2017.01.31 全豪オープンの錦織選手に思う

盛田常夫 (在ブダペスト、経済学者)

 勝負事に「絶対」はないから、一つ一つの勝ち負けを気にしても仕方がないが、今年の全豪オープン4回戦の対フェデラー戦は、錦織選手にとって、どうしても勝たなければならない試合であった。フェデラーは偉大なレジェンドではあるが、引退が囁かれている35歳の選手である。怪我で半年以上もトーナメントから遠ざかり、この全豪大会が公式戦復帰の最初の大会である。選手生命の頂点にたどり着きつつある錦織選手にとって、グランドスラム4回戦(ベスト16)は通過点にしかすぎない。フェデラーに引導を渡し、新しい時代の幕開けを世界に示す時だった。しかし、錦織選手は勝ちきれなかった。錦織選手も悔しいだろうが、錦織選手が抱える課題が明々白々となった試合であった。
 少し前まで、錦織選手はスロースターターだったが、昨年来の大会を見ると、試合の序盤で相手選手を圧倒するゲームが多い。前哨戦のブリスベーンの決勝、対ディミトロフ戦の最初の数ゲームも相手を圧倒し、ワンサイドで試合が終わるのではないかと思わせるほどの立ち上がりだったが、サービスダウンを喫した後にプレーのレベルは急落し、第1セットを簡単に失ってしまった。第2セットは奪い返したが、第3セットに入る前にメディカルタイムをとり臀部の治療を受けた。第3セットを精彩なく落とし、準優勝となった。昨年の楽天オープンの対ソーサ戦でも、最初の4ゲームを簡単に奪取した後に、臀部を痛めて棄権した。
 さて、全豪のフェデラー戦だが、錦織選手はフェデラーの最初のサーヴィスを破り、その後もゲームを支配し、ダブルブレークのカウント5-2で、第1セットを手仕舞うサーヴィスゲームを迎えた。観客の誰もが、やはりフェデラーは現在のトップ5には勝てないと思ったことだろう。ところが、錦織選手はこの第8ゲームのサーヴィスゲームを取りきれず、逆にこのゲームを含め、4ゲームを立て続けに失うピンチを迎えてしまった。五輪の対ナダル戦の第2セットと同じパターンである。タイブレークを押しきり、なんとかセットを取ったのはよいが、第8ゲームで第1セットを終えられなかったために、5ゲーム20分間も余分な体力消耗を余儀なくされ、この間、サーヴィスメイクに迷っていたフェデラー選手が息を吹き返えしてしまった。
 第1セット5-2からのサーヴィスゲームは、この試合を決めるポイントだった。ここはきっちり、6-2で終わらなければならない勝負所である。しかし、この勝負所で錦織選手は得意のストローク戦でポイントを取るのではなく、サーヴィスからネットにでるサーヴ・アンド・ヴォレーの戦法をとった。ゲーム展開のなかで錦織選手が時折とる戦法だが、ふつうはサーヴ力のある選手が使う戦法で、錦織選手のようにサーヴ力が弱い選手が使うものではない。しかも、セカンドサーヴでネットに出るという無謀な「遊び」を行った。緩いサーヴィスを叩かれるので、前に出て押し込みたいという焦りがあったのかもしれない。そこをフェデラーがパニッシュした。錦織選手が犯した最大のミスである。このミスが響き、錦織選手はこの試合を混戦へと導いてしまった。
 第1セットのタイブレークをなんとか奪取した錦織選手は勝負強さを見せたが、サーヴィスを立て直したフェデラー選手の勢いに抗することができず、第2、第3セットは為す術もなく失ってしまった。第4セットは我慢強く取り切ったが、そこで恒例とも言えるほどになった錦織選手のメディカルタイム(腰へのマッサージ)となった。
 実況中継のコメンテーターも、錦織選手がメディカルタイムをとるのを予見していた。「出だしは相手を圧倒するが、その強さが急速にしぼみ、試合はもつれる。なんとかタイに戻しても、最後はメディカルタイムをとって負ける」というパターンが続いている。35歳のフェデラー選手ではなく、27歳の錦織選手が、試合で競る度にメディカルタイムをとるのは、体幹が弱すぎるからではないか。トレーニング内容に問題はないのだろうか。マリーやジョコヴィッチの体の強さとは比べものにならない。この体幹の強さの違いはなんとかならないものだろうか。
 2014年の全米オープン決勝進出には神がかり的な力が働いていた。この辺りまではライジングを打つ打法が生きていた。しかし、ランクが上がる毎に、錦織選手のプレースタイルが変わってきた。現在はライジング打法の速い展開で相手を攻めるというより、ストローク合戦からバックハンドやフォアハンドのダウンザライン(ライン際への決定打)でポイントを取るパターンになっている。強打の強敵相手にライジング打法を貫き通すのは難しいから、ストローク力で優位に立つ方が安定した戦いができる。錦織は今、この抜きんでたストローク力で世界5位の位置を守り続けている。これまではハードコートが得意の錦織という評判だったが、今の戦い方ならハードコートより、クレーコートの方が実力を発揮できるだろう。
 いずれにしても、体力を消耗させるグランドスラム大会では、ストローク力だけでタイトルを取ることはできない。サーヴ力がないと、余力を残しながら決勝まで勝ち上がるのが難しい。フェデラーが長期にわたってテニス界に君臨できたのは、サーヴ力をベースにし、甘く返ってくる球を叩く速い展開で、省エネテニスを維持することができたからだ。現在の錦織選手はまさにその正反対のタイプに属する。ストロークプレーが中心で、サーヴ力が弱いから、必然的にポイントを取る時間が長くなる。
また、レシーヴ力が優れている錦織選手でも、速いコートでファーストサーヴィスを切り返すのは至難の業だ。だから、自分のサーヴィスゲームを簡単に落とすと、ゲームは接戦になり、体への負担が大きくなる。今回の対フェデラー戦では、120km/h前後の緩いセカンドサーヴィスが、ことごとくフェデラーの強烈なフォアハンドの餌食になった。幾ら変化を付けても、コースを狙っても、これだけ遅いと簡単に叩かれる。フェデラーはレシーヴエースだけで、ポイントを荒稼ぎした。以前よりは良くなったと言われる錦織選手のサーヴィスだが、グランドスラムやマスターズ大会を制する武器となるにはほど遠い。せめてあと1割ほど、サーヴ力が上げられないものだろうか。
何も200km/hを超えるスピードは必要ない。この試合のファーストサーヴィスの平均速度はフェデラー選手が188km/h、錦織選手のそれは170km/h、セカンドサーヴィスの平均速度はフェデラー選手が155km/h、錦織選手は135km/hだった。それぞれおよそ20km/hの差がある(ちなみに、ラオニッチ選手のサーヴィスの平均速度は、ファーストで225km/h、セカンドサーヴィスでも200km/h前後のスピードがある)。非常にコントロールされたサーヴィスであれば、ファーストのスピードは185~190km/hで十分だ。だから、せめてコンスタントに185km/h前後のファーストサーヴィスを打てるようにならないものだろうか。セカンドサーヴィスのスピードも、平均145km/hにまで引き上げたいものだ。そうすれば、もっと楽にゲームを進められるはずだ。
 錦織選手がこの先、現在のポジションを確保し、さらにトップスリーに入っていくための要件は、サーヴィス力の増強以外にない。そのためにも、強い体幹を作るトレーニングを積んでもらいたいものだ。全仏に向けたクレーコートでの活躍を期待したい。

2016.12.17  短水路競泳世界選手権(カナダ、ウィンザー)余談
盛田常夫 (在ブダペスト、経済学者)

 国際水泳連盟主催の短水路世界選手権は12月6日~11日の間、カナダのウィンザーで開催された。本大会の最優秀選手として、女子はハンガリーのホッスー、男子は南アフリカのル・クロスが選ばれた。なかでも、ホッスーは記録破りの活躍を見せた。実に13種目にエントリーし、棄権した200m平泳ぎを除く12種目に出場して、そのすべての種目で決勝に進出し、7個の金メダルと2個の銀メダルを獲得した。本大会は女フェルプスともIron Ladyとも呼ばれるホッスーの一人舞台だったと言って良い。
 国別メダル獲得数では、アメリカが金8個(銀15個、銅7個)でトップ、ハンガリーは金7個(銀2個、銅2個)でアメリカに次ぐ2位となった。日本は金2個、銀2個、銅11個で8位だった。
 本大会前のFINA(国際水泳連盟)の総会で、本年度の最優秀選手として、男子がフェルプス、女子はホッスーを選んだ。ホッスーはその栄誉に応えるべく、獅子奮迅の活躍で2016年短水路世界選手権の最優秀選手も選ばれた。

   盛田常夫原稿写真
                  ホッスー選手と夫のトゥスック・コーチ

ホッスーのトレーニング日課
 ホッスーの活躍を支えているのは、アメリカ人の夫でコーチでもあるトゥスップである。彼女の日課は、朝4時50分の起床から始まる。6時から8時30分までフィットネスでのウェートトレーニング、その後11時30分までプールでのトレーニング。昼食の後はIron Ladyブランドの自社の管理の仕事。再び、16時30分から18時30分までプールでのトレーニング。その後は、マッサージと夕食を終えて、早めの就寝となる。
 このすべてのトレーニングは夫でコーチのトゥスップが管理し、あらゆるビジネスの交渉にも彼が同伴する。四六時中、二人三脚での毎日である。とくにウェートトレーニングは夫がコーチになってから始めたものだという。W杯の大会で世界を駆け巡る間も、このトレーニングが続く。だから、比較的体の負担が軽い短水路なら、1日に4~5レース出場しても、大丈夫な体力が備わっているのだ。
 いかなる分野であれ、世界を制する者は、凡人にはとても真似できない厳しい日課を自らに課している。

ホッスーの反乱
 短水路世界選手権が始まる直前、ホッスーはハンガリー水泳連盟に宛てた公開書簡で、水泳連盟会長ジャルファシュの辞任を求めた。2017年世界選手権開催にあたって、何かと黒い噂があった会長で、すでに20年以上もハンガリー水泳連盟に君臨している。若手の選手がホッスーを支持したり、政府も暗に辞任を促したりして、ジャルファシュは渋々辞任することに決まったが、ジャルファシュが選任したヘッドコーチは依然としてそのポストに留まっており、ホッスー・サイドとの折り合いがうまく行っていない。そうしたごたごたの中で、ハンガリー選手団はウィンザーの世界選手権に参加することになった。もともと、ホッスー・サイドは水連ヘッドコーチから助言を受けることなく、世界各地の大会を転戦しているから、ヘッドコーチの苦言を聞き流し、本大会に臨み、所定の計画通りの大活躍を見せた。
 こうしたホッスー・サイドの言動を快く思っていない関係者は多い。しかし、水連側もお金で問題を解決しようとして、公開書簡が公になった段階で、連盟会長は1000万Ft(およそ400万円)のボーナスを支払うことで決着を図ろうとする姑息な提案を行った。2017年ブダペスト国際水泳世界選手権を前に、ハンガリーの水泳連盟は、抜本的な改革を迫られている。
 ネットの意見を見ると、ホッスーの言動を批判するものが多く、彼女が自らの肖像権をベースにしたビジネスを展開していることを批判している意見も見られる。しかし、短い競技生命のなかで、人生の土台を築こうとするホッスー夫妻の血のにじむような努力に、敬意を表せざるを得ない。

2017年水泳世界選手権
 ごたごたが続く水泳連盟だが、2017年7月14日~30日、FINA国際水泳連盟主催の世界選手権が、ブダペストとバラトン湖で開催される。種目別の開催地は以下の通りである。オープン・ウォーター競技以外は、すべてブダペストで開催される。この期間、ブダペストの競技会場に近いHotel Heliaは選手の宿泊用に使用されるので、一般客の予約は受け付けない。
  1. 競泳・飛び込み種目:新設のDagaly Swimming Arena (Dagaly通りに新設される競泳・飛び込みプール)
  2. 水球:ドナウ河マルギット島、ハヨーシュ・アルフレード国民プール
  3. バラトン湖(バラトンフュレッド):オープン・ウォーター競技
  4. スィンクロナイズド・スイミング:ヴァ―ロシュリゲット公園(特設プール)
  5. バッチャーニィ広場(ドナウ河沿い)に仮設される33mの塔:ダイヴィング競技(男子27m、女子20m)。河向こうの国会議事堂が、ダイヴィングの背景になる。

なお、新設のDagaly Swimming Arenaは常設6000席、仮設6000席の観客席が用意されることになっている。例に漏れず、この建設は当初予算から10倍に膨れ上がった。2024年の五輪立候補へのアピールもあり、豪勢なプール建設となった。建設費が高騰すれば、自然と水泳連盟の幹部と建設会社との癒着が始まる。しかし、ハンガリー、いやヨーロッパではこの種の癒着が犯罪として立件されることはきわめて稀だ。
各競技のチケット販売は12月1日から開始され、インターネットで購入できる。最高額は1500Ft(600円)で、以下サイトから購入可能である。
http://www.eventim.hu/en/tickets/17th-fina-world-championships-budapest-budapest-balatonfuered-167/events.html
2016.12.03  組織委員会は五輪経費の都民負担を明確にすべし
盛田常夫 (在ブダペスト、経済学者)

大山鳴動してネズミ一匹
 小池東京都知事の奮戦も虚しく、大会会場の見直しは、若干の予算削減でお仕舞いのようだ。五輪の競技は種目ごとに競技期間は異なるが、ほとんどが1週間程度のものだ。一時的な競技会のために、巨額の費用をかけて、競技場を次から次へと新設すれば、いくらお金があっても足りない。ローマのように、世界の大都市ですら立候補を取りやめるのも当然のことだ。だから、IOCは可能な限り経費の規模を抑えて、合理的な範囲に経費が納まることを望んでいる。ところが、日本の政治家は発展途上国と同じ発想で、五輪を国威発揚の機会と捉え、可能な限り見栄えの良い施設を作ることを目指している。
高度成長時代の東京五輪と違い、日本はすでに成熟した経済社会に到達している。しかも、政府も自治体も、人口減が確実な将来に直面しながら、巨額の累積債務に苦しんでいる。ところが、国や自治体の政治家や官僚は、そんな将来危機には無頓着なように、債務を積み上げる無責任な計画を推し進めている。五輪なら債務が増えても納税者の理解が得られると考えているのだろうか。それなら、納税者に理解を求めるのが先ではないか。それを蔑ろにしていることは、財政危機の意識が欠如している証左だろう。巨大化された組織は当座の問題のみを扱い、地域社会全体に将来にわたる影響など考えもしないのだろう。政治家は政治家で、財政危機などは自分が生きている間は関係がないと考えている。だから、平気で政治資金で銀座のバーに通ったり、ホテルや料亭で飲み食いしたりするのだろう。
五輪経費の規模から考えれば、当該年の予算で賄えるものではないから、五輪後も長期間にわたって、都民が負担し続けなければならない。しかも、開催費用に加えて、五輪後は施設の維持管理費が経常的に必要になるから、施設建設費の負担だけでは済まない。いったい、政治家や官僚は建設の直接経費と五輪後の維持管理費の都民負担をどのように考えているのか、それともまったく考えていないのか。費用負担を他人事のように思っている国民や都民の意識の低さもまた、政治家や官僚の横暴を許している。
 個別の施設建設を議論する前に、東京五輪の経費は誰がどれだけ負担するのかを明確にすべきだ。経費負担に応じた発言権が保証されなければ、負担する者の声は届かない。五輪経費の7-8割方を負担する東京都の発言権を抑え込んだ4者協議会が設置された段階で、小池知事の劣勢は決まった。経費を負担しない政府、事実上政府が任命した会長が居座る組織委員会、組織委員会の計画を承認したIOCを相手に、4分の1の発言権しかない都知事が奮闘しても、一度決まった計画を覆すのは容易でない。それこそ、大幅な経費削減ができなければ、五輪返上もあり得るという強い態度で臨まなければ、旧来の思考にどっぷり浸かった政府代表や組織委員会代表を押し返すことはできない。
 これができなければ、まさに「大山鳴動してネズミ一匹」である。小池知事の奮闘の結末が、「有明アリーナか、横浜アリーナか」では情けない。しかも、森会長がすでに横浜市に手を回し、「競技連盟の意向を無視して決められない」と言わせている始末だ。

経費負担を都民に問え、そして組織と個人の責任を明確にせよ
 政府と東京都、そして五輪組織委員会は、五輪の開催費用のうち、都民が負担する金額を明示すべきである。都民が負担しても良いと考える金額が、五輪開催費用の上限であるべきだ。都民1人当たり10万円なのか、それとも20万円なのか。そして、その負担金をどのようにして徴収するのかも明確にすべきだ。もっとも、原発の事故処理と同じように、五輪後の施設の維持管理経費は不確定のままだ。削減された施設の工事費ですら、その予算枠が守られる保証はどこにもない。それを管理監督する組織がないのだから。政治家やスポーツ政治屋、政治家の腰巾着の官僚に任せるから、すべてがどんぶり勘定だ。
 川渕三郎氏のように、五輪後の施設利用から収益が上がるから、巨額の施設建設は無駄ではないと吹聴している人もいるが、それならそれができるという民間業者を募り、今から五輪後の施設売却や、維持管理に責任を負う業者の選定入札を行うべきだ。しかし、そのような業者などいないだろう。収益よりも、維持管理経費の方が大きくなるのは目に見えているからだ。それでも収益が上がると主張するなら、収益が上がらなかった場合の責任の取り方をはっきりさせてから、物を言うべきだ。
 しかし、2兆円とも3兆円とも言われる五輪経費だが、いったい何にこれだけのお金がかかるのか。話題になっている3つの施設の建設費は、経費総額の10分の1程度に過ぎない。組織委員会は、経費を負担する都民にたいして、経費総額の内訳を明示し、どこをどう削って節約するのかをはっきりさせるべきだ。そして、予算枠の厳守とそれが守られない場合の組織責任と個人責任を明確にすべきだ。事後的な出処進退では意味がない。五輪の仕事にかかわって得た報酬の返済を含めた責任の取り方を明確にすべきだ。
政治家の責任はもとより、組織委員会武藤敏郎事務総長の責任はきわめて重い。組織委員会の事務方を束ね、経費の削減と管理を至上命令にして組織を統率できなければ、森会長の腰巾着にすぎない。
2016.10.03 麻痺する金銭感覚とスポーツ界のごっつあん体質

盛田常夫 (在ブダペスト、経済学者)

税金を貪る政治家
 安倍マリオ演出に要した12億円がどこから支出されたのか知らないが、億の単位で官邸機密費が際限なく支出される日本の政治家は、真っ当な金銭感覚を失っている。1億円は1万円、10億円が10万円、100億円が100万円、1000億円が1000万円、1兆円が1億円程度の感覚でいるように思えて仕方がない。政治家の金銭感覚は庶民のそれに比べて、1万倍ほどの違いがある。しかも、そうやって大きなお金を動かせるのが、大物政治家だと錯覚している。
 国立競技場の建て替えをめぐる騒動で、森喜朗氏は「たった2500億円もだせないのか」と発言したが、これこそ権力の甘い汁を吸ってきた歴代自民党政治家の金銭感覚をそのまま表している。こういう政治家連中が国家予算を取り仕切っているから、いくらお金があっても足りない。脳天気な政治家が支配してきたからこそ、国の借金はGDPの2.5倍に膨れ上がっている。これだけ国家債務があっても、金銭感覚が変わらない政治は悲劇である。財政健全化は国民向けの口先スローガンにすぎない。国民もまた、将来、降りかかってくる財政支出の大幅削減に思いを馳せることができずに、政治家の横暴を許している。国の財政支出に目を光らせることができない国民はとても賢いとは言えない。
 今の時代、何でもかんでも精一杯お金をかけて、最高の箱物を作ろうなどと言う発想で五輪を開催すべきではない。日本が国力を世界に見せしめる時代はもうとっくに終わった。誰も日本の国力や技術力に疑問を挟まない。経済的に成熟した国の五輪であれば、節約しても、十分に見栄えのある五輪を開催できることを示すべきではないか。
誰が五輪の予算を賄うのか
 小池東京都知事の五輪調査チームによれば、東京五輪の開催費用は、現状のままでは、3兆円を超えると試算されている。ところが、いったい開催費用の予算作成や管理がどうなっているのか、さっぱり分からない。どうも、「かかる分だけ予算になる」というような感覚で組織委員会が運営されているようだ。森喜朗氏だけでなく、官邸もそう考えているようだ。あたかも五輪予算を官邸費から出すような感覚でいる。
 お金は天から降ってくるわけではないから、最終的に、五輪開催にかかる費用は東京都と国家予算から賄わなければならない。スポンサーの協賛費は高が知れている。森喜朗氏は、五輪組織委員会は都の下部組織ではないというが、それでは五輪予算の作成や実行・管理に誰が責任をもっているのか。3兆円は国民1人当たりで計算すると3万円である。4人家族で12万円である。国民の総意というなら、国民の負担を明確にして、民意を問うべきだろう。
 そもそも、会社経営をしたことがない官僚と政治家、一部のスポーツ関係者が五輪の組織委員会を作っているから、予算の作成・管理、支出の精査・監査等という感覚がない。そういう委員会から節約的で合理的な五輪を期待することはできないのだ。
誰が見ても無駄な建設
 水泳競技を行う「オリンピック・アクアティクス・センター」は座席数を20,000席にし、かつ競技後には5,000席に減らす工事に、膨大なお金がかかるという。そもそも、世界を見渡しても、2万席のスイミングプールなど存在しない。5,000席では少なすぎるが、20,000席なら十分という根拠はどこにもない。最初から、実際に競技を見ることができる人は限られている。5,000であろうと、20,000であろうと大差ないのだ。それなのに、座席の増減だけのために、何百億円という巨額の資金を投入するのはまったく無駄な投資で、建設会社を喜ばせるだけだ。
 同じことはバレーボール会場となる「有明アリーナ」についても言える。日本のバレーボールが斜陽スポーツになって久しいが、テレビのスポンサーが付くので、W杯の大会が頻繁に日本で開催されている。しかし、バレーボール人気が低迷しているから、観客動員数はきわめて限られている。もっとも、人気の低迷は日本だけのことではなく、世界的にそうなのだが、五輪の大会だけ会場を大きくしても、その後の使い途は非常に限られてくる。そういう無駄な投資は控えるべきだろう。
競技連盟の問題
 競技連盟のほとんどが、五輪を機会に、競技場を建設してくれるのを歓迎している。しかし、無駄な建設を行うお金があるなら、それこそ、節約した分を選手育成に向けるべきことを主張すべきではないか。政治家や官僚と一緒になって、箱物建設を推進するのでは、競技連盟の存在意義が問われる。リオ五輪のメダリストに支払った総額は1億5000万円に満たない。この金額について、政治家も競技団体の役員も、誰も異議を申し立てていない。どうでもよい安倍マリオに12億円も支出しながら、メダリストに渡した総額がこれでは、先が見えている。
要するに、東京五輪は、政治家が目立ち、建設業者が儲かる事業で、メダリストには端金で精一杯頑張ってもらうという構図になっている。
競技団体の役員や選手は、もっと選手のトレーニング環境の整備や海外派遣費用の負担など、選手育成にかかる予算を要求すべきではないか。箱物を作ってもらって喜んでいるのは、スポーツ界の「ごっつあん体質」そのものだ。作ってもらうだけで有り難いという姿勢ではなく、箱物の予算を削っても、選手育成にもっと予算を支出するように働きかけるのが本来の仕事なのではないか。日本の競技連盟には、そういう真っ当な姿勢が欠如している。連盟役員が官僚化している(か、それとも無能な)証左だ。
 数日前に、競泳の瀬戸選手が短水路のW杯転戦のために出発したが、自費だそうだ。無駄な座席を作り、そして取り壊すのには何百億円の予算を計上しておきながら、肝心の選手の海外派遣にお金が出せない連盟など、いったい何のために存在するのだろうか。
 五輪の会場変更や予算削減など、今時の五輪では何も珍しいことではない。建設業者の仕事が減るだけの話だ。どんぶり勘定で決めた予算を再点検して、合理的な範囲に戻すのは当然の作業だ。森喜朗氏が恥をかこうかくまいが、知ったことではない。自業自得だ。

2016.09.16  2024年五輪に立候補しているハンガリー
盛田常夫 (在ブダペスト、経済学者)

スポーツ大国ハンガリー
 中欧に位置するハンガリーは北海道ほどの大きさの小国である。もっとも、ハンガリーは第一次世界大戦でオーストリー=ハンガリー二重帝国が崩壊するまでは、東はルーマニア、北はスロヴァキア、南はクロアチアやセルビアの一部を支配する大国だった。
現在の人口は1000万人弱。そのハンガリーがリオ五輪で8個の金メダルを獲得した。ロンドン五輪も同じく8個で、夏のオリンピックを通した平均の金メダル取得数は7個である。世界の大国と並んで、歴代で世界のトップテンに入っている。ハンガリーの周辺国を見渡しても、夏の五輪で複数個の金メダルを獲得している国は少ない。夏の五輪にかんする限り、ハンガリーは中・東欧におけるスポーツ大国である。
 ロシアのように国策として国を挙げてスポーツを奨励しているわけではないが、伝統的にフェンシング、水泳・水球、カヤック・カヌー、レスリング、体操が盛んで、誰でも小さいときからスポーツクラブでこれらのスポーツに親しむことができる。その中で、才能をもつ子供たちが、エリート選手として選抜されていく。
 ロンドン五輪競泳200m平泳ぎで、ジュルタ・ダーニエルが北島康介選手を押さえて金メダルをとったように、日本に関係する選手や競技がある。アテネ五輪の男子ハンマー投げで金メダルをとったアヌス・アドリアンは尿検査の検体を取り換えた疑いでメダルを剥奪され、室伏広治選手が繰り上げ金になったことを覚えている人もいるだろう。室伏選手のお母さんはハンガリー系のルーマニア人だから、室伏選手にはハンガリー人の血が50%入っている。
 女子のパワーテニス時代の先駆者となったセルビア出身のテニス選手、セレシュ・モニカは、ハンガリー系少数民族が多数居住しているノビサド出身のハンガリー人である。最近、速いサーヴィスで頭角を現してきたイギリスの女子テニス選手コンタはハンガリー人の父母がオーストラリアへ移住した時に生まれ、その後イギリスに渡ったハンガリー人である。また、スイスのテニス選手、ティメア・バチンスキー選手も、ハンガリー東部の町、デブレツェンの出身である。
 ハンガリーの経済規模は小さく、国が五輪にお金をつぎ込む余裕などないが、五輪参加の歴史を見れば、立派に立候補する資格がある。ほとんど毎年、各競技の世界選手権を主催しているから、それほどお金をかけずに各競技を組織するノウハウももっており、開催指名が獲得できればそれなりに五輪を準備するだろう。

低すぎる日本のメダル報奨金
 日本オリンピック委員会(JOC)がリオ五輪のメダリストに支払う奨励金は総額で1億5000万円弱だという。桁が一つ間違っているのではないかと考えるのは私だけでないだろう。これに比べ、リオ五輪閉会式におけるわずか8分間の安倍マリオ演出にかかった費用が12億円だと報道されている。本当にそうだとすると、主役であるはずの選手に報いることより、政治家のプレゼンスのために、五輪予算を使っていると言われても仕方がない。選手はエコノミー、政治家や役員はビジネスというのが日本の標準だから、奨励金の何倍ものお金が選手の派遣にかかわる直接経費以外の使途に使われている。一事が万事、日本の予算の使い方が間違っていないか。
 ちなみに、ハンガリーがメダリストに贈る報償金は、金メダル(個人種目)が1500万円、ペア種目1名当たり1500x0.9万円、3~8名の団体競技1名当たり1500x0.8万円、9名以上の団体競技1名当たり1500x0.75万円である。銀メダル(個人種目)が1000万円、銅メダル(個人種目)800万円、4位(個人種目)600万円、5位(個人種目)400万円、6位300万円、7位150万円、8位80万円で、銀メダル以下についても、個人種目の報奨金をベースに、ペア種目が90%、3~8名の団体競技が80%、9名以上が60-75%と報奨金が手厚く支給される。
 プロ競技がないオリンピック種目の選手は、競技生活を維持することや、競技から引退した後の生活に不安を抱えている。将来の生活設計が描けないスポーツ競技に、優れた運動能力をもっている青年が集まるはずがない。だから、現役時代に世界で活躍する選手には、もっと手厚く奨励金や報奨金を与え、選手の肖像権などから得られる収益を還元するなどして、選手が引退した後の生活が計算できるようにしなければならない。そうでなければ、五輪で活躍できる選手を多く生み出すことなどできない。まして、政治家のプレゼンスが目立つ五輪など噴飯物だ。予算を無駄遣いし、選手の将来より、権力維持に利用する政治家の姿は醜い。

ハンガリーのアイアン・レイディ(鉄の女)
 ハンガリーの女子競泳選手、ホッスー・カティンカは、200mと400mの個人メドレー、100m背泳ぎで金メダル、200m背泳ぎで銀メダルを獲得した。彼女がハンガリー政府から獲得する報奨金総額は、6000万円近い。短水路W杯の常連で、世界各地のW杯大会を連戦し、それぞれ2日間の日程で8種目程度の競技にエントリーする強者である。その彼女とハンガリー水連との関係は良くない。
 今年初め、ホッスーは記者会見を開き、来年ブダペストで開催される世界選手権のプロモーションビデオへの出演料1000万Ft(およそ400万円)の契約書(水泳連盟が提示したもの)をTVカメラの前で破って見せた。選手への支援システムがなっていないというのがその理由だった。後から分かったことだが、プロモーションビデオへの出演1秒当たり、200Ft(80万円)を要求したようだ。要するに、端金の契約書にはサインしないと言うことなのだ。
 この会見の後、水泳連盟のヘッドコーチが辞任し、それを首相が翻意するように説得するという一幕があった。そのこともあって、水連や政府はホッスーへの対応に手を焼いていて、何とも気まずい関係が続いている。日本ならとっくに五輪派遣資格を取り消すような騒動である。
 ロンドン五輪の前、ホッスーは南カリフォルニア大学へ留学したが、十分な指導を得ることができず、ロンドン五輪は惨敗に終わった。その後、大学で知り合ったトゥスップ・シャインと結婚し、夫と二人で新たな道を開くことになった。シャインはもともと水泳コーチではなく、大学で保健学と経営学を専攻した水泳の素人である。しかし、シャインはブダペストに移り住み、二人三脚でハンガリーの水泳クラブでトレーニングを積むことになった。
 彼らは1日9~10時間の猛烈なトレーニングを始めた。また、世界各地で開催されるW杯大会にはすべて参加し、都市から都市へと移動しながら、実戦でトレーニングを積むスタイルを確立してきた。移動したその日でも8時間のトレーニングを行い、2日間で多くの種目をこなし、次の都市へと移動する日々を続けてきた。短水路W杯で数多くの金メダルを獲得していることは、周知の事実である。
 ハンガリー水連はW杯のすべての大会にホッスーを送り込む予算も意図もなく、夫でコーチのシャインが大会主催者と掛け合って宿舎や渡航費の援助を得てきた。だから、ホッスーとシャイン夫妻には、ハンガリー水連の力を借りずに、自分たちで道を開いてきたという自負がある。だから、400万円程度のお金で肖像権を売るようなことはしないということなのだ。
 彼らはアイアン・レイディをブランドにしたシャツなどを販売し始めた。現役時代に稼がねば、そのチャンスは永遠に失われる。水泳選手の競技生活は長くはないし、大衆的プロスポーツのような大きな賞金を稼ぐチャンスはほとんどない。W杯の賞金は小遣い程度のものだ。だから、肖像権を最大限に活用し、競技生活を終えた後の生活や事業を始める資金を蓄える必要がある。肖像権を安く売ることができない理由である。だから、夫のシャインは、ホッスーが生み出す価値の事業化や将来計画を掌握している。
 このホッスーに比べれば、五輪の賞金を老後の世界一周資金に貯めておくという萩野選手は可愛いものだ。しかし、萩野選手にしても、今のうちに蓄えられるものを積み上げないと、競技生活を終えた後の生活の土台を築くことはできない。
 賞金を稼ぐことができるプロの大会がないスポーツ競技で、世界を極めるのに精神論だけではもう通用しない。世界の頂点に立てば新しい未来が開けるという展望が必要だ。そのためにも、世界の頂点に立った選手の努力と成果にそれなりの報償金で報い、将来の生活を支えてやることが不可欠である。ホッスーの事例は競技連盟にとっては不都合極まりない案件だが、プロのないスポーツ競技に参加する選手の将来生活をどう支えていくのかという根本的な問題を問いかけている。それぞれのスポーツ競技連盟がそこまで知恵が回らなければ、選手自身が主導的に問題を投げかける以外に方法がない。

工夫のない五輪のプロ競技
 五輪に加えられた競技のなかで、日常的にプロの大会が行われている競技は今一つ活気に欠けた。錦織の銅メダルを騒いでいるのは日本だけだ。テニスにしてもゴルフにしても、リオ五輪の競技は通常のプロの大きな大会に比べ、かなり格下の大会レベルに相当するものだった。テニスで言えばATP500レベル程度の大会で、ゴルフなどは観客がほとんどいない練習ラウンドのような感じである。さすがにゴルフ選手からは大会のあり方を見直す意見が出されたが、テニス選手からそういう意見が出ないのは不思議だ。
 そもそも、五輪でプロの大会と同じ形式の競技を漫然と行う競技主催組織の見識が疑われる。そこには何の知恵も工夫もない。しかも、トップ選手が数多く欠けて、白けた大会になってしまった。五輪で行うなら、もっと競技方法の工夫が必要だ。
 ゴルフ選手からは団体戦を行うべきという意見が出たように、テニスを五輪種目に残すなら、通常のツアーでは行われない団体競技に、たとえば男女混合の団体競技にして、五輪の特徴をだすべきだろう。男女の単複、混同複の5種目で8ヵ国程度の参加で競えば、男女を含めた国のテニスレベルを推し量る興味深い競技になるだろう。デ杯ともフェデレーション杯とも違う団体競技になる。こういう工夫でもしない限り、テニスやゴルフを五輪競技に含める意味はない。各競技団体の見識が問われている。
 同じことは野球についても言える。WBC大会ですら迫力に欠けるのに、同じような中途半端な大会を五輪で開くのは能がない。まして野球が全く普及していないヨーロッパの五輪で、まったくなじみのない不可思議な競技にスペースや時間を割く余裕などないだろう。観客を集めることなどできない。野球はサッカーと違って、世界的に普及しているスポーツではないから、サッカーのように23歳以下のチーム編成にしても、何のインパクトもない。そもそも五輪には相応しくないということだ。18歳以下のユース大会なら、少しは普及の意味が見いだせるかもしれないが。
 各競技団体はもう少し頭を使って、知恵を絞らないと、五輪はプロの格下大会という位置づけは変わらないだろう。
2016.08.23  最悪の結末をかろうじて免れた錦織選手
盛田常夫 (在ブダペスト、経済学者)

 リオ五輪テニスで錦織選手が銅メダルを獲得したことに、ほとんどすべてのメディアは、「96年振りのメダル。今後の活躍に大きな収穫」と賞賛しているだけでなく、テニスの専門家も一様に「偉業」を称えている。ゲームの流れが変わった中で勝ち切れたことは高く評価されるが、日本国内の評価はあまりに我田引水的で、プロテニス選手への言葉としてあまりに情緒的すぎる。日本代表を背負って頑張ってくれた錦織選手の戦いを称えるだけでなく、プロ選手として頂点を極めるための今後の課題を明確に指摘すべきだろう。植田日本代表監督は、「今後のテニス人生にすごく大きなものをもたらす」というが、数多くのスリリングな試合をこなし、確固とした地位を築いている選手への言葉としてはあまりに平凡だ。あたかも駆け出しの選手へのありきたりの言葉は、世界のトッププロへの言葉としてはいささかアマチュア的な印象を拭いきれない。「東京五輪への弾みになる」という馬鹿なコメントをしている人もいるが、プロの選手は五輪のために戦っているわけではない。
 そもそも、現在のテニス界のレベルの高さや競技の厳しさは、100年前の高等遊民のボール遊びとは比較できないし、五輪テニスの成績がプロテニストーナメントに影響することはない。そのことは錦織が一番よく分かっている。とりあえず、ナダルに負けなかったことは救いだが、逆にマレーに完敗した事実やデル・ポトルの復活は、これからのトーナメントの厳しさを感じさせるものになった。
 
 五輪はプロテニス選手にとって、息抜き的なエキジビション・マッチに過ぎない。ゴルフや野球と同様に、選手の真剣度はかなり劣る。それでも、プロテニスの世界ですべてのタイトルを獲得した選手にとって、4年に一度しかめぐってこない金メダルの称号は、最後に取るべきタイトルであることは間違いない。歴代最高の選手と評価されるフェデラーは、テニス五輪復活が全盛期とわずかに外れたことで、その獲得チャンスを失った。ともあれ、五輪金メダルはプロテニス選手としてすべてのことを成し遂げた後に得られる最後の称号なのである。
 今時のリオ五輪で、すでに北京五輪でシングルスの金メダルを獲得しているナダルは、故障明けにもかかわらずダブルスとミックスダブルス(棄権)にもエントリーし、五輪タイトルの勲章の総なめを狙った。ダブルスは見事優勝したが、シングルスは準決勝でデル・ポトル選手に負けてしまった。この試合を見る限り、ナダルの状態は全盛期の8割程度の出来だった。しかも、前日にはシングルスとダブルスの試合をそれぞれ2時間ずつ戦っていたからなおさらである。故障明けで状態が悪く、かつ試合の連続で疲労が溜まっているナダル相手なら、錦織がストレートで勝利して当然である。
 案の定、錦織はそれを達成する寸前だった。第1セットを6-2でとり、第2セットも2度のブレークで5―2とし、サーヴィスゲームを迎えた。ふつうなら、サーヴィスゲームをしっかりとものにし、6-2、6-2の完勝で終えるはずである。ところが、このゲームを取り切れず、さらに次のサーヴィスゲームも落とし、ゲームカウント5-5と並ばれただけでなく、次のナダルのサーヴィスゲームで逆に5-6とリードされ、ゲームの流れは完全にナダルに傾いてしまった。最終的に、錦織はこのセットのタイブレークを簡単に落としてしまい、嫌な流れになってしまった。というのは、今年、ナダルとの試合は3度目だが、前2試合とも、前半を圧倒しながら、後半に巻き返されて負けているからである。この試合に負けていれば、対ナダル戦の悪い流れを断ち切ることができず、何とも後味悪い五輪参加になっていた。
 幸い、ナダルの状態は良くなく、最終第3セットでは第2セットでみせた勢いが止まり、錦織が勝利した。錦織もこの勝利にホットしたことだろう。対ナダル戦の嫌な流れを断ち切ったことは大きい。しかし、2セットで完勝するはずが、自らのサーヴィスゲームで試合を決めきれなかったところに、現在の錦織選手の弱点が露呈されている。勝敗を左右するポイントで、自らのサーヴィスゲームを取りきれない弱点が克服されていないのだ。
 錦織選手とは対照的に、手首に故障を抱えているデル・ポトル選手が初戦で盤石のジョコヴィッチを倒し決勝まで進出したことは、大きなトーナメントでいかにパワーが必要かを教えている。このトーナメントでデル・ポトル選手は破壊的なフォアハンドと高速サーヴィスだけで勝負した。左手首の状態が良いのか、これまでよりは力を入れてバックハンドをスウィングしていたが、それでもバックハンドは球を繋ぐことだけに徹し、機を見て、バックサイドに来たボールを回り込んでフォアで打ち返して、ポイントを重ねていた。コートの半分以上ががら空きになるこの戦法は、ストローク1本でポイントを決めないと簡単に逆襲を食らってしまう。短期決戦でフォアハンドの調子が良ければこの戦術は生きるが、グランドスラム大会のようなタフなトーナメントでは、この戦法には限界がある。しかし、今大会、とにかくデル・ポトル選手の高速サーヴィスと破壊的なフォアハンドは有効で、ジョコヴィッチ、ナダルを破り、マレーにも肉薄した戦いは賞賛されるだろう。
 錦織選手の課題は一にも二にも、サーヴィスである。もちろん、錦織陣営はサーヴィス強化に取り組んでいて、ファーストサーヴィスはコーナーを付いてエースをとれるように、またセカンドサーヴィスは球の回転を変えて簡単にレシーヴエースを取られないように工夫している。しかし、如何せん、サーヴィススピードそのものが不足している。サーヴィススピードだけで見れば、女子のトップ選手のそれとほとんど変わらない。これを克服しない限り、グランドスラム大会はもちろん、マスターズ1000大会で優勝することは難しい。

 トップテンに入って2年を経過した錦織は、すでにテニス史に残る選手になっている。日本の中で見ると、彼の才能は50年に1人、選手何万人に1人に割の確率でしか現れないものだ。スポーツに限らず、音楽でもゴルフでも、年に数度のコンクールやトーナメントのどこかで優勝することは天才的な才能がなくても可能だが、年間を通してトーナメントが開催され、年間を通した成績で評価される競技で、常に世界の10指に入るというのは、とてつもない才能と能力を必要とする。たとえば、ピアノやヴァイオリンなど、何百何千万のアマチュアやプロの奏者のなかで、世界のトップテンの演奏者として評価されるためには、天賦の才能がなければ叶わない。現在の世界のテニス界の厳しさはまさにこれに匹敵する。一流のスポース選手や音楽家が皆、錦織選手を高く評価しているのは、世界で戦うことの凄さを体で感じ取ることができるからだ。
 しかし、その天才錦織にして、いまだ叶わぬものが、グランドスラム大会とマスターズ1000での優勝である。世界のテニス界は長らくフェデラー、ナダル、ジョコヴィッチ、マレーの4強に支配されてきた。2014年に錦織が全米決勝に進み、チリッチと戦った時には、4強時代から新たな若い世代への転機が語られ、錦織、チリッチ、ラオニッチ、ディミトロフが次の時代を切り開くと予想された。しかし、ディミトロフは恋物語の話題と比例して、ランキングも下がり続けている。チリッチとラオニッチも今一つコンスタントに力を発揮出来ず、錦織だけがトップテンに留まるも、4強の壁を破ることができないまま、ここまで来た。
 今、錦織-チリッチの世代は「谷間の世代」と呼ばれつつある。引退が囁かれ始めたフェデラーとは年齢的にも差があるから、これからは有利な戦いになるが、ジョコヴィッチやマレーとは年齢的に余り差がなく、錦織が27歳を迎える2016年になっても、このトップ2はますます強さを増しているように見える。
 上位に絶対王者が君臨し、他方で下位から次々と新星が現れている。すでに17歳~19歳の才能あるプレーヤーがトーナメントに登場し始め、20~22歳の新世代のプレーヤーが上位に進出し始めている。彼らはジョコヴィッチやマレーとは10歳ほどの年齢的な違いがあるから、いずれ彼らの中から新世代のトッププレーヤーが生まれることは確実である。この若い新世代とビッグフォーの旧世代とに挟まれた錦織世代が頂点に立てる時間は非常に限られている。ここ1~2年が世界の頂点に立てるかどうかの時間だ。手負いのナダルに勝利したことを喜んでいる暇はない。まして、「東京五輪の弾みになる」という脳天気に構えている時間などない。

 リオ五輪ではマレーに惨敗した錦織だが、本年初頭のデ杯対英国戦では、マレーと5時間近い接戦を繰り広げている。この時のプレーはYoutubeに30分ほどのダイジェスト版で見ることできるが、今年の最高ゲームの一つに評価されるほど、息詰まる熱戦だった。敵地で、しかも球速が早い室内コートでの試合である。敵地でも物怖じしない勝負度胸と速いサーフェイスでの適応能力を見せてくれたゲームである。このような戦いがコンスタントにできれば、念願のマスターズ1000だけでなく、グランドスラム大会での優勝が見えてくる。そのためには、もう1ランク、フィジカルな強さを上げる必要がある。
2016.08.10 錦織選手のリオ五輪参加への危惧

盛田常夫 (在ブダペスト、経済学者)

 現代のテニスは女子も含め、フィジカルな強さが前提になっている。それはたんに強い打球を打てるパワーだけでなく、強い打球に耐える手首と肘の強さ、強いサーヴィスを打てる肩と上腕の強さ、異なるサーフェースを縦横無尽に動ける脚力を意味する。
 男子の一流選手のサーヴィスピードはファーストで平均200km/hで、セカンドでも170km/hを超える。ストロークスピードも130~150km/hである(錦織選手はストローク力に定評はあるが、ファーストサーヴィスの平均スピードは180km/h以下で、セカンドサーヴィスのそれは150km/h以下である)。スピードのある強い打球による荷重が腕一本にかかってくる。もちろん、下半身の強さが上体のぶれを少なくし、腕にかかる荷重を分散させるが、それができないと腕の筋肉は耐えきれない。
 トップ30で活躍する選手の中で、錦織選手は他の選手より体が一回り小さい。それ分だけ、体にかかる荷重も相対的に大きい。だから、フィジカルなハンディを抱えている錦織選手が定期的に故障するのは仕方がない。連戦が続くプロテニスの世界では、どの選手にとっても、すべてのサーフェースやトーナメントでコンスタントにフィジカル条件を維持するのが難しい。錦織選手よりはるかにフィジカルが強いと思われる選手ですら、皆、それぞれに故障を抱えていることを考えると、体を休める時間をきちんと取り、体力を回復し、コンディションを整えるプロセスが、きわめて重要なことが分かる。そのためには、可能な限り、参加するトーナメントの取捨選択が必要になる。

 ところが、トップ選手にはランクの高いトーナメントへの参加が義務づけられており、選手にとってもポイントを稼げるトーナメントは重要だから、簡単に抜けることができない。ウィンブルドン4回戦でリタイアした錦織選手の故障明け最初のトーナメントは、7月下旬のトロント(マスターズ1000)だった。鈍い動きながら、格下の選手を退け、準決勝でワブリンカを破って決勝に進出し、準優勝の600ポイントを取得した。昨年の同大会で獲得したポイントは360ポイントだから、実質240ポイントを上積みできたことになる。このポイント獲得はランキングを維持するために貴重なポイントになった。
 というのは、昨年8月のシティ・オープン(ワシントン)を連覇し、500ポイントを獲得したが、リオ五輪日程に押されて、このトーナメントが今年は7月中旬に行われたために、故障中の錦織選手は参加できなかった。この結果、昨年獲得した500ポイントは獲得日の1年後にあたる8月8日に消滅する。さらに、トロントで獲得した600ポイントのうち、昨年の360ポイントが8月15日に消滅する。これに伴い、8月8日にはランキング一つ下がり、現在の6位から7位に落ちることになる。また、8月15日には年間ポイントが4000ポイントを切ることになる。ランキングベスト4でなければ、6位も7位は大差ないが、トーナメントシードで有利になるベスト4への道が遠くなることだけは確かである。
 幸い、リオ五輪の後に開催されるシンシナティ(マスターズ1000)では、昨年の欠場によって失うポイントはないから、勝ち上がればポイントを上積みできる。ここで、少なくともベスト8、できればベスト4まで勝ち進みたいところだ。全米オープンも、昨年は1回戦負けで10ポイントしか獲得していないから、ここでも勝ち進めばポイントを上積みできる。だから、五輪直後の二つのトーナメントはランキングを維持する上で、たいへん重要な意味をもっている。

 問題は、昨年夏もシティ・オープンから好調を維持しながら、途中で故障し、全米オープン1回戦で敗退した苦い経験があることだ。体調が万全でなければ、グランドスラム大会の長丁場を戦い抜くことはできない。リオ五輪が終われば、すぐにシンシナティのトーナメントが始まり、それが終わって1週間すると全米オープンが始まる。錦織選手に、この長丁場を戦い抜く体力があるかどうかだ。ただでさえフィジカルな弱さが指摘される錦織選手である。ランキングポイントが付かない五輪参加のために、その後のトーナメントの戦いに支障がでれば、ランキングを維持できなくなり、自分で自分の首を絞めることになる。トップテンの選手の半分が参加しない理由である。

 五輪に参加する上位選手(ジョコヴィッチ、マレー、ナダル)は、皆、グランドスラム大会やマスターズ1000を制したことのある選手である。だから、もう一つの勲章として、五輪の金メダルを狙っている。彼らは金メダル以外、眼中にない。しかし、錦織選手はグランドスラム4大会だけでなく、年間9トーナメント開催されるマスターズ1000すら制したことがない。これらの大会を制する可能性を秘める錦織選手だからこそ、皆、五輪での活躍ではなく、五輪以後の2つの大きなトーナメントでの活躍を期待している。ポイントが付かず、トップテンの半数が欠場する大会で、金メダル以外のメダルを獲得しても、日本のテニスファンは喜ばないだろう。リオ五輪に出場したがために、次に続くトーナメントの試合に影響が出れば、錦織選手の選手生命にかかわる。

 春先に行われた2009年のWBC大会で、松坂投手が股関節の故障を押して連投した結果、肩を痛め、そのシーズンを棒に振ってしまった。以後、大リーグにおける松坂選手の選手生命は事実上、終わってしまった。トップ選手の故障は選手生命にかかわる。2009年に20歳で全米オープンを制し、パワーで錦織選手を寄せ付けなかったデル・ポトロ選手は、2010年に利き腕でもない左手首を痛め、両手打ちのバックハンドができなくなったために、現在もなおトーナメントに参加したり棄権したりを繰り返している。今年、急成長した若手の最有力選手テイームは、連戦に次ぐ連戦で、今季すでに48戦勝利してポイントを荒稼ぎし、トップテンに躍り出たが、案の定、ここにきて疲労が出て、ここ3トーナメントはほとんどポイントを稼げず、最後のトロントでは初戦の2回戦で股関節の故障でリタイアを余儀なくされた。
 
 五輪に出たいという選手の意思は尊重されなければならないが、プロとしての選手生命を犠牲にしてまで出場する意味はない。もっとも、エキジビジョンマッチとして、上位の選手の状態を確認する意図であれば、全米オープンへの準備にはなるが。マスコミが騒ぐような「メダルのチャンス」は無責任な期待で、どんな色でも良いからメダル数を増やそうというのは、個人を犠牲にして、国家的高揚を図るもので、賛成できない。

2015.11.13  何のために開催するのか東京五輪
          未だにはっきりしない開催の意義づけ

岩垂 弘 (ジャーナリスト)

 2020年夏季オリンピックの東京開催が国際オリンピック委員会(IOC)総会で決定してから、すでに2年余。本来なら、開催に向けた準備作業が順調に進んでいていい時期なのに、もたもたしている。大会に向けた新国立競技場建設計画と、大会のシンボルとされる公式エンブレム決定の白紙撤回という不祥事が相次いだからである。まことに憂慮すべき事態だが、それ以上に気がかりなのは、いまだに2020年東京オリンピックのテーマというかコンセプトがはっきりしないことだ。

 先日、所用があって、東京の明治神宮外苑を訪れた。その一角にあった国立競技場はすでに跡形もなかった。それは、今から51年前に開かれた1964年東京オリンピックのメイン会場だったが、そこに2020年東京オリンピック用の新国立競技場を建設するために早々と取り壊されたしまった。2020年東京オリンピックでは、この国立競技場を改修して使えばいいと私は思っていたから、早々と取り壊されたことに疑問を抱かざるを得なかった。

 とまれ、その巨大な跡地は、背の高い白い板塀でぐるりと囲まれ、中をのぞき見ることはできなかった。おそらく、広大な更地が広がっているのだろう、と思われた。
 白い板塀の前に立つ警備員の姿はちらほら。総じて人の気配に乏しい寂しい風景で、オリンピックを控えた活気は感じられなかった。

 なぜか。それは、新国立競技場の建設工事が大幅に遅れているからである。当初の計画では、建設工事はこの10月から始まるはずであったが、イラク出身の建築家、ザハ・ハディド氏のデザインを採用した新国立競技場の建設費が当初の見積もりを大幅に上回ることが明らかになり、政府は7月17日、新国立競技場建設計画を白紙撤回せざるを得なかった。
 政府は競技場設計案の再公募を開始したが12月末には設計案を選定し、来年1月か2月には工事に着工したい、としている。国立競技場跡地は更地のまま野ざらしという状態が当分続きそうだ。

 一方、エンブレム問題では、佐野研二郎氏がデザインしたエンブレムが盗作騒ぎを起こし、大会組織委員会は「国民の理解を得られない」として、9月1日に使用中止を決定、代わりのエンブレムの再公募に踏み切った。応募締め切りは12月7日だ。

 不祥事はその後も続く。11月6日付朝日新聞によれば、白紙撤回された新国立競技場の旧建設計画で、事業主体の日本スポーツ振興センター(JSC)が昨年、契約書に河野一郎理事長(当時)の記名押印がないまま約25億7000万円の設計契約を結んでいたことが、会計検査院の調べで分かった。
 
 こうしたなんともみっともない事態を生じさせた関係団体、関係者の無責任ぶりには腹が立つが、大会に向けての準備作業に対する私のもう一つの不満は、大会のテーマというかコンセプトというか、要するに大会の主題が未だにはっきりしないばかりか、それを巡る国民的論議もないことだ。

 オリンピックはオリンピック憲章に基づいて開催されることになっており、そこには「オリンピズムの目標は、スポーツを人類の調和のとれた発達に役立てることにあり、その目的は、人間の尊厳保持に重きを置く、平和な社会を推進することにある」とある。過去の大会は、この規定をベースに、その時々の世界の状況や課題、加えて開催国の願望を反映した主題を掲げてきたわけである。
 
 1964年東京オリンピックは、どうであったか。
 私の書棚に古びた2冊のグラフがある。『毎日グラフ臨時増刊 オリンピック東京1964』(毎日新聞社、1964年11月3日発行)と『東京オリンピック 記念特集号』(国際情報社、1964年11月1日発行)。当時、私は全国紙の記者で、社会部取材陣の一員として東京オリンピックの取材に携わったことから、「将来、東京オリンピックを思い返すこともあるだろうから、その時の記憶回復のための手がかりに」と買い求めたのが、この2冊だった。

 2冊を、51年ぶりにひもといてみた。まず、『毎日グラフ臨時増刊 オリンピック東京1964』。1ページは開会式で入場行進する日本選手団のカラー写真で、キャプションは「世界は一つ 東京オリンピック」。
 『東京オリンピック 記念特集号』では、4~5ページの見開きに開会式の全景写真(これもカラー)が収録されており、キャプションの見出しは「この聖火のもと“世界はひとつ”」。キャプションの本文には「澄みきった青空の下に参加九十四カ国、六千人の若人が、『世界はひとつ』の東京大会の理想を結実させるために集まって来たのである」「自由諸国の国もあれば共産圏の国々もある。肌の色も違えば、宗教もまた国によって異なる。しかし、聖火の下に集まった若人たちの胸には国境もなければ、差別もない」とあった。
 
 念のため、『大百科事典』(平凡社、1985年発行)もめくってみた。「東京オリンピック大会」という項目があり、そこには「1959年のIOC総会で東京開催が決定されると、政府主導で大会組織委員会が設置され、国家の威信をかけた国策事業として取り組まれ、<アジアで初めて><世界は一つ>の標語のもと、聖火を国内4班に分けて全国リレーするオリンピック・キャンペーンがくりひろげられた」とあった。
 
 1964年東京オリンピックの主題は、「世界は一つ」だったのである。

 1950年代から60年代にかけての世界は、米国とソ連という2大核超大国が対決していた時代であった。50年に朝鮮戦争、54年にビキニ事件、56年にハンガリー事件やスエズ戦争、61年に東独によるベルリンの壁構築、62年にキューバ危機、64年にはトンキン湾事件が起き、米ソによる核軍拡競争は激化する一方だった。世界各国は米ソ両国からの囲い込みにあい、東西両陣営への分極化が進んでいた。だから、世界の民衆は緊張緩和と世界平和の実現を希求していた。1964年東京オリンピックが掲げた標語「世界は一つ」は、そうした世界の民衆の願いに応えたものだったとみていいのではないか。
  
 2020年東京オリンピックの招致にあたって、日本が掲げた大会のコンセプトは「復興五輪」だった。オリンピックを東日本大震災からの復興のシンボルにしようというわけだ。このため、安倍首相はIOCの総会での招致演説で「フクシマについて、お案じの向きには、私から保証をいたします。状況は、統御(アンダー・コントロール)されています」と胸を張った。
 しかし、その後、東日本大震災の復興は遅れており、東電福島第1原発の事故による汚染水問題も未解決のままだ。このため、「オリンピックを復興のシンボルに」という声はかすみがち。かといって「復興五輪」に代わるコンセプトの提案は関係団体からも国民の側からも聞こえてこない。
 
 20世紀は「戦争と革命の世紀」といわれた。21世紀こそ平和の世紀に、という世界の民衆の願いをよそに、21世紀は引き続き「戦争の世紀」の様相を呈している。すなわち、2001年の9・11事件を機に米国は反テロ戦争を始め、米軍の攻撃はイラク、そしてアフガニスタンに及んだ。アフガン戦争はまだ続いている。それに、解決のめどがたたないパレスチナ問題や深刻化するシリア内戦と難民問題。加えて、クリミア半島を巡るウクライナとロシアの争いと、激化する「イスラム国」(IS)によるテロ活動……。
 こうした今日の世界情勢に目を向ければ、2020年東京オリンピックの主題はやはり「平和」とすべきではないか。そう思えてならない。
 
2015.08.17  小さな水泳大国ハンガリー

盛田常夫 (在ブダペスト、経済学者)

 ロシア・タタールスタン共和国カザンで開催された世界水泳が幕を閉じた。ハンガリーは日本と同じく、金メダル3個を獲得し、さらに銀メダル2個、銅メダル4個で、日本のメダル数を上回った。今大会前の世界選手権メダル獲得総数で、ハンガリーは7位にランクインしており、17位の日本を上回っている。国は小さいが、なかなかの水泳王国である。
 ハンガリーは伝統的に水球が強く、男子の世界ランクは2位である。しかし、今大会は6位に甘んじた。女子の世界ランクは5位だが、今大会は9位に沈んだ。あまり知られていないが、ハンガリーに水球留学している日本の水球男子選手は多い。当地のプロクラブに所属し、鍛錬を積んでいる。ハンガリーから南の諸国、セルビア、クロアチア、マケドニア、イタリア、ギリシアは水球が盛んで、それぞれの国がプロリーグをもっている。水球は水の格闘技と呼ばれるほど激しい競技で、水面下では手と足を使った激しい蹴り合いが繰り広げられる。これら諸国の水球選手、とくに南スラブ民族はみな体格が良く、平均で190cm、100kgほどだから、日本選手との体格差は大きい。競技人口も少ない水球で、日本が上位に食い込むことは難しい。

 1956年ハンガリー動乱直後のメルボルン五輪水球で、ソ連と対戦したハンガリー選手が流血しながらソ連を破り、決勝でもユーゴスラビアを破って金メダルを獲得した。このエピソードをもとにした映画「君の涙ドナウに流れ-ハンガリー1956」が制作され、日本でも放映された。メルボルン五輪に参加したハンガリー選手のおよそ半数がハンガリーに戻らず亡命した。これらの選手のなかから、亡命先で世界的な選手を育てた有能なコーチが生まれ、水球を普及する役割などを担った。
 アカデミー賞受賞監督サボ-・イシュトヴァーンの「太陽の雫」はハンガリーのユダヤ人家族の三代記を描いた長編映画だが、2代目の主人公がベルリンオリンピックのフェンシング団体で優勝し、アメリカ亡命への誘いを受けるがハンガリーに留まり、やがてユダヤ人弾圧で強殺される状況が詳細に描かれている。フェンシングもまた、ハンガリーの伝統的な競技のひとつである。

 ハンガリーが水の競技に強いのには理由がある。一つはハンガリー国内に点在する温泉を利用した温水プールの存在である。ブダペストにはドナウ河を境とする断層があり、そこから温泉が湧き出ている。ドナウ河沿いには公衆浴場、ホテル、プールが並んでいて、どのスポーツクラブもスイミングスクールを開いており、子供の頃から年間を通して泳ぎや水球に親しむことができる。
 もう一つは中欧最大の淡水湖バラトンである。琵琶湖ほどの大きさを持つバラトン湖は、第一次世界大戦でアドリア海への出口を失ったハンガリーにとって、アドリア海に代わるハンガリーの海になった。ここでは毎夏、湖を横断する遠泳大会が催される。ロンドン五輪オープンウォーター女子10kmで競泳から転向したリストフ・エヴァが金メダルを獲得したが、今年の女子25kmでは21歳のオラス・アンナが銀メダルを獲得した。1500mでは22歳のカパシュ・ボグラールカが15分47秒で銅メダルを獲得した。
 ハンガリーは日本と良く似ていて、自由形の短・中距離に強い選手が輩出せず、伝統的に平泳ぎや個人メドレーが強い。北島康介から平泳ぎのタイトルを奪ったジュルタ・ダーニエルは今大会こそ銅メダル(200m)に終わったが、世界選手権では三大会連続金メダリストで、ロンドン五輪の200m平泳ぎの金メダリストである。個人メドレーを専門とするチェ・ラースローは、今大会ではバタフライに特化し、50mで銅メダル、100mで銀メダル、200mで金メダルを獲得した。ハンガリーの美人スイマー、ホッスー・カティンカは、世界新記録で200m個人メドレーを制し、400mも金メダルを獲得した。荻野公介選手と同様に万能型の選手で、彼女は平泳ぎを除くすべての競技に出場し、背泳ぎでは200m五輪三連覇を果たしたハンガリーの伝説的なスィマー、エゲルセギ・クリステーナを超える記録で、銅メダルを獲得した。200m自由形の決勝で5着となり、ほとんど休憩時間なしに行われた200mバタフライは準決勝で敗退してしまった。2分4秒台の記録をもっているから、もし決勝に残っていれば、星選手の強敵になったはずである。

 2017年の世界選手権はブダペストで開催される。競泳はドナウ河に浮かぶ中之島、マルギット島に新設されるプールで行われるが、男子27m、女子20mのダイヴィング競技は、ドナウ河に架かる鎖橋の上にタワーが設置され、そこから飛び込むドナウ河には特設プールが用意される。世界遺産のブダ王宮(現在は国立ギャラリーと大統領官邸)を背景にしたダイヴィングは壮観なものとなろう。
 手許に情報はないが、オープンウォーター競技は、バラトン湖で行われることになるだろう。
2015.06.29   東京五輪で問われるレストランでの喫煙
喫煙とプロフェショナリズム
ナショナルトレセンの喫煙に見るスポーツ界の意識の低さ(2)

盛田常夫 (在ブダペスト、経済学者)

 ナショナルトレセンでの喫煙で処分されたハンドボール日本代表選手8名が、代表復帰したという。JOCではトレセンでの喫煙問題が討議され、山口香理事が喫煙所廃止の後も、屋外で喫煙スペースが確保されていることに異議を唱えたのにたいし、山下泰裕理事は「仕事のペースが上がる人もいるから、スペースは残した方が良い」と発言したと報道されている。
 日本のスポーツ界における喫煙問題は根が深い。とくに柔道のような封建的上下関係が支配する世界では、アスリートの自己管理という観念が著しく欠如している。山下理事すらこのように発言するのだから、この問題で意見をまとめるのが難しいことがわかる。
 心肺機能を使うスポーツ選手にとって、喫煙は嗜好の問題ではない。自らの体調を整え、競技に向かう基本的な自己管理の問題である。たばこの煙が声帯を痛め、タール分が肺の細胞に付着することによって、酸素摂取量が減退していく。だから、スポーツ選手のみならず、歌手にとっても喫煙は禁忌のはずである。しかし、日本では喫煙の弊害にたいする認識は非常に甘い。

野球選手に喫煙者が多い訳
 野球はスポーツの中でも特異なスポーツで、練習は別として、試合中に球がまったく飛んで来ない守備位置もある。それにたいして、投手には過度な負荷がかかる。しかし、その投手の負荷も、主として腕と肩の筋力や肘にかかる。投球動作も1-2秒と短いので、心肺機能にはほとんど関係しない。打者の場合も同じである。短時間の瞬間的な動作から構成される野球では、心肺機能より、筋力や捕球感覚を鍛えることが中心になる。したがって、野球選手の喫煙が問題にされることはほとんどない。
 だからといって、喫煙が野球選手にとってプラスになることはない。走るという動作が重要な要素である限り、心肺機能の鍛錬が不要なはずはない。第一線で息長く活躍しようと思えば、禁煙で自己管理を徹底しなければならない。自己管理ができない選手はプロ意識に欠けると言われても仕方がない。紙一重の実力差で競っているプロ野球で、喫煙のハンディを自ら背負うほど、馬鹿げたことはない。

喫煙しながらできるゴルフ
 最近はあまり見かけなくなったが、一昔前のゴルフ中継で、青木功氏がアウェイを移動しながらたばこを蒸かし、ショットの前にキャディーにたばこを渡し、打った後にまたたばこを吸い続ける光景が良く映し出された。たばこを吸いながらプレーできるのは、心肺機能を使わないからである。ゴルフはスポーツでなく、一種の遊戯だと考えれば説明がつく。この光景を勘違いして、スポーツ選手はたばこを吸っても問題ないと考えてはならない。
 ゴルフに肺活量や心肺機能はほとんど関係しない。ゴルフのスウィングは高々、10分の1秒単位の動作である。100回スウィングしても、2分の運動に満たないから、そのエネルギー量は高が知れている。お遊びだから、たばこを吸いながらでもできる。吸うか吸わないかは、それこそエチケットの問題にすぎない。
 ゴルフが体に良いというのは、普段歩いていない人が、広いゴルフ場を歩くから、少しは健康に良いという程度のこと。しかし、だらだら歩くのでは体力増強にはならないし、カートに乗って移動すれば僅かに残された運動効果もない。ホールアウトした後のビールは、ただ無駄なカロリーとして体に蓄積されるだけだ。

相撲取りの喫煙
 元大関貴ノ浪の音羽山親方が43歳の若さで急逝した。現役時代から心臓病を抱えていたにもかかわらず、毎日たばこ40本を蒸かし、日本酒を三升も飲み干していたという。音羽山親方の例に留まらず、相撲取りには喫煙者が多い。
場所前の稽古は別として、本場所の勝負は短いもので数秒、長いものでも2分程度の運動だ。短時間の勝負なので、心肺機能よりは、筋力がものをいう。力士は四股で足腰を鍛えているから、短距離走はけっこう速い。しかし、50mを超える距離になると、スピードは急に落ちる。足腰が疲れる前に、息が続かない。距離が伸びるに連れ、体重が負荷となり、心肺機能がダウンする。
 相撲取りにとっても、心肺機能を高めるように禁煙で節制した方が良いに決まっている。しかし、それより、体重を増やし、筋肉を付けることが先決で、心肺機能の強化の優先度は低い。長距離走をやるわけではないから、減量も不要である。
 他方、柔道選手の場合は、5~6分勝負を1日で何試合も行うから、早く息が上がっては勝負にならない。だから、心肺機能を高め、禁煙で節制することが不可欠だが、それを実行できないのが日本の柔道界。山下JOC理事の発言が、この問題を象徴している。
 合宿所での寝起きが義務づけられている競技や上下関係が強い競技の世界では、自己管理とは別の論理や規則でチームが動いている。高校や大学の合宿所における上級生と下級生は天皇と一兵卒のような関係にあり、上級生が酒を飲んだり、たばこを吸ったりするのは、上に立つ者の特権になっている。日本のスポーツにおける合宿所システムや相撲部屋のような上下関係が厳しい世界では、純粋なスポーツの論理ではなく、支配-被支配の人間関係が幅を利かしている。こういう世界で育った人々が指導者になるのだから、指導者にも必然的に喫煙者が多くなる。喫煙の弊害を教え、自己管理の重要性を教えることなどできない。スポーツにおける喫煙容認は、日本のスポーツ界の封建的体質の一つでもある。

このように、日本のスポーツ界は、選手の故障と喫煙にかんして、きわめて意識が低い。さらに、柔道のような伝統的スポーツには軍隊的な指導を是とする風潮が残っており、選手同士の上下関係や、選手と指導者の封建的関係という負の連鎖が再生産される。だから、協会組織と指導部の民主化が必要なのだ。まず協会幹部自らが襟を正し節制し、喫煙がもたらすハンディを自覚し、自己管理を徹底することの重要性を教えなければならない。
日本のスポーツ界の封建制を考えれば、たんにトレセンを禁煙にして終わりではなく、スポーツ選手に喫煙の弊害を教え、選手としての自己管理の重要性を教えることも、トレセンの一つの課題にしなければならない。

歌手の喫煙
 歌手にとって、声帯を守り、肺活量を高めて声量を維持することは最低の自己管理である。もっとも、軽音楽や歌謡曲の歌手の場合には、それほど神経質になる必要はないもしれない。ほとんどの歌手は節回しのテクニックで、声量をカバーできるからだ。しかし、クラッシック音楽の歌手は小手先のテクニックで歌唱力を誤魔化せない。肺活量や声帯は歌手の命だから、喫煙は声楽家にとって禁忌である。
ところが、クラシックの声楽の世界にも、稀にヘヴィースモーカーがいる。ドイツのバリトン歌手だったディートリッヒ・フィッシャー=ディースカウはテレビインタビューでもたばこを蒸かすヘヴィースモーカーだった。彼もテノール歌手であれば、喫煙は致命的だっただろうが、幸い、バリトン歌手で、しかもドイツリートを得意とする歌手だったから、喫煙の弊害が顕著にならなかった。ドイツリートなどは、ドイツ人にとって演歌のようなものだから、テクニックで十分に勝負できたのだろう。外国人がドイツリートを歌うのとは訳が違う。そこを間違えて、喫煙は歌唱に何の障害もないと考えてはならない。喫煙は確実に肺活量を減退させ、声帯を傷つける。
ハンガリーのソプラノ歌手、シャッシュ・スィルヴィアもヘヴィースモーカーとして知られていた。若くして、国際舞台で活躍したが、華やかな現役生活はそれほど長くなかった。彼女の場合には、喫煙が確実に歌手生命を縮めた。
実は、ハンガリーのプロの合唱団でも、喫煙常習者が少なくない。とくに男性団員の1割以上は喫煙者である。指揮者の小林研一郎氏はたばこの煙を非常に嫌い、合唱団員が加わったレセプションで、会場内の喫煙を叱責することがある。声で勝負し、声で生活する者が、喫煙によって自らの仕事道具を壊すことは許されない。肺活量を必要とする金管楽器の奏者にも喫煙者が少ないとは言えない。プロの音楽家の自覚が足りない。プロの仕事をしようとすれば、禁煙するのが最低限の自己管理である。それができない人に、良い仕事は期待できない。


 EU内のホテルとレストランでは禁煙の措置が取られるようになっているが、この面で日本は遅れている。東京五輪で禁煙措置を取るか否かは検討中のようだが、日本に帰国して気になるのは、小料理屋や食堂が喫煙可になっていることだ。たばこの煙が蔓延すれば、料理の味が消されてしまう。
居酒屋ならいざしらず、味で勝負するレストランは喫煙を許してはならない。幸い、寿司屋の多くが禁煙措置を取っている。煙を吸いながら、寿司ネタを味わうことができないからだ。甘味料の入ったコーラ類を提供しない寿司屋が多いのも、繊細なネタの味を堪能できないからだ。寿司屋でコーラを注文したり喫煙したりする人は繊細な味覚に鈍感だから、寿司や日本食の本当の旨さや良さを堪能できない。外国の客人に和食を嗜(たしな)んでもらおうと思うなら、レストランはまず禁煙にし、日本食を味わう作法から学んでもらわなければならない。そのためにも、ホスト都市が禁煙措置を取ることは、最低限のおもてなしなのだ。
 スポーツ選手のみならず、一般人も喫煙の弊害をもっと意識して、生活習慣を変える必要がある。