2019.07.12 1970年代に社会主義への道を批判した市井人(3)
――八ヶ岳山麓から(287)――
                   
阿部治平 (もと高校教師)

以下は前々回、前回に引き続き、畏友中村隆承(1934~83)の遺稿から、1970年代に既存の社会主義の再生と、資本主義国における革命の可能性を考察した部分を要約し編集したものである。(中村隆承をLと記す。( )内は注、——以下は阿部のメモ)

ソ連社会主義に「自己復元力」はあるか
1970年代にはソ連社会主義に存在したマイナス面、自由と人権のない専制政治だけでなく、経済の停滞、貧困なども広く知られるようになった。
当時、日本では社会党の一部や共産党のマルクス主義者は、マイナス面の多くは科学的社会主義あるいはマルクス・レーニン主義原則からのスターリンの逸脱がもたらしたものだと主張し、さらにソ連や中国の社会主義に「自己復元力」があるとして、やがては本来の理想とする社会主義へ前進するはずだとする考え方があった。

Lはこれに対して、科学的社会主義の原則が何であるか明確でなければ逸脱も、復元の意味も分からないと主張した。たとえば「ユーロ・コミュニズムの党は、ソ連のチェコ侵入や異端派に対する弾圧を批判し、『現存社会主義』を自らの社会主義のモデルとしては採用しないとしたが、現存社会主義の本質規定を回避しているから、そのモデルと自ら目指す社会主義との関係はあいまいなままである。したがって逸脱の内容があいまいなままでは『自己復元力』があると主張しても全く説得力がない」と述べている。

Lは、「社会主義原則」には多様な解釈の余地があるからこれを基準とせず、西欧・日本における普遍的な価値理念である「自由」と「正義」の観点からこの逸脱を測り、「自己復元力」の有無を判定するのが正しい方法であると考えた。
西欧的な基準からすれば、「復元力」にとって重要なのは民主主義、とりわけ「政治選択の自由」である。自由の抑圧は真実を国民の目から隠すこと、同時に一方的に支配者に都合のよい世論を醸成する手段である。
――フルシチョフの「雪解け期」以後、サハロフやロイ・メドヴェージェフ、ソルジェニーツィンなど反体制派知識人は、その生存が認められても、なお改革運動は許されなかった。彼らの主張は、出版禁止・精神病院収容・国外追放などの手段で国民の目から隠され、ソ連の大衆が自国の歴史を知ることはなかった。

Lからみたソ連の労働者大衆は、情報を閉ざされて現状に甘んじ、自ら変革の必要を強く感
じてはいなかった。経済は遅いテンポながら安定発展に向かっていると思われた。イデオロギー教育は、初級から大学に至るまで徹底していた。たとえばロイ・メドヴェージェフのような正義漢でも、資本主義に対する社会主義の優位を語っていた(『ソ連における少数意見』岩波新書、1978)。
Lはさらに、「国家教義」となっているマルクスやレーニンの理論体系を基礎から再検討し、誤った部分を明らかにし、正しい理論に置き換えることなしには、反体制派は現状にゆさぶりをかけることはできないと主張した。
そして、すべての傾向は、ソ連社会において共産党の一党支配は持続し、「今後の1~2世紀において、自由と正義におけるソ連社会主義の後進性が克服される可能性は極めて薄い」ことを示していると判断した。スターリンの激動・悲惨の時代を経過したのちも持続する「党の指導性」下で、労働者国家として安定してしまっていると考えたのである。
――Lのこの判断のほぼ10年後にソ連は解体された。それは民衆の下からの「復元力」が主導権を握ったからではない。まずペレストロイカを契機に上からの「党の指導性」の崩壊がはじまった。それゆえか、ソ連解体後の中央アジア諸国、ソ連圏から解放されたバルカン諸国、そして当のロシアには、民主主義政治ではなく新しい形の専制支配が成立した。

社会主義政党の議会を通じた革命の可能性について
いまからほぼ60年前、日本では空前の規模の日米安保条約反対運動が起きた。同じ年の1960年11月、ロシア革命43年周年に「81ヶ国共産党・労働者党代表者会議の声明」が出された。ここでは発達した資本主義国における社会主義への「平和的移行の可能性」がうたわれた。これは57年の社会主義国共産党「宣言」をひきついだもので、レーニンの時代から1950年代までの暴力革命路線が放棄された画期的な「声明」であった。
日本ではもともと社会党は平和革命路線であったが、共産党も反帝反独占の「多数者革命」に路線変更し、社会主義体制が実現しても政治的自由を保障し、複数政党を認めるという綱領を採用したのであった。Lの以下の議論は、以上の事情を踏まえている。

Lは、「第一次世界大戦の末期には社会主義革命の大きな潮流が巻き起こった。この潮流の変化は1950年代末からはじまり70年までに完了した。変化の主な原因は、ハンガリー・ポーランド事件、中ソ対立、ソ連国内の体制欠陥の表面化、社会主義の権威の失墜と米ソ核兵器対決時代への突入である。今日では社会主義への全面的移行の時代は終わったといわねばならない」と、高らかに社会主義の優位性をうたった「声明」を全く信じていなかった。
むしろ「社会主義勢力による国家権力の完全掌握は、確固たる軍事力の基盤がなくては、カラ文句に過ぎないことは、多くの実例がこれを示している」とし、「国民の大半を統一戦線に結集し、議会で絶対的多数を占め、それに依拠して革命を行うという路線は現実的ではない。それは幻想である」といった。
なぜなら国民が体制変更を強く望まない以上、社会主義を目指す統一戦線派が議会で多数を占めることは考えられない。かりにそれが実現したとしても、「この場合の安定多数派は単なる改革スローガンに対する多数派ではなく、社会主義を目標とした社会の抜本的変革――例えば所有権の大幅制限を求める憲法改正――に賛成する多数派でなければならない」なぜなら社会主義的変革の中心は、主要な生産手段の所有・管理・運営を社会の手に移す生産手段の社会化だからである。
「このような時期においては当然一般の労働者のあいだでも、(生産手段の国有化や)新しい計画経済の構想と現行経済システムとの優劣の比較をめぐる論争が展開されることになるが、現状ではよほどの事態の変化がない限り、これは考えられないことである」
だから、かりに国会で統一戦線派が多数を占めたとしても、そこでやれることは資本主義社会の部分的改良であって、革命ではないと主張したのである。

Lは、「共産主義社会が歴史の発展の最高段階であって、そこから人類の真の歴史が始まり、それまでの歴史は前史であるといったマルクスの見解は、ユダヤ教やキリスト教のメシア思想の流れをくむものであり、人類社会の矛盾の多い構造を見落とした非科学的な一種のイデオロギー(虚偽意識)である」と考えていた。
そして、今日では、「マルクスのいう共産主義社会の『生産力があふれるように流れ出す』という説明は、欧米日では何の魅力も持たなくなった」むしろ生産力至上主義への反省が求められている。経済成長を抑制し、生活の簡素化を図り、自由と競争の原理を抑制して平等の実現を図るといった新しい価値観を社会に定着させなければならない、と主張した。
Lの日本革命についての結論は、「日本においては政治・経済を全く異質のシステムに急転換させる『革命』思想は現実的有効性を失いつつある。これに代わるものは、社会主義思想に依存しない、勤労者の権利と利益を守る(構造)改革を実現することである」というものであった。

以上で、ひとまず中村隆承の社会主義についての考察の紹介を終わる。彼の価値論、ソ連についての考察はべつの機会に紹介したい。
私は、学問から孤立した市井の人のなかに、中村隆承のような、日本の将来を勤労者の立場から真剣に模索した人物がいたことを忘れることはできない。それで彼の遺稿を要約・編集して以上の3篇を書いたのだが、彼の思想をうまくとらえられたかは自信がない。(終)


2019.07.11 1970年代に社会主義への道を批判した市井人(2)
――八ヶ岳山麓から(286)――
                   
阿部治平 (もと高校教師)

前回に続き、中村隆承(1934~83)の遺稿から彼のレーニン論を紹介したい。
(前回同様、中村隆承はL、( )内は注、——以下は阿部のメモ)

日本では、80年代になっても「レーニン主義とは、帝国主義とプロレタリア革命の時代のマルクス主義である」というのが通説であった。いや東欧・ソ連の社会主義体制が解体してからも、既存社会主義の否定的側面は「レーニン主義からの逸脱である」と説きつづけるマルクス主義者もいる。
Lはすでに70年代に、これを事物の表面しか見ない根拠のない見解だとしたうえで、「ソ連社会の基本構造はレーニンの理論と政策によって方向づけられたもので、スターリンは粗野な手段によってそれを肉付けしたのである」と結論づけていた。

レーニンについて、Lはこうメモしている。
「レーニンは民主主義の重要性について認識しており、プロレタリア革命も社会主義建設もブルジョア民主主義を徹底させることを基本課題としていることを認めていた」
ではなぜレーニンはメンシェヴィキやエスエルなどの政治的反対派、クロンシュタートの水兵や農民反乱、さらにはロシア正教の聖職者などに対して大量の銃殺をふくむ苛烈な弾圧を断行し、一党独裁へロシアを導いたのか。
Lはこう答える。それはレーニンが根っからの革命家であり、革命の事業が危機に瀕するたびに、理論にこだわらず、革命の現実的必要を基準として政策を変えたからである。しかもレーニンは、ロシアの後進的な専制政治の風土の影響を受け、潜在的な政治信条として民主主義の有効性に対する不信感を持っていた。革命を成功させるには、民主主義に対する不信感は強みとして働いたということができる。
レーニンにとって革命こそが正義であり、そのためには革命に反対し、あるいは態度を留保するものは悪であった。

反革命・政治的反対派に対する容赦ない弾圧に関連して、Lはレーニンの法理念をこう考えていた。
レーニンは革命後の法理念と司法体系に「プロレタリア独裁の強化」という明確な目標を与えた。具体的には反革命と反対派を取締まることであった。そのために全ロシア非常委員会ヴェ・チェ・カに公開裁判抜きの銃殺権を与えた。
レーニンは、(社会革命党(エスエル)の裁判をおこなうための刑法起草者の)クルスキーへ「銃殺刑あるいは国外追放の適用範囲をメンシェヴィキ・エスエル党員のあらゆる種類の活動に対して広げねばならないと思う」さらに「法廷はテロを排除してはならない。そういうことを約束するのは自己欺瞞だ」という手紙を書いた。
Lは、これが1926年の刑法典の第58条へと育ち、スターリンの血の粛清の法的武器となったと主張する。すでに1921年1月、レーニンは、「我々は数千人を銃殺するのをためらわなかった。今後もためらわないなら、この国を救うだろうと語り、トロツキーが前線で死刑を広く、断固として適用していることを称賛した」
レーニンがテロを強調したのは、テロをプロレタリア独裁の重要手段とみなしていたからである。レーニンの「革命的な正義の観念」と「革命的良心」は、キリスト教的伝統の下における「正義」とか「良心」とはかなり次元が違っていた。
Lは、これをレーニンがプロレタリア独裁至上主義に陥っていたためだという。この結果、法律の条文を「より広く適用」して被告人を無理やり有罪にすることや、告発側の証人のみで被告側の証人は認めないなどの被告人の人権を無視した裁判慣行が、レーニンの時代にすでに広がっていたのである。審理や裁判自体がプロレタリア独裁の勝利のために行われるのであるから、被告人となったものは進んで陳述し告発側に協力すべきものとされた。被告の人権を考慮するような考えはブルジョア思想とされた。かくして夫や父を告発する密告が奨励されたのである。

Lは、レーニンの法理念は革命を擁護するために、民主主義からかけ離れたものになったという。プロレタリア独裁の実態は、内戦が終結したのちの1921年以降は、党内反対派や非協力者たちに対する監視と弾圧となり、とても人間精神を高揚させるしろものではなかった。Lは「ここにイデオロギー過剰と倫理的虚無感の入り混じったソ連独特の道徳的状況を解くカギがある。レーニンはこれらすべてのことに責任があるといわなければならない」と明言した。
――従来赤色テロは、レーニンの名誉にかかわるため秘密とされてきた。テロの犠牲者数について、LはM.ラツイスによる1918年から1年半の犠牲者数8300をあげている。ソ連解体後の新資料による数値は、たとえば稲子恒夫著『ロシアの20世紀』(東洋書店 2007年、p180)を参照されたい。

Lは、レーニンの「党の指導性」というテーゼを重視して、次のようにその正負両面を分析している。
「レーニンは、1902年の『何をなすべきか』において『党の指導性』についての理論の骨格をきずいた。前衛政党なしにプロレタリア革命は達成できないという見解は、当時の情勢からすれば(革命を起こすうえで)非常な卓見というべきである」
だが、それは1917年10月革命後も共産党が一切を指導するという一党独裁の理論に変わった。1920年から21年の労働組合論争は、経済の運営管理に労働者大衆の参加と統制を大幅に認めようとするシュリアブニコフ、コロンタイらの「労働者反対派」と、経済運営は厳格な党の指導性の下に置かれるべきであるとするレーニンとの争いであった。
レーニンは「労働者反対派」に対してアナルコ・サンジカリズムとして攻撃し、将来にわたって大衆民主主義が党内に持込まれないようにするために、「分派活動の禁止」を大会で決議させた(1921年ソ連共産党第10回大会の結語――クロンシュタートの反乱の年)。
レーニンはトロツキーを批判するという形で、労働組合は労働者が『社会主義社会の運営方法を学ぶ共産主義の学校』であるというテーゼを打ち出して、『学ぶべき労働者』という概念を定着させ、一方で、『党の指導性』なしに共産主義社会の実現は不可能」として、「党の指導性」を至上の高みに持ち上げたのである。
レーニンは革命後においても、指導する前衛党と教育されるべき労農大衆という二極化された社会構造を不可欠なものと考えたから、共産主義に至る過渡期に必要な民主化された社会を将来展望として示すことができなかった。

Lは、M.レヴィン『レーニン最後の闘争』(1969年)から引用して、「それはすべての意見の不一致に分派的であるという焼き印を押すことによって一切の真の討論を窒息させるのに成功した」といい、また「『党の指導性』はスターリン時代にその対象領域を際限なく拡大し、政治・経済管理から教育・文化などに広がった。プロレタリア独裁はローザ・ルクセンブルグの懸念通り、党が代行したのである」として、この方面でもレーニンの歴史的責任は免れないと判断した。(続く)

2019.07.10 1970年代に社会主義への道を批判した市井人(1)
            ――八ヶ岳山麓から(285)――

阿部治平 (もと高校教師)

畏友中村隆承(Lと略記)は、1983年に49歳の若さで世を去った。
Lは1956年東京大学経済学部卒業後、志を抱いて農協の全国機関に就職した。世間的にはエリートのはずであったが、さほど出世しなかった。マルクス主義者と見られていたからである。
しかし、彼がマルクスやエンゲルス、さらにはレーニンを肯定的に見ていたのは、1960年代なかばまでであった。私はLとマルクス主義に関する議論をする機会がときどきあったが、知識と考察のレベルは等しくはなく、彼から教えられることの方が多かった。
76年Lに癌がみつかり、2度の手術の後、余命いくばくもないと知ったとき、彼は気力を振り絞ってみずからの思想を書き残した。遺稿は『中村隆承遺稿集』として、1984年夫人の手により自費出版された。
内容は、東欧とソ連解体のはるか以前、ソルジェニーツィンやサハロフに対する弾圧が行われた1970年代の思考である。考察に必要な資料は少なく、しかもLは学者でなく市井の人であったから、その内容はときに断片的であり、また過度に断定的であり、今となっては常識となった部分もないわけではない。
今年は中国の天安門事件、東欧の民主主義革命から30年である。私はこれを機にLが生きた証を世に問いたいと願い、彼の遺稿からいくつかのテーマを選ぶことにした。数篇に分けて述べるつもりであるが、まず社会主義理論に関する部分を要約、紹介する。(( )内は簡単な注。――線以下は阿部のメモ)

Lは、マルクスとエンゲルスについてこういう。
彼らは「労働者階級による社会主義革命」という新しい理念を創出し、この革命を達成することを生涯の第一義的課題とした。これを実践、発展させたのがレーニンである。マルクスとエンゲルスの『資本論』をはじめとする膨大な著作は、この革命が労働者にとって必要であり、達成可能であることを説得するための手段であり、また偉大な努力の結晶であった。
マルクスとエンゲルスは人の主観的意志とは別に、客観的な社会発展法則が存在することを確信し、それをもって彼らの社会主義理論が科学的であり真理であることの根拠として、革命への説得力を比類なきものにしようとした。

だがLは、彼らの社会発展の理論=史的唯物論は、社会の内在的要因を過度に重視しており、「内部矛盾による自己発展」という観点に依存しすぎていると考えた。歴史は社会の変化・発展が、内的要因とともに外的要因によってももたらされることを証明していると。
――Lと私は、人類史の上で、戦争・侵略、自然災害などの外的要因がしばしば重要な役割を果たしたことや、明治維新だけでなく、第二次大戦後の日本の敗北とその戦後処理なども革命と考えて議論した。

Lの認識では、マルクスとエンゲルスの認識過程には、19世紀中葉という時代的制約から、非科学的見解や事実に合致しない判断が相当入り込んでいた。なかでもヘーゲルの「理性は自らを歴史の中に表現する」という絶対論的認識論の影響を強く受けていたことが、歴史の発展要因として、生産力視点の強い内的要因一元論を貫く結果を生んだ。
封建制→資本制などの歴史発展段階論はヨーロッパ社会の歴史を要約したものであるにもかかわらず、社会発展の論理を一元化しようとするあまり、これを世界史的発展の法則として取り扱うことになった。このため非西欧社会の社会発展、あるいは停滞を十分説明できなかった。
――だが、日本の「アジア的生産様式」論争のなかでは、論者の一部はLと共通の認識であったと思う。私のような教師は、原始共産制―奴隷制―封建制―資本制」という図式にこだわったとき、ずいぶん無理な説明をしなければならなかった。中国の封建制を周王朝から辛亥革命まで数千年続いたとしたり、モンゴルの社会主義革命を資本主義段階を飛越えたものとする説が現れたりしたからである。

マルクスはヘーゲル的弁証法にこだわって、「外化」「物神化」「疎外」「自己現出」「本質と現象形態」などの概念を多用し、不十分な素材や事実の下でも、すぐに総括的に事態を一刀両断にするようなことをしばしばした。この思い切りの良さはマルクスの強みであって、彼らの理論の啓示性をそこなうものではなく、かえってそれを強めたけれども、科学的論証としては問題があった。『資本論』では流通・サービス労働の無視など、価値論に大きな欠陥を残した。
Lは、総じていえば、唯物弁証法といい史的唯物論といい厳密な科学性を備えたものではなく、現実の社会の発展法則をわかりやすくするといったものではなかったと判断した。
さらに、弁証法のテーゼが自然科学の真理の認識過程を正しく総括したなどという(エンゲルスに対する)評価はこじつけである。マルクスやレーニン以後の飛躍的な自然科学の発展にもかかわらず、マルクス主義哲学者はそれに対応した弁証法のテーゼの充実といったものは試みていない、ともいっている。

Lによれば、マルクスとエンゲルスが(生産手段の社会化と)生産の計画化によって資本主義社会における生産と消費の不適合を除去できると考えたことは、理論的にも実際的にも誤りであった。社会的生産と消費の不適合は、人類社会が工業化すればするほど拡大する。これは社会の基本的矛盾であって、この矛盾を社会主義によって解決しようというのは空想的である。
完全な計画経済は理論的には不可能であり、やろうとすれば常に試行錯誤的にならざるを得ない。また徹底しようとすればより強い中央集権化と官僚化が必要となり、その割に効率は低い。
――Lは、マルクスやエンゲルスの理論の中にある非科学な事例として、エンゲルスの『家族、私有財産、および国家の起源』と、『自然弁証法』をあげた。前者はルイス・H・モーガンの主著『古代社会(Ancient Society)』(1877年)の誤解にもとづく学説を鵜呑みにしたものである。

Lは、人間の歴史は階級闘争の歴史であると同時に、戦争と覇権の歴史であるとみていた。ロシアの1917年10月革命を準備した2月革命も、レーニンの理論による自覚した組織労働者の武力闘争の結果として起こったのではなく、第一次世界大戦の結果としての、半ば自然発生的な、民衆と兵士による反乱の結果として起こったものであった。
——私たちは、議論の中で10月革命はボリシェヴィキによる軍事クーデターであって、労農大衆による革命というにはあまりにも無理があるという結論に達した。

ロシア10月革命を成功させたのは、まちがいなくレーニンであった。Lによると、レーニンは天啓を受けた宗教家のように強い信念にみちて、初期の困難の克服と路線の設定に没入した。彼は民主主義の重要性を認識してはいたが、天性の革命家であり、理念や理想が現実の必要と矛盾するときはためらいなく後者を選んだ。
彼は労農大衆が革命の遂行に必要な責任感と能力を十分に身に着けていないと判断して、党機関の拡大とあらゆる部門での党の指令による管理の確立をはかった。またコロンタイなどこの路線の反対者(労働者反対派)に対して、「分派活動の禁止」の党大会決議をおこなって、可能であったかもしれないもうひとつの道を自ら閉ざした。
レーニンが晩年に戦いの対象とした官僚主義は、彼の敷いた路線の必然的産物だったのである。

スターリンは「革命の防衛」というレーニンの執念を引き継ぎ、他の指導者が理論や理念に執着する間に、党組織の拡大と農村部をはじめとする指導機関の整備に努めた。その後、彼はレーニンの組織論と分派活動の禁止を武器として、トロツキー以下のすべての競争者を粛清した。
Lは、1936年以降の大粛清も、またそれを是正できなかったのも、その責任の一部はマルクスの理論にひそむ権威主義的な要素、すなわちヘーゲル的絶対論的認識論や、党員は上級に絶対的に従うべしとするレーニンの集権的要求と民主的党運営の軽視にある。さらにスターリンのようなカリスマ的指導者に対しては逆らえないという、人間の弱さもその原因に付加えなければならない。
そしてLは、スターリンは(蛮行を繰り返したが)強制力と大衆の熱狂の力(そして大量の囚人労働)で農業の集団化と重工業化を強行し、シベリア開発の成果を上げ、独ソ戦を戦う戦力を築いたと一定の評価をしている。(続く)

中村隆承 略歴
1934年東京杉並区に生まれる。幼児期から43年(小学校4年)まで主に満洲(中国東北)で過ごす。43年年から高校卒業まで鹿児島県で生活する。
1952年鹿児島県立甲南高校卒業。同年東京大学経済学部入学。在学中、赤門消費組合で活動し、56年同大学卒業。全国購買農業協同組合連合会(全購連、のちの全農)に就職。62年全国農協中央会に出向。64年全購連に戻る。同年結婚。
76年10月癌を病み、千葉大学付属病院で大腸手術。81年2回目の大腸手術。85年永眠。
全購連在職中、「乳価安定施策の矛盾をつく」「畜産物価格政策の改善をめぐる問題点、上・中・下」ほか農業・農協関連の論文を発表した。またこの間、『資本論』、計画経済の可能性、ソ連経済の実態、平和運動のありかたなどについて、未公表の膨大なノートを残した。二男一女の父。








2019.07.09 参院選序盤の選挙情勢をどう見る
改憲勢力「3分の2割れ」がもたらすもの(1)
                
広原盛明 (都市計画・まちづくり研究者)

 7月6日、各紙は参院選序盤の選挙情勢に関する有権者調査(7月4,5日実施)を発表した。見出しは、朝日「自公、改選過半数の勢い、改憲勢力2/3は微妙」、毎日「改憲3分の2割れも、与党、改選過半数は確保」、日経(共同通信)「自公、改選過半数の勢い、改憲勢力2/3うかがう」というもの。各紙が挙って同じ情勢を報じているのだから、情勢分析の確度は相当高いと思える。残念ながら「自公、過半数割れ」は望むべくもない以上、焦点は「改憲勢力、3分の2割れ」に移ることになる。果たしてこれが可能なのか。もう少し、各紙の解説を紹介しよう。

【朝日】
 改憲発議が可能になる「3分の2」は164議席。自公与党に維新、与党系無所属を加えた「改憲勢力」は非改選79議席あり、改選で85議席が必要だ。自民、公明、維新の3党で計80議席前後となりそうで、85議席に届くかは微妙だ。

【毎日】
 自公は衆院で3分の2を確保し、参院では維新と、改憲に前向きな無所属議員と合わせて3分の2を占める。非改選の改憲勢力議員は79人で、3分の2の維持には85人の当選が必要だ。序盤情勢では自公維3党は69議席からの上積みを狙う。党勢が好調なら3党で85に達する可能性もある。

【日経(共同通信)】
 自民、公明両党は改選124議席の過半数63を超え、改選前の77議席前後まで積み上げる勢い。安倍政権下での憲法改正に前向きな「改憲勢力」は、国会発議に必要な3分の2以上の議席維持をうかがう。野党は立憲民主党が改選9議席からの倍増を視野に入れるものの、全体では伸び悩む。

 私が注目するのは、選挙公示日直後の有権者調査で早くも「改憲勢力3分の2割れ」の兆候が出ていることだ。本格的な論戦が始まる前段階でこのような兆候があらわれているのは、国民の間に流れている「安倍改憲」への根強い警戒心を示すものだろう。今後、安倍首相が改憲姿勢に前のめりになればなるほど、国民の警戒心はますます高まるに違いない。

 その一方、予想外だったのは1人区での野党共闘の不振ぶりだ。毎日新聞は「1人区、苦しい野党」「共闘空回り、優勢5区」と見出しでその実態をあまねく伝えている。表向きは野党共闘であっても、(1)立憲民主と国民民主の主導権争いが解消されず、互いの支援活動に腰が入ってないこと、(2)共産に対する他党支持層のアレルギーが根強いこと、(3)無所属の野党統一候補は18選挙区に上るが、政党色を抑え幅広い支持を得る狙いが十分に発揮されていないこと、などがその原因だという。

 それに、1人区はもともと自民が強い選挙区であること、野党統一候補はほとんど新人で名前が浸透していないこともある。ならば、もっと早くから野党共闘体制を確立し、候補者を決定して選挙運動を始めるべきであったが、野党第一党の枝野立憲民主代表が最後まで踏み切らずこのような事態を招いたことは誠に残念だと言わなければならない。もっとも今回の参院選における枝野代表の狙いは、かねてからの持論の如く「野党第一党の座を確実にする」(日経新聞コラム「大機小機」、7月6日)というものらしいから、野党統一候補のために全力を傾注することにはならないのだろう。

 しかし、より根本的な問題は、安倍政権の政策に賛成はしないが自民に投票するとする支持層が多数存在するという現実だ。朝日新聞によると、年金だけでは「2千万円不足」という問題に関しては、麻生金融担当相が報告書の受け取りを拒んだ対応について「納得できない」62%、「納得できる」16%と大差がついているにもかかわらず、納得できない層の比例区投票先は自民40%に達し、立民24%を大きく引き離している。また、消費税増税に「反対」する人の比例区投票先も自民40%、立民21%とこれも変わらない。つまり、政策に関係なく自民を支持する有権者が多数いるということだ。

 おそらくこのギャップは、政策の問題点がより明確になる中盤戦から終盤線にかけて縮小するものと思われるが、目下のところ「選挙戦が始まったばかりの現時点では、これらの問題に関する批判層が野党に大きく流れる状況までには至っていない」(朝日)というのが実態だろう。だが、果たしてこのような状況は起こりうるものなのか。

 私はその背景に、政策で政党を選択するという近代政治の基本が国民の間に充分に浸透していないことがあるのではないかと疑っている。また、その原因として野党がそもそも政権政党として国民に信頼されていないのではないかと思っている。民主党政権による無様な政権運営、野党転落後の見苦しい分裂劇、最近では元閣僚の自民入党など、野党の存在意義を揺るがす不祥事には事欠かないからだ。

 また、野党共闘の不振に関しても、これまで金科玉条の如く「自共対決」を掲げて野党共闘を拒んできた共産に責任がないとはいえないだろう。国民はいきなり「昨日の敵は今日の友」なんて言われても、そう簡単に信用することができないからだ。いずれにしても、政策を掲げるだけでは野党の存在意義を国民に納得させることはできない。それを示すのは政策を実行する政党の体質なのである。(つづく)
2019.07.08 改憲勢力「3分の2」は何としても阻止を
    参院選は日本の命運を決める決戦だ

岩垂 弘 (ジャーナリスト)

 参院選が始まった。与野党は7月21日の投開票に向けて選挙戦を展開中だが、街々を歩いて得た印象では、どこもかしこもいつもと同じたたずまいで、有権者の間に参院選への熱気が感じられない。が、今度の参院選は、言うなれば、日本のこれからの命運を決める歴史的な決戦である。なぜなら、今度の参院選で改憲勢力が3分に2を確保すれば、早ければ来年にも日本国憲法が改定されかねないからだ。

 参院選公示前日の3日、日本記者クラブで与野党7党による党首討論会が開かれた。21日の投開票日に向けた選挙戦が事実上始まったわけだが、4日付の朝日新聞はその模様を「自民党総裁の安倍晋三首相に対し、野党各党が年金をめぐる老後不安や消費増税などの生活に直結するテーマで論戦を仕掛けた。首相は憲法改正などで基本政策の異なる野党の『共闘』を批判」と伝えていた。

 私もこの討論会をテレビで観戦したが、野党各党がそろって消費増税や年金問題に焦点を当てるのを見て、「おや、討論の焦点は別のところにあるのでは」と思った。なぜなら、討論会以前の6月21日のインターネット番組で、安倍首相が「(参院選は)憲法について、ただただ立ち止まって議論しない政党か、正々堂々と議論する政党か、それを選ぶ選挙だ。そのことを強く訴えてゆきたい」と述べ、参院選では改憲を主要争点にすることを明らかにしていたからだ。
 それに先立つ5月3日には、首相は「2020年に新しい憲法施行の年にしたいという気持ちに変わりありません」と公言していた。
 
 ならば、野党の中で護憲を掲げる政党は、討論会で安倍首相に正面から憲法問題で論戦を挑むべきではなかったか、と思えてならなかった。
 とりわけ、参院選を控えた5月29日に5野党・会派(立憲・国民・共産・社民・社会保障を立て直す国民会議)と「安保法制の廃止と立憲主義の回復を求める市民連合(市民連合)」が合意した「共通政策」13項目の第1項目に「安倍政権が進めようとしている憲法『改定』とりわけ第9条『改定』に反対し、改憲発議そのものをさせないために全力を尽くす」とあったから、野党4党は選挙戦の第1戦ともいうべき党首討論会で、改憲を争点にするだろうと、私は期待していたわけである。

 いずれにせよ、安倍首相と自民党は、選挙戦で総力をあげて改憲を訴えるだろう。首相の第一声も「この選挙で問われているのは、私たちのように議論する候補者、政党を選ぶのか、審議をまったくしない政党、候補者を選ぶのか、それをきめていただく選挙だ」だった。

 参院議席の定数は245。改憲発議が可能になる「3分の2」は164議席だ。自公与党に日本維新、与党系無所属を加えた改憲勢力は非改選で79議席あるので、改選で85議選が必要となる。
 もし、改憲勢力で85議席以上を獲得すれは、改憲勢力は「3分の2」の議席維持に成功したことになる。そうなれば、改憲勢力は「民意を得た」として、一気に改憲作業を加速させるに違いない。
 そう考えると、今度の参院選は日本の今後の命運を決める「天下分け目の決戦」とみていいだろう。まさに、護憲勢力に決意のほどが問われていると言える。
 
 このところ、私の脳裏に繰り返し甦ってくる過去の出来事がある。今から64年前の1955年2月27日に行われた第27回総選挙だ。
 吉田茂・自由党内閣総辞職を受けて1954年12月に成立した鳩山一郎・民主党内閣は憲法改定に意欲を示し、鳩山首相も「改憲を目指す」と明言した。
 鳩山首相が改憲に打って出た背景には、米国の対日政策の転換があった。すなわち、太平洋戦争に敗北した日本を占領した米国は日本を「非軍事化」することに力を注いだが、1950年に朝鮮戦争が勃発すると、その方針を転換、日本を「反共のとりで」とする方向に舵を切り、日本政府に防衛力強化(軍備増強)を要求した。鳩山発言も、こうした米国政府の意向をくんだものであった。

 当時は、第9条で「戦争の放棄」「戦力不保持」「交戦権の否認」をうたった日本国憲法は広く国民に支持されていたから、鳩山首相の発言は大きな反響を呼び起こした。
 鳩山政権下の最初の総選挙が行われると決まった時、憲法を支持する国民の関心は1点に集中した。護憲を掲げる政党が衆院議席の3分の1以上を獲得できるかどうか、だった。もし改憲反対の議員が3分の1以上になれば、国会での改憲発議を阻止できるからだ。
 憲法改定に反対する人々には不安もあった。なぜなら、直近の総選挙結果では、護憲派は全議席の3分の1を下回っていたからである。すなわち、1953年4月19日に行われた第26回総選挙の当選者454人の内訳は次のようなものだったからである。
<自由党199、改進党76、左派社会党72、右派社会党66、分派自由党35、労農党5、共産党1>
 要するに、護憲を掲げる左派社会党と右派社会党を合わせても138人にとどまり、衆院議席の3分の1(151人)に届いていなかったのである。

 ところが、55年2月27日の第27回総選挙(衆院議席は467人)は次のような結果だった。
 <民主党(改進党の後身)185、自由党112、左派社会党89、右派社会党67、労農党4、諸派2、無所属6、共産党2>
 左派社会党と右派社会党を合わせると156人となり、衆院議席の3分の1(155人)を1議席上回ったのだった。かくして、鳩山首相の改憲願望は挫折し、憲法は改定を免れた。

 第27回総選挙の結果を受けて、この年10月に左派社会党と右派社会党が統一して「日本社会党」になり、同11月には、民主党と自由党が合同して「自由民主党」(自民党)を結成する。「改憲志向の自民党」対「護憲堅持の社会党」を軸とする「55年体制」の始まりであった。
 それからずっと、憲法は改定されるこはなかった。衆院で護憲派が絶えず3分の1以上を占め、このため、自民党も衆院で改憲発議が出来なかったからである。しかし、2012年12月の第46回総選挙で改憲志向の自民・公明が衆院議席の3分の2以上を獲得。さらに、16年7月の参院選で、自公を中心とする改憲勢力が参院議でも初めて3分の2以上を占めるに至った。こうして、改憲勢力は衆参両院で改憲の発議が可能になった。

 そして、今度の参院選である。果たして、今度の参院選で64年前の選挙結果が繰り返されるだろうか。護憲勢力にその“再現”が期待されている。

2019.07.05 「圧倒的多数県民が辺野古埋め立てに反対」
玉城沖縄県知事が明快に宣言=沖縄慰霊の日

坂井定雄 (龍谷大学名誉教授)

 6月23日恒例の2019年慰霊の日に、玉城沖縄県知事は「圧倒的多数県民が辺野古埋め立てに反対している」と明確に宣言した。この演説は全文を通して、「戦後の廃墟と混乱を乗り越え、人権と自治を取り戻すべく米軍占領下を生き抜いた私たちウチナーンチュ」の戦後史と現在を明快に示した。NHKが全文を中継し、夜七時のニュースでも詳しく報道したのに比べ、朝日新聞は1面3段、2面4段、26面4段と紙面を割いたが、玉城知事の平和宣言の紹介は要旨だった。安倍首相のあいさつでは、今年も「辺野古」には触れなかった。他紙、他チャンネルの報道にはあまり目を通していないが、玉城知事の平和宣言を全文読んでいただきたいし、しっかり記録にとどめたいので、以下に再録します。


【全文】玉城デニー知事の平和宣言(2019年慰霊の日)
玉城知事写真
           玉城知事の平和宣言(2019年慰霊の日)

平和宣言する玉城デニー知事=23日、糸満市摩文仁の平和祈念公園
 戦火の嵐吹きすさび、灰燼に帰した「わした島ウチナー」。県民は、想像を絶する極限状況の中で、戦争の不条理と残酷さを身をもって体験しました。

 あれから、74年。忌まわしい記憶に心を閉ざした戦争体験者の重い口から、後世に伝えようと語り継がれる証言などに触れるたび、人間が人間でなくなる戦争は、二度と起こしてはならないと、決意を新たにするのです。

 戦後の廃墟と混乱を乗り越え、人権と自治を取り戻すべく米軍占領下を生き抜いた私達ウチナーンチュ。その涙と汗で得たものが、社会を支え希望の世紀を拓くたくましい営みをつないできました。

 現在、沖縄は、県民ならびに多くの関係者の御尽力により、一歩一歩着実に発展を遂げつつあります。

 しかし、沖縄県には、戦後74年が経過してもなお、日本の国土面積の約0・6パーセントに、約70・3パーセントの米軍専用施設が集中しています。広大な米軍基地は、今や沖縄の発展可能性をフリーズさせていると言わざるを得ません。

 復帰から47年の間、県民は、絶え間なく続いている米軍基地に起因する事件・事故、騒音等の環境問題など過重な基地負担による生命の不安を強いられています。今年4月には、在沖米海兵隊所属の米海軍兵による悲しく痛ましい事件が発生しました。

 県民の願いである米軍基地の整理縮小を図るとともに県民生活に大きな影響を及ぼしている日米地位協定の見直しは、日米両政府が責任を持って対処すべき重要な課題です。

 国民の皆様には、米軍基地の問題は、沖縄だけの問題ではなく、我が国の外交や安全保障、人権、環境保護など日本国民全体が自ら当事者であるとの認識を持っていただきたいと願っています。

 我が県においては、日米地位協定の見直し及び基地の整理縮小が問われた1996年の県民投票から23年を経過して、今年2月、辺野古埋立ての賛否を問う県民投票が実施されました。

 その結果、圧倒的多数の県民が辺野古埋立てに反対していることが、明確に示されました。

 それにもかかわらず、県民投票の結果を無視して工事を強行する政府の対応は、民主主義の正当な手続きを経て導き出された民意を尊重せず、なおかつ地方自治をも蔑ろにするものであります。

 政府におかれては、沖縄県民の大多数の民意に寄り添い、辺野古が唯一との固定観念にとらわれず、沖縄県との対話による解決を強く要望いたします。

 私たちは、普天間飛行場の一日も早い危険性の除去と、辺野古移設断念を強く求め、県民の皆様、県外、国外の皆様と民主主義の尊厳を大切にする思いを共有し、対話によってこの問題を解決してまいります。

 時代が「平成」から「令和」へと移り変わる中、世界に目を向けると、依然として、民族や宗教の対立などから、地域紛争やテロの脅威にさらされている国や地域があります。

 貧困、難民、飢餓、地球規模の環境問題など、生命と人間の基本的人権を脅かす多くの課題が存在しています。

 他方、朝鮮半島を巡っては、南北の首脳会談や米朝首脳会談による問題解決へのプロセスなど、対話による平和構築の動きもみられます。

 真の恒久平和を実現するためには、世界の人々が更に相互理解に努め、一層協力・調和していかなければなりません。

 沖縄は、かつてアジアの国々との友好的な交流や交易を謳う「万国津梁」の精神に基づき、洗練された文化を築いた琉球王国時代の歴史を有しています。

 平和を愛する「守禮の邦」として、独特の文化とアイデンティティーを連綿と育んできました。

 私たちは、先人達から脈々と受け継いだ、人を大切にする琉球文化を礎に、平和を希求する沖縄のチムグクルを世界に発信するとともに、平和の大切さを正しく次世代に伝えていくことで、一層、国際社会とともに恒久平和の実現に貢献する役割を果たしてまいります。

 本日、慰霊の日に当たり、国籍や人種の別なく、犠牲になられた全ての御霊に心から哀悼の誠を捧げるとともに、全ての人の尊厳を守り誰一人取り残すことのない多様性と寛容性にあふれる平和な社会を実現するため、全身全霊で取り組んでいく決意をここに宣言します。

 御先祖から譲り受けてぃ、太平(平和)世願い愛さしっちゃる肝心、肝清さる沖縄人ぬ精神や子孫んかい受き取らさねーないびらん。

 幾世までぃん悲惨さる戦争ぬねーらん、心安しく暮らさりーる世界んでぃし、皆さーに構築いかんとーないびらん。

 わした沖縄御万人と共に努み尽くち行ちゅる思いやいびーん。

 We must pass down Okinawa's warm heart we call "Chimugukuru" and its spirit of peace,inherited from our ancestors,to our children and grandchildren.

We will endeavor to forge a world of everlasting peace.

I am determined to work together with the people of Okinawa.

 令和元年6月23日
沖縄県知事 玉城デニー


2019.07.04 ナチス突撃隊張りの足立康吏衆院議員の野党攻撃、維新は結社の自由、政党の存在を否定するのか
-大阪維新のこれから(9)-
        
広原盛明 (都市計画・まちづくり研究者)

 いまどきこんな極右体質の国会議員がいるかと思うと、背筋が寒くなり身体中に戦慄が走る。2019年6月25日、衆院本会議における維新代表・足立康吏議員の発言が耳から離れない。足立議員は安倍内閣不信任案決議に反対する理由として、「共産党と同じ行動をとるのが死んでも嫌だからだ」と臆面もなく述べたのである。「死んでも嫌」という表現は、相手の存在そのものを否定する主張すなわち「共存の否定=民主主義の否定」につながる。共に生きるのが嫌であれば、自分が死ぬか、相手が死ぬか(殺すか)のどちらかを選ぶしかない。憲法で保障された基本的人権としての思想信条の自由、結社の自由を根本から否定する恐ろしい考え方だ。

 足立議員といえば、これまでも野党各派に対して聞くに堪えないような罵詈雑言を数知れず繰り返してきた悪名高い人物だ。2016年当時、野党第1党だった民進党に対しては「民進党はあほでバカでどうしようもない政党」「民進党はウソつき」「最大の違憲集団こそ民進党」などと議場で数回にわたって放言し、ブログでは「民進党に国会の議席は不要」とまで書き込む有様だ。なにしろ野党側からは年4回も連続して懲罰動議を出されるという、憲政史上比類のない「新記録」をつくった人物なのである。

 不思議なことに、足立議員に対しては野党側から繰り返し懲罰動議が出されているにもかかわらず、その取り扱いを協議する(与党主導の)衆院議院運営委員会では結論が出されないままで放置されている。このため動議は懲罰委員会にかからず、足立議員は登院停止や資格停止などの処分もなく、責任も問われないままノウノウと問題行動を繰り返す状況が続いている。つまり、足立議員は与党に庇護されることで(飼われることで)、野党攻撃の「鉄砲玉」としていとも効果的に利用されているのである。

 足立議員の攻撃は、朝日新聞などリベラルなメディアにも向けられている。朝日新聞は、2017年11月11日の社説で文部科学省の審議会が加計学園の獣医学部の新設を認める答申をしたことに関し、「『総理のご意向』をめぐる疑いが晴れたことにはまったくならない」と指摘した。これに対し足立議員は、ツイッターにこの社説を引用した上で「朝日新聞、死ね!」とのドギツイ言葉を投げつけ、おまけに「拡散歓迎」との書き込みまで付け加えたのである。ことあるたびに「死ぬ」「死ね」を連発する足立議員は、物事の決着を相手の抹殺によって付けようとする衝動に駆られるのであろう。行き着くところは、ナチスドイツの「ホロコースト」の道に通じるのではないか。

 アメリカのトランプ大統領も、自らの言動に批判的なニューヨークタイムズ、ワシントンポスト、CNNテレビなどのメディアを「フェイク」と決めつけることで知られる。取材拒否を始め、あらゆる手段を使ってその影響力を削ごうとする。安倍首相も、読売、産経、フジテレビなど右派メディアを重用する点では「親密な友人」と変わりない。まして、足立議員のような無鉄砲な人物がいれば、これを利用しない手はないと考えるのがごく自然だろう。だから、足立議員は懲罰委員会にも掛けられずに泳がされ、安心して野党攻撃の「鉄砲玉」としての役割を果たすことができるのである。

 維新は6月27日、次期参院選の公約を発表した。毎日新聞(6月28日)を除いて内容を報じたメディアは見当たらないが、私はその中の「憲法改正」に関する項目を読んでゾッとした。その内容は以下の通りだ(抜粋)。
 「9条議論の前提として、旧日本兵らのための国立追悼施設の整備や米中央情報局(CIA)のようなインテリジェンス機関を創設。各党に具体的改正項目の提案を促し、衆参両院の憲法審査会をリードする」

 「旧日本兵のための国立追悼施設の整備」及び「米中央情報局(CIA)のような諜報機関の創設」を維新がことさらに参院選公約として掲げたことは、維新の目指す国家像を明らかにするうえで重大な意味を含んでいる。端的に言えば、それは「靖国神社の国立化」であり、「特高警察の拡大強化」にほかならない。軍事支配体制のためのイデオロギー拠点施設として国立追悼施設をつくり、実行部隊としてCIAのような謀略諜報機関を創設するとの方針なのだ。ナチスドイツでいえば、国民生活の隅々までナチズムを浸透させた情報宣伝局と秘密警察(ゲシュタポ)を併せ持ったような体制を整備しようというのである。

 維新は目下参院選に向け、大阪以外の地域で候補者擁立に精力的に動いている。北海道では「新党大地」の鈴木宗男代表、東京では「都民ファースト」出身の元都議、神奈川では「希望の党」前代表の松沢参院議員など、とにかく票を稼げる候補者は所属を問わず大歓迎というわけだ。その背景には、維新は大阪では猛威を振るっていても、全国的には広がらないという焦りがある。なぜなら大阪を除く国政選挙の比例代表の得票数は、2012年衆院選の1080万票が17年衆院選では僅か5分の1の245万票へ激減したからである(毎日新聞2019年6月22日)。

 だからこそ、維新は大阪ダブル選挙の勢いを駆って次期参院選で一気に勢力を挽回する戦略をとらざるを得ない。それが足立議員を代表に立てての野党攻撃を主とする内閣不信任案決議反対の発言であり、参院選における突出した極右的政策の打ち出しとなって表れている。「日本のこころ」や「希望の党」など極右政党が軒並み退場した現在、その支持層を維新が一手に集めるには足立議員のような「鉄砲玉」が必要であり、自民党より右の政策が有効だと判断しているためであろう。

維新幹部の吉村大阪府知事は6月28日、大阪府庁で記者団に対し「特に憲法改正は強く訴え、議論をリードしていきたい。今の自民党に任せていたら全然進まないので、参議院選挙ではこの点を訴え、憲法改正を強烈に引っ張っていく役割を果たしたい」と述べた(NHKウェブニュース)。吉村知事も足立議員と同じく極右体質の政治家であり、外見は異なっていても根はつながっている間柄だ。参院選では両者は並び立って活躍するだろう。だが、審判を下すのは全国の有権者だ。選挙結果の行方を注視したい。(つづく)
2019.07.02 不誠実な外交・内政との決別を
平和アピール七人委が参院選前に訴え

岩垂 弘 (ジャーナリスト)

 世界平和アピール七人委員会は7月1日、「不誠実な外交・内政との決別を―参議院選挙を前にして―」と題するアピールを発表した。
 アピールは、まず、日米安保条約、沖縄の米軍基地、北方領土返還、対北朝鮮など日本の根幹を揺るがしかねない一連の外交問題について、安倍首相が国民に何も語らないのはどういうことか、と疑問を呈した上で、その外交姿勢を「力の強いものに従属することで庇護を得ようとする」ものと断じ、それは「日本の立場を弱めるものである」と批判。
 加えて、内政面でも「首相は通常国会での予算委員会開催に消極的であったし、年金問題など国民が関心をもつ諸問題を誠実に国民に説明する姿勢を見せなかった」「首相が官邸で官庁幹部と面談する際、記録を何ら作成していないことも明らかになった」として、「自らは強者として力を行使しつつ、そのことに責任を負わないというのでは、民主主義国家の政治家として失格であり、人間としての道義に反する」と批判、「来る参議院選挙において、安心して住める安全な日本を創るために、有権者一人一人が熟慮して投票されることを期待する」と訴えている。

 世界平和アピール七人委は、1955年、物理学者・湯川秀樹らにより、人道主義と平和主義に立つ不偏不党の知識人有志の集まりとして結成され、国際間の紛争は武力で解決してはならない、を原則に日本国憲法擁護、核兵器禁止、世界平和実現などを目指して内外に向けアピールを発表してきた。今回のアピールは134回目。
 現在の委員は、武者小路公秀(国際政治学者)、大石芳野(写真家)、小沼通二(物理学、慶應義塾大学名誉教授)、池内了(宇宙論・宇宙物理学、総合研究大学院大学名誉教授)、池辺晋一郎(作曲家)、髙村薫(作家)、島薗進(宗教学、上智大学教授)の7氏。

アピールの全文は次の通り。

   不誠実な外交・内政との決別を―参議院選挙を前にして―
        世界平和アピール七人委員会
   武者小路公秀 大石芳野 小沼通二 池内了 池辺晋一郎 髙村薫 島薗進

 6月下旬、アメリカの複数のメディアはドナルド・トランプ大統領が、日米安全保障条約を不平等だとして破棄する可能性について、さまざまな場で再三言及していることを報じ、日米の政府当局者は直ちにこれを否定した。ところが、G20(主要20か国・地域首脳会議)閉会後の記者会見で記者の質問に答えたトランプ大統領本人は、同条約を破棄するつもりはないが、不平等だとあらためて言明したのである。G20に合わせて行われた日米首脳会談で、安倍晋三首相はいったい何を話し合ったのか。日本として誤解を解く努力もせず、真意も問いたださず、国益を踏まえた主張もせずに済ませてよい問題ではない。日本の根幹をゆるがすこの問題について、首相の口から国民に何も語られないのは、どういうことか。
 また安倍首相が米軍基地の実態と沖縄県民の意思をトランプ大統領に伝えた形跡も、一切伝わってこない。米軍駐留経費の受け入れ国負担は、日本が金額でも負担割合でも最大であり、2位以下の他国を大きく引き離している。日米安全保障条約とその第6条に基づく駐留米軍の地位協定は、米国との他の同盟国と比べて、日本にとって著しく不平等になっている。政府は、日本国民が苦しんでいる不平等性の具体的解消に速やかに努めなければならないのに、誤解に基づく対日政策が続くことになる。
 北方領土返還交渉においても同様である。安倍首相は、個人的な「信頼関係」で領土交渉の突破口が開けるかのような幻想を振りまいてきたが、4月23日に閣議決定された外交青書から、国是であった「北方四島は日本に帰属する」の文言が突然説明なく削除された。2016年11月には訪ロした谷内正太郎国家安全保障局長が、ロシア側から返還後に米軍基地を置く可能性を打診されて、可能性があると答えたと報じられた。非武装地帯にできないようでは、返還が実現できないのは明らかである。
 外交軽視・信頼の不在は朝鮮民主主義人民共和国との関係でも見られる。声高に圧力をかけることを主張していた姿勢からいつの間にか転換し、拉致問題を国際社会に訴えるために2008年からヨーロッパ連合(EU)と共同で国連人権理事会に提出してきた対北朝鮮非難決議案からも説明なく降りてしまった。国内外に誠意のある説明を尽くした上であれば方針変更を理解してもらう可能性があるが、それがないのだから迷走でしかない。
 力の強いものに従属することで庇護を得ようとする外交姿勢は、日本の立場を弱めるものである。
 国内に目を向ければ、首相は通常国会での予算委員会開催に消極的であったし、年金問題など国民が関心をもつ諸問題を誠実に国民に説明する姿勢を見せなかった。首相が官邸で官庁幹部と面談する際、記録を何ら作成していないことも明らかになった。自らは強者として力を行使しつつ、そのことに責任を負わないというのでは、民主主義国家の政治家として失格であり、人間としての道義に反する。
 このような政治は国の未来を危うくする。集団自衛権は放棄し、専守防衛に徹してそれを超える装備を持つことなく、すべての国との自主的な友好関係を積み上げる外交・内政を目指していくことこそが、日本の安全を高めるものである。
 来る参議院選挙において、安心して住める安全な日本を創るために、有権者一人一人が熟慮して投票されることを期待する。

2019.06.26  政治の不快さになじめない~主権者であることの「しんどさ」
    韓国通信NO605

小原 紘(個人新聞「韓国通信」発行人)

 6月16日、香港では「逃亡犯条例」に反対する200万人の市民がデモに参加した。人口の四分の一が参加した前代未聞のデモの規模と緊迫したニュース映像にまず驚いた。香港政府の背後に中国政府の存在、巨象に立ち向かう民衆の姿から悲壮感すら感じられた。香港市民の蜂起にたまりかねた香港政府は、「取りあえず」、条例改正を断念した。民衆が時代を動かした。

<火を噴く民衆のパワー>
 香港のデモから3年前の韓国の「ローソクデモ」、現在進行中のフランスの「黄色いジャケット」運動を思いだす。それらは権力者の「不正」「不公平」に抗した不屈の市民の意志から生まれた非暴力の運動が特徴的だ。天安門事件から30年。香港の若者たちは市民的「自由」を求め闘った。

<日本はどうなってるの~>
 福島の原発事故で、政治に「目ざめた」という人が多い。選挙の時だけ「主権者」では、もはや民主主義は守れないと自覚した人たちだ。原発事故以降、「戦争法」に反対する運動、治安維持法の再現というべき「共謀罪」、憲法改悪に反対する運動に引き継がれてきた。
 しかし運動の壁は厚く、選挙に行かない半数近い人たちが前に立ちはだかる。政治家は嘲笑(あざけり)の的となり、政治はシニシズム(冷笑主義)に晒されている。政治を「何とかしたい」「主権者は国民だ」と主張しても人々の心に届かない。批判力を失った新聞・テレビがそれに輪をかける。権力に対する過剰なまでの「忖度」と意図的な世論の誘導。
 世界でもっとも危険な政治家トランプ大統領を、国を挙げて歓迎した日本。それを演出した安倍首相とそれに乗ったマスコミ。イギリスでは数万人の市民がトランプ訪問に非を鳴らした。野党労働党もガーディアン紙も訪英に反対して民主主義の健在ぶりを見せつけた。
 世界各地で起きている民衆のパワーから学ぶなら、安倍政権はいくつあっても足りないほどの悪政ぶりだが、日本は韓国、香港、台湾、フランスと「何かが違う」。
 沈没する前に、日本という国について徹底した議論が必要なようだ。民族性、日本文化、近現代史の検証から始まり、「総白痴」に近いマスコミ。個人と国を立て直すことが切実に求められている。

<八年間を振り返って>
 モヤモヤした気分を解き放す「爽やかな風」にも似たエッセーと出会った。直木賞作家中島京子(55)さんの雑誌『論座』に掲載された一文「『初めてデモに行ってきた』から8年」である。
 彼女が2011年、反原発のデモに参加してから今日までの思いを綴ったもので、読者は同じ悩みを共にしながら「主権者であることのしんどさ」に共感し、希望を見出すはずだ。最近、彼女の原作映画『長いお別れ』(中村量太監督)を見たばかり。認知症になった父親をめぐる家族三人の物語。これもお薦めしたい。エッセー同様に作家の謙虚さとやさしさが伝わる。静かな説得力を彼女から学んだ。
小原写真201906


2019.06.12  参院選で安倍政権に「民誅(みんちゅう)」を
          韓国通信NO603

小原 紘(個人新聞「韓国通信」発行人)

 天誅(てんちゅう)とは天罰、または天に代わって罰を与えること<『大辞典』>。今回は選挙の話題なので、天や神頼みでなく、民の力で罰を与える「民誅」というマイ新造語をあえて使った。
 憲法を守る義務のある議員たちが、なりふりかまわず現憲法を「嫌い」と言いだしている。今に始まったことではないが。首相として言うのはさすがに「マズイ」と思ったのか、最近は自民党総裁の肩書で改憲を主張している。何と姑息な憲法99条(公務員の憲法尊重の義務)逃れだろうか。

<安倍政権は憲法違反の限りを尽くしてきた>
 集団的自衛権について従来の違憲解釈を変え(2014/07)、翌年9月に強行採決した安保法制(戦争法)で自衛隊が海外で戦争をする道を開いた。明らかな憲法9条違反である。「共謀罪」(2017年強行採決)も、森友・加計事件、政府統計のウソも、すべて「政権のための政治」から生まれた。国民主権は侵害された。
 憲法を守る気のない人たちが憲法を変えると言いだしたのを、子どもたちには、「交通違反をして交通規則がおかしいと言うようなもの」と説明してあげる。大人には、法治国家ではなく、人治国家、フランスのルイ14世の「朕は国家なり」を譬(たと)えて説明する。こんな無法国家はどこにあるのか。韓国の朴槿恵前大統領は「国政の私物化」が憲法違反に問われ、獄中にいる。
 今回の参院選挙では、驕り、腐敗した政権に天誅、いや私たちの力で「民誅」を下して、まともな政治を取り戻したい。改憲勢力が3分の2の議席を確保すれば、必然的に改憲発議が行われ、国民投票が実施されるはずだが、緊迫感が感じられないのが不思議だ。

<争点隠しは許さない>
 憲法を変えたいにもかかわらず、争点にしたくない与党の思惑が見える。
 各種世論調査では改憲反対が6割から7割にのぼり、賛成は3割未満だ。改憲だけを争点にすれば改憲勢力の敗北は必至だ。それでいて選挙に勝てば、改憲が支持されたというのでは詐欺みたいなものではないか。
 1人区で野党候補の一本化が進んでいる。野党協力を自民党は「談合」と揶揄するが、公明と連立を組む党にそれを言う資格はない。政治の現状に不満を抱く人たちは野党の結束に希望を託す。これからの運動次第だが、独裁政権の暴走に対する勝機が生まれつつある。野党は臆することなく憲法改悪反対を掲げ、堂々と憲法違反の自公政権と戦ってほしい。
 自民党の「9条への自衛隊明記」と、「緊急事態条項」の挿入は、憲法の全面改定につながる一里塚だ。明治憲法を彷彿とさせる時代錯誤の改憲がこの後に控えている。
 今回の選挙で憲法をめぐる国民的議論の盛り上がりに期待したい。
 憲法論議が低調なのは、議論をすれば改憲に近づくという改憲反対派、理解が進むと改憲反対意見が増えるのを恐れる与党の思惑があるからだ。正面切って議論をしよう。本質的な議論を避けて雰囲気で結論を出すのは最悪だ。
 改憲反対の運動や声がマスコミに取り上げられないせいか、聞こえてくるのは改憲をめぐる政府の動向ばかり。それも聞きようでは、改憲を前提とした話ばかりだ。
 自称愛国者の安倍首相と右翼グループ「国民会議」周辺から流される情緒的で感情的な改憲論が世間を覆っているように見えるが、彼らは議論を拒み一方的に主張するだけ。まるで右翼の街宣車のスピーカーみたいなもの。相手の主張に耳を貸す冷静な議論、話し合いがますます大切になってきた。

<流布される「常識」は、意外と手ごわい>
 首相の「9条を残して新たに9条の2に自衛隊を書きこむ」という主張。「平和憲法は何ら変わらない」という。「自衛隊員が憲法違反では気の毒」という主張は、平和憲法を意識して人情論をからませたウケ狙いの側面がある。しかし、狙いは自衛隊を米軍とともに世界中で戦争に参加させること。やはり徹底した議論が必要だ。
 巷(ちまた)でよく耳にするこんな話はどうだろうか。
 「憲法は占領軍によって強制された」という押し付け憲法論。「憲法は時代によって変えるべきだ」「日本国憲法は一度も変えたことがない」。「中国や北朝鮮から国を守るためには軍隊が必要」。最近の元号、天皇ブームに便乗して、「天皇の元首化」の主張もある。
 「常識」は常識であり続ける限り、力を持つ。テレビや新聞、その他の紙媒体で大量に宣伝されればインフルエンザのように猛威を発揮するかも知れない。それを克服するために私たちは「知の力」を発揮するしかない。
 さらにテロや戦争、大災害に備えるという「緊急事態条項」の導入が企てられている。緊急時に国会の機能を停止させ、政府が一切の権力を掌握する。「非常事態」を想定して「憲法の停止」を狙う意図だ。「私は国家」(2019/02/28衆院予算委員会)発言からもわかるように、安倍首相の国家観は「全権委任法」で全権力を手中に収めたヒットラーを連想させる。「全権委任法」で民主主義は破壊された。労働組合は解散させられ、ドイツ共産党は非合法化され、ヨーロッパ中が戦火に巻き込まれた。

<心配の種だが~ガンバレ NHK>
 NHKと政治の関係といえば、当時副官房長官だった安倍晋三氏の介入による番組改変事件(2001年)が思いだされる。NHKは安倍首相に頭が上がらなくなった。事件後もNHK会長に就任した籾井会長の発言「政府が『右』と言っているのに我々が『左』と言うわけにはいかない」に象徴されるように自民党政権と安倍首相寄りの報道が続く。その忖度ぶりは「微に入り、細をうがつ」もので、NHKは政府の広報機関になったという指摘も多い。放送受信料で成り立つ公共放送として考えられないことだ。韓国では李明博・朴槿恵政権の侍女だったKBS、MBC放送が「公正」「中立」を取り戻した。戦後最大の曲がり角にさしかかっているこの時期、NHKに対する期待は大きい。視聴者は報道の公正、中立に期待している。
 韓国では大統領選挙時に全候補者による公開討論が定着している。数回にわたるテレビの長時間番組だが、白熱した討論に対する国民の関心は高い。討論会が終わると即日、世論調査の結果が発表される。過去には恥をかくのを恐れて出演したくない人もいたという話も面白い。
 「食べたり」「旅したり」「大笑いバカ騒ぎ」の番組を自粛して大政治討論会の開催は無理だろうか。各政党の主張をめぐる討論会は、国民に政治を考え、参加を促す場になる。
 日韓関係は「戦後最悪」と心配するより、韓国のテレビ局と国民を見習ったらどうか。