていたかを物語る。その一方、この膨大な作品が、全編を通じ(在来の小説作品には見られなかった)対話形式によって貫かれ、従来の頭に囚われがちなグラッセ書店側を逡巡させたことにある。

 この躓きは、全く偶然の成り行きから思わぬ幸運をもたらす。その頃は未だ未知の間柄だったアンドレ・ジッドの推薦により、当時新しい文学樹立のため華々しい門出ぶりを見せていたガリマール書店からの出版が決まる。この出版を機に、ジッドとデュ・ガールとの間には終生変わらぬ友情と信頼が生まれる。年齢こそジッドが一回り上だが、二人は相性が極めて良く、文学史上稀に見る美しい機縁だったと言えよう。

 たまたまこの作品が出版された1914年、第一次世界大戦が勃発する。戦火はフランス全土を挙げて興奮の坩堝に投げ入れ、デュ・ガール自身も戦争開始と同時に動員され、自動車輸送班に編入される。そして、引き続く四年間、身を以て戦場での生活を体験。1919年、講和条約の締結により、文学生活への復帰が許される。

 除隊となった翌20年1月、彼はふとしたことから大作『チボー家の人々』への着想を得る。彼は、互いに性格を異にする二人の兄弟を中心として、『戦争と平和』に匹敵する大作を想定。自分の性格の中で互いに矛盾し合う傾向――一方では独立不羈(脱出と反抗の本能、あらゆる妥協拒否の感情)他方では己自身の遺伝に由る秩序や節度への志向、そして極端に走ることへの拒否の気持ち――を同時的に表現しようと考えた。

 この大作準備のため、彼は極めて綿密なカードを用意する。とかく煩われがちなパリを離れ、クレルモン(フランス中央高地の都市)に仕事場を構える。20年から23年に至る三カ年、毎週月曜の朝から金曜の朝まで、この仕事に没頭。冒頭の三部『灰色のノート』『少年園』『美しい季節』を書き上げる。先にジッドとの親交に触れたが、その後二人の親交と信頼は益々深さを加え、20年暮れにはジッドはわざわざクレルモンを訪問。二日間の滞在中、冒頭部分の朗読を聞いたり、全体の構想を耳にし、忌憚のない感想を述べている。

 前述の三部に引き続く第四~第六の三部は、クレルモン乃至テルトル(パリの広場)で書かれた。たまたま31年元旦夕方、彼はテルトルの自宅付近で交通事故に遭い、重傷を負って二が月入院。療養生活の中で、以後の構想を変える。ほぼ書き上げていた第七部の原稿を惜しげもなく破り捨て、新たに第七部『一九一四年夏』の構想に取り掛かる。

 この『一九一四年夏』三巻、それに引き続く最終巻『エピローグ』は以後六年にわたり、テルトルであるいはニースで書き継がれる。その間、37年には思いもかけずノーベル文学賞受賞を知る(盟友ジッドのノーベル賞受賞は十年遅れの47年)。授賞理由は「『チボー家の人々』で、現代の生活のいくつかの基本的な側面のみならず、人間の葛藤を描いた芸術の力と真実に対して」。そこに至るまでの辛酸を思うと、彼の喜びはいかばかりだったことか。

 だが翌々39年秋、ドイツ軍がポーランドに侵入し、第二次世界大戦が勃発。デュ・ガールはドイツ軍の侵入に追われ、転々と居を移す。彼はその間にも、次の大作『モーモール大佐の回想』の構想をまとめ、執筆にかかっていた。が、絶えず健康上の脅威に晒され、構想上の迷いも重なって渋滞がちなまま時が推移。58年、心筋炎の発作で七十七歳で死去した。

2022.12.17 二十世紀世界文学の名作に触れる(51)
ロジェ・マルタン・デュ・ガールの『チボー家の人々』(下)
――人間の様々な葛藤を描く大河小説


横田 喬 (作家)

 時節は1914年夏、ジャックはローザンヌからジュネーヴへ移った。新聞や雑誌方面で得る金で生計を立て、各国の社会主義者たちが集まる『本部』に足繫く出入りしている。『本部』の中心的リーダーのスイス人メネストレルは、性格に一脈暗いものを秘める革命家だ。「パイロット」の呼び名は、操縦士兼機関士の前歴~飛行中の事故で足を負傷し、労働運動に身を投じた前歴に由る。彼は南米出身のアルフレダという若い恋人と同棲している。
 英国人の若い同志パタースンは画家で、ジャックの肖像画を描いているが、彼にしばしば「アルフレダはあの彼氏に満足しているのだろうか?」と尋ねる。そして、この画家は余りにもしばしば、この南米女性に接近し過ぎる感が付きまとう。

 ジャックは革命家の同志たちの中に、「使徒型」と「技術家型」という二つのタイプを見出す。自らはいずれに近いかと言えば、前者の方だ。彼の反発には「不正不義に対する持って生まれた感覚」があり、その理想は「平和と友愛の新しい秩序」の樹立。目標は「正しい社会」の建設であり、それは民主主義国家内での改革によっても実現可能という考えだ。
 一方、オーストリア人のミトエルクは「技術家型」に属する暴力主義の理論家。彼にとって革命的活動の第一歩は民主主義との徹底的闘争であり、「革命と民主主義国家内での解放とはあくまで別個」。その考えは、ジャックの使徒型の理想主義とは根本的に対立する。

 指導者のメネストレルの考えはこうだ。
 ――革命の先駆的状態があり、それが革命状態に変わるためには何かの新要素(例えば戦争、敗戦、経済危機など)が必要で、それが反乱を惹き起こす。が、その反乱がプロレタリア革命にまで発展するのは容易ではなく、革命指導者たちの意思と能力と手段に関わる。欧州は革命の先駆的状態にあり、その時に備え指導者たちに用意ができていることが肝心だ。
 メネストレルにとっては、戦争の勃発は「新要素として必要なもの」だが、ミトエルクの受け取り方は異なる。プロレタリアを分裂に導き、破滅に導くからだ。ジャックはもちろん、戦争を最大の悪として、嫌悪する。その戦争の危機が同年6月、サラエヴォで突発した。オーストリア=ハンガリー帝国の皇太子が、セルビアの一革命青年に狙撃~暗殺されたのだ。

 ジャックはすぐさまオーストリアへ飛び、ウィーンの同志が入手した重大な情報を持ち帰る。それは、「墺政府が当該事件をセルビアに対する軍事行動の絶好の口実とし、それについてのドイツの同意を取り付けたようだ」というもの。墺のセルビア侵攻は汎スラヴ主義を掲げるロシアの決起を促し、ロシアの動員はたちまちドイツの動員を誘う。それは自動的にフランスの動員に繋がり、「欧州は戦乱の巷と化す気配にある」という内容。この情報は、ジュネーヴの同志たちを激論に駆り立てる。
 
 ジャックが考える対応策は、インターナショナルの理想に従い、一大デモンストレーションを展開すること。ミトエルクは指導者などを信用せず、大衆行動に訴え、反乱状態を引き起こすこと。『親父』のメネストレルは内心、(戦争になるなら、なれば良い。プロレタリアは資本家たちにより、兄弟相食む闘争に投げ込まれたことを知るだろう)、その時こそ帝国主義打倒の萌芽が植え付けられるのだ、と考える。ただ、彼はそれを口に出して言わない。

 ジャックはフランス左翼の動向を探れというメネストレルの命を受け、七月半ば、パリに出向く。そして、アントワーヌに会いに家に帰ってみた。兄の方もバルカンの情勢は知っているのだが、ヨーロッパ全面戦争という弟の言葉を真に受けようとはしない。彼は(何事も予見とは違った発展が見られ、自然に解決されてゆくのが習わし)、今度も何とかなるだろう位にしか思っていない。この楽観論は、大多数のフランス人の呑気さを代表していた。

 やがて二人の議論は、重大な問題に突き当たる。それは、政治体制や社会制度が如何に変わろうとも、それを作っている人間の愚かしい本性というものは変わらないのでは、という疑問だ。アントワーヌには、新しい制度を打ち立てても、「暫くすれば、その新しい制度にも亦新しい弊害が生まれて来るんだ」と思えてならない。彼がこのことに言及すると、ジャックはさっと顔色を変え、心の動揺を悟られまいとして顔を背けた。

 八月三日。単身、ジュネーヴに戻ったジャックを待っていたのは、変わり果てた『本部』であり、同志たち。誰も彼もが声を潜めてしまい、『本部』には誰も居ない。あのミトエルクはオーストリアへ、自ら範を示すため、みんなの前で銃殺されに帰って行った、という。
 (誰も彼もが死に場所を求めている)と、ジャックは思う。彼はメネストレルに会いに行く。彼の計画にはパイロットの助けが必要なのだ。悄然としているメネストレルには以前の面影はなかった。が、構わずジャックは自分の計画をぶちまける。それは大略こうだった。

 ――後方にあっては、闘争は絶対に不可能だ。各国政府に対し、戒厳令に対し、愛国的狂乱に対し、打つ手は全くない。が、前線となると、話は別だ。兵士たちに対し、働きかける余地がある。戦線に放り出された哀れな男たちに、「君たちはまた、搾取された! 銃を捨てろ! 今すぐ塹壕を出て、正面に居る君と同じ労働者たちと手を握れ!」と訴えるのだ。
 ――そのためには、飛行機に独仏両国語で印刷した大量のアジビラを積んで、独仏戦線の上を飛び、対峙する二つの塹壕に向かってビラを投下する。戦線の唯一点で、両軍の間に生まれた交歓は、たちまち燎原の火のように燃え広がって行くだろう。独仏両軍の指揮系統は麻痺させられ、インターナショナルの収め得なかった勝利を見事に手中にし得るはずだ。

 この計画実行のためには、飛行機が必要だ。ジャックは元パイロットのメネストレルに、飛行機を一機手に入れ、幾日かで自分に操縦を教えてくれるように、と頼んだ。ジャックは全てを独りでやろうと思っていて、生きて還ろうとは露ほども願っていない。メネストレルは、飛行機の操縦はそう容易いものではない、と話し、一旦ジャックを帰らせる。彼は暗い面持ちで、独り呟いた。「たった一つの機会・・・たった一つの解決かも知れないな!」

 ジャックはバーゼル行きの列車に乗り込み、車中でアジビラに書き込む文言の推敲に励んだ。バーゼルの本屋のプラトネルが百二十万枚にも上るビラの作成を手伝ってくれる手筈だ。インターナショナルのあえなき瓦解は、ジャックの人間不信を決定づける。絶望感の中で、自ら求めて死ぬことで無意味な自分の生に決着を付ける道を自身で選択したのだ。
 メネストレルから秘密指令が届き、飛行は十日午前四時と決定。ジャックはアジビラやガソリンを積んだ馬車に乗り、約束の高地へ向かう。白み染めた空の一角から、微かな爆音が聞こえ、メネストレルの飛行機が出現。機体はジャックを載せて飛び立ち、一路最前線へ。

 操縦席のメネストレルは瞬間身を起こし、立ち上がっているらしかった。機は水平を失い、機首を下に突っ込んでいく。(墜落!万事休す・・・)。機は操縦不能に陥り、未だ嘗て覚えのない激しい衝撃がジャックの顎を打ち砕く。火炎が両足をしっかり攫み、重傷の身の彼はフランス軍の捕虜となる。黒焦げとなったメネストレルは即死だった。ジャックはドイツのスパイと疑われ、ほやほやの新兵であるフランス歩兵マルジェラの監視下に置かれる。

 最前線での激しい砲火の下、新兵マルジェラは恐怖に締め付けられる声で喚いた。「俺は一体どうしたらいいんだ?」 腕に包帯をした一人の老下士が、負傷していない方の手でラッパを作った。「スパイなんて!馬鹿野郎、捕まえられたくなかったら、片付けちまえ!」 マルジェラは歯を食いしばって「畜生!」と、叫んだ。叫びと共に銃声が響いた。(身軽になれた!)マルジェラは身を起こし、後ろも見ずに、一目散に木柵の中へ躍り込んだ。