2018.09.01  関東大震災 我孫子の虐殺事件
   韓国通信NO569

小原 紘 (個人新聞「韓国通信」発行人)

東京都の小池知事が昨年に続き、関東大震災で虐殺された朝鮮人犠牲者追悼式に追悼文を今年も送付しないと明言した。朝鮮人虐殺があったかどうかはよく「わからない」と語り、明白な歴史事実を認めようとしない歴史改ざんの主張だ。
NHKも9月1日は『防災の日』と決め込んでいるようで、小池知事と五十歩百歩みたいなもの。1923年9月1日に起きた震災は夥しい死者と家屋の倒壊、火災による大被害をもたらした。しかし大震災でのドサクサに紛れて6千人を超す朝鮮人と大杉栄ら社会主義者たちを虐殺した事件は忘れられがちだ。

この通信で紹介した『行雲流水』(石山照明著)では主人公喜八郎が目撃した朝鮮人虐殺の生々しい現場が語られていた。群馬県藤岡警察署に連行された朝鮮人17名が自警団の日本刀で殺される一部始終を喜八郎少年は火の見櫓から見た。朝鮮人虐殺が群馬で起きていたという意外な事実に驚いた。
図書館で千葉県我孫子でも三人の朝鮮人が殺された事件を知った。意外というより自分が住んでいる小さな町で起きた事件だけに衝撃的だった。事件は震災の翌日、我孫子駅から200メートル鼻の先のところにある八坂神社で起きた。毎年盛大に夏祭りが行われるので市民で知らない人はいない。
   八坂神社
              <八坂神社/事件現場>

手賀沼の美しさに引き寄せられるように、大正期に柳宗悦夫妻、志賀直哉、武者小路実篤ら白樺派の文人たちが住んだ。神社前にも彼らの住居跡の「みちしるべ」が見える。白樺派の町我孫子は市民たちのささやかな「誇り」になっている。この町の持つイメージとあまりにもかけ離れているため、あのような忌まわしい事件があったことを市民たちは俄かに信じないはずだ。小さな町の神社で起きた事件は「我孫子市史」にしっかりと数ページにわたって記録されている。

<改めて「市史」をひも解く>
市史ではまず関東大震災全体と千葉県の状況に触れ、個人の日記を引用しながら、地震と余震が続いた震災当日の我孫子の模様を伝えている。東京地方の夜空をこがす火災の模様、翌日2日に「命からがら避難」してきた人の話として「(東京は)火炎に包まれ全没なり」「聞くからに身の毛もよだつ程」と市民の不安を伝える。東京から多数の罹災者が千葉県に押し寄せてきた。市史では「帝都ニ此ノ大変アリテヨリ避難者、或ハ徒歩ニテ、或イハ汽車ニテ運ハレ我孫子駅ニ下車スルモノ恰モ蟻群ノゴトク、殆ド立錐ノ余地ナク」と混乱ぶりが語られ、八坂神社に救護所が設けられて罹災者の救護活動が行われたと記されている。

市史は虐殺事件が起きた経緯と原因についても触れる。
震災によって通信が途絶したため一切の連絡は船橋にある無線送信所から送られることになった。送信所から送られてきた内務省警保局長からの電報が流言飛語を招いたと指摘する。
その電報の内容は「東京付近の震災を利用し、朝鮮人は各地に放火し、不逞の目的を遂行せんとし、現に東京市内に於いて爆弾を所持し、石油を注ぎ放火するものあり。既に東京府下には一部戒厳令を施行したるが故に、各地に於いて充分周密なる視察を加え、鮮人の行動に対しては厳密なる取締を加えられたし」というもの。
電文にもとづき自警団が組織され、「我孫子町でも三日及び四日、八坂神社境内で三人の朝鮮人が自警団によって殺された」
20日頃から政府の指示によって虐殺に関わった自警団関係者の一斉逮捕が始まり、我孫子でも「宮谷一他5名」が「李一弼他2名」を「こん棒杉丸太等を以て殺害」(騒擾殺人罪)で起訴された。その年の11月19日には、「五名に懲役二年、一名に懲役一年六カ月の求刑がなされた」
市史は事実関係を「関東大震災と我孫子事件」として三ページにわたって説明。最後に政府の偏見と誤情報がもたらした大混乱と恐怖の要因を問うこともなく自警団だけを逮捕したことに疑問を投げかけ、事件は「我孫子の暗い闇として、人々の記憶に濃いよどみを残したまま、時の忘却に任されていく」と締めくくっている。
「時の忘却に任される」という表現に、理不尽な政府の「扇動」によって恐怖にとらわれた一般市民が犯した集団殺戮のみが裁かれたことへの批判がにじむ。政府の責任が問われないまま「忘れ去られる」ことへ警鐘を鳴らしているようにも思える。

<過去の事実に向き合う>
八坂神社の前を通るたびに胸が痛む。
救護所となった神社の狭い前庭で繰り広げられた凄惨な集団リンチ殺人事件。
95年という年月を越えてリアルにその場面が目に浮かぶ。その事実を知らなければ、神社は夏祭りの神輿と夜店の記憶としてだけ残る小さな神社に過ぎない。私も最近知ったことだから「エラソー」に云う資格はないが、我孫子随一の夏祭りに来る子どもたちにここで起きた悲しい事件について話をして聞かせてあげたい。「時の忘却に任され」ないためにも。

暑かった夏の終わりに思うこと。私たちの「記憶」のことだ。楽しいことは忘れないでおきたいが、息を吐くようにつく政府の「ウソ」に私たちは馴らされてしまった。日本中に「記憶喪失症候群」が蔓延したこと。私のこの「夏の思い出」となった。 
単なる「暑さ負け」ならまだしも、この日本人の記憶喪失体質は一体何処から生まれのか。戦争責任者たちの「後裔」たちが過去を忘れたがるのは当然だが、一般庶民の私たちが彼らと一緒になって記憶を失っていいはずはない。この町に住み続ける限り、八坂神社は「大切なことは忘れない」と私に不断に語り続ける貴重な存在になった。
2018.08.24 犬養毅の5・15をめぐる知的対話
―保阪正康『昭和の怪物 七つの謎』を読んで―

半澤健市 (元金融機関勤務)

 ノンフィクション作家保阪正康(ほさか・まさやす、1939~)は、過去半世紀近く、インタビューと文献渉猟によって「昭和史」を書き続けてきた。しかし「昭和」も遠くなり、「平成」もあと一年半で終わる。今この作家は、なお新作を発表する一方で、既往の著作に新しい光を当てて再構築をしている。

《思わせぶりなタイトルだが》
 『サンデー毎日』に連載され新書版となった近著『昭和の怪物 七つの謎』は、タイトルは思わせ振りだが、この試みの一つである。七つの謎に登場する怪物は、東条英機・石原莞爾・犬養毅・渡辺和子・瀬島龍三・吉田茂。ただし犬養は孫娘道子が、渡辺の場合は二・二六の犠牲者錠太郎の娘が語られる。本稿では、祖父犬養毅(いぬかい・つよし、1855~1932)を書いた孫娘道子と保阪の対話と交流を紹介したい。私がその対話に感銘を受けたからである。

1992年に、犬養毅没後60年の追悼会が、親族や限られた関係者によって行われた。その際、保阪は毅の子息犬養康彦(共同通信社社長・当時)の依頼で「五・一五事件」について一時間ほど話をした。保阪は、「話せばわかる」の犬養暗殺が、暴力が全面に出てくる次代のきっかけになったと「怒りの口調」で語った。そして毅を「憲政の神様」と讃え、「議会政治家としてその使命を全うした。その政治経歴も非の打ちどころがなく、まさしくテロの犠牲になった悲劇の政治家であった」と賞賛した。保阪は、犬養には大局観において欠ける点もあったという批判を控えた。こういう席でのマイナスの話は礼儀に反することだと、当時52歳のジャーナリストは考えたのである。

《保阪正康講演と犬養道子の批判》
 次に70歳の犬養道子(1921~2017)が登壇した。そして凜とした声で「保阪さん」と彼に語りかけた。本書で保阪はこう書いている。(■から■、「/」は中略を示す)
■今、保阪さんから祖父のことを称揚気味に語っていただきました。それは遺族としてはありがたいのですが、しかし犬養毅という政治家も多くの矛盾を背負った政治家だったのです。そこのところを語らなければ毅像というのは正確に理解できません。祖父に同情していただくお気持ちはわかりますが、歴史上の評価は別です。こういう席だといって何も遠慮しなくていいのです。/私は自分のもっとも痛い所を突かれたようで、その一言一言が身体中に刺さってくる感を受けた■

それから10年かけて、保阪は犬養毅に関係する文書を読んだ。犬養康彦から預託された膨大で貴重な資料である。それを検証する過程で改めて道子の発言の意味を深く考えることになった。彼女の「多くの矛盾を背負った政治家だったのです。そこのところを語らなければ・・」という発言を受けて、保阪が考えぬいたことを二つを紹介する。

《犬養毅の「矛盾と弱さ」》
 一つ。犬養道子は自著「花々と星々と」にこう書いている。
■犬養内閣は本質的な矛盾と弱さをはらんでいたとよく言われる。陸軍大臣に荒木中将を据え、内閣書記官長に関東軍と通じ関東軍路線を支持するのみならず推進するほどの、曾ての三井の切れ手、森恪(もり・つとむ)を置いていたからである。/しかしいま、私は思うのである――荒木・森の二人を内閣中枢に据えたこと自体、お祖父ちゃまの――追いつめられたお祖父ちゃまの――最後に打った手なのであったと。俗に、虎穴に入らずんば虎児を得ずと言うではないか。最も「危険」なふたりを己が懐中に抱えることによって彼らの動きを牽制したいと彼は叶わぬ望みを望んだのであった。滔々と流れ、あらゆる支流を呑み加え、「狂」の一文字にあてはまる勢で破局に向ってゆく潮を、身をいかに挺そうとも食いとめられるものではないと、彼の理性は読んでいたろう■

保阪はこの文章を読んで次のように反応している。
■(五・一五事件を論じた著作の中で)犬養首相の心理をここまで分析した書はない。そして今、私自身、こうして犬養首相の心理に、道子氏の筆を借りながら沿っていくと、はっと思い至る点もある。そうか、もしかすると道子氏は二十六年前のあの犬養家の儀式のときに私に伝えたかったのは、ここまで分析を進め、「虎穴に入らずんば虎児を得ず」の見通しの甘さ見抜いてほしかったのではないかと考えたくもなってくる■

《犬養毅は「話せばわかる」と言っていない》
 もう一つ。「話せばわかる」に関する、道子の重要な発言、即ち「犬養毅の『話せばわかる』は、真実ではなかった」という点である。海軍士官らによる犬養殺害の一部始終を見たのは、道子の母親であった。母親および女中らの証言による、道子の文章から、「毅の言葉」だけを時系列で並べると次のようになる。

「いいや、逃げぬ」、「逃げない、会おう」、「まあ、急ぐな」、「撃つのはいつでも撃てる。あっちへ行って話をきこう・・ついて来い」、「まあ、靴でも脱げや、話を聞こう・・」、(この直後撃たれる、このあとは女中の証言)「呼んで来い、いまの若いモン、話して聞かせることがある」、「煙草に火をつけろ」、「もうよい、呼んでこい・・・」「怪我はなかったか、仲さん」。

毅の言葉は、「花々と星々と」(『犬養道子自選集2』、岩波書店、1998年)からとった。次に、「話せばわかる」と誤伝されたことに疑問を呈した道子の文章を引用する。(「ある歴史の娘」、前掲書)。

《話してわからぬ時代なればこそ》
 ■お祖父ちゃまと言う人はこんな一語を麗々しくのこすにしてはもう少々、わけ知りの人であった筈だと、私はいつも思っていたのである。「話せばわかる」ていどの生やさしい時代であったなら、元来、あんな事件の起るべくもなかった。「話して聞かせればわかる」軍であったなら、そもそも日本は満州以降太平洋の戦いにまでひきずられて行かなかった筈である。いくら話そうとわからない、わかるまいと前以て確固とかかる相手であることを、それが時代の性格であることを、だれよりもよく知りつくしていたのは、その強大な力の前に在って、「話の政治」すなわち議会制度のせめて最低線を守ろうとした、不可能を知りつつ身を投げ出した無力非力のお祖父ちゃま自身であったのである。/話してわからぬ時代なればこそ、祖父も死んだ。高橋是清も死んだ。斎藤実大将も死んだ。この時代性と人間の頑固さとを無視して「話せばわかる」の一語だけを取り上げ後世にのこすことは、どこかまちがっているのじゃあるまいか、私はつねに思いつづけていた。■

保阪は「この一言で世の中よくなると考えるのは歴史の本質を忘れさせてしまうと道子氏は言っている。私もまったく同じ論理で同調する。/この事件を犬養家の側から見つめること、それが今の時代、とくに必要なのではないか」と書いている。

《「ある歴史の娘」の批判への知的な対応》
 犬養毅を論じたノンフィクション作家。その言説をソフトに批判した毅の孫娘。さらに、時間をかけて、批判に対応した作家。二人のプロフェッショナルの知的な対話に私はうたれる。その今日的な意義を発信する作家の精神に私は共感する。
私が紹介したのは本書のごく一部である。しかし神は細部に宿るという。個別事実の実証と評価が人の心をどんなに打つものか。本書はそれを知るための適切な歴史書だと思う。
(2018/08/20)

■保阪正康『昭和の怪物 七つの謎』、講談社現代新書、2018年7月刊、880円+税

2018.07.30 1968年は何処へいった(4)
―闘争当事者の発言を読む―

半澤健市 (元金融機関勤務)

 前回までの1968年論は研究者の冷静な分析であった。同時代の当事者の発言を知りたい。それで『ピープルズ・プラン』誌の80号(2018年春号)の特集「再考 1968」から対談「『1968年』・『全共闘』反乱とは何か」を紹介する。

《『ピープルズ・プラン』誌の武藤・天野対談》

 対談者は武藤一羊(むとう・いちよう、1931~)と天野恵一(あまの・やすかず、1948~)、若手研究者の松井隆志(まつい・たかし)が進行役である。
『ピープルズ・プラン』は、同名の研究所が発行する季刊誌である、大筋では、新左翼運動の流れを継いだ組織である。長時間の対談であり、話題は拡散するが、私なりに論点を次の三点にまとめてみた。

一つは、二人の運動体験と総括である。
二つは、新左翼運動によって提起された新しい論点である。
三つは、残された問題と将来展望である。

《ほぼ「全共闘体験」であるが》

 第一 二人の新左翼運動体験。
武藤一羊は東大中退後、原水協事務局などを経て参加した60年代の「ベ平連」では代表的運動家の一人だった。英字誌『AMPO』も創刊した。70年代以降も、「アジア太平洋資料センター(PARC)」、「ピープルズ・プラン研究所」に拠り発信を続け、2000年までの12年はニューヨーク州立大学ビンガムトン校社会学部教授を務めた。

武藤には、50年代の党活動体験と「六全協」問題が、葛藤と挫折の原因となった。だから1968年は解放だった。こう発言している。(■から■、「/」)は中略、以下同じ)
■吉川勇一なんかもそうだったと思うけど、共産党的な運動から解放された。平和運動でこうやりたいとか、やるべきだと思うことがあっても、やれない。そして変な説に賛成を強要されたり、運動破壊的な官僚主導に引っ張られる。そういうことから解放されて、やるべしと思うことを好きにやれる。/だから六八年というのは僕にとって個人的敗北の経験ではないんだよね。むしろ解放。■

天野にとって、1968年は初の学生闘争だった。天野の経歴に関する「ウィキペディア」系の情報は少ない反面、ネット上では彼を罵る批判が多い。全共闘の敗北以後の80年代、天野は「反天皇制運動連絡会」の運動に傾斜していく。その経緯は私にわかりにくい。しかし私は、本対談テキストの有用性を評価するので考察を続ける。

《共産党より「左」なんてものがあった》

 天野によれば、学費問題や学内施設の管理権問題、特に私大で管理支配権が問題になる。それらをみて大学の主体は学生であることを痛感する。
■一部の急進的な、ほんの数人の占拠とかが、全学的に支持されて、大学を守れで保守化した代々木(共産党)が糾弾しても、孤立しない変な現象が起こるわけ。/一般ノンポリ学生がそっちの急進運動に加担するような気分があった。それがある種の時代的与件ですよ。大学の中の。共産党より「左」なんてものが存在していることなど、まったくしらなかった僕のような「ノンポリ」もその流れにまきこまれていく。■
 
武藤・天野の体験談では、新左翼運動に現れたそれまでの左翼運動にない要素が、興味深く語られる。多様な文化カテゴリー、小田実の個人原理主義、M・ウェーバーに拠った折原浩、宗教者として発言する田川健三、滝沢克己、高橋和巳、真継伸彦。他分野の平岡正明、松田政男、アングラ演劇の固有名詞か挙がっている。

《「お前ら終わりだよ」と言われて終わった》
 天野の敗北論がある。話題は少しづつ方向転換する。天野はいう。
■僕らは徹底的に負けたという認識がある。権力でなく学生が大勢来て、「俺たちの生活のためにこのバリケードを解け」と強制されて解いた。自分たちが依拠した学生から浮いて「お前ら終わりだよ」と言われて終わった。東大全共闘だったヤツが、大学が正常化された後に、授業の最前列に並んでいる風景が「前共闘」と新聞記事になった。嘲笑されている。ベ平連は違う。時間のくぐり方がちがうと思った。
運動史の方法は「生の体験を語ることを特権化するのもバカだし、客観主義的に外部から俯瞰する図式も、体験当事者にしかわからないことも実際あるわけだから、不十分。それらをつなぐことが重要。/個人的な体験は全部切れないし/後の時間で外の視線を持つことでその生の体験を再考するということが、〈考える〉ことだと思ったわけです。その体験の記述の中で運動史が語られていくという連鎖が一番いいんではないかなと方法的に思っているところがある」。■

《権力の働く場を下におろしてくる》
 武藤は天野の運動史論を否定はしない。しかし武藤の関心はもう少し広角な視点で見ようというものである。
■だけれど、68年が僕にとっては全共闘的な挫折経験だったわけじゃない。僕にとってもっとも重苦しかったのは「党」という問題だったと思う。/「党」一般というものについて考えを進めてみたいという気持ちはずっとある。できれば政治、宗教、権力の三者が交錯する領域の問題としてね。それとは別に「六八年」が僕の革命論にとって大きい転機だったことは紛れもないことで、とくに権力の働く場を下におろしてくる、日常の関係に下ろしてくるということについては発見と考えの転換があった。それは当然自分に跳ね返ってきた。■

《「科学技術・マルクス主義・抵抗の暴力」の批判》
 第二 提起された新しい論点。
ザックリと三点ほどに絞りたい。
一つは、科学技術批判としての1968年。
二つは、近代主義としてのマルクス主義の破綻。
三つは、闘争における暴力の評価。

科学技術批判は、東日本大震災後の今日ではある種、常識となった。
しかし1973年の第一次オイルショックで東京タワーの電飾までが消えたあとに、原子力発電だけが経済成長の危機を救うという主張に反対するのは困難だった。それだからこそ、全共闘運動の「自然科学は体制の侍女」という認識と、それを理由に大学教育と科学行政へ異議を申し立てたのは立派である。それは科学技術の「パラダイムの転換」要求にまで進んでいった。さらには、進歩と発展を前提とする「近代」への懐疑に至る、対談者はこの認識において概ね一致している。反開発の根源に松下竜一や石牟礼道子らの「開発は破壊」だとする立場に「左翼は遅れをとった」という意見も共有する。

《自然科学・進歩と発展・近代は地続き》
 ここからマルクス主義の破綻論には地続きである。マルクスの言語にエコロジーの意義を見る識者は当時も今も存在する。それは贔屓の引き倒しというものであろう。ここまでの文脈で天野は、山本義隆の言論界へ復帰に必然性を認めている。

さらに天野が執拗に発言するのは、政治的・攻撃的暴力の肯定―天野の表現では「ロマン化」―に対する強い自制の言葉である。天野は、「僕らは暴力主義者では決してなかったけれど、抵抗の暴力は不可避だろうと思ってたことはある/暴力についての認識が甘すぎた。全く甘すぎて全然だめだったということの反省が全体の軸になって、八〇年代(前述の反天皇運動など)があったと僕は思っているわけです」といっている。

自然科学論・マルクス主義理解・抵抗の暴力の可否。これらは1968年が初めて発見したものではない。しかし地球温暖化が現実である今、「進歩と発展」の理念が人間生存を破壊しつつある今、「積極的平和主義」をうたう憲法改悪論者が三たびこの国に君臨せんとする今、提起された「1968年」問題は再検討されるべきだと思う。静かに、継続して、強い精神をもってである。この国の存亡にかかるテーマである。

《口舌の徒による感想》

 私の感想を三つ書く。

一つ 対談を含め特集号の文章には、セクト論議・人物評価・ノスタルジーの披露が多すぎる。すべて不要とは言わない。しかし仲間内の会話が多すぎるのである。
活動家諸氏の回顧談が続く記事、すなわち加藤康晴へのインタビュー、池田祥子・白川真澄対談、福富節男回顧座談のいずれもそうである。権力内部の分析と将来展望が、ほとんどない。「ほとんど」としたのは、武藤による「安倍政治をつぶす、その先に何を展望し、実現するか」という硬質な論文が唯一の救いになっているからである。

二つ 安倍政権の民主主義破壊に「ハラワタが煮えくりかえっている」仲間が沢山いる。そういう人々にどのように門戸を開放するのか。いや、自ら接近して共闘するのか。PP研の現有勢力では活動の限界があるのはわかる。しかし、この際に徹底した発想の転換が求められているように思う。

三つ 「お前の書き物も口舌の徒の一文」という批判があるだろう。それは甘受するが、言いたいのは、「口舌の徒」または「居酒屋談義屋」であっても、何とかせねばならぬという人々が、世の中に満ち溢れていることだ。

次の選挙では「自民・公明・維新には一票も入れぬ」投票をやろうではないか。吉永小百合に最高得票を与えようではないか。私は老兵だが消え去るわけにはゆかない。口舌の徒として後衛を務めるつもりである。(2018/07/26)

2018.07.10 1968年は何処へいった(3)

―『思想』の鼎談を読んで考えたこと―


半澤健市 (元金融機関勤務)


 前二回で「提起と鼎談」(以下「鼎談」)の紹介をした。
今回は、その評価と「私にとっての1968年」について述べたい。

《違和感の理由を挙げると》

 鼎談を読んで、研究者3名の分析と発言に大いに啓発された。
客観的で俯瞰的な分析である。多面的で国際的な分析である。納得することが沢山あった。しかし、一方で私は、「これはちがう」という違和感を強くもった。
 その理由を考えてみる。私は、「1968年」を闘争、異議申立だと思っていた。だから、違和感をもったのである。

三点に絞って鼎談の問題点を考えたい。
 第一に、「闘争」という見方の持主からみると、3名の研究者の発言は極めて「冷静」である。「冷酷」とすらいえる。冷静さは、小熊が「1968」を近代化の進展の一過程とみる視点に起因すると思う。小熊は「1968年」はメディアの影響もあり過大評価されているという。そして「1968年」を思想史的事象として考察している。

 私のみるところ「1968年」は、「近代への抵抗」であり「近代的思考への異議申立」であった。思想の問題は、具体的に様々な「闘争」として表現された。
 学問の「客観性」が、実はイデオロギーに冒されていることへの抵抗であった。あるいは近代の指標である「自由」や「人権」が欺瞞的な存在であることへの反発であった。闘争は、情念や狂熱をともなう。爆発した心情は、半世紀を経て冷たい「歴史叙述」のなかに閉ざされた。鼎談が同時代の当事者より若い世代によって行われたのも「冷たさ」につながったかもしれない。それでも3名は、私の指摘した点も自覚しているようだ。最後部の歴史観論義は、その問題意識の表現と感じられる。

 第二に、「闘争」という見方の持主からみると、闘争の当事者の扱いに不満がある。
当事者とは誰か。それは戦った者たちとその敵側の者たちである。後者はどこへ行ったのか。あるいは、勝負はどっちが勝ったのかという問題である。「反乱軍」の言動分析はあるが、「権力側」は出てこない。「1968年」を近代化の一過程とする論では「勝負の論理」は出てこないのであろう。
 かつて西川長夫の『パリ五月革命 私論』を読んで、私が痛感したのは、五月革命の優れた報告に「支配権力」の記述がないことであった。「五月革命」後の6月総選挙でドゴール派が勝利した理由が不明なのである。鼎談者にはこの点を語ってもらいたかった。

 本誌の個別論文に一つの例外がある。安藤丈将(政治社会学)による論文「警察とニューレフトの『1968年』」である。警察庁や公安調査庁の文書を駆使して、警察「権力」の対応を具体的に分析している。我々が欲しいのは、こういう権力の奥の院の分析である。

《今日的意義なるもの》
 第三に、鼎談は「1968年」の、「2018年」における今日的意義をもっと鮮明に論じてもらいたかった。安倍内閣の反知性主義は極まった。政治学者の杉田敦はこう発言している。(■から■、『マスコミ市民』、2018年7月号のインタビューより)
■今の日本の政治は、刑事法上の疑いで起訴されるか、あるいは有罪になる以外は問題ないといって、責任の範囲を非常に狭く考えるようになりました。どんな組織であっても、刑事法的な問題になれば責任問題が起きるのは当然ですが、従来、刑事責任が生じた時しか政治が責任を取らなかったかといえば、そんなことはありません。(略)ところが、いつの間にか政治責任という概念が否定され、あたかもこの世の中には刑事責任しか存在しないかのようになりました。直接証拠がない限り、いかにおかしくても問題ないということで、この世の中で通用するでしょうか■
 
 このような政治的退廃が、すべて「1968」に起因するとは言わない。
しかし、戦後の「1960年(安保)」、「1968年」、「1990年(冷戦終了と日米同盟強化)」が三つの転換点であったと考えれば、「1968年」はその一つであった。鼎談は日本固有のテーマを、一般化・国際化の視点を重視するあまり、過剰な相対化を行っている。日大アメフト部問題、キャリア官僚の「劣化」状況をみるにつけ、「日大古田会頭との一万人団交」や『理性の叛乱』(山本義隆)は、どこへいったのかと思う。

《私にとっての1968年》

 1958年に「企業戦士」となった私は10年目を迎えていた。
本店営業部という営業部門の旗艦店―企業により最大支店が旗艦店―にいた。
そこで「どぶ板外交」をして預金集めをやっていた。

 私のいた企業は、著名な公害企業のメインバンクの一つであった。公害企業の経営者の息子X君は、同じ部署の若い同僚であった。彼の結婚披露宴に招かれた。仲人である部長の祝辞に「X君は、今のように公害のなかった綺麗な海を見ながら、あるいはその海で泳ぎながら健康に育ちました」というくだりがあった。私は参加者に合わせて拍手をした。拍手しながら「これはダメだ」と思った。高度成長を至高の目標とした企業共同体はダメだという意味である。
 これが「私にとっての1968年」である。読者は「それがどうした」というであろう。しかし、これが私の原点の一つである。一体、あるテーマに対する生活者の経験や思考は、この程度のものではないだろうか。

 話題の人である前川喜平が、『面従腹背』という本を書いた。
トップ官僚が「面従腹背」で生きているのに、一企業の中間管理職が、それ以上のことをどうしてできようか。と私は自己を正当化する。問題意識を持続するだけでも抵抗である。と私は自己を正当化する。さらに次のようにいう。「一人が百歩前進するよりも百人が一歩前進することが大事である」。凡庸なメッセージである。

 しかし「1968年」への再訪は、生活者のこんな矮小な現実から出発しなければならない。これを結びとして「私にとっての1968論」は終わりである。(2018/07/05)

2018.06.30  1968年は何処へいった(2)
    ―『思想』の鼎談を読んで考えたこと―

半澤健市 (元金融機関勤務)

 小熊英二による〈提起〉に次いで、今回は鼎談本体の紹介である。
四六判で26頁にわたる長文を要約するのは難儀だった。分かりやすいようにと心懸けたが、自分で読んでも分かりにくい。更に興味をもつ読者は原文に当たられたい。

《問題提起に沿って議論は進む》
 鼎談のタイトルは『「1968年」再考―日米独の比較から―』である。
小熊の三つの提起の順に討論が進む。

「メディアの台頭」が、運動の相互性を強調につながったとともに、「周辺と位置づけられていた学生、エスニック・マイノリティ、女性、第三世界など」への注目が特徴的だったと小熊はいう。国家対国家、資本対労働といった「正規軍」同士の対決よりも、運動・文化・非暴力の示威的行動などの「ゲリラ」的対応への注目であったともいう。
これに対して井関正久は、ドイツにおいては1848年革命が参照され「社会主義」が目標となったことを言い、梅崎透は、「1968年」を「グローバリズム」の文脈のなかに位置づける議論に対して〈社会運動は国家や企業との対決〉であるとして、疑問を呈している。実際、「1968年」の呼称が生まれたのは、同時期より10年も後であるとするのが研究者の共通認識らしい。日本で同時代のテーマは「70年安保」であった。そして、大衆は「反戦」「反安保」までは理解したが、「マルクス」が出てくると理解不能となった。共産党と新左翼の対立はさらに理解不能だった。佐藤栄作日記にもそれが出てくるという。

《近代化の進展に関する討論》
 次の「近代化の進展」に関しては、近代批判がどのように出てきたかが問題となる。
これは日本と米独で対照的な違いがあったことが論じられる。
ダニエル・ベルが1973年に『脱工業社会の将来』を書いた。小熊は、製造業就業者数のピーク時期が、アメリカで60年代後半、日本では92年だったことを挙げて、この「時差」が彼我の運動の性格に差異をもたらしたという。欧米は、製造業の衰退期と「1968年」が重なり、日本はそれに遅れ、消費社会に陰りが出るのは90年代以降である。
グローバルにみると、「1968年」は英米ではカウンターカルチュアの時代であった。日本では、「カウンターカルチュア」の隆盛と社会運動には距離があった。日本の運動は、山本義隆に代表される硬派のそれであり、「近代批判」の色が強かった。アメリカでは、冷戦リベラリズムに対抗する「参加民主主義」が主な思潮となり、ドイツでは問題が世代間対立から始まり、近代化批判論の出現は遅れた。
このほか、大学の自治、学生・知識人の権威意識、自治大学の成果、労学共同の可能性と成否、日本における「共産党」の特異な位置などが論じられている。詳述の紙数がないが、それぞれ今日に続く重要なテーマである。

三つ目は「冷戦体制」との関連である。
小熊は「1968年」における米国覇権の揺らぎを強調して、その「シャッフル」が出たというが、井関は同じ視点からは同じだが、むしろ強度の大きい「クラッシュ」だったという。米ソ主導の戦後秩序の制度疲労があり、ドイツは経済成長の中途段階だったから「オルタナティブ」追求の余地があった。クリエイティブな運動が可能だったというのである。特に社会・文化面で反権威、若者の突き上げが強かった。経済問題は、のちのEUの形成につながる。小熊は、日本は1945年の敗戦が画期であり、68年より衝撃は大きいとする。68年には既に植民地はなく日仏の方向性のベクトルは逆であったという認識を示す。
アメリカでは「ベビーブーマー世代」が時代の担い手であり、60年代はカウンターカルチュアが主たる思潮の時代であった。

《歴史の再審を求める三人の発言》
 このあたりから鼎談は、「1968年」論議の、今日的意義という「基本的な問題」へ収斂してゆく。「1968年とは何だったのか」という「そもそも論」である。さらに最終部では「歴史とはなにか」という問題が議論されている。三人の発言を、以下に取捨選択して並べておく。発言順序・省略または一部削除・「です・ますの変更」は、私(半澤)の判断で行った。そのことを発言者と読者にお断りしておく。

小熊英二(おぐま・えいじ、日本歴史社会学、慶應義塾大学教授)
 なぜ1968年だけが特別な対象になるのか。非常に素朴な運動だったのではないか。日大・東大全共闘の初期は万人にわかった。この時期に起きた各国、あるいは全社会的な変化というものを、どういうふうに把握するかという問題だ。
その後に起きた社会の変化を、あの時期のアイコン的な部分から説明すると見えやすい部分もある。けれど、そこで変化したものが本当は何だったのか、きちんと見ていくことが学問的に重要だと思う。

私は、基本的には歴史を書くというのは、常に現在から歴史観を構築する作業でしかありえないものだと思っている。けれども、では何を構築してもかまわないのかというと、反証可能性は担保されるべきだ。
その意味では、「68年」というのは、描き方にほとんど無限の可能性がある。いま流通している「68年」のイメージが、史料による批判に耐えられないものであると考えられるなら、それは神話としてきちんと批判していくということが必要になってくる。
歴史というものは、永遠に続く未完の対話作業だからである。

井関正久(いぜき・ただひさ、ドイツ現代史、中央大学教授)
 ドイツではハーバーマスやマルクーゼが読まれたが、学生はナイーブで毛沢東やチェ・ゲバラに傾倒する側面があった。
ひとは「68年」にあらゆる出来事を「詰め込み」すぎているのではないか。68年は、当事者によって神話化され過大評価されている。10年前から新右翼が「68年に対する宣戦布告」といって、68年の文化革命を逆方向からすべきだと運動している。反68運動の政党「AfD」は、さきの選挙で第三党になった。「68年という枠組みで果たしていいのか」という議論をすべきではないか。

東ドイツでは民主化運動がありベルリンの壁が崩れ、当初は誰も予想しなかった東西ドイツ統一が、1年も経たないうちに実現する。今では、ドイツ統一記念の催しがあると、ベルリンの壁崩壊はドイツ統一のための出来事のように描かれている。まず結果があって、それに繋がるものを歴史記述として残し、それ以外のものは本来ならば大切であったものでもそぎ落としてしまう。だから同時代史研究においては、メインの歴史記述から漏れてしまうものを拾い上げる作業がいっそう必要なのではないか。小熊氏の〈提起〉を読んでそれを痛感した。

梅崎 透(うめざき・とおる、アメリカ史、フェリス女学院大学教授)
 知識人は、学生運動は行き過ぎた反権威主義で、アナーキズムであり、反知性主義だと言っていた。しかし「68年世代」が大人になり権威をまとうと、若い世代との乖離が生じる。第二波フェミニスト世代の成功例ヒラリー・クリントンは、若い世代の支持を得られなかった。「68年の遺産」をどう語るのか、語る主体によって大きく異なってくる。二〇世紀、もしくはより大きく近代の政治思潮のなかで、より実証的に「68年」を位置づけることが必要ではないか。アメリカ現代史における「ニューディール・オーダー」という時代区分はそうした枠組みの一つと思う。しかし、よりミクロな実証研究をふくめて、すべて「68年」でくくる必要はない。

「68年」後のフェミニズムの展開をどう記述するかは大変興味深い。現在のアメリカでは、一方で第二波の後の第三波を主張する人々がいて、他方でポスト・フェミニズムの時代を主張する人々がいる。第二波の世代に、新自由主義を誘発する傾向への可能性を反省する当事者がいる一方で、そもそもウーマンリブは新自由主義だったという論者もいる。記述から漏れるものに加えて、歴史を語る立場性を意識することが重要だ。

前回予告も拘わらず今回も内容紹介で紙数が尽きた。私の「1968論」は次回となる。(2018/06/26)
2018.06.27   1968年は何処へいった(1)
     ―『思想』の鼎談を読んで考えたこと―

半澤健市 (元金融機関勤務)

 2018年は、明治150年である。
それを記念する公的な行事が計画され実施されている。(内閣府のサイト参照)

《忘れられた「1968年」》
 しかし、「1968年」は、忘れられている。
1968年とは何であったのか。

それは世界的な「異議申立・反乱・闘争」の年であった。
「ベトナム反戦・いちご白書・68年フランス革命・紅衛兵・ベ平連・全共闘・反戦青年委・羽田闘争」、これが「1968年」に関する私の記憶でありキーワードである。
日本の「1968年」は、内ゲバと連合赤軍に帰結した。それはよく言っても痛ましい悲劇として、悪く言えば過激な暴力主義の自滅として人々に記憶されている。
1968年に、青年の異議申立に共感した人びとは、半世紀後のいま、異議申立という言語のない日常性のなかに埋没している。2018年の現在における異様な日本の政治状況は、1968年の結果に大きく関わっている。これが私の認識である。

《「1968」特集の鼎談に注目する》
 雑誌『思想』(岩波書店)の2018年5月号は、全200頁を特集「1968」に充てた。
10人ほどの研究者が、日・米・独・仏の「1968年」を論じて有益な情報を与えている。私は、この特集のなかから、歴史社会学者小熊英二(おぐま・えいじ、1962~、慶大教授)の問題提起をめぐる鼎談に注目した。それは、小熊、ドイツ現代史の井関正久、アメリカ史の梅崎透により行われた。

小熊英二の問題提起(正確には〈提起〉)は、「『1968』とは何だったのか、何であるのか」と題して次の三つの視点を提示する。
1 メディアの台頭
2 近代化の進展
3 冷戦秩序の揺らぎ  
「メディアの台頭」で、小熊は「1968年」の国際性、関連性が過大評価されてきたとする。地域・テーマ・運動に、そんなに相互の関連性はなかった。過大評価の要因の多くは、視覚に訴えたテレビ映像の特性とそれの解釈にあるという。
たとえば紅衛兵はビートルズを知らなかった。毛沢東思想に共鳴したフランス学生は中国の抱えた問題を理解していなかった。日本でも、全共闘・水俣病・金嬉老事件・永山則夫事件の当事者同士は、相互に無関係であった。視覚的映像は、運動を過激化したり劇場型にしたこともあって多数派の獲得につながらなかった。

《小熊英二が提示した三つの視点》
 「近代化の進展」とは、経済成長と消費社会の浸透を指している。メディアの台頭自体がその結果である。それは大衆社会の出現であり、サブカルチュアの興隆である。マンモス大学の不正経理、医学部の独善的な運営が、日大闘争と東大闘争の原因になった。小熊はこれを一般化してこう表現している。
「これらの状況は、急激な社会の近代化に対し、組織の運営や人々の意識が追いついていなかったこと、そのために大きな緊張と摩擦が生じたことを示している。ここでいう近代化は、急激な経済成長であり、消費物資の浸透であり、大学進学率の上昇であり、人権意識の高まりであった」。
小熊によれば、近代化は通信技術の発展を通して運動形態にも変化をもたらした。べ平連や全共闘のような新しい組織化、国際化にもつながった。近代化への反発は脱成長、自然回帰志向、エコロジーへの関心も広げた。近代化に関してのある種の「アンビバレンス」が生じた。

「冷戦秩序の揺らぎ」に関しての小熊の論理は次のようになる。
若者たちは目的を共有しなかったが、意図せざる結果として一つの方向性を共有することになった。それは冷戦秩序への批判である。米ソ及びそれと結ぶ各国の政権や共産党への批判である。そして「日本では新左翼セクト、ノンセクト活動家、べ平連がアメリカへ従属する政権に反発するだけでなく、ソ連や自国共産党に批判的だった。『反帝・反スタ』は米ソ双方への感情的反発の表現だった」と書いている。次の言及は小熊の姿勢をよく伝える。
「エマニュエル・ウォーラースタインは『1968』を評価する理由として、それがアメリカの覇権とそれに妥協したソ連によって築かれた世界システムへの抵抗運動だったからだという認識を示している。彼の認識は、広い意味では(小熊の)本稿と重なるものといえる」。

《「1968」とは何だったのか・何なのか》
 〈提起〉の「おわりに」で、1968年は「何だったのか」、「何なのか」について「概略の仮説」を述べている。
まず「何だったのか」である。
近代化は旧来の秩序を変容させる。その過程には暫定的な安定期があるが、ある時点では地震を起こす。20世紀前半から半ばに作られた国内秩序・国際秩序が各地で共振しながら変動していった。「1968年」とはその地震を集合的に捉えようとしたフレームだった。
「1968年」後も、衛星通信の発達や消費文化の浸透とその影響が、アジアからアフリカまでを覆った一連の民主化過程に及んだとみる。しかし金融危機を経て現在に及ぶ世界秩序の動揺は、「長い1968」というより、近代化の進展であると捉えている。

次は「何なのか」である。
小熊は、2018年から見ての「1968年」を改めて考察する。「メディア、学生、国際性、マイノリティー、フェミニズム、エコロジー、若者文化、新自由主義へのある親和性」などをキーワードとして高い評価をする論に対して三つほどの留保をつける。
第一に、当時の小さくて無関係な現象を先駆的なものと評価する「記憶の創造」が混在すること。
第二に、近代化の成果と「1968年」の影響との混同があること。それを次のように書いている。
「一九六八年以降、女性の社会進出やマイノリティの権利獲得が進み、運動の国際化が一般化し、インターネットが世界を結び、ネットワーク型の組織原理がもてはやされ、新自由主義が台頭した。だがこれらすべてを『一九六八年の運動の成果』とみなすのは、どう考えても過大評価である。(略)近代化のプロセスが、より進んだことを示していると考えた方が適切だ」。

第三に、「これは最も重要なことだが」と断って、歴史は後世の視点で書かれることを強調している。「他国では現在の変化の原点として『1968』が語られるが、日本では一過性の現象としてしかみなされない傾向が強い。まさに歴史とは現在の鏡であり、歴史をどう記述するかは、私たちがとのような現在を生きているかにかかっているのだ」というのである。その理由を七〇年代における不況期の欧米と「ジャパン・アズ・ナンバーワン」時代の日本の違いに求めている。

小熊〈提起〉の結論は次のように結ばれている。
「結論を述べよう。『1968』とは、近代化のプロセスが、既存の秩序にもたらした『地震』だった。そして現在において、どのように『1968』を表象するかは、私たちがどのような現在を生き、どんな社会を作っているかにかかっている」。

《力作の紹介で終わってしまったが》
 「鼎談に注目する」つもりの本稿は、小熊〈提起〉の紹介だけに終わった。しかも端折ったものである。自分のまとめ力をタナに上げていえば、〈提起〉が力作であり、読者は『思想』本誌へさかのぼって欲しい。次回は、鼎談の紹介と私の「1968年」論を述べたい。(2018/06/23)

2015.10.17 島津斉彬
明治日本の産業遺産と薩摩の名君

松野町夫 (翻訳家)

明治日本の産業遺産が2015年7月に世界遺産に登録された。登録名称は「明治日本の産業革命遺産 製鉄・鉄鋼、造船、石炭産業」。英語の名称はSites of Japan’s Meiji Industrial Revolution: Iron and Steel, Shipbuilding and Coal Mining. 産業遺産は福岡、佐賀、長崎、熊本、鹿児島、山口、静岡、岩手の8県に点在し、合計23施設で構成されている。

鹿児島では3施設が登録された。「集成館」(反射炉跡・機械工場・紡績所技師館)、「寺山炭窯跡」、「関吉の疎水溝」。いずれも鹿児島市内にあり、そのほとんどは島津斉彬(しまづ なりあきら)が建設したもの。ただし、紡績所技師館(=異人館)は、斉彬の後継者・島津忠義(ただよし)が1867年にイギリス人技術者の宿舎として建設した。

島津斉彬(1809-1858)

島津斉彬は幕末の薩摩藩の第11 代藩主。島津氏第28代当主。第10代藩主・島津斉興(なりおき)の長男として、1809年3月14日、江戸薩摩藩邸で生まれる。早くから英明をうたわれ、和漢洋の学問に秀でていた。洋学に興味を抱くようになったのは、薩摩藩の第8代藩主で、曽祖父の島津重豪(しげひで, 1745-1833)の影響が大きい。重豪は、曾孫である斉彬の利発さを愛し、幼少から暫くの間一緒に暮らし、入浴も一緒にしたほど斉彬を可愛がった。重豪は斉彬と共にシーボルトと会見し、当時の西洋の情況を聞いたりしている。

ちなみに、シーボルト(1796-1866)はドイツの医師。1823年6月に来日。本来ドイツ人だが、オランダ人と偽って長崎の出島のオランダ商館医となった。医学ばかりでなく、動物、植物、地理にも造詣が深かった。出島で開業した後、1824年には長崎郊外に私塾「鳴滝塾」を開設し、日本各地から集まってきた多くの医者や学者に西洋医学(蘭学)を講義した。塾生には、高野長英・二宮敬作・伊東玄朴・小関三英・伊藤圭介らがいる。1828年に帰国する際、先発した船が難破し、積荷の多くが海中に流出して一部は日本の浜に流れ着いたが、その積荷の中に幕府禁制の日本地図があったことから問題になり、国外追放処分となる(シーボルト事件)。当初の予定では帰国3年後に再来日する予定だったという。

1848年には斉彬は40歳の壮齢であったが、斉興は藩主の座を譲らなかった。斉興は側室のお由羅(ゆら)の方との間に生まれた久光を後継者にしようと考えていた。こうして薩摩藩は、嫡子・斉彬を擁立する派と久光を擁立する派が対立し、お家騒動(お由羅騒動)に発展した。1849年、斉彬派側近は久光とお由羅を暗殺しようと計画したが、情報が事前に漏れて首謀者13名は切腹、連座した約50名が遠島・謹慎に処せられたが、この騒動が幕府の耳に入り、斉興は隠居を命じられ、斉彬が家督を継いだ。

1851年2月、斉彬は藩主に就任するや、藩の富国強兵に努め、洋式造船、反射炉・溶鉱炉の建設、地雷・水雷・ガラス・ガス灯の製造などの集成館事業を興した。1851年7月には、土佐藩の漂流民でアメリカから帰国した中浜万次郎(ジョン万次郎)を保護し藩士に造船法などを学ばせたほか、1854年、洋式帆船「いろは丸」を完成させ、帆船用帆布を自製するために木綿紡績事業を興した。西洋式軍艦「昇平丸」を建造し幕府に献上している。黒船来航以前から蒸気機関の国産化を試み、日本最初の国産蒸気船「雲行丸」として結実させた。斉彬は徳川斉昭、松平慶永や老中・阿部正弘らと親交があり、その見識は高く評価されていた。ペリー来航(1853)による国内不安に際しては、幕府に開国と海防の要を説いた。斉彬はまた、西郷吉之助(隆盛)、大久保一蔵(利通)ら下級武士を藩政に登用し、その後の薩摩藩の勤王運動の原点となった。

鹿児島市照国町には、照国神社(てるくにじんじゃ)がある。この神社は鹿児島の夏の風物詩「六月灯(ろくがつどう)」で県民に親しまれているが、祭神は照国大明神(島津斉彬)。

ちなみに六月灯とは、旧暦の6月(現在は7月)に和紙に絵や文字を書いた灯籠を県内の神社や寺院に飾り、歌や踊りを奉納する祭りのこと。なかでも照国神社の六月灯が最大規模である。

2015.09.19  陸軍にもあった海上特攻隊
    ベニヤ製の小型艇で敵艦に突っ込む

岩垂 弘(ジャーナリスト)

 8月28日付毎日新聞夕刊社会面のトップ記事に目が止まった。「『真珠湾』最初の爆弾投下」「軍神 敗戦を予見」という見出しのついた記事。アジア・太平洋戦争の口火となった1941年の真珠湾攻撃で最初の爆弾を投下し、翌年、南洋で35歳で戦死し「軍神」とあがめられた日本海軍のパイロットが生前、家族に戦争指導部の無謀な作戦と無残な敗戦を言い当てていた、という内容だった。「戦争指導部の無謀な作戦」という活字に、私は、今夏、広島で見聞した「旧陸軍の海上特攻隊」を思い出した。

 8月7日、広島で「海から見えるヒロシマ(船をチャーターしての、広島湾海上フィールドワーク)」というツアーがあった。竹内良男さん(東京都立川市、元教員)が企画したツアーで、狙いは「歴史の現場を自分の足で歩きながら、今につながる話を聴き、自分の目で見ることを通して、戦争と平和を考えよう」というものだった。参加者は約50人。

 6日に広島市内で行われた市主催の平和記念式典や、原水爆禁止関係団体の集会を取材するため同市に滞在していた私もこれに参加したが、ツアーのコースは宇品(うじな)港――似島(にのしま)――江田島(えたじま)――金輪島(かなわじま)――宇品港。ツアー参加者は広島市街南端の宇品港を小型客船で出航、これらの島々を回った。

 乗船前に竹内さんが参加者に配布したツアーの予定表を見ていたら、江田島では、「海の特攻」の訓練に取り組んでいた元陸軍少年兵の証言を聞く、とあった。私は、頭をかしげた。特攻といえば、「空の特攻」、すなわち航空機による特別攻撃隊がよく知られいる。これには、海軍によるものと陸軍によるものがあった。これに対し「海の特攻」と聞いて、私がとっさに思い起こしたのは、「人間魚雷」といわれた海軍の特攻兵器の大型魚雷「回天」だった。
 この「回天」に乗って訓練中、事故で殉職した特攻隊員のことを取材すべく、私は以前、「回天」訓練基地があった大津島(山口県の徳山湾内)を訪れたことがあった。だから、「海の特攻」といえば、海軍によるものとばかり思ってきたのである。「陸軍にも海の特攻があったって?」。ますます興味を覚えた。

 船が江田島に近づいた。戦前生まれの人にはかなり知られた島と言っていいだろう。敗戦まで、この島に海軍将校養成のための海軍兵学校が置かれていたからである。
 私たちは、桟橋から島に上陸した。島の北端、幸ノ浦というところだという。畑の中に家屋が散在する静かな海浜の村落だ。江田島市の一部という。

 桟橋のわきに、海を背にした石造りの慰霊碑が建っていた。それには「海上挺進戦隊顕彰之記」が刻まれていた。建立は1967年とあった。

 竹内さんが参加者に配布した資料などによると、幸ノ浦に基地が置かれていた「海の特攻」とは次のようなものだった。
 アジア・太平洋戦争で日本の敗色が濃くなったのは1944年(昭和19年)である。何とか局面を打開しなくてはと、海軍が開発したのが航空機による特攻「神風特別攻撃隊」だった。軍用機に乗った隊員が敵艦に体当たりして自爆し、敵艦に打撃を与えるという、いわば戦死を前提とした戦法であった。この年10月には、フィリピンのレイテ沖海戦で神風特別攻撃隊が初めて出撃する。

 陸軍も特攻作戦の具体化を急ぐ。その結果、創設されたのが、「海上挺進戦隊」だった。自動車のエンジンで駆動するベニヤ製の小型艇に250キロの爆雷を積み、夜陰に乗じて1人で敵艦に突っ込む部隊だ。小型艇は長さ5・6メートル、幅1・8メートル、最大速力20~25ノット、航続時間3・5時間。部隊の存在は秘匿され、小型艇の製造も極秘裡に行われた。出来上がった小型艇は「マルレ」という秘匿名称で呼ばれた。
 隊員の大半は、15~19歳までの少年兵。陸軍各部隊から選抜した者や志願者で構成した陸軍船舶兵の特別幹部候補生だった。広島市宇品にあった陸軍船舶司令部が隊員養成と戦隊編成に当たった。 

 瀬戸内海の小豆島などで訓練を受けた戦隊隊員は、江田島幸ノ浦にあった基地に集められ、ここから44年9月以降、順次、フィリピン、台湾、沖縄方面に出撃した。戦地に向かった戦隊隊員は約計3100人、うち戦没者は1790人とされる。「30ヶ戦隊が昭和19年9月以降続々沖縄、比島、台湾への征途にのぼり、昭和20年1月比島リンガエン湾の特攻を初めとし同年3月以降の沖縄戦に至る迄鬼神も泣く肉迫攻撃を敢行しその任務を全うせし……挙げたる戦果敵艦数10隻撃沈、誠に赫々たるものありしも当時は秘密部隊として全く世に発表されざるままに終れり」と慰霊碑にある。
20150918-岩垂-写真-広島 268
     広島県江田島市幸ノ浦の浜辺に建つ海上特攻隊戦没者の慰霊碑

 そればかりでない。隊員たちは予想もしていなかった事態に遭遇する。米軍による広島への原爆投下だ。この時、爆心から南約13キロの幸ノ浦基地には、本土決戦にそなえて特攻隊員、整備要員ら約2000人が駐在していた。隊員らは、広島の空高くのぼった、きのこ雲を目撃したはずである。
 原爆投下直後、隊員たちは船舶司令部からの命令で広島市内へ向かい、被爆者の救援にあたった。多数の被爆者が運ばれた隣の島の似島で被爆者の救援活動にあたった隊員もいた。こうした経緯から、隊員の中にはその後、放射線障害に苦しむ人もいたと伝えられている。 

 ツアー一行が幸ノ浦に滞在中、村落の集会所で、元海上挺進戦隊隊員の和田功さん(89歳)=広島市=の話を聞く機会があった。敗戦の8月15日には、上官の命令で、ベニヤ製の小型艇を焼いたという。和田さんは「あんな船でよくも戦争したものだ」と悲しそうな表情を浮かべ、「秘密部隊として扱われた部隊の歴史を知ってほしい」と訴えた。
 
 それにしても、ベニヤ製の小さな舟艇に爆雷を積んで単身、敵艦に突っ込むとは。何という無謀な作戦だろう。それにより、まだ成人前の若い生命が多数失われた。島を去る時、私は桟橋わきの慰霊碑の前に再び立った。戦死の瞬間に、少年兵たちの脳裏をよぎったものは果たして何だったのだろうか。そう思うと、無謀な作戦を遂行した戦争指導者への言いようもない怒りがこみ上げてきた。

 知り合いの元新聞記者によれば、アジア・太平洋戦争の開戦時、米国の国民総生産(GNP)は日本のそれの13倍だったという。そんな大国に宣戦布告した日本。冷静に考えれば、まことに無謀な戦争だったのである。

 作家の半藤一利氏は著書『昭和史 1926-1945』(平凡社、2004年刊)のむすびの章「三百十万の死者が語りかけてくれるものは?」中で、「昭和史の二十年がどういう教訓を私たちに示してくれたかを少しお話してみます」として、5点を挙げている。その一つに「何かことが起こった時に、対症療法的な、すぐに成果を求める短兵急な発想」を挙げ、「これが昭和史のなかで次から次へと展開されたと思います。その場その場のごまかし的な方策で処理する。時間的空間的な広い意味での大局観がまったくない、複眼的な考え方がほとんど不在であったというのが、昭和史を通しての日本人のありかたでした」と述べている。

 半藤氏はこの章の中で「歴史に学べ」と言っている。戦後70年。日本人はこの間、過去の歴史に学んできただろうか。
2015.08.20  中国大陸との国交正常化
          ―あらためて考える「歴史問題」 4 (最終回)

田畑光永 (ジャーナリスト)

 このシリーズの途中で8月14日に安倍首相の「終戦70周年談話」が出された。しかし、予想通り「歴史問題」にきっちりけじめをつけるような談話とはならず、15日の番外篇で指摘したように、適当に言葉をつぎはぎしながら、なるべくみずからは反省も謝罪もしないで、同時に非難も浴びないように形をつけただけのものに終った。したがって、こちらも今までの話を続けることにする。
 これまでの3回では20世紀前半における中国侵略、朝鮮併合という日本の行動は、中国大陸、朝鮮半島、日本列島が中華を中心とする緩やかな朝貢冊封体制のもとでの共存体制というこの地域の伝統にそむくいわば「掟破り」であったこと、しかし太平洋戦争のあとの中国の内戦、朝鮮戦争というアジアの激変の中で行われた中華民国(台湾)、韓国(朝鮮半島南半部)との国交調整では、相手側は日本の「掟破り」に謝罪を求めるほど立場に余裕がなく、両者とも対日不満を抱きつつも国交が再開された経緯を述べて来た。しかし、1972年の秋に至っていよいよ中国大陸の政権との国交正常化交渉の機が熟した。

日中正常化における戦後処理
 戦後初めて大陸の土を踏む日本の首相として、過去の戦争についてどう語るか、中華民国の時のように表向き何も言わずにすますことは出来ない。ではどう言うか?時の田中首相が大いに悩んだことは当時の状況から明らかである。先述したように戦後すぐに東久邇宮首相が「中国に謝罪使を特派したい」との意向を内外に明らかにした事実を、田中首相が知っていたかどうかは不明だが、皮肉なことに1972年当時は蒋介石になお恩義を感ずる勢力からの「中共に頭をさげることは許さない」という圧力はかなりなものであった。それをかわすために田中首相が選んだ言葉が有名な「ご迷惑」である。
 訪中初日、9月25日夜の歓迎宴での「(過去数十年にわたって)多大なご迷惑をおかけした」という田中首相の挨拶は、翌日の首脳会談で周恩来首相から「言葉が軽すぎる」と強い言葉での抗議を呼んだ。しかし、これに対しては田中首相は「ご迷惑と言った自分の真意は謝罪である。したがってその言葉が不適当であるなら、中國側の記録にははっきり謝罪としてもらって構わない」と釈明して、その場をしのいだ。そしてこの問題は共同声明前文の「日本側は、過去において日本国が戦争を通じて中国国民に重大な損害を与えたことについての責任を痛感し、深く反省する」という一節となって決着した。ここで反省は表明したものの、「謝罪」までは踏み込まなかったことが問題を後に残した。
 田中首相の釈明は日本国内向けにはあくまで「ご迷惑」、中國側がそれを「謝罪」と受け取っても異存なし、という双方の国内事情を刺激しないための苦心の弁であるが、周恩来首相が本心、これで納得したとは思えない。
 しかし、そもそも中国が前年7月に米のキッシンジャー特使を受け入れてニクソン訪中の話を進め、また日本との国交交渉を開くに至ったのは、当時、対立が深まっていたソ連に対抗するために米・日へ接近するという外交戦略上の必要に迫られていたからであった。したがって過去に対する「謝罪」にこだわって会談を決裂させるわけにはいかなかった。ここでも中國の状況が日本を助けたのである。
 同じことは賠償問題でも起こった。深刻さはこちらのほうがまさった。と言っても、中国側が日本に賠償を払えと要求したわけではない。その代りに中國側は「中日両国国民の友好のために賠償請求権を放棄する」と共同声明に書き込むことを主張した。それに日本側が異を唱えたのである。その理由は20年前の日華平和条約で台湾の中華民国政府がすでに賠償請求権を放棄しているから、この問題はすでに決着ずみであるということだった。つまり、中国側には放棄すべき請求権それ自体がもはや存在しないというのが、日本側の立場であった。
 これに周恩来は激怒した。そんな理屈は中国人民を侮辱するものだ、とまで言った。もともと終戦直後の中華民国は戦争で多大の被害をこうむった以上、日本には賠償を支払わせるという立場であった。在華日本軍民の引揚げについては「暴に報いる徳を以てせよ」と国民を説得した蒋介石も、1945年10月17日に重慶でUP通信のヒユー・ベイリー社長と会見した際には「日本とドイツは戦争誘発に対し同等の責任を有するものであるから両国の処罰は同じ見地からなされなければならないと信ずる」と述べ、同社長は蒋介石から「寛大な和平には決して賛成しない」という印象を受けたと書いている(当時の新聞報道)。
 その後も国民党政権はことあるごとに日本に賠償を要求したが、日華平和条約にいたって請求権を放棄したのは以下のようなやりとりの結果である。同条約が国会で批准された当時の外務省条約局長(後に外務次官)だった下田武三の回想禄『戦後日本外交の証言』にはこうある。
 「国府側は賠償問題では、対日戦争の最大の被害者である中国が賠償を放棄することは中国の国民感情が許さない、として対日賠償請求権を強く主張した。これに対して日本側は、中国大陸における中国の戦争被害は大陸の問題であり、この条約の適用範囲外であるとして、条約からの削除を求めた」(下田『戦後日本外交の証言』)
 この日本側の主張はもっともである。賠償は政権に払うのではなく、国民に払うものである以上、戦争中は日本領であった台湾・澎湖島に統治範囲が限られる中華民国政権に戦争賠償を払うのは筋が通らない。内戦に敗れた国民政府にしてみれば傷口に塩をすり込まれるような言い草に聞こえたであろうが、理は日本側にある。
 しかし、それなら大陸の政権が請求権を持つことを認めなければ、今度は日本側の態度が一貫しない。というより、台湾が放棄したから、すでに大陸の政権には請求権がない、というのはほとんど詐欺の論理である。
 ところがこの点でも中國側が譲歩した。日中共同声明の第五項は「中華人民共和国政府は、中日両国国民の友好のために、日本国に対する戦争賠償の請求を放棄することを宣言する」となった。請求権の「権」が消え、したがって日本側との合意というより、中國側の一方的宣言である。
 さらにつけ加えれば、「戦争状態の終結」についても、日本側の「日華平和条約によって終結」という立場を中国側が認めて「戦争」という言葉なしに、共同声明第一項は「日本国と中華人民共和国との間のこれまでの不正常な状態は、この共同声明が発出される日に終了する」となった。
 こう見てくると、二〇世紀前半の日本の行動に対する中国、韓国の憤懣は、公式の戦後処理の場においては、中国へは田中首相の「ご迷惑」発言と日中共同声明における「責任を痛感し、深く反省する」という言葉、そして韓国へは無償3億ドル、有償2億ドルの経済協力だけで解決されたことになった。
 これは当事者間の合意の結果であるから、日本の責任というわけではない。ただ中国、韓国にとっては日本の行動の責任をきびしく追及し、納得のいく結果を得るだけの余裕のない状況で国交を開かなければならなかったことが、後々折に触れて歴史問題が国家関係をこじらせる原因となったことは否めない。

謝罪より歴史の直視を
 勿論、その後、日本の首相は「謝罪」をおこなってきた。代表的な例が一九九八年の金大中大統領との日韓共同声明における小渕恵三首相の謝罪、同年の中国・江沢民主席への同首相の口頭による謝罪、それに相手を特定しない一九九五年の村山富市首相の戦後五十年にあたっての談話、同じく二〇〇五年の戦後六十年にあたっての小泉純一郎首相の談話である。
 これだけ謝罪すれば、中国にせよ韓国にせよ、国交回復時の不満を解消してもいいはずと思えるのに、なお謝罪が求められるのはいかなる理由か。そこが問題の核心であるが、それは日本の政治世界における歴史認識のあいまいさが折角の謝罪をしばしば不透明なものにしたり、否定したりするからである。
 村山首相の談話は、わが国が遠くない過去に「国策を誤り」、「侵略」と「植民地支配」をおこなったことを「謝罪」した。この談話が意味を持ち続けるためには、後継者はこれを尊重しなければならない。しかし、小泉首相は「国のために命を捧げた人々に哀悼の誠を捧げるため」に六度も靖国神社に参拝した。安倍首相も一昨年の年末に参拝した。自分たちの戦争を「侵略」と認めて謝罪しながら、一方でその戦争の指導者を含めて、直接それに従事した人間を「国のために命を捧げた」と称揚して参拝するのは論理矛盾である。
 その時点で以前の首相の謝罪は俗な言葉で言えば効力が切れる。それが繰り返されてきた。その根底にはあの戦争を心底悪かったとは思わない系譜がこの国には脈々と生き続けている。福沢諭吉が前出の「脱亜論」で「支那朝鮮」が時勢に遅れているのだからという理由で、わが国の「支那朝鮮に接するの法も隣国なるが故にとて特別の会釈に及ばず、正に西洋人が之に接するの風に従て処分す可きのみ」と書いたように、あの戦争は欧米先進国が世界中でやっていることを真似ただけとする考え方である。
 昔からの三国共存の掟を破って、明国目指して朝鮮に出兵した豊臣秀吉もカトリックの宣教師から織田信長を経由して注ぎこまれた弱肉強食の「世界の趨勢」に突き動かされたのであろうし、明治日本の指導者たちも世界の大勢におくれまいと武器をとることに躊躇しなかった。「如何となれば世界文明の喧嘩繁劇は東洋孤島の独睡を許さざればなり」(福沢『脱亜論』)が、戦いを正当化する根拠であった。
 自己の行為そのものの善悪をつきつめるのでなく、他人との比較で自己の正当性を量るのはわが国の特性の一つであることは、従軍慰安婦の議論でかならず他国の例が持ち出されるところにも顕著である。
 こう見てくると、わが国と近隣国との歴史問題はまさに戦後の歴史の巡り合わせと国民性が生んだアジアの宿題である。今尚それは生きているというより、世代が変り、今やわが国と中国、韓国との国力の差も縮小、ないし逆転して、あらためて三国の関係を考え得る時代になったということであろう。韓国、中国にしてみれば、戦後70年にして初めて、損得勘定抜きに「掟破り」を正面から問題に出来る状況になったのである。
 とすれば、相手は政権の弱さを補うために昔のことを言い立てているといった受け取り方でなく、現在のアジアの力関係から生まれた、古いが新しい問題としてとらえ直すことが必要である。
 と言っても、別に妙案があるわけではない。なすべきは真面目に歴史を直視することである。現代史が難しいのは、現に生きている人間と直接に関わりがあった人間の行為を評価しなければならないからである。戦争は多くの人間の命に関わる出来事であるから、客観的な評価がためらわれる場合があるのはやむを得ない。靖国神社問題などはその典型である。
 靖国神社は戦死者を神として祀ることによって、国民を兵員として徴発するのを容易にするための施設であったことは疑いようのない歴史の事実である。しかし、その存在が肉親を失った遺族の悲痛をいくらかでも慰める限りは、国民全体が一致して、戦死者とは命令によって他国を侵略し、他国の国民を苦しめ、その過程で自らも命を落とした犠牲者であって、「英霊」などと呼ぶことは歴史の真実を覆い隠す偽装であると、認識することは困難であろう。
 戦場でなにをして命を落としたかを問うことはせずに、「お国のために命を捧げた英霊」としておくことは遺族を含む有権者の感情を傷つけたくない政治家にとっては都合のいい逃げ道である。その靖国神社に参拝することは政治家にとってプラスになる。そのためにはあの戦争をあからさまに侵略と決めつけるのは具合が悪い。そこで言葉を濁す。侵略の定義はいろいろある、などと無意味な抵抗をする。英霊の集団が女性たちを従軍慰安婦にして、「耐え難い苦痛」を与えたというのもためらわれる。そこで業者なるものを介在させて従軍慰安婦の存在自体を商行為に仕立て上げる。こうした内向きの戦争の偽装工作がこれまで外向けの謝罪の真意を疑わせ、無効にしてきた。なんど謝ってもまた・・・というのは、この偽装工作の故である。
 しかし、戦後も七十年。こうした偽装工作を卒業する時期ではないか。すくなくとも、偽装工作を破綻させないために、被害国からの批判にむきになって反論したり、相手の被害を割引いたりするような言説は事態を悪化させるだけである。加害者は被害者の批判にはだまって耳を傾ける義務があるはずである。(完)
2015.08.19  戦後70年、敗戦記念日に『NO MORE 731日本軍細菌戦部隊~医学者・医師たちの良心をかけた究明~』(文理閣)が刊行された
          ~関西から(171)~

広原盛明 (都市計画・まちづくり研究者)

 「15年戦争と日本の医学医療研究会」(以下、研究会という)という医学者・医師・科学史研究者から構成される研究団体がある。2000年6月に設立され、同年秋から研究会会誌が年2回発行されてきた。研究会の目的は、「本会は15年戦争をめぐる日本の医学医療界の責任の解明を目的とする」(会則第2条)とあるように、15年間にわたって中国大陸において展開された日本軍の侵略戦争に加担した医学医療関係者の戦争責任を追及するため、そのための史実・証言を収集調査し、研究することである。

 周知のごとく、日本軍は15年戦争において国際法上禁じられている生物化学兵器を使用した細菌戦・毒ガス戦を計画し、その作戦展開のため中国東北部(満州)近郊の平房区に大規模な731部隊を建設した。同基地においては3000人余の中国人が「マルタ」との呼称のもとに人体実験・生体解剖などに供されて殺害され、当時の大学医学部に所属する多くの医学者・医師がこの恐るべき犯罪行為に加担した。しかしながら戦後、これらの「実験結果」を秘匿して新たな軍事目的に利用しようとするアメリカの意図のもとで、731部隊に関係した医学者・医師の多くは「免責取引」によって犯罪追及を免れたばかりか、日本の医学界・医療界に復帰して公然と要職に就くなど、その戦争犯罪は戦後70年に至るもいまだ裁かれていない。一方、太平洋戦争末期の1945年5月、九州山地で撃墜された米空軍B29の捕虜8人を生体解剖に付した日本軍および九州大学医学部関係者は、3年後の米軍横浜軍事法廷において5名が絞首刑、立ち会った医師全員が有罪となっている。

 医学医療関係者でも科学史研究者でもない私がなぜこのような拙文を書くのかと言うと、今回の出版に関わった17人の執筆者のなかで私が唯一医学医療専門外の研究者であり、執筆参加の理由を明らかにした方が本書の理解を進めるうえで有効だと考えたからである。私が執筆したのは、「第Ⅱ部 731部隊の所業」のなかの「Ⅱ-7 731部隊を建設した日本の建設業者」、731部隊の基地を建設した日本の建設業者を特定するための検証作業を記したものである。

 執筆に参加した直接的な切っ掛けは、研究会の第9次訪中調査団(2011年9月)の一員に加わったことにあるが、実はその前に少しばかり「前史」があることを語らなければならない。私は、父の任地(満鉄哈爾濱鉄道局)の関係で731部隊の所在地・平房区に近接するハルビンで1938年に生まれた「ハルビンっ子」であり、京都では「ハルビン会」という同窓組織に所属していた。ハルビン会の中心はハルビン日本人学校のなかでも最も古い歴史を持つ京都ゆかりの桃山小学校(西本願寺1909年創設)の卒業生たちであり、私は同窓生でもないのにただ「ハルビン生まれ」というだけでその一員に加えていただいていた(高齢化による会員数の減少を補うため)。

 そんなことでハルビン会に出席しては参加者のハルビンの思い出話を聞き、桃山小学校同窓会誌(『回想の哈爾濱、哈爾濱桃山小学校創立九十年記念誌』1999年)やハルビン中学、ハルビン商業、富士高女、扶桑高女、ハルビン医大の卒業生たちが綴った『昔、ハルビンにいた、PARTⅡ』2010年)などの記念文集をいただくなど交友を温めてきた。また私個人としてもハルビンは建築関係者とともに何度も訪れ、満鉄時代の主な建造物の見学を重ねてきた思い出の地でもある(自分の生まれた満鉄社宅団地も含めて)。

 私が第9次訪中団に加わったのは、研究会の事務局長である西山勝夫滋賀医大名誉教授のお誘いによるものである。氏は私の恩師、西山夘三京大名誉教授(故人)の御長男で古くからの知己であり、私がハルビン生まれであること、ハルビンの建築・都市計画に関心があることを知っておられたのだろう。中国側で731部隊遺跡の世界遺産登録の準備作業が始まっていたこともあって、これまでの医学医療関係者に加えて建築・都市計画専門家が必要との判断のもとに参加要請があったのである。

 帰国後、現地での調査結果を3カ月ほどでまとめ、研究会会誌2011年12月号に2つの論文として発表した。ひとつは『中国東北部ハルビン731部隊遺跡訪問記~731部隊遺跡の世界遺産登録をめぐって~』であり、平房区の印象、遺跡(跡地)保護の歩みなどを検討し、世界遺産登録基準に照らしてその可能性を検討したものである。もうひとつは、今回の出版に際して収録された『731部隊を建設した日本の建設業者』に関する論文であり、その意図は当該建設業者を特定して世界遺産登録に必要な設計図面や施工図など関係書類を収集したいと考えたからである。

 だが結論から言えば、残念ながら当該建設業者は特定できなかった。最大の理由は敗戦状況が決定的になると、戦争犯罪の追及を恐れた731部隊関係者は家族も含めて逸早く逃走し(帰国し)、残された基地や各種施設を爆破したうえ、関係記録を悉く焼き払って処分したからである。また関係したとされる建設業者の社史も悉く調べてみたが、731部隊に関する記録は一切発見できなかった。文中にも書いたように、日本軍(関東軍)に関する建設記録は軍事機密に属し(工事名はすべて暗号で記載されていた)、設計図も施工図も建設終了時には軍に返却しなければならない決まりになっていたからである。

 したがって、私の採った方法は731部隊に関する既存刊行物(著作)の中から基地建設や建設業者に関する箇所を抽出し、それら記述の信憑性や妥当性を検討しながら消去法的に当該建設業者を絞っていくというものにならざるを得なかった。いわば、状況証拠を積み上げて犯人を追及していくような推理小説まがいの方法である。面白いといえば面白いが、やはり研究作業としては「程遠い代物」と言わなければならない。しかし、歴史資料は秘かに個人が持ち帰ったものが数十年も経って発掘されるなど、往々にして予想外の場所から発見されることが多い。そんなことでいろんな知人のネットワークを辿って探してみたのだが、残念ながら見つけることができなかった。拙ブログを読んで関係者や資料の在り処をご存じの方があれば是非とも教えてほしい。

 安倍首相が8月14日、戦後70年談話を発表した。内容は今後多くの国民によって検証されるであろうが、医学医療界ひとつを取ってみても日本の戦争責任は「頬かぶり」のままである。「15年戦争と日本の医学医療研究会」のように医学者・医師としての良心にかけて真実を究明しなければならないとする人たちもいれば、犯罪責任を免れようとして一切の事実を覆い隠そうとする人たちもいる。歴史はやがて真実をひとつひとつ明らかにしていくであろうが、安倍談話を契機にして全てをチャラにするような「未来志向」だけは避けてほしい。