2015.01.13
松田浩さんが岩波新書「NHK」新版で緊急提言
坂井定雄(龍谷大学名誉教授)
NHKの内情と外圧について最も詳しく、メディアと権力の関係を一貫して追求してきたジャーナリスト・研究者の松田浩さんが、「宿痾の視覚障害に悩みながら視力のあるうちに、その締めくくりとして書いた」(あとがき)全面改訂版を出した。副題は「危機に立つ公共放送」、帯では「「政権による”乗っ取り“作戦」。
本書が松田さんから届いた翌日の1月8日、朝日新聞朝刊第2社会面に、小さなしかし笑えない記事があった。「政治家のネタ、NHKで没―爆笑問題『全部ダメ、腹立った』」
短い記事なので全文採録しようー
「お笑いコンビの爆笑問題が7日未明に放送されたTBSのラジオ番組『JUNK爆笑問題カーボーイ』で、NHKのお笑い番組に出演した際、事前に用意していた政治家に関するネタを局側に没にされたことを明らかにした。
出演したのは3日に放送された『初笑い東西寄席2015』。ラジオ番組によると、放送前に番組スタッフに対して、『ネタ見せ』をした際、政治家のネタについてすべて放送できないと判断されたという。
番組の中で田中祐二さんは『全部ダメって言うんだよな。あれは腹立ったな』と話した。太田光さんは『プロデューサーの人にもよるんだけど、自粛なんですよ。これは誤解してもらいたくないんですけど、政治的圧力は一切かかってない。テレビ局側の自粛っていうのはありますけど。問題を避けるための』と話した。
NHK広報部は朝日新聞の取材に、『打ち合わせの中身に関することについては、普段からお答えしていません』としている」
最近、NHKニュースが、まるで安倍政権の広報放送じゃないかと思うほど、実質のない内容の繰り返しが目立って多くなった。「クローズアップ現代」は相変わらず誠実に制作しているとは思うが、政治に直接かかわるテーマがほとんどなくなり、つまらなくなった。爆笑問題が見抜いたように、「自粛」なのだろうか。制作現場が「自粛」させられているのだろうか。
安倍政権が、NHK会長の任免権をもつ経営委員会のメンバーに、「安倍晋三総理大臣を求める民間人有志の会」代表幹事をつとめた長谷川三千子埼玉大教授ら、首相と思想的、政治的に極めて近い立場をとる4人を任命し、経営委員会が籾井勝人氏を会長に任命してから1年。籾井氏の発言についてはNHK内外から厳しい批判が巻き起こり、籾井氏自身も放送法を尊重し、損なうような介入を行わないことを、再三表明せざるを得なかった。
だが、安倍首相に送り込まれた籾井会長と経営委員たちが、放送内容に干渉することを諦めるとは、とうてい思えなかった。これまで自民党が繰り返しては一部が明らかになったように、NHKの番組制作者を呼びつけて露骨に要求するようなことは、籾井発言が大問題になった後だけにできないだろうが、それならばどのように介入してくるのか。それに対して、NHKで働く職員たちと、視聴者たちは、どのように戦っていくべきなのか、それは、いま、どのように行われ、広がっているのだろうか。松田浩さんが本書で詳述し、提言している内容に学ぶことは多かった。
2015.01.03
「転進」と「タイコ持ち」の花ざかり
―2015年元旦各紙を読む―
六回目の読み比べである。今年は朝日、毎日、読売、日経、産経、東京にThe Japan Times を加え七紙を読んだ。結論を先に言うと、14年までの最近数回と比べて、紙面も評価もほとんど変わらない。むしろ紙面から年々情報量が減って退屈になっている。お前の頭の進歩が停止した証拠だという批判があるだろう。そういう読者は是非記事を読んで具体例を示して反論して欲しい。
《朝日は「転進」したのである》
今回は、国民的なバッシングを浴びた朝日の姿勢に注目して読んだ。
その感想は、朝日は政治権力と損得経営に屈服したというものである。
その論拠を三点挙げる。
第一に、朝日は、必要な場面でも、主体的な「我々」の意見表明をしていない。
第二に、「我々」の代わりに「第三者」の意見を展覧会風に並べ立てている。
第三に、その結果「従軍慰安婦」問題に対しての確固たる姿勢が感じられない。
以下に個別の論調と記事を紹介して私の感想の説明としたい。
朝日社説は「グローバル時代の歴史 「自虐」や「自尊」を超えて」と題し次のようにいう。(■から■まで。「/」は中略を示す)
■頭上を覆う雲は流れ去るどころか、近年厚みを増してきた感さえある。歴史認識という暗雲だ。それぞれの国で、「自虐」と非難されたり「自尊」の役割を担わされたり。しかし、問題は「虐」や「尊」よりも、「自」にあるのではないか。歴史を前にさげすまされていると感じたり、誇りに思ったりする「自分」とはだれか。/東アジアに垂れ込めた雲が晴れないのも、日本人や韓国人、中国人としての「自分」の歴史、ナショナル・ヒストリーから離れられないからだろう。日本だけの問題ではない。むしろ隣国はもっとこだわりが強いようにさえ見える。/自国の歴史を相対化し、グローバル・ヒストリーとして過去を振り返る。難しい課題だ。だが、節目の年にどうやって実りをもたらすか、考えていく支えにしたい。■
これは、従軍慰安婦問題での「誤報と訂正及び謝罪の遅延」を批判された朝日の反応第一声といえるものである。「自分」の歴史認識から「グローバル・ヒストリー」へという方向性の提示は、まことに優等生的答案である。しかし私の見る限りこれは朝日の「転進」声明である。若い読者のために言うと、「転進」は、大東亜戦争のガダルカナル島攻防戦で日本軍が敗北・退却したときに出現した新語であった。
「ナショナル・ヒストリー」と「グローバル・ヒストリー」は二者択一のテーマではない。
国民国家のカベが崩れつつあるとはいえ、この二者の共存こそが、現下最大の課題である。
「ナショナル」と「インターナショナル(グローバル)」は一対の言葉なのだ。朝日新聞が真のジャーナリスト集団であれば、訂正と謝罪が済んだのだから独自の従軍慰安婦報道を開始すべきである。しかし朝日はそこから巧妙に遁走した。
朝日一面トップは「鏡の中の日本」という続き物の第一回で、ファッションデザイナー森英恵女史の国際市場での奮闘物語である。記事は次の言葉で結ばれている。
■おしゃれは軍服から最も遠い思想である。その分野に、戦後日本はあまたの才能を送り続けている。デザイナーたちはソフトパワーの先駆けとして、自動車や家電とは別の尊敬を、国際社会で勝ち得てきた。政府や企業では得がたい憧れを。個々の胸に宿る、この国への深い親しみを。■
「視点」というコラムで「戦後70年企画」班の担当記者が「鏡の中の日本」に関して次のように言う。
■もちろん、政治や経済といった大構えのマクロの視点で考えることも欠かせない。しかし、今回の「鏡の中の日本」では、あえて具体的な個人のミクロの動きに注目したい。/国際関係は、ひとりひとりの生き方の集積でもある。そのことを今いちど思い起こそう。■
しかし、これは「慰安婦がダメなら個人があるさ」ではないのか。
《「第三者」の意見を客観的に並べ立てる》
「第三者」の意見を展覧会風に並べている実例を挙げる。
「鏡の中の日本」に対する「世界からのメッセージ」の発信者は、チュラロンコン大(タイ)名誉教授スリチャイ・ワンゲーオ、元駐日カナダ大使ジョセフ・キャロン、芥川賞作家楊逸(ヤンイー)、ベルリン自由大教授イルメラ・日地谷・キルシュネライト、ソウル大副教授南基正(ナムキジュン)。それぞれ良いことを言っている。しかし朝日はどこに立っているのか。
「オピニオン」欄は、『21世紀の資本』で話題のフランス人経済学者トマ・ピケテイに論説主幹大野博人がインタビューしている。大野は、コメントで言う。ここでも意見は第三者が言うのである。
■「不平等」という言葉の含意をあらためて考えながら、日本語の文章での「格差」を「不平等」に置き換えて見る。「男女の格差」を「男女の不平等」に、「一票の価値の格差」を「一票の価値の不平等」に・・・。それらが民主的な社会の土台への脅威であること、そして、その解決を担うのは政治であり民主的な社会でしかないことが鮮明になる」と結んでいる。■
理屈っぽく言えば、総じて朝日の「主体的な主張」が感じられないのである。
俗っぽく言えば、朝日は「へっぴり腰」なのである。
《読売・産経・毎日・東京》
長文の読売社説は、「日本の活路を切り開く年に 成長力強化で人口減に挑もう」と題する。小見出しは「アベノミクスの補強を」、「雇用充実が活力の源泉」、「台頭する中国に備えよ」、「欠かせぬ日米同盟強化」である。新自由主義と対米従属を是とする大政翼賛論である。何度読んでも、権力への批判がないから、安倍政権の「タイコ持ち」言説という言葉しか考えつかない。
「若者や女性に多い非正規労働者の処遇改善も欠かせない」と書くが、非正規労働者を減らそうとか、なくそうとは、決して書かない。首相の靖国参拝のような「中国や韓国に対日批判の口実を与える行動は慎みたい」とするのは読売の特色である。
一面左に三段抜きで「東芝カザフに原発輸出」と報じる記事は、「ウラン生産世界一 資源確保に期待」の見出しを従え、原発輸出を肯定的に報じている。
論説委員長樫山幸夫による産経の「年のはじめに」(社説に相当)は、「覚悟と決意の成熟社会に」と題する。この世紀を生きるキーワードは「自立」「自助」とする。「他者依存」の現行憲法の改正を強く訴え「環境は整いつつある」と述べる。その自立が米国からの自立を含むのかは明らかではない。読売がタイコ持ちであれば、産経は「チョウチン持ち」と言えるだろう。
産経の一面トップは、太平洋戦争の激戦地ペリリュー島(現在はパラオ共和国の一部)の戦いと、今年の天皇夫妻の同島訪問を結びつけようとしている。「時を超え眠り続ける「誇り」」という見出しは、しかし天皇の訪問意図とは大いに異なると思う。昔なら不敬罪に問われよう。
毎日社説「戦後70年日本とアジア 脱・序列思考のすすめ」は、東アジア諸国が秩序思考に囚われすぎていると批判しそこからの脱却を主張する。EUが、序列よりも並列の意識を定着させた課程に、学ぶべきところがあるとする。共感するところは多いが、秩序思考を近代化論的な量的思考に限定しているのが問題だ。EUではドイツが中心となったのに、東アジアでは日本が中心になるどころか隣国と仲が悪いのは、各国の秩序思考だけが理由ではない。日本が戦争総括という質的思考を欠いたことが大きな理由である。
東京は、一面トップで「武器購入国に防衛省が資金援助」を報じて軍事用途版ODAになる危険を指摘している。読売の原発輸出報道と対照的である。一面左に、俳人金子兜太と作家いとうせいこうが選ぶ「平和の俳句」を掲げている。元旦に載った一句は18歳高校生の「平和とは一杯の飯初日の出」である。
社説は「戦後70年のルネサンス」と題する。ピケティ、河上肇、ロイド=ジョージ、松本健一、大東亜戦争をキーワードにして、戦時報道の反省を述べ、国民の側に立ち権力を監視し「言わねばならぬこと」をいう責務を持つという決意を述べている。
《天皇の年頭感想・日経とジャパンタイムズ・米系日本人の講義》
今上天皇の年初感想は全紙が報じている。その見出しを「戦争の歴史を学び考えることの大切さ」(東京。朝日・毎日・日経もほぼ同じ)とした社と、「日本のあり方考えていくこと極めて大切」(産経。読売もほぼ同じ)をいう社とに分かれた。細かいことだが視線の違いが感じられる。
本紙部分と別刷りの付録は、テレビ番組とスポーツの広告のようなものだが、中では日経のデジタル時代特集がビジネスの現場を知る強みを見せ、その文化欄もレベルが高い。日経本紙の上海株式市場の記事はショックだった。第一の矢による円安で米ドル換算の時価総額は上海が東京の120%になったのである。黒田バズーカは円の安売りである。
権力の「タイコ持ち」とおとしめた読売の名誉のためにいうと、付録第三部の「2015年注目映画」が良かった。この記事で小栗康平が藤田嗣治を主人公にした『FOUJITA』を撮ったのを知った。小栗はこの作品で日本の近代を描こうとしたと語っている。藤田の壮絶な戦争画を知る世代としては興味津々である。他に『日本のいちばん長い日』(原田真人監督)、『野火』(塚本晋也)、『母と暮せば』(山田洋次)の紹介がある。
全体を通して文化、読書に関する記事が少ない。そう思っていたら、The Japan Times にドナルド・キーンが書いていた。「日本体験七〇年の回顧」と題して、日本作家の戦中の鬱屈と戦後の解放感、50年代の京都での留学生活、日本の作家や伝統芸術家との交流についてである。2012年に帰化した米系日本人の「講義」に、私は大いに慰められたのであった。
最後に、経済学者竹田茂夫の「権力の顔」(東京「本音のコラム」欄)の結語部を写して長い今年の読み比べを終わる。
■現政権は日銀総裁に大見えを切らせて、市場の期待を喚起し、政策バブルの株高で国民の支持を繋ぎとめる間に、別のアジェンダに沿って進む方針のように見える。
国民と政権は互いに歪んだ姿を写し合う二枚の鏡なのだ。国民の大多数には政権の素顔、危険な国家主義は隠されている。現政権には株で小ガネを稼ぐ一方で、子孫に原発汚染を残し、非正規層を差別し、沖縄を犠牲にして顧みない、われわれ日本人の顔がデフォルメされて映し出されている。■
(2015/01/01)
半澤健市 (元金融機関勤務)
六回目の読み比べである。今年は朝日、毎日、読売、日経、産経、東京にThe Japan Times を加え七紙を読んだ。結論を先に言うと、14年までの最近数回と比べて、紙面も評価もほとんど変わらない。むしろ紙面から年々情報量が減って退屈になっている。お前の頭の進歩が停止した証拠だという批判があるだろう。そういう読者は是非記事を読んで具体例を示して反論して欲しい。
《朝日は「転進」したのである》
今回は、国民的なバッシングを浴びた朝日の姿勢に注目して読んだ。
その感想は、朝日は政治権力と損得経営に屈服したというものである。
その論拠を三点挙げる。
第一に、朝日は、必要な場面でも、主体的な「我々」の意見表明をしていない。
第二に、「我々」の代わりに「第三者」の意見を展覧会風に並べ立てている。
第三に、その結果「従軍慰安婦」問題に対しての確固たる姿勢が感じられない。
以下に個別の論調と記事を紹介して私の感想の説明としたい。
朝日社説は「グローバル時代の歴史 「自虐」や「自尊」を超えて」と題し次のようにいう。(■から■まで。「/」は中略を示す)
■頭上を覆う雲は流れ去るどころか、近年厚みを増してきた感さえある。歴史認識という暗雲だ。それぞれの国で、「自虐」と非難されたり「自尊」の役割を担わされたり。しかし、問題は「虐」や「尊」よりも、「自」にあるのではないか。歴史を前にさげすまされていると感じたり、誇りに思ったりする「自分」とはだれか。/東アジアに垂れ込めた雲が晴れないのも、日本人や韓国人、中国人としての「自分」の歴史、ナショナル・ヒストリーから離れられないからだろう。日本だけの問題ではない。むしろ隣国はもっとこだわりが強いようにさえ見える。/自国の歴史を相対化し、グローバル・ヒストリーとして過去を振り返る。難しい課題だ。だが、節目の年にどうやって実りをもたらすか、考えていく支えにしたい。■
これは、従軍慰安婦問題での「誤報と訂正及び謝罪の遅延」を批判された朝日の反応第一声といえるものである。「自分」の歴史認識から「グローバル・ヒストリー」へという方向性の提示は、まことに優等生的答案である。しかし私の見る限りこれは朝日の「転進」声明である。若い読者のために言うと、「転進」は、大東亜戦争のガダルカナル島攻防戦で日本軍が敗北・退却したときに出現した新語であった。
「ナショナル・ヒストリー」と「グローバル・ヒストリー」は二者択一のテーマではない。
国民国家のカベが崩れつつあるとはいえ、この二者の共存こそが、現下最大の課題である。
「ナショナル」と「インターナショナル(グローバル)」は一対の言葉なのだ。朝日新聞が真のジャーナリスト集団であれば、訂正と謝罪が済んだのだから独自の従軍慰安婦報道を開始すべきである。しかし朝日はそこから巧妙に遁走した。
朝日一面トップは「鏡の中の日本」という続き物の第一回で、ファッションデザイナー森英恵女史の国際市場での奮闘物語である。記事は次の言葉で結ばれている。
■おしゃれは軍服から最も遠い思想である。その分野に、戦後日本はあまたの才能を送り続けている。デザイナーたちはソフトパワーの先駆けとして、自動車や家電とは別の尊敬を、国際社会で勝ち得てきた。政府や企業では得がたい憧れを。個々の胸に宿る、この国への深い親しみを。■
「視点」というコラムで「戦後70年企画」班の担当記者が「鏡の中の日本」に関して次のように言う。
■もちろん、政治や経済といった大構えのマクロの視点で考えることも欠かせない。しかし、今回の「鏡の中の日本」では、あえて具体的な個人のミクロの動きに注目したい。/国際関係は、ひとりひとりの生き方の集積でもある。そのことを今いちど思い起こそう。■
しかし、これは「慰安婦がダメなら個人があるさ」ではないのか。
《「第三者」の意見を客観的に並べ立てる》
「第三者」の意見を展覧会風に並べている実例を挙げる。
「鏡の中の日本」に対する「世界からのメッセージ」の発信者は、チュラロンコン大(タイ)名誉教授スリチャイ・ワンゲーオ、元駐日カナダ大使ジョセフ・キャロン、芥川賞作家楊逸(ヤンイー)、ベルリン自由大教授イルメラ・日地谷・キルシュネライト、ソウル大副教授南基正(ナムキジュン)。それぞれ良いことを言っている。しかし朝日はどこに立っているのか。
「オピニオン」欄は、『21世紀の資本』で話題のフランス人経済学者トマ・ピケテイに論説主幹大野博人がインタビューしている。大野は、コメントで言う。ここでも意見は第三者が言うのである。
■「不平等」という言葉の含意をあらためて考えながら、日本語の文章での「格差」を「不平等」に置き換えて見る。「男女の格差」を「男女の不平等」に、「一票の価値の格差」を「一票の価値の不平等」に・・・。それらが民主的な社会の土台への脅威であること、そして、その解決を担うのは政治であり民主的な社会でしかないことが鮮明になる」と結んでいる。■
理屈っぽく言えば、総じて朝日の「主体的な主張」が感じられないのである。
俗っぽく言えば、朝日は「へっぴり腰」なのである。
《読売・産経・毎日・東京》
長文の読売社説は、「日本の活路を切り開く年に 成長力強化で人口減に挑もう」と題する。小見出しは「アベノミクスの補強を」、「雇用充実が活力の源泉」、「台頭する中国に備えよ」、「欠かせぬ日米同盟強化」である。新自由主義と対米従属を是とする大政翼賛論である。何度読んでも、権力への批判がないから、安倍政権の「タイコ持ち」言説という言葉しか考えつかない。
「若者や女性に多い非正規労働者の処遇改善も欠かせない」と書くが、非正規労働者を減らそうとか、なくそうとは、決して書かない。首相の靖国参拝のような「中国や韓国に対日批判の口実を与える行動は慎みたい」とするのは読売の特色である。
一面左に三段抜きで「東芝カザフに原発輸出」と報じる記事は、「ウラン生産世界一 資源確保に期待」の見出しを従え、原発輸出を肯定的に報じている。
論説委員長樫山幸夫による産経の「年のはじめに」(社説に相当)は、「覚悟と決意の成熟社会に」と題する。この世紀を生きるキーワードは「自立」「自助」とする。「他者依存」の現行憲法の改正を強く訴え「環境は整いつつある」と述べる。その自立が米国からの自立を含むのかは明らかではない。読売がタイコ持ちであれば、産経は「チョウチン持ち」と言えるだろう。
産経の一面トップは、太平洋戦争の激戦地ペリリュー島(現在はパラオ共和国の一部)の戦いと、今年の天皇夫妻の同島訪問を結びつけようとしている。「時を超え眠り続ける「誇り」」という見出しは、しかし天皇の訪問意図とは大いに異なると思う。昔なら不敬罪に問われよう。
毎日社説「戦後70年日本とアジア 脱・序列思考のすすめ」は、東アジア諸国が秩序思考に囚われすぎていると批判しそこからの脱却を主張する。EUが、序列よりも並列の意識を定着させた課程に、学ぶべきところがあるとする。共感するところは多いが、秩序思考を近代化論的な量的思考に限定しているのが問題だ。EUではドイツが中心となったのに、東アジアでは日本が中心になるどころか隣国と仲が悪いのは、各国の秩序思考だけが理由ではない。日本が戦争総括という質的思考を欠いたことが大きな理由である。
東京は、一面トップで「武器購入国に防衛省が資金援助」を報じて軍事用途版ODAになる危険を指摘している。読売の原発輸出報道と対照的である。一面左に、俳人金子兜太と作家いとうせいこうが選ぶ「平和の俳句」を掲げている。元旦に載った一句は18歳高校生の「平和とは一杯の飯初日の出」である。
社説は「戦後70年のルネサンス」と題する。ピケティ、河上肇、ロイド=ジョージ、松本健一、大東亜戦争をキーワードにして、戦時報道の反省を述べ、国民の側に立ち権力を監視し「言わねばならぬこと」をいう責務を持つという決意を述べている。
《天皇の年頭感想・日経とジャパンタイムズ・米系日本人の講義》
今上天皇の年初感想は全紙が報じている。その見出しを「戦争の歴史を学び考えることの大切さ」(東京。朝日・毎日・日経もほぼ同じ)とした社と、「日本のあり方考えていくこと極めて大切」(産経。読売もほぼ同じ)をいう社とに分かれた。細かいことだが視線の違いが感じられる。
本紙部分と別刷りの付録は、テレビ番組とスポーツの広告のようなものだが、中では日経のデジタル時代特集がビジネスの現場を知る強みを見せ、その文化欄もレベルが高い。日経本紙の上海株式市場の記事はショックだった。第一の矢による円安で米ドル換算の時価総額は上海が東京の120%になったのである。黒田バズーカは円の安売りである。
権力の「タイコ持ち」とおとしめた読売の名誉のためにいうと、付録第三部の「2015年注目映画」が良かった。この記事で小栗康平が藤田嗣治を主人公にした『FOUJITA』を撮ったのを知った。小栗はこの作品で日本の近代を描こうとしたと語っている。藤田の壮絶な戦争画を知る世代としては興味津々である。他に『日本のいちばん長い日』(原田真人監督)、『野火』(塚本晋也)、『母と暮せば』(山田洋次)の紹介がある。
全体を通して文化、読書に関する記事が少ない。そう思っていたら、The Japan Times にドナルド・キーンが書いていた。「日本体験七〇年の回顧」と題して、日本作家の戦中の鬱屈と戦後の解放感、50年代の京都での留学生活、日本の作家や伝統芸術家との交流についてである。2012年に帰化した米系日本人の「講義」に、私は大いに慰められたのであった。
最後に、経済学者竹田茂夫の「権力の顔」(東京「本音のコラム」欄)の結語部を写して長い今年の読み比べを終わる。
■現政権は日銀総裁に大見えを切らせて、市場の期待を喚起し、政策バブルの株高で国民の支持を繋ぎとめる間に、別のアジェンダに沿って進む方針のように見える。
国民と政権は互いに歪んだ姿を写し合う二枚の鏡なのだ。国民の大多数には政権の素顔、危険な国家主義は隠されている。現政権には株で小ガネを稼ぐ一方で、子孫に原発汚染を残し、非正規層を差別し、沖縄を犠牲にして顧みない、われわれ日本人の顔がデフォルメされて映し出されている。■
(2015/01/01)
2014.09.18
政府、海外情報発信強化目指す―NHKへ要請も
隅井孝雄(京都ノートルダム女子大客員教授)
新任の高市早苗総務相(コミュニケーション担当)は6日、NHKの国際放送「NHKワールドニュース」が政府の見解を反映するよう求めた。「領土問題はじめとする諸問題についてNHKの国際放送が、日本の立場を正確にアピールするよう、放送法(69条)に基づき要請放送を求めることはあり得ると」いう見解をメディア各社のインタビューで述べた。同時に高市氏は「要請に応えるかどうかはNHKに決定権がある」と付け加えた。
▽有識者会議発足
政府の要請放送については、2006年当時の菅義偉総務大臣(現官房長官)が拉致問題についてNHKに「命令放送」(2009年に要請放送とネーミングを変えた)を求めたことが大きな論議を呼んだ。NHKが実施している国際放送「NHKワールド」については、海外への情報発信を強化したいという安倍首相の意向を受けて、国際放送のあり方をめぐる有識者会議が8月29日発足した。国際放送の実施体制や財源のあり方を論議して来年春までに結論を出すが、初会合で当時の新藤義孝総務大臣は次のような発言を行った。「NHKの国際情報発信をどう強化し、充実させるか方向性を確認したい。日本として世界に発信すべき情報は何かを検討いただきたい」。ちなみに当時は放送法で「命令放送」と記されていたが2012年の放送法改正で要請放送と名称を変えた。
NHK国際放送については今年1月、NHK籾井勝人会長が新任の記者会見で次のように述べた。「日本の立場を国際放送で明確に発言する。政府が右といっているのにわれわれ(NHK)が左というわけにはいかない」。この発言について日本国内はもとより、海外でも大きく報道され、NHKを時の政府が左右することについての論議がひろがり、籾井会長の辞任問題にも発展した。
NHKの国際放送(ラジオ、テレビ)への政府交付金は年々増加しており、2014年度は33億700億円(国際放送全体では171億5680億円、つまり80%は受信料でまかなわれている)のだが、安倍内閣はそれをテコにして国際放送全体、NHK全体を政府の意向を反映した放送にしていくことを狙っていると見られる。今回の「有識者会議」でも要請放送の引き替えに政府交付金の増額が検討される。
委員は多賀谷一照氏(獨協大教授)、島信彦氏(ジャーナリスト)、高島肇久氏(もとNHK解説委員)、のほか、領土問題などで安倍首相と政治理念を共にする、桜井よしこ氏(ジャーナリスト)、青山繁晴氏が含まれている。
▽出遅れたNHKワールドニュース、低い認知度
日本は戦前1935年6月から短波ラジオによる多言語国際放送を実施してきた。時代は日本が中国進出を開始、孤立を深まりつつある時代であった。やがて第二次世界大戦に突入したため、国策放送の色合いが濃かった時代が続いた。現在ではNHKワールドラジオ日本として18 言語で、世界に向けて放送している。またインターネットでもストリーミング放送されている。
テレビは1995年から海外在住日本人向けに衛星経由で世界に発信してきた。これは現在ではNHKワールド・プレミアとして、NHK総合の番組を中心に有料放送されている。
英語でニュース報道番組、文化紹介を中心とした編成でNHKワールドTVの放送を開始したのは2009年。日本の国際的情報発信が必要だという認識から、政府主導で国際放送の構想が進み、一時大手企業の協力を得た民間の衛星放送とする案もあったが、結局国は一定の交付金を出すが、NHKが主体的に運営、編成するの「NHKワールドTV」としてスタートすることになった。現在衛星やケーブルテレビを通じて140の国と地域に向けて英語で放送、NHKによれば視聴可能世帯2億7千万世帯だという。
NHKワールドTVは出遅れが響いて、視聴者の数は少ないと思われる。2012年に公表された調査では、認知度は韓国の67.7%を例外としてシンガポール37.0%、ワシントンDC13%、イギリス9.0%、フランス6.0%ときわめて低い。衛星直接受信の場合2メートル50センチの大型パラボラアンテナが必要であることも、普及の隘路になっている。しかし最大の問題は政府との距離だといえるだろう。
政府交付金、年々増額、客観的報道が課題
政府交付金は年々増加し2014年は34億7700万円(NHKの国際放送費の全額は171億5680万円)。そして放送法65条では国の政策についての「要請放送」という制度が明記されている。「邦人の生命、身体及び財産の保護に関わる事項、国の重要な政策に関わる事項、文化、伝統及び社会経済に関する重要事項を指定して国際放送、国際衛星放送を行うことを(国はNHKに)要請することが出来る」。2007年には拉致問題でラジオ国際放送に命令放送が発せられたことは大きな問題となった。
テレビの国際放送は1991年の湾岸戦争の際、バグダッドからリアルタイムで全世界に映像を送り続けたCNNがその名をとどろかせた。その後BBCワールドも公平報道、客観報道で信頼をひろげ、今両者が競い合いを展開している。
NHKワールドTVは、ジャーナリズム性、客観性についてネガティブな認識がひろがっていることをどう克服するかが課題だと思われるが、事態はその反対の方向に向かっているのか気がかりだ。
2013.01.04
改憲と原発への反対は少数派
―2013年元旦6紙を読む―
《改憲と原発をどう書いているか》
元旦6紙読み比べは4回目になる。
改憲と原発の取り上げ方に注目して読んだ。今年の最大テーマだと思うからである。経済第一は極右政権の擬態である。各紙とも本紙と別刷りで構成している。別刷りは「ラジオ・テレビ番組」、スポーツ欄、新産業、国際化した日本人の紹介などである。本紙は一面トップで特色を出そうとしている。イデオロギーは「社説」に現れるから、本稿はその紹介と評価が主になった。
「「日本を考える」を考える」と題する「朝日」社説は、「日本」を主語とする最近の政治言説を批判して「国家の相対化」を説いている。EUにおけるギリシャ問題、カタルーニャやスコットランド独立運動などの動向は意識しながらも、橋下徹の「国全体で経済の成長戦略を策定するのはもはや難しいと僕は思っています」、マイケル・サンデルの「民主制の不満」、などを引用して「国」を中心にする発想を転換を説き次のように結ぶ。
〈国家以外にプレーヤーが必要な時代に、国にこだわるナシヨナリズムを盛り上げても答えは出せまい。国家としての「日本」を相対化する視点を欠いたままでは、「日本」という社会の未来は見えてこない〉
国家の相対化が21世紀の趨勢であろうと私も思う。しかし現在の日中・日韓・日朝関係の下で、しかも日本政府はその解決を日米同盟や集団的自衛権によろうとしている今、この主張は現実離れしている。私は、対中関係を悪化させた者たちを糾弾しつつ、対米自主路線を確立することが解決策だと思っている。日本を護る気のないアメリカを信用しているから、近隣諸国にナメられるのである。孫崎享の『戦後史の正体』が好評の理由は何か。偏狭と寛容のナショナリズムの区別は難しい。しかしナショナリズムを「相対化」の一言で退ける姿勢は問題からの逃避である。対米従属からの脱却は、明治の先達のようにで不平等条約を廃止する戦いである。「斜陽の帝国」に立ち向かうことである。67年の戦後から脱却する命がけの仕事である。民主党の敗北は外交政策の誤りではない。「命がけ」でやらなかったという誤りである。
《産経と読売の元気》
「産経・年のはじめに」における論説委員長中静敬一郎の論旨は明快である。「憲法改正を掲げる政治勢力が国政の担い手となり国のありようを正す動きが顕在化してきた」と評価し次のようにいう。
〈東アジアの安全保障環境は様変わりした。中朝と日米韓が厳しく対峙する構図だ。ロシアも微妙にからむ。「独裁中国」を中心とする勢力が覇権を求め、それに「民主主義と自由」を守る勢力が立ちはだかる」、「日本人が覚悟を決める時だ。日米同盟を堅固にして抑止力を強める。そして心を一つにして中国の圧力をはね返すこと、である〉
これは第二次大戦の「ファシズムVSデモクラシー」の戦い、戦後の「自由な民主主義VS独裁の共産主義」、即ち東西冷戦の構図そのままである。イデオロギー丸出しの論理である。産経の一面トップ「中国の野望にくさび打て」は、防衛省が策定中という「統合防衛戦略」の紹介だ。10~20年後の有事シナリオで、「尖閣・石垣・宮古・台湾」に中国軍が侵攻する三つのケースを想定し1面と3面を使って詳細に報道している。「正論」という長いコラムでは曽野綾子が「幼児性と画一性脱し強い国家に」で持論を展開している。産経は「国民の憲法」起草委員会(委員長田久保忠衛)を設けて議論を進めているそうだ。服装評論家市田ひろみと田久保の対談は見開き2頁を使って改憲の必要性を訴えている。
産経の言説を貫いている思想は「強い日本」の確立である。
私はこういう言動に十分な警戒が必要だと思っている。当ブログ読者は、おそらく、まだ事態を甘くみているのである。しかし確信犯である彼らは増大している。私の造語「12/16・反革命」はまだ市民権を得ていないが、先12月の総選挙で自民党と維新を勝たせた民意には「産経的心理」がしぶとく沈潜しているのである。居酒屋ではジョッキ片手にインテリも大衆も「中国にナメられるな」、「サムソンに負けるな」と叫んでいる。私は複数友人との会話でこのことを痛感している。
「読売」社説も、現状を「国の衰退、先進国からの脱落の危機」と認識して国力の回復を論ずる。底流はここでも「強い日本」主義である。読売の特色は時の政権への迎合である。去年は野田政権に全面賛成だったが、今年は安倍政策ベッタリ、どころかその先まで行く。安倍のいう三本の矢「金融緩和・財政出動・成長戦略」を「妥当な考え方だろう」とし、脱原発に真っ向から反対する。しかも、原発新設という選択肢も「排除すべきではない」と書く。脱原発は日米同盟を軸とする防衛力にも影響するからである。TPPにも早期に参加を表明すべきだとハッパをかけている。
「御用新聞」とは何かを知りたい人に、読売社説は格好なテキストである。読売の第一面に「農水秘密サイバー流出か」の記事がある。スクープのつもりらしい。野田・オバマ会談時のTPP交渉に関する文書などが筒抜けになったという。私は情報統制への観測気球であろうと読んだ。
半澤健市 (元金融機関勤務)
《改憲と原発をどう書いているか》
元旦6紙読み比べは4回目になる。
改憲と原発の取り上げ方に注目して読んだ。今年の最大テーマだと思うからである。経済第一は極右政権の擬態である。各紙とも本紙と別刷りで構成している。別刷りは「ラジオ・テレビ番組」、スポーツ欄、新産業、国際化した日本人の紹介などである。本紙は一面トップで特色を出そうとしている。イデオロギーは「社説」に現れるから、本稿はその紹介と評価が主になった。
「「日本を考える」を考える」と題する「朝日」社説は、「日本」を主語とする最近の政治言説を批判して「国家の相対化」を説いている。EUにおけるギリシャ問題、カタルーニャやスコットランド独立運動などの動向は意識しながらも、橋下徹の「国全体で経済の成長戦略を策定するのはもはや難しいと僕は思っています」、マイケル・サンデルの「民主制の不満」、などを引用して「国」を中心にする発想を転換を説き次のように結ぶ。
〈国家以外にプレーヤーが必要な時代に、国にこだわるナシヨナリズムを盛り上げても答えは出せまい。国家としての「日本」を相対化する視点を欠いたままでは、「日本」という社会の未来は見えてこない〉
国家の相対化が21世紀の趨勢であろうと私も思う。しかし現在の日中・日韓・日朝関係の下で、しかも日本政府はその解決を日米同盟や集団的自衛権によろうとしている今、この主張は現実離れしている。私は、対中関係を悪化させた者たちを糾弾しつつ、対米自主路線を確立することが解決策だと思っている。日本を護る気のないアメリカを信用しているから、近隣諸国にナメられるのである。孫崎享の『戦後史の正体』が好評の理由は何か。偏狭と寛容のナショナリズムの区別は難しい。しかしナショナリズムを「相対化」の一言で退ける姿勢は問題からの逃避である。対米従属からの脱却は、明治の先達のようにで不平等条約を廃止する戦いである。「斜陽の帝国」に立ち向かうことである。67年の戦後から脱却する命がけの仕事である。民主党の敗北は外交政策の誤りではない。「命がけ」でやらなかったという誤りである。
《産経と読売の元気》
「産経・年のはじめに」における論説委員長中静敬一郎の論旨は明快である。「憲法改正を掲げる政治勢力が国政の担い手となり国のありようを正す動きが顕在化してきた」と評価し次のようにいう。
〈東アジアの安全保障環境は様変わりした。中朝と日米韓が厳しく対峙する構図だ。ロシアも微妙にからむ。「独裁中国」を中心とする勢力が覇権を求め、それに「民主主義と自由」を守る勢力が立ちはだかる」、「日本人が覚悟を決める時だ。日米同盟を堅固にして抑止力を強める。そして心を一つにして中国の圧力をはね返すこと、である〉
これは第二次大戦の「ファシズムVSデモクラシー」の戦い、戦後の「自由な民主主義VS独裁の共産主義」、即ち東西冷戦の構図そのままである。イデオロギー丸出しの論理である。産経の一面トップ「中国の野望にくさび打て」は、防衛省が策定中という「統合防衛戦略」の紹介だ。10~20年後の有事シナリオで、「尖閣・石垣・宮古・台湾」に中国軍が侵攻する三つのケースを想定し1面と3面を使って詳細に報道している。「正論」という長いコラムでは曽野綾子が「幼児性と画一性脱し強い国家に」で持論を展開している。産経は「国民の憲法」起草委員会(委員長田久保忠衛)を設けて議論を進めているそうだ。服装評論家市田ひろみと田久保の対談は見開き2頁を使って改憲の必要性を訴えている。
産経の言説を貫いている思想は「強い日本」の確立である。
私はこういう言動に十分な警戒が必要だと思っている。当ブログ読者は、おそらく、まだ事態を甘くみているのである。しかし確信犯である彼らは増大している。私の造語「12/16・反革命」はまだ市民権を得ていないが、先12月の総選挙で自民党と維新を勝たせた民意には「産経的心理」がしぶとく沈潜しているのである。居酒屋ではジョッキ片手にインテリも大衆も「中国にナメられるな」、「サムソンに負けるな」と叫んでいる。私は複数友人との会話でこのことを痛感している。
「読売」社説も、現状を「国の衰退、先進国からの脱落の危機」と認識して国力の回復を論ずる。底流はここでも「強い日本」主義である。読売の特色は時の政権への迎合である。去年は野田政権に全面賛成だったが、今年は安倍政策ベッタリ、どころかその先まで行く。安倍のいう三本の矢「金融緩和・財政出動・成長戦略」を「妥当な考え方だろう」とし、脱原発に真っ向から反対する。しかも、原発新設という選択肢も「排除すべきではない」と書く。脱原発は日米同盟を軸とする防衛力にも影響するからである。TPPにも早期に参加を表明すべきだとハッパをかけている。
「御用新聞」とは何かを知りたい人に、読売社説は格好なテキストである。読売の第一面に「農水秘密サイバー流出か」の記事がある。スクープのつもりらしい。野田・オバマ会談時のTPP交渉に関する文書などが筒抜けになったという。私は情報統制への観測気球であろうと読んだ。