2018.05.25  「国体」論による鮮烈な戦後批判
 ―白井聡『国体論―菊と星条旗』を読む

半澤健市(元金融機関勤務)

 気鋭の政治学者白井聡(しらい・さとし、1977~)の近著『国体論―菊と星条旗』は次のように始まる。(■から■)

■本書のテーマは「国体」である。この言葉・概念を基軸として、明治維新から現在に至るまでの近現代日本史を把握することが、本書で試みられる事柄にほかならない。「国体」という観点を通して日本の現実を見つめなければ、われわれは一歩たりとも前へと進むことはできないからだ。(中略)そのようなものとしての「国体」と手を切ったのが、敗戦後の諸改革を経た日本であり、現在のわれわれの政治や社会は「国体」とはおおよそ無縁なものになっている、というのが一般的な常識であろう。
しかし、筆者(白井)は全く逆の考えを持っている。現代日本の入り込んだ奇怪な閉塞状態を分析・説明することのできる唯一の概念が、「国体」である。■

《戦前・戦後の「国体」には三段階ある》
 惹きつける文章である。しかも新書にしては347頁の大冊である。
著者は、戦前と戦後の「国体」がそれぞれ、①「形成期」、②「相対的安定期」、③「崩壊期」の三段階を歩んだと述べる。
戦前の三段階のキーワードは、
①「近代主義国家=国民国家の建設」、副題が「天皇の国民」
②「アジア唯一の一等国」「大正デモクラシー」、副題「天皇なき国民」
③「昭和維新革命」「ファシズム」、副題「国民の天皇」である。
戦後は、
①「占領政策」「高度経済成長」
②「ジャパン・アズ・ナンバーワン」
③「失われた20~30(?)年」である。ほかに時代のキーワードがあるが省略。
詳細は原本に譲るが、ここでは私(半澤)が最も関心を惹かれた戦後日本の「国体」形成期についての内容を紹介したい。

《戦後「国体」の形成とその帰結たる現在》
 降伏の「御聖断」に至る過程で「国体護持」の客観的な定義が、支配層の誰にも明確に認識されていない。この「日本的」状況の記述を改めて興味深く読んだ。
天皇制崩壊の危機は日米支配層の取引で回避された。米側は天皇利用による占領政策の円滑な遂行を求めた。日本側は、形式上の「国体護持」でも可としながら、宮中・リベラル派官僚機構の主導による間接統治を求めた。そのディールが成立した。最初の面談で、天皇はマッカーサーを感動させたという神話が流布した。しかし日本占領の計画策定は1942年に始まっていた。マックの感動で始まったのではない。
占領下の主権は日本ではなくGHQの手中にあった。占領下の国会で新憲法が成立し発布される。その新憲法で日本は平和的な民主国家となり、対日講和条約(実体は日米安保)で独立した。世界第二の経済大国になった。そして日米同盟は対等の関係である。

《戦後国体への断固たる異議申し立て》
 白井の分析は、常識的「戦後論」への異議申し立てである。敗北したのに、天皇制の温存と米国の庇護の合作である「日米同盟」関係を、白井は「永続敗戦」と呼びつつその実態は「主人と奴隷」の関係だと強調する。我々は厳しい現実―たとえば沖縄、あるいは沖縄化する本土―に背を向けている。見たくないものはないことにして我々は70年余を過ごしてきた。神話を現実と見てきたのである。『国体論―菊と星条旗』の核心は、「天皇から米国へ」の主権の移転、その「不可視化」の成功論であると私は読んだ。
 
この「永続敗戦」のレジームにあって、米国は日本の国力回復が必要だった。東西冷戦の時代だったからである。1ドル360円の円安容認と自国市場の開放によって米国は日本の経済復興を支援した。反共の砦は日本だと考えてそうした。しかし日本という隷属者が、競争者となったとき米国は、「グローバリゼーション」戦略によって日本を攻撃する。冷戦終結で米国に敵はいなくなり、日本を護る必要性がなくなる。中国は統制された資本主義国家である。こういう客観的事実の変化があっても、この30年間、「永続敗戦体制」は、日本人に認識されず、再審判もされず、脱却への試みもほとんどなかった。白井は本書の結論部分(336~337頁)にこう書いている。

■「戦後の国体」の末期たる現在において現れたのは、「戦後日本の平和主義」=「積極的平和主義」=「アメリカの軍事戦略との一体化」(実質的には、自衛隊の米軍の完全な補助戦力化、さらには日本全土のアメリカの弾除け化)という図式である。(中略)朝鮮半島の緊張に対する日本政府の対処とそれに対する世論の反応は、「戦後の国体」の臣民たる今日の日本人が奉ずる「平和主義」の内実を明るみに出した。「平和主義」の意味内容の変遷は、「戦後の国体」の頂点を占める項が菊から星条旗へと明示的に移り変わる過程を反映している。今後の東アジア情勢次第では、「天皇制平和主義」を清算しない限り、われわれは生き残り得ないであろう■

《私の三つの率直な感想》
 「奇怪な閉塞状態を分析・説明することのできる唯一の概念が、『国体』である」という著者の目的は達せられたか。自負は本当であったか。以下は私の率直な読後感である。

第一 一点突破全面展開の強さ
戦後の日米関係について日本の従属体制を論じたものは多い。実際、白井著作においても明示的・暗示的に先行研究への言及がある。しかし個別の事態や事件を深く追及したものはあったが、「国体」というキーワード一語で、あるときはピンポイントに、あるときは強引な飛躍で、あるときは事柄の両義性をフルに応用して、これだけ執拗に論理を展開している、こんな言説は今までなかった。

第二 戦後論への鋭い問題提起
メディアや学会の戦後論は、「敗戦」が画期だという断続説から連続説へ次第に軸足を移した。その過程で起こったことは、「日米同盟」への言及欠落であり、そのなし崩しの承認であり、更には積極的肯定ですらある。多くのマスメディアにあって、安保批判はいまや「国賊」「非国民」の言語である。政治家の世界はどうか。いま日米安保即時撤廃をいう政党は一つもない。
しかし総体としては戦前・戦後の連続説に立つ白井分析は正面から日米同盟批判を行っている。奇矯な指導者を奉ずる二カ国の会談結果予測は困難だが、場合によっては「外交の安倍」が世界の孤児になる可能性もある情勢だ。

《思い切った明仁天皇への肯定》
 第三 明仁天皇への肯定的な評価
本書の帯で、思想家内田樹、経済史学者水野和夫、宗教研究者島薗進、ノンフィクション作家保阪正康の四識者が白井著作への短い賛辞を述べている。

白井聡は本書で、明仁天皇の「お言葉」(2016年8月8日のテレビ放送による実質的な生前退位宣言)に関して踏み込んだ発言をしている。白井は「お言葉」に衝撃を受けた。それは「この国の歴史に何度か刻印されている、天皇が発する、歴史の転換を画する言葉となりうるものと、筆者(白井)は受け取」り、「古くは後醍醐天皇による倒幕の綸旨や(中略)、孝明天皇による攘夷決行の命令、明治天皇による五箇条の御誓文、そして昭和天皇の玉音放送」の系譜につながると解している。現天皇発言に関して、「腐朽した「戦後国体」が、国家と社会、そして国民の精神をも破綻へと導きつつある時、本来ならば国体の中心にいると観念されてきた存在=天皇が、その流れに待ったをかける行為に出たのである」とまで述べている。
同趣旨の発言は、上記識者のうち内田樹からは公然と、保阪正康からも示唆的に発せられている。三人が同一意見だと私はいわぬが、彼らの思考ベクトルは概ね同方向だと思われる。これらの発言が意味するところは何か。私自身に今発言する準備はないが、「明治150年」は、安倍内閣が望む年ではなくなるのでないか。そういう予感をもっているとは書いておきたい。

改めての結論。白井聡の力作『国体論―菊と星条旗』が多くの読者を獲得することを期待する。(2018/05/19)

白井聡著『国体論―菊と星条旗』、集英社新書、集英社2018年4月刊、940円+税
2018.04.26 「昭和の時代」を物語る写真集

―私的エールですが読んで下さい―

半澤健市 (元金融機関勤務)

 私事から始めることをお許し願いたい。
2018年4月16日開催の高校同期会の案内に「橋寿」記念とあった。意味不明のまま出席したら、幹事が「橋」は「ハシ=八四」の意味で八四歳の祝いだと説明した。
2年前の「半寿」の会は、「半」を「八十一」と読むのだと広辞苑に記述があった。

《新制中学・新制高校・六三制の同窓会》
 私の年代の高校進学者は、1947年に発足した新制中学の第一期生で、1950年に新制高校へ入った。旧制府立二中、現在の都立立川高校である。かつての進学校も今は一時ほどの勢いはないが、青春期の三年を過ごした母校に、私は自分なりの愛着がある。

当時、2・3年生の上級生は、全員男子の旧制中学からの移行組であり、我々新入生は「試験なしで中学に入った〈六・三型〉だ」と、揶揄された。「六・三型」とは、戦後改革による教育の「六・三制」と、ドアが開かずに大火災事故となった国鉄車両の名称「モハ六三型」とを掛けたマイナスのイメージの表現である。事故は「桜木町事故」(1951年)と呼ばれた。

幹事報告によると同期生の現状は次の通りである。卒業生411名(男女比は3対1)。その内訳は、連絡可能235、出席71、欠席89、無回答75、物故者・不明者176。
約2時間半の写真撮影、挨拶、雑談に自ら入り観察した私の印象は、「子供から大人になり再び子供へ還ってゆく動物」、これが人間だというものである。出席者の三分の一の言動は、思い込みと同じことの繰り返しであり、私には理解不能であった。私の言動も他人にはそのように映るのであろうと思った。

《『昭和の東京』というアマチュアの写真集》
 前振りが長くなりすぎた。私の伝えたいのは、上記の同窓会で知った一冊の写真集である。同級生である著者と話し込んでこの話になり、彼は親切にも送ってくれたのである。
その書名は『昭和の東京―街角の記憶』である。著者(=写真と文)は宮崎廷(みやざき・ただし)。この4月に刊行されたばかりである。
宮崎君の写真への興味と実践を、私は高校在学中には知らなかった。知ったのは15年ほど前である。彼は青梅線沿線から高校に通学していたが、大学は法政大学に進み、社会人としては地元の青梅市役所に勤めた。

同書の「はじめに」に宮崎君はこう書いている。(■から■)
■東京も中心街はすでに戦前の賑わいを取り戻していたが、街を行けば制服姿の米兵や外国人の家族とすれ違い、駅頭に立つ傷痍軍人が奏でるアコーディオンからは「異国の丘」のメロディーが流れ、戦争の影が消え去ったとは言えなかった。私が東京を撮影し始めたのはちょうどそんな時代で、都心へ通学するようになったのがきっかけである。
東京駅を中心として日本橋、銀座といった日本を代表する商店街は、田舎育ちの学生である私にとって別世界のような街であり、浅草へは出かけるたびに新しい発見のある楽しい盛り場だった。(略)本書に収録した写真は昭和30年頃から昭和の終わりまでに、東京の市井の人々の姿を中心に撮影したものである。(略)昭和という時代を支えてきた方々が古い記憶を呼び起こし、読者ご自身の昭和をたどるきっかけにでもして頂ければ幸いである■

《私の企業人時代に見た風景がいっぱい》
 私(半澤)の金融機関勤務は、短期間の海外研修を除いて、1958年から1995年にわたる約40年間、東京を離れたことがなかった。しかもその大半が日本橋であり、次いで丸の内と八丁堀であった。極私的視点になるが、本書18頁の空中写真「空から見た日本橋」(本書中の空中写真は朝日新聞社提供、これも実に良い)に、私が最初に入った企業である「野村證券」のビルが写っている。さらに私には―いや私だけには―その看板の下に「東洋信託銀行」という白地の社名看板が見えるのである。後者は前者が都銀二行とともに出資設立した信託銀行であった。そこで私は企業人人生の大半を過ごしたのだが、のちに「三菱UFG信託銀行」に吸収されてしまった。三菱と野村の社員はそんなことは知らぬであろう。一事が万事である。この写真集を時間をかけて見るとき、私は胸に迫るものを抑えることができない。

《あなたを感傷的にしたのちに深い思索をもたらすだろう》
 宮崎君はアマチュアではあるが、自己流で写真を撮ってきたのではない。彼は田沼武能という優れた写真家に師事して腕を磨いてきたのである。田沼氏は、本書をこう評価している。
■写真の良否にはプロもアマチュアもなく、如何にその時代を記録し、その記憶を語っているかが評価される。本書はその時代の東京の人々の暮らしから心意気までを語っており、「昭和の時代」を物語る第一級の記録である■

前振りだけではない。写真集紹介もお前の仲間褒めではないか。
そうではないつもりである。読者には是非、手にとって本書を眺めて貰いたい。
あなたはここに、「モノはなかったが夢はあった時代」の人々の笑顔と希望をみるだろう。高度成長が、「共同体」や「地霊」を破壊してゆくさまを、生活が向上する一方で、「日本の風景」が個性のない景色に変貌する寸前の姿を、あなたは見るだろう。それは、あなたに強い感傷の気持ちと深い思索をもたらすだろうと思う。(2018/04/23)

●宮崎廷(みやざき・ただし)著『昭和の東京―街角の記憶』。フォト・パブリッシング出版、メディアパル発売、2018年4月刊。2400円+税
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2018.04.19 『食いつめものブルース』――上海の貧乏物語を読む
――八ヶ岳山麓から(255)――

阿部治平(もと高校教師)

むずかしいことや怒りたくなることをやさしく、深刻な問題をおもしろく書いた本である。舞台は上海、爆買いとも反日とも無縁な出稼ぎ中国人の生活記録。
副題は「3億人の中国農民工」(日経BP 2017)である。著者は山田泰司氏、1965年生れのノンフィクションライターである。

ひとくちで出稼ぎ農民といっても、農地を他人に託して大都会にまるごと移住するのと、主な生活基盤を大都会においたとしても農繁期には帰郷して農作業をやるのと、生活の基盤が村にあり農閑期だけ出稼ぎするのとでは、だいぶ生活状況が異なる。
山田氏はおもな登場人物を10人挙げて、それぞれの農民工になった経緯と現状を紹介している。たとえばこんなふうに。
ゼンカイさんは、2015年路上生活者に転落した。その年春節を田舎で過ごしてから廃品回収の仕事に復帰してみると、ペットボトル、古紙、鉄くず、板切れなどの価格が過去一年の3分の1に暴落しており、ついに5月、月1700元(3万2000円)のワンルームアパートの家賃が払えなくなったたためだ。このとき奥さんは麦刈りのため、いなかへ帰っていた。
「ゼンカイさんは、河南省に帰れば自宅と畑がある。ただ、河南にいても仕事がなく家族を食わせることができない。畑では年の半年で小麦、残りの半年でトウモロコシを作るが、収入は両方で年五千元(九万七千円)にしかならない。だからゼンカイさんは、二十年前に結婚してからずっと、出稼ぎをして妻と子供二人の家族を支えてきた。」

私(阿部)が中国ではじめて出稼ぎ農民に行きあったのは、人民公社が解散したばかりの1980年代はじめ、甘粛省蘭州市の駅でのことだった。布団を担いだ数十人の集団が同じコースをこまねずみのようにぐるぐる回っていた。知人が「見ろ。先頭の奴がどこへ行ったらいいかわからないんだ。まさしく『盲流』だ」といった。
都会人は、「仕事があるかないかわからないまま、田舎から都会へ流れてきた連中」という意味で、彼らを「盲流」と呼んでいたのである。
出稼ぎの初期は道路工事と建築が主だった。ビル建築の足場はいまでこそ鉄骨になったが、1980年代90年代はまだ竹竿を組み合わせたものだった。足場からの転落事故はしょっちゅうあった。死亡事故の補償金は、私の知っている限りでは都市住民の1ヶ月の賃金ほどだった。
やがて中国が世界の工場といわれるようになったとき、これらの人々の呼び方は「盲流」から「民工潮」となり、「農民工」とか「外来工」になった。呼び方が変わっても、バカにされていることに変りはない。農民工は、工場や建築現場だけではなく、廃品回収、家政婦、レストランのウェイトレスなどを含めて、きつい・危険・汚いという3K仕事の、それも最底辺のところを受け持ち、最低の収入に甘んじ、ゼンカイさんのようにいつ収入を失うかわからない生活をしている。

山田氏は、「2015年の秋あたりから、上海では農民工が多く住む郊外の家賃が高騰し始めた。賃金は中国経済の減速を背景に、よくて頭打ち、スマートフォンやパソコン市場の世界的な飽和から、これらをつくる中国の工場では残業が極端に減り、ライン工の給料は物価上昇分を差し引くと、ピーク時だった2014年あたりに比べ、実質半分程度に落ち込んだケースも少なくない」と書く。
耐えられなくなった彼らが故郷に帰る現象が2015年末から翌年の年頭にかけて続出した。ところが故郷で職にありつけないものが、また上海に逆戻りする。
山田氏が知り合いのもとからの上海人に、「上海もこの頃は暮らし向きが大変になってきた……」と話をむけると、「え?大変って、何がですか?誰が大変なの?」と、ほんとうに意外なことを聞いた、というようにきょとんとした顔でそう問い返された。どこかよその国で起きていることを聞くような反応を示して終りだったという。

「前の週まで数十軒の食堂が並び、B級グルメを求める人でごった返していたレストラン街が、翌週訪れてみると、店舗がブルドーザーで根こそぎ地面から引きはがされ、跡形もなくなるという事態が起きた」
取壊しの理由は違法建築だというが、上海通のタクシー運転手は、「違法建築の一掃が目的?そんなことを信じているのか。おめでたいな」といい、ほんとうの理由は農民工を上海から追い出すためさと語ったという。
これの大規模なものが去年11月北京であった。違法建築アパートから出火した大火災の現場周辺が市当局によって取り壊され、住民が強制退去させられたのである。
田畑光永氏はこの事件を本ブログでこう書いた。
「塀の内側全部の建物が取り壊され、瓦礫がそのまま積み上げられていた……少なくとも1キロ四方くらいはある広大なものであった。……報道によれば、先月18日の火事の後、北京市のトップ、蔡奇・共産党北京市委書記から違法建築に対する『大調査、大整頓、大整理』という号令が発せられ、住民は数日のうちに立ち退くよう命じられたという」(新・管見中国34)。
中国の為政者にとって農民工という存在が邪魔になって来たのだ。

さて農民工のふるさとだが、1990年代半ば、著者山田氏が友人の村を訪ねたとき、その兄の家で出た食事は、朝食がトウモロコシのお粥、昼はトウモロコシの汁うどん、夕食もトウモロコシの焼うどん、副食はダイコンのからいつけものだけ。肉は全然出なかった。
著者は「それでも、この食事がとれるのなら、餓死するようなことはない」「農民工のたくましさと寛容さを支えるすさまじいばかりの源の一端を見たような気がした」という。
この食生活は敗戦後4、5年までの私の村に似ている。そして私が知るかぎり、日中戦争さなかの山東省の農民の食生活と同じである。餓死はしないとしてもコメや大豆の良質の蛋白質が不足している。この食生活が例外と断言できないところが中国の泣きどころだ。どこの途上国だって戦争といった大災害がないかぎり、10年20年経てば以前よりは多少はましになっている。

著者によると、2016年末で出稼ぎ農民は2億8171万人である。中国人口の5人に1人が農民工だという(国家統計局公表)。労働人口にしたら3人に1人程度になるだろう。
党中央から末端までの官僚・研究者・都市住民のなかに、農民工を中国経済の原始的蓄積を担い、20年にわたる高度成長を支えた、なくてはならぬ存在だったと考えるものがはたしているだろうか。
中国の農民は生きるか死ぬかのところへ追い込まれても反抗しない。農民工もおなじこと。どんな理不尽のしうちにも耐えられるだけ耐える。これがこのルポルタージュを通して著者が語りたかったことではなかろうか。

2018.03.03  これこそジャーナリスト必読の書
          鎌田慧著『声なき人々の戦後史』(上・下)を読む
      
岩垂 弘 (ジャーナリスト)

 まさにジャーナリスト、ジャーナリストを目指す人にとって「必読の書」と言っていいだろう。
 ;鎌田慧氏がルポライターの第一人者であること、その代表作が、愛知県豊田市にあるトヨタ自動車工場で期間工として6カ月間働いた体験をつづった『自動車絶望工場』であることは知っていた。が、その仕事の全容については、よく知らなかった。だから、本書を手にして、氏がこれまで発表してきたルポルタージュの全容を知り、大きな衝撃を受けた。
 
 まず衝撃を受けたのは、ルポルタージュの対象が、戦後日本のあらゆる事象・社会運動・事件・事故に及んでいたことである。それも、戦後史を画す大きなものばかりである。例えば、高度経済成長、巨大開発、原発、公害、資本と労働の対決、底辺労働、出稼ぎ、教育、いじめ、人権侵害、冤罪、基地などの諸問題だ。
 具体的には、むつ小川原開発、核燃再処理工場、柏崎刈羽原発、三井三池争議、国鉄の分割・民営化、JR福知山脱線事故、日航航空機事故、成田空港反対闘争、沖縄の米軍基地反対闘争、「狭山」「財田川」などの冤罪事件等々の取材過程がこと細かに明らかにされている。
 言うなれば、戦後日本の転換点となったいくたの重大な局面が、詳細かつリアルに記録されていて、まるで、戦後史をたどるような緊張感を覚えたほどだ。まさに、本書こそ紛れもなく「日本の戦後史」である。
 
 次に衝撃を受けたのは、氏のルポが、すべて現場からのレポートであったことである。身一つでよくもまあ北海道から沖縄まで全国至るところへ飛んで行ったものだと驚嘆してしまった。取材を思い立ったらすかさず現場へ向かう。こうした決断の速さ、腰の軽さ、タフな行動力にただただ敬服するほかなかった。最近は、あらゆる情報がネットで手軽に得られるとあって、現場を踏まないで原稿を書くケースも少なくない。本書は、「現場第一主義」がジャーナリストにとって何よりも肝要であることを教えてくれる。
 
 衝撃を受けたことの3つ目。これこそ私が最も印象に残った点だが、鎌田氏のルポが、すべて名もなき民衆の立場からの告発であるということである。氏は、巨大開発や空港建設で農地を奪われた農民、大企業や公営企業の合理化でクビを切られた労働者、過労自殺に追い込まれた労働者の遺族、炭鉱事故で亡くなった労働者の遺族、公害の被害者らの声にじっと耳を傾け、その悲痛な訴えを作品に込めてきた。氏が訪ね歩いた全国各地の「無名の人々」の数の多さに私は圧倒された。
 
 鎌田氏は本書の「プロローグ」でこう書いている。
 「戦後、日本は『経済大国』になったと言われる。しかしそれは、立場の弱い人びとにリスクを押しつけることで達成されたことを忘れるわけにはいかない。原発事故によって、都会で消費される電力を過疎地が支える構図が、はっきりと認識されるようになった。同じ構造は、エネルギー供給に限らず、私が取材を続けてきた労働現場にもあった。非人間的で危険な仕事はいつも、地方からの出稼ぎなど、立場の弱い人たちが担わされてきた。利益追求の犠牲となって、命を落とした人は数知れない」
 「成長の時代が終わっても、リスクを背負わされた人の割合はむしろ増えている。政府も企業もいまだに効率性だけを追い求めているからである」
 「私は戦後社会の現実を、犠牲を押しつけられる側から見続け、そのような犠牲のない世の中にしたい想いでルポルタージュを書き続けてきた」
 本書は、こうした氏の想いを伝える、いわば氏の半生史と言える。

 一貫して名もなき民衆の立場からものごとを見つめ、名もなき民衆の立場からルポを書くという鎌田氏の行き方はどうして培われたのだろうか。私はそんな問題意識を抱えながら本書を読み進んだが、それへの回答に出合った気がした。それは、氏の若いころの体験に根差しているようだ。
 
 氏は1938年、青森県弘前市で生まれた。父は鍼師。県立弘前高校を出て、1957年、東京都内の町工場(機械部品加工メーカー)に就職する。まもなくここを辞め、やはり都内の、謄写版印刷技術を教える学校付属の印刷部門に転職する。ところが、待遇が悪かったため従業員が労組を結成。これに対し、会社側は「全員解雇」を通告、労働争議に。結局、組合側が“勝利”するのだが、鎌田氏は「争議を通じて私は、労働者はいつでも簡単にクビにされる。自分たちを守るには団結と連帯が必要だ、ということを知る」。
 これを機に、氏は労働運動の組織者にあこがれる。「だが、どもって演説ができない。やはり自分は文章で社会問題にかかわっていくしかない、そのためにも大学に行って勉強し直そう」と思う。
 かくして、1960年、早稲田大学文学部露文科へ入学。ここを卒業すると、「鉄鋼新聞」記者、次いで月刊総合雑誌「新評」編集部員となり、やがて、フリーのライターとして独り立ちする。
 昨年10月、本書の出版記念会が開かれたが、そこでの鎌田氏の挨拶の一節が今なお、私の心のつかんで離さない。それは「私は、体制のイヌになりたくない」というものだった。

 本書は、朝日新聞青森版に2014年3月から2016年3月まで掲載された鎌田氏への聞き書き連載に加筆したもので、連載の聞き手は朝日新聞記者の出河雅彦氏。これだけのことを鎌田氏から引き出した出河氏の手腕に敬服する。
 もの書きを目指す人にぜひ一読を勧めたい。

  ■鎌田慧著『声なき人々の戦後史』(上・下) 聞き手・出河雅彦
藤原書店刊 上下各巻 定価2800円+税


2018.02.09  『レーニン伝』を読む
          ――八ヶ岳山麓から(249)――

阿部治平 (もと高校教師)

ロシア革命の指導者レーニンの伝記は数多くある。
最近刊行された一冊、ヴィクター・セベスチェン著(三浦元博・横山司訳)『レーニン 権力と愛』(白水社 2017)は、そのあまたある「レーニン伝」のなかでは人情本版とも呼ぶべきものである。

この本は帯の惹句が好い。上卷おもて表紙のそれには「同志より、妻と愛人に信を置いた革命家の『素顔』」とある。この巻に描かれるのは、生い立ち、革命運動への参加、国外からの革命指導、そしてその間の妻や愛人との人間劇である。
下巻の帯の惹句は「『善を望みながら、悪を生み出した』革命家の悲劇」となっている。2月革命を受けてのロシアへの帰還、10月臨時政府の打倒と軍事クーデタ―による権力奪取、脳梗塞の発病を経て1924年に死去するまでが描かれる。
激しい革命活動のなか、(邦訳にして)40巻余の著作をどうやって残せたか、『唯物論と経験批判論』がなぜあのようにしつこいのか、『国家と革命』がかなりずさんな国家論なのはなぜか、といった類のことは書かれてはいない。

レーニンはロシア人としてはいかにも小柄だった(160cm!)。顔もどことなくアジア人を思わせる。本書の詳しい家系記載によれば、彼は19世紀ロシアの典型的なブルジョアの出ではあるが、生粋のロシア人ではなかったことがわかる。
スターリンは自分がグルジア(ジョージア)人でありながら、レーニンを「生粋のロシア人の天才」に仕立てたくて、レーニンの家系研究を禁止した。その方が後継者としては都合がよかったからだ。だが時代が下ってソ連崩壊の30年前には、蔵原惟人氏が、レーニンの祖母のひとりがカルムィーク(モンゴル)人だったことを書いている(『若きレーニン』新日本出版社 1969)。

レーニンの妻ナジェージダ・クルプスカヤについて、著者は上巻「序文」の中で、「通常描かれるような、働き者の主婦兼秘書という枠には収まらない姿が浮かび上がってくる。彼女がいなければ、レーニンは現実に成し遂げたような仕事を決して達成できなかっただろう」と述べている。レーニンは気の短い人で、疲れるとよく頭痛を起し、かんしゃくを爆発させた。クルプスカヤはそれをよく承知していて、散歩や山歩きに連れ出したという。
レーニンには愛人がいた。これも「序文」に、「彼は10年間にわたって、イネッサ・アルマンドという名前の、肉感的で、知性がある美貌の女性と断続的に愛人関係を続けた。彼らの三角関係は、レーニンとナージャ(妻)の感情面での生活の中心を圧倒的に占めていたので、本書のほぼ半分には、このことが織り込まれている。……レーニンがたった一度、人前で泣き崩れたのは、アルマンドの葬儀の時、自分の死の三年前のことだった」とある。
レーニン全集に『イネッサ・アルマンドへの手紙』があるが、レーニンの愛人が彼女だということを私は長い間知らなかった。

本書では、レーニンは理論を重んじたが、実際に臨んでは理論より便宜的方法があればそれを採用したという。これはそのとおりで、彼は社会主義原理に反して市場経済の導入をおこない、革命政権を経済破綻から救った(新経済政策NEP)。いま日本には鄧小平の改革開放をNEPとの連想で持上げる人がいるが、これは見当違いだ。
では、レーニンが残した悪とはなにか。
いまでは誰でも認めるように、「彼が作り出した悪の最たるものは、スターリンのような人物を、自分が亡きあとのロシアを指導する地位に残してしまったことである」
レーニンはかちえた権力を守るために、敵と見なした勢力を数多く殺し、労農大衆にも冷酷な手段を遠慮なく用いた。スターリンはそれを間違いなく継承し、何倍にも拡大深化させた。
20代の私にとってレーニンは神様だった。しかも「スターリン・カンタータ」こそ歌わなかったが、社会主義経済論としてはスターリンのものしか知らなかった。
だが、もし神様がソ連を指導しつづけていたら、「悪」を生み出さなかっただろうか。社会主義生産様式は(といえるか疑わしいが)、強力な官僚群とその指導者を必要とした。しかもロシア的専制主義の伝統がそれを促した。中国で毛沢東が「皇帝」になったのも似た理由である。ならばスターリンほどではなかったとしても、レーニンもまた冷酷な独裁者にならざるを得なかったのではないか。

革命から75年後、東欧・ソ連は内部から崩壊した。レーニンの社会主義の実験は失敗だった。生産手段の社会化や計画経済は幻想で、共産党官僚の独裁だけが現実だった。これでは人々は幸福になれないということははっきりした。
では、レーニンの革命は世界史上どんな意味をもつのか。私にはこの疑問が解けない。答えを求めて本書を読んだが、わからなかった。

本書の著者ヴィクター・セベスチェンはハンガリー人だが、東欧問題専門の定評あるイギリスのジャーナリストである。訳者の三浦元博・横山司両氏は元共同通信記者である。読みやすい日本文と「訳者あとがき」によって、その実力のほどがわかる。
2018.01.29  「オペレーションZ」が問いかけているもの
  -真山仁最新作(新潮社、2017年12月)を読む

盛田常夫(経済学者・在ハンガリー)

真山仁氏の最新作『オペレーションZ』は、日本の累積債務問題を扱った経済小説。ヘッジファンドの生き様を扱った小説『はげたか』でブレークした著者が、今度は日本経済が抱える債務課題に挑んだ作品だ。

周知のごとく、日本は1000兆円を超える政府累積債務を抱えている。OECD統計で見ると、2016年現在で、GDPの230%を超えている。OECD加盟国で200%を超えているのは、日本の他にギリシアだけだ。
計算を簡単にするために、現在のGDPを500兆円、累積債務を1000兆円、一般会計規模を100兆円、税収を60兆円として計算すると、累積債務は税収の17年分になる。それだけの債務を将来世代から借りている。逆に言えば、人口が大きく減り、老年人口が大幅に増える将来世代の税収から、これだけ積み上がった債務を処理する必要がある。

これが意味するところは何か。
日本社会は現在の生活水準を維持するために、将来世代の税収を前借りしている。しかも、この前借り状態が改善されるどころか、年々悪化している。前借り分が返済されるどころか、増えている。これが続くと、いったい日本社会はどうなるのか。債務が国債で処理仕切れない事態が生じれば、増税と社会保障の削減を行うしか方法がない。しかし、それを躊躇している間に、国内外の経済危機や経済事件がきっかけで、日本の国債が消化できず、国債価格が大幅に低下することになれば、歳出入の調整では財政措置が追いつかなくなる。そうなれば、もっと劇的な施策が必要だ。それが国家債務(国債)の割引きや棒引き、あるいは銀行の取り付け騒ぎが起きれば預金凍結だ。こういう事態が到来すると、日本経済は事実上破綻する。急激なハイパーインフレが起こり、国家の債権債務も、個人の債権債務もチャラになる。それで政府の債務・財政問題が解決されるが、日本経済への信用が崩れ、円は暴落して国民生活は急激に低下し、生活水準の低下に苦しむ時代が続くだろう。その時になって、安呆総理やアホノミクスを恨んでも後の祭りだ。何も脅かしや絵空事ではない。終戦後の日本や社会主義国家の崩壊時にどの国でも見られた光景だが、ギリシアやメキシコ、アルゼンチンの経済崩壊もそれほど昔のことではない。

そういう結末を明瞭に理解していなくても、若者たちは将来の社会保障に不安を抱いている。なんとなく、自分たちの年金がまともに受け取れない不安を持ち、健康保険の自己負担大幅増が強いられるのではないかと危惧している。残念ながら、その危惧が現実になる可能性はきわめて高い。他方、しかし今の生活からそれを実感することができないから、何をすれば良いのか分からない。まして、歳を取った世代には関係のない話だ。
政治家も国民も、財政赤字の累積がどのような影響や問題を惹き起こすかについて深刻に考えていない。なぜなら、一般国民は当座の生活をやりくりするのに精一杯で、将来の財政赤字累積の行く末を考えることなど思いもよらないからだ。一般国民の意識と利害はきわめて短期的である。だからこそ、政治家は国の将来を考えて政治に取り組むべきなのだが、国会議員は選挙が第一だから、国民の短期的で即時的な要求に沿った行動を取る。だから、政治家は増税や社会保障削減で国民生活に負担かける政策を極力避け、当座の生活が守られるような近視眼的な政策を維持することに奔走する。口では「財政健全化」を謳うが、誰も財政問題を深刻に考えていない。政治家の任期は短いから、遠い将来のことなど「後は野となれ山となれ」だ。官僚は行く末を案じても、政治家の決断がない限り、債務削減の予算を組むことはできない。だから、何時しか、気骨のある官僚は飼い慣らされ、政治家の要求を飲むか、管轄の省庁の予算が削られないように努めるだけだ。要するに、誰一人として将来社会が抱える深刻な問題の解決を模索することなく、近視眼的な政策が継続されていく。これこそ、1億総無責任体制である。
何時の時代も、国民は当座のことしか考えられないから、二進も三進も行かなくなったときに、政府の政策の失敗の付けを払わされるだけである。しかし、その時に大騒ぎしても、もう遅い。だから、社会は同じ過ちを何度も繰り返す。
 それどころか、在野には無責任な応援団がいて、時の政府におもねって、「日本の財政は破綻などしない」と叫んでいる。「財務省は債務だけを大きく見せているが、政府資産を考慮すれば、純債務はきわめて小さい。財政破綻の宣伝は財務省の企みだ」と放漫財政と債務の累積を擁護し、「日銀が引き受ける国債は対政府債権だから、政府部門を統合すれば、債務と債権はチャラになる」という無知な議論を恥ずかしげもなく披露している。そうやって、あわよくば政府の役職を手に入れ、各地の講演会に呼ばれて、あぶく銭を稼ごうという輩が多い。政府もそういう無責任な連中に目をかけ、内閣府参与とか、政府委員会委員というような役職をあてがっておだてる。こういう連中は、長年にわたって「原発は百%安全」だと宣伝してきた政府与党や原発会社、御用研究者と同じである。

 さて、『オペレーションZ』だが、山口1区選出の梶野(カジノ)首相が始めた「カジノミクス」によって、日本の財政赤字の処理が猶予ならない時を迎える。しかし、政治家も官僚も、財政赤字に大鉈を振ろうなどという考えもない。この段になって、カジノ首相は無責任にも首相の座を放棄してしまった。「前総理がバカな経済政策を続けた挙げ句に、体調不良を理由に逃げた」ために、副総理の江島が総理の地位に就く。そして、財政支出半減政策の実行を決断する。ただ、歳出100兆円を50兆円にするのではない。100兆円のうち、25兆円は国債償還費と利払いだから、それに手を付けないとすると、残りの基礎的収支75兆円から50兆円を削減する政策が必要になる。誰もが無謀だと分かっている。しかし、それをやらなければ、日本はもっと大きな危機に巻き込まれる。その歳出半減(事実上、3分の1化)プロジェクトの名称が、「オペレーションZ(OZ)」である。なぜ、Zなのか。オズの魔法使いの魔法にあやかってのことか、それともこれ以上は先がない最終政策だからなのか。

 「日本では国家の赤字が1000兆円を超えても、財政破綻しない。...国内の金融機関が手分けして日本国債の大半を買い取っているからだ。なのに、そのバランスを梶野総理が崩してしまった。カジノミクスという金融緩和策の一環として、日銀は10年物の国債の70%を債権でディーラーから買い続けている。それによって、大量のマネーを市場に放出して、意図的にインフレを興そうとしたのだ。その結果、国債を買う国内の投資家が激減した」。
 ところが、ある事件をきっかけにして起こった取付け騒ぎで、大手の生保会社が保有する国債1兆円を売って、騒ぎを収拾しようとする。しかし、市場で引き受け手が見つからない。日銀が買えば、ヘッジファンドが国債を売り浴びせ、国債のみならず、株式も為替も暴落する危機を迎える。そこで、副総理の江島が奔走して何とか市場の買い手を見つけ、とりあえず問題が深刻化する前に解決する。それからほどなく、「梶野総理は突如、辞意を表明した。理由は持病の心臓病の悪化だった。...あまりの無責任振りに国民が呆れ返る中、この修羅場を乗り越えるための後任総理として、江島副総理に期待が集まった」。
 もっとも、現実には「アベノミクス」総理が在任中の間は、ここまでならないだろうが、東京大地震の到来よりこの種の危機が起きる確率は高いから、現実とフィクションが交わらないとも限らない。

 それはさておき、江島総理は2年後に歳出を3分の1にすることを決断し、そのための具体的措置を作るプロジェクトチームを発足させた。そのチームが準備する政策案が、「オペレーションZ」である。
歳出を3分の1にするために何が必要か。それぞれ歳出の5%程度でしかない防衛費や公共事業費あるいは公務員人件費を削っても、とても追いつかない。「(歳出の3割を占める)社会保障関係費と(歳出の15-16%を占める)地方交付税交付金を、ゼロにするしかない」。これが「オペレーションZ」の核心である。しかし、こんな乱暴な案は国民に支持されないばかりか、野党のみならず、与党の支持さえ得られないだろう。しかし、江島総理は玉砕するがごとく、その実現に向かってプロジェクトチームに発破をかける。
 「日本はもはや絶体絶命の崖っぷちに追い詰められているんです。しかも、助けてくれる人は誰もいないと思った方がいい。すなわち、自力で打開できなければ、待っているのは、破滅のみ。....革命的歳出削減は、絵に描いた餅ではありません。...各自が歳入増と歳出減のために、必死で知恵を絞って戴きたい。さらに、これから私が行う大改革の先兵として命を懸けて欲しい」。

 しかし、歳出削減案が明らかになり、国会は江島総理の不信任案を一部与党議員の賛成を得て可決し、総選挙が始まる。江島総理が率いる保守党グループは造反者を除名し、梶野前総理の山口1区には、著名タレントを刺客に送り、「革命か亡国か」をキャッチフレーズに選挙戦を戦う。国民に歳出削減の必要性を訴え、それなりの手応えを感じるも、大きく議席を減らしてしまう。しかし、野党も過半数を取ることができない。
江島は総裁を解任され、少数で新党未来創造党を結成する。新しい総理には野党党首が選出され、「向こう10年間をかけて、予算の健全化を目指すが、今はまず、長き不況から脱出するための財政出動と減税を推し進めたい」と宣言する。こうして再び、日本は財政赤字拡大の道へと歩み始める。

 オズの魔法使いは、「皆が欲しいと願うものは、その人の中にある」という真実を語ったものだ。「本当に危機を感じなければならないのは、....国民の意識の低さ。それはお前たちのことだ」と言い放ったウーマンラッシュアワー村本の叫びも、同じ真実を語っている。

2017.12.20 商社マンの幻視で表現した戦後七〇年
―浅田次郎著『おもかげ』を読む―

半澤健市 (元金融機関勤務)

 浅田次郎の作品を初めて読んだ。泣いた。
主人公は退職歓送会の帰路、脳梗塞で倒れる。作者は、死の床にある男の脳裏に浮かぶ回想と幻影を描いていく。その内容は、少年時代から現在に至るまでの65年の人生の、思い出深い場面である。男の精神は、時に、身体をベッドに残して外へ浮遊してゆく。
両親を知らずに育った男は、苦学力行を経て「いい大学を出て大手商社のエリート」の生活を過ごしてきた。意識を失なったと見える彼が、病床で幻視したものには、見知らぬ年上の女との不思議な語り合いもあった。

 男の生きた時代は戦後70年間である。彼の回想は個人的なものと社会的な事件に彩られている。
男はノンポリだったらしく学生運動の回想は少ない。むしろ、彼が生まれた1951年の前後、日本社会がまだ混乱していた頃の、たとえば米軍空襲による被害者たち、占領軍米兵と日本人娼婦、中間層が形成される前の人々の貧しさ、朝鮮戦争による景気回復、それらが、細部にわたり活写される。

 両親のない主人公の設定には違和感が避けられない。
戦後物語の多くは、高度成長による家族共同体の崩壊過程を描いている。主人公の妻も両親が離婚した不幸な生い立ちの人物である。共同体のない環境からの出発を描く作家はなにを意識しているのか。ここには伏線がある。しかし主人公は、世間的には豊かで幸福な家庭を築き「経済の戦後」という価値を具現した。

 この舞台設定の意味は最後の数十ページで解明される。私は浅田次郎の魔術、または、プロの技に翻弄された。作家の眼は、「戦争の過酷と人間の業」を凝視する。悲劇は、再びの戦争や社会政策によって、解決できるのか。文学の存在理由の一つは、かかる問題提起であることを示している。

 私は、溝口健二が『雨月物語』(1953年・大映)で、京マチ子・田中絹代・水戸光子・森雅之・小沢栄によって表現した「戦争の過酷と人間の業」を、浅田次郎も文字によって表現していると感じた。
主人公はこのベッドで死ぬのだろうか。私は、野上弥生子の『迷路』の最後の場面を想起した。八路軍の投降勧告を容れて死の脱走を試みた主人公菅野省三は、背後から帝国陸軍の銃に撃たれる。倒れて意識を失った省三の生死を書かずに野上は長編小説を終えた。

 本書の帶に、浅田は「同じ教室に、同じアルバイトの中に、同じ職場に、同じ地下鉄で通勤していた人の中に、彼はいたのだと思う」と書いている。野上弥生子はある文章で、帰国した省三は民衆のなかに生きているだろうと書いた。
『おもかげ』の主人公竹脇正一(たけわき・まさかず)も、彼と戦後を併走した読者のなかに生き続けるであろうと私は思った。(2017/12/15)

■浅田次郎著『おもかげ』、毎日新聞出版、2017年12月刊、1500円+税
(『毎日新聞』、2016年12月~2017年7月の連載小説の単行本化)
2017.11.25 戦時下の反戦医師の足跡を掘り起こす
森永玲著『「反戦主義者なる事通告申上げます」――反軍を唱えて消えた結核医・末永敏事』         
         
岩垂 弘 (ジャーナリスト)


 無教会主義のキリスト教伝道者・内村鑑三の弟子で結核の先駆的研究者でありながら、戦時下に公然と反軍を唱えたため逮捕され、この世から抹殺された医師の足跡が、長崎新聞編集局長によって70余年ぶりに掘り起こされ、単行本になった。花伝社から出版された森永玲著『「反戦主義者なる事通告申上げます」――反軍を唱えて消えた結核医・末永敏事』である。当時の言論統制や思想弾圧の過酷な実態が明らかにされており、本書の母体となった新聞連載は2016年・第22回平和・協同ジャーナリスト基金賞奨励賞を受賞した。

 この本の主人公、末永敏事(すえなが・びんじ)は、これまで全く知られていなかった人物である。長崎新聞編集局長の森永さんも、これまで耳にしたこともなかった人物だった。なのに、なぜこの人物の生涯を追うことになったのか。
 昨年1月、長崎市に住む、敏事の遠縁にあたる人が、森永さんを訪ねてきた。「敏事の生涯を調べているが、自分たち親戚の調査では限界があるので、新聞社の力を借りたい」という依頼だった。森永さんはよく事情がのみ込めず「本当に実在する人物なのか」と半信半疑だったが、遠縁にあたる人についてきた人が懇意にしている学者だったこともあって、取材を始めた。
 なにせ末永敏事が亡くなってから70年以上もたっていたため、彼を知っている人も、彼に関する資料も極めて少なく、取材は難航した。半年かがりでその足跡の一部が明らかになり、それを、昨年6月15日から10月6日まで長崎新聞に連載した。それに加筆したのが本書で、それによると、末永敏事とはこんな人物であった。   

 1887年(明治20年)に長崎県の北有馬村(現南島原市)の医師の家系に生まれた。1901年(明治34年)に上京し、青山学院中等科に入学。まもなく内村鑑三に出会い、その影響でクリスチャンとなる。
 青山学院中等科を卒業すると帰郷し、医師を目指して長崎医学専門学校(現長崎大学医学部)に進む。同校を卒業すると、台湾で医師として働き、1914年(大正3年)、米国に留学する。結核を研究するためで、シカゴ大学やシンシナティ大学で学んだ。
 米国滞在は10年に及ぶが、この間、敏事は結核菌の基礎研究に関する論文を次々と米医学専門誌などに発表する。このころ、日本では、結核は死に至る病としておそれられ、国民病と呼ばれていた。森永さんは、これらの論文を結核予防会の専門家に読んでもらった。すると、「大正期に結核の分野で国際的な仕事をしたというのは驚異的な事実。パイオニアと呼んでいい」「国際舞台に立った最初の日本人医師だろう」といった感想が寄せられたという。
 
 1925年(大正14年)に帰国した敏事は、東京の帝国ホテルで、同じ無教会主義キリスト信者の女性と結婚式をあげる。敏事にこの女性を紹介したのは内村鑑三で、結婚式の司式を務めたのも内村だった(ただし、敏事はその後、この女性と離婚)。
 結婚した敏事は自由学園に就職するが、1929年(昭和4年)、故郷の北有馬村で開業。そして、1937年(昭和12年)には、茨城県久慈郡賀美村(現常陸太田市)で「末永内科病院」を開業する。翌1938年(昭和13年)には、同県鹿島郡の結核療養施設、白十字保養農園に移り、住み込み医師として働く。キリスト教伝道者で社会運動家の賀川豊彦の紹介だった。

 ところが、この年の10月6日、敏事は茨城県特高(特別高等警察)に逮捕される。51歳であった。
 本書によれば、1937年の日中戦争突入を受け、近衛文麿内閣は「国民精神総動員運動」を打ち出し、人と物を統制して戦争に集中させる国家総動員法を施行した。これを受けて、「国民職業能力申告令」が出された。医師の場合は、性別、診察能力、学歴・職歴、総動員業務従事への支障の有無などを地方長官へ申告しなければならなかった。
 しかるに、敏事は茨城県知事あてに郵送した回答書に「平素所信の立場を明白に致すべきを感じ茲(ここ)に拙者(せっしゃ)が反戦主義者なる事及軍務を拒絶する旨通告申上げます」と記したのだった。「内心に秘めた反戦思想が当局に露見したのではない。国家総動員の手続きに沿って、わざわざ文書で、総動員に従わないという信条を届け出たのだ」と森永さん。当局としては、危険思想の持ち主である“国賊”と断定して逮捕に踏み切ったということだろう。

 そればかりでない。旧内務省資料の『特高月報昭和十四年一月分』には、勤務先の白十字保養農園の事務長らに「現在日本の政治の実権は軍部が握って居る、近衛首相は軍部に乗ぜられて居る其(そ)の現はれが日支事変である。軍部の方針は世界侵略を目指して居る」「今次事変の当局発表新聞記事、戦争のニュースは虚偽の報道である」「今度の戦争は東洋平和の為であると言ふて居るが事実は侵略戦争である」などと語っていたと記されていた。

 敏事は、なぜこうした信条や見方をもつに至ったのか。森永さんは、彼が内村鑑三の薫陶を受けたことが影響しているのでは、とみる。内村は非戦思想の持ち主であった。

 敏事は1939年(昭和14年)、陸海軍刑法違反(造言飛語罪)容疑で起訴された。軍刑法は軍人を罰する法律だが、1930年代以降、民間人へも適用されるようになっていた。39年4月の水戸地裁での控訴審で禁錮三月の判決があり、敏事が上訴しなかったためこの刑が確定する。

 ところが、森永さんの追跡調査で明らかになったのは、ここまで。できる限り手を尽くしたが、これから後の彼の足跡はついにつかめなかった。
 戸籍によれば、敏事は1945年(昭和20年)8月25日、東京の「清瀬村」で死亡したことになっている。しかし、いくら調べても、彼が服役した刑務所、出所後の行動、死亡した場所、死亡の原因など、あらゆることが不明だったという。「清瀬村」を手がかりに東京都清瀬市の病院、とくに戦前、結核病棟を備えていたいくつかの病院に照会してみたが、敏事の記録は見つからなかった。
 
 要するに、出所から死亡までの6年間の足取りが空白であった。唯一、彼の足跡が残っていたのは、1943年(昭和18年)春、敏事が東京・新宿通りにあった、幼なじみが経営する歯科医院に立ち寄ったことだけだった。そのことが、院長の手記に記録されていた。それによれば、敏事は「汚れた背広がぼろほろに破れているのが異様で、ほおにけがをしたような痕があった」という。
 
 彼の生涯は、一言でいえば、結核研究のパイオニアであったにもかかららず、反戦主義者と申し出たがゆえに社会から抹殺され、世間からも忘れ去られたということだろう。森永さんは書く。「彼は歴史から消し去られた。危険思想の“国賊”とされたから、国際的医学者としての栄光も握りつぶされたのか。かといって、戦後に復活した共産党や宗教関係の戦時下抵抗者たちと並んでその名が記憶されることはなかった。従来の内村研究の中で敏事が重視されることもなかった」

 本書を読み終わった時、私の脳裏に去来したのは「再び思想弾圧の時代が近づきつつあるのでは」との不安であった。
 森永さんも、本書の「取材経緯」の最後を次のような文章で結んでいる。
 「本書の編集途中だった2017年6月、改正組織犯罪処罰法が成立した。改正法で新設される『テロ等準備罪』は、犯罪を計画段階で処罰する共謀罪の流れをくむ。『現代の治安維持法』と呼ばれる共謀罪が形を変えて出現したのだとすれば、では、これが何の始まりなのかを考えていく必要がある。近い過去の失敗をもう一度考える必要がある」
 今こそ、忘れ去られていた悲劇の結核医の孤独な生涯に思いをはせたいものである。

 森永玲著『「反戦主義者なる事通告申上げます」――反軍を唱えて消えた結核医・末永敏事』の定価は1500円+税。発行・花伝社
2017.10.02  アメリカのミリオンセラー書籍の紹介
         J.D. Vance,“Hillbilly Elegy”
 
小川 洋(大学非常勤教師)
                
 現在、アメリカで文字通りミリオンセラーとなっている本がある。J.D. Vanceの“Hillbilly Elegy: A Memoir of a Family and Culture in Crisis”(William Collins,2016,p.257)である。出版から2か月でThe New York Timesのベストセラーリストのトップに登場するという爆発的な売れ行きで、すでに紙媒体だけで100万部を超えている。日本アマゾンでは1,455円で販売され、日本語版『ヒルビリー・エレジー』も今年の3月に出版されている(光文社、1,944円)。

 筆者は、たまたまアメリカ滞在中の9月2日、ワシントンD.C.で開催された全米ブックフェスティバルで著者が登場する場面をテレビ中継で見た。招待された110名ほどの作家のうち、メインステージに登壇する機会を与えられた7名の一人であった。一時間に及ぶインタビューで、彼には連邦議会さらには次期大統領選挙に出馬を期待する声があること、著書の映画化の動きがあることなども紹介されていた。本人はいずれにも否定的であったが、バンス氏の本は、ベストセラーとして話題となっているだけでなく、一種の文化現象ともなっているのである。

 ではバンス氏とはどんな人物なのか。題名の “Hillbilly”という単語自体が日本人には馴染みのない言葉である。Hillはアパラチア山脈の山間部を指す。Billy(Bill)は男の子の名前として一般的だから、「山家育ちの男の子」ということだろう。またBilly clubで(警官の)棍棒という意味があるなど、細かなニュアンスは分からないが、文化的洗練とは縁遠く、教育に欠けて粗暴で貧困、などがイメージされるのだろう。彼の数代前の祖先はアイルランドからの移民で、アパラチア地方に定住している。

 彼の祖父母たちはケンタッキーの小さな街で生まれ育ち、1940年代に隣接するオハイオ州に移動する。ケンタッキーには炭鉱産業があったが生活は厳しく、第二次世界大戦で急速に発展していた製鉄企業に仕事を求めて移動したのである。1950年代には毎年ケンタッキーの人口の13%が他州に流出したという。ただし80年代には製鉄業も斜陽化するのだが。祖父母の長女である彼の母親から1984年に産まれたのが著者である。本書出版時には31歳ということになる。

 さて彼の生育環境はあまり恵まれたものでなかったことは想像されるが、実際は想像を絶するものがある。彼には6人の父親がいる。母親は18歳で妊娠し、彼の姉が産まれている。バンス氏は母親の2番目の夫との間の子どもである。その結婚も短期間で破綻しているので、彼が物心ついたころには3番目の父親だったことになる。著者に言わせれば、「回転ドアを出入りするように」、父親が変わったという。
 関係が悪くなるたびに両親は、家の内で罵り合うだけでなく、互いに食器などを投げ合う激しい喧嘩を繰り返すようになり、小さな子どもだった著者には家の中で落ち着ける場所がなかった。母親は結婚生活が破綻する度に、アルコールや薬物に走り、ある時は、車に同乗していた著者が重大事故に巻き込まれて命を落としそうになる。母親は薬物乱用治療のために、しばしばリハビリ施設に収容されている。

 劣悪な環境は家庭だけではない。彼の通った公立学校はオハイオ州でもっともレベルの低いものだった。少なからぬ生徒の家庭は、著者と同様の崩壊状態である。生活保護を受けている家庭も少なくない。アメリカでは多くの場合、生活保護には現金でなく「フードスタンプ(食料品購入券)」が渡される。もちろん酒類の購入には当てられない。しかし多くの受給者は、スーパーマーケットで多くの清涼飲料を購入し、それを下取り業者に売って、得た現金で酒類を購入していたという。
 高校の中退率は20%に及び、多くの女子生徒は妊娠して学校を去る。中学時代の彼は不登校気味、高校1年の平均成績は2.1だった。アメリカの高校では4段階評価だから、日本で言えば、5段階評価の2.5程度だろうか。つまり2と3の科目が大半ということだ。

 ここまで紹介した10代までの著者に、その後どのような人生が待ち構えていると想像できるだろうか。常習的失業者?でも、そのような生活では読者を惹きつけるような話題も文章も提供できないだろう。あるいは犯罪者?詐欺など知的に優れた犯罪者ならば、魅力的な本を執筆するのは可能だろう。犯罪者から立ち直って事業に成功した、というストーリーならば読者をいっそう惹きつけることもできるだろう。

 現実の彼はその後、アメリカでトップ3のイエール大学のロースクールを出て、アメリカ有数の法律事務所に就職し、現在はオハイオ州に戻って弁護士として仕事をしている。日本に当てはめれば、最底辺の高校のなかの落ちこぼれから、もっとも入学の難しい有力大学に進学して弁護士資格を取得した、ということになろうか。

 では、彼はどのようにそのようなキャリアを開いていったのか。いわゆる「地頭」が良かったことは間違いないだろう。陰に陽に祖母が、彼の不安定な生活を支え、学ぶことを応援し続けたのも大きい。また高校2、3年生の時に、優れた教員との出会いがあって、学ぶ意欲が刺激されたのも大きく、進学適性検査(SAT)で良好な成績をとるようになる。
 彼は高校を卒業すると海兵隊に志願してイラクへの派遣も含めて4年間を務める。除隊後、GIビル(兵役を務めた者に対する奨学金)などを利用して、オハイオ州立大学に入学して2年間で修了する。日本ではありえないが、夏や冬の集中講義を履修し、さらに海兵隊時代の教育歴も単位に加算されて4年間かかる課程を半分で卒業した。
 卒業後は専門職を目指し、さらにロースクールへの進学を考える。州立大学などの入学許可を得やすい大学を考えていたある日、州立大学のロースクール在学中の先輩が、レストランでアルバイトをしている姿に接し、気持ちを切り替えてアメリカでも屈指のロースクールであるイエール大学を志願することにする。この辺の彼の行動はコミカルでもあり読んでいて楽しい。

 本人も驚くが、イエール大学から入学許可を得る。しかも多額の奨学金が与えられるという好条件である。イエール大学のロースクール入学者の大半は、ハーバードなど、アメリカを代表するアイビーリーグと呼ばれる有力私立大学から進学してくる。彼は入学後、ある教授から「なんで州立大学卒などが入ってくるんだ」と侮辱されている。彼はその後、完成度の高い小論文を提出して、その教授に能力を認めさせたのだが。
 彼の入学許可は、おそらくアメリカのエリート大学の学生募集方針による。有力大学の多くは、学生の多様性を確保するために入学者の一定数を著者のような特異な経歴の人物を入学させるようにしている。彼はイエール大学に進学したお蔭で、レストランでのアルバイトどころか、1年目が終わる段階で、ワシントンやニューヨークの名だたる法律事務所の採用活動を経験する。一流レストランでの接待攻勢なども描かれて興味深い。2年間の課程修了後は、同級の女子学生と同じ法律事務所に就職し結婚もしている。

 さてこれだけの内容なら、ただ悲惨な子ども時代を過ごし、劣悪な教育環境の若者が成功した物語でしかない。それだけで、本書が大きな反響を呼ぶはずはない。本書が多くのアメリカ人の琴線に触れたのは、アメリカの貧困層とくにプアホワイトと呼ばれる白人貧困層の状況について率直な議論をしている点だろう。そこは、著者自身が育った世界である。

 著者によれば、失業など生活破綻の危機に晒される労働者たちの多くが、「企業が中国に行ってしまって我々は苦境に立たされているのだ」、「オバマ政権が企業を中国に行かせたのだ」など、攻撃的な議論をして、大統領選挙ではトランプの共和党に投票したのだという。
 しかし著者は、白人労働者の側にも大きな問題があると指摘する。彼らは、家族・親類の相互扶助関係や基本的な労働倫理(勤勉さ)を失っているという。「福祉を食い物にする怠惰な黒人(Welfare Queen)」というイメージは行き渡っているが、福祉に依存して勤労意欲も失っている多くの白人の姿を紹介している。原著の副題である「危機にある家族と文化の記憶」が、そのことを意味していることは明らかである。

 著者は統計資料なども紹介しながら、アメリカ中西部の白人労働者たちが抱える問題について、さまざまな考察も加える。もちろん単純な解決策を示せるわけではないが、本書は、アメリカ人の多くが見ることを避けてきた自らの恥部ともいえる部分を率直に語ることによって、とくに下層社会に滞留する白人たちに内省を求めるものともなっている。
 トランプ政権の誕生によって、世界はアメリカの将来に不安を抱いているのであるが、このような書籍が多くのアメリカ人たちに読まれ、積極的に支持されている限り、アメリカ社会の健全さに期待してもよいのではないか。
2017.09.22  科学的常識から権力犯罪を疑う
  青山透子『日航123便 墜落の新事実』(河出書房新社、1,600+税)を読む

小川 洋(大学非常勤教師)

 世界各地でテロ事件が続いている。その多くは社会不安を煽り、政治的不安定を引き起こすことを目的とするテロ組織によるものだろう。しかし、事件の中には科学的常識からして不審な点があって、権力犯罪の可能性を考えざるをえないケースもある。

全世界に衝撃を与えた2001年のアメリカ同時多発テロでも、ビルの不可解な倒壊過程など多くの不審点が指摘され続けている。分かりやすい一例をあげれば、乗っ取られたフライト93便の中では、携帯電話で家庭と連絡をとって事情を知った乗客の一部が犯人たちと格闘したとされている。しかし今でも富士山で携帯電話の通話が可能なのは7,8月のみである(DOCOMOを除く)。つまり電話会社にすれば、顧客(通話者)のいるはずのないところ(上空など)に電波を飛ばすのは無駄なだけで、基本的に航空機内からの携帯電話による通話は不可能である。

また2015年1月に発生したパリのシャリルー・エブド事件でも、アラブ系フランス人によるテロ事件とする公式見解に異議を申し立てた書籍が事件後間もなく出版された(『シャルリ・エブド事件を読み解く - 世界の自由思想家たちがフランス版9・11を問う』)。そこには様々な疑問点が列挙され、複数の寄稿者がイスラエルの秘密組織モサドの事件への関与の可能性を示唆している。日本語版も出版されており、5月に本サイトでも取り上げられている。
一例をあげれば、この事件では犯人に射殺されたはずの警察官の姿が、近くのビルから撮影していた市民の動画に残っている。しかし犯人の発射したマシンガンは空砲だったのか、当の警察官の頭部から1メートル近く離れた個所で白い煙のようなものを発生させている。現在でもユーチューブで確認可能である。至近距離からマシンガンの弾を頭部に受けていれば、頭部は粉砕され大量の流血があるはずであるが、まったくその様子はない。

 さて日本において、科学的常識からしてありえない公式見解が出され、公的な検証が終わっている事件としては、1985年8月に発生した日航123便の墜落事故がある。その事故報告書が科学的な検証に耐えうるものだと考えるものはほとんどいない。

事故報告書では、事故機はボーイング社による修理を受けていたが、その修理にミスがあったのが原因だったとする。羽田から大阪に向かうべく上昇していた事故機の後部隔壁に亀裂が入り、加圧されていた客室から垂直尾翼に向けて激しい空気の流出があり、垂直尾翼を破壊し、油圧系統もすべて使えなくなった結果、操縦不能となり墜落に至った、というものである。我々は高層ビルでエレベーターに乗れば、耳の異常を感じる。高度一万メートルで、突然、機内から大量の空気が流出すれば、激しい耳の痛みを生ずるだけでなく、酸素不足から直ちに意識を失うはずである。しかし、生存者の証言や機長らの交信記録から、そのような状況が発生しなかったことは明らかだ。

この7月、元日本航空の乗務員だった青山透子氏による『日航123便 墜落の新事実』が出版された。副題は「目撃証言から真相に迫る」である。青山氏は2010年に『天空の星たちへ 日航123便 あの日の記憶』(マガジンランド)を上梓し、亡くなられた元同僚への鎮魂の文と、ジャーナリストなどによって指摘されてきた事故の疑問点を取り上げている。今回の著書は、前著の出版後に連絡をしてきた遺族や、事故現場に近い小中学校に残されていた子どもたちの、事故当時の思い出を綴った文集など、その後に得た新たな情報をもとにしている。

新たな情報の一つは遺族の吉備素子さんから得た情報である。事故後の遺体などの処理について日航の態度に不満を抱いた吉備さんは、当時の日航の高木社長との直談判に臨んだ。「現在の作業を中止するよう、一緒に首相官邸に行って中曽根首相に直訴しましょう」と言ったところ、高木社長がブルブル震え出して「そうしたら私は殺される」と激しく怯えたなどの証言は興味深いものがある。彼女の証言の中には、警察関係者との話のなかで「事故の原因追及をするとアメリカと戦争になる」という話があったことも出てくる。

事故当時運輸大臣だった山下徳夫氏からも接触があって会食している。山下元運輸相が何を考えて青山氏との面談機会を自ら設定したかはわからない。その後14年に亡くなられているが、感触としては青山氏の事故原因追及の姿勢を、暗黙の裡に支持する意図があったのではないかと思われる。

その他、彼女のもとには当日の日航機の目撃証言が多く寄せられている。その地点を繋いでいくと、事故報告書の示した飛行ルートとは相当に異なっている。通常見ることのない場所で、異常に低空を飛ぶジャンボ機について、見間違えとか記憶違いということは考えにくいから、この一点だけでも事故報告書の信頼性は大きく揺らぐのである。

さらに彼女は上野村の小学校と中学校の文集を閲覧する機会を得る。事故前後の子どもたちの記憶が書き残されていたのである。その中には、墜落前の日航機の側を2基のジェット戦闘機が並走していたという証言がある。事故報告書や政府は否定しているが、多数の目撃証言が記録されている。また子どもたちの保護者には、営林署関係者なども含めて地元の地形を知り尽くしている人たちが多い。彼らが事故直後にほぼ正確に墜落地点(後に御巣鷹山と呼称される)の見当をつけていたにも関わらず、ラジオやテレビが、長野県など不自然に異なる方向を伝えていたことに多くの人たちが不審感を抱いたことも記録されている。

その他にも、当時の記憶を呼びおこした地元の人たちの証言が加わる。もっとも衝撃的なのは、早い段階で現場に入った地元消防隊員たちの、ガソリンとタールの異臭が立ちこめていたという証言である。消防隊員たちが燃焼物を間違えることは考えにくい。ガソリンが燃やされた可能性については、検視に当たった医師たちの、異様に炭化の進んだ遺体が多くあったとの証言とも一致する。ジェット燃料は一般家庭で暖房用に使われる灯油に近い成分であり、遺体が激しく損傷するはずはない。ガソリンとタールの混合物が使われたとすれば、武器である火炎放射器しかない。想像するにもおぞましいことだが、墜落後から翌朝までの間に、現場一帯で証拠隠滅のために火炎放射器が使用されたと考えるのが妥当である。

またジャーナリストや遺族には、公表されたボイスレコーダーの記録をもとに様々な分析を試みている人がいるが、じつはボイスレコーダーは「プライバシー保護のため」として、いまだに全面的に公開されているわけではないという。航空機事故において事故原因の調査に優先するプライバシーはありえないというのが国際常識だろう。

この事故(事件)をめぐる疑わしさは、当時の中曽根康弘首相の事故後の言動にも窺える。彼は軽井沢の別荘に滞在中であったが、事故発生時は帰京のため予定通り、旧国鉄(民営化は87年4月)の特急列車の車中であった。軽井沢駅を17時11分に発車し上野駅19時15分着であった。事故機は、18時24分異常事態発生、同56分墜落という経過をたどった。NTTの携帯電話サービスはまだなかったので、直接の連絡はなかったであろう。しかし、国鉄は内部連絡用に線路にそって電話線を引いている。首相には途中駅で事故の情報が入ったはずである。事実、彼は回想録(『中曽根康弘が語る』2012年、新潮社)の中では、「車内で報告を得た」と書いている。
しかし、官邸に戻った中曽根氏は記者の問いかけに対して、「ほう、そうなの?」と初めて知ったような反応をしている。また回想録では「防衛庁と米軍の間でやりとりがあったのではないか」と、他人事のような記述をしている。民間航空機の墜落事故にもかかわらず、「米軍と防衛庁が」と記述すること自体が、この事件がミサイル誤射などの軍事訓練による事故だったことを理解していたことを示している。

オスプレイの飛行ひとつとっても、日本政府はいまだ領空に関する主権を放棄したままである。日航機事故の犠牲者に対して、我々はまだ責務を果たしていない。事件の真相を明らかにし、責任を追及する努力を引き継いでいく必要がある。日本の真の主権回復は、このような作業をひとつずつ確実に積み上げていくことによるほかない。