2022.12.20 テレビ老人の気になる「お言葉」
――八ヶ岳山麓から(407)――

阿部治平(もと高校教師)


「ありがとうございます」
 中国に暮らしていた時の話だが、とびきりのいたずら坊主がしばらく会わないうちに礼儀正しい応対ができる少年に変わったのにいたく驚いたことがある。
 「君のところの坊や、立派になったなあ」といったら、友人がさらりと「ありがとう」といった。これが「あれ?」と思ったことのはじめではなかろうか。
 中国では(日本でもそうだったが)相手の身内をほめると「いやいや、そんなことは」とか、「まだまだだよ……」といった答えが返ってくるのが普通だった。あのころ中国では経済の発展とともに都市の生活がすごく変った。人情も音を立てて変わった。だから挨拶も変わったのだと納得した。
 
 ところが日本に帰国してみると、この「ありがとう」がかなり普通に使われているのである。これをはじめテレビで見たときはどうかしていると思った。
 「素敵なお召し物ですね」「今日は特別お美しい」とか、「おいしゅうございました」といった誉め言葉に、相手が「ありがとうございます」と返すのである。むかしは「お恥ずかしい」とか「いや、ご粗末でございました」とか言ったものである。

 このごろの私の経験でも、別荘地帯で犬の散歩をしている人に「かわいい」とか「立派ですね」などと声をかけると、「ありがとうございます」という答えが返ってくる。
 新型コロナが蔓延すると、新手の「ありがとうございます」が登場するようになった。テレビのニュースショーに呼吸器や疫学の研究者、臨床医が登場し、感染状況や医療現場の窮状やその対策などを解説するようになった。わたしも専門家のさまざまな発言を興味深く拝聴した。
 発言がおわると、司会者が「ありがとうございました」という。ところが、専門家もやはり「ありがとうございました」と返すのである。司会者が礼を言うのは当然だが、専門家は情報や専門知識を我々に提供したのである。「ありがたい」のはこちらで、そちらさまがなぜ「ありがたい」のか。
 ふつうの会話だと「どういたしまして」といったたぐいの返答をするのではなかろうか。もしやテレビ局は専門家に「ありがとう」を指示しているのではなかろうな。

「ひ」と「し」の問題
 以前にもこれについては発言したが、やはり言いたい。
 先日もテレビでアナウンサーがロシアの攻撃によって、「ウクライナの生活インフラの被害が拡大しました」というべきところ、「しがい(死骸)が拡大しました」と発音していた。もともとアクセントが違うし前後の関係から聞いてわからないではないが、言葉の専門家であるアナウンサーの発音がこれではまずいと思う。
 定時制高校山岳部の顧問をしていたとき、リーダーが「出発!」と声をかけても隊列が動かないことがあった。隊員たちは東北出身の彼の「しっぱち!」という発音が何を意味しているか分からなかったのである。
 私が肩入れしている政党指導者が「それは国民にとって相当しどい政策だ」と政権側を批判したことがあった。「ひどい」といってくれれば、もっと支持するのだが。

「……感じですね」「……ようです」
 交通事故を目撃した人が「こちらからスーパー正面に車が突っ込んで、ひとをはねたって感じですね」といった。テレビの画面を見れば、事故の惨状は明らかである。「感じ」もなにも、当の本人が見た事実じゃないか。
 また、高速道路で無理やり車を止められて暴行されたひとが「無理やりストップされて、やられたという感じです」といったことがあった。これじゃ自分のことではなく、誰かが殴られたのをわかりにくいところからぼんやり眺めたという「感じ」である。
 先日は、テレビのアナウンサーが大きな百貨店の前に立って、「こちら、歳末セールが行われているようです」と言った。画面からは、その百貨店が100%歳末大売り出しをやっていることが一目でわかる。「……行われているようです」ではなく、「……行われています」といってもらいたい。
 自分が直接かかわっている事実、目の前のできごとを間接的に表現するのは、日本の言語文化の特徴である。だがこの頃この傾向がひどくなったように思う。

「おじいちゃー-ん」
 テレビのお墓のコマーシャルである。谷に向かってかわいらしい子供の声が「おじいちゃーん」と叫んでいる。なかなか気の利いた広告だ。だが、この墓場を売り出している会社では「おじいちゃん」しか死なないのか。「おばあちゃん」は「おじいちゃん」よりも長生きすることは知っているが、この広告を見るたび、「おばあちゃーん」も登場してほしいと切に願っている。

「みたく」
 10年ばかり前、さる作家だか評論家が書いた文章を見ていたら「……みたく」という文言が出てきた。「ロシアみたいに」「中国のように」といった意味で使っていたと記憶している。
 これは埼玉・千葉県境あたりの人がしばしば使う話し言葉である。それでこの書き手はその地方の出身者だろうと見当をつけた。のちにこのひとが埼玉県の浦和市にある高校の出と知って、「あたり!」とおもった。
 ところが、この頃複数の物書きが「……みたく」を使うのである。地域に限られた言葉がいったんメディアに載ると、不思議に思わず使うひとがでてくる。いま私は、地方の言葉が共通語に変わるのを見ているのである。

「迷惑を掛けたくないから」
 テレビコマーシャルで、私より十(とお)も若そうな老人が葬式費用の心配をして「子供たちに迷惑を掛けたくないから」といっていた。どうやらこの人は死亡保険に入る決心をしたらしい。
 このコマーシャルを幾度も見ているうちに、わたしもひとごとではない、もうすぐ子供に迷惑をかける仕儀に立ち至ることに気が付いた。ところが自分には保険に入るほどの余裕がないのである。
 そこで息子夫婦には「葬式をやってはならない。火葬後の骨灰はおれの好きだったあの山の尾根に撒くように」と申し渡した。息子は憮然とした顔をして、「葬式をやるなというなら、そう遺言に書いてくれ」といった。葬式をやらなかったら周りがうるさいうえに、やたらに散骨などできないというのである。
 死ぬのも容易でないなと思うようになった。

2021.08.04 やがて悲しきカタカナ語
         ――八ヶ岳山麓から(340)――
                  
阿部治平 (もと高校教師)

 先日地球環境の問題を勉強しようと思って、いくつか単行本・評論の類を読んだ。いずれも英語あるいは他の外語で学術論文が書けるレベルの研究者の文章である。どの論文にも見たことのないカタカナ英語が登場し、辞書を引くたび考えを中断しなければならず、これには本当に泣かされた。
 それらの論文のひとつから、迷ったり辞書を見たりした単語を下に挙げる。テクノロジーとかキャパシティーといったレベルの日常多く使われるカタカナ語は省略。( )も原文のまま。ちなみに掲載誌は『世界』(2021・05)である。

グローバル・コモンズ
レジエント(自己回復力のある)
プランネタリー・バウンダリー(地球の限界)
サブ・システム
デジタリゼーション
グローバル・サウス、グローバル・ノース
ナラティブ
地球システム
クライメット・アクション・トラッカー
ソリューション・ネットワーク(Sustinable Ðevelopment Solutions Network:SDSN)
グローバル・コモンズ・スチュワードシップ・インデックス
非国家のアクター(non-state actors)
協働のためのプラットフォーム(マルチステークホルダーによる協働)
バリューチェーン
アカウンタビリティ
グリーン・リカバリー戦略
パスウェイ
フレーミング

 1万字に満たない論文に、難解単語がこんなにたくさんあるのは、主に自分の英語力が貧しいためであるとは承知している。だが、この論文が地球環境の危機を人々に訴えるために、啓蒙のために書かれたとすれば、その目的を十分に果たしたとは到底思えない。
 翻訳しようにもできない語彙なら仕方ないが、この論文にかぎらず、このたび読んだ論文の書き手は外語をわかりやすい日本語に翻訳する気が全然ないように思えた。読み手がわかろうがわかるまいが、英語語彙をカタカナに置き換えて日本語の文章に挿入することに全く躊躇がない。
 だが私は、このことをここで非難しようというのではない。私は難解なカタカナ英語が氾濫する文章は、戦後日本語の変化が新段階に入ったことを表しているのではないかと疑ったのである。

 この種の書き手の気持は、漢語がどっと入ってきた古事記・日本書紀が書かれたころの、古代国家の官僚、知識人の心理に似ているのではないかと思う。日本国家が成立したばかりのころ、支配者は大陸の輝かしい文化に拝跪し、律令を取り入れ、公用文は漢語、国家宗教は仏教とした。
 漢語の導入によって、やまとことばの音韻に「ン」という撥音(はつおん)、「ッ」であらわされる促音(そくおん)、「シュ」とか、「キュ」といった拗音(ようおん)などが入ってきた。発音ばかりでなく、日本にない語彙はそのまま漢語を用いた。
 たとえば、当時雨や風はあっても「天気」という言葉はなかった。そこで「天気」を取り入れた。「絵」という言葉がないので「エ・カイ」という発音とともに「絵」を取り入れた。漢字には造語能力があるから、やまとことばもどんどん漢語に置き換えられた。古代国家の官僚や知識人は、文章以上に、会話の中で漢語をちりばめることに何の抵抗もなかったと思う。むしろ優越感を抱いたであろう。
 時とともに支配層あるいは知識人のやまとことばは大きく変化した。それは時ともに下々に浸透していった。同時にやまとことばの発達はここで止まった。上位概念あるいは抽象語は、漢語・漢字を用いずには成り立たなくなったのである。明治維新前後の欧米語導入時期の西周や福沢諭吉などによる翻訳を見てもそれは確かめられる。
 第二次大戦後はおもに学校教育によって、古代と同じように英語の新しい音韻、「ティ」とか「ファ」とかがじょじょに現代日本語の中に入り込んだ。そして、衣食住のような日常生活の中にカタカナ語が氾濫するようになった。もちろんその中には原語とは意味の違う使い方をされているもの、和製英語、JRとかJAというわけのわからない略語もある。

 話はとぶが、しばらく前、若い研究者からある大学での研究会に参加するよう誘いがあった。その集会は英語で行われるとのことで、私にも英語で体験を語るようよう求められた。参加者のほとんどは日本人だが、英語母語者が2,3人いるとのことだった。
 私は集会の目的は理解できたが、日本で開かれ日本人の参加者が多数の会合で英語で討論するというのがどうしても納得できなかった。誰かが英語通訳をやればいいではないかと思った。
 集会の主催者は、私が英語ができないと言うのを怪しんだらしい。くりかえし趣旨を話して参加を求めた。話を聞いているうちに、この人は、学術討論は日本語ではなく英語でやるのが当然だという考えであることがわかった。そして私も、企業によっては社内の会話を英語でやるとか、昇進を決める際に英語の能力を加味するといったところがあるのを思い出した。
 学術論文の80%以上は英語だということは、数十年前から知っている。論文を英語で書かなかったら、国際的に通用しないというのもわかっている。この人は、そこまでわかっているならば、英語で体験談くらいやれなかったらおかしいと思ったらしい。 
 私は日本人の英語ならともかく、英語を母語とする人の話は聞いてもわからない。まして英語で報告することなど思いもよらないので、その旨を話して参加を断った。

 これからすれば、啓蒙を目的とした文章に難解なカタカナ英語をどんどん書きこむ人がいてもおかしくはない。少なくともある層の知識人たちの日本語のあつかいはそういうところまで変わってきている。
 これはおそらく20世紀末からの新自由主義の席巻、グローバリズムの浸透とともに進んだ傾向であろう。第二次大戦後の日本語にしてみれば、アメリカ化が一層深化したことになる。古代日本が当時最高の文明を誇った大唐帝国に学んだように、現代も世界で一番強いアメリカに拝跪し追随するのである。
 外語とちがい母語は交流の道具というだけではない、民族の精神である。また外語はどんなに学んでも母語を超越することはできない。だが、上に見たように、ある種の知識人の日本語は、権力ずくの強制ではなく、自らの意志で英語のカタカナ語彙を大量に取り入れることによって成り立っている。この傾向は教育によってやがて次世代に受け継がれ、世の中に浸透していくことだろう。
 そして現代日本語は、古代やまとことばの経験に匹敵するような変化、つまり語法の基本に変化はないにしても、英語語彙を除いては言語として成立しないようなレベルまで変化を遂げるのではないか。そうなると日本人の精神の在り方も変わるかもしれない。
 人と話す機会の少ない私には、日本語は変わるという見当はついても、具体的にどう変わるのかわからない。みなさまはどうお考えだろうか。

2020.07.28 『チベット民族文化辞典』の刊行をたたえる
        ――八ヶ岳山麓から(319)――

阿部治平 (もと高校教師)

このほど、東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所から『チベット牧畜文化辞典』が刊行された。この辞典は言語学・文化人類学・歴史学・生態学・農学にわたる日本人とチベット人研究者の共同研究によってつくられた。
主宰者の星泉氏をはじめとする研究者たちは、チベット牧畜文化の全体像をとらえようとして、2014年から6年間にわたり中国青海省黄南蔵族自治州沢庫(ツェコ)県で民族語彙の収集と記述に取り組んできた。ツェコ県は3500メートルの純牧畜地帯である。気圧が海岸の3分の2くらいのうえ、乾燥寒冷の気候だから生活するだけでも容易でない。

この辞典には冒頭に別所裕介氏によるチベット牧畜民の現況と共同研究の目的、南太加(ナムタルジャ)・山口哲由両氏による調査地概要、山口哲由氏による文化項目分類方針、海老原志穂氏によるアムド・チベット語の概況、星泉氏によるアムド・チベット語メシュル方言の音韻特徴などの多数の解説が掲載されている。
私は、別所氏の所論や南太加・山口両氏のツェコ県環境と牧畜論はともかく、チベット語、言語学については無知のために、星泉氏の音韻論、海老原志穂氏によるアムド・チベット語解説についてはなにひとつ語ることができない。だが、この辞典の学問的成果について一言いいたい。

中国政府は、長江・黄河・メコン川上流の水源地帯の荒廃を阻止し、同時に牧畜の近代化を図るという名目で、21世紀に入ってから牧民に対する「生態移民」という名の移住政策を進めた。ツェコ県もその例外ではなく、1万有余の牧民の半分がよその土地に設けられた移民村に移住して単純労働者となり、牧野に残った牧民も合理化近代化を進めるという趣旨で、合作社に組織されつつある。これに伴って、もともと20万頭いた家畜は、今は10万頭に減少した。この経過は別所氏・山口氏の解説に詳しい。
この移住政策にともない、乳や肉の加工、皮なめし、燃料としての畜糞の加工、織物、家畜の種付けや去勢、毛刈り、屠畜などの伝統的で自給的な技術はいま急速に失われつつある。
私は、内モンゴルで牧畜技術と文化が失われた状態を見て、民族の歴史の重要部分が失われたことを痛感したことがある。日本が中国東北部を植民地とした時代、文化人類学者の梅棹忠夫氏は牧畜をめぐる生産・生活用具の精密なスケッチをたくさん残したが、1990年代にモンゴル人大学生にそれを見せても、彼らにはその用途と名前がほとんどわからなくなっていた。同じことが今チベット人地域で起きているのを、私は胸が痛くなる思いで見ている。
この辞典に収録された語彙は、チベット高原の牧畜に関連するものはもちろん、それに直接関係がない生活語彙も多く収集されている。山口哲由氏はそのことを前書きの「本辞典における文化項目の分類」で、「牧畜民の一日の生産活動、すなわち朝の糞拾いや搾乳に始まり、日中の放牧を経て、家畜を連れ戻して夕方の搾乳を終えるまでに付き従い、さらには衣食住や宗教実践にかかわる日常の活動を含めた生活の様々な場面での参与観察を行いながら」語彙を収集したと語っている。よく頑張れたなあという感じである。

本辞典の見出し語はチベット文字表記、ついでWylie 方式によるラテン文字すなわちabc表記、国際音声字母、 品詞と語釈、解説、写真または図版の順となっている(以下拙文では見出し語はabc表記で表す)。とくに解説と写真と図版が語彙の理解を助けている。
まずは牧畜関連から興味深い語を2,3拾ってみよう。
「lalo」すなわち「馬」は、牧畜生活ではヤクよりも重要性がやや落ちるが、第4章「家畜の名称」から第13章「役利用」にわたって頻繁に登場する。なかでも第6章の「馬の外貌表現(毛色)」には見出し語が写真とともに50余りあって、詳細な観察と聞取りが行われたことを示している。
たとえば第13章の「馬具」の項目にある「sga rta srab gsum」は「馬と馬具一式」だが、これには「馬の持主が亡くなった場合、この一式を葬式で枕経を頼むラマに託す」という解説がある。この辞典を一読した友人の獣医は、「チベットにはモンゴル馬、河曲馬もあり、ロシアやアラブとの混血もあるのだからその見出し語が欲しかった」と言った。彼はモンゴル馬と日本の在来種木曽馬の関連を研究してきた人物である。さらに彼は鞍には「立鞍」と「坐鞍」があるが、見出し語にこれがないと悔しがった。見出し語にはないが、私には写真のチベット鞍が「立鞍」に見える。
見出し語の選択が行き届いていると思ったのは、第2章の「森・平原・道」の「lam」すなわち「道」である。「道」に関連する見出し語が12ある。その中には「峠に至る道」「尾根を含む斜面を通る道」など各種の道が見出し語となっている。
なかでも「sa lam」は「凍結した川に土を撒いた道」とされている。私はどうしてこれが見出し語になるかと疑ったが、解説に「冬季には川の凍結により家畜が滑って渡れなくなるため、凍った川に土を撒いて道を作る」とあった。冬季の家畜移動には「凍結した川に土を撒いて作った道」は欠かせないのである。
第16章「住文化」の「thab ka」つまり「かまど・ストーブ」を見ると、火をおこし消すまでの動作とか、近代的な鉄製ストーブとその修理法、正月の「ままごと」をやるために母屋であるテントから少し離れたところに設置する「かまど」まで80近くの見出し語がある。
そして最終章の第28章「新しい政策・技術・道具」において、放牧地の私有化、生態移民関連政策、行政区分、環境保護活動、さらに太陽光発電、クリームセパレーター、携帯電話、パソコン、ネット関連の語彙が登場してこの辞典が終わる。
かくして本辞典は、牧畜の近代化=中国化が進んだいま、まさに失われようとしている牧畜民の生活と生産の技術と文化を隈なく記録したものになっている。偉業というべきではなかろうか。著者らに、心からの賛辞を贈りたい。

なおこの辞典には書籍版だけでなく、PDF版、ウェブ版が公開されており、ポータルサイトで情報を確認できる。
 「チベット牧畜文化ポータル http//nomadic.aa-kenn.jp」
「チベット牧畜文化辞典ウェブ版 http//nomadic.aa-ken.jp/search/」

(2020・07・23)

2020.05.14  重い現実、軽い言葉
      ――八ヶ岳山麓から(312)――

阿部治平(もと高校教師)

「線維筋痛症」という膠原病の一種にかかり、1月から今日まで4ヶ月激しい痛みとときどき起こる高熱に悩まされ、入退院を繰返している。カラマツ林の中の一人暮らしの苦しさをいささかでもまぎれさせてくれるものは、テレビと新聞のニュースである。そこで気になったことを記したい。

発覚
新形コロナウイルス感染が問題になり始めた2月、3月テレビでは、「○○で感染者が△△人『発覚』しました」といっていた。「発覚」は、森友問題、加計疑惑、花見スキャンダル、この頃では検事長の定年延長など、疑惑・陰謀の真相が暴露されたようなときに使う動詞である。簡単に言えば悪事露見である。
テレビでこれをやられては、感染者はたまらない。ウイルス感染はもちろん後ろめたいことなく感染する。やはりテレビは学力のない連中がやっているんだなと思った。
さすがにこの頃聞かなくなったのは、だれかが忠告したからであろう。感染した者に罪とががあるような言葉がネット上にあるけれども、愚かである。

間髪を入れず
安倍晋三首相は国会答弁で新型コロナウイルス感染対策を云々したとき、幾度も「カンパツヲイレズ対処します」と発言をした。これは、元来は「すぐさま」の意味で、「カン、ハツヲイレズ」なのだが、安倍首相のほかにも言う人がたまにいる。安倍首相は「云々」を「デンデン」と読んだこともある人だからこの程度の間違いは仕方がないと思う。
麻生太郎元首相は、「未曾有」を「ミゾーユー」と読んだほか10近くの誤読をやらかして、その知性のほどを天下に知らしめ、反対陣営を喜ばせた。以前にも書いたが、麻生総理当時、私は中国で日本語を教えていたので氏の誤読を問題にして簡単なテストをした。学生らは最低でも5題はできた。
テストの後、漢人学生の中に「一国の総理がこのような間違いをするとは思えない」と不思議がるものがいた。私は「日本では国家指導者に知的教養を求めないのです」といったが、それでも中学生程度の漢字は間違いなく読んでほしいと思った(習近平氏の知的水準が高いといっているわけではない)。
中学生のころ農家では米の義務供出(昔はそういう制度がありました)がおわると子供同士でもほっとして、「おらえじゃ(我家では)供出をカンツイしたぞ」などといった。「完遂」だから「カンスイ」でなくてはならない。父は、太平洋戦争のおり東條英機首相が「聖戦完遂」を「セーセンカンツイ」とさかんに言ったのでこうなった、上が間違うと下も間違うと言った。
ひとだれでも誤読はある。私も「脆弱」を「キジャク」と読んで先生に注意されたことがある。心神耗弱とはいっても、「消耗」は、「ショウコウ」とはいわない。「洗滌」を「センデキ」と読む人は少なかろう。いや、この語彙はいまや「洗浄」に変っている。
みんなが間違えばそれで通用するのが言葉というものだ。だから「間髪を容れず」もいつかシンゾー流が主流になるかもしれない。だが「云々」を「デンデン」というまでには時間がかかるだろう。

れる・られる
テレビでは敬語が氾濫している。料理番組で、「肉に塩コショウをしてあげます」などは普通になった。最近は感染症の専門家が「ときどき風通しを良くしてウイルスを飛ばしてあげるのがよいでしょう」というのを聞いた。ついにウイルスにまで敬意を表すようになったのだ。
なかでも「陛下が○○県に来られました」「○○先生は△△と話されています」というように、「れる・られる」が尊敬表現に多用される。がんらい「れる・られる」は受身のものではなかったか。これには「らぬき」ことばの広がりが関連しているのか。
受身・可能表現と間違われるような言い方よりも「……おいでになりました」「……お話になりました」でよいのではないか。

トクテーケーカイトドーフケン
新形コロナウイルス感染の「特定警戒都道府県」の「特定」は「かな」をふれば「とくてい」である。「警戒」も「けいかい」である。だが発音は「トクテー」「ケーカイ」でなければおかしい。ところがテレビではたいてい「かな」の通りに発音しているように聞こえる。五十音図え段のあとにくる「い」は長音を表している。経済だって政治だってそうだ。
アナウンサーたちは、かな表記通りに発音するのが正しと思っているのだろうか。そうなら都道府県は「トドウフケン」と発音しなければならないことになる。豆腐も「トーフ」ではなく「トウフ」と読まなければならない。もちろんそれは間違いである。
病気見舞いに来た小学校の同級生にこうはなしたら、そんなことを気にするのはお前だけだといわれた。それに何を言ってももう間に合わないとのことだった。

カタカナ語の氾濫
新型コロナウイルス感染拡大とともに、聞きなれないカタカナ語が増えた。日本では国際的な事件が起きるたびカタカナ語が増える。1945年の敗戦以来アメリカ語の流入はすさまじい。遠い昔漢語(中国語)が日本語の中にどっと取り込まれた、あの歴史を繰り返しているという印象だ。明治の文明開化の時代は何でもかでもヨーロッパ語を漢字で表そうとしたのだが。
コロナ関連のカタカナ語がごちゃごちゃになったので、メールで孫娘に教えてくれといったら、以下のように答えてきた。最後に「……だってー」と書いてあったから、何かを書き写したらしい。
「パンデミック=世界的大流行、ロックダウン=都市封鎖、オーバーシュート=感染爆発、ソーシャルディスタンス(ディスダンシング)=社会的距離(を保つこと)、クラスター=(長時間同じ場所にいるなどの濃厚接触による)集団感染。
本来のクラスター(Cluster)の意味は、『群れ、集団、塊』であり、英語圏ではITや天文学などさまざまな分野で使われています。感染者集団を疫学においてはDisease clusterと呼んでおり、単にクラスターと言っただけでは外国人に伝わらないおそれがあるので、注意しましょう」
このカタカナ語を無理に日本語に置き換えないほうがよいという人がいるが、私は断然日本語でやってもらいたい。漢字の連続だが意味は一目でわかる。小学校の同級生に「パンデミックなんてすぐわかるかね」ときいたら「これでも疫学の基礎をやったからね」といった。なるほどこの同級生は医学研究者だった。
だが私は、カタカナ語にするとなじむまで時間がかかるから、なかなか使いこなせない。オーバーシュートなどバレーかバスケット・ボールのプレーかと思った。その上カタカナ語にすると語彙の印象が軽くなる。「強姦」や「性的暴行」を「レイプ」とするなどがその例だ。新形コロナウイルスの世界的大流行という歴史的悲劇を語感の上で軽いものにしてはならない。

重い責任に軽すぎる決意
国会中継を見ていると、安倍首相はシンゾー流の特徴ある語調ですらすらとよどみなく答弁をしている。大したものだと思っていたが、このごろようやく官僚の書いた文言を棒読みしていると気が付いた。これなら自分の言葉ではないから覚悟はいらない。
安倍晋三氏は国会で学校の一斉休校やマスク2枚の全戸配布など突然持ち出して、「私の全責任でやります」とか「……やりぬく決意であります」とかと大げさな言葉を使う。この頃では休業手当問題も「スピード感を持って実施しなくてはなりません」という発言があった。そのくせPCR 検査など必要とされる仕事はちっともスピード感がない。
新型コロナウイルス感染問題の深刻さとは対照的に首相の言葉はあまりに軽い。

羽鳥アナウンサーの『す』
ときどきテレビ朝日の「羽鳥慎一モーニングショー」を見ている。主張が比較的明確で一貫していて好感を持っている。
ただし、羽鳥氏の話し方は語尾の「……ます」が、ときどき「masu」と母音「u」が強調される。一般には「mas」と口を「す」のかたちにして息を出すが、「u」を発音しない。 羽鳥氏の発音を聞いていると、これは「……ます。だから」というように、次に言葉がつづき強調するときに多い。優れたアナウンサーだからこれから真似する人が出てくるだろうが、あまり良いこととは思えない。

キャーキャー声
テレビやラジオで、女性と限らないが、非常に甲高い声(裏声か)でニュースや天気予報を伝える人が多い。対話討論になるとお話にならない人がいる。非常に耳障りだ。たぶん発声法をきちんと学び、訓練を受けていないからだと思う。
この点、中国中央テレビCCTVのアナウンサーは非常に「正しい」標準語を話した。聞いていてその美しさにうっとりするくらいだった。中国語がもともと音楽的であるからだが、訓練が行き届いているのである。
NHKのニュースには問題があるが、そのアナウンサーは民放に比べると、さすがにしっかりした発声をする人が多いと感じる。
テレビでもラジオでも、語り手は美しい日本語で話してほしい。
(2020・05・02)
2020.01.02 英語試験の外部委託は語学教育改革の放棄

盛田常夫(経済学者、在ハンガリー)

 大学入学共通テストの英語試験を民間に外部委託する方針は誰が推進したのだろうか。英語を社内共通言語にしている楽天会長・社長の声が大きかったようだが、それに賛同した政治家はいったい何を目的で賛同したのだろうか。試験を外部委託すれば、教育改革なしで語学力を高められるとでも考えているのだろうか。あまりに安直である。だから、利権の存在が疑われても仕方がない。

 英語の4技能習得というが、これは日常的に外国語を使うことがない人々が、頭で考えたことにすぎない。完全な観念論である。4技能をまんべんなくこなすことは不可能である。いかなる言語であれ、きちんとした文章を認めるのはきわめて難しい。日本語でも英語でも変わらない。日本語のできちんと文章を書けない人が、日本語以上の文書を外国語で書けるはずがない。ペラペラよくしゃべる人が良い文章を書けるわけではないし、講演がうまい人の書き起こし文章がそのまま使えることはない。
会話ができるから文章が書けるわけではない。どの言語でも文章能力のハードルが一番高く、一般常識、専門知識、文章読解力や訓練なしにまともな文章を書くことはできない。楽天が英語を共通言語にしているといっても、かなりの曖昧性を伴う日常会話が辛うじて成立しているだけで、正式な文書作成は英語を母語とするスタッフが行うか、既成の文書例をわずかな字句修正で使用しているだけだろう。民間の英語試験の点数がどれほど高くても、それは文章作成能力を証明するものではない。長期の留学と訓練なしに、文章能力を高めることはできない。

 外国語の論文や書籍を日本語に翻訳する時に必要になるのは、専門能力と日本語能力である。これだけで翻訳能力の7-8割を占める。語学力は2-3割でしかない。とくに論理性が重視される自然科学や工学、あるいは社会科学の場合には、そうである。文学作品は当該国に長期に生活した経験がなければ翻訳不可能である。
他方、日本語から外国語への翻訳は母語の専門家の手助けなしには不可能である。双方向の会話ができるバイリンガルと呼ばれる人でも、双方の言語で優れた文章を書ける人はほとんどいない。それぞれの社会の常識、語彙力、文章読解力をもち、文章訓練を積まなければ、どんな言語であれきちんとした文章を書くことはできない。
 これにたいして、会話(話す聞く)は一定の語彙力と経験があれば、それなりに成立する。会話には常に相当の曖昧性が伴うことも、日本語での会話と同じである。しかも、会話能力はスポーツと一緒で日常的に使う状況になければ、話す力も聞く力も衰える。日本のように、日常的に外人と会話する機会が少ない国では、話す力や聞く力を学ぶインセンティヴを維持するのが難しい。だから、英語より、国語の4技能の方がはるかに重要である。
 さらに、日本の周辺国は英語圏ではない。日本人にとって朝鮮語と中国語が一番身近な外国語である。中国や韓国に長期に滞在する人は、英語で生活するより、それぞれの言語を学ぶ方がはるかに現地でのコミュニケーションが容易になる。西欧に関心のある学生はドイツ語やフランス語あるいはスペイン語に関心があるはずだ。外国語の選択肢を広げる方が急務である。いかに対米従属国日本とはいえ、インターナショナルな時代に、英語だけを外国語と考える発想は時代遅れである。

 高校時代は何も英語だけ勉強しているわけではないし、誰もが国際的な環境の仕事に就きたいわけでもない。数学や物理学・化学・生物学、あるいは文学作品や歴史に没頭して、英語の勉強がおろそかになる学生もいる。英語以外の言語を学びたい学生もいるはずだ。そういう学生に、一律に英語の4技能を強制するのは馬鹿げている。英語の一律強制はそれぞれの個人の持つ可能性の開花を阻害する。言語学者になろうとする場合を除き、語学はあくまでも手段である。だから、必要になったときに、勉強することで十分に足りる。
 ハンガリーでは幼児教育から外国語を学ばせるところが多く、小学校や高等学校では複数の外国語の学習が可能である。大学の学位取得には外国語の国家試験で、中級以上の資格を取得することが要求されているが、もちろん英語だけに限定されておらず、あらゆる外国語が資格要件の選択肢に入っている。資格は何時取得しても構わない。高校時代に取得することも可能である。ハンガリーでは大学入試資格として、語学の中級(国家試験)資格の取得を検討していたが、政府は導入を断念した。語学だけに時間を集中させるのは多様な能力の発達を阻害するという判断である。大学卒業までに、最低一つの外国語の中級資格を取得すればよいというのが現在のハンガリーの状況である。ただ、大学に入学すると、語学にたいする関心が薄れ、語学の勉強が疎かになる。語学資格試験を避けたために、いつまで経っても学士号を取得できない学生も多い。

 学校における外国語教育改革を行うことなく、試験を外部委託して問題が解決されると考えるのはきわめて安直である。試験の外部委託ではなく、学校教育や大学教育における外国語教育の抜本的改革が急務である。大学入学用の試験は英語に限らず、言語の選択肢を広げ、かつ資格認定で済ませるのが良い。異なる民間試験の結果を比較するのは無駄である。まして、異なる言語の点数を比較することに意味はない。資格認定として民間試験を利用する場合には、一定以上の点数を合格(有資格認定)として、絶対点数を入学判定に使わないことだ。教育の機会均等を守るために、語学の国家資格試験を導入することも考えるべきだ。
大学入学前に必要なのは発音能力の習得である。これだけは、大人になってから学ぶのが難しい。今年の流行語大賞One Teamを「ワンチーム」などと発声している限り、いつまでたっても日本人の語学能力は進歩しない。teamを「チーム」と発声したのでは、理解されない。「ティーム」と発声しなければならない。「シートベルトをお掛けください」というアナウンスも、きわめて滑稽である。シートはsheet(紙)である。seat beltは「スィートベルト」である。こういう日本語化された英語発声を放置しながら、4技能を強調するのはとてもアンバランスである。インポッシブルではなく、インポッスィブルである。シンガポールではなく、スィンガポールである。発音・発生を重視せずに共通一次の英語から発音とアクセントの問題を外すというのは間違っている。もともと、日本の英語教育では発声や発音を厳しく教えることがない。しかし、日本語化された英語発声は外国で役に立たないことを知るべきだ。日本の語学教育の何が問題なのかを当事者たちが理解していない。

 大学における語学教育も問題が多い。専門分野によって、必要な語学能力要件は異なる。自然科学、工学、社会科学の場合には、論文の読解力・作成能力やプレゼン能力が必要とされる。論理的な文章の読解・作成訓練が必要である。ところが、日本には言語学部が少なく、言語教育の専門家は少ない。日本の大学で語学を教えている教員の多くは文学部出身の文学専攻者である。文学部出身の教員は文学作品を題材にして、授業し試験問題を作成する。しかし、感性的な文学作品を理解するのは非常に難しいし、専門論文やプレゼン能力の向上にほとんど役に立たない。語学を担当する文学部出身の先生の多くは、「言語の技術を教授するのが自分の仕事ではない。自分は言語学者ではなく、文学者である」と考えている。しかし、言語教育は文学教育ではない。言語授業と自らの専門研究は区別しなければならない。教員は学生が所属するそれぞれの専門分野に応じた語学能力の教授に努めるべきである。文学部出身であっても、それぞれが所属する専門学部で必要な言語能力の教授に努力すべきである。文学研究者の職の確保のために外国語教育が存在するのは本末転倒である。これは日本の大学が古くから抱える語学教育の根本問題である。
 いずれにしても、英語試験の民間への外部委託で、日本の外国語教育問題が解決されることはない。
2019.04.23 自転車は走行禁止です
看板語の世界(1)

松野町夫 (翻訳家)

看板語の世界がおもしろい。「看板語」とは、ここではとりあえず、看板や掲示板、案内板、道路標識などに記載された文言、と定義しておこう。看板は一般的に不特定多数の人に何らかの情報を伝えるものであり、看板語は当然のことながら、簡単でわかりやすい印象的な語句が使用される場合が多く、言語研究には申し分のない教材となる。

JR 指宿枕崎線の谷山駅は現在、駅前広場の整備工事が進行中である。駅前通路には次のような看板が掲示されていた。この掲示は日本語と英語のバイリンガル版である。

自転車走行禁止s
【自転車走行禁止の看板(筆者撮影)】

この看板から文言だけを書き出すと、以下のようになる。

自転車は走行禁止です
NO CYCLING ALLOWED
WALK YOUR BIKE
歩行者との接触などによって重大な危険事故をまねきます。
降りて通行して下さい

まず、以下の3つの和文から検討する。今回のテーマは、「主題」。英語は主語で始まるが、日本語は「~は」で始まる場合が多い。「~は」は主題を示す。

自転車は走行禁止です
歩行者との接触などによって重大な危険事故をまねきます。
降りて通行して下さい

上記の3つの和文の主題はいずれも、「自転車は」である。最初の文で「自転車は」と明記したので後続の文の主題は省略できる。つまりこの看板の掲示は、「自転車は」という主題で統一されているのだ。

自転車は走行禁止です
(自転車は)歩行者との接触などによって重大な危険事故をまねきます。
(自転車は)降りて通行して下さい

「~は」は主題を示し、「~が」は主格を示す。こうした「~が」や「~は」を主語とする見方もあるが、この小論は、日本語に主語はなく、代わりに、主題と主格があるという立場である。たとえば、「太郎は色が黒い」の場合、主語がふたつあるのではなく、「太郎は」を主題、「色が」を主格とする見方である。

つぎに、英文を検討し、英語の主語と日本語の主題を比較してみよう。

NO CYCLING ALLOWED
No cycling (is) allowed. = Cycling (is) not allowed. (be 動詞は省略可能)
意訳: 自転車は走行禁止です。(直訳: 自転車に乗って行くことは禁止されています)

英語の主語 → cycling (自転車に乗って行くこと)
日本語の主題 → 「自転車は」

英文には主語が不可欠だ。この例では、主語は No cycling または Cycling である。サイクリング(cycling)とは、自転車に乗って行くこと、または自転車で遠出することの意。
cycle = to ride a bicycle; to travel by bicycle

「自転車は降りて通行して下さい」は、英語でどういうの?と問われて、即座に Walk your bike. と言える人はエライ。英語の walk は「歩く」という自動詞のほかに、「歩かせる」という他動詞がある。

WALK YOUR BIKE
Walk your bike. = (You must) walk your bike.
自転車は降りて通行して下さい。(直訳: あなたの自転車を歩かせなさい)

バイク(bike)は日本語では「オートバイ」を意味するが、英語では自転車(bicycle)を意味する。
Walk your bike. は命令形。英語の命令形の主語はyou である。命令形では主語 you はたいてい省略される。

英語の主語 → you 
日本語の主題 → 「自転車は」

英語の主語と日本語の主題は異なる。和文英訳すると、主題と主語が一致する場合が多いが、今回のように一致しないこともある。

2019.04.04 西暦か元号か
公文書はできるだけ早く西暦に統一すべきだ

松野町夫 (翻訳家)

新元号「令和」が公表されたとき、私は「令」という漢字に少し違和感を覚えた。「平成」とちがって、「令和」には威圧的な響きがある。

案の定、新元号「令和」に漢字の本家・中国から批判の声があがった。
「令和」は音声上、「零和」を連想させ、「平和ゼロ」「平和な日はない」となり、縁起がよくないのだという。また、「令」は一般に「命令する」という意味が強いので、「令和」は「平和を命令する、平和を強いる」というように解釈されるおそれがある。(参考:SmartFLASH、2019/4/1)

元号に詳しい京都産業大の所功名誉教授によると、「令」の文字を使った元号は1864年に「元治」に改元された際に「令徳」の候補があった。だが幕府側が「徳川に命令する」という意味が込められているとして難色を示し採用されなかったとの記録がある。(日本経済新聞、2019/4/2)

と、ここまで書き終えてNHK 夕方 7時のニュースを見たら、新元号「令和」の考案者は、国際日本文化研究センター名誉教授の中西進氏とのこと。あれぇー、弱ったなあ、中西先生が考案者だと批判の矛先が鈍る。というのは、中西進著『ひらがなでよめばわかる日本語』新潮文庫と、中西進著『日本語の力』集英社文庫は私の愛読書で、この名著から私は日本語について多くのことを学んだから。

しかしそれでもやはり、年代の数え方は西暦が世界標準。西暦はどの国でも通用し、簡単に時代を通算できる。これに対して、元号は島国・日本でしか通用せず、時代の通算に不適切だ。しかも元号は、数十年ごとに改元する必要があり、不便だし、その手間や費用も無視できない。

したがって、少なくとも公文書はできるだけ早く西暦に統一すべきだ。公文書とは、たとえば、免許証、個人番号カード、各種の証明書・申請書・届出などをふくむ。公文書に元号はいらない。

2019.01.12  有題文と無題文
  「は」は有題文を導き、「が」は無題文を導く

松野町夫 (翻訳家)

日本語の文は、「~は」または「~が」がリードする。「~は」は主題を示し、「~が」は主格を示す。主題を示す「は」のある文を有題文(または主題文)、「は」のない文を無題文という。無題文は一般に、主格を示す「が」はあるが、主題を示す「は」はない。

ただし、文脈や情況から主題が自明で、省略しても誤解が生じない場合、主題は省略できる。主題が省略された文を略題文という。略題文は形式的には無題文だが、実質的には有題文なので有題文として扱う。また、「は」と「が」が一つの文にでてくる「ハ・ガ文」は、有題文として扱う。

これは私の本です。彼は学生です。 → 有題文
雨が降っています。雪が降ってきた。風が止んだ。 → 無題文
(あなたは)ゆうべ、ぐっすり眠れましたか。 → 略題文(=有題文)
象は鼻が長い。私は体重が60キロです。 → ハ・ガ文(=有題文)

有題文は伝統的な文型で、文学や名言・ことわざなどにも愛用され、現代でも使用頻度が最も高い。

春はあけぼの。夏は夜。秋は夕暮れ。冬はつとめて(早朝)。(枕草子から)
人は城、人は石垣、人は堀、情けは味方、仇は敵。(武田信玄の名言)
「善は急げ」。「時は金なり」。「短気は損気」。「旅は道連れ、世は情」。(ことわざ)
彼は学生です。彼女は美しい。このあたりは静かだ。朝食は食べました。

有題文は基本的に解説文(説明文)である。基本文型は主題+解説。たとえば、「彼は学生です」や「朝食は食べました」の場合、「彼は」「朝食は」が主題で、「学生です」「食べました」が解説となる。

有題文は述語の品詞をベースに、名詞文、形容詞文、動詞文の3種類に分類できる。形容動詞(静かだ)は、ナ形容詞として形容詞に分類する。

有題文の種類 (述語の品詞をベースに分類)

彼は学生です。 → 名詞文
人は城(だ)、人は石垣、人は堀。時は金なり。短気は損気。

彼女は美しい。 → 形容詞文
春はあけぼの(がいい)。夏は夜(がいい)。きょうは風が強い。このあたりは静かだ。

朝食はもう食べました。 → 動詞文
お勘定はもう済ませてあります。日曜日は昼まで寝ています。きょう(私は)学校に行きます。

無題文は、任意の語を「は」で主題にすることで、有題文に変換できる。たとえば、

きのう彼の個人情報がネットに出回った。 → 無題文

きのうは、彼の個人情報がネットに出回った。 → 有題文
ネットには、きのう彼の個人情報が出回った。 → 有題文
彼の個人情報は、きのうネットに出回った。 → 有題文

無題文(現象文)
無題文は一般に、主格を示す「が」はあるが、主題を示す「は」はない。無題文は現象(動き)を表すことが多いので現象文(または現象描写文)ともいう。

無題文の種類
無題文は、目の前の現象(動き)をそのまま述べるので、動詞文が圧倒的に多い。

隣りが火事だ! → 名詞文
あ、雨だ!見て、雪だよ。あ、停電だ!

空が青いですね。 → 形容詞文
(見て、)虹がきれい。空気がおいしいですね。うわー、水が冷たい!

雨が降っている。 → 動詞文
風が吹いていた。雨雲が広がってきた。雪が降ってきた。雪が積もった。

以下は、動詞文を主体別に配置したものである。

自然、無生物:
雨が降る。風が吹く。桜島が噴火した。噴煙が火口から3000メートルの高さまで上がった。
台風が西日本に上陸した。台風の影響で潮位が高まっている。岩肌が露出している。

動物、植物: 
犬が庭をかけまわっていた。猫が日なたで毛づくろいをしている。
梅のつぼみがほころび始めた。桜が咲いた。リンゴの花びらが風に散った。

人間、生活:
子供たちが遊んでいる。数人が堤防沿いをジョギングしていた。昨夜田中さんがうちに来た。
お祭りに大勢の人が参加した。近所にコンビニがオープンした。大雪で交通が停滞していた。

政治、経済、外交:
新内閣が発足した。株安への懸念が高まっている。予算が初めて100兆円の大台を突破した。
徴用工問題や慰安婦財団の解散などを巡って日韓関係が冷え込んでいる。

存在:
公園に子供たちがいる。机の上に本がある。明日会議があります。来週試験がある。
高速道路で事故があった。きのう熊本県で震度 6 弱の地震がありました。

ハ・ガ文

「は」と「が」が一つの文にでてくる「ハ・ガ文」は、有題文なので基本的に解説文であるが、無題文(現象文)に近いものもある。

主体: きょうは雨が降った。今週は桜がきれいだ。24日の欧米市場では株安が加速した。
対象: 今は水が飲みたい。私は寿司が好きだ。兄は漢文が読める。
存在: 私には良い考えがある。机の上には本がある。その日は事故がなかった。
部分: 象は鼻が長い。太郎は色が黒い。京都は秋がいい。
関係: 山田さんは、奥さんが入院中です。「対応策」は外国人の生活支援策が柱になる。
2018.12.14 「は」と「が」
「は」は 対比、限度、留保付き肯定、部分否定を示し、「が」は 排他を示す

松野町夫 (翻訳家)

英語は主語で始まるが、日本語は「~は」や「~が」で始まる場合が多い。「~は」は主題を示し、「~が」は主格を示す。たとえば、日本昔話『桃太郎』は次のように始まる。

むかしむかし、あるところに、おじいさんとおばあさん住んでいました。
おじいさん山へ芝かりに、おばあさん川へ洗濯に行きました。
おばあさん川で洗濯をしていると、ドンブラコ、ドンブラコと、大きな桃流れてきました。
おばあさん大きな桃をひろいあげて、家に持ち帰りました。

こうした「が」や「は」を主語とする見方もあるが、この小論は、日本語に主語はなく、代わりに、主題と主格があるという立場で書いたもの。たとえば、「あのスーパーは水曜日が休みです」の場合、主語がふたつあるのではなく、「あのスーパーは」を主題、「水曜日が」を主格とする見方である。

■主題を示す「は」:

「~は」は「ワ」 [wa] と発音するが、「は」と書くのがルール。1946年の内閣訓令で、(2) 助詞〈は〉は、ワと発音するが〈は〉と書くことを本則とする、と決められた。

日本語文法では、「は」を係助詞(または副助詞)に分類する。係助詞「は」は種々の語に付き、その語が主題(題目)であることを示す。

「は」の働き
1. 格助詞を代行して主題を示す。
2. 対比、限度、留保付き肯定、部分否定、否定の焦点を示す。

「~は」は 主題を示す
「は」は、格助詞「が・の・を・に …」を代行または付随して、その直前の語を主題として提示する。

地球が丸い。 → 「が」を代行 → 地球は丸い。
象の鼻が長い。 → 「の」を代行 → 象は鼻が長い。
大阪に明日行きます。 → 「に」を代行 → 大阪は明日行きます。
その映画をもう見ました。 → 「を」を代行 → その映画はもう見ました。
(以下同様)

主題の種類: 「は」が代行する格助詞の型をベースに分類した。

主格「が」型: 地球は丸い。彼は学生です。花は美しい。 → 「主格型」=主語
属格「の」型: 象は鼻が長い。山田さんは、奥さんが入院中です。
対格「を」型: その映画はもう見ました。朝食はもう食べました。 → 「対格型」=目的語
位格「に」型: 大阪は明日行きます。富士山(に)は登らなかった。
与格「へ」型: 母へは手紙を書くつもりです。高台へはロープウエーを利用します。
奪格「から」型: ここからは富士山がよく見えます。四時からはあいています。
具格「で」型: あなたの時計ではいま何時ですか。顕微鏡なしでは観察できません。
共格「と」型: 母とはよく買物に行きます。父とは外出したことがあまりありません。
時の格型: 日曜日は昼まで寝ています。きょうは会社に行きます。

このように「は」は、格助詞「が、の、に、を …」を代行しながら、主題を示すことができる。「は」は、一人二役どころか、一人十役ほどの働きぶりである。これが「は」の長所であり、同時に、短所でもある。たとえば、ほんの一例ではあるが、「彼は知っています」という表現は、「(それについては)彼が知っています」と、「(私は)彼を知っています」という二つの解釈が可能となり、混乱が生ずる場合がある。

「は」は 対比、限度、留保付き肯定、部分否定、否定の焦点を示す
母とはよく買物に行きますが、父とは外出したことがありません。 → 対比
イベントは午後3時には開始する予定です。 「午後3時には」 → 限度
買ってはみた。(が、ほとんど使い物にならなかった)。「買っては」 → 留保付き肯定
仕事はやりがいはある。(が、残業が多すぎる) 「やりがいは」 → 留保付き肯定
両方はいらない。(片方だけほしい) → 部分否定
全員は来なかった。(一部の人が来なかった) → 部分否定
全員が来なかった。(誰も来なかった) → 全体否定
車は急には止まれない。(止まるが、時間がかかる) 「急には」 → 否定の焦点

■主格を示す「が」:

「~が」は、鼻濁音なので「ンガ」 [ŋ] と発音するが「が」と書く。ただし西日本では、鼻濁音を使用する習慣がなく、「が」 [ga] と濁音で発音する人が多い。

日本語文法では、「が」を格助詞に分類する。格助詞には「が、の、に、を …」などがある。格助詞「が」は主として名詞に付き、その名詞が主格(≒主語)であることを示す。「が」は述語に係る場合と、名詞に係る(名詞と名詞をつなぐ)場合がある。

「が」の働き

1. 「が」は主格を示し、述語に係り、そのまま文を終結させる(現象文)。
 鳥が空を飛ぶ。雪が降り始めた。風が吹く。水が冷たい。 → 述語に係る

 
2. 「が」は 名詞と名詞をつなぐ。つないだ時点で役目を終える。
 天気がいい日には散歩する。 「が」は「天気」と「日」までをつなぐ → 名詞に係る
 娘が作ってくれた弁当を食べた。 「娘」と「弁当」までをつなぐ → 名詞に係る

3. 「が」は 排他を示す
 田中さんが学生です。(他の人は学生ではありません。) → 排他的

「~が」は主格を示す。主格は英語の主語に相当する。しかし相当はするが、完全に同一ではない。主格「が」には、少なくとも 4 種類の用法があり、このうち能動主格は英語の主語に相当するが、残りの主格は主語に相当しないか、または相当しない場合もありうる。

主格の種類
能動主格: 彼がペンをくれた。雨が降る。人が通る。空が青い。桜が満開だ。
対象主格: 水が飲みたい。寿司が好きだ。彼女は数学ができる。漢文が読める。
所動主格: 私に良い考えがある。机の上に本がある。音楽がわかる。姿が消えた。
部分主格: 象は鼻が長い。太郎は色が黒い。京都は秋がいい。兄は背が高い。

2018.12.12 主語と主題
主題は、主語よりはるかに意味が広い

松野町夫 (翻訳家)

主語とは何か。主語は元来、英語など印欧語の文法用語である。主語は基本的に名詞で、述語動詞の示す動作や状態の主体を表す。動作主。作用主。たとえば、” She’s nice. I like her.” における ”She” や “I” が主語となる。

英文は主語と述語からなる。主語を決めないかぎり英文は書けない。基本 8 文型でも主語は常に文頭に登場する。以下の文型では、主語(S)、述語動詞(V)、補語(C)、目的語(O)、副詞相当語句(A)とする。ちなみに日本では、従来、基本 5 文型が主流であったが、現在は基本 8 文型が世界標準。英文の下線部は主語を表す。

第1文型 SV (Flowers bloom.) 花が咲く。
第2文型 SVC (Kate is nice.)  ケイトはすてきだ。
第3文型 SVO (I like her.) 僕は彼女が好きだ。
第4文型 SVOO (John gave me a pen.) ジョンが僕にペンをくれた。
第5文型 SVOC (We call him Johnny.) 私たちは彼をジョニーと呼ぶ。
第6文型 SVA (Mary is in the kitchen.) メアリーが台所にいる。
第7文型 SVCA (She is afraid of cockroaches.) 彼女はゴキブリが怖い。
第8文型 SVOA (He put a book on the shelf.) 彼は本を棚に置いた。

英語には主語が絶対に必要だ。では、日本語に「主語」はあるのだろうか。

結論から言うと、この問題には統一した見解がない。学校では、今でも「が」や「は」などの助詞を伴った文節を主語と教える。この学校文法の定義に従えば、上述の基本文型の訳文の「花が」「ケイトは」「僕は」「ジョンが」「私たちは」…は、いずれも主語となる。

しかし、名著『象は鼻が長い』で有名な言語学者、三上章(1903-1971)は、日本語には「主語」はなく、主題があると考え、主語廃止論を一貫して唱えた。

日本語の主語については、辞書や事典でも見解が異なる。たとえば、日本語大辞典は肯定的な立場であるが、ブリタニカ国際大百科事典は否定的である。

主語 → 日本語大辞典
文の成分の一種。「風が吹く」「色が白い」「ぼくが山田です」などの「風が」「色が」「ぼくが」のように、「何が」「だれが」に当たる文節。「何も」「何は」などとなることもある。また、日本語には主語が省略された、述語だけの文もある。subject <対義>述語。

主語 → ブリタニカ国際大百科事典 小項目版 2011
日本語では「~が」の形が主語とされるが,完全な文を形成するために必ずしも必要ではない点,文法的規定に欠ける点などで,インド=ヨーロッパ語族などにおける主語とは性格を異にするので,「~を」「~に」などと対等の連用修飾語であるとする説さえある。

日本語の主語について、統一した見解がないということは、日本語文法は未完成ということを意味する。そこでここでは、国文法に深入りするのをできるだけ避け、問題を主題と主格に限定し、これを英語の基本文型、とくに主語(S)と比較することで、それぞれの違いを明確にしたいと思う。

主題と主格:
日本語は「~は」や「~が」で始まる文が多い。
例: 春はあけぼの。|桜が咲いた。この場合、「春は」は主題を表し、「桜が」は主格を表す。
「象は鼻が長い」の場合、「象は」は主題を表し、「鼻が」は主格を表す。

主題を示す「~は」のある文を有題文、ないのを無題文という。有題文は、昔から存在する伝統的な文型で、文学や名言・ことわざなどにも愛用され、現代でも使用頻度が最も高い。

主格を示す「~が」のある文は、「桜が咲いた」とか、「雪が降ってきた」とかいうように、現象を写生することが多いので現象文という。現象文は江戸時代以後に登場した比較的新しい文型だという。

主題、主格、主語:
英語は主語で始まるが、日本語は主題/主格で始まる。主題「~は」や、主格「~が」、主語(S)は、主語を表せるという点は共通だが、意味の広さ(適用範囲)からいうと、主題>主格>主語となる。

主題「~は」= 主語や目的語、副詞相当語句を表す。 → 「は」は種々の語に付く。
主格「~が」= 主語や目的語を表す。 → 「が」は体言に付く。
主語(S) = 主語のみを表す。

主題は英語でトピック(topic)という。主題(T)。主題は主語よりはるかに意味が広い。主題を示す「~は」は、「~について言えば」という意味。助詞「は」は、英語の群前置詞 “as for” に相当する。つまり日本語の主題は、英語の基本文型でいうと、主語(S)ではなく、副詞相当語句(A)に相当する。

有題文を英訳すると、英文では主題「~は」が主語(S)になる場合が一番多いが、目的語(O)や副詞相当語句(A)になることもある。たとえば、

春はあけぼの。 = Spring is best at dawn. → 主題=主語

ただし、「春はあけぼの」は、「春は、あけぼのがいい」の意。これを英語に直訳すると、
春はあけぼのがいい。 = As for spring, dawn is nice. → 主題=副詞相当語句(A)

その映画はもう見ました。= I already saw the movie. → 主題=目的語(O)
= As for the movie, I already saw it. → 主題=副詞相当語句(A)

詳細は、後で決めよう。 = Let’s decide about details later. → 主題=目的語(O)
= For details, let's decide about them later. → 主題=副詞相当語句(A)

主格と主語:
「~が」は主格を示す。主格は英語の主語(S)に相当する。しかし相当はするが、完全に同一ではない。主格「が」には、少なくとも四通り(能動、対象、所動、部分)の用法があり、こうした和文を英訳すると、能動主格は英語の主語に等しいが、残りの主格は主語に相当しないこともある。とくに対象主格は目的語に相当する場合が多い。つまり、日本語の主格は、英語の主語より意味が広いということ。

1. 能動主格(=動作主、作用主) → 主格=主語
 彼が私にペンをくれた。 = He gave me a pen. 主格は「彼が」、主語は “He”

2. 対象主格(対象を示す「が」) → 主格≠主語
 水が飲みたい。 = I want to drink water. 主格は「水が」、主語は “I”

3. 所動主格(受身にできない動詞にかかる主格) → 主格≠主語
 私に良い考えがある。 = I have a good idea. 主格は「考えが」、主語は “I”

4. 部分主格(主題の一部を表す主格)→ 主格≠主語
 象は鼻が長い。 = Elephants have a long nose. 主格は「鼻が」、主語は “Elephants”
 *この英文は、配分単数(主語が複数で、目的語が単数)である。