2022.01.08  二十世紀文学の名作に触れる(20)

『万延元年のフットボール』の大江健三郎――体制批判を貫く良心的な社会派作家
 
横田 喬 (作家)

 大江健三郎さんは、誰もが知るノーベル文学賞受賞の現存する大作家だ。若くして文壇にデビューし、芥川賞受賞の学生作家として名を上げる。「ヒロシマ」「オキナワ」など重いテーマに関心が深い社会派として知られ、護憲運動のリーダーとしても活発に活動した。私は彼とは大学で同窓(東大仏文科)であり、主任教授の故・渡辺一夫先生から共に指導を受けた縁がある。

 渡辺先生は大江さんがゆかり夫人と結婚する折に仲人を依頼され、作品の中にも度々「恩師のW教授」として登場する。ラブレーなど仏ルネサンス文学の実証的研究を確立し、フランスの文学賞や読売文学賞・朝日賞などを受けた碩学だ。不肖私も先生には随分可愛がって頂き、仏文科の懇親会などで盃を交わし合う親密な仲にもなり、望外な幸せだった。本郷の蕎麦屋の酒席だったか、大江さんが少し遅れて参加。「NHKで貰ったんだけど」と謝礼入りの封筒を幹事にそっくり渡す場面に偶々居合わせ、気前の良さに感心した覚えがある。

 学生作家の大江さんは1957(昭和三二)年に文壇的デビュー作の『死者の驕り』を、翌年には芥川賞受賞作『飼育』や長編の『芽むしり仔撃ち』などを立て続けに文芸雑誌に発表する。私はそれらを読むたびに心底強いショックを受けた。文体や言語表現に天性的なみずみずしさが光り、監禁~拘束状態に置かれる人間の閉塞感という共通するテーマにも強い共感を覚えたからだ。持って生まれた才能の違いは恐ろしい、とつくづく羨ましかった。

 彼は35年1月、愛媛県喜多郡大瀬村(現内子町)の商家に生まれた。姉と兄が二人ずつ、妹と弟が一人ずつの七人きょうだいの三男。家は祖父の代までは伊予大洲藩の下級武士だった。旧大瀬村は県庁所在地・松山市から三〇余㌔南方の山村で、四囲を険しい山岳や丘陵に囲まれる人口三百人弱の谷間の小集落だ。

 子供のころ、家の使用人の老女が明治初めに「谷間の村」で突発した一揆話をもごもご語って聞かす。変革をめざす決起は官憲が介入~鎮圧され、あえなく挫折する。健三郎少年は老女の語り口を真似て、遊び友達などを前に生き生きとより巧妙に一揆話を披露し始める。『万延元年のフットボール』など後年の作品に頻出する「谷間の村の一揆譚」の芽生えだ。

 国民学校(今の小学校)五年の45年8月に敗戦。一か月後、彼は急に不登校に陥り、大きな植物図鑑を携え、来る日も来る日も独り森の中で過ごす。戦中の皇国教育は一八〇度転回し、急造の「民主主義教育」へ衣替えする。教室で学ぶ意欲が失せた彼の胸中は、一学年下の私にもよく判る。私の場合、教師~大人不信はこの醜怪な「衣替え」に発している。

 秋の半ば、強い雨で土砂崩れが起き、森に取り残された彼は発熱~行き倒れに。翌々日、村の消防団員が発見~手当てを受け、命を取り留める。彼の諸作品に「森」が神秘的~畏怖すべき存在として登場するのは、この原体験ゆえか。翌々年、誕生したばかりの新制中学へ進んだ直後に新憲法施行。感性の瑞々しい時期に「反戦」「平和」「民主」の理念を感受する。

 彼は60(昭和三五)年に高校時代の親友・伊丹十三(俳優・映画監督)の妹ゆかりと結婚。三年後、長男・光が誕生するが、不幸にも重い頭蓋骨異常を抱え、知的障害を抱えての出産だった。親としての懊悩はいかばかりだったか、想像に余りある。
 光の誕生から間もない同年夏、彼は原爆被災地・広島を初めて訪問する。翌年も広島を歴訪し、月刊誌『世界』にルポ風のエッセイ「ヒロシマ・ノート」を連載し始める。原爆投下によるヒロシマの受難は「アウシュヴィッツを超えるほどの悲惨さでありながら、国際政治のマキアべリズム故にか、決して十分に知られているというわけにいかない」と彼は記した。

 65年に初めて米軍施政下の沖縄を訪ねて以来度々彼の地へ渡り、70年にそのレポート『沖縄レポート』(岩波新書)を著す。沖縄の人々が取り組む苦渋に満ちた反戦の闘いを熱い共感をもって受け止め、「本土とは何か」「日本人とは何か」と根源的に問いつめ、独特の晦渋な口調でこう記す。「今日の日本の実体は、沖縄の陰に隠れて秘かに沖縄に属することに依ってのみ、今かくの如く偽の自立を示し得ているのだ、と透視されるであろう、と」。

 知的障碍児の長男・光誕生の翌64年に著した小説『個人的体験』(新潮社)は疑似私小説ともいうべき構成をとる。障害児を持つ父親「鳥(バード)」が様々な精神的遍歴の末、想像力の助けによって現実と向き直るに至る経過を描き、新潮社文学賞を受ける。以後、障害児との共生を主題とする作品が増えてくる。

 73年に発表した長編『洪水はわが魂に及び』(新潮社)は、「障害児」と「森」と「核状況」を重要なファクターとして設定。東京郊外の森の麓の「核シェルター」に「白痴の息子」と自閉する主人公は首都崩壊を予知。脱出を夢見るが、曲折の末に反社会的集団と手を結び、機動隊を前に自壊していく。私は70年前後の東大安田講堂事件や連合赤軍の浅間山荘籠城事件を連想。感性が鋭敏過ぎ既成秩序と折り合えぬ「未熟児」たちへの挽歌、と解した。

 閉鎖的状況での革命的反抗を描く手法は、前編で紹介した『万延元年のフットボール』も同じ。当時最年少で谷崎潤一郎賞を受け、強い社会的反響を呼んだ。ただ書き出しの辺りの文章が回りくどく難解で読み進むのに閉口し、悪文の典型ではと私は感じた。だが、この彼独特の表現手法が後年のノーベル文学賞受賞の折に、「近代の標準的な日本語の東京方言に対抗し得る「(散文)詩的な言語」として評価されるから面白いものだ。
 周知の通り94(平成六)年、彼は川端康成以来二六年ぶりの日本人二人目としてノーベル文学賞を受ける。受賞理由は「詩的な力によって想像的な世界を創り出した。その世界では生命と神話が凝縮され、現代の人間の窮状を映す摩訶不思議な情景が描かれている」。

 ストックホルムでの晩餐会基調講演で、彼は前回・川端の講演「美しい日本の私」をもじり、「あいまいな日本の私」と題して、
 ――(川端の言う)「美しい」という概念はvague(曖昧)で実体不明な神秘主義に過ぎない。私は日本をambiguous(両義に取れる、曖昧)な国として捉える。
 と述べ、「前近代・日本と近代・西洋ふうに引き裂かれた国」としての日本を語った。

 「社会参加」を信条とする彼は2004(平成一六)年、憲法九条の「戦争放棄」の理念を守ることを目的として加藤周一・鶴見俊輔両氏らと共に「九条の会」を結成し、全国各地で講演会を開催。15年にはジャーナリスト鎌田慧氏と連名で記者会見し、原発再稼働反対を表明する。「今、日本は戦後最大の危機を迎えている」と説き、強権的な「アベ政治」の在り方に強い抗議の念を表した。
  爾後の「森友」「加計」「桜」等々の一連の疑惑をめぐる安倍・菅政権の悪質な欺瞞~居直りに対し、彼はさぞかし怒り心頭の思いだろうと推察する。

 私も欺瞞がまかり通る時代風潮に我慢がならず、せめて一矢をと一昨年秋、『反骨のDNA――時代を映す人物記』(同時代社)という書物を上梓した。登場人物(三六人)のトップ・バッターが大江さんで、内容に誤りがあってはと懸念し、事前にご自宅へ原稿を送付した。折り返し返信があり、「御配慮を頂きましたが、訂正を願いたいところはありません」と丁重な文面。お人柄が偲ばれ、はなはだ恐縮した。ペンの文字は一字一字が大きく躍動的で、いささかやんちゃな気配さえ漂う。この大作家の個性を考える上で、真に参考になった。

2022.01.07 二十世紀文学の名作に触れる(19)

大江健三郎の『万延元年のフットボール』――閉鎖的状況での若年世代の革命的反抗を描く
 
横田 喬 (作家)
 
 表題の作品は一九九四(平成六)年にノーベル文学賞を受けた大江健三郎さんの代表作の一つだ。
 明治維新から八年さかのぼる一八六〇(万延元)年に四国の山村で起きた百姓一揆と百年後の一九六〇年の安保闘争を照合。閉鎖的状況での革命的反抗を描いて強い反響を呼び、当時最年少で谷崎潤一郎賞を受けた話題作でもある。私なりに作品の核心部分を紹介したい。

 僕のたった一人の親友(27歳)はこの夏、朱色の塗料で頭と顔を塗りつぶし、縊死した。彼は六〇年安保闘争の際、新劇団のデモに参加した妻に付き添い、巻き添いで警棒で頭を割られている。隠微な躁鬱症に罹り、療養所生活を送っていた。死の一年前にはコロンビア大学に留学していて、僕の弟・鷹四と街中で邂逅している。鷹四は六〇年安保闘争の学生運動に参加~転向して渡米。名目に掲げた演劇運動からも逃亡~放浪生活に入った人間だ。

 鷹四から帰国の報せがあり、僕と妻は弟の年少の友人(星男・桃子)二人と羽田空港で出迎えた。文学部出身の僕は、野生動物関係の翻訳でささやかに生活している。家賃や頭部に先天的障害のある赤ん坊の養護施設代は、妻の父親の援助に頼っている。鷹四は僕に説いた。
 ――アメリカでスーパー・マーケットを視察に来た日本人旅行団の通訳をした。団の一人に我々の四国の郷里と縁がある大金持ちがいて、我々の生家の蔵屋敷を買いたがっている、と分かった。密(僕のこと)が売却に賛成なら、現地に一緒に見届けに行くべきだ、と思う。

 障害児を産んだショックから、妻は安ウイスキーを口にし始めた。鷹四は年少の友人二人と谷間の村へ先行し、僕と妻は二週間遅れで彼らと合流した。蔵屋敷を買いたがっている大金持ちは我々の郷里にスーパーを営む「天皇」。朝鮮人部落の出身で、部落の土地を仲間から独占的に買い上げて己のものとし、発展に発展を重ねてスーパー経営者にのし上がった。

 鷹四は谷間で最上の知識人として寺の住職を推薦した。この住職によれば、村が経済的に荒廃しているのは明らか。谷間でテレヴィを楽しんでいる裕福な家は僅か十軒に止まる、とか。彼は江戸末期の万延元年に谷間の集落を巻き込んで起きた百姓一揆に関し、こう説いた。
 ――高知から来た男が密ちゃんの曽祖父とその弟に工作して一揆を起こさせた、と僕の父(先代の寺の住職)は解釈していた。大庄屋たる曽祖父さんの弟が訓練していた若者組が実行部隊として目を付けられたようだ。五日五晩続いた一揆で、作物先納制度は撤廃された。

 昨夜、妻は僕の脇に寝るのを厭がり、鷹四らと共に囲炉裏脇に眠った。僕には妻が鷹四の親衛隊に属したことがわかった。鷹四は僕の代理としてスーパーの天皇に、蔵屋敷のみならず土地までも全て売却。彼が結成した谷間の若者らのフットボール・チームへの寄付などを名目に、代金の過半を僕から巻き上げた。彼は僕を「鼠」呼ばわりし、軽く見ている。

 鷹四は万延元年の一揆について、私にこう言う。「若者組は放火や略奪など軽々とやってのける危険分子だ、と思われていたから、一揆は成功した。百姓たちは、侍たちより若者組を恐れていたかも」。鷹四に連なる若者たちから、ざわめきが起こった。彼らは疑わしいほど単純に彼ら自身を、万延元年の一揆の若者組に重ね合わせている、と私には感じられる。 

 夕方、谷間の底から「ああ、ああ、ああ、ああ」と膨大な数の者らの叫び声が湧き起こる。スーパーは元日以来ずっと休業中だ。天皇の営む養鶏事業が躓き、数千羽の鶏が死亡。損失を埋めるため、彼は事業に従事する青年たちを給料無しで正月休みに酷使しようと画策。村役場前の広場で、長身の男(農協の元書記)が聴衆に何事か説明し、僕に呼びかけた。「スーパーの二重帳簿を摘発しました。税務署に提出すれば、天皇もすぐさま退位ですが!」。
 スーパーの前では梱包をほどいて電機製品を略奪する作業が進行。鷹四が率いるフットボール・チームの若者らが暴徒の中心だ。鷹四は言う。「谷間の過半数が手を汚した。養鶏グループの中心人物はスーパーを村で買い取ろうと算段している。魅力的じゃないか」

 若い住職が僕を待ち受け、興奮で活気づき、熱っぽくこう語りかける。
 ――この噂が広まれば、日本の地方の全てのスーパーが農民に襲われ始めるかも知れない。すると、日本の経済体制の歪みがたちまち明瞭になるから、これは時代が動くよ!
 僕は善良な谷間の住職の思いがけぬ昂揚ぶりに、気分を滅入らせながら抗弁した。
 ――しかし、この谷間のスーパー襲撃が、全国的な連鎖反応を起こすことはないです。二、三日のうちに騒ぎは収まり、谷間の人たちが改めて貧乏籤を引き直すだけですよ。

 スーパーの支配人は天皇の許に連絡をつけようと、危険な川を渡り、海辺に至る雪の舗道を駆け下った。崩壊した橋で鷹四に倅を救助された父親が、猟銃と霰弾を秘かに鷹四の許へ届ける。若い住職が曽祖父の弟の手紙(五種類)と祖父の署名入りの小冊子『大窪村農民騒動始末』を探し出してくれた。この『騒動』は、明治四年にここで起こった一揆を指す。曽祖父の弟は発布されようとする憲法の内容を憂え、民権の側に立つ「志」を示していた。
 星男が僕に「鷹四と菜採子が姦通している」と涙ながらに訴える。顔を合わせた鷹四は「俺は菜採ちゃんと結婚するつもりだ」と叫び返す。真夜中、妻が二階へやって来て訴えた。「鷹が、谷間の女の子を強姦しようとして殺した。鷹はみんなから見棄てられ、処罰される!」
 
 僕と妻と星男は、母屋の敷居をまたいだ。囲炉裏脇に頭をうなだれて坐った鷹四は猟銃の銃身を片手で巧みに磨いていた。妻が鷹四の口を拳で殴りつけ、僕は改めて弟が妻と寝たのだということを確認した。鷹四は朝鮮服のよく似合う肉体派の小娘を「犯そうとしたら抵抗され、石で殴り殺した」と告白。以前、農薬を嚥んで自殺した我々の白痴の妹に関しても、
 ――妹は醜くなかったし清潔だった。俺たちは幸福な恋人同士の気分に浸り、そのうち妹は妊娠した。俺たちの秘密を誰かに話してしまうのでは、と気が気でならなかった。妹は秘密を守ったまま堕胎手術を受け、俺のことは誰にも一切話さなかった。

 鷹四は、永く嗚咽し続けた。母屋で僕と妻がウイスキーを飲んでいると、鷹四が引っ込んだ蔵屋敷の方から銃声がする。僕が向かうと、血まみれの彼が寝そべっている。仕掛けられた猟銃から霰弾がびっしり撃ち込まれていた。脇の壁に赤鉛筆でこう書きつけてある。
 ――オレは本当ノ事ヲイッタ

 スーパー・マーケットの天皇こと大柄な朝鮮人ペク・スン・ギが屈強な若い衆を五人連れ、谷間に進入。鷹四の死に対する悔やみを述べ、蔵屋敷の解体を告げる。若者たちは玄翁を揮い、ひたすら破壊作業に勤しむ。床下から立派な石造りの倉が現れ、便所や井戸があり、古本や反古の類がいっぱい見つかる。僕は悟った。(曽祖父の弟は一揆後、新世界に出発したのではなかった。地下蔵にずっと閉じこもり、生涯転向はせず、一貫性を持続したのだ)

 僕は一連の経緯を妻に伝え、「鷹は曽祖父の弟に関する限り、恥じなくてよかった」と訴えかけた。ところが、妻は「死ぬ間際、密が鷹を恥辱感の中に見棄てたのよ!」と言い返す。
僕は村の寺の住職に与えられた小冊子『大窪村農民騒動始末』のこんな一節を想起した。
 ――「領民総代」として官憲と交渉した人物は<何れの者とも知れず六尺有余の総髪の男><十六日、強訴徒党の解散を告げるや、彼の巨魁は恰も掻消す如くに姿を晦ました>

 僕は若い住職に対し、こう語りかけた。「明治四年の一揆は、大参事を退陣させるという政治的な企画を中心目的としていた筈。地下倉に閉じこもった巨魁は、種痘や血税という言葉の曖昧さを逆手にとって民衆を扇動し、暴動を組織、遂に大参事を打ち破ったんです」
 住職は「暴動」後の谷間の青年たちの状況を次のように説明した。
 ――鷹ちゃんのグループだった若い連中の「暴動」で谷間の人間社会の縦のパイプが掃除され、若い連中の横のパイプががっちり固められた。気の毒だったけど、役割は果たしたよ。

 僕は解体された蔵屋敷の地下蔵に入り込み、瞑想した。<自分の内部の地獄に耐えている人間への想像力を僕は持とうとしなかった。死を前にした弟の心貧しい要請についても援助を拒んだ。恥ずかしい苦しみを味わいながら、(鼠の)僕は小心に生き延びる・・・>
 森を越えて僕と妻と(鷹四の)胎児は出発し、窪地を再び訪れることはないだろう。汗と土埃りに汚れたアフリカ生活が待ち受け、草原で待ち伏せする動物採集隊の通訳責任者たる僕。一つの新生活の始まりだと思える瞬間があり、そこで草の家を建てることは容易だ。
2021.12.17 二十世紀文学の名作に触れる(18)
『荒地』のT・S・エリオット――日本の戦後詩人たちの一大指標

横田 喬 (作家)

 代表作『荒地』での前衛的な試みによって、トマス・スターンズ・エリオットは英詩の一大革新を果たした。その活動時期から英米の詩壇では、20世紀前半は「エリオットの時代」と呼ばれるに至る。その影響は日本にも波及し、<荒地派>と呼ばれる若い詩人たちの一群を生んだ。私はたまたまこの一派の人々と縁があり、親しく彼らの肉声に触れる機会に恵まれた。

 エリオットは1888年、米国のミズーリ州セントルイスに生まれた。祖父はキリスト教ユニテリアン派(三位<父と子と聖霊>一体の教理を否定し、神の唯一性を強調する教派)の行動的な牧師で、大学創設などに大きな貢献をした人物。父は同じくユニテリアン派の信仰篤い実業家だった。
 1906年、エリオットはハーバード大学に進み、フランス文学や古代及び近代哲学などを学ぶ。四年後、パリに留学し、デュルケームやグールモン、アナトール・フランスらと交わり、コレ―ジュ・ド・フランスでの哲学者アンリ・ベルグソンの講義に深い影響を受ける。

 11年に一旦帰米し、三年後再び欧州に戻り、英国に落ち着く。当時ロンドンに居た先輩アメリカ詩人エズラ・パウンド(1885~1972)にその才能を認められ、支援を受ける。エリオットはパウンドの勧めもあってロンドン定住を決意。四年後、バレリーナで文学的才能もあったヴィヴィアン・ヘイ=ウッドと結婚する。が、エリオットの両親はこの結婚に反対で、父からの仕送りが断たれ、彼は苦境に陥る。

 やむなく17年にロイド銀行に職を求め、一応の経済的安定は得る。同年、処女詩集を出版。翌々年に「伝統と個人の才能」論を含む評論集『聖林』を著す。しかし、妻の病気や諸々の心労などが重なり、彼自身も神経を病み、21年秋には転地療養のためスイスのローザンヌに移る。この折、既に着手済みの『荒地』の草稿が完成し、パウンドの許に送られる。

 『荒地』には、ロンドン・ブリッジを始め、<シティ>界隈の通り、テムズ河畔の土地の名前が幾つか現れる。市中の銀行に勤めるエリオットは、毎朝こんな光景を眼前にしていた。<一斉に地下鉄駅から吐き出され、暗い霧の中をオフィスに向かう勤労者の群れ。銀行や会社ではタイプライターを盛んに用い、大勢のタイピストたちが甲斐甲斐しく立ち働く。>『荒地』に現れる彼女らのテムズ河畔での逢い引きやアパートでの情事は、時代の風俗の一環と言っていい。そういう都市の情景は、エリオットが現実に観察したものだった。

 先輩詩人パウンドはエリオットの草稿に手を加え、22年秋にエリオット自身が編集する詩誌『クライティリオン』創刊号に、アメリカでは『ダイアル』11月号に発表される。この詩の出現は当時の欧米の文壇に大きな衝撃をもたらし、従来の詩の概念を大きく変えた。
 タイムズ文芸付録は「世界の混乱と美を同時に描く感動的な作品」と激賞。そこに盛り込まれた近代都市のイメージやジャズのリズムを反響させる詩句は、第一次大戦後の新しい感受性の表われとして学生や若い詩人たちの間で熱狂的に歓迎される。既刊の『聖林』による新しい批評理論とも一体となり、英詩でのモダニズムの中核を形成。英文学の歴史の二十世紀前半部分は、こうして「エリオットの時代」と呼ばれるに至る。

 『荒地』の成功以後、エリオットは25年にロイド銀行を退職し、ロンドンの出版社の編集部に勤める。翌々年にイギリスに帰化し、英国国教会の信者となった。名声はさらに高まり、32年にハーバード大学は彼を教授に招聘し、エリオットは十七年ぶりに帰米する。アメリカ滞在中はプリンストンやイェールなど多くの名門大学で講演を行った。

 イギリス帰国後の文学活動はさらに幅を広げ、野外演劇フェスティバルへの参加やケンブリッジ大学での講演など多忙を極めた。この頃に書かれたナンセンス詩(『猫の詩』)は後にミュージカル『キャッツ』に翻案され、人気を博することになる。48年にノーベル文学賞を授与され、以後は世界的知識人・文人として欧州とアメリカを往復。講演と講義を行いながら数多の評論・詩劇を発表し続け、65年に76歳で亡くなった。

 端的に言えば、戦後の日本の現代詩はエリオットの『荒地』から出発した。<荒地派>と呼ばれる若い詩人たち、中桐雅夫・鮎川信夫・北村太郎・田村隆一といった面々がグループを結成し、モダニズムを志向する。彼らにとって、『荒地』とは言葉の論理性の否定であり、現実拒否と虚無と絶望だった。エリオットの『荒地』の荒廃のイメージを、<荒地派>の詩人たちは戦後日本の「荒廃」と重ねてみていたのだろう。

 <荒地派>の戦後詩は、日本の現代詩の主流を形成した。<荒地派>の詩人たちは戦後の混迷の中で、荒廃に対する一つの倫理的態度、鮎川の言葉で言えば「遺言執行人」としての態度を示し、幻滅に対処する強い冷静さを教えた。彼らの詩には、社会派として立つ覚悟と芸術派の感性があったに違いない。

 私は新聞記者当時、北村(本名・松村文雄)と同僚だった一時期があり、年齢が一回りも上のこの先輩の温厚で誠実な人柄を深く敬愛した。この北村の手引きも預かり、三十余年前、私は鮎川や田村に親しく接する機会を得た。鮎川は無類の読書家で早大英文科卒。二等兵として南方戦線に送られ、戦病兵として帰還し、一命を拾う。「僕は少数意見の代弁者として、タブーに触れることも言うから、(発言が)よくボツになった」と苦笑していた。

 「酔いどれ詩人」こと田村は野放図で八方敗れ、真昼間から酒盃を傾けていた。が、存外まともで、こう言い放った。「いい言葉は、いい社会でしか生まれない。詩人は社会から逃げてはダメ。浮世離れは無理な相談だな」。
 そして、北村。「現代詩は難解な言葉遊びにかまけ、複雑骨折を起こしている。齢をとると、抽象性より具体性が面白くなる。詩が老年の文学になる日が来たら、成熟文化の社会と言えるんじゃないかな」と呟いた。

 彼については、後輩ねじめ正一の著書『荒地の恋』(中央公論文芸賞)が外せない。「五十三歳の男が親友の妻と恋に落ちた時、彼らの地獄は始まった。彼は家庭も職場も捨て、『言葉』を得る――」。艶福家・北村の隠れた一面に接し、私は愕然として言葉を失った。

2021.12.16 二十世紀文学の名作に触れる(17)
エリオットの『荒地』――20世紀モダニズム詩の金字塔

横田 喬 (作家)

 戦後の日本の現代詩は、トマス・スターンズ・エリオットの『荒地』から出発した。『荒地』派の詩人の一人、故北村太郎(本名・松村文雄)さんが私の新聞記者当時の先輩だった縁もあり、私は日本の現代詩に馴染んだ。エリオットの革新的な詩法は従来の詩の概念を大きく変え、欧米の文壇に大きな衝撃をもたらし、二十世紀前半の英文学は「エリオットの時代」とさえ呼ばれるに至る。詩集『荒地』(岩波文庫・訳:岩崎宗治)の核心部分を私なりに抜粋~紹介してみたい。

 Ⅰ 死者の埋葬

 四月は最も残酷な月、リラの花を/凍土の中から目覚めさせ、記憶と/欲望をないまぜにし、春の雨で/生気のない根をふるい立たせる。/冬はぼくたちを暖かく守り、大地を/忘却の雪で覆い、乾いた/球根で、小さな命を養ってくれた。/夏が僕たちを驚かせた、シュタルンベルク湖を渡ってきたのだ。/夕立があった。ぼくたちは柱廊で雨宿りをして/それから、日射しの中をホーフガルテンに行って/コーヒーを飲み、一時間ほど話をした。/ワタシハロシア人ジャナイノ。リトアニア生マレノ生粋ノドイツ人ナノ。/そう、わたしたち、子供のころ大公の城に滞在して、/従兄なのよ、彼がわたしを外につれ出して橇にのせたの。/こわかったわ。彼が「マリー、/マリー、しっかりつかまって」って言って、滑り降りたの。/山国にいると、とっても解放された気分になれます。/夜はたいてい本を読んで、冬になると南へ行きます。

 つかみかかるこの根は何? 砂利まじりの土から/伸びているこれは何の若枝? 人の子よ、/きみには言えない、思いもつかない。きみにわかるのは/壊れた石像の山。そこには陽が射し/枯木の下に陰はなく、蟋蟀は囁かず、/石は乾いていて、水の音はしない。ただ、/この赤い岩の下の陰ばかり/(この赤い岩の陰に来なさい)、/きみに見せたいものがある――朝、きみの後ろを歩く/きみの影とも、夕方、きみの前に立ちはだかる/きみの影とも、違ったものを。/一握りの灰の中の恐怖を、見せたいのだ。
 サワヤカニ風ハ吹ク/故郷ニ向カッテ。/ワガアイルランドノ子ヨ/キミハ今ドコニ?(中略)

 <非現実の都市>/冬の夜明けの褐色の霧の下、/ロンドン・ブリッジを群集が流れていった。たくさんの人、/死神にやられた人がこんなにもたくさんいたなんて。/短いため息が、間をおいて吐き出され、/どの男もみんなうつむいて歩いていた。/坂道を登り、キング・ウィリアム通りを下り、/セント・メアリー・ウルノス教会の九時の時鐘が/最後の鈍い音をひびかせるほうへ流れて行った。/見覚えのある男を見かけ、ぼくは呼びとめた。「ステットソン!/「ミュラエの海戦で一緒だったね!/「去年、きみが庭に植えたあの死体、/「あれ、芽が出たかい? 今年は花が咲きそうかい?/「それとも、不意の霜で花壇がやられた?/「あ、<犬>は寄せつけるなよ。あいつは人間の味方だから。/「前足で掘り出しちまうからね。/「きみ、偽善者の読者よ! わが同類、わが兄弟よ!」

Ⅱ チェス遊び(省略)

Ⅲ 火の説教

 河辺のテントは敗れ、最後の木の葉の指先が/つかみかかり、土手の泥に沈んでいく。風が/枯葉色の地面を音もなく横切る。妖精たちはもういない。/美しいテムズよ、静かに流れよ、わが歌の尽きるまで。/川面に浮かぶ空き瓶も今はない。サンドイッチの包みも、/絹のハンカチも、ボール箱も、煙草の吸い殻も、/もっとほかの夏の夜の証拠品も。妖精たちはもういない。/彼女らの男友達、シティーの重役連の彷徨える御曹司たちも/いなくなった。住所も残さないで。/レマン湖の岸辺に坐ってぼくは泣いた。/美しいテムズよ、静かに流れよ、わが歌の尽きるまで。/美しいテムズよ、静かに流れよ、ぼくは声高にも長くも話さないから。/だが、背後の冷たい風の中、ぼくの耳に聞こえる/骨たちのカラカラ鳴るひびき、そして、大きく避けた口の忍び笑い。

 鼠が一匹、草むらを音もなく這っていった、/ぬるぬるした腹を引きずって。/ぼくは、よどんだ運河で釣りをしていた、/冬の夕暮れどき、ガス・タンクの裏、/破滅した兄王のこと、そのまえに死んだ/父王のことを、思いかえしながら。/低い湿地には白い剥き出しの死体がいくつか転がり、/低く乾いた狭い屋根裏部屋では、打ち棄てられた骨たちを/カタカタと鳴らす鼠の足/今年も来年も。/だが、背後でときどきぼくの耳に聞こえる/警笛とエンジンのひびき――スウィーニーが/泉でからだを洗うポーター夫人をご訪問だ。/おお、月に照らされミセス・ポーター/と、彼女の娘/足洗いにはソーダ―・ウォーター/ソシテ聖堂デ歌ウ少年タチノ歌声!

 チュッ チュッ チュッ/ジャグ ジャグ ジャグ ジャグ ジャグ ジャグ/あんなにも乱暴に犯されて。/テリュー

 <非現実の都市>/冬の正午の褐色の霧の下/ユーゲニデス氏はスミルナの商人で/無精髭を生やし、ポケットに干葡萄をつめこみ/「ロンドン渡し運賃保険料込み」一括払いの手形をもっていたが、/俗語まじりのフランス語でぼくを誘った――/キャノン・ストリート・ホテルで昼食をとって、/週末はメトロポールでご一緒しませんか、と。(以下略)

Ⅳ 水死(省略)

Ⅴ 雷の言ったこと

 汗にぬれた顔を赤く照らす松明の輝きの後/庭や園を満たす冷たい沈黙の後/岩地での苦悶の後/喚き声や泣き声がして/牢獄と宮殿、そして遠く見はるかす/山々に、とどろく春雷のひびき/生きていた者は今は死者/生きていたわれわれはいま死にかけている/わずかばかりの忍耐を示しつつ(中略)

 空の高みから聞こえるあの音はなんだ/母親が悲しみ嘆く押し殺した声/フードをかぶり罅割れた地面に躓きながら/果てしない平原を行くあの群集は何者だ/まわりは平らにつづく地平線ばかり/山地の向こうのあの都市はなんだ/裂け、歪み、砕け散る、すみれ色の大気の中/堂塔が倒れかかる/エルサレム アテネ アレキサンドリア/ウィーン ロンドン<非現実>(中略)

 ぼくは岸辺に坐って/釣りをしていた。背後には乾いた平原が広がっていた/せめて自分の土地だけでもけじめをつけておきましょうか?/ロンドン・ブリッジが落っこちる落っこちる落っこちる/ソレカラ彼ハ浄火ノ中ニ姿ヲ消シタ/イツワタシハ燕ノヨウニナレルノダロウ――おお、燕、燕/廃墟ノ塔ノ、アキタニア公/これらの断片を支えに、ぼくは自分の崩壊に抗してきた/では、おっしゃるようにいたしましょう。ヒエロニモふたたび狂う/ダッタ。ダヤヅワム。ダミヤタ。/シャンティ シャンティ シャンティ

2021.11.03 二十世紀文学の名作に触れる(16)

      『車輪の下』のヘルマン・ヘッセ――詩人肌の真摯な求道者

横田 喬 (作家)

 近代ドイツの作家ヘッセは、私にとって「懐かしい人」であり、且つ「難儀な人」だった。作風が前期と後期でがらりと変わり、別人のような感さえある。前編にも記したように私は十代の終わり頃、取り憑かれたように彼の小説に熱中し、主要な作品はほとんど読了している。当時を思い起こすと、そうなるにはなるだけの私なりに切羽詰まった事情が潜んでいた。

 ヘッセは1877年、ドイツ南西部のカルプという小さな町に生まれた。スイスとの国境に
近いシュバルツバルト(黒い森)地方の森林地帯に属し、自然が豊かで風景も美しい。この
町にはナゴルト川という清流が存在し、『車輪の下』には水浴や釣りなど川にまつわる記述が頻出する。父も母もキリスト教の伝道に携わり、祖父や叔父も同じ道を歩んでいた。

 少年ヘルマンは13歳の頃から「詩人になりたい」という強い願望を抱く一方、伝道者の
跡取りとして家族の期待を一身に背負った。学校の成績も良かったため14歳の時に州の試験に合格し、『車輪の下』のハンス同様にマウルブロンの神学校へ進む。しかし、翌年春に神学校を脱走し、五月には退学。ノイローゼの治療を受け、自殺を試みるが未遂に終わる。一連の経緯は『車輪の下』の展開そのままで、この物語が自伝的作品であることを示す。

 だが、作中に登場する神学校当時の詩人肌の個性的友人ヘルマン・ハイルナーに該当する級友は存在しない。ヘッセ自身の姿は、作中ではハンスとヘルマンの双方に投影されている。
 周囲の期待に応えられず、神経を病んでいくハンス。そして、ヘルマンの天才詩人ぶりや学校での反抗的な態度と、神学校を脱走~大騒ぎを起こして退学に至る顛末も、事実と重なる。

 帰郷後のヘッセは92年秋に近くの高校へ入るが、ここも一年で退学。街の書店に勤めるが、すぐに辞める。翌々年、時計工場に勤め、歯車を磨く仕事に就く。95年、近くの大学都市チュービンゲンの書店に勤め始める。99年に最初の詩集と散文集を出版し、勤務先をスイスの都市バーゼルの書店に移す。1904年、小説『ペーター・カーメンツィント(新潮文庫版:高橋健二訳だと題名は『郷愁』)を著して脚光を浴び、一躍有名作家となる。

 当時二十七歳だったこの年に結婚し、以後三人の子に恵まれる。これ以降の彼の足取りは、大まかに二分できよう。前期は18年頃までで、主な小説作品は06年の『車輪の下』、10年の『春の嵐』、16年の『青春は美わし』など。青春期特有の若者の苦悩と故郷への思慕の念が叙情あふれる筆致で綴られ、読む者の胸に沁みる。後期は19年の『デミアン』に始まり、22年の『シッダールタ』、27年の『荒野のおおかみ』、43年の『ガラス玉演戯』などが並ぶ。  

 ヘッセは12年からスイスのベルンに移り住んだ。翌々年、第一次世界大戦が始まり、彼は18年の大戦終結までドイツの捕虜救援機関やベルンにあるドイツ人捕虜救援局で働いた。前期から作風が一変するのは、この第一次大戦による深刻な影響に基づく。彼はドイツやフランスなど欧州一帯が被った戦禍の酷さに強い衝撃を受け、深い精神的危機を経験する。スイスの小さな村で精神分析家ユングの弟子たちの助けを借り、精神の平衡回復に努めた。その過程で自らの深い精神世界の在り様を点検した記念碑的作品が『デミアン』である。

 この『デミアン』は過渡的な作品でまだしも分かり易いが、『シッダールダ』以降の三作は当時十代の私には内容が深遠で難解だった。私はほとんど義務感でページをめくったが、読書の楽しみと言うには程遠く、読後感は芳しくなかった。だが、46年のノーベル文学賞授与に際しては、『ガラス玉演戯』など後期の作品の文学的価値が評価された、と聞く。

 十代の私はなぜヘッセの作品(例えば『車輪の下』)に魅かれたのか。答は、主人公の身の上への共感ゆえ。ハンスの不幸せな境遇に自身を重ね、束の間の慰藉を求めようとした節が強い。当時、私は苛烈な受験戦争に後れを取り、辛い浪人生活を強いられていた。
 私の蹉跌は、在学した富山の県立高校三年の春に発する。修学旅行で隣の長野県野尻湖に一泊旅行へ。何のはずみか級友数人と羽目を外し、生まれて初めて酒を口にして乱酔。あろうことか引率の教師に食ってかかり、手を焼かせたらしい(何しろ記憶が全くない始末)。
当然大問題になり、私ともう一人の都合二名が首謀者扱いで「停学二週間」処分となった。

 保守的風土の北陸にあって、未成年の身で飲酒し、おまけに教師に刃向かうとは「言語道断」。聖者面(実は狸)の校長から「人間の屑!」「ろくな将来はないぞ」と散々絞られ、厳しいお仕置きに。私は学業成績優等の方だったが、この一件から「不登校」に陥り、受験勉強もほぼ放棄。街の映画館に入り浸るなど道を踏み外し、翌春の大学受験にも見事失敗した。

 ドイツのヘッセ研究家によると、『車輪の下』は日本ではドイツの十倍も読まれている(1972~82年の間の売り上げ数比較)、という。その理由として、彼は「日本の学校での厳しい競争原理」を挙げている。私も、全く同感だ。引っ込み思案で夢見がちなハンスや反抗がちな詩人肌のヘルマンの同類が、日本のどこかに居ようと少しもおかしくない。

 本題のヘッセに戻る。33年にナチスが政権を握って以降、平和主義を唱えるヘッセは「時代に好ましくない」と敵視され、国内では著書に対する用紙の割り当てが禁止された。第二次大戦終結後の46年、69歳の折にノーベル文学賞とフランクフルト市ゲーテ賞を同時受賞。翌年には生まれ故郷のカルフ市の名誉市民として表彰され、この年フランスの高名な作家アンドレ・ジッドの表敬訪問を受けている。彼は62年、85歳で亡くなった。

2021.11.02 二十世紀世界文学の名作に触れる(15)

    ヘルマン・ヘッセの『車輪の下』――思春期特有の孤独と破滅を描く名作

横田 喬 (作家)

 ドイツ語のRat(車輪)は有為転変をも意味し、「車輪の下」は「落ちぶれる」意を含む。1946年にノーベル文学賞を受けたドイツの作家ヘッセ(1877~1962)の自伝的小説『車輪の下』は、私には思い出深い。十代の終わり頃、何の拍子かヘッセにはまってしまい、作品を次々読み耽った。とりわけ心に残ったのがこの作品で、思春期を迎えた少年の孤独感と危うさに強い共感を覚えた。新潮文庫(訳:高橋健二)版を基に、私なりに紹介してみたい。

 十四歳のハンスは南ドイツ山岳部の古くて小さな田舎町の史上、最も聡明な男児だった。仲買商の父親は平凡な男で、母親はかなり以前に亡くなっている。この地方の才能ある男児は州の試験に合格して神学校に入り、大学を経て牧師か教師になるのが習わしだ。ハンスは大好きな野遊びを控え、机にかじりついてギリシャ語やラテン語・数学の猛勉強に励む。

 町から唯一人の受験生ハンスは、合格者四十人中二番の好成績でマウルブロンの神学校に入学する。国費で賄われるこのプロテスタント神学校は中世に設立された修道院の中にあり、全寮制だ。丘陵や森の背後にあり、俗世間から隔絶された環境を生徒らに保証した。
 少年たちは方言や立ち居振る舞いこそ様々ながら、全体の四分の一余は眼鏡(猛勉強の証)を掛けていた。ハンスは九人の同級生と相部屋になり、寝起きを共にする。

 九人のうち四人は個性的だったが、残りは凡庸な部類に属した。都会育ちのオットーは教授の息子で、才能に恵まれた自信家だ。小さな村の村長の倅カールは矛盾だらけ、無気力かと思えば情熱的ではしゃぎ屋。ヘルマンはこの地域の上流家庭の出で、詩人にして深い知性の持主と映った。小柄な少年エミールは一番の変人で、奇妙な大人っぽさを感じさせた。
 善良で穏やかなハンスは学業も優れ、同室の仲間たちから尊敬されるが、独りヘルマンだけはハンスを「がり勉」と呼んで嘲った。ハンスは「僕は君が思ってるほど愚か者じゃないよ」と抗弁する。彼はヘルマンの詩作の内容に関心を抱き、あれこれ詳しく尋ねた。

 ある日、ヘルマンは自信家のオットーと喧嘩を始める。猛烈に取っ組み合い、部屋中を転げ回った。ヘルマンはやがて「もうやらないよ」と言い放ち、喧嘩をやめる。すすり泣きを始め、腹立たしそうに微笑み、部屋から出ていく。ハンスは驚き怯えながら、後を追った。廊下の窓台の辺りで二人は見つめ合い、ヘルマンはハンスを引き寄せ、そっと口づけをする。

 どこか軽率な「天才詩人」と優等生の「がり勉」、いささか不釣り合いなコンビがスタートする。二人の友情は特殊な関係だった。ヘルマンにとっては、友情は楽しみであり贅沢。だが、ハンスには誇るべき宝であると同時に、大きな重荷ともなった。ヘルマンが勉強に飽きると、ハンスのところにやって来る。教科書を取ってしまい、自分の相手をさせるのだった。思春期特有の苦悩からヘルマンは嘆き節を口にし、ハンスにもそれが伝染する。彼は勉強がどんどん難しく思えてくる反面、友の説く詩の世界への尊崇の念が次第に募っていく。

 やがて、破局が訪れる。小柄な変人エミールが音楽の練習室で、柄にもなくヴァイオリンの練習にいつまでも没頭。順番待ちのヘルマンが業を煮やし、譜面台を蹴飛ばして引っ繰り返す。二人は激しく口論し、逃げるエミールを追うヘルマンは校長室の前で蹴りを入れた。ヘルマンは校長から重い謹慎処分を言い渡され、学内の悪疫視されて孤立していく。

 優等生ハンスも悪疫を避け始め、ヘルマンは「君は臆病者だ!こん畜生!」と当たり散らす。ハンスは己の不実に対する良心の疼きを抑え切れない。時を置いて、ヘルマンはハンスを赦し、二人の友情は復活する。新たなこの友情に執着すればするほど、ハンスには学園がよそよそしいものに変わっていく。教師たちは、彼が問題児になっていくのを心配した。

 校長はハンスを執務室に呼び出し、成績が落ちたことを指摘。「ヘルマンは不満分子、不穏分子だ。離れてくれたら有難い」と注文する。ハンスは気を取り直し、勉強と向き合うが、遅れ過ぎないように付いていくのが精一杯。順調だった以前とは大違いの逸れようだった。
 まもなく、ラテン語の授業中、異変が起きる。ハンスが教師に指名されながら頭が朦朧として起立できず、教師を驚愕させた。神経衰弱が疑われ、校長はヘルマンとの接触を制限する。ハンスは集中力と記憶力の衰えを感じ、成績はどんどん下がり、絶望感さえ味わう。

 校長はヘルマンを呼び出し、ハンスとの交友を咎め、不従順を非難した。ヘルマンが従わず反論したため謹慎処分を受け、ハンスとの外出行為を固く禁止される。翌日、ヘルマンはなんと行方不明となり、自殺を図った可能性さえ取り沙汰され、学園は恐慌状態に陥る。
 ヘルマンは近隣の森や村の傍らで丸二日も身を潜め、三日目にようやく発見された。謝罪を拒んだ彼は懲戒処分で退校となり、ハンスとは握手しただけの別れが決まる。ハンスに対してもヘルマンと同類視する疑いの目が向けられ、彼は異端者の一人として孤立していく。

 ハンスの学業成績はみるみる下がっていった。「優秀」から「まあまあ優秀」に。さらに「普通」から、しまいには「ゼロ」へ。定期的な頭痛に悩まされ、荒唐無稽な軽い夢を見、何時間もぼんやりしている。教師たちは頻繁に非難し、軽蔑的に居残りをさせたりした。
 校長が出した便りのせいで、驚愕した父親はハンスに態度を改めるよう、手紙で訴えてくる。脆くて繊細な少年は、すっかり追い詰められてしまう。ある日の授業で教師から激しく叱責され、ハンスは泣きじゃくった。翌日の数学の授業中、黒板の前で眩暈に襲われ、朦朧となって座り込む。州の医師は休養のため長期休暇を提案し、ハンスは郷里へ送り還される。

 郷里に戻ったハンスは、周囲に親しい友がいないのに改めて気づく。教会の牧師は相談相手になってくれず、父親も頼りにならなかった。自殺すら考え、森の中に静かな場所を見つけ、縄をかける木まで選定する。父への短い手紙とヘルマン宛ての長い手紙とをしたためた。
 自殺の準備と覚悟は有益だった。圧迫感が消え、喜ばしい感情さえ芽生えてくる。父親がほっとしているのに気づき、ハンスは奇妙な満足感を覚えた。皮肉なことに、体調が良くなるにつれ、彼の自殺に対する強迫観念は日一日と薄れていく。

 秋になり、リンゴから圧搾機で果汁を絞り取る時節が訪れる。ハンスは近所のフライク小父を訪ねて果汁絞りを手伝い、偶々遊びに来ていた小父の姪エンマと出合う。十八、九歳の活発な娘で、偶々小父が席を外し、若い二人きりになる。とたんに娘はふざけかかり、きわどい冗談を口にした。ハンスは言葉が出なくなり、ほんの少し年上の娘を急に恋してしまう。 
 夜になり、ハンスが小父の家の前に行くと、エンマが姿を現した。二人は家の前で束の間、濃厚なキスを交わし、ハンスはぐったりしてしまう。彼女に翌日も誘われ、密会した二人は再び熱いキスを交わす。「ほんとに初心なのね」とからかわれ、ハンスは眩暈がしてしまう。

 明くる日、彼はエンマが実家に帰ったのを知る。最後に会った時、彼女はそれを口にしなかった。所詮「数多の男」の一人だったのだとハンスは思い至り、惨めな思いに苛まれる。が、気を取り直し、真新しい青い作業服に身を包み、彼は新しい職場の鍛冶工場へ向かう。
 歯車に鑢をかける仕事を丸一日あてがわれて手の皮が剥け、ぐったりしたハンスは非常な疲れを覚えた。でも、労働の尊さを体で理解し、これまで味わったことのない誇りさえ感じる。二日間働いた後の日曜、彼は幼友達アウグストから職工仲間との呑み会に誘われる。

 一軒目の居酒屋でビールを三杯干し、ハンスはすっかり陽気になった。次の酒場では危ないなと感じつつ、勢いの赴くままへべれけに。辺りが朦朧となり、みんなと一緒に歌い、二本目の瓶も空ける。眩暈がし、立ち居が不自由になったが、三軒目に引っ張り込まれる。
 一時間後にやっとの思いで店を出て歩き出すが、外界がぐらぐら揺れ、足取りは覚束ない。野山を散々さまよい歩いた末、なんと彼は近くの川に転落~水死してしまう。寂しい葬儀に出席した靴屋のフライク小父は参列した学校の教師たちを横目に、こう呟く。
 ――あそこに居並ぶ紳士方も、ハンスの破滅に手を貸した口じゃないか。


2021.10.05  二十世紀文学の名作に触れる(14)
        『笑い』のアンリ・ベルクソン――人間の生は飛躍を含む純粋持続と捉えた哲学者

横田 喬 (作家)

 フランスの哲学者ベルクソンは「科学で解明できることには限界があり、その意味を問うことはできない」と、科学万能主義に対し異を唱えた。特に「精神が頭脳の活動によって生み出される」とする生理科学の主張は誤っている、と説いた。私は学生(仏文科)当時、彼の言い分に直感的な共感を覚え、それは六十余年を過ぎた今も変わっていない。

 ベルクソンは1859年にパリで生まれた。父はユダヤ系の作曲家・ピアニストで、母は英国人。高等中学で古典学と数学を修め、特に数学に非凡な才能を発揮した。当時ほんの一握りの人しか理解できなかったアインシュタインの相対性理論における時間に関する論究を成す。パリ大学で人文学を専攻~パリ高等師範に転じ、実証主義や社会進化論を研究する。

 高等中学で教師として教える傍ら学位論文執筆に励み、88年ソルボンヌ大学に『時間と自由』を提出。翌年、文学博士号を授与された。この著作で彼は、従来「時間」と呼ばれてきたものを深く検討。空間的な認識である分割が不可能な意識の流れを「持続」と呼び、人間の自由意志の問題について論じた。

 96年、哲学上の懸案である心身問題を扱う著作『物質と記憶』を発表する。失語症に関する研究を手掛かりに、物質と表象の中間的存在として「イマージュ」という概念を採用し、心身問題に取り組んだ。実在を持続の流動と捉え、心(記憶)と身体(物質)を「持続の緊張と弛緩の両極に位置するもの」と定義。心と身体の双方が持続の律動を通じて相互に関わり合うことを立証しようと試みる。

 三年後、『パリ評論』誌に三回にわたり、論説『笑い(おかしみの意義についての試論)』を発表する。翌1900年に単行本として出版されると、たちまちセンセーションを巻き起こし、学究らによる「笑い」に関する本格的研究の出発点となる。
 同年、パリの国立高等教育機関コレ―ジュ・ド・フランス教授に就任。04年から同校の近代哲学部門を担当する。同校は広く一般市民にも開かれ、彼の講義は大衆的な人気を呼び、本人自身が辟易するほどだった。聴講者の中にはイギリスの高名な詩人T・S・エリオットや作家プルースト、人類学者レヴィ=ストロースらの名があり、後にベルクソンに師事するに至る後進哲学者ハイデッガーやサルトル、メルロ=ポンティらもいた。

 07年に第三の主著『創造的進化』を発表する。当時広く知れ渡っていたスペンサーの『社会進化論』から出発し、意識の流れとしての「持続」を提唱した。ダーウィンの進化論における自然淘汰の考え方では、淘汰の原理に素朴な功利主義しか反映されていない。だが実際に起きている事態は異なり、はるかに複雑で不可思議だ。生を肯定し、生をさらに輝かせ進化させる力、種と種の間を跳び超える「縦の力」「上に向かう力」が働き、突然変異が起こる。そこで生命の進化を推し進める根源的な力として、彼は「生の飛躍」を想定。ここで普遍的なものが実在するという大胆かつ前科学的な立場を肯定した。

 国内外で名声が高まった彼は公の場に引っ張り出される。第一次大戦中の17~18年にはフランス政府の依頼でアメリカを説得する使節として派遣され、非常にデリケートで困難な職責を見事に果たす。大戦後の22年には国際連盟の諮問機関として設立された国際知的協力委員会の委員に任命され、初会合では議長として敏腕を揮った。このためフランス政府からレジオン・ドヌール勲章を、そして27年には幾多の著作に対しノーベル文学賞を授与されている。

 彼はマルクス主義の一過性を見抜き、人間社会は閉じた社会と開かれた社会を行きつ戻りつしながら開いた社会を目指して進む、と説いた。彼が見抜いた通り、ソヴィエト政権はその閉ざされた性質ゆえに一世紀と保たずに崩壊していった。
 73歳を迎えた32年、最後の主著『道徳と宗教の二源泉』を発表。これまでの主張を踏まえ、人間が社会を構成する上での根本問題である道徳と宗教に関し、「開かれた社会/閉じた社会」「静的宗教/動的宗教」「愛の飛躍」といった用語を駆使し、独自の省察を加えている。

 さて、前編で取り上げた論考『笑い』について少々補足する。私の学生時代の恩師(かのノーベル賞作家・大江健三郎氏の恩師にも当たる)のフランス文学者・故渡辺一夫先生はユーモアを大層愛される方だった。先生はよく「僕は家ではいつも女房を笑わせようと努力している。笑いは健康の元だから」と口にされていた。
 実は「笑う門には福来る」の好例がある。広島の原爆孤児たちへの支援活動でも知られるアメリカのジャーナリスト・作家の故ノーマン・カズンズに『笑いの治癒力』(岩波現代文庫)という著書がある。同書が伝える経緯は大略こうだ。

 ――彼は1964年、重度の膠原病を発症。医師から「全快の見込みは殆んどない」と宣告された。彼は医師の勧める「薬漬け治療」を辞退し、人体に元々具わる自力回復力に賭けようと決意する。マルクス兄弟のどたばた喜劇映画を立て続けに見たり、笑わずにはいられない傑作ジョーク集の本に読みふけったり、彼流に抱腹絶倒の日々を重ねた。

 開始して八日目には目に見えた効果が生まれ、日を追うごとにめきめき健康を回復。まもなく、雑誌の編集長という職務に復帰するという奇跡が起こる。この難病克服のニュースは当時アメリカの医学界に大きな衝撃をもたらした。彼自身その後UCLAの医学部教授に迎えられ、笑いの治癒力について研究を進めた。米国各地で研究の成果が採り入れられ、82年には「笑い療法学会」が発足。日本でも94年に「笑い学会」が誕生している。

 本題のベルクソンに戻る。晩年にはカトリック信仰に傾きながら、進行性の関節リュウマチを患い、苦しんだ。清貧の生活を送る中、39年秋に第二次大戦が勃発する。翌々年初頭に凍てつく寒さの中、風邪をこじらせ、ドイツ軍占領下のパリの自宅でひっそりと世を去った。寂しい葬儀に参加したフランスの高名な詩人ポール・ヴァレリーは、弔辞の中で故人をこう偲んだ。「大哲学者・大文筆家であり、そして偉大なる人間の友でした」。
2021.10.04  二十世紀文学の名作に触れる(13)
        アンリ・ベルクソンの『笑い』――「人間とは何か」を巡る省察

横田 喬 (作家)

 フランスの哲学者アンリ・ベルクソン(1859~1941)は1927年、ノーベル文学賞を受けた。「美しい文章を諸々綴った」功績が高く評価されての榮譽である。前回取り上げたトーマス・マンの小説『魔の山』には、ベルクソンの「生の哲学」を体現するかの印象の偉丈夫が登場した。私は大学(仏文科)の卒論のテーマに、ベルクソンの著作『笑い』を選んだ因縁がある。岩波文庫版『笑い』(訳・林達夫)を基に、その核心を私なりに紹介してみよう。

 ベルクソンはこの著作巻末の付録に執筆の意図について、大略こう記す。
 ――私は喜劇や笑劇や道化役の曲芸等々の中におかしみのいろんな作る手順を探った。私は笑止なるものを作る手順を規定しようと思ったと同時に、社会が笑う時その意向はどういうものであるかをも探求した。おかしみの原因の中には、社会生活に対する軽微な侵害的なものがあるに違いない。社会はそれに対して防衛的反作用らしい一つの身振り、軽く怖気を抱かせる一つの身振りを以て応酬するからだ。

 目次は第一章:おかしみ一般、第二章:状況のおかしみと言葉のおかしみ、第三章:性格のおかしみ、の三部立て。第一章は形のおかしみ・運動のおかしみ・おかしみの膨張力という三つの柱立てから成る。先ずベルクソンは「笑いの根底には何があるのか?」と問いかけ、「本来的に人間的であるもの以外におかしさはない」と言い切る。

 そして、おかしさを引き起こす三要件として①人間的であること②心を動かされないこと③他人との接触が維持されていること、を挙げる。ちなみに②は傍観者だからこそ笑える(憐みや感動などが伴うと笑えない)、③は仲間意識に由る「共犯関係」が伴う(孤立していれば笑いはない)意。以上を一括すれば、
 ――おかしさとは、集団を成す人々が自分たちの感性を沈黙させ、ただ知性のみを働かせながら、全員が仲間の一人に注意を向ける時に生まれる。

 彼は笑いを呼ぶのは「ぎこちなさ」だとし、こう指摘する。
 ――人間としての注意深い柔軟性と活き活きした屈伸性があって欲しいところに、いわば機械のぎこちなさが見られるからだ。
 このぎこちなさは惰性のせいであり、事情が他の事を要求している時に筋肉は同じ運動を続けた。その失策を人は笑うのだ、と言う。

 精神における固定観念のぎこちなさが「放心状態」を呼ぶ。現実離れしたことに捉われての確信的な放心状態の典型はドン・キホーテだ。人は何故ぎこちなさを笑うのだろうか。
 ――社会が人々に求めるのは、ぎこちなさや放心とは対極の緊張と弾力、常に目覚めた注意力である。精神のぎこちなさや放心は、その社会的成員の活動力が眠り込んでいる標、と懸念される。笑いは(その眠り込みから目覚めさせるための)ぎこちなさへの処罰なのだ。

 また、ベルクソンは「性格のおかしみ」に関し、こう規定する。
 ――厳粛であり時には悲劇的でさえある他人の人格が我々を感動させなくなった場合に、喜劇は始まり得る。それは社会生活に対するこわばり(硬直化)から始まる。他人と触れ合うことを心がけず、我が道を自動的に辿っていく人物(典型がドン・キホーテ)は滑稽だ。笑いはその場合、彼の放心を矯正するために存する。

 人の欠点はその不道徳性よりもその非社交性のゆえに、我々を笑わせる。滑稽は人間の純粋理知に訴える。笑いは情緒とは相容れない。「心を動かしてはならぬ」が必要な唯一の条件だ。身振りは思わず発するもので、自動的なものであり、いくらか爆発的でもある。我々の注意が人の行為に向かわず、身振りの方に向かうが早いか、我々は喜劇の領分に入る。一つの性格が非社会的(例えば「世間知らず」)でさえあれば、それは滑稽になり得る。

 人物の非社交性と観客の無感動性、これが笑いに必須の本質的な二条件だ。そして、第三の要件が自動現象。本質的におかしなものは自動的に為された事柄だ。欠点に於いても、美点に於いてさえも、おかしみは人物が知らず知らずにやってしまうものだ。
 ――全て放心は滑稽なものだ。放心は根の深いものであればあるだけ、喜劇性は高いものになる。ドン・キホーテのように筋立った放心は、この世で一番滑稽なものである。

 己に対する不注意、他人に対しての不注意、それは非社交性と一体となっている。こわばり(硬直性)の一番の原因は、人間が己の内部点検を怠ることだ。こわばり・自動現象・放心・非社交性、その全ては相互にもつれ合っている。そして、その全てに依って、性格の滑稽味が作り上げられている。

 喜劇の表題そのものが意味深長だ。『人間嫌い』『守銭奴』『粗忽者』・・・。それらは皆、種類の名だ。そして、性格喜劇は表題に『女学者』『才女気取り』『退屈する人々』・・・と複数名詞か集合名詞が採られる。同種の奇人は、ある見えない引力によって同気相求めているのか。悲劇はハムレットのように個に執着し、喜劇は女学者というジャンルに執着する。
 
 人間の身振りや動きが、機械仕掛けであるかに映るものが笑いを呼ぶ。演説者が熱弁を揮っている時、身振りが周期的に同じ動きをすることに気づいた聴衆は失笑する。笑劇では、このパターンを意図して作る。人の仕草を真似る時に起きる笑いも、これと同じだ。
 喜劇は生活を真似た遊びだ。舞台から引っ込んでは性懲りもなく出てくる喜劇役者は、ビックリ箱の遊びを応用している。当人は自身で立派に生きている気でも実は他人の掌中で玩弄されているケースが、操り人形。言うならば、おかしさとは人が「もの」に似ることだ。

 言葉による笑いは、機知と滑稽に区分できる。ある観念の自然な表現を別の異なった調子に移調すると、笑いが生まれる。荘重さを平俗さに、小さなものを大きなものであるかのように、下劣な行為を敬語で扱ったり――これらはイギリス的ユーモアの範疇に属する。
 喜劇は社会生活に対する硬化とでも言えるものを扱う。他人との接触を心がけず、ひたすら我が道を辿るドン・キホーテの様な人物は滑稽の典型だ。それに対する笑いは、その硬化を矯正するよう促す。喜劇が悲劇より現実生活に近い処を舞台としているのはそのためだ。

 ――芸術の基本は個別性にある。喜劇はその逆で、登場人物は類型的だ。喜劇作家は人物の内面には深く入らず、現れる行為や身振りに観客を注目させる。その類型が社会性からの放心であったり、自動機械を連想させるぎこちない性格である時、笑いを呼ぶ。
 喜劇の題材となる代表的な性格は虚栄心だ。自己賛美に根差すこの性向は、どんな人にも自然に内在する。それに気づき~矯正することにより、後天的に獲得する性格が謙虚さ。虚栄心を直す特効薬は笑いだ。フランスの喜劇に度々登場する職業人的虚栄心がある。教師や医師などの勿体ぶりや職業的無情さとも呼ぶべき言動は笑いの対象となる。すなわち
 ――笑いは社会の自然として発せられ、有用な機能を果たしている。
2021.09.10  二十世紀文学の名作に触れる(12)
『魔の山』のトーマス・マン――反ファシズムを貫いた文学精神

横田 喬 (ジャーナリスト)

 近代ドイツが生んだ大作家トーマス・マンは、戦後の日本の作家たちに少なからぬ影響を及ぼした。私は新聞記者当時にそれを北杜夫さんや辻邦生さんらから直接耳にしているが、それ以外にも愛好者は多かったようだ。マンの文学作品の主人公は、人間愛とヒューマニズムへの道を愚直に模索し、理不尽なものに対し懸命に抗おうとする。その姿勢が日本の作家たちに強い共感を呼んだのでは、と私は推察する。

 彼は1875年、北ドイツの商業都市リューベックの豪商の家の次男に生まれた。マン家は18世紀以来、この地で家柄として知られ、祖父も父も市の要人として通る名望家だった。両親とも読書家で、彼は国内外の小説など多くの書物に触れて育ち、早くから詩作を始める。16歳の時に父が死去し、彼は高校を中退。一家は豪邸を処分し、南部のミュンヘンに移る。

 その辺の顛末は彼の自伝的作品『トニオ・クレエゲル』(1903年発表)に詳しい。「クレエゲルの古い一門は、次第に脱落崩壊という状態に陥ってしまった。(中略)人々がトニオ自身の性行をも、同じくこの状態の徴候に数えたのは、もっともなことだった。」(実吉
捷郎訳・岩波文庫)とある。

 1893年から彼は火災保険会社で働く傍ら、小説の執筆を始める。三年後、自身の家柄を小説化しようと構想。数多くの親戚を訪ね歩き、証言を集め始める。二年半の執筆期間を経て1901年、『ブッデンブローグ家の人々(副題:ある一家の没落)』を完成。翌年に出版されると、広く読者を集めて一躍ベストセラーとなる。近隣のデンマークやスウェーデン、オランダ、チェコでも翻訳される人気ぶりだった。後の29年にノーベル文学賞を授与される際にも、この著作が理由に挙げられている。

 ちなみに私は新聞記者当時、作家の北杜夫さんからこんな述懐に接している。
 ――私が作家を志したのは、戦後すぐの旧制高校当時に『ブッデンブローグ家の人々』を読んだ感動から。後年その向こうを張ろうと、私の一族(祖父・斎藤紀一<山形県出身、東京・青山での精神病院創立者・代議士;作中では「典型的俗物」と記述>~長女・輝子の夫で養嗣子の父・茂吉<精神科医・歌人>~その次男の自分)を念頭に『楡家の人々』を書き上げました。
 かの三島由紀夫は、この作品をこう絶賛した。「戦後に書かれた最も重要な小説の一つ。日本文学は真に市民的な作品を初めて持った」

 本題に戻る。前述したように03年、代表作の一つの中編『トニオ・クレエゲル』を発表。マンの若き日の自画像であり、ほろ苦い味わいを湛えた「青春の書」だ。「最も多く愛する者は、常に敗者であり、常に悩まねばならぬ」と彼は述懐する。主人公トニオは文学や芸術への限りない憧れを抱く一方で、世間と打ち解けている人々への羨望を断ち切ることができない。北杜夫さんは私に、こう呟いた。「この本の内容に共感する余り、ペンネームを「杜二夫(後に『二』は脱落)」とした位です」。

 05年、マンはカタリーナ夫人と結婚する。彼は10年にミュンヘンでグスタフ・マーラーの「交響曲第八番」初演に接して強い感銘を受け、マーラーと交友を結ぶ。翌年に彼が死去するとヴェネツィアを訪ね、その死に触発されて記した中編『ヴェニスに死す』を翌々年に発表。これを基にルキノ・ヴィスコンティが映画化した『ベニスに死す』(71年公開)はマーラーの交響曲をテーマ曲とし、かの音楽家を主人公に擬したことで話題を呼んだ。

 この12年、夫人が肺病を患ったため、スイスのダヴォスにあるサナトリウムで療養生活を送る運びとなる。同年夏、マンは見舞いに訪れ、三か月をここで過ごす。夫人から耳にした体験談や挿話を基に小説執筆を構想。以後なんと十二年にわたって延々と書き継ぎ、24年に長編小説『魔の山』として発表する。

 前回つぶさに記したように、『魔の山』には大変な論客が二人登場し、古今東西の思想や学術をめぐって博学ぶりを披歴する。実は、マン自身も思想的遍歴を重ねていた。国家主義的・右派的な思考に傾いた一時期もあったらしい。が、同じく文学者で革新的な思想の持主だった兄ハインリヒの影響もあって、軌道を修正。マルクスの原典などにも学んでいる。

 マンの博学ぶりと言えば、『魔の山』に登場する「王者的存在」ペーペルコルンにフランスの哲学者アンリ・ベルクソンの影響を指摘する識者もいる。ベルクソンは19世紀末から20世紀前半にかけて活動。理性を強調する合理主義の哲学に対し、知性だけではなく情意的なものも含む人間の「精神的な生に基づく哲学」を説いた。私は大学(仏文科)の卒論のテーマにベルクソンを選んだ因縁もあり、この件のマンの筆致に懐かしさを感じた。

 マン自身は『魔の山』に至るまでの作品を二つに大別。『ブッデンブローグ家の人々』と『トニオ・クレエゲル』とを一組の作品と考え、『ヴェニスに死す』と『魔の山』とを他の一組と見なしている。彼は29年にノーベル文学賞を授与されるが、受賞理由に挙げられたのは『ブッデンブローグ家の人々』の文学的価値だった。私個人は、『魔の山』の思想性の方に惹かれる思いが強い。

 30年頃からナチスが台頭すると、マンは正面から批判する。ベルリンで「理性に訴える」と題して講演し、ナチズムの危険性を訴えた。労働者階級による抵抗を呼びかけ、社会主義や共産主義への共感が増している、と表明。33年にヒトラーが政権を握ると、ドイツ・アカデミーを脱退する。夫人と共にスイスへ赴き、講演旅行中にベルリンで国会炎上事件が勃発。そのままスイスに留まろうとチューリヒに居を定め、反ナチスの論陣を張った。

 38年にはアメリカへ移住し、プリンストン大学客員教授に就任(後に名誉教授)。第二次大戦中のアメリカでは、ドイツやオーストリアからの亡命者を支援した。50年、アメリカでマッカーシズム(赤狩り:反共産主義のヒステリックな魔女狩り)が吹き荒れ、その風潮を避けるように翌々年、彼はチューリヒ郊外へ移住する。三年後、八十歳で死去した。

2021.09.09 二十世紀文学の名作に触れる(11)
トーマス・マンの『魔の山』――ドイツが世界に贈った人生の指南書
 
横田 喬 (ジャーナリスト)

 今回取り上げる小説『魔の山』は岩波文庫版(訳:関泰裕・望月市恵)で(上)(下)二巻、計千百余頁にも及ぶ大冊だ。おどろおどろしい表題が祟ってか、長い間、私の家の書架で積ん読状態のままだった。1929年にノーベル文学賞を受けたドイツの文豪トーマス・マンの代表作で、日本でも数多の読書人が「最も衝撃を受けた作品」に挙げている。この機会に、私なりに読み解こうと試みてみた。

 アルプス山中のスイス、海抜1600mの高地ダヴォスにサナトリウム(国際結核療養所)「ベルクホーフ」がある。1907年、ハンブルクに住む23歳の若者ハンスがここで療養中の従兄弟ヨーアヒムを見舞いに、三週間の期限付きで訪れる。ハンスは幼い頃に両親を亡くし、兄弟もない身の上で、世間知らずの初心な青年だ。が、亡父の遺産と後見人の配慮に恵まれ、地元の工科大を卒業~造船会社にエンジニアとして入社する段取りになっていた。
 
 ハンスは療養所側から、滞在中は従兄弟と行動を共にするよう勧められ、食事や散歩など行動の一切を患者並みに振る舞う。ここには国際色豊かな多国籍の人々が暮らす。決まりの散歩中、彼は三十代半ばのイタリア人セテムブリーニと知り合う。この男は学識に富み、ラテン語の詩句を吟じたり、古今東西の思想を熱っぽく論じて、ハンスを煙に巻く。

 ハンスは下界に居た当時から続く異様な悪寒と発熱で結核罹患者と判定され、滞在延長を通告される。食堂で彼は婀娜(あだ)っぽいロシア人女性のクラウディア夫人を見初め、秘かに恋焦がれる。夫人に接近を図り、たまたま謝肉祭の夜、熱烈な告白に及ぶ。が、彼女は「明日、療養所を立ち去る予定になっています」と告げて姿を消し、二人の仲はそれっきりになる。

 一方、セテムブリーニは自身の活動拡充のため施設を離れ、ダヴォスの街中の民家に引っ越す。同宿の住人に同年配のナフタという瘦せた小男がいた。彼はハンスに対し「セテムブリーニはフリーメイスン(秘密結社)の団員」と耳打ちし、ハンスやヨーアヒムを前に両者は激しい応酬を交わす。セテムブリーニの発言を――で、ナフタの分を「」で示すと、

 ――私は西欧人で、あなたの序列は純然たる東洋です。東洋は行動を嫌悪します。老子は、無為は天地間のあらゆるものよりも有益であると教え、全ての人間が行動することを辞めたら、地上には完全な平和と幸福が訪れるだろうと説いています。
 「では、ヨーロッパの神秘主義は? 神のみが行動せんと欲するのだから、人間が行動しようとするのは、常に神の不興を買い、悪であると教えた静寂主義は? 幸福を静寂の中に見出そうとする精神的傾向は、洋の東西を問わず人間に共通のものらしいですね」

 ――あなたは理想社会を建設しようとする人類の憧憬を嘲笑すべきではない。人類のその努力を阻害する民族は、道徳的腐敗を経験せずにはいないでしょう!
 「政治は道徳的に腐敗する機会を与え合うほかに、どういう存在理由を持っているのでしょう! 求められているのは常に運命だけです。資本主義的ヨーロッパも自らの運命を求めています。」

 ――あなたは神と世界との二元論に基づくキリスト教的個人主義を説明して下さろうとし、数分後には社会主義を唱道され、独裁とテロルまでを賛美なさる。
 「対立するものは調和し合います。あなたの個人主義は、中途半端で妥協的なものです。本当の個人主義は、どれほど拘束の多い共同体とも調和します・・・」
 ここで口を挟もうとしたハンスはナフタから「黙らっしゃい! あなたは学ぼうとなさい、そして、説を成すのはやめなさい!」と、一喝される。

 その直後、ハンスは危険な雪山で単独のスキー行を敢行。危うく命を落としかけるが、その最中に閃く。(両者とも、ただの饒舌家に過ぎない。一人は淫蕩で悪意的だし、もう一人はいつも理性の角笛を吹き続け、うぬぼれているが悪趣味だ。人間は頭脳の自由を持ち、心の中に敬虔さを保つが故に、高貴なのでは)と。

 時が過ぎ、季節は冬を迎えた。この施設を、一人の偉丈夫がハンスの想い人ショーシャ夫人に伴われて訪れる。中年のオランダ人ペーペルコルンで、大柄な体に波うつ白髪と赤い怪異な顔、茫漠とした王者的雰囲気を漂わす。ハーグに広壮な邸宅を構えるコーヒー王だとかで、滞在者一同はすっかり惹きつけられる。両人は二階の隣り合う特別室に納まった。ハンスは夫人にヨーアヒムの消息を問われ、「下界で軍務に就き、死んでしまった」と答える。

 ひと月近くが経った一夜、王者はハンスら滞在者十人ほどを酒宴に招いて歓待する。ハンスは恋敵のはずの彼に、畏敬の念さえ覚える。酔っ払った王者はハンスに対し、「気に入った」と好意を示す。王者は実はマラリア熱を患い、四日おきに発熱~発汗する身だった。ハンスは病床の彼を見舞い、何時間も話し込む。二人は友情を感じ合う仲になり、王者はキニーネを例に薬物と毒物に関する深い見識(毒をうんと薄めると薬になる)を披歴したりする。

 王者の堂々たる風格の前には、セテムブリーニやナフタは所詮口説の徒に過ぎず、「小人のような存在」とハンスは思い知る。件の王者をバカ扱いするセテムブリーニに対し、ハンスは「バカですか、バカにも様々な種類のバカがあって、小悧巧なのもバカのうちのあまり感心しない一種であるようです」と応酬する。
 数週間が過ぎ、王者はごく親しい仲間を誘い、馬車を二台仕立てて近くの瀑布見物に出かけた。翌日、毒物を注射して自殺した彼の姿が居室で発見される。前述したように、彼は熱帯地方でマラリア熱に罹り、脾臓と肝臓がひどく侵された身だった。

 ショーシャ夫人が施設から去り、ハンスは孤独をかこつ身となる。トランプの独り占い。談話室用に購入されたドイツ製最新型蓄音機が奏でるクラシック音楽への暫しの陶酔。交霊術めく室内遊戯「こっくりさん」に対する患者有志での耽溺・・・。いずれも束の間の充足でしかなく、永劫の安息には程遠いものだった。

 ヒステリー性の不穏な空気が蔓延する冬のある日、一つの破局が訪れる。かの論敵同志セテムブリーニとナフタの仲だ。両人とも体の容態が思わしくなく、口角による鍔迫り合いが先鋭化する。遂には抜き差しならぬ決定的対立に陥り、ナフタが宿命の論敵に決闘を挑む。
 三日後、例の瀑布の前でハンスらが立ち会う中、両人はそれぞれ拳銃を手に十五歩の間隔を隔てて向き合った。セテムブリーニが空に向けて何発か発射すると、ナフタは「卑怯者!」と叫び、弾丸をなんと己の頭に撃ち込んだ。凄惨な、忘れられない光景だった。「魔の山」に引き寄せられた人々を見舞う過酷な定めが胸を打つ。

 そして、また時が流れ1914年7月、かの第一次世界大戦が勃発する。まずまずの健康を取り戻していたハンスはダヴォスを下山~ドイツ軍の一兵士として出征した。最前線で兵火をかいくぐる境遇に陥り、以後の消息は杳として知れない。ヨーロッパは先行きが皆目見通せない重苦しい混迷の真っ只中に置かれていた。