2023.09.27 日本共産党の統治システム〝民主集中制〟が機能不全に陥りつつある。志位委員長はこの危機を打開できるか。

広原盛明 (都市計画・まちづくり研究者)

 日本共産党創立101周年記念講演会が2023年9月15日に開かれ、志位委員長が「歴史に深く学び、つよく大きな党を――『日本共産党の百年』を語る」と題して講演した(赤旗9月16日)。昨年9月17日、志位委員長は「日本共産党100年の歴史と綱領を語る」とのテーマで100周年記念講演を行ったばかりだ。それを今年も再び行うというのは、いったいどういう意図なのだろう。これからも「102周年記念講演」「103周年記念講演」と連続開催して、毎年同じことを言い続けるのだろうか。

 その後の赤旗の「党活動面」をみると、「101年の歴史に誇りと確信、全支部が視聴し『大運動』飛躍を」(9月19日)、「記念講演の大学習運動にとりくみ、この9月、すべての支部が入党働きかけと読者拡大を」(9月21日)、「9月目標達成の合言葉、すべての支部が記念講演を視聴・読了し、すべての支部が入党の働きかけに踏み出そう、すべての支部が『赤旗』読者を増やそう」(9月22日)とあるように、党勢拡大運動の掛け声がこれまでと大きく変化していることに気付く。

 これまでの党勢拡大目標は、第28回党大会(2020年1月)で決定した「党創立100周年(2022年7月15日)までに第28回党大会時比130%の党をつくる(党員35万人、機関紙読者130万人)」という数値目標だった。ところが、党勢拡大運動が思うように進まず(逆に後退している)、2023年1月に予定されていた第29回党大会を2024年1月に1年間延期せざるを得なくなった。また『日本共産党の百年』の党史編纂も遅れ、発表されたのは党創立100周年から1年後の2023年7月だった。

 赤旗はこの間、「130%の党づくり」を掲げて党組織や党員を叱咤激励してきたが、第29回党大会を4カ月後に迎えた現在、もはやそれが誰の目にも〝達成不可能〟であることが明らかになった。その代わり持ち出してきたのが「歴史に深く学び、つよく大きな党をつくる」という101周年記念講演の大学習運動なのだろう。赤旗には各地視聴会場の感想として、「記念講演やる気でた」「不屈の成長・発展に確信」「苦闘と開拓の歴史に誇り」「次の時代を開くと決意」(9月19日)などなど、〝革命政党〟としての共産党に対する共感と賛辞が集められている。なかには、「党勢拡大必ず」との見出しの次のような言葉もある。
――逆流の中、日本共産党がそれらに抗してきた歴史に学び、党勢拡大を必ず成し遂げようとの思いを強くしました。本当に試練続きの歴史だったが、悲観することなくむしろ誇るべきことであると思います。日々党勢拡大に悩んでいますが、それが党の長年の歴史から見て当たり前で、苦労をはねのける気概を持って、日々頑張りたいと思いました(大分県)。

 記念講演大学習運動のシナリオは、「130%の党づくり」を数値目標とする党勢拡大運動の未達成は、党中央の(過大な)拡大運動方針の誤りの所為ではなく、支配勢力の反共攻撃によるもの――との見方を広げることに重点が置かれている。共産党が〝革命政党〟であるがゆえに党勢拡大運動は支配勢力から総反撃を受ける、そう簡単には達成できない、だから今までにも増して頑張ろうという――というストーリーである。これなら、いくら拡大運動が失敗しても党中央の責任が問われることはないし、党員や党組織が頑張ればいつかは困難な事態は克服できるということになる。これが〝たたかいの弁証法〟だといいたいのだろう。

 だが、私が注目したのは「――とりくみへの反省にたって、全党のみなさんに訴えます」という9月20日の「大運動」推進本部の声明だった。ここには、党勢拡大運動推進本部の必死の呼びかけにもかかわらず、その指示に従わない党機関や党組織が県機関も含めて多数に亘っていること、すなわち共産党の行動原理であり、かつ統治システムの根幹である〝民主集中制〟が形骸化し、次第に機能不全に陥りつつあることが図らずも露呈しているからである(赤旗9月21日)。
 ――党創立101周年記念講演会での志位和夫委員長の記念講演が、党員の誇りと確信を呼び起こし、また党外の方々にも党への理解と信頼を広げる力を発揮し始めています。同時に「大運動」のとりくみの現状は、〝勝負の月〟にふさわしい飛躍がつくれておらず、9月の残る10日余り、記念講演の大学習運動にとりくみ、党勢拡大と世代的継承の一大飛躍をいかにしてつくるかが問われています。
 ――3連休までの党勢拡大の結果は、党員拡大、赤旗読者拡大とも、個々の党員、党組織の奮闘はあったものの、全国的には掲げていた各県・地区の節目標には程遠い到達にとどまりました。3連休までに変化をつくったところは、目標をやりぬく構えを確立し、その達成への段取りと手立て、その実践が真剣にとりくまれています。(略)しかし、こうした党組織は一部にとどまり、3連休はほとんど党勢拡大の結節点にならなかった党組織も少なくありません。党勢拡大、とりわけ党員拡大は、前進のための具体的な手だてがとられなければ絶対に前進しません。にもかかわらず、少なくない県機関では、3連休作戦などで拡大の目標を決めるものの、それに責任を負わない、具体化の手だてもとっていないという状況がありました。こうした県機関が多数だったことは...(以下、略)。

 事態は「深刻」の一字に尽きる。これまで党中央からの指示や訴えは数知れず繰り返されてきたが、そのほとんどは個々の党員の気概を喚起し、奮闘を促すものだった。それが今回は、党組織それも県機関までが(表面上は従うものの)実質的にはサボタージュ状態にあることを指摘せざるを得なくなったのである。その責任は推進本部にあるとしているが、問題の根は深く、推進本部の指示のやり方を変える程度のことでは片付かないことは誰もが知っている。党創立100周年の記念講演が華々しく開かれた2022年以降の党勢拡大の推移をみても、党勢は後退一途で回復の兆しはいっこうに見えてこない。おそらく〝勝負の月〟の今年9月以降においても、党勢は依然として後退を続けるとしか考えられない。

 党首公選制を党外で主張したとして京都の党員2人が除名されて大問題になったが、党中央の指令が県機関においても(実質的に)サボタージュされるような〝民主集中制〟の形骸化が進んでいることに比べると「チョロコイ」ものだとみんなが思うだろう。それが完膚なきまでに明らかになるのが第29回党大会(2024年1月)であることを考えれば、「2024年問題」は単なる人出不足問題だけではなく、共産党の統治システムの根幹が問われる年になることは間違いない。(つづく)

2023.09.08 志位委員長は古臭い「革命政党」のシンボル、退場しないと共産党はこのまま消えていく
 
広原盛明 (都市計画・まちづくり研究者)

 志位書記局長が委員長に就任した第22回党大会(2000年11月)は、2005年までに「五十万の党」を実現するため5カ年計画が立てられたが、党員数は40万人余にとどまり目標を達成できなかった。しかし、それ以上に深刻なのは、党員の年齢構成が急速に高齢化しつつあることだった。これまで党員の年齢構成が公表されたのは五十年史だけで、(筆者の知る限り)その後は一切公表されていない。民青の実質的崩壊で若者世代の入党が激減した結果、党員の高齢化が急速に進み、それが党組織の最大の弱点になっているからであろう。

 党組織の高齢化は活動力を低下させるばかりか、死亡者が増えることで党勢拡大の勢いを弱める。多少の入党者があったとしても、それを上回る死亡者が発生すれば、党勢は差引マイナスになって前進しない。これに未公表の離党者が加われば、「党勢=入党者-死亡者-離党者」となってさらに後退側にシフトする。赤旗では毎月の入党者数を公表しているが、死亡者数は党大会でしか公表していない。まして離党者数は完全に伏せられているので、正確な党勢はリアルタイムで把握できないのである。

 そもそも党勢拡大方針や拡大計画は、正確な現状把握に基づかなければ策定できないはずだ。それも党員数だけでなく年齢構成も明らかにしなければ、どの年齢層を重点的に拡大対象とするかも決められない。ところが、共産党は指導部だけが正確な情報を握っていて、下部組織には知らされない。それでいて「130%拡大!」といった大号令が連日出されるのだから、その目標がどれほどのリアリティ(実現可能性)があるかもわからないまま、下部組織は一方的に拡大行動に駆り立てられることになるのである。

 こんな偏った情報では党勢分析もままならないが、とりあえずは入手できる情報をもとに最近の動向を分析してみたい。まずは死亡者数である。2000年代に入って党大会ごとに死亡者数が「開会のあいさつ」で公表されるようになった。それによると、第22回党大会(2000年11月)から第25回党大会(2010年1月)までの9年2カ月間の死亡者数は3万3532人、第25回党大会から第28回党大会(2020年1月)までの10年間は4万5539人である。ここから年平均死亡者数を割り出すと、2000年代は3657人、2010年代は4554人となって、確実に増加していることがわかる。党員の減少にもかかわらず死亡者数が増えているのは、高齢者比率の上昇によるものであろうが、2020年代の年平均死亡者数が5000人を超えることはまず間違いないだろう。

 死亡者数に関する情報には、赤旗に毎日掲載される党員訃報欄がある。訃報欄には死亡者氏名、死亡年齢、入党年、在住地などが記されているが、故人や遺族が掲載を望まない場合は掲載されないので、その数は実態よりかなり少ない。第28回党大会で公表された3年間(2017年1月~2019年12月)の死亡者数は1万3828人、うち赤旗掲載の死亡者数は5257人(筆者算出)で掲載率38%である。これをもとに2020年1月から8月までの3年8ヶ月間の死亡者数を推計すると、赤旗掲載数は6770人、年平均1845人なので、死亡者数は2万4846人、年平均4855人となる。

 第28回党大会(2020年1月、党員27万人余、機関紙読者100万人)以降の党勢の推移をみよう。これまで公表されている主だった情報は、2022年1月から2022年7月までの2年7ヶ月間は「入党9300人、党員現勢1万4千人余後退、日刊紙読者1万2千人・日曜版読者5万2千人余後退、電子版2千人余前進」(志位委員長幹部会報告、赤旗2022年8月2日)、2022年8月から12月までの5ケ月間は「入党2064人、30~50代の入党者比率34.2%、党勢現勢は1万7千の党支部、約26万の党員、約90万の赤旗読者(増減数不詳)、2500人の地方議員。約26万人の党員の約3分の1、約9万人は1960年代、70年代に入党」(志位委員長幹部会報告、赤旗2023年1月6日)というものである。

 つまり、2020年1月~2022年12月の3年間の入党は1万1364人(9300人+2064人)だったが、2023年1月現在の党勢は26万人なので、計算式は「27万人余+1万1364人-死亡者(年平均4855人×3年=1万4565人)-離党者=26万人」ということになり、離党者はおよそ6800人(年平均2270人)に上ると推計される。機関紙読者は、2023年1月現在90万人なので、2020年1月の100万人から3年間で10万人後退したことになる。

 次に、2023年1月以降の党勢の推移は以下の通りである。
1月、入党391人、日刊紙339人減、日曜版208人減、電子版86人増(赤旗2月4日)
2月、入党470人、日刊紙203人増、日曜版2369人増、電子版2人減(3月4日)
3月、入党342人、日刊紙1197人減、日曜版8206人減、電子版26人増(4月4日)
4月、入党146人、日刊紙4548人減、日曜版2万3104人減、電子版8人減(5月3日)
5月、入党230人、日刊紙945人減、日曜版7048人減、電子版11人増(6月3日)
6月、入党234人、日刊紙628人減、日曜版3930人減、電子版60人増(7月4日)
7月、入党641人、日刊紙60人増(含む電子版)、日曜版247人増(8月3日)
8月、入党621人、日刊紙247人減、日曜版488人減、電子版18人増(9月3日)
合計、入党3075人、日刊紙(含む電子版)7450人減、日曜版4万368人減

 この結果、2023年9月現在の党員は、27万人余+1万1364人+3075人-死亡者(年平均4855人×3年8カ月=1万7818人)-離党者(年平均2270人×3年8カ月=8330人)=25万8千人余、機関紙読者は100万人-7450人-4万368人=95万2千人となる。そしてこのまま後退傾向が続くと、第29回党大会(2024年1月)の党勢は、党員25万5千人(前党大会比5%減)、機関紙読者92万人(同9%減)となって、拡大目標130%(党員35万人、機関紙読者130万人)を大きく下回ることになる。これまでも党大会近くなると、「特別拡大月間」を設けて目標達成のための全党運動が行われてきたが、今回も中央委員会常任幹部会は「9月こそ『大運動』を全党運動に発展させる月に」(赤旗2023年9月3日)と呼びかけている。だが、党内にはもはやそれだけの余力が残っているとは思えない。

 一方、赤旗の紙面は「130%の党づくり」を掲げた旧態依然とした主張を連日繰り返しているだけで、何の変化も見られない。そこには高齢化して疲弊した党組織の実態を顧みることもなければ、死亡者数と離党者数が入党者数を大幅に上回っている党組織の危機的状況を直視することもない。また、離党者の最大の原因となっている党勢拡大一本やりの方針を反省することもなければ、過大な拡大計画が(完全に)破綻してもその原因を具体的に究明しようとすることもしない。全てを党員の「やる気」の問題にすり替え、叱咤激励して拡大行動に駆り立てることしか考えていないのである。要するに、党勢後退の原因をすべて「支配勢力の反共攻撃」に還元し、「政治対決の弁証法」といった大仰な表現で「革命政党」の意義を説き、党員を鼓舞して拡大行動に駆り立てるという古臭いやり方を踏襲しているだけのことである。

 赤旗には、前回紹介した福岡西部地区の若い女性地区委員長の「鬼気迫る提起」(8月3日)に引き続いて、今度は「胸にすとんと落ちた8中総」「一にも二にも拡大だ」という見出しで、鳥取県岩見支部の高齢の女性支部長(75歳)の奮闘ぶりが紹介されている(8月31日)。
 ――8中総で志位委員長がマルクスの言葉を紹介していました。革命は反革命を生み出し、それとたたかって党を強く大きくすると。現実に感じていることです。支部会議でも遠慮しないで自分の気持ち、心に感じたことを話しました。日本の政治を変えるためには、革命勢力の党が大きくなることが肝心。そのためには拡大、拡大が必要だと思う。

 この老支部長の話は感動的だが、今の若者世代に果たしてこの話が通じるかどうかというと、なかなか「胸にすとんと落ちる」ようなことにはならないだろう。たとえ社会に役立ちたいと思っても、組織に縛られることは嫌で、自己主張を大切にして自発的に行動することを信条としている若者世代にとっては、「革命勢力の共産党が大きくなることが肝心」と訴えても、そう簡単には心に届かないと思われるからである。戦後世代ならともかく(岩見支部は多分その集まりなのだろう)、今の若者世代に対して「時代離れ」の話をしても始まらないし、また受け付けてももらえない。赤旗記者の取材センスがこんな〝一昔前〟のレベルでは、共産党の未来が開けないことは確実だ。

 志位委員長は、9月15日の党創立101周年講演会で「百年史」の真髄を語るのだという。志位氏はおそらく〝政治対決の弁証法〟と称して「いま支配勢力によって行われている党の組織のあり方――民主集中制、党指導部のあり方に対する批判・非難は、まごうことなき反共攻撃だ」「わが党がかくも攻撃されるのは、日本共産党が革命政党であるからだ」「現在の反共攻撃の特徴は党の心臓部(綱領と規約、指導部)への攻撃であり、攻撃に対する反撃は党勢拡大しかない」など、これまでの主張を繰り返すのだろう。

 だが、志位委員長は自らがもはや「一昔前の存在」になっていることに気付くべきだ。共産党の存在意義を「革命政党」であることでしか話せないようなリーダーは、今の時代に合わない。時代は新しい政治リーダーを求めている。共産党もその例外ではない。保守政党も含めて共産党が一番「保守的」だと思われているのは、決して「悪い冗談」ではない。志位委員長は自らがその「シンボル」になっていることを自覚して、然るべき決断をしてほしい。(つづく)

2023.09.07 歪曲された歴史――『日本共産党の百年』の感想
ーー八ヶ岳山麓から(440)ーー
               
阿部治平 (もと高校教師)

 このたび日本共産党出版局から出版された 『日本共産党の百年』(以下『百年史』)をようやく入手することができた。専制主義的天皇制のもと、天皇制の打倒と労働者階級の解放とプロレタリア独裁をめざして出発した政党が、百年を経て今日なお存在するという事実には感服のほかない。
 すでに共産党百年史は、いろいろな人が書いているが、わたしには、1950年代後半以後の断片的な事実について感想を述べる力しかない。

政治路線
 宮本顕治は、1950年に分裂した党の結集を図り、61年綱領を起草した。綱領の「わが国は、高度な資本主義国でありながら、アメリカになかば占領された事実上の従属国となっている」という規定は長命を保った。この綱領は、「日本人民の敵は、日本独占資本とアメリカ帝国主義の二つである」とするとともに、次なる革命は社会主義ではなく、「人民的議会主義」による「民族民主革命」とした。
 共産党は、60年代にソ連と中国二つの共産党の権威をしりぞけ、独立路線を歩んだ。毛沢東の文化大革命に際して言論人・マスメディアの多くが追随するなか、毅然として批判をしたのは、日本共産党と産経新聞だけだった。
 東欧革命とソ連の崩壊に直面してヨーロッパ各国のマルクス主義政党は、あるいは社会民主主義に衣替えし、あるいは衰退し、あるいは消滅したが、日本共産党は衰えたとはいえ、今日なお命脈を保っている。

  2004年不破哲三は、宮本路線を継承しながらも綱領を大幅に改定した。現行天皇制を肯定し憲法の全条文を擁護するとしたほか、「帝国主義」については、「その国の政策と行動に侵略性が現れること」を指標とし、「アメリカの将来を固定的に見ない」としている。伝統的なアメリカ敵視を改めようとした底意がわかる。
 またマルクス・エンゲルスの社会主義と共産主義の二つの段階区分をなくし、社会主義変革をただ「生産手段の社会化」とだけ定義した。これをもってマルクスを根源的にとらえなおしたとか、マルクス主義の創造とみることは、わたしにはできない。
 今日の共産党を見ると、コミンテルンの日本支部として出発した政党ではあるが、その遺産として相続しているものは、党名と党規約の民主的中央集権主義(民主集中制)だけである。

新左翼問題
 『百年史』には、新左翼について「党は、また、ニセ『左翼』集団にたいして、彼らが『共産主義』を偽装する暴力集団であり、挑発攪乱者であることを示し」これと戦ったとしか記していない。だが、一時学生運動を席巻した新左翼は、1950年代スターリン批判を契機として学生党員のなかから反共産党集団として生まれたものである。
 彼らは四分五裂しながらも、60年代から10年余は命脈を保ち、大学における学問研究を破壊し、殺し合い、労働運動にも一定の影響を与えた。共産党ほど彼らと対立抗争した政党はほかにない。これが生まれ、成長し、消滅した「わけ」をなぜ書かなかったのか。

新日和見主義事件
 1972年、反党分派を形成したとして、民青(日本民主青年同盟)を中心に通信社や出版社の社員をふくむ600人余りが党中央によって長時間の過酷な取調べ(査問)を受け、そのうち100人以上が除名された。
 この事件を共産党は「新日和見主義」としたが、関係者によると、分派活動は数人が企図しただけで、それも政策や組織ができあがる以前の「星雲状態」にあった。分派参加を疑われて処分されたもののほとんどは冤罪だったという。党中央とともに分派摘発の先頭に立った県委員長の何人かは、その後公安警察のスパイだったことがあきらかになった。
 事件当時、民青は同盟員20万余を数えたが、この事件によって優秀な活動家が民青から去ったために衰退し今日の沈滞につながった。『百年史』は、この事件を一行も書いていない。

平和運動への介入
 原水禁運動は、ソ連の核実験をめぐって63年に共産党系の原水爆禁止日本協議会(原水協)と、旧社会党・総評系の原水爆禁止日本国民会議(原水禁)に分裂したが、77年からは世界大会は毎年夏に統一開催されていた。
 吉田嘉清は原水協代表理事として、原水禁と市民団体の統一行動を推進してきたが、1984年これに反対する共産党系理事から辞任要求が出された。
 吉田は「大衆団体と反核運動への共産党の不当介入」などと反論したが、これによって彼は党の方針に従わないとして除名、吉田を擁護した哲学者古在由重は除籍となった。吉田の主張を出版した党員2人も除名された。
 『百年史』は、「86年の大会を前に、総評・原水禁は核兵器廃絶を緊急課題とすることなどに反対し、脱落しました」と書いているが、事実を曲げている。結局原水協・原水禁は「再分裂」し、86年以降、別々の原水爆禁止世界大会を催している。

チャウシェスク礼賛
 1971年に党代表団がルーマニアを訪問してから89年の天安門事件まで、日本共産党はルーマニアの党と兄弟党関係にあった。宮本顕治は、ルーマニアがソ連と一線を画し自主独立路線をとっていると称賛し、チャウシェスクと共同声明を発表した。
 当時からチャウシェスクの悪政については、共産党のブカレスト駐在員から情報がもたらされていたが、宮本らはそれを無視したのである。
 1989年11月ベルリンの壁が崩壊して1ヶ月半後の12月25日、独裁者チャウシェスクは銃殺された。『百年史』は、過去友好関係にあった事実を書かず、チャウシェスクの悪事だけを書いている。

ソ連礼賛の過去
 91年9月1日、共産党の常任幹部会は、「大国主義・覇権主義の歴史的巨悪の党の終焉を歓迎する――ソ連共産党の解体にさいして」 という声明を発表して、ソ連崩壊は「もろ手を挙げて歓迎すべき歴史的出来事である」といった。
 だが共産党は、かつてスターリンを天才と持ち上げ、ソ連を天国のように宣伝し、米ソ冷戦のなか、平和、独立、社会進歩のために戦う指導者のようにあつかった。そして、日本人のシベリア抑留の過酷な生活について率直に語る人々を敵視した。
 これは日本中に知られた事実だ。だが、『百年史』はむかしを語らない。
 この声明で「過去、ソ連を持ち上げたのは間違いだった」と一言いえば、共産党はいさぎよいと感じた人もいただろう。ソ連礼賛の「わけ」を語ったら、この声明によって離党した人はもっと少なかっただろう。
 
中国びいき
 不破哲三が主導した2004年綱領には、中国・ベトナム・キューバなどの「現存社会主義」について、「(この3国では)社会主義をめざす新しい探求が開始」され、「人口が13億を超える大きな地域での発展として、21世紀の世界史の重要な流れのひとつになろうとしている」 という文言があった。さらに不破は、中国は新しい社会主義に向かって社会主義的計画経済と市場経済を創造的に結合していると持ち上げた。
 私は当時中国にいたが、そんな状況はどこにもなかった。新自由主義の下、権力とカネのある者は富み、無権無産の民はあくまで貧しかった。
 2020年党大会は綱領から「社会主義をめざす新しい探求が開始された国」という文言を削除した。理由は中国が大国主義・覇権主義の間違いを犯しているからだという。
 上の文言は、『百年史』の2004年綱領について論じたところにはない。20年の綱領改定を記載したところにはじめてあらわれる。
 党大会で綱領改定の報告をした志位和夫は、「2004年に中国をあのように規定したことには根拠があった」とした。だが、根拠なるものを示すことはできなかった。
 この誤った規定は、16年間下部党員を苦しめた。「日本共産党は中国共産党と同じだ」とか、「中国を支持している」という印象を日本社会に与え続けたからである。
 米中国交回復以後、アメリカの対中国外交は、「関与(Engagement)政策」と呼ばれた。対中外交を担った人々は、「中国社会は経済成長によって中間層が肥大する、それは民主主義を登場させる」と期待していた。不破の対中国認識は、彼ら同様「夢」だったのである。そして見事に裏切られたのである。

おわりに
 これは共産党の「自分史」である。だから気兼ねなく勝手に書ける。
 『百年史』の筆者らは、共産党にとって都合の悪い事件や事実をあえて黙殺し、書いたとしても直接ではなく、「批判・克服した時点で書く」という手法を取っている。このために、今後の研究討論に堪えられるか疑われる部分が存在する。そのため、精彩を欠く、のっぺりした印象を受けたのはまことに残念である。(2023・08・28)
2023.09.02 1980年代で頭を打った党勢拡大運動
五十万の党、四百万の読者」は実現しなかった 
             
広原盛明 (都市計画・まちづくり研究者)
              
 1960年代と70年代が〝大衆的前衛党〟の建設が進んだ「躍進の時代」だったとすれば、不破書記局長が〝百万の党〟を標榜した80年代から90年代にかけては、党勢拡大に急ブレーキがかかった時代だった。60~70年代は党勢拡大が計画的に進展したが、80年代に入ると次期党大会に向けて設定した拡大目標が達成できなくなり、「特別拡大月間」を設けて集中的に拡大行動を展開して、漸く辻褄を合わせることが常態化するようになった。党勢のピークは、80年代初頭の党員48万人と赤旗読者355万人である。それ以降は漸減傾向が続き、2000年代初頭には党員38万6千人、赤旗読者199万人余に後退した。1970年代後半に提起された「五十万の党、四百万の読者」の拡大目標は、その後も達成されることのない「永遠の課題」になったのである。

 その背景には、社共両党の分裂に伴う革新自治体の消滅、「社公合意」に基づく社公民連合の成立、反共・労使協調路線に立つ「連合」の結成といった国内情勢の激変に加えて、中国天安門事件における青年・学生運動の武力弾圧、ソ連・東欧における共産独裁政権の崩壊など、社会主義体制の根本を揺るがす世界史的な大事件が発生していた。若者世代はもとより広範な革新無党派層の中にも社会主義体制への激しい幻滅と失望が広がり、それらとは一線を画して「自主独立路線」を標榜している共産党に対しても、社会の激しい逆風が吹き荒れるようになったのである。

 とりわけ、これまで社会主義の理想を信じて政治運動に参加してきた若者世代にとっては、天安門事件の勃発やソ連・東欧の崩壊は〝青天の霹靂〟ともいうべき大事件だった。共産党の党勢拡大の源泉だった民青同盟は、80年代の22万人をピークに90年代には一気に2万人にまで激減し、組織崩壊に近い状態に陥った(小林哲夫著『平成・令和学生たちの社会運動』光文社新書、2021年)。ソ連・東欧の共産独裁政権と日本共産党が二重写しとなって増幅され、爆発的な「民青離れ}が起こったのである。

 この事態に対して共産党はどう対応したのであろうか。党大会では民青同盟の活性化は毎回重要課題として取り上げられるものの、正確な実態をもとづく報告や議論はほとんど見られない。激減している民青同盟の動向を分析することは、激しい反共攻撃の中においても党勢を維持していることを強調する大会決議にそぐわず、「水を差す」ものとして見送られたのであろう。また、八十年史や百年史においても、この時期の民青の動向に関する記述は見当たらない。だが、この事態を放置したことは、その後の党組織の高齢化と衰退を加速させる最大原因となり、党組織の存続に関わる深刻な問題へと発展していくのである。

 この時期はまた、「連合」を中心とした反共労働戦線の統一が進み、企業内労働組合からの共産党攻撃と排除が一段と強まった時期でもあった。「社会党1党支持」の方針を掲げながらも、春闘を通して組織労働者の賃上げを推進してきた総評が、右傾化にともなって80年代末には民社党系の同盟に吸収され、「連合=たたかわないナショナルセンター」に変貌した。それ以降、日本の労働者賃金は30年間にわたって低迷し、スト一つ打てない労組活動が標準仕様となった。もともと日本共産党は、プロレタリアートの前衛党を標榜しつつも基幹的な労働者を掌握できていなかった。総評傘下で影響力を持ったのは、公共セクターや民間の中小単産が中心であり、イタリア共産党がCGIL、フランス共産党がCGTというそれぞれの国の最大のナショナルセンターを支配下に置いたのとは対照的だった(朝日新聞社編『日本共産党』1973年)(中北浩爾著『日本共産党、〈革命〉を夢見た100年』中公新書、2022年)。

 90年代後半に「自社さ連立政権」が崩壊し、国政選挙では社会党支持票が共産党に大きく流れるという「社会党離れ」現象が起こった。百年史はこの時期を「第2の躍進」と称しているが、「党の政治的影響力の急拡大に、党の実力が追い付いていないという問題がありました」とあるように、それは共産党自身の党勢拡大の結果によるものではなく、革新浮動票が一時的に(雨宿り的に)に寄せられたものにすぎなかった。そして大雨が止むと「雨宿り」もいなくなり、党勢拡大は「大きな壁」に直面することになるのである。

 しかし、第16回党大会における不破書記局長の中央委員会報告にもみられるように、国際共産主義運動において早くから「自主独立路線」を貫いてきた日本共産党は、社会主義体制の崩壊に対しても動揺することもなく、従来方針を変えることもなかった。そこでは、党中央(指導部)が「民主集中制」の組織原則によって党内を掌握し、共産党が大衆的イニシアティブを発揮すれば、事態を打開できるとの楽観的見方が支配的だった。政治路線が理論的に正しければ、社会も(いずれは)付いてくるとの「前衛党」意識が濃厚であり、その結果、国内外情勢の歴史的大変動にもかかわらず党勢拡大運動はそのまま継続され、共産党と社会とのギャップはますます大きくなっていったのである。

〇第16回党大会(1982年7月、不破書記局長の中央委員会報告)
 ――私は、ここで20年間の理論活動の総活をおこなうつもりはありませんが、わが党が科学的社会主義の原則にもとづいて展開してきた一連の理論的提起のなかには、今日、国内だけではなく国際的にひろく注目されているものも少なくないことを指摘しておきたいと思います。とくに発達した資本主義国における革命の段階的発展と反帝独立の任務の戦略的意義の問題、人民的議会主義の理論的・歴史的な基礎づけ、社会民主主義政党論および統一戦線論、アメリカ帝国主義の各個撃破政策の解明、中国の「文化大革命」の実態と路線の本質を突いた批判、民族自決権の一貫した擁護、領土問題の原則的解明、社会主義と「三つの自由」の問題、プロレタリアート執権の問題、科学的社会主義の呼称問題、多数者革命論、社会主義の生成期論、党の民主集中制と分派主義批判の問題、真の平和綱領の提起、大国主義・覇権主義への歴史的・理論的批判などは、国際的にも意義をもつ論点であります。

〇第18回党大会(1987年11月、大会決議)
 ――党建設の分野でのわが党の活動は、わが党が国際的舞台、日本の現実政治や大衆運動の面で果たしている役割にくらべてみると、遅れがあることを率直に指摘しなければならない。1977年に開かれた第14回党大会が「五十万以上の党」の建設を提起したが、第17回党大会後もこの課題が達成されず、逆に後退し、機関紙拡大では最高時の350万から少なからず後退し、1973年の第12回党大会が決定した「四百万以上の読者」の達成には、まだかなりの距離を残している。党はこの遅れを取り戻すため。第18回党大会に向けて「党勢拡大(党員、機関紙)全党運動」を設定し、名実ともに五十万を超える党、機関紙読者の最高時突破を目標とする運動を展開した。しかし、「全党運動」の目標とした「名実ともに50万党員」は未達成となった。機関紙拡大では、「月間」および全党運動を通じて47万人以上の読者を増やし、全党的には日刊紙、日曜版とも第17回大会水準を超えて前進しているが、過去最高時の峰を突破するという「全党運動」目標は未達成となった。

〇第20回党大会(1994年7月、不破書記局長の中央委員会報告)
 ――この10ケ月でみて、増紙の累計は46万、減紙の累計が39万であり、その差し引きで7万人の読者増という結果であります。もちろん拡大の絶対数がまだまだ足りないという問題もありますが、同時にこの結果は、購読継続、減紙防止の活動がいかに大切かを教えています。減紙数をたとえ2~3割減らしただけでも、7万人という読者数が2倍、3倍となる可能性があるわけであります。

 ――1990年11月の第2回中央委員会総会で、実態のない党員の問題の正しい解決に勇気をもってあたるという問題を提起しました。その結果、現在の党員は約36万人となっています。実態のない党員の問題が基本的にはかられたことは、前衛党らしい党の質的水準をたかめるうえで重要な前進でありました。同時に、ソ連・東欧の崩壊などの急激な情勢の変化を科学的につかみきれずに、落後していったものが一部に生まれました。こうした現状をふまえて、いまこそ党員拡大を本格的前進の軌道にのせていく必要があります。

〇第21回党大会(1997年9月、大会決議)
 ――第20回党大会以来の3年余りのたたかいは、日本共産党の新しい躍進の時代を切り開くものとなった。国政選挙では、1995年の参議院選挙で改選5議席から8議席に躍進したのにつづいて、1996年の総選挙で15議席から26議席への躍進をかちとった。総選挙で獲得した726万票、13.08%の得票率は、わが党が1970年代に到達した峰をはるかに超える史上最高の峰への歴史的躍進である。1995年に行われた地方選挙で、東京都議会選挙では13議席から26議席へと議席を倍増させ、自民党につぐ都議会第2党の地歩を占めたことは、都政の未来にとってのみならず国政にも衝撃的影響をあたえる素晴らしい成果であった。この新しい躍進の流れは、一時的なものでも偶然のものでもない。国政でも地方政治でも日本共産党以外のすべての党が自民党政治に吸収され、〝総自民党化〟政治ともいうべき政界の構造がつくられていることに根ざした変化である。無党派層の増大は、〝総自民党化〟した政治に対する国民の幻滅と拒否を反映したものである。これらの人びとの向いている方向は、さまざまな模索をともないながらも、全体として日本共産党と立場を共有しうるものである。

 ――昨年12月の第6回中央委員会総会では、「少なくとも総選挙の得票の1割の党員を、得票の半分の読者を」という目標をもって全党的に取り組むこと、党機関の「総合計画」や支部の「政策と計画」のなかにも、この大きな展望にたって党勢拡大を位置付けることを決定した。第21回党大会から遅くとも3年以内に次の総選挙が行われる。また、2年から3年以内に第22回党大会を開催することになる。3年以内というのは、今世紀中ということでもある。「得票の1割の党員、半数の読者」という目標を遅くとも今世紀中に達成し、現在37万人の2倍の党員、230万余の1.5倍の読者をもって来世紀をむかえることを全党によびかける。

〇第22回党大会(2000年11月、大会決議)
 ――政治的影響力の広がりに対して、党の組織の実力がいかに遅れているかは、90年代の10年間――90年から現在までの党勢の推移をみると歴然とする。党勢の根幹である党員数は、90年に48万人だったのが、94年の第22回党大会時には36万人にまで後退した。その後、持続的拡大の努力がはかられ、後退傾向を脱して前進がはじまっているが、現在の党員数は38万6517人である。赤旗読者数は、90年に286万人だったのが、現在199万人余になっている。日刊紙読者は、54万人から35万人余である。

 ――90年代の10年間は、日本共産党が政治的影響力を全体として前進させた10年間だったが、組織の実力はそれに追いつかず、立ち遅れと逆行の傾向が克服できていない。わが党は、国政選挙で700万人から800万人という人びとの支持を得ているが、日常の活動によって組織的に結びついている人々はその一部分である。その矛盾は、総選挙での後退にも大きくあらわれた。

 ――こうした党勢後退の原因には、客観的条件と主体的とりくみの両面がある。客観的条件では、戦後第2の反動攻勢、東欧・ソ連の崩壊という世界的激動のもとでの逆風がある。この逆風は党建設に重大な困難をもたらしたが、そのもとでも基本的にわが党がその陣営をもちこたえたことの意義は極めて大きい。主体的とりくみでは、党員拡大の自覚的追求の軽視という弱点があった。その弱さを生んだ一つの要因には、方針上の不正確さもあった。わが党が、草の根で国民と結びつく党組織をもっていることは、他党にない大きな財産である。しかし、民主的政権を展望したときに、党建設の立ち遅れがわが党の活動の中の最大の弱点となっていることは明らかである。その克服のために、全党が知恵と力をつくそうではないか。

 ――党建設・党勢拡大の根幹は党員拡大である。一時期の党の方針の中で「党員拡大と機関紙拡大が党勢拡大の二つの根幹」とされていたことがあったが、これは正確ではなかった。機関紙活動――読者の拡大、日々の配達・集金、読者との結びつきなどを担っている根本の力もまた党員であって、この力を大きくする努力が足りなければ、機関紙活動の発展もあり得ない。80年代半ばから約10年間にわたって、党員拡大の自覚的な取り組みは全党的に弱まった。とりわけ、21世紀の担い手である青年・学生のなかでの党建設に遅れと空白が作られていることは重大である。第22回党大会として、2005年までに過去最高の峰を超える五十万の党を建設することを目標にする「党員拡大五カ年計画」をたて、計画的・系統的にこれを達成する取り組みを行うことを全党に呼びかけるものである。(つづく)


2023.08.30 共産党は安全保障政策を変えたのか
        ――八ヶ岳山麓から(439)――
                      
阿部治平 (元高校教員)

 今年2月、突如、日本共産党が新聞社説やSNSなどに登場した。共産党は衰弱の一途をたどり、この数年メディアに取り上げられることも少なくなっていたから、かなり驚いた。ことは、かもがわ出版編集主幹の松竹伸幸氏と元共産党京都府委員会常任委員の鈴木元氏の除名問題である。
 一時、機関紙「しんぶん赤旗」は、松竹氏に対する批判と彼らの除名に苦言を呈した朝日・毎日・産経などの社説に対する反論を毎日のように掲載した。
 共産党の松竹問題に関するパンフレット 『党首選出と安保政策をめぐる攻撃に応える』によると、松竹氏除名のおもな理由は、今年1月出版した『シン・日本共産党宣言』(文春新書)の中で、「党首公選制」を実施すべしと主張したこと、また「核抑止抜きの専守防衛」なるものを唱えたことである。
 わたしは、松竹批判をめぐる志位和夫共産党委員長の記者会見での発言に大きな疑問を持った。半年たっても気になっているので、あえてここに取上げる。

 志位委員長は松竹氏の「核抑止抜きの専守防衛論」にかかわってこう発言した。
 「彼(松竹氏)の政治的主張は、つまるところ日米安保条約堅持を党の『基本政策』にせよということです。そして在日米軍の抑止力には頼らないほうがいいけど、通常兵力の抑止は必要だということをはっきりいっている。つまり、在日米軍は日本を守る抑止力だといっているわけです」
 「在日米軍が日本を守る力という立場は、綱領の立場とは全く違います。沖縄の辺野古の基地を押し付ける理由として、日米政府がいっているのは『抑止力』だといって押し付けている。……在日米軍が日本を守る抑止力という立場は、綱領の立場とは全く違います。
 わたしたちは在日米軍というのはその部隊の構成を見ても、海兵隊と、空母打撃群と、遠征打撃群と、航空宇宙遠征軍ですから、どれも遠征部隊ですよ。海外に『殴り込み』を掛ける部隊が中心です。日本を守っている『抑止力』だという考え方は根本からとっておりません」
 この発言は、他の共産党幹部によっても、さまざまなところで繰り返されているから、党の指導層共通の認識になっているようだ。しかし、去年までの日米安保条約と自衛隊についての発言とは、話のつじつまが合わないのである。

 それまで共産党指導者は安全保障について何と言ってきたか。
 不破哲三委員長(当時)がはじめて「急迫不正の侵略には自衛隊を活用する」と発言したのは、2000年のことである。1994年以来、共産党は「憲法9条を将来にわたって擁護する」といってきたから、これは驚きをもって迎えられた。
 さらに2000年の大会で、日米安保条約と自衛隊に関して、段階的解消に向かうと決議した。それは、第一に日米安保条約と自衛隊が存在し、憲法擁護の今日の段階、第二に日米安保条約を廃棄し、日本が日米軍事同盟から抜け出す段階、第三に国民的合意にもとづき自衛隊を解散する段階という3段階を経るというものである。つまり、日米安保条約廃棄と自衛隊解消は今日的課題ではなく、将来の課題とされたのである。

 2015年、志位委員長は外国特派員協会で一歩踏み込んだ発言をした。
 「必要に迫られた場合には、この法律(自衛隊法)にもとづいて自衛隊を活用することは当然のことです」 
 「日米安保条約では、第5条で、日本に対する武力攻撃が発生した場合には共同対処をするということが述べられています。日本有事のさいには、(共産党提案の)連合政府としては、この条約に基づいて対処することになります」 
 また志位氏は、この国民連合政府は戦争法(新安保法制)廃棄をめざすが、日米安保条約は「凍結」するともいった。
 2022年には志位氏は、朝日新聞の質問に「わが党が入った政権ができれば、自衛隊は、党では違憲という立場だが、政府では合憲という解釈を引き継ぐ」と語ったのである。
 だが、わたしが重要な転換だとおもったのは、急迫不正の侵略に対する自衛隊と在日米軍との共同作戦という方針である。
 アメリカは平和の敵とか、日米安保体制は悪の根源といった共産党の伝統的な見方とは異なり、在日米軍はたんなる「殴り込み部隊」ではなく、抑止力と見なしているからこうした発言になったのであろう。
 わたしはじょじょに現実的になる共産党の安全保障政策の変化を内心歓迎した。しかし、私の住んでいる地域の党員は自衛隊の軍備増強反対とか憲法9条擁護を強調し、党の安保政策の変化を受け止めているとは思えなかった。

 そこで松竹氏の「核抑止抜きの専守防衛論」だが、これは2000年の共産党決議にいう日米安保条約廃棄の前の第一の段階、すなわち今日の安全保障について語ったものである。そこには、除名理由のひとつになった「日米安保条約堅持を党の『基本政策』にせよ」という主張は1行もない。正確には彼の著書を読んでいただくしかないが、わたしの理解だと以下の通り。
 ――国の安全は外交と防衛力から成り立っている。抑止力とは、必要な防衛力を備え、国民が侵略と戦う意志を持ち、侵略には応分の反撃をすることを関係国に認識させ、これによって戦争を思い止まらせることである。核抑止とは、防衛力に核兵器を用いることである。
 国連憲章の認める自衛権行使の要件は、武力行使が発生していること、外交努力などを尽くしても相手が攻撃してくること、こちらの反撃は相手の攻撃と均衡がとれていることの三つである。
 だから、「核抑止抜きの専守防衛論」では、日本は、主権侵害に対して、アメリカの核抑止力に頼らず、かりにアメリカに頼るとしても通常兵器のレベルにとどめることになる。日本がアメリカの核抑止に頼らないとなれば、日本を中国による核抑止の対象にさせない外交の可能性がうまれる。――

 去年までの侵略に対する志位氏の自衛隊活用、日米安保条約第5条による対処論と松竹氏の「核抑止抜きの専守防衛論」とは重なり合って矛盾しない。ただ、志位氏は「核抑止か否か」にふれないが、松竹氏は「核抑止抜き」を主張するといった違いがある。

 そこで、共産党の指導者に聞きたい。
 去年まで急迫不正の主権侵害に対する自衛隊の活用、日米安保条約第5条での対処、つまり日米共同作戦をとるとしたことと、先のパンフレットの「在日米軍が日本を守る抑止力という立場は、綱領の立場とは全く違います」という文言とは、方向が正反対ではないか。
 「(在日米軍が)日本を守っている『抑止力』だという考え方は根本からとっておりません」という考えならば、共産党が提案した国民連合政府といえども、主権侵害に対して安保条約第5条で対処することなど到底できないはずだ。
 共産党は去年までの安全保障政策を転換したのか。変えたのなら今後どんな政策をとるのか。これは次期衆議院選挙での共産党の得票にもかなり影響する。いや共産党だけでなく、「九条の会」や平和運動に大きな影響を与える問題である。できるだけ早くどこかで説明をしてほしいと願う。              (2023・08・26)
2023.08.25  党勢拡大運動から見た日本共産党史(1960年代~80年代初頭)の実相
        党勢拡大方針は「アジテーション」(扇動)や「プロパガンダ」(政治宣伝)とどう違うのか

広原盛明 (都市計画・まちづくり研究者)
                
 前々回の拙ブログで、日本共産党百年史のむすびが「党の政治的影響力は、党づくりで飛躍的前進を開始した1960年代に比べるならばはるかに大きくなっています。全党のたゆまぬ努力によって、1万7千の支部、約26万人の党員、約90万のしんぶん赤旗読者、約2400人の地方議員を擁し、他党の追随を許さない草の根の力にささえられた党となっています」と強調しながら、その一方で「全国各地で奮闘が続けられてきたものの、党はなお長期にわたる党勢の後退から前進に転ずることに成功していません。ここに党の最大の弱点があり、党の現状は、いま抜本的な前進に転じなければ情勢が求める任務を果たせなくなる危機に直面しています」と言わざるを得なかった矛盾を指摘した。

 志位委員長就任後の20年というものは、党員が40万人から26万人に、赤旗読者が200万人から90万人に、国政選挙では衆院選比例得票数が671万9千票(得票率11.2%、2000年6月)から416万6千票(得票率7.2%、2021年10月)に、いずれも半数前後に減少するという〝歴史的後退〟が生じた20年だった。しかも、それが現在なお「進行中」というのだから、事態は極めて重大な状況にあると言わなければならない。この状況はまた、百年史のいう「党の政治的影響力は1960年代にくらべてはるかに大きくなっている」という記述にも大きな疑問を投げかける。

 『日本共産党の五十年』(五十年史、1972年8月)は、70年代初頭の政治情勢を「日本共産党は半世紀にわたる不屈の活動の結実として、今日、約30万の党員と2百数十万の機関紙読者、500万近い党支持者をもち、日本人民の闘争と現実政治に重要な役割を果たす党に成長した」と述べている。百年史も「1970年7月当時の党員は28万2千人、機関紙読者は176万8千人」と記している。したがって現在の党勢は、20年前はおろか50年前と比べても党員で2万人余、機関紙読者で90万人弱の後退となり、国政選挙においても1972年衆院選と2021年衆院選とでは563万千票と416万6千票で147万票も減少していることになる。これがどうして「党の政治的影響力は、党づくりで飛躍的前進を開始した1960年代に比べるならばはるかに大きくなっています」といえるのか――、不思議でならない。

 だが、党勢の〝歴史的後退〟はある日突然起こった現象ではなく、長期にわたる党活動とりわけ党勢拡大運動の帰結であることを忘れてはならないだろう。百年史といった党史の編纂は、短期的総括では見えてこない(長期にわたる)構造問題を摘出することにこそ意味があるのであって、単に時代を区切ってその間の出来事を並べるだけのことではないはずだ。拙ブログでは、百年史には書かれていない党勢拡大運動の変遷をたどりながら、その帰結が今日の〝歴史的後退〟につながっていないかどうかを検討してみたい。

 1960年代から80年代初頭にかけての20年余の党勢拡大方針を概観すると、1961年に「当面の課題」として提起された〝数十万の大衆的前衛党〟の建設がそれに近い成果を挙げ、その上に立って、70年代後半には〝百万の党〟の建設を展望しつつ、当面「五十万の党、四百万の読者」を実現するという課題が新たに提起された――とのストーリーが展開されている。

... 続きを読む
2023.08.18  党勢の伸長と後退は国民・有権者の〝大局的判断〟で決まる、支配勢力が全てを操作できるわけではない、志位委員長はこの危機を打開できるか(その2)

広原盛明 (都市計画・まちづくり研究者)
                 
 8月2,3両日にわたって開かれた共産党の全国都道府県委員長会議は、志位委員長や小池書記局長の発言が報道されただけで、討論の詳しい内容はわからない。ただその中でも、福岡県委員長の「特別発言」が志位委員長の「中間発言」の次に掲載された(赤旗8月4日、分量もほぼ匹敵)ことは、それがどれだけ党指導部に重視されていたかがわかるというものである。そこには、志位委員長らが望んで止まない党勢拡大運動の「先進事例」が体現されていて、県委員長の発言はそれに応えるものだったからである。県委員長が第1の教訓として挙げたのは、「党機関での徹底した政治討論」だった。その発言のキモを紹介しよう。
 ――福岡西部地区での政治討論の一番のポイントは、支配勢力が党の綱領・規約、さらに党幹部という、いわば党の心臓部に切り込んできているときに、これを党勢拡大ではね返すのだという断固たる提起を地区委員長がやったこと、まさに党づくりの実践に結びつけて政治討論をやったことにあります。(略)若き地区委員長なのですが、彼女の断固たる提起、わが党の心臓部への攻撃が行われているときに、それに対して130%の党づくりで応えていく、そのためには毎月8割の支部が入党者を迎えること、毎月37名の党員拡大が求められているのだ、みなさんよろしいですかと、鬼気迫る提起がされました...。

 地区委員長の提起は、「党勢後退は支配勢力の反共攻撃によるもの」「現在の反共攻撃の特徴は党の心臓部(綱領と規約、指導部)への攻撃であること」「攻撃に対する反撃は党勢拡大しかないこと」など、これまで志位委員長が繰り返し述べてきたことをそのまま伝えるもので、志位氏が強調する「革命政党の気概」を示すものであった。また、この断固たる提起があって地区での党員拡大の躍進が始まったことは、党指導部に「わが意を得たり」との感慨をもたらしたこともまちがいない。

 私は福岡の実情を知らないので、地区委員長の提起が妥当なものであったかどうかは判断できない。しかし先日、友人たちの間でこのことが話題になったとき、そこで出た意見は意外にも志位委員長らの期待を裏切るものだった。それは「鬼気迫る提起」と表現した県委員長の言葉が、老友たちの間に予期せぬ否定的な反響(反発)を巻き起こしたからである。彼らが「鬼気迫る提起」から受け取った印象は、いわく「これは戦場での決死隊や切り込み隊長の命令と同じだ」「いや、売り上げが上がらないブラック企業の吊し上げ大会の雰囲気に近い」「この発言を聞いて、おれは真っ先にビッグモーターのことを思い出した」などなど勝手放題なものだが、そこにはこうまでしないと進まない党勢拡大運動への鋭い批判が横たわっているというべきだろう。

 戦中戦後の混乱期を命からがら潜り抜けてきた焼け跡世代にとって、「鬼気迫る提起(命令・詰問)」といった表現は肌身を凍らせる響きとしか聞こえない。戦後の高度経済成長を第一線で担ってきた連中にとっても、この表現は「24時間死ぬまで働けますか」といった過労死を連想させるものでしかない。このような時代錯誤の表現は、反発や拒否感を招くことはあっても受け入れられることはまずない。こんな簡単なことがどうしてわからないのだろうか。

 まして、現代社会を生きている若者や市民にとって、こういった表現は「別世界」の言葉のように聞こえて、共感を得ることなどおよそ不可能だ。党内でも仲間内の一部のメンバーには通じても、それが全党的な決意を促す「行動モデル」になるとはとても考えられない。それに、高齢化が一段と加速している全国の各支部では、最近赤旗を読まない読者が増えている。〝熱中症警戒アラート〟が全国的に発令されているこの時期に、毎週「この土日 全支部が行動し、党勢拡大で党攻撃へ回答示そう」との大見出しを掲げる赤旗は、高齢者の外出を自粛させるどころか街頭に駆り立てることしか考えていない――と見られているためだ。

 こんなところへ、若い地区委員長から「毎月8割の支部が入党者を迎えること、みなさんよろしいですか」などと詰問されたら、それが「革命政党の気概」だと言われても、大半の党員は多分その場からいなくなってしまうに違いない。また、二度とそんな場には出たくないと思うだろう。「わしらを殺すんか!」と高齢者に言われても仕方がないような党勢拡大運動はもはや限界にきているのであり、「鬼気迫る提起」をしても通じなくなっているのである。

 第28回党大会以降の「130%の党づくり」を目指す党勢拡大運動は、連日連夜の厳しい締め付けにもかかわらず逆に後退に後退を続け、その傾向は現在に至るも変わっていない。このまま事態が推移すれば、志位委員長をはじめ党指導部の責任は免れず、半年後に迫った第29回党大会では厳しい批判が起こる情勢が必至となっている。こんな事態を避けるためには、少しでも党勢後退の勢いを弱め、その原因は支配勢力による〝反共攻撃〟によるもので、党指導部の所為ではないとの主張を浸透させなければならない――と誰かが考えてもおかしくない。それが「党勢後退は支配勢力の反共攻撃によるもの」「現在の反共攻撃の特徴は党の心臓部(綱領と規約、指導部)への攻撃であること」「攻撃に対する反撃は党勢拡大しかないこと」という〝政治対決の弁証法〟の展開になったのである。

 弁証法とは物の考え方の一つの型であり、「物の対立・矛盾を通してその統一により一層高い境地に進むという、運動・発展の姿において考える見方」(岩波国語辞典)とされる。志位委員長は、これを自分流に解釈して〝政治対決の弁証法〟といった新語をつくり、支配勢力の反共攻撃が強くなるほど党は鍛えられ、それを上回る政治勢力に成長する。だから「革命政党の気概」をもって党勢拡大運動を推進し、その目標を達成しなければならないと主張する。だが、ここでいう「支配勢力を上回る政治勢力」とは、共産党が独自で自公勢力を上回る党組織になることではないだろう。共産党の主張や政策が広く国民・有権者の支持を得ることで、他の野党と連携して国政や地方政治で多数派を形成し、政策実現の道筋をつけることが本来のその意味である。つまり、共産党が掲げる主張や政策に対して広く国民・有権者の支持や共感を獲得することが目的であって、党勢拡大はその手段にすぎない。

 ところが、現在の党勢拡大運動はそうなっていない。党勢拡大そのものが自己目的化し、とにもかくも党員と赤旗読者をどれだけ増やすか(どれだけ減らさないか)ということだけが追求されている。加えて、国民・有権者からの共産党に対する常識的な批判までを「支配勢力の反共攻撃」と見なし、さらに志位委員長に対する批判を「党の心臓部に対する攻撃」と拡大解釈して、これに反撃するのが「革命政党」の役割であり、党勢拡大運動だというところまでエスカレートしてきている。

 共産党が非合法だった時代ならともかく、現在は日本国憲法のもとで政党結社の自由が求められ、多様な政治信条を掲げる政党が国政レベルでも地方レベルでも活躍している時代である。どの政党が伸長するかは一も二にも国民・有権者の支持にかかっているのであり、支配勢力が操作できるものではない。国民・有権者を支配勢力に操作される対象だと見なすことは、国民・有権者の愚民視につながる。社会からの批判を〝支配勢力の反共攻撃〟と見なすことは、国民・有権者が支配勢力によって操作されていることを前提としており、愚民視そのものだ。こんな見方しかできない政党が、いまだ存在することに驚くほかないが、今後の事態の展開が容赦ない結果をもたらすだろう。次回党大会(2024年1月)までに共産党の党勢がどう推移するか、またそれほど遠くない時期に実施される総選挙で共産党がどれほどの得票を確保できるか、歴史の審判は刻々と迫っている。(つづく)
2023.08.16  被爆の実相、体験の継承へ新たな試みを知る
        広島を8月5日から7日まで訪ねて

山田幹夫 (フリーランス)

 8月6日の中国新聞の朝刊・社説は、ヒロシマ78年として「原点の継承 今こそ誓いたい」と書いている。中見出しは「廃絶の道見えず」「核抑止力は幻想」「証言掘り起こす」と続いている。社説に込められた、最近の日本の情況から「気がかりな」ことも含めて、核廃絶へのこれからの方向性を訴える内容を、私は支持したい。
   ◇       ◇       ◇
 平和記念式典(6日)前日の5日、原爆ドームがある平和公園周辺には署名を集める制服姿の中学生たちの姿があった。外国人に「インタビュー」を試みようとしている数人ずつの姿もあった。
 道路の端でおずおずと署名を訴える中学生らに聞いてみると、最初は小さな声で「広島に来た人に、戦争や原爆や水爆をなくすための署名をお願いしています。名前だけもいいです」。署名をする人が続くと、女子たちは初めての体験らしく声をあげて喜び合っている。

◆記念式典への外国代表の参列は111か国。最多を記録
 6日、今年の鎮魂の日の平和記念式典はコロナ禍で参加人数を制限した昨年までと違って、以前のように自由に参加できる。今年は外国人の参加が目立つ。式典には、広島市役所によると過去にはない、欧州連合(EU)を含む最多の111か国の代表が参列し、式典会場と周辺には各国大使館関係と思われる人と一緒の人たちも多く、海外からの旅行者と見られる姿もとにかく多い。特に家族連れや高校生や大学生らしい若い世代のグループ、カップルが目立つ。右を向いても左を見てもだ。
 日本の広島の中学生たちは、数人で「何を聞こうか? 言葉をどうかけたらいい?」と、相談しながらのおずおずとしたアタック。授業の平和教育実践の一環らしく、「何を聞くのですか?」と質問すると、「広島のことを知ってほしい」と返ってきた言葉に、感慨深いというかうれしい思いがした。

 私は広島、長崎、第五福竜丸、東京大空襲など、取材の仕事上で長くそれなりに関わってきて、退職して、広島へは10年余ぶり。久しぶりの原爆ドームと平和公園は変わらず、周辺は建物が増えてきれいになって変わってきているが、原爆の事を忘れないようにしている広島の精神には変わりがないことを強く感じた。
 東京から小学生を連れた家族旅行の女性は、「中学校の修学旅行は広島で、宿の窓を開けると目の前に原爆ドームだった」そうで、広島を再訪してその建物が今も営業していることを見て、「ここだ。まだあった。えっ、この上空で爆発したんですか」と、ドームと見比べながらしばらくそこを動かなかった。

 8時15分の、セミ時雨の中の厳かな黙とうに続いて、広島市長や県知事、国連の事務局長の内容の濃い「平和宣言」や挨拶、そして拍手も小さめの中身のないお恥ずかしい日本国首相の〝つぶやき”があった式典後、官庁街の北にある広島城を初めて見学して市街地に戻った。

◆商店街の名入りで平和を強調する大きな書「Peace from 紙屋町」
 地上は暑いので、市内の繁華街中心部、紙屋町・基町の地下通路に入ると、広い中央広場を占めた「書を通じて平和のメッセージ」に出くわした。地元の安田女子大学の書道学科などと青少年センターが協力し、広島市が後援している。「広島から世界へ平和を繋ぐ」と大書された幕がとんでもなく大きい。
 「平和の一筆とみんなでつくるピースアート」いうメッセージ発信の催しだ。誰でも自由に普通の半紙に書をしたためることができる。親子連れが筆をとって「書道体験」をしている。地元商店街の紙屋町の名を入れた平和アピールの書も大きく張り出されている。何枚もある。やはり、ここは広島だと実感する。
 6日の夕方から夜は「灯篭流し」だ。原爆ドーム西側の元安川の広い両岸やコンクリートで立派になった元安橋の上は人でビッシリ。午後6時から9時だが、7時半になっても日差しは明るく、ゆったりとした流れに灯篭もゆっくりと動いてお互いに集まって流れる。人は集まり続けるが去る者はほとんどいない。見やすい場所を探して歩く家族連れの、「6日は広島の特別の日じゃけん」と子どもたちへの言葉が何度も背中から聞こえた。

◆私がずっと懸念してきたことは二つ。一つは被爆者の方々の高齢化
 かつてインタビューなどをお願いした人たちの顔は忘れていないが、ほぼ全員と、もう会えない。
 6日の早朝というか日の出前から平和公園は、60以上ある様ざまな慰霊碑や記念碑に詣でる人々が多い。犠牲となった親類縁者に静かに想いをはせるためだ。それも10数年前までと変わらない。
被爆時のここ一帯(中島地区7町)には推定6,500人が住んでおり、建物疎開作業中の国民義勇兵や動員学徒らも非業の死を遂げ、街並みも一瞬で消え去った事実は永遠に残る、ここは慰霊の地である。
 今年は、式典が始まる午前8時の直前、7時過ぎから半まで急な通り雨。「涙雨だね」と通行人。
 2023年は原爆被爆から78年にもなる。被爆者(被爆者健康手帳を持つ国内外の生存者)の平均年齢は85.01歳になるということから、被爆者がいなくなる日は、いずれというよりも、すぐ目の前ではないか。

◆「家族伝承者」という広島市の新しい試みに拍手
 「被爆者なき時代」とは、被爆の実相、人類も消し去るかもしれない核兵器の怖さが分からなくなることを心配してきたが、若い世代の「広島のことを伝えたい」という声を聴くとうれしくなる。
 広島市が「家族伝承者」と言う制度を昨年5月から始めたことを知った。被爆者の体験や思いを次世代へ、という被爆者だけでなく有志の「語り部」の運動を、私も取材して伝えてきたことがあったが、家族である祖父・祖母、父・母、親類の想いを子どもや孫が、家族として繋ぐために聞き取ることは、これまでは簡単ではなかった。それがいま歩み出したことを知った。
 NHK広島放送局の画面で「思い出したくないと言われていたので、聞いてはいけないことだと思っていた」という家族が、意を決して語る親族の高齢の被爆者から聞き取る様子を見させてもらった。それまでは話してもらえなかった親の体験や気持ちを初めて耳にした中年の息子の染み出る涙にジンと来てしまった。どの家族でもできるということではないと思うが、温かい思いも混じる素晴らしい試みだと思う。

◆「質問者が自分事として感じてもらえる」ことをAIで追求する試みも凄い
 他方、気になることは、有名で大規模な「原爆資料館」にある物は世代を超えて見て、聞いてという伝承ができるが、各所にある被爆者の証言、文章やビデオは残されてきているものの、見る人、見る機会が限られていることだ。
 そうした懸念に応える試みの一つがNHK広島の6日午後の番組であった。被爆者の方に5日間かけて話を聞いてビデオに記録。そして、等身大の被爆者の映像の前で質問をすると膨大な記録データの中からAI(人工知能)が瞬時に適切に抜き出して編集し、本当に目の前にいるような臨場感でその方の表情の動きまでもが自然な感じで出る。あたかも質問者と直接に会話をしているような内容が紹介された。
ナレーションは「被爆者の証言を、質問者が自分事として感じてもらえる」ことを目指して開発中であることを伝えたが、とても良い! こういうことは国家レベルの事業にすべきだと感じる。
... 続きを読む
2023.08.14  『日本共産党の百年1922~2022』にみる党存亡の危機、志位委員長はこの危機を打開できるか(その1)
                
広原盛明 (都市計画・まちづくり研究者)
                
 1990年7月に書記局長に選出され、2000年11月に委員長に就任した志位和夫氏(1954年生)は2023年8月現在、日本共産党の最高幹部を在任すること実に33年の長期に及ぶ。志位氏が委員長に就任して間もなく刊行された『日本共産党の八十年1922~2002』(2003年1月)の最終章「あたらしい世紀を迎えて――日本共産党と世界の進歩的発展の展望」は、こんな希望に満ちた言葉で結ばれていた。
 ――日本共産党は80年前、非合法の党として出発しましたが、今日、40万人をこえる党員、200万人近い「しんぶん赤旗」読者を持ち、発達した資本主義国の共産党のなかで最大の勢力の党となりました。(略)60年当時、資本主義国で最大の党だったイタリア共産党は、社会民主主義政党に変質をとげて脱落しました。フランス共産党はその後、得票率3~4パーセントの少数政党に後退しました。これに対して日本共産党は、一進一退はあるものの、90年代の選挙で一連の躍進を記録してきました。ヨーロッパの諸党のなかには消滅してしまった党や、機関紙の存続や民営化など、国民とのきずなを喪失するような状況も生まれています。ヨーロッパの有力な諸党が、旧ソ連との関係に弱点をかかえてきたことが大きな要因の一つとなって、その勢力を後退させるなかで、日本共産党がこんにち地歩をえていることは、政治路線の正確さとともに、国民とむすびついた党をうまずたゆまずつくるための、草の根における、全国の支部と党員の不屈の努力の成果です。(略)発達した資本主義国で活動する日本共産党の果たすべき役割は、21世紀の人類の進歩を展望したとき、かつてなく大きなものがあります。

 それから20年、最近刊行された『日本共産党の百年1922~2022』(タブロイド判、2023年7月)の「むすび――党創立百周年を迎えて」は、八十年史が世界資本主義国共産党の中での日本共産党の存在を誇らしげに語ったのに比べて、一転して危機的様相が色濃く滲み出たものになった。そこでは、61年綱領確定以降の60年余は、「政治対決の弁証法」と呼ぶべき支配勢力との激しいたたかいの攻防の連続だったと位置づけられ、「世界に冠たる日本共産党」といった趣はもはやどこにも見当たらなくなった。

 理由は明らかだろう。志位委員長就任後、21世紀に入ってからの20年というものは、党勢は40万人だった党員が26万人(3分の2)に減り、赤旗読者も200万人から90万人(半分以下)に減少するという歴史的な後退が生じた20年だったからである。本来なら、21世紀前半の党の展望を示す百年史の「むすび」は、この歴史的後退に関する徹底的分析とそれを打開するための戦略を具体的に提起するものでなければならなかった。ところが「むすび」は、(事態の責任を回避するためか)最近20年間の分析を意識的に避け、はるか昔の「60年余前」に比べて党勢は大きくなったというだけで、何一つ展望を示すことができていない。これは、百年史の執筆に関わった志位委員長の意向を反映したものであろうが、〝科学的社会主義〟を標榜する政党の分析とはとても言えない。
 ――2022年7月15日、日本共産党は創立百周年を迎えました。(略)この百年、党にとって順風満帆な時期はひと時もなく、たえまのない攻撃にさらされ、それを打ち破りながら前途を開く――開拓と苦闘の百年でした。この歩みは、日本共産党が社会の根本からの変革をめざす革命政党であることの証にほかなりません。(略八十年史)党の政治的影響力は、党づくりで飛躍的前進を開始した1960年代に比べるならばはるかに大きくなっています。全党のたゆまぬ努力によって、1万7千の支部、約26万人の党員、約90万の「しんぶん赤旗」読者、約2400人の地方議員を擁し、他党の追随を許さない草の根の力にささえられた党となっています。(略)全国各地で奮闘が続けられてきたものの、党はなお長期にわたる党勢の後退から前進に転ずることに成功していません。ここに党の最大の弱点があり、党の現状は、いま抜本的な前進に転じなければ情勢が求める任務を果たせなくなる危機に直面しています。

 百年史の特徴は、「むすび」でも再三再四指摘されているように、日本共産党の最大の弱点が〝党勢後退〟にあり、しかもそれが長期にわたって継続する〝構造問題〟に転化していることを認めざるを得なかったことだ。党創立百周年を目前にした第28回党大会(2020年1月)では、異例の2つの大会決議(第1決議・政治任務、第2決議・党建設)が採択され、第2決議では「党創立百周年までに、野党連合政府と党躍進を実現する強大な党=党員と赤旗読者を第28回党大会比130%の党をつくる」ことが明記された。だが、党勢は党創立百周年(2022年7月)までにおいてもいっこうに回復せず、それ以降も後退を続けている。以下、その推移を簡単に記そう。

〇2020年1月~2023年1月(赤旗2022年8月2日、2023年1月6日、志位委員長幹部会報告)
 党員現勢は約26万人(2023年1月)で、27万人余(2020年1月)から3年間で1万人余減少した(大会比4%減)。この間の新入党者は1万1364人(発表分)なので、逆算すると、死亡者・離党者は2万2千人余(年平均7600人余)と推定される。日刊紙読者現勢は約90万人(2023年1月)で、約100万人(2020年1月)から3年間で10万人減(大会比10%減)となった。

〇2023年1月~2023年7月末現在(赤旗各月初旬発表)
 新入党者は391人(1月)、470人(2月)、342人(3月)、146人(4月)、230人(5月)、234人(6月)、641人(7月)、7カ月間で計2454人となった。この間の死亡者・離党者を4200人余(年平均7600余人の7/12)と推定すると、7カ月間で1700人余減、前大会から1万2千人余減となり、党勢現勢は26万人を割った(大会比4%減)。日刊紙読者(電子版を含む)は、253人減(1月)、201人増(2月)、1171人減(3月)、4556人減(4月)、934人減(5月)、568人減(6月)、60人増(7月)、7カ月間で計7221人減。日曜版読者は、339人減(1月)、2369人増(2月)、8206人減(3月)、2万3104人減(4月)、7048人減(5月)、3930人減(6月)、247人増(7月)、7カ月間で計4万11人減となった。日刊紙と日曜版読者を合わせると7カ月間で4万7千人減、赤旗読者現勢は85万3千人(大会比15%減)となった。

 この数字は、志位委員長らの叱咤激励にもかかわらず、党勢拡大運動がいっこうに前進しない党組織のリアルな実態をあらわしている。第28回党大会で掲げられた党勢拡大目標は、党員35万人(130%)、赤旗読者130万人(同)に拡大するというものだったが、その後の経過は逆に後退の一途を辿り、3年半後の現在、党員26万人弱、赤旗読者85万人余と見る影もない状態に陥っている。

 この非常事態を打開するためか、8月2,3両日にわたって全国都道府県委員長会議が開かれ、その模様は赤旗で大々的に伝えられた。8月2日は小池書記局長報告に続いて志位委員長の異例の「中間発言」があり、3日は小池書記局長の討論のまとめと志位委員長の閉会あいさつで終わった。2日間の報告と討論は、全紙5面にわたる膨大なものだったが、その内容は「拡大大号令」一色の平板的なものに終始した。一言でいえば、この間の党勢の歴史的後退の原因の一切を支配勢力からの〝反共攻撃〟によるものとみなし(内部要因や指導部責任にはまったく触れず)、「反共攻撃による影響を放置するなら、党の政治的・思想的な解体につながっていく危険もあります。同時に、攻勢的に対応するならば党の前進の力に転化することができます」(赤旗8月4日、志位委員長の閉会あいさつ)と強弁するものだったのである。次回は、その発言の内容についてもう少し詳しく分析しよう。(つづく)
2023.08.12  放射能汚染水を海に捨てるな!
        韓国通信NO726

小原 紘(個人新聞「韓国通信」発行人)

<海は生命(いのち)の母>
 国際原子力機関(IAEA)が福島の汚染水は「国際的な安全基準と合致」。また放射能が人体と環境に与える影響もわずかとした。だが安全基準の科学的根拠が不明なうえに人体と環境に与える影響について、「わずか」では不安を払拭したことにはならない。ドヤ顔の岸田首相を忖度するかのように多くのメディアは「後は漁業関係者の了解を残すだけ」と報道した。
 オリンピック招致時、安倍首相(当時)はアンダーコントロールされていると大嘘をついた。嘘の上塗りに等しい今回の海洋放出に国内外からの非難の声は高まる一方だ。

 安全と言いつくろいながら、汚染水を流しているのは日本だけではないと開き直る姑息さ。一番安あがりで安易な方法が、海への放出だということも忘れまい。
放射能汚染水を海に捨てるな!
 世界から原発をなくすこと、どの国も海を汚してはいけないことも。IAEAがインチキな団体に思えてきた。
8月3日、2人の仲間と駅頭に立った(左写真)。「安保法制反対」「健康保険証を廃止するな」「東海原発の再稼働を許すな」。各人がそれぞれの主張を持ち寄った。日中温度は36度を超えた。

<悲劇の国へ>
 「私の人生はやり直すことはできないが、私たちの人生はやり直すことはできる」。
大江健三郎さんが亡くなる前に残した言葉である。
 自分に残された時間は少ないが、皆で努力すれば目標は実現できると、集会参加者たちを励ました。その時大江さんが何を思い描いていたのか想像するほかないのだが、同時代を生きてきた私たちは実に多くの問題をかかえている。
 戦争と貧困、自然環境の激変による人類滅亡の予感さえある。戦争体験も民主主義も学ばなかった首相が三代も続いたのが災いした。このまま泥船に乗せられて「一蓮托生」、地獄の淵に転落する予感さえある。

 国民の声を聞く耳を持たない国民不在の政治。それでも3割の支持率をキープしているのは不思議だ。
 臆面もない「戦前回帰」と「原発回帰」。物価高に苦しむ庶民の生活はもとより眼中にない。膨大な国の借金は次世代に付け回し。これでは安心して子どもを産む気にならない。最大派閥の清和会に気兼ねしたエセ宗教統一教会隠し。バイデン米大統領演出の「台湾有事」に便乗した国防費倍増計画。中国と戦争をするために沖縄を再び「捨て石」に。日本学術会議への干渉も高市元総務大臣のテレビ報道への干渉問題はいまだに闇の中だ。まだまだある。「モリ、カケ、サクラ」。眠る検察。憲法違反を裁かない最高裁判所。明らかに憲法違反だ。人生はやり直すことができないとしても、見過ごすわけにはいかない。

<核抑止を問う>
 広島と長崎に原爆が投下されてから78年を迎えた。核兵器禁止条約に反対する岸田首相は核抑止論者という核保有論者である。広島出身の首相は県民の期待を裏切ったばかりか、広島サミットでは世界に向けて核の抑止力にお墨付きまで与えた。

<消えた『はだしのゲン』>
 広島市の平和教育に長年使われてきた『はだしのゲン』が教材から消えた。核兵器禁止条約に反対する岸田首相の姿勢と決して無関係ではない。
 ゲンは原爆の悲惨さを完膚なきまでに語り、戦争の責任と投下したアメリカの責任を厳しく追及した。戦争責任を負うべき人間たちが権力の座に居座り続けていることへの怒りもあった。そんなゲンが「戦争を知らない」世襲議員たちには邪魔になった。
 漫画連載から半世紀、世界24か国語に翻訳された「世界文化遺産」的ベストセラー漫画である。発行部数は1千万部を軽く超え。日本と世界の反核運動に大きな影響を与え、核兵器禁止条約発足に貢献した。

<歴史から学ばなかった日本の不 ― 関東幸大震災から学ぶ>
放射能汚染水を海に捨てるな!
 『はだしのゲン』が78年前の原爆の実相を生々しく伝えるように、100年前の関東大震災と虐殺事件に正面から立ち向かい、学び、歴史として伝えようとする人がいる。
 詩人で作家の石川逸子さんの最新著書『オサヒト覚え書き 関東大震災』を読んだ。「オサヒト」(明治天皇の父孝明天皇の別名という設定も興味深い)と作家が会話をしながら関東大震災の虐殺事件に迫ろうとする力作である。通常の歴史書にはないドキュメンタリータッチで事件の全貌が明らかに。作家自身の思いが込められ、歴史がより身近に感じられる。文学作品ではないが、ただの歴史書ではない。
 震災から100年にあたる今年に発行された意義は大きい。今、日本各地でさまざまな角度から関東大震災を考える動きが広がっている。疎ましく感じられ敬遠しがちなテーマが身近に感じられ、時代背景を含め状況がわかりやすい言葉で解き明かされているのが特徴だ。死者への「鎮魂」でもある。一方で日本人もたくさん死んだから「同じ」と澄まし顔の人もいる。
日本政府は今日まで、つまり100年の間、真相の解明はおろか謝罪すらしてこなかった。
 最終章では江東地区の労働組合活動家9名(亀戸事件)と大杉栄、伊藤野枝と甥らの虐殺事件が取り上げられている。彼らは何故殺されたのか。彼らの死は大陸への侵略と暗黒の時代に突き進もうとする時代背景と無縁ではない。そして、朝鮮人と中国人の虐殺の背景にも社会不安と軍国主義の台頭があったことが理解される。

<関東大震災を記憶する我孫子市民の会>
放射能汚染水を海に捨てるな!
 我孫子駅近くの神社で三人の朝鮮人が自警団によって殺害された「我孫子事件」。
 久しぶりに夏祭りに出かけた。小さな町の小さな神社の周辺は身動きができないほどの人出だった。
 「ここで100年前 罪もない朝鮮人が殺された…」と心のなかでつぶやいたが声に出なかった。                       

<100年前の殺人現場>
 友人たちと「関東大震災を記憶する我孫子市民の会」を作った。具体的に何をするのか決まっていない。まず事実を伝えること。今年をスタートの年に息の長い運動を考えている。多くの市民に石川さんの『オサヒト』を読んでもらいたい。知ることから始まる「文化運動」を目指している。

『オサヒト覚え書き 関東大震災編』 石川逸子著 一葉社発行(2023/7) 定価2千円+税