2015.10.17 島津斉彬
明治日本の産業遺産と薩摩の名君

松野町夫 (翻訳家)

明治日本の産業遺産が2015年7月に世界遺産に登録された。登録名称は「明治日本の産業革命遺産 製鉄・鉄鋼、造船、石炭産業」。英語の名称はSites of Japan’s Meiji Industrial Revolution: Iron and Steel, Shipbuilding and Coal Mining. 産業遺産は福岡、佐賀、長崎、熊本、鹿児島、山口、静岡、岩手の8県に点在し、合計23施設で構成されている。

鹿児島では3施設が登録された。「集成館」(反射炉跡・機械工場・紡績所技師館)、「寺山炭窯跡」、「関吉の疎水溝」。いずれも鹿児島市内にあり、そのほとんどは島津斉彬(しまづ なりあきら)が建設したもの。ただし、紡績所技師館(=異人館)は、斉彬の後継者・島津忠義(ただよし)が1867年にイギリス人技術者の宿舎として建設した。

島津斉彬(1809-1858)

島津斉彬は幕末の薩摩藩の第11 代藩主。島津氏第28代当主。第10代藩主・島津斉興(なりおき)の長男として、1809年3月14日、江戸薩摩藩邸で生まれる。早くから英明をうたわれ、和漢洋の学問に秀でていた。洋学に興味を抱くようになったのは、薩摩藩の第8代藩主で、曽祖父の島津重豪(しげひで, 1745-1833)の影響が大きい。重豪は、曾孫である斉彬の利発さを愛し、幼少から暫くの間一緒に暮らし、入浴も一緒にしたほど斉彬を可愛がった。重豪は斉彬と共にシーボルトと会見し、当時の西洋の情況を聞いたりしている。

ちなみに、シーボルト(1796-1866)はドイツの医師。1823年6月に来日。本来ドイツ人だが、オランダ人と偽って長崎の出島のオランダ商館医となった。医学ばかりでなく、動物、植物、地理にも造詣が深かった。出島で開業した後、1824年には長崎郊外に私塾「鳴滝塾」を開設し、日本各地から集まってきた多くの医者や学者に西洋医学(蘭学)を講義した。塾生には、高野長英・二宮敬作・伊東玄朴・小関三英・伊藤圭介らがいる。1828年に帰国する際、先発した船が難破し、積荷の多くが海中に流出して一部は日本の浜に流れ着いたが、その積荷の中に幕府禁制の日本地図があったことから問題になり、国外追放処分となる(シーボルト事件)。当初の予定では帰国3年後に再来日する予定だったという。

1848年には斉彬は40歳の壮齢であったが、斉興は藩主の座を譲らなかった。斉興は側室のお由羅(ゆら)の方との間に生まれた久光を後継者にしようと考えていた。こうして薩摩藩は、嫡子・斉彬を擁立する派と久光を擁立する派が対立し、お家騒動(お由羅騒動)に発展した。1849年、斉彬派側近は久光とお由羅を暗殺しようと計画したが、情報が事前に漏れて首謀者13名は切腹、連座した約50名が遠島・謹慎に処せられたが、この騒動が幕府の耳に入り、斉興は隠居を命じられ、斉彬が家督を継いだ。

1851年2月、斉彬は藩主に就任するや、藩の富国強兵に努め、洋式造船、反射炉・溶鉱炉の建設、地雷・水雷・ガラス・ガス灯の製造などの集成館事業を興した。1851年7月には、土佐藩の漂流民でアメリカから帰国した中浜万次郎(ジョン万次郎)を保護し藩士に造船法などを学ばせたほか、1854年、洋式帆船「いろは丸」を完成させ、帆船用帆布を自製するために木綿紡績事業を興した。西洋式軍艦「昇平丸」を建造し幕府に献上している。黒船来航以前から蒸気機関の国産化を試み、日本最初の国産蒸気船「雲行丸」として結実させた。斉彬は徳川斉昭、松平慶永や老中・阿部正弘らと親交があり、その見識は高く評価されていた。ペリー来航(1853)による国内不安に際しては、幕府に開国と海防の要を説いた。斉彬はまた、西郷吉之助(隆盛)、大久保一蔵(利通)ら下級武士を藩政に登用し、その後の薩摩藩の勤王運動の原点となった。

鹿児島市照国町には、照国神社(てるくにじんじゃ)がある。この神社は鹿児島の夏の風物詩「六月灯(ろくがつどう)」で県民に親しまれているが、祭神は照国大明神(島津斉彬)。

ちなみに六月灯とは、旧暦の6月(現在は7月)に和紙に絵や文字を書いた灯籠を県内の神社や寺院に飾り、歌や踊りを奉納する祭りのこと。なかでも照国神社の六月灯が最大規模である。

2015.09.19  陸軍にもあった海上特攻隊
    ベニヤ製の小型艇で敵艦に突っ込む

岩垂 弘(ジャーナリスト)

 8月28日付毎日新聞夕刊社会面のトップ記事に目が止まった。「『真珠湾』最初の爆弾投下」「軍神 敗戦を予見」という見出しのついた記事。アジア・太平洋戦争の口火となった1941年の真珠湾攻撃で最初の爆弾を投下し、翌年、南洋で35歳で戦死し「軍神」とあがめられた日本海軍のパイロットが生前、家族に戦争指導部の無謀な作戦と無残な敗戦を言い当てていた、という内容だった。「戦争指導部の無謀な作戦」という活字に、私は、今夏、広島で見聞した「旧陸軍の海上特攻隊」を思い出した。

 8月7日、広島で「海から見えるヒロシマ(船をチャーターしての、広島湾海上フィールドワーク)」というツアーがあった。竹内良男さん(東京都立川市、元教員)が企画したツアーで、狙いは「歴史の現場を自分の足で歩きながら、今につながる話を聴き、自分の目で見ることを通して、戦争と平和を考えよう」というものだった。参加者は約50人。

 6日に広島市内で行われた市主催の平和記念式典や、原水爆禁止関係団体の集会を取材するため同市に滞在していた私もこれに参加したが、ツアーのコースは宇品(うじな)港――似島(にのしま)――江田島(えたじま)――金輪島(かなわじま)――宇品港。ツアー参加者は広島市街南端の宇品港を小型客船で出航、これらの島々を回った。

 乗船前に竹内さんが参加者に配布したツアーの予定表を見ていたら、江田島では、「海の特攻」の訓練に取り組んでいた元陸軍少年兵の証言を聞く、とあった。私は、頭をかしげた。特攻といえば、「空の特攻」、すなわち航空機による特別攻撃隊がよく知られいる。これには、海軍によるものと陸軍によるものがあった。これに対し「海の特攻」と聞いて、私がとっさに思い起こしたのは、「人間魚雷」といわれた海軍の特攻兵器の大型魚雷「回天」だった。
 この「回天」に乗って訓練中、事故で殉職した特攻隊員のことを取材すべく、私は以前、「回天」訓練基地があった大津島(山口県の徳山湾内)を訪れたことがあった。だから、「海の特攻」といえば、海軍によるものとばかり思ってきたのである。「陸軍にも海の特攻があったって?」。ますます興味を覚えた。

 船が江田島に近づいた。戦前生まれの人にはかなり知られた島と言っていいだろう。敗戦まで、この島に海軍将校養成のための海軍兵学校が置かれていたからである。
 私たちは、桟橋から島に上陸した。島の北端、幸ノ浦というところだという。畑の中に家屋が散在する静かな海浜の村落だ。江田島市の一部という。

 桟橋のわきに、海を背にした石造りの慰霊碑が建っていた。それには「海上挺進戦隊顕彰之記」が刻まれていた。建立は1967年とあった。

 竹内さんが参加者に配布した資料などによると、幸ノ浦に基地が置かれていた「海の特攻」とは次のようなものだった。
 アジア・太平洋戦争で日本の敗色が濃くなったのは1944年(昭和19年)である。何とか局面を打開しなくてはと、海軍が開発したのが航空機による特攻「神風特別攻撃隊」だった。軍用機に乗った隊員が敵艦に体当たりして自爆し、敵艦に打撃を与えるという、いわば戦死を前提とした戦法であった。この年10月には、フィリピンのレイテ沖海戦で神風特別攻撃隊が初めて出撃する。

 陸軍も特攻作戦の具体化を急ぐ。その結果、創設されたのが、「海上挺進戦隊」だった。自動車のエンジンで駆動するベニヤ製の小型艇に250キロの爆雷を積み、夜陰に乗じて1人で敵艦に突っ込む部隊だ。小型艇は長さ5・6メートル、幅1・8メートル、最大速力20~25ノット、航続時間3・5時間。部隊の存在は秘匿され、小型艇の製造も極秘裡に行われた。出来上がった小型艇は「マルレ」という秘匿名称で呼ばれた。
 隊員の大半は、15~19歳までの少年兵。陸軍各部隊から選抜した者や志願者で構成した陸軍船舶兵の特別幹部候補生だった。広島市宇品にあった陸軍船舶司令部が隊員養成と戦隊編成に当たった。 

 瀬戸内海の小豆島などで訓練を受けた戦隊隊員は、江田島幸ノ浦にあった基地に集められ、ここから44年9月以降、順次、フィリピン、台湾、沖縄方面に出撃した。戦地に向かった戦隊隊員は約計3100人、うち戦没者は1790人とされる。「30ヶ戦隊が昭和19年9月以降続々沖縄、比島、台湾への征途にのぼり、昭和20年1月比島リンガエン湾の特攻を初めとし同年3月以降の沖縄戦に至る迄鬼神も泣く肉迫攻撃を敢行しその任務を全うせし……挙げたる戦果敵艦数10隻撃沈、誠に赫々たるものありしも当時は秘密部隊として全く世に発表されざるままに終れり」と慰霊碑にある。
20150918-岩垂-写真-広島 268
     広島県江田島市幸ノ浦の浜辺に建つ海上特攻隊戦没者の慰霊碑

 そればかりでない。隊員たちは予想もしていなかった事態に遭遇する。米軍による広島への原爆投下だ。この時、爆心から南約13キロの幸ノ浦基地には、本土決戦にそなえて特攻隊員、整備要員ら約2000人が駐在していた。隊員らは、広島の空高くのぼった、きのこ雲を目撃したはずである。
 原爆投下直後、隊員たちは船舶司令部からの命令で広島市内へ向かい、被爆者の救援にあたった。多数の被爆者が運ばれた隣の島の似島で被爆者の救援活動にあたった隊員もいた。こうした経緯から、隊員の中にはその後、放射線障害に苦しむ人もいたと伝えられている。 

 ツアー一行が幸ノ浦に滞在中、村落の集会所で、元海上挺進戦隊隊員の和田功さん(89歳)=広島市=の話を聞く機会があった。敗戦の8月15日には、上官の命令で、ベニヤ製の小型艇を焼いたという。和田さんは「あんな船でよくも戦争したものだ」と悲しそうな表情を浮かべ、「秘密部隊として扱われた部隊の歴史を知ってほしい」と訴えた。
 
 それにしても、ベニヤ製の小さな舟艇に爆雷を積んで単身、敵艦に突っ込むとは。何という無謀な作戦だろう。それにより、まだ成人前の若い生命が多数失われた。島を去る時、私は桟橋わきの慰霊碑の前に再び立った。戦死の瞬間に、少年兵たちの脳裏をよぎったものは果たして何だったのだろうか。そう思うと、無謀な作戦を遂行した戦争指導者への言いようもない怒りがこみ上げてきた。

 知り合いの元新聞記者によれば、アジア・太平洋戦争の開戦時、米国の国民総生産(GNP)は日本のそれの13倍だったという。そんな大国に宣戦布告した日本。冷静に考えれば、まことに無謀な戦争だったのである。

 作家の半藤一利氏は著書『昭和史 1926-1945』(平凡社、2004年刊)のむすびの章「三百十万の死者が語りかけてくれるものは?」中で、「昭和史の二十年がどういう教訓を私たちに示してくれたかを少しお話してみます」として、5点を挙げている。その一つに「何かことが起こった時に、対症療法的な、すぐに成果を求める短兵急な発想」を挙げ、「これが昭和史のなかで次から次へと展開されたと思います。その場その場のごまかし的な方策で処理する。時間的空間的な広い意味での大局観がまったくない、複眼的な考え方がほとんど不在であったというのが、昭和史を通しての日本人のありかたでした」と述べている。

 半藤氏はこの章の中で「歴史に学べ」と言っている。戦後70年。日本人はこの間、過去の歴史に学んできただろうか。
2015.08.20  中国大陸との国交正常化
          ―あらためて考える「歴史問題」 4 (最終回)

田畑光永 (ジャーナリスト)

 このシリーズの途中で8月14日に安倍首相の「終戦70周年談話」が出された。しかし、予想通り「歴史問題」にきっちりけじめをつけるような談話とはならず、15日の番外篇で指摘したように、適当に言葉をつぎはぎしながら、なるべくみずからは反省も謝罪もしないで、同時に非難も浴びないように形をつけただけのものに終った。したがって、こちらも今までの話を続けることにする。
 これまでの3回では20世紀前半における中国侵略、朝鮮併合という日本の行動は、中国大陸、朝鮮半島、日本列島が中華を中心とする緩やかな朝貢冊封体制のもとでの共存体制というこの地域の伝統にそむくいわば「掟破り」であったこと、しかし太平洋戦争のあとの中国の内戦、朝鮮戦争というアジアの激変の中で行われた中華民国(台湾)、韓国(朝鮮半島南半部)との国交調整では、相手側は日本の「掟破り」に謝罪を求めるほど立場に余裕がなく、両者とも対日不満を抱きつつも国交が再開された経緯を述べて来た。しかし、1972年の秋に至っていよいよ中国大陸の政権との国交正常化交渉の機が熟した。

日中正常化における戦後処理
 戦後初めて大陸の土を踏む日本の首相として、過去の戦争についてどう語るか、中華民国の時のように表向き何も言わずにすますことは出来ない。ではどう言うか?時の田中首相が大いに悩んだことは当時の状況から明らかである。先述したように戦後すぐに東久邇宮首相が「中国に謝罪使を特派したい」との意向を内外に明らかにした事実を、田中首相が知っていたかどうかは不明だが、皮肉なことに1972年当時は蒋介石になお恩義を感ずる勢力からの「中共に頭をさげることは許さない」という圧力はかなりなものであった。それをかわすために田中首相が選んだ言葉が有名な「ご迷惑」である。
 訪中初日、9月25日夜の歓迎宴での「(過去数十年にわたって)多大なご迷惑をおかけした」という田中首相の挨拶は、翌日の首脳会談で周恩来首相から「言葉が軽すぎる」と強い言葉での抗議を呼んだ。しかし、これに対しては田中首相は「ご迷惑と言った自分の真意は謝罪である。したがってその言葉が不適当であるなら、中國側の記録にははっきり謝罪としてもらって構わない」と釈明して、その場をしのいだ。そしてこの問題は共同声明前文の「日本側は、過去において日本国が戦争を通じて中国国民に重大な損害を与えたことについての責任を痛感し、深く反省する」という一節となって決着した。ここで反省は表明したものの、「謝罪」までは踏み込まなかったことが問題を後に残した。
 田中首相の釈明は日本国内向けにはあくまで「ご迷惑」、中國側がそれを「謝罪」と受け取っても異存なし、という双方の国内事情を刺激しないための苦心の弁であるが、周恩来首相が本心、これで納得したとは思えない。
 しかし、そもそも中国が前年7月に米のキッシンジャー特使を受け入れてニクソン訪中の話を進め、また日本との国交交渉を開くに至ったのは、当時、対立が深まっていたソ連に対抗するために米・日へ接近するという外交戦略上の必要に迫られていたからであった。したがって過去に対する「謝罪」にこだわって会談を決裂させるわけにはいかなかった。ここでも中國の状況が日本を助けたのである。
 同じことは賠償問題でも起こった。深刻さはこちらのほうがまさった。と言っても、中国側が日本に賠償を払えと要求したわけではない。その代りに中國側は「中日両国国民の友好のために賠償請求権を放棄する」と共同声明に書き込むことを主張した。それに日本側が異を唱えたのである。その理由は20年前の日華平和条約で台湾の中華民国政府がすでに賠償請求権を放棄しているから、この問題はすでに決着ずみであるということだった。つまり、中国側には放棄すべき請求権それ自体がもはや存在しないというのが、日本側の立場であった。
 これに周恩来は激怒した。そんな理屈は中国人民を侮辱するものだ、とまで言った。もともと終戦直後の中華民国は戦争で多大の被害をこうむった以上、日本には賠償を支払わせるという立場であった。在華日本軍民の引揚げについては「暴に報いる徳を以てせよ」と国民を説得した蒋介石も、1945年10月17日に重慶でUP通信のヒユー・ベイリー社長と会見した際には「日本とドイツは戦争誘発に対し同等の責任を有するものであるから両国の処罰は同じ見地からなされなければならないと信ずる」と述べ、同社長は蒋介石から「寛大な和平には決して賛成しない」という印象を受けたと書いている(当時の新聞報道)。
 その後も国民党政権はことあるごとに日本に賠償を要求したが、日華平和条約にいたって請求権を放棄したのは以下のようなやりとりの結果である。同条約が国会で批准された当時の外務省条約局長(後に外務次官)だった下田武三の回想禄『戦後日本外交の証言』にはこうある。
 「国府側は賠償問題では、対日戦争の最大の被害者である中国が賠償を放棄することは中国の国民感情が許さない、として対日賠償請求権を強く主張した。これに対して日本側は、中国大陸における中国の戦争被害は大陸の問題であり、この条約の適用範囲外であるとして、条約からの削除を求めた」(下田『戦後日本外交の証言』)
 この日本側の主張はもっともである。賠償は政権に払うのではなく、国民に払うものである以上、戦争中は日本領であった台湾・澎湖島に統治範囲が限られる中華民国政権に戦争賠償を払うのは筋が通らない。内戦に敗れた国民政府にしてみれば傷口に塩をすり込まれるような言い草に聞こえたであろうが、理は日本側にある。
 しかし、それなら大陸の政権が請求権を持つことを認めなければ、今度は日本側の態度が一貫しない。というより、台湾が放棄したから、すでに大陸の政権には請求権がない、というのはほとんど詐欺の論理である。
 ところがこの点でも中國側が譲歩した。日中共同声明の第五項は「中華人民共和国政府は、中日両国国民の友好のために、日本国に対する戦争賠償の請求を放棄することを宣言する」となった。請求権の「権」が消え、したがって日本側との合意というより、中國側の一方的宣言である。
 さらにつけ加えれば、「戦争状態の終結」についても、日本側の「日華平和条約によって終結」という立場を中国側が認めて「戦争」という言葉なしに、共同声明第一項は「日本国と中華人民共和国との間のこれまでの不正常な状態は、この共同声明が発出される日に終了する」となった。
 こう見てくると、二〇世紀前半の日本の行動に対する中国、韓国の憤懣は、公式の戦後処理の場においては、中国へは田中首相の「ご迷惑」発言と日中共同声明における「責任を痛感し、深く反省する」という言葉、そして韓国へは無償3億ドル、有償2億ドルの経済協力だけで解決されたことになった。
 これは当事者間の合意の結果であるから、日本の責任というわけではない。ただ中国、韓国にとっては日本の行動の責任をきびしく追及し、納得のいく結果を得るだけの余裕のない状況で国交を開かなければならなかったことが、後々折に触れて歴史問題が国家関係をこじらせる原因となったことは否めない。

謝罪より歴史の直視を
 勿論、その後、日本の首相は「謝罪」をおこなってきた。代表的な例が一九九八年の金大中大統領との日韓共同声明における小渕恵三首相の謝罪、同年の中国・江沢民主席への同首相の口頭による謝罪、それに相手を特定しない一九九五年の村山富市首相の戦後五十年にあたっての談話、同じく二〇〇五年の戦後六十年にあたっての小泉純一郎首相の談話である。
 これだけ謝罪すれば、中国にせよ韓国にせよ、国交回復時の不満を解消してもいいはずと思えるのに、なお謝罪が求められるのはいかなる理由か。そこが問題の核心であるが、それは日本の政治世界における歴史認識のあいまいさが折角の謝罪をしばしば不透明なものにしたり、否定したりするからである。
 村山首相の談話は、わが国が遠くない過去に「国策を誤り」、「侵略」と「植民地支配」をおこなったことを「謝罪」した。この談話が意味を持ち続けるためには、後継者はこれを尊重しなければならない。しかし、小泉首相は「国のために命を捧げた人々に哀悼の誠を捧げるため」に六度も靖国神社に参拝した。安倍首相も一昨年の年末に参拝した。自分たちの戦争を「侵略」と認めて謝罪しながら、一方でその戦争の指導者を含めて、直接それに従事した人間を「国のために命を捧げた」と称揚して参拝するのは論理矛盾である。
 その時点で以前の首相の謝罪は俗な言葉で言えば効力が切れる。それが繰り返されてきた。その根底にはあの戦争を心底悪かったとは思わない系譜がこの国には脈々と生き続けている。福沢諭吉が前出の「脱亜論」で「支那朝鮮」が時勢に遅れているのだからという理由で、わが国の「支那朝鮮に接するの法も隣国なるが故にとて特別の会釈に及ばず、正に西洋人が之に接するの風に従て処分す可きのみ」と書いたように、あの戦争は欧米先進国が世界中でやっていることを真似ただけとする考え方である。
 昔からの三国共存の掟を破って、明国目指して朝鮮に出兵した豊臣秀吉もカトリックの宣教師から織田信長を経由して注ぎこまれた弱肉強食の「世界の趨勢」に突き動かされたのであろうし、明治日本の指導者たちも世界の大勢におくれまいと武器をとることに躊躇しなかった。「如何となれば世界文明の喧嘩繁劇は東洋孤島の独睡を許さざればなり」(福沢『脱亜論』)が、戦いを正当化する根拠であった。
 自己の行為そのものの善悪をつきつめるのでなく、他人との比較で自己の正当性を量るのはわが国の特性の一つであることは、従軍慰安婦の議論でかならず他国の例が持ち出されるところにも顕著である。
 こう見てくると、わが国と近隣国との歴史問題はまさに戦後の歴史の巡り合わせと国民性が生んだアジアの宿題である。今尚それは生きているというより、世代が変り、今やわが国と中国、韓国との国力の差も縮小、ないし逆転して、あらためて三国の関係を考え得る時代になったということであろう。韓国、中国にしてみれば、戦後70年にして初めて、損得勘定抜きに「掟破り」を正面から問題に出来る状況になったのである。
 とすれば、相手は政権の弱さを補うために昔のことを言い立てているといった受け取り方でなく、現在のアジアの力関係から生まれた、古いが新しい問題としてとらえ直すことが必要である。
 と言っても、別に妙案があるわけではない。なすべきは真面目に歴史を直視することである。現代史が難しいのは、現に生きている人間と直接に関わりがあった人間の行為を評価しなければならないからである。戦争は多くの人間の命に関わる出来事であるから、客観的な評価がためらわれる場合があるのはやむを得ない。靖国神社問題などはその典型である。
 靖国神社は戦死者を神として祀ることによって、国民を兵員として徴発するのを容易にするための施設であったことは疑いようのない歴史の事実である。しかし、その存在が肉親を失った遺族の悲痛をいくらかでも慰める限りは、国民全体が一致して、戦死者とは命令によって他国を侵略し、他国の国民を苦しめ、その過程で自らも命を落とした犠牲者であって、「英霊」などと呼ぶことは歴史の真実を覆い隠す偽装であると、認識することは困難であろう。
 戦場でなにをして命を落としたかを問うことはせずに、「お国のために命を捧げた英霊」としておくことは遺族を含む有権者の感情を傷つけたくない政治家にとっては都合のいい逃げ道である。その靖国神社に参拝することは政治家にとってプラスになる。そのためにはあの戦争をあからさまに侵略と決めつけるのは具合が悪い。そこで言葉を濁す。侵略の定義はいろいろある、などと無意味な抵抗をする。英霊の集団が女性たちを従軍慰安婦にして、「耐え難い苦痛」を与えたというのもためらわれる。そこで業者なるものを介在させて従軍慰安婦の存在自体を商行為に仕立て上げる。こうした内向きの戦争の偽装工作がこれまで外向けの謝罪の真意を疑わせ、無効にしてきた。なんど謝ってもまた・・・というのは、この偽装工作の故である。
 しかし、戦後も七十年。こうした偽装工作を卒業する時期ではないか。すくなくとも、偽装工作を破綻させないために、被害国からの批判にむきになって反論したり、相手の被害を割引いたりするような言説は事態を悪化させるだけである。加害者は被害者の批判にはだまって耳を傾ける義務があるはずである。(完)
2015.08.19  戦後70年、敗戦記念日に『NO MORE 731日本軍細菌戦部隊~医学者・医師たちの良心をかけた究明~』(文理閣)が刊行された
          ~関西から(171)~

広原盛明 (都市計画・まちづくり研究者)

 「15年戦争と日本の医学医療研究会」(以下、研究会という)という医学者・医師・科学史研究者から構成される研究団体がある。2000年6月に設立され、同年秋から研究会会誌が年2回発行されてきた。研究会の目的は、「本会は15年戦争をめぐる日本の医学医療界の責任の解明を目的とする」(会則第2条)とあるように、15年間にわたって中国大陸において展開された日本軍の侵略戦争に加担した医学医療関係者の戦争責任を追及するため、そのための史実・証言を収集調査し、研究することである。

 周知のごとく、日本軍は15年戦争において国際法上禁じられている生物化学兵器を使用した細菌戦・毒ガス戦を計画し、その作戦展開のため中国東北部(満州)近郊の平房区に大規模な731部隊を建設した。同基地においては3000人余の中国人が「マルタ」との呼称のもとに人体実験・生体解剖などに供されて殺害され、当時の大学医学部に所属する多くの医学者・医師がこの恐るべき犯罪行為に加担した。しかしながら戦後、これらの「実験結果」を秘匿して新たな軍事目的に利用しようとするアメリカの意図のもとで、731部隊に関係した医学者・医師の多くは「免責取引」によって犯罪追及を免れたばかりか、日本の医学界・医療界に復帰して公然と要職に就くなど、その戦争犯罪は戦後70年に至るもいまだ裁かれていない。一方、太平洋戦争末期の1945年5月、九州山地で撃墜された米空軍B29の捕虜8人を生体解剖に付した日本軍および九州大学医学部関係者は、3年後の米軍横浜軍事法廷において5名が絞首刑、立ち会った医師全員が有罪となっている。

 医学医療関係者でも科学史研究者でもない私がなぜこのような拙文を書くのかと言うと、今回の出版に関わった17人の執筆者のなかで私が唯一医学医療専門外の研究者であり、執筆参加の理由を明らかにした方が本書の理解を進めるうえで有効だと考えたからである。私が執筆したのは、「第Ⅱ部 731部隊の所業」のなかの「Ⅱ-7 731部隊を建設した日本の建設業者」、731部隊の基地を建設した日本の建設業者を特定するための検証作業を記したものである。

 執筆に参加した直接的な切っ掛けは、研究会の第9次訪中調査団(2011年9月)の一員に加わったことにあるが、実はその前に少しばかり「前史」があることを語らなければならない。私は、父の任地(満鉄哈爾濱鉄道局)の関係で731部隊の所在地・平房区に近接するハルビンで1938年に生まれた「ハルビンっ子」であり、京都では「ハルビン会」という同窓組織に所属していた。ハルビン会の中心はハルビン日本人学校のなかでも最も古い歴史を持つ京都ゆかりの桃山小学校(西本願寺1909年創設)の卒業生たちであり、私は同窓生でもないのにただ「ハルビン生まれ」というだけでその一員に加えていただいていた(高齢化による会員数の減少を補うため)。

 そんなことでハルビン会に出席しては参加者のハルビンの思い出話を聞き、桃山小学校同窓会誌(『回想の哈爾濱、哈爾濱桃山小学校創立九十年記念誌』1999年)やハルビン中学、ハルビン商業、富士高女、扶桑高女、ハルビン医大の卒業生たちが綴った『昔、ハルビンにいた、PARTⅡ』2010年)などの記念文集をいただくなど交友を温めてきた。また私個人としてもハルビンは建築関係者とともに何度も訪れ、満鉄時代の主な建造物の見学を重ねてきた思い出の地でもある(自分の生まれた満鉄社宅団地も含めて)。

 私が第9次訪中団に加わったのは、研究会の事務局長である西山勝夫滋賀医大名誉教授のお誘いによるものである。氏は私の恩師、西山夘三京大名誉教授(故人)の御長男で古くからの知己であり、私がハルビン生まれであること、ハルビンの建築・都市計画に関心があることを知っておられたのだろう。中国側で731部隊遺跡の世界遺産登録の準備作業が始まっていたこともあって、これまでの医学医療関係者に加えて建築・都市計画専門家が必要との判断のもとに参加要請があったのである。

 帰国後、現地での調査結果を3カ月ほどでまとめ、研究会会誌2011年12月号に2つの論文として発表した。ひとつは『中国東北部ハルビン731部隊遺跡訪問記~731部隊遺跡の世界遺産登録をめぐって~』であり、平房区の印象、遺跡(跡地)保護の歩みなどを検討し、世界遺産登録基準に照らしてその可能性を検討したものである。もうひとつは、今回の出版に際して収録された『731部隊を建設した日本の建設業者』に関する論文であり、その意図は当該建設業者を特定して世界遺産登録に必要な設計図面や施工図など関係書類を収集したいと考えたからである。

 だが結論から言えば、残念ながら当該建設業者は特定できなかった。最大の理由は敗戦状況が決定的になると、戦争犯罪の追及を恐れた731部隊関係者は家族も含めて逸早く逃走し(帰国し)、残された基地や各種施設を爆破したうえ、関係記録を悉く焼き払って処分したからである。また関係したとされる建設業者の社史も悉く調べてみたが、731部隊に関する記録は一切発見できなかった。文中にも書いたように、日本軍(関東軍)に関する建設記録は軍事機密に属し(工事名はすべて暗号で記載されていた)、設計図も施工図も建設終了時には軍に返却しなければならない決まりになっていたからである。

 したがって、私の採った方法は731部隊に関する既存刊行物(著作)の中から基地建設や建設業者に関する箇所を抽出し、それら記述の信憑性や妥当性を検討しながら消去法的に当該建設業者を絞っていくというものにならざるを得なかった。いわば、状況証拠を積み上げて犯人を追及していくような推理小説まがいの方法である。面白いといえば面白いが、やはり研究作業としては「程遠い代物」と言わなければならない。しかし、歴史資料は秘かに個人が持ち帰ったものが数十年も経って発掘されるなど、往々にして予想外の場所から発見されることが多い。そんなことでいろんな知人のネットワークを辿って探してみたのだが、残念ながら見つけることができなかった。拙ブログを読んで関係者や資料の在り処をご存じの方があれば是非とも教えてほしい。

 安倍首相が8月14日、戦後70年談話を発表した。内容は今後多くの国民によって検証されるであろうが、医学医療界ひとつを取ってみても日本の戦争責任は「頬かぶり」のままである。「15年戦争と日本の医学医療研究会」のように医学者・医師としての良心にかけて真実を究明しなければならないとする人たちもいれば、犯罪責任を免れようとして一切の事実を覆い隠そうとする人たちもいる。歴史はやがて真実をひとつひとつ明らかにしていくであろうが、安倍談話を契機にして全てをチャラにするような「未来志向」だけは避けてほしい。
2015.08.15  小賢しさの限りを尽くした安倍談話
    ―あらためて考える「歴史問題」番外
 
田畑光永 (ジャーナリスト)
                     

 敗戦70年の安倍談話が発表された。ひと言でいって、いかにもこの人らしい談話である。予想される批判に対して言いぬけ用の布石を配して、どうだ文句はないだろうと胸をはっているのだが、それがかえって本人の心底を浮き彫りにしてしまうという結果に気付いていない。小賢しさの限りを尽くしている点では出色である。
 簡単な例からいけば、村山、小泉両談話で共通に使われた4つのキーワード(マスコミの命名だが)、つまり「侵略」、「植民地支配」、「痛切な反省」、「こころからのお詫び」が入るかどうかという内外の関心には、なるほど「全部入れました」と答えられるようになっている。
 しかし、談話を読めば明らかなように、最初の2つは今後そういうことがあってはならないという文脈での使用である。「侵略しました」、「植民地支配をしました」と言っているわけではない。後の2つは「先の大戦における行い」について「我が国」はその言葉を表明してきたという文章である。敗戦70周年時の首相として反省し、お詫びを言っているわけではない。そして相手は「インドネシア、フィリピンはじめ東南アジアの国々、台湾、韓国、中国など、隣人であるアジアの人々」である。
 結局、この4つの言葉の使い方で分かるのは、まず安倍首相は日本が「侵略しました」「植民地支配をしました」とは言いたくない。第2に、ほかの国々と並べることで中国、韓国を特別扱いしたくない、はっきり言えば中国、韓国に頭を下げるのではない、ということだ。隠すより現るる、とはこのことだ。
 このくだりの最後に、「こうした歴代内閣の立場は、今後も、揺るぎないものであります」とあるが、村山、小泉両談話は、日本の行った「侵略」、「植民地支配」に「反省」と「お詫び」を表明したのだから、この安倍談話を「こうした歴代内閣の立場」と言うのは明白なすり替えである。村山、小泉両談話は今後、安倍談話に吸収されてしまう恐れがある。
 この4つの言葉については、NHKは昨夜の7時のニュースで「すべて取り入れられたから、中国、韓国からも一定の理解が得られるのではないか」などと馬鹿な解説を加えていた。勿論、現実政治はインチキだろうとなんだろうとお互い打算と都合で動くから、実際はどうなるか分からないが、こんな小賢しさも見抜けないとはNHKも情けない限りだ。
 しかし、安倍談話の本当の問題点は別のところにある。冒頭で、百年以上前の世界には西洋諸国の広大な植民地が広がっており、その波がアジアにも押し寄せてきた危機感が日本の近代化の原動力となった。・・・日露戦争は植民地支配のもとにあった、多くのアジアやアフリカの人々を勇気づけました、という歴史観が述べられている。
 この談話について安倍首相に進言する報告書をまとめた「21世紀構想委員会」の中でこういうことを言いそうな人間の見当はすぐつくが、これは日清戦争から朝鮮併合までの歴史を「近代化のため」という錦の御旗でおおって正当化する歴史観だ。
 介入する理由もない朝鮮の東学の乱にむりやり介入して、清国軍を戦いに引きずりこんで、挙句、当時の日本の国家予算の4年分にもあたろうかという莫大な賠償金と台湾を奪い取った日清戦争も、日露戦争の余勢を駆って朝鮮王朝の抵抗を抑えつけて植民地とした朝鮮併合も、ともに正当な行為であったと、(歴史家が主張するのではなく)日本政府が閣議決定したのである。それも自分が植民地を作りながら、「多くのアジア、アフリカの人々を勇気づけました」などと自画自賛しながら。
 安倍首相は「侵略の定義は定まっていない」などと言って、都合の悪いところは逃げるくせに、19世紀末から20世紀初頭にかけての歴史について、定説どころか、そういう見方もないではないといった程度の俗説を政府の見解として認定してしまったのである。これで右翼陣営が勢いづいて、教科書検定などでこの見方がのさばるようなことになったら、それこそ「歴史問題」はどこまで深刻になるか、空恐ろしい。
 では安倍談話では、日本はなにが悪かったと言っているのか。1930年代の世界恐慌の時代、経済のブロック化が進む中で「日本は孤立感を深め、・・・(行きづまりを)力の行使によって解決しようと、・・・世界の大勢を見失っていきました」というのである。
 この記述は間違いでないにしても、前からの文章の運びでは、悪かったのは30年代からですと言って、朝鮮・台湾支配も、対華21条要求も、なにも問題なしということになる。
それらを正当化するのがこの談話の目的ではないかとさえ思える。
 おそらくそのように歴史を要約しようという発想は、今年の新年にあたっての天皇の次のお言葉から生まれたものではないだろうか。
 「本年は終戦から70年という節目の年に当たります。多くの人が亡くなった戦争でした。・・・この機会に、満州事変に始まるこの戦争の歴史を十分に学び、今後の日本のあり方を考えていくことが、今、極めて大切なことだと思っています」
 確かに1945年の敗戦に直接つながる満州事変以降の15年戦争の歴史を学ぶことは大切だが、天皇がそれ以前の歴史は間違っていなかったから学ぶ必要はないと考えられてのお言葉とは思えない。しかし、ことさら30年代以降を問題として、それ以前を正しい「近代化」とする今回の安倍談話はこのお言葉を下敷きにしているような印象がぬぐえない。そういう点の頭の働きはなかなかすばしこいと認めざるをえない。
 ともかく安倍流小賢しさの塊と言ってもいいこの談話が内外でどう評価されるかは注目される。
 とりあえず植民地支配を正当化され、また従軍慰安婦という言葉を使わずに、問題を戦争における女性の悲劇一般での言及に止められた韓国は黙っていられないだろうし、日清戦争、対華21カ条要求を正当化された中国も収まらないのではないかと思われるが、さて現実政治がどう進むか。

2015.08.13  戦後の激流に流された「掟破り」
    ―あらためて考える「歴史問題」 3 
         
田畑光永 (ジャーナリスト)
                      
 中国、朝鮮、日本の共存体制というアジアの掟を破った日本の20世紀前半の行動は、ポツダム宣言受諾からサンフランシスコ講和条約調印という国際外交の世界では、特にその非道義性を問題にされることはなく、一般的な戦争処理の形を踏襲して処理された。したがってそれらの場面で「歴史問題」が登場することはなかった。謝罪を最初に口にしたのは敗戦直後に日本の首相に就任した東久邇稔彦陸軍大将で、中国に謝罪使を派遣する考えを公表したが、実現せずに終わった―ここまでが前回で、それでは個別の外交はどう進んだかが今回のテーマである。

 本稿では便宜上「歴史問題」という言葉をタイトルに使っているが、戦後すぐの時期には戦争はまだ歴史になっていなかったから、「日本軍国主義の一掃」がアジアから日本に注がれる視線の先にあるテーマであった。
 1948(昭和23)年8月、戦後初めての中国からの要人として国民政府の張群・前行政院長(当時)が来日した。張群は個人の資格での訪日と言いつつ、芦田均首相との会談では「日本の旧勢力の復活については特に心配している」と、軍国主義がほんとうに一掃されたかどうかを確かめるのを大きな目的としていることを明らかにした。
 そして帰国を前にした記者会見ではこんな風に述べている―
 「例えば先日鎌倉へ行った時あるお寺に軍馬、軍犬を祭ってあるのを見たが、昔風の武士道的神道的残りがあるように見られた」(1948年9月12日『朝日新聞』)
 「たとえばまだ軍馬や軍犬を神のようにあがめたり、靖国神社へ参拝するものも多いといった具合で、本当に日本が民主化になるためにはなお多くの困難があると思う」(同『毎日新聞』)
 張群は帰国後、中国国内向けにラジオ放送を通じて日本の印象を語った(9月28日夜)が、そこでの結論は「今日の日本人の思想、社会の風俗習慣は学芸作品、芝居などになお歴史の余毒が残っているが、これが日本の民主化を妨げているとは認められない」(9月29日『毎日新聞』)という穏当なものであった。因みに戦後、靖国神社が中国人から公に批判されたのは、おそらくこの時が最初である。
 しかし、中国、韓国(北朝鮮も)との新しい国交調整の舞台は一向に整わなかった。
 まず中国であるが、日本敗戦の翌年から国民党と共産党の内戦が始まり、3年後、日本との戦争の主たる当事者であった国民党政権は敗れて、日清戦争以来日本領となっていた台湾に移り、大陸は共産党政権の統治するところとなった。1950年6月、朝鮮戦争が起こる。初戦は北朝鮮有利に進んだ戦局だったが、9月に国連軍が仁川に上陸して北朝鮮軍の背後を衝いてから、攻守が逆転。10月、北朝鮮政権は崩壊の淵に追い詰められる。そこで成立してまだ1年にもならなかった中国の共産党政権は義勇軍を北朝鮮に送って、国連軍の主力として韓国を援けていた米軍と直接戦火を交えることとなった。
 日本と連合国との講和会議は1951年9月に米サンフランシスコで開かれたが、中国については、共産党政権は米と対決し、国民党政権は台湾でわずかに命脈を保っているという状態であったために、双方とも講和会議には呼ばれず、結局、日本は米の強い圧力のもと翌1952年、台湾の国民政府と日華平和条約を結んで一応戦後処理をすることになった。
 しかし、大陸に基盤を失った同政府には日本の昔の「掟破り」を追求するほどの力はなく、かつての戦争当事者として、とにかく「平和条約」と名のつく条約を結んだことで(それも交換公文で適用地域を「現に支配している地域、または今後入る地域」に限定された上で)、かろうじて面子を保ち、賠償請求は「それは戦場だった大陸の政権との話」(当時の下田条約局長の回想禄)と日本に拒否されて、やむなく自ら請求権を放棄せざるを得なかった。
 もっとも、この条約交渉の日本側の主席全権をつとめた川田烈が1952年2月17日、台北空港に到着した際に書面で発表した声明には次のくだりがあった。
 「われわれは『恨みに報いるに徳をもってせよ』といわれた蒋(介石)の宣言を体し、これを徹底的に示された中国国民の態度を日本国民の一人として厚く感謝し、かつ中国国民の伝統的良識を深く尊敬、信頼している。中國が日本に対し不快な記憶を有せられることと思うが、今やわが国民は過去を償い、日本を平和的な国家として再建するため多大の困難を忍びながら努力していることを認めて頂きたい」(『毎日新聞』1952年2月17日夕刊) 
 この川田全権の声明は、日本政府として戦後初の中国国民へのメッセージであるが、戦争のことか植民地支配のことかもはっきりさせない形で「不快な記憶」という一語にすべてを語らせるというのは、後年の田中首相の北京訪問時における「ご迷惑」発言の原型を見るようである。
 しかし、それにしても日華平和条約の締結は事務的な外交交渉ではすまないものという認識があればこそ、極力漠然とでもなにか言わないわけにはいかないと交渉責任者は感じたのであろう。
 結局、内戦で敗れたという負い目を背負う国民政府としては、条約の相手として選んでもらったことをなによりとして、過去の「掟破り」に一矢報いるとか、謝罪を求めるとかはこの交渉では話題にもならなかった。
 一方、朝鮮半島との戦後処理はどうなったか。戦後処理といっても日本と朝鮮は戦争をしたわけではなく、朝鮮半島が日本領であった状態を日本の敗戦を機に併合以前に戻すことが戦後処理の内容であった。
 その根拠は日本が受諾したポツダム宣言に「カイロ宣言の各条項は守られるべく」とあり、そのカイロ宣言(1943年12月)に「三大国(米英中)は朝鮮の人民の奴隷状態に留意し軈(やが)て朝鮮を自由且独立のものたらしむるの決意を有す」とあったことである。
 しかし、朝鮮半島は太平洋戦争末期、沖縄戦のあと北上する米軍と8月8日に対日参戦して中国東北部を南下するソ連軍(当時)が南北から進攻し、結局、北緯38度線を境にして米ソ両軍が分割して占領することになった。しかも南北はともに統一を標榜しながらも、対立を深め、1950年6月には全面戦争に突入したため、日本との国交交渉は朝鮮戦争の休戦が実現した後、1951年10月にようやく南半分の韓国との予備交渉が始まり、翌年第1次本会談にこぎつけた。
 この交渉は難航した。第1次会談から14年にわたって中断、再開を繰り返し、1965年6月、第7次会談でようやく妥結した。難航の原因はそもそも併合が無効だということから、日本統治のあり方まで、韓国側はまさに日本の「掟破り」を追求し、日本側がそれを押し返すという繰り返しだったからだ。それが1965年に至って妥結したのは、当時の韓国・朴正熙政権が経済的にきわめて苦境にあって、韓国側の対日請求権の解決に、無償供与3億ドル、有償供与(ODA)2億ドルという金額で日本側と妥協しなければならなかったという事情があった。併合条約は無効、植民地支配に謝罪を、という「歴史問題」での主張は貫きようもなかった。
 結局、結ばれた「日韓基本条約」には日韓両国語のほかに英文のテキストを作成して、それをも正文とすることにし、第2条の「(1910年の併合条約は)もはや無効であることが確認される」という日本語条約文の「無効」に“null and void” という「無価値、空虚」を強調する英語の訳語をあてることで、韓国側は無念の思いを形にしたのであった。
 19世紀末からちょうど半世紀間、軍国主義日本が三国の共存関係を一方的に破って中国、朝鮮を従属させようとした「掟破り」は、現実世界では完膚なきまでに破綻し、連合国への無条件降伏という結末を迎えたが、その後の情勢変化、すなわち東西冷戦の激化、中国内戦、朝鮮戦争などによって、中華民国、韓国が苦境に陥っている中で、日本は「掟破り」に正式には頭を下げないまま、戦後世界への復帰をはたした。それどころか、東西冷戦が激化する中で米国が日本占領政策の重点を軍国主義の根を絶つことから自由陣営の一員としての育成へと切り替えたために、国の分裂という大きな矛盾をかかえた中国、朝鮮より身軽に復興の道を歩むことができたのであった。
 しかし、戦後はそれでは終わらない。中国大陸が外交的に未処理のままに残されていた。それが解決されるのが1972年の田中首相の訪中による日中国交回復であるが、そこでは「掟破り」はどう決着したのか、それが次回のテーマである。(続く)

2015.08.11 連合国の対日処理と「掟破り」
    ―あらためて考える「歴史問題」 2

田畑光永 (ジャーナリスト)
                      

 前回では日中韓の「歴史問題」が、なぜ戦後70年に至っても歴史に送り込まれずに、現実の政治課題であり続けるのかについて考えた。極東アジアでは古来、中国大陸、朝鮮半島、日本列島は中華を中心とする冊封朝貢関係・華夷秩序のもとに、概して安定した共存関係を保ち続けてきた点で、民族の勃興、角逐、衰退の渦の中で土地と民族が入れ替わるような激しく長い戦争を繰返してきたヨーロッパとは、戦争についての考え方が違うことをまず指摘した。
 そして、19世紀後半から欧米への同化路線を推進した日本が、従前の体制を守り続けようとした中国、朝鮮に武力、威力をもって立ち向かい、20世紀前半の半世紀の間に中国からは戦争によって領土の一部(台湾、東北地方)を奪い、朝鮮を威嚇によって併合したのは、極東アジアの長い共存関係に対する裏切り、掟破りであったことが、歴史問題が容易に終わらない原因であるという私の見方を提示した。
 今回はアジアのローカル・ルール違反ともいうべき「掟破り」が戦後の国際関係の中でどう扱われ、どう処理されて来たか(あるいは処理されてこなかったか)を考えることにする。
 しかし、その前に明治維新以降の欧米追随路線を走る過程で、中国、韓国に向き合う姿勢を変えることについて、日本自身はそれをどのように認識していたかを見ておくことにしたい。

「つき合い方を変えろ」
 明治維新が尊王攘夷を掲げる討幕派の勝利に終わった後、新政府は手のひらを返したように、1869(明治2)年に「外国との和親に関する勅諭」を発して、攘夷どころか諸外国と肩を並べることを対外政策の基本にすえた。手始めに近隣諸国と近代的な条約関係を結ぶことに着手し、1871(明治4)年に清国とは日清修好条規を結んだものの、朝鮮はそれにも容易に応じず、江華島事件を経て明治9(1876)年にようやく日朝修好条約がむすばれたのであった。その後、日本が鹿鳴館に象徴されるように「近代化」の道をひた走っても、中国、朝鮮はいっこうにそれまでのあり方を変えようとはしなかった。
 それを「遅れた隣人」と見たのが福沢諭吉である。1885(明治18)年に『時事新報』紙上に発表した有名な「脱亜論」で彼はこう言い放つ。
 「一村一町内の者共が愚にして無法にして然かも残忍無情なるときは、稀に其町内の一家人が正当の人事に注意するも、他の醜に掩はれ堙没するものに異ならず。・・・我日本国の一大不幸と云ふ可し。左れば今日の謀を為すに我国は隣国の開明を待て共に亜細亜を興すの猶予ある可らず。寧ろその伍を脱して西洋の文明国と進退を共にし、其支那朝鮮に接するの法も隣国なるが故にとて特別の会釈に及ばず、正に西洋人が之に接するの風に従て処分す可きのみ。悪友を親しむ者は共に悪名を免かる可らず。我れは心に於て亜細亜東方の悪友を謝絶するものなり」(句読点は引用者)
 分かりやすく言い直せば「近所が悪ければ、自分も同類と見られる。これが日本の一大不幸だ。だから近所が目覚めるのを待って、一緒にアジアを興すなどという余裕はない。むしろそういう仲間とは縁を切って西洋の文明国と同じ行動をとり、中国、朝鮮に対するのも、隣国だからと言って特別の配慮は無用、西洋人が彼らに対するやり方でやるだけだ。悪友と仲良くすれば、自分も悪く言われる。日本は心の中でアジアの悪友とは関係を絶つのだ」ということだろうか。
 福沢はここで「近隣づきあいに特別の遠慮は無用、西洋人が彼らに対するやり方でやるだけだ」と、つき合いのルールを変えることを主張している。「掟破り」を自認しているわけである。それは日本が西洋に追い付くための努力をしているのに、それを怠けている隣人がいて、それと同一視されるのを避けるためである。その限りでは、掟破りにも正当性がありそうだが、問題は掟を破って、その先何をしたかである。
 日清戦争、義和団鎮圧参加、日ロ戦争、韓国併合、対華21か条要求、満洲事変、日中全面戦争と続くその行動記録は「西洋人が之に接するの風」をはるかに凌駕する激しいものであった。その挙句が太平洋戦争となり、自ら無条件降伏に至ったのであるから、福沢の目に必要と映った掟破りの範疇に収まるものではなかったし、当の日本人自身にしても1945(昭和20)年の惨状が明治の掟破りの結果という意識は持たなかったであろう。
 しかし、その被害をこうむった側にすれば、そもそも古来平穏に共存してきた三国の関係の中から、何故ににわかに日本が牙をむいて中国、朝鮮に挑みかかったのか、その不当を責めることが、あの半世紀の歴史の始点であり、終点であるのは当然であろう。

戦後処理では?
 そこで今回の本題である、その掟破りが終戦処理の外交作業の過程でどのように扱われたか、である。
 日本は連合国のポツダム宣言を受諾して降伏した。この宣言は1945(昭和20)年7月26日に米国大統領、中華民国主席、大英帝国首相の名前で発せられたが、宣言を練るために7月17日に実際にポツダムに集まった首脳の中には蒋介石の姿はなく、かわってスターリンがいた。つまり内容は蒋介石抜きで決まったものである。26日の発表には事後承諾した蒋介石は加わったが、まだ対日参戦していないスターリンの名前はなく、8月8日の参戦後に登場する。
 なぜそんなことにこだわるかと言えば、ポツダム宣言を起草した人々はアジアの掟破りとは無関係の人々だったことを指摘しておきたいからである。その結果、日本に対する非難は極めてドライである。
― 無分別なる打算により日本帝国を滅亡の淵に陥れたる軍国主義的助言者により・・
― 無責任なる軍国主義者が世界より駆逐せらるるに至るまでは・・・
と、軍国主義者の無分別、無責任は糾弾されているが、道義を持ち出して「謝罪せよ」などとは言っていない。その一方でカイロ宣言を引いての領土条項、日本軍隊の完全武装解除、戦争犯罪人に対する処罰、実物賠償の取立てといったペナルティについては明確かつ具体的である。
 1951(昭和26)年のサンフランシスコ平和条約では軍国主義に対する非難もなく、戦争の終結を確認し、その後に具体的な領土、賠償、請求権などの処理が謳われている。ただ第11条の戦犯についての条文に「日本国は、極東国際軍事裁判所並びに日本国内及び国外の他の連合国戦争犯罪法廷の裁判を受諾し、且つ、日本国で拘禁されている日本国民にこれらの法廷が課した刑を執行するものとする」とあるのがやや目を引く。時にこの前段が戦犯法廷の考え方を受け入れよと言っているように誤解されたりもするのだが、ここでの「裁判を受諾し」の「裁判」の正しい訳語は「判決」であって、要するに講和条約が結ばれたからと言って、まだ刑期の残る戦犯をかってに釈放してはいけないという意味にすぎず、精神的なペナルティを意味するものではない。
 つまり敗戦日本に対する連合国による法的処理には「掟破り」を問題にするような条項はない。謝罪する、しないという問題は存在しない。それが戦争処理の一般的な形である。謝罪が問題になるのは中国、朝鮮、日本の3者間である。そして最初にそれを口にしたのは、じつは日本なのである。
 敗戦直後の8月16日に組閣の大命を受けた東久邇宮稔彦首相がその人である。皇族であり、陸軍大将であり、中国戦線で指揮をとったこともある同首相は組閣3日目の同18日に中國中央通訊社の特派員と会い、中国に謝罪使を派遣したいという意向を伝えたのであった。このアイディアは各方面に支持され、その謝罪使候補にはまず盧溝橋事件当時の首相、近衛文麿の名前が挙がった。近衛自身もその気になったとも伝えられた。しかし、同内閣が短命に終わったために、謝罪使派遣は実現に至らなかったのだが、東久邇首相にはたんに戦争の勝者、敗者というだけでなく、日本側は道義に悖る立場に立っていることの自覚があったのである。
 もし東久邇内閣がもう少し長続きして謝罪使派遣の話が具体化しても、マッカーサーの占領統治が始まったばかりであり、実現したかどうかは何とも言えない。むしろ実現しなかった可能性のほうが高いかもしれない。しかし、アイディア倒れに終わったにしても、このことがすっかり忘れさられてしまったことは残念である。もし敗戦直後の首相が謝罪の意思を明らかにしたことが、しっかり日本の政界に引き継がれていたとしたら、後の首相たちも「謝罪」でそれほど頭を痛めないですんだかもしれない。それはともかく謝罪問題を含む歴史問題は世界共通の問題ではなくて、アジア3国の問題なのである。
 それでは中国、韓国との直接の外交折衝では「掟破り」はどう登場したかが次回のテーマである。(続く)

2015.08.06  根源は歴史の「掟破り」
   ―あらためて考える「歴史問題」1

田畑光永 (ジャーナリスト)
                       
 八月は歴史の季節である。太平洋戦争が終わったのがたまたま八月だったからであるが、国民が歴史を振り返る季節が毎年あるのは悪いことではない。ただ、それが歴史を振り返る結果、他国の今を批判するところまで行くと、歴史が今の問題となり、現実の国家関係に影響してくることになる。
 現在の「歴史問題」は韓国との間では従軍慰安婦に日本がどういう手をさしのべるか、中国との間では過去の中国侵略に日本が真面目に向き合っているか、ということが焦点であるが、それが現在の国民同士の関係にまで影を落としている。 

驚きの数字
 中国との関係では、お互いの相手に対する見方についての世論調査の結果は衝撃的である。二〇〇五年から毎年、日中両国民がそれぞれ相手にどういう印象を持っているかを調査してきた日本側「言論NPO」、中国側「中国日報社」が二〇一四年年七月~八月に実施した共同世論調査の結果は、日本人のうち、中国に「よくない印象を持っている」と「どちらかといえばよくない印象を持っている」を合わせるとじつに九十三%、日本に同様の印象を持つ中国人も八十六・三%に達した。
 逆に相手に「よい印象を持っている」と「どちらかといえばよい印象を持っている」の合計は、日本人では六・八%、中国人では十一・三%に過ぎない。
 この調査より二か月ほど後の同年一〇月に行われた、内閣府の日本人男女三〇〇〇人を対象にした「外交に関する世論調査」でも、中国に対して「親しみを感じない」「どちらかというと親しみを感じない」の合計が八十三・一%と過去最高を記録し、「親しみを感じる」、「どちらかというと・・感じる」の合計は十四・八%であった。
 日中両国民は一貫してそっぽを向きあってきたわけではない。一九三一年の満州事変から足かけ十五年に及んだ戦争の後、東西対立のあおりを受けて両国間には長らく国交がなかったが、一九七二年に国交を回復してからしばらくは、友好ムードが支配的であった。内閣府の調査では一九八〇年代前半は「どちらかというと」を含めて「親しみを感じる」が七十%台をキープしていたし、一九八九年の天安門事件でその数字は急落したとはいえ、九〇年代から二〇〇〇年代前半までは五十%前後を保っていたのである。ところが、今や「親しみを感じる」は十五%を切り、国別に見た場合、米国の八十二・五%は別格としても、インドの四十七・一%、韓国の三十一・五%、ロシアの二十・一%にも水をあけられている。
 近隣国の国民同士が必ずしもよい印象を持たないのは珍しくないであろうが、数ある世界の二国間関係のうちでこれほどにまでそっぽを向きあっている国民同士というのは、戦争でもしている場合を除けば例がないのではなかろうか。それもなにか具体的な利害の大きな対立があるわけでもなく、むしろ貿易、投資、観光といった面では旺盛な交流が展開されている。最近話題の中国人観光客の爆買いにしても、中国人は日本の商品が好き、日本側も買ってくれるのは大歓迎なのだから、その限りではお互いが嫌いになるいわれはない。
 互いの印象を悪くさせているのはもっぱら両国の政治的関係である。政治的関係というのは、要するに国民の頭の上で政府どうしが相手をどう言っているか、である。今の日中関係では両国の政府は儀礼的なやり取りを別にすれば、確かに双方とも相手を立てるよりも批判することの方が多い。中国側がかつての戦争を持ち出せば、日本側は中国の軍備増強や強引な資源外交を批判する。それを聞かされている国民は相手を困った国だと思うようになる。その結果が上の数字である。韓国やロシアにも水をあけられているのは、日本政府の批判がこの両国よりも中国に向けられることが多いからであろう。
 勿論、過去の歴史を問題にしているのは、中国にしろ、韓国にしろ、政府だけであって、国民はそんなことには関心がないというわけではない。国民の中になお過去の日本の行為によって直接の被害を受けた人々が存在する以上、日本に対する怒り、恨みがあるのは当然であり、政府はそれを政治的に利用するのであって、何もないところで対日批判の火を煽っているわけではない。
それでは普通の中国人や韓国人は、日本(人)が好きなのか、嫌いなのか、はっきりしろと言ってみても、それは無意味である。どちらかにはっきりしている人もいるだろうが、おそらく多数の人は両方の感情を持っていて、時によってどちらかが強くなったり、弱くなったりしているはずだ。
 だから国民感情は固まったものとして考えるのではなく、伸び縮みするものと受けとめて、双方のそれが対立に向かわないように互に気をつけなければならないのだ。その意味では、相手を徹頭徹尾、悪意に満ちている存在ときめつける、最近のいわゆる「ヘイト本」は国民感情というものを全く理解しない自国の知的レベルの低さを内外に宣伝するようなものと言わざるを得ない。

ヨーロッパとの違い ―掟破り
 ここで反論が聞こえそうである。それにしても戦後七十年ではないか。その間、何人もの日本の首相が謝罪したではないか。いつまで同じ話をむし返せば気がすむのか。昔から何度も大戦争を経験してきたヨーロッパでは、それぞれの国民の胸の底までは分からないにしても、首脳会談で歴史問題が取り上げられて、謝罪が話題になったなどとは聞いたことがない。それどころか、もう戦争は止めようということで、EUを作り、通貨まで共通にして、一つの共同体を目指しているではないか、と。
 この議論はもっともである。なぜヨーロッパのように歴史は歴史として収めるべきところに収めて、現在の日常はそれを踏まえつつも、新しい雰囲気の中で進められないのかと嘆きたくなるのは、責められる側の感情としては当然の帰結である。
 とはいえ、これは加害者、被害者の感情の動きであるから、あちらでそうだからこちらでもそうあってほしいと言ったところで、加害者側にそれを要求する権利はないし、被害者側にもそれに従わなければならない道理はない。あちらはあちら、こちらはこちらと割り切るしかない。
 しかし、なぜそういう違いがユーラシア大陸の東西で生まれたのかは考える価値のある問題であると思う。これにはなかなかすっきりとした回答が出せそうにもないのだが、私なりに答えるとすれば、ヨーロッパと極東アジアにおける戦争の違いではないか、ということになる。
 大雑把な議論になるが、ヨーロッパの地図を歴史と重ね合わせると、土地と民族が目まぐるしく移り変わってきたことに気が付く。「ゲルマン民族の大移動」などは教科書にも登場するが、現在、ある国家に住んでいる人たちが昔からそこの住民であったとは限らない。そういう変化をもたらしたものが数ある戦争であった。
 一方、極東アジアの中国大陸、朝鮮半島、日本列島では古来、漢民族、朝鮮族、日本民族がそれぞれ定着して、国境線というか、民族の境界線が大きくずれたり入れ替わったりすることはなかった。言うまでもなくここでは大まかな話をしているのであって、中国大陸内部、朝鮮半島内部、日本列島内部ではそれぞれ激しい権力争いがあったが、それを越えて三者のいずれかが残る二者のいずれか、あるいはその内の一者をまるごと支配するような大戦争、たとえて言えば国際戦争はほとんどなかった。
 それに数えられるものを歴史の中にさがすと、西暦663年の白村江の戦い、13世紀後半のいわゆる元寇(1274年文永の役・1281年の弘安の役)、16世紀末の豊臣秀吉の朝鮮出兵(文禄の役1592~1596年・慶長の役1597~1598年)が挙げられる。白村江は百済・日本の連合軍と唐・新羅の連合軍の戦いであり、元寇は大陸を制圧したモンゴルが朝鮮半島の高麗とともに北九州に来襲したものであり、秀吉の朝鮮出兵は最終的には中国の明王朝をも征服しようとした軍事行動であった。
 いずれも歴史に残る戦いではあったが、しかしヨーロッパの名だたる大戦争が数十年から時には百年戦争と言われるほどの長期間であったのに比べれば、数が少ないだけでなく、規模も小さかった。
 しかもこの3つの戦争のうち、元寇は極東アジアの戦争というよりユーラシア大陸の内奥部の平原に発したモンゴル帝国の世界制覇の戦いの東の先端部分であったし、秀吉の朝鮮半島出兵は、16世紀に来訪したイエズス会の宣教師が伝えた当時の世界の流動性に触発された動きであった。ということは、いずれも極東アジア自体から生まれた戦火というより、外部からの刺激による戦火であったといえるだろう。
 逆に言えば、極東アジアでは中華文明を中心とする冊封朝貢体制・華夷秩序によって大陸、朝鮮半島、日本列島は共存を前提とした三者鼎立の歴史の中に生きていたのである。そこが各民族の勃興、角逐、衰退によって、相互の境界線が大きく動くのを常としたヨーロッパの歴史とは大きく異なる。
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2015.05.26  天皇夫妻のペリリュー訪問(4)
          ―明仁天皇が国防軍を観兵する日―

半澤健市 (元金融機関勤務)

 天皇のペリリュー訪問に関して私はこれまで3本書いた。回り道ではあったが、私としては「最終回(4)」を含めてどうしても全部を書きたかったのである。是非、全4編をまとめて読んで頂きたい。

《天皇夫妻のペリリュー島慰霊訪問》
 天皇夫妻は、2015年4月8日に羽田を立ち、同夜はペリリュー島沖に停泊中の海上保安庁巡視船に宿泊し翌9日に帰国した。その間にパラオ島(パラオ共和国)で、パラオ共和国大統領夫妻、同国の国民各層、マーシャル諸島共和国大統領夫妻、ミクロネシア連邦大統領夫妻、との親善交流を行いつつ、4月9日にペリリュー島で、村木厚子厚生労働事務次官の先導で戦争犠牲者慰霊碑への供花、慰霊の参拝を行った。前記の三国大統領夫妻、現地要人、日本遺族会関係者、戦闘に参加した旧日本軍兵士も共に慰霊に参じた。日本メディアは一斉に、天皇夫妻が「反戦平和」への熱い思いを示したと好意的な報道を行い、国民も大いに感動したと伝えた。当ブログでも、小澤俊夫さんが4月13日に懇到な文章を書かれた。管見の限りこの慰霊訪問に批判を示したのは「反天皇制運動連絡会」だけであった。

私自身は、小澤さんに共感する。現に私も最近2年内で天皇夫妻の発言や文章を知って、その歴史認識に対する肯定的な文章を書いた。しかし、村岡到氏の象徴天皇制論(季刊誌『探理夢到』、NO.13、2015年5月1日号)に触発されたこともあり、手放しの「両陛下礼賛」を再考して、新たな課題を意識するようになった。その課題は私の発見ではない。従来から多くの論者が発言してきた問題である。

《私の中に浮上した二つの問題―慰霊と天皇制》
 問題とは何か。私なりの整理では次の二つである。
一つは、戦争犠牲者の慰霊・鎮魂の問題である。
二つは、天皇個人と天皇制の問題である。

天皇夫妻の言動は、戦争の原因や戦争の指導や戦争の責任には決して言及しない。天皇だけではない。それを報ずる人も論ずる人もだれ一人言及しない。それを言うと、戦争責任、とりわけ昭和天皇のそれに及ぶのを、皆が意識しているからである。「大東亜戦争」は、開戦権と停戦権を一人で保持していた裕仁天皇が、開戦を決め、戦争指導に深く介入し、停戦を決めて、敗戦となった戦争だからである。
戦争犠牲者の慰霊は、戦勝国と敗戦国とで異なる。
大義ある戦争と大義のない戦争。その死者をどう慰霊するか。そこに差異が生まれる。
悲しみと慰霊は共通する。そのなかで、大義ある戦死者に対して戦勝者は、併せて喜びと誇りと尊崇を感ずる。大義なき戦死者に対して、敗戦者には、悲しみだけがある。誇りがなく屈辱だけがある。尊崇がなく慰霊だけがある。
2015年5月20日、11ヶ月振りに行われた「党首討論」で、安倍晋三首相は、志位和夫日本共産党委員長の「あの戦争は間違った戦争なのか」という問いに答えることができなかった。「大東亜戦争」は、「ポツダム宣言」の受諾によって日本の敗戦に終わった。だから侵略戦争の敗北を認めたと同義であろうと迫った志位に、英霊に尊崇の念を抱いて靖国参拝する安倍がイエスと言えなかったのである。
断っておくが私は、大義なき戦争にせよ、敗戦は屈辱であり心地よいものではないと考えている。「負けて良かった」が、戦後の庶民感情だというのが通説である。私もそう思ったし、今でも思っている部分はある。しかし「負けて良かった」は「戦争はしたが負けて良かった」ということであり、戦争の起源には考えが及んでいない。そこで思考停止してはいけないのである。あの戦争で死んだ310万人の日本人が「負けて良かった」と聞いたら、笑いながら「その通り。負けて良かった」と同意するだろうか。

結論をいう。天皇は「負けて良かった」のか「悪かったのか」について一言も言わないのだから、我々が「負けたということはどういうことなのか」という課題に答えなくてはいけないのである。

《天皇個人と天皇制はちがう》
 私は天皇夫妻の反戦平和への思いがウソだと思わない。二人には真剣な戦争の反省や平和への希求があると感ずる。しかしその事実と、天皇制の客観的な役割とは、誤解を恐れずにいえば、何の関係もないのである。
一つの現実的な仮説を立ててみる。
安倍政権が推進する戦争法案が国会を通れば、自衛隊(改憲後なら国防軍)は戦争のために派兵される。相手国と戦火を交えれば戦死者が出る。
現行憲法によれば、天皇のありようは「国民の総意」に基づく。戦争法案によって外交政策が変われば、天皇もその政策に従うことになるだろう。早い話、安倍内閣またはその後継者は「出征兵士壮行式典」や「戦没者慰霊式典」を開催するだろう。それへ天皇夫妻を呼んだときに天皇は拒否できるだろうか。天皇夫妻は、出陣兵士を激励し戦没兵士を顕彰するだろう。憲法の解釈によって「ペリリュー島での旧軍兵士慰霊」とは等価になる。平気でウソをつく安倍晋三にとってそんな解釈変更は些細な問題である。

出席せざるを得ないわけは、天皇家の唯一の使命は「皇統の維持」であり、その行動規範は、敗戦時に見るとおり何でもありだからである。安倍内閣はその戦争政策を「国民の総意」と言い募るであろう。2014年7月1日の「集団的自衛権行使容認」の閣議決定はその典型例である。象徴天皇制は、戦後版「天皇機関説」である。権力が、改憲後の「国防軍」の観兵式や観艦式での「機関としての天皇」の観兵を決めたら天皇は拒否できまい。
現在、天皇制を否定する政党は国会には一つもない。日本共産党も、将来的には共和制を展望しているようだが、現在の天皇制を認めており存否は国民が決めるといっている。

《天皇制への積極的発言が必要である》
 天皇制は、敗戦直後にはイデオロギー闘争のなかで存在自体を問われたが、70年後のいまは定着している。中・長期的には、皇統の存続は可能かどうかという死活的な問題は厳存している。しかし明仁天皇夫妻に対しては、国民の大きな共感と相当程度の無関心が共存している。これが天皇制への今日の社会意識であろう。
天皇制の制度運用論などといえば、保守・リベラルの双方から、なにやら時代錯誤的と批判が出そうである。しかし、「戦後民主主義の嫡子たる天皇とその破壊者である安倍晋三」という構図は、制度運営の検証と改革なくしては持続不可能である。ペリリュー慰霊と戦争法案をみて私はそう考えるようになった。まだ思いつきのレベルである。しかし重要だと思っている。これで、長い「天皇夫妻のペリリュー訪問」は終わりである。(2015/05/21)
2015.05.25  天皇夫妻のペリリュー慰霊訪問(3)
          ―中野重治・安藤鶴夫・臼井吉見―

半澤健市 (元金融機関勤務)

《おい皆んなパラオ島帰りの兵隊をよく見ろ》 
作家中野重治(なかの・しげはる,1902~79)のエッセイ「冬に入る」にパラオの帰還兵が出てくる(月刊誌『展望』、1946年1月号)。正確にいうとパラオ帰還兵は、中野が引用した新聞投書に出てくるのである。投書は1945年11月4日の『東京新聞』に載った。安藤安枝という人が書いた「ある日の傷心」という文章である。長いが投書全文を掲げる。(■から■まで)

■十月三十日お茶の水の千葉行ホームに立って居りました私の耳に、異様などよめきと共に『おい皆んなパラオ島帰りの兵隊をよく見ろ』と大きな声が響き渡って来ました。私は内心敗戦したとは云え、兵隊さん達は懐かしい日本の地を踏みしめてどんなに嬉しそうなお顔をして居られるかと待兼ねました。電車に乗られるため後方ホームより、前方ホームに白衣も眩しく歩んでこられました。
然し眼前に見えた兵隊さん達のお顔は率直に申せば骸骨そのままです。即製の竹の杖を皆さんがつき、その手は皮だけで覆われ恐らくあの白衣の下の肉体も想像がつきます。新聞で読む栄養失調の兵隊さんの顔には白い粉がふいているとのことでしたが、目の前に見た兵隊さんの顔は誰も皆小麦粉を吹き付けた様な白さ、此の兵隊さんの姿を見て男の方も女の方達も声を上げて泣き出してしまいました。
此の様に兵隊さんの肉を削った戦争責任者は之だけでも重罰の価値がありましょう。この兵隊さんの姿を妻や子が親が見たらどんなでしょう。電車を待つ間にやっと私は兵隊さんに『御苦労様でした、大変で御座いましたでしょうね』と泣きながら申しますと、一人の兵隊さんが『いーやー』と心持ち首を動かしましたが、男の人の気軽さでいう声が出せないんです。
混雑するので思わず私は側にいた見知らぬ子供の手を引いて居りましたが、目の前にいた兵隊さんが不自由に手を動かし、鞄の中からお弁当箱を出して、蓋の上に乾パンを載せ、声も出ぬ儘私の手を引いて居ります子供に差し出されたではありませんか。子供は無邪気に両手を出しましたが、そのお子さんの母は『勿体なくて戴けません』と繰返し泣いて居りました。私は兵隊さんの御心情も察せられ『折角の兵隊さんのお心持故戴きましょうね』と戴きました。涙で見送る眼に白衣だけが残り、二両目に乗りましたが、車外では兵隊さんを御送りしょうと一斉に心からのお見送りをして居りました。
皆さんデモクラシー運動も大いにやって下さい。
婦選運動も結構でしょう。然しこう云った兵隊さんが各所に居られることを忘れないで心に銘記してからやって下さい。戦災死、戦災者の方達の上にも心を止めないことには、敗戦日本に与えられた只一つの有難い国体護持も道義滅亡によって無価値なものとなるでしょう。■

中野はこの投書に関して次のように書いている。

これが全文である。これを泣かずに読める日本人はあるまい。そうして安藤氏の兵隊にたいする気持ちも、すべての日本人に素直に呑みこめるだろうと私は思う。また、「デモクラシー運動」や「婦選運動」やが、こういう兵隊の存在と安藤氏の心持ちなどから多少とも離れたもののように安藤氏に映じていることもすべての人が素直に受けとるだろうと思う。そしてこのことが、独立の民主主義革命をとおしてでなしに、民主主義ないし民主主義への糸ぐちがいわば外から与えられたという国の歴史的実情に結びついている。

中野の文章の核心は、河上徹太郎の「配給された自由」論への批判であった。だから私の中野からの引用は、都合のよいところを切り取っているかも知れない。しかし今は、河上・中野論争に深入りしない。興味を感じた読者は、『中野重治評論集』(平凡社ライブラリー、1996年)の編者林淑美の解説にあたって欲しい。

《しまいに、声が出、それが慟哭になった》
 次の文章は、演劇評論家安藤鶴夫(あんどう・つるお、1908~69)が靖国神社の境内で感じたことを書いたものである(■から■まで。『わたしの東京』、求龍堂、1968年刊から一部を引用)。1945年秋、安藤は東京新聞記者として日本の伝統芸能の現状とその行方を取材していた。ある日、安藤は靖国の社務所にあった能楽協会を訪ねた。

■広い靖国神社の境内に、どこをみても、人っ子ひとりいなかった。
わたしには、つい、このあいだまでのことを考えると、一瞬にして、その、おなじ靖国神社が、こんなふうに変わってしまったように思われ、急に気持ちがわるくなって、立ちどまり、うしろをみた。うしろにも、まったく、人影がない。わたしは急に、この東京の中で、ひとりぼっちになってしまったように、こころぼそく、かなしくなった。そういえば、戦争が終って、一年ぐらいのあいだ、よく、わたしは、 そんなふうな、なんともいえない孤独感におそわれたものである。しかし、この時の、靖国神社のときほどの、さびしい孤独感はない。
(略)能楽協会の三宅襄さんが出てきた。三宅さんの頬が、がっくり、こけているのにびっくりした。なんだか、目ばかり、ぎょろぎょろしている感じだった。くらく、つめたい社務所へ上って、少し、ねばって、五時、ちかくまでいた。
そのあいだ中、誰ひとりとして、境内を歩いてきた者はなかった。と、いうことは、誰ひとり、靖国神社へおまいりをする者がいないということである。三時、四時、五時―、だから、ざっと、三時間ちかくも、わたしは社務所の、あけはなった窓から、境内が、はっきり視線の中に入る場所にいて、取材をしていたのだけれど、そのあいだ中、まったく、誰ひとり、通らなかった。
帰りがけ、三宅さんに、毎日、こんなふうに、誰ももう靖国神社に詣でるひとはいないのですか、と、きいたら、はい、マァ、そうですな、といった。
ひとりで、また、玉砂利を踏んで、神殿にぬかずいた。誰もいないので、誰に、遠慮も、気がねもなく、泣いた。しまいに、声が出、それが慟哭になった。■

《モトノモクアミに化していくのだろうか》
 評論家の臼井吉見(うすい・よしみ、1905~87)が1964年に書いた「戦没者追悼式の表情」というエッセイがある。政府主催の第二回戦没者追悼式(遺族会の要求で靖国神社で開催)に出る未亡人が、満面の微笑とともに、「感謝と感激でいっぱい、なんと申していいものやら、胸がつまって、言葉もございません」と答えているテレビ画面を、臼井が、みたこと、また、『あの人は帰ってこなかった』という新刊を読んだら、岩手県山村の一部落では、125人が出征して、32人の未亡人が出たこと、そして未亡人の一人が次のよう語ったこと、について書いている。「エヤ、戦争どう思うってすか? なに、やらねばならなくてやったんだべからナス。アン、仕方ねぇことだったべと思ってるナス。戦死した家、皆気の毒だったナス。オレばかりでなくナス。オレより苦労した人、まだいっぱいいるベモ」

臼井はこう続けている(■から■まで)。

■(あとの人は)靖国神社その他が出てこないうちだから、まさか感謝感激はしていない。だが、このあきらめぶりは、戦前と寸分の変わりもない。
十九年かかって、モトノモクアミに仕立ててしまったということ、これをすべて反動勢力のしわざにしてしまうわけにはいくまい。その勢力がものを言ったことを疑うものではないが、責任はむしろ革新勢力にあるのではないかと思われてならない。浮き足だって突っ走り、自分の金切り声に自分で酔い、口を開けば、ソレ戦争にナル、ヤレ戦争につながるの一点ばり、そのすべてが逆用されたといえば、言い過ぎであろうか。
適時に、ぬからずクサビを打ち込むこと、ここからは断じて後戻りさせないという、派手ではないが大事なクサビ打ちの仕事を革新勢力はやって来たかどうか。職業柄、日教組などは、その適任者のはずなのに、これがまっさきかけて突っ走ったのだから話にならない。
戦没者の慰霊祭などは、とっくの昔に、革新勢力の提唱で、国民の名において実行すべきではなかったか。その犠牲によって、日本が近代国家に生れ変り、軍国主義を捨て去ることのできたゆえんをはっきりさせて感謝するほかに、戦没者の霊を慰める道などあろうはずがない。しかるに、戦没者が、あたかも悪事を犯したかのようで、その遺族が、肩身の狭い思いをしなければならぬようなふんいきをかもしだしつつあったのは、どこのだれだったか。たまには胸に手を当てて考えてみるがよい。(略)僕は、先日来、テレビで甲子園の野球見物をしている。この選手たちは、すべて戦後の生まれとか。
あの残虐愚劣きわまりなかった戦争を、話としてしか知らない者どもが、ここまで育ってきたかと思うと感無量だった。こうしてすべては忘れられ、モトノモクアミに化していくのだろうか。まさか?■

七〇年前の二つ、五〇年前の一つの文章は私に突き刺さる。一人の共産主義者を含む彼らの文章にあるのは、おのれの内面から出た心情の表現である。イデオロギーが先行していない。実感がこもっている。大衆の目線がある。
心情や実感だけではない。状況の観察、政策の提言も的確である。敗戦の現実から目を逸らす精神、靖国への蝟集と靖国からの逃亡、モトノモクアミを自覚しない精神。総じていえば歴史の連続と断絶を正視しない心理構造。三つの文章はこれらを正確にとらえているのである。(2015/05/06)