2019.06.19  文化大革命―最終勝利者は官僚だった
     ――八ヶ岳山麓から(284)――

阿部治平(もと高校教師)
 
中国文化大革命とはいったい何だったか。これについて比較的最近になって中国人ジャーナリストによる90万字という大著の、抄訳編集本があらわれた。

――それは、毛沢東、造反派、官僚集団が織りなしたトライアングルのゲームであった。このゲームの最終勝利者は官僚集団であり、敗者は毛沢東であり、敗者のつけを支払わされたのは一般民衆であった――
こういったのは、元新華社高級記者の楊継縄という人物である。楊は湖北省農家の出身で、1966年清華大学在学中文革に参加し、68年新華社に入った。89年6月の天安門事件までは党に従順だったが、事件が彼の思想と行動を決定的に変えてしまった。
『文化大革命五十年』(岩波書店 2019)は、楊の原著『天地翻復――中国文化大革命史』(香港天地図書 2016)から、元毎日新聞記者辻康吾が抜粋編集したものである。辻によると、第一部は楊の書き下し論文「1時間でわかる文革の全貌」、第二部は原著の28,29,32章の抜粋修正稿、第三部は原著の「導論」である。したがって原著とはかなり異なる書になったが、楊の「文革論」には違いない。
楊はさきに、『墓碑』(香港天地図書 上下2巻 2008)を著し、毛沢東の「大躍進」による餓死者が3600万人に上った地獄絵図を克明にえがいた。この縮小版日本語訳が『毛沢東大躍進秘録』(文藝春秋社 2012)である。
以下に楊継縄「文革論」の私なりの概略をしるす。

楊は「文革の起源はそれ以前の17年の制度のなかにあった」という。17年とは、1949年の革命から文革の始まる66年までの中国共産党の支配である。中共と解放軍は、1949年革命に勝利すると統治組織に変貌し、抗日戦・国共内戦時代からの党軍幹部は官僚となった。官僚は地位の上下によって違いはあるものの、革命の果実を私物化した。一般大衆は、革命の熱狂から覚めると、官僚のやり方に不満を持ち、官民の対立がうまれた。

毛沢東は官僚集団の頂点にあり、さながら皇帝としてふるまいながら、これに敏感に反応した。彼の思想は、マルクス主義のほか、ポピュリズムや無政府主義といったものだった。それゆえか、官僚のふるまいを修正主義、あるいは反革命とみなした。
毛は一度ならず官僚集団の暗黒面を摘発する運動をやらせたが、毎回中途半端に終わり、官僚の特権はびくともしなかった。彼が最終的に見出した方法は、議会制民主主義でも三権分立でもなく、彼自身が最下層の大衆の代表となって直接大衆を立上らせて腐った国家機構を壊すようしむけ、官僚を「火炙り」にし、「天下大乱」を通じて「天下大治に至る」というものだった。つまり「プロレタリア文化大革命」である。

1966年5月、毛は自分への大衆の崇拝を利用して直接若者に呼びかけ、造反派・紅衛兵を組織した。攻撃対象は、劉少奇や鄧小平に代表される党・軍統治集団である。
一般大衆は、各地の指導者に扇動されて派閥ごとに互いに激しく殺しあった。「革命」「反革命」が声高に叫ばれたが、違いはあまりなかった。だが大衆組織間の集団虐殺=集団処刑は膨大なものであった。『文化大革命五十年』には集団虐殺は、北京・湖南・広西とその他数例があるだけである。少数民族地域のすさまじい拷問・肉刑・殺人の記録はない。
楊によれば、劉・鄧集団は、はじめ文革に強く抵抗した。官許の文革史が劉少奇を犠牲の羊のように描いたのは、官僚集団に文革の責任を負わせないためであり、党・軍官僚たちの大衆に対する残虐行為を隠すためである。
混乱が続くのをみて、毛は方針を転換した。造反派の一部を切りすて、大衆組織を解散させ、従わないものは軍によって鎮圧した。1967年1月から68年9月までに全国に「革命大衆・解放軍・革命幹部」の三結合による革命委員会が成立した。68年夏以後、文革は労働者宣伝隊と軍人が主導した。軍は武装せる統治組織である。これからは革命委員会という形で文革以前の統治機構が復興した。

文革は、一般的に毛沢東の失地回復のための権力闘争とみられている。なかには毛は気持がムシャクシャしていたからだという人もいる。
だが、1981年6月中共中央委員会の「建国以来の党の若干の歴史的問題についての決議」は「(文革は)指導者が間違って引き起こし、反革命集団に利用されて、党と国家と各民族人民に大きな災害をもたらした内乱である」とした。
楊は、この決議は改革開放への合意を達成するための、妥協の政治決議であって、歴史の総括ではないという。「反革命集団に利用された」としたのは、毛に責任を負わせないためである。だが事実は、「歴史決議」で反革命とされた林彪集団も江青「四人組」も、毛を支持して文革を推進したのである。彼らは毛に利用されたのであって、毛を利用したのではない。しかも「反革命行為」とされるものの大部分は、毛指導下で行われたのである。
「林彪集団」は、林彪を毛の後継者とした69年4月以降にできたもので、71年9月の「林彪事件」で消えてなくなった。また江青ら「四人組」は、周恩来批判が始まった73年8月にようやく形成されたものである。
「歴史決議」は文革を否定したが、文革を生み出した毛沢東の理論、路線、制度は否定しなかった。文革の責任を林彪と「四人組」に押し付けるのは、中共の支配を保全し、中共をイデオロギー上の危機から救い出すためだった。

毛の死後、造反派指導者の逮捕をもって文革はほぼ終った。官僚によって冤罪・捏造・誤審事件の名誉回復と造反派の摘発が行われた。報復は文革期と同じ残酷なやり方がとられた。詳細な記述は13省市から軍と公安におよんでいる。この行き過ぎを制止したのは、その死が天安門事件を引き起こすことになる胡耀邦である。
しかし、摘発・審査のとき、対象が官僚だった場合、処分は寛大で逃げ道が用意された。たとえば、文革の初期1966年8月に大量殺傷事件を起こした主要人物は保護され、改革開放後も一定の指導的地位に昇った。それは高級官僚の子供だったからである。
以上で要約を終わる。

改革開放後、「階級闘争をカナメとする」というスローガンは「経済建設を中心とする」に変わり、刑法・民法、同訴訟法が制定され、中国は近代国家の外衣をまとった。だが、改革は経済改革にとどまり、政治改革に至らなかった。復活した官僚集団は、文革と毛沢東を否定しながらも、毛の遺産に頼って北朝鮮・ベトナム・キューバなどと本質は同じ権力構造を維持し、開発独裁型の経済運営を行なった。
1978年鄧小平の「先富論」は、権力者による財富の独占を容認するものとなった。社会的不公平はここから一層激しくなる。改革開放の40年間に、勝利者が得た富は文革以前よりはるかに大きく、享受する特権は以前をしのぐものとなった。
この社会的不公平に対して、一般大衆は年間10万件余の暴動という形でしか憤懣を表すことができない。行政に対する不満が広がっているから、小さな事件でもたちまち周囲の同情があつまるのである。
一方毛沢東主義者は、中国を「官僚独占資本主義社会」とみて、人民公社・文革の世に戻して不公平をただせという。楊など立憲民主主義者は、行政権力を抑制する政治制度を要求する。現政権は、前者には比較的寛大だが、後者に対しては支配体制を揺るがす危険思想として厳しい弾圧を加えている。
経済成長の鈍化とともに現政権は守りの姿勢に入った。治安対策費は軍事費より多くなり、一般大衆に対しても監視を強めている。それに反応して日本では、中国通と称する人々の中国危機論が盛んである。だが、経済不況が直ちに政治危機を生むことはない。中国には大企業から農村牧野まで、隙間なく党の網が張り巡らされている。現在これがどこかでほころんでいるとは思えない。
だが、これこそが文革発生の原因ともなり、失敗の原因ともなった統治機構である。この先どうなるかはわからない。

2019.06.17  ビルバオの美術館―残酷な記憶の抽象画も
          ―スペイン・バスクを旅した(3)

坂井定雄 (龍谷大学名誉教授)

 バスク旅行の仕上げは、バスク最大の州都ビルバオでの2日間だった。
 ビルバオはバスク自治州最大の都市、といっても市内人口は35万人程度、スペインでも10番目に過ぎない。しかし、バスクの産業、交通の拠点で、国際空港があり、世界的に著名なグッゲンハイム美術館がある。世界各国からバスクに来る旅行者が必ず行く同美術館は、ニューヨークに本部があり、世界に展開する同名の美術館の一つで、ビルバオの展示は現代美術に限る。開館は1997年。スペイン内戦初期の1936年にクーデターで国家権力を奪い取った右派フランコを支援するドイツ空軍の爆撃、市民虐殺を描いた有名なピカソの「ゲルニカ」は、現在マドリードのソフィア王妃芸術センターが常設展示している。ゲルニカはビルバオから離れた人口1万5千人ほどの小さな町。だが、この美術館を訪れる観客たちは、「ゲルニカ」を心に描き、目に浮かべてくるという。
 今回もグッゲンハイム美術館では、早朝の開館前の長い行列ができていた。年間100万人の入場者だという。建物自体が立体の四角と球体を組み合わせた現代芸術。展示室は大小、広い廊下すべてを使い、段差をつけた3階構造。広いその1室が、「ゲルニカ」を思いださせる様々な現代絵画の展示だった。明らかに、フランコ政権時代の暴虐がテーマの抽象画像と文字の絵画は4,5点。それ以外は、さらに抽象的な絵画だった。
 ネット上には、詳細な説明と見事な写真がたくさん紹介されており、これ以上の説明は止めておこう。現代芸術はこれなのだと納得する。美術館全体も、庭の巨大な蜘蛛も、広い敷地の入り口にある子犬の巨像も、びっくりして見つめ続けた。

▼住民には圧倒的に使用されるバスク語
 フランコの死後、民主政治体制に転換したスペインで、バスク自治州では、スペイン語とバスク語両方が公用語として正式承認された。フリー百科事典ウイキペデフィアを引いてみると、まず「バスク語は、スペインとフランスにまたがるバスク地方を中心に分布する孤立した言語で、おもにバスク人によって話されている。2006年現在66万5800人の話者がバスク地方に居住し、すべてスペイン語またはフランス語とのバイリンガルである。」と記している。しかし(1)に紹介したように、別のウイキペディアの記述は、バスク人についてスペインのバスク地方に230万人、スペイン各地に約400万人、フランス南部のバスク2万8千人と記している。バスク人は、長い歴史がある独自の民族で、その言語はスペイン語とも他の欧州の言語とも全く異なるのだ。
 今回旅したサン・セバスチャン、ビルバオ、さらには1日だけ町と村を回ったフランス領バスク地方でも、住民の言葉は方言があるようだが、ほとんどバスク語だった。それぞれスペイン語かフランス語も通じるという。
 日本のあるガイドブックでは「バスクの全体人口は約300万人、そのうち約80万人がバスク語を話すといわれています」と書き、他は、バスク語の話者、利用者の数、割合について書いていない。このガイドブックは誤っていると思う。バスク人の大多数がバスク語を日常、話していると思う。バル街だけでなく、各市内で、人々の会話に極力耳を澄ました。さまざまな場所の文字もチェックした。大小の看板、各種の標識は、スペイン語と2言語で書かれている重要な道案内や交通標識以外、バスク語だけが多かった。
 サン・セバスチャンでもビルバオでも、大きなホテルに泊まったが、ロビーのソファー、テーブルに置かれた新聞は、バスク語新聞だけだった。スペインには立派な新聞がいくつもあるのに。バスク語は文字にアルファベットを使用するが、単語の表記はだいぶ長い。新聞のアルファベットをスペイン語流、英語流に発音してみても、まったくわからず、類推しようがない、独自の言葉なのだ。公用語だから学校ではバスク語と同様にスペイン語もしっかり学んでいるのだが、おそらく7割、8割の人がバスク語で生活しているに違いない。全く読めないバスク語の立派な新聞を眺めながら、もしかしたら、バスク・ナショナリズムがさらに根強くなっているのではないか、と思った。
(了)
ビルバオの美術館―残酷な記憶の抽象画も
    ビルバオのグッゲンハイム美術館の入り口に立つ、
    子犬パピーの巨像、表面は花で埋められている。
2019.06.14  旧市街でのバル、はしごを楽しむ人々
          ―スペイン・バスクを旅した(2)

坂井定雄 (龍谷大学名誉教授)

 バスク旅行で、どこよりも行きたかったのは、サン・セバスチャンの旧市街をうずめるバルだ。コンチャ海岸に沿った市の北東端。ほぼ3百50メートルX3百メートルが、バル、レストランでほぼ埋められている。
 同市内に4泊したうち、3日、日暮れから1~2時間、バルに入り込み、多種多様な美味と地酒白ワインのチャコリを楽しんだ。どこも6時過ぎにはカウンターの椅子が客でふさがってしまうバルだが、多くの客たちは、はしごしながら楽しむ。バルはすべて、カウンターに、高い椅子。数少ないレストランはもう少し広く、イスとテーブルがある。店の後ろがレストランになっているバルもあった。
 バルは英語のバーと同じ言葉だと思うが、バスク旧市街の多くのバルは、真ん中が馬蹄形のカウンターで囲まれ、両側の壁にもカウンターがあり、いずれも高い椅子がある。椅子の数は全部で40~60ぐらいか。真ん中にはほとんど男性の調理人が2,3人。 サービス係の女性は若い子から中年まで、数人が夕方から遅くまで、注文と支払い、食べ物と酒のお運びまで、忙しく働き続けている。どの店でも、6時ぐらいにはすべての椅子が埋まり7時ぐらいには、通路も客でほぼ埋まってしまうが、店の女性たちは、その仕事を確実にこなしてくれる。当初、混んでくると注文するのも容易でなかったが、すぐ慣れて、カウンター内に山積になっている食材とメニューを指させば、すぐわかり確実に料理を運んでくれた。
 スペインはじめ欧州諸国のバカンス・シーズンはこれからなのだが、ともかくここは毎晩、飲み食いの人でいっぱい。バル内で話声を聞き分けると、ざっとした感じでスペイン語が2,3割。英語はじめフランス語や他の欧州語が1割ぐらい、それ以外はバスク語らしく、聞いても全くわからない。最初、客がいっぱいでカウンターの空席が全くないので、どうなることかと思ったが、カウンターの席の客たちは、注文の料理を一皿、二皿、ワインととともに平らげると席を空けて、やさしく座らせてくれ、次の店への出て行くのがわかった。だから、バル内は、和気あいあい。
 バルの混雑が嫌いな客には旧市街にも新市街にもレストランがある。テーブル席でゆっくりできるが、超高級レストランは別として、メニューには新鮮な海鮮、ハム、チーズ、キノコ、野菜類がぎっしり並んでいるが、旧市街のバルのような威勢が欠ける気がする。

▼海山のとりたて食材満載、地酒白ワイン・チャコリ
 バルの料理の主役はバゲットに具をたっぷり乗せたピンチョス。具は、アンチョビ、タコ、イカ、カニ、エビはじめ海産物の酢漬け、店につるしたイベリコ豚の生ハム、さまざまなキノコ料理、野菜類の揚げ物・・・メニューには百を優に超える料理名が載っている。 店ごとに、持ち前の味付けを競っているようだ。飲むのは地酒白ワインのチャコリに限る。さっぱり系でほどよい甘さがバスク料理にぴったり。赤なら言うまでもなく世界的に著名なリオハ・ワイン。バスク中部からその南にかけて産地だ。ただ、海産物が多いバスク料理には、やはり白が似合う。
 バスクは、間違いなく世界有数の美味の地だと思う。さっぱり系で、海産物を好む日本人には最適だ。一冊だけ、事前勉強して行った、驚くほど詳細な参考書を挙げておこうー
 『美食の町を訪ねてースペイン&フランス・バスク旅へ』金栗里香著 201ページ イカロス出版株式会社
旧市街でのバル、はしごを楽しむ人々 旧市街でのバル、はしごを楽しむ人々 旧市街でのバル、はしごを楽しむ人々
  旧市街バル街                                   バル内部
          バルのカウンターの向こうに積み上げられたキノコ

2019.06.13  輝く太陽、海、親切な人々と美味
          残酷な歴史は過去―スペイン・バスクを旅した(1)

坂井定雄 (龍谷大学名誉教授)

 5月下旬から6月上旬にかけて、1週間、スペイン北東部のバスク地方を旅した。バスクは抜群の豊かな美味と自然、今も続くキリスト教徒のサンチャゴ・コンポステーラ巡礼路の終わりが近づいたところとして知られていた。その一方で、バスクはピカソが歴史的な名画「ゲルニカ」(1937年)でスペイン内戦の残酷さを描き切った地であった。バスク爆撃をはじめ、ヒトラー・ナチスの支援を受けて共和国から政権を奪った軍独裁者フランコは、バスク人の自治への願いを残酷に抑圧し続けた。内戦開始の前年の1936年にスペイン共和国議会が、バスクの自治政府を公式に承認していたからだ。
 フランコの死(1975年)以後、スペインでは民主化への歩みが始まり、バスクでも民主化、自治への願いが急速に高まった。その一方で、分離独立を要求しテロも実行する過激派ETAと治安当局との戦闘が繰り返されたが、2010年10月にETAは「武装闘争の完全停止」を正式発表。同12年のバスク自治州議会選挙に参加して、第2党になった。以後、バスクは平和な自治州として、明るく発展し続けている。
 バスクの美しい海とピレネー山脈の南麓、間違いなく世界有数の美味そして陽気な人々に、スペインだけでなく欧州諸国、それ以外からも一年を通して観光客がやってくる。
 なお、まったく独自の言語を使用するバスク人の人口は、スペイン・バスクに230万人、フランス南部のバスク地方に2万8千人。ウイキペディアはそれ以外のバスク人人口として、スペイン各地に約400万人、フランスに約100万人以上、チリに160万人、アルゼンチンに310万人などと推定している。

 ▼先ずは、美しい砂浜
 今回の旅では、まず巡礼の最終目的地サンチャゴ・デ・コンポステーラに入り1泊、すべての巡礼者を受け入れ、祈祷をささげてきたカテドラルに拝礼。翌日、巡礼路に沿ってレンタカーで東に走り、宗教色濃いレオンの町で修道院を改装したホテルに一泊。翌日、さらに東に走って、バスク自治州に入り、東北端に近い、サン・セバスチャンについた。4つ星だが二人で一泊朝食つき2万円程度のホテルに4泊、最後はバスク最大の都市で、国際空港があるビルバオに一泊した。
 サン・セバスチャンのホテルから数分に先は、あまりにも美しいとコンチャ湾が静かに広がっている。大きな曲線を描く砂浜の長さは3キロ強。両端に小山があり、一方の頂上にキリストの高い立像が見えた。快晴。札幌とほぼ同じ緯度に位置するコンチャ海岸は程よい涼しさ。水着姿の人たちが砂の上でかなり夕日を浴びていたが、海に入っている人はほとんどいなかった。夕日がコンチャ湾の先のビスケー湾に沈むのを見届け、2百店以上ものバルやレストランが集まる旧市街に向かった。(続く)
     輝く太陽、海、親切な人々と美味   輝く太陽、海、親切な人々と美味
2019.05.28 米中貿易摩擦で世界の景気不安
  底流に米中の覇権争い (続)

伊藤力司 (ジャーナリスト)

毛沢東による中国革命が成って、中華人民共和国が成立後今年はちょうど70年。1960年代から70年代にかけての文革による混乱を収拾、1979年に鄧小平が市場経済を導入して40年。人口14億余の中国はアメリカに次ぐ世界第2の経済大国に成長した。この間、毛沢東も鄧小平も、そして現在の指導者習近平国家主席も「中国は覇権を求めない」と世界に向かって宣言している。

その一方で、習近平主席は最近「中華民族の偉大な復興」を叫ぶようになった。中華民族には2200年前の「秦」以来「漢」「唐」「宋」「明」「清」の各帝国が続々、ユーラシア大陸東部に覇を唱えてきた歴史がある。「中華民族の偉大な復興」と聞けば、誰しも中華民族の覇権を思い出さずにはいられない。

一方のアメリカ合衆国である。ちょうど30年前の東西冷戦終結からソ連解体を経て、アメリカは世界で唯一の覇権国家となった。冷戦解消後の30年、ブッシュ(父)、クリントン(2代)、ブッシュ(子、2代)、オバマ(2代)の各政権ではアメリカの覇権行使は「当たり前」のことだったが、現行のトランプ時代に入って少し様子が変わってきた。

アメリカは覇権国家を任ずる以上、世界中に兵隊を派遣し、お金をばらまき、「自由と民主」を唱え続けなければならない。しかしトランプ氏は、アメリカの覇権は当然のものと自認するが、そのためにお金をばらまき、兵隊を派遣し、「自由と民主」のお説教をするのは「ご免だ」というのだ。

だからシリアから米軍を撤退させるし、アフガニスタンからも撤退させたいというのがトランプ氏の本心だ。新年早々解任されたマティス国防長官ら既成権力層は、アメリカの覇権を護るためにはあちこちのポイントに米軍を派遣しておくことが必要だと考えるのだが、トランプ氏は同意しない。

そのトランプ氏も、習近平主席の中国が「偉大な復興」を叫ぶことによって、少なくともアジア太平洋の覇権争いに参画しつつあることは認めざるを得ない。ソ連崩壊以後、アメリカの覇権に異を唱える国はどこにもいなかったが、第2の経済大国として意気揚がる中国は「無言のうちに」アメリカに覇権争いを挑んでいるのだ。

「お人好し」あるいは「世間知らず」のアメリカは、貧しい中国が豊かになれば共産主義のイデオロギーなどは忘れて、自由、民主の国になるのではないかと楽観視していたという。


しかし中国はマルクス、レーニン、毛沢東の思想はともかく、2千年余にわたって中華帝国を維持してきた歴史がある。そして中国共産党は、アジアの覇権を担ってきた中華帝国の後継者であることを忘れるわけにいかない。
2019.05.27 米中貿易摩擦で世界の景気不安
  底流に米中の覇権争い

伊藤力司 (ジャーナリスト)

ニューヨークや東京の株価の動揺は、基本的には世界第1の経済大国アメリカと第2の経済大国中国の間の貿易摩擦が原因である。トランプ米大統領が、中国に対するアメリカの大幅な貿易赤字の解消を目指して仕掛けた関税戦争の見通しが不透明で、そのことが、世界中の市場を神経質にしている。

昨年11月末、ブエノスアイレスのG20首脳会議の機会に開かれたトランプ大統領と習近平中国国家主席の首脳会談で、米中双方は本年3月当初まで摩擦解消を目指して協議を行うことで合意した。少なくともこの間は、アメリカも対中関税の追加引き上げは行わないことを約束したのだが、トランプ氏は約束を破って関税を引き上げた。

しかしトランプ政権は貿易不均衡問題をきっかけに、米中関係を根本的に見直し、中国と対決する道に踏み込もうとしているようだ。ペンス米副大統領は、昨年10月4日ワシントンの保守系シンクタンク「ハドソン研究所」で演説し「邪悪な中国共産党との対決」を米国民に呼びかけた。

ペンス副大統領はこの演説で、中国がひそかに米内政に介入しトランプ政権の転覆を図ったとまで告発した。米国内の一部メディアは、このペンス演説をトランプ政権の対中国「宣戦布告」と評したほどだ。

1946年3月、訪米中のチャーチル英首相が「鉄のカーテン演説」をして東西冷戦を予言したが、このペンス演説は「米中冷戦」の幕開けを告げたと、ワシントンではもっぱらの話題になった。

当面の米中摩擦のポイントは、人工知能(AI)や量子コンピューター、5G(次世代通信規格)などの先端技術だとされる。米側の心配は、中国が米企業の知財をこっそり入手して、AIや5Gなど軍事に直結する先端技術の分野で優位に立とうとしているのではないか、ということだ。こうした懸念はトランプ政権だけでなく、広く米国の関係者の間で共有されているという。
2019.05.18 「平凡さの偉大さ 新たな世界秩序を考えて」
   韓国通信NO600

小原 紘(個人新聞「韓国通信」発行人)

韓国の文在寅(ムン・ジェイン)大統領が5月10日の就任2周年に合わせ、ドイツ紙フランクフルター・アルゲマイネ(FAZ)に、「平凡さの偉大さ 新たな世界秩序を考えて」と題する文章を寄稿した。
        20190517ムンジェイン大統領
ローソクデモで示された国民の支持を背景に登場した文在寅大統領のこの文章から韓国が何処へ向かおうとしているのか改めて知ることができるだろう。3.1独立運動、光州5.18民衆蜂起で示された韓国民衆の平凡なる意志が韓国の今日をもたらしたこと。その確信にもとづく大統領の民衆に対する謙虚なまでの信頼感に溢れた内容である。隣国を知るために、またアジアの一員として、わが国が進むべき方向を考えるうえで貴重な提言となっている。長文だが以下に5月7日付聨合ニュース日本語版を写真とともに紹介する。

1 光州
韓国南西部の光州は韓国の現代史を象徴する都市です。韓国人は光州に心の負い目があり、今でも多くの韓国人が光州のことを考え、絶えず自らが正義に反していないかどうかを問い返しています。
1980年春、韓国は大学生たちの民主化運動で熱気に包まれました。朴正熙(パク・チョンヒ)政権の独裁体制、維新体制は幕を下ろしましたが、新軍部勢力が政権を掌握しつつありました。新軍部はクーデターを起こし、非常戒厳令を発動して政治家の逮捕、政治活動の禁止、大学の休校、集会・デモの禁止、報道の事前検閲、布告令違反者の令状なしでの逮捕など、過酷な独裁を始めました。
ソウル駅に集まった大学生たちは新軍部の武力による鎮圧を懸念し、撤収を決定しました。このとき、光州の民主化要求はさらに燃え上がりました。空輸部隊を投入した新軍部は市民たちを相手に虐殺を行い、国家の暴力で数多くの市民が死亡しました。5月18日に落ち始めた光州の花びらは5月27日、空輸部隊の全羅南道庁鎮圧で最後の花びらまでも散ることになりました。
光州の悲劇は凄絶(せいぜつ)な死とともに幕を下ろしました。しかし、韓国人に二つの自覚と一つの義務を残したのです。一つ目の自覚は、国家の暴力に立ち向かったのが最も平凡な人々だったということです。暴力の怖さに打ち勝ち、勇気を出したのは労働者や農民、運転士や従業員、高校生たちでした。死亡者の大半も、そうした人々でした。
二つ目の自覚は、国家の暴力の前でも市民たちは強い自制力で秩序を維持したということです。抗争が続いていた間、ただの一度も略奪や盗みがなかったということは、その後の韓国の民主化過程における自負心、行動指針となりました。道徳的な行動こそ、不正な権力に対抗して平凡な人々が見せることのできる最も偉大な行動だということを、韓国人は知っています。道徳的な勝利は時間がかかるように思えますが、真実で世の中を変える一番早い方法なのです。
残された義務は、光州の真実を伝えることでした。光州に加えられた国家の暴力を暴露し、隠された真実を明らかにすることがすなわち、韓国の民主化運動でした。私も南部の釜山で弁護士として働きながら、光州のことを積極的に伝えようとしました。多くの若者が命を捧げて絶えず光州をよみがえらせた末に、韓国の民主主義は訪れ、光州は民主化の聖地となったのです。
孤独だった光州を一番先に世の中に伝えた人が、ドイツ第1公共放送の日本駐在の特派員だったユルゲン・ヒンツペーター記者だったという事実は非常に意義深いことです。韓国人はヒンツペーター氏に感謝しています。故人の意向により、同氏の遺品は2016年5月、光州の五・一八墓域に安置されました。

2 ローソク革命、再び光州
私が1980年の光州について振り返ったのは、今の光州について話したかったためです。
2016年、厳しい冬の寒波の中で行われた韓国のローソク革命は、「国らしい国」とは果たして何であるかを問いながら始まりました。韓国では1997年のアジア通貨危機と2008年のリーマン・ショックを経て、経済不平等と二極化が進みました。金融と資本の力はより強くなり、非正規雇用労働者の量産で労働環境は悪化しました。そんな中、特権階層の不正・腐敗は国民に一層大きな喪失感を与えました。ついには韓国の南方沖、珍島の孟骨水道を航海していた旅客船のセウォル号でかけがえのない子どもたちが救助も受けられずに亡くなり、韓国の国民は悲しみを胸に抱いたまま、自ら新たな道を探し始めました。
ローソク革命は親と子が一緒に、母親とベビーカーの幼児が一緒に、生徒と先生が一緒に、労働者と企業家が一緒に広場の冷たい地面を温めながら、数カ月にわたり全国で続きました。ただの一度も暴力を振るうことなく、韓国の国民は2017年3月、憲法的価値に背いた権力を権力の座から引きずり下ろしました。最も平凡な人々が、一番平和的な方法で民主主義を守ったのです。1980年の光州が、2017年のろうそく革命で復活したのです。私は、韓国のろうそく革命について歌と公演を織り交ぜた「光の祭り」と表現し、高いレベルの民主主義意識を示したと絶賛したドイツの報道をありがたい気持ちで記憶しています。
今の韓国政府はローソク革命の願いによって誕生した政府です。私は「正義のある国、公正な国」を願う国民の気持ちを片時も忘れていません。平凡な人々が公正に、良い職場で働き、正義のある国の責任と保護の下で自分の夢を広げられる国が、ろうそく革命の望む国だと信じています。
平凡な人々の日常が幸せであるとき、国の持続可能な発展も可能になります。包容国家とは、互いが互いの力になりながら国民一人一人と国全体が一緒に成長し、その成果を等しく享受する国です。
韓国は今、「革新的包容国家」を目指し、誰もが金銭面を心配することなく好きなだけ勉強し、失敗を恐れず夢を追い、老後は安らかな生活を送れる国を築いていっています。こうした土台の上で行われる挑戦と革新が民主主義を守り、韓国経済を革新成長に導くものと信じています。
包容国家は社会経済体制を包容と公正、革新の体制に変える大実験です。韓国では雇用部門で、より良質な雇用をより多く生み出すため努力しています。労働者がより良い生活を送り、働いただけ正当な対価を得られるよう、社会的合意を通じて最低賃金の引き上げと労働時間の短縮を進めています。若者の雇用のための予算を増やすとともに、退職後の人生にも責任を負うべく中年層の再就職訓練に対する支援を実施しました。また高齢者の基礎年金を引き上げ、雇用関連予算を増やしました。
経済部門では、これまで韓国経済を支えてきた大企業と中小企業の共生に取り組んでいます。革新的なベンチャー企業や中小企業がどんどん成長していけるよう、規制を大胆に取り除き、金融も革新を評価する方向に変えていっています。
福祉部門ではライフサイクルに合わせた社会保障システムの構築を進めています。医療保険の保障範囲を広げ、安心して子育てできるよう保育サービスの拡充に努めています。誰もが差別されない社会を目指し、発達障害者のライフサイクルごとの総合対策を立て、女性の権益を増進する一方、性差別には断固として対処しています。外国人労働者の子どもや国際結婚家庭に対する支援も強化しています。教育部門では入試競争や詰め込み式教育を脱却し、創意性を重視する革新教育にシフトしていく予定です。
しかし、慣れ親しんだ慣習を脱し、変化していく過程では葛藤も起こり得ます。利害関係が異なる人々の間で対話し、調整し、妥協する時間が必要です。これを通じ、皆に利益になることを探していかねばなりません。大実験を成功させるには社会的大妥協が伴う必要があります。
韓国は植民地支配と戦争で廃墟と化しましたが、わずか70年ほどで世界11位の経済大国に成長しました。私たちは、こうした成果を変化にスピーディーに対処することで成し遂げました。農業から軽工業、重化学工業、先端情報通信技術(ICT)に至るまで、どの国も不可能だったとてつもない変化を自ら成し遂げ、第2次世界大戦後の新生独立国のうちで唯一、先進国に飛躍しました。韓国には、裸一貫から成功を遂げた底力があります。韓国国民は変化を恐れず、むしろ能動的に利用する国民です。
近ごろ、光州で意味のある社会的大妥協が起きました。適正賃金を維持しながらより多くの雇用を得るため、労働者と使用者、民間と政府がそれぞれの利害を離れて5年以上も向き合いました。労働者は一定部分の賃金を諦めねばなりませんでした。使用者には、雇用を保障し、労働者の福利厚生に責任を負いつつもコストを維持せねばならないという困難がありました。人間らしい暮らしを守ろうとする民間の要求が強く、各種法規を調整して安定した企業運営を支援せねばならない政府もまた、妥協に苦労しました。
簡単ではありませんでしたが、譲歩と分かち合いによって最終的に大妥協を成し遂げました。韓国ではこうして生み出された雇用を「光州型雇用」と呼びます。韓国人は、大義のため自らを犠牲にする「光州精神」がもたらした結果だと受け止めています。民主化の聖地、光州が社会的大妥協の模範を作り、経済民主主義の第一歩を踏み出したと考えています。
「光州型雇用」には雇用を生み出すこと以上の意味があります。それは、より成熟した韓国社会の姿を反映していることです。産業構造が急変していく中で労働者と使用者、地域がどう共生していけるのかを示したのです。「光州型雇用」は「革新的包容国家」へ向かう上で非常に重要な転換点になるでしょう。韓国人は長年の経験から、少し時間がかかるように思えても社会的合意を成し遂げ、共に前に進んでいく方が皆にとって良いということを知っています。少しずつ譲歩しながら一緒に歩んでいく方が結局は近道だということも、よく理解しています。1980年5月の光州が民主主義のローソクになったように、「光州型雇用」は社会的妥協で新たな時代の希望を示し、包容国家の踏み石となりました。
包容は平凡さの中に偉大さを見つけることです。平凡の集まりが変化をつくり出すことのできる、新たな環境を整えることです。韓国政府は今、「光州型雇用」の成功が全国に広がるよう全力を尽くしています。
ドイツは包容と革新を最も理想的に具現した国の一つです。平和的な方法で統一を実現した歴史と、包容と革新によって社会の統合を成し遂げた事例は、私たちに常にひらめきをもたらしました。韓国の光州も、新たな秩序を模索する世界の多くの人々にひらめきを与えられればと願っています。

3 平凡な人々の世界
韓国ではちょうど100年前、平凡な人々が力を合わせて新たな時代を開きました。日帝(日本)による植民地支配を受けていた人々が、1919年3月1日から独立万歳運動を始めました。202万人、当時の人口の10%が参加した大規模な抗争でした。木こり、妓生、視覚障害者、鉱員、作男、名前も知られていない平凡な人々が先頭に立ちました。
韓国で三・一独立運動が重要である理由は二つです。一つはこの運動を通じて市民意識が芽生えたことです。一人一人に国民主権と自由と平等、平和に向けた熱望が生まれ、これによって階層、地域、性別、宗教の壁を超えました。一人一人が王政の百姓から国民に生まれ変わりました。そして大韓民国臨時政府を樹立しました。
臨時政府は日帝に対する抵抗を超え、完全に新しい国を夢見ました。1919年4月11日、国号を大韓民国と定めて「臨時憲章」を公布し、大韓民国は君主制ではなく民主共和国であることを明確にしました。臨時憲章第3条では「大韓民国の人民は男女、貴賤、貧富、階級を問わず平等だ」と明示しました。女性を含む全ての国民の選挙権と被選挙権も保障しました。当時、臨時政府の構成に加わった韓国の独立運動家の安昌浩(アン・チャンホ)はこう言いました。「過去に皇帝は1人だったが、今は2000万人の国民が皆皇帝です」。民主共和国を表現した、実に明快な言葉です。
臨時政府は27年近く、亡命地で植民地解放運動を展開しました。世界の植民地解放運動史において極めて珍しいケースです。臨時政府があったからこそ、列強の国々はカイロ宣言を通じて韓国の独立を保障することになるのです。
三・一独立運動が重要である二つ目の理由は、心を一つにすることほど大きな力はないと気付き、互いを信じて一度も行ったことのない道へ進んだということです。当時、運動に加わって日帝の監獄に入れられた韓国の近代小説家、沈薫(シム・フン)は母親にこんな手紙を送りました。
 「お母さん! 私たちが千回、万回、祈りを捧げても、固く閉ざされた獄門がおのずと開かれることはないでしょう。私たちがどれだけ声を張り上げて泣き叫んでも、大きな願いが一朝にしてかなうこともないでしょう。しかし、心を一つにすることほど大きな力はありません。一丸となって行動を同じくすることほど恐ろしいことはありません。私たちはいつもその大きな力を信じています」
韓国の近現代史は挑戦の歴史でした。植民地と南北分断、戦争と貧困を超え、民主主義と経済発展を目指して前進してきました。その歴史の波をつくったのは、平凡な人々でした。三・一独立運動後の100年間、韓国人は誰もがそれぞれの胸に泉(力の源泉)を抱いて生きてきました。危機のたびに一緒になって行動しました。「豊かに暮らしたいが、一人だけ豊かに暮らしたくはない」「自由になりたいが、一人だけ自由になりたくはない」という気持ちが集まり、歴史の力強い波となりました。
私は、民主主義は制度や国家運営の道具ではなく、内在的価値だと考えています。平凡な人々が自分の暮らしに影響を与える決定の過程に加わり、声を上げることで、国民としての権利、人間としての尊厳を見いだすことができると思います。私たちはより良い民主主義をつくれるのです。ジョン・デューイの言葉のように、民主主義の問題を解決するためにはより多くの民主主義を行うしかないのです。
民主主義は平凡な人々により尊重され、補完されながら広がっています。制度的で形式的な完成を超え、個人の暮らしから職場、社会に至るまで実質的な民主主義として実践されています。平凡さの力であり、平凡さが積み重なって成し遂げた発展です。
100年前、植民地の抑圧と差別に立ち向かい闘った平凡な人々が、民主共和国の時代を開きました。自由と民主、平和と平等を成し遂げようとする熱望は100年がたった今なお強いのです。国が国らしく存在できないとき、三・一独立運動の精神はいつでもよみがえりました。
                  ・・・引きつづき「続きを読む」・・・
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2019.05.13 イラン攻撃をしたいトランプ
  空母、B52、地上兵力5千人の臨戦態勢

坂井定雄 (龍谷大学名誉教授)

トランプ大統領の密命によって5月上旬、初期的な米軍のイラン攻撃態勢ができあがった。B52戦略爆撃機部隊(機数不明)がペルシャ湾のカタールにも移駐、地中海から空母エイブラハム・リンカーン以下の空母打撃軍がスエズ運河を通ってペルシャ湾近海に移動、トランプの懐刀のポンぺオ国務長官が他国訪問の予定を急遽変更してイラクの首都バグダッドを電撃訪問した。イラクには、米軍5千人が駐留している。ポンぺオ長官はバグダッドで「イランによる差し迫った(米軍)攻撃の情報がある」と急なイラン訪問の意図を説明したと報道されたが、イランが在イラク米軍を攻撃する意図などあるはずがない。在イラク米軍を対イラン攻撃の一翼を担わせる計画を協議したに違いない。
米軍のイラン攻撃態勢を脅しだけだと軽視することはできない。
今すぐにでも、イランを挑発するために、停止中あるいは厳しく制限された核燃料施設や研究施設を爆撃するかもしれない。一方イラン側もロウハニ大統領が8日、昨年5月に米国が核合意から離脱したことへの報復措置として、核合意の履行の一部を即時停止すると宣言した。他の加盟国はイランに合意履行を継続するよう強く働きかけており、実際にイランが報復措置を実行するかどうかは予測できないが、トランプ政権のイラン攻撃実施に口実をあたえる。
トランプ大統領の対イラン政策は、現在最もホットな問題である対中国の関税大幅引き上げ(10%→25%)はじめ同政権の様々な国際協定脱退の中でも、異常に一方的だ。
トランプ政権は2018年5月、オバマ前政権下の2015年7月に米、英、仏、独、ロ、中6か国とイランが結び、その後も国際原子力機関(IAEA)が定期的な監査でイランが忠実に実施していることを確認してきた核合意から、一方的に脱退した。他の5か国は加盟を維持し、イランからの原油取引を継続しようとしたが、米国が取引の大部分を占めるドル代金支払いルートを全面的に遮断したため、取引量が大幅に減少。2018年1月には産出日量380万バレル、輸出230万バレルに達していたイランの原油輸出量が、今年3月には産出日量270万バレルに縮小。トランプ政権はイラン原油への依存度が高かった中国、インド、日本など8か国に制裁適用除外期間を与えて、従来の代金支払いルートの使用を妨げなかったが、今月、制裁適用除外を解除。その間にイラン以外に輸入源を広げた日本でもガソリンの値上げが起こった。
米国の制裁による原油輸出の減少は、イランに大きな打撃を与えた。国際通貨基金(IMF)の資料によると、イランの経済成長率(GDP)は、2016年4月にはプラス13%程度に上がったが、2018年4月3.9%,19年4月にはマイナス6%程度に低下した。その国民生活に及ぼす影響は大きい。
これだけでも、トランプ政権の“イランいじめ”は1千万イラン国民を苦しめてきた。なぜトランプと一部の米国民が、これほどイラン嫌いなのか。その理由を列挙してみよう。
(1) 1978年1月の、ホメイニ師に率いられるイスラム革命によって、米国の中東最大・
  最強の親米拠点だったイラン王政が打倒された。翌79年11月、反米派の学生団が
  首都テヘランの米大使館を占拠、大使館員らを人質にして、米国に亡命したパーレ
  ビ国王の引き渡しを求めた。米政府は拒否。80年4月、米軍による人質救出作戦が
  失敗。81年1月、アルジェリアの仲介で、人質は解放されたが、米政府と米軍にとっ
  て大きな屈辱となった。
(2)イスラム革命後のイラン政権は、パレスチナ紛争で、一貫してパレスチナ解放勢力を
   支援し、イスラエルの拡張政策を非難してきた。歴代米政府は、米国主導で47年に
   成立した国連パレスチナ分割決議に基づき、イスラエルが67年戦争で占領したエル
   サレムとヨルダン川西岸地区、シリア領ゴラン高原の領土化を公式には認めなかっ
   た。 しかしトランプ政権はエルサレムはじめ67年戦争でのイスラエル占領地の領
   土化を事実上認め、米大使館を第2の都市テルアビブからエルサレムに移転。
   4月のイスラエル選挙では、苦戦していたネタニヤフ首相の選挙運動支援するため、
   ゴラン高原領土化への祝辞まで送った。
(3)サウジアラビアとイランは、ペルシャ湾一帯の覇権を競う巨大産油国だが、トランプ
   政権は発足直後からサウジアラビアを全面的に支持し、イランを敵視してきた。トラ
   ンプ政権発足 直後、トランプはサウジアラビアを訪問、反イランの立場を鮮明にし、
   サウジ側は巨額の兵器購入の約束で応えた。
―ほかにも、シリア内戦、イエメン内戦など米国とイランが対立する勢力に分かれて支援しており、トランプ政権の対イラン敵意は深まるばかりで、危険だ。 (了)
2019.05.11 本当に「解決ずみ」といえるのか 徴用工問題、二冊の本から読み解く
  韓国通信NO598

小原 紘(個人新聞「韓国通信」発行人)

前々回号「日韓基本条約とは―韓国大法院(最高裁)判決を考える」で、日韓基本条約が国交正常化に本当にふさわしいものだったかどうか、過去の償いも含めて「すべて解決済み」と胸を張る日本政府に疑問をぶつけた。
謝罪はしたくない、だから「賠償」ではなく「経済協力」とした。韓国大法院(最高裁)が、「慰謝料」の支払いを命じると、被告の日本企業の前に立ちふさがり、「すでに賠償した」と強弁するのは、「二枚舌」との非難は免れない。

締結内容の他にどのような合意があったのか。韓国政府は2005年に政府の文書を開示したが、日本政府は「不都合」だとして、いまだに開示を拒んでいる。外交文書開示30年ルールを無視したままでは説得性が欠ける。「経済協力」では、「道義的責任が残る」という国会内での議論も紹介した。日本が「不都合な真実」を隠していると言われても仕方がない。
その議論は別として、日韓間で懸案となっている従軍慰安婦、徴用工の問題では金銭の問題、外交問題ばかりに関心が集まり、被害者たちの実態については、おろそかにされてはいないか。
たしかに、被害者にとっても辛い記憶は、日本人としても忘れたい記憶だが…。

<帰れ 釜山港へ>
チョー・ヨンピルの「釜山港へ帰れ」の歌詞に漂う韓国人の釜山港への思い。そこには日韓の複雑な歴史が影を落とす。
28年前、韓国をひとりで一カ月間旅行したことがある。帰りの飛行機のチケットを破り捨てて、釜山から下関行きのフェリーに乗った。以下は私の旅行記の一文である。
「長い歴史のなかで、この港と下関を行き来した多くの人たちの人生のドラマを想った。<中略> こんなに美しい港なのに、胸が締め付けられるような気持ち…」「アリランの歌を口ずさんでいるうちに涙が…。歌えば歌うほど涙はとまらなかった」。
下関港と博多港は現在でも釜山と船で結ばれているが、かつては強制連行された朝鮮人が上陸し、日本の敗戦とともに解放され、帰国を急いだ港だった。彼らは筑豊の炭鉱を始め、各地の工場や土木現場で働かされた。
『続アボジがこえた海』李興燮(リ・フンソプ)著と、『三たびの 海峡』帚木蓬生(ははきぎ ほうせい)著では下関と博多の港が絶望と苦悩の場所として描かれている。李興燮氏は黄海道(現在の北朝鮮)出身。佐賀県の住友唐津炭鉱で働かされた体験をまとめた。帚木蓬生は強制連行された河時根(ハ・シグン)を主人公にして小説を書いた。国民徴用令(1939)が施行され、1942年には大規模な強制連行が行われた結果、徴用された朝鮮人は113万人にのぼった(岩波日本史辞典)といわれるが、李興燮氏も小説の河時根も敗戦末期に、また偶然にも16才、17才の時に強制連行され、筑豊の炭鉱で働かされた。
例によって、日本では「人数はもっと少なかった」「自らすすんで日本に来た人もいた」「給料が支払われた」などという議論がある。しかし「創氏改名は朝鮮人が求めたもの」という主張と同じく、「一部を全体」、「形式を実態」と理解させようとする欺瞞に満ちた議論というほかない。
戦争拡大に伴い労働力不足を補うために朝鮮各地から「徴用」して、土木、鉱山の作業現場に割り当て、長時間ろくに食事も与えず牛馬のようにこき使った。命の危険を感じた多くの朝鮮人が脱走を試み、失敗するとリンチが加えられ絶命する人も多かった。
徴用工の実態については、昨年10月の韓国大法院判決でも明らかにされたが、『続アボジがこえた海』と『三たびの 海峡』を読めば、赤裸々な体験と、小説家帚木蓬生の迫真のノンフィクションから、徴用工の悲惨さが胸に迫る。李興燮さんも小説の河時根も釜山から「囚人船」に乗せられたようにして九州の炭鉱に連れてこられた。家族から切り離され、賃金が支払われたというが、強制貯金、故郷への送金分が差し引かれた。人間としての尊厳は無視され、監視、暴力が絶えない実態は両書に共通する。

<『続アボジがこえた海』は『アボジがこえた海』(1987)の続編>
20190511アボジの海

『アボジがこえた海』は大阪・池田市の中学校生徒による父親李興燮さんへの聞き書きがスタートとなり、教師たちの手によって刊行された。各新聞社が紹介、注目を集めた。転々と職を変え金属回収業を営んでいた李興燮アボジがたどった人生をじかに聞きたいと、小学校、中学校から講演の依頼が相次いだ。
『続アボジがこえた海は』はそれから28年後、本人が書き残した文章-帰国のために博多港が溢れんばかりの同胞たちで大混乱の様子-とともに新聞に連載された李さんの強制連行と逃亡生活、さらに講演会での話、指紋押捺裁判の証人として語った記録などが収められている。
強制連行によって狂わされた人生を振りかえる李さんの怒りは凄まじいものがあるが、泣き言はない。達観したところもあり、前向きな生き方が随所に見受けられ、講演会では、子どもたちに戦争のないすばらしい日本を託し、励まし続けた。続編発刊の前年の2014年に波乱の86才の生涯を終えた。

 『三たびの 海峡』
20190511三たびの海峡

映画でご覧になった方も多いかも知れない。(神山征二郎監督、三国連太郎主演1995年作品) 
炭鉱内の生活がリアルに日本人作家の手によって描かれた。拷問、朝鮮人の仲間との心の交流、戦争遂行の国策第一、あまりにも非人間的な死と背中合わせの日々。そして脱走。結婚した日本人女性を連れて帰国。生まれた子どもと妻の日本への帰国。
ある日、事業に成功した主人公のもとに届いた消息は、かつて炭鉱の所長だった男が市長としてボタ山を無くすという市の活性化計画だった。それまで主人公は意識して忘れていた強制連行の町を訪れるために、三度、海峡を渡る。既に最初の日本人妻は亡くなり、息子と再会。労働現場を「記憶」として残したいという息子と意気投合。息子に資金援助を約束した主人公は、かつて日本人の手下となって仲間を拷問死させた在日朝鮮人。彼は建設業で成功を収めている。その彼を仲間たちの墓がある場所におびき寄せ殺害し、ともに崖から飛び降り命を絶つというのがあらすじだ。
 軽く読めば復讐劇だが、帚木蓬生は徴用工(強制連行)をテーマにして日韓併合が生んだ両民族の悲劇に迫る。日本人として忘れてはならないことを朝鮮人の主人公の目から小説に書き上げた。単なる「復讐」「反日」小説として読むのは読み間違いだ。
 精神科医である作家帚木の目は科学者らしく綿密、冷静でありながら、ヒューマニティに溢れたものが多いが、本書は日本人の「記憶」と「責任」の問題を深く掘り下げた点が注目される。
三たび 海峡を渡り、日本にやって来た主人公の河時根は、「私の命が朽ちる前にやっておかなければならないことがある。それこそが、非情な歳月の力に抗う唯一の道であり、傷跡を永遠に残し、死んだ同胞たちの血と涙と労苦を生かす行為なのだ。それなくしては、人は忘却のなかでまた同じ轍にはまりこんでいくだろう」と、死を覚悟して、市長選の演説会場に乗り込み、候補者の旧悪を暴き、計画通りに殺人を遂行する。しかしそれは過去を封印して平然と生きる人間たちの「非情な歳月の力」に抗う道であり、それは作者自身の決意でもある。
息子に宛てた遺書のなかで主人公は、<生者が死者の意思に思いを馳せて生きる限り、歴史は歪まない>と記し、「不幸な歴史を繰り返さないためにも、海峡を挟む二つの民族の優しい架け橋になって欲しい」と書き残した。
李興燮アボジと河時根の思いに共通するものを感じる。二つの著書はともに日本人が落ち込んでいる精神状況に対する痛恨の警告となっている。
 二つの著書は、ともに韓国語に翻訳された。韓国語で前者は『娘が伝える父親の歴史』、後者は『海峡』である。『海峡』には多くの韓国人読者から、日本人作家への驚きと賞賛の声が寄せられている。昨年末に韓国で翻訳された『娘が伝える父親の歴史』も日本発の貴重なドキュメントとして多くの韓国人に読まれるに違いない。
「すべて解決ずみ」と取り澄ましている日本の政治家は「無知」で「無恥」と批判されても致し方ない。
2019.05.07 日韓基本条約(1965)とはー韓国大法院(最高裁)判決を考える
  韓国通信NO596
 
小原 紘(個人新聞「韓国通信」発行人)

韓国の最高裁判決が徴用工への「補償」を日本企業に求め、日韓の外交問題に発展した。「補償」を求められた企業が事実を認め、謝罪と金銭を払えばそれですむことだが、日本政府が立ちふさがり、日韓条約を盾に韓国の最高裁判決の取り消しを求めた。また日本政府の主張に歩調をあわせたマスコミ報道によって、今や日韓の「オール対決」になった観がある。
 日本が「すべて解決済み」と一歩も譲らないなら解決の糸口は見いだせそうもない。

<15年かかった日韓交渉>
 「日韓条約」をめぐる歴史と諸問題をあらためて振り返って見た。条約締結に至る道のりは平坦ではなく、予備会談(1951)から始まり、締結までに15年かかったように紆余曲折を経た。
背景にはサンフランシスコ講和条約(1952)による日本の独立、朝鮮戦争(1950~1953)、学生革命による李承晩政権の失脚(1960)、軍事クーデターによる朴政権の誕生(1961)。国際情勢、とりわけアジアにおける冷戦構造が一層深刻さを増し、ベトナム戦争が激化した影響がある。しかし何よりも、日韓の主張にあまりにも大きな隔たりがあったのが大きな原因だった。

<条約をめぐる日韓の対応>
日韓条約について、韓国では一般的にどのように理解されているのか。『韓国現代史』<ソ・ジュンソク著 歴史問題研究所企画2005>から日韓条約に関する記述の概略を以下にまとめた。
1. 朴正熙政権は政権基盤を固めるために、最重要課題として日韓の国交正常化に取り組んだ。それは中国・ソ連と対抗するためのアメリカの強い要請にもとづくものだった。
2. 朴正熙はこれまでにない親日政権であり、対日姿勢は屈辱的なものだった。
3. 1962年の金鐘泌(キムジョンピル)・大平外相の「密談」には疑惑が多い。
4. 反対運動を押さえるために、政府は非常戒厳令、さらに衛戍令を発動して軍隊で鎮圧した。
5. 運動は市民の共感を呼び、野党も反対したが強行採決によって承認された。
6.条約は過去に日本との間に結ばれた条約は「もはや効力を失った」と確認したものの、日本側の植民地支配に対する謝罪はなく、個別補償は封じられ、経済協力が約束された。
  
日韓条約への評価は厳しく、「通史」ながら屈辱的な条約の説明に数ページを費やしている。断っておくが、本書は専門書ではなく中学生でも読める絵入り写真入りの「やさしい」現代史である。
日本では歴史専門書は別にして、「現代史」で日韓条約の扱いは極めて軽い。高校教科書では「難航のすえに日韓基本条約を締結した」と説明があるだけだ(山川出版1991)。従って今さら日韓条約で「すべて解決済み」といわれても、ピンとこない人も多い。
日本に対してアメリカは日韓が共同してアジアにおける「反共の砦」となることを強く求めたことは言うまでもない。締結を急がせたことと、韓国がベトナム戦争に参戦したこと、日本の防衛力強化と米軍基地化が進んだこととは無縁ではない。
難航を重ねた交渉が締結へ一挙に現実味を帯びだしたのは、過去を問わず未来を重視する朴正熙政権の誕生(1961)による。韓国では屈辱的な対日姿勢が批判を受けたが、日本は「親日的」と評価し歓迎した。
日本でも野党を始め在野勢力がこぞって日米韓の軍事同盟を危険視して反対した。全国的にも数次にわたって「ベトナム反戦、日米安保破棄」の運動とともに闘われたが、韓国の反対運動に比べ盛り上がりに欠けたものだった。

<過去を封印し、経済協力(独立祝い金)に転化した日韓条約>
交渉は請求権が最大のテーマとなったが、「賠償」ではなく「経済協力」になった。数次にわたる交渉は請求権問題で決裂を繰り返したが、植民地支配の責任を認めない日本側の主張が大平・金鐘泌の密約によって合意されることになった。
朴政権は国内の猛反対を押し切って、名を捨てて実を取ろうとしたと言われる。
交渉の当初、韓国政府は「カイロ宣言」「ポツダム宣言」を前提に、「奴隷状態にあった」植民地支配に対する賠償と謝罪、「保護条約」1905、「日韓併合条約」1910の廃棄、独島(竹島)の帰属問題の解決、文化財の返還などを求めた。また60年の第五次会談で、韓国は個人補償を含む8項目要求を提出したが、植民地支配は朝鮮に対して「経済的にも文化的にも貢献」したと日本は主張を譲らなかった。

1962年、日本共産党の野坂参三が、国会で日韓会談の中止を求め、「朝鮮人に奴隷労働を強いたことへの反省」を問うたが、池田首相は「朝鮮を併合してからの非行に対しては寡聞にして十分存じません」(第43回参院議事録)と答えるなど、日本側の歴史認識は最後まで変らなかった。
韓国側を激怒させた発言には枚挙にいとまがないが、交渉団の久保田代表と後任の高杉代表の発言は日本側の本音を知る上で欠かすことができない妄言だった。
1953年の第三次会談における久保田貫一郎の発言は請求権をめぐる議論から飛び出した。
「(韓国が)賠償を要求するなら日本は、その間、韓人に与えた恩恵、すなわち治山、治水、電気、鉄道、港湾施設に対してまで、その返還を請求するだろう。日本は毎年二千万円以上の補助をした」「当時を外交史的に見たとき、日本が進出しなかったらロシア、さもなければ中国に占領され現在の北韓のように、もっと悲惨だったろう」(請求権委員会議事録)。
また、64年の第七次会談の代表高杉晋一の発言、「日本は朝鮮を支配したというが、わが国はいいことをしようとした」「日本は朝鮮に工場や家屋、山林などをみなおいてきた。創氏改名もよかった。朝鮮人を同化し、日本人と同じく扱うためにとられた措置であって、搾取とか圧迫とかいうものではない」と述べ、植民地支配を正当化した。交渉に支障が生じ、発言は撤回されたが、基本的な認識は現在の日本政府にも受け継がれているといってよい。

調印した椎名悦三郎外相の「お祝い金」発言はあまりにも有名だ。「あくまで有償・無償5億ドルのこの経済協力は、経済協力でありまして、韓国の経済が発展するように、そういう気持ちを持って、また新しい国の出発を祝う点において、この経済協力を認めたのでございます」(第50回参院本会議1965/11/19)。
条約締結に付随して交わされた請求権協定」、無償3億ドル、有償2億ドルを供与、請求権問題は「完全かつ最終的に解決された」。今日の徴用工被害者たちの補償問題の根本的なルーツはここにあると言ってよい。
日本側は「補償した」かのように主張するが、「経済協力」であって「補償ではない」とする矛盾。姑息な謝罪隠しがボタンの掛け違いとなって今日まで続いている。

日韓ともに「強行採決」によって批准成立。だが、韓国の反対運動は想像を絶する凄まじいものだった。64年3月の抗議デモは「朴政権下野」を求める大規模デモに発展、政府は非常戒厳令を発して1200名の学生を逮捕した。さらに背後の存在に北朝鮮があると「人民革命党事件」をデッチあげて運動を威嚇した。

  20190501小原
             韓日条約反対集会に参加した学生たち

デモの規模は波状的に数万人規模で激しく闘われた。ハンストを含む多彩な抗議行動は軍隊によって封じ込められたが、その精神は1980年の光州事件、1987年の民主化抗争に受け継がれ、2016~17年のローソクデモにつながる。圧倒的な軍隊の力を背景に締結された事実は日韓条約の悲劇として記憶したい。

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