2019.01.07 四〇歳は「惨勝と解放」に何を見たのか
―堀田善衛『上海にて』を読む(2)―

半澤健市 (元金融機関勤務)


《戦争と哲学と歴史》 
一九四五年の春、堀田善衛は当時上海にいた作家武田泰淳と南京に旅行した。二人は南京の城壁に登った。その時に堀田は次のように考えた。
■中国戦線は、点と線だというけれど、こりゃ日本は、とにかく根本的にぜーんぶ間違っているんじゃないかな。この広い、無限永遠な中国とその人民を、とにもかくにも日本から海を越えてやって来て、あの天皇なんてものでもって支配できるなどと考えるというのは、そもそも哲学的に、第一間違いではないかな。/政治家どもは論外として、たとえば西田幾多郎とか安倍能成などという哲学博士どもは、こういうことを哲学の問題として考えてくれたことがいっぺんでもあったかな。/参謀肩章をぶら下げていばりちらしている連中は/ただの技術インテリにすぎない。/最終的に勝つ、なんということは、これは絶対不可能だ/■

眼前に紫金山の岩肌を見た堀田はこの体験が、のちに日本軍の南京虐殺事件をテーマにした『時間』という作品になろうとは考えてもいなかった。そして岩肌の美をこう書いている。
■『史前』、つまり人間の歴史以前、あるいは『史後』、人類が絶滅して、人間の歴史がおわり果てたときの風景、そういう徹底的なものを、眼前に、たしかにくりひろげて見せてくれるからである。自然は歴史以前にもこうだったでのであろう、そして歴史以後も、恐らくこうであろう。見た眼にはなんのかわりもないであろうという徹底したもの・・・。この場所に於ける現代、近代化、未来、それらのことを考えるためには、私にはもとより及ばぬことであるが――せめて毛沢東ほどに哲学者である必要があるだろう■

私(半澤)が驚くのは二点。一つは「中国戦線は点と線」という認識が、当時は常識ではなかったらしいことである。日中戦争下で、日本軍の支配が「点と線」に過ぎず「面」は中国人民の下にあったのは常識だと私は思っていた。しかしその見方は作家の観察であった。もう一つは堀田自身が、自然の徹底性を人間滅亡後の世界にまで時間軸を拡げて感じていることである。文学者的というより哲学者的である。
『上海にて』は、一九五七年に日本文学者団体の一員として中国を旅行し、さらに一九五九年に単身でインド旅行を経験したのちに書かれた。それがこの壮大なパースペクティブを語らしめたのかも知れない。作家は自分の眼で見たもの、聞いたこと、書物で読んだものを、時に融合し、時に峻別して語っている。

《漢奸の処刑を見る》
 漢奸の処刑を見て作家は次のことを書いた。
■漢奸とは、要するに日本軍の侵略戦争に対する協力者である。/どうしてそういう死刑執行などを見ることになったのか。その当時、漢奸や日本人戦犯の処刑は、屡々公開されていた。/日本人のうち、誰かひとりでも見てこれを、いかにその方法が残酷無慙なものであろうとも、とにかくそれを見た人がひとりでもいた方がいいであろう、と思い、嘔きたくなるのを我慢して大量の汗を流して、群衆のたちこめる濛々たる埃のなかに立っていたのであった。漢奸は、首筋から背中に高札をしばりつけられ、それに名前と罪名が黒々としるしてあった。引き立てられてその男は、護送車から転げ落ち、芝生に跪いた。高声な判決文朗読があって後、兵の一人が大きな拳銃を抜き出し、それを後頭部にあてがった。そこで、私は群衆の海にしゃがんでしまった。銃声一発、ついでもう一発、二発目は、恐らく心臓に対するとどめであったろう。それで終わりなのだ。/イデオロギーも思想も糞もあるものか、と私は思った。そうして、その場を一歩離れると直ぐに、私は到底担い切れないほどの重い、しかも無数の想念が襲いかかって来、その想念の数々のもう一つ奥に、死者と同じほどに冷たく暗い、不動な、深淵と言いたくなるような場所があることに気付かされた。漢奸の名において、中国では、戦中戦後、恐らく千を超える人が処刑された。

《惨敗と惨勝と解放》
 惨勝という言葉を堀田は一九四六年まで知らなかった。山東出兵以来、一八年に亘る日本の中国侵略、太平洋戦争、の苦しい戦いから両国の人民が免れ出たとき日本は惨敗し中国は惨勝した。彼が「惨勝」の字を初めて見たのは四六年夏、延安発行の『解放日報』紙上においてだった。
■当時、私は中国にいて、戦後のただならぬ現実を、いち早く「惨勝」としてうけとった中国の人たちの現実認識に深くうたれた。そして惨敗という、惨憺たる現実を、いち早く「終戦」と規定して、国民のうける心理的衝撃を緩和しようと企画した日本の支配層の、その、たとえて言えば隠花植物のような、じめじめとした才能にも、なるほど、と思わせられた。異様な具合式で、感心させられ、さえした。一民族の、どん底の基底というものは、結局、その民族の現実認識の能力如何にかかっている。勝利直後の、フタをあけてみたときの、中国は、いったいどんな工合であったのか。
十八年にわたる戦災、洪水、饑饉、内戦、日本側からの産業接収に際して起った混乱、損耗、救済物資と称する外国物資の氾濫、それによる民族資本、民族産業の崩壊、投機、倒産、天井知らずのインフレ、失業者、難民、そして内戦■

これらの惨勝経験を作家は細かく叙述している。それらの経験は、中国人民に国内外の世界と歴史の存在を認識させ、「解放」の意義をあらゆる階層の身体に叩き込んだ。堀田はそう強調している。
これに関連して私自身の小さな記憶を書いておきたい。『周恩来』(一九九一年・丁蔭楠DingYin-Nan監督)が、中国共産党七〇周年映画として日本で公開されたのをみた時、私は「抗日戦争の話が殆どない」ことに驚いた。金融マンだった私は、中国人の同僚にその理由を聞いた。彼は逆に、私の質問の意味を聞いた。惨勝を阿片戦争以来の反植民地闘争の勝利という見方もある。そういう観点からは、抗日戦争勝利は長い抗争の一コマに過ぎないのかも知れぬ。私の疑問は今度の読書で少し解けた。

惨勝の後に来た「解放」はどんなものだったのか。
堀田は一九四六年の国民党の徴用時代に、現地の大学で日本を語った。そこで大学生から受けた質問をこう回想している。「日本共産党は米占領軍を解放軍と規定したそうだが、資本主義国から来た軍隊が最終的に人民解放を支持するとは思えない。堀田の意見は如何」であった。まだ政治にうとい二八歳の作家はしどろもどろの答えしかできなかった。
解放とは何か。五七年の中国旅行時に、日本の作家たちは「革命」「革命以前」「革命以后」という言葉を中国人から聞かなかった。ほとんど「解放以前」「解放以后」の言語であった。
■そのことから、私は素人考えというものにすぎないかもしれないけれども、中国共産党と中国人民解放軍による、新民主主義革命というものが、革命そのものよりも、その実質実体としての、人民解放、中国の自然とその資源の、人民全体としての解放、人民と自然のエネルギーの解放として、つまり実質実体的なものとしてうけとられているということを、それは動かぬものとして感じさせられ考えさせられもした。/それはおそらく、明治維新のとき、御一新ということばによって、日本の歴史が、民族としても、個人としても、くっきりわけて把握されていた事情と似ているであろうと思われる。現在の日本における、戦前、戦中、戦後という区分けは、個人の人生においてははっきりしたものがあると思われるけれども、民族としては、戦争責任者が戦後の責任者として見事にえらばれ得るという事情によってくっきりと行っているという具合ではないと思われる■

《魯迅の墓を見なかった作家》
 堀田は一九四二年冬と四三年秋に魯迅を熱心に読んだ。改造社の全集を読んでその小説には感心しなかったが魯迅の写真に感じたという。当時の読書ノートに書いたことをこう書いている。
■十六年前の読書ノートには次のようにしるしていた。「魯迅の(写真の)あの、何よりも第一に、何ともいい様のない深い憂いを湛えた、うるんだ眼の裏には『村芝居』「故郷」のような風景が灼きついているのだ。そして幼年時代の回想が、かくまで美しく描かれるためには、『阿Q正伝』『吶喊』『狂人日記』などのような辛くいたましく、不気味な現実がなければならなかった。これは、この二つの系列は表裏一体のものだ。この二つが魯迅の眼だ・・・」。あれから十六年たった今日でも、私はそう思っている。

優しくて、冷酷で、それから正反対の形容をいくつでも並べることの出来るあの眼が、何か物凄いことを語りかけていた。魯迅と日本、魯迅がもった異民族交渉というものもまた、実に徹底的なものであった。その例を、多くのなかから一つだけあげておこう。次に引用するのは、魯迅が日本文で書いた「私は人をだましたい」という題で、『改造』の一九三六年四月号にのったものの末尾である。
「・・・云いたいことは随分有るけれども『日支親善』のもっとも進んだ日を待たなければならない。遠からず支那では排日即ち国賊、と云ふのは共産党が排日のスローガンを利用して支那を滅亡させるのだと云って、あらゆる処の断頭台上にも日章旗を閃かせして見せる程の親善になるだろうが、併しかうなってもまだ本当の心の見える時ではない。自分一人の杞憂かも知らないが、相互に本当の心が見え瞭解するには、筆、口、或は宗教家の所謂る涙で目を清すと云ふ様な便利な方法が出来れば無論大いに良いことだが、併し、恐らく斯る事は世の中に少いだろう。悲しいことである。・・・終りに臨んで血で個人の予感を書き添へて御礼とします。」
この文章の、最後の一行を平然と読みすごすことの出来る日本人も、中国人も、一九三六年当時も、また今日でも、恐らくいないであろう。その間に、「血」の歴史があり、「血」の歴史を経て、今日の中国と日本とでは、いまだに正式の国交すらないのである■

魯迅の小さな墓を、一九四五年に武田泰淳と見たことを回想して、堀田はこの文章を書いている。訪中の日本文学者たちは改修されて大きくなった魯迅の墓を見に行った。堀田は行かなかった。近代、現代の日中の歴史を比較してその在り方のちがいを痛感してこの作家は行かなかったのだと語っている。社会と文学、それの日中での認識の違いを彼は強く意識したのである。

《作家がここから四〇年で見たものは》
 引用ばかりで私の感想をいう紙数がなくなった。簡単に書く。
作家は一方で更に続くであろう解放と建設の困難を予感している。一方で新中国を希望に溢れた特異な理想郷になるだろうと展望している。本書は次の叙述で終わる。
■私は今回中国を旅して、革命解放が、同時に中国の悠久な歴史への復帰という面を、広く強くもっている、と感じてきた。毛沢東の詞「雪」にある、秦皇、漢武、唐宗、宋祖などの歴代王朝の歴史のなかに現在の中華人民共和国をおいてみるとするならば、それは、人民王朝時代とでもいうべきものであろうか■

四〇歳の作家の観察力に私は圧倒される。このときから六〇年が経った。二〇一八年までの歴史を知っている私は、しかし堀田善衛の予測力に成績をつけようとは思わない。更に四〇年を生きて一九九八年に死んだ作家が、インドの現実やスペインの芸術家やフランスの哲学者のなかに何を見たのか。私の興味はこの一点にある。閉塞の時代からの出口を求めて読書の旅を続けたいと思う。(2018/12/24)

2018.12.26 文学青年が政治を発見するとき
―堀田善衛の『上海にて』を読む―

半澤健市 (元金融機関勤務)

 『上海にて』の序文には一九五九年六月の日付がある。
敗戦後一四年を経て書かれたこの文章について、筆者は「私のこれまでに書いた、まとまりのないもののなかでも、もっともまとまりのないものである。まとまりをつけようと努力をした。が、それをとげることが出来なかった」と書いている。
たしかに本書は、エッセイでもあり、評論でもあり、歴史認識でもあり、ルポルタージュでもあり、旅行記でもあり、個人的な回想でもあるが、同時にそのいずれでもない作品である。「一年九カ月ほどの上海での生活は、私の、特に戦後の生き方そのものに決定的なものをもたらしてしまった」という。本書にはその「生き方」と「決定的なもの」が、溢れかえり、溢れ出ている。彼の全作品の原型を先取りしているのではないか。文庫で二〇〇頁余りの書物をそろりと読み取っていきたい。

《芸術至上主義の枠が破れた》
 慶応義塾大学の仏文科を出た二七歳の文学青年は一九四五年三月の東京大空襲の惨劇を見てから上海へ渡った。到着直後のある日、青年は次の場面に遭遇する。(■から■、「/」は中略、以下同じ)
■(アパートから)花嫁衣装を着た中国人の花嫁が出て来て、見送りの人々と別れを惜しんでいた。自動車が待っていた。私は、それを通りの向い側から見ていた。すると、そのアパートの曲り角から公用という腕章をつけた日本兵が三人やって来た。そのうちの一人が、つと、見送りの人々のなかに割って入って、この花嫁の、白いかぶりものをひんめくり、歯をむき出して何かを言いながら太い指で彼女の頬を三度ついた。やがて彼のカーキ色の軍服をまとった腕は下方へさがって行って、胸と下腹部を・・・。私はすっと血の気がひいて行くのを感じ、よろよろと自分が横断していると覚えた。腕力などというものがまったくないくせに、人一倍無謀な私は、その兵隊につっかかり、撲り倒され蹴りつけられ、頬骨をいやというほどコンクリートにうちつけられた。

/戦時中の時局向きのことを自ら遮断した、いわば芸術至上主義青年であった私の、一つの枠がそこで破れた、ということになろうか。/私は日本の侵略主義、帝国主義について、別して政治的、経済的、あるいは政治史、経済史的な理論的理解をもっていなかった。私の理解したものは、すべて、たとえばいまあげたような経験によるものであった■

「玉音放送」を現地で聞き堀田は敗戦国民となった。次いで自ら望んで中国国民党中央対日委員会に徴用されて一九四七年一月の帰国まで上海に滞在した。

堀田はなぜ上海へ行ったのか。
堀田はそこで何を見たのか。
堀田はそこから何を受け取ったのか。

一九四五年春といえば「大東亜戦争」は敗色濃厚であった。その時期に中国へ渡ったのは何故か。「酔狂」だと評した批評家もいた。堀田は、兵役を解かれ療養中に魯迅全集を読んでいたこと、渡航の手づるがあったこと、上海を踏み台にしてヨーロッパへ行きたかったことを理由に挙げている。その真偽の詮索はせず筆者の言葉を信じよう。彼の生涯を見ればその「酔狂」はある種の真実となったのである。

《上海の「混沌・混乱」と玉音放送》
 堀田が上海で見たものは八月一〇日までは半植民地中国、日本の敗戦後は解放された中国。それぞれの現実であった。しかし現実は一夜では変わらない。「敗戦=解放」の前後に共通するものは、圧倒的な「混沌・混乱」である。
日中の軍隊がいる。中国軍には国民党軍と共産党軍がいる。国共対立は内戦に転化し四九年に共産党の毛沢東が天下を取る。両軍のほかには全土に軍閥がいる。日本敗戦後は、日本軍の武装解除と全ての日本人の帰国を担う米軍が入ってくる。米国は国共内戦の調停者でありながら、両軍への関係は複雑だった。米軍・国民党が組み、共産軍をソ連が支援するという単純な図式はなかった。逆の場合すらあった。「魔都」上海市の人口は四六年末で四五〇万人、その多くは労働者、商人、サービス業者、農民、貧困者であった。

「混沌」を書く前に、堀田の「玉音放送」観を書き留めておく。我々は「玉音放送」を聞いて宮城前広場にひれ伏す人々をテレビ画面で何十回も見ている。堀田はこの放送をある印刷所で聞いた。上海では、日本政府が八月一〇日にポツダム宣言を事実上受諾したことを知って一一日から町中が戦勝ムードに沸いていた。そこへ玉音放送である。堀田は、戦中に日本へ協力した中国人―漢奸として処罰される―に関して天皇が何と言うかに注目して聞いた。
■あのときに天皇はなんと挨拶したか。負けたとも降伏したとも言わぬというのもそもそも不審であったが、これらの協力者に対して、遺憾ノ意ヲ表セザルヲ得ス、というこの曖昧な二重否定、それっきりであった。その余は、おれが、おれが、おれの忠良なる臣民が、それが可愛い、というだけのことである。その薄情さ加減、エゴイズム、それが若い私の軀にこたえた。放送がおわると、私はあらわに、何という奴だ、何という挨拶だ、お前の言うことはそれっきりか、それで事が済むと思っているのか、という、怒りとも悲しみともなんともつかぬものに身がふるえた。
あれから十四年、あの放送についてのいろいろな人の感想を読んだり聞いたりしたが、それを聞いて怒り出したという人には、会ったことがなかった。私は聞きおわって、これでは日本人が可哀想だ、というふうに思った。なぜ可哀想か。天皇のこんなふうな代表挨拶では、協力をしてくれた中国人その他の諸国の人々に対して、たとえそれがどんな人物であれ、またどんな動機目的で日本側に近づいて来たものにせよ、日本人の代表挨拶がこれでは相対することさえ出来やしないではないか・・・。
それはともあれ、国家、政治というもののエゴイズムをはっきりと教えてくれはした■

《「義勇軍行進曲」と「リンゴの唄」》
 堀田が遭遇した「暴動」と「リンゴの唄」について書く。
彼が従事した国民党宣伝部の仕事は、国民党政府の対日放送であった。国民党機関紙『中央日報』の論説の日本語訳から、自ら日本語や英語のアナウンサーまでやったらしい。
一九四六年晩秋の朝、彼はいつものように放送局へ行こうとしていた。そこで大勢の人々が黙々と一定の方向へ歩いていた。不気味な雰囲気が感じられた。そのうちゼネストが指令されたことが分かった。デモは警察本部へ向かっていた。難民や浮浪者による大道商売を市長が禁止したことへの抗議だというのである。違反した五〇人ほどの逮捕され警察で拷問を受けている。話はそれだけではない。学生らしい若者は『民主報』という左翼紙の発禁や学生三五名の銃殺への抗議デモだと言った。反米デモだという説もあった。日本人の引揚げが目的だった米軍が、日本人帰国後も居座り、大量の余剰物資を援助と称して国内市場に供給して、中国の民族資本を破壊している。その反米闘争だという。

堀田自身が「暴動などというものは、恐らく、たった一つの理由などで起こるものではない」といって暴動の原因を究明できていない。結局、デモに阻まれて放送局へ行けなかった。暴動はデパートの襲撃にまで発展したが一週間で収束した。市側は米軍戦車や日本軍から押収した装甲車で制圧に出た。男女の学生の集団が堂々と、田漢作詞になる「義勇軍行進曲」をうたって歩いているのにもぶつかった。これは、のちの中華人民共和国の国歌であり、当時は厳禁されていたものである。
このしばらく後、一二月二八日に堀田は上海を離れ、翌四七年一月に佐世保港に着き四日に上陸した。この待機期間に退屈した同船者が乗船してきた警官に戦後日本で流行の唄をうたわせた。

警官は「リンゴの唄」をうたった。堀田はこう書いている。
■約一年と九カ月、それこそ日本からの梯子をはずされてしまっていた私は、敗戦後にありうべき感情の基本というものが、恐らくは〝怒り〟であろうか、と推察していたので、この唄のかなしさ、おだやかさ、けなげさ、デリケートさに、つくづくびっくりしたのであった。もとよりしばらくして、/事情を諒解したが、いまでも私は、あの薄暗い船艙のなかでの演芸会で、若い警官がこの唄をうたったときのおどろきを忘れない。その後に、私はいわゆる「虚脱」ということも諒解したが、そのときは、なんという情けない唄をうたって・・・、という怒りをもって考えたことを正直にしるしておきたい■

《すべての文章を書き写したくなる
 本書の解説を大江健三郎が書いている。
大江の「このように引用しつつ語っていると、ついにはすべての文章を書きうつしてしまうことになりかねない」という言葉に同感する。二〇〇頁の本書の紹介にもう一回かけることになった。(2018/12/20)

■堀田善衛『上海にて』(集英社文庫、2008年刊、571円+税)

2018.11.23 『堀田善衛を読む―世界を知り抜くための羅針盤』を読む
   ―あと何冊読めるかという自問自答―
 
半澤健市 (元金融機関勤務)

生きているうちに、あと何冊本が読めるだろうか。
読書だけではない。全ての日常的な営みに関してそう思う。後期高齢者の心理である。

《気になっていた堀田善衛》
 一、二冊を読んだだけで、ずっと気になってきた著述家を、誰もが、持っている筈だ。私にとって堀田善衛(ほった・よしえ)はその一人である。最近、日本近代史家を囲む読書会で、中江兆民の研究者であるその学者は、堀田の『時間』を紹介した。南京事件を中国人インテリの視点で書いた小説である。占領下の南京で、日本軍将校に自宅を占拠されながら、彼は抵抗する。1955年に、「南京虐殺」を日本人の作家が書いていたのである。私はそれを読んだ。作家の深い悲しみと強い怒り。私は、衝撃を受け、知らなかった自分を恥じた。

作家堀田善衛は、1945年3月10日の東京大空襲を経験した直後に上海に渡った。国際文化振興会という組織の上海資料室に勤務するためである。現地で武田泰淳や石上玄一郎を知る。8月の敗戦後は、46年末まで中国国民党政府宣伝部に留用され、47年1月に帰国した。
私は、『海鳴りの底から』『若き日の詩人たちの肖像』を、半世紀以上前の雑誌連載中に断続的に読んだが、内容の記憶はほとんどない。そこで彼の作品を選んで読もうと思い始めた矢先に、『堀田善衛を読む―世界を知り抜くための羅針盤』が出たのである。

本書は、富山県富山市の「高志(こし)の国文学館」が、堀田善衛生誕100年特別展「堀田善衛―世界の水平線をみつめて」開催を機に企画した堀田文学の入門書である。編者に池澤夏樹・吉岡忍・鹿島茂・大高保二郞・宮崎駿・高志の国文学館を並べる。各編集者が堀田への思いの丈を綴った内容は「入門書」の水準を超える。そういう書物を、逐一紹介するのも芸がないので、池澤・吉岡・鹿島三氏と「高志の国文学館」の文章から、私の判断で選んだ部分を以下に挙げることにする。

《池澤・吉岡・鹿島》
 ■池澤夏樹(作家。1945年生まれ)
一九六六年から『若き日の詩人たちの肖像』の連載が始まった。これが面白かった。これは個人的な事情ですが、僕の父が福永武彦という作家で、堀田さんとは同い年です。/父に「あれは面白いですよ」と言ったら、「ああ、嘘ばっかり言う」と笑っていた。もちろんフィクションの部分も多いと思います。/自然主義私小説が誠実に、失敗や欠点、堕落も含めて己を語るというところで勝負しようとする。それ故に露悪的、自虐的になっていく。そういうことは一切しない。自然主義でなく、モダニズムの人だから。書き方に工夫もあれば、フィクションというか、仕掛けもある。

 ■吉岡 忍(ノンフィクション作家。1948年生まれ)
鴨長明や藤原定家も、ゴヤもモンテーニュも、堀田さんの手にかかると、我々と大して違わない現代人ですね。この把握の仕方の背景には、人間なんいようがいまいが、だだっ広くも峻厳な自然は遠い過去にも未来にも存在していて、そのちょっとした隙間を借りて、たまたま人間はそれぞれの時間にはひたむきに、時には愚かしくもグロテスクに生き、それが歴史として積み重なってきただけのことだ、という世界観がある。私にはそんなイメージがあるんです。

 ■鹿島 茂(フランス文学者。1949年生まれ)
日本の社会がかなり豊かになってくると、第一次戦後派的な、「国家の独走を許さない」とか「連帯を基にして何かをつくっていこう」というのが野暮ったく感じられた。実は僕もそう思っていたのです。ところが、グローバリズムによって格差がどんどん広がっていくと、いや、やはり彼らが言ったことは全く古びていないのではないか、と。逆に、今こそ本当の意味での労働組合とか左翼政党とか、そういうものをちゃんと立ち上げなければいけないのではないかという気になってくる。そうしないと、近衛新体制に流されていったのと同じ道をたどる可能性が多分にある。だからこそ、もう一回、堀田さんの本を読んでいく必要があると考えています。

《堀田発言のアンソロジーから》
 ■高志の国文学館による「堀田善衛二〇のことば」から三つ

■「何万人ではない、一人一人が死んだのだ。」
 何百人という人が死んでいる――しかし何という無意味な言葉だろう。数は観念を消してしまうのかもしれない。この事実を、黒い眼差しで見てはならない。また、これほどの人間の死を必要とし不可避的な手段となしうべき目的が存在しうると考えてはならぬ。死んだのは、そしてこれからまだまだ死ぬのは、何万人ではない、一人一人が死んだのだ。一人一人の死が、何万にのぼったのだ。何万と一人一人。この二つの数え方のあいだには、戦争と平和ほどの差異が、新聞記事と文学との差がある・・・。(『時間』より)

【解説】一九三七年の南京事件を中国人の知識人の視点から描いた長編小説『時間』(新潮社、一九五五年)。戦争という極限の「時間」がいかに人間を狂わせるか。何万人が死んだのではない、死んだのは一人ひとりの人間なのだと、戦争と人間存在の本質を問う。悲惨な歴史を繰り返さないために、過去の歴史を直視し、歴史から学ぶのだと堀田はいう。

■「インドで考えたこと」
 人々が、この世の中について、人間について、あるいは日本、または近代日本文化のあり方などについて、新しい着想や発想をもつためには、ときどきおのおのの生活の枠をはずして、その生活の枠のなかから出来るだけ遠く出て、いわば考えてみたところで仕方のないような、始末にもなんにもおえないようなものにぶつかったみる必要が、どうしてもある、とおもわれる。(『インドで考えたこと』より)

【解説】一九五六年、堀田はニューデリーで開催された第一回アジア作家会議に参加するためにインドを訪問した。『インドで考えたこと』(岩波新書、一九五七年)は、過酷な自然と貧困を抱えながら多様な文化を育むインドを肌で体験した記録であると同時に、日本に対する鋭い文明批評として読み継がれ、ロングセラーとなっている。

■「国家もまた永久不変ではなく」
 私が慶応予科に入るために上京したのが、一九三六(昭和十一)年の二月二十六日。まさに二・二六事件の当日でした。(中略)つまり、軍隊は反乱を起こすことがある。また、天皇がその軍隊を殺せと命令することもある、そういうことを認識させられたということです。
これは、生家が没落とたという経験とも重なって、国家もたま永久不滅ではなく、軍隊の反乱などによって崩壊することもあるのだという、中世の無常観ともつながる感覚を与えられたわけで、こうした経験は、私自身の人格形成に深い影響を与えているだろうと思われます。(『めぐりあいし人びと』より)

【解説】『めぐりあいし人びと』(集英社、一九九三年)は、ネルー、サルトル、ソルジェニーツィンらとの交友、追い求めた定家、長明、ゴヤの世界など、人々との出会いと交流を軸に語る自伝的回想録。親しい編集者に語るという構成を採ったため、行間から堀田の肉声が聞こえてくる。

《知の巨人のインフレに抗して》
 最近は「知の巨人」がどこにもかしこにもいるようだ。
言論は自由だから、私はだれそれへの命名に反対する気はないが、本書を一読しただけで私は、ここにこそ真にそう呼べる知識人の存在を予感する。しかもこのインテリは、庶民の目線も確かに持ち続けていた。私は堀田の作品を読み始めた。その結果を報告する機会をもちたいと思う。(2018/11/16)

■『堀田善衛を読む―世界を知り抜くための羅針盤』(集英社新書、2018年10月刊、 820円+税)

2018.10.26  日中首脳会談で大東亜戦争を語れるか(2)
    ―『保守と大東亜戦争』を読んで考える―

半澤健市 (元金融機関勤務)

 公平を期するために、林健太郎の例を挙げておく。林健太郎(1913~2004)はドイツ近現代を専門とした歴史学者で、マルクス主義から出発したが次第に離れていった。東大全共闘と強気に対決した伝説の人である。東大総長も務めた。林は「大東亜戦争肯定論」を否定し、林を「東京裁判史観論者」とする批判者と対決した。本書には、田中正明、伊藤陽夫、小堀桂一郎、中村粲らとの論争が記述されている。一々は挙げられないが、林の論戦は、主な舞台が『諸君!』、『正論』であるものの、大東亜戦争の侵略性に関する林はまともであり、批判者のエキセントリックさが目立つ。

《林vs中村のサワリは》
 ここでは中村粲との問答を掲げる。
中村粲(なかむら・あきら、1934~2010)は英文学者で獨協大学で教鞭を執った。
中村は大東亜戦争への道における中国の責任を強調した。中島の解説はこう書いている。
■(中村は)日米戦争の大きな要因は、中国が同じアジア人である日本人を裏切り続け、アメリカやイギリスを利用して保身を図った「策謀」にあるというのです。中国の「背信的二重外交」と「以夷制夷」(夷をもって夷を制する)という伝統的戦略こそ、日米対立の「底流」を構成してきたと主張し、中国外交のあり方を厳しく批判しました■
以下に中村・林の論議を問答形式に直して掲げる。

■中村粲
支那の歴史責任と呼ぶべきものは大民族主義、内部抗争、中華思想、そして背信あるいは詐術外交とでも名付けるべき対外戦略である。これら諸要素が相互に関連し合い、増幅し合って支那の混乱を生み出し、それが対外軋轢や紛争を惹起してきたところに支那の歴史責任の生ずる所以がある■

■林健太郎
(中村氏の主張は)日本が中国の領土を占領しその人民を支配することは善であり中国人がそれに反抗することは悪であるという認識が貫いている。/他国の領土に出兵しその土地と人民を支配するということは「侵略」以外の何ものでもあり得ないと私は思う。/当時の「革新的」軍人のイデオロギーは(私は)知悉しており、その浅薄、独善、非合理性を痛感させられた。彼等の企てたいくつかのクーデターは不発に終わったが、彼等が民間右翼と呼応して日本の政治に圧力を加え、その政権掌握は成らなかったそれだけ一層対外的進出を促進したことは、個人の経験を通じても十分に認識することができたのである。/この戦争によって、何と多くの青年たちが可惜生命を失ったことか。私自身も戦争末期に一等水兵としての生活を送ったが、これは日本に既に船が全くなくなっていたから生命に別状はなかった。しかし私は教師をしていたから教え子たちの中には帰らなかった学生が沢山いるし、そういう知識階級の子弟の他に更に大ぜいの若者たちの死とその親族の悲嘆が存在する。それを思うと「大東亜戦争」はアジアを解放した有意義な戦争だったなどという気に到底なれない■

■中村粲
私は林氏と正反対に、大東亜戦争の歴史的意義をきちんと認め、戦没者の行為をそれなりに評価し、民族共通の記憶の中に呼び覚まし続けてゆくことこそ、唯一の鎮魂であると信じてゐる。死者の生命を甦らせぬことが出来ぬ以上、彼等の犠牲的精神と行為を称揚し、栄誉あらしめ、記憶に留めてゆく他に慰霊と慰藉の途はないだろう■

《テキスト選択・革新の不在・背景説明に問題》
 私の感想を三つ書く。
一つは「テキスト」の選択は適切だったか。
二つは、革新との比較の不在はなぜか。
三つは、今日的意義の表現に失敗している。

第一 まず、中島が驚いたことに私は大いに驚いた。
田中美知太郎の文章に、中島は「私は驚くとともに、田中の論理に強い説得力を感じました。保守派だからといって、みんなが大東亜戦争に至るプロセスを肯定的に捉えていたわけではない。超国家主義に対して懐疑的なまなざしを向けながら同時代を生きていた保守思想家が存在する。そのことに安堵するとともに、ここに忘却された重要な論点があると直感しました」と書いている。
戦時中にものを考えるインテリであれば、この程度の時代認識をもつのは普通だと思う。それは私の読書歴を振り返っても、「保守・革新」、「左右」を問わず、このような認識はあった。問題は、それが抑圧されて知識人すべての敗北に終わったことである。
中島の選んだ「保守」は殆ど人文科学系の知識人である。社会科学者は少ない。既に日本の社会科学は権力の弾圧で崩壊していたのである。共産党の壊滅に始まり「中公」「改造」の廃業までに至る言論、思想の弾圧史を一々は述べない。
徳富蘇峰や箕田胸喜の「正統派」に是非取り組んでもらいたい。石原莞爾や保田与重郎のように戦後に「平和憲法」の精神を肯定した論者の分析も望みたい。
なぜそれが起こったのか。転向のカテゴリーで論じられるのか否か。
話は逸れるが、個人的な記憶では1950年代後半にTBSラジオ(当時は「ラジオ東京」)で中島健蔵、池島信平、高木健夫(読売新聞記者)の鼎談番組があり和気藹々と辛口批評を語っていた。

第二 保守論客が戦後の言論空間に及ぼした影響についての言及が少ないことである。
言説は空中に浮遊するのではなく時代認識、時代のイデオロギーに影響を与える。
本書に登場した論者は、ナショナリズム、天皇制、革命、戦争、資本主義、日米関係についてどう考えていたのか。中島が言及する限り、論点は東西対立の中での反共の砦論が基調となっている。反共は、東西冷戦終結後、主要な論点ではなくなった。戦後左翼が、東西冷戦終結について総括を出していないように、保守論客も反共思想の有効性が失われた今、何をもって保守理念の基調、基礎付けをするかの答えを見出していない。
その場合には、天皇制の再評価が必須になるだろう。一方で、現実政治と外交では、天皇制のゆらぎと対米従属が進んでいる。

第三 以上の数点が欠落していることで本書の今日的意義が見出しにくいことである。日本政治の現実は、「つくる会」や「日本会議」のような反動的で非知性的集団が、権力の中枢にある。本書にはこの事態に対する批判的言及がない。むしろ「反共宣伝」に利用される懸念さえ感じられる。

《林健太郎のメッセージに光明》
 私は本書に欲張りすぎた注文をしたかも知れない。
本書258頁の林健太郎のメッセージに、一筋の光明を見いだしたいと書いて結論とする。

〈この誤りを認めることを「自虐」などと言って拒否するのは「自卑」、すなわち自己を卑しめかえって自己を傷つけるものであることを忘れてはならない。〉
(2018/10/22)
■中島岳志『保守と大東亜戦争』、集英社新書、2018年7月刊、900円+税

2018.10.25   日中首脳会談で大東亜戦争を語れるか(1)
    ―『保守と大東亜戦争』を読んで考える―

半澤健市 (元金融機関勤務)

 靖国神社秋の例大祭への閣僚の集団参拝はピタリと止んだ。安倍晋三が習近平に会いに行くからである。この「ピタリ」ほど、政治家のご都合主義と軽薄な信念を示すものはない。

《リベラル保守による「保守言説」の再評価》
 著者中島岳志(なかじま・たけし、1975~)は大学へ入った1994年に、西部邁の『リベラル・マインド』(1993)を読んだ。この一冊は中島の人生に「決定的な意味」をもったという。
「保守」とは、人間に対する懐疑的な見方、理性の万能性への懐疑的な見方であり、他者との対話や議論を促進し相手に理があれば協議の上で合意形成するのが「リべラル」である。「革新」とは、理性への全面信頼、設計主義への確信、システムによる統治といった合理主義の思考であり、「自由」を抑圧する方向に傾斜する。彼が読み取った「リベラルな精神」をとは、おそらく、以上のようなことであった。

 さて、戦後政治を支配した自民党政権が、左翼の革新政策―広義のケインズ政策―を先取りしつつ高度成長を達成するなか、革新左翼は万年野党として保守政権を補完してきた。
この分析は戦後の政治経済論に伏流した言説である。私(半澤)は、とくに1960年以降には、金融社会の実務家としてこの認識を容認してきた。
今世紀に入り小泉政権による新自由主義、安倍政権による大国主義の政策が進んだ。
いまや改憲が具体的な日程にのぼりつつある。そのとき、「改憲が革新で護憲が保守」だという逆説的なテーゼは、具体的にどう作用するのだろうか。

本書は、戦後に「保守派」、「保守反動派」と呼ばれた知識人の言説を精読して再評価を試みている。内容は、西部邁グループの月刊誌『表現者』に連載したもので、登場する保守派の名前を登場順に掲げると次の通りである。

田中美知太郎、猪木正道、竹山道雄、下中彌三郎、河合栄治郎、福田恆存、池島信平、山本七平、会田雄次、林健太郎、田中正明、小堀桂一郎、中村粲である。

《「ビルマの竪琴」の竹山道雄は》
 上記の論者は職業、世代、思考も異なるが中島は、彼らの思考や言説には聞くべきものが多かったという。たとえば哲学者の田中美知太郎についてこう書く。
■田中はここではっきりと浜口雄幸内閣のような「リベラル派」を支持し、超国家主義からは距離をとっていました。彼は満州事変以降の「軍閥の独裁政治」を「いつわりの神聖観念の上に強行された」ものと捉え、「にせ天皇」が氾濫した歪(いびつ)な時代と捉えていました。軍閥独裁政治に対する嫌悪感を露にし、「二度とくりかえし経験したくない時代」と明言していました。/彼は戦前・戦中を主体的に経験し、戦後、保守の論客として活躍した人物でした。/その彼が、大東亜戦争に至るプロセスへの嫌悪感をつづり、超国家主義に対する痛烈な批判を展開していたのです。私は驚くとともに、田中の論理に強い説得力を感じました。保守派だからといって、みんなが大東亜戦争に至るプロセスを肯定的に捉えていたわけではない。超国家主義に対して懐疑的なまなざしを向けながら同時代を生きていた保守思想家が存在する。そのことに安堵するとともに、ここに忘却された重要な論点があると直感しました■(■から■が引用部分。「/」は中略を示す)

これを機に中島は保守論客の回想を読み漁った。
次に竹山道雄の反共言説に関して中島が引用しているところを挙げたい。
ドイツ文学者竹山道雄は、『ビルマの竪琴』で知られる。私は、1947年頃に、児童雑誌『赤とんぼ』に連載されたのを読んだ記憶がある。

■既定の前提から発する「上からの演繹」は、論理によって事実をゆがめてしまう。「天皇制ファッショ」がそのプログラムにのっとって歴史をつくったとする進歩主義の主張も被告たちが全体としてはじめから侵略の野心を蔵して共同謀議をしたとする極東裁判の判決も、共にこのあやまちを犯している。/はじめに原始共産社会があって、それから階級闘争の悪の歴史がつづき、最後に文明共産の理想社会に達するという、科学的理論の感情的に訴える部分が、ここには素朴な形で再現している。そして、この将校が熱心に説く国体明徴をきくと、そこに思いうかべられている一君万民の天皇とは、国民の総意の上にたつ権力者で、何となくスターリンに似ているもののように思われた。/革新勢力は、政党・財閥・官僚・軍閥による「天皇制」を仆そうとして、ついにはほぼ所期の目的を達した。その無謀な対外政策の結果、戦争はいよいよ広範囲に深刻となり、ついにはぬきさしならぬどたん場まで追いつめられた■

ここで「既定の前提」というのは唯物史観的思考のことである。ビルマの戦場で日英兵士が戦闘の合間に合唱で交歓する。「埴生の宿」を唄い合う。一人の兵士はビルマに残って戦友の遺骨を回収する。市川崑はこの作品を二回も映画にした。そいう叙情的な作品の書き手が、上記のような反共の言辞を発しているのに驚く。それを想像もしなかった自分は何を見ていたのかと思う。

《中島の革新批判はハンパでない》
 今のところはサワリの抜粋だ。全体に中島は、竹山の「ぬきさしならぬどたん場まで追いつめられた」論に同調的な記述をしている。それは彼のいう無謬と独断を内蔵した「革新」の思考が「どたん場」へ繋がりやすいからである。中島の「反革新」思考はハンパでない。しかし中島は全ての保守論客の発言に共感しているわけではない。(続く)

■中島岳志『保守と大東亜戦争』、集英社新書、2018年7月刊、900円+税
2018.09.20 毅然とした時代批判に感動する 
  ―斎藤貴男『「明治礼賛」の正体』を読んで

半澤健市(元金融機関勤務)

《国策「明治150年」への果敢な反論》
 ジャーナリスト斎藤貴男(さいとう・たかお、1958~)による70頁の小冊子は
安倍晋三の「明治礼賛」論を粉砕する快作である。
本書『「明治礼賛」の正体』は三章で構成され、第1章では政府による「明治150年」の様々な「モノ・コト・ヒト」のプレゼンテーション―詳細はhttps://www.kantei.go.jp/jp/singi/meiji150/portal/torikumi.html―が、明治維新と日本近代を美化するプロパガンダであることを暴露する。しかし宣伝は殆どが周到に準備されている。たとえば、2015年のNHK大河ドラマ『花燃ゆ』、同年下期の連続テレビ小説『あさが来た』、18年の大河ドラマ『西郷どん』。読者も薄々は感じていた「明治礼賛」が計画的であることがわかる。

第2章は、安倍政権が目指すものは何かを論ずる。
安倍晋三は、明治維新に始まる日本近代を明るい時代と捉えている。「富国強兵・殖産興業」政策が、大日本帝国の滅亡に帰結したことには目を向けない。斎藤によれば、安倍晋三政権の目標は「21世紀版の富国強兵・殖産興業」である。

《インフラ輸出と自衛隊と財界》
 それは具体的に何を指すのか。最大のものは「インフラシステムの輸出」である。
「新興成長国群に対して、計画的な都市建設や鉄道、道路、電力網、通信網、ダム、水道などのインフラをコンサルティングの段階から設計、施工、資材の調達、完成後の運営・メンテナンスまでを〈官民一体〉の〈オールジャパン体制〉で受注し、てがけていく」。これがビジネスモデルである。
民主党政権時代にも同じ概念はあったし実行も始めた。安倍政権では、「インフラシステムの輸出」の中核に原発の輸出が位置づけられている。さらに安倍政権は「独自の要素」を組み入れた。「資源権益の獲得」と「在外邦人の安全」である。13年にアルジェリアの天然ガス精製プラントが武装勢力に襲撃され、殺害された40人の外国人労働者のなかに10人の日本人技術者がいた。「独自の要素」の付加の原因である。

この問題は自衛隊の行動の問題に収斂する。実際、13年11月の自衛隊法改正につながった。海外の日本人保護は、憲法解釈の通説「専守防衛」の範囲を超える。そこでプラント輸出のプレーヤーたる経済界は、2000年代はじめから自衛隊の権限拡大を提言していた。2017年には日本経団連会長が「平和憲法の精神を継続した上で自衛隊の存在意義を明確にすべきだ」と述べた。安倍首相がその三日前に『読売新聞』(17年5月3日・憲法記念日)で自衛隊の存在を明記した改正憲法を2020年に施行したい」と述べたのに続いたのである。

《「新帝国主義」でネオリベと安倍保守が握手》
 斎藤の筆鋒はさらに進む。財界の関心は少子高齢化の国内市場にはない。巨大企業は外需に活路を求める。まさに「オールジャパン」の「インフラ輸出」である。このモデルは「インフォーマル(非公式)な帝国主義」ではないか。「インフォーマルな帝国主義」は、国際関係論の用語だという。「ここにおいて、新自由主義と新保守主義は補完し合い、融合するのである」と書いている。「新保守主義」は「明治礼賛」の別名である。
2014年に施行された改正貿易保険法は「戦争やテロリスクへの対応」を盛り込んだ。14年4月には「防衛装備移転三原則」が決まった。平たく言えば「武器禁輸三原則」の廃止である。政府は武器輸出も貿易保険の対象としていく方針を決めている。
明治礼賛と新型「帝国主義」の関係がわかってきた。

《明治礼賛に潜む虚妄を暴く》
 第3章は、「明治礼賛」の虚構性について多くの事例で論証している。
日本資本主義は先進列強をモデルとして琉球を含むアジア諸地域を差別し侵略した。そのイデオローグとしての吉田松陰のアジア侵略論や、自由民権運動を貶めたり社会ダーウィニズムを擁護する福沢諭吉への批判は痛烈である。

松陰の『幽囚録』からは、侵略的な次の言葉を引いている。
■今急いで軍備をなし、そして軍艦や大砲がほぼ備われば、北海道を開墾し、諸藩主に土地を与えて統治させ、隙に乗じてカムチャツカ、オホーツクを奪い、琉球にもよく言い聞かせて日本の諸藩士と同じように幕府に参觀させるべきである。また朝鮮を攻め、古い昔のように日本に従わせ、北は満州から南は台湾・ルソンの諸島まで一手に収め、次第次第に進取の勢を示すべきである。(奈良本辰也編著講談社刊『吉田松陰著作選』の現代語訳)■

福沢の文章からは、自由民権論を批判する部分を引いている。空論批判の意であろう。
■唯一方に偏して天然論を唱るは、医者の有るを忘れて医術を廃せんとする者に等しきのみ。畢竟政法は悪人の為に設け、医術は病人の為に備るものなり。(中略)然ば則ち天然の民権論は、今日これを言ふも到底無益にし属して弁論を費すに足らず。故に我輩は、国に政府を立てゝ法律を設け、民事を理して軍備を厳にし、其一切の事務を処する為には大小の官吏を置き、其一切の費用を支弁する為には国税を納め、以て国内の安寧を求むるの説を説く者なり。(『時事小論』、1881=明治14年)

《オルタナティブとしての「新しい小日本主義」》
 斎藤は安倍の明治礼賛の背景を批判するだけではない。
彼は対案として「新しい小日本主義」を提示している。「小日本主義」のルーツを、幸徳秋水・安部磯雄・内村鑑三・三浦銕太郎らに求めながら、三浦らの考えが武力による膨張には異を唱えながら、他国の経済的支配を否定しなかった点を問題視する。経済成長は幸福のための有効な手段だが、日本ではつねに経済成長が「目的化」され、人権や生命が疎かにされた。真の成熟を基礎とした考えを、斎藤は「新しい小国主義」というのである。最近面談した作家井出孫六の戦中体験を引きながら小国主義の意義を強調している。

《ぶれない強さの衝撃》
 斎藤貴男の小冊子から私は意外なほどの衝撃を受けた。それは彼の原理主義、または理想主義の強さによる。腰がゆらいだメディア、社会全体の同調圧力、何があっても低下せぬ内閣支持率などによって、普段はその意識がなくても本書を読んで、私はおのれの思考軸がぶれていることを感じる。私は斎藤説のすべてには同意しないが、彼の立ち位置の強さに粛然とした。私はこの冊子から勇気をもらったのである。(2018/09/15)

斎藤貴男『「明治礼賛」の正体』、岩波ブックレット、2018年9月刊、580円プラス税
2018.08.29 世界のポピュリズムへ新論点を提起
―真鍋弘樹『ルポ 漂流する民主主義』を読む―

半澤健市 (元金融機関勤務)

本書は、日本人ジャーナリストによる世界大の「民主主義崩壊」―正確には「崩壊の危機」―の報告である。朝日新聞記者の真鍋弘樹(まなべ・ひろき、1965~)は、今世紀初頭から現在まで,日本本土・沖縄・米国各地・欧州を経巡った。本書の主内容は、彼の見た庶民・大衆の実態である。記者は民主主義の「崩壊」の危機をみた。それは本当に崩壊なのか、または逆説的な復活なのか。いずれにせよそのメカニズムは何か。国際的な共通性は何か。経済的・歴史的な文脈は何か。別の選択肢はないのか。そんな欲張った視点で『ルポ 漂流する民主主義』という新書は書かれている。

《日・米・欧の「現状」と飛び出した魔神》
 記者は何を見出したのか。
2006年の日本で、真鍋記者は「失われた世代」の若者に聞いた。26歳の派遣社員の青年は、8年間に30数回の引っ越しをした。トヨタ・三菱・キャノン・YKK・いすゞなど日本を代表するメーカーの全国各地の工場で働いた。人材派遣会社の指示で、一カ所には長くて数ヶ月、短いときは一週間であった。こういう世代が生まれたのは、バブル崩壊後の10年、それに続く小泉構造改革の時期である。「痛みなくして成長なし」の路線は「地方の疲弊」と「雇用の不安定化」に帰結した。「今、世界で起きていることを、日本で先取りしたように体現した人々、それがロスジェネ(失われた世代)だった」と記者は書いている。

2015年のアメリカで、記者はロバート・パットナムという学者にインタビューした。『われらの子ども―米国における機会格差の拡大』(邦訳は創元社)を書いたハーバード大教授である。以下はその一部である。

問 アメリカンドリームはもう死んだのでしょうか。 
答 この国で現在、経済格差が広がっているのは間違いない。アメリカ人は従来、結果の平等より機会の平等を重視し、格差をあまり気にしてこなかった。だが、今はその機会の均等こそが失われている。/大人の場合、経済格差は個人の責任だという考え方もできる。だが、三歳の子どもに、「自己責任で困難を乗り越えなさい」という人はいないだろう。現状に警鐘を鳴らすために、子ども時代の機会不平等に注目した。

2016年のイギリスで、EU離脱の国民投票の結果が出る直前に、真鍋は英国独立党党首ファラージの記者会見に臨んでいた。「EUを疑う『ジーニー』は、魔法のランプから出てきた。もうランプの中に戻ることはないだろう.」と党首は発言した。ジーニーとは、ディズニー映画「アラジン」でランプをこすると出てくる魔神である。記者は、「反EUにとどまらず、反エリート、反移民の排外主義、自国ファーストといった既成政治を破壊する魔神は、世界各国でランプから飛び出し、決して戻ることはない・・・。そんな時代の訪れを宣言したかのように私には聞こえた」と書いている。

《ネガティブなキーワードと「茫然自失」の夜》
 おそらく数百人への取材で記者が見たものは、全世界で起こっている次の事象であった。「格差の拡大」、「富の偏在」、「中産階級の没落」、「国民の分断」、「他者への敵視」、「移民の排除」、「偏狭なナショナリズム」、「自国ファーストの思想」、「右傾化の進行」、「反知性主義」、「反中央集権」、「反エリート主義」、「反リベラリズム」、「代表制民主政治の危機」。民主政治の基本理念である「自由」、「平等」、「代議制度」が、剥落し形骸化し機能不全に陥っていた。

私(半澤)は、これら本書のネガティブなキーワードを好んで拾ったのではない。
ドナルド・トランプ米大統領の誕生は上記現象の象徴である。「反知性的ポピュリズム」の勝利である。国内外の階層間の巨大な裂け目の可視化である。

トランプ大統領誕生の夜を記者はこう書いている。
■トランプ当選の可能性が高まると、ニューヨークは恐慌に陥った。ニュース番組のキャスターたちは当惑を隠せず、ヒラリー・クリントンの勝利を祝うつもりで繁華街のタイムズスクエアに集まった市民たちの多くも、茫然自失の体だった。こういった市民は、トランプの言う「人々」には含まれていなかったのだ■

《現状は過去の構造に原因がある》
 真鍋記者は、これらの現象が、「ある構造」の結果であると考える。ここから先は、彼が明示していない部分を、私(半澤)が、自己流に解釈していることをお断りしておく。その構造とは、二つの世界大戦の過程で完成した「総力戦体制」である。戦後も、その変奏である国家のケインズ政策的介入という構造は、巨大な中間層を育てた。東西冷戦がこの構造を温存した。「ゆたかな社会」は、「資本主義のショーケース」だったからである。「第二次世界大戦後の米・欧・日では、分厚い中間層の存在が政治体制の安定を担保としてきたが、そのスタビライザー(安定装置)は、この三〇年間で知らぬうちに根腐れていた」と記者は書いている。しかし私は、「知らぬうちに」ではないと考える。労働者に与えすぎて資本蓄積が不自由になった。その上、冷戦崩壊で「ショーケース」は不要となった。儲かる資本主義を再生せねばならない。資本はそう考えたのである。

「新自由主義」、「ネオリベ」を戦略的イデオロギーとして、「グローバリゼーション」の快進撃が始まった。多国籍企業、国際金融資本の活動する市場は自由に国境を越える。「国家による資本の管理」から「資本による国家の管理」の時代になった。「経済格差の拡大」、「富の偏在」、「階層の分断」が加速する。先に私が本書から拾い挙げた数々の「ネガティブなキーワード」は、グローバリゼーションの浸透とそれに対応した人々の態度を表現している。

現実であれ幻想であれ、これらの人々の不満を掬いあげ、敵を外部に求めるのがポピュリズムである。ポピュリスト政治家が族生している。国際的にはナショナリズムを基盤として「外国(人)」、「難民」の排斥を訴え、国内的には「エリート主義」、「エスタブリッシュメント(既得権者)」、「中央政府」を批判する。そして「真の代表者の不在」―〈 Trump is NOT MY President 〉―への強い不満を発信する。

《記者によるオルタナティブの提案》
 トランプ当選の夜に茫然自失となったリベラルと同じように、ジャーナリストの報告はここで終わってもいい筈である。しかし真鍋記者は、こう書いている。
■トランプが体現する不寛容さと排除の論理に対して全米で起きた強いプロテストの動き
に強い共感を覚える。その一方で、私は何か割り切れない、引っかかりを感じ続けている。トランプを大統領に押し上げた支持者たちについてどう考えるか。ポピュリズムの手法が囲い込む「人々」にどのような視線を向ければいいのか。この大統領選を見てきた者として、一筋縄ではいかない思いに囚われる■

記者は、東浩紀、福山哲郎、井出英策、ベネディクト・アンダーソンらの意見に言及しつつ「リベラルで平等主義的な包摂のナショナリズム」という対抗軸を提案する。この選択肢には異論・反論が予想される。しかし、私は彼の見た現実の過酷さを想像して、提案とそれに続くであろう論争を歓迎する。

2017年2月、同じ朝日記者金成隆一の『ルポ トランプ王国』(岩波新書)の書評で私は次のように書いた。
■グローバリゼーションと技術進歩はなぜ起こったのか、の答えが欲しい。それをジャーナリストに求めるのは過剰な要求か。二〇世紀の資本主義から説かないと現状は理解できないと思う■

《「渾身のルポルタージュ」は誇張ではない》
 真鍋弘樹の意図がどうあれ、私の期待に応えた結果になったことは嬉しい。カバー裏の惹句に「世界で連続発生する『有権者の乱』を描き切った、混迷を極める国際社会への提言にして渾身のルポルタージュ」とある。本書はそれが誇張とは思えない力作である。(2018/08/25)

真鍋弘樹『ルポ 漂流する民主主義』、集英社新書、2018年8月刊、820円+税
2018.07.26 すべてを破壊する戦争に歌でノーを
音楽ジャーナリストが世界の反戦歌を紹介する本を出版
    
岩垂 弘 (ジャーナリスト)

 「日本がまた戦争が出来る国にするべく手はずを整えようとしている。戦争を体験した者として、戦争は絶対にだめだ!と伝えなくては」と、世界の反戦歌の傑作を紹介した『反戦歌 戦争に立ち向かった歌たち』を著した音楽ジャーナリストがいる。竹村淳さん。「反戦歌をとおして戦争の痛みや虚しさを知り、好戦的な人たちが戦意喪失することを願わずにはいられない」という。

 竹村さんは、ラテンアメリカの音楽に詳しいジャーナリストとして知られる。1981年から2005年までの24年間、NHK-FMでラテンアメリカとカリブ音楽のDJを務めた。現在は東京・目黒のラテン文化サロンCafé y Librosで「ラテン音楽パラダイス塾」を開講中だ。
 
 竹村さんは、日本が1945年8月15日に太平洋戦争で無条件降伏した時は8歳で、国民学校(小学校)3年生だった。それから70年余り。日本では戦争とは直接関わりのない歳月が続いてきた。それは世界に誇るべき素晴らしいことであり、素直に喜んでいいことだと思ってきた。
 ところが、ここ数年、日本がまた戦争が出来る国にするべく手はずを整えようとしているように思われ、またぞろ日本に戦争の足音が近づいているような不穏な空気を感じていた。

 そのことを痛切に実感させられたのは、2015年9月19日に参院本会議で、自民・公明両党ほかの賛成多数で安全保障関連法が可決、成立したことだった。「戦争を多少なりとも体験した者として、戦争は絶対にだめだ!と伝えなくてはとぼくは思った。戦争は相手国はもちろん、自国民の人権をも無視し犠牲にし、国土を疲弊させ、国富を消費し、誰をも不幸にする。そのことを一人でも多くの人になんとしても伝えなければ、とぼくは心の底から思った」と竹村さん。
 そこで、思いついたのが世界中の反戦歌について書いてみよう、ということだった。これまで人生で深く関わってきたのは音楽だから、その力を借りて心ある人びとの注意を喚起できるなら、戦争をしたい邪悪な連中と多少なりとも対決できるのでないかと感じたからだという。 
竹村淳さん写真 
竹村さん
 そこで世界の反戦歌について調べ始めたわけだが、あるわあるわ。出合った反戦歌はおびただしい数にのぼったが、そこから23曲を選び、各曲の歴史やエピソードをつづったのが本書である。
 23曲の内訳は、脈々と歌い継がれてきた反戦古謡が4曲、第1次世界大戦時のものが2曲、第2次世界大戦と原爆に関するもの5曲、インドシナ戦争・アルジェリア戦争・朝鮮戦争・ベトナム戦争に関するもの8曲、その他の戦争に関するものが4曲となっている。

 竹村さんが、まず推奨するのが、ボブ・ディラン(アメリカ)作詞・作曲の『戦争の親玉』だ。1963年に発表された。ベトナム戦争が激化しつつある時期だ。
 本書によれば、ここで歌われているのは、現代の戦争は昔のそれのように侵犯してくる敵との戦いとか、民族同士の争いとか、宗教上の対立といった人間くさい確執に起因するものではなく、戦争をビジネスとしている戦争屋が金儲けのために引き起こす戦争や軍需を喚起するための戦争が多いのではないか、ということだという。
 「ディランの、戦争屋の存在を見抜く慧眼、彼らを戦争の親玉として指摘してみせる表現力はあっぱれ。ディランはこの1曲だけでもただ者でなく、ノーベル文学賞にふさわしい逸材であることが分かる」

 目立って反戦歌が多いのはフランス。“反戦歌大国”と呼びたくなるほどだという。そのフランスから4曲が選ばれている。その1つ、『兵隊が戦争に行くとき』は、イヴ・モンタンが歌ってヒットした曲。作詞・作曲は歌手のフランシス・ルマルクで、1952年につくられた。
 第2次世界大戦が勃発すると、ルマルクは召集され、陸軍の軍楽隊に配属される。が、フランスはドイツ軍に降伏し、動員解除になる。ところが、ユダヤ人の家系の母がアウシュビッツ強制収容所に送られ、非業の死を遂げる。ルマルクは地下に潜って対独レジスタンス部隊に参加する。「彼の生い立ちや家族の歴史にふれると、ルマルクにとって反戦歌をつくることは必然だったことが理解できる」と竹村さん。
 以下は、『兵隊が戦争に行くとき』の中の一節(日本語訳・大野修平)。

 少しばかり死ぬために出発する
 戦争に 戦争に
 それはおかしな つまらないゲーム
 恋する者たちには似合わない
 それでも ほとんどいつも
 夏がまたやって来る時
 出かけなければならない

 日本からは5曲が選ばれているが、目を引くのは、なんといっても美空ひばりが歌った『一本の鉛筆』だろう。彼女は1974年8月9日に開かれた第1回広島平和音楽祭(広島テレビ主催)でこれを歌った。作詞・松山善三、作曲・佐藤勝。彼女は当時、34歳。

 一本の鉛筆があれば
 私は あなたへの愛を書く
 一本の鉛筆があれば
 戦争はいやだと 私は書く

 美空ひばりと反戦歌というと、なにかそぐわないという印象があるが、竹村さんによれば、彼女は1945年5月29日に米軍機による横浜空襲を経験し、戦争の恐ろしさを身をもって知っていた。そうした往時の体験が、反戦歌に向かわせたのではないか、とみる。
 
 私は、ひばりが第1回広島平和音楽祭でこの歌を歌ったことは知っていた。が、彼女が死の直前に、病魔と闘いながら再びこの歌を広島で歌っていたことを本書で知り、心うたれた。それは1988年7月29日の広島平和音楽祭のステージだった。第1回広島平和音楽祭から14年が経っていた。「おそらく自分の余命に思いを馳せ、この反戦の歌を初めて唄った音楽祭で唄う機会を絶対逃すまいと骨身をけずらんばかりにして駆けつけた、と思うのは考えすぎだろうか」と竹村さん。ひばりが52歳の生涯を閉じたのは、それから11カ月後のことである。

 「ざわわ ざわわ ざわわ/広いさとうきび畑は」で始まる寺島尚彦作詞・作曲の『さとうきび畑』も選ばれている。
 1964年にまだ米軍の統治下にあった沖縄を訪れた寺島が、沖縄戦の激戦地、摩文仁の丘で地元の人から聞いた言葉に触発されてこの曲をつくったとされる。完成までに3年かかった。風にゆれるさとうきびがたてる音を「ざわわ」とするまでに1年以上かかったという。森山良子や上條恒彦らが歌って広く知られるようになった。

 竹村さんは「おわりに」の中で、こう書いている。
「本書を書き上げてつくづく思うことは、どんな理由があろうと、一度始まってしまうと戦争は必ずや人類最悪の敵と化すということである。数え切れないほどの人命を奪い、限りなく国土を荒廃させ、膨大な戦費を空費し、人類にとっては百害どころか千害万害で、プラスになることはないに等しいと言わざるを得ない」
 「人類の叡智といえる反戦歌の傑作の数かずをとおして知っていだいた戦争の惨たらしさや空しさを、様々な方法で発信し拡散していただき、戦争は嫌だ!と願う仲間を増やしてもらいたいと願う」
 さらに、竹村さんはこう語る。「日本でも1960,年代から70年代にかけては、反戦歌を歌う歌手がいた。今はほとんどみかけない。出来れば、かつて歌っていた歌手を集めて反戦歌のコンサートを開きたい」

 竹村淳著『反戦歌 戦争に立ち向かった歌たち』 株式会社アルファベータブックス 定価2000円+税
 
2018.05.25  「国体」論による鮮烈な戦後批判
 ―白井聡『国体論―菊と星条旗』を読む

半澤健市(元金融機関勤務)

 気鋭の政治学者白井聡(しらい・さとし、1977~)の近著『国体論―菊と星条旗』は次のように始まる。(■から■)

■本書のテーマは「国体」である。この言葉・概念を基軸として、明治維新から現在に至るまでの近現代日本史を把握することが、本書で試みられる事柄にほかならない。「国体」という観点を通して日本の現実を見つめなければ、われわれは一歩たりとも前へと進むことはできないからだ。(中略)そのようなものとしての「国体」と手を切ったのが、敗戦後の諸改革を経た日本であり、現在のわれわれの政治や社会は「国体」とはおおよそ無縁なものになっている、というのが一般的な常識であろう。
しかし、筆者(白井)は全く逆の考えを持っている。現代日本の入り込んだ奇怪な閉塞状態を分析・説明することのできる唯一の概念が、「国体」である。■

《戦前・戦後の「国体」には三段階ある》
 惹きつける文章である。しかも新書にしては347頁の大冊である。
著者は、戦前と戦後の「国体」がそれぞれ、①「形成期」、②「相対的安定期」、③「崩壊期」の三段階を歩んだと述べる。
戦前の三段階のキーワードは、
①「近代主義国家=国民国家の建設」、副題が「天皇の国民」
②「アジア唯一の一等国」「大正デモクラシー」、副題「天皇なき国民」
③「昭和維新革命」「ファシズム」、副題「国民の天皇」である。
戦後は、
①「占領政策」「高度経済成長」
②「ジャパン・アズ・ナンバーワン」
③「失われた20~30(?)年」である。ほかに時代のキーワードがあるが省略。
詳細は原本に譲るが、ここでは私(半澤)が最も関心を惹かれた戦後日本の「国体」形成期についての内容を紹介したい。

《戦後「国体」の形成とその帰結たる現在》
 降伏の「御聖断」に至る過程で「国体護持」の客観的な定義が、支配層の誰にも明確に認識されていない。この「日本的」状況の記述を改めて興味深く読んだ。
天皇制崩壊の危機は日米支配層の取引で回避された。米側は天皇利用による占領政策の円滑な遂行を求めた。日本側は、形式上の「国体護持」でも可としながら、宮中・リベラル派官僚機構の主導による間接統治を求めた。そのディールが成立した。最初の面談で、天皇はマッカーサーを感動させたという神話が流布した。しかし日本占領の計画策定は1942年に始まっていた。マックの感動で始まったのではない。
占領下の主権は日本ではなくGHQの手中にあった。占領下の国会で新憲法が成立し発布される。その新憲法で日本は平和的な民主国家となり、対日講和条約(実体は日米安保)で独立した。世界第二の経済大国になった。そして日米同盟は対等の関係である。

《戦後国体への断固たる異議申し立て》
 白井の分析は、常識的「戦後論」への異議申し立てである。敗北したのに、天皇制の温存と米国の庇護の合作である「日米同盟」関係を、白井は「永続敗戦」と呼びつつその実態は「主人と奴隷」の関係だと強調する。我々は厳しい現実―たとえば沖縄、あるいは沖縄化する本土―に背を向けている。見たくないものはないことにして我々は70年余を過ごしてきた。神話を現実と見てきたのである。『国体論―菊と星条旗』の核心は、「天皇から米国へ」の主権の移転、その「不可視化」の成功論であると私は読んだ。
 
この「永続敗戦」のレジームにあって、米国は日本の国力回復が必要だった。東西冷戦の時代だったからである。1ドル360円の円安容認と自国市場の開放によって米国は日本の経済復興を支援した。反共の砦は日本だと考えてそうした。しかし日本という隷属者が、競争者となったとき米国は、「グローバリゼーション」戦略によって日本を攻撃する。冷戦終結で米国に敵はいなくなり、日本を護る必要性がなくなる。中国は統制された資本主義国家である。こういう客観的事実の変化があっても、この30年間、「永続敗戦体制」は、日本人に認識されず、再審判もされず、脱却への試みもほとんどなかった。白井は本書の結論部分(336~337頁)にこう書いている。

■「戦後の国体」の末期たる現在において現れたのは、「戦後日本の平和主義」=「積極的平和主義」=「アメリカの軍事戦略との一体化」(実質的には、自衛隊の米軍の完全な補助戦力化、さらには日本全土のアメリカの弾除け化)という図式である。(中略)朝鮮半島の緊張に対する日本政府の対処とそれに対する世論の反応は、「戦後の国体」の臣民たる今日の日本人が奉ずる「平和主義」の内実を明るみに出した。「平和主義」の意味内容の変遷は、「戦後の国体」の頂点を占める項が菊から星条旗へと明示的に移り変わる過程を反映している。今後の東アジア情勢次第では、「天皇制平和主義」を清算しない限り、われわれは生き残り得ないであろう■

《私の三つの率直な感想》
 「奇怪な閉塞状態を分析・説明することのできる唯一の概念が、『国体』である」という著者の目的は達せられたか。自負は本当であったか。以下は私の率直な読後感である。

第一 一点突破全面展開の強さ
戦後の日米関係について日本の従属体制を論じたものは多い。実際、白井著作においても明示的・暗示的に先行研究への言及がある。しかし個別の事態や事件を深く追及したものはあったが、「国体」というキーワード一語で、あるときはピンポイントに、あるときは強引な飛躍で、あるときは事柄の両義性をフルに応用して、これだけ執拗に論理を展開している、こんな言説は今までなかった。

第二 戦後論への鋭い問題提起
メディアや学会の戦後論は、「敗戦」が画期だという断続説から連続説へ次第に軸足を移した。その過程で起こったことは、「日米同盟」への言及欠落であり、そのなし崩しの承認であり、更には積極的肯定ですらある。多くのマスメディアにあって、安保批判はいまや「国賊」「非国民」の言語である。政治家の世界はどうか。いま日米安保即時撤廃をいう政党は一つもない。
しかし総体としては戦前・戦後の連続説に立つ白井分析は正面から日米同盟批判を行っている。奇矯な指導者を奉ずる二カ国の会談結果予測は困難だが、場合によっては「外交の安倍」が世界の孤児になる可能性もある情勢だ。

《思い切った明仁天皇への肯定》
 第三 明仁天皇への肯定的な評価
本書の帯で、思想家内田樹、経済史学者水野和夫、宗教研究者島薗進、ノンフィクション作家保阪正康の四識者が白井著作への短い賛辞を述べている。

白井聡は本書で、明仁天皇の「お言葉」(2016年8月8日のテレビ放送による実質的な生前退位宣言)に関して踏み込んだ発言をしている。白井は「お言葉」に衝撃を受けた。それは「この国の歴史に何度か刻印されている、天皇が発する、歴史の転換を画する言葉となりうるものと、筆者(白井)は受け取」り、「古くは後醍醐天皇による倒幕の綸旨や(中略)、孝明天皇による攘夷決行の命令、明治天皇による五箇条の御誓文、そして昭和天皇の玉音放送」の系譜につながると解している。現天皇発言に関して、「腐朽した「戦後国体」が、国家と社会、そして国民の精神をも破綻へと導きつつある時、本来ならば国体の中心にいると観念されてきた存在=天皇が、その流れに待ったをかける行為に出たのである」とまで述べている。
同趣旨の発言は、上記識者のうち内田樹からは公然と、保阪正康からも示唆的に発せられている。三人が同一意見だと私はいわぬが、彼らの思考ベクトルは概ね同方向だと思われる。これらの発言が意味するところは何か。私自身に今発言する準備はないが、「明治150年」は、安倍内閣が望む年ではなくなるのでないか。そういう予感をもっているとは書いておきたい。

改めての結論。白井聡の力作『国体論―菊と星条旗』が多くの読者を獲得することを期待する。(2018/05/19)

白井聡著『国体論―菊と星条旗』、集英社新書、集英社2018年4月刊、940円+税
2018.04.26 「昭和の時代」を物語る写真集

―私的エールですが読んで下さい―

半澤健市 (元金融機関勤務)

 私事から始めることをお許し願いたい。
2018年4月16日開催の高校同期会の案内に「橋寿」記念とあった。意味不明のまま出席したら、幹事が「橋」は「ハシ=八四」の意味で八四歳の祝いだと説明した。
2年前の「半寿」の会は、「半」を「八十一」と読むのだと広辞苑に記述があった。

《新制中学・新制高校・六三制の同窓会》
 私の年代の高校進学者は、1947年に発足した新制中学の第一期生で、1950年に新制高校へ入った。旧制府立二中、現在の都立立川高校である。かつての進学校も今は一時ほどの勢いはないが、青春期の三年を過ごした母校に、私は自分なりの愛着がある。

当時、2・3年生の上級生は、全員男子の旧制中学からの移行組であり、我々新入生は「試験なしで中学に入った〈六・三型〉だ」と、揶揄された。「六・三型」とは、戦後改革による教育の「六・三制」と、ドアが開かずに大火災事故となった国鉄車両の名称「モハ六三型」とを掛けたマイナスのイメージの表現である。事故は「桜木町事故」(1951年)と呼ばれた。

幹事報告によると同期生の現状は次の通りである。卒業生411名(男女比は3対1)。その内訳は、連絡可能235、出席71、欠席89、無回答75、物故者・不明者176。
約2時間半の写真撮影、挨拶、雑談に自ら入り観察した私の印象は、「子供から大人になり再び子供へ還ってゆく動物」、これが人間だというものである。出席者の三分の一の言動は、思い込みと同じことの繰り返しであり、私には理解不能であった。私の言動も他人にはそのように映るのであろうと思った。

《『昭和の東京』というアマチュアの写真集》
 前振りが長くなりすぎた。私の伝えたいのは、上記の同窓会で知った一冊の写真集である。同級生である著者と話し込んでこの話になり、彼は親切にも送ってくれたのである。
その書名は『昭和の東京―街角の記憶』である。著者(=写真と文)は宮崎廷(みやざき・ただし)。この4月に刊行されたばかりである。
宮崎君の写真への興味と実践を、私は高校在学中には知らなかった。知ったのは15年ほど前である。彼は青梅線沿線から高校に通学していたが、大学は法政大学に進み、社会人としては地元の青梅市役所に勤めた。

同書の「はじめに」に宮崎君はこう書いている。(■から■)
■東京も中心街はすでに戦前の賑わいを取り戻していたが、街を行けば制服姿の米兵や外国人の家族とすれ違い、駅頭に立つ傷痍軍人が奏でるアコーディオンからは「異国の丘」のメロディーが流れ、戦争の影が消え去ったとは言えなかった。私が東京を撮影し始めたのはちょうどそんな時代で、都心へ通学するようになったのがきっかけである。
東京駅を中心として日本橋、銀座といった日本を代表する商店街は、田舎育ちの学生である私にとって別世界のような街であり、浅草へは出かけるたびに新しい発見のある楽しい盛り場だった。(略)本書に収録した写真は昭和30年頃から昭和の終わりまでに、東京の市井の人々の姿を中心に撮影したものである。(略)昭和という時代を支えてきた方々が古い記憶を呼び起こし、読者ご自身の昭和をたどるきっかけにでもして頂ければ幸いである■

《私の企業人時代に見た風景がいっぱい》
 私(半澤)の金融機関勤務は、短期間の海外研修を除いて、1958年から1995年にわたる約40年間、東京を離れたことがなかった。しかもその大半が日本橋であり、次いで丸の内と八丁堀であった。極私的視点になるが、本書18頁の空中写真「空から見た日本橋」(本書中の空中写真は朝日新聞社提供、これも実に良い)に、私が最初に入った企業である「野村證券」のビルが写っている。さらに私には―いや私だけには―その看板の下に「東洋信託銀行」という白地の社名看板が見えるのである。後者は前者が都銀二行とともに出資設立した信託銀行であった。そこで私は企業人人生の大半を過ごしたのだが、のちに「三菱UFG信託銀行」に吸収されてしまった。三菱と野村の社員はそんなことは知らぬであろう。一事が万事である。この写真集を時間をかけて見るとき、私は胸に迫るものを抑えることができない。

《あなたを感傷的にしたのちに深い思索をもたらすだろう》
 宮崎君はアマチュアではあるが、自己流で写真を撮ってきたのではない。彼は田沼武能という優れた写真家に師事して腕を磨いてきたのである。田沼氏は、本書をこう評価している。
■写真の良否にはプロもアマチュアもなく、如何にその時代を記録し、その記憶を語っているかが評価される。本書はその時代の東京の人々の暮らしから心意気までを語っており、「昭和の時代」を物語る第一級の記録である■

前振りだけではない。写真集紹介もお前の仲間褒めではないか。
そうではないつもりである。読者には是非、手にとって本書を眺めて貰いたい。
あなたはここに、「モノはなかったが夢はあった時代」の人々の笑顔と希望をみるだろう。高度成長が、「共同体」や「地霊」を破壊してゆくさまを、生活が向上する一方で、「日本の風景」が個性のない景色に変貌する寸前の姿を、あなたは見るだろう。それは、あなたに強い感傷の気持ちと深い思索をもたらすだろうと思う。(2018/04/23)

●宮崎廷(みやざき・ただし)著『昭和の東京―街角の記憶』。フォト・パブリッシング出版、メディアパル発売、2018年4月刊。2400円+税
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