2018.07.10 1968年は何処へいった(3)

―『思想』の鼎談を読んで考えたこと―


半澤健市 (元金融機関勤務)


 前二回で「提起と鼎談」(以下「鼎談」)の紹介をした。
今回は、その評価と「私にとっての1968年」について述べたい。

《違和感の理由を挙げると》

 鼎談を読んで、研究者3名の分析と発言に大いに啓発された。
客観的で俯瞰的な分析である。多面的で国際的な分析である。納得することが沢山あった。しかし、一方で私は、「これはちがう」という違和感を強くもった。
 その理由を考えてみる。私は、「1968年」を闘争、異議申立だと思っていた。だから、違和感をもったのである。

三点に絞って鼎談の問題点を考えたい。
 第一に、「闘争」という見方の持主からみると、3名の研究者の発言は極めて「冷静」である。「冷酷」とすらいえる。冷静さは、小熊が「1968」を近代化の進展の一過程とみる視点に起因すると思う。小熊は「1968年」はメディアの影響もあり過大評価されているという。そして「1968年」を思想史的事象として考察している。

 私のみるところ「1968年」は、「近代への抵抗」であり「近代的思考への異議申立」であった。思想の問題は、具体的に様々な「闘争」として表現された。
 学問の「客観性」が、実はイデオロギーに冒されていることへの抵抗であった。あるいは近代の指標である「自由」や「人権」が欺瞞的な存在であることへの反発であった。闘争は、情念や狂熱をともなう。爆発した心情は、半世紀を経て冷たい「歴史叙述」のなかに閉ざされた。鼎談が同時代の当事者より若い世代によって行われたのも「冷たさ」につながったかもしれない。それでも3名は、私の指摘した点も自覚しているようだ。最後部の歴史観論義は、その問題意識の表現と感じられる。

 第二に、「闘争」という見方の持主からみると、闘争の当事者の扱いに不満がある。
当事者とは誰か。それは戦った者たちとその敵側の者たちである。後者はどこへ行ったのか。あるいは、勝負はどっちが勝ったのかという問題である。「反乱軍」の言動分析はあるが、「権力側」は出てこない。「1968年」を近代化の一過程とする論では「勝負の論理」は出てこないのであろう。
 かつて西川長夫の『パリ五月革命 私論』を読んで、私が痛感したのは、五月革命の優れた報告に「支配権力」の記述がないことであった。「五月革命」後の6月総選挙でドゴール派が勝利した理由が不明なのである。鼎談者にはこの点を語ってもらいたかった。

 本誌の個別論文に一つの例外がある。安藤丈将(政治社会学)による論文「警察とニューレフトの『1968年』」である。警察庁や公安調査庁の文書を駆使して、警察「権力」の対応を具体的に分析している。我々が欲しいのは、こういう権力の奥の院の分析である。

《今日的意義なるもの》
 第三に、鼎談は「1968年」の、「2018年」における今日的意義をもっと鮮明に論じてもらいたかった。安倍内閣の反知性主義は極まった。政治学者の杉田敦はこう発言している。(■から■、『マスコミ市民』、2018年7月号のインタビューより)
■今の日本の政治は、刑事法上の疑いで起訴されるか、あるいは有罪になる以外は問題ないといって、責任の範囲を非常に狭く考えるようになりました。どんな組織であっても、刑事法的な問題になれば責任問題が起きるのは当然ですが、従来、刑事責任が生じた時しか政治が責任を取らなかったかといえば、そんなことはありません。(略)ところが、いつの間にか政治責任という概念が否定され、あたかもこの世の中には刑事責任しか存在しないかのようになりました。直接証拠がない限り、いかにおかしくても問題ないということで、この世の中で通用するでしょうか■
 
 このような政治的退廃が、すべて「1968」に起因するとは言わない。
しかし、戦後の「1960年(安保)」、「1968年」、「1990年(冷戦終了と日米同盟強化)」が三つの転換点であったと考えれば、「1968年」はその一つであった。鼎談は日本固有のテーマを、一般化・国際化の視点を重視するあまり、過剰な相対化を行っている。日大アメフト部問題、キャリア官僚の「劣化」状況をみるにつけ、「日大古田会頭との一万人団交」や『理性の叛乱』(山本義隆)は、どこへいったのかと思う。

《私にとっての1968年》

 1958年に「企業戦士」となった私は10年目を迎えていた。
本店営業部という営業部門の旗艦店―企業により最大支店が旗艦店―にいた。
そこで「どぶ板外交」をして預金集めをやっていた。

 私のいた企業は、著名な公害企業のメインバンクの一つであった。公害企業の経営者の息子X君は、同じ部署の若い同僚であった。彼の結婚披露宴に招かれた。仲人である部長の祝辞に「X君は、今のように公害のなかった綺麗な海を見ながら、あるいはその海で泳ぎながら健康に育ちました」というくだりがあった。私は参加者に合わせて拍手をした。拍手しながら「これはダメだ」と思った。高度成長を至高の目標とした企業共同体はダメだという意味である。
 これが「私にとっての1968年」である。読者は「それがどうした」というであろう。しかし、これが私の原点の一つである。一体、あるテーマに対する生活者の経験や思考は、この程度のものではないだろうか。

 話題の人である前川喜平が、『面従腹背』という本を書いた。
トップ官僚が「面従腹背」で生きているのに、一企業の中間管理職が、それ以上のことをどうしてできようか。と私は自己を正当化する。問題意識を持続するだけでも抵抗である。と私は自己を正当化する。さらに次のようにいう。「一人が百歩前進するよりも百人が一歩前進することが大事である」。凡庸なメッセージである。

 しかし「1968年」への再訪は、生活者のこんな矮小な現実から出発しなければならない。これを結びとして「私にとっての1968論」は終わりである。(2018/07/05)

2018.06.30  1968年は何処へいった(2)
    ―『思想』の鼎談を読んで考えたこと―

半澤健市 (元金融機関勤務)

 小熊英二による〈提起〉に次いで、今回は鼎談本体の紹介である。
四六判で26頁にわたる長文を要約するのは難儀だった。分かりやすいようにと心懸けたが、自分で読んでも分かりにくい。更に興味をもつ読者は原文に当たられたい。

《問題提起に沿って議論は進む》
 鼎談のタイトルは『「1968年」再考―日米独の比較から―』である。
小熊の三つの提起の順に討論が進む。

「メディアの台頭」が、運動の相互性を強調につながったとともに、「周辺と位置づけられていた学生、エスニック・マイノリティ、女性、第三世界など」への注目が特徴的だったと小熊はいう。国家対国家、資本対労働といった「正規軍」同士の対決よりも、運動・文化・非暴力の示威的行動などの「ゲリラ」的対応への注目であったともいう。
これに対して井関正久は、ドイツにおいては1848年革命が参照され「社会主義」が目標となったことを言い、梅崎透は、「1968年」を「グローバリズム」の文脈のなかに位置づける議論に対して〈社会運動は国家や企業との対決〉であるとして、疑問を呈している。実際、「1968年」の呼称が生まれたのは、同時期より10年も後であるとするのが研究者の共通認識らしい。日本で同時代のテーマは「70年安保」であった。そして、大衆は「反戦」「反安保」までは理解したが、「マルクス」が出てくると理解不能となった。共産党と新左翼の対立はさらに理解不能だった。佐藤栄作日記にもそれが出てくるという。

《近代化の進展に関する討論》
 次の「近代化の進展」に関しては、近代批判がどのように出てきたかが問題となる。
これは日本と米独で対照的な違いがあったことが論じられる。
ダニエル・ベルが1973年に『脱工業社会の将来』を書いた。小熊は、製造業就業者数のピーク時期が、アメリカで60年代後半、日本では92年だったことを挙げて、この「時差」が彼我の運動の性格に差異をもたらしたという。欧米は、製造業の衰退期と「1968年」が重なり、日本はそれに遅れ、消費社会に陰りが出るのは90年代以降である。
グローバルにみると、「1968年」は英米ではカウンターカルチュアの時代であった。日本では、「カウンターカルチュア」の隆盛と社会運動には距離があった。日本の運動は、山本義隆に代表される硬派のそれであり、「近代批判」の色が強かった。アメリカでは、冷戦リベラリズムに対抗する「参加民主主義」が主な思潮となり、ドイツでは問題が世代間対立から始まり、近代化批判論の出現は遅れた。
このほか、大学の自治、学生・知識人の権威意識、自治大学の成果、労学共同の可能性と成否、日本における「共産党」の特異な位置などが論じられている。詳述の紙数がないが、それぞれ今日に続く重要なテーマである。

三つ目は「冷戦体制」との関連である。
小熊は「1968年」における米国覇権の揺らぎを強調して、その「シャッフル」が出たというが、井関は同じ視点からは同じだが、むしろ強度の大きい「クラッシュ」だったという。米ソ主導の戦後秩序の制度疲労があり、ドイツは経済成長の中途段階だったから「オルタナティブ」追求の余地があった。クリエイティブな運動が可能だったというのである。特に社会・文化面で反権威、若者の突き上げが強かった。経済問題は、のちのEUの形成につながる。小熊は、日本は1945年の敗戦が画期であり、68年より衝撃は大きいとする。68年には既に植民地はなく日仏の方向性のベクトルは逆であったという認識を示す。
アメリカでは「ベビーブーマー世代」が時代の担い手であり、60年代はカウンターカルチュアが主たる思潮の時代であった。

《歴史の再審を求める三人の発言》
 このあたりから鼎談は、「1968年」論議の、今日的意義という「基本的な問題」へ収斂してゆく。「1968年とは何だったのか」という「そもそも論」である。さらに最終部では「歴史とはなにか」という問題が議論されている。三人の発言を、以下に取捨選択して並べておく。発言順序・省略または一部削除・「です・ますの変更」は、私(半澤)の判断で行った。そのことを発言者と読者にお断りしておく。

小熊英二(おぐま・えいじ、日本歴史社会学、慶應義塾大学教授)
 なぜ1968年だけが特別な対象になるのか。非常に素朴な運動だったのではないか。日大・東大全共闘の初期は万人にわかった。この時期に起きた各国、あるいは全社会的な変化というものを、どういうふうに把握するかという問題だ。
その後に起きた社会の変化を、あの時期のアイコン的な部分から説明すると見えやすい部分もある。けれど、そこで変化したものが本当は何だったのか、きちんと見ていくことが学問的に重要だと思う。

私は、基本的には歴史を書くというのは、常に現在から歴史観を構築する作業でしかありえないものだと思っている。けれども、では何を構築してもかまわないのかというと、反証可能性は担保されるべきだ。
その意味では、「68年」というのは、描き方にほとんど無限の可能性がある。いま流通している「68年」のイメージが、史料による批判に耐えられないものであると考えられるなら、それは神話としてきちんと批判していくということが必要になってくる。
歴史というものは、永遠に続く未完の対話作業だからである。

井関正久(いぜき・ただひさ、ドイツ現代史、中央大学教授)
 ドイツではハーバーマスやマルクーゼが読まれたが、学生はナイーブで毛沢東やチェ・ゲバラに傾倒する側面があった。
ひとは「68年」にあらゆる出来事を「詰め込み」すぎているのではないか。68年は、当事者によって神話化され過大評価されている。10年前から新右翼が「68年に対する宣戦布告」といって、68年の文化革命を逆方向からすべきだと運動している。反68運動の政党「AfD」は、さきの選挙で第三党になった。「68年という枠組みで果たしていいのか」という議論をすべきではないか。

東ドイツでは民主化運動がありベルリンの壁が崩れ、当初は誰も予想しなかった東西ドイツ統一が、1年も経たないうちに実現する。今では、ドイツ統一記念の催しがあると、ベルリンの壁崩壊はドイツ統一のための出来事のように描かれている。まず結果があって、それに繋がるものを歴史記述として残し、それ以外のものは本来ならば大切であったものでもそぎ落としてしまう。だから同時代史研究においては、メインの歴史記述から漏れてしまうものを拾い上げる作業がいっそう必要なのではないか。小熊氏の〈提起〉を読んでそれを痛感した。

梅崎 透(うめざき・とおる、アメリカ史、フェリス女学院大学教授)
 知識人は、学生運動は行き過ぎた反権威主義で、アナーキズムであり、反知性主義だと言っていた。しかし「68年世代」が大人になり権威をまとうと、若い世代との乖離が生じる。第二波フェミニスト世代の成功例ヒラリー・クリントンは、若い世代の支持を得られなかった。「68年の遺産」をどう語るのか、語る主体によって大きく異なってくる。二〇世紀、もしくはより大きく近代の政治思潮のなかで、より実証的に「68年」を位置づけることが必要ではないか。アメリカ現代史における「ニューディール・オーダー」という時代区分はそうした枠組みの一つと思う。しかし、よりミクロな実証研究をふくめて、すべて「68年」でくくる必要はない。

「68年」後のフェミニズムの展開をどう記述するかは大変興味深い。現在のアメリカでは、一方で第二波の後の第三波を主張する人々がいて、他方でポスト・フェミニズムの時代を主張する人々がいる。第二波の世代に、新自由主義を誘発する傾向への可能性を反省する当事者がいる一方で、そもそもウーマンリブは新自由主義だったという論者もいる。記述から漏れるものに加えて、歴史を語る立場性を意識することが重要だ。

前回予告も拘わらず今回も内容紹介で紙数が尽きた。私の「1968論」は次回となる。(2018/06/26)
2018.06.27   1968年は何処へいった(1)
     ―『思想』の鼎談を読んで考えたこと―

半澤健市 (元金融機関勤務)

 2018年は、明治150年である。
それを記念する公的な行事が計画され実施されている。(内閣府のサイト参照)

《忘れられた「1968年」》
 しかし、「1968年」は、忘れられている。
1968年とは何であったのか。

それは世界的な「異議申立・反乱・闘争」の年であった。
「ベトナム反戦・いちご白書・68年フランス革命・紅衛兵・ベ平連・全共闘・反戦青年委・羽田闘争」、これが「1968年」に関する私の記憶でありキーワードである。
日本の「1968年」は、内ゲバと連合赤軍に帰結した。それはよく言っても痛ましい悲劇として、悪く言えば過激な暴力主義の自滅として人々に記憶されている。
1968年に、青年の異議申立に共感した人びとは、半世紀後のいま、異議申立という言語のない日常性のなかに埋没している。2018年の現在における異様な日本の政治状況は、1968年の結果に大きく関わっている。これが私の認識である。

《「1968」特集の鼎談に注目する》
 雑誌『思想』(岩波書店)の2018年5月号は、全200頁を特集「1968」に充てた。
10人ほどの研究者が、日・米・独・仏の「1968年」を論じて有益な情報を与えている。私は、この特集のなかから、歴史社会学者小熊英二(おぐま・えいじ、1962~、慶大教授)の問題提起をめぐる鼎談に注目した。それは、小熊、ドイツ現代史の井関正久、アメリカ史の梅崎透により行われた。

小熊英二の問題提起(正確には〈提起〉)は、「『1968』とは何だったのか、何であるのか」と題して次の三つの視点を提示する。
1 メディアの台頭
2 近代化の進展
3 冷戦秩序の揺らぎ  
「メディアの台頭」で、小熊は「1968年」の国際性、関連性が過大評価されてきたとする。地域・テーマ・運動に、そんなに相互の関連性はなかった。過大評価の要因の多くは、視覚に訴えたテレビ映像の特性とそれの解釈にあるという。
たとえば紅衛兵はビートルズを知らなかった。毛沢東思想に共鳴したフランス学生は中国の抱えた問題を理解していなかった。日本でも、全共闘・水俣病・金嬉老事件・永山則夫事件の当事者同士は、相互に無関係であった。視覚的映像は、運動を過激化したり劇場型にしたこともあって多数派の獲得につながらなかった。

《小熊英二が提示した三つの視点》
 「近代化の進展」とは、経済成長と消費社会の浸透を指している。メディアの台頭自体がその結果である。それは大衆社会の出現であり、サブカルチュアの興隆である。マンモス大学の不正経理、医学部の独善的な運営が、日大闘争と東大闘争の原因になった。小熊はこれを一般化してこう表現している。
「これらの状況は、急激な社会の近代化に対し、組織の運営や人々の意識が追いついていなかったこと、そのために大きな緊張と摩擦が生じたことを示している。ここでいう近代化は、急激な経済成長であり、消費物資の浸透であり、大学進学率の上昇であり、人権意識の高まりであった」。
小熊によれば、近代化は通信技術の発展を通して運動形態にも変化をもたらした。べ平連や全共闘のような新しい組織化、国際化にもつながった。近代化への反発は脱成長、自然回帰志向、エコロジーへの関心も広げた。近代化に関してのある種の「アンビバレンス」が生じた。

「冷戦秩序の揺らぎ」に関しての小熊の論理は次のようになる。
若者たちは目的を共有しなかったが、意図せざる結果として一つの方向性を共有することになった。それは冷戦秩序への批判である。米ソ及びそれと結ぶ各国の政権や共産党への批判である。そして「日本では新左翼セクト、ノンセクト活動家、べ平連がアメリカへ従属する政権に反発するだけでなく、ソ連や自国共産党に批判的だった。『反帝・反スタ』は米ソ双方への感情的反発の表現だった」と書いている。次の言及は小熊の姿勢をよく伝える。
「エマニュエル・ウォーラースタインは『1968』を評価する理由として、それがアメリカの覇権とそれに妥協したソ連によって築かれた世界システムへの抵抗運動だったからだという認識を示している。彼の認識は、広い意味では(小熊の)本稿と重なるものといえる」。

《「1968」とは何だったのか・何なのか》
 〈提起〉の「おわりに」で、1968年は「何だったのか」、「何なのか」について「概略の仮説」を述べている。
まず「何だったのか」である。
近代化は旧来の秩序を変容させる。その過程には暫定的な安定期があるが、ある時点では地震を起こす。20世紀前半から半ばに作られた国内秩序・国際秩序が各地で共振しながら変動していった。「1968年」とはその地震を集合的に捉えようとしたフレームだった。
「1968年」後も、衛星通信の発達や消費文化の浸透とその影響が、アジアからアフリカまでを覆った一連の民主化過程に及んだとみる。しかし金融危機を経て現在に及ぶ世界秩序の動揺は、「長い1968」というより、近代化の進展であると捉えている。

次は「何なのか」である。
小熊は、2018年から見ての「1968年」を改めて考察する。「メディア、学生、国際性、マイノリティー、フェミニズム、エコロジー、若者文化、新自由主義へのある親和性」などをキーワードとして高い評価をする論に対して三つほどの留保をつける。
第一に、当時の小さくて無関係な現象を先駆的なものと評価する「記憶の創造」が混在すること。
第二に、近代化の成果と「1968年」の影響との混同があること。それを次のように書いている。
「一九六八年以降、女性の社会進出やマイノリティの権利獲得が進み、運動の国際化が一般化し、インターネットが世界を結び、ネットワーク型の組織原理がもてはやされ、新自由主義が台頭した。だがこれらすべてを『一九六八年の運動の成果』とみなすのは、どう考えても過大評価である。(略)近代化のプロセスが、より進んだことを示していると考えた方が適切だ」。

第三に、「これは最も重要なことだが」と断って、歴史は後世の視点で書かれることを強調している。「他国では現在の変化の原点として『1968』が語られるが、日本では一過性の現象としてしかみなされない傾向が強い。まさに歴史とは現在の鏡であり、歴史をどう記述するかは、私たちがとのような現在を生きているかにかかっているのだ」というのである。その理由を七〇年代における不況期の欧米と「ジャパン・アズ・ナンバーワン」時代の日本の違いに求めている。

小熊〈提起〉の結論は次のように結ばれている。
「結論を述べよう。『1968』とは、近代化のプロセスが、既存の秩序にもたらした『地震』だった。そして現在において、どのように『1968』を表象するかは、私たちがどのような現在を生き、どんな社会を作っているかにかかっている」。

《力作の紹介で終わってしまったが》
 「鼎談に注目する」つもりの本稿は、小熊〈提起〉の紹介だけに終わった。しかも端折ったものである。自分のまとめ力をタナに上げていえば、〈提起〉が力作であり、読者は『思想』本誌へさかのぼって欲しい。次回は、鼎談の紹介と私の「1968年」論を述べたい。(2018/06/23)

2015.10.17 島津斉彬
明治日本の産業遺産と薩摩の名君

松野町夫 (翻訳家)

明治日本の産業遺産が2015年7月に世界遺産に登録された。登録名称は「明治日本の産業革命遺産 製鉄・鉄鋼、造船、石炭産業」。英語の名称はSites of Japan’s Meiji Industrial Revolution: Iron and Steel, Shipbuilding and Coal Mining. 産業遺産は福岡、佐賀、長崎、熊本、鹿児島、山口、静岡、岩手の8県に点在し、合計23施設で構成されている。

鹿児島では3施設が登録された。「集成館」(反射炉跡・機械工場・紡績所技師館)、「寺山炭窯跡」、「関吉の疎水溝」。いずれも鹿児島市内にあり、そのほとんどは島津斉彬(しまづ なりあきら)が建設したもの。ただし、紡績所技師館(=異人館)は、斉彬の後継者・島津忠義(ただよし)が1867年にイギリス人技術者の宿舎として建設した。

島津斉彬(1809-1858)

島津斉彬は幕末の薩摩藩の第11 代藩主。島津氏第28代当主。第10代藩主・島津斉興(なりおき)の長男として、1809年3月14日、江戸薩摩藩邸で生まれる。早くから英明をうたわれ、和漢洋の学問に秀でていた。洋学に興味を抱くようになったのは、薩摩藩の第8代藩主で、曽祖父の島津重豪(しげひで, 1745-1833)の影響が大きい。重豪は、曾孫である斉彬の利発さを愛し、幼少から暫くの間一緒に暮らし、入浴も一緒にしたほど斉彬を可愛がった。重豪は斉彬と共にシーボルトと会見し、当時の西洋の情況を聞いたりしている。

ちなみに、シーボルト(1796-1866)はドイツの医師。1823年6月に来日。本来ドイツ人だが、オランダ人と偽って長崎の出島のオランダ商館医となった。医学ばかりでなく、動物、植物、地理にも造詣が深かった。出島で開業した後、1824年には長崎郊外に私塾「鳴滝塾」を開設し、日本各地から集まってきた多くの医者や学者に西洋医学(蘭学)を講義した。塾生には、高野長英・二宮敬作・伊東玄朴・小関三英・伊藤圭介らがいる。1828年に帰国する際、先発した船が難破し、積荷の多くが海中に流出して一部は日本の浜に流れ着いたが、その積荷の中に幕府禁制の日本地図があったことから問題になり、国外追放処分となる(シーボルト事件)。当初の予定では帰国3年後に再来日する予定だったという。

1848年には斉彬は40歳の壮齢であったが、斉興は藩主の座を譲らなかった。斉興は側室のお由羅(ゆら)の方との間に生まれた久光を後継者にしようと考えていた。こうして薩摩藩は、嫡子・斉彬を擁立する派と久光を擁立する派が対立し、お家騒動(お由羅騒動)に発展した。1849年、斉彬派側近は久光とお由羅を暗殺しようと計画したが、情報が事前に漏れて首謀者13名は切腹、連座した約50名が遠島・謹慎に処せられたが、この騒動が幕府の耳に入り、斉興は隠居を命じられ、斉彬が家督を継いだ。

1851年2月、斉彬は藩主に就任するや、藩の富国強兵に努め、洋式造船、反射炉・溶鉱炉の建設、地雷・水雷・ガラス・ガス灯の製造などの集成館事業を興した。1851年7月には、土佐藩の漂流民でアメリカから帰国した中浜万次郎(ジョン万次郎)を保護し藩士に造船法などを学ばせたほか、1854年、洋式帆船「いろは丸」を完成させ、帆船用帆布を自製するために木綿紡績事業を興した。西洋式軍艦「昇平丸」を建造し幕府に献上している。黒船来航以前から蒸気機関の国産化を試み、日本最初の国産蒸気船「雲行丸」として結実させた。斉彬は徳川斉昭、松平慶永や老中・阿部正弘らと親交があり、その見識は高く評価されていた。ペリー来航(1853)による国内不安に際しては、幕府に開国と海防の要を説いた。斉彬はまた、西郷吉之助(隆盛)、大久保一蔵(利通)ら下級武士を藩政に登用し、その後の薩摩藩の勤王運動の原点となった。

鹿児島市照国町には、照国神社(てるくにじんじゃ)がある。この神社は鹿児島の夏の風物詩「六月灯(ろくがつどう)」で県民に親しまれているが、祭神は照国大明神(島津斉彬)。

ちなみに六月灯とは、旧暦の6月(現在は7月)に和紙に絵や文字を書いた灯籠を県内の神社や寺院に飾り、歌や踊りを奉納する祭りのこと。なかでも照国神社の六月灯が最大規模である。

2015.09.19  陸軍にもあった海上特攻隊
    ベニヤ製の小型艇で敵艦に突っ込む

岩垂 弘(ジャーナリスト)

 8月28日付毎日新聞夕刊社会面のトップ記事に目が止まった。「『真珠湾』最初の爆弾投下」「軍神 敗戦を予見」という見出しのついた記事。アジア・太平洋戦争の口火となった1941年の真珠湾攻撃で最初の爆弾を投下し、翌年、南洋で35歳で戦死し「軍神」とあがめられた日本海軍のパイロットが生前、家族に戦争指導部の無謀な作戦と無残な敗戦を言い当てていた、という内容だった。「戦争指導部の無謀な作戦」という活字に、私は、今夏、広島で見聞した「旧陸軍の海上特攻隊」を思い出した。

 8月7日、広島で「海から見えるヒロシマ(船をチャーターしての、広島湾海上フィールドワーク)」というツアーがあった。竹内良男さん(東京都立川市、元教員)が企画したツアーで、狙いは「歴史の現場を自分の足で歩きながら、今につながる話を聴き、自分の目で見ることを通して、戦争と平和を考えよう」というものだった。参加者は約50人。

 6日に広島市内で行われた市主催の平和記念式典や、原水爆禁止関係団体の集会を取材するため同市に滞在していた私もこれに参加したが、ツアーのコースは宇品(うじな)港――似島(にのしま)――江田島(えたじま)――金輪島(かなわじま)――宇品港。ツアー参加者は広島市街南端の宇品港を小型客船で出航、これらの島々を回った。

 乗船前に竹内さんが参加者に配布したツアーの予定表を見ていたら、江田島では、「海の特攻」の訓練に取り組んでいた元陸軍少年兵の証言を聞く、とあった。私は、頭をかしげた。特攻といえば、「空の特攻」、すなわち航空機による特別攻撃隊がよく知られいる。これには、海軍によるものと陸軍によるものがあった。これに対し「海の特攻」と聞いて、私がとっさに思い起こしたのは、「人間魚雷」といわれた海軍の特攻兵器の大型魚雷「回天」だった。
 この「回天」に乗って訓練中、事故で殉職した特攻隊員のことを取材すべく、私は以前、「回天」訓練基地があった大津島(山口県の徳山湾内)を訪れたことがあった。だから、「海の特攻」といえば、海軍によるものとばかり思ってきたのである。「陸軍にも海の特攻があったって?」。ますます興味を覚えた。

 船が江田島に近づいた。戦前生まれの人にはかなり知られた島と言っていいだろう。敗戦まで、この島に海軍将校養成のための海軍兵学校が置かれていたからである。
 私たちは、桟橋から島に上陸した。島の北端、幸ノ浦というところだという。畑の中に家屋が散在する静かな海浜の村落だ。江田島市の一部という。

 桟橋のわきに、海を背にした石造りの慰霊碑が建っていた。それには「海上挺進戦隊顕彰之記」が刻まれていた。建立は1967年とあった。

 竹内さんが参加者に配布した資料などによると、幸ノ浦に基地が置かれていた「海の特攻」とは次のようなものだった。
 アジア・太平洋戦争で日本の敗色が濃くなったのは1944年(昭和19年)である。何とか局面を打開しなくてはと、海軍が開発したのが航空機による特攻「神風特別攻撃隊」だった。軍用機に乗った隊員が敵艦に体当たりして自爆し、敵艦に打撃を与えるという、いわば戦死を前提とした戦法であった。この年10月には、フィリピンのレイテ沖海戦で神風特別攻撃隊が初めて出撃する。

 陸軍も特攻作戦の具体化を急ぐ。その結果、創設されたのが、「海上挺進戦隊」だった。自動車のエンジンで駆動するベニヤ製の小型艇に250キロの爆雷を積み、夜陰に乗じて1人で敵艦に突っ込む部隊だ。小型艇は長さ5・6メートル、幅1・8メートル、最大速力20~25ノット、航続時間3・5時間。部隊の存在は秘匿され、小型艇の製造も極秘裡に行われた。出来上がった小型艇は「マルレ」という秘匿名称で呼ばれた。
 隊員の大半は、15~19歳までの少年兵。陸軍各部隊から選抜した者や志願者で構成した陸軍船舶兵の特別幹部候補生だった。広島市宇品にあった陸軍船舶司令部が隊員養成と戦隊編成に当たった。 

 瀬戸内海の小豆島などで訓練を受けた戦隊隊員は、江田島幸ノ浦にあった基地に集められ、ここから44年9月以降、順次、フィリピン、台湾、沖縄方面に出撃した。戦地に向かった戦隊隊員は約計3100人、うち戦没者は1790人とされる。「30ヶ戦隊が昭和19年9月以降続々沖縄、比島、台湾への征途にのぼり、昭和20年1月比島リンガエン湾の特攻を初めとし同年3月以降の沖縄戦に至る迄鬼神も泣く肉迫攻撃を敢行しその任務を全うせし……挙げたる戦果敵艦数10隻撃沈、誠に赫々たるものありしも当時は秘密部隊として全く世に発表されざるままに終れり」と慰霊碑にある。
20150918-岩垂-写真-広島 268
     広島県江田島市幸ノ浦の浜辺に建つ海上特攻隊戦没者の慰霊碑

 そればかりでない。隊員たちは予想もしていなかった事態に遭遇する。米軍による広島への原爆投下だ。この時、爆心から南約13キロの幸ノ浦基地には、本土決戦にそなえて特攻隊員、整備要員ら約2000人が駐在していた。隊員らは、広島の空高くのぼった、きのこ雲を目撃したはずである。
 原爆投下直後、隊員たちは船舶司令部からの命令で広島市内へ向かい、被爆者の救援にあたった。多数の被爆者が運ばれた隣の島の似島で被爆者の救援活動にあたった隊員もいた。こうした経緯から、隊員の中にはその後、放射線障害に苦しむ人もいたと伝えられている。 

 ツアー一行が幸ノ浦に滞在中、村落の集会所で、元海上挺進戦隊隊員の和田功さん(89歳)=広島市=の話を聞く機会があった。敗戦の8月15日には、上官の命令で、ベニヤ製の小型艇を焼いたという。和田さんは「あんな船でよくも戦争したものだ」と悲しそうな表情を浮かべ、「秘密部隊として扱われた部隊の歴史を知ってほしい」と訴えた。
 
 それにしても、ベニヤ製の小さな舟艇に爆雷を積んで単身、敵艦に突っ込むとは。何という無謀な作戦だろう。それにより、まだ成人前の若い生命が多数失われた。島を去る時、私は桟橋わきの慰霊碑の前に再び立った。戦死の瞬間に、少年兵たちの脳裏をよぎったものは果たして何だったのだろうか。そう思うと、無謀な作戦を遂行した戦争指導者への言いようもない怒りがこみ上げてきた。

 知り合いの元新聞記者によれば、アジア・太平洋戦争の開戦時、米国の国民総生産(GNP)は日本のそれの13倍だったという。そんな大国に宣戦布告した日本。冷静に考えれば、まことに無謀な戦争だったのである。

 作家の半藤一利氏は著書『昭和史 1926-1945』(平凡社、2004年刊)のむすびの章「三百十万の死者が語りかけてくれるものは?」中で、「昭和史の二十年がどういう教訓を私たちに示してくれたかを少しお話してみます」として、5点を挙げている。その一つに「何かことが起こった時に、対症療法的な、すぐに成果を求める短兵急な発想」を挙げ、「これが昭和史のなかで次から次へと展開されたと思います。その場その場のごまかし的な方策で処理する。時間的空間的な広い意味での大局観がまったくない、複眼的な考え方がほとんど不在であったというのが、昭和史を通しての日本人のありかたでした」と述べている。

 半藤氏はこの章の中で「歴史に学べ」と言っている。戦後70年。日本人はこの間、過去の歴史に学んできただろうか。
2015.08.20  中国大陸との国交正常化
          ―あらためて考える「歴史問題」 4 (最終回)

田畑光永 (ジャーナリスト)

 このシリーズの途中で8月14日に安倍首相の「終戦70周年談話」が出された。しかし、予想通り「歴史問題」にきっちりけじめをつけるような談話とはならず、15日の番外篇で指摘したように、適当に言葉をつぎはぎしながら、なるべくみずからは反省も謝罪もしないで、同時に非難も浴びないように形をつけただけのものに終った。したがって、こちらも今までの話を続けることにする。
 これまでの3回では20世紀前半における中国侵略、朝鮮併合という日本の行動は、中国大陸、朝鮮半島、日本列島が中華を中心とする緩やかな朝貢冊封体制のもとでの共存体制というこの地域の伝統にそむくいわば「掟破り」であったこと、しかし太平洋戦争のあとの中国の内戦、朝鮮戦争というアジアの激変の中で行われた中華民国(台湾)、韓国(朝鮮半島南半部)との国交調整では、相手側は日本の「掟破り」に謝罪を求めるほど立場に余裕がなく、両者とも対日不満を抱きつつも国交が再開された経緯を述べて来た。しかし、1972年の秋に至っていよいよ中国大陸の政権との国交正常化交渉の機が熟した。

日中正常化における戦後処理
 戦後初めて大陸の土を踏む日本の首相として、過去の戦争についてどう語るか、中華民国の時のように表向き何も言わずにすますことは出来ない。ではどう言うか?時の田中首相が大いに悩んだことは当時の状況から明らかである。先述したように戦後すぐに東久邇宮首相が「中国に謝罪使を特派したい」との意向を内外に明らかにした事実を、田中首相が知っていたかどうかは不明だが、皮肉なことに1972年当時は蒋介石になお恩義を感ずる勢力からの「中共に頭をさげることは許さない」という圧力はかなりなものであった。それをかわすために田中首相が選んだ言葉が有名な「ご迷惑」である。
 訪中初日、9月25日夜の歓迎宴での「(過去数十年にわたって)多大なご迷惑をおかけした」という田中首相の挨拶は、翌日の首脳会談で周恩来首相から「言葉が軽すぎる」と強い言葉での抗議を呼んだ。しかし、これに対しては田中首相は「ご迷惑と言った自分の真意は謝罪である。したがってその言葉が不適当であるなら、中國側の記録にははっきり謝罪としてもらって構わない」と釈明して、その場をしのいだ。そしてこの問題は共同声明前文の「日本側は、過去において日本国が戦争を通じて中国国民に重大な損害を与えたことについての責任を痛感し、深く反省する」という一節となって決着した。ここで反省は表明したものの、「謝罪」までは踏み込まなかったことが問題を後に残した。
 田中首相の釈明は日本国内向けにはあくまで「ご迷惑」、中國側がそれを「謝罪」と受け取っても異存なし、という双方の国内事情を刺激しないための苦心の弁であるが、周恩来首相が本心、これで納得したとは思えない。
 しかし、そもそも中国が前年7月に米のキッシンジャー特使を受け入れてニクソン訪中の話を進め、また日本との国交交渉を開くに至ったのは、当時、対立が深まっていたソ連に対抗するために米・日へ接近するという外交戦略上の必要に迫られていたからであった。したがって過去に対する「謝罪」にこだわって会談を決裂させるわけにはいかなかった。ここでも中國の状況が日本を助けたのである。
 同じことは賠償問題でも起こった。深刻さはこちらのほうがまさった。と言っても、中国側が日本に賠償を払えと要求したわけではない。その代りに中國側は「中日両国国民の友好のために賠償請求権を放棄する」と共同声明に書き込むことを主張した。それに日本側が異を唱えたのである。その理由は20年前の日華平和条約で台湾の中華民国政府がすでに賠償請求権を放棄しているから、この問題はすでに決着ずみであるということだった。つまり、中国側には放棄すべき請求権それ自体がもはや存在しないというのが、日本側の立場であった。
 これに周恩来は激怒した。そんな理屈は中国人民を侮辱するものだ、とまで言った。もともと終戦直後の中華民国は戦争で多大の被害をこうむった以上、日本には賠償を支払わせるという立場であった。在華日本軍民の引揚げについては「暴に報いる徳を以てせよ」と国民を説得した蒋介石も、1945年10月17日に重慶でUP通信のヒユー・ベイリー社長と会見した際には「日本とドイツは戦争誘発に対し同等の責任を有するものであるから両国の処罰は同じ見地からなされなければならないと信ずる」と述べ、同社長は蒋介石から「寛大な和平には決して賛成しない」という印象を受けたと書いている(当時の新聞報道)。
 その後も国民党政権はことあるごとに日本に賠償を要求したが、日華平和条約にいたって請求権を放棄したのは以下のようなやりとりの結果である。同条約が国会で批准された当時の外務省条約局長(後に外務次官)だった下田武三の回想禄『戦後日本外交の証言』にはこうある。
 「国府側は賠償問題では、対日戦争の最大の被害者である中国が賠償を放棄することは中国の国民感情が許さない、として対日賠償請求権を強く主張した。これに対して日本側は、中国大陸における中国の戦争被害は大陸の問題であり、この条約の適用範囲外であるとして、条約からの削除を求めた」(下田『戦後日本外交の証言』)
 この日本側の主張はもっともである。賠償は政権に払うのではなく、国民に払うものである以上、戦争中は日本領であった台湾・澎湖島に統治範囲が限られる中華民国政権に戦争賠償を払うのは筋が通らない。内戦に敗れた国民政府にしてみれば傷口に塩をすり込まれるような言い草に聞こえたであろうが、理は日本側にある。
 しかし、それなら大陸の政権が請求権を持つことを認めなければ、今度は日本側の態度が一貫しない。というより、台湾が放棄したから、すでに大陸の政権には請求権がない、というのはほとんど詐欺の論理である。
 ところがこの点でも中國側が譲歩した。日中共同声明の第五項は「中華人民共和国政府は、中日両国国民の友好のために、日本国に対する戦争賠償の請求を放棄することを宣言する」となった。請求権の「権」が消え、したがって日本側との合意というより、中國側の一方的宣言である。
 さらにつけ加えれば、「戦争状態の終結」についても、日本側の「日華平和条約によって終結」という立場を中国側が認めて「戦争」という言葉なしに、共同声明第一項は「日本国と中華人民共和国との間のこれまでの不正常な状態は、この共同声明が発出される日に終了する」となった。
 こう見てくると、二〇世紀前半の日本の行動に対する中国、韓国の憤懣は、公式の戦後処理の場においては、中国へは田中首相の「ご迷惑」発言と日中共同声明における「責任を痛感し、深く反省する」という言葉、そして韓国へは無償3億ドル、有償2億ドルの経済協力だけで解決されたことになった。
 これは当事者間の合意の結果であるから、日本の責任というわけではない。ただ中国、韓国にとっては日本の行動の責任をきびしく追及し、納得のいく結果を得るだけの余裕のない状況で国交を開かなければならなかったことが、後々折に触れて歴史問題が国家関係をこじらせる原因となったことは否めない。

謝罪より歴史の直視を
 勿論、その後、日本の首相は「謝罪」をおこなってきた。代表的な例が一九九八年の金大中大統領との日韓共同声明における小渕恵三首相の謝罪、同年の中国・江沢民主席への同首相の口頭による謝罪、それに相手を特定しない一九九五年の村山富市首相の戦後五十年にあたっての談話、同じく二〇〇五年の戦後六十年にあたっての小泉純一郎首相の談話である。
 これだけ謝罪すれば、中国にせよ韓国にせよ、国交回復時の不満を解消してもいいはずと思えるのに、なお謝罪が求められるのはいかなる理由か。そこが問題の核心であるが、それは日本の政治世界における歴史認識のあいまいさが折角の謝罪をしばしば不透明なものにしたり、否定したりするからである。
 村山首相の談話は、わが国が遠くない過去に「国策を誤り」、「侵略」と「植民地支配」をおこなったことを「謝罪」した。この談話が意味を持ち続けるためには、後継者はこれを尊重しなければならない。しかし、小泉首相は「国のために命を捧げた人々に哀悼の誠を捧げるため」に六度も靖国神社に参拝した。安倍首相も一昨年の年末に参拝した。自分たちの戦争を「侵略」と認めて謝罪しながら、一方でその戦争の指導者を含めて、直接それに従事した人間を「国のために命を捧げた」と称揚して参拝するのは論理矛盾である。
 その時点で以前の首相の謝罪は俗な言葉で言えば効力が切れる。それが繰り返されてきた。その根底にはあの戦争を心底悪かったとは思わない系譜がこの国には脈々と生き続けている。福沢諭吉が前出の「脱亜論」で「支那朝鮮」が時勢に遅れているのだからという理由で、わが国の「支那朝鮮に接するの法も隣国なるが故にとて特別の会釈に及ばず、正に西洋人が之に接するの風に従て処分す可きのみ」と書いたように、あの戦争は欧米先進国が世界中でやっていることを真似ただけとする考え方である。
 昔からの三国共存の掟を破って、明国目指して朝鮮に出兵した豊臣秀吉もカトリックの宣教師から織田信長を経由して注ぎこまれた弱肉強食の「世界の趨勢」に突き動かされたのであろうし、明治日本の指導者たちも世界の大勢におくれまいと武器をとることに躊躇しなかった。「如何となれば世界文明の喧嘩繁劇は東洋孤島の独睡を許さざればなり」(福沢『脱亜論』)が、戦いを正当化する根拠であった。
 自己の行為そのものの善悪をつきつめるのでなく、他人との比較で自己の正当性を量るのはわが国の特性の一つであることは、従軍慰安婦の議論でかならず他国の例が持ち出されるところにも顕著である。
 こう見てくると、わが国と近隣国との歴史問題はまさに戦後の歴史の巡り合わせと国民性が生んだアジアの宿題である。今尚それは生きているというより、世代が変り、今やわが国と中国、韓国との国力の差も縮小、ないし逆転して、あらためて三国の関係を考え得る時代になったということであろう。韓国、中国にしてみれば、戦後70年にして初めて、損得勘定抜きに「掟破り」を正面から問題に出来る状況になったのである。
 とすれば、相手は政権の弱さを補うために昔のことを言い立てているといった受け取り方でなく、現在のアジアの力関係から生まれた、古いが新しい問題としてとらえ直すことが必要である。
 と言っても、別に妙案があるわけではない。なすべきは真面目に歴史を直視することである。現代史が難しいのは、現に生きている人間と直接に関わりがあった人間の行為を評価しなければならないからである。戦争は多くの人間の命に関わる出来事であるから、客観的な評価がためらわれる場合があるのはやむを得ない。靖国神社問題などはその典型である。
 靖国神社は戦死者を神として祀ることによって、国民を兵員として徴発するのを容易にするための施設であったことは疑いようのない歴史の事実である。しかし、その存在が肉親を失った遺族の悲痛をいくらかでも慰める限りは、国民全体が一致して、戦死者とは命令によって他国を侵略し、他国の国民を苦しめ、その過程で自らも命を落とした犠牲者であって、「英霊」などと呼ぶことは歴史の真実を覆い隠す偽装であると、認識することは困難であろう。
 戦場でなにをして命を落としたかを問うことはせずに、「お国のために命を捧げた英霊」としておくことは遺族を含む有権者の感情を傷つけたくない政治家にとっては都合のいい逃げ道である。その靖国神社に参拝することは政治家にとってプラスになる。そのためにはあの戦争をあからさまに侵略と決めつけるのは具合が悪い。そこで言葉を濁す。侵略の定義はいろいろある、などと無意味な抵抗をする。英霊の集団が女性たちを従軍慰安婦にして、「耐え難い苦痛」を与えたというのもためらわれる。そこで業者なるものを介在させて従軍慰安婦の存在自体を商行為に仕立て上げる。こうした内向きの戦争の偽装工作がこれまで外向けの謝罪の真意を疑わせ、無効にしてきた。なんど謝ってもまた・・・というのは、この偽装工作の故である。
 しかし、戦後も七十年。こうした偽装工作を卒業する時期ではないか。すくなくとも、偽装工作を破綻させないために、被害国からの批判にむきになって反論したり、相手の被害を割引いたりするような言説は事態を悪化させるだけである。加害者は被害者の批判にはだまって耳を傾ける義務があるはずである。(完)
2015.08.19  戦後70年、敗戦記念日に『NO MORE 731日本軍細菌戦部隊~医学者・医師たちの良心をかけた究明~』(文理閣)が刊行された
          ~関西から(171)~

広原盛明 (都市計画・まちづくり研究者)

 「15年戦争と日本の医学医療研究会」(以下、研究会という)という医学者・医師・科学史研究者から構成される研究団体がある。2000年6月に設立され、同年秋から研究会会誌が年2回発行されてきた。研究会の目的は、「本会は15年戦争をめぐる日本の医学医療界の責任の解明を目的とする」(会則第2条)とあるように、15年間にわたって中国大陸において展開された日本軍の侵略戦争に加担した医学医療関係者の戦争責任を追及するため、そのための史実・証言を収集調査し、研究することである。

 周知のごとく、日本軍は15年戦争において国際法上禁じられている生物化学兵器を使用した細菌戦・毒ガス戦を計画し、その作戦展開のため中国東北部(満州)近郊の平房区に大規模な731部隊を建設した。同基地においては3000人余の中国人が「マルタ」との呼称のもとに人体実験・生体解剖などに供されて殺害され、当時の大学医学部に所属する多くの医学者・医師がこの恐るべき犯罪行為に加担した。しかしながら戦後、これらの「実験結果」を秘匿して新たな軍事目的に利用しようとするアメリカの意図のもとで、731部隊に関係した医学者・医師の多くは「免責取引」によって犯罪追及を免れたばかりか、日本の医学界・医療界に復帰して公然と要職に就くなど、その戦争犯罪は戦後70年に至るもいまだ裁かれていない。一方、太平洋戦争末期の1945年5月、九州山地で撃墜された米空軍B29の捕虜8人を生体解剖に付した日本軍および九州大学医学部関係者は、3年後の米軍横浜軍事法廷において5名が絞首刑、立ち会った医師全員が有罪となっている。

 医学医療関係者でも科学史研究者でもない私がなぜこのような拙文を書くのかと言うと、今回の出版に関わった17人の執筆者のなかで私が唯一医学医療専門外の研究者であり、執筆参加の理由を明らかにした方が本書の理解を進めるうえで有効だと考えたからである。私が執筆したのは、「第Ⅱ部 731部隊の所業」のなかの「Ⅱ-7 731部隊を建設した日本の建設業者」、731部隊の基地を建設した日本の建設業者を特定するための検証作業を記したものである。

 執筆に参加した直接的な切っ掛けは、研究会の第9次訪中調査団(2011年9月)の一員に加わったことにあるが、実はその前に少しばかり「前史」があることを語らなければならない。私は、父の任地(満鉄哈爾濱鉄道局)の関係で731部隊の所在地・平房区に近接するハルビンで1938年に生まれた「ハルビンっ子」であり、京都では「ハルビン会」という同窓組織に所属していた。ハルビン会の中心はハルビン日本人学校のなかでも最も古い歴史を持つ京都ゆかりの桃山小学校(西本願寺1909年創設)の卒業生たちであり、私は同窓生でもないのにただ「ハルビン生まれ」というだけでその一員に加えていただいていた(高齢化による会員数の減少を補うため)。

 そんなことでハルビン会に出席しては参加者のハルビンの思い出話を聞き、桃山小学校同窓会誌(『回想の哈爾濱、哈爾濱桃山小学校創立九十年記念誌』1999年)やハルビン中学、ハルビン商業、富士高女、扶桑高女、ハルビン医大の卒業生たちが綴った『昔、ハルビンにいた、PARTⅡ』2010年)などの記念文集をいただくなど交友を温めてきた。また私個人としてもハルビンは建築関係者とともに何度も訪れ、満鉄時代の主な建造物の見学を重ねてきた思い出の地でもある(自分の生まれた満鉄社宅団地も含めて)。

 私が第9次訪中団に加わったのは、研究会の事務局長である西山勝夫滋賀医大名誉教授のお誘いによるものである。氏は私の恩師、西山夘三京大名誉教授(故人)の御長男で古くからの知己であり、私がハルビン生まれであること、ハルビンの建築・都市計画に関心があることを知っておられたのだろう。中国側で731部隊遺跡の世界遺産登録の準備作業が始まっていたこともあって、これまでの医学医療関係者に加えて建築・都市計画専門家が必要との判断のもとに参加要請があったのである。

 帰国後、現地での調査結果を3カ月ほどでまとめ、研究会会誌2011年12月号に2つの論文として発表した。ひとつは『中国東北部ハルビン731部隊遺跡訪問記~731部隊遺跡の世界遺産登録をめぐって~』であり、平房区の印象、遺跡(跡地)保護の歩みなどを検討し、世界遺産登録基準に照らしてその可能性を検討したものである。もうひとつは、今回の出版に際して収録された『731部隊を建設した日本の建設業者』に関する論文であり、その意図は当該建設業者を特定して世界遺産登録に必要な設計図面や施工図など関係書類を収集したいと考えたからである。

 だが結論から言えば、残念ながら当該建設業者は特定できなかった。最大の理由は敗戦状況が決定的になると、戦争犯罪の追及を恐れた731部隊関係者は家族も含めて逸早く逃走し(帰国し)、残された基地や各種施設を爆破したうえ、関係記録を悉く焼き払って処分したからである。また関係したとされる建設業者の社史も悉く調べてみたが、731部隊に関する記録は一切発見できなかった。文中にも書いたように、日本軍(関東軍)に関する建設記録は軍事機密に属し(工事名はすべて暗号で記載されていた)、設計図も施工図も建設終了時には軍に返却しなければならない決まりになっていたからである。

 したがって、私の採った方法は731部隊に関する既存刊行物(著作)の中から基地建設や建設業者に関する箇所を抽出し、それら記述の信憑性や妥当性を検討しながら消去法的に当該建設業者を絞っていくというものにならざるを得なかった。いわば、状況証拠を積み上げて犯人を追及していくような推理小説まがいの方法である。面白いといえば面白いが、やはり研究作業としては「程遠い代物」と言わなければならない。しかし、歴史資料は秘かに個人が持ち帰ったものが数十年も経って発掘されるなど、往々にして予想外の場所から発見されることが多い。そんなことでいろんな知人のネットワークを辿って探してみたのだが、残念ながら見つけることができなかった。拙ブログを読んで関係者や資料の在り処をご存じの方があれば是非とも教えてほしい。

 安倍首相が8月14日、戦後70年談話を発表した。内容は今後多くの国民によって検証されるであろうが、医学医療界ひとつを取ってみても日本の戦争責任は「頬かぶり」のままである。「15年戦争と日本の医学医療研究会」のように医学者・医師としての良心にかけて真実を究明しなければならないとする人たちもいれば、犯罪責任を免れようとして一切の事実を覆い隠そうとする人たちもいる。歴史はやがて真実をひとつひとつ明らかにしていくであろうが、安倍談話を契機にして全てをチャラにするような「未来志向」だけは避けてほしい。
2015.08.15  小賢しさの限りを尽くした安倍談話
    ―あらためて考える「歴史問題」番外
 
田畑光永 (ジャーナリスト)
                     

 敗戦70年の安倍談話が発表された。ひと言でいって、いかにもこの人らしい談話である。予想される批判に対して言いぬけ用の布石を配して、どうだ文句はないだろうと胸をはっているのだが、それがかえって本人の心底を浮き彫りにしてしまうという結果に気付いていない。小賢しさの限りを尽くしている点では出色である。
 簡単な例からいけば、村山、小泉両談話で共通に使われた4つのキーワード(マスコミの命名だが)、つまり「侵略」、「植民地支配」、「痛切な反省」、「こころからのお詫び」が入るかどうかという内外の関心には、なるほど「全部入れました」と答えられるようになっている。
 しかし、談話を読めば明らかなように、最初の2つは今後そういうことがあってはならないという文脈での使用である。「侵略しました」、「植民地支配をしました」と言っているわけではない。後の2つは「先の大戦における行い」について「我が国」はその言葉を表明してきたという文章である。敗戦70周年時の首相として反省し、お詫びを言っているわけではない。そして相手は「インドネシア、フィリピンはじめ東南アジアの国々、台湾、韓国、中国など、隣人であるアジアの人々」である。
 結局、この4つの言葉の使い方で分かるのは、まず安倍首相は日本が「侵略しました」「植民地支配をしました」とは言いたくない。第2に、ほかの国々と並べることで中国、韓国を特別扱いしたくない、はっきり言えば中国、韓国に頭を下げるのではない、ということだ。隠すより現るる、とはこのことだ。
 このくだりの最後に、「こうした歴代内閣の立場は、今後も、揺るぎないものであります」とあるが、村山、小泉両談話は、日本の行った「侵略」、「植民地支配」に「反省」と「お詫び」を表明したのだから、この安倍談話を「こうした歴代内閣の立場」と言うのは明白なすり替えである。村山、小泉両談話は今後、安倍談話に吸収されてしまう恐れがある。
 この4つの言葉については、NHKは昨夜の7時のニュースで「すべて取り入れられたから、中国、韓国からも一定の理解が得られるのではないか」などと馬鹿な解説を加えていた。勿論、現実政治はインチキだろうとなんだろうとお互い打算と都合で動くから、実際はどうなるか分からないが、こんな小賢しさも見抜けないとはNHKも情けない限りだ。
 しかし、安倍談話の本当の問題点は別のところにある。冒頭で、百年以上前の世界には西洋諸国の広大な植民地が広がっており、その波がアジアにも押し寄せてきた危機感が日本の近代化の原動力となった。・・・日露戦争は植民地支配のもとにあった、多くのアジアやアフリカの人々を勇気づけました、という歴史観が述べられている。
 この談話について安倍首相に進言する報告書をまとめた「21世紀構想委員会」の中でこういうことを言いそうな人間の見当はすぐつくが、これは日清戦争から朝鮮併合までの歴史を「近代化のため」という錦の御旗でおおって正当化する歴史観だ。
 介入する理由もない朝鮮の東学の乱にむりやり介入して、清国軍を戦いに引きずりこんで、挙句、当時の日本の国家予算の4年分にもあたろうかという莫大な賠償金と台湾を奪い取った日清戦争も、日露戦争の余勢を駆って朝鮮王朝の抵抗を抑えつけて植民地とした朝鮮併合も、ともに正当な行為であったと、(歴史家が主張するのではなく)日本政府が閣議決定したのである。それも自分が植民地を作りながら、「多くのアジア、アフリカの人々を勇気づけました」などと自画自賛しながら。
 安倍首相は「侵略の定義は定まっていない」などと言って、都合の悪いところは逃げるくせに、19世紀末から20世紀初頭にかけての歴史について、定説どころか、そういう見方もないではないといった程度の俗説を政府の見解として認定してしまったのである。これで右翼陣営が勢いづいて、教科書検定などでこの見方がのさばるようなことになったら、それこそ「歴史問題」はどこまで深刻になるか、空恐ろしい。
 では安倍談話では、日本はなにが悪かったと言っているのか。1930年代の世界恐慌の時代、経済のブロック化が進む中で「日本は孤立感を深め、・・・(行きづまりを)力の行使によって解決しようと、・・・世界の大勢を見失っていきました」というのである。
 この記述は間違いでないにしても、前からの文章の運びでは、悪かったのは30年代からですと言って、朝鮮・台湾支配も、対華21条要求も、なにも問題なしということになる。
それらを正当化するのがこの談話の目的ではないかとさえ思える。
 おそらくそのように歴史を要約しようという発想は、今年の新年にあたっての天皇の次のお言葉から生まれたものではないだろうか。
 「本年は終戦から70年という節目の年に当たります。多くの人が亡くなった戦争でした。・・・この機会に、満州事変に始まるこの戦争の歴史を十分に学び、今後の日本のあり方を考えていくことが、今、極めて大切なことだと思っています」
 確かに1945年の敗戦に直接つながる満州事変以降の15年戦争の歴史を学ぶことは大切だが、天皇がそれ以前の歴史は間違っていなかったから学ぶ必要はないと考えられてのお言葉とは思えない。しかし、ことさら30年代以降を問題として、それ以前を正しい「近代化」とする今回の安倍談話はこのお言葉を下敷きにしているような印象がぬぐえない。そういう点の頭の働きはなかなかすばしこいと認めざるをえない。
 ともかく安倍流小賢しさの塊と言ってもいいこの談話が内外でどう評価されるかは注目される。
 とりあえず植民地支配を正当化され、また従軍慰安婦という言葉を使わずに、問題を戦争における女性の悲劇一般での言及に止められた韓国は黙っていられないだろうし、日清戦争、対華21カ条要求を正当化された中国も収まらないのではないかと思われるが、さて現実政治がどう進むか。

2015.08.13  戦後の激流に流された「掟破り」
    ―あらためて考える「歴史問題」 3 
         
田畑光永 (ジャーナリスト)
                      
 中国、朝鮮、日本の共存体制というアジアの掟を破った日本の20世紀前半の行動は、ポツダム宣言受諾からサンフランシスコ講和条約調印という国際外交の世界では、特にその非道義性を問題にされることはなく、一般的な戦争処理の形を踏襲して処理された。したがってそれらの場面で「歴史問題」が登場することはなかった。謝罪を最初に口にしたのは敗戦直後に日本の首相に就任した東久邇稔彦陸軍大将で、中国に謝罪使を派遣する考えを公表したが、実現せずに終わった―ここまでが前回で、それでは個別の外交はどう進んだかが今回のテーマである。

 本稿では便宜上「歴史問題」という言葉をタイトルに使っているが、戦後すぐの時期には戦争はまだ歴史になっていなかったから、「日本軍国主義の一掃」がアジアから日本に注がれる視線の先にあるテーマであった。
 1948(昭和23)年8月、戦後初めての中国からの要人として国民政府の張群・前行政院長(当時)が来日した。張群は個人の資格での訪日と言いつつ、芦田均首相との会談では「日本の旧勢力の復活については特に心配している」と、軍国主義がほんとうに一掃されたかどうかを確かめるのを大きな目的としていることを明らかにした。
 そして帰国を前にした記者会見ではこんな風に述べている―
 「例えば先日鎌倉へ行った時あるお寺に軍馬、軍犬を祭ってあるのを見たが、昔風の武士道的神道的残りがあるように見られた」(1948年9月12日『朝日新聞』)
 「たとえばまだ軍馬や軍犬を神のようにあがめたり、靖国神社へ参拝するものも多いといった具合で、本当に日本が民主化になるためにはなお多くの困難があると思う」(同『毎日新聞』)
 張群は帰国後、中国国内向けにラジオ放送を通じて日本の印象を語った(9月28日夜)が、そこでの結論は「今日の日本人の思想、社会の風俗習慣は学芸作品、芝居などになお歴史の余毒が残っているが、これが日本の民主化を妨げているとは認められない」(9月29日『毎日新聞』)という穏当なものであった。因みに戦後、靖国神社が中国人から公に批判されたのは、おそらくこの時が最初である。
 しかし、中国、韓国(北朝鮮も)との新しい国交調整の舞台は一向に整わなかった。
 まず中国であるが、日本敗戦の翌年から国民党と共産党の内戦が始まり、3年後、日本との戦争の主たる当事者であった国民党政権は敗れて、日清戦争以来日本領となっていた台湾に移り、大陸は共産党政権の統治するところとなった。1950年6月、朝鮮戦争が起こる。初戦は北朝鮮有利に進んだ戦局だったが、9月に国連軍が仁川に上陸して北朝鮮軍の背後を衝いてから、攻守が逆転。10月、北朝鮮政権は崩壊の淵に追い詰められる。そこで成立してまだ1年にもならなかった中国の共産党政権は義勇軍を北朝鮮に送って、国連軍の主力として韓国を援けていた米軍と直接戦火を交えることとなった。
 日本と連合国との講和会議は1951年9月に米サンフランシスコで開かれたが、中国については、共産党政権は米と対決し、国民党政権は台湾でわずかに命脈を保っているという状態であったために、双方とも講和会議には呼ばれず、結局、日本は米の強い圧力のもと翌1952年、台湾の国民政府と日華平和条約を結んで一応戦後処理をすることになった。
 しかし、大陸に基盤を失った同政府には日本の昔の「掟破り」を追求するほどの力はなく、かつての戦争当事者として、とにかく「平和条約」と名のつく条約を結んだことで(それも交換公文で適用地域を「現に支配している地域、または今後入る地域」に限定された上で)、かろうじて面子を保ち、賠償請求は「それは戦場だった大陸の政権との話」(当時の下田条約局長の回想禄)と日本に拒否されて、やむなく自ら請求権を放棄せざるを得なかった。
 もっとも、この条約交渉の日本側の主席全権をつとめた川田烈が1952年2月17日、台北空港に到着した際に書面で発表した声明には次のくだりがあった。
 「われわれは『恨みに報いるに徳をもってせよ』といわれた蒋(介石)の宣言を体し、これを徹底的に示された中国国民の態度を日本国民の一人として厚く感謝し、かつ中国国民の伝統的良識を深く尊敬、信頼している。中國が日本に対し不快な記憶を有せられることと思うが、今やわが国民は過去を償い、日本を平和的な国家として再建するため多大の困難を忍びながら努力していることを認めて頂きたい」(『毎日新聞』1952年2月17日夕刊) 
 この川田全権の声明は、日本政府として戦後初の中国国民へのメッセージであるが、戦争のことか植民地支配のことかもはっきりさせない形で「不快な記憶」という一語にすべてを語らせるというのは、後年の田中首相の北京訪問時における「ご迷惑」発言の原型を見るようである。
 しかし、それにしても日華平和条約の締結は事務的な外交交渉ではすまないものという認識があればこそ、極力漠然とでもなにか言わないわけにはいかないと交渉責任者は感じたのであろう。
 結局、内戦で敗れたという負い目を背負う国民政府としては、条約の相手として選んでもらったことをなによりとして、過去の「掟破り」に一矢報いるとか、謝罪を求めるとかはこの交渉では話題にもならなかった。
 一方、朝鮮半島との戦後処理はどうなったか。戦後処理といっても日本と朝鮮は戦争をしたわけではなく、朝鮮半島が日本領であった状態を日本の敗戦を機に併合以前に戻すことが戦後処理の内容であった。
 その根拠は日本が受諾したポツダム宣言に「カイロ宣言の各条項は守られるべく」とあり、そのカイロ宣言(1943年12月)に「三大国(米英中)は朝鮮の人民の奴隷状態に留意し軈(やが)て朝鮮を自由且独立のものたらしむるの決意を有す」とあったことである。
 しかし、朝鮮半島は太平洋戦争末期、沖縄戦のあと北上する米軍と8月8日に対日参戦して中国東北部を南下するソ連軍(当時)が南北から進攻し、結局、北緯38度線を境にして米ソ両軍が分割して占領することになった。しかも南北はともに統一を標榜しながらも、対立を深め、1950年6月には全面戦争に突入したため、日本との国交交渉は朝鮮戦争の休戦が実現した後、1951年10月にようやく南半分の韓国との予備交渉が始まり、翌年第1次本会談にこぎつけた。
 この交渉は難航した。第1次会談から14年にわたって中断、再開を繰り返し、1965年6月、第7次会談でようやく妥結した。難航の原因はそもそも併合が無効だということから、日本統治のあり方まで、韓国側はまさに日本の「掟破り」を追求し、日本側がそれを押し返すという繰り返しだったからだ。それが1965年に至って妥結したのは、当時の韓国・朴正熙政権が経済的にきわめて苦境にあって、韓国側の対日請求権の解決に、無償供与3億ドル、有償供与(ODA)2億ドルという金額で日本側と妥協しなければならなかったという事情があった。併合条約は無効、植民地支配に謝罪を、という「歴史問題」での主張は貫きようもなかった。
 結局、結ばれた「日韓基本条約」には日韓両国語のほかに英文のテキストを作成して、それをも正文とすることにし、第2条の「(1910年の併合条約は)もはや無効であることが確認される」という日本語条約文の「無効」に“null and void” という「無価値、空虚」を強調する英語の訳語をあてることで、韓国側は無念の思いを形にしたのであった。
 19世紀末からちょうど半世紀間、軍国主義日本が三国の共存関係を一方的に破って中国、朝鮮を従属させようとした「掟破り」は、現実世界では完膚なきまでに破綻し、連合国への無条件降伏という結末を迎えたが、その後の情勢変化、すなわち東西冷戦の激化、中国内戦、朝鮮戦争などによって、中華民国、韓国が苦境に陥っている中で、日本は「掟破り」に正式には頭を下げないまま、戦後世界への復帰をはたした。それどころか、東西冷戦が激化する中で米国が日本占領政策の重点を軍国主義の根を絶つことから自由陣営の一員としての育成へと切り替えたために、国の分裂という大きな矛盾をかかえた中国、朝鮮より身軽に復興の道を歩むことができたのであった。
 しかし、戦後はそれでは終わらない。中国大陸が外交的に未処理のままに残されていた。それが解決されるのが1972年の田中首相の訪中による日中国交回復であるが、そこでは「掟破り」はどう決着したのか、それが次回のテーマである。(続く)

2015.08.11 連合国の対日処理と「掟破り」
    ―あらためて考える「歴史問題」 2

田畑光永 (ジャーナリスト)
                      

 前回では日中韓の「歴史問題」が、なぜ戦後70年に至っても歴史に送り込まれずに、現実の政治課題であり続けるのかについて考えた。極東アジアでは古来、中国大陸、朝鮮半島、日本列島は中華を中心とする冊封朝貢関係・華夷秩序のもとに、概して安定した共存関係を保ち続けてきた点で、民族の勃興、角逐、衰退の渦の中で土地と民族が入れ替わるような激しく長い戦争を繰返してきたヨーロッパとは、戦争についての考え方が違うことをまず指摘した。
 そして、19世紀後半から欧米への同化路線を推進した日本が、従前の体制を守り続けようとした中国、朝鮮に武力、威力をもって立ち向かい、20世紀前半の半世紀の間に中国からは戦争によって領土の一部(台湾、東北地方)を奪い、朝鮮を威嚇によって併合したのは、極東アジアの長い共存関係に対する裏切り、掟破りであったことが、歴史問題が容易に終わらない原因であるという私の見方を提示した。
 今回はアジアのローカル・ルール違反ともいうべき「掟破り」が戦後の国際関係の中でどう扱われ、どう処理されて来たか(あるいは処理されてこなかったか)を考えることにする。
 しかし、その前に明治維新以降の欧米追随路線を走る過程で、中国、韓国に向き合う姿勢を変えることについて、日本自身はそれをどのように認識していたかを見ておくことにしたい。

「つき合い方を変えろ」
 明治維新が尊王攘夷を掲げる討幕派の勝利に終わった後、新政府は手のひらを返したように、1869(明治2)年に「外国との和親に関する勅諭」を発して、攘夷どころか諸外国と肩を並べることを対外政策の基本にすえた。手始めに近隣諸国と近代的な条約関係を結ぶことに着手し、1871(明治4)年に清国とは日清修好条規を結んだものの、朝鮮はそれにも容易に応じず、江華島事件を経て明治9(1876)年にようやく日朝修好条約がむすばれたのであった。その後、日本が鹿鳴館に象徴されるように「近代化」の道をひた走っても、中国、朝鮮はいっこうにそれまでのあり方を変えようとはしなかった。
 それを「遅れた隣人」と見たのが福沢諭吉である。1885(明治18)年に『時事新報』紙上に発表した有名な「脱亜論」で彼はこう言い放つ。
 「一村一町内の者共が愚にして無法にして然かも残忍無情なるときは、稀に其町内の一家人が正当の人事に注意するも、他の醜に掩はれ堙没するものに異ならず。・・・我日本国の一大不幸と云ふ可し。左れば今日の謀を為すに我国は隣国の開明を待て共に亜細亜を興すの猶予ある可らず。寧ろその伍を脱して西洋の文明国と進退を共にし、其支那朝鮮に接するの法も隣国なるが故にとて特別の会釈に及ばず、正に西洋人が之に接するの風に従て処分す可きのみ。悪友を親しむ者は共に悪名を免かる可らず。我れは心に於て亜細亜東方の悪友を謝絶するものなり」(句読点は引用者)
 分かりやすく言い直せば「近所が悪ければ、自分も同類と見られる。これが日本の一大不幸だ。だから近所が目覚めるのを待って、一緒にアジアを興すなどという余裕はない。むしろそういう仲間とは縁を切って西洋の文明国と同じ行動をとり、中国、朝鮮に対するのも、隣国だからと言って特別の配慮は無用、西洋人が彼らに対するやり方でやるだけだ。悪友と仲良くすれば、自分も悪く言われる。日本は心の中でアジアの悪友とは関係を絶つのだ」ということだろうか。
 福沢はここで「近隣づきあいに特別の遠慮は無用、西洋人が彼らに対するやり方でやるだけだ」と、つき合いのルールを変えることを主張している。「掟破り」を自認しているわけである。それは日本が西洋に追い付くための努力をしているのに、それを怠けている隣人がいて、それと同一視されるのを避けるためである。その限りでは、掟破りにも正当性がありそうだが、問題は掟を破って、その先何をしたかである。
 日清戦争、義和団鎮圧参加、日ロ戦争、韓国併合、対華21か条要求、満洲事変、日中全面戦争と続くその行動記録は「西洋人が之に接するの風」をはるかに凌駕する激しいものであった。その挙句が太平洋戦争となり、自ら無条件降伏に至ったのであるから、福沢の目に必要と映った掟破りの範疇に収まるものではなかったし、当の日本人自身にしても1945(昭和20)年の惨状が明治の掟破りの結果という意識は持たなかったであろう。
 しかし、その被害をこうむった側にすれば、そもそも古来平穏に共存してきた三国の関係の中から、何故ににわかに日本が牙をむいて中国、朝鮮に挑みかかったのか、その不当を責めることが、あの半世紀の歴史の始点であり、終点であるのは当然であろう。

戦後処理では?
 そこで今回の本題である、その掟破りが終戦処理の外交作業の過程でどのように扱われたか、である。
 日本は連合国のポツダム宣言を受諾して降伏した。この宣言は1945(昭和20)年7月26日に米国大統領、中華民国主席、大英帝国首相の名前で発せられたが、宣言を練るために7月17日に実際にポツダムに集まった首脳の中には蒋介石の姿はなく、かわってスターリンがいた。つまり内容は蒋介石抜きで決まったものである。26日の発表には事後承諾した蒋介石は加わったが、まだ対日参戦していないスターリンの名前はなく、8月8日の参戦後に登場する。
 なぜそんなことにこだわるかと言えば、ポツダム宣言を起草した人々はアジアの掟破りとは無関係の人々だったことを指摘しておきたいからである。その結果、日本に対する非難は極めてドライである。
― 無分別なる打算により日本帝国を滅亡の淵に陥れたる軍国主義的助言者により・・
― 無責任なる軍国主義者が世界より駆逐せらるるに至るまでは・・・
と、軍国主義者の無分別、無責任は糾弾されているが、道義を持ち出して「謝罪せよ」などとは言っていない。その一方でカイロ宣言を引いての領土条項、日本軍隊の完全武装解除、戦争犯罪人に対する処罰、実物賠償の取立てといったペナルティについては明確かつ具体的である。
 1951(昭和26)年のサンフランシスコ平和条約では軍国主義に対する非難もなく、戦争の終結を確認し、その後に具体的な領土、賠償、請求権などの処理が謳われている。ただ第11条の戦犯についての条文に「日本国は、極東国際軍事裁判所並びに日本国内及び国外の他の連合国戦争犯罪法廷の裁判を受諾し、且つ、日本国で拘禁されている日本国民にこれらの法廷が課した刑を執行するものとする」とあるのがやや目を引く。時にこの前段が戦犯法廷の考え方を受け入れよと言っているように誤解されたりもするのだが、ここでの「裁判を受諾し」の「裁判」の正しい訳語は「判決」であって、要するに講和条約が結ばれたからと言って、まだ刑期の残る戦犯をかってに釈放してはいけないという意味にすぎず、精神的なペナルティを意味するものではない。
 つまり敗戦日本に対する連合国による法的処理には「掟破り」を問題にするような条項はない。謝罪する、しないという問題は存在しない。それが戦争処理の一般的な形である。謝罪が問題になるのは中国、朝鮮、日本の3者間である。そして最初にそれを口にしたのは、じつは日本なのである。
 敗戦直後の8月16日に組閣の大命を受けた東久邇宮稔彦首相がその人である。皇族であり、陸軍大将であり、中国戦線で指揮をとったこともある同首相は組閣3日目の同18日に中國中央通訊社の特派員と会い、中国に謝罪使を派遣したいという意向を伝えたのであった。このアイディアは各方面に支持され、その謝罪使候補にはまず盧溝橋事件当時の首相、近衛文麿の名前が挙がった。近衛自身もその気になったとも伝えられた。しかし、同内閣が短命に終わったために、謝罪使派遣は実現に至らなかったのだが、東久邇首相にはたんに戦争の勝者、敗者というだけでなく、日本側は道義に悖る立場に立っていることの自覚があったのである。
 もし東久邇内閣がもう少し長続きして謝罪使派遣の話が具体化しても、マッカーサーの占領統治が始まったばかりであり、実現したかどうかは何とも言えない。むしろ実現しなかった可能性のほうが高いかもしれない。しかし、アイディア倒れに終わったにしても、このことがすっかり忘れさられてしまったことは残念である。もし敗戦直後の首相が謝罪の意思を明らかにしたことが、しっかり日本の政界に引き継がれていたとしたら、後の首相たちも「謝罪」でそれほど頭を痛めないですんだかもしれない。それはともかく謝罪問題を含む歴史問題は世界共通の問題ではなくて、アジア3国の問題なのである。
 それでは中国、韓国との直接の外交折衝では「掟破り」はどう登場したかが次回のテーマである。(続く)