2023.09.14 今年も「9・18」―加害の歴史を忘れまい
――八ヶ岳山麓から(441)――
                    
阿部治平 (もと高校教師)

 今年もまた9月18日がやってくる。満洲の荒野で犬死した従兄たちを思い出すつらい日だ。わたしは、この日を迎えるたび、何かをいわずにはいられない気持になる。以下、数年前にも同じことを書いたが、ご容赦を願う。
  
 中国国民政府軍と中国共産党=「紅軍」との対決が熾烈になった1931年9月18日夜半、奉天(現瀋陽)郊外の柳条湖付近で南満洲鉄道(満鉄)が爆破された。歴史家はこれを柳条湖事件という。この事件をきっかけに、関東軍は一斉に北大営その他の東北辺防軍への攻撃を開始した。「満洲事変」である。
 満洲とは日本のいい方で、中国東北部の黒竜江・吉林・遼寧の3省のことで、中国では東三省という。関東軍とは日露戦争後に満鉄と遼寧省関東州防衛のために駐屯した日本軍である。東北辺防軍(以下東北軍)とは中華民国の軍隊であり、北大営は東北軍駐屯地である。
 そして「満洲事変」は宣戦布告なき1945年までの日中15年戦争の始まりである。
 第二次世界大戦敗戦に至るまで、日本では満鉄爆破は東北軍の犯行だと信じられていたが、事実は関東軍の謀略によるものであった。首謀者は関東軍高級参謀の板垣征四郎大佐、作戦主任参謀の石原莞爾中佐らである。
  
 日本軍から「東三省」を守るべき東北軍の最高指揮官は張学良であったが、彼は国民政府蒋介石総統の無抵抗方針にもとづいて軍を錦州に撤退させ、関東軍との正面衝突を避けた。
 関東軍は遼寧省から黒竜江省に侵攻し、馬占山軍などの抵抗を退け、さらに32年1月には錦州をおとした。
 当時日本では「満蒙は日本の生命線」という声が高かったが、それにしても関東軍の行動は日本政府の意表外のものであった。
 関東軍は、全満洲を制圧すると、32年3月清朝のラストエンペラー愛親覚羅溥儀を担ぎ出し、34年3月溥儀を皇帝とする満洲帝国を製造した。

 32年、蒋介石は廬山会議で「安内攘外(内を安んじて外を打つ)」つまり中共=「紅軍」の殲滅が先で抗日はその後とし、日本の侵略には当面無抵抗を主張した。もちろん中国国内には抗日を叫ぶ民衆の声があり、孫文夫人の宋慶齢は抗日のために全民族の抵抗を呼びかけ、35年には北京で抗日を叫ぶ学生の「一ニ・九運動」が起きた。地方軍閥も日本に抵抗したが国民政府の支援がないためつぎつぎ敗退した。
 36年これに耐えかねた東北軍司令張学良は西安で蒋介石を監禁し、抗日のために中共と妥協するよう迫り(「西安事件」)、抗日民族統一戦線の実現を導いた。
 37年北京郊外で盧溝橋事件が起き、日本軍の本土侵略が本格化した。 
 最終的に中国は勝ち、日本は敗けた。今日中国は1945年の日本降伏までに1000万人の死者を含む2100万人の犠牲者と5000億ドルの経済損失を被ったという。中国は抗日戦に勝ったものの、それは文字通りの「惨勝」であった。

 日本では日中戦争といえば、満蒙開拓団と満蒙青少年義勇軍の悲劇が語られる。
 日本政府は、満洲支配を強固にするために、また国内の小作問題解決の目的もあり、朝鮮人も含めた開拓移民を始めた。「満州事変」後から45年までに日本人移民は32万人、朝鮮人移民はその倍を数えた。
 満蒙開拓団は原野を開墾するよりも、現地漢人(当時は「満人」といった)の土地と家屋を極めて低価格で半強制的に買い上げることが多かった。40年頃には満洲北部で65%の農民が土地を失い、6%の(日本人も含む)地主が67%の土地を所有した。「満人」のなかには自分の土地を奪われた上に、日本人地主の小作人になるものもあった。そこには当然のように民族差別があり、一番上が日本人、朝鮮人、蒙古人の順で最下位が「満人」だった。
  
 中国本土での戦争が激化し大陸本土へおくりこむ兵員が増加すると、満蒙開拓団は数年で参加者が減少し始めた。これを補うために青少年の移民が計画された。「満蒙開拓青少年義勇軍」である。これを発案したのは、元農林大臣石黒忠篤、農本主義者の加藤完治らであった。
 1938年には義勇軍の募集が始まった。小学校卒、数え年16歳から19歳までの身体強健な男子で、父母の承諾を得さえすればば誰でもよいとされた。自由応募がたてまえだったが、実際には道府県に割当てがあり、道府県は各学校へ割当てた。青少年義勇軍は1938年から1945年の敗戦までに8万6000人に達し、満蒙開拓民全体の30%を占めた。
 長野県は満蒙開拓団も青少年義勇軍も全国最多だった。

 1933年に長野県では「教員赤化事件」なるものが起きた。当時、世界恐慌の影響を受けた養蚕の不振による貧困があり、教員のなかに困窮した児童を救おうとするものが生まれたが、共産主義思想の持主ではなく、「赤化」は当局の捏造であった。
 県当局と「信濃教育会」は、赤い教員を生んだのを「天皇陛下に申し訳が立たない」として、満洲移民への動員をかけたのである。学校では、満洲へ行けばゆくゆくは畑を20町歩(ヘクタール)もらえる、満洲の言葉は日本語とほとんど同じだ、といった話があった。親はもちろん、本人もこれにつられた。
 私の親族では、従兄2人、のちに従姉の夫になった1人も入れると3人が青少年義勇軍に参加したが、いずれも次男・三男であった。青少年らは隔離された宿舎生活と激しい労働に苦しみ、仲間同士のけんかや満人に対する非行にそのはけ口を見出した。たとえば婦女暴行さらには草刈り鎌で「満人」を殺す事件もあった。
 1945年8月ソ連が対日戦に参戦し、日本は降伏した。満州国高官、関東軍参謀らはいち早く日本に逃亡した。数人を除けば、彼ら指導者は天寿を全うしたのである。

 日本の敗戦が知れ渡ると、まず「満洲国軍」が反乱を起した。彼らの指揮官は日本人で兵隊は現地人という傀儡軍であった。「満人」は土地と家屋を取り返すために開拓集落を襲撃し、抵抗する開拓民を殺し、長年の恨みを晴らした。
 ソ連軍は日本人成年男子を捕虜としてシベリアへ送ったから、満蒙開拓団の婦女子と青少年らは取り残され、多数の自殺者が出た。また子連れで「満人」の配偶者になるしか生きる手がない人も出た。日本のために働いた「満人」・モンゴル人には逃げ場がなく、容赦なく報復された。
 従兄の一人は義勇軍宿舎に来た「満洲国」兵士に射殺され、一人は国民政府軍に抑留され2年後に帰国したが、肺結核のために数年後貧窮の中で死んだ。残り一人は満洲で徴兵されて、本土決戦のために九十九里海岸で塹壕掘りをしているうちに無条件降伏となって命ばかりは助かった。
  
 1989年の天安門事件の前年から、わたしは天津の高校に勤務した。学校では、7月7日が来ると「七七(チーチー)」といって盧溝橋事件、9月18日がくると「九一八(ジュイパ)」といって柳条湖事件を記念する集会があった。教師も学生も面と向かってはともかく、裏ではわたしを「那個鬼子(あの畜生)」と呼んでいた。
 その後、2000年から中国で11年間教師生活をしたが、中国政府が日本に不満を表明すると、そのたび人々は「打倒日本」を叫んで街頭に出た。それにひきかえ、日本では満洲の悲劇が語られる。侵略と植民地化の過去を意図的に無視して、「未来志向」を口にする。そして、わが民族の負の歴史を語るのを「自虐史観」だという。
 だが、日本は、アジア諸国に子々孫々に至る悲憤の種を残した。やった方は忘れたがるが、やられた方は決して忘れることはない。我々は加害の歴史を忘れてはならない。忘れることは民族の恥である。
                                          (2023・09・08)





2023.08.17  戦前・戦後の広島の実像を伝える
        広島・泉美術館の特別展「広島の記憶」

岩垂 弘 (ジャーナリスト)

 世界で最初に原爆の被害を受けた広島が、再び国内外の関心を集めている。ウクライナ戦争を機に核戦争が起きるのではないかという不安が世界的に高まってきたのと、去る5月にG7(世界主要7カ国)の首脳会議がここで開かれたからだと思われる。その広島の戦前から原爆投下直後までの歴史を伝える特別展『広島の記憶』が、8月27日まで、広島市西区の泉美術館で開かれている。戦前の広島はどんな町だったのか、それが原爆投下でどう変わったかがよく分かる特別展だけに、広島の歴史に関心を持つ人たちにぜひ見学を勧めたい。

 特別展は公益財団法人・泉美術館と中国新聞社の主催。今回の特別展の狙いを、主催者はこう述べている。
 「特別展では『戦前の広島』に着目し敗戦後の『占領下のヒロシマ』との2つの視点からその歴史を考察していきます。『戦前の広島』では、原爆で多くの記録が焼失したなか奇跡的に残った資料などから、風情ある川の都広島が軍都へと向かった経過を振り返ります。『占領下のヒロシマ』では、連合国軍の統治下にあった日本でプレスコードという言論統制のなか日本の主権が回復する1952(昭和27)年まで原爆の被害を公表できなかった事実を検証していきます」
IMG_6743.jpg

 会場に入ってまず目を奪われるのは、戦前の絵葉書を複写した写真である。町の繁華街を走る路面電車や、市内を流れる川でボートをこぐ学生たち、商店街を行き来する市民、子どもたちによる相撲大会などを写した絵葉書が並び、戦前の広島が、賑わいと活気のある風情豊かな町であったことを忍ばせる。それを一層印象づけるのが、画家の四國五郎や福井芳郎が、戦後になって描いたカラフルな戦前の広島の街の絵だ。

 そんな広島の町が急速に「軍都」と化してゆく。1894(明治27)年に日清戦争が勃発し、広島に大本営(陸軍と海軍を支配下に置く最高統帥機関)が置かれたからだ。会場には、広島大本営に入る明治天皇を描いた錦絵や、広島大本営跡、臨時帝国議会仮議事堂、街を行進する兵士、兵士たちが戦地に向かう船に乗り込んだ宇品港などの写真が続く。それに、広島には、陸軍糧秣支廠、陸軍被服支廠、陸軍兵器支廠などが設置され、民間の軍需工場も活気づいた。
 その後の日本は、日露戦争、第2次世界大戦、日中戦争、ついには太平洋戦争へと突入する。それに応じて、広島も高度な「軍都」として発展を遂げる。特別展は、こうした経過を豊富な資料で跡づける。

 ところが、一発の原爆が、広島の街を焼き尽くす。会場には、1945(昭和20)年9月から10月にかけて広島を上空から撮影した写真が展示されている。どれも、一面焼け野原の写真で、壊滅した広島の姿に息をのむ。原爆が投下された8月6日に市内の御幸橋で、倒れ込み、うずくまる人たちを撮った松重美人の写真や、同年9月に原爆ドーム周辺を撮った佐々木洋一郎の写真も展示されており、思わず足を止める。
 広島市・長崎市原爆災害誌編集委員会編『広島・長崎の原爆災害』(1979年、岩波書店刊)によれば、当時の広島市の戸数は約7万6000だったが、その92%が被害を受けたという。そして、直接の被爆人口は35万人前後だったと推定され、1950年までの5年間にほぼ20万人が死亡したとしている。

 辛うじて生き延びた被爆者の生活は苦難を極めた。会場には、写真家・土門拳(1909~90)が1958年に出版した写真集『ヒロシマ』(研光社)が展示されている。彼は、週刊誌の仕事で57年に初めて広島を訪れ、被爆地の惨状に驚く。これを伝えるのが写真家の使命と決意し、何回も広島を訪れて被爆者を取材した。
 土門が残した取材ノートも展示されている。それには、「広島へ行って、驚いた。これはいけない、と狼狽した。ぼくなどは、『ヒロシマ』を忘れていたというより、実は初めからなにも知ってはいなかったのだ」「『ヒロシマ』は生きていた。それをぼくたちは知らなさすぎた。いや正確には、知らされなさすぎたのである」と書かれている。

 特別展は、広島原爆に関する海外資料や報道資も紹介している。すなわち、「なぜ広島に原爆が落とされたのか?」「広島の原爆は、海外でどのように報道されたのか?」「占領下のブレスコード」といった諸点に肉薄しており、見学者を引きつける。
 これにより、原爆を投下された広島に関する初の現地ルポが、ハワイ生まれの日系二世のジャーナリスト、レスリー・ナカシマ(日本名・中島覚)によって初めて書かれたことを初めて知った。それは、1945年8月31日付のニーヨーク・タイムズに「記者が見た、消えた広島」「原爆の一撃で街は消えた、と彼は地域を視察した後に語った」との見出しで掲載されたが、なぜか放射能による被害に言及した部分は削除されていた。

 特別展を回って、私が最も強い印象を受けたのは、「プレスコード」がもたらした日本への影響である。
 ブレスコードとは、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)が1945年9月19日に発令した「言論及び新聞の自由に関する覚書」のことである。つまり、新聞や雑誌による米国批判、軍国主義の宣伝などを禁止するというものだったが、真の狙いは原爆に関する報道を禁止することにあった。当時、米国政府にとって一番気になっていたのは、新聞や雑誌などにより原爆製造に関する極秘情報が他国に漏れることと、残酷な原爆被害の実相が世界中に伝わることだったと思われる。だから、原爆に関する報道に対し厳しい検閲で臨んだわけてある。会場には、検閲のため作品の一部を削除せざるを得なかった詩人・栗原貞子の詩集『黒いて卵』や、作家・大田洋子の『屍の街』も展示されている。
 日本のメディアが原爆に関する報道を取り戻したのは、日本が独立を回復した1952年4月28日であった。つまり、日本における原爆報道は「9年の空白」を余儀なくされたわけである

 「9年の空白」は日本社会に多大な悪影響を及ぼした。まず、この間、原爆に関する貴重な資料が多数失われた。それに、原爆被害の全容が明らかにならないまま長い歳月が過ぎたから、被爆者への治療や援助、放射能による後障害の解明が遅れた。
特別展を見て、私は「プレスコード」を主導した米国政府へ改めて強い憤りを覚えた。と同時に、被爆直後に被爆に関する資料や記録を命がけで守った人たちに尊敬の念を抱い
た。

 特別展終了後は「図録」で
 特別展は8月27日まで。が、その後も、手軽に特別展の概要を見ることが出来る。泉美術館が特別展の図録『広島の記憶 HIROSHIMA』を発行しているからだ。1000円。インターネットで泉美術館と検索すれば同美術館のホームページが出てくるので、そこで購入できる。
 <泉美術館の所在地は広島市西区商工センター2―3―1 エクセル本店5階。広島電鉄宮島線草津南駅から徒歩7分。電話082-276-2600>
2023.06.05  関東大震災から100年
        韓国通信NO722-2
  
小原 紘(個人新聞「韓国通信」発行人)

 1923年(大正12年)9月1日午前11時58分、相模湾を震源とする大震災によって死者・行方不明者を含め約10万5千人が犠牲となった。建物も全壊、半壊、焼失家屋はあわせ37万戸を超える未曽有の大災害だった。関東大震災である。
関東大震災から100年

 中国人・朝鮮人・社会主義者の虐殺事件
 関東大震災のどさくさに紛れ虐殺事件が起きた。一説では6千人の朝鮮人(『独立新聞』)、2,613人(吉野作造説)、さらに8百人近い中国人と労働運動家平沢計七、社会主義者大杉栄らが殺害された。
 地震直後から、「朝鮮人が井戸に毒を入れた」「放火した」というデマが広がり自警団による殺害事件が発生した。内務省警保局、警視庁、軍がかかわる特異な事件だった。

 千葉県でも
 虐殺は関東周辺に広がり千葉県も例外ではなかった。吉野作造資料では141人が記録されるが320名以上という説もある。温暖な気候に育まれたおだやかな県民性からは信じがたい多さだが正確な人数はわかっていない。

 八千代市高津観音寺
関東大震災から100年
            高津観音の鐘楼

 京成八千代台から徒歩20分のところにある高津観音では毎年9月、関東大震災で殺された朝鮮人の供養が行われる。
地元住民たちの調査で習志野捕虜収容所の朝鮮人13名の殺害が判明。同寺の協力を得て1999年に「関東大震災朝鮮人犠牲者慰霊の碑」が建てられた。韓国仏教界から鐘楼が寄贈され、毎年市民による慰霊祭が行われている。

関東大震災から100年
               慰霊碑

船橋市馬込霊園 
 東武アーバンパークライン馬込沢駅から徒歩18分、県道船橋我孫子線沿いにある馬込霊園内には船橋天沼で殺された37名の朝鮮人の慰霊碑がある。震災の翌年に船橋仏教界によって建てられた。毎年、実行委員会主催の多数の参加者による追悼式が行われる。
 この他、法典、流山、馬橋、成田、田中村、千葉市、南行徳、佐原でも同様の虐殺が記録されている。

□朝鮮人と間違われて殺された人たち
 福田村(現野田市)では香川県から来た行商の一行が朝鮮人と間違われ9人が警察官と村民たちに殺された。南行徳、検見川でもそれぞれ3名の日本人が殺害された。福田村をテーマにした映画『福田村事件』(森達也監督)が今秋9月1日上映予定だ。国家権力によるデマ宣伝に踊らされテロを行った群衆がテーマだ。
 何故、朝鮮人、中国人が襲われたのか。
 震災直後、政府は治安維持のために戒厳令を布告。「混乱に乗じた朝鮮人が凶悪犯罪、暴動などを画策しているので注意」というデマを内務省みずから全国の警察に発したため、不安にかられた自警団による虐殺が各地で続発した。
 当時日韓併合と中国大陸侵略によって多くの朝鮮人と中国人が安い労働力として働いていた。朝鮮は3.1独立運動直後、中国本土では排日運動が高まった不穏な時期だった。日本の侵略主義に反対する社会主義者たちも虐殺の対象だった。

□我孫子でも
 我孫子事件について触れておきたい。かつて柳宗悦、志賀直哉ら白樺派文人たちが愛した我孫子でも忌まわしい事件が起きた。
 『我孫子市史』近現代編445p~448p(教育委員会刊)に震災時に起きた不幸な事件に関する記述がある。公的資料をもとに地元住民の『増田実日記』が伝える震災当時の町の様子とともに事件を伝えている。震災から逃れるために我孫子に流民化した人たちであった。
 『市史』は政府の偏見と誤情報は問われず、実行犯に責任をとらせたことへ疑問を投げかける。興味のある方は是非市史をお読みいただきたい。
関東大震災から100年
               神社

 《犠牲者追悼集会のご案内》
主催 関東大震災朝鮮人・中国人虐殺100年犠牲者追悼大会実行委員会
 歴史に誠実に向き合い国家の責任を問い、再発を許さない共生社会への
 第一歩を!
 8月31日(木) 追悼大会
        日時18時15分(開場)
        会場 文京シビックホール大ホール(東京都文京区春日1-16-21)
        遺族挨拶
        特別報告 国家の責任 メディアの責任 民衆の責任
        追悼のピアノ演奏   崔善愛
        追悼歌曲 紫金草合唱団・李政美
        海外ゲスト 朝鮮半島・中国・米国

 9月 2日(土) 国会前キャンドル集会 19時から20時 会場 国会正門前

 9月 3日(日) 国際交流シンポジウム 17時開場
        会場 在日大韓基督教会川崎教会
         〒210-0833 神奈川県川崎市川崎区桜本1丁目8−22
        テーマ 関東大震災におけるレイシズムとジェノサイド-国家の責任を問い歴史を世界の人々と共有するために―
2021.12.18 「ノモンハン事件」の最近の著作をめぐって
――八ヶ岳山麓から(354)――

阿部治平(もと高校教師)

 先日知人と日米開戦だの真珠湾爆撃だのを話していて、話題が「ノモンハン事件」に及ぶことがあった。私自身はこの「事件」をひと通り知っているつもりであったが、このとき、知人が紹介した本を自分でも読んでみようという気になった。
その本とは、鎌倉英也著『隠された「戦争」―「ノモンハン事件」の裏側』(論創社、2020)である。同書は同じ著者によるほぼ同名の書、『ノモンハン 隠された「戦争」』(NHK出版、2001)の復刊であり、その母体は、著者自身が制作にあたったNHKテレビ番組『ドキュメント ノモンハン事件~60年目の真実~』(1999.8.17放映)の取材記録である。
 このドキュメント放映以後、日本側から「ノモンハン」を見た半藤一利『ノモンハンの夏』(文春文庫 2001)や、おもにモンゴル人を語った田中克彦『ノモンハン戦争――モンゴルと満洲国』(岩波新書 2009)が出版された。以下述べることは、この秀逸の2冊の内容とないまぜになっているところがある。

 「ノモンハン事件」とは何か。
 それは1939年夏、日本の傀儡国家満洲帝国(中国東北部)と、当時のソ連支配下にあったモンゴル人民共和国(外モンゴル=現モンゴル国)の間で起こった、国境地帯の領有権をめぐる戦争のことである。その実体は日ソ両国間の戦争であった。
 この戦争を日本では「ノモンハン事件」と呼ぶが、ロシアとモンゴルでは「ハルハ河戦争」と呼ぶ。「ノモンハン」とは戦場近くにあった「ノモンハーニー・ブルド」という自然崇拝の小高い塚のことであり、「ハルハ河」とは国境紛争の的となった川の名である。
 日本がこれを「戦争」と言わずに「事件」とするわけは、天皇の命令のない「非公式」のもので、最終的にソ連・モンゴル側の領土要求を認め、敗北に終わった不名誉ないくさであったことにある。
 戦いは4ヶ月間であったが、双方大砲、戦車はもちろん爆撃機・戦闘機を繰り出す本格的な戦争で、日本・満洲国側の死傷者は全将兵3分の1、死者は1万8000という損害を出し、ソ連・モンゴル側もほぼそれに匹敵する多大な犠牲を出した。

 本書に戻ろう。鎌倉英也氏が「ノモンハン事件」に関心をもつきっかけは、1996年に急逝した作家司馬遼太郎の特集番組をつくるため、作家の書斎を訪れたときにあった。そこで見たひとつの段ボール箱には、「ノモンハン事件」の取材記録がぎっしりと詰まっていた。
 その後、1999年に鎌倉氏は思いがけず、ロシア軍事史公文書館がそれまで極秘扱いであった「ノモンハン事件」の関連資料を開示するというニュースを知った。氏はただちにモスクワに飛んだ。同行はカメラマン1名と録音マン1名、それにロシア語に堪能な政治学者1名である。現地ではこれに通訳兼渉外担当のロシア人1名が加わった。
 取材の目的は、その文書の中から、「ノモンハン事件」がなぜ国境紛争にとどまらず戦争にいたったか、背後にソ連とヨーロッパ列強のどんな力学が働いていたか、そして「事件」の教訓が生かされず、なぜ太平洋戦争に突っ込んでいったかを探ることにあったという。
 あらかじめ公文書館側が揃えてくれた文書は5万枚を超すと思われた。文書取材の予定期間は約10日である。大車輪で、1)戦争被害に関する文書、2)ソビエト軍の兵站・輸送戦略に関する文書、3)スターリンの極東戦略を証拠づける文書、4)日本軍捕虜に関する文書、5)スターリンの戦争評価を選び出した。ソ連軍中枢から発せられた重要文書、ソ連軍兵士の口述記録、翻訳された日本人捕虜の手記・遺書等々がこれらに含まれていた。

 2か月後、一行はモンゴル・ウランバートルに飛ぶ。そこでモンゴル人通訳の助けによって「ソ連・モンゴル友好条約」など外交機密文書を入手し、個人の体験談を聞き、さらに「モンゴル粛清博物館」を訪れた。粛清とは、ソ連がモンゴル人に下した酸鼻極める殺人のことである。
 翌月は旧式なロシア製ヘリコプターをチャーターし、8時間かけて「ハルハ河戦争」の戦場へ飛んだ。平原を撮るため、昇降口のドアを取り払い、搭乗者は命綱をつけての飛行である。荒れ果てた平原に残るソ連軍司令部の跡地は、平原が手に取るように見渡せる小高い丘の上にあった。対する日本・旧満洲軍の陣地跡は、どこへ後退しようにも隠れる場所のない低地にあった。降り立ってみれば兵器の残骸の山があり、地の砂には人骨とおぼしき白いかけらがまぎれていた。
 これらの記述に並走させて鎌倉氏は、日本国内のノモンハン関連文書も紹介している。それには、関東軍が開戦に踏み切った根拠とされる「下達」も含まれている。ノモンハンの希少な帰還兵への対面取材も行われたことがわかる。
 こうして得られた膨大な資料の山から浮かび上がるのは、局地的な戦争の背後にある大国の野心とかけひき、それにまきこまれたモンゴル人の悲惨さである。ソ連は満洲事変以降極東に侵出した日本を警戒し、満洲国に接する外モンゴルに対して露骨な支配を続けていた。そこではソ連の手によって、「ノモンハン」以前から「反革命」「日本のスパイ」といった罪名で、首相から僧侶、一般牧民に対してまで大量の政治的殺人(粛清)が行われていた。

 モンゴル・満洲間での国境紛争が起こるや、スターリンはソ連軍司令官を代えて鋭敏なジューコフを戦場に送り込んだ。彼は冷静な戦況分析を行うとともに緻密な作戦を立て、成功のためのあらゆる努力を注入した。
 対する日本参謀本部は、ロシア軍弱体という根拠のない憶測に立つ関東軍作戦参謀辻政信、服部卓四郎らを制御できず、「国境線明確ならざる地域においては、防衛司令官において自主的に国境線を認定して、これを第一線部隊に明示し、無用の紛争惹起を防止する(べし)」などと、事実上の独断専行をゆるす「下達」を発していた。
 その後の関東軍は、6月に参謀本部が発した作戦の自発的中止の要請?を無視したうえに、ソ連軍の戦力補強が驚くべき迅速さで行われていることもまた信じなかった。当然の結果として兵士たちは、悲惨極まりない運命を強いられた。
 わたしが心を打たれたのは、軍事史公文書館で発見されたロシア語に翻訳された日本人兵士の日記である。ソ連軍に圧倒され追い込まれた極限の状況は、読んで身に染みるものがあった。またかなりの兵士がソ連軍の捕虜となったが、中には「戦陣訓」の「生きて虜囚の辱を受けず」によって、日本側に帰らなかった人がいた。このドキュメントにはその人たちのその後もリアルに語られている。

 関東軍に関わる国内文書の幾つかの存在、ソ連とモンゴルの間で交わされていた友好条約(いうなれば二国間安全保障条約)の存在、日ソ両国の兵隊として動員され、あるいは粛清に突き進んでいく過程の様々な証拠、ソ連軍司令官の指令の記録、日本人捕虜が手記に残した苦しみ、生存者たちの生々しい証言等々は、動かぬ歴史の証拠として、特に私の心に残った。
 ここで特筆すべきは、このドキュメント作成に当たって鎌倉氏がすべてを実証的方法で語ろうと努力したことである。氏は復刊にあたって第9章を加え、「ノモンハン事件」が太平洋戦争の序曲であったことを述べるとともに、記録保存の重要性に言及した。
――「近現代史に関わるドキュメンタリーを制作していると、世界各国の様々な公文書館や資料館に取材する機会が多い。そこでしばしば驚くのは、自分たちに不都合だと思われる記録さえしっかり残されていることだ」
 そして、ついこの間おきた安倍政権による文書の改竄、隠蔽を列挙し、2013年に成立した「特定秘密保護法」を見る限り、この政権が国民や住民の「知る権利」に基づく情報公開に積極的とは言い難いとして、日本政府の情報閉鎖ぶりを批判している。本書は、この第9章によって、さらに価値あるものとなったと思う。
 私は、自分が視聴料を払っているNHKにも骨のあるジャーナリストがいるのを知ってうれしかった。同時に、いつも権力者よりのNHKがこうした歴史的事件の掘り起こしに多額の資金を投じたことを意外に思った。これはまれなことであろうか。
(2021・12・12)

2021.11.26  私の昭和16年12月8日
        -後楽園球場に出現した真珠湾-

半澤健市 (元金融機関勤務)

《「歳を取ること」とはなにか》
 「共有した記憶を語る相手がいない」。
それが「歳を取ること」だと私は感じるようになった。こんな当然なことを知るのに86年もかかった。嘗てこのコラムに、敬愛する先人が12月8日に何を感じていたかを私は書いたことがある。三人の日本人と一人のアメリカ人、即ち伊藤整・高村光太郎・三好達治・フランクキャプラについてであった。
しかしお前(=私)何を感じたのか。この自問に自答したい。

 1941年12月8日(月)に私は国民学校の一年生であった。とても寒い朝だった。
午前7時にラジオの臨時ニュースのチャイムが鳴り、館野守男アナウンサーが緊張した声で開戦のニュースを読んだ。時間にして38秒のテキストは次の通りである。
■「臨時ニュースを申し上げます。臨時ニュースを申し上げます。大本営陸海軍部、12月8日午前6時発表。帝国陸海軍は、本8日未明、西太平洋においてアメリカ、イギリス軍と戦闘状態に入(い)れり。帝国陸海軍は、本8日未明、西太平洋においてアメリカ、イギリス軍と戦闘状態に入れり。今朝、大本営陸海軍部からこのように発表されました。」

■音声は次のhttpsをクリックすれば聴取可能である。
(https://www2.nhk.or.jp/archives/shogenarchives/sp/movie.cgi?das_id=D0001400316_00000)

《私は巨大な真珠湾を後楽園球場で見た》
 私はこの放送をそのとき聞いただろうか。
人の記憶は日々修正され変化する。正直、私はそのニュースを聞いた気もするし、聞かなかった気もする。月曜日であったが校庭朝礼はあったのか。あったとして朝礼が終わってから私は授業を受けたのか。それとも直ぐに下校したのか。
東京都史のたぐいを一瞥したがその種の記事はなかった。

 当時、日々報道のマスメディアはNHKと日刊紙だけである。この第一声を皮切りにラジオでは終日、開戦・その詔勅・東条首相の演説・緒戦の勝利報告・軍艦マーチが続いた。
日刊紙は8日の夕刊で「開戦と勝利」を大きく伝えた。
夕刊の発行日記載は翌日付(現在もタブロイド夕刊紙は同じ)だったから、「9日付夕刊」、「10日付朝刊」から開戦と勝利の報道が始まった。人々は開戦勝利の「ユーフォリア(多幸感)」の渦巻きに埋没していった。勿論、私もそうである。

 私の記憶に強く残っているのは、真珠湾の巨大な「ジオラマ(立体模型)」を後楽園球場で見たことである。私のように「後楽園球場の真珠湾」を見て、今も存命している人間はそう多くないだろう。この70年間、私は真珠湾のジオラマのことを時々思い出して、調べようと思っていた。コロナ蟄居のなかで調べたことを書いておく。

 真珠湾攻撃から人々は何を連想するか。
私の場合、映画好きだったこと、母校「元町国民学校」が球場に近いこと、が「後楽園球場の真珠湾」は何だったのか、の探索理由となった。

《一億人が見た戦争映画『ハワイマレー沖海戦』》
 真珠湾といえば東宝映画・山本嘉次郎監督の『ハワイマレー沖海戦』である。
開戦一周年を記念しての映画公開は「国民的事件」であった。『昭和 二万日の全記録 第6巻・太平洋戦争』(講談社・1990年刊)は、戦争映画の代表作としてこの作品を紹介している。同記事の要点を次に掲げる。

■『ハワイマレー沖海戦』は1942年12月3日に公開され、大都市から地方へ広がった。大本営海軍報道部の企画で、東宝が七七万円という巨額を投じ半年かけて製作したが封切りわずか八日間で一一五万円の興行成績を記録した。海軍省の後援で全国の学生、軍需工場、婦人会などが動員され、占領地も含めると約一億人の人間が観ており、日本の戦争映画史上、空前のヒット作となった。
予科練(海軍飛行予科練習生)に入隊した一人の少年が猛訓練に耐え、一人前のパイロットに成長していく様子と、真珠湾攻撃、マレー沖海戦での活躍振りを記録映画風に再現した。映画には現役予科練生も出演し、予科練の人気は上がり、志願者が殺到した。

 この映画が戦争映画の傑作と呼ばれた理由は二つある。
一つは、円谷英二(つぶらや・えいじ)の特殊撮影技術である。観客の誰もが本物と信じた真珠湾攻撃やマレー沖海戦の場面は、真珠湾、戦艦、飛行機の精巧な模型と、動くクレーンからの特殊撮影が生み出したもので、圧倒的な臨場感を示した。
■東京世田谷の東宝第二撮影所につくられた1800坪のオープンセットは、爆弾で上がる水柱が最も効果的に見える大きさに設計された。撮影は飛行機を吊すだけでなく、移動するクレーンから撮ったり、回り舞台のようにバックの背景を動かしたりする特殊技術が駆使された。

 『後楽園の25年』(後楽園スタヂアム・1990年刊)には、東宝第二撮影所のセットはそのまま後楽園へ移設したと書いてある。両者の面積を調べてみたが、それは可能だったと考えられる。戦争映画の傑作と呼ばれた二つ目の理由は、この作品が全国民の「愛国心」を高揚させ、想定外の戦争キャンペーンが実現したからである。
私が見た「真珠湾のジオラマ」はこの移設セットであったろうと思う。

《小林一三と後楽園と元町国民学校》
 私の母校「東京市本郷区立元町国民学校(当時名称)」は、関東大震災の復興計画により昭和初期に東京に出来た52校のコンクリート建造物の一つであった。元町校は三階建で避難場所を兼ねた公園が併設された。校庭は堅く運動靴で走っても転ぶと、擦りむいた足が痛かった。学校と公園は高台にあった。元町公園は、適度の広さがあり砂場やジャングルジムなどの児童用遊具があった。展望バルコニーからは神田川とその土手が見え手前には路面電車が走っていた。国民学校の直ぐ隣に「桜蔭高等女学校」があった。現在は「桜蔭学園」となり東大女子学生の量産校として知られる。

 それなら私は後楽園球場をしばしば訪れたのか。そうではない。
1937年に発足した後楽園球場の経営変化は面白いエピソードに満ちている。
経営は、阪急電鉄など関西の都市近郊開発に新手法で成功した小林一三が主導した。
37年から戦後の1950年頃まで、後楽園スタジアムは、国家事業を含むさまざまなイベント会場として機能した。その一部を例示すれば、高射砲陣地、食料用野菜栽培畑、兵器集積場、大相撲会場、スキー競技場(雪持ち込み)、サーカスやプロボクシング競技会場、内外著名タレントのエンタメ会場などである。

 上記の1942年12月の行事「大東亜戦争一周年記念映画報国米英撃滅大展示会」はその一つであった。昼は真珠湾ジオラマの展示、夜は大スクリーンで『ハワイマレー沖海戦』の上映が行われたのである。

 重要な余談として、この展示会について追記したいことがある。
真珠湾攻撃で活躍した海軍空母は(赤城、加賀など)主力4隻が、42年6月のミッドウェー海戦で米軍に沈められ、観客が展示会に熱狂した時には既に海底の藻屑だったことである。大本営の戦果発表は次第に透明性を欠き、今様にいえば「フェイクニュース」が多く連合艦隊の壊滅を国民が知ったのは45年の敗戦後である。私は大人から、連合艦隊は秘密基地に隠れており最後の日米決戦で米機動部隊を全滅させるのだという話をよく聞いた。そしてそれを半ば信じていた気がする。

《「それでどうした」では済まない今である》
 ここまで『ハワイマレー沖海戦』の回想を述べてきた。読者は私に「それがどうしたso what?」と問うであろう。
《「共有した記憶を語る相手がいない」。それが「歳を取ること」だと私は感じるようになった》。こう私は書いた。しかし、これは極私的な懐古趣味の表現に過ぎないのかも知れない。そこで拙稿に対する読者の率直な意見を是非知りたい。誤りがあったら指摘して欲しい。最近、私の出稿は多くないが、老骨に鞭打って書いているつもりである。同人諸兄および読者と意見交換をしたい。反応いただければ有り難い。(2021/11/22)
2021.11.12 初めてオンライン会合に

        ─「大風呂敷」を広げた私の発表─

半澤健市 (元金融機関勤務)

《初めてオンライン会議に参加》

 2021年10月下旬に私は、初めてオンライン会議に参加した。
 会議の中身は、元の勤務先同僚との少しは知的なダベリ会である。参加者は数名だが、初参加の私が発表者だった。
 「近代150年の日本資本主義を総括する」大風呂敷なテーマで私は話をした。総選挙の争点が、短期かつ矮小なことへの、批判のつもりであった。たまたま私が読んでいた『日本の現代』(鹿野政直著、岩波ジュニア新書、2000年刊)が同じテーマを、近代史家の視点で、取り上げていたのが良い資料になった。

 鹿野は、日本近代150年を三運に区分して総括している。
 「鹿野総括」に対して、三区分の各期間に関して、私(半澤)は自説に基づく「日本資本主義の」特長を「説明」した。本稿はその会合で半澤が使用した資料の再現である。

《鹿野総括プラス半澤説明》
 それは次のように展開した。
 鹿野総括 (1)19世紀後半 日本は近代国家を樹立した(アジアで唯一植民地化せ
         ず)。

 半澤説明  19世紀後半 日本資本主義の特徴
    A 日本は農業国であった。←本稿末尾の別表①参照
    B 「脱亜入欧」と「帝国主義」
 立憲国家として発足した日本は、「脱亜入欧」、「帝国主義」を国是とした。自由民権運動は、国権(ナショナリズム)運動に絡めとられ、官憲の弾圧に屈して伏流化した。
鹿野   (2)20世紀前半 日本は、軍事大国を実現したが、帝国主義戦争に敗北して
       壊滅した。

半澤 A 戦争は儲かるものという認識
 列強に仲間入りした日本は、日清戦争(1894~1895)勝利による巨額賠償金獲得と第一次大戦期の貿易黒字により、対外債権国となり「戦争は儲かるもの」という認識をもつに至った。
    B NYの株価暴落に発する「1929年大恐慌」←別表②参照
 資本主義諸国は、公共投資と軍備増強の有効需要創出により、不況からの脱出を図ったが、状況は長期化して、第二次大戦の開戦につながった。
    C 日本型ファシズムの成立
 不況対策は、ザックリいうと民需拡大の主要欧米諸国と軍需軍拡の日独伊とに分かれた(連合国と枢軸国)。日本は、軍部によるテロ、クーデタ未遂を経て、統制的軍事国家となった。併せて言論圧迫による「神国日本」という偏狭な国産イデオロギーが民主主義・自由主義を沈黙させた。

鹿野   (3)20世紀後半 敗戦国日本は、経済大国を実現した。
半澤  A 時代背景の変貌
 時代は東西冷戦・米ドルの打ち立てた世界・産業資本から金融資本の時代へと変貌した。冷戦は社会主義陣営の崩壊に終わったが、資本主義の勝利を意味したものでもなかった。
    B 新自由主義の登場
 第二次大戦が生んだ「福祉国家」は、資本コスト増加によるスタグフレー ションをもたらした。資本主義諸国は「大きな政府から小さな政府へ」と カジを切った(新自由主義)。この「市場原理主義」採用に遅れた日本は、「失われた30年」という日本近代最長の不況を体験している。鹿野の「経済大国」認識は満点だとはいえないであろう。
半澤   (4)21世紀前半に関する日本資本主義の核心はなにか
 鹿野は21世紀前半に言及していない。多くの識者の現状分析・予想は混沌としており、半澤コメントは下記のような「問題提起」にとどまらざるを得ない。
    A 「世界経済」 新自由主義は軌道修正できるか。 
 米中二大国は基本的に新自由主義を踏襲している。人間の欲望に根ざしたこのイデオロギーのしぶとさをどう評価しどう対応していくか。
    B 「国際政治」 東アジアの国際緊張のゆくえは。 
東アジアの軍事緊張が増大している。「日米同盟」深化は、対米従属と集団的自衛権行使(同盟国への敵攻撃に米軍指揮下に、自衛隊が支援戦闘)を現実にしつつある。だが国民にはその認識も危機感もない。
    C 「国内政経」 野党はなぜ自公政権を倒せないのか 
 民主主義の失敗─ファシズム化─は克服できるだろうか。安倍政治以後の「負の遺産」は戦後最悪の政治状況だが、国民は総じてアナーキーで 冷笑主義的な心情に沈潜している。

《オンライン会合参加者はどう反応したか》
 私の発言は近代日本史の「おさらい」と受け取られ、問題提起は大きすぎて 現実的でないと認識されたようである。時間制限もあり議論は少ないうちに会合は終わった。
 次回11月22日は「米中関係」、「対中政策」を議論することになった。
 中国の対外強硬姿勢に対して、メンバー諸氏に大きな対中反発があり、私を含む少数のハト派は旗色が悪くなりそうだ。「蟷螂の斧」は降ろさないつもりであるが。


別表① 19世紀後半 日本の産業別人口構成比

        第一次産業  第二次産業  第三次産業
1887(明冶20)年  72%  13%    15%
参考1936=昭11 45   24      31 
参考1971=昭46   16   35               48 
  
1887年の第二次産業の比率が低くみえるが、政府は国営事業の企業化・民間への払下げに注力した。その内実は軍需産業とインフラ構築であった。即ち第二次産業の主内容は軍需関連である。


別表② 20世紀前半 大恐慌前後の経済指標の変化                           
                 (1929=100)
数字単位は%。()内の数字は西暦年の下二桁を示す。

■卸売物価    日本69.6(31) 米国68.0(32)
           同 92.5  (35)  同 83.9(35)
■鉱工業生産     日本91.6(31) 米国53.8(32)
           同141.8 (35)    同 75.6(35)
■輸出金額      日本37. (32)  米国24.8(33)              
           同 57.2 (35)  同 26.4(35)
■輸入金額    日本38.2 (33)    米国 24.1(35)
                   同 52.5 (34)  同 32.7(35)

 勿論、上記以外に多様な指標がある。
 大恐慌における不景気の日米比較を一筆書きで表現すれば、物価は日米とも30%の下落、鉱工業生産は日本で10%、アメリカで60%の低下を示した。世界貿易金額は34年に65%の低下をみた。この「不景気」が数年間続いた。21世紀前半の生存者には想像力を駆使しても実感しにくい数字といえよう。
(2021/11/05)
2021.07.31 「文春リアリズムはいま――池島信平と大岡昇平」

半澤健市 (元金融機関勤務)

《天皇の戦争を戦った二人の一等兵》
 7月1日の拙稿で私(半澤)は、文春リアリズムを「野次馬精神」と「ファクト発掘」という二つの魂の合成品ととらえ、半藤一利の例を挙げた。
 今回は文春編集者としてもう一人池島信平(1909~1973)の場合を書きたい。池島が死の前年に『レイテ戦記』の作家大岡昇平(1909~1988)と対談したものをテキストとする。(「新刊展望」誌・72年3月号、ここでは大岡昇平著『戦争と文学と』、文春学芸ライブラリー・2015年刊より引用)

 二人は、天皇の軍隊の最下層の兵士として、大東亜戦争を戦った。池島は、1944年「文藝春秋」編集長のときに招集され横須賀海兵団、北海道千歳第二基地海軍一等水兵して教育され青森で終戦を迎えた。大岡も44年に招集されフィリピンで陸軍一等兵として暗号兵となった。45年1月レイテ島南部で米軍捕虜となったが同年12月に帰国した。

《人間が見てはいけないものを見た》
 池島は大岡にこう語っている。
 大宅壮一賞の候補になったビルマ生き残りの軍医の手記があった。そのなかで軍医は生き残って帰国した少数の兵隊の話を書いている。軍医はそれらの兵隊と仲良くなり帰国後も文通をしていた。
 「百姓だった兵隊はお盆になるとできたものをいろいろ持って軍医のところに遊びにきて一杯飲んで機嫌よく帰る。それが十年目か何かのとき来ないんですよ。すると、おかみさんが同じようにトウモロコシや何かを持ってきて<何だか分からないが、実はお父ちゃんが急に自殺した>という。」

 「戦後とても幸せに暮らしていて、子どもを四人も五人もつくるんですよ。それがポックリ自殺するんだね。そこまで戦争というものの傷は深いんだね。つまり戦争の本当の姿というものは人間が見ちゃいけないものを見るわけでしょう。神さまとか悪魔が見るものを人間が見ちゃったということでしょう。」

 「見たということは心の奥深く焼き付いている。ふっと死にたくなると、分かるなァ‥‥。僕らは別に戦争をやったことがないけれども、軍隊の生活で本当にいやだったことは、いまでも妻子にいえないもの、恥ずかしくて、自分のいやらしさとか卑しさに、うんざりするな。理不尽なことにも頭を下げたことがたくさんあるでしょう。最下級兵士なんか、そうしなければ生きていけないのだから。」

≪なぜそのとき「戦争反対」をしなかったのですか》
 戦争が人間に与えたキズの大きさについて大岡も同意を示している。さらに大岡は過ぐる戦争の大義について批判する。
「大義名分がないということが、このまえの戦争で一番あわれなことだったから‥‥。そうだな、やっぱり戦争はしちゃいけないよね。こんどの自衛隊だって、またどういうことになって、どういうふうにして戦争をしなければならないかもしれないけど、大義名分はちょっと見つからないと思うよ。(笑)」

 「日本は明治からずっと外に出てやっているでしょう。自然にいろんな悪い習慣がつもっていたのを内地でやらなかったことは一度もない」

 二人の対話は池島の発言によって次のように結ばれている。
 「だけど、元一等兵と元一等水兵がいくら言ったってしようがないのだ。(笑)
 しかし、若いものに、もう戦争がいやだとかなんとか言ったって、ピンとこないから困るな。それが逆になってくると、概念として「戦争反対」と連中が言っているが、それも困るねぇ。だけどそれは経験しないものには無理だからねえ。へたすると「なぜそのとき戦争反対をしなかったんですか」と言われちゃうんだ。連中の議論というのは前提をふっとばしちゃうんだからね。(笑)」

≪300年に一度の事件かも知れない》
 二人の対話を読んで私は、この50年で我々はずいぶん遠くへきたものだと感ずる。二人が危惧していた戦争体験の風化は現実となったように思われる。

 人は、E・H・カーの「歴史とは過去と現在との対話である」というテーゼを批判なく受け入れてきた。しかし対話者の一方は「現在」である。カーの世界では日々歴史の修正が起きているのである。
 私は「文春リアリズム」を自己流に論じてきたが、カーの歴史修正主義――とあえて呼ぶ――に気がついたことに自分で驚いている。21世紀初頭の言論の変貌は、近代300年に一度の事件といえる気がする。(2021/07/19)
2021.04.18 「関東防空大演習を嗤う」から88年
―半藤一利の「遺言」に共感する―

半澤健市 (元金融機関勤務)

 1933年の関東地方防空大演習に当たり『信濃毎日新聞』主筆の桐生悠々(きりゅう・ゆうゆう)は「関東防空大演習を嗤(わら)う」を書いた。その一部を次に掲げる。

■将来もし敵機を、帝都の空に迎えて、撃つようなことがあったならば、それこそ、人心阻喪の結果、我はあるいは、敵に対して和を求むべく余儀なくされないだろうか。なぜなら、この時に当たり、我機の総動員によって、敵機を迎え撃っても、一切の敵機を打ち落とすあたわず、その中の二、三のものは、自然に我機の攻撃を免れて、帝都の上空に来たり、爆弾を投下するだろうからである。そしてこのうちもらされた敵機の爆弾投下こそは、木造家屋の多い東京市をして、一挙に、焦土たらしめるだろうからである。いかに冷静なれ、沈着なれと言い聞かせても、また平生いかに訓練されていても、まさかの時には、恐怖の本能は如何ともすることあたわず、逃げ惑う市民の狼狽目に見るがごとく、投下された爆弾が火災を起こす以外に、各所に火を失し、そこに阿鼻叫喚の一大修羅場を演じ、関東大震災当時と同様の惨状を呈するだろうとも、想像されるからである■

《黒い物体と白い物体―私の空襲体験》
 初の東京空襲に私が遭ったのは、1942年4月18日であった。
私は、国民学校(当時の「小学校」の名称)2年生であった。

その黒い物体は、自宅正面の美容学校の向こうに現れ、正体が確認できないほどの速度で私の頭上を飛び去った。少し遅れてドンドンという重い音を聞いた。それが、洋上空母から飛び立ち東京・名古屋・神戸など5都市を奇襲した陸軍爆撃機B25の一機であり、後楽園内の高射砲陣地からの対空射撃と知ったのは、後日のことである。

私が二回目に東京空襲に遭ったのは、1944年11月始めであった。マリアナ基地からのB29初の偵察飛来である。それは11月24日に始まった東京爆撃の準備行動として1日に始まった。私がこれを見たのが1日だったかどうかはわからない。その後、自宅の地下に掘った防空壕で聞いたのは、恐怖を与える空爆音であった。日本軍の高射砲や迎撃戦闘機が打ち落とせない、高度一万メートルを行くB29は、1942年に見た黒い物体でなく、透明に見える白い物体であった。

《焼夷弾爆撃―カーチス・ルメイの新戦術》
 このように始まった東京空襲は当初、軍事施設・軍需工場を高々度からの精密爆撃で破壊する戦術によるものだったが、ワシントンはこれを不成功とみなした。そこで木造家屋の密集した都市を焼夷弾により無差別爆撃する方針に変更した。45年1月のことである。マリアナ基地のハンセル司令官はカーチス・ルメイに代わった。
初の焼夷弾作戦は1月3日の名古屋空襲であった。その被害は死者48名、負傷者85名、罹災者1万名に達した。上空3000メートルから火の海と降り注ぐ焼夷弾の攻撃を初めて経験し市民は大きな恐怖を抱いた。一方、敵機が低空に飛来したので戦闘機と高射砲は邀撃体制が容易となり敵機に大きな損害を与えた。ルメイは短期間、この焦土化作戦を中止している。

桐生悠々は「まさかの時には、恐怖の本能は如何ともすることあたわず、逃げ惑う市民の狼狽目に見るがごとく(略)各所に火を失し、そこに阿鼻叫喚の一大修羅場」を演じ」「関東大空襲当時と同様の惨状」と書いたが、それが正に現実となったのである。


《「関東防空大演習を嗤う」から88年―半藤一利の遺言》
 「関東防空大演習を嗤う」から88年が過ぎた。
その間に科学技術は、核戦争が勃発すれば世界が破滅する水準に達した。しかしその危機を制御する、政治や経済の技術は、一向に進歩していない。現に、一人当り世界上位11位目の米国(57,804ドル=2016年)が、同世界下位17位の北朝鮮(661ドル)からの恫喝を、無視することができなくなっている。変わった面と変わらなかった面とが併存している。アウシュビッツと広島を示現した人類に、理想は語れるのかといわれたのは、20世紀中葉であった。それから百年近くを経た今もこのニヒリズムは、人類の胸底に深く沈んでいる。

その実証主義で「歴史探偵」を自称した故・半藤一利は、10代後半時に敗戦を迎えた。当時の「大人」の言動を見て、半藤は「絶対」という言葉を使わないことを誓った。彼らの言動が「鬼畜米英」から「民主主義」へコロリと変わったからである。
敗戦時に国民学校4年生だった私は「絶対」使用の当否をいう知識も学識もなかった。

戦後日本の「平和と不戦」は、日本を「西側のショーケース」として保護した米国と「若者を再び戦場に送るな」といって「反戦平和」をうたった大衆の、「綱引き」の上に辛くも成立した、と私は考えてきた。
その「綱引き」は終わった。米ソ対立から米中対立への変化、戦争体験者の絶滅危惧種化によってである。米国は自衛隊による集団自衛権行使と米製兵器購入を、日本は改憲による対米従属の強化を行っている。それは「日米同盟の強化」の名の下に加速している。

《昭和史と戦争体験と「絶対」の発声》
 半藤一利は、90年前後から実証的な「昭和史」を語り且つ書くようになった。
数年前からは、「絶対」という言葉を使うようになった。ルメイ司令官による、45年3月の無差別焼夷弾攻撃という残虐な東京空襲の体験を語るようになった。見事な絵筆使いで自ら書いた絵本も出版している。

21年1月30日にNHK・ETV特集で放映された「一所懸命に漕いできた~〝歴史探偵〟半藤一利の遺言」で発せられた半藤の言葉に私は打たれた。東大ボート部の選手として隅田川を生活の原点とした彼の遺言は、私の言いたいことを良く表現していると感じた。遺言は次の通りである。(一部を抜粋)

■「あのときわたくしは焼けあとに
 ポツンと立ちながら
 この世に〈絶対〉はないということを思い知らされました」
 
「絶対に戦争は勝つ
 絶対に神風はふく
 絶対に日本は負けない
 絶対に自分は人を殺さない
 絶対に・・・絶対に・・・
 そのとき以来わたくしは二度と絶対という言葉をつかわない
 そう心にちかって今日まで生きてきました

  しかしいま
  あえて〈絶対〉という言葉をつかって
  どうしても伝えたい
  たったひとつの思いがあります

  戦争だけは絶対にはじめてはいけない」■

ジャーナリズムという「生き馬の目を抜く世界」に生きた人間が、「反戦」を理想として最後に選んだ重さをかみしめたいと思う。(2021/04/11)

2019.04.13 天皇と元号の更新は“新時代”なのか
―「時代」はもっと広義、現実の日本の何が変化したのか

坂井定雄(龍谷大学名誉教授)

9日朝のNHKニュース、政府が高額紙幣の更新を決めたことを「新しい時代をことほぐ狙いがあるものとみられる」と報じていた。NHKに限らず、民放も新聞も、新天皇が即位し、新元号「令和」が施行された際に、新聞も放送も、「新たな時代」をもっと騒ぎ立てるのではないか。
いうまでもなく憲法では、「天皇は日本国の象徴であり日本国民の統合の象徴であって、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基づく。(第1条)」、「皇位は世襲のものであって、国会の議決した皇室典範の定めるところにより、これを継承する」(第2条)、「天皇は、この憲法の定める国事に関する行為のみを行い、国政に関する権限を有しない」(第4条)など8か条が定められている。
しかし、元号については、憲法にはなく、元号法(昭和54年制定)で「元号は政令で定める」とあるだけで、前回 、今回のように内閣が決定したのち、その元号を公表した翌日から施行されることになっている。
憲法で国家の公式暦日を西暦にするか、固有の和暦にするかを全く記載せず、下位の政令で定めたのは、世界では他に例のないという。もちろんイスラム諸国のように、西暦を公的には使用しながら、宗教歴も使用する国はあるが、それは宗教行事の場合などに限られている。日本では第2次大戦敗戦後、現行憲法を制定したさい、なぜ、西暦と和暦の併用にしたのか。おそらく、西暦一本化の主張に和暦使用を固執する保守派が強く抵抗し、一本化はできなかったのだろう。
いずれにせよ、現行法のもとで、天皇が崩御し、後継天皇が即位して、元号が変わっても、それによって政治も、社会も、国民生活も文化も変化するはずがない。
それなのにマスメディアが、「新時代」だとか、「時代が変わった」と騒ぐのは怪しい。時代の意味を勝手に変えるな!歴史学もマスメディアも、日本史時代区分を下記のように、区分してきたはずだ(ウイキペディアによる、西暦)
旧石器時代: 数十万年前―約1万年前
縄文時代:  約12000前―紀元前3世紀
弥生時代:  紀元前3世紀―紀元3世紀
 古墳時代:  3世紀後半―8世紀初頭
 飛鳥時代   6世紀末―710年
 奈良時代   710年―794年
平安時代   794年―1185年
鎌倉時代   1185年―1333年
南北朝時代  1336年―1392年
室町時代  1336年―1573年
戦国時代  1493年―1573年
安土桃山時代 1573年―1603年
江戸時代  1603年―1868年

明治時代  1868年―1912年
大正時代  1912年―1926年
昭和時代  1926年―1989年
平成時代  1989年―2019年

上記のように、時代は、江戸時代まで特定の天皇の在位した期間を指すわけではない。明治以降はそれぞれの天皇の在位期間となったが、新天皇の就任で国と国民生活にかかわる重要な何かが変わってはならないはずだ。せいぜい紙幣のデザインを変えるのも、麻生財務大臣は、天皇が変わったためだ、とは言わなかった。最初に紹介したNHKの「新しい時代をことほぐ」などということを、麻生大臣はさすがに口にしなかった。
新時代などと、はしゃぎたてるのは感心しない。それだけの変化は何もないではないか。ウイキペディア(今日現在)の「時代」の記述を紹介させていただく。苦労して書いているようだが、本来の時代区分以外に、「平成時代や昭和時代は、天皇の在位によって区分されている」と扱っている。

ウイキペディア(2019.4.19)
時代(じだい)とは、時間の継続性の観点で特徴を持った1区切りを指す。観点によって様々な使われ方がある。
歴史の分野では、政治や社会の形態の変化によって時代を区切る(時代区分)。国家体制が明確になっている時代であれば、政権の在処の変遷によって時代を区分する。日本の江戸時代、鎌倉時代などは当時の実質的中央政府である幕府の所在地を時代の名としている。飛鳥時代のように権力者にとって主流な文化として体系化され、普及し、栄えていた文化を時代の名とする場合もある。
平成時代や昭和時代は、天皇の在位によって区分されている(一世一元の制)。
それ以前の歴史(先史時代)では、生活の状態を規定する道具を持ってその生活状態を代表させ、時代の名としている。旧石器時代(打製石器)や弥生時代(弥生土器)等がその例である。時代の名としては使わないが、石器、青銅器、鉄器などの使用も時代を分けるものと見なされる。同様に、広い範囲に影響を与えるような道具や機械などによって時代を分けることもある(テレビの時代など)。
より古い時代は、地質学の分野であるが、そこでは代と紀を用いて体系的に名前を付ける。ただしやや通俗的に上記のような、たとえば恐竜時代といった表現は存在する。
その他にも、象徴的な事柄や社会の情勢、流行、栄えたもの、あるものの幕開けや区分、終わりを「時代」と表現する場合がある。また、最近では、通俗的な表現にとどまってはいるが、ファッションなどの風俗の在り方で時代を区切る考え方も普及している。

2018.10.11  柳条湖事件記念日に思ったこと
          ――八ヶ岳山麓から(267)――

阿部治平 (もと高校教師)

今年9月18日の柳条湖事件(「九一八」)記念日は、日本ではどこにも記念行事はないけれども、中国でもあまり盛大ではなかったらしい。瀋陽市の「九一八歴史博物館」で約1000人が参列して記念式典が開かれたが、最高指導部は出席しなかった。現在日中関係の改善基調が続いており、習近平指導部は対日批判を抑制したとみられるという(時事2018・09・18)。
今年中国の記念行事が抑制的であったとしても、わたしは9月18日をむかえると、何かをいわずにはいられない気持になる。
いまから87年前の1931年9月18日、日本関東軍は中国遼寧省奉天(現瀋陽)近郊の柳条湖付近の満州鉄道を爆破し、これを中国軍によるものとして、ただちに満洲(遼寧・吉林・黒竜江の「東三省」)領有をめざす軍事行動を起した。満洲事変である。謀略の首謀者は板垣征四郎、石原莞爾ら関東軍高級参謀である。
満洲防衛の中国側責任者は、国民政府東北辺防軍司令の地位にあった張学良(1901~2001)である。彼はいったんは抗日を主張し、不満を持ちながら国民党蒋介石の「まず中国共産党を殲滅してのち日本と戦う(先安内後攘外)」という方針に従って東北軍を西に退かせた。
その後のことは去年「八ヶ岳山麓から(236)」に書いたのでくりかえさない。

馬占山(1883~1950)という土匪上がりの軍事指導者がいた。彼は張学良と違い、蒋介石に従わなかった。馬は吉林省懐徳県の貧農の子であった。少年時代に家出し土匪の群れに入ったが、その利発さからたちまち小集団の指揮者となった。
辛亥革命後治安が混乱するなか、自衛武装組織が満洲各地に生まれた。彼らは一種の任侠集団であり、守備範囲の郷村ではその務めを果たすが、外に出るとしばしば略奪、誘拐にはしった。これを中国では「土匪」というが、日本では匪賊とか馬賊という。区別はし難い。
日露戦争(1904~05)後、懐徳県の彼の馬賊集団は清朝に帰順した。彼は他の「土匪」討伐に功があって清朝正規軍の指揮官(少尉)となった。辛亥革命後は大小の武装集団を吸収して自軍に加え、戦功によって順調に出世し、26年には騎兵第17師団長、翌年には騎兵第2軍団長に昇進した。
1928年張学良の父張作霖が関東軍に列車を爆破されて死んだとき、彼の上官呉俊陞も犠牲となった。彼は号泣して親切だった上官の死を悼んだ。張作霖の地位を継いだ張学良によって、彼は黒竜江沿岸の黒河備司令官に任命された。対岸はブラゴベシチェンスクである。
1931年日本関東軍は、柳条湖事件発生とともに迅速に遼寧・吉林両省を制圧したが、黒竜江省攻略はソ連と国境を接するため慎重になった。さいわい洮遼鎮守使張海鵬が日本側についたので、彼の部隊武器を援助して軍事行動を起させた。

九一八以降、張学良は北京で情勢を観望していた。だが馬占山は黒竜江省軍総司令官に任命されるや、黒河から南下し、10月19日省都チチハルに到着した。張学良の東北軍がほとんど無抵抗で退却して、中国人を落胆させたのに対し、馬占山はチチハル防衛、抗日の旗幟を鮮明にした。
10月26日張海鵬の3個連隊が戦略拠点の嫩江(どんこう)鉄橋対岸に近づいたとき、これに砲撃を加えて満州事変最大の戦い「江橋抗戦」を開始した。馬軍はこの戦いに勝利して、抗日を望んだ中国人の熱い期待に応えた。
しかし関東軍が本格的に参戦すると、武器などの補給が得られないなか、馬軍はじょじょに敗北をかさね、残存部隊2万は海倫に後退した。関東軍は匪賊上がりの張景恵を傀儡の黒竜江省省長とし、馬占山にも帰順すれば高官として処遇すると誘ってきた。張景恵はのちに満洲国国務総理となった人物である。
1931年末馬軍が関東軍に包囲されるなか、翌年1月には錦州が陥落、満洲全体が日本の手に落ちた。馬占山は孤立し屈服を迫られた。そして彼は屈服した。32年2月にはチチハルで満洲国黒竜江省省長に就任して抗日を切望する中国軍民をいたく失望させた。

ところが彼は40日足らずで、再び抗日の道に還ったのである。なぜか明確な理由はわからない。日本の傀儡となった満洲国高官らの醜態、日本人の傲慢さに嫌気がさしたともいうし、息子の父の変節を咎める手紙がきっかけともいわれる。
32年4月彼はひそかにチチハルを脱出して黒河にもどり、各地の義勇軍、救国軍、「大刀会」といわれる集団、つまり馬賊・土匪の類もふくめた愛国勢力を結集して抗日連軍を作り、5月には再び抗日に決起した。
馬軍は、一時はハルビン郊外に迫る勢いだったが、7月関東軍との3昼夜にわたる激戦ののち敗走した。このとき関東軍は馬軍指揮官韓家麟が戦死したのを馬占山と誤認し、これを昭和天皇に上奏した。
馬軍兵士らはすでに疲労困憊していた。やむをえず1932年12月彼らは黒竜江を渡りシベリアに入った。部隊の一部は新疆へ行ったが、馬占山はその後ヨーロッパ、シンガポールを経由して33年6月上海に上陸した。馬占山生還のニュースは日本軍を驚かせ当惑させ、中国人を喜ばせた。
35年12月には学生の「一二九抗日救亡運動」が起きた。蒋介石が日本の侵略に妥協するたびに中国では反対運動が起きてきたが、これはそのひとつである。
36年馬占山は西安にゆき、張学良、楊虎城に歓迎された。だが彼ら二人はその2日後の12月12日蒋介石を軟禁し、敗北主義を捨て抗日に立上るよう要求した。いわゆる西安事件である。
1937年7月7日盧溝橋事件が起きた。戦火は中国本土に拡大した。馬占山は東北挺進軍司令官となり、8月山西省大同に司令部を置いたが、9月には大同が陥落した。彼が東北に帰ったのは、1945年に日本が無条件降伏をしてからのことであった。
48年彼は病のため北京に行った。国共内戦に中共が勝利すると、馬は人民解放軍の北京無血入城のために尽力し、1950年11月29日一生を終えた。

今日中国の近現代史では、光はおもに中共系の人物とその行動にあてられている。たとえば東北における抗日ゲリラの指導者、中共党員の楊靖宇(1905~1940)は、1940年2月関東軍に追い詰められて長白山(白頭山)中で戦死した。抗日英雄として彼を記念し吉林省には靖宇県がある。
だが国民党系の軍に属したものは抗日戦に参加しても、文化大革命期には迫害を受け、悪ければ殺された。文革終了以後、馬占山系の元抗日兵士らはどんな扱いを受けているだろうか。いまも日陰者だろうか。
10万の東北軍兵士は東三省から山西、陝西へ退いた。彼らは抗日を望んだが、蒋介石の「剿共(中共殲滅)」作戦に動員され、陝西省を中心に中国各地を転々とした。西安事件以後は張学良という指揮者を失い、国民党からは厄介者として分散され消滅した。中共支配下で、彼らもまた迫害されたのだろうか。
故郷をしのんで彼らが歌った歌はせつない。

わが故郷はスンガリー川(松花江)の彼方
はるかなる黒龍江のほとり
懐かしい小さな家
粟黍、大豆、高粱
……
父よ、母よ
幼い弟、妹よ
また会えるのはいつの日か
また小さな部屋で共に暮らせるのか
(J.バートラム『西安事件』太平出版社、1973年)
(2018・09・29記)