2021.12.18 「ノモンハン事件」の最近の著作をめぐって
――八ヶ岳山麓から(354)――

阿部治平(もと高校教師)

 先日知人と日米開戦だの真珠湾爆撃だのを話していて、話題が「ノモンハン事件」に及ぶことがあった。私自身はこの「事件」をひと通り知っているつもりであったが、このとき、知人が紹介した本を自分でも読んでみようという気になった。
その本とは、鎌倉英也著『隠された「戦争」―「ノモンハン事件」の裏側』(論創社、2020)である。同書は同じ著者によるほぼ同名の書、『ノモンハン 隠された「戦争」』(NHK出版、2001)の復刊であり、その母体は、著者自身が制作にあたったNHKテレビ番組『ドキュメント ノモンハン事件~60年目の真実~』(1999.8.17放映)の取材記録である。
 このドキュメント放映以後、日本側から「ノモンハン」を見た半藤一利『ノモンハンの夏』(文春文庫 2001)や、おもにモンゴル人を語った田中克彦『ノモンハン戦争――モンゴルと満洲国』(岩波新書 2009)が出版された。以下述べることは、この秀逸の2冊の内容とないまぜになっているところがある。

 「ノモンハン事件」とは何か。
 それは1939年夏、日本の傀儡国家満洲帝国(中国東北部)と、当時のソ連支配下にあったモンゴル人民共和国(外モンゴル=現モンゴル国)の間で起こった、国境地帯の領有権をめぐる戦争のことである。その実体は日ソ両国間の戦争であった。
 この戦争を日本では「ノモンハン事件」と呼ぶが、ロシアとモンゴルでは「ハルハ河戦争」と呼ぶ。「ノモンハン」とは戦場近くにあった「ノモンハーニー・ブルド」という自然崇拝の小高い塚のことであり、「ハルハ河」とは国境紛争の的となった川の名である。
 日本がこれを「戦争」と言わずに「事件」とするわけは、天皇の命令のない「非公式」のもので、最終的にソ連・モンゴル側の領土要求を認め、敗北に終わった不名誉ないくさであったことにある。
 戦いは4ヶ月間であったが、双方大砲、戦車はもちろん爆撃機・戦闘機を繰り出す本格的な戦争で、日本・満洲国側の死傷者は全将兵3分の1、死者は1万8000という損害を出し、ソ連・モンゴル側もほぼそれに匹敵する多大な犠牲を出した。

 本書に戻ろう。鎌倉英也氏が「ノモンハン事件」に関心をもつきっかけは、1996年に急逝した作家司馬遼太郎の特集番組をつくるため、作家の書斎を訪れたときにあった。そこで見たひとつの段ボール箱には、「ノモンハン事件」の取材記録がぎっしりと詰まっていた。
 その後、1999年に鎌倉氏は思いがけず、ロシア軍事史公文書館がそれまで極秘扱いであった「ノモンハン事件」の関連資料を開示するというニュースを知った。氏はただちにモスクワに飛んだ。同行はカメラマン1名と録音マン1名、それにロシア語に堪能な政治学者1名である。現地ではこれに通訳兼渉外担当のロシア人1名が加わった。
 取材の目的は、その文書の中から、「ノモンハン事件」がなぜ国境紛争にとどまらず戦争にいたったか、背後にソ連とヨーロッパ列強のどんな力学が働いていたか、そして「事件」の教訓が生かされず、なぜ太平洋戦争に突っ込んでいったかを探ることにあったという。
 あらかじめ公文書館側が揃えてくれた文書は5万枚を超すと思われた。文書取材の予定期間は約10日である。大車輪で、1)戦争被害に関する文書、2)ソビエト軍の兵站・輸送戦略に関する文書、3)スターリンの極東戦略を証拠づける文書、4)日本軍捕虜に関する文書、5)スターリンの戦争評価を選び出した。ソ連軍中枢から発せられた重要文書、ソ連軍兵士の口述記録、翻訳された日本人捕虜の手記・遺書等々がこれらに含まれていた。

 2か月後、一行はモンゴル・ウランバートルに飛ぶ。そこでモンゴル人通訳の助けによって「ソ連・モンゴル友好条約」など外交機密文書を入手し、個人の体験談を聞き、さらに「モンゴル粛清博物館」を訪れた。粛清とは、ソ連がモンゴル人に下した酸鼻極める殺人のことである。
 翌月は旧式なロシア製ヘリコプターをチャーターし、8時間かけて「ハルハ河戦争」の戦場へ飛んだ。平原を撮るため、昇降口のドアを取り払い、搭乗者は命綱をつけての飛行である。荒れ果てた平原に残るソ連軍司令部の跡地は、平原が手に取るように見渡せる小高い丘の上にあった。対する日本・旧満洲軍の陣地跡は、どこへ後退しようにも隠れる場所のない低地にあった。降り立ってみれば兵器の残骸の山があり、地の砂には人骨とおぼしき白いかけらがまぎれていた。
 これらの記述に並走させて鎌倉氏は、日本国内のノモンハン関連文書も紹介している。それには、関東軍が開戦に踏み切った根拠とされる「下達」も含まれている。ノモンハンの希少な帰還兵への対面取材も行われたことがわかる。
 こうして得られた膨大な資料の山から浮かび上がるのは、局地的な戦争の背後にある大国の野心とかけひき、それにまきこまれたモンゴル人の悲惨さである。ソ連は満洲事変以降極東に侵出した日本を警戒し、満洲国に接する外モンゴルに対して露骨な支配を続けていた。そこではソ連の手によって、「ノモンハン」以前から「反革命」「日本のスパイ」といった罪名で、首相から僧侶、一般牧民に対してまで大量の政治的殺人(粛清)が行われていた。

 モンゴル・満洲間での国境紛争が起こるや、スターリンはソ連軍司令官を代えて鋭敏なジューコフを戦場に送り込んだ。彼は冷静な戦況分析を行うとともに緻密な作戦を立て、成功のためのあらゆる努力を注入した。
 対する日本参謀本部は、ロシア軍弱体という根拠のない憶測に立つ関東軍作戦参謀辻政信、服部卓四郎らを制御できず、「国境線明確ならざる地域においては、防衛司令官において自主的に国境線を認定して、これを第一線部隊に明示し、無用の紛争惹起を防止する(べし)」などと、事実上の独断専行をゆるす「下達」を発していた。
 その後の関東軍は、6月に参謀本部が発した作戦の自発的中止の要請?を無視したうえに、ソ連軍の戦力補強が驚くべき迅速さで行われていることもまた信じなかった。当然の結果として兵士たちは、悲惨極まりない運命を強いられた。
 わたしが心を打たれたのは、軍事史公文書館で発見されたロシア語に翻訳された日本人兵士の日記である。ソ連軍に圧倒され追い込まれた極限の状況は、読んで身に染みるものがあった。またかなりの兵士がソ連軍の捕虜となったが、中には「戦陣訓」の「生きて虜囚の辱を受けず」によって、日本側に帰らなかった人がいた。このドキュメントにはその人たちのその後もリアルに語られている。

 関東軍に関わる国内文書の幾つかの存在、ソ連とモンゴルの間で交わされていた友好条約(いうなれば二国間安全保障条約)の存在、日ソ両国の兵隊として動員され、あるいは粛清に突き進んでいく過程の様々な証拠、ソ連軍司令官の指令の記録、日本人捕虜が手記に残した苦しみ、生存者たちの生々しい証言等々は、動かぬ歴史の証拠として、特に私の心に残った。
 ここで特筆すべきは、このドキュメント作成に当たって鎌倉氏がすべてを実証的方法で語ろうと努力したことである。氏は復刊にあたって第9章を加え、「ノモンハン事件」が太平洋戦争の序曲であったことを述べるとともに、記録保存の重要性に言及した。
――「近現代史に関わるドキュメンタリーを制作していると、世界各国の様々な公文書館や資料館に取材する機会が多い。そこでしばしば驚くのは、自分たちに不都合だと思われる記録さえしっかり残されていることだ」
 そして、ついこの間おきた安倍政権による文書の改竄、隠蔽を列挙し、2013年に成立した「特定秘密保護法」を見る限り、この政権が国民や住民の「知る権利」に基づく情報公開に積極的とは言い難いとして、日本政府の情報閉鎖ぶりを批判している。本書は、この第9章によって、さらに価値あるものとなったと思う。
 私は、自分が視聴料を払っているNHKにも骨のあるジャーナリストがいるのを知ってうれしかった。同時に、いつも権力者よりのNHKがこうした歴史的事件の掘り起こしに多額の資金を投じたことを意外に思った。これはまれなことであろうか。
(2021・12・12)

2021.11.26  私の昭和16年12月8日
        -後楽園球場に出現した真珠湾-

半澤健市 (元金融機関勤務)

《「歳を取ること」とはなにか》
 「共有した記憶を語る相手がいない」。
それが「歳を取ること」だと私は感じるようになった。こんな当然なことを知るのに86年もかかった。嘗てこのコラムに、敬愛する先人が12月8日に何を感じていたかを私は書いたことがある。三人の日本人と一人のアメリカ人、即ち伊藤整・高村光太郎・三好達治・フランクキャプラについてであった。
しかしお前(=私)何を感じたのか。この自問に自答したい。

 1941年12月8日(月)に私は国民学校の一年生であった。とても寒い朝だった。
午前7時にラジオの臨時ニュースのチャイムが鳴り、館野守男アナウンサーが緊張した声で開戦のニュースを読んだ。時間にして38秒のテキストは次の通りである。
■「臨時ニュースを申し上げます。臨時ニュースを申し上げます。大本営陸海軍部、12月8日午前6時発表。帝国陸海軍は、本8日未明、西太平洋においてアメリカ、イギリス軍と戦闘状態に入(い)れり。帝国陸海軍は、本8日未明、西太平洋においてアメリカ、イギリス軍と戦闘状態に入れり。今朝、大本営陸海軍部からこのように発表されました。」

■音声は次のhttpsをクリックすれば聴取可能である。
(https://www2.nhk.or.jp/archives/shogenarchives/sp/movie.cgi?das_id=D0001400316_00000)

《私は巨大な真珠湾を後楽園球場で見た》
 私はこの放送をそのとき聞いただろうか。
人の記憶は日々修正され変化する。正直、私はそのニュースを聞いた気もするし、聞かなかった気もする。月曜日であったが校庭朝礼はあったのか。あったとして朝礼が終わってから私は授業を受けたのか。それとも直ぐに下校したのか。
東京都史のたぐいを一瞥したがその種の記事はなかった。

 当時、日々報道のマスメディアはNHKと日刊紙だけである。この第一声を皮切りにラジオでは終日、開戦・その詔勅・東条首相の演説・緒戦の勝利報告・軍艦マーチが続いた。
日刊紙は8日の夕刊で「開戦と勝利」を大きく伝えた。
夕刊の発行日記載は翌日付(現在もタブロイド夕刊紙は同じ)だったから、「9日付夕刊」、「10日付朝刊」から開戦と勝利の報道が始まった。人々は開戦勝利の「ユーフォリア(多幸感)」の渦巻きに埋没していった。勿論、私もそうである。

 私の記憶に強く残っているのは、真珠湾の巨大な「ジオラマ(立体模型)」を後楽園球場で見たことである。私のように「後楽園球場の真珠湾」を見て、今も存命している人間はそう多くないだろう。この70年間、私は真珠湾のジオラマのことを時々思い出して、調べようと思っていた。コロナ蟄居のなかで調べたことを書いておく。

 真珠湾攻撃から人々は何を連想するか。
私の場合、映画好きだったこと、母校「元町国民学校」が球場に近いこと、が「後楽園球場の真珠湾」は何だったのか、の探索理由となった。

《一億人が見た戦争映画『ハワイマレー沖海戦』》
 真珠湾といえば東宝映画・山本嘉次郎監督の『ハワイマレー沖海戦』である。
開戦一周年を記念しての映画公開は「国民的事件」であった。『昭和 二万日の全記録 第6巻・太平洋戦争』(講談社・1990年刊)は、戦争映画の代表作としてこの作品を紹介している。同記事の要点を次に掲げる。

■『ハワイマレー沖海戦』は1942年12月3日に公開され、大都市から地方へ広がった。大本営海軍報道部の企画で、東宝が七七万円という巨額を投じ半年かけて製作したが封切りわずか八日間で一一五万円の興行成績を記録した。海軍省の後援で全国の学生、軍需工場、婦人会などが動員され、占領地も含めると約一億人の人間が観ており、日本の戦争映画史上、空前のヒット作となった。
予科練(海軍飛行予科練習生)に入隊した一人の少年が猛訓練に耐え、一人前のパイロットに成長していく様子と、真珠湾攻撃、マレー沖海戦での活躍振りを記録映画風に再現した。映画には現役予科練生も出演し、予科練の人気は上がり、志願者が殺到した。

 この映画が戦争映画の傑作と呼ばれた理由は二つある。
一つは、円谷英二(つぶらや・えいじ)の特殊撮影技術である。観客の誰もが本物と信じた真珠湾攻撃やマレー沖海戦の場面は、真珠湾、戦艦、飛行機の精巧な模型と、動くクレーンからの特殊撮影が生み出したもので、圧倒的な臨場感を示した。
■東京世田谷の東宝第二撮影所につくられた1800坪のオープンセットは、爆弾で上がる水柱が最も効果的に見える大きさに設計された。撮影は飛行機を吊すだけでなく、移動するクレーンから撮ったり、回り舞台のようにバックの背景を動かしたりする特殊技術が駆使された。

 『後楽園の25年』(後楽園スタヂアム・1990年刊)には、東宝第二撮影所のセットはそのまま後楽園へ移設したと書いてある。両者の面積を調べてみたが、それは可能だったと考えられる。戦争映画の傑作と呼ばれた二つ目の理由は、この作品が全国民の「愛国心」を高揚させ、想定外の戦争キャンペーンが実現したからである。
私が見た「真珠湾のジオラマ」はこの移設セットであったろうと思う。

《小林一三と後楽園と元町国民学校》
 私の母校「東京市本郷区立元町国民学校(当時名称)」は、関東大震災の復興計画により昭和初期に東京に出来た52校のコンクリート建造物の一つであった。元町校は三階建で避難場所を兼ねた公園が併設された。校庭は堅く運動靴で走っても転ぶと、擦りむいた足が痛かった。学校と公園は高台にあった。元町公園は、適度の広さがあり砂場やジャングルジムなどの児童用遊具があった。展望バルコニーからは神田川とその土手が見え手前には路面電車が走っていた。国民学校の直ぐ隣に「桜蔭高等女学校」があった。現在は「桜蔭学園」となり東大女子学生の量産校として知られる。

 それなら私は後楽園球場をしばしば訪れたのか。そうではない。
1937年に発足した後楽園球場の経営変化は面白いエピソードに満ちている。
経営は、阪急電鉄など関西の都市近郊開発に新手法で成功した小林一三が主導した。
37年から戦後の1950年頃まで、後楽園スタジアムは、国家事業を含むさまざまなイベント会場として機能した。その一部を例示すれば、高射砲陣地、食料用野菜栽培畑、兵器集積場、大相撲会場、スキー競技場(雪持ち込み)、サーカスやプロボクシング競技会場、内外著名タレントのエンタメ会場などである。

 上記の1942年12月の行事「大東亜戦争一周年記念映画報国米英撃滅大展示会」はその一つであった。昼は真珠湾ジオラマの展示、夜は大スクリーンで『ハワイマレー沖海戦』の上映が行われたのである。

 重要な余談として、この展示会について追記したいことがある。
真珠湾攻撃で活躍した海軍空母は(赤城、加賀など)主力4隻が、42年6月のミッドウェー海戦で米軍に沈められ、観客が展示会に熱狂した時には既に海底の藻屑だったことである。大本営の戦果発表は次第に透明性を欠き、今様にいえば「フェイクニュース」が多く連合艦隊の壊滅を国民が知ったのは45年の敗戦後である。私は大人から、連合艦隊は秘密基地に隠れており最後の日米決戦で米機動部隊を全滅させるのだという話をよく聞いた。そしてそれを半ば信じていた気がする。

《「それでどうした」では済まない今である》
 ここまで『ハワイマレー沖海戦』の回想を述べてきた。読者は私に「それがどうしたso what?」と問うであろう。
《「共有した記憶を語る相手がいない」。それが「歳を取ること」だと私は感じるようになった》。こう私は書いた。しかし、これは極私的な懐古趣味の表現に過ぎないのかも知れない。そこで拙稿に対する読者の率直な意見を是非知りたい。誤りがあったら指摘して欲しい。最近、私の出稿は多くないが、老骨に鞭打って書いているつもりである。同人諸兄および読者と意見交換をしたい。反応いただければ有り難い。(2021/11/22)
2021.11.12 初めてオンライン会合に

        ─「大風呂敷」を広げた私の発表─

半澤健市 (元金融機関勤務)

《初めてオンライン会議に参加》

 2021年10月下旬に私は、初めてオンライン会議に参加した。
 会議の中身は、元の勤務先同僚との少しは知的なダベリ会である。参加者は数名だが、初参加の私が発表者だった。
 「近代150年の日本資本主義を総括する」大風呂敷なテーマで私は話をした。総選挙の争点が、短期かつ矮小なことへの、批判のつもりであった。たまたま私が読んでいた『日本の現代』(鹿野政直著、岩波ジュニア新書、2000年刊)が同じテーマを、近代史家の視点で、取り上げていたのが良い資料になった。

 鹿野は、日本近代150年を三運に区分して総括している。
 「鹿野総括」に対して、三区分の各期間に関して、私(半澤)は自説に基づく「日本資本主義の」特長を「説明」した。本稿はその会合で半澤が使用した資料の再現である。

《鹿野総括プラス半澤説明》
 それは次のように展開した。
 鹿野総括 (1)19世紀後半 日本は近代国家を樹立した(アジアで唯一植民地化せ
         ず)。

 半澤説明  19世紀後半 日本資本主義の特徴
    A 日本は農業国であった。←本稿末尾の別表①参照
    B 「脱亜入欧」と「帝国主義」
 立憲国家として発足した日本は、「脱亜入欧」、「帝国主義」を国是とした。自由民権運動は、国権(ナショナリズム)運動に絡めとられ、官憲の弾圧に屈して伏流化した。
鹿野   (2)20世紀前半 日本は、軍事大国を実現したが、帝国主義戦争に敗北して
       壊滅した。

半澤 A 戦争は儲かるものという認識
 列強に仲間入りした日本は、日清戦争(1894~1895)勝利による巨額賠償金獲得と第一次大戦期の貿易黒字により、対外債権国となり「戦争は儲かるもの」という認識をもつに至った。
    B NYの株価暴落に発する「1929年大恐慌」←別表②参照
 資本主義諸国は、公共投資と軍備増強の有効需要創出により、不況からの脱出を図ったが、状況は長期化して、第二次大戦の開戦につながった。
    C 日本型ファシズムの成立
 不況対策は、ザックリいうと民需拡大の主要欧米諸国と軍需軍拡の日独伊とに分かれた(連合国と枢軸国)。日本は、軍部によるテロ、クーデタ未遂を経て、統制的軍事国家となった。併せて言論圧迫による「神国日本」という偏狭な国産イデオロギーが民主主義・自由主義を沈黙させた。

鹿野   (3)20世紀後半 敗戦国日本は、経済大国を実現した。
半澤  A 時代背景の変貌
 時代は東西冷戦・米ドルの打ち立てた世界・産業資本から金融資本の時代へと変貌した。冷戦は社会主義陣営の崩壊に終わったが、資本主義の勝利を意味したものでもなかった。
    B 新自由主義の登場
 第二次大戦が生んだ「福祉国家」は、資本コスト増加によるスタグフレー ションをもたらした。資本主義諸国は「大きな政府から小さな政府へ」と カジを切った(新自由主義)。この「市場原理主義」採用に遅れた日本は、「失われた30年」という日本近代最長の不況を体験している。鹿野の「経済大国」認識は満点だとはいえないであろう。
半澤   (4)21世紀前半に関する日本資本主義の核心はなにか
 鹿野は21世紀前半に言及していない。多くの識者の現状分析・予想は混沌としており、半澤コメントは下記のような「問題提起」にとどまらざるを得ない。
    A 「世界経済」 新自由主義は軌道修正できるか。 
 米中二大国は基本的に新自由主義を踏襲している。人間の欲望に根ざしたこのイデオロギーのしぶとさをどう評価しどう対応していくか。
    B 「国際政治」 東アジアの国際緊張のゆくえは。 
東アジアの軍事緊張が増大している。「日米同盟」深化は、対米従属と集団的自衛権行使(同盟国への敵攻撃に米軍指揮下に、自衛隊が支援戦闘)を現実にしつつある。だが国民にはその認識も危機感もない。
    C 「国内政経」 野党はなぜ自公政権を倒せないのか 
 民主主義の失敗─ファシズム化─は克服できるだろうか。安倍政治以後の「負の遺産」は戦後最悪の政治状況だが、国民は総じてアナーキーで 冷笑主義的な心情に沈潜している。

《オンライン会合参加者はどう反応したか》
 私の発言は近代日本史の「おさらい」と受け取られ、問題提起は大きすぎて 現実的でないと認識されたようである。時間制限もあり議論は少ないうちに会合は終わった。
 次回11月22日は「米中関係」、「対中政策」を議論することになった。
 中国の対外強硬姿勢に対して、メンバー諸氏に大きな対中反発があり、私を含む少数のハト派は旗色が悪くなりそうだ。「蟷螂の斧」は降ろさないつもりであるが。


別表① 19世紀後半 日本の産業別人口構成比

        第一次産業  第二次産業  第三次産業
1887(明冶20)年  72%  13%    15%
参考1936=昭11 45   24      31 
参考1971=昭46   16   35               48 
  
1887年の第二次産業の比率が低くみえるが、政府は国営事業の企業化・民間への払下げに注力した。その内実は軍需産業とインフラ構築であった。即ち第二次産業の主内容は軍需関連である。


別表② 20世紀前半 大恐慌前後の経済指標の変化                           
                 (1929=100)
数字単位は%。()内の数字は西暦年の下二桁を示す。

■卸売物価    日本69.6(31) 米国68.0(32)
           同 92.5  (35)  同 83.9(35)
■鉱工業生産     日本91.6(31) 米国53.8(32)
           同141.8 (35)    同 75.6(35)
■輸出金額      日本37. (32)  米国24.8(33)              
           同 57.2 (35)  同 26.4(35)
■輸入金額    日本38.2 (33)    米国 24.1(35)
                   同 52.5 (34)  同 32.7(35)

 勿論、上記以外に多様な指標がある。
 大恐慌における不景気の日米比較を一筆書きで表現すれば、物価は日米とも30%の下落、鉱工業生産は日本で10%、アメリカで60%の低下を示した。世界貿易金額は34年に65%の低下をみた。この「不景気」が数年間続いた。21世紀前半の生存者には想像力を駆使しても実感しにくい数字といえよう。
(2021/11/05)
2021.07.31 「文春リアリズムはいま――池島信平と大岡昇平」

半澤健市 (元金融機関勤務)

《天皇の戦争を戦った二人の一等兵》
 7月1日の拙稿で私(半澤)は、文春リアリズムを「野次馬精神」と「ファクト発掘」という二つの魂の合成品ととらえ、半藤一利の例を挙げた。
 今回は文春編集者としてもう一人池島信平(1909~1973)の場合を書きたい。池島が死の前年に『レイテ戦記』の作家大岡昇平(1909~1988)と対談したものをテキストとする。(「新刊展望」誌・72年3月号、ここでは大岡昇平著『戦争と文学と』、文春学芸ライブラリー・2015年刊より引用)

 二人は、天皇の軍隊の最下層の兵士として、大東亜戦争を戦った。池島は、1944年「文藝春秋」編集長のときに招集され横須賀海兵団、北海道千歳第二基地海軍一等水兵して教育され青森で終戦を迎えた。大岡も44年に招集されフィリピンで陸軍一等兵として暗号兵となった。45年1月レイテ島南部で米軍捕虜となったが同年12月に帰国した。

《人間が見てはいけないものを見た》
 池島は大岡にこう語っている。
 大宅壮一賞の候補になったビルマ生き残りの軍医の手記があった。そのなかで軍医は生き残って帰国した少数の兵隊の話を書いている。軍医はそれらの兵隊と仲良くなり帰国後も文通をしていた。
 「百姓だった兵隊はお盆になるとできたものをいろいろ持って軍医のところに遊びにきて一杯飲んで機嫌よく帰る。それが十年目か何かのとき来ないんですよ。すると、おかみさんが同じようにトウモロコシや何かを持ってきて<何だか分からないが、実はお父ちゃんが急に自殺した>という。」

 「戦後とても幸せに暮らしていて、子どもを四人も五人もつくるんですよ。それがポックリ自殺するんだね。そこまで戦争というものの傷は深いんだね。つまり戦争の本当の姿というものは人間が見ちゃいけないものを見るわけでしょう。神さまとか悪魔が見るものを人間が見ちゃったということでしょう。」

 「見たということは心の奥深く焼き付いている。ふっと死にたくなると、分かるなァ‥‥。僕らは別に戦争をやったことがないけれども、軍隊の生活で本当にいやだったことは、いまでも妻子にいえないもの、恥ずかしくて、自分のいやらしさとか卑しさに、うんざりするな。理不尽なことにも頭を下げたことがたくさんあるでしょう。最下級兵士なんか、そうしなければ生きていけないのだから。」

≪なぜそのとき「戦争反対」をしなかったのですか》
 戦争が人間に与えたキズの大きさについて大岡も同意を示している。さらに大岡は過ぐる戦争の大義について批判する。
「大義名分がないということが、このまえの戦争で一番あわれなことだったから‥‥。そうだな、やっぱり戦争はしちゃいけないよね。こんどの自衛隊だって、またどういうことになって、どういうふうにして戦争をしなければならないかもしれないけど、大義名分はちょっと見つからないと思うよ。(笑)」

 「日本は明治からずっと外に出てやっているでしょう。自然にいろんな悪い習慣がつもっていたのを内地でやらなかったことは一度もない」

 二人の対話は池島の発言によって次のように結ばれている。
 「だけど、元一等兵と元一等水兵がいくら言ったってしようがないのだ。(笑)
 しかし、若いものに、もう戦争がいやだとかなんとか言ったって、ピンとこないから困るな。それが逆になってくると、概念として「戦争反対」と連中が言っているが、それも困るねぇ。だけどそれは経験しないものには無理だからねえ。へたすると「なぜそのとき戦争反対をしなかったんですか」と言われちゃうんだ。連中の議論というのは前提をふっとばしちゃうんだからね。(笑)」

≪300年に一度の事件かも知れない》
 二人の対話を読んで私は、この50年で我々はずいぶん遠くへきたものだと感ずる。二人が危惧していた戦争体験の風化は現実となったように思われる。

 人は、E・H・カーの「歴史とは過去と現在との対話である」というテーゼを批判なく受け入れてきた。しかし対話者の一方は「現在」である。カーの世界では日々歴史の修正が起きているのである。
 私は「文春リアリズム」を自己流に論じてきたが、カーの歴史修正主義――とあえて呼ぶ――に気がついたことに自分で驚いている。21世紀初頭の言論の変貌は、近代300年に一度の事件といえる気がする。(2021/07/19)
2021.04.18 「関東防空大演習を嗤う」から88年
―半藤一利の「遺言」に共感する―

半澤健市 (元金融機関勤務)

 1933年の関東地方防空大演習に当たり『信濃毎日新聞』主筆の桐生悠々(きりゅう・ゆうゆう)は「関東防空大演習を嗤(わら)う」を書いた。その一部を次に掲げる。

■将来もし敵機を、帝都の空に迎えて、撃つようなことがあったならば、それこそ、人心阻喪の結果、我はあるいは、敵に対して和を求むべく余儀なくされないだろうか。なぜなら、この時に当たり、我機の総動員によって、敵機を迎え撃っても、一切の敵機を打ち落とすあたわず、その中の二、三のものは、自然に我機の攻撃を免れて、帝都の上空に来たり、爆弾を投下するだろうからである。そしてこのうちもらされた敵機の爆弾投下こそは、木造家屋の多い東京市をして、一挙に、焦土たらしめるだろうからである。いかに冷静なれ、沈着なれと言い聞かせても、また平生いかに訓練されていても、まさかの時には、恐怖の本能は如何ともすることあたわず、逃げ惑う市民の狼狽目に見るがごとく、投下された爆弾が火災を起こす以外に、各所に火を失し、そこに阿鼻叫喚の一大修羅場を演じ、関東大震災当時と同様の惨状を呈するだろうとも、想像されるからである■

《黒い物体と白い物体―私の空襲体験》
 初の東京空襲に私が遭ったのは、1942年4月18日であった。
私は、国民学校(当時の「小学校」の名称)2年生であった。

その黒い物体は、自宅正面の美容学校の向こうに現れ、正体が確認できないほどの速度で私の頭上を飛び去った。少し遅れてドンドンという重い音を聞いた。それが、洋上空母から飛び立ち東京・名古屋・神戸など5都市を奇襲した陸軍爆撃機B25の一機であり、後楽園内の高射砲陣地からの対空射撃と知ったのは、後日のことである。

私が二回目に東京空襲に遭ったのは、1944年11月始めであった。マリアナ基地からのB29初の偵察飛来である。それは11月24日に始まった東京爆撃の準備行動として1日に始まった。私がこれを見たのが1日だったかどうかはわからない。その後、自宅の地下に掘った防空壕で聞いたのは、恐怖を与える空爆音であった。日本軍の高射砲や迎撃戦闘機が打ち落とせない、高度一万メートルを行くB29は、1942年に見た黒い物体でなく、透明に見える白い物体であった。

《焼夷弾爆撃―カーチス・ルメイの新戦術》
 このように始まった東京空襲は当初、軍事施設・軍需工場を高々度からの精密爆撃で破壊する戦術によるものだったが、ワシントンはこれを不成功とみなした。そこで木造家屋の密集した都市を焼夷弾により無差別爆撃する方針に変更した。45年1月のことである。マリアナ基地のハンセル司令官はカーチス・ルメイに代わった。
初の焼夷弾作戦は1月3日の名古屋空襲であった。その被害は死者48名、負傷者85名、罹災者1万名に達した。上空3000メートルから火の海と降り注ぐ焼夷弾の攻撃を初めて経験し市民は大きな恐怖を抱いた。一方、敵機が低空に飛来したので戦闘機と高射砲は邀撃体制が容易となり敵機に大きな損害を与えた。ルメイは短期間、この焦土化作戦を中止している。

桐生悠々は「まさかの時には、恐怖の本能は如何ともすることあたわず、逃げ惑う市民の狼狽目に見るがごとく(略)各所に火を失し、そこに阿鼻叫喚の一大修羅場」を演じ」「関東大空襲当時と同様の惨状」と書いたが、それが正に現実となったのである。


《「関東防空大演習を嗤う」から88年―半藤一利の遺言》
 「関東防空大演習を嗤う」から88年が過ぎた。
その間に科学技術は、核戦争が勃発すれば世界が破滅する水準に達した。しかしその危機を制御する、政治や経済の技術は、一向に進歩していない。現に、一人当り世界上位11位目の米国(57,804ドル=2016年)が、同世界下位17位の北朝鮮(661ドル)からの恫喝を、無視することができなくなっている。変わった面と変わらなかった面とが併存している。アウシュビッツと広島を示現した人類に、理想は語れるのかといわれたのは、20世紀中葉であった。それから百年近くを経た今もこのニヒリズムは、人類の胸底に深く沈んでいる。

その実証主義で「歴史探偵」を自称した故・半藤一利は、10代後半時に敗戦を迎えた。当時の「大人」の言動を見て、半藤は「絶対」という言葉を使わないことを誓った。彼らの言動が「鬼畜米英」から「民主主義」へコロリと変わったからである。
敗戦時に国民学校4年生だった私は「絶対」使用の当否をいう知識も学識もなかった。

戦後日本の「平和と不戦」は、日本を「西側のショーケース」として保護した米国と「若者を再び戦場に送るな」といって「反戦平和」をうたった大衆の、「綱引き」の上に辛くも成立した、と私は考えてきた。
その「綱引き」は終わった。米ソ対立から米中対立への変化、戦争体験者の絶滅危惧種化によってである。米国は自衛隊による集団自衛権行使と米製兵器購入を、日本は改憲による対米従属の強化を行っている。それは「日米同盟の強化」の名の下に加速している。

《昭和史と戦争体験と「絶対」の発声》
 半藤一利は、90年前後から実証的な「昭和史」を語り且つ書くようになった。
数年前からは、「絶対」という言葉を使うようになった。ルメイ司令官による、45年3月の無差別焼夷弾攻撃という残虐な東京空襲の体験を語るようになった。見事な絵筆使いで自ら書いた絵本も出版している。

21年1月30日にNHK・ETV特集で放映された「一所懸命に漕いできた~〝歴史探偵〟半藤一利の遺言」で発せられた半藤の言葉に私は打たれた。東大ボート部の選手として隅田川を生活の原点とした彼の遺言は、私の言いたいことを良く表現していると感じた。遺言は次の通りである。(一部を抜粋)

■「あのときわたくしは焼けあとに
 ポツンと立ちながら
 この世に〈絶対〉はないということを思い知らされました」
 
「絶対に戦争は勝つ
 絶対に神風はふく
 絶対に日本は負けない
 絶対に自分は人を殺さない
 絶対に・・・絶対に・・・
 そのとき以来わたくしは二度と絶対という言葉をつかわない
 そう心にちかって今日まで生きてきました

  しかしいま
  あえて〈絶対〉という言葉をつかって
  どうしても伝えたい
  たったひとつの思いがあります

  戦争だけは絶対にはじめてはいけない」■

ジャーナリズムという「生き馬の目を抜く世界」に生きた人間が、「反戦」を理想として最後に選んだ重さをかみしめたいと思う。(2021/04/11)

2019.04.13 天皇と元号の更新は“新時代”なのか
―「時代」はもっと広義、現実の日本の何が変化したのか

坂井定雄(龍谷大学名誉教授)

9日朝のNHKニュース、政府が高額紙幣の更新を決めたことを「新しい時代をことほぐ狙いがあるものとみられる」と報じていた。NHKに限らず、民放も新聞も、新天皇が即位し、新元号「令和」が施行された際に、新聞も放送も、「新たな時代」をもっと騒ぎ立てるのではないか。
いうまでもなく憲法では、「天皇は日本国の象徴であり日本国民の統合の象徴であって、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基づく。(第1条)」、「皇位は世襲のものであって、国会の議決した皇室典範の定めるところにより、これを継承する」(第2条)、「天皇は、この憲法の定める国事に関する行為のみを行い、国政に関する権限を有しない」(第4条)など8か条が定められている。
しかし、元号については、憲法にはなく、元号法(昭和54年制定)で「元号は政令で定める」とあるだけで、前回 、今回のように内閣が決定したのち、その元号を公表した翌日から施行されることになっている。
憲法で国家の公式暦日を西暦にするか、固有の和暦にするかを全く記載せず、下位の政令で定めたのは、世界では他に例のないという。もちろんイスラム諸国のように、西暦を公的には使用しながら、宗教歴も使用する国はあるが、それは宗教行事の場合などに限られている。日本では第2次大戦敗戦後、現行憲法を制定したさい、なぜ、西暦と和暦の併用にしたのか。おそらく、西暦一本化の主張に和暦使用を固執する保守派が強く抵抗し、一本化はできなかったのだろう。
いずれにせよ、現行法のもとで、天皇が崩御し、後継天皇が即位して、元号が変わっても、それによって政治も、社会も、国民生活も文化も変化するはずがない。
それなのにマスメディアが、「新時代」だとか、「時代が変わった」と騒ぐのは怪しい。時代の意味を勝手に変えるな!歴史学もマスメディアも、日本史時代区分を下記のように、区分してきたはずだ(ウイキペディアによる、西暦)
旧石器時代: 数十万年前―約1万年前
縄文時代:  約12000前―紀元前3世紀
弥生時代:  紀元前3世紀―紀元3世紀
 古墳時代:  3世紀後半―8世紀初頭
 飛鳥時代   6世紀末―710年
 奈良時代   710年―794年
平安時代   794年―1185年
鎌倉時代   1185年―1333年
南北朝時代  1336年―1392年
室町時代  1336年―1573年
戦国時代  1493年―1573年
安土桃山時代 1573年―1603年
江戸時代  1603年―1868年

明治時代  1868年―1912年
大正時代  1912年―1926年
昭和時代  1926年―1989年
平成時代  1989年―2019年

上記のように、時代は、江戸時代まで特定の天皇の在位した期間を指すわけではない。明治以降はそれぞれの天皇の在位期間となったが、新天皇の就任で国と国民生活にかかわる重要な何かが変わってはならないはずだ。せいぜい紙幣のデザインを変えるのも、麻生財務大臣は、天皇が変わったためだ、とは言わなかった。最初に紹介したNHKの「新しい時代をことほぐ」などということを、麻生大臣はさすがに口にしなかった。
新時代などと、はしゃぎたてるのは感心しない。それだけの変化は何もないではないか。ウイキペディア(今日現在)の「時代」の記述を紹介させていただく。苦労して書いているようだが、本来の時代区分以外に、「平成時代や昭和時代は、天皇の在位によって区分されている」と扱っている。

ウイキペディア(2019.4.19)
時代(じだい)とは、時間の継続性の観点で特徴を持った1区切りを指す。観点によって様々な使われ方がある。
歴史の分野では、政治や社会の形態の変化によって時代を区切る(時代区分)。国家体制が明確になっている時代であれば、政権の在処の変遷によって時代を区分する。日本の江戸時代、鎌倉時代などは当時の実質的中央政府である幕府の所在地を時代の名としている。飛鳥時代のように権力者にとって主流な文化として体系化され、普及し、栄えていた文化を時代の名とする場合もある。
平成時代や昭和時代は、天皇の在位によって区分されている(一世一元の制)。
それ以前の歴史(先史時代)では、生活の状態を規定する道具を持ってその生活状態を代表させ、時代の名としている。旧石器時代(打製石器)や弥生時代(弥生土器)等がその例である。時代の名としては使わないが、石器、青銅器、鉄器などの使用も時代を分けるものと見なされる。同様に、広い範囲に影響を与えるような道具や機械などによって時代を分けることもある(テレビの時代など)。
より古い時代は、地質学の分野であるが、そこでは代と紀を用いて体系的に名前を付ける。ただしやや通俗的に上記のような、たとえば恐竜時代といった表現は存在する。
その他にも、象徴的な事柄や社会の情勢、流行、栄えたもの、あるものの幕開けや区分、終わりを「時代」と表現する場合がある。また、最近では、通俗的な表現にとどまってはいるが、ファッションなどの風俗の在り方で時代を区切る考え方も普及している。

2018.10.11  柳条湖事件記念日に思ったこと
          ――八ヶ岳山麓から(267)――

阿部治平 (もと高校教師)

今年9月18日の柳条湖事件(「九一八」)記念日は、日本ではどこにも記念行事はないけれども、中国でもあまり盛大ではなかったらしい。瀋陽市の「九一八歴史博物館」で約1000人が参列して記念式典が開かれたが、最高指導部は出席しなかった。現在日中関係の改善基調が続いており、習近平指導部は対日批判を抑制したとみられるという(時事2018・09・18)。
今年中国の記念行事が抑制的であったとしても、わたしは9月18日をむかえると、何かをいわずにはいられない気持になる。
いまから87年前の1931年9月18日、日本関東軍は中国遼寧省奉天(現瀋陽)近郊の柳条湖付近の満州鉄道を爆破し、これを中国軍によるものとして、ただちに満洲(遼寧・吉林・黒竜江の「東三省」)領有をめざす軍事行動を起した。満洲事変である。謀略の首謀者は板垣征四郎、石原莞爾ら関東軍高級参謀である。
満洲防衛の中国側責任者は、国民政府東北辺防軍司令の地位にあった張学良(1901~2001)である。彼はいったんは抗日を主張し、不満を持ちながら国民党蒋介石の「まず中国共産党を殲滅してのち日本と戦う(先安内後攘外)」という方針に従って東北軍を西に退かせた。
その後のことは去年「八ヶ岳山麓から(236)」に書いたのでくりかえさない。

馬占山(1883~1950)という土匪上がりの軍事指導者がいた。彼は張学良と違い、蒋介石に従わなかった。馬は吉林省懐徳県の貧農の子であった。少年時代に家出し土匪の群れに入ったが、その利発さからたちまち小集団の指揮者となった。
辛亥革命後治安が混乱するなか、自衛武装組織が満洲各地に生まれた。彼らは一種の任侠集団であり、守備範囲の郷村ではその務めを果たすが、外に出るとしばしば略奪、誘拐にはしった。これを中国では「土匪」というが、日本では匪賊とか馬賊という。区別はし難い。
日露戦争(1904~05)後、懐徳県の彼の馬賊集団は清朝に帰順した。彼は他の「土匪」討伐に功があって清朝正規軍の指揮官(少尉)となった。辛亥革命後は大小の武装集団を吸収して自軍に加え、戦功によって順調に出世し、26年には騎兵第17師団長、翌年には騎兵第2軍団長に昇進した。
1928年張学良の父張作霖が関東軍に列車を爆破されて死んだとき、彼の上官呉俊陞も犠牲となった。彼は号泣して親切だった上官の死を悼んだ。張作霖の地位を継いだ張学良によって、彼は黒竜江沿岸の黒河備司令官に任命された。対岸はブラゴベシチェンスクである。
1931年日本関東軍は、柳条湖事件発生とともに迅速に遼寧・吉林両省を制圧したが、黒竜江省攻略はソ連と国境を接するため慎重になった。さいわい洮遼鎮守使張海鵬が日本側についたので、彼の部隊武器を援助して軍事行動を起させた。

九一八以降、張学良は北京で情勢を観望していた。だが馬占山は黒竜江省軍総司令官に任命されるや、黒河から南下し、10月19日省都チチハルに到着した。張学良の東北軍がほとんど無抵抗で退却して、中国人を落胆させたのに対し、馬占山はチチハル防衛、抗日の旗幟を鮮明にした。
10月26日張海鵬の3個連隊が戦略拠点の嫩江(どんこう)鉄橋対岸に近づいたとき、これに砲撃を加えて満州事変最大の戦い「江橋抗戦」を開始した。馬軍はこの戦いに勝利して、抗日を望んだ中国人の熱い期待に応えた。
しかし関東軍が本格的に参戦すると、武器などの補給が得られないなか、馬軍はじょじょに敗北をかさね、残存部隊2万は海倫に後退した。関東軍は匪賊上がりの張景恵を傀儡の黒竜江省省長とし、馬占山にも帰順すれば高官として処遇すると誘ってきた。張景恵はのちに満洲国国務総理となった人物である。
1931年末馬軍が関東軍に包囲されるなか、翌年1月には錦州が陥落、満洲全体が日本の手に落ちた。馬占山は孤立し屈服を迫られた。そして彼は屈服した。32年2月にはチチハルで満洲国黒竜江省省長に就任して抗日を切望する中国軍民をいたく失望させた。

ところが彼は40日足らずで、再び抗日の道に還ったのである。なぜか明確な理由はわからない。日本の傀儡となった満洲国高官らの醜態、日本人の傲慢さに嫌気がさしたともいうし、息子の父の変節を咎める手紙がきっかけともいわれる。
32年4月彼はひそかにチチハルを脱出して黒河にもどり、各地の義勇軍、救国軍、「大刀会」といわれる集団、つまり馬賊・土匪の類もふくめた愛国勢力を結集して抗日連軍を作り、5月には再び抗日に決起した。
馬軍は、一時はハルビン郊外に迫る勢いだったが、7月関東軍との3昼夜にわたる激戦ののち敗走した。このとき関東軍は馬軍指揮官韓家麟が戦死したのを馬占山と誤認し、これを昭和天皇に上奏した。
馬軍兵士らはすでに疲労困憊していた。やむをえず1932年12月彼らは黒竜江を渡りシベリアに入った。部隊の一部は新疆へ行ったが、馬占山はその後ヨーロッパ、シンガポールを経由して33年6月上海に上陸した。馬占山生還のニュースは日本軍を驚かせ当惑させ、中国人を喜ばせた。
35年12月には学生の「一二九抗日救亡運動」が起きた。蒋介石が日本の侵略に妥協するたびに中国では反対運動が起きてきたが、これはそのひとつである。
36年馬占山は西安にゆき、張学良、楊虎城に歓迎された。だが彼ら二人はその2日後の12月12日蒋介石を軟禁し、敗北主義を捨て抗日に立上るよう要求した。いわゆる西安事件である。
1937年7月7日盧溝橋事件が起きた。戦火は中国本土に拡大した。馬占山は東北挺進軍司令官となり、8月山西省大同に司令部を置いたが、9月には大同が陥落した。彼が東北に帰ったのは、1945年に日本が無条件降伏をしてからのことであった。
48年彼は病のため北京に行った。国共内戦に中共が勝利すると、馬は人民解放軍の北京無血入城のために尽力し、1950年11月29日一生を終えた。

今日中国の近現代史では、光はおもに中共系の人物とその行動にあてられている。たとえば東北における抗日ゲリラの指導者、中共党員の楊靖宇(1905~1940)は、1940年2月関東軍に追い詰められて長白山(白頭山)中で戦死した。抗日英雄として彼を記念し吉林省には靖宇県がある。
だが国民党系の軍に属したものは抗日戦に参加しても、文化大革命期には迫害を受け、悪ければ殺された。文革終了以後、馬占山系の元抗日兵士らはどんな扱いを受けているだろうか。いまも日陰者だろうか。
10万の東北軍兵士は東三省から山西、陝西へ退いた。彼らは抗日を望んだが、蒋介石の「剿共(中共殲滅)」作戦に動員され、陝西省を中心に中国各地を転々とした。西安事件以後は張学良という指揮者を失い、国民党からは厄介者として分散され消滅した。中共支配下で、彼らもまた迫害されたのだろうか。
故郷をしのんで彼らが歌った歌はせつない。

わが故郷はスンガリー川(松花江)の彼方
はるかなる黒龍江のほとり
懐かしい小さな家
粟黍、大豆、高粱
……
父よ、母よ
幼い弟、妹よ
また会えるのはいつの日か
また小さな部屋で共に暮らせるのか
(J.バートラム『西安事件』太平出版社、1973年)
(2018・09・29記)
2018.09.01  関東大震災 我孫子の虐殺事件
   韓国通信NO569

小原 紘 (個人新聞「韓国通信」発行人)

東京都の小池知事が昨年に続き、関東大震災で虐殺された朝鮮人犠牲者追悼式に追悼文を今年も送付しないと明言した。朝鮮人虐殺があったかどうかはよく「わからない」と語り、明白な歴史事実を認めようとしない歴史改ざんの主張だ。
NHKも9月1日は『防災の日』と決め込んでいるようで、小池知事と五十歩百歩みたいなもの。1923年9月1日に起きた震災は夥しい死者と家屋の倒壊、火災による大被害をもたらした。しかし大震災でのドサクサに紛れて6千人を超す朝鮮人と大杉栄ら社会主義者たちを虐殺した事件は忘れられがちだ。

この通信で紹介した『行雲流水』(石山照明著)では主人公喜八郎が目撃した朝鮮人虐殺の生々しい現場が語られていた。群馬県藤岡警察署に連行された朝鮮人17名が自警団の日本刀で殺される一部始終を喜八郎少年は火の見櫓から見た。朝鮮人虐殺が群馬で起きていたという意外な事実に驚いた。
図書館で千葉県我孫子でも三人の朝鮮人が殺された事件を知った。意外というより自分が住んでいる小さな町で起きた事件だけに衝撃的だった。事件は震災の翌日、我孫子駅から200メートル鼻の先のところにある八坂神社で起きた。毎年盛大に夏祭りが行われるので市民で知らない人はいない。
   八坂神社
              <八坂神社/事件現場>

手賀沼の美しさに引き寄せられるように、大正期に柳宗悦夫妻、志賀直哉、武者小路実篤ら白樺派の文人たちが住んだ。神社前にも彼らの住居跡の「みちしるべ」が見える。白樺派の町我孫子は市民たちのささやかな「誇り」になっている。この町の持つイメージとあまりにもかけ離れているため、あのような忌まわしい事件があったことを市民たちは俄かに信じないはずだ。小さな町の神社で起きた事件は「我孫子市史」にしっかりと数ページにわたって記録されている。

<改めて「市史」をひも解く>
市史ではまず関東大震災全体と千葉県の状況に触れ、個人の日記を引用しながら、地震と余震が続いた震災当日の我孫子の模様を伝えている。東京地方の夜空をこがす火災の模様、翌日2日に「命からがら避難」してきた人の話として「(東京は)火炎に包まれ全没なり」「聞くからに身の毛もよだつ程」と市民の不安を伝える。東京から多数の罹災者が千葉県に押し寄せてきた。市史では「帝都ニ此ノ大変アリテヨリ避難者、或ハ徒歩ニテ、或イハ汽車ニテ運ハレ我孫子駅ニ下車スルモノ恰モ蟻群ノゴトク、殆ド立錐ノ余地ナク」と混乱ぶりが語られ、八坂神社に救護所が設けられて罹災者の救護活動が行われたと記されている。

市史は虐殺事件が起きた経緯と原因についても触れる。
震災によって通信が途絶したため一切の連絡は船橋にある無線送信所から送られることになった。送信所から送られてきた内務省警保局長からの電報が流言飛語を招いたと指摘する。
その電報の内容は「東京付近の震災を利用し、朝鮮人は各地に放火し、不逞の目的を遂行せんとし、現に東京市内に於いて爆弾を所持し、石油を注ぎ放火するものあり。既に東京府下には一部戒厳令を施行したるが故に、各地に於いて充分周密なる視察を加え、鮮人の行動に対しては厳密なる取締を加えられたし」というもの。
電文にもとづき自警団が組織され、「我孫子町でも三日及び四日、八坂神社境内で三人の朝鮮人が自警団によって殺された」
20日頃から政府の指示によって虐殺に関わった自警団関係者の一斉逮捕が始まり、我孫子でも「宮谷一他5名」が「李一弼他2名」を「こん棒杉丸太等を以て殺害」(騒擾殺人罪)で起訴された。その年の11月19日には、「五名に懲役二年、一名に懲役一年六カ月の求刑がなされた」
市史は事実関係を「関東大震災と我孫子事件」として三ページにわたって説明。最後に政府の偏見と誤情報がもたらした大混乱と恐怖の要因を問うこともなく自警団だけを逮捕したことに疑問を投げかけ、事件は「我孫子の暗い闇として、人々の記憶に濃いよどみを残したまま、時の忘却に任されていく」と締めくくっている。
「時の忘却に任される」という表現に、理不尽な政府の「扇動」によって恐怖にとらわれた一般市民が犯した集団殺戮のみが裁かれたことへの批判がにじむ。政府の責任が問われないまま「忘れ去られる」ことへ警鐘を鳴らしているようにも思える。

<過去の事実に向き合う>
八坂神社の前を通るたびに胸が痛む。
救護所となった神社の狭い前庭で繰り広げられた凄惨な集団リンチ殺人事件。
95年という年月を越えてリアルにその場面が目に浮かぶ。その事実を知らなければ、神社は夏祭りの神輿と夜店の記憶としてだけ残る小さな神社に過ぎない。私も最近知ったことだから「エラソー」に云う資格はないが、我孫子随一の夏祭りに来る子どもたちにここで起きた悲しい事件について話をして聞かせてあげたい。「時の忘却に任され」ないためにも。

暑かった夏の終わりに思うこと。私たちの「記憶」のことだ。楽しいことは忘れないでおきたいが、息を吐くようにつく政府の「ウソ」に私たちは馴らされてしまった。日本中に「記憶喪失症候群」が蔓延したこと。私のこの「夏の思い出」となった。 
単なる「暑さ負け」ならまだしも、この日本人の記憶喪失体質は一体何処から生まれのか。戦争責任者たちの「後裔」たちが過去を忘れたがるのは当然だが、一般庶民の私たちが彼らと一緒になって記憶を失っていいはずはない。この町に住み続ける限り、八坂神社は「大切なことは忘れない」と私に不断に語り続ける貴重な存在になった。
2018.08.24 犬養毅の5・15をめぐる知的対話
―保阪正康『昭和の怪物 七つの謎』を読んで―

半澤健市 (元金融機関勤務)

 ノンフィクション作家保阪正康(ほさか・まさやす、1939~)は、過去半世紀近く、インタビューと文献渉猟によって「昭和史」を書き続けてきた。しかし「昭和」も遠くなり、「平成」もあと一年半で終わる。今この作家は、なお新作を発表する一方で、既往の著作に新しい光を当てて再構築をしている。

《思わせぶりなタイトルだが》
 『サンデー毎日』に連載され新書版となった近著『昭和の怪物 七つの謎』は、タイトルは思わせ振りだが、この試みの一つである。七つの謎に登場する怪物は、東条英機・石原莞爾・犬養毅・渡辺和子・瀬島龍三・吉田茂。ただし犬養は孫娘道子が、渡辺の場合は二・二六の犠牲者錠太郎の娘が語られる。本稿では、祖父犬養毅(いぬかい・つよし、1855~1932)を書いた孫娘道子と保阪の対話と交流を紹介したい。私がその対話に感銘を受けたからである。

1992年に、犬養毅没後60年の追悼会が、親族や限られた関係者によって行われた。その際、保阪は毅の子息犬養康彦(共同通信社社長・当時)の依頼で「五・一五事件」について一時間ほど話をした。保阪は、「話せばわかる」の犬養暗殺が、暴力が全面に出てくる次代のきっかけになったと「怒りの口調」で語った。そして毅を「憲政の神様」と讃え、「議会政治家としてその使命を全うした。その政治経歴も非の打ちどころがなく、まさしくテロの犠牲になった悲劇の政治家であった」と賞賛した。保阪は、犬養には大局観において欠ける点もあったという批判を控えた。こういう席でのマイナスの話は礼儀に反することだと、当時52歳のジャーナリストは考えたのである。

《保阪正康講演と犬養道子の批判》
 次に70歳の犬養道子(1921~2017)が登壇した。そして凜とした声で「保阪さん」と彼に語りかけた。本書で保阪はこう書いている。(■から■、「/」は中略を示す)
■今、保阪さんから祖父のことを称揚気味に語っていただきました。それは遺族としてはありがたいのですが、しかし犬養毅という政治家も多くの矛盾を背負った政治家だったのです。そこのところを語らなければ毅像というのは正確に理解できません。祖父に同情していただくお気持ちはわかりますが、歴史上の評価は別です。こういう席だといって何も遠慮しなくていいのです。/私は自分のもっとも痛い所を突かれたようで、その一言一言が身体中に刺さってくる感を受けた■

それから10年かけて、保阪は犬養毅に関係する文書を読んだ。犬養康彦から預託された膨大で貴重な資料である。それを検証する過程で改めて道子の発言の意味を深く考えることになった。彼女の「多くの矛盾を背負った政治家だったのです。そこのところを語らなければ・・」という発言を受けて、保阪が考えぬいたことを二つを紹介する。

《犬養毅の「矛盾と弱さ」》
 一つ。犬養道子は自著「花々と星々と」にこう書いている。
■犬養内閣は本質的な矛盾と弱さをはらんでいたとよく言われる。陸軍大臣に荒木中将を据え、内閣書記官長に関東軍と通じ関東軍路線を支持するのみならず推進するほどの、曾ての三井の切れ手、森恪(もり・つとむ)を置いていたからである。/しかしいま、私は思うのである――荒木・森の二人を内閣中枢に据えたこと自体、お祖父ちゃまの――追いつめられたお祖父ちゃまの――最後に打った手なのであったと。俗に、虎穴に入らずんば虎児を得ずと言うではないか。最も「危険」なふたりを己が懐中に抱えることによって彼らの動きを牽制したいと彼は叶わぬ望みを望んだのであった。滔々と流れ、あらゆる支流を呑み加え、「狂」の一文字にあてはまる勢で破局に向ってゆく潮を、身をいかに挺そうとも食いとめられるものではないと、彼の理性は読んでいたろう■

保阪はこの文章を読んで次のように反応している。
■(五・一五事件を論じた著作の中で)犬養首相の心理をここまで分析した書はない。そして今、私自身、こうして犬養首相の心理に、道子氏の筆を借りながら沿っていくと、はっと思い至る点もある。そうか、もしかすると道子氏は二十六年前のあの犬養家の儀式のときに私に伝えたかったのは、ここまで分析を進め、「虎穴に入らずんば虎児を得ず」の見通しの甘さ見抜いてほしかったのではないかと考えたくもなってくる■

《犬養毅は「話せばわかる」と言っていない》
 もう一つ。「話せばわかる」に関する、道子の重要な発言、即ち「犬養毅の『話せばわかる』は、真実ではなかった」という点である。海軍士官らによる犬養殺害の一部始終を見たのは、道子の母親であった。母親および女中らの証言による、道子の文章から、「毅の言葉」だけを時系列で並べると次のようになる。

「いいや、逃げぬ」、「逃げない、会おう」、「まあ、急ぐな」、「撃つのはいつでも撃てる。あっちへ行って話をきこう・・ついて来い」、「まあ、靴でも脱げや、話を聞こう・・」、(この直後撃たれる、このあとは女中の証言)「呼んで来い、いまの若いモン、話して聞かせることがある」、「煙草に火をつけろ」、「もうよい、呼んでこい・・・」「怪我はなかったか、仲さん」。

毅の言葉は、「花々と星々と」(『犬養道子自選集2』、岩波書店、1998年)からとった。次に、「話せばわかる」と誤伝されたことに疑問を呈した道子の文章を引用する。(「ある歴史の娘」、前掲書)。

《話してわからぬ時代なればこそ》
 ■お祖父ちゃまと言う人はこんな一語を麗々しくのこすにしてはもう少々、わけ知りの人であった筈だと、私はいつも思っていたのである。「話せばわかる」ていどの生やさしい時代であったなら、元来、あんな事件の起るべくもなかった。「話して聞かせればわかる」軍であったなら、そもそも日本は満州以降太平洋の戦いにまでひきずられて行かなかった筈である。いくら話そうとわからない、わかるまいと前以て確固とかかる相手であることを、それが時代の性格であることを、だれよりもよく知りつくしていたのは、その強大な力の前に在って、「話の政治」すなわち議会制度のせめて最低線を守ろうとした、不可能を知りつつ身を投げ出した無力非力のお祖父ちゃま自身であったのである。/話してわからぬ時代なればこそ、祖父も死んだ。高橋是清も死んだ。斎藤実大将も死んだ。この時代性と人間の頑固さとを無視して「話せばわかる」の一語だけを取り上げ後世にのこすことは、どこかまちがっているのじゃあるまいか、私はつねに思いつづけていた。■

保阪は「この一言で世の中よくなると考えるのは歴史の本質を忘れさせてしまうと道子氏は言っている。私もまったく同じ論理で同調する。/この事件を犬養家の側から見つめること、それが今の時代、とくに必要なのではないか」と書いている。

《「ある歴史の娘」の批判への知的な対応》
 犬養毅を論じたノンフィクション作家。その言説をソフトに批判した毅の孫娘。さらに、時間をかけて、批判に対応した作家。二人のプロフェッショナルの知的な対話に私はうたれる。その今日的な意義を発信する作家の精神に私は共感する。
私が紹介したのは本書のごく一部である。しかし神は細部に宿るという。個別事実の実証と評価が人の心をどんなに打つものか。本書はそれを知るための適切な歴史書だと思う。
(2018/08/20)

■保阪正康『昭和の怪物 七つの謎』、講談社現代新書、2018年7月刊、880円+税

2018.07.30 1968年は何処へいった(4)
―闘争当事者の発言を読む―

半澤健市 (元金融機関勤務)

 前回までの1968年論は研究者の冷静な分析であった。同時代の当事者の発言を知りたい。それで『ピープルズ・プラン』誌の80号(2018年春号)の特集「再考 1968」から対談「『1968年』・『全共闘』反乱とは何か」を紹介する。

《『ピープルズ・プラン』誌の武藤・天野対談》

 対談者は武藤一羊(むとう・いちよう、1931~)と天野恵一(あまの・やすかず、1948~)、若手研究者の松井隆志(まつい・たかし)が進行役である。
『ピープルズ・プラン』は、同名の研究所が発行する季刊誌である、大筋では、新左翼運動の流れを継いだ組織である。長時間の対談であり、話題は拡散するが、私なりに論点を次の三点にまとめてみた。

一つは、二人の運動体験と総括である。
二つは、新左翼運動によって提起された新しい論点である。
三つは、残された問題と将来展望である。

《ほぼ「全共闘体験」であるが》

 第一 二人の新左翼運動体験。
武藤一羊は東大中退後、原水協事務局などを経て参加した60年代の「ベ平連」では代表的運動家の一人だった。英字誌『AMPO』も創刊した。70年代以降も、「アジア太平洋資料センター(PARC)」、「ピープルズ・プラン研究所」に拠り発信を続け、2000年までの12年はニューヨーク州立大学ビンガムトン校社会学部教授を務めた。

武藤には、50年代の党活動体験と「六全協」問題が、葛藤と挫折の原因となった。だから1968年は解放だった。こう発言している。(■から■、「/」)は中略、以下同じ)
■吉川勇一なんかもそうだったと思うけど、共産党的な運動から解放された。平和運動でこうやりたいとか、やるべきだと思うことがあっても、やれない。そして変な説に賛成を強要されたり、運動破壊的な官僚主導に引っ張られる。そういうことから解放されて、やるべしと思うことを好きにやれる。/だから六八年というのは僕にとって個人的敗北の経験ではないんだよね。むしろ解放。■

天野にとって、1968年は初の学生闘争だった。天野の経歴に関する「ウィキペディア」系の情報は少ない反面、ネット上では彼を罵る批判が多い。全共闘の敗北以後の80年代、天野は「反天皇制運動連絡会」の運動に傾斜していく。その経緯は私にわかりにくい。しかし私は、本対談テキストの有用性を評価するので考察を続ける。

《共産党より「左」なんてものがあった》

 天野によれば、学費問題や学内施設の管理権問題、特に私大で管理支配権が問題になる。それらをみて大学の主体は学生であることを痛感する。
■一部の急進的な、ほんの数人の占拠とかが、全学的に支持されて、大学を守れで保守化した代々木(共産党)が糾弾しても、孤立しない変な現象が起こるわけ。/一般ノンポリ学生がそっちの急進運動に加担するような気分があった。それがある種の時代的与件ですよ。大学の中の。共産党より「左」なんてものが存在していることなど、まったくしらなかった僕のような「ノンポリ」もその流れにまきこまれていく。■
 
武藤・天野の体験談では、新左翼運動に現れたそれまでの左翼運動にない要素が、興味深く語られる。多様な文化カテゴリー、小田実の個人原理主義、M・ウェーバーに拠った折原浩、宗教者として発言する田川健三、滝沢克己、高橋和巳、真継伸彦。他分野の平岡正明、松田政男、アングラ演劇の固有名詞か挙がっている。

《「お前ら終わりだよ」と言われて終わった》
 天野の敗北論がある。話題は少しづつ方向転換する。天野はいう。
■僕らは徹底的に負けたという認識がある。権力でなく学生が大勢来て、「俺たちの生活のためにこのバリケードを解け」と強制されて解いた。自分たちが依拠した学生から浮いて「お前ら終わりだよ」と言われて終わった。東大全共闘だったヤツが、大学が正常化された後に、授業の最前列に並んでいる風景が「前共闘」と新聞記事になった。嘲笑されている。ベ平連は違う。時間のくぐり方がちがうと思った。
運動史の方法は「生の体験を語ることを特権化するのもバカだし、客観主義的に外部から俯瞰する図式も、体験当事者にしかわからないことも実際あるわけだから、不十分。それらをつなぐことが重要。/個人的な体験は全部切れないし/後の時間で外の視線を持つことでその生の体験を再考するということが、〈考える〉ことだと思ったわけです。その体験の記述の中で運動史が語られていくという連鎖が一番いいんではないかなと方法的に思っているところがある」。■

《権力の働く場を下におろしてくる》
 武藤は天野の運動史論を否定はしない。しかし武藤の関心はもう少し広角な視点で見ようというものである。
■だけれど、68年が僕にとっては全共闘的な挫折経験だったわけじゃない。僕にとってもっとも重苦しかったのは「党」という問題だったと思う。/「党」一般というものについて考えを進めてみたいという気持ちはずっとある。できれば政治、宗教、権力の三者が交錯する領域の問題としてね。それとは別に「六八年」が僕の革命論にとって大きい転機だったことは紛れもないことで、とくに権力の働く場を下におろしてくる、日常の関係に下ろしてくるということについては発見と考えの転換があった。それは当然自分に跳ね返ってきた。■

《「科学技術・マルクス主義・抵抗の暴力」の批判》
 第二 提起された新しい論点。
ザックリと三点ほどに絞りたい。
一つは、科学技術批判としての1968年。
二つは、近代主義としてのマルクス主義の破綻。
三つは、闘争における暴力の評価。

科学技術批判は、東日本大震災後の今日ではある種、常識となった。
しかし1973年の第一次オイルショックで東京タワーの電飾までが消えたあとに、原子力発電だけが経済成長の危機を救うという主張に反対するのは困難だった。それだからこそ、全共闘運動の「自然科学は体制の侍女」という認識と、それを理由に大学教育と科学行政へ異議を申し立てたのは立派である。それは科学技術の「パラダイムの転換」要求にまで進んでいった。さらには、進歩と発展を前提とする「近代」への懐疑に至る、対談者はこの認識において概ね一致している。反開発の根源に松下竜一や石牟礼道子らの「開発は破壊」だとする立場に「左翼は遅れをとった」という意見も共有する。

《自然科学・進歩と発展・近代は地続き》
 ここからマルクス主義の破綻論には地続きである。マルクスの言語にエコロジーの意義を見る識者は当時も今も存在する。それは贔屓の引き倒しというものであろう。ここまでの文脈で天野は、山本義隆の言論界へ復帰に必然性を認めている。

さらに天野が執拗に発言するのは、政治的・攻撃的暴力の肯定―天野の表現では「ロマン化」―に対する強い自制の言葉である。天野は、「僕らは暴力主義者では決してなかったけれど、抵抗の暴力は不可避だろうと思ってたことはある/暴力についての認識が甘すぎた。全く甘すぎて全然だめだったということの反省が全体の軸になって、八〇年代(前述の反天皇運動など)があったと僕は思っているわけです」といっている。

自然科学論・マルクス主義理解・抵抗の暴力の可否。これらは1968年が初めて発見したものではない。しかし地球温暖化が現実である今、「進歩と発展」の理念が人間生存を破壊しつつある今、「積極的平和主義」をうたう憲法改悪論者が三たびこの国に君臨せんとする今、提起された「1968年」問題は再検討されるべきだと思う。静かに、継続して、強い精神をもってである。この国の存亡にかかるテーマである。

《口舌の徒による感想》

 私の感想を三つ書く。

一つ 対談を含め特集号の文章には、セクト論議・人物評価・ノスタルジーの披露が多すぎる。すべて不要とは言わない。しかし仲間内の会話が多すぎるのである。
活動家諸氏の回顧談が続く記事、すなわち加藤康晴へのインタビュー、池田祥子・白川真澄対談、福富節男回顧座談のいずれもそうである。権力内部の分析と将来展望が、ほとんどない。「ほとんど」としたのは、武藤による「安倍政治をつぶす、その先に何を展望し、実現するか」という硬質な論文が唯一の救いになっているからである。

二つ 安倍政権の民主主義破壊に「ハラワタが煮えくりかえっている」仲間が沢山いる。そういう人々にどのように門戸を開放するのか。いや、自ら接近して共闘するのか。PP研の現有勢力では活動の限界があるのはわかる。しかし、この際に徹底した発想の転換が求められているように思う。

三つ 「お前の書き物も口舌の徒の一文」という批判があるだろう。それは甘受するが、言いたいのは、「口舌の徒」または「居酒屋談義屋」であっても、何とかせねばならぬという人々が、世の中に満ち溢れていることだ。

次の選挙では「自民・公明・維新には一票も入れぬ」投票をやろうではないか。吉永小百合に最高得票を与えようではないか。私は老兵だが消え去るわけにはゆかない。口舌の徒として後衛を務めるつもりである。(2018/07/26)