2023.12.04 世界のノンフィクション秀作を読む(39)
リール・ワーテンベイカーの『愛は死を見つめて』(筑摩書房刊。高橋正雄:訳)――癌との闘いの高い人間性の品位と尊厳の記録(上)
                
横田 喬 (作家)

 筆者(1908~没年不詳)は雑誌社の元記者で文筆家。職場で上司のチャールズ・ワーテンベイカーと知り合って恋に落ち、結ばれる。夫は42歳で、妻は34歳。両人とも三度目の結婚だった。夫は癌に侵され、55年初頭に亡くなるが、夫妻は酷薄な運命に立ち向かうべく協同で奮闘する。人間の純粋な愛の偉大さを教える得難い記録、と私は感銘を受けた。

◇癌を知る (この項だけ、夫チャールズが執筆)
 私が自分の癌を知ったのは、1954年9月27日午後のこと。フランス南西部バスク地方の海辺の町にある質素な放射線科の診療所でだった。一年ほど前から、ぼんやり気づいてはいた。周期的に腹部の痛みに襲われていたから。レントゲンにより、腫瘍の存在が確かめられた。担当のカルティエ博士は(今後の生存期間を問う)私の率直な質問に対し、一瞬おいて「もし悪性なら、多分一年か、二年でしょう」と答えた。
 私の父は57歳の時に癌で死に、祖母や父の兄弟も60代で癌で死んでおり、母の血統にも癌があった。が、まさか53歳でそうなるとは予期していなかった。にも拘らず、ほぼ一年半の間、しばしば見舞うあの痛みによって私は何かを警告されてきたのだった。最初の問題は手術で、フランスでやるか、アメリカへ帰ってやるか。「こいつは金がかかるぞ」と言うと、「そんなことは大したことじゃないわ」と妻は言った。

 私たちは共に(報道関係の)通信員として44年にフランスに来て以来、アメリカで過ごしたのは一年間と二年半の二回だけで、後はずっとフランスで暮らしてきた。47年からはニヴェール川河口の対岸にある静かな漁村に移り住み、中々得難い生活をしてきた。共に二か国語を話す11歳の男の子と8歳の女の子には、アメリカでは味わい難い暮らしだった。
 我々夫婦にとっては、本や雑誌の収入でアメリカで暮らすよりもずっと快適な、ずっと静かな生活だったのだ。だが、我々の家計には、数週間の入院と予後に長時間を要する大手術を受けるだけの余裕はなかったし、夫婦二人でニューヨークへ往復する余裕など、勿論なかった。が、妻はどこで手術をするにせよ、「一緒に付いて行きます」と言った。多くの場合、癌は手術によって無事に取り除かれている。私も、切除した後、余り悪くなっていない人々を知っていた。

◇帰国の準備 
 夫チャールズ・ワーテンベイカーは、彼が『生涯の六十日』と題した小冊子の梗概を書き、死の床にありながら本文を書き始めた。彼はその第一部(「20歳代に犯した自分の愚行や30歳代の自分の罪を清算するための反省を織り交ぜた、一つの客観的記録」という梗概が付いている)を書き終えただけだった。
 最初の数頁は、便箋の上に手で書かれていた。夫の字は力強く、はっきりしていた。彼は正直な、正確な人間だったのである。私は(ごく最近の)9月27日から起こったことをできるだけ客観的に、できるだけ正確に語ろうと思う。
 倫理的で、主義の人だった彼は、出来れば、自分の死にたいと思う時に、自分の欲する方法で死ぬ権利があるという主張を抱いていた。私も又、そう信じている。夫は生きることに非常な熱情と愛着を持っていた。私はただ彼を信頼していさえすれば良かったのだ。
 昨日の午後、私はニューヨークのダニエルソン博士に電報を打ち、博士からは夫の入院の準備をしておくという返事が来た。「もしもの場合」の手筈――私たちの遺言は極めて簡単だった。もし夫が死んだら、全てが私に任される。もし私が死んだら、全てが夫にとなっていた。二人とも死んだら、子供も我々の財産も私の妹で頼み甲斐のあるジュリーに任されることになっていた。

 ◇アメリカへ、そして入院
 ――私(チャールズ)は20代を引き延ばし、30代を切り縮め、40代を十二分に味わい、50代を取り逃がした。それは楽しみと深い喜びに満ちた生活であった。が、その反対に、鋭い苦痛と激しい後悔も少なくなかった。私は物を書く点では決して芸術家ではなかったが、いかに生きるべきかを知っている点では、いくらか芸術家だったと言えよう。
 この文章は、私が発見した一つの覚書(夫の手になる)の要約である。彼は妥協の下手な人間だった。鍛錬と洞察と気力を以て、あらゆる力の微妙な均衡を求めようとした。息子のクリスと娘のティムにお別れのキスを済ませ、私たちは汽車でパリに向かった。そして、空路アイルランドを経てアメリカへ向かった。
 10月1日、ニューヨーク着陸。夫の旧友ジムが外科主任を務める病院は、マンハッタンの大通りに入り口がある非常に大きな、かなり古い病院である。彼は病院の規則書を読み、面会時間の制限条項などに顔をしかめたが、私たちは規則破りの常習犯だったのだ。
 ジムすなわちJ・ダニエルソン博士は6フィート3インチはある大男だが、優し気な声で気品があった。夫の腹部のレントゲン写真が撮られ、手術は翌週の火曜の朝8時半に行われる段取りになった。博士は週末には多少の酒は飲んでも差し支えない、と言った。私は夫が不治の病に罹っていると考えることは、どうしてもできなかった。

 ◇死の予告 
 私は他人の生涯を判断する場合に、必ずその人の最期がどうであったかに注意する。そして、私自身の生涯での最大の関心事は、自分の最期が立派であってくれれば、即ち静かで平然としたのであってくれればいい、ということなのだ。――『モンテーニュ随想録』
 担当医のジムは悪い報せをもたらした。「病気は治らないだろう。癌は肝臓にまで達し、肝臓一面に広がっている。そして、肝臓は切り取るわけにはいかない」と宣告したのだ。私は喘ぎ喘ぎ、「どの位、もつでしょう?」と尋ね、ジムは「三か月」と、本当のことを掠れたような声で言った。彼は友人と医師という二つの立場から、このような状態ではどこも切り取らない方がいいと思う、と言った。
 ジムと私は癌の告知を巡って、かなりのやりとりをした。夫は部屋に連れ戻された時、傷つき、打ちひしがれた、歪んだ顔をしていた。彼は見るからに苦しそうだった。その目は揺れ動き、やがてじっと見据えられた。彼は未だほんのしばらく幸福な時間が過ごせるかも知れない。しかし、死の宣告は下されているのだ。

 ◇退院まで 
 夫と私は戦時中の英国において、同じ雑誌の、彼が編集者で、私が記者という立場で、初めて出会った。私たちは平行的に歩んできた過去と、全く奇跡的な両人の出会いに驚かされ、自分たちはお互いによく理解し合っていると感じるのだった。
 「死こそ、僕が立派に成し遂げるのを見せる、最後の見せ処だ」「何としても、それを立派に成し遂げたい」と夫は言った。彼が麻酔から覚め、我に返った時、死はまるで山のように一つの事実として私たちの生活の全面に立ちはだかってきた。私たちは死について語り合う時、ぶっきらぼうな単純な言葉を用いるようになっていた。
 私は生まれて初めて、眠る時に薬を飲んだ。夜中に咽び泣きながら目を覚まし、涙の涸れるまで泣き続け、もう一度薬を飲まなければならなかった。夫は一切の治療をせずに済ませることができるのを待っていた。どうせ死ななければならない以上、自らの意志でその死に方を決めたがった。傷口はすっかり治ったのに、彼の痛みは少しも治まらなかった。
 私は医師から、モルヒネが鎮痛には一番効き、安全なことを聞き出し、その用量も知っ
た。私は処方箋を手に薬屋から薬屋へ行き、一軒で一枚ずつ調合してもらうなどし、十分な量を調達した。11月5日(金)、私たちはニューヨークを旅客船で出発し、三等船室(浴室付きの外側の部屋)に納まった。


2023.11.27 世界のノンフィクション秀作を読む(38)
 
           ロバート・キャパの『ちょっとピンぼけ』
        ――生と死を劇的に捉えた写真家の第二次大戦従軍記録(下)


                     
横田 喬(作家)


 ◇D・デイの前夜 
 私たちの飛行機は飛び立って、ナポリの上空を旋回した。空から見るシシリアの町の戦禍の跡は、二千年を経たローマ時代の遺跡と大差がなかった。僅か半年前に新聞雑誌を賑わしたそれらの場所は、弾痕ももはや深い草に覆われて牧場となっていた。我々は北アフリカの海岸を後にして去った。
 1944年のロンドンは、対ドイツの上陸作戦話でもちきりだった。噂が広がり、重要人物の英国到着が日毎に増えてきた。物凄い白髪交じりの茶色の髭もじゃのアーネスト・ヘミングウェイは、赤くただれたような目をして、酷い様子だった。彼との再会は私には全く嬉しかった。未だ駆け出しのフリーの写真家だった私は、既に著名の作家だった彼と1937年、スペインで初めて知り合った。

 どこへ行っても彼はパパ(親爺)と呼ばれ、私はすぐに養子縁組した。以後数年間、色んな場合に、彼は養父の義理を果たしてくれたが、今大して金に困っていそうでもないこの養子と再会して、大変喜んだ。私は彼への孝心と景気のいいところを見せるため、私の至極豪勢なアパートで彼のためにパーティを開くことを決心した。
 女友達ピンキーが配給分を貯めていたスカッチ十本とジン八本を基に、私はシャンパン一ダース、ブランディ数本、新鮮な桃六個などを購入。この無料の大酒宴と、ヘミングウェイとの取り合わせの魅力は文句なしだった。(連合軍の)上陸作戦のために待機中の皆がこのパーティに現れ、アルコール類をとことん呑み尽くした。
 新聞は「連合軍上陸作戦」の観測記事で持ち切りだった。数百人の従軍記者から、最初の侵攻部隊に付いて行けるのは僅か二、三十人で、そのうち報道写真家は唯の四人、私はその中の一人だった。軍報道部の事務所に、その選ばれた数名が待機した。

 ◇その時、キャパの手は震えていた ――1944年 夏――
 記念すべき44年6月6日、我々はイギリス海峡を渡り、水だらけの足でフランスのノルマンディの海辺に上陸した。私の“麗しのフランス”の光景は不愛想で殺風景なものだった。ドイツの機関銃が舟艇めがけて弾丸を浴びせ、フランスへの懐かしの帰還は全く酷いものであった。舟から降りた兵隊たちは水の中を腰まで漬かって、銃を構えて進んで行った。
 海水は冷たく、海岸までは未だ百ヤード以上もあった。私の周囲の海面に銃弾は飛沫を上げて飛び散った。私が急いで一番近い障害物の陰に飛び込んだら、そこにもう一人の兵隊も一緒に飛び込んできた。彼は銃の防水布を取り除くと、あまり狙いも定めず、煙に包まれた海岸めがけて撃ち始めた。自分の銃声に励まされてか、彼は前進して行った。未だ夜は明けたばかり。辺りの光景はカメラに非常に効果的なシーンであった。
 数枚の写真を撮り終えたが、敵弾は絶え間なく私を追いかけてきた。私の次の援護物は、五十ヤードばかり前方に半ば燃え残って水中に座礁している水陸両用戦車だった。その残骸の合間から数ショットを写すと、私は勇気を奮って海岸へ突入して行った。潮が満ちてきて、海水は今や胸まで濡らし始めた。私は突進する二人の陰に隠れながら、やっと海岸へ辿り着くと、砂の上に打ち伏した。
 今朝、ここは世界一憎むべき海岸だった。海水の冷たさと恐怖に憔悴し切ったまま、我々は海と鉄条網との間の、狭い、湿った砂浜に伏せていた。砂浜の傾斜のお陰で敵の機関銃や鉄砲の弾から自分の身を守れた。私はやおら第二のコンタックスを取り出すと、頭を地べたに着けたまま、再び戦いの場を撮り始めた。

 臼砲の弾が鉄条網と海との間に炸裂し、凄まじい破片が兵隊の頭上から降りかかった。第二弾は更に身近に迫ってきた。構わず私はコンタックスのファインダーから目を離さずに、気違いのように次から次にシャッターを切った。周りの死んだ兵隊たちは、今は身動き一つせずに横たわっている。
 その時、一隻の上陸用装甲艇が砲火を物ともせず岸に突っ込んで来、赤十字のマークの入った鉄帽の軍医たちが一斉に飛び出して来た。私は咄嗟に立ち上がり、舟艇の方へ駆け出し、海に飛び込んだ。ただ濡れないようにと、頭上高くカメラを差し上げ、舟艇によじ上った。その瞬間、舟の船橋が敵弾で吹っ飛ばされ、指揮官はやられた部下の肉片をまともに浴び、血塗れになって喚きちらしていた。
 その舟艇は、半日前に下船したばかりの米国汽船チェイス号へ我々を連れ戻した。甲板は収容された負傷者と死者で溢れていた。翌朝、舟はフェイマス港に入った。上陸作戦に参加の許可が取れなかった新聞記者たちが群れを成し、海峡の対岸に達し、しかも還って来れた人間の最初の体験談を記事にすべく、我々を埠頭に待ち構えていた。
 私はすっかり英雄扱いされた。ロンドンで私の体験を放送するために、飛行機の提供の申し込みを受けた。しかし、あの惨事を忘れ切れなかったので、その申し出は拒絶した。一週間後、私はあの海岸で自分が撮ったのが、上陸作戦についての最も優れた写真だったと知った。が、残念ながら、暗室の助手は興奮の余り、ネガを乾かす際、過熱のためフィルムを台無しにしてしまった。百六枚写した私の写真のうち、救われたのはたった八枚。熱気でボケた写真には“キャパの手は震えていた”と説明してあった。

 ◇パリよ、俺だよ 
 私は再びフランス海岸へ舞い戻った。我が師団はトーチカからトーチカへ攻略した。私は元気を取り戻して戦火の間近に接近し、沢山の写真を撮った。シェルブール市への最後の攻撃の朝、私は一部隊に参加した。一緒だった仲間はアーニー・パイルとタイム・ライフの欧州総局長で私の尊敬すべきボス、C・ワーテンベーカーだった。
 我々は嫌と言うほど銃火を浴びたが、壁にぴったりへばり付き、戸口から戸口へと身を隠して飛び進んだ。チャ-リーが言うには「いい年をして、インディアンごっこでもあるまいぜ」。アーニーは「俺も歳が歳。ちょっと、おっかないよ」。私はドイツ軍最初の最高級捕虜、シェルブールのドイツ軍司令官フォン・シュリーベン将軍を策を用いてわざと怒らせ、激怒した表情をカメラにキャッチ。この写真は最上のものとなった。
 パリへの道は坦々と開けていた。私は自由フランス軍所属のタンクに同乗し、パリ市街に入城。パリジャンは街頭に飛び出し、この最初のタンクに手を触れ、接吻し、喜び、歌い、泣いた。こんなに朝早く、こんなにも沢山な人たちが、こんなに幸福だったことが嘗てあったろうか! 私のカメラのファインダーの中の数千の顔、顔、顔は段々ぼやけていって、そのファインダーは私の涙で濡れ放題になった。

 ◇戦争の最後の春――1945年春――  
 写真誌ライフのパリ支局にニューヨークの本社から電報が届いた。私のバストーニュの写真が素晴らしかったから、報酬としてベルリンへ進撃中の四つの米軍のどれに従軍するかは私の自由な選択に任せる、という。私はある情報を耳にしていた。連合軍最初の混成空挺隊が編成中で、噂では戦争終結はこの空挺部隊がベルリンへ降下する時だ、とか。
 米軍の第17空挺師団は長い列車に詰め込まれ、丸二日フランス内をあちこちと揺られ通しだった。敵のスパイの目を晦ますためだった。降下の前日、我々はこう指令を受けた。「英国の落下傘部隊と共にライン川の対岸、ドイツの主要防御線の真ん中に降下すべし」
 私は戦隊指揮官と先導機で飛んだ。私は彼に続いて飛び降りる二番目の男になっていた。10時15分、「用意」の赤いランプが点灯。大佐の後に付いて開いた扉口に立っていた。六百フィートの眼下にライン川が流れている。私は千、二千、三千と数えた。(時間待ちの意か?)まもなく、我々の頭上にパラシュートが美しく開いた。カメラを解きほごす十分な余裕が私にはあった。――そして、幾枚かの写真を撮った。
 それから多少の時が経ち、5月8日の新聞の第一ページには、異常に太い活字で大見出しが躍っていた。
 ――ヨーロッパ戦争終焉‼

 ▽筆者の一言 この自伝の主人公キャパは戦後、日本にもやって来て、ヒロシマや第五福竜丸の写真を撮って、多くの日本人に衝撃的な印象を与えた。そして、その直後、当時連日死闘を繰り返していたベトナムのディエンビエンフー戦線で劇的な死(行軍に同行し、誤って地雷を踏む)を遂げる。キャパの存在は、その耳慣れぬ名前と共に、当時成人間際だった私にも今なお鮮やかに記憶に残っている。かつて新聞記者だった私は、戦場カメラマンに幾ばくかの気後れを覚える。記者は概ね戦闘の最前線からは身を避け、安全な場所に居ながら、「見てきたように」記事を綴ることが可能だ。だが、カメラマンの方はそうはいかない。その苛烈な場面に身を挺さねば、仕事にならない。たった今、ウクライナやガザの最前線で命がけでカメラを構える諸兄姉には、心からの敬意と慰労の思いを捧げたい。
2023.11.25  世界のノンフィクション秀作を読む(37)

         ロバート・キャパの『ちょっとピンボケ』
     ――生と死を劇的に捉えた写真家の第二次大戦従軍記録(上)


                      
横田 喬(作家)


 ハンガリー生まれのR・キャパ(1913~1954:本名フリードマン・エンドレ)は二十世紀を代表する戦場カメラマンだ。スペイン内戦~日中戦争~第二次大戦の欧州戦線~第一次中東戦争~第一次インドシナ戦争(取材中に不慮の死を遂げる)の五つの戦争を精力的に取材。本編は彼の人間味豊かな個性が随所に滲み、彼が文才にも恵まれていたことを証す。

 ◇運命に起こされて 
 私のスタジオはニューヨーク九番街の、小さな三階建てビルの屋根裏。この三週間、私の処へ来る郵便は、電話と電気の会社からの二種の料金催促と決まっていた。が、今朝の不思議な三通目が、私をベッドから離れさせた。週刊誌コリヤーズの編集部より以下の通知があったのだ。
 <二か月間にわたり、貴方のスクラップ・ブックを種々検討の結果、貴方が偉大なる戦争報道写真家たるを認め、緊急に特派員として契約致したく、貴方の船室を英国向けの輸送船に既に予約済みにて、ここに前渡金千五百ドルの小切手封入の次第> 
早速、私は必要な書類の全てを手に入れ、大西洋を海路イギリスへ向かった。米国商船の中年の船長はアイルランド人で大のハリウッド好き。(一見派手なマスクと言動の)私を芸能界関係者と早とちりし、下にも置かぬVIP扱い。おかげで長い航海を退屈しないで済み、北アイルランドのベルファスト港へ無事に到着。翌日、特別機でロンドンに向かった。

 ◇われ君を待つ 
 アメリカ陸軍から手紙が届き、<軍属証明書は作成中だが、とりあえずシェルヴェストンの飛行場を基地とする“空飛ぶ要塞”の一群を撮影に行ってもらいたい>という趣旨だった。その飛行場は厳重に警備されたイギリスの飛行場で、至極張り切っているアメリカ空軍の第三〇一爆撃機隊が進駐していた。
 五日目の朝、爆撃機二十四機が出撃し、六時間後に十七機となって帰還した。そのうちの一機は着陸装置を撃ち飛ばされ、胴腹を痛めていた。司令塔は、胴体着陸を試みるようにと命令した。私はコンタックスを取り出し、同機が安全に着陸停止をするまでにフィルム一本を使い切った。私は機体に駆け付け、第二のコンタックスで焦点を合わせた。
 昇降口の扉が開き、乗組員の一人が運び下ろされ、待ち構えた医者に引き渡された。彼は呻いていた。次に下ろされた二人はもはや呻きもしなかった。最後に降り立ったのはパイロットだった。彼は額に受けた裂傷以外は、大丈夫そうに見えた。
 私は彼のクローズ・アップを撮ろうと思って近寄った。すると、彼は叫んだ。
 ――写真屋! どんな気で、写真が撮れるんだ!

 ◇砂漠の夢――1943年春―― 
 正規の輸送船に乗って、私はアルジェに着いた。その船は新鋭のスコットランド部隊を、チュニス奪還の増援のため北アフリカへ運ぶものだった。戦争はチュニジアの丘から数百マイル彼方で、我々の機甲部隊はガフサに進出していた。私は運転手付きのジープ一台をあてがわれ、一日中走行してガフサの村に着き、戦争の尻尾の端を掴んだ。
 ドイツ軍は最初、この丘の頂上を大砲で薙いできた。次いで五十の戦車と歩兵二個連隊で、我々の居る丘のすぐ麓から進撃してきた。味方の対戦車砲は今や活動を開始し、眼前の開けた視界の中で、激しい反撃を加え始めた。午後遅く、ドイツ軍は後退した。二十四の焼けた戦車と無数の戦死したドイツ兵とを残して。私はあらゆる角度から写真を撮った。けれども、私の感じた、あの緊張や劇的な場面を、真に撮し得たものは一つとしてなかった。

 ◇シシリアの空中に浮かぶ 
 白いアルジェの町は、空から見ると殊更に真っ白く、青い港は黒味がかって見え、あらゆる種類と大きさの船が密集していた。私は米軍情報部の手ずるで第八十二空挺部隊司令官リッジウェイ少将に面会。同部隊のシシリア攻略作戦に同行する運びになる。
 飛行機の中には十八人の落下傘兵がいた。機は地中海の上を低く飛び、シシリアの上空へ。
 ドイツ軍は夜空を一面に、色の付いた曳光弾で埋め尽くし、我が十八人が降下した。私はたった一人、地獄の惨めさにも優る寂寥を感じた。
 飛行場に帰還し、急拵えの小さなテントの中の暗室でフィルムを現像する。先刻の(機内の)写真は「ちょっとピンぼけ」で、ちょっと露出不足。でも、それらはシシリア攻略を扱った限り、唯一の写真だった。

 ◇ローマへの道はるかなり――1943年秋 
 シシリア作戦は終わって、私は船でアルジェへ送り返された。ホテル「アレッティ」には有名な新聞寄稿家ら百五十人の記者たちが集結した。差し迫った欧州本土上陸と急速に展開するシシリアの略攻が、彼らをここへ運んだのである。
 到着翌日の夜、十機以上のドイツ機が来襲。低空飛行をしながら、ホテルから数百ヤードの処へ爆弾を落とした。翌日午後、ジョン・スタインベックが連れ一人と三本の地元産焼酎を持って現れた。この飲み物は地獄の味がし、我々はせっせと瓶を空けにかかった。
 バルコニーからは港が手に取るように見え、毎日沢山の船に次から次へと軍隊、火砲、飛行機が積み込まれる。大きな船と船の間は、何十艘もの上陸用舟艇で次第に埋められていった。大作戦の開始が近づいていたのである。

 二日後、私はリッジウェイ将軍に呼ばれ、イタリア行きを勧められた。第五軍がサレルノ(ナポリがあるカンパーニャ州の州都)に上陸するのに私は同行した。黒焦げになって沈みかけた沢山の船や艀、欧州本土に初めて建つアメリカ墓地、白い十字架の群れ、そこに翻る星条旗。全てはサレルノの戦いがどんなだったかを物語っている。私たちは戦況図を見て、最前線は海岸から僅か四~六マイルの地点にあり、ナポリには未だ二十マイル以上あることを知った。私は最前線に出て、ナポリ一番乗りのチャンスを掴みたかった。
 遊撃隊司令部のダービー中佐が最前線キウンツィ峠行きの便宜を図ってくれ、私はシャスター堡塁に入った。峠の頂上で道が急カーブする陰にあり、数百年来の古い居酒屋がその正体。敵の砲弾は至る処に落下したが、砦は低く切れ込んだカーブに囲われ、命中し難い場所にあった。

 山腹の“タコツボ“陣地にいる兵は段々痛めつけられ、真夜中までに砦は一杯になった。戸口の近くは戦死者、真ん中には負傷兵、そして離れた片隅――そこには酒樽と一緒に写真家がいた。独軍は山腹の友軍陣地を的確に標定し、各中隊からは着弾の度に死傷報告が入って来る。迫撃砲弾は堡塁の関門の辺りにも命中し、破片が窓を塞いでいたマットを貫いた。私は馬鹿でかい二つのワインの樽という援護物のお陰で何とか落ち着いていられた。
 我が方は夜明けに七十五ミリ砲を搭載した弾痕だらけの小型装甲車(乗員五名)が夜明けに到着。装甲板にはアフリカのオランなど四つの有名な激戦地の名前が記されてあり、二十一歳の指揮官オブライエン大尉はシャツに銀の一つ星を帯び、派手に口髭を生やしていた。
 大尉は秘匿された敵迫撃砲陣地を発見する任務を与えられ、装甲車は正面へ約七十五フィート前進。敵は御座んなれとばかり全火力を集中する。私は最長距離の望遠レンズが付いたカメラを選び、堡塁の出口からその全行動を撮ろうとした。双方の撃ち合いが激しさを増し、私は弾丸の合間を縫って駆け戻らねばならなかった。が、華々しい戦闘場面を三十六枚のフィルムに収めることはできた。

 装甲車は約十二分間で全弾を射ち尽くし、岩陰へ引き下がった。オブライエン以下の乗員は無事で、彼は「敵の火線は峠の真下、森林中の小部落にある」と報告。私は夜のうちに堡塁を抜け出し、村を見下ろせる小藪の中に身を潜めた。
 最初の発煙弾が村の中央に落下。迫撃砲と巡洋艦と装甲車がその白煙の目標に数百の砲弾を降らせ始めた。私はやっと三インチばかり地上から頭をもたげ、写真を撮り始めた。村から砲煙は空へ舞い上がっていった。背景のヴェスヴィアス(火山)はその兄貴分といったところだった。日没には全てが再び静かになった。堡塁にはリッジウェイ少将らが到着し、ナポリの最後の攻撃は翌朝と定められた。
 10月22日、私は三十歳の誕生日を迎えた。私はイタリアの山から山へ、タコツボからタコツボへとうろつき回って、泥土と悲惨と死を写真に撮った。私は戦場から帰った翌日、“これが戦場だ“とタイトルを付け、ネガ全部をライフ社へ送った。二週間後、私の写真は雑誌の巻頭七頁にわたって掲載される予定、と電報が届いた。
2023.11.17 世界のノンフィクション秀作を読む(36)

           藤原ていの『流れる星は生きている』
           ――母が子のために書いた感動の記録(下)


                  
横田 喬(作家)

 ◇三十八度線(下)
 南へ南へと牛車は動いていく。私は牛車の傍を歩いている。太陽が昇ると人も牛も暑さの中にうだりながら前進を続ける。新渓で買った四円の草鞋は一晩で擦り切れ、私は裸足になった。足の裏が焼け付くように痛く、石でも踏むとずんと頭に沁みるように辛かった。行く手に大きな山が幾つも見え、三十八度線が近いことが判り、嬉しい。二人の子供は昨夜よく眠れたのか元気。咲子に乳を含ませたが、どうしても乳が出ず、甜瓜(まくわうり)の汁を注いで飲ます。
 八月七日夜、夕立でずぶ濡れになった侭、小学校の板の間に寝た。(また明日もこうして歩かねばならないと思うと、この侭静かに死んでしまいたい。)翌日、案外山の近いのに驚く。山を幾つも幾つも越え、最後に小さい三つの川を続けて渡り、牛車はここまで。四百円を牛車に払って、私は心細くなった。もう、金を借りる当てはない。子供を歩かせて三十八度線まで頑張らねばならない。そこを越えればアメリカ軍がいて、助かると聞いている。

 八月九日朝、とある集落の外れに日本人の落伍者が五百人ばかり三々五々と集まってきた。全然統制がない雑把な集団の中で、眉間に鋭い気魄の溢れる白髪の老人が目立った。一時間もたつと、この老人が指導者として団を指揮するようになっていた。老人の指揮により牛車が四、五台用意され、前の山を迂回して越える計画が立てられた。
 私は五百円の持ち金は牛車賃にほとんど費消している。集団の後に従い、付いていこうとすると、事情を察した老人は正彦を牛車の中に無理に割り込ませてくれた。大きな山を遠く迂回している山道には大きな石が多かった。私の裸足の足は昨日から腫れ上がり、足の裏が破れて出血。化膿したのか、奥の方が疼くように痛んだ。
 半日ほど経ち、峠を下った先に大きな川が行く手を遮っている。一番深い処が私の胸位。咲子~正彦~正広と一人ずつ順に抱いて、なんとか渡り切る。途中で飲んだ水が妙に渋くて胃の中に溜まっていた。小さい川、深い川、浅い川・・・幾つ越えたか覚えていない。
 日本人の群れに合流すると、私は土手の上につんのめってしまった。呼吸をするのさえ困難。頭が痺れるように痛く、意識がぼうっとした。私が貧血を起こして倒れていても、誰も言葉をかけてくれる者はなかった。

 私は野薔薇の上に倒れたまま一晩過ごしていた。日本人はあちらこちらに固まって眠っていた。やがて出発用意の声が聞こえてきた。立ち上がると頭にずきんとするほど足が痛かった。破れた足の裏の肉の中に小砂利がめり込み、血と泥で固まっていた。その内側で化膿しているに違いない。正彦の小さい足は私よりひどく傷ついていた。
 行進が開始された。私は例の通り一番後。「痛い、痛い」と泣く正彦を、蹴飛ばし、突き飛ばし、引っぱ叩き、私は狂気のように山の上を目指して登っていった。新渓出発以来、今日で六日目。山道の途中、私は初めて顔見知りの崎山さんと出会った。期せずして手を握り合い、「もうすぐ三十八度線。しっかり行きましょう」と誓い合った。
 平坦な道は急に下り坂になり、あっという間に広い処へ出た。久しく見たことのない田んぼがあった。走って行って、泥臭い水を腹一杯飲んだ。私たちは田んぼの土手に休んで大豆を食べ、飯盒の蓋に味噌を溶かして咽喉へ流し込んだ。
 田んぼ道を出ると、前に立派な大道があった。人家も立派だし、道は一本道に真っ直ぐ続いていて、前方に何か白い物――三十八度線の木戸があった。数名のソ連兵が早口で何か話し合い、やがてガラガラと音を立ててウィンチが巻かれ、遮断棒は静かに持ち上がる。ああ、この時の感激! 一人の兵隊が子供たちの頭を一人ずつ撫でてくれた。私たちは子供を引きずって、やっと屯所の見えない処まで来て、ほっとした。

 やがて日は全く暮れてしまった。「おーい! 日本人はどこかあ!」と声を限りに叫ぶと、遠くの方で「こっちだあ!」と答える。その方向へ向かって狭い田んぼ道を小走りに走って行った。子供たちも、私たちの身に重大な危険が迫っていると直感したのか、泣いていなかった。やがて、私たちは滔々と流れる大河の畔に立った。月も星もない、今にも雨が降りそうな夜だった。私たちは叫んだ。「日本人はどこか! おーい!」
 しかし、木霊も返って来なかった。私はもう一歩も進めない。「崎山さん、先に行って下さい」そう言って、川の黒い面を見詰めた。崎山さんは、いきなり平手でぴしゃりと私の頬を叩いた。そして、嚙み付くように言った。「気違い女!死にたけりゃ、さあ川へ入って見ろ、目の前に開城を控えて死ぬ馬鹿があるか!」
 崎山さんはぱらぱら涙をこぼしながら、私の腕を取った。「川に沿って上れば必ず橋がある」。神様のような自信を持って河原を上流へ歩いて行った。私は歯を食いしばって後に付いて行った。

 ◇アメリカ軍に救助される
 何か頭の中でじんじん鳴り、はっと目覚めたら、正広と正彦が私に取りすがって呼んでいた。私はトラックの上に乗っていることを知り、アメリカ軍に救助されたのを知った。私は両手をついて、何度も何度も頭を下げて泣いた。辺りには女や子供ばかりが乗っていて、崎山さん一家も無事に乗っていた。トラックはまもなくテントが林立する開城の避難民収容所に到着した。テントは百個ほども立ち並び、一つのテントが七十人位の人を収容。
 外れの方にあるテントに着くと、私は立派な毛布の上に身を投げ出し、口走った。――もういいんだ、助かったんだ、生きてきたんだ。そんなことを気狂いのように口走りながら、体だけは妙に抵抗のない処に置かれていた。昭和二十一年八月十一日の朝には未だ間のある夜中であった。

 目を覚ました。釘を踏んだように足の裏が痛い。D・D・Tの消毒、予防注射、それらに立ち会うために歩く痛さは針の上を歩くようだった。このテント村には素晴らしく完備した医療施設があり、私はこのテントをくぐった。医師は私の足の裏を見て、「これは酷い」と唸った。私を手術台に寝かせ、ピンセットで肉の中に入っている石の摘出を始めた。
 小石を摘み出し、金属の容器に捨てる毎にカチン、カチンと音がした。段々奥の方にピンセットが入っていくと、焼け火箸で刺されるように痛かった。ベッドにしがみついて我慢していたが、遂に痛さのために脳貧血を起こしてしまう。足の裏は完全に掘り返され、血液にどす黒く光っている発掘物が、金属の容器の底に固まっていた。悲鳴を上げる正彦は私にかじり付いてきた。泣き喚くのを無理に抑え付け、手術はどうにか終わった。(正広は丈夫なズック靴のお陰で足の裏はまずまず無事)

 八月二十六日夕方、釜山の埠頭に貨車は着いた。翌日、私は子供たちを連れて埠頭に行き、一人ずつ裸にして、瘦せ細って腹の突き出た体の垢を落としてやった。私たちはD・D・Tの消毒を受け、大きな貨物船で九月十二日に博多港に着いた。船中では夜半、「うるさいぞ! なぜ子供を泣かすんだ!」という罵声にびくびくし通し。正彦と咲子は全身おできだらけ。栄養失調の症状の一つで、おできに瘡蓋ができ、睡眠中の夜半、無意識に体を動かして瘡蓋が取れると「ぎゃっ」と悲鳴を上げる。私は子供を抱き寄せ、声を立てさせまいと努めた。
 最後の夜、妙に感傷的になり、北朝鮮の丘の上で歌った「流れる星は生きている」のメロディが唇をついて出た。――いつか貴方にまた逢える/きっと貴方にまた逢える/ご覧なさいね 今晩も/流れる星は生きている――
 口の中で低く繰り返し繰り返し歌っていると、涙の糸が頬を伝い、耳朶を伝い、船倉の床まで細く細く続いていた。そして自分自身が段々浄化されていくように落ち着いてくると、私は夫が傍に居る時のように久しぶりに安らかに眠りに入っていった。

 私は子連れで引き揚げ列車(有蓋貨車)で門司に向かい、長い時間待たされて、東京行きの深夜の普通列車に乗車。座席は取れず、通路にべったり座った。名古屋で中央線に乗り換え、塩尻に朝四時頃到着。新宿行きの汽車で岡谷を通過すると、車窓に諏訪湖が一杯に見える。薄い朝霧の中に沈んだように美しい。汽車は上諏訪に到着。待合室の大きな鏡に映った私の姿は、我ながら恐ろしいばかり。墓場から抜け出して来た、幽霊そのままの姿だった。
 駅前から電話をかけ、家族が出迎えに来る。二人の弟の孝平と良平、そして妹のれい子。(あっ!)と声を上げ、体当たりするような勢いで飛びついてきて、激しく泣き出した。大声で泣くれい子の力強い抱擁に、私の張りつめていた感情はどっと崩れてしまった。「おう、てい子」――両親の声が聞こえたが、もう涙で前は見えなかった。

 ▽筆者の一言 本編を通読し、巻末の辺り、弟妹たちや両親との再会場面に及んで、グッと熱いものがこみ上げた。「ああ本当に良かった!」と安堵の思いだろう。読む者に涙を流させずには置かない強い感銘が全編を貫く。筆者の藤原ていさんは帰国後、体調を崩し、発熱が続いた。この一編は「三人の子供たちに遺書のつもりで書き出した」という。旧軍部と官僚が犯した無責任と非人道ゆえに日本の開拓民・居留民32万人は筆舌に尽くせぬ塗炭の苦しみをなめさせられた。「ヒロシマ」「ナガサキ」に準ずる悲劇と言っても良かろう。それにしても、「母は強し!」。母性愛の気高さには、改めて敬服~脱帽するほかない。翻って、現下のガザの惨状。唯々茫然とし、己の無力さ加減にひたすら胸が痛むばかりだ。

2023.11.16 世界のノンフィクション秀作を読む(35)

       藤原ていの『流れる星は生きている』(日比谷出版社)
        ――母が子のために書いた強い感動の記録(上)


                   
横田 喬(作家)


 筆者(1918~2016)は作家新田次郎(本名・藤原寛人)の夫人。夫と共に39年に旧満州の首都・新京(現・長春)の気象台に赴き、45年のあの敗戦の日を迎える。未曾有の大混乱の中で夫を現地に一時残し、三人の子供を引き連れ、命がけの引き揚げ行へ旅立つ。その文字通り辛苦の一部始終の記録がベストセラーとなり、諸々の読者に強い感動を呼んだ。

 ◇涙の丘
 昭和二十年八月九日夜十時半頃、夫は役所から非常招集を受けた。夫は(緊急避難の)心構えの必要を説き、外出。私は非常持ち出しのトランクを点検した。冬支度用などの子供や大人の衣類に、非常食糧(若干の砂糖・乾パン・缶詰など)が少々。寝室で寝ている正広は六歳、正彦が三歳、そして咲子は生後一か月だった。私は急に淋しくなって涙ぐんだ。
 夫が帰って来て、蒼白な顔で告げた。一時半までに新京駅に集合~逃げるように、と。夫は仕事があり、後始末を付けないと動けない、と言う。泣き崩れた私は気を取り直し、母としての責任を意識した。新京駅前はごった返していた。私たちの団体は五十名ばかり。出発は翌朝九時と決定。夫は「疎開団の団長は戸野さん」と怒鳴った。最後まで見栄と体裁のために家族を犠牲にしようとする夫に、人並みの妻として涙を流すより仕方がなかった。
 無蓋貨車の外枠に体を持たせかけていると、独りになった淋しさが大波のように押し寄せてきた。発車と同時に降り注いでくる石炭がらをどうして防ごうかと考えた。急に私は泣けてきた。私の乳は昨夜からちっとも張って来ない。乳が出なかったら、この子は死ぬに決まっている。私はまた涙ぐんでしまった。
 
 宣川農学校、私たちの収容されたこの校舎には三百名ばかりの女子供が避難して来ていた。学校の裏に炊事場が作られ、急拵えの竈を築き、協同炊事が始められた。大豆と白米を半々位に炊いた握り飯が一日二回配給された。大豆が悪かったらしい。子供は殆ど全部お腹を壊し、大人も大部分の人が嫌な下痢に見舞われた。
 八月十五日は、よく晴れ上がっていた。ベルが鳴り響き、農学校の生徒約四、五百名が校庭へ集合。校長先生の挨拶~生徒たちの泣き声が、妙に遠見の私の神経を刺激した。何か起こったに違いない。部屋に帰った私は、青い顔をした戸野さんから戦争は終わったのだ、と知らされた。神経が細く細く尖っていた私たちは、みんな泣き出した。
 別の不安がすぐ湧き上がった。日本は負けた、すぐその後に何か起こるに違いない。私たちはすぐ逃げられるように用意をして、十五日の夜を迎えた。朝が待ち遠しかった。私たちは自分の影に脅えていたのだ。外出を禁止されたまま、不安な日を過ごしていった。
 私たちは日本人と呼ばれた。なのに、私たちが朝鮮人と言うと、彼らは非常に腹を立てた。今朝、西側の窓が物凄い音で破れた。続けてまた割れた。ワァッーと子供の声がし、十四、五歳の子供が五、六人、両手に石を握って、窓を目がけて投げている。新田さんが北側の雨戸をそっと閉めた。私たちは全てに対して無抵抗主義に馴らされていった。(この後、一家四人は平壌に遷る)

 ◇三十八度線(上)
 翌年五月十五日、日本人解放のニュースと共に、一日一人当たり米二合の無料配給が停止。四人家族がどうやって食べていけばいいのか。内職は大抵断られ、駅で煙草を売り(四円で買ったのを五円で)、一日二十個売らないと家中餓死してしまう有様に。夫用の下着が玉蜀黍二升に代った。石鹸売りの行商をしたり、早朝の市場での屑野菜拾いまでやった。現地の人にも、温飯屋の朴老人のような気のいい親切な人たちがいた。
 生き抜くには日本へ帰るほかないと思い定め、同じ思いの日本人の有志の人々と共に八月一日、鉄道を利用して南下を決行する。平壌から有蓋貨車で新幕(注:平釜線の現「瑞興」駅)へ。馬糞だらけの貨車内は臭気芬芬。地獄のような暗闇の中に直立したまま、何時間走ったか判らなかった。貨車から降りると外は暗闇。リーダーらしき人が言った。
 ――これから最も危険の場所を夜中歩きます。できるだけ荷物を軽くし、前の人を見失わないように急いで歩くのです。すぐ出発します! 落伍したら、おしまいですよ!

 ここで私は缶詰は全部捨て、炒ってない大豆を捨て、荷物を半分ほどにした。真っ暗い街の裏通りを小走りに駆け抜け、山道にかかる。赤土の泥道である。「逃げるんだ、逃げるんだ。逃げ遅れると、私たちは殺される」。私は三十八度線まで、こう心を叱咤しながら歩いた。正広はまもなく、めそめそ泣き出した。「おかあちゃん、歩けない」
 正広のことなんか構っていられない。正彦を十歩は抱いて歩き、十歩は手を持ち引きずって行った。背中の咲子と首に吊った荷物が雨に濡れて重くなる。肩に食い込む重みと、首をもぎ取ろうとするリュックが私の体を何遍も土にまみれさせた。前進するという思いだけが激しく私を支配し、歯を食いしばり、正広と正彦を怒鳴りつけていた。
 「正広!何をぐずぐずしている!」「正彦!泣いたら、置いて行くぞ!」
 私はこの時初めて男言葉を使っていた。自覚しないで口をついて出てくるものは、激しい男性の言葉であった。やっと坂を登り切った頃、夜は明けてきた。私は元より、二人の子供の姿はひどかった。赤土の泥を頭から被り、上着もズボンも一晩のうちに赤土の壁のように汚れている。二人とも、辛うじて眼だけが光っていた。

 山に向かっている道は途中から狭い狭い道になり、やがて無くなる。泥濘の帯のようなものが緩やかに傾斜してどこまでも続く山蔭をいつまでも登っていった。足の踝まで吸い込んだ赤土の泥は、一旦入った足を決して放そうとはしない。時には膝まで入る泥沼に出る。二人の子供を連れて先に行ってくれた一行の人たちのことを死ぬほど感謝しながら、ひたすら後を追った。
 もし昨夜のように二人の子供を連れていたら、一歩だって歩けはしない。泥沼にはまって死ぬより仕方がないことは明白。前を行く人の姿が雨の中に遠く消え、最後の一人となって後で行ける私の希望は、二人の子供が前に生きているということだけだった。
 切り立つように崖が両方から迫る処を通り抜け、見たものは一人の気の狂った女だった。「う・・・あ・・・坊やが死んだ!」。絶叫している女が狭い道に倒れていた。真っ青になって死んでいる幼児を抱いて泥の中に苦しみもがいている女は、顔見知りの保坂団の人であった。その女は髪を引きむしり、死んだ子供にすがり付き、慟哭するのであった。
 私はその女のことはどうでもよい。早く自分が救われたかった。頭の中が痺れるように痛い。腰から下が感覚を失ってきた。およそ半日近くも歩いた頃、遂に私は前方に休んでいる日本人の群れに追いつくことが出来た。こうもり傘の下に小さいものの姿があり、それは正広と正彦の哀れな姿だった。

 藁小屋の中で思案する中、ゴトゴトという音がし、牛車に日本人が十数名乗っている。(そうだ、牛車がある。金を惜しんではいけない)。雨の中を探し回り、一軒探し当てたが、新渓まで千円かかるという。その辺の民家などにごろごろしている人を誘い、やっと十名の寄せ集めの一団を作り、牛車に乗ることにした。藁小屋に飛んで帰り、子供たちを起こす。
 「新田さん、どうしますか」。私は新田さん夫婦にも誘いかけてみたたが、奥さんの反応は良くない。半眼に開いた瞳は、あらぬ方を指し、反応はなかった。立派な天文学者の最期がどうしてこのような暗い雨の晩であったのか、今の私には何もできない。
 牛車の心棒の上に乗り、私は左に正彦、右に正広を両手で抱き寄せる。四人が頭から一枚の風呂敷座布団を被って小さく寄り合うと、ごとりと牛車が出発した。(よかった、危機が脱せるかも知れない)。今夜一晩、また頑張ろうと私は決心した。子供たちは牛車が動き出すと眠ろうとする。危なくて危なくて仕様がない。「眠ったら落ちて死ぬぞ!」。必死に叫んで注意するが、とても口では駄目。処構わずひっぱたいては目を覚まさせた。

 午後の三時頃、第一目標地点・新渓の郊外に到着した。私は牛車に金を払った。後は百円と少々だけ。旅程は三分の一に未だ達していない。金は何とかして作らねばならない。私は昨夜、雨の牛車の上でその計画を立てていた。まず自分たちの団を探すこと。それは訳がなく、佐藤さんの洋傘が開いてあり、その下で彼女は顔に泥を付けて眠っていた。
 私は目覚めた佐藤さんを引っ張ってリンゴ畑の土手の下へ行き、談じ込んだ。「お願い、五百円貸して頂けないかしら。貴方が今いくらお持ちか、ちゃんと知っています。一文無しの私を殺すも生かすも貴方一人の決心よ。お願い、五百円貸して下さい」。私は泣き伏してしまった。初めは言を左右にしていた佐藤さんも、終いには承諾。私は借金の証文と引き換えに、五百円の金を数えて受け取った。(これで、子供を牛車で運ぶことができる!)
2023.11.09 世界のノンフィクション秀作を読む(34)
 
L・ペイヤールの『ラコニア号遭難事件』(筑摩書房、近藤等・寿里茂:訳)――信じ得ないナチスUボートによる人道的救援活動の記録(下)

                  
横田 喬(作家)


 ◇救助作業始まる
 9月13日、ドイツ海軍軍令部。デーニッツ提督は暗号解読済みの一通の電文に目を走らせた。「英船ラコニア号撃沈ス。残念ナガラ、イタリア捕虜千五百輸送シアリ。現在マデ、九十名救助。指令求ム。ハルテンスタイン」。U156号からの第一報だった。デーニッツは考えた。どうしたら援助できるだろうか。付近の海域に居る他のUボートにも協力させる。だが、そんなことをしたら、U156号ばかりか他の艦も皆、喪失することになるまいか。
熟慮の末やおら心を決し、一枚の紙に記す。「シャハト、ヴェルデマン、ヴィラモヴィッツ、直チニ全速ニテ、ハルテンスタインの所在地七七二一へ向カエ」。(電文は決して潜水艦番号を記さず、艦長の名前を使うのが軍令部のやり方)。指令を受けた三隻の潜水艦(U507・U506・U459)は、直ちにU156号の救援に向かった。

 この日朝、洋上に日が昇った。遭難者にも一寸は救いになったが、まもなく太陽は激しく照り付け、生き残った人々も暑気に苦しんだ。太陽の直射光に曝された手足は腫れ始め、水庖で覆われてしまう。大抵の遭難者は酷く喉が渇くのだった。大型ボートでは、シスター・ホーキンズが突然、遥か彼方に何かを見て、「御覧なさい、あそこよ!」と口走った。 
太陽がバラ色に染めている海に映える乳白色の船である。筏の方に進んでくるのは、浮上したままのUボートだった。見るとドイツ人で、司令塔に白い帽子の乗組員が鈴なりになっている。遭難者たちは、ヒットラーの潜水艦のこと、銃撃されるのではといくらかドキドキしていた。が、筏の前を通過~半マイル先でUボートは停止した。全然銃声も起らず、ドイツ兵が武器を使う様子がないことは明らかだった。
 同日朝7時20分、軍令部から入電。「ハルテンスタイン。現在地点ニトドマレ。貴艦ニ協力ノ潜水艦モ、潜航可能範囲ニ遭難者ヲ止ㇺベシ」。ハルテンスタイン艦長はこの日の真夜中、副長に艦内への収容者の人数を質した。答えは「百九十三名です。イタリア兵が大半で、二十一名はイギリス人」。六十名が収容限度のちっぽけなこのUボートに、二百五十名も乗っていた訳だ。(敵に攻撃されても、身を護ることも潜行することもできまい)。

 司令部の連中は漂流物や死体に覆われた海など、想像もつくまい。鮫が、連中の足や腕を喰い千切っているというのに。あの溺死していた女などは、鮫に腹部をやられて腸が露出していた。そんなのは、連中は見たこともないのだ。判らん連中だ。初めて、この戦場の勇者も、憐みの気持ちを起こしたのだった。
 一方、軍令部のデーニッツ提督に一つのアイデアが浮かぶ。大西洋沿岸のアフリカ西端・セネガルのダカール港にヴィシー政府(1940年、対独敗北で成立したフランスの傀儡政権)のフランス艦隊の大部分が集結している。(支配下のフランス海軍に救援を求めてみよう)。デーニッツの腹は固まった。因みに、ヒットラーは自分の考えに敢て反対を述べる提督に対しては、敬意を払っていた。海軍の事だけは、自身も全く無知だったからである。
 「遭難者はイタリア兵が大半」なら、付近にいるイタリアの艦船も動員すればいい。提督からの要請を受け、イタリアの潜水艦「カペリーニ」号の派遣が即決する。ダカール港からは対独協力のフランスの重巡洋艦「グロワール」(七千六百トン)と「アナミット」号など小型の通報艦二隻が問題の海域へ向かうことになった。
 
 9月15日、U156号。10時30分、当直交替の水兵が食事だ。トマト付きの野菜・肉・ジャガイモと黒パン、それに冷凍果実。飲み物は蒸留水で、それに果物と砂糖で出来た錠剤を服用する習わしだ。煙草と一緒に、この錠剤も収容者に配給された。ハルテンスタイン艦長は冷たい顔つきにも拘らず、自分たちのやった攻撃に心を痛めているように見えた。
 この日は、未だU156号の補給を受けられなかった人々にとっては、今まで一番耐え難い一日だった。焼け付くような太陽の下、広漠たる海水はギラギラと照り返し、眼が痛む。まるで、海が湯気を立てているよう。凄まじい直射光から身を護ろうとして、海水を浸した襤褸切れで手足を覆う。頭にはハンカチを載せる。幻覚症状を起こした者もいた。

 ◇大西洋上に潜水艦など集結 
 9月16日11時32分、U156号にU506号が接触。156号が収容する二百六十三名のうち百三十二名を移乗させる。舷側を接しての移乗作業はそう簡単ではなく、移乗完了は13時02分。二隻のUボートは互いに別れ、別の遭難者の探索に向かった。
 U506号はまもなく百名以上の生存者を乗せた一隻の救命艇を発見。移乗作業を開始するが、三十歳位の英国人女性が恐慌状態に陥り、すすり泣きしながら「殺して、殺して!」と叫ぶ。ドイツ側の将校の一人がユーモア混じりの英語でなだめ、空気は和らいだ。イタリア兵は服装も酷く、惨めな状態だった。朝には収容者は二百名を超えていた。
 15時04分、U506号は第二のボートに接舷。乗り組むイタリア兵三十一名、イギリス人二十六名(うち女性二名)に補給を済ませ、曳航する。さらに三番目・四番目のボートの救助に向かう。17時55分、軍令部に百五十三名(うち女性二名)艦内収容と打電。収容者には大鍋に一杯のスープが一人一人の碗に分けられ、その美味いことと言ったらなかった。

 U156号 9月16日11時25分、見張員が七〇度方向に四発の爆撃機を発見。ハルテンスタインは前部備砲の周りに赤十字の旗を置くよう指示した。同艦が生存者救助を開始した13日に作らせておいたものだ。爆音は大きくなり、星のマークで米軍機とはっきり判る。
 機上の観測員も、きっと何マイル向こうにも何隻か潜水艦のいるのを認めたに違いない。艦長はモールス信号で連絡、「本艦ハドイツ潜水艦ナリ。英国遭難者ヲ救助中」と打電させた。が、応答はなく、爆撃機は一旦南西方向へ飛び去った。
 ところが、同機はまた姿を現し、高度八十メートルまで急降下。爆弾倉が開いているのを見て、ハルテンスタインは恐怖に襲われる。12時32分、叫び声が上がる。三秒後、二発の爆弾はUボートの近くに落ち、高い水柱が二本上がる。二回目のは至近距離に落ち、ボートの生存者はこれで大分死んだ。四発機は三度爆撃し、収めた戦果は傷病者を満載したボート一隻。(爆撃手はまるで未経験か、神経症だったのか)何ともおかしなことだった。

 9月17日15時40分~17時、U507号のイタリア兵百六十四名が通報艦「アナミット」号に移乗。担架に乗せた重傷者がいて、一度に十名ずつがやっと。また、疲労困憊した連中、病気や負傷している連中をボートに移すのを、手助けしてやらなくてはならなかった。
 17時~18時40分、「アナミット」号は、さらにイタリア兵百四十二名、婦女子九名をU506号から移乗させた。この小さな通報艦は、三百十五名も収容している。医務室は負傷者で満員。ふくらはぎや踵を鮫にやられた者が目立ち、手当てには全力を尽くした。
 巡洋艦「グロワール」は迅速に行動し、16時に西方18キロの処に四隻の帆を張ったボートを発見。17時25分、艦を停止~移乗作業を開始する。波が高い中、なんとか移乗完了。収容者は全く酷い姿で、剥き出しの尻の片側を(鮫に)抉り取られたイタリア兵がいたり、あるイギリス婦人はボロボロになった絹の服を纏い、よろめいていた。艦橋に立ち通しだったグラツィアニ艦長は、南東方向にぽつんと一隻だけのボートを発見。一隻だけ孤立し、多数の生存者を水面すれすれまで収容している。これも22時に移乗~収容完了。

 9月18日10時過ぎ、「アナミット」号は巡洋艦「グロワール」と出会い、できるだけ接近。12時半、遭難者の移乗を無事に終えた。イタリア兵三百七十三名、イギリス人五百九十七名(うち婦女子四十八名)、ポーランド兵七十名、それにギリシャ人一名。この「グロワール」は9月21日にダカール港に到着~カサブランカに向け出港した。
 まるで戦争は終わってしまったかのようで、イギリス人、イタリア兵は互いに親しみを示し合い、生き残れたという喜びが、艦内の収容者にみなぎっていた。ラコニア号のボートの最後の一隻は10月21日、未だ海上を漂流。乗っていた五十一人のうち四人だけが生き残って、イギリスの軍艦に救助された。

 ▽筆者の一言 第二次大戦の最中に起きたナチUボートによる英国船ラコニア号撃沈は、かのタイタニック号の遭難事故(1912年発生、犠牲者1514人・生還者710人)を上回る規模の大きな惨禍(犠牲者1619人・生還者1113人)をもたらした。が、その後に起きたUボートなどによる手厚い救援活動の子細には唯々目を見張る。(あのナチスにして、この善行あり!)そして、アメリカ軍機が薄見っともない悪役として然るべく登場する。一連の事実経過は、戦後のニュルンベルク裁判の審理過程で微細な点まで明々白々になった。当たり前の話だが、この世には百パーセントの善玉も存在しなければ、百パーセントの悪役も存在しないのだろう。目下の中東情勢に鑑みても、そう思えてならない。
2023.11.08 世界のノンフィクション秀作を読む(33)
 
L・ペイヤールの『ラコニア号遭難事件』(筑摩書房、近藤等・寿里茂:訳)――信じ得ないナチスUボートによる人道的救援活動の記録(上)

                  
横田 喬(作家)


 ナチスの暴状を知る者には信じ得ない物語である。Uボートの艦長が撃沈した英国の輸送船の乗員を救助するため、命懸けの異常な行動に出る。フランスのノンフィクション作家L・ペイヤール(1898~没年不詳)は独・英・仏の三方面の関係者から詳細正確な資料を集め、その稀有な人道的救援活動の一部始終を子細入念に綴っている。

 ◇ハルテンスタイン艦長とUボート156号、そして商船「ラコニア号」 
 1942年9月12日、11時30分。果てしなく続く白味がかった海に熱帯の太陽が照りつけている。パルム岬(西アフリカのリベリア海岸南東端にある)の南方五五〇マイルの処を、今U156号は浮上航行で南進中だ。ロシアでも、アフリカでも、ドイツ軍は破竹の勢いで戦果を挙げ、デーニッツ麾下の潜水艦隊の全員も意気軒高たるものがあった。
 11時37分、「右舷二三〇度、煙発見!」。艦長の命令が下り、巡航速度一〇ノットから一六ノットに直ちにスピード・アップ。司令官ハルテンスタイン少佐は、遠距離望遠鏡で例の煙を注視している。12時20分、敵船はジグザグ航法を取っている。未だ、こちらは発見されてはいまい。15時、最初の発見時の感じよりずっと大きな敵船は一五ノットで航海中。
 21時。南緯四度、西経一一度〇八。三一〇度方向の敵船に接近する。22時7分、「発射管1号・3号用意!」。ハルテンステインは最後に潜望鏡を見て、指令を下す。方位・速度・伏角・・・。「第一発射管、発射!」。少佐自ら力を入れて発射スイッチのレヴァーを下げる。この時、彼とても、いま発射した二発の魚雷が、まさか海の最大の悲劇の一つの原因になろうとは、夢にも思わなかった。

 その夜の一か月前、1942年8月12日。船齢二十年という老朽商船ラコニア号(一九、六九五トン)はスエズ湾に投錨していた。前日に、三千の英軍将兵が装備と共に上陸を終え、急いで運河地帯を離れなければならなかった。いつ、ドイツ軍爆撃機に攻撃されるか判らないからだ。大西洋の海の戦いは、今や枢軸側の潜水艦作戦で頂点に達していた。
 平時に北大西洋航路を走っていたラコニア号も、こんな次第で戦艦「ネルソン」など数隻に護衛された十七隻の船団に編成され、アフリカ回りでスエズに到着したのだった。兵員は上陸を終えたが、帰航にも乗船者があった。重傷の英軍将兵、カイロ周辺に居住していた官吏とその家族、そしてリビア戦線で捕虜になったイタリア兵千八百人余り。彼らは垂直な鉄の階段を通って船倉へと降りて行き、扉に錠が下ろされ、監禁状態となっていた。

 ◇「S・S・S!」 
 潜水艦の司令室に居た連中は皆、第一回の魚雷命中で、水柱がラコニア号の真ん中辺りに高く上がったのを見た。水柱は上甲板にまで届き、その後、船体の黒い裂け目がはっきり見えた。慎重に、U156号は船に接近する。敵船は船足を停めるまでに半マイルほど進行して、停止した。右舷が傾いている。信号兵が敵船の電文をキャッチする。
 ――S・S・S。コチラ、ラコニア号、雷撃ヲ受ク・・・
 通常の遭難信号ならS・O・S、「S・S・S」は「我レ潜水艦ニ攻撃サル」だ。司令室から航海士の声がする。「撃沈したのはラコニア号、一九、六八五トン。1922年建造。開戦当初より兵員輸送に従事、六千名収容可能」。
 当のラコニア号では、事態を悟ったシャープ船長が退船命令を出していた。轟轟という音が船橋にまで響き、船腹の裂け目から大量の水が流れ込んでいた。船長は「救命艇デッキから、できるだけボートを海に降ろすよう」指示。各部の乗組員に退船命令を出した。Bデッキに居た一団の乗客は、海よりも船に居た方が安全だと思い、避難をためらっていた。
 雷撃から二十分、筆舌に尽くし難い混乱が、救命艇甲板を覆っていた。三等航海士のバッキンガムは、広い甲板の後部に辿り着いた。未だ二~三隻は救命艇を海に降ろせる。筏も、船が沈む時には滑り降ろして水に浮かべられる。もう終わりはすぐそこまで来ていた。

 20時46分。右舷に傾いたラコニア号は、船首の方から次第に沈んでいった。船上に留まっていた最後の乗客たちの生命も、今や風前の灯。船体の中央部から後尾にかけて、数メートルに亘ってぱっくり口が開き、船内に轟轟と音を立てて海水が流れ込んでいた。少しでも場所を取るまいと立ったままの人間を満載したランチに、更に乗り込もうと人々が骨折っていた。陸軍の高級将校が一人、命令を下した。「この筏を降ろせ、各自退避しろ」。士官のライリーも退船すべく、筏を海上に降ろした。海上は真っ暗だった。
 乗客のピールは最後にラコニア号を離れた連中の中に居た。海面まで数メートルしかない縄梯子に齧りついていて、絶望の声を耳にした。それは人間の声とは思えなかった。ピールは黒い海に滑り落ちると、初めて叫び声がはっきり響いてきた。「鮫だ!」。一メートル五十ほどの小さな鮫が何匹も居て、遭難者の群れに忍び込み、鋭い歯で尻の肉を食い千切っている。ピールはどうにか筏を見つけ、幸い乗り込むことができ、事なきを得た。

 U156号艦上。「酷いことになっている。いつまでも、こんな処には居たくない」と艦長は言う。敵船撃沈はこれまでタンカーや貨物船ばかりで、商船という場合はなかった。今度は事情が違う。何千という人間、恐らく婦女子が、雷撃で水中に放り込まれている。
 ラコニア号の位置は、直前一マイルの処だった。材木や筏にぶつからぬよう、注意して操艦しなくてはならない。艦長の眼には、漂流物に掴まったり、泳いだりしている人間が映った。三、四ノット位に減速して進むと、周りは破壊と死の荒野だ。ラコニア号の姿は、立ち昇る黒煙で見えない。筏の上の遭難者二人が艦上から投げたロープで引き寄せられた。「イタリア人だ」と言い、千人以上も居て、捕虜だということが判り、艦長は肝をつぶす。
 遭難者が次々救い上げられていたが、イタリア兵ばかり。恐らく連中が固まって泳いでいた一帯だったのだろう。やがてラコニア号は23時25分、轟音と共に海底深く没した。
 火山が海底深くから突然湧き上がったかのように、水は轟き、渦を巻いた。人間、筏、板切れ、何千というめちゃめちゃな残骸が、水面に浮かび上がってきた。
 海面にはイギリス人とイタリア兵がいたが、全員を救助すべきだと、乗組員の誰もが考えた。まもなく艦内の前後尾魚雷発射管室は、遭難者で溢れてしまった。約九十名が救助されたが、ぎっしりと寄り合い、立ったまま。熱いコーヒーを飲み、スープをすすっていた。U156号は漂流物の間を進み、女や子供の泣き声の上がるボートに向かって進んだ。

 ◇「神の祝福あれ・・・・・・」 
 9月12日から13日にかけての夜は、遭難者全てにとって、無限に続くように思われた。ある者は、ボートにギュウギュウ詰めになっていて弱り切り、頭も朦朧としていた。皆びしょ濡れで、体もすっかり水浸しであった。日中は酷く暑かったが、夜は凍り付くかと思われるほど寒かった。交代でボートを漕ぎ、大型ボートを護った連中は、ボートに積んである筈の救急物資を調べてみたが、殆ど何もなかった。
 運の悪い連中は、筏に掴まったり、筏の上に横になって、じっとしていた。下手に動けば、筏はひっくり返ってしまうからだ。少しでもしっかりした大きな物を探して、泳いでいる者もいた。少しでも浮いていようとして、人間同士激しい争いが行われた。
 ボートにイタリア兵が乗っているのが、イギリス人にとって、とても不安だった。雷撃のお陰で自由の身となった連中は、これからどんな行動に出るだろうか。イタリア兵を信用できなかったので、恐怖を感じ、冷静さも失っていた。
 同じ頃、シスター・ホーキンズの乗った筏が、波のまにまに流されていた。ウェルズ中佐も泳いで筏まで来た。中佐は腹部に激痛を感じ、一晩中苦しんだ。筏には九人か十人居て、交代で筏の上に乗っては、休息をとっていた。月が蒼白く、どうやらお互いの顔が見えたが、みんなの窶れた顔は、油でべとべと。吐き気を催すほどだった。

 ◇救助作業始まる 
 九月十三日、ドイツ海軍軍令部。デーニッツ提督は暗号解読済みの一通の電文に目を走らせた。「英船ラコニア号撃沈ス。残念ナガラ、イタリア捕虜千五百輸送シアリ。現在マデ、九十名救助。指令求ㇺ。ハルテンスタイン」。U156号からの第一報だった。
 デーニッツは考えた。どうしたら援助できるだろうか。付近の海域に居る他のUボートにも協力させる。だが、そんなことをしたら、U156号ばかりか、他の艦も皆、喪失することになるまいか。熟慮の末やおら心を決し、一枚の紙に記す。「シャハト、ヴュルデマン、ヴィラモヴィッツ、直チニ全速ニテ、ハルテンスタインの所在地点七七二一へ向カエ」。(電文には決して潜水艦番号を記さず、艦長の名前を使うのが軍令部のやり方)。指令を受けた三隻の潜水艦(U507・U506・U459)は、直ちにU156号の救援に向かった。

 ◇九月十三日、日曜日 
 洋上に日が昇った。朝の中は遭難者にも、ちょっとは救いになったが、まもなく太陽は激しく照り付け、生き残った人々も暑気に苦しむのだった。太陽の直射光に曝された手足が腫れ始め、水泡で覆われてしまう。大抵の遭難者は酷く喉が渇くのだった。
 大型ボートでは、シスター・ホーキンズが突然、遥か彼方に何かを見て、「御覧なさい、あそこよ!」と口走った。太陽が薔薇色に染めている海に映える乳白色の船である。筏の方に進んで来るのは、浮上したままのUボートだった。
 見るとドイツ人で、司令塔に白い帽子の乗組員が鈴なりになっている。遭難者たちは、ヒットラーの潜水艦のこと、銃撃されるのではといくらかドキドキしていた。が、筏の前を通過~半マイル先でUボートは停止した。全然銃声も起らず、ドイツ兵が武器を使う様子がないことは明らかだった。

2023.10.31   世界のノンフィクション秀作を読む(32)
チャールズ・M・ダウティの『アラビア砂漠』(筑摩書房、小野寺健:訳)            ――砂漠のアラブ族に関する第一で不可欠の宝典(下)

横田 喬(作家)


 ◇ザイドの家族、妻ヒルファ
 遊牧民のザイドにはヒルファの他にもう一人の妻があったが、逃げてしまった――大抵の夫婦では、男が暴虐であるため、これは珍しいことではない――そして今は彼女の母親の部族、ビシュル族と暮らしていた。この部族は、同じ荒野を我々より僅か前方で放牧しつつ移動していた。ザイドは、この隣人の許へ馬を走らせ、自ら嘘偽りを十分承知で結構な約束を並べ、再び彼女を我が物として連れ帰った。
 ある首長が私に語ったところでは、この女は「卵のように大きい目をした」美しい女だということだったが、会ってみると、目ばかり大きくて、蒼白い女だった。戻って来た妻は、嫉妬心に燃えたヒルファの居る我々と一緒にテントを張ろうとはせず、ある肉親と共に別の宿営地にその小屋を「建てた」。
 ザイドとヒルファは又従兄妹。ヒルファはある首長の遺した孤児で、ザイドは一つには彼女の父親から譲られた二、三頭のラクダの故に、彼女を娶ったようだった。ヒルファは背の低い、ずんぐりしたベドウィン娘だった。年齢は二十歳位だったろうか。その子供っぽい顔には、青春の盛りも粗方は消えて、今や秋の訪れが見られたが、決して汚くはなかった。
 彼女はいつも明るいが、ぎこちない笑いを立てはした。それは充たされぬ心故に、きっと吐息に終わるのだった。「悪しき夫は女の吐息」と諺は言う。ヒルファは、母に成れぬことを思って、吐息を吐いたのである。彼女はもう二年間夫と共に暮らしたのに、未だ子無し。遊牧民の言葉では「娘のまま」なのだった。そして彼女は、セム族の女らしく心の中で泣いていたのである。

 ベドウィンらしい素朴さで、私の前に座っている二人は、毎日楽しく戯れていた。私たちは皆一家族であり、好意を持ち合っているからである。しかし、その最中に、よくヒルファが膨れてしまうことがあった。すると、ザイドは、冷たく彼女を投げ出してしまい、二人の心は再び離れてしまうのだった。ヒルファは重い気持ちで、もはや気が抜けてしまったザイドなどよりも若々しい夫を望んでいたのである。
 ザイドは自分に子供を与えることが出来ないのでは、と彼女は思っていた。二人は何度も何度も異国のクリスチャンである私に向かって、自分たちに子供が出来ないのは何故だろうか、復従兄妹同士で結婚したのが律法に背いている故では、と尋ねた。
 小柄な体で短気なヒルファは、首長の家に生まれた高い血筋の故に、女部屋の中の首長であり、男たちにも敬意を払われていた。主立った首長たちは皆、彼女の近親者だった。アラビアの小部族小村落の間では、絶えず近親同士の血の交わりが行われている。何世代にも渡ってそれが行われてきた果てに、今日では、そのためにどれだけこのセム族が衰弱したか判らないと思う人もあろう――だが実際には、殆ど白痴もいざりも見当たらないのである。
 大胆なヒルファは、道徳に背き、部族民の中のある好もしい若者に目をつけ、夫の留守の間に堂々と言い寄って、ザイドの怒りを招いた。が、彼は分別があり、首長としての務めに忠実だった。この辺のフカラ族の女たちは極めて率直で(全ての者が近親者の土地柄か)、私は一度も夫たちが嫉妬心を起こすのを見たことがない。ヒルファとザイドの喜劇は、彼らの親族たちが集まって珈琲を飲む長老会議で、毎度冷やかしの種になった。

 ◇女の運命、息子と娘の違い
 この土地では、女の運命は不平等な妾関係であり、貧しい生活故に、退屈な隷属的な身分である。女に対する両親や後見人の所有権は、夫となる男が幾ばくかの金を渡してもらい受けるのだ(弱き性としての彼女に対する侮蔑と強制である)。そして、いつの日か夫が彼女を愉しむことが出来なくなると、離別されるかも知れないのである。
 男の心はその女だけが独占するわけに行かない。他の女と自分の結婚生活を分け合うことを考えなくてはならない。遠からず彼女が衰えてくれば、息子を孕むという素晴らしい手柄を立てない限り、確実に無益なものとして追い払われてしまうのだ。愛とは鳩のように優しい信頼だ。侮辱された女の心がそれを認めるわけがない。
 幸せな結婚生活が長く続く遊牧民の女は殆どいない! 最初の夫の家にずっと居る女はごく僅かか、皆無に等しい。豊かな男や首長のような場合は、やがて古女房とは離れて新しい花嫁の寝床に移っていく。そうでなければ、天の定めに従った回教徒の男とは言えないのだ。豊かな男は、季節によって衣裳を取り替えるように、新しい妻に楽しく金を使う。

 捨てられた妻は、誰か年取った女を好む偉い男に拾い上げられるか、もっと貧しい男とまた結婚して家事に従事するのである。女の喜びと慰めは息子の母となることである。そうすれば、少なくともその子の無情な父親が彼女を捨てる時が来ても、息子のテントの中に主婦として留まることが出来るのである。
 女という性は、古代の遊牧民にも、モーゼの律法においても、蔑まれている。女児が生まれた場合、浄めの式の期間は倍になり、その赤ん坊の評価も半分である。しかし男児を生んだセム族の母親は名誉である。野蛮なアラビア人の間でも、大人になった息子が若々しい妻に対する愛情よりも母親を大事にして、細かく敬意を払うのはよく見られるところだ。

 ザイドは意地の強い妻をみっちり馴らそうとし、折を見て夜中に鞭で叩き直した。ヒルファはザイドが長老会に出かけると、怒ったまま全てを放り出して荒野に逃げ帰ってしまった。不満のあるベドウィンの妻はこうして問題を解決するのだ。夫が私を自由にしようとはしないから、私は夫から離れたのだ。夫との結婚生活も家族も捨てて行くのだということを示し、夫を公衆の笑い者にするのである。
 翌日の午後、私はヒルファをザイドの家に連れ戻すために出かけた。ヒルファは少し恥ずかしそうな顔をして、私を出迎えた。年取った女房たちは叫んだ。「私たちのパイプに煙草を詰めなさい。でないと、ヒルファはやらないよ」。若者たちは、自分たちがヒルファと結婚する、彼女は離さない、二度と「あの悪いザイド」には渡さない、と言うのだった。私は(みんなのパイプに)煙草を詰め、老婆の群れ共々、私のテントに戻った。――そしてヒルファは、再び自分の家に戻ったのである。

 ◇メッカへのキャラバン
 私はこの数年、その内容たるや一生に匹敵する長い月日を、アラビアで過ごしてきた。そして今やアラビア半島の真ん中に居た。私がアラビアで罹った病も、段々酷くなってきていた。手足は腫物だらけだった。この根太は、悪い水を飲むのが原因だとされている。私の場合は(腫物は)五カ月近くに及んでいた。
 ――遂に、タイフの町は眼前に迫った! 二年間砂漠を放浪した後の私には、素晴らしい眺めだ。町の向こうには低い山々が続き、黒々とした岩ばかりの景色も望むことができた。
町全体の眺めは、全ての住民が住んでいるのは夏季だけなので、荒廃している。
 (注)かのアラビアのロレンスによる本書推薦の言を付け加える。「私はアラビア・デセルタ(ダウティの著作『アラビア砂漠』を指す)を十年間も研究してきたが、今やこれが世の尋常な書物でなく、いわばこの種類中の一つの聖書であると思うに至っている。このような書には年代はなく、時とともに古び去ることも決してあるまい」。

 ▽筆者の一言 偶然の暗合に驚く。中東の砂漠の民に関する必須の文献に目を凝らしている最中、痛ましい惨禍がガザ~イスラエルにまたまた降りかかった。テレビの画面や新聞報道が連日のように伝える生々しい現実にただただ息を呑み、己の無力さが歯がゆく、嘆かわしいばかりだ。私なりに互いの憎悪の淵源に思いを致す。自身は正しく、相手が悪いという絶対的な思い込みだろう。事態の淵源にさかのぼれば、アメリカとイギリスが第二次世界大戦直後、中東の一角に人工的な「ユダヤ人国家」をこしらえた一事にどうしても行き着く。「覆水、盆に返らず」という諺を改めて、苦く、痛ましく、かみしめるほかない。

2023.10.28  世界のノンフィクション秀作を読む(31)
チャールズ・M・ダウティの『アラビア砂漠』(筑摩書房、小野寺健:訳)                    ――砂漠のアラブ族に関する第一で不可欠の宝典(上)

横田 喬(作家)


 上掲の英国人作家ダウティ(1843~1926)の著作について、かのアラビアのロレンス(1893~1935)は同書に寄せた序文で「砂漠のアラブ族についての唯一無二の宝典」とまで激賞している。ダウティはこの書物を完成するのに九年の歳月を費やしたとされ、遊牧アラブ(ベドウィン)の日常生活や自然の情景が円転滑脱な文体で生き生きと描かれている。

 ◇巡礼キャラバンの出立――ダマスカスからメダイン・サーリへ
 アラ-の大門とは、ここから聖なる巡礼隊が出立することから名付けられたものであるが、そこから先は、眼前数百リーグに亘ってハラメインまで高地に広がる砂漠が続いていた。先ず初めは、十日から二十日に亘って、石灰岩の上に重なる小石とローム層の荒野がどこまでも上り坂となって、ペトラに近い「エドム山中」のマーンまで続いていた。ムゼイリブから二十六日間進むと、メジナ(予言者の町である往古のヤスリブ、メディナト・エン・ネビ)だ。そこから四十日進めばメッカだ。
 日の沈む頃、我々はケスミーという街外れの寒村に到着した。道路の脇には白いキューポラが見えた。巡礼隊の長がダマスカスからの荘厳な旅立ちの夜に、眠りをとる場所である。我々は荒野を横切る踏み慣らされた道を通った。壊れかかった橋なども見えた――オットマン帝国では、もはや何もかも壊れかけているのだ。この荒野には、あちこちに氷河に押し流されてきた岩塊が転がっている。驚いたことに、これと同じような物は、世界中どこへ行ってもあるのだった。

 ケスミーの泊まりは酷かった。雨もよいの空の下で、野外の汚い原に寝たのである。大してまどろむ時間もなかった。夜半を三時間過ぎた時には、再び鞍上の人となっていた。後から、これを最後にさらに幾人か貧しい放浪者が加わった。彼らは陽気にこの聖なる旅に加わり、太陽が昇って大地に暖かい微笑みを投げかけると、目を覚ました小鳥のように、可愛い鳥の歌のようなペルシアの旋律を、美しく口ずさみ始めるのだった。
 一番敏捷に歩を進めて行くのは、金髪の貧しい若者で、彼らの中で最も上手な歌い手だった。彼は歌うかと思うと、大声で笑い、叫び、出来るだけ上手なアラビア語で陽気に私に声をかけるのである。彼らは道端に休んで煙草を吸う、そして自分たちの祖国で採れる、この美味な葉位いいものは、世界中に一つもないと言うのだった。
 我々の目の前には、ヘルモン山の尾根が高々と聳えていた。頂は初雪に覆われて白くなり、白い雲は処を得顔に掛かっているように見えたが、原野には未だ秋の日差しが明るく、暖かかった。二十マイル行った処で塔が幾つか見え、かつて人の住んだ跡のある、今は朽ちた遺跡、サラーメンの前を通った。そこから更に五マイル行くと、また遺跡があった。私がその名を尋ねると、我々の一行の幾人かは、あれこれと想像を恣にして語った。

 歩くようなのろのろした足取りで、我々は八時を過ぎて真っ暗になってから、ムゼイリブのキャンプに着いた。この強行軍には十六時間かかった。我々は更にアガの一行の名を叫び求めて、テントを捜さなくてはならなかったが、それほどの手間はかからなかった。何百年にわたる巡礼の伝統によって、巡礼隊の手順は全て整然としているからである。ラクダの指揮官には、それぞれ自分の宿営地が判っていて、こちらが叫ぶとすぐにその下僕が答え、宿営地に案内する。
 夜には、キャンプの若い下僕たちが、松明を持って夜回りにやって来た。各テントに顔を出し、最後にペルシア人のテントを訪れる。彼らペルシア人は他国者であり、教会分立論者であるが故に、明らかに争いを避ける意図によって、その宿営地は全ての大テントの後尾に定められているのだ。
 日が昇ると、テントは畳まれ、ラクダは下僕たちに付いて、荷物の傍らに並んだ。我々は今年の巡礼旅行開始の号砲が鳴るまで待った。合図の砲声が轟いたのは、十時がらみである。少しの乱れもなく、突然担い籠が持ち上げられ、ラクダの背に縛り付けられた。荷物は膝を折って座っているラクダの上に乗せられ、何千という、全てこのキャラバンの国に生まれ付いた御者たちは、黙々とラクダの背にまたがった。
 
 数分の後に第二の号砲が轟くと、隊長(パシャ)の担い籠が発進する。続いてキャラバンの縦隊の先頭が動き出す。後尾に居る我々も、前の長い行列が展開し切るまで、十五分か二十分以上立っていなくてはならぬ。やがて、我々もラクダに鞭を当て、かくて大巡礼隊は動き出すのだ。普通三、四頭のラクダが並んで行く。稀には五頭のこともある。平野に展開してのろのろと進む人と獣の列の長さは二マイルに及ばんとし、幅は数百ヤードに達する。
 この年の巡礼の数は、彼らの計算では(恐らく過大になっていようが)六千人である。そのうち、半分以上は裸足で行く下僕である。そして、アラビア人の率いる圧倒的多数のラクダ、続いてラバ、馬、ロバ、ごく少数の単こぶラクダ、といった、ありとあらゆる一万頭に及ぶ獣の行列が、大護衛隊に守られて、それぞれの故郷へ帰るのである。
 我々の行く処は、唯石ころだけの、一木一草もない平野だ。見えるものは何一つなく、前には一本の道もない。今では後ろになってしまったヘルモン山は、そのがっしりした肩に雪を戴いて、北の地平線を扼している。東部の遊牧民たちにとっては、それはシリアの気高い目印となっていて、「雪の峰」と呼ばれている。(この、雨を知らず苛烈な太陽ばかりに照らされるアラビアの土地では、滅多に雪を見ることもないのである)。

 巡礼隊の動き出したこの日は日曜日で、シリアの空にはまだ夏の晴れ渡った光が残っていた。1876年11月13日である。12マイル進むと(僅かな距離なのに、初めは長く感じられた)、第二の砂漠の宿泊地に着いた。そこでは、既に目の前の広々とした荒野に、我々がムゼイリブに残してきたテントが張られて、白い列を作っていた。このように毎日、軽装のテント隊は、重い荷を積んだ我々よりも先行する。各隊は、初日の移動で既に自分たちの場所を決めてあり、旅が終わるまで同じことが続く。宿営地はラムタと呼ばれる。
 まもなくどのテントの前でも(道々慌しく集められた)砂漠の小さな木の枝を僅かばかり用いた、食事の火が燃え始める。巡礼たちの竈は土中に掘った穴である。彼らは容器を薪を突っ込んだ穴の縁にどうにか載せ、実に僅かな燃料で貧弱な雑炊のようなものを作る。
 初めての晩には、太鼓を打ち、優しい笛の調べを流して、陽気に愉しむ。辺りには、それぞれのテントで歌うペルシア人の歌声が流れ、アーケイデアの楽園さながらに甘美な雰囲気が漂う。声を合わせて何か彼らの熱愛する歌を合唱しているテントもある。どの巡礼たちの宿舎にも、紙提灯が下がって蝋燭の火が燃えている。

 しかし、みんな疲れている。そして、まもなく眠りにつく。巡礼たちは翌朝の号砲が鳴るまで、衣服を付けたまま、僅かな夜の時間を横になる。やがて号砲と共に突然、また前進すべく起き上がるのだ。それが朝の何時であろうが、構いはしない。あらゆることと同じく、これもまたパシャのお気持ちの侭、天気の侭なのである。
 五時半に第二日の旅の号砲が鳴った。隊列が動き出した時には、夜空は暗く、俄雨の来そうな気配だった。どの隊でも、下僕の肩に支えられた竿の上に束になった鉄の籠が吊るされ、道筋を照らした。夜が明ければ、目の前に広がるのは、相変わらず荒涼たる登り道だ。石灰岩の上に重なる、小石と粘土の薄い地層である。
 やがて、フェジル族のベドウィンの首長ザイドが、後ろに鉄砲を持った従者を乗せ、単こぶラクダにまたがって、砂漠からやって来た。雌の替え馬には幼い息子が乗っていた。ザイドはダマスカスの町に居たことがあるので、賄賂を贈って役人に取り入るオットマン流のやり方を心得ていた。二年前に彼の雌馬が仔を生んだ時、それが雌でなかったものだから(彼らは雄馬にはラクダの乳を飲ませるだけの価値がないと考える)、彼ザイドはその無益の仔馬をムーア人の狼モハメッド・アリに贈った。

 この水塔の長は、今では逞しき若き種馬となったその馬に打ち乗って、シリアからやって来た訳である。そして、今度は、このクリスチャンというカモ(注:筆者ダウティを指す)がやって来たのだ。彼らは私に向かって二人(ザイドとアリ)に報酬を寄越せと要求した。「ザイドに十ポンド払いなさい。そうすれば、ザイドは彼の雌馬にあんたを乗せて、全部の遺跡を回ってくれるよ」。
 もしザイドを断るとなると、私は彼ら(現地人)を一人も雇えなくなるだろう。これから長い間、彼と私は連れ立って行くほかはない運命になったのである。ザイドは浅黒いというより殆ど真っ黒な砂漠の首長で、中肉中背、中年の、飢えに鍛えられた鋭い顔をした男だった。あまり色が黒いのは、アラビア人には良く思われない。この高地地方の彼らは、赤いというより僅かに浅黒い程度。色が黒いと、彼らは卑しい奴隷の血に似通っていると思うのだ。

2023.10.21  世界のノンフィクション秀作を読む(30)
髙橋是清の『自伝』(1936年、千倉書房刊)――波乱万丈、数奇きわまる人生の述懐(下)

横田 喬(作家)


 ◇森有礼氏の書生から大学南校の教師へ
 かくて、我々が横浜に着いたのは、明治元年の十二月。伝手があり、私ら帰朝生三人は森有礼さんにお世話を願うことになる。当時、森さんは洋行後に外国官権判事に任ぜられ、神田錦町住まい。当時二十三歳、未だ独身で、生活も極めて簡素であった。先生はこう言い渡された。「忙しいから、皆に英学を一々教えている訳にはゆかぬ。お前らのうち一番覚えの良い者一人だけに教える。その当人は、よく覚えて、それを他の者に教えること」。当の一人に私が選ばれ、森さんから教わったことを、私がさらに一同に教えることになった。
 翌年正月、大学南校というものができ、森さんの指示で我々三人はこの大学南校の教官三等手伝いというものを仰せつかった。当時は仙台藩でも勤王攘夷論が結構幅を利かせ、洋学者の如きは捕縛してしまえ、という激越なる議論が盛んであった。ために、当時の大家だった玉虫左太夫の如きも捕縛投獄せられ、何の調べもなく遂に斬首せられた位である。
 森先生も我々三人の身の安全を気遣かわれた。当時、仙台屋敷は日比谷見附にあった。先生は田中という公用人に会い、「今後かような間違いがあっては困る。この三人は私が仙台藩から申し受ける」と厳談に及ばれた。公用人も返す言葉もなく、言わるるままに承認。先生は我々三人を自分の附籍とせられ、私は一時「鹿児島県士族、森有礼附籍」の身となった。

 当時、森先生は廃刀論を主張され、その急先鋒であった。先生を攻撃する声はいわゆる志士の間に満ち、その身辺が危うくなってきた。先生が夜分、三条公や岩倉公に会いに出かけられる時には、鈴木(三人の仲間の一人)と私は馬の両側に付いて護衛して行ったものだ。
 森先生攻撃の声は同郷の鹿児島人の間からも湧き、轟轟たる非難の声に、政府は大いに狼狽。岩倉・三条両公の庇護があったにも拘らず、遂に先生の職務を免じ、位記返上を仰せ付けたので、先生は意を決して故山に帰られることになった。
 我々は依然として大学南校に奉職。政府は長崎に居たフルベッキ博士を東京に呼んで大学南校の教頭に任命し、我々も博士に付いて歴史の回読をした。傍ら私はバイブルの講義もしばしば聴いて、自然に耶蘇教信者の一人となった次第である。明治三年、森先生は勅命に会って再び鹿児島から出て来られ、小弁務使としてアメリカへ行かれることとなった。

 ◇放蕩時代
 森先生は、私を日本に残すについて、万事をフルベッキ博士と当時の大学大丞であった加藤弘之さんとに託された。自分も一心不乱に勉強して他日を期さねばと心がけたが、ふとしたことから魔が指してきた。明治三年(十七歳)秋の頃であった。大学南校の下級生徒三人(元越前藩家老職の息子ら)が訪ねてきて、「帰藩命令が来たが、借財が大きく、帰るに帰れない。何とかして貰えまいか」と頭を下げる。
 借財はなんと二百五十両という大金。私は遠い親類筋の浅草の商人に頼み込み、用意してもらった。三人は大いに喜び、御礼がしたいと一夕、両国の柏屋という料亭に招待される。私が立派な日本の料理屋に行ったのは、これが初めて。本式の座敷で芸者を見たのも、この時が初めてだった。私は元気に任せ大いに飲んだが、主賓なるにも拘らず、何となく軽蔑せられている風だ。他の三人は美服で、腰の大小は黄金造り。私は木綿の着物に小倉の袴、腰の大小も見劣りがする。私はいたく茶屋女や芸者どもに軽蔑されたという念が起こった。
 招ばれた以上、こちらも返礼せねばならぬ。今度は服装も大小も軽蔑されぬようにと、日本橋の商人に依頼。あの三人が着ているような着物や袴に黄金造りの太刀を整え、私が招待した元日の夕刻の席へ。今度は前回とは打って変わってもてなされ、芸妓たちは服装や金離れの如何で人をあしらっているなあ、と合点がいった。
 三人は歌を唄ったり、踊ったりするが、私には一向にそんな真似はできない。彼らは歌や踊り位は覚えた方が良いではないかと、夜になると私の処へ押しかけて来ては、歌や踊りを教えてくれた。そんな次第でフルベッキ先生の処には居辛くなり、引っ越すことになる。

 ◇募る放蕩
 そんな事情で、私は懇意な知人の家に引っ越してしまう。もう誰にも遠慮は要らず、放蕩は募るばかり。芸者とも馴染みができ、しぜん学校も欠勤がちになった。放蕩にすさんだ一つの動機は、友人が藩命を帯びて洋行することとなり、送別会が重なり、その都度、芸者家へ行くことが頻繁になったためであった。
 ある日、芸者を連れて浅草の芝居を見に行った。幕間に学校の外国人教師三人らとばったり鉢合わせする。向こうも驚いたが、私も驚いた。こうなった以上は、便々として学校にいる訳にはゆかぬと、その日すぐ辞表を提出した。加藤弘之さんが心配し、慰留してくれたが、私は良心が許さないからと、たって頼み込み、許してもらった。
 多少の貯えは瞬く間に使い果たし、非常に困却した。私は書物も衣服も持っている物は一切売り払ってしまった。そんな窮状を見かねて、馴染みの芸者の東家桝吉(本名お君)というのが「私の家においでなさい」と言って、引き取ってくれた。この女は越前福井の飾り屋の娘で、裕福の出であったから、芸事などもよく出来た。自分より四つばかり年上。いざ桝吉の家に行ってみると、両親も居れば、抱え妓も居る。両親など、とんでもない厄介者がやって来たとばかりにあしらう。とうとう箱屋の手伝いまでしたのもこの時だ。

 ◇落ち行く先
 さて、男一匹こんなことではいかぬと思う矢先のある日、維新前の知人・小花万司という人と出会う。彼の曰く、肥前の唐津藩で英語教師を探している。月給は向こう賄いで百円。行ってくれれば顔が立ち有難い、と言う。話はずんずん進み、やがて正式に決まる。
 私は城内にある士族邸を修繕~学校に充て、五十人の生徒を募集し、授業を開始した。私は散切り頭に無腰という姿で乗り込み、未だ攘夷気分濃厚の藩中に少なからず衝動を与えた。たまたま唐津の藩主が東京へ引っ越すことになり、今までの住居の御城が空くことになり、私は御城を解放~英学の学校にするよう意見具申。幸い容れられ、御城の御殿は英学校に変わった。五十名の生徒は粒揃いで、初歩のABCから教えて半年たたぬうちに、ほぼ熟達。それらの中には、辰野金吾(後の高名な建築家)、曽根達蔵(同)、天野為之(経済学者)らがいた。学校移転と共に定員も増え、遂に二百五十人まで藩費にて養成することにした。

 ◇文部省に入る 
 唐津の英学校を辞し、再び東京に帰ったのは明治五年(十九歳)の秋。大学南校はその後段々と整備し、法学・理学・工業学などを教える開成学校となる。私も自ら省みて、今のようではいかぬ。もう少し修業せねばと考え、試験を受け開成学校に入学した。即ち、以前の先生が生徒となった訳だ。
 ある日、久しぶりに森有礼先生を訪問した。駐米二年有半、帰朝されて明六社というものを創立され、しきりに我が教育の振興を絶叫されていた。先生に近況を尋ねられ、「開成学校に入学し、修業しています」と返答。先生は「お前などはもう生徒の時代ではない」と申され、文部省に入るよう斡旋された。時に明治六年十月(二十歳)であった。

 ◇馬場辰猪君と貿易論を闘わす
 明治七年より十年にかけては、征韓論を中心として、また思想上の見地よりして、硬軟・新旧両派の衝突をきたし、各地に騒乱相次いで起こった。当時、ある会合で、彼の馬場辰猪君(板垣退助先生を扶けて民権自由の運動に熱心奔走した人)が熱弁を揮われた。今後、日本の経済策は自由貿易主義によらねばならぬと、大変に熱を上げておった。
 私は別の席で、率直に保護貿易論を主張した。まず外国貿易の必要より最近までの風潮を論じ、嘉永以後における列国の我が国に対する貿易政策に及び、彼は我を知って戦い、我は彼を知らずして闘うものであるから、彼の弾丸は我に当たり、我が弾丸は彼に届かない。かくては毎戦敗をとるは当然である。故に毎年八百万円の金貨の流失を見て余るのである。
 この時に当たっては、先ず防御を第一とし、出でて戦うことは第二とせねばならぬ。後進国たる我が国が産業の発展、輸出の振興を図り、以て貿易の権衡を維持し、自主独立の経済的立場を保有せんと欲するならば、保護貿易主義を採用するより他に途なき所以を演述した。明治十年前後と言えば、剣戟相交え政論沸騰して、上下鼎の沸くが如き時勢であった。

 ◇筆者の一言 国難の日露戦争(1904~05)に際し、彼は日銀副総裁としてイギリスやアメリカで戦費調達に奔走。堪能な英会話能力と豊富な人脈を生かし、懸案の公債募集に見事成功する。後に日銀総裁を経て政界入りし、政友会総裁として21~22年に首相に就任。福々しい肥満体から「ダルマさん」と親しまれた。一旦政界を引退するが、近代日本を代表する財政家の腕を買われ、蔵相(六度目)に復活。34年発足の岡田啓介内閣で健全財政維持~軍事予算抑制を図って軍部の恨みを買い、二・二六事件で反乱軍の青年将校らに暗殺された。享年八十三歳。米国では奴隷の身が宰相の座にまで昇り詰める図は驚嘆する他ない。