2018.06.20  お百姓さん、ご苦労さん
          ――八ヶ岳山麓から(260)――

阿部治平 (もと高校教師)

私の村は5月の最後の土・日が田植の最盛期だった。
田植機がしずかに苗を植えていくのを見ながら、思いだした歌がある。

〇蓑着て笠着て鍬持って
お百姓さん、ご苦労さん
今年も豊年満作で
お米がたくさん取れるよう
朝から晩までお働き

〇そろった出そろった
植え手がそろった
植えよ植えましょ、みんなのために
米は宝だ、宝の草を
植えりゃ黄金(こがね)の花が咲く

ふたつの歌を学校で習ってから、もう70年もたつから歌詞は不正確である。これを歌うと父は「政府は子供をつかって百姓をおだてている」といった。当時はこの意味が分からなかった。

――「支那事変」から「大東亜戦争」に変ったころ、農家にはコメを政府に安価で売渡す義務供出が課された。消費者は米穀手帳なるものを渡され、配給食料を買うしくみだった。
供出割当どおりの米を出さないと村の駐在巡査が農家に督促にやってきた。巡査がサーベルを腰に下げていたので、これを「サーベル農政」といった。戦後も役人がアメリカ占領軍の兵隊とともにやってきて、コメを出せと強制した。これを「ジープ農政」とか強権発動といった――
私がこういう話をしたのは、すでにかなりの年配の人だったが、「配給ってなんですか」と聞かれて絶句した。こういう時代になったのだ。私は生きた化石だ。

私の村は高冷地で、稲の生育期間の積算温度が旭川とおなじだが、コメどころだった。だが1946年に国民学校に入学した同級生はみな痩せていて、栄養不良のためにハナを垂らしていた。私は1キロ半の道を歩くのに疲れて2回は休んだ。戦後も維持された食糧管理制度は、コメを農家から安値で供出させ、配給制度で消費者に売るという仕組みだった。強権発動された村は、飯の量が十分ではなかったのだ。
私たちは、野山の草、虫などを食えるか食えないかを基準に分類した。タンポポ(クジナともいった)やアカザなども食った。田んぼのドジョウは味噌汁の中に入ったし、蜂や蛾(クスサン)の幼虫もセミやゲンゴロウも焙烙(ほうろく)で炒って食った。蚕のさなぎはおやつだった。思えば山菜取りの知恵は小学生時代に身につけたものである。

中学生のころになると、保温折衷苗代など育苗技術が改良されて収量が安定した。コメの供出価格もかなり上がり、水田を3,4ヘクタールももつ家は、供出が多く収入が多いから「おでえさま(金持)」といわれた。
1967年以後はコメが余りだした。当然コメを高く買って安く売る食料管理会計の逆ザヤ現象=食管赤字が大問題になった。自主流通米が登場したのはこのためで、農家はヤミ米を政府が容認したものと理解した。71年から作付制限つまり減反政策が始まった。コメからの転作は、ソバ、コムギ、豆、野菜類への転作奨励金というエサで推進した。

減反政策は46年続いて、去年で終わった。今年からは行政側からのコメ作付制限はなくなるはずだった。だが、あいかわらず県は村に「生産数量目標」を示し、村は農家にこれを配分した。ところがこれにあからさまな不満が出ない。コメからの収入をそれほどあてにしなくなっているのだ。
1俵(玄米60キロ)が1万3000円程度では、コメだけではやってゆけない。借地によって20ヘクタールとか30ヘクタールといった大規模水田経営を目指した人もコメから撤退し始めている。

きれいに0.2ヘクタール(2反歩)に区画された棚田を見ていると、亡くなった親友を思い出す。
1960年代の末から、わが村でも減反政策の一方で構造改善事業という大規模な圃場整備が始まった。一方でコメを作るなといいつつ、労働生産性を上げるためとかという口実で、まがった農道と水路をいじって、棚田を0.2ヘクタールの長方形に規格化するのである。
共産党の村会議員だった私の親友は、「構造改善反対」のビラを村中にまいた。彼の論理は「大百姓には有利だが、小前のものは得るものがない」というものだった。共産党は中央自動車道にもこの理由で反対した。当時、まだ農家を富農と貧農に分ける毛沢東流の階層論が幅を利かせていたらしい。
私の従兄は区長(部落の世話役)として構造改善事業を推進する立場だったから、親友にビラをまかれて怒った。私の弟も構造改善に賛成で、「世界規模で食料不足が生れたとき役にたつ」と食料安保の考えを主張した。日米繊維交渉の際、アメリカ大豆の輸出が止められたことを意識していたようだ。
結果として構造改善事業は有効だった。広い農道、方形の田んぼは、70過ぎの高齢者でも農機を使って仕事ができるからである。親友はあの時代の運動を後悔しているようで、「思い出したくない」といった。

自民党は米価を比較的高値に置いた。長い間供出米の量が農家の収入を決定した。農地改革とこれが農村を保守化した。当時わが村農家の目標は1ヘクタール当たり玄米で6トン(100俵)だった。これを「せどり」といった。だから村人は技術改良には敏感だった。肥料と農薬をたくさん使った。
石灰窒素ついで尿素が登場した。ニカメイチュウ退治のホリドールや、イモチ病対策のセレサン石灰(水銀剤)が使われるようになった。有機水銀の恐ろしさがわかった1970年代になっても、役場が音頭取りで水銀剤をヘリコプターで空中散布していた。さすがにいまは、イモチ病は苗段階で予防の消毒をやってしまう。

野良仕事はまったく変わった。
稲苗は田植機用の苗箱の中で育てる。苗床はなくなった。田植機の操作は1人でできる。そこで田植に大勢の植え手が出そろうこともなくなった。除草剤のおかげで、あの辛い夏の田の草取りはなくなった。同時にホタルもドジョウもなくなった。コンバイン収穫機でいきなりモミにするから、稲刈りだの、はぜ(稲架)掛けだの、稲扱きだのもなくなった。
畑のうねたても地ならしも小型のトラクターで簡単にできるから、「蓑着て傘着て鍬持って」ということもない。セロリーやブロッコリーの露地植えも機械化した。こうなると機械化というより機械の農業化である。ウィークデーは町へ勤めて土曜と日曜だけ農業をやる土日百姓は、これによって促進されたとおもう。
問題は、肥料や農薬、農機が高くつくことだ。とりわけ農機は農繁期の数日稼働するだけで、あとは小屋で寝ているのだから。私が土日百姓の友人に「たかだか3,4ヘクタールの水田経営で、高価な大型トラクターやコンバインの減価償却ができるかね」と聞いたら、彼は即座に「だれもコメや野菜でトラクターのもとが取れるとは思っていない」と答えた。定年退職したら退職金で完済するつもりだという。
冒頭の歌のように、「朝から晩までお働き」で「豊年満作で、お米がたくさん取れた」としても、だれもが「黄金の花が咲いた」わけではない。たいていは流通業者や、農機、肥料、農薬メーカーに貢いでしまったのだ。

いま村では、農業収入より兼業収入の方が多い第2種兼業が多い。私の出身部落160戸のうち、専業農業は10戸に満たない。問題は、兼業にせよ専業にせよ、農家の「跡取り」の多くが村から出て、大都会や町で別な仕事に就いていることだ。いま60,70歳代の働き手がいなくなったら、農家そのものがなくなる。村では無人の幽霊屋敷がどんどん増える。そして日本はとめどなく食料自給率を低下させる。
「お百姓さん、ご苦労さん。もう用済みだよ」という声が聞こえる。
                              (2018・06・09記)
2018.04.09 政府と日銀を統合して考えれば、財政再建は完了しているという俗論
- 経済学の貧困と経済学者の劣化(その6)

盛田常夫 (経済学者、在ハンガリー)

 アベノヨイショの「経済学者」のなかで、ひときわ声高で、激しくヨイショする御仁がいる。先般も、自民党推薦の公述人として、参議院の委員会で、「異次元金融緩和で財政再建は完成している」と言い切った奇人、高橋洋一その人である。無署名で週刊誌記事も書いているようだが、すねに傷をもつ御仁だ。
それにしても、いろいろな人が、次から次に安倍礼賛とアベノミクスをヨイショしているが、「すねに傷」のある人たちも為政者を持ち上げれば後ろめたい過去を消すことができ、あわよくば立身出世か財を蓄えるチャンスと思っているのだろう。

数学で経済を理解できる?
 高橋はもともと数学の出身で、自らも「経済学者というより数量分析家」だと主張しているように、物事を数字や数式操作で理解しようする。現代経済学は応用数学になっていることも、高橋のような思考が受ける素地があるようだ。
 たとえば、数年前に出版した『日銀新政策の成功は数式で全部わかる!』(徳間書店)の中で、財政破綻が起きる条件を算術式で表し、「債務残高/GDP比の極限が発散しない限り、財政破綻はしない」として、日本財政の破綻などあり得ないと結論している。財政の現実を考えるのではなく、頭の中の算術計算を重視する奇妙な思考法である。すべての経済問題は「数式でわかる」と主張しているように、「算術計算が真で、算術で読み解けば、現実問題は解決する」というのが、高橋の思考法である。
 かくように、高橋は現実の問題に真正面からぶつかるのではなく、最初からそれを避けて、算術モデルで問題を解こうとする。こういう御仁は、往々にして、頭の中の思考と現実を区別することができず、頭の中の思考で現実問題が解決されると主張する。こういうタイプの人は社会科学の探究には向かないが、次から次へと駄作を乱発できる書き手は出版社に都合が良いようだ。だから、剽窃問題が起きても可笑しくないが、雑本を量産する出版社にも問題がありそうだ。
 さて、高橋は、政府の勘定と日銀の勘定を統合して統合政府の勘定で考えれば、国債の債権・債務関係が相殺されて消えるから、日本に財政赤字問題などないという。もっとも、これはスティグリッツからの受け売りで、スティグリッツは物事を深く考えることなく、統合勘定で考えれば財政赤字問題が解決するかのように考えている。だから、これは高橋氏の専売特許でなく、物事をあまり深く考えないエコノミストが陥る罠だ。もしこのようなことが可能であれば、永遠に財政赤字問題は生じないことになる。
 もう一つ付言すれば、多くのアベノヨイショが主張している命題に、「将来、人口が半分に減っても、労働生産性を倍にすれば、GDPは減少しない」というものがある。これも算術計算で現実問題を解こうとするプリミティヴで浅はかな考えである。ちょっと頭を働かせば、算術計算で社会経済問題を解決できないことなどすぐに分かる。30年後に県民人口が半減する秋田県に、「残った人々の生産性を倍にすれば、人口減の問題は解決します」と提言するようなものだ。高齢者が過半を占める地域に、「AIやロボットを駆使して、生産性を2倍にしましょう」と提言する「学者」より、一般人の方がはるかに現実の厳しさを分かっている。

観念と現実の倒錯
 数学出身で社会科学分野の数量分析をやっている人に多いのは、数量モデルと現実の混同である。いや、混同というより、思考モデルを現実だと錯誤する。現実から出発するのではなく、モデルから出発し、モデルの結論が真で、現実をモデルに合わせれば問題が解決されるという倒錯した思考である。これこそ、数量化・数学化した社会モデルが、頭の遊びの観念論に陥る理由である。
 一般政府勘定と日銀勘定を統合するとはどういうことか。高橋は「政府と日銀は親会社と子会社との関係にある」から、統合して考えて何ら問題ないという。そもそも政府と日銀を親会社と子会社の関係と捉えることが間違っている。中央銀行は政府が勝手に紙幣を発行しないように、独立して通貨管理を行う責務を課せられている。これは近代の歴史的経験から得た、人間社会の知恵である。中央銀行を政府の子会社と考えるのは勝手だが、それは政府が恣意的に紙幣を発行した時代の思考である。
ところで、事業会社と銀行が合併した場合、事業会社の債務は銀行の債権と相殺されて消滅するのだろうか。この二つの企業の間では債権・債務関係は消滅するが、合併すると債務が空気の中に消えてなくなるわけではなく、銀行は事業会社の債務分だけ損失処理を行う。減資あるいは増資という方法で、銀行株主が債務処理を負担することになるだけのことだ。
高橋はここでも頭の中の操作と現実を混同する。頭の中で統合勘定をあたかも現実の勘定のごとく捉え、統合政府の負債である通貨の発行には事実上、コストがないに等しいから、すでに財政再建が完成していると論理を飛躍させる。政府と日銀を統合することの現実的意味を考えない高橋には、事の重要性に考えをめぐらすことができない。
たとえ政府と日銀を統合勘定で考えたとしても、政府の債務が消滅することはない。赤字の支出を担保するものが将来の税収であるとすれば、それを担保とする債務は必ず勘定記入されなければならない。通貨という債務が必ず「統合政府」の負債として存在する。日銀を政府に吸収すれば、日銀券は政府紙幣に変貌するだけのことだ。政府紙幣化した日銀券は信用を失い、ハイパーインフレの引き金になる。

政府と日銀の「統合」とは何か
頭の中で統合勘定を作るのではなく、実際に政府と日銀を統合するとはどういうことか。それはとりもなおさず、日銀が独立機関であることを止め、政府の紙幣発行部に成り下がることを意味している。紙幣発行部が預金の裏付けなしに紙幣を発行した場合、これは政府紙幣と同じになる。担保になる裏付けがない政府紙幣の発行は、即座に激しいインフレを惹き起こす。これは戦時中に経験したことであり、近年では体制転換過程で中・東欧諸国で経験したことだ。
1990年代初期にウクライナを訪問した折、政府が印刷したおもちゃのような紙幣が流通していた。外国からの客人にはこの紙幣を日当として配って接待していた。案の定、このような政府紙幣の増発はハイパーインフレをもたらすことになった。当然である。政府が資金的な裏付けを欠く紙幣を印刷すれば、そのような結末になる。いわゆるヘリコプターマネーの結末である。同じことはソ連邦崩壊後の旧共和国や旧ユーゴスラビアの解体時にも生じた。1990年にドブロブニクの会議に出席した折、1ドルの交換レートは200万ディナールを超えていた。
こうした政府による野放図な紙幣発行を許さないために、政府から独立した中央銀行が存在する。政府の勝手な紙幣流通が国民経済を破壊した教訓から、中央銀行の独立性の確保が国民経済安定の基本的な条件になっている。だから、頭の中で政府と日銀を統合するのは勝手だが、その現実的結果に無知な議論は何の役にも立たない。ただの思考の遊びである。

政府債務の担保はなにか
 政府の債務が国債という形で担保され、しかも国債市場が混乱なく機能している限り、政府の債務問題が重大化することはない。しかし、ここで二つの問題が存在する。
 一つは政府債務を最終的に担保するものは何か、もう一つは国債市場が混乱する可能性はどこにあるのか。
 政府の財政赤字(累積債務)という債務の最終的担保は将来の税収である。専門文献では徴税権と称しているが、将来の税収のことである。「将来の税収という債権で担保される」という前提で、政府債務が管理されている。しかし、現在の日本政府の累積債務総額は税収の17年分である。消費税2%程度の引上げに右往左往している現状で、この債務が将来の税収でカバーできると考えるのは現実的でない。明らかに、将来、政府は何らかの形で累積債務を大幅に削減する必要に迫られるはずである。その確率は百%に近い。
 国債市場が安定的に機能している限り、政府の債務問題が国民経済の危機的状況を惹き起こすことはない。しかし、財政赤字問題が解消されず、債務が増え続け、日銀が国債引き受けをさらに増やすことになれば、将来の日本経済へのリスクから国債価格が低下し、インフレと共に政府の利払いが増え続け、国債の消化が難しくなる。外国の投資家が国債市場へ入り込めば、さらに事態は複雑化し、政府と日銀の信用が崩れ、国債の価格破壊が起きる可能性がある。そうすれば、日本経済に対する信用が崩れ、ギリシアやアルゼンチン並みの経済危機を迎えることになる。

政府が債務を帳消しにする日
 戦費で膨れ上がった国家債務は戦争終結とともに解決された。資金的裏付けのない紙幣が膨大に発行され、ハイパーインフレになって債権も債務も「ご破算になりまして」で、政府債務も銀行預金もすべて無価値になってしまった。既述したように、中央銀行が独立していなかった体制転換諸国ではハイパーインフレによって、すべてがリセットされた。
 さて、それでは現代日本の巨額の国家債務はどのように処理されるのだろうか。
まず、将来の税収によって処理されると考える専門家はいないだろう。消費税2%の引上げで大騒ぎする日本で、近い将来、EU並みの高率の消費税(付加価値税)が導入される見通しはない。だから、アメリカの経済学者も、インフレによる債務の減価を提唱しているようだが、かなりの高いインフレ率でない限り、大幅な債務削減は期待できない。もちろん、日本の国債市場が崩壊すれば、ハイパーインフレが起きる可能性があり、その場合には終戦後のようなリセットが実現するが、大きな混乱なしでは済まないだろう。
日本でもっとも蓋然性が高いのは、自然災害(巨大地震や津波)か、原発の人災が大きく広がって、私権制限の措置が導入される事態である。緊急事態法などで、預金引出しが制限され、資金的裏付けのない財政支出や政府紙幣のような紛(まが)い物が導入されれば、ハイパーインフレを惹き起こすだろう。つまり、大規模災害の発生→私権の制限→税の裏付けのない財政支出→ハイパーインフレという経路を通して、巨額に膨れ上がった政府債務と一般国民の債権(預金)がチャラになる。望むと望まざるとを問わず、この種の強権的な措置によってしか、巨額な債務を大幅に削減できないだろう。国民が増税による債務の負担を拒む限り、他に方法がない。
この問題に、右も左も関係ない。政治志向で問題が解決されることはない。

2018.03.12 イデオロギーと化した金融緩和至上主義
-現代経済学の貧困と経済学者の劣化(その5)
              
盛田常夫(在ブダペスト、経済学者)

イデオロギー化する経済政策
 世の中、根拠のない「非常識」や誤解でも、それが流布され蔓延すると、あたかも「常識」のようになってしまう。とくに経済学はその誕生から現在まで、精密科学であったことはなく、常に、経済現象の部分的で不正確な分析を行う学問に過ぎなかった。社会主義社会でも資本主義社会でも、為政者は経済政策をあたかも自然科学のような確実性をもつものと錯覚させ、国民支配の道具に利用してきた。ソ連型社会主義の「5カ年国民経済計画」や中国の「大躍進」、日本の「アベノミクス」などはその典型である。どれも皆、権力を維持するためのスローガン(国民への号令)の域を超えるものではない。
 経済政策は常にイデオロギー的性格をもち、政策の有効性が実現しないまま、経済危機によって経済政策の無力さが露呈するまで堅持されるのが常である。しかも、無効になった経済政策をきちんと検証し、将来の政策に活かことなど稀である。経済政策が効かなかったのは、想定した条件に変化が生じたからと説明されるのが落ちで、それぞれの政策がきちんと総括された例(ため)しがない。それで済まされるのは、大仰な経済政策スローガンが時の権力の経済イデオロギーに過ぎないからだ。
 経済学者と称される人々もまた、権力に寄り添った提言を行うことによって、イデオロギー的な支援を与える。なぜなら、権力に歩み寄ることで政府の関係ポストを得て、それなりの社会的地位が獲得でき、経済的な利得も期待できるからだ。だから、この種の経済学者には俗物が多い。こういう人々は政治家と同類で、自らの提言が間違っていても、決して誤りを認めることはない。

「物価目標」政策は経済学の未熟さの現れ
 そもそも、複雑な国民経済を制御するのに、「物価目標」がほとんど唯一の核心的政策目的になっているという事実が、現代経済学の貧困を教えてくれる。「物価を上れば、景気が良くなる」という単純な発想が、どうして一国の経済政策の中心的な政策になるのか。あまりに安直だ。政府債務を増やし、将来の経済運営のリスクを増大させて金融緩和に突き進む政策は尋常ではない。デフレ脱却をスローガンに、「物価上昇目標」を金科玉条のごとく錦の御旗に掲げる政府は、「金融緩和翼賛政治」と言われても仕方がない。
 欧米でも金融緩和政策は実行されているが、当初からそれは当座の政策に過ぎないことが了解されている。絶対目標になっていないのは、その政策効果に確信がないからである。しかも、その政策の副作用が大きいことは十分に理解されており、常に金融緩和策からの撤退が意識されてきた。
 ところが、日本では金融緩和は絶対的な目標とされ、それで問題がすべて解決されるかのように喧伝されてきた。日銀金融政策委員会の緩和に慎重な委員が退任した後に、政府は緩和に積極的な委員を補充して、事実上、「緩和翼賛委員会」を作り上げている。金融政策委員会も、その周辺のエコノミストも、物価目標に到達するまで金融緩和を続けるべきだという「アベノヨイショ」一色である。こうして、物価目標=金融緩和政策がますますイデオロギー的な色彩を帯びるようになっている。

GDP操作で済まされる実体経済分析
 「物価上昇目標」が金科玉条の目標になるという貧しい現実は、経済学が実体(実物)経済の分析ができないことの裏返しの現象である。実体経済は膨大かつ多様な異種の産業分野(商品生産)から構成されている。異質な商品から構成される実体経済は、そのままでは数値分析することができない。だから、経済学はその誕生から、異質で比較不能な商品生産からなる国民経済活動を一元的に捉える手法を編み出そうと四苦八苦してきた。その一つが国民所得(付加価値)統計で、これは異質な生産(商品)に「共通する長さ(付加価値ノルム)」を与えたものだ。他方、付加価値ノルムで国民経済活動を捉える方法は、実体経済の複雑性の理解を失わせる。なぜなら、付加価値集計による国民経済活動の把握は、種々様々な産業活動の使用価値的差異を捨象することを前提しているからである。
 多くの経済学者は集計的な付加価値ノルムであるGDPを操作すれば、実体経済を理解できたと錯覚しているが、これは完全な間違いである。GDPは国民経済をひとまとめに価値操作するための手段にすぎず、国民経済活動の多様性を分析するものではない。人間の頭で編み出された付加価値ノルムと、実体経済(無数の使用価値から構成される商品生産)の現実は、まったく別物である。GDPを操作すれば国民経済が理解できると考えるのは、頭脳の産物を現実だと錯覚する倒錯にすぎない。国民経済の実体分析を捨象したGDP分析は、「GDP至上主義」という罠に嵌った一種の観念論である。
 同様に、世間であたかも常識にように唱えられている、「GDPの7割を占める個人消費が増えれば、経済は成長する」という呪文は、付加価値ノルムの統計的恒等式(GDPの定義式)を解釈しただけのことで、同義反復以上の何物でもない。恒等(定義)式は因果関係を規定したものではない。定義式を構成する個々の要素の現実的変化は、それぞれの構成要素を規定する諸原因の変化にもとづく。だから、「消費が増えれば、GDPが増える」というのは、定義式を言い換えているだけのことで、「どのようにして個人消費を増やすことができるのか」について、何も語っていない。

「窮余の浅知恵」
 実体経済の分析とは正反対に、金融経済の分析はここ数十年、金融市場の拡大と複雑化を通して、大きな進歩を遂げてきた。それは貨幣(おかね)という同一単位で一元的に測定し分析できる同質市場だからである。その結果、一部の経済学者は金融市場で得られた分析結果を、実体経済の分析に使えるのではないかと考えた。しかし、金融市場の分析を実体経済に応用できると考えるのは、「窮余の浅知恵」以外の何物でもない。物価目標政策はまさに、この金融市場の分析から得られた「窮余の浅知恵」なのである。
 そもそも、それぞれが異質な商品生産を行っている実物経済を、貨幣(おかね)で同質的に分析できる金融経済と同列に論じることはできない。金融の世界では、株価であれ為替であれ、1~2%の変化は収益に作用する極めて大きな変化である。したがって、予想変化率は投資家の行動を左右する。これにたいして、実物経済の世界で1~2%の価格変動は大きな変動にはならない。「数年のうちに消費者物価が2%上がると予想できれば、消費者は将来の消費を早めるので、消費の増大が見込める」という想定は、金融経済で観察できる行動様式を、実物経済の消費者行動に「適用」しただけの「浅知恵」でしかない。
 消費者の基本的な消費行動を決めるのは将来の物価上昇予想ではなく、到達された消費水準と所得水準である。消費が飽和状態にある現代の日本で、将来の物価上昇を見込んで、お金を借りて外食を増やし、乗用車やテレビをもう1台購入しようと考える消費者などいない。1~2%程度の価格上昇が予想されても、それで消費を増やす消費者などいない。だから、金融緩和しても一般消費者の消費が増えることなどない。金融緩和で消費を増やすことができるのは、ほとんど無利子の借入金で動産や不動産に投資できる余裕があって、その収益で奢侈品を購入できる一部の富裕層だけだ。無償の贈与ならまだしも、返済しなければならないお金を使って、一般の消費者が消費を増やすなど、今の日本では考えられない。
 もっとも、クレジットで耐久消費財を購入するアメリカ国民の場合には、金融緩和政策はそれなりの効果があろう。それが可能なのは貧富の差が大きく、貧者の消費を増やすのに、低金利の融資が不可欠なアメリカにのみ当てはまることだ。
 日本の主流経済学者の多くはアメリカで経済学を学んだ者が多いから、思考がアメリカナイズされている。アベノミクス・イデオロギーによって、図らずも、経済学分野もまた対米従属が著しい分野であることが、明々白々となっている。

「デフレが元凶」という誤解
 「景気低迷の元凶はデフレにあり、一般物価が上昇しないのは通貨量が足りないからだ」、だから「通貨量を増やせば、消費が増え、一般物価も上昇する」というが、デフレ脱却を目指す金融緩和政策だ。ここでは二つの命題が主張されている。一つは「デフレが問題の原因で、これを解決すれば景気は良くなる」と短絡的な問題認識、もう一つは「通貨量を増やせば、消費が拡大し、一般物価も上昇する」という因果関係の単純化である。
 まず、「デフレが元凶」という認識だが、デフレはあくまで現象であって、経済停滞を惹き起こした本質的な原因ではない。ここに躓きの出発点がある。現代経済学が現象論の域を出ず、本質と現象を区別できないことが問題認識を誤らせている。
 デフレ現象を生じさせる原因は、消費水準を含め、現代日本経済の発展水準が一定の飽和状態に達しているからである。通貨量が足りないからではない。経済も生き物であり、若い労働力が不断に創出され、貧困からの脱却意欲が強い青年時代には、労働人口の拡大とともに、生産も消費も急速に拡大し高度成長が実現する。しかし、現代日本はそういう時代を遙かに以前に終えており、消費水準はきわめて高い飽和状態にあり、労働人口が減少していく時代を迎えている。このような壮年時代に達した経済では、消費水準が停滞するどころか、人口減少によって、消費の絶対量そのものが減少していく時代に入っている。こういう時代認識を欠いた政策は有効性をもたない。こういう歴史的変化の時代に、付加価値ノルムをいじるだけの算術計算思考は何の役にも立たない。
 こうした誤った認識にもとづき、通貨量を増やせば問題が解決すると考えるのは、あまりに浅はかである。実際、通貨量を増やしても、お金を借りて動産・不動産に投資できる一部の富裕層以外の資金需要はない。だから、金融緩和された通貨は株式投資や不動産投資に向けられ、それぞれの市場は活況を見せても、一般消費財市場は拡大しない。当然のことである。事実、通貨量を大幅に増やしても、一般物価の上昇が観察されない状態が5年も続いている。
 明らかに、金融緩和政策を裏付けるはずの現状認識が間違っていたのである。しかし、政府と日銀はこれを公に認めることができない。それを認めれば、アベノミクスの失敗を認めることになるからである。このことも、アベノミクスが経済イデオロギーに過ぎないことを明らかにしている。
 
 赤字国債の発行と、事実上の国債の日銀引受けによる金融緩和政策は、長く続ければ続けるほど、将来の経済運営に大きな負の遺産を積み上げていく。欧米の金融当局のように、2%の物価上昇に拘ることなく、金融緩和政策の手仕舞いを実行していく時期に入っている。事実、日銀もまた、市場に公言することなく、債券の購入額を目標額以下に抑えて、事実上の緩和策からの撤退を準備しているようだ。緩和策からの撤退を公言すれば、政策の失敗を認めたことになるから、暗黙のうちに撤退の道へと軌道修正しているようだ。なんとも姑息なことだ。


2017.12.25 2014年・2017年総選挙の共産党総括文書を比較して考えたこと
党勢後退だけに原因の全てを帰することはできない

広原盛明(都市計画・まちづくり研究者)

前回でも書いたことだが、今回の総選挙結果に関する共産党の総括の肝は、「どんな複雑な情勢のもとでも、共闘の前進と日本共産党の躍進を同時に実現するには『いまの党勢はあまりにも小さい』。これが選挙戦をたたかっての私たちの最大の反省点であります」という一節だろう。つまり今回総選挙の最大の敗因は、党の体質や選挙戦術ミスなどによるものではなく、選挙戦を戦う自力(基礎体力)が小さかったことにあるというものだ。このことは具体的にこう書かれている(『しんぶん赤旗』2017年12月4、5日)。

「今回の総選挙における野党共闘破壊の逆流は、『わが党を封じ込める新しい仕掛けをつくる動き』でもありました。(略)わが党は逆流と果敢にたたかい、市民と野党の共闘を守り前進させることはできましたが、日本共産党の躍進をかちとることはできませんでした。どんな複雑な情勢のもとでも、共闘の前進と日本共産党の躍進を同時に実現するには『いまの党勢はあまりにも小さい』。これが選挙戦をたたかっての私たちの最大の反省点であります。」

「わが党は、この総選挙を前回総選挙時比で、党員94・1%、『しんぶん赤旗』読者は日刊紙92・8%、日曜版90・5%でたたかいました。党大会後、党員と読者で前回総選挙時の回復・突破を目指す運動にとりくみ、全党のみなさんの努力がそそがれましたが、党勢を後退させたままで総選挙をたたかうことになりました。(略)わが党の都道府県・地区機関は、献身的な奮闘によって支えられていますが、体制の弱まりなどから党機関が選挙実務に追われ、支部や党員の立ち上がりのための指導と援助に力をそそげなかったという報告が多数寄せられています。」

この総括は一見正しいことを言っているように見えるが、果たしてそうだろうか。党勢が小さければ選挙に勝てないのは当たり前だが(事実、選挙後の機関紙は「拡大」一色になっている)、そこに選挙戦の敗因の全てを還元するとなると、実は何も言っていないのと等しくなる。なぜなら、党勢が選挙戦の勝敗をすべて決するのであれば、今回と同じく党勢が後退していた2014年総選挙での躍進の説明がつかなくなるからだ。前回総選挙後の2015年1月20日、志位委員長は第3回中央委員会総会に対する幹部会報告の中で次のように述べている(『前衛』2015年4月臨時増刊号)。

「私たちは、今回の総選挙を2012年総選挙時比で、党費納入党員数は97・3%、『しんぶん赤旗』日刊紙読者は92・7%、日曜版読者は92・5%でたたかいました。今回の総選挙での躍進は、こうした自力の弱点はありつつも正確な政治論戦、宣伝活動、結びつきを生かした組織活動を展開し、党員と後援会員のみなさんが大奮闘したことによってかちとったものであります。くわえて『二大政党づくり』の破たん、『第三極』の衰退のもとで、『自共対決』の構図がより鮮明になったという客観的な条件も、わが党に有利に作用してことも忘れてはなりません。」

「わが党の政治論戦の基本は、全体として的確なものであり、安倍政権の暴走に不安と批判をもち、新しい政治を求める国民の評価をいただけたものと考えます。(略)同時に、わが党に投票してくれた有権者のなかには、『安倍政権のやっていることはあまりに危ないので、今回は共産党』、『他に入れるところがないから、今回は共産党』といった方も少なくないと思います。そういう方々により積極的な党支持者になっていただき、さらに新しい支持を広げていくために、従来の延長線上にとどまらない新たな努力と探求にとりくみたいと思います。」

2014年総選挙で共産が党勢の後退にもかかわらず躍進したのは、情勢に対応した政治論戦の展開によることはもちろんだが、それ以上に浮動票が維新や生活から共産に流れたことが大きかった。2012年総選挙で1225万票(20・4%)の大量得票を獲得した維新が387万票(3割減)を失って838万票(15・7%)に激減し、生活もまた同じく342万票(5・7%)から103万票(1・9%)へ239万票(7割減)を失うという「第3極の崩壊」が起こり、そこから大量の無党派票が共産へシフトしたのである。言い換えれば、第3極に対する有権者の失望が大量の浮動票を生み、共産がその「受け皿」になったのである。

しかし今回の総選挙では、枝野氏が選挙戦の花形としてマスメディアに露出するにつれ、立憲民主が革新・リベラル票の「受け皿」として急浮上し、これまで共産に投じられた無党派票の大半が立憲民主党に流出してしまった。その結果、立憲民主は前回2014年総選挙の民主比例票978万票(18・3%)を130万票も上回る1108万票(19・9%)を得票する一方、共産は606万票(11・4%)から440万票(7・9%)へ166万票(3割減)を失うという大打撃を受けた。共産は2012年総選挙で比例票369万票から606万票へ237万票(6割増)を上積みする躍進を遂げたが、その時に投じられた無党派票の大半を今回は立憲民主に持っていかれたのである。

全国的に見れば、共産から立憲民主への票の流出の原因は、共産が野党共闘の大義を守るために多数の独自候補を降ろし、相互協力もなく立憲民主を支援したことにある―、という仮説が成立するかもしれない。選挙区で立憲民主を応援しながら「比例は共産」と訴えることは選挙戦術上も極めて難しく、強固な共産支持層ならともかく、その時の雰囲気で投票先が変わる(革新)無党派層の間では選挙区と比例区で票を分けることなど思いもつかないからだ。まして、有権者の心情が前原・小池両氏への反感から枝野氏を勝たせたいとの気持ちに大きく傾いている情勢のもとで、選挙区で立憲民主への投票を依頼すれば、有権者が「比例も立憲民主」と書くことはごく自然な流れなのである。

しかし、選挙区で立憲民主を支援したから共産の比例票が減ったという仮説は、京都の選挙結果をみると必ずしも当たらない。京都は前原氏の牙城なので民進党議員はすべて希望の党に移り、立憲民主は候補者ゼロとなった。共産は全ての小選挙区で候補を擁立し、真っ向から自民・希望の党との選挙戦に挑んだのである。ところが、選挙結果は小選挙区21・1万票(20・0%)、比例代表15・0万票(14・1%)となって6万票もの比例票が流出した。ちなみに2014年総選挙では、小選挙区19・4万票(18・7%)、比例代表19・4万票(18・6%)で同じだった。

それでは、立憲民主比例代表19・3万票(18・1%)はどこから来たのであろうか。おそらく共産の6万票がそのまま流れたと思われるので、残りの13万票は希望(旧民進)から来たと考えてよい。希望は選挙区で35・6万票(33・6%、前原票を含む)を得票したが、比例代表は15・2万票(14.3%)で20万票を失い、うち13万票は立憲民主、7万票は維新と自民に流れたと見られる。

     比例代表(A)      小選挙区(B)    (A)-(B)
自民 33.2万票(31・2%) 43.1万票(40・7%) △9.9万票
公明 11.2万票(10・6%)      ―        11.2万票
希望 15.2万票(14・3%) 35.6万票(33・6%)△20.4万票
立民 19.3万票(18・1%)      ―        19.3万票
共産 15.0万票(14・1%) 21.1万票(20・0%) △6.1万票
維新 10.7万票(10・1%)  1.7万票( 1・6%)  9.0万票 
社民  1.2万票( 1・1%)      ―         1.2万票

この選挙結果の示すことは、共産は小選挙区での候補者擁立の如何を問わず立憲民主に票を奪われたのであり、それは党勢の後退によるというよりは、むしろ「政党イメージ=好感度」によるものだと考えなければならない。有権者とりわけ無党派層は、その時々の政治情勢に見合う政党を投票先(受け皿)に選んでおり、その基底には政党イメージ(好感度)が大きく影響するからである。

2014年総括の肝は、「そういう方々により積極的な党支持者になっていただき、さらに新しい支持を広げていくために、従来の延長線上にとどまらない新たな努力と探求にとりくみたいと思います」ということであったにもかかわらず、その方針は日常的な形として実を結んでいない。今回の総選挙の最大の反省点は実はここにあるのであって、党勢が小さいこと(だけ)に原因を求めるのは筋違いというものだろう。要するに、共産が無党派層を積極的支持者に変える「魅力ある党」にならなければこの課題は達成されないのであって、現状のままではその時の政治情勢に翻弄される少数政党の域を脱することは難しい。そのことを棚に上げて党勢拡大・機関紙拡大の目標を追求するだけでは、次の選挙でもまた同じ総括を繰り返すことになるに違いない。(つづく)

2017.08.23 タケシ風パロディ: どこへ消えたアベノミクス

盛田常夫 (経済学者、在ハンガリー)

オイラには経済学の知識なんてないけどさ、最近はアベノミクスっていう言葉が聞かれないね。安倍内閣の凋落とともに、アベノミクスも失墜したのかね。日銀がお金を市中にどんどん供給すれば、世の中の景気が良くなるってことだったけどさ、株や円安でボロ儲けした人や会社は別として、庶民の生活は変わり映えしないな。思い切ってお金を供給すれば、物価が上昇して、景気の好循環が生まれるって筋書きは、耳にたこができるほど聞かされたけどね、そういう具合にならないから、皆、だんまりを決め込んでるんだろうな。
でもさ、「予想が外れました。ご免なさい」ですむことなのかね、大幅金融緩和の政策って。この政策を推進した当事者たちは、間違った政策の後始末の責任をどう考えてるんだろうね。安倍内閣をヨイショして、自信満々に、アベノミクスで日本経済は復活するなんて宣伝していた「経済学者」さんが、たくさんいたように思うんだけど、あのヨイショさんたちは今、何んて言ってるのか知りたいね。

大言壮語して日銀副総裁に就任した某氏のように、「私の考えが浅はかでした。それほど簡単なことではないことが分かりました。不明を恥じます」なんて正直に謝っているのか、それともアベノヨイショで金融政策大本営委員に任命された某氏のように、「アベノミクスの効果はこれからです。大幅金融緩和政策を継続すべきです」なんて馬鹿の一つ覚えのようにオウム返ししているのか、挙げ句の果ては、「あれはもう過去のことで、私は考えを変えました」なんてシャーシャーと居直っているのか、知りたいね。まぁ、大方は、「想定した外的条件が変わって、アベノミクス効果が出づらい状況になっているが、そのうち効果が現れます」なんて、予想屋みたいな口ぶりだけどさ。失敗はすべて、外的要因にあると言えば、これほど安直な答えはないんでね、「外的要因を含めて、きちんと検討したんじゃなかったの」、って言いたくなるよな。「それが学者の仕事じゃなかったの」って。
誰が見てもこのヨイショさんたち、潔くないよ。真面目な学者なら、もっと自分の主張に責任を持っているはずなんでね、分析が間違っていたなら、厳しく反省して言動を慎んでもらいたいね。当分の間、政府の政策には関与しませんとかさ。自分が推奨した政策の結末をもっと深刻に受け止めて貰いたいね。そういう襟を正して謹慎する姿勢が必要だよね、「経済学者」を名乗るならね。

ところがさ、マスコミに顔を出している「経済学者」とか「エコノミスト」っていうのは自分の言動に責任を持たなくてさ、状況が変われば自分の意見を簡単に変えて、言い訳するんだよな。ああ言えばこう言うでさ。こういう「経済学者」っていうのはさ、政治家に近いね。理屈をこねているだけでさ。世の中、こういういかがわしい「経済学者」がたくさんいるよ。マスコミに顔を出して金を稼いだり、政府の要職を得たりしてラッキーなんて考えている俗物がさ、「経済学者」とか「エコノミスト」なんて名乗っていると考えりゃ、納得がいくけどな。
要するに、ホイホイとマスコミに顔を出している「経済学者」とか「エコノミスト」なんて、信用できないってわけさ。騙す方が悪いのか、騙される方が悪いのか。どちらかって聞かれりゃ、庶民の無知につけ込んで、悪知恵を働かして実益を得ている野郎の方がワルだと思うがね。まぁ、一種の言論詐欺師だな、アベノヨイショさんたちは。

 ところでさ、政府が発行する国債をほとんど日銀が買い取り、日銀が市場にお金をつぎ込んで、何の問題もないのかね。これって政府の借金を日銀が一時的に肩代わりしているってことだよね。日銀が肩代わりすれば、政府はいくらでも国債を発行できるってことかね。テレビでも、物知り顔の「エコノミスト」が言ってたね、「政府の債務は日銀の債権だから、政府をひとまとめにすれば、債務と債権を相殺できて、政府の借金はゼロになる」って。「借金がゼロになる」って、そんな手品ができるんだったら、どんどん国債を日銀に引き受けてもらい、消費税を上げるどころか税そのものを廃止して、健康保険の自己負担をなくして、年金を上げることもできるよな。永遠に安倍さんに首相をやってもらって、日本をそれこそ共産主義の桃源郷のようにしてもらいたいね。
 しかし、素人のオイラでさえ、こんな手品ができるわけないと思うさ。子供だましみたいな話だな。国民だって、そんな単純な話を信じるほど馬鹿じゃないんでさ、若い世代なんて、将来、年金制度が機能しなくなるって直感的に感じているよな。ところがさ、三文エコノミストなんて脳天気もいいところでさ、「日本の国債発行は何の問題ありません。これですべてが解決します」なんてね、こういう詐欺師を出演させるテレビ局もどうかしてるよ。地方の商工会議所なんて、こういう調子の良い無責任な輩を講演会に呼んで、高い講演料を払ってんだから、溝にお金を捨てるようなもんだな。
政府が赤字を埋めるために国債を発行し続けて、日銀が国債を引き受け続けたらどうなるんだろうね。お金をつぎ込んでも、生産が増えなければ、いつかとんでもないことが起こることになると思うね。生産が変わらないのに、市中に出回るお金が倍になるだけなら、物価が倍になるだけの話だよな。経済学を知らなくたって、こんなの簡単な算数だよ。借金をチャラにする徳政令なんていうウルトラCもあるんでね、借金はチャラになるけど、預金も一緒にパーになってしまうってわけさ。その時が来るまで、国債はババ抜きのババってことさ。どっちに転んでも、国民が最終的に政府の借金の付けを払うことには違いがないんでね。こんな大事なこと、庶民が実感できるのに、経済学者は実感できないって、どうかしているよ。頭でっかちだから、現実の生活に関心がないんだろうな。だから、学者さんなんて信用できないのさ。いったい経済学は科学なのかね、それともたんなる屁理屈のイデオロギーなのかね。
 事の本質はさ、政府の借金は将来の税収の前借りでなんでさ、そんなこと、難しい経済学の話を聞かなくたって、オイラにも分かるさ。前借りは借金に変わりはないんでね、帳簿を書き換えて、借金をなかったことにすることなどできないよ。こんな程度のことも分からない経済学者なんて、存在する価値があるのかね。
日銀は政府の前借りを融通しているだけで、とりあえず前借りを管理しておくってことさ。いずれ二進も三進も行かなくなったら、その付けがどーんと来るっていうことさ。その付けは、将来の世代が払ってください、ってことだよな。まぁ、親の借金を子供が払うようなもんだな。でも、子供にしてみりゃ、「なんてことしてくれたんだ、親の世代は」ってことになるさ。でも、その時はもう手遅れだな。どうしようもないさ。やれることは、親の世代の過ちを、繰り返さないことしかないね。馬鹿な政治家を選ばないことだよ。
 
 それにしてもよく分からないのはさ、年金資産の株式運用だな。ギャンブルに手を出さないのがオイラの信条でさ、要するにギャンブルってのは、お金の取り合いをしてるだけなんでね、儲かる奴がいれば、その分だけ損する奴がいるゼロサムゲームさ。そこからは何も新しい価値が生まれない。しかも、ギャンブルには必ず胴元がいるんでさ、最初からピンハネしているから、分け合うパイは10割じゃないんだよ。胴元は絶対損しないからね。
 オイラが言いたいのはね、年金資産の運用に責任をもっているGPIF(年金積立金管理運用独立法人)っていう組織、よく分からない組織だっていうことさ。アベノミクスで株式相場を上げるために、国民の資産をつぎ込んでいると批判されるとさ、「いや、恣意的に相場を上げるために株式投資を行うことはなく、運用は投資のプロに任せてる」って答えるもんね。「えー」、と思うよ。自分で運用しないで、年間何百億円にもなる委託料を払って運用を外部の民間機関に任せてんなら、自分たちが高額の給与をもらう理由なんてないじゃん。そんなの、ごっつぁん仕事じゃないのかね。「運用の委託先を決めるのに、高度な専門知識が必要だ」なんて、屁理屈をこねるんだろうな。頭の良い奴はこうやって、国民資産で食い扶持を繋いでいるってわけだよ。
GPIF組織を維持する経費に加え、小さくない外部委託料で、年間いくらの年金資産がつぎ込まれるのさ。それを知りたいね。だいたい、民間の運用機関っていうのは運用益が出ても出なくても、委託料を請求するんでさ。これも、要するに胴元だよ。運用損益に応じて委託報酬を払うのなら理解できるけどね。
この半官組織と胴元で、年金資産を食い潰しているんじゃないかね。簡保資産の巨額な無駄遣いの例もあるしね。だいたい政治家と官僚がお金を動かして、儲かった試しはないんでさ。公金を投資して相場を上げることができる間は良いさ。投資資金が枯渇すれば、相場が上がる機会も減って、やがて金融緩和政策の手仕舞いが始まると、相場は下がるのは確実だね。ただでさえ、枯渇が心配される年金資産を食い潰すなんて、とんでもないよ。それもこれも、アベノミクスの結末なんでさ、年金資産の株式投資を推奨した「学者」も、株式投資率の引上げを決定した政治家も責任は免れないね。でも、こういう人たちは責任を取ることはけっしてないんでね、安倍さんだって、首相を辞めればそれでお仕舞いだよ。馬鹿な政治家の後始末は、国民が尻拭いするってことだね。そういう政治家を選んだ国民が馬鹿だったというだけのことさ。

 安倍さんにしても麻生さんにしてもさ、学生時代にしっかり勉強した努力家どころか、遊び呆けていたただのボンボンだよ。菅(スガ)さんにしたって、ろくに大学で勉強もせず、卒業してからすぐに政治家の書生になった人だよ。そんな政治屋たちに、日本の将来を任せられると考えるのが、間違っているんでね。
ちょっと前まではさ、「安倍さんに代わる人がいない」とか、「菅さんは次の首相」なんて、世間の人たちも物知り顔で語っていたけどさ、この程度の知力知性の持ち主なんて、世の中に掃いて捨てるほどいるんでね。世論調査で、ようやく今になって、「人として信用ができないから」って理由が、不支持のトップを占めるようになったけどさ、気づくのが遅すぎるんじゃないの。安倍さんには悪いけど、オイラなんて、最初から人間的魅力をこれぽっちも感じてないね。だって、話に心がこもってないもん。知性も哲学も人間味も感じさせないね。安倍さんの頭にあるのはステレオタイプの「右翼命題」と「権力維持の使命」だけで、人としての温かみを伝えることができない人だね。オイラの見るところ、これは生い立ちに起因してるさ。親の愛情が少なかったんじゃないの。言ってることも、やってることも、無機質で心に訴える力がないもんな。
もっともさ、知性や温かい心をもつ人が悪知恵を働かせるのは難しいけどね。そういう資質に欠ける安倍さんだったからこそ、極右勢力の神輿に乗って、「歴代政府が躊躇してきた法案や行動をいとも簡単に実行した」、ということだよ。これほど拙速に悪法を次から次へと通したという意味でなら、安倍さんに代わる人はいないけどさ、歴代政府のなかでも、日本の将来に残した禍根は比べものにならないほど大きいよ。だから、戦後最悪・最低内閣と言えるかもね。オイラの見るところ、その禍根は10年もしないうちに、日本社会に重くのしかかってくるね。だから、安倍内閣の罪は深いよ。首相を辞めたから免罪されることはないね。オイラの直感じゃ、「安倍晋三は戦後最低・最悪の首相だった」というレッテルは、歴史の評価から永遠に剥がれないね。

 それもこれも、アベノミクスという目先の利益をちらつかされて、浅はかな思い込みをもった政治屋を宰相に据えた結末だね。庶民が目先のことに一喜一憂するのは仕方ないけどね、政治家が庶民と一緒になって、目先のことだけ考えていたら、とてつもない禍根を社会に残すことを知るべきなんでね。それは右でも左でも同じなんでさ、これからは国民も、もっと賢くならないと、将来の世代が苦労するだけだな。何であんな馬鹿な政治家に統治を任せたんだ、と後世の世代に恨まれるよ。おしまい。

2017.04.19 経済学の貧困と経済学者の劣化(5)
-混迷する公的累積債務の理解

盛田常夫 (経済学者、在ハンガリー)

 『週刊現代』(4月8日号)は、ノーベル経済学賞受賞者スティグリッツの講演(経済財政諮問委員会)に言及し、「国の借金1000兆円はウソ」という記事を掲載している。この記事は無署名だが、ほぼ同文の記事が4月6日付け「ダイヤモンドオンライン」で、高橋洋一署名「報道されなかったスティグリッツ教授『日本への提言』の中身」として流されているから、『週刊現代』の記事は高橋氏が記したものか、『週刊現代』の編集者がまとめたものだろう。
 政府と同様に、日本の経済学界もアメリカに従属する属国主義の様相を呈しており、何事も、「アメリカの権威」のご意見を拝聴するのが常になっている。つい先般も、浜田内閣参与自らが「目から鱗」と絶賛する、ノーベル経済学賞受賞者シムズをアメリカから呼び、「赤字に拘泥することなく、大胆に財政拡大を進め、インフレ率を上げて累積債務を割引すべき」と主張させたばかりである。累積債務の存在を否定する「三文エコノミスト・評論家」たちとは違い、浜田参与もシムズも、巨額債務問題を認識して、債務の軽減策を提唱したのだが、わざわざアメリカからお金をかけて呼ぶほどのこともなく、昔から巨額な国家債務を劇的に処理する方法は、インフレの高進による実質削減か、徳政令による借金棒引きの二つの方法しかない。何もファーストクラスの航空券を用意し、高い講演料や滞在費を払って拝聴するほどの知見ではない。
 今回のスティグリッツ招聘は、トランプ政権の経済政策を聞くことが目的だったようだが、資料として配布された21ページにわたるスライド資料は、先進国が抱える一般的な問題を指摘し、彼が考える経済政策の大雑把な指針を示した箇条書きの文章で、招聘目的のテーマにまったく切り込んでいない。この招聘にどれだけ経費がかかったのか知る由もないが、小さくない公費を使って講演を依頼するなら、事前にもっと内容を詰める作業があってしかるべきではないか。そうでなければ、日本政府の招聘は、人気経済学者の観光旅行を兼ねた気楽で美味しい副業になってしまう。

スティグリッツの文言は見当違い
 ビジネスの世界では、スライドの文言はできるだけ短く、端的にアイディアを紹介するのが良いプレゼンとされる。しかし、学者のプレゼンをこんな形で済ませる訳にはいかない。提言の正当性を主張できる論理を明確に示さなければ説得力はなく、たんに無責任なアイディアの列挙に終わってしまう。
 スティグリッツの講演スライドの15ページ目は、「債務と税のジレンマの解消」と題されており、添付のような数行のアイディアが羅列されているだけだ(経済財政諮問委員会事務局の日本語訳)。『週刊現代』の記事は、「政府(日銀)が保有する政府債務を無効にする。粗政府債務は瞬時に減少」という部分に注目し、これを「政府と日銀の貸借勘定を統合すれば、政府債務が消える」と拡大解釈し、1000兆円の国の借金が雲散霧消するかのように主張している。この解釈は、「マネーポストWEB」(小学館)で、森永卓郎があたかも「大発見」であるかのように提唱したのと同じである。

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わずか2行の文言だけで、スティグリッツの「提言」を論評するのは不可能だ。「将軍様」の片々隻語、一挙手一投足に反応するかのように、「深く忖度する」必要がどこにあるのだろうか。逆に、この2行を指して、「報道されなかった提言」と大騒ぎする意図の方が興味深い。
スライド全体のスタイルや文言を見ても、スティグリッツがこのプレゼンの準備に力を注いだとは思えない。かなり雑駁なプレゼンである。一つ一つのアイディアをきちんと説明しておらず、日本の累積債務問題をどれほど理解しているのか怪しい。あまり深く考えることなく、単純に政府セクターと日銀の貸借が相殺されると考えたのだとしたら、それは軽率で誤った理解である。森永卓郎の「発見」がスティグリッツのレベルに匹敵するノーベル賞級の「発見」なのではなく、実物経済、金融経済、政府セクターの関係を十分に考慮することなく発した、不用意な初歩的誤解にすぎないだけのことだ。
スティグリッツは永久国債についても言及しており、政府債務の塩漬けを提唱しているから、「政府債務無効化」をどれほど突き詰めて検討したのかきわめて怪しい。政府セクターと中央銀行の勘定を統合すれば、日銀保有分の政府債務が消えるのではないかと「瞬時に」思いついただけなら、ノーベル賞受賞経済学者としてお粗末と言わざるを得ない。もっとも、科学とは言えない経済学の世界ではこの種の見当違いはよくあることだが。
 この点にかんする限り、浜田内閣参与は、経済学の古典の理解にもとづき、「公的債務は国民の債権のように見えるが、究極的に国民の債務である」と認識しているのは、真っ当である。シムズも、国民経済計算の帳簿操作で国の債務が消滅するなどとは考えていない。民主的な言動で知られるスティグリッツだが、森永卓郎や高橋洋一と同程度の理解で債務問題を考えているとしたら、何とも残念なことだ。

政府セクターと日銀の勘定統合で債務は消滅するか
 政府セクターと日銀の勘定を統合すると簡単に言うが、日銀保有の国債は市場を経由して購入しているのだから、現実問題として、償還による債務の返済でない限り、日銀は債務超過に陥る。高橋洋一の頭脳の中で統合されるだけなら実害はないが、実際に「統合」なるものを実行しようとすれば、危機的な状況が生まれる。なぜなら、「政府の債務だけが消滅する統合」の意味するところは、徳政令による日銀保有国債の無価値化だからである。政府が「日銀保有分の国債をチャラにします」と宣言すれば、政府の債務が帳消しになる。その代わりに、日銀は資産を失い債務超過になる。国債購入に際して、日銀の負債(債務)である通貨を市場に供給しているからである。
頭の中で政府と日銀の貸借勘定を統合するのは簡単だが、それが意味するところは、日銀保有国債の償還放棄=徳政令の実行にほかならない。こうなれば、日銀は中央銀行としての信用を失い、国債市場が崩壊して政府の資金調達は不可能になり、円は暴落の一途を辿る。政府債務の一部の帳消しであっても、日銀は中央銀行としての信用を失い、他方で政府は財政ファイナンスができなくなり、財政崩壊の危機に直面するだろう。こういう結末をもたらす無責任な政策を得意げに語る「エコノミスト」が各種マスメディアに登場し、為政者もそれを信じようとしている状況は異常である。
 ちょっと考えてみただけも簡単にわかることだ。二つの会社(機関)の統合によって、一方の当事者の債務を消滅させても、その分だけ他方の当事者の資産が減ずるだけで、債務だけが空気の中に消えてなくなることはない。「資産を保全し、債務だけを消滅させる」手品ができるのなら、東芝だって苦労しない。主力銀行とグループを形成して貸借勘定を連結すれば、東芝の債務を消すことはできるが、主力銀行は債務に匹敵する資産額を減らすだけのことである。「統合すれば、資産はすべて保全され、債務だけが風のように消え去ってしまう」ことなどありえない。
 政府の累積債務1000兆円は、「税の前借りとして、すでに国と国民が1000兆円を費消してしまった」ことを意味している。だから、これは政府がきちんと帳簿に書き込み、だれがどのようにこの債務を負担していくのかを明確にしなければならない。帳簿をいじって、「なかったことにする」ことも、「減額する」こともできない。いかに帳簿をいじくり回そうが、「すでに消費してしまった」ものを、「消費しなかった」かのように取り繕うことはできない。それができると考えるのは自由だが、それを実行に移せば日本経済にとてつもない破滅をもたらす破壊行為になるだけだ。北朝鮮のミサイル発射レベルと大差ない幼児的発想である。
「政府と日銀は親会社と子会社の関係だから、貸借勘定を連結すれば、債務はなくなるよね」なとど馬鹿なことを言う宰相も、ロケットの火遊びをする「将軍様」も、知性のレベルに大差ない。

2017.01.25 経済学の貧困と経済学者の劣化(4)
労働力人口は成長の決定要因ではないのか―吉川洋著『人口と日本経済』を質す(続)

盛田常夫 (在ブダペスト、経済学者)

キャッチアップ過程における労働力価値の再評価
(前回に続いて、労働力人口と労働生産性についての吉川洋氏の考え方を検討する)
もう1点、吉川氏の議論から完全に欠落している視点がある。それは高度成長期の非常に高いGDP成長率が、労働生産性の上昇だけでは説明できないことだ。労働生産性と並んでGDPを押し上げた要因は、「経済のキャッチアップ過程で生じる生産要素(とくに労働力)の再評価」である。これは市場の価値評価の変動から生じる。
戦争で破壊された経済が再び市場経済として再確立する過程は、世界市場へのキャッチアップ過程である。とくに、日本のような戦前の段階ですでに高い教育水準を保有していた国では、市場経済の破壊によって生産要素(とくに労働力)は極端に過小評価される。戦後の混乱期を乗り越え、市場化の進展と国際市場への統合というキャッチアップ過程で、高い質を持った労働力が再び社会的分業に組織化され、次第に国際的な価値評価を受けるようになる。1970年代初めに至る日本の高度成長時代は、固定為替レート下で極端に過少評価されている労働力の価値評価が急激にかつ連続的に是正されるプロセスである。このプロセスの中で、労働力価値が短期間に数倍の上方調整を受け、実質GDPが急上昇する。それは労働力の質の上昇ではなく、既存の労働力の質の再評価である。吉川氏の著書はこのような高度成長の動態分析を欠いており、あたかも高度成長が労働以外から生み出されるかのような幻想を与えている。そして、その幻想を三文「評論家」がアベノミクス賞賛に利用している。
 労働力の増加は経済成長と関係ないのではなく、「労働力の量的質的な増加と労働力の価値再評価プロセス」が、戦後日本の高度経済成長を生み出したのである。
労働力の価値再評価プロセスは日本の高度成長のみならず、社会主義制度が崩壊した中・東欧諸国にも見られる普遍的な現象で、旧体制の崩壊によって過少評価された労働力が、市場経済化と国境開放による世界市場への統合の進行に伴って、短期間のうちに大幅な再評価(価値の上昇)を受けた。ここでも、「労働とは無関係の『生産性』が作用したのではなく、市場化の進行による労働力価値の連続的な再評価プロセスが進行した」のである。
 このように、労働の質の向上や労働力価値の再評価は、労働力と切り離された労働生産性ではなく、労働力そのものから生み出される労働生産性の構成要素である。したがって、吉川氏のように、高度成長時代の労働生産性の上昇を、労働から切り離された資本蓄積やイノヴェーションで説明するのは間違っている。まして、「経済成長は労働力の増加と関係がない」と断言するのは完全な誤りである。経済成長を担う人間がいて初めて、成長が可能なのであって、労働の質や量の上昇と無関係にイノヴェーションが起きるわけではない。

抜け落ちる市場問題とインフラの負の遺産
 「労働人口が半分になるなら、労働生産性を倍に上げれば良い。そうすれば、GDPは減ることはない」というのが、三文「経済評論家」の議論である。これは経済学ではなく、算数の話だ。
 人口が半減し、労働力も半減する社会はどのようなものだろうか。明らかに、市場規模そのものが縮小していく社会である。長期にわたって、すべての商品は漸次的に減産され、あらゆる市場が縮小していく。さらに、膨大なインフラ資産(高速道路、新幹線、高層ビルなど)は将来の日本にとって、大きな負の遺産になる。維持管理しようにも人手がない、お金がない、利用者が急減しているなどの理由で、不要不急のインフラが維持管理されることなく放置され、インフラの多くがやがて歴史的廃墟に転化する。過疎に悩む村や町の荒廃が全国的に展開する状況である。吉川氏はロボットやAIなどの技術進歩で、労働力の減少をカバーできると考えているが、奇想天外のアメリカ映画の見過ぎである。
 こういうリアルな現実は算術計算では理解できない。日本経済はキャッチアップ時代をとうの昔に終えている。したがって、戦後の高度成長時代に生じた労働力の大幅な再評価が生じることはなく、労働力と市場の制約から労働生産性の急激な上昇も期待できない。労働人口が減れば研究開発や技術開発に従事できる労働力も減り、したがってカバーできる産業分野が狭まってくる。他方で、蓄積された膨大なインフラ資産が社会にとって大きな負荷となってくる。
日本の経済社会は青年時代からすでに実年・老年時代に突入している。だから、日本社会の老年時代に備えた社会のあり方を議論し、構想しなければならない時代に入っている。そういう考察を蔑ろにして、いつまでも高度成長を追い求める政策は、将来の国造りの土台を壊すことになる。目先の利益だけを追い求める政治家ではなく、知的で賢明な政治家が必要とされる所以である。

2017.01.24 経済学の貧困と経済学者の劣化(3)
労働力人口は成長の決定要因ではないのか―吉川洋著『人口と日本経済』を質す

盛田常夫 (在ブダペスト、経済学者)

 アベノヨイショの「エコノミスト」に共通するのは、政府の累積債務問題と将来の労働力人口減少問題を徹底的に軽視する姿勢である。なぜなら、アベノミクスは、「高い経済成長を復活させることによって、日本経済は再び黄金時代を迎えることができ、そこでは経済成長による税収増によって政府債務問題が解決され、生産性の向上によって労働力人口減少が解決される」という根拠のない楽観論を前提にしているからである。この楽観的希望がアベノミクス・イデオロギーを形成している。逆に言えば、高度成長が達成されず、労働力人口の減少を埋め合わせるほどの生産性の向上が得られなければ、アベノミクスは日本の経済社会に負のレガシーをもたらすだけのものになる。

 
労働力人口は成長の決定要因ではない?
 最近、アベノミクス・イデオロギーに汚染された三文「経済評論家」は、盛んに「将来の労働力人口の減少は成長の阻害要因にならない」という主張を展開している。これも成長神話にとらわれた考えだが、これらの「評論家」が典拠にしているのが、昨年発刊された吉川洋著『人口と日本経済』(中公新書、2016年)である。
 吉川氏の著書は必ずしも題名通りのテーマを扱っているわけではなく、多くの紙幅は人口問題が経済学でどのように扱われてきたかを俯瞰することに割かれており、戦後の日本の高度成長の要因を扱った箇所は高々10頁程度でしかない。三文「評論家」が利用しているのは、そこに掲示された実質GDPの成長率と労働力人口の増加率の比較表である。
高度成長期(1955-1970年)では実質GDPが年平均で9.6%伸びたのにたいし、労働力人口のそれは1.3%だったこと、またオイルショックから「バブル」崩壊(1975-1990年)では実質GDPの年成長率が4.6%だったのにたいし、労働力人口のそれは1.2%だったことが示されている。吉川氏はGDPと労働力人口の増加率の差を労働生産性の上昇として捉え、「労働生産性の増加率は労働力人口の増加率をはるかに超えるから、労働人口は経済成長の決定要因ではない。経済成長を決める労働生産性は資本蓄積(技術進歩)によって説明できる」という。ここから、「経済成長を決めるのは人口ではなく、技術進歩と資本蓄積である」という結論が導かれている。
三文「経済評論家」はこの結論を金科玉条の命題と考え、「将来の日本の人口減、労働人口減は経済成長を妨げない。企業の皆さんはもっと設備投資して生産性を上げれば問題は解決します」、とアジテートしている。
 吉川氏は、「労働生産性は労働力人口の増減とは無関係で、したがって労働力人口は経済成長の決定要因ではない」と断定しながら、他方で「経済成長は労働力の伸びで一義的に決まるものではない」と述べている。経済成長に与える労働力人口の役割について、吉川氏の議論は非常に歯切れが悪い。吉川氏が「労働力人口は成長に関係ない」と言い切れないのは、「労働生産性は労働力と切り離された資本設備やイノヴェーションがもたらすもの」と割り切ることに確信を持っていないからである。もし労働生産性が労働力と切り離されて考えられるなら、それは労働生産性ではなく、資本生産性とか技術生産性という概念で捕捉しなければならならい。しかし、そのような概念で測定できる尺度は存在しない。吉川氏は労働生産性を労働力から切り離して考えてしまうから、労働力人口の増加が経済成長に与える影響を明快に分析できず、労働力人口の役割を過少評価してしまうのである。
労働生産性は労働の量ではなく、労働の質に関係する概念である。労働の質は教育・研究の発展、それ結果として生じる研究開発・技術革新、新たな技術を操作可能にする労働の質の向上によって決まる。技術を開発し、設備を製造し、新技術の操作を習得して使いこなすのはロボットではない。労働力人口を形成している勤労者の労働の質の向上があって初めて、労働生産性が高まる。だから、労働力と労働生産性を切り離し、労働生産性を「労働人口とは無関係な設備技術の進歩」と考えるのは間違っている。たとえて言えば、長期の時系列でみたスポーツ選手の運動能力の向上を、選手自身の能力の向上からではなく、トレーニング設備の進歩から説明するようなものだ。つまり、人としての選手の基礎的能力は一定で、能力の上昇分をトレーニング設備の革新で説明できるというのと同じである。

労働の質の向上が労働生産性を上げる
 吉川氏は労働力人口を構成するのは単純労働で、資本蓄積による技術革新によって、単純労働の生産性が向上すると考えているようだ。しかし、労働力人口を単純労働の塊として考えることそれ自体が間違っている。高度成長期における労働力の量的な伸びは、質的な伸びを伴っており、それは戦後の教育と企業の研究開発による成果である。教育や研究開発は労働力人口に含まれないロボットが行うものではなく、労働力人口に含まれる質の高い労働が遂行するものである。高度成長時代に創出された新規労働力の質は教育によって年々向上し、大量の大学院卒業生が企業研究機関に入り、不断の研究・技術開発に従事するようになった。それが労働生産性の急速な上昇をもたらした。
このように考えれば、労働力人口をたんに単純労働の量的増加と考えるのは間違いで、教育と研究・技術開発による労働力の質の向上こそが、成長を決定する要因であると考えなければならない。広い分野で種々様々な開発に研究労働や技術開発労働が振り向けられるためには、質の高い労働力が、市場の広がりをカバーするほどに十分に多く必要になる。たとえば、欧州の小国のように、労働人口が少なければ、技術革新できる産業分野は極めて限られたものになってしまう。多くの分野で研究開発や技術開発が可能になるためには、労働力が質量ともに十分に多く存在することが必要条件である。高い教育水準に裏打ちされた労働力が新規に大量に生まれ、高い経済成長を生み出したのが戦後の日本経済である。
労働力人口の量的増加で説明できない労働生産性の上昇は、労働と無関係の技術進歩から説明されるのではなく、労働力の質の上昇から説明しなければならない。もし労働とは切り離された技術進歩で説明したいなら「資本(技術)生産性」という概念で説明しなければならないはずである。先のスポーツ選手の事例で言えば、各種のトレーニング設備の改良(技術革新)や指導法(研究開発)の改善を通して、選手の能力自体が質的に向上するのであって、選手の能力の質から切り離されたトレーニング設備生産性や指導法生産性が、平均的な選手の能力に付加されるのではない。

2017.01.18 経済学の貧困と「経済学者」の劣化(2)
-理論的な混迷に陥った浜田内閣参与

盛田常夫 (在ブダペスト、経済学者)

学者の矜持
 自然科学と社会科学とを問わず、優れた学者は自らの研究成果のもつ意味と限界をよく分かっている。基礎的な研究がすぐに実際の役に立つことはない。実際に役立つようになるためには、実用に向けた無数の研究開発が必要になる。自然科学や工学の分野の基礎研究が、実際の製品にまで結実するためには長期のたゆまない努力が不可欠である。
 社会科学も同じである。経済学は複雑な国民経済を極端なまでに単純化し、そのモデルの枠の中で思考実験を行っている。ところが、経済学者は前提としているモデルの枠組みが、現実経済からどれほどかけ離れたものであるかを分析することはない。モデルを現実そのものの完全な抽象化だと考えている。だから、モデルから得られた政策提言通りに経済が機能しないのは、現実に攪乱要因があるからだと説明する。トートロジーである。経済学者の多くは、何時の間にか、自らのモデルが現実で、現実は仮の姿だと考えるようになる。本末転倒である。こういう経済学者の提言が、現実経済を動かす有効な政策にならないことは目に見えている。
それでも、一昔前の優れた経済学者は、自らの理論の限界をわきまえ、時の政府に経済政策を進言するというような安直な行動を差し控えていた。ところが、アメリカで経済学を学んだ学者は、アメリカの経済学者と同じように政府に政策進言できると考え、積極的に政府の政策形成にかかわるようになっている。しかし、昔の経済学者と異なり、権威に惹かれる経済学者は自らの限界をわきまえていない。とくに、頑迷で傲慢な学者にはそれが分からない。
 さて、浜田内閣参与は黒田日銀の量的金融緩和政策が機能していないことを認めたが、かといってデフレ現象が実体経済を原因とするものであることを認めているわけではないようだ。その背景には、金融経済はイメージできても、実物経済をイメージすることが難しい点にある。一般に、経済学者は同質性の高い金融経済を抽象的に扱うことには得意だが、多種多様な産業からなる実物経済や家計(消費者)を現実に即して考えたり、処理したりすることができない。高々、GDPという価値ノルムを実物経済の集計値として扱うだけである。しかし、GDPは一つの量的指標に過ぎず、「GDPを操作すれば実物経済が理解できる」ことにはならない。経済学者にはそれが分からない。だから、経済学者の現実経済にたいするイメージは極めて貧弱である。

混迷する思考
『文藝春秋』(2017年新年特別号)に寄稿された「『アベノミクス』私は考え直した」を読むと、浜田内閣参与はますます理論的な混迷を深めているように見える。しかも、そこで語られる言説から分かることは、現実の経済や国民生活の知識が極端に不足していることだ。学者の世界のディスカッションから直に現実経済の政策提言を行おうとする姿勢は、経済学者の役割を誇大に妄想する傲慢さを如実に現している。

 この寄稿の中で浜田氏が述べていることは以下の点に尽きる。
 (1)「デフレはもっぱら貨幣的現象であり、金融政策によって影響できる」と考えていた従来の思考をあらためる必要がある。
 (2)「金融政策が効かない原因は『財政』にある」というシムズ(プリンストン大学教授、2011年ノーベル経済学賞受賞)の指摘に、「衝撃を受けた」。金融政策の「より強い効果を出すためには、減税など財政拡大と組合せよ」という「斬新なアイディア」に「ハットさせられた」。「量的緩和によってインフレが起こらない理由は、『財政とセットで行っていないからだ』ということが分かった」。
 (3) 「リカードが主張しているように<公債は民間の資産とは言えない>が、リカードも述べているようにそこまで利口な国民はいません。いま、お金を持っていれば、『私は富んでいる』と錯覚する…。むしろ、国民がデフレで困っている状況下では、その錯覚を利用して、公債という「ニセ金」で皆を富んでいる気持ちにして消費を刺激した方が経済は活性化するのです」。
 (4)「一時的に政府に赤字が出ても、お金は税収として戻って来るのです。...ここまでうまく働いた金融政策の手綱を緩めることなく、減税を含めた財政政策で刺激を加えれば、アベノミクスの将来は実に明るいのです」。

 浜田氏にはデフレが実物経済に起因するものでないかという推測はあるようだが、しかし実体経済なるものの具体的なイメージが持てないようだ。学者の世界だけで生きた人には、実際の企業活動や平均的な家計状況を想像することが非常に難しい。だから、「考え直した」と言うが、実際の政策提言には何の変化もない。国民経済の実態と歴史的動態を構想できる想像力が欠如していることが分かる。
 上記の論考の前段で、経済政策の二本柱は金融政策と財政政策だと言いながら、この段になって、「(量的金融緩和政策は)財政政策がセットになっていなかったことに気づかされた」と告白するとはどういうことか。アベノミクスは「機動的な財政政策」を提唱しており、安倍内閣は十二分に赤字国債を発行している。財政赤字をもっと増やしてでも、財政規模を大きくすることが必要だったというのだろうか。どこまで赤字を増やせば金融政策が機能するというのだろうか。もともと、ノーベル経済学賞は平和賞と並んで「胡散臭い」賞とみなされている。現実の経済問題とはほとんど無関係なテーマをもてあそぶものが多い。経済政策の専門家でもない1人の経済学者の単純な指摘に「目から鱗がとれたよう」と驚嘆すること自体が、現代経済学の権威主義と貧困を教えてくれる。
 国民の錯覚を利用して消費を刺激すれば良いというのは、学者の観念論以上の何物でもない。そもそも国民は錯覚などしておらず、将来の年金や健保の財政状況が悪化することは確実だと考えている。大学者浜田先生の感性より、はるかに現実を捉えた直観である。だいたい、「消費を刺激して」というが、国民にいったい何を買えというのだろうか。抽象理論モデルしか扱ってこなかった経済学者には現実感覚が欠如している。国民はデフレで困ってなんかいない。そもそも、デフレといっても、物価が下がり続けているわけではなく、上昇していないだけのことだ。賃金が上昇しない状況下で物価が上がらないことがどれほど助かっているか。浜田先生はまったく庶民の感覚が分かっていないようだ。
 そして、「財政赤字が拡大しても、経済成長が達成されれば、税収となって入ってくる」から心配することなどまったくないという楽観論は、政権与党の政治家が期待する「高度成長をもう一度」という根拠のない希望と大差ない。「大学者」がこの程度のことしか言えないのだろうか。日本経済の歴史的動態の理解が完全に抜け落ちている。日本経済の青年時代はすでに終わっており、今まさに実年から老年の時代へと移行しようとしている。いつまでも「高度成長」を夢見る経済学者は、本当に学者と言えるのだろうか。これでは心ある弟子たちが、「殿ご乱心」と心配するのは無理もない。
 学者は齢を重ねる毎に、思考の柔軟性を失い、自らが到達した抽象的な過去の発見に拘り、現実の状況を顧みることなく、単純な結論を堂々巡りするばかりになる。だから、栄誉と報酬を得るために政治の世界に飛び込む人は仕方がないとして、学者としての晩節を汚したくない人は、自らの役割を過大評価して政治に足を突っ込むことは止めた方が良い。ただ、人は歳を取ると、そういう分別ができなくなる。何とも寂しい限りだ。

2017.01.17 経済学の貧困と「経済学者」の劣化(1)
-政府の債務ゼロを主張するアベノヨイショの御仁たち

盛田常夫 (在ブダペスト、経済学者)

三文「評論家」の三百代言
 テレビや雑誌にちょくちょく顔を出す「経済評論家」のなかで、最近になって、三百代言的詭弁を弄する論者が増えてきた。その代表的な詭弁が、「国民1人当たり800万円の借金を抱えているという言い方は、増税を狙う財務省のあくどい宣伝だ。国民は政府に対する債権を保有しているのであって借金を背負っているのではない。だから、国民が巨額の借金を背負っているという言い方は間違いだ」、「政府債務が国内消化されている限り、財政破綻はありえない」、「日本の財政は世界一健全」という財政赤字を積極的に擁護する議論である。その最たるものが、「日本の財政は実質借金ゼロ」(「マネーポスト」2017年新春号、森永卓郎)という三百代言だ。
 政府部門の累積債務(1000兆円)から資産価額(およそ560兆円)を差し引くと、純債務が440兆円になる。他方で、日銀が保有している国債が400兆円あり、これは政府部門にたいする債権だから、それを相殺すると、政府部門の債務は40兆円程度になり、ほとんどゼロに近く、日本に政府の累積債務問題は存在しない。これが森永氏の議論である。
 「国の徴税権を資産と考え、1年25兆円の徴税権を30年分資産に計上」すれば、実質債務は消滅すると主張する高橋洋一氏の議論も、これと似たり寄ったりのアベノヨイショ論である。
 これが本当ならこれほど目出度いことはない。こういう手品ができるなら、もっと政府が国債を発行して、日銀に買ってもらえば、年金を減らす必要はないし、健保の自己負担ゼロも実現可能だ。毎年、財政不足分など気にせず、国債をばんばん発行して、日銀に買ってもらえば、政府債務がなくなるどころが、純資産すら生まれることになり、日本経済は万々歳だ。日銀引受けの国債はヘリコプターマネーというより、まさに打ち出の小槌だ。
 こういう三文「評論家」が全国各地で、商工会やら企業やらの講演を行っている。講演料は1時間当たり100万円を下らない。こんな三百代言の評論家に、とても少額とは言えない謝礼を払うのは溝(どぶ)にお金を捨てるようなものだ。アベノミクスなどという経済政策イデオロギーが幅を効かせるようになってから、この種の三文「評論家」が多くなった。一昔前なら、恥ずかしくて言えなかった無知を、臆面もなく披露するのだから恐れ入る。それもこれも、「アベノミクス」というイカサマの経済政策イデオロギーが蔓延しているからだ。
経済評論家を自称する三文評論家を講演に呼んで、多額の講演料を支払うのは詐欺師に金を取られるようなものだ。年寄りがどうして振り込め詐欺に引っかかるのだろうと不思議に思う暇があったら、経済講談師に騙されないように気を付けた方がよい。

政府の債務は帳消しになる?
 政府セクター内の一般政府と中央銀行との国債売買の貸借関係は、政府の負債を中央銀行に移したことを反映しているだけだ。この貸借関係が解消されるのは、政府が国債を完全償還した場合のみで、それができない限り、一般政府と日銀の貸借関係が相殺されることはない。もちろん、徳政令で国債の元本不払いを実行すれば、家計・企業を含めた国債保有主体との貸借関係は相殺される。
森永某氏は独立した経済主体の貸借関係と、国民経済計算上の貸借関係の区別が分かっていないようだ。政府は家計や企業から税を取得し、それを再分配する機能を果たしている。政府は所得再分配に不足する資金を短期・長期の国債で調達するが、その不足分はいずれ将来の税収で埋められなければならない。つまり、赤字支出分は将来の税収の前倒し消費である。政府セクター内で政府の赤字分がどのように記帳されようとも、政府の財政赤字が家計と企業からの税収の前借りであるという事実が消えることはない。累積赤字が大きくなれば、それだけ将来世代の各種の再分配給付が減るだけだ。だから、目先の利益だけを考えた財政赤字の垂れ流しは許されないのだ。
日銀は最終的な貸し手であるが、付加価値を生み出す事業主体ではなく、金融機能を担う経済主体である。日銀は国債を購入することで実質的に政府債務の管理を行うが、日銀が富(価値)を創造して、政府の借金を穴埋めしているわけではない。日銀が国債を購入することによって、政府の債務が日銀の債権という形で、日銀バランスに記帳されただけである。この債務-債権は帳簿管理の仕分けに過ぎず、相互に相殺される性格のものではない。本社の債務を子会社に移し、子会社の債権と本社の債務を相殺して、本社の債務をチャラにするなどできないと同じである。
国債を保有している家計(個人)は政府の債務に対する債権を保有しているが、国債償還が難しい事態に陥れば、国債は紙くずになる。もっとも、現在行われている量的金融緩和政策で、政府が発行する国債のほとんどを日銀が購入しているから、家計(個人)が巨額の政府債権を持っているわけではないが、日銀が溜め込んだ国債を市場に売却せざるを得ない事態が生じれば、国債は暴落し、日銀=政府は巨額の損失を抱えることになろう。だから、金融緩和策を止めた後の出口戦略が非常に難しくなっている。政府債務の問題が顕在化するのは、まさに金融緩和策から引き締め策に移行する後である。
政府資産をどのように膨らませても、国債という政府累積債務が家計と企業からの税収の前借りであり、それが1000兆円存在するという事実に何の変りもない。政府のバランスシートの資産側をいろいろ工夫して、資産を大きく見せかけようとしても、1000兆円という負債が消えるわけではない。消えると思うのは、森永氏や高橋氏の頭の中だけである。
政府債務問題が何時顕在化しようと、赤字国債が将来の税収の前取りである限り、誰が国債を保有していようが、最終的に納税者がその付けを払うことに変わりはない。しかも、益を受けるのは現在の納税者、負担するのは将来の納税者だから、負担の世代間不公平が存在する。累積赤字が増えれば増えるほど、その不公平が大きくなる。だから、ヘリコプターからお金をばら撒くように、日銀が政府の国債をばんばん買い取り、政府の財政赤字を埋めることは許されないのだ。
 国債による財政赤字の資金繰りが難しくなれば、国債暴落とインフレ高騰によって貨幣が減価し、政府債務は事実上帳消しになる結末が待っている。政府内の帳簿上の貸借関係を相殺すれば政府債務がなくなるという森永某氏は、まさに脳天気状態にある。