2020.01.03 スクープはないが特集に要注目記事あり
  ―2020年元旦の全国紙を読む

半澤健市(元金融機関勤務)

 読み比べは11回目である。朝日、毎日、読売、日経、産経、東京の6紙を読んだ。対象は、主に「社説」、「特集」、「個別記事」である。総体的な印象は、2020年の元旦各紙は、無気力で迫力に欠けるというものである。安倍政権に正面から退陣要求した新聞は一紙もない。

《社説のキーワードは「持続可能性」》
 東京社説は「年のはじめに考える 誰も置き去りにしない」と題する。
18歳の女性マララ・ユスフザイが、15年9月国連サミットで「世界のリーダーの皆さん、世界中の全ての子どもたちに世界の平和と繁栄を約束してください」と訴えた。この会議が採択したのは「持続可能な開発のための2030アジェンダ(政策課題)」である。貧困・教育・気候変動など17分野にわたる「開発目標(SDGs)」であった。
合言葉が二つ、「誰一人も置き去りにしない」「地球規模の協力態勢」である。社説は、日本で08年「年越し派遣村」を立ち上げた湯浅誠の先駆性を挙げる。彼は今、「子ども食堂」の運動に総力をあげている。本当の総力戦が必要だ。SDGs実現には公私の全部門での協力が必要である。政治の力が必要なのも当然である。もし政治が「置き去り」をつくるのであればそれを変えればよい。

 日経社説は「持続可能な国を引き継ごう」と題して具体的な三つの提言をする。
一つは企業変革、特に日本的雇用制度の改革である。二つは国による社会保障制度の全世代負担型への転換である。三つはエネルギー政策の見直しだ。原子力発電の構成比20~22%のロードマップの実現は厳しい。新しいイノーベーションが必要だ。新自由主義のイデオローグである日経は具体的かつ実践的である。

《毎日はポピュリズム批判》
 毎日社説は「あきらめない心が必要だ」と題する。内容はポピュリズム批判である。分断の推進と異論の排除を是とするポピュリストは、「温暖化や海洋汚染などの地球の生態系に関する問題や、核軍拡競争の懸念が増すなかでも/国際秩序に大きな価値を認めない。地球の持続可能性の危機さえ招来している」のであり、安倍政治もポピュリズムの潮流に従う。さらに展開して仏思想家ジャック・アタリや政治哲学者宇野時重規の危機感を援用して結論を結ぶ。

 朝日社説も、「SDGs」の掲げる目標が「人権」「人間の尊厳」「法の支配」「民主主義」という西洋近代の理念がそうであるように「普遍的」であることを確認する。しかし世界のポピュリズムは、といってプーチン・ロシア大統領の「リベラルの理念は時代遅れになった。それは圧倒的な多数の利益と対立している」という言葉を挙げる。国内でも、自民党が12年の野党時代に発表した改憲草案が、前文から「人類普遍の原理」という言葉を削除したことを普遍性排除の実例に挙げる。普遍性の要否についての綱引きが20年代を通して続くだろうとする。無論、その含意は普遍性の擁護である。

「持続可能性」という品のよい無機質な言葉をキーワードにした感覚に私は執筆者の葛藤を感じない。優等生の当たり障りのない流行語選択である。私の独断と偏見をいえば山本太郎やその応援演説をする前川喜平の1%の気迫も感じない。

《別路線をゆく読売と産経》
 読売と産経は前四者と異なる。日本へのチョー楽観論と伝統的な反共理論だ。
読売社説のタイトルは「平和と繁栄をどう引き継ぐか〈変革〉に挑む気概を失うまい」というもの。その現状認識は次の通りである。
「日本は今、長い歴史の中でみれば、まれにみる平和と繁栄を享受している。世界に大きな戦争の兆しはない。安倍首相の長期政権下で政治は安定している。諸外国が苦しむ政治、社会の深刻な分断やポピュリズムの蔓延もみられない。経済成長率は実質1%前後と低いが、景気は緩やかに拡大している。失業率は2%台で主要国の最低水準だ。健康、医療、衛生面の施設も整う。男女を合わせた平均寿命は84歳と世界のトップレベルにある」。
ここまで読んで本当に驚愕した。ネトウヨ的月刊誌を凌ぐ日本礼賛である。
このあと、そうはいっても問題はあるとして日米同盟の強化、イノーベーション促進や高齢化対策、企業内部留保の活用による経済の活性化を提案する。批判と悲観を排すのが狙いの文章である。

産経社説は正確には「年のはじめに」という。論説委員長乾正人の署名と「政権長きゆえに尊からず」というタイトルがある。そのサワリは次の二点である。
「先日、〈正論〉友の会の講演で広島を訪れた際、会場からこんなご意見をいただいた。憲法改正がいますぐに断行できない政治状況はよく分かります。習近平を国賓で招くのも経済重視で我慢しましょう。しかし、靖国神社参拝を6年もしないのは許せません。靖国参拝の上、習近平を国賓として迎えれば日中間の歴史問題は一気に片づくでしょう。それができなければ、総理を長くやる意味はない。私は黙って頷くしかなかった」。
また外務省のチャイナスクールを批判して「最もひどかったのは中江要介中国大使である。/彼は生前、こう書いている。〈天皇制を護ろうとした国体護持による敗戦が間違いであったのではないかと、私は思う。何が間違いかと言えば、天皇制を護持したために戦争責任があいまいになった、と私は思う〉(「日中外交の証言」)見事なまでの〈共産党〉の論理である」。

《日経の特集はなかなか鋭い》
 特集では日経の「逆境の資本主義」と東京の「民衆の叫び 世界を覆うデモ」が要注目だ。前者は、波乱の歴史を乗り越えてきた資本主義が現在の逆境にどう立ち向かうかというのがテーマである。なかなかの本格派である。日経の問題意識は、日本の経済ジャーナリズムの平均より一歩進んでいる。特集6頁に、アダム・スミスの時期から現在に至る簡潔な資本主義の歴史が置かれ、7頁ではニーアル・ファーガソン(歴史学者)、岩井克人(経済学者)、レオ・ダリオ(ヘッジファンド運用者)の三人に資本主義の現状と将来を語らせている。彼らの現状認識はヘタな社民主義者や財界のトップより数段深く鋭い。今年の元旦記事中、この特集が一番今後の期待を抱かせる。

毎日の「米中のはざまで 日米安保60年」も要注目である。第1回では米中の「宇宙戦略」の争いを取り上げた。米国からの「日米で月面着陸」提案に対して、日本は5月の首脳会談で検討すると表明した。「宇宙軍」を創設した米国への協力は、米中「宇宙圏」競争へのコスト負担につながるだろうという。

東京の「世界を覆うデモ」は7回の連載で各国のデモに迫る企画である。第1回は香港の若者を取材している。希望と絶望が錯綜した内面の心情を語る彼らの情念が切なく迫ってくる。

《5G利用に米製品を避けるという戦略》
 個別の記事では、「ハイテク技術採用時の基準」と「宇宙開発」に関するものが興味深い。読売は一面で「中国製器制限新法」と報じた。企業がハイテク技術の導入時に、安全保障面へ考慮して日欧機器を優先する法律を政府が意図しているというもの。中国製品導入への警戒感を示すもので「5G ファーウエイ念頭」の見出しもある。ただ記事内容を見ると、通信基地局の世界シェアは、中国ファーウェイなどで4割、北欧2社を入れて四強体制となっている。日本勢は富士通とNECで各1%に過ぎない。ただし記事には対中制限をかけては日本の業界自体の国際競争力が劣ることへの不安や対策には言及がない。
ファーウェイの業績が米国中国のなかで好調という記事を各紙が伝えるなかで、産経は同社CEOの「単独寄稿」を載せたのが面白い。同寄稿でファーウェイが日本企業の成功例に学んだことを強調しているので「日本素敵論」と感じたのかも知れぬ。

朝日の福岡伸一(生物学者)とブレイディみかこ(在英の保育士・ライター)の対談が面白い。社説の多様性排除批判への援護射撃である。
東京オリンピックには礼賛記事の花咲かりだが、只一つ朝日が「日の丸だけに価値を求める」風潮を批判する記事を載せた。映画監督新海誠のコメントでは「エンタメが権力に利用される」危険を述べている。
米テレビ局を始めとする五輪利権企業、IOCとJOCに巣くう五輪官僚、インバウンドに賭ける商人などの生態に迫る記事は一つもない。華やかなテレビ・ラジオ番組紹介、東京五輪の人気選手の紹介。これら「パンとサーカス」の世界への批判的な視点は、一切なし。勿論、見世物小屋のなかでも競争はある。芸人の人気記事も花盛りである。

《株価は27000円~19500円》
 定番では日経の大手企業経営者による景気予想、金融専門家による株価と為替の予想がある。因みに日経平均予想の最高は投票者の平均が高値25450円、安値21625円。予想された最高値は27000円、最安値は19500円である。
多和田葉子、柳家小三治らへの朝日賞(田沼武能には特別賞)と草笛光子、今野勉らへの毎日芸術賞などなど書き残したものが多い。しかし長くなりすぎた。今年の元旦紙読み比べここまでに。(2020/01/02)
2019.09.26  月刊「文藝春秋」10月号を読んで

藤野 雅之(元共同通信社記者)

 坂井定雄氏が本欄に書かれた『朝日社説「反感をあおる風潮を憂う」を支持、でも、腰が引けていないか』(2019年9月18日付)の論の趣旨には私も大賛成で、昨今の週刊誌、新聞、テレビなどの反韓キャンペーンには怒りを禁じ得ない思いです。
 そんな中で、月刊「文藝春秋」10月号を私も読んで、日本が反韓・嫌韓の憂うべき状況にどっぷりと浸っていることについて、改めて考えて見たいと思いました。だが、私がこの号を買ったのは、総力特集「日韓断絶 憤激と裏切りの朝鮮半島」のためではなく、村上春樹の「バイロイト日記」のためでした。
 
 私はワーグナーのオペラが好きで、バイロイトにもこの20年間で5回足を運んでいます。村上春樹氏がバイロイトのオペラを見てどう書いているかに興味があったからでした。しかし、読んでがっかりでした。この作家らしい目というものをほとんど感じることがなかったからです。
 私は元来、村上春樹のファンではありません。彼の作品は一種の風俗小説の範疇を出るものではないと思うからです。風俗小説が悪いというわけではありませんが…。
 ところで、バイロイト・ワーグナー・フェスティヴァルは、ヒトラーがワーグナー・ファンであったことから、戦時下ナチスの思想的聖地となり、戦後はその歴史から決別するために、上演スタイルを180度転換し、指揮者や出演者、演出家などを世界各地から招き、ステージもオーバーなドイツ色を極力なくして、今では実験的、前衛的な舞台表現の場となっています。この方式はリヒャルトの孫のウィーラントが戦後、資金のない中でフェスティヴァルを再興した際に編み出したものだと言われています。
 そして、現在ではこれが定着して世界で最もチケットが手に入りにくい音楽祭と言われるまでに発展したのです。フェスティヴァルのメインである大作『ニーベルンクの指環』は、終戦直後はウィーラントが抽象的な演出をしたのですが、1970年代にフランス人演出家パトリス・シェローが産業革命の時代に舞台を移し換えたことから、自由な演出が広まり、同時にナチス批判なども織り込まれる演出が自由になされるようになっています。
 そんなフェスティヴァルの歴史を見ると、あの戦争に協力した芸術が戦後、どのように転換して社会に発信していくか、戦争への反省とその体験の継承、さらにいかにその精神を失わずに現代まで持続するかという点で、今だからこそ大いに考える意味があると思うのです。
 こういう現況に対して、村上春樹氏がどういう見方をするかを期待したのですが、目立った意見はなかったように思ったのです。

 総力特集「日韓断絶 憤激と裏切りの朝鮮半島」では、佐藤優氏は比較的客観的に現状を分析する姿勢を感じましたが、数学者の藤原正彦氏や前釜山総領事の道上尚文氏には、根底に反韓の姿勢が流れており、私には馴染めなかった。ことに道上氏は「日本側で心得ておいた方がよいと思うこと」として「第一に、オールジャパンでしっかり日本側の立場を発信し、説明すること」「第二には『国際スタンダードに即し、客観性のある姿勢』という日本の長所を維持すること」という。これには大いに疑問を抱きました。安倍政権の対韓政策をオールジャパンとしてみとめるというのだろうか。また、今の日本の対韓姿勢が国際スタンダードに即し、客観性があるというのだろうか。どのようにそれを証明するのかは書かれていない。 
 
 あえて言えば、このあとで触れるダルビッシュの意見に共感する私としては、こういう日本政府やこれを支持する人たち至上主義とも言える見方こそ批判すべきで、日本にはもっと多様な見方があることを自覚する必要があるように思います。
 そして、道上氏はさらに、全米歴史学会会長グラック博士の「歴史は、民族の記憶に負けるな」をよく引用すると書く。「戦勝国も敗戦国もどの国も、自国中心の単純なストーリー、『民族の記憶』が前面に立ちやすいが、これを克服したところに歴史がある、との趣旨だ。自国中心を克服した、個性で開かれた歴史。これが国際スタンダードである」という。だが、戦後の日本の保守派には日本会議をはじめとして戦前回帰を願う人が目立つ。彼らこそが日本至上主義、自国中心主義を言ってきたようにも思うのです。そこで、この言葉を、私は道上氏にそっくり返したいと思います。
 「民族の記憶」に固執しているのは日本の支配層をはじめとした保守派なのではないでしょうか。

 ただ今月の文春では、思わぬ拾い物もありました。一つは保阪正康氏と原武史氏の対談「昭和天皇『拝謁記』は超一級資料か」です。NHKがお盆に特ダネ風に報じた田島道治の手記についての評価です。もちろん、これは仏文学者の加藤恭子氏が2003年「文藝春秋」7月号で発表しており、その後の彼女の研究も学会ではすでに知られていることです。それをさも特ダネのように装って報じた一種のフェイクニュースです。フェイクという言葉は使っていませんが、言っていることはNHKのそういう意図的な報道の仕方に対する批判です。おそらくその背景には政治的な意図があると思われますが、そこまでは明らかにしてはいません。

 もう一つ。私が感心したのは鈴木忠平というスポーツ・ジャーナリストの「ダルビッシュ有『僕は日本へ提言を続ける』」です。
 シカゴの球場でインタビューした内容の報告ですが、ダルビッシュが高校野球岩手大会で大船渡高の監督が決勝戦で佐々木朗希投手を出場させなかったことについて、張本勲がTBS日曜の番組で批判したのをはじめ、野球界から出すべきだったという声が広まったことに反論しているのである。いまの日本の高校野球が甲子園至上主義になっていることへの彼の批判には説得力がある。そして、ダルビッシュは、甲子園至上主義に100%近く染まってしまっていることは、選手本来の人生を歪めてしまっているともいう。甲子園で優勝し、プロ野球選手になるということにしか価値をおかないような風潮が支配しているのである。ダルビッシュは、球界がこのような形で一色に染まっていることに危機を感じているのだ。社会には多様な意見があるべきで、そのために彼は自分の考えを発言し続けるというのである。
 このダルビッシュの考えは、まさにいまの日本の多様な価値観の欠如による、息詰まるような狭量な社会の現実に対する批判でもある。その意味で、日本を覆う嫌韓差別意識の問題にも通じるわけです。

 週刊誌と違って、また一色の主張に塗り固め荒れた雑誌が多い中で、文藝春秋には、半藤一利氏らが残した経験の蓄積もあると考えたいと思うのです。
 
<藤野雅之氏の略歴>共同通信文化部長、京都支局長など経て、KK共同通信社取締役出版本部長。2002年退職。東京経済大学、明星大学で非常勤講師。1976年、沖縄・与那国島サトウキビ刈り援農隊を呼びかけ、代表世話人として40年間続ける。著書「与那国島サトウキビ刈り援農隊 私的回想の30年」(ニライ社・2003年)
2019.01.03  現象描写あれど本質深耕に至らず 
2019年元旦の全国紙を読む

半澤健市(元金融機関勤務)

今回で10回目である。年男の老骨に鞭打ったが、年々密度が薄くなる。
その文、引いて見えていると自己満足している。
まず社説から見ていく。各社の立ち位置、主張がそれなりに見えるからである。

《社説を巡覧するとこうなる》
 朝日社説は「政治改革30年 権力のありかを問い直す」と題して、89年に政治不信への対策として世に出た自民党の「政治改革大綱」から始まる。それは政権交代可能な小選挙区制へと結実した。そして長い過程を経て、行き着いた先が「安倍一強」であり、国会の「官邸の下請け機関化、翼賛化、空洞化」である。そこで国会を強くする必要がある。しかし一から出直すというわけにはいかない。とすれば、バージョンアップで対応するしかない。それに続く提言は、「弱い国会を強くせよ」「解散権の行使再考を」などのスローガンと細かな手続き論の提示である。正論ではあるがまことに平凡な指摘が並んでいる。天下の朝日社説とは思えぬ代物である。正論が30年続いた結果がこの体たらくなのにである。

毎日社説は「次の扉へ AIと民主主義 メカニズムの違いを知る」と長いタイトルである。タイトルの主副が分かり難いが、要はAI技術と人間感情とのギャップについての考察である。脳科学者茂木健一郎の「情報爆発と個々人の処理能力のギャップに目をつけると、悪用を含めいろんなことができる。その意味でAIが人間の能力を超すシンギュラリティーはすでに起きている」という言葉を引用して、社説はこう述べる。「政治的に見れば、SNS(交流サイト)は人びとの不安を増幅させて社会を分断する装置にも、権力者が個々に最適化されたプロパガンダを発信する道具にもなり得る。(しかし)民主主義の価値は試行錯誤を重ねるプロセスにある。」「私たちはこれまでAIに無防備過ぎたかもしれない」「議論をする。互いを認め合う。結論を受け入れる。リアルな肌触りを省いたら民主主義は後退する」と続けながら、次のように結ぶ。「平成が間もなく幕を閉じ、冷戦の終結から30年が経つ。次なる扉の向こうには何が待っているのか」。結論に方向性を期待するとこういうウッチャリを喰うのである。

読売は長文の「米中対立の試練に立ち向かえ―新時代に適した財政・社会保障―」である。国際・外交論が全文の8割ほどを占める。米国の対中認識は、戦略的パートナーから最大の脅威中国に変わった。不安定なトランプ外交に対して、米国を国際秩序維持に関与させること、中国に安易に譲歩せず、高関税の掛け合いには自制を求める。これが日本の対米外交の役割だ。中国も経済にも陰りが見え始めたとはいえ中国を封じ込めることはできない。日本は中国と問題指摘を通じて話し合いを行い国際ルールの順守を求めるべきである。防衛に関しては日米同盟を基盤とし米軍との提携強化、豪州・東南ア諸国との協力を推進することを謳う。
残りの2割は国内論で、平成の30年は「不安定」と「停滞」だったという総括である。その内容と提言は常識の域を出ていない。同文は読売英字版「The Japan News」に英訳が掲載されている。

日経の社説「基調はイノーベーション」は、平成30年間の停滞を、グローバリゼーションとデシタル化に遅れたとする。そして、対策をイノーベーションに求める。中間層の厚さ、世論分断が小さい、多額の内部留保という好条件のもとで、労働流動性向上、分配政策実施によって資本主義と民主主義を守れと主張する。一貫して新自由主義を鼓吹する日経らしい論説である。ただしイノーベーションが、中間層の没落と世論分断に結果するだろうという危惧は語らない。

産経は「年のはじめに」というのが社説である。
乾正人論説委員長が「さらば『敗北』の時代よ」というタイトルで書いている。僅差に迫っていた日米経済は平成時代に米に大差を付けられた。乾は三つの理由をいう。一つは戦後復興に成功したことからの「慢心」、第二に「政治の混乱」(30年間に首相が18人)、第三に中国の共産党独裁政権を支持したことである。天安門事件以後の海部政権による円借款の再開、宮沢政権による天皇訪中の実現など、日本側に取り返しのつかない失策があった。これが中国の成り上がりの出発となった。トランプ政権は、いずれこう言うであろう。「俺をとるか。習近平をとるか」。日米安保があれば大丈夫という思考停止の時代は終わりを告げる。産経社説はこう結ぶ。「厳しい選択を迫られる新しき時代こそ、日本人は戦後の呪縛から解き放たれる、と信じたい」。

産経は編集局長井口文彦が「揺らぐ世界秩序 羅針盤たる新聞に」と題して「リアリズムに徹した取材と分析で、日本が進むべき道を提示していきます」としている。『元号の風景』が始まり、『楠木正成を読み解く』の連載も始めるという。

東京の社説は「分断の時代を超えて」と題する。冷戦終結から自由と競争が激化し、グローバルな格差と不平等の時代となった。目下最大のテーマは民主主義の危機である。社説は、ドイツの政治学者カール・シュミットの「国民を『友と敵』に分断する政治」論を紹介する。今、世界で進んでいるのはシュミット流の「分断政治」である。多数派の独走、議会手続きを踏んだふりをして数の力で圧倒する。国民の権利が奪われている。これが現状認識である。されば健全な民主主義を取り戻すにはどうしたらよいのか。
事実に基づく議論、適正な議会手続き、議員各人の責任感。これが対案である。そしてこう結ぶ。「民主主義は死んだりしません。民主主義は私たち自身だからです。生かすのは私たちです。危機を乗り越えて民主主義は強くなるのです。その先に経済も外交も社会保障もあるのです。分断を超え対話を取り戻さねばなりません」。

《わがなきあとに洪水はきたれ》
 6紙の社説を読んだ感想は以下の通りである。
1.現状分析 テーマは国際的には「米中対立」、国内的には「安倍一強」に収斂する。  共通点はナショナリズムと覇権抗争、格差と分断、技術進歩と人類である。
2.対策と提言
状況の急速な変化、事実の提示に精一杯である。具体的で説得力のある対策は提示
されていない。
3.問題点
自由と競争がなぜ分断と格差をもたらしたのか。東西冷戦が終熄して「資本の論理」が衣装を脱ぎ捨て裸で暴走したからである。即ち「グローバリゼーション」とそれを支える「新自由主義」である。これは私の考えだ。しかしここまで下降して、その原理が「ニュース」にどう現れるかを論じたものはなかった。敢えていえば「日経」の「イノーベーション」推進論、毎日の「AIと民主主義」の対決、東京の「観念的理想主義」が、それなりに現状と対峙していると読んだ。

毎日の一面左の「未来へつなぐなぐ責任」と題する小松浩主筆稿に触れておきたい。国内外の諸問題―大災害・財政危機・格差問題・エネルギー・戦争と平和―を提示したあと、小松はこう述べる。「過去と切り離して、現在があるわけではない。過去の世代が何をなしたかに、あとの世代の生き方も運命づけられる。18世紀のフランス革命前、ルイ15世の愛人として権力をふるい、浪費の限りを尽くしたポンパドール夫人は『わがなきあとに洪水はきたれ』と言ったとされる。『いまさえよければ』が破滅を招いたのである」。そして文章を次のように結ぶ。「日本で今年生まれる赤ちゃんの半分以上は、22世紀を見るだろう。私たちには、世代を超えた重い責任がある。『あとは野となれ山となれ』というわけにはいかないのだ」。

まことにもっともな結論である。しかし、私(半澤)は、フランス貴族の捨てゼリフに共感を覚える。日本の高度成長を支えた企業戦士が、平成30年のゼロ成長を見て、居酒屋で呟くセリフとそっくりだからである。そして、おそらく好況を生きたことがない若者諸君も同じ心情をもっているのであろう。この「明るいニヒリズム」が日本の空間を覆っている。私は、居酒屋で同僚諸君に「この明るいニヒリズムを基盤にして、安倍政権は、日米一体の軍事ケインズ政策へカジを切ったんだよ」と言う。すると彼らは、納得したのか納得しないのか不明だが、明るい微笑を私に向けてくるのである。

《スクープ・特集・インタビュー・座談》
 朝日が一面トップで「昭和天皇 直筆原稿見つかる」と打った。晩年の作、252首である。直筆であるだけでなく、訂正や注記が残されていた。その中の二首に関する作家半藤一利(88歳)のコメントについて触れる。

■国民の祝ひをうけてうれしきもふりかへりみればはずかしきかな
(国民の祝いを受けて嬉しきも振り返りみれば恥ずかしきかな←半澤の変換)

■その上にきみのいひたることばこそおもひふかけれのこしてきえしは
(その上に君の言いたる言葉こそ思い深けれ残して消えしは←半澤同)

一首目は、1986年4月29日の天皇誕生日、在位60年の記念式典に詠んだもの。「はずかしきかな」について、半藤はこう述べている。「戦時中に勤労動員された私は、その式典まで昭和天皇には大元帥陛下としての戦争責任があると考えていた。ところが、式典の最中、天皇のほほを涙がつたい、先の戦争による犠牲を思うとき、『なお胸が痛み、改めて平和の尊さを痛感します』と語った。今回の原稿にこうある(ここに第一首が入る)。あの涙は偽りではなかったのだと、今、改めて思う」。

二首目は、元首相岸信介が死去したときに詠んだ歌である。
半藤はこう述べる。「天皇自身の注釈として『言葉は声なき声のことなり』とある。安保改定が国論を二分し、国会をデモ隊に包囲される状況の中で岸首相が語った『いま屈したら日本は非常な危機に陥る。私は《声なき声》にも耳を傾けなければならぬ』を思い起こさせる。(中略)『声なき声』」という注釈と歌を会わせると、昭和天皇は、岸首相の考えを『おもひふかけれ(思い深けれ)』と評価し、深く思いを寄せていたのかと複雑な思いにとらわれる。(中略)あるいは日米の集団的自衛を定めた安保改定に賛成の気持ちを持っておられたのだろうか。それをうかがわせるような直筆の言葉がのこされていることに心から驚いている。生涯、大元帥としての自分がなかなか抜けられなかったのか」。

半藤一利の、言葉を選んだコメントは、デリケートな感情を表現している。戦争責任については免責に近い感情を表しているように読めるし、安保に関しては「心から驚いている」と言っている。私はいま堀田善衛の著作を読んでいるが、そこでの強い昭和天皇批判に比較して、随分穏やかな言葉であると感じる。「記憶」が「歴史」に変わるとき人の心情がどう変化するかを示したものとして、私は興味深く読んだ。
朝日は一面でAIに人工集中から見た「2050年の日本」を予想させている。京大と日立の協力を得て出た結果は2万通りに及んだ。このまま都市集中型が続くと国自体が持続不可能になるとの予測が出ている。相当な地方分散型の人口集中が、辛うじて持続可能なシナリオが描けることになる。「明るいニヒリスト」にとっても厳しい選択は襲いかかっている。
AIの利用に関しては、日経が「新幸福論」という続き物で取りあげ、アタリ、オズボーン、山際らの識者の意見を示すなど興味ある分析を載せている。日経は恒例の経済と金融の予想を企業経営者や市場専門家に質問している。日経平均株価についてだけ触れれば、予想中で2019暦年の最高値は26000円、最安値は18000円である。

東京が映画監督是枝裕和にインタビューした。監督は今、パリでカトリーヌ・ドヌーブ主演の映画を撮っているのである。全編フランス語で、スター女優とその娘の関係を描くものという。今年公開予定である。昨年『万引き家族』でカンヌ映画祭の最高賞パルムドールを獲得し、新年には「朝日賞」に輝いた是枝の言葉から一部を抜き出しておく。
よく考えた人の言葉である。

「(権力側の)『大きな物語』に回収されないためには、それぞれの作り手が、多様で『小さな物語』を自らの足元に一つずつ置いていくことが大切だと思っています」。
〈問い:受け手はそれらから気付きがあればいい?〉
そうです。今の閉塞状況への新薬を一本の作品に期待するのは逆に危険。映画や小説にできることは恐らく、免疫力を少しでも高めていくような地道な作業だと思う。今は免疫力が弱まっているから、いろんな病気にかかってしまうのでは。

産経が、櫻井よしこが司会して安倍晋三首相とバイオリニスト五嶋龍の「新春対談」を掲げている。五嶋の発言は、安倍礼賛が思ったより少なく、少しは批判的な質問もしているのが面白いといえばいえる。

産経の皇室記事は代替わりの行事、式典などを列挙し祝祭性を強調している。朝日が今上天皇と皇太子両夫妻の象徴性、反戦平和志向を強調するのと対照的である。確かに一連の祝祭で天皇家と安倍政権は物理的に一体化する。その回路で新天皇を「大元帥路線」に取り込む。そんなことを考えている人間がいるかも知れない。

読売は小澤征爾インタビューを載せた。若手養成の楽しさを語る鬼気迫る小沢の表情が痛々しい。同じく「読売新聞オンライン始まるよ」という4頁ものがあったが、印刷板読者は無料でアクセス可能とあるだけで瞥見の限りオンライン版のみの料金表示はなかった。

《なかなか全部に手が回らない》
 定評ある日経の文化面を反映して「元旦第三部」という紙面で「平成の『ベスト5』」と題して、文芸・演劇・映画・音楽の各ジャンルから5本ずつ、批評家が選んだものを解説していた。意表をつかれたなかなか面白い企画である。因みに各ジャンルのベストワンは次の通り。
■文芸 『1Q84』、村上春樹、2000-10年
■エンタメ『ホワイト・ジヤズ』、ジェイムズ・エルロイ、1992年
■演劇 『S/N』、ダムダイブ、1994年
■歌舞伎 歌右衛門『建礼門院』、歌舞伎座、1995年
■映画 『アバター』、ジェームス・キャメロン監督、2009年
■映画 『バトル・ロワイヤル』、深作欣二監督、2000年
■音楽 『アッシジの聖フランチェスコ』、読売日響、サントリーホール、2017年
■ポップス 『sweet19blues』、安室奈美恵、1996年

朝日賞、毎日芸術賞など書きたいことは多いが紙数が尽きた。以上でご勘弁を願う次第である。(2019/01/02)
2018.08.22 今年の8月も頑張ったNHKの戦史報道の数々

坂井定雄(龍谷大学名誉教授)

昨年も書いたが、今年の8月もNHKの戦史報道の数々に感動し、知らなかった事実を教えられた。報道された番組は見落としもあるとは思うがNHKスぺシャル(Nスぺ)「祖父が見た戦場」(11日)、「悪魔の兵器 原爆なぜ誕生 科学者の闇」(12日)、Nスぺ「戦争孤児の戦い」(12日)、Nスぺ「ノモンハン 責任なき戦い」(15日)、ETV特集「自由はこうして奪われた」(18日)、Nスぺ「届かなかった手紙」(19日)・・・いずれも番組制作に携わったNHKスタッフと参加、協力した人々に心から慰労したい。少しでも多くの太平洋戦争を経験してない人々、とくに若い人々には、これらの番組で伝えられた戦争の歴史、戦争がどれほど非人間的な、残酷な国家の行為であったことを、改めて知ってほしいと思う。
これらの報道をたぶん私以上に視ていた、文化・メディア界に詳しい友人の藤野雅之さんが、司馬遼太郎さん、半藤一利さんとのかかわりも含めて、今年のNHK戦史報道について書いてくれたので、以下に転載します。

NHKスぺシャル「ノモンハン 責任なき戦い」
―司馬遼太郎も「書きたい」が「書けない」と言い残す
藤野雅之(元共同通信記者)

 NHKスペシアルの「ノモンハン 責任なき戦い」を見ました。よくできた番組だと思いました。
 NHKは安倍寄りの姿勢が目立って、批判も多いですが、そういう姿勢は報道局で目立っています。いまの名前がどうなっているのか知りませんが、番組制作局にまでは会長の目は届いていないようで、昔からのNHKらしい、ジャーナリズム精神がまだ生きていると思います。
 朝日などに対してもそうですが、NHKとか朝日とかの全社が政権寄りになっているような批判が世間で目立ちますが、きちんとしたジャーナリズム精神を維持しようと頑張っている人たちがいることも当然です。そういう批判は安倍シンパのネトウヨたちの主張の裏返しで、敵の手中にハマってしまうことにもなり、危険です。
  批判するなら、どの記事が問題だ、と具体的に挙げて批判すべきで、良いところは具体的に挙げて褒めるべきです。その意味で、NHKの番制局はよく頑張っていると思います。

 ところで、ノモンハンについては、NHKスぺシャル「ノモンハン 責任なき戦い」でも触れていましたが、司馬遼太郎さんが「書きたい」と言いながら「書けない」と言い残して、亡くなりました。私も直接付き合いがあって、聞いたことがありましたが、よく言っていたのは「統帥権」問題です。要するに、軍部や関東軍内で天皇の「統帥権」についての認識がどうだったのかがよくわからない、という面もあったのではないでしょうか。
 この問題も含めて、私が最近読んで感銘を受けたのは半藤一利著『ノモンハンの夏』(文春文庫)です。軍部や関東軍の内部の動きを詳しく追究しています。ご一読をお勧めします。

 ところで、半藤さんは私の好きな人で、今年が「明治維新150年」に当たり、長州人の末裔の安倍が大々的に礼賛しようとしていたのですが、半藤氏らの明治維新批判が影響力を持ち始めたのか、薩摩や長州に対する批判的な見方が一方で静かに広がっているように思います。
 半藤さんは東京生まれですが、祖母は長岡の出身で「明治維新に際して、官軍は長岡藩の財産を奪った泥棒集団だった」と薩長を批判し続けるのを子供時代によく聞いた、と言っています。それが彼の薩長を批判する史観の元になっているようです。
 私も薩長は大嫌いで、吉田松陰は、琉球、朝鮮、中国、シベリア、千島、太平洋諸島、東南アジアを侵略すべきだと「留魂録」に書いています。この思想を受けて日清、日露の戦争をしたのが、山縣有朋や伊藤博文たちです。伊藤はテロリストだったし、山縣は長州人であることを武器にのし上がった軍人です。また明治になって最初に政府が議論したのが「征韓論」です。
 明治は開国という面では近代化を進めましたが、帝国主義的な侵略国家の道を歩みだしたのは、松蔭の教えを受けた長州人たちのゆえで、半藤さんはこの点で厳しく薩長を批判しています。
 薩長が日本の近代を歪めたのですが、その間違いをいまも正すことが出来ていないのです。安倍は吉田松陰を尊敬すると公言し、その思想をいまも踏襲しているのではないでしょうか。ノモンハンの無責任は、いまの安倍政治の無責任に生き続けていると思います。
 それから、司馬遼太郎さんはどうも長州好きだったようですね。長岡藩の河井継之助も描いたが、長州人を主人公にした小説も多いです。最近、司馬さんに対して批判的に見るようになりました。ただ、高名な人たちは誰も司馬遼太郎を批判しませんね。(了)
2018.01.03  翼賛と動揺と逃避が新聞の大勢
―2018年元旦の全国紙を読む―

半澤健市 (元金融機関勤務)

 元旦全国紙読み比べは9回目である。毎年、悲観的な評価になるが今年も同じである。結論から先に言うと今年の全国紙は、分析・展望・提言のいずれにも、自信にあふれた文章が殆どない。今年が、戦後民主主義の運命を決める年、なのにである。論調に、「翼賛」「動揺」「晦渋」「逃避」などが強く感じられた。「正論」は少数であった。いつもながらいくらか教条的な立場から発言する。

《社説を読むと全体像がわかる》
 社説から見てゆく。
『読売』社説は一頁の半分以上の長文である。北朝鮮の脅威を説いて抑制の必要を強調する。しかし予測不能のトランプに対する全面支持には懐疑的で「日本などの同盟国による適切な助言と働きかけが今後も不可欠だ」という。トランプ一辺倒の安倍に適切な助言ができると思う神経に驚愕する。安倍内閣・黒田日銀による異次元緩和の失敗も弁明できず「金融政策の総括が必要だ」と述べている。長文にしては事実の列挙と誤診に終わっており内容に乏しい。なお、同紙の英文姉妹紙 The Japan News にこの社説を日英両文で掲載している。
『産経』は、社説と言わず「年のはじめに」という石井聡論説委員長による文章である。「戦後最大の難局をかかえて越年」した「国も個人も自らの進路を決める」要ありという。自衛隊の活躍に敬意を表するが、安倍の説明責任や異質なトランプにいくらか批判的に言及し「どう生きていくか能動的に考えたい」という平凡な結論を示している。米海兵隊員の日本人救済の善行への謝意が執拗に記載されている。

読売と産経に比べると『毎日』社説「国民国家のゆらぎ」は時間軸が長い。
「自分のことは自分で決める」民主的な国民国家は、いまでも有効なモデルであるとしながら、米国を筆頭に揺らぎとほころびが始まっているという。グローバル化への抵抗と「枠内に押し込まれた民族や地域の違和感」が原因と指摘する。沖縄を例示して次のようにいう。「日本も例外ではない。沖縄は明治初期の琉球処分で日本に統合された歴史を持つ。今も重い基地負担に苦しむ沖縄を追い立てるような風潮は、本土との一体感をむしばむ」。この言い方に、私は、客観主義を装った当事者性の放棄を感ずる。無責任な言葉だと思う。沖縄問題を論ずるときメディアは必ず「県民の反発が強まっています」という。なぜ主語は「県民」なのか。米ヘリが国会議事堂に落ちても、我々は「国会議員の反発が強まっている」というだろうか。首相官邸に落ちたら、皇居に落ちたらと考えてみよ。

『朝日』も「より長い時間軸の政治を」と題して、安倍内閣の「場当たり的な政権運営」を批判する。政治学者飯尾潤の「政権維持が自己目的化し、長期的見通しや政権担当期間を通じてのプログラムがない」を引用する。
私はこの場当たり的手法の批判には賛成である。しかし朝日の社説は「どのように」についてだけ語るだけで「何に」ついてを語らない。「護憲・軍縮・共生」(我が「リベラル21」の理念)について語らない。2018年における日本の危機は「護憲・軍縮・共生」の危機であるのに、朝日社説は日本政治に関して「どのように」しか語らないのである。
『東京』社説は「明治150年と民主主義」と題して、旧憲法が「絶対的天皇制ではあるが、立憲制と議会制をしっかり明記した。日本民主主義のはじまりといわれるゆえんです」と認識する。そして、作家堀田善衛がベネチアのサンマルコ広場に、伊藤博文を立たせたエッセイを引く。「堀田はこう記します。〈重大事が起こったときに、共和国の全市民がこの広場に集まって事を議し、決定をし、その決定を大聖堂が祝認するといった政治形式を、(伊藤は)一瞬でも考えたことかあったかどうか〉」。はるかに時空を駈ける想像力豊かな文章である。

しかし明治憲法は、結局プロシャの憲法を真似た。後進国の近代化に不可避な「国家を個人より優位に置く官僚指導型国家」を目指さざるを得なかったと書く。しかし民主主義の水流は、自由民権運動や大正デモクラシーの高揚として続いていた。「しかし広場は不要、もしくは悪用され、やがてドイツも日本も国家主義、軍国主義へと突き進んで無残な敗北」を迎えた。1948年の世界人権宣言を基底にもつ「国家より個人」を優先する戦後民主主義は、しかし今どうなっているのか。そこには「格差」拡大と一強政治の「独走」がある。広場の声と政治がずれている。社説は次のように結ばれる。「思い出すべきは、民権を叫んだ明治人であり、伊藤が立ったかもしれない広場です。私たちはその広場の一員なのです」。

『日経』社説の現状認識は極めて楽観的である。世界経済、日本経済とも好調であり今年は更なる拡大が期待できる。「国内政治も波風の少ない年である。衆院選は終えたばかりで、参院選も19年夏までない。(略)総裁3選ならば20年の東京五輪・パラリンピックをまたぐ超長期政権が現実味を帯びる」というのである。この順風の時期に「政府のやるべきことは何か。超高齢化社会を乗り切る社会問題と財政の見取り図をきちんと描くことにつきる」のである。ここには「北の脅威」、「トランブの奇矯」「改憲論議」は一言も出てこない。情報産業の雄たる日経の「マーケット史観」「損得史観」が鮮やかに表現されている。

6紙の社説を総括する。『読売』、『産経』の政権広報任務は健在。『毎日』、『朝日』の腰の座らなさ、日本近代史を踏まえた確かな『東京』、経済だけに強い脳天気な『日経』。以上である。

《一面トップと「特集」をみていくと》
 圧倒的なスクープ記事はない。「北朝鮮の脅威」に関わるものが多い。産経の「中国2020年までに空母4隻」、読売の「中露企業 北へ密輸網」、毎日の脱北高官インタビュー「拉致解決 資金援助が条件」の三つがある。日経は「パンゲア(すべての陸地)の扉」でIT革命の展望をしている。朝日が「仮想通貨長者 把握へ」、東京が「福島除染 手抜き」である。読売産経は、政府翼賛の危機煽りにみえる。

以下、一般記事や特集をピックアップしてみる。
朝日は「挑戦の勧め」、「平成とは」、「幸せの形」といった連載を始めた。歌手矢沢永吉、芸人田村淳へのインタビュー、幸福感世界第一位のドミニカ共和国のルポがある。テーマ設定や人選など分かりにくいが、不透明な現実や多様性の容認といった視点だろうと一応納得しておく。ソングライター水野良樹・脚本家森下佳子、哲学者柄谷行人・美術家横尾忠則、棋士藤井聡太・経済学者安田洋祐の対談、社会学者関沢英孝と哲学者浅田彰へのインタビューなど多彩な顔振れはそれなりに面白いが、慰安婦問題以後の両論併記的特徴がここでも出ている。どうしても言いたいことは何なのか。それがピンと伝わってこない。60歳の浅田は「逃走論」は今も有効だと語っている。
毎日の「この50年の世界」で「プラハの春」の活動家で現在大学学長ペトル・ヤン・パヤス(79)にインタビューしている。あれほど求めた民主主義は、手に入れたが自由と引き換えに拝金主義が広まったと氏は言い「金につながる活動が優先され、市民活動や社会貢献などは重視されなくなってしまった」と語る結びが印象的である。
ジャーナリストの伊藤詩織が元TBS記者に性的暴行を受けたと訴えている事件は海外メディアでは国内よりも大きく報道されてきたが、12月29日のニューヨークタイムズ(電子版)も遂に東京発の長文で報じた。そのことを載せたのは管見の限り毎日だけである。
産経の安倍支持とリベラル攻撃が執拗である。安倍首相の年頭所感を全文掲載した。「放送倫理・番組向上機構(BPO)」の中立性に疑義」として大きく取り上げている。潮匡人や上念司(じょうねん・つかさ)らにBPOの偏向を語らせている。しかし、読者は文化放送の午前5時からのニュース番組「おはようテラちゃん」に週一回登場する上念のコメント発言を一度聞いて欲しい。本命記事は、安倍首相を囲む櫻井よしこら4人のキモノ女性による「首相と語る」である。カラー写真7枚入り、見開き2頁。以下に同座談の見出しを掲げておく。「自衛隊論争に終止符を・拉致被害者帰国見たい・安保環境非常に厳しい・印象操作の沖縄祇・安保法対北で不可欠」である。

読売で、同紙編集委員橋本五郎と歴史家磯田道史が「歴史と対話 今を知る」という対談をしている。小見出しに「後世の審判恐れるな」とある。私は、読売新聞に「後世の審判恐れよ」と言っておく。
東京にICAN国際運営委員川崎哲と被爆者サーロー節子の対談がある。以下に一部を引く。「サーロー:海外に住んでいて、日本への信頼が落ちているという話を聞く。何か恥ずかしく、悔しく思う。生まれ育った日本を今も愛している。しかし、その政府は道徳的な責任をどこまで感じているのか。川崎:日本では〈核はなくせない〉〈日米関係も変わらない〉とする現状維持の論理が支配している。現実は変えられないとの冷笑主義をどう克服するかが最大の課題だ」。
日経社説論で「マーケット史観」と貶したが、特集「明治150年 維新再び 新しい日本への8つの提案」は力作である。経済成長を是とする思考は変わらないが、企業と市場に密着した現場感覚による問題点の指摘、改革のための提言に好感をもった。150年の歴史の文脈が効いている。

毎年恒例の専門家各20名による主要国経済成長率・為替レートと日経平均株価の予想も記しておく。
前者は日本のみ記す。GDP成長率予想平均は、1.2%、最高は1.5%、最低は1.0%である。円相場は平均113円台。株価は高値平均25440円、最低21240円である。個人別での最高値は28000円、最低は19500円であった。首相が戦後最大の国難と言う割に財界は経済実態と市況のいずれにも強気、楽観的であることがわかる。

《天皇夫妻の御製・御歌で結ぶ今年の読み比べ》
 この他に頁数でいうと、五輪中心のスポーツ記事、メディア正月番組中心のエンタメ記事のそれが大きいが、いずれも宣伝か報道か不分明なものが多く評価する必要を感じない。五輪自体とエンタメの存在理由まで掘り下げた記事が欲しいが、そういう視点は皆無である。
瀬戸内寂聴ら4氏への朝日賞、高村薫ら7氏への毎日芸術賞にも触れたいが紙数がない。

全紙に掲載された天皇夫妻の「御製」、「御歌」から数首を掲げ今年の読み比べを終わる。
 明仁天皇
 (第68回全国植樹祭)
無花粉のたてやますぎを植ゑにけり患ふ人のなきを願ひて
(ベトナム国訪問)
戦の日々人らはいかに過ごせしか思いつつ訪ふベトナムの国
美智子皇后
(旅)
「父の国」と日本を語る人らの住む遠きベトナムを訪ひ来たり
(南の島々)
遠く来て島人と共に過ごしたる三日ありしと君と愛しむ

(2018/01/02)

2017.01.04 新聞はだれの番犬なのか
―2017年元旦の全国紙を読む―

半澤健市 (元金融機関勤務)

 元旦の一般紙を読み比べは今度で8回目になる。今年は、朝日、毎日、読売、産経、日経、東京の6紙を読んだ。各紙が、どんな「現状認識」をしているか。
①「トランプ後の世界」をどう予測しているか
②「アベノミクス」の評価はどうか
③「日本国家のかたち」をどう考えているか
といった点を念頭において読んだ。

《トランプ後の世界はどうなるのか》
 各紙、一面トップ記事のキーワードは次の通りである。
「我々はどこから来てどこへ向かうのか」(朝日)
「多文化主義の危機」(毎日)
「中国 海底に命名攻勢」(読売)
「小池知事、都議選に30人超」(産経)
「〈断絶(Disruption)〉の時代が私たちに迫っている」(日経)
「包容社会―分断を超えて」(東京)
朝日、毎日、日経、東京は、現状を世界的な「パラダイムの転換期」と捉えている。産経、読売も問題意識は共通だが、ヨリ具体的な外交・内政の問題として提示しているのである。

 内容に濃淡はあるが、グローバリズム急展開の災厄と対案、トランプ当選に象徴される大衆迎合主義、民主主義の形骸化に反発する右翼主義の台頭、などが論じられている。パラダイムの転換というにしては、現象の羅列だけが多くて深みがない。そのなかで、日経は「破壊と創造の500年」を、大航海時代から説き起こし、第一次・第二次産業革命―明治維新を指している―・デジタル革命へと進み、現在はAIなどの「第四次産業革命」の時期にあり、その衝撃の大きさを論ずる力作である。シュンペーターの理念型を念頭においたものだろう。しかし「資本主義の運命」への視線に乏しいのは、良くも悪くも日経らしいところだ。

《豊富な政治・外交体験を生かす時だ!?》
 読売は頁の三分の二を占める長文社説「反グローバリズムの拡大防げ―トランプ外交への対応が必要だ」で、問題の原点がグローバリズムであることは認める。しかし社説の理屈は次のように展開する。以下はその「主観的」抜粋である。私は、これをメディアの思考停止の見本であると読んだ。下品にいうと「醜女の深情け」の吐露である。(■から■まで、「/」は中略、()とゴシックは、半澤による補足と強調を示す)

■米国が、自由や民主主義といった普遍的な価値観で世界をリードする役を降りれば、その空白を埋める存在は見当たらない。/日米同盟の重要性をトランプ氏と再確認し、さらに強化する道筋をつけるべきだ。/日米同盟による抑止力の強化が、東アジア地域の安定に不可欠で、米国の国益にも適うことを、粘り強く説明していくべきだ。(ハワイの日米会談で)首相は、未来志向の「希望の同盟」を築いていく決意を強調した。(次の)首脳会談でも、この目標へ共に歩むことを確認したい。首相には、国際政治が混迷しないよう、トランプ外交に注文をつけていく役回りも期待される。豊富な政治・外交体験を生かす時だ。/トランプ氏は、TPPからの離脱を予告している。TPPは、今後の自由貿易の標準となり得る高度な枠組みだ。/経済資源を、国境を越えて効率的に活用するのが自由貿易だ。多国間での取り組みをさらに進め、新興国の活力や技術革新の成果を世界に広げることで、成長の復活を目指すしかない。■

《アベノミクスの成果に触れぬ安倍首相》
 アベノミクスが失敗だと思っていないのは日本人だけである。
産経は、安倍晋三首相の年頭所感を全文掲げた。流石の安倍本人もアベノミクスの成否について言及しない。失敗だったからである。
毎日の「経済有識者 新春座談会」(田代桂子・大和証券、岩井克人・国際基督大、小林喜光・経済同友会)で、財界人・小林喜光ですら、「政府はGDP600兆円を目指しているが、単に数字を増やせば良いという時代はとっくに終わっているのでないか。第4次産業革命につながる革新的な技術を産官学含めた国全体で生み出していかなければならない」と述べている。この種の討論では、2頁を使った東京の「新春対談 分断を超えて」(国際ジャーナリスト・堤未果、慶大教授・井出英策)が、財政規律論の欺瞞性指摘など新鮮な視角と説得的な対策の提示で興味深い。その中からの一節を次に掲げる。(■から■)

 長年、米国を取材してきた立場から言うと、政府とは「財政による統治ができないから無駄遣いの犯人捜しをする」のではなく、社会保障削減を正当化するために犯人捜しをするものだと思えてなりません。例えば、オバマ政権は「全体主義の八年」だったといわれています。超富裕層と癒着して財界のための政治をする政府が、格差拡大に対する大衆の不満をあおることで強引に情報統制して民の声を抑え込んだからです。9・11の時もそうでした。恐怖をあおられるほどに、大衆は強いリーダーを求めますが、あの時のブッシュ大統領の人気はすごかったですね。
井出 独裁者が現れる時、ファシズム化する時の根底にあるのは、中間層の転落の恐怖です。/自分は「中の下」だと思いたい人たちが、社会的に最も恐怖を感じている。本当は「財政で生活を支えてほしい」と思っているけど、財政は支出を増やさず無駄を削ろうとする。/政府の恫喝が見事に効く。ぎりぎりで踏ん張っている人には切実な問題です。必死になって我慢している人たちが反旗を翻した時、政治は極端な方向にぶれいいく気がします。■

《日本国家のかたち―天皇譲位論の独走》
 2016年8月の「お言葉」に端を発した天皇の譲位問題を、朝日、毎日、読売、産経が一面で取り上げている。産経以外の三紙はいずれも官邸、宮内庁を情報源としているようで、ほぼその広報記事と読める。独自判断による批判的、または客観的な視点がない。読売は、一代限りの特例法案には、秋篠宮を「皇太子」待遇にすると書いている。産経の記事は、連載「平成30年史」の一回目である。この時期にこのタイトルは、「不敬」ではあるまいかと、私に感じさせる。
70年間、まともに論じられなかった天皇論が、「お言葉」から半年で、「政局的」に決められようとしている。まことに不自然である。

「国のかたち」のテーマは勿論、天皇問題だけではない。
「第4次産業革命」を、財界人は「革新的な技術を産官学含めた国全体」で促進せねばならぬといっている。その業界に「死の商人」はいないのか。「積極的平和主義」が、オーウェルの小説『1984年』の言葉に酷似しているように、安倍政権はこの国を、戦争する国に転換しつつある。しかし元旦各紙に、この切り口で書いた記事は皆無だった。
時代は「大本営発表」の時代に入っている。これは冗談ではない。この認識は今年の各紙読み比べで、また強くなった。(2017/01/02)

2016.11.14  NHK籾井会長の再任を認めないー知識人、ジャーナリストらがNHK経営委員会に申し入れ
隅井孝雄 (ジャーナリスト)

来年1月、NHK籾井勝人会長の一期目が終わります。11月から12月にかけて、NHK経営委員会による検討が行われ、続投か、新しい会長を選出するかが決まります。籾井会長の再任を認めない私たちは、10月31日、有識者17人の連名で、経営委員会に申し入れを行い、引き続き記者会見を開催しました。衆議院議員会館内で行われた記者会見には代表の田島康彦上智大教授、服部孝章立教大名誉教授、醍醐聰東大名誉教授のほか、知識人、ジャーナリスト7人が出席しました。私もその一人として、次のように発言しました。
 
 ▼「NHK会長選出について 隅井孝雄」
NHKの会長はジャーナリズムと文化の両面に見識を持つ人であってほしいと思います。
これまで歴代の会長を見ますと、過去には学者、知識人、文化人、新聞出身の方、NHK出身の方などいろいろおられましたが2008年以降は財界の出身の方が続いています。
3年前のある大手紙の報道によると、前回は安倍首相を応援する財界人の皆さんの会合で会長候補が検討されたといいます。国民の財産であるNHKが、特定の財界グループに私物化されていないかと思いました。
第一に私は、幅広い分野から真に見識のある方を選んでほしいと切望します。
財界の方が一概に悪いといっているわけではありません、19代の福地茂雄さんのように、番組編成の自主性を尊重し、文化的にも高い見識を持っておられたと思います。また20代の松本さんも良い業績を残されたと思います。
しかし籾井勝人会長下のこの3年は、NHKにとっては最悪だったといわざるを得ません。キャスター国谷裕子さんなどが退任された際には、海外のメディアからも批判されました。とりわけNHKニュース報道は国民の信頼を失っているのではないでしょうか。籾井会長辞任要求署名8万人、再任反対署名2万人以上という数字をみても明らかです。
第二に私は、ぜひとも会長選考の過程を密室ではなくオープンなものにしてほしいと思います。前回は就任の際の籾井会長の発言ではじめて多くの人がびっくりしました。適任と思われる方が数名おられるという場合、どのようなNHKを考えておられるのか、放送であらかじめ見解をうかがう、場合によっては候補の方がテレビ放送やインターネット討論するということがあってもいいかと思います。
第三に私は、市民視聴者が推薦する会長候補を受け入れるなど、視聴者参加の仕組みを作ってほしいと思います。NHKの視聴契約世帯は8月末で4100万世帯、受信料6758億円で支えている放送局です。いわば視聴者が本来の主権者です。ほとんど9割以上の国民に到達するメディアはNHKをおいてほかにはありません。その財政は私たちが支払っていることを考えてみれば、会長選出にあたって市民視聴者が蚊帳の外という状態を改善したいと強く願っています。会長の選出は市民視聴者からの推薦を軸に、幅広く人選すべきではないでしょうか。
2016.08.06  オバマ大統領の広島演説の一節を誤訳?
    朝鮮人犠牲者数の表現で

岩垂 弘 (ジャーナリスト)

 5月27日にオバマ米大統領が広島で行った演説に対し各新聞社がつけた翻訳で、一部の新聞社が誤訳をしたのではとの指摘が、ヒロシマに関心をもつ人々の間から出ている。被爆した朝鮮人について言及した部分の翻訳についてだが、オバマ大統領の「広島演説」は歴史的な演説としてこれからも注目されることは必至だけに、より正確な翻訳が望まれる。

 広島市の原爆慰霊碑の前で行われたオバマ大統領の演説は約17分にわたって行われたが、冒頭に「We come to mourn the dead ,including over a hundred thousand Japanese men ,women and children,thousands of Koreans,a dozen Americans held prisoner」というフレーズが出てくる。
 翻訳すれば、「私たちは死者を悼むためにここに来る」「その死者とは、10万人を超す日本人の男女と子どもたち、thousands of Koreans、12人の米国人捕虜である」という意味だろう。
 ヒロシマに関心をもつ人々が問題にしているのは「thousands of Koreans」の訳である。元高校教員で広島の原爆被害の実相を知ってもらうための活動を続ける竹内良男さん=東京都立川市=によると、各新聞社の訳は以下の通りだ。
 
朝日新聞     何千人もの朝鮮人
読売新聞 多くの朝鮮半島出身者
毎日新聞     何千人もの韓国・朝鮮人
東京新聞 多くの朝鮮半島出身者
産経新聞 多くの朝鮮半島出身者
日本経済新聞   数千人の朝鮮半島出身の人々
中国新聞     多くの朝鮮半島出身者

 広島市・長崎市原爆災害誌編集委員会編の『広島・長崎の原爆災害』(岩波書店、1979年)によると、原爆投下当時、広島市には5万人近い朝鮮人が居住していて被爆し、うち2万人ほどが死亡したとされている。
 また、同市の平和記念公園内にある韓国人原爆犠牲者慰霊碑の碑文には「第二次世界大戦の終わり頃、広島には約十万人の韓国人が軍人、軍属、徴用工、動員学徒、一般市民として在住していた。原爆投下により、2万余名の韓国人が一瞬にしてその尊い人命を奪われた。広島市民20万犠牲者の1割に及ぶ韓国人死没者は決して默過できる数字ではない」とある。

 こうしたことを勘案すると、朝日新聞の「何千人もの朝鮮人」、毎日新聞の「何千人もの韓国・朝鮮人」、日本経済新聞の「数千人の朝鮮半島出身の人々」という訳は適切とは言えない。「こうした訳では、朝鮮人犠牲者の数が実態より過小にみられてしまう」「オバマ大統領の広島演説は、今後、さまざまな分野で引用されるだろうから、こうした訳がこのまままかり通ると、朝鮮人被爆問題を学ぼうとする人々をミスリードしかねない」というのが、広島の原爆被害の実相に詳しい人々の懸念である。
 これに引き替え、読売、東京、産経、中国の各紙の「多くの朝鮮半島出身者」という訳はまずまずと言ったところか。

 朝日、毎日、日経では、演説の翻訳にあたった担当者は、原文にある「thousands of 」を軽い気持ちで「何千人もの」あるいは「数千人の」と訳してしまったのではないか。訳にあたり、原爆による朝鮮人犠牲者の数を調べるという作業を怠ったのではないか。広島の原爆被害に詳しい記者がいたら、もっと適切な訳文になったはずである。

 私は、これまで半世紀にわたってヒロシマ・ナガサキに関する報道に関わってきたが、そこでは、全般的に言って、朝鮮人の被爆問題はずっと軽視され続けてきたとの印象が強い。このためか、朝鮮人が広島と長崎で被爆したという事実さえ知らない人もいる。そうした弱点が、図らずもオバマ演説の紹介で露呈したという思いを禁じ得ない。

2016.08.06  バラク・オバマは広島へ何しに来るのか(4)
    ―高村薫の文章に共感する―

半澤健市 (元金融機関勤務)

 高村薫の連載「作家的覚書」のタイトルは、「2016年のヒロシマ」であった(『図書』、岩波書店、16年8月号)。
彼女はオバマ米大統領の広島訪問を、「私にはひどく不思議に感じられた」と書いている。私(半澤)は、高村のわずか一頁の短文に共感するところが多かった。その一部を抜萃して紹介する(■から■)。文章全体の三分の一ほどになる。

■一日本人として、大きな違和感とともに、「なぜ」と自問せずにはいられなかった。なぜ、あの日広島には怒りの声一つなかったのか。なぜ、誰ひとりとしてアメリカの原爆投下を非難しなかったのか。

戦時下とはいえ一般市民が史上初の原子爆弾の実験台にされ、想像を絶する地獄絵図を味あわされたことの怒りと恨みは、戦後の平和の下で行き場を失っただけで、けっして消え去ってはいない。そう思い込んできた私にとって、抗議行動どころか歓迎ムード一色だったオバマ氏の広島訪問は、いろいろな意味で戦後の日本人の在り方への思いを揺るがすものとなった。

ヒロシマ・ナガサキは核兵器の悲劇のシンボルとなる一方、苦しみの主体だった被爆者たちと日本人の怒りは漂白され、核兵器廃絶の理想を語る言葉だけが踊る。核のボタンを持参して平和公園に立ったオバマ氏と、怒りを失った被爆地の姿が、くしくも核兵器に溢れた世界の現実を表している。■
(2016/07/30)
  
2015.12.26  ナチと軍国日本のシンボル―反感受けNY地下鉄広告撤去
隅井孝雄(ジャーナリスト)

 アマゾンがインターネットテレビ放送のために制作した作品の広告に対し、ニューヨーク州知事や市長が異議を唱えたことで撤去され、物議を醸している。
 このテレビ映画は、ナチや日本が第二次大戦で勝利したあとアメリカを支配するという作品だが、地下鉄の一両分の座席をすべて、ナチス紋章や日本海軍旭日旗とアメリカ国旗をミックスした旗のようなデザインの座席に変えた。使われた電車は通称「シャトル」と呼ばれる、グランドセントラル駅とブロードウエー42丁目駅を行き来している路線。マンハッタンの目抜き通りを往復しているため、路線は短いが乗降客は多い。

衝撃のアマゾン地下鉄広告
 この広告座席はアマゾンが11月20日からネットストリーミングで放送を始めた「The Man in the High Castle」という「ネットテレビドラマ」広告で、一両分の座席カバーをすべて覆った。また車体には主演俳優の写真とタイトルを掲載したほか、地下鉄の260駅にもポスターを張り巡らせた。
 地下鉄一両分のシートが、アメリカ国旗に似たストライプの真ん中に、ナチのマークや日本の旭日マークがはめ込んであるデザインが、戦後の70年のいまでもアメリカ市民の心情に与える衝撃の大きさは、われわれ日本人の想像をはるかに超えるものがあると思われる。
 アマゾン広告は11月24日に登場、12月6日まで広告契約を結んでいた。ところが一部乗客からクレームが入ったこともあり、アンドリュー・クオモ、ニューヨーク州知事が直々地下鉄トーマス・プレンジャガスト理事長に直接電話して、広告の撤去を求めた、またニューヨーク市のビル・デブラシオ市長もアマゾンに対し「この広告はホロコーストや第二次大戦の被害者はもとより、ニューヨーク市民全体を侮辱するものだ」と抗議した。
 地下鉄当局は、広告の載っている車両を24日深夜に撤去して、翌日から代替車両で運行した。
ニューヨーク州当局者は内部問題なので言論表現の自由には抵触しない、と発言している。ニューヨーク市の地下鉄は州政府が運営、監督している。
20151220隅井原稿に付ける写真

原作は歴史書き換え小説
 このドラマはPhilip K Dick 原作の小説をドラマ化したもので、第二次大戦でアメリカが敗れ、ナチドイツと帝国主義日本に東西に分割統治されるという空想ドラマ、10回シリーズ。原作小説は1962年に刊行された。歴史を書き換えて描くいわゆるオルターナティブ・ノーベル(歴史書き換え小説)というジャンルの作品である。第二次大戦は1947年まで続き、それから15年後のアメリカという設定。ルーズベルト死去の後のアメリカの大統領は弱体で、ナチと戦う英国とソビエトを助けられず、ナチはアメリカの東半分とソビエト連邦を支配下に、日本はアメリカ西半分を占有、ニュージーランド、オーストラリアなど太平洋一帯も領有するという設定。1963年、ファンタジー分野の優秀作品に与えられるユーゴ文学賞を受賞した。

ネットストリーミングドラマはいまアメリカで大流行
 今回の作品はいわゆる「ネットストリーミング」として、アマゾンが自主制作した目玉作品の一つ。インターネット経由だが大型画面で視聴される。初回の放送はパイロットプレミアと呼ばれ定時だが、その後好きなときに繰り返し視聴出来る。「ネットストリーミング」はNetflix, Fuluなどが日本でも知られているが、売り上げが映画の興行収入、テレビの広告収入に迫るまでになっており、映画界、テレビ界の脅威となっている。最近アマゾンもこの分野に進出、オリジナル大型新作ドラマ(シーズンパイロット)を次々配信している。
 The Man in the High CastleはNetflixなど先発ストリーミングに挑む大作。今回の広告引き揚げは打撃だといえるが、宣伝という意味ではまたとないチャンスでもある。アメリカ国内では大々的に報道されているので、視聴が増える可能性もある。