2017.01.25 経済学の貧困と経済学者の劣化(4)
労働力人口は成長の決定要因ではないのか―吉川洋著『人口と日本経済』を質す(続)

盛田常夫 (在ブダペスト、経済学者)

キャッチアップ過程における労働力価値の再評価
(前回に続いて、労働力人口と労働生産性についての吉川洋氏の考え方を検討する)
もう1点、吉川氏の議論から完全に欠落している視点がある。それは高度成長期の非常に高いGDP成長率が、労働生産性の上昇だけでは説明できないことだ。労働生産性と並んでGDPを押し上げた要因は、「経済のキャッチアップ過程で生じる生産要素(とくに労働力)の再評価」である。これは市場の価値評価の変動から生じる。
戦争で破壊された経済が再び市場経済として再確立する過程は、世界市場へのキャッチアップ過程である。とくに、日本のような戦前の段階ですでに高い教育水準を保有していた国では、市場経済の破壊によって生産要素(とくに労働力)は極端に過小評価される。戦後の混乱期を乗り越え、市場化の進展と国際市場への統合というキャッチアップ過程で、高い質を持った労働力が再び社会的分業に組織化され、次第に国際的な価値評価を受けるようになる。1970年代初めに至る日本の高度成長時代は、固定為替レート下で極端に過少評価されている労働力の価値評価が急激にかつ連続的に是正されるプロセスである。このプロセスの中で、労働力価値が短期間に数倍の上方調整を受け、実質GDPが急上昇する。それは労働力の質の上昇ではなく、既存の労働力の質の再評価である。吉川氏の著書はこのような高度成長の動態分析を欠いており、あたかも高度成長が労働以外から生み出されるかのような幻想を与えている。そして、その幻想を三文「評論家」がアベノミクス賞賛に利用している。
 労働力の増加は経済成長と関係ないのではなく、「労働力の量的質的な増加と労働力の価値再評価プロセス」が、戦後日本の高度経済成長を生み出したのである。
労働力の価値再評価プロセスは日本の高度成長のみならず、社会主義制度が崩壊した中・東欧諸国にも見られる普遍的な現象で、旧体制の崩壊によって過少評価された労働力が、市場経済化と国境開放による世界市場への統合の進行に伴って、短期間のうちに大幅な再評価(価値の上昇)を受けた。ここでも、「労働とは無関係の『生産性』が作用したのではなく、市場化の進行による労働力価値の連続的な再評価プロセスが進行した」のである。
 このように、労働の質の向上や労働力価値の再評価は、労働力と切り離された労働生産性ではなく、労働力そのものから生み出される労働生産性の構成要素である。したがって、吉川氏のように、高度成長時代の労働生産性の上昇を、労働から切り離された資本蓄積やイノヴェーションで説明するのは間違っている。まして、「経済成長は労働力の増加と関係がない」と断言するのは完全な誤りである。経済成長を担う人間がいて初めて、成長が可能なのであって、労働の質や量の上昇と無関係にイノヴェーションが起きるわけではない。

抜け落ちる市場問題とインフラの負の遺産
 「労働人口が半分になるなら、労働生産性を倍に上げれば良い。そうすれば、GDPは減ることはない」というのが、三文「経済評論家」の議論である。これは経済学ではなく、算数の話だ。
 人口が半減し、労働力も半減する社会はどのようなものだろうか。明らかに、市場規模そのものが縮小していく社会である。長期にわたって、すべての商品は漸次的に減産され、あらゆる市場が縮小していく。さらに、膨大なインフラ資産(高速道路、新幹線、高層ビルなど)は将来の日本にとって、大きな負の遺産になる。維持管理しようにも人手がない、お金がない、利用者が急減しているなどの理由で、不要不急のインフラが維持管理されることなく放置され、インフラの多くがやがて歴史的廃墟に転化する。過疎に悩む村や町の荒廃が全国的に展開する状況である。吉川氏はロボットやAIなどの技術進歩で、労働力の減少をカバーできると考えているが、奇想天外のアメリカ映画の見過ぎである。
 こういうリアルな現実は算術計算では理解できない。日本経済はキャッチアップ時代をとうの昔に終えている。したがって、戦後の高度成長時代に生じた労働力の大幅な再評価が生じることはなく、労働力と市場の制約から労働生産性の急激な上昇も期待できない。労働人口が減れば研究開発や技術開発に従事できる労働力も減り、したがってカバーできる産業分野が狭まってくる。他方で、蓄積された膨大なインフラ資産が社会にとって大きな負荷となってくる。
日本の経済社会は青年時代からすでに実年・老年時代に突入している。だから、日本社会の老年時代に備えた社会のあり方を議論し、構想しなければならない時代に入っている。そういう考察を蔑ろにして、いつまでも高度成長を追い求める政策は、将来の国造りの土台を壊すことになる。目先の利益だけを追い求める政治家ではなく、知的で賢明な政治家が必要とされる所以である。

2017.01.24 経済学の貧困と経済学者の劣化(3)
労働力人口は成長の決定要因ではないのか―吉川洋著『人口と日本経済』を質す

盛田常夫 (在ブダペスト、経済学者)

 アベノヨイショの「エコノミスト」に共通するのは、政府の累積債務問題と将来の労働力人口減少問題を徹底的に軽視する姿勢である。なぜなら、アベノミクスは、「高い経済成長を復活させることによって、日本経済は再び黄金時代を迎えることができ、そこでは経済成長による税収増によって政府債務問題が解決され、生産性の向上によって労働力人口減少が解決される」という根拠のない楽観論を前提にしているからである。この楽観的希望がアベノミクス・イデオロギーを形成している。逆に言えば、高度成長が達成されず、労働力人口の減少を埋め合わせるほどの生産性の向上が得られなければ、アベノミクスは日本の経済社会に負のレガシーをもたらすだけのものになる。

 
労働力人口は成長の決定要因ではない?
 最近、アベノミクス・イデオロギーに汚染された三文「経済評論家」は、盛んに「将来の労働力人口の減少は成長の阻害要因にならない」という主張を展開している。これも成長神話にとらわれた考えだが、これらの「評論家」が典拠にしているのが、昨年発刊された吉川洋著『人口と日本経済』(中公新書、2016年)である。
 吉川氏の著書は必ずしも題名通りのテーマを扱っているわけではなく、多くの紙幅は人口問題が経済学でどのように扱われてきたかを俯瞰することに割かれており、戦後の日本の高度成長の要因を扱った箇所は高々10頁程度でしかない。三文「評論家」が利用しているのは、そこに掲示された実質GDPの成長率と労働力人口の増加率の比較表である。
高度成長期(1955-1970年)では実質GDPが年平均で9.6%伸びたのにたいし、労働力人口のそれは1.3%だったこと、またオイルショックから「バブル」崩壊(1975-1990年)では実質GDPの年成長率が4.6%だったのにたいし、労働力人口のそれは1.2%だったことが示されている。吉川氏はGDPと労働力人口の増加率の差を労働生産性の上昇として捉え、「労働生産性の増加率は労働力人口の増加率をはるかに超えるから、労働人口は経済成長の決定要因ではない。経済成長を決める労働生産性は資本蓄積(技術進歩)によって説明できる」という。ここから、「経済成長を決めるのは人口ではなく、技術進歩と資本蓄積である」という結論が導かれている。
三文「経済評論家」はこの結論を金科玉条の命題と考え、「将来の日本の人口減、労働人口減は経済成長を妨げない。企業の皆さんはもっと設備投資して生産性を上げれば問題は解決します」、とアジテートしている。
 吉川氏は、「労働生産性は労働力人口の増減とは無関係で、したがって労働力人口は経済成長の決定要因ではない」と断定しながら、他方で「経済成長は労働力の伸びで一義的に決まるものではない」と述べている。経済成長に与える労働力人口の役割について、吉川氏の議論は非常に歯切れが悪い。吉川氏が「労働力人口は成長に関係ない」と言い切れないのは、「労働生産性は労働力と切り離された資本設備やイノヴェーションがもたらすもの」と割り切ることに確信を持っていないからである。もし労働生産性が労働力と切り離されて考えられるなら、それは労働生産性ではなく、資本生産性とか技術生産性という概念で捕捉しなければならならい。しかし、そのような概念で測定できる尺度は存在しない。吉川氏は労働生産性を労働力から切り離して考えてしまうから、労働力人口の増加が経済成長に与える影響を明快に分析できず、労働力人口の役割を過少評価してしまうのである。
労働生産性は労働の量ではなく、労働の質に関係する概念である。労働の質は教育・研究の発展、それ結果として生じる研究開発・技術革新、新たな技術を操作可能にする労働の質の向上によって決まる。技術を開発し、設備を製造し、新技術の操作を習得して使いこなすのはロボットではない。労働力人口を形成している勤労者の労働の質の向上があって初めて、労働生産性が高まる。だから、労働力と労働生産性を切り離し、労働生産性を「労働人口とは無関係な設備技術の進歩」と考えるのは間違っている。たとえて言えば、長期の時系列でみたスポーツ選手の運動能力の向上を、選手自身の能力の向上からではなく、トレーニング設備の進歩から説明するようなものだ。つまり、人としての選手の基礎的能力は一定で、能力の上昇分をトレーニング設備の革新で説明できるというのと同じである。

労働の質の向上が労働生産性を上げる
 吉川氏は労働力人口を構成するのは単純労働で、資本蓄積による技術革新によって、単純労働の生産性が向上すると考えているようだ。しかし、労働力人口を単純労働の塊として考えることそれ自体が間違っている。高度成長期における労働力の量的な伸びは、質的な伸びを伴っており、それは戦後の教育と企業の研究開発による成果である。教育や研究開発は労働力人口に含まれないロボットが行うものではなく、労働力人口に含まれる質の高い労働が遂行するものである。高度成長時代に創出された新規労働力の質は教育によって年々向上し、大量の大学院卒業生が企業研究機関に入り、不断の研究・技術開発に従事するようになった。それが労働生産性の急速な上昇をもたらした。
このように考えれば、労働力人口をたんに単純労働の量的増加と考えるのは間違いで、教育と研究・技術開発による労働力の質の向上こそが、成長を決定する要因であると考えなければならない。広い分野で種々様々な開発に研究労働や技術開発労働が振り向けられるためには、質の高い労働力が、市場の広がりをカバーするほどに十分に多く必要になる。たとえば、欧州の小国のように、労働人口が少なければ、技術革新できる産業分野は極めて限られたものになってしまう。多くの分野で研究開発や技術開発が可能になるためには、労働力が質量ともに十分に多く存在することが必要条件である。高い教育水準に裏打ちされた労働力が新規に大量に生まれ、高い経済成長を生み出したのが戦後の日本経済である。
労働力人口の量的増加で説明できない労働生産性の上昇は、労働と無関係の技術進歩から説明されるのではなく、労働力の質の上昇から説明しなければならない。もし労働とは切り離された技術進歩で説明したいなら「資本(技術)生産性」という概念で説明しなければならないはずである。先のスポーツ選手の事例で言えば、各種のトレーニング設備の改良(技術革新)や指導法(研究開発)の改善を通して、選手の能力自体が質的に向上するのであって、選手の能力の質から切り離されたトレーニング設備生産性や指導法生産性が、平均的な選手の能力に付加されるのではない。

2017.01.18 経済学の貧困と「経済学者」の劣化(2)
-理論的な混迷に陥った浜田内閣参与

盛田常夫 (在ブダペスト、経済学者)

学者の矜持
 自然科学と社会科学とを問わず、優れた学者は自らの研究成果のもつ意味と限界をよく分かっている。基礎的な研究がすぐに実際の役に立つことはない。実際に役立つようになるためには、実用に向けた無数の研究開発が必要になる。自然科学や工学の分野の基礎研究が、実際の製品にまで結実するためには長期のたゆまない努力が不可欠である。
 社会科学も同じである。経済学は複雑な国民経済を極端なまでに単純化し、そのモデルの枠の中で思考実験を行っている。ところが、経済学者は前提としているモデルの枠組みが、現実経済からどれほどかけ離れたものであるかを分析することはない。モデルを現実そのものの完全な抽象化だと考えている。だから、モデルから得られた政策提言通りに経済が機能しないのは、現実に攪乱要因があるからだと説明する。トートロジーである。経済学者の多くは、何時の間にか、自らのモデルが現実で、現実は仮の姿だと考えるようになる。本末転倒である。こういう経済学者の提言が、現実経済を動かす有効な政策にならないことは目に見えている。
それでも、一昔前の優れた経済学者は、自らの理論の限界をわきまえ、時の政府に経済政策を進言するというような安直な行動を差し控えていた。ところが、アメリカで経済学を学んだ学者は、アメリカの経済学者と同じように政府に政策進言できると考え、積極的に政府の政策形成にかかわるようになっている。しかし、昔の経済学者と異なり、権威に惹かれる経済学者は自らの限界をわきまえていない。とくに、頑迷で傲慢な学者にはそれが分からない。
 さて、浜田内閣参与は黒田日銀の量的金融緩和政策が機能していないことを認めたが、かといってデフレ現象が実体経済を原因とするものであることを認めているわけではないようだ。その背景には、金融経済はイメージできても、実物経済をイメージすることが難しい点にある。一般に、経済学者は同質性の高い金融経済を抽象的に扱うことには得意だが、多種多様な産業からなる実物経済や家計(消費者)を現実に即して考えたり、処理したりすることができない。高々、GDPという価値ノルムを実物経済の集計値として扱うだけである。しかし、GDPは一つの量的指標に過ぎず、「GDPを操作すれば実物経済が理解できる」ことにはならない。経済学者にはそれが分からない。だから、経済学者の現実経済にたいするイメージは極めて貧弱である。

混迷する思考
『文藝春秋』(2017年新年特別号)に寄稿された「『アベノミクス』私は考え直した」を読むと、浜田内閣参与はますます理論的な混迷を深めているように見える。しかも、そこで語られる言説から分かることは、現実の経済や国民生活の知識が極端に不足していることだ。学者の世界のディスカッションから直に現実経済の政策提言を行おうとする姿勢は、経済学者の役割を誇大に妄想する傲慢さを如実に現している。

 この寄稿の中で浜田氏が述べていることは以下の点に尽きる。
 (1)「デフレはもっぱら貨幣的現象であり、金融政策によって影響できる」と考えていた従来の思考をあらためる必要がある。
 (2)「金融政策が効かない原因は『財政』にある」というシムズ(プリンストン大学教授、2011年ノーベル経済学賞受賞)の指摘に、「衝撃を受けた」。金融政策の「より強い効果を出すためには、減税など財政拡大と組合せよ」という「斬新なアイディア」に「ハットさせられた」。「量的緩和によってインフレが起こらない理由は、『財政とセットで行っていないからだ』ということが分かった」。
 (3) 「リカードが主張しているように<公債は民間の資産とは言えない>が、リカードも述べているようにそこまで利口な国民はいません。いま、お金を持っていれば、『私は富んでいる』と錯覚する…。むしろ、国民がデフレで困っている状況下では、その錯覚を利用して、公債という「ニセ金」で皆を富んでいる気持ちにして消費を刺激した方が経済は活性化するのです」。
 (4)「一時的に政府に赤字が出ても、お金は税収として戻って来るのです。...ここまでうまく働いた金融政策の手綱を緩めることなく、減税を含めた財政政策で刺激を加えれば、アベノミクスの将来は実に明るいのです」。

 浜田氏にはデフレが実物経済に起因するものでないかという推測はあるようだが、しかし実体経済なるものの具体的なイメージが持てないようだ。学者の世界だけで生きた人には、実際の企業活動や平均的な家計状況を想像することが非常に難しい。だから、「考え直した」と言うが、実際の政策提言には何の変化もない。国民経済の実態と歴史的動態を構想できる想像力が欠如していることが分かる。
 上記の論考の前段で、経済政策の二本柱は金融政策と財政政策だと言いながら、この段になって、「(量的金融緩和政策は)財政政策がセットになっていなかったことに気づかされた」と告白するとはどういうことか。アベノミクスは「機動的な財政政策」を提唱しており、安倍内閣は十二分に赤字国債を発行している。財政赤字をもっと増やしてでも、財政規模を大きくすることが必要だったというのだろうか。どこまで赤字を増やせば金融政策が機能するというのだろうか。もともと、ノーベル経済学賞は平和賞と並んで「胡散臭い」賞とみなされている。現実の経済問題とはほとんど無関係なテーマをもてあそぶものが多い。経済政策の専門家でもない1人の経済学者の単純な指摘に「目から鱗がとれたよう」と驚嘆すること自体が、現代経済学の権威主義と貧困を教えてくれる。
 国民の錯覚を利用して消費を刺激すれば良いというのは、学者の観念論以上の何物でもない。そもそも国民は錯覚などしておらず、将来の年金や健保の財政状況が悪化することは確実だと考えている。大学者浜田先生の感性より、はるかに現実を捉えた直観である。だいたい、「消費を刺激して」というが、国民にいったい何を買えというのだろうか。抽象理論モデルしか扱ってこなかった経済学者には現実感覚が欠如している。国民はデフレで困ってなんかいない。そもそも、デフレといっても、物価が下がり続けているわけではなく、上昇していないだけのことだ。賃金が上昇しない状況下で物価が上がらないことがどれほど助かっているか。浜田先生はまったく庶民の感覚が分かっていないようだ。
 そして、「財政赤字が拡大しても、経済成長が達成されれば、税収となって入ってくる」から心配することなどまったくないという楽観論は、政権与党の政治家が期待する「高度成長をもう一度」という根拠のない希望と大差ない。「大学者」がこの程度のことしか言えないのだろうか。日本経済の歴史的動態の理解が完全に抜け落ちている。日本経済の青年時代はすでに終わっており、今まさに実年から老年の時代へと移行しようとしている。いつまでも「高度成長」を夢見る経済学者は、本当に学者と言えるのだろうか。これでは心ある弟子たちが、「殿ご乱心」と心配するのは無理もない。
 学者は齢を重ねる毎に、思考の柔軟性を失い、自らが到達した抽象的な過去の発見に拘り、現実の状況を顧みることなく、単純な結論を堂々巡りするばかりになる。だから、栄誉と報酬を得るために政治の世界に飛び込む人は仕方がないとして、学者としての晩節を汚したくない人は、自らの役割を過大評価して政治に足を突っ込むことは止めた方が良い。ただ、人は歳を取ると、そういう分別ができなくなる。何とも寂しい限りだ。

2017.01.17 経済学の貧困と「経済学者」の劣化(1)
-政府の債務ゼロを主張するアベノヨイショの御仁たち

盛田常夫 (在ブダペスト、経済学者)

三文「評論家」の三百代言
 テレビや雑誌にちょくちょく顔を出す「経済評論家」のなかで、最近になって、三百代言的詭弁を弄する論者が増えてきた。その代表的な詭弁が、「国民1人当たり800万円の借金を抱えているという言い方は、増税を狙う財務省のあくどい宣伝だ。国民は政府に対する債権を保有しているのであって借金を背負っているのではない。だから、国民が巨額の借金を背負っているという言い方は間違いだ」、「政府債務が国内消化されている限り、財政破綻はありえない」、「日本の財政は世界一健全」という財政赤字を積極的に擁護する議論である。その最たるものが、「日本の財政は実質借金ゼロ」(「マネーポスト」2017年新春号、森永卓郎)という三百代言だ。
 政府部門の累積債務(1000兆円)から資産価額(およそ560兆円)を差し引くと、純債務が440兆円になる。他方で、日銀が保有している国債が400兆円あり、これは政府部門にたいする債権だから、それを相殺すると、政府部門の債務は40兆円程度になり、ほとんどゼロに近く、日本に政府の累積債務問題は存在しない。これが森永氏の議論である。
 「国の徴税権を資産と考え、1年25兆円の徴税権を30年分資産に計上」すれば、実質債務は消滅すると主張する高橋洋一氏の議論も、これと似たり寄ったりのアベノヨイショ論である。
 これが本当ならこれほど目出度いことはない。こういう手品ができるなら、もっと政府が国債を発行して、日銀に買ってもらえば、年金を減らす必要はないし、健保の自己負担ゼロも実現可能だ。毎年、財政不足分など気にせず、国債をばんばん発行して、日銀に買ってもらえば、政府債務がなくなるどころが、純資産すら生まれることになり、日本経済は万々歳だ。日銀引受けの国債はヘリコプターマネーというより、まさに打ち出の小槌だ。
 こういう三文「評論家」が全国各地で、商工会やら企業やらの講演を行っている。講演料は1時間当たり100万円を下らない。こんな三百代言の評論家に、とても少額とは言えない謝礼を払うのは溝(どぶ)にお金を捨てるようなものだ。アベノミクスなどという経済政策イデオロギーが幅を効かせるようになってから、この種の三文「評論家」が多くなった。一昔前なら、恥ずかしくて言えなかった無知を、臆面もなく披露するのだから恐れ入る。それもこれも、「アベノミクス」というイカサマの経済政策イデオロギーが蔓延しているからだ。
経済評論家を自称する三文評論家を講演に呼んで、多額の講演料を支払うのは詐欺師に金を取られるようなものだ。年寄りがどうして振り込め詐欺に引っかかるのだろうと不思議に思う暇があったら、経済講談師に騙されないように気を付けた方がよい。

政府の債務は帳消しになる?
 政府セクター内の一般政府と中央銀行との国債売買の貸借関係は、政府の負債を中央銀行に移したことを反映しているだけだ。この貸借関係が解消されるのは、政府が国債を完全償還した場合のみで、それができない限り、一般政府と日銀の貸借関係が相殺されることはない。もちろん、徳政令で国債の元本不払いを実行すれば、家計・企業を含めた国債保有主体との貸借関係は相殺される。
森永某氏は独立した経済主体の貸借関係と、国民経済計算上の貸借関係の区別が分かっていないようだ。政府は家計や企業から税を取得し、それを再分配する機能を果たしている。政府は所得再分配に不足する資金を短期・長期の国債で調達するが、その不足分はいずれ将来の税収で埋められなければならない。つまり、赤字支出分は将来の税収の前倒し消費である。政府セクター内で政府の赤字分がどのように記帳されようとも、政府の財政赤字が家計と企業からの税収の前借りであるという事実が消えることはない。累積赤字が大きくなれば、それだけ将来世代の各種の再分配給付が減るだけだ。だから、目先の利益だけを考えた財政赤字の垂れ流しは許されないのだ。
日銀は最終的な貸し手であるが、付加価値を生み出す事業主体ではなく、金融機能を担う経済主体である。日銀は国債を購入することで実質的に政府債務の管理を行うが、日銀が富(価値)を創造して、政府の借金を穴埋めしているわけではない。日銀が国債を購入することによって、政府の債務が日銀の債権という形で、日銀バランスに記帳されただけである。この債務-債権は帳簿管理の仕分けに過ぎず、相互に相殺される性格のものではない。本社の債務を子会社に移し、子会社の債権と本社の債務を相殺して、本社の債務をチャラにするなどできないと同じである。
国債を保有している家計(個人)は政府の債務に対する債権を保有しているが、国債償還が難しい事態に陥れば、国債は紙くずになる。もっとも、現在行われている量的金融緩和政策で、政府が発行する国債のほとんどを日銀が購入しているから、家計(個人)が巨額の政府債権を持っているわけではないが、日銀が溜め込んだ国債を市場に売却せざるを得ない事態が生じれば、国債は暴落し、日銀=政府は巨額の損失を抱えることになろう。だから、金融緩和策を止めた後の出口戦略が非常に難しくなっている。政府債務の問題が顕在化するのは、まさに金融緩和策から引き締め策に移行する後である。
政府資産をどのように膨らませても、国債という政府累積債務が家計と企業からの税収の前借りであり、それが1000兆円存在するという事実に何の変りもない。政府のバランスシートの資産側をいろいろ工夫して、資産を大きく見せかけようとしても、1000兆円という負債が消えるわけではない。消えると思うのは、森永氏や高橋氏の頭の中だけである。
政府債務問題が何時顕在化しようと、赤字国債が将来の税収の前取りである限り、誰が国債を保有していようが、最終的に納税者がその付けを払うことに変わりはない。しかも、益を受けるのは現在の納税者、負担するのは将来の納税者だから、負担の世代間不公平が存在する。累積赤字が増えれば増えるほど、その不公平が大きくなる。だから、ヘリコプターからお金をばら撒くように、日銀が政府の国債をばんばん買い取り、政府の財政赤字を埋めることは許されないのだ。
 国債による財政赤字の資金繰りが難しくなれば、国債暴落とインフレ高騰によって貨幣が減価し、政府債務は事実上帳消しになる結末が待っている。政府内の帳簿上の貸借関係を相殺すれば政府債務がなくなるという森永某氏は、まさに脳天気状態にある。

2017.01.16 かくも長き不況
―30年のゼロ成長を認識しよう―

半澤健市 (元金融機関勤務)

 中国には抜かれたが、日本は今も世界第三位の経済大国であり、「アベノミクス」は道半ばだが、まだ期待は持てる。これが2017年々初の「大本営」の認識であり、それに概ね追随する大手メディアの論調である。世論調査によれば、内閣支持率は依然として50%を上回っている。大衆の意識も似たようなものであろう。

《戦後72年目にみる「経済大国」の成長》
 この認識は正しいのか。考察と分析はゴマンとある。以下の私見―正確にはある調査の「引用」―もその一つに過ぎないが、誤認を正したいと思い書く。

戦後の高度成長の起点はいつか。
「経済白書」が「もはや戦後ではない」と書いた1956年とするか、「所得倍増計画」発表の1960年とするか。判定は難しい。前者は「55年体制」に対応し、後者は「経済の季節」への国家理念の明示に対応する。

戦後の高度成長の終点はいつか。
73年のオイルショックで、翌年のGDPは戦後初めてマイナスを記録した。これを終点とすると、オイルショックの克服とそれに続くバブル好況の座りが悪い。日経平均は、89年の大納会に史上最高値をつけたあと翌年から暴落に転じた。不動産バブル崩壊はゆっくりと進んだが、ここでは90年を終点とする。

56年から90年まで、34年間ある。60年起点なら30年間である。
90年に始まった「失われた10年」は、すでに27年目に入っている。安倍政権は、2020年頃でのGDP600兆円を目標にしてる。だが、本気で信ずる日本人は皆無だろう。今の500兆円強の横ばいが精々だ。それが大方の見方である。

自分で、色んな統計数字を、あれこれ調べ組み合わせてみた。
その途中、で私の直感にフィットするデータを発見した。本川裕氏(ほんかわ・ゆたか)の「社会実情データ図録」という優れた経済統計のサイトにおいてである。

《バブル崩壊以後の30年はゼロ成長》
 同サイトのデータに、3つの期間についてGDPの実質経済成長率の「平均」を示したものがある。「平均」は、対前年のGDP成長率数値を合計し、対応年数で割っている。単純であるがわかりやすい。数字は次の通りである。

(1)1956~73年 高度成長期前半 9.1% 18年間
       *60~73年の14年間は  9.3%
(2)1974~90年 高度成長期後半  4.2% 16年間
(3)91~2015年 失われた10年  0.9% 24年間


この数字から、私(半澤)の責任で誇張した表現をすれば次の通りとなる。
・高度成長期前半の平均成長率は「10%」。
・高度成長期後半の平均成長率は「5%」。
・バブル崩壊後の平均成長率は「0%」、後述する公債発行を考慮すればマイナスか。

《「失われた10年」の異様な長さ》
 戦後72年というが、「もはや戦後ではない」1956年からは60年間、その後ろ半分は、ゼロ成長である。それが「経済大国」の実態であり、大半を担った自民党政権の成果である。日本近代150年でこんなに長い不況はない。
1990年度末の公債発行残高は、166兆円。2017年度末にはそれが、838兆円であり、672兆円増加した。残高の80%はこの間に増加したのである。(財務省HP)

この26年間、首相は次のように変わった。
海部俊樹、宮沢喜一、細川護煕(日本新党)、羽田孜(新生党)、村山富市(日本社会党)、橋本龍太郎、小渕恵三、森喜朗、小泉純一郎、安倍晋三(第一次)、福田康夫、麻生太郎、鳩山由紀夫(民主党)、菅直人(同)、野田佳彦(同)、安倍晋三(間隔をおいての第二次)。
自民党以外の首相任期を合計すると約5年半である。

以上、客観的事実を書いてきたつもりである。この「事実」が読者諸賢の知見に資すれば幸いである。知ってか知らずか、安倍晋三首相が新年早々、諸外国にカネをバラまく旅を続けている。(2017/01/11)

2016.12.21  アベノミクスに懲りない「アベノヨイショ」の御仁たち
盛田常夫 (在ブダペスト、経済学者)

経済学と経済学者の傲慢
 本コラム(11月9日)で、アベノミクス政策を信奉する学者の誤りが、何に由来するのかを記した。現実的な根拠のない政策展開を擁護するのは、真摯な理論的な姿勢からほど遠い、イデオロギー的な扇動である。アベノミクスを擁護する「経済学者」(アベノヨイショ)の多くは三文学者だが、浜田宏一氏は経済学の世界では国際的に名の知られた学者である。その浜田氏があまりに安倍内閣に肩入れするのを危惧した教え子たちが、浜田氏に政治への過剰な関与を諫めることができる学者(たとえば故青木昌彦氏)を探していたことを知っている。学者の晩節を汚してはいけないという思いからである。
 社会科学のなかでも、経済学は現実経済を左右する政策に関係することから、特権的な位置にある。とくにアメリカでは経済学者の個別の理論が現実政策に採用されることがあり、経済学者が政府の政策に与える影響力は非常に大きい。こうした理由から、日本の経済学者はアメリカの経済学者の理論動向に目を配り、アメリカ政府が採用する経済政策を日本に持ち込むことに熱心だ。アメリカ政府の経済政策展開における経済学者の地位は日本のそれに比べてはるかに高く、それを知る日本の経済学者には忸怩たる思いがあった。とくにアメリカに留学した学者にその傾向が強い。ところが、「アベノミクス」で、漸く「経済学者」に陽の当たる出番がやってきた。競ってアベノヨイショをやって、日銀総裁や副総裁のポストを得るか、政府の顧問になろうとする流れができた。
 しかし、経済学は自然科学に比べて、はるかにその科学性は低い。ほとんどの経済理論は複雑な経済現象を単純化して、経済の部分現象の一部を一般化するものだから、理論的結論が有効な経済政策提言へ結実することはない。この理論と政策の距離を無視し、単純化された理論的結論から現実の政策展開を行おうとすれば、イデオロギー的な政策主張に陥りやすい。アベノミクスはその典型である。しかし、政治家をヨイショする高慢ちきな経済「学者」が自らの誤りを認めることはない。理論的分析にもとづく政策がうまく作用しないのは、外的要因が作用しているからだと強弁するのが常である。
本コラムで記したように、すべての経済理論は極めて限定された条件を前提している。逆に言えば、理論が前提していない現実要因は無数に存在する。だから、理論通りに政策が現実経済に作用しないのは当然なのである。アベノミクスを擁護する三文学者はアベノミクスがうまく機能しないのは、やれ消費増税があったから、やれ想定外の円高が進行したからと弁解するが、その程度の要因を前提にしない理論や政策など、何の役にも立たないことを理解できないのだ。
 
理論的な誤りを認めた浜田宏一内閣参与
 11月15日付けの「日本経済新聞」は浜田宏一内閣参与のインタビュー記事を掲載した。このインタビューの中で、浜田氏は、「私がかつて、『デフレは(通貨供給量の少なさに起因する)マネタリーな現象』だと主張していたのは事実で、学者として以前言ったこととは、考えが変わったことは、認めなければならない」と述べている。漸く、浜田氏は現代の先進経済国におけるデフレ現象を、実体経済に起因するもので、貨幣的な現象でないことを認めざるを得なくなったのである。
 誤りを認めるのなら早いほうが良いに決まっているが、すでにここ4年の金融緩和政策によって、日銀は膨大な国債を抱え込んでしまった。さらに、この政策展開過程の中で、年金基金の資産運用政策が変更され、リスク資産である株式への投資割合が大幅に引き上げられた。それを主導したのは、同じく、リフレ論者の伊藤隆敏氏である。
 日銀の金融緩和政策と年金資産の株式投資は、今後の日本経済と社会に大きな負の影響を与え続けるだろう。しかし、政治家も学者も、誰もその責任を取ることができない。ここには「究極の無責任」が存在する。この間違った政策がもたらす負の遺産は、長期にわたって、日本の若い世代が背負って行かなければならない。いずれ歴史は、安倍内閣が遂行したアベノミクスが戦後最大の経済的災禍を与えたものとして記すことになるだろう。目先の利得や愛国心を煽る知性に欠ける宰相を支持した国民が、最終的に、政府と日銀が抱え込んだ負の遺産を引き受けなければならない。政治家を見る目をもたなかった日本国民の自業自得である。

懲りない「アベノヨイショ」の御仁たち
 御大浜田氏が理論的な誤りを認めたことに、アベノヨイショの三文学者が右往左往している。「日経の記事で、浜田氏は金融緩和政策が誤りだったとは言っていない。日経の誤報だ」とか、「浜田氏に金融政策の誤りを認めさせたがる困った人たちがいる」などと、御大の理論的撤退を認めようとしない人々がいる。
 こういうアベノヨイショの中には、「数学で経済がすべて理解できる」と主張している奇妙な御仁もいる。数学で経済が理解できるなら、経済学は不要だろうに。自分の言っていることの意味すら理解できない人々が、アベノヨイショを形成している。
 一つ言っておけば、経済学の世界には、数学にたいする根深いコンプレックスが存在する。経済学が科学たり得ないのは、数学を利用しないからだと単純に考えている経済学者は多い。物理学のように数学を使えば科学的厳密性が保証されるから、経済現象を数式や数学的記述で分析できれば科学になると考える単純思考が、経済学の世界に蔓延している。
 このような歪んだ経済学像が形成された背景には、20世紀を代表するハンガリー人数学者ノイマンの影響が大きい。1930年代の初めに経済学の市場均衡問題に興味を抱いたノイマンは、経済学で使用されている数学が初等数学のレベルで、経済学者は現代数学に無知であることを辛辣に批判した。1930年代から1940年代にかけて、ノイマンは市場均衡解の存在証明やゲーム理論の構築で現代数学的手法の有効性を示したが、当時の経済学者はノイマンの論文や著書を理解できなかった。ノイマンの論文や著書が解読され始めたのは第二次世界大戦後で、主として数学から経済学へ転身した学者がこの研究を始めた。日本では二階堂副包や宇沢弘文などの数学出身の学者の仕事がそれにあたる。ノイマン論文を解読し、ノイマンが設定した問題に数学的な別証明を与えることが戦後数理経済学の流行になった。その結果、純粋数学で大成できなかった数学者が経済数学分野に多数参入してきて、経済学の応用数学化が進行してきた。
ところが、戦後の数理経済学者は第一級の数学者ノイマンを煙たがり、現代数理経済学がノイマンから始まったことを隠そうと躍起になってきた。その試みが奏功して、ノイマンが「トリヴィアル(つまらない)」と批判したナッシュのゲーム理論の応用分析を、現代数理経済学の出発点だと信じている若い数理経済学者は多い。現代数理経済学の「ノイマン隠し」には理由がある。ノイマンにとって経済モデルの構築は理論的余興の一つにすぎず、数学者が一生かけるに値するものとは考えていなかったからである。現代数理経済学がノイマンから始まったことを認めれば、天才数学者ノイマン1人が始めたことを何千人何万人の凡才数学者が後追いしていることを認めることになるからだ。
経済学の応用数学化は今も続いている。だから、ここ四半世紀のノーベル経済学賞受賞理論は、部分的経済現象の応用数学的理論証明をおこなっているものばかりで、経済社会の複雑性を分析した散文的理論は受賞対象になっていない。自然科学分野や医学生理学分野のノーベル賞と違い、ノーベル経済学賞受賞の経済理論が現実問題を解決する道筋を教えてくれることはない。
 しかし、こうした経済学の応用数学化現象が、数理経済学者の理論にたいする誤った理解と傲慢を醸成している。浜田氏も、ことある度に、「金融緩和政策は理論的・数学的に証明されている」と自信満々に主張していた。自らが展開する理論モデルが現実経済とかけ離れたものであることを理解するのが、いかに難しいかを教えている。
2016.11.30  アベノミクスに懲りない「アベノヨイショ」の御仁たち
盛田常夫 (在ブダペスト、経済学者)

経済学と経済学者の傲慢
 本コラム(11月9日)で、アベノミクス政策を信奉する学者の誤りが、何に由来するのかを記した。現実的な根拠のない政策展開を擁護するのは、真摯な理論的な姿勢からほど遠い、イデオロギー的な扇動である。アベノミクスを擁護する「経済学者」(アベノヨイショ)の多くは三文学者だが、浜田宏一氏は経済学の世界では国際的に名の知られた学者である。その浜田氏があまりに安倍内閣に肩入れするのを危惧した教え子たちが、浜田氏に政治への過剰な関与を諫めることができる学者(たとえば故青木昌彦氏)を探していたことを知っている。学者の晩節を汚してはいけないという思いからである。
 社会科学のなかでも、経済学は現実経済を左右する政策に関係することから、特権的な位置にある。とくにアメリカでは経済学者の個別の理論が現実政策に採用されることがあり、経済学者が政府の政策に与える影響力は非常に大きい。こうした理由から、日本の経済学者はアメリカの経済学者の理論動向に目を配り、アメリカ政府が採用する経済政策を日本に持ち込むことに熱心だ。アメリカ政府の経済政策展開における経済学者の地位は日本のそれに比べてはるかに高く、それを知る日本の経済学者には忸怩たる思いがあった。とくにアメリカに留学した学者にその傾向が強い。ところが、「アベノミクス」で、漸く「経済学者」に陽の当たる出番がやってきた。競ってアベノヨイショをやって、日銀総裁や副総裁のポストを得るか、政府の顧問になろうとする流れができた。
 しかし、経済学は自然科学に比べて、はるかにその科学性は低い。ほとんどの経済理論は複雑な経済現象を単純化して、経済の部分現象の一部を一般化するものだから、理論的結論が有効な経済政策提言へ結実することはない。この理論と政策の距離を無視し、単純化された理論的結論から現実の政策展開を行おうとすれば、イデオロギー的な政策主張に陥りやすい。アベノミクスはその典型である。しかし、政治家をヨイショする高慢ちきな経済「学者」が自らの誤りを認めることはない。理論的分析にもとづく政策がうまく作用しないのは、外的要因が作用しているからだと強弁するのが常である。
本コラムで記したように、すべての経済理論は極めて限定された条件を前提している。逆に言えば、理論が前提していない現実要因は無数に存在する。だから、理論通りに政策が現実経済に作用しないのは当然なのである。アベノミクスを擁護する三文学者はアベノミクスがうまく機能しないのは、やれ消費増税があったから、やれ想定外の円高が進行したからと弁解するが、その程度の要因を前提にしない理論や政策など、何の役にも立たないことを理解できないのだ。
 
理論的な誤りを認めた浜田宏一内閣参与
 11月15日付けの「日本経済新聞」は浜田宏一内閣参与のインタビュー記事を掲載した。このインタビューの中で、浜田氏は、「私がかつて、『デフレは(通貨供給量の少なさに起因する)マネタリーな現象』だと主張していたのは事実で、学者として以前言ったこととは、考えが変わったことは、認めなければならない」と述べている。漸く、浜田氏は現代の先進経済国におけるデフレ現象を、実体経済に起因するもので、貨幣的な現象でないことを認めざるを得なくなったのである。
 誤りを認めるのなら早いほうが良いに決まっているが、すでにここ4年の金融緩和政策によって、日銀は膨大な国債を抱え込んでしまった。さらに、この政策展開過程の中で、年金基金の資産運用政策が変更され、リスク資産である株式への投資割合が大幅に引き上げられた。それを主導したのは、同じく、リフレ論者の伊藤隆敏氏である。
 日銀の金融緩和政策と年金資産の株式投資は、今後の日本経済と社会に大きな負の影響を与え続けるだろう。しかし、政治家も学者も、誰もその責任を取ることができない。ここには「究極の無責任」が存在する。この間違った政策がもたらす負の遺産は、長期にわたって、日本の若い世代が背負って行かなければならない。いずれ歴史は、安倍内閣が遂行したアベノミクスが戦後最大の経済的災禍を与えたものとして記すことになるだろう。目先の利得や愛国心を煽る知性に欠ける宰相を支持した国民が、最終的に、政府と日銀が抱え込んだ負の遺産を引き受けなければならない。政治家を見る目をもたなかった日本国民の自業自得である。

懲りない「アベノヨイショ」の御仁たち
 御大浜田氏が理論的な誤りを認めたことに、アベノヨイショの三文学者が右往左往している。「日経の記事で、浜田氏は金融緩和政策が誤りだったとは言っていない。日経の誤報だ」とか、「浜田氏に金融政策の誤りを認めさせたがる困った人たちがいる」などと、御大の理論的撤退を認めようとしない人々がいる。
 こういうアベノヨイショの中には、「数学で経済がすべて理解できる」と主張している奇妙な御仁もいる。数学で経済が理解できるなら、経済学は不要だろうに。自分の言っていることの意味すら理解できない人々が、アベノヨイショを形成している。
 一つ言っておけば、経済学の世界には、数学にたいする根深いコンプレックスが存在する。経済学が科学たり得ないのは、数学を利用しないからだと単純に考えている経済学者は多い。物理学のように数学を使えば科学的厳密性が保証されるから、経済現象を数式や数学的記述で分析できれば科学になると考える単純思考が、経済学の世界に蔓延している。
 このような歪んだ経済学像が形成された背景には、20世紀を代表するハンガリー人数学者ノイマンの影響が大きい。1930年代の初めに経済学の市場均衡問題に興味を抱いたノイマンは、経済学で使用されている数学が初等数学のレベルで、経済学者は現代数学に無知であることを辛辣に批判した。1930年代から1940年代にかけて、ノイマンは市場均衡解の存在証明やゲーム理論の構築で現代数学的手法の有効性を示したが、当時の経済学者はノイマンの論文や著書を理解できなかった。ノイマンの論文や著書が解読され始めたのは第二次世界大戦後で、主として数学から経済学へ転身した学者がこの研究を始めた。日本では二階堂副包や宇沢弘文などの数学出身の学者の仕事がそれにあたる。ノイマン論文を解読し、ノイマンが設定した問題に数学的な別証明を与えることが戦後数理経済学の流行になった。その結果、純粋数学で大成できなかった数学者が経済数学分野に多数参入してきて、経済学の応用数学化が進行してきた。
ところが、戦後の数理経済学者は第一級の数学者ノイマンを煙たがり、現代数理経済学がノイマンから始まったことを隠そうと躍起になってきた。その試みが奏功して、ノイマンが「トリヴィアル(つまらない)」と批判したナッシュのゲーム理論の応用分析を、現代数理経済学の出発点だと信じている若い数理経済学者は多い。現代数理経済学の「ノイマン隠し」には理由がある。ノイマンにとって経済モデルの構築は理論的余興の一つにすぎず、数学者が一生かけるに値するものとは考えていなかったからである。現代数理経済学がノイマンから始まったことを認めれば、天才数学者ノイマン1人が始めたことを何千人何万人の凡才数学者が後追いしていることを認めることになるからだ。
経済学の応用数学化は今も続いている。だから、ここ四半世紀のノーベル経済学賞受賞理論は、部分的経済現象の応用数学的理論証明をおこなっているものばかりで、経済社会の複雑性を分析した散文的理論は受賞対象になっていない。自然科学分野や医学生理学分野のノーベル賞と違い、ノーベル経済学賞受賞の経済理論が現実問題を解決する道筋を教えてくれることはない。
 しかし、こうした経済学の応用数学化現象が、数理経済学者の理論にたいする誤った理解と傲慢を醸成している。浜田氏も、ことある度に、「金融緩和政策は理論的・数学的に証明されている」と自信満々に主張していた。自らが展開する理論モデルが現実経済とかけ離れたものであることを理解するのが、いかに難しいかを教えている。
2016.11.09  金融緩和の夢破れ、アベノミクス、負のレガシーとなりけり

盛田常夫 (在ブダペスト、経済学者)

奇妙な沈黙
 インフレ目標を掲げて大胆な金融緩和政策をとれば、日本経済は復活するなどという馬鹿げた想定にもとづき、日銀は国債の購入を続け、市中に資金を供給し続けた。しかし、物価上昇目標は達成されないばかりか、逆に物価下落すら予想される事態に陥り、日銀は金融緩和政策の再考を迫られている。
 2013年から導入された金融緩和政策(量的緩和政策)によって、市中にだぶついた資金は、実物経済の拡大に向かうことなく、金融市場に向かい、それが株式市場のバブルを生み出し、円安方向へと為替相場を転換させた。この「アベノミクス」イデオロギーにもとづく経済政策によって、一部の資産家や輸出産業は「濡れ手に粟」の富を取得した。他方で、円安は輸入原材料の高騰を招き、海外旅行費用を高騰させた。にもかかわらず、来春に4年目を迎える金融緩和政策の当初の目標は何も達成されていない。それどころか、日銀が買い込んだ国債は400兆円(GDPの8割)にも上り、今後の日銀の金融政策の展開(緩和政策の転換)の大きな足かせになっている。
 「バズーカ砲」と賞賛された黒田総裁の緩和政策は一部の富者をさらに富ませただけで、日本経済の今後に400兆円という不良債権に陥る可能性のある国債を抱え込ませることになった。「金融緩和の夢破れ、山積みの不良債権のみ残る。アベノミクス、負のレガシーになりけり」。いったいこの責任は誰が、どうとるのだろうか。
 時流に乗り、インフレ目標を唱え、2013年に日銀副総裁の座に就いた岩田規久男氏は、「2年以内にインフレ目標が達成されない場合には辞職する」と言い放ったにもかかわらず、いまだにその座に居座り続けている。アベノミクスに媚びを売り、日銀副総裁の地位を得ただけのことだ。何ともけじめのない人だ。
 物価目標が達成されないのは、その政策に現実的な根拠がないからである。賢明な経済政策提唱に事欠く揚げ句に、アメリカの経済学者が唱えだした「インフレ目標」を真に受け、日本でも展開すべきだと主張し続けてきた一群の経済学者の責任は大きい。彼らが頬被りして、雲隠れすることなど許されない。
 もうまともな人は、「アベノミクス」など問題にしなくなった。政府からも「アベノミクス」というスローガンが聞こえてこなくなった。筆者が主張してきた通り、「アベノミクス」は誤った経済政策イデオロギーに過ぎない。それをあたかも金科玉条の絶対公理のように支持してきた「経済学者」は恥を知るべきだ。

現実的根拠のない「インフレ目標」
 だいたい、「インフレ目標を明確に打ち出せば、人々は消費を早め、それが生産拡大に向かい、その好循環が持続する」などという、あまりに稚拙な論理に簡単に填まってしまうほど、現代の経済学は浮き世離れしている。10%や20%もの高いインフレが予想される場合ならいざ知らず、1~2%程度の物価上昇予想で、消費を増やす人などいない。1~2%程度の上昇予想でも動くのは投機的資金であって、消費者はその程度のことでは動かない。
 要するに、「インフレ目標」論は、金融経済の行動様式にもとづいて発想されたアイディアに過ぎず、それを実物経済の世界に適用しただけの話だ。ほとんどすべて通貨(貨幣)という共通言語に還元して理解できる金融とは違い、実物の世界ははるかに複雑で、金融経済で一般的に観察される事象が、そのまま実物の世界で再現できることなどほとんどない。
 消費が飽和状態にある中で、多くの人が早めに車を買い換えたり、さらに新車をもう1台買い込んだりしない。そういうことができるのは、金融相場で莫大な利益を得て、外車を何台も抱え込むことができる人だけである。来年から2%価格が上がりますと言われて、すぐに洗濯機や冷蔵庫を買い換える人などいない。
 黒田総裁を初めとして、物価目標が達成されないのは、消費税増税による消費者の買え控えや、原油価格の下落などの外的要因にあると言い訳する人が多い。そこには実物経済の複雑さを分析し理解することを放棄し、根拠のない単純な政策スローガンに頼るしかない現代経済学の貧困さがある。あたかも太陽が地球を回っているといつまでも主張し続けるように、現象の世界を堂々巡りして、現象から本質を分析する知力を失った現代経済学の貧困を見ることができる。

理論証明を強調する「アベノミクス」顧問
 こういう批判にたいして、「インフレ目標」を信奉する論者は、いろいろな口実を口にしている。安倍内閣参与の浜田氏などは、ことあるごとに、「金融緩和の効果は、理論的に証明されているんです」などと口癖のように答えている。理論的に証明されるのは経済モデルの中の話で、モデルが正しく現実を説明するか、現実を動かす力をもつか否かはまったく別の問題だ。ところが、講壇経済学の世界に埋没してきた人々にはモデルが絶対で、真の分析対象が現実経済であることが忘れ去られてしまっている。経済学者が作る経済モデルと現実経済との間には、埋めることができないほどの大きなギャップがある。にもかかわらず、自分が作ったモデルが真で、現実が偽であるかのような主張を平気で展開する。モデルが現実の裏付けを得られないのは、モデルの前提が誤っているからだとは考えない。本末転倒である。アベノミクスをヨイショするほとんどの経済学者は、自らの言説が「天動説」であることが理解できないほど、現実感覚を失っている人々だ。
 現代経済学のいう「理論的証明」とは、極めて非現実的な前提のもとで作成されたモデル分析のことだ。モデルによる証明とは、最初に結論を念頭におき、その結論が導き出されるようにモデルの前提を設定し、論理を構築することだ。こうすると、モデルが仕上がった段階で、あたかも前提から出発して結論が得られたように見える。これはモデル分析の常套手段である。証明を不能にするような前提など、最初から設定しない。
 ほとんどの理論分析は、極めて限定された前提で作られている。だから、現実を説明する力をもたない。ところが、現代経済学者にかかると、モデルが第一義的で、現実が二の次になる。モデル通りに現実が動かないのは、モデル外の要因が強く作用しているからと考える。当たり前である。現実経済は抽象モデルの何十倍何百倍も複雑だから、モデル外の要因は山ほどある。モデルが想定できる前提には限界がある。だから、抽象的なモデル分析のほとんどが現実経済の分析に役立たないというだけのことだ。
 残念ながら、金融技術などの一部の手法を除き、現代経済学は依然として、応用数学か、イデオロギーの枠を脱することができない。インフレ目標だけで問題が解決できるかのように主張することそれ自体が、現代経済学の無力さを表している。しかし、誤った主張を放置してよいわけがない。間違ったイデオロギーによって、大きな負のレガシーが残り、将来の日本経済に大きな負荷を与えたことに、関係者はもっと真摯に向き合うべきだ。責任が取りようもないほどの大きな重荷を日本経済に与えたことに、それぞれが責任をとるべきだ。言い放しは許されない。少なくとも、アベノヨイショの「学者」は論壇から去るべきだ。もっとも、そういう気概や反省ができるほどの「学者」であれば、アベノヨイショになるはずもないが。
2016.08.02 年金積立金を株で大損-国民は甘く見られている
    暴論珍説メモ(147)  
   
田畑光永 (ジャーナリスト)
  

 「この道しかない」とさも自信ありげに公言していた安倍首相の経済政策(誇大広告「アベノミクス」)がここへ来て、あちこちでほころびが広がり、やれ日銀の追加緩和だ、やれ新経済対策だと、うるさいことであるが、その中で、やはりというか、そらみたことかというか、大方が心配していたGPIF(年金積立金管理運用独立行政法人)による株式運用枠拡大の2015年度の通年実績が5兆3098億円の損失であったことが判明した。
 大体、GPIFの前年度の運用実績は例年なら7月上旬に発表される。ところが今年は参院選挙への影響を恐れて7月29日まで延期された(と言われている)のだが、結果は事前予測通りの巨額損失であった。
 この年金積立金とは国民が支払う保険料と基礎年金の2分の1を賄う国庫負担金(税金)から保険金を支払った残り(14年度の公的年金給付額は51.9兆円)を積み立ててきたもので、2015年度末の運用資金は134兆7000億円、運用利回りは3.81%のマイナスとなった。
 これについて菅官房長官は「年金財政上の問題は生じていない。年金は短期的な変動に過度にとらわれるべきでない」と29日の記者会見で述べたが、年金の財源というそれこそ国民の命綱を預かる者がそんな姿勢でいるところに国民は不安を感ずるのだ。
 この積立金は2001年から自主運用をしてきたが、株価大好きの安倍首相の肝いりで2014年10月から資産構成を大幅に変えて株式の割合を大きくした、つまりたくさん株を買うようにしたのである。具体的にはそれまで資産の60%を占めていた国内債券を35%に引き下げ、国内と外国の株式をそれぞれ12%から25%にまで増やしたのである。この変更は段階的に行われているので、2015年度末(2016年3月末)の資産構成は外国株式22.09%、国内株式21.75%、外国債券13.47%、国内債券37.55%である。
 菅官房長官らが「短期的な変動にとらわれるな」と言う根拠は2001年度の自主運用開始から15年度末までの累積収益額が45兆4239億円になるという実績である。確かに過去はそうであったかもしれない。しかし、リーマンショックがあった08年度は10兆円近い損失を出したし、その後、世界の金融情勢はひどく不安定になり、各国経済もかつてのような成長は望めなくなっている。したがって株式市場も安定的に上昇することは望めなくなり、逆に国際的要因で各国の国内株式市場が振り回されるということも多くなった。
 安倍首相が「年金積立金でもっと株を買え」と言い出したのは、株式市場が安定的に拡大しているからではなく、逆に不安定の中で低迷しているからこそそのテコ入れに年金を使おうというのであった。そしてその結果が外国株式で3兆2451億円、国内株式が3兆4895億円という損失を出した。一方、運用額を減らした債権では外国債券で6600億円、国内債権では2兆0094億円の収益が出ているのである。
 「債権を減らして、株を多く買え」という安倍首相の指示が5兆3098億円、国民1人当たりでは約44000円の損害を出したのである。国民の前で最敬礼して、「私の間違いで皆さんに損をさせました。申し訳ありません」くらいのことを言ったらどうなのだ!
 そして続けて「責任を取って総理を辞任します」と言えば、「いいぞ!大統領!」とかけ声をかけてもいいのだが。

2016.07.07 公的年金運用の失敗か
―GPIFの10兆円マイナスを考える―

半澤健市 (元金融機関勤務)

《GPIFの大損発生はアベノミクスの破綻》
 「年金積立金管理運用独立行政法人」(GPIF)の2015年度決算(2015年4月~16年3月)で、運用資産に巨額のマイナスが発生したと報道されている。その上、今期に入り英国のEU離脱による世界株価の下落で更にマイナスが拡大した。『東京新聞』(2016年7月5日)は、野村證券の西川昌宏アナリストによる推計をもとにして、GPIFの巨額損失を報じ、日本総研の西沢和彦氏のコメントや、「解説」記事で、政府の説明不足を厳しく批判している。
私の金融機関勤務は20年前に終わり知見は陳腐化していると思うが、それでも昨今のメディア報道や政治家の論議はあまりに幼稚だと思うので一言したい。
以下の3点に絞り問題点を述べる。
一つは、運用成果の開示について。
二つは、投資期間の長短について。
三つは、投資成果の測定基準について。

《運用成果は日々分かっている筈だ》
 GPIFは、約140兆円の資産を運用する世界最大の機関投資家である。
確かに巨額である。しかし、その運用資産は国内外の債券、株式、金融派生商品であり、常識で理解できないような難しいものではない。読者は、証券投資信託(投信)には馴染みがおありだろう。日本国内でも何千種類の投信が発売されている。その基準価格は日々発表され、投資家はその価格を見て、売買をしている。基準価格とは、簡単に言えば組み入れ銘柄の株数に当日の株価を乗じたものの合計である。今、株価や証券価格はインターネットで容易に検索できる。読者は、たとえば、Bloombergという金融情報会社のサイトを開けば、東京やニューヨークは勿論、ブラジルでも、バングラデッシュでも、モンゴルでも、株式市場の指数をリアルタイムで見ることができる。
GPIFは、金額が大きい投信と考えればよいのである。GPIFの内部では、おそらく時々刻々に、保有資産明細(ポートフォリオ=書類挟みの意)が端末の画面に表示されている筈だ。とりわけ日本株については毎秒単位で銘柄別損益が計算されていると思う。同じ画面は首相官邸からもアクセス可能だと思う。
報道によれば、GPIF資産内容の3月末データは7月末でないと発表できないといっている。国会議員は何をやっているのか。国政調査権は行使できないのか。官僚出身議員は本当に知らないのか。メディアの経済部で何十年も証券市場をカバーしている記者は、こんなことも分からないのか。国民は年金官僚にナメられている。

《安倍晋三は長期・短期を都合良く決めるな》
 安倍晋三首相は、アベノミクスで株価は2倍以上になったと強調している。
しかし株価が下がると「年金資産」運用は、長期運用だから一時的な下落に一喜一憂する必要はないと発言する。これは古今東西、プロの資産運用者が、顧客に対して叫び続けてきた常套句である。私自身も運用者のはしくれだったときに同じ言辞を弄した。
なぜ、こういう言い訳が、通用してしまうのか。
それは「長期」「短期」の定義に合意がないからである。外国為替のディーラーであった友人は、外為では「長期は5秒・短期は1秒」だと言った。これは誇張に過ぎると思うが何となく分かる。こういう事例をみても、実際の話、合意は非常に難しい。しかし難しいことを認めること、あるいは「暫定的な合意」を形成することが必要である。そうしないから安倍答弁のようなゴマカシが永遠に続くのである。ここでも国民はナメられているのである。

《通信簿の点数基準をみない金額論争》
 メディアの報道や国会論戦は、何兆円「損した得した」という話でいつも終わっている。私は、そういう数字を挙げて国民の関心を呼び起こす手法は認める。問題は、話がここで終わり年金資産の「投資成果の測定基準」に議論がつながらないことである。投資成果測定というと難しく聞こえるか、年初に100だった資産が年末に110になった(資産自身の値上がりが8、配当が2)、即ち年間収益率(利回り)は10%である、というのが投資成果である。常識でわかる話である。
といっても、実務上では、投資対象が、株式、債券、金融派生商品、それも国内外にわたるから多種、多様で話は複雑になる。そこで、それぞれの投資対象別に、ベンチマークを設定する。たとえば「日本株」であれば、東証株価指数=TOPIX)との比較で投資成果を測定する。TOPIXと同じ投資成果を挙げるためには、東証上場株式と同一のポートフォリオを組めばよい。投資専門家でもベンチマークを凌駕することは極めて難しいから、同一ポートフォリオを組むケースは多い。これを「パッシブ(受身)運用」、「インデックス(指標)運用」といい、全ポートフォリオ中での、その割合は極めて大きい。これらの多様な投資対象の集積が、GPIFである。GPIFの実質目標利回りは、現在年率1.7%に設定されている。この利回りは、100年先までの変化を予測して、5年ごとに見直される。この目標との対比で、10兆円の損失を論じなければ意味がない。
 

《情報開示・国民との対話・受益者間の論義・年金教育》
 ここまで読んだ読者は、運用問題をどう理解されるであろうか。
私は、命の次に大事な年金運用の問題が「専門性」の名の下に、説明や情報開示が少なく、論義が入り口で終わっているのは残念だと思っている。
新聞記事に感じた点を駆け足で書いた。上記の「小見出し」が活発になって欲しいと思う。
繰り返すが、私の見解は、20年前までの業務知識とその後の常識に従っている。誤りがあれば指摘を願いたい。なによりも年金運用への問題意識が拡がるのを望んでいる。(2016/07/05)