2020.01.22
   弁護士らを一斉摘発―くり返される「大一統」の呪縛
               ――八ヶ岳山麓から(303)――
           
阿部治平(もと高校教師)

中国各地で昨年12月下旬以降、人権派弁護士や活動家ら10人以上が公安当局に摘発されていたことがわかった。去る6日の『信濃毎日新聞』に載った共同電によると、拘束者の大半は同月開かれた国政を議論する集会に参加していた人たちで、拘束された弁護士らは12月13日に福建省アモイ(厦門)で開かれた集会に参加し、国内外の政治情勢について議論したのだという。中国当局はその集会を政権の転覆をはかる行為とみなし、同26日ごろから摘発に乗り出し、北京や福建、山東、浙江各省などで少なくとも13人を拘束した。
習近平政権は実に神経質に言論弾圧をおこなっている。
改革開放以後の胡耀邦・趙紫陽政権はもちろん、江沢民・胡錦涛政権と比較してもその程度は目立っている。国民党の蒋介石専制時代には茶館などに「国事を論ずる勿れ」という張り紙があったというが、習近平政権下の中国はそれとよく似た状況にある。
もちろん、上記の集会では香港民主化運動を議論したのだろうが、「全てを領導する」という習近平の方針には抵触するとしても、それを議論するくらいで一党支配の体制が揺らぐわけではない。
にもかかわらずこのたびの言論人逮捕は、2015年の人権派弁護士らの弾圧に次ぐ大量逮捕である。もちろん弾圧の直接の目的は、香港での抗議デモが本土に波及することを警戒したものだ。

なぜこうも神経質なのか。
中国史上ですぐ思いつくのは、明朝(1368~1644)の第三代皇帝永楽帝(在位1402~24)である。明朝の創始者は朱元璋すなわち洪武帝である。2代目として即位したのは早世した洪武帝の長男の子すなわち孫の建文帝である。このとき北平(北京)を守っていたのは洪武帝の4男燕王であったが、洪武帝の死後建文帝が燕王のとりつぶしを謀ったものだから、燕王が反撃して建文帝を亡き者にし、代わって皇帝になった。「靖難の役」である。
ところが漢民族国家には「大一統」の伝統がある。「大一統」は、天命を受けて国家の正統な統一支配を継承することを意味する。だから皇位に昇った燕王すなわち永楽帝は、儒教的秩序からすれば「皇位簒奪者」であった。
正統性の危ない王朝がやることは、政敵追放と正統性の神話づくり、業績をあげつらうことである。「簒奪者」の汚名弱点をそそぐために、彼は異様な執念を燃やした。建文帝の治政が存在しなかったことにし、苛烈な異論弾圧をつづけるとともに、モンゴル元朝の都であった北平に大宮殿を構築して南京から遷都し、宦官を起用したスパイ機関「東廠」による統制体制を敷いた。
その一方で、華夷秩序の頂点に立つべく冊封体制の構築に努力した。北元(モンゴル)や安南(ベトナム)への遠征をやり、鄭和の大航海によって南海諸国に朝貢を強制した。これもまた洪武帝の正統の後継者が自分であることを示すためだった。李氏朝鮮がすすんで明朝の冊封を受けいれ、日本からは足利義満が朝貢したのは幸いというべきであった。
清朝(1644~1912)も負けてはいなかった。
清朝は満州民族が建てた国家である。中国本土を征服したものの、漢民族の「中華思想」「大一統」の理念からすれば、清朝は「夷狄」の建てた国家である。「夷狄」のままでは漢民族を精神的に屈服させ、抵抗を抑えることはできない。
この難問を解決するために、清朝の歴代皇帝は、みずからが「中華思想」の体現者であり、儒学の伝統の継承者であり、よって正統な支配者であるとした。思想上の大冒険である。
そのため、漢民族知識人を動員して『古今図書集成』、『四庫全書』などを編纂させ、これを懐柔した。一方で、薙髪令(ちはつれい)を発して満洲民族の髪形である「辮髪」を強制し、「文字の獄」「禁書」をおこなって、満洲をはじめモンゴルなどの北方民族に対する漢民族の蔑視・誹謗を厳しく処罰した。この立役者として思い浮かぶのは雍正帝である。

胡錦涛政権の末期に、ライバルである重慶党書記薄熙来が摘発された。次いで中共中央政治局常務委員でエネルギー資源を支配し治安機関も抑えていた周永康が摘発され、上海閥の軍のトップ徐才厚や郭伯雄、共青団上がりの令計劃などがやり玉に挙がった。いずれも習近平総書記の権威を貶める恐れがあったからである。さらに省や部(日本の中央省庁)幹部200人余を捕まえた。2016年末までにこのキャンペーンの中で摘発された人数は100万人を優に超えた。
習近平にだって、胡耀邦や趙紫陽のように民主主義を展望する道はあった。だが敢えてそれを選択しなかった。彼がやったのは、「政治腐敗」反対を口実にした政敵の粛清と業績づくり、中華民族主義の宣揚、あきれるほどの権力の集中である。
2013年3月第12期全人代第1回会議の閉会式において、習近平は国家主席就任演説で、「中華民族の偉大なる復興」「中国の夢」を語った。さらに国内の過剰生産の解決策として「一帯一路」構想を打ち出し、南シナ海・東シナ海の領有を宣言し、南シナ海には軍事施設を構築した。これを国際司法裁判所が不法としたのを「紙くず」と一蹴した。
2017年10月の中共第9回大会では、「党政軍民学、東西南北中、党が全てを領導する」と中共の統制強化を強調し、また党規約に毛沢東思想、鄧小平理論に並べて、「習近平による新時代の中国の特色ある社会主義思想」を加えさせた。
2018年3月の全人代は、憲法を改定して国家主席と副主席の任期を2期10年とする制限を撤廃し、終身制への道を開き、さらに治安・ネット・経済改革・法治・などの分野に指導グループを設け、自分がそのすべての主任を兼務した。

70年間も一党独裁がつづく国家。軍事費を上回る治安関係予算をもって国民を抑えつける国家。このような国家は20世紀のソ連を除けば、中国・北朝鮮くらいのものである。
中国における中共の天下は、「一人一票」の普通選挙などで中国国民から信託されたものではない。国共内戦に勝利して国民党からもぎ取ったものである。
中共はこれまで、1945年まで続いた抗日戦争の唯一の担い手だったことを自身の正統性の根拠にしてきた。ところが最近、中国内でも国民党が抗日戦争の主役だったことが少しずつ明らかにされるようになり、中共による国家支配の正統性の是非が論じられるようになった。中共はこれを歴史ニヒリズムとして弾圧しているが、明清両朝に通じる支配の正統性の弱みがあからさまになりつつあるのである。

思えばわが高校教師時代、生徒たちは中国史を「同じことの繰り返し」といって、私にアメリカ南北戦争時の軍歌「リパブリック讃歌(オタマジャクシはカエルの子)」のメロディで王朝交代史の暗唱をしてみせた。それは「殷・周・秦・漢・三国・晋/南北朝・隋・唐・五代/宋・元・明・清・中華民国/中華人民共和国」というものであった。
漢民族国家の統治システムである『大一統』が、王朝交代を経ながらも繰り返されたことについての有力な学説は、すでに1979年に金観涛・劉青峰夫妻によって提起された(この簡約版日本語訳は『中国社会の超安定システム』研文出版1987)。ジャーナリストの山本英也氏はこれを「『ミニチュア国家』というべき家父長制が、社会の基本単位である家族、あるいはもう少し広げて、村落内の男系血族で構成される習俗単位で維持されていたためである」と要約している(『習近平と永楽帝』新潮新書 2017)。もちろん家父長制が直接に「繰り返し」に結び付くものではないが。

いま習近平は、毛沢東の正統な後継者としてその権威と専制支配を受け継ぐべく、悪戦苦闘中である。それを実現するもっとも確実な手は、彼のいう「中国の夢」を実現すること、すなわち台湾の武力制圧である。だがいまのところどんなに軍備を拡張しても先は見えない。
その焦燥感が思想取締りに現れているのである。
2020.01.17
         米中「第1段階協定」に署名
     ―「内弁慶」習近平の面目躍如


         国内の反米感情をどう抑えるかが見もの
                               
田畑光永 (ジャーナリスト)

 何度も「合意近し」「署名近し」といううわさが流れて、その都度、世界の株式相場を揺らしてきた米中貿易摩擦についての「第1段階協定」が15日、ようやくワシントンで署名された。
 国家間の約束事は通常、同格の代表どうしの間で行われるものだが、15日に協定に署名したのは、米側がトランプ大統領、対する中国側はこれまでの交渉代表、劉鶴副首相だった。なんともバランスが悪い。
 こういう場合、格上が出たほうが立場が弱いと見られるのが一般的だろうが、今回は明らかに反対で、勝った米側からは総大将が威風堂々と出てきたのに対して、立場の弱い中国側の総大将は姿を見せず、代わりに前線の部隊長が相手の総大将の前に引き出されて降伏文書にハンコをつかされた、という光景だった。
 なぜそう言えるのかはあとで説明することにして、まず交渉の経過をざっと振り返っておく。
何が交渉のキモとなったか
 米トランプ大統領が自国の貿易赤字を減らすために、つまり米国の労働者や農業者の仕事や稼ぎを増やすために、米国相手に稼いでいる国々に有無を言わせず貿易黒字を減らせと難癖をつけ始めたのは、自分の任期の半分が過ぎた一昨2018年の春であった。鉄鋼やアルミなどをネタに中国ばかりでなく、日本、EU、カナダ、メキシコなどにも請求書を突きつけたが、結局、稼ぎ頭の中国との取り組みがなんども水が入るもっとも長い交渉となった。
 それにしても、相手が自分にものを売りすぎるという非難はそもそも筋違いである。売り買いを最終的に決めるのは(希少商品など例外を除いて)一般的には買い手である。純粋に商売の話なら、買い手が買わなければ「売りすぎ」は発生しないはずだ。にもかかわらず、いろいろ難癖をつけて(守ってやっているのに物を買わないなど)、売り手に「売るな、もっと買え」と無理を通すのがトランプ流の手口である。
 だから、米中交渉は難航した。2018年夏以降、米側が中国からの輸入品に7月に第1次、8月に第2次、9月には第3次、あわせて2500憶ドル分(中国からの輸入額の半分弱)に25%の超過関税をかけた。その都度、中国側も報復措置(といっても中国の対米輸入額は2000憶ドル未満だから、金額は少ないが)に出た。
 米側はさらに大規模な第4次を発動しようとしたが、さすがにむやみな関税戦争には歯止めをかけようということになり、18年12月1日、G20首脳会議の後、アルゼンチンのブエノスアイレスでトランプ・習近平の首脳会談が開かれ、翌19年1月から仕切り直しの交渉が始まった。
 そして約3か月、4月なかばころからようやく交渉妥結という空気が流れ始め、5月上旬にもワシントンで協定調印という運びが既定の事実として報道されるようになった。
 ところがそこで形勢が逆転した。およそ150頁に上る協定案がまとまり、その署名のためにワシントンに現れたはずの中国側の劉鶴首席代表が、協定のおよそ50頁分の取り消しを求めたと伝えられた。
 その経緯について中国側は明らかにしていないが、当の劉鶴はワシントンで、「交渉は最後までなにが起こっても不思議はないのだ」とのべて、最終段階で中国側が態度を変えたことを暗に認めた。
 そして劉鶴はさらに中国人記者を相手に、「1、協定が署名されたら、米側は超過関税を撤回すること、2、農産品などの輸入額を増やすのは実需に基づくこと(政府が政治的に輸入増などを決めず、業者間の取引によること)、3、協定は互いの主権、名誉を傷つけないこと」の3項目を挙げ、これが米中交渉の基本原則であるとのべた。これがその後の交渉のキモとなったはずである。
 つまり、署名寸前までいったと伝えられた協定はこの3項目に悖るものであったがために、結局、中国の国内事情で署名することが認められず、決裂に至ったものと考えられる。
 こうして1月からの第2ラウンドも実らず、次は6月末の大阪での再度のトランプ・習近平首脳会談を経て第3ラウンドに持ち越された。これもまた途中、さまざまな小競り合い、中競り合いを重ねたが、その経過は煩雑になるから省略して、ようやく昨日、妙に不釣り合いな代表によるとはいえ、「第1段階協定」への署名が行われた
結果をどう見るか
 さて署名された協定をどう評価するか、基準は先の3項目である。伝えられた要旨から判断してみる。
 第1項目は関税撤回。伝えられる限りでは、米側はこれまで第1次から第3次までの総額2500憶ドル分に対する関税はそのまま残し、その後、第4次分の一部分として実施している約1200憶ドル分の関税率15%を半額の7.5%に引き下げるとしているだけである。明らかに不十分である。
 トランプ流の交渉はたとえば北朝鮮の非核化にしても、相手に先に何かをやらせて(核施設の破壊など)、自分はそれを見てからやっと行動する(制裁を解除する)、というやり方である。相手と同時に自分も何かするとは言わない。だから金正恩は怒っているのだが、トランプにとっては大国中国もその点では北朝鮮と同じ扱いである。中国側ではこの点について、「エスカレートする一方だった関税戦争の流れが逆転した」などと無理に成果扱いする論調もあるが、苦しい言い訳である。
 第2項目は、米からの輸入増は実需に基づくこと、である。中国は首脳の外国訪問などの折に、相手を喜ばせるために、特定の商品を大量に買い付ける約束をすることがよくある。米相手にそれをするな、というのが、この第2項目である。これが3項目の中に入った政治的背景は興味深いが、いまはそれには立ち入らない。とにかく、結果はどうか。
 伝えられる協定内容によれば、米からのモノとサービスの輸入を向こう2年間で2000憶ドル増やすことを中国側は約束した。「つかみ金」ならぬ「つかみ輸入」であって、実需に基づいているとは言えない。その品目別金額は工業品777憶ドル、LNGなどエネルギーが524憶ドルに対して、農産品は320憶ドルである。
 ただ事前の報道では、農産品の買い付け約束額は400憶ドルと推測されていたから、それよりは20%少ない。最後の交渉で減額させたのでろうか。いずれにしても、第2項目も守られなかった。
 第3項目は、協定は双方の主権、名誉を傷つけないことである。こんな言うまでもないことがなぜ交渉原則に入ったか。どうやら昨年5月に決裂した協定文では、国営企業に対する中央・地方の政府からの補助金などの輸入促進支援策などが米側の攻撃対象となり、それをやめることといった項目があったらしい。
 これが国内の各級政府から「内政干渉ではないか」といった反発を招いて、劉鶴らは身動きがとれなくなったらしい。真偽は私には確かめられないが、ありそうな話ではある。ただ今回はどうやらそういう難しい問題は回避して、とにかく合意を目指したらしい。「名誉だ」「主権だ」という危ないところには触らなかったようだから、これは評価の範囲外である。
 結論として、3項目のうち2つは守られたとは言えない。しかし、たとえば地方政府が地元企業に補助金を出そうとしたら、それが米の要求で止められるといった権力層の神経を逆なでするような問題を避けた点で、風当たりは強くあるまいというのが、交渉当事者および習近平の判断ではなかろうか。
米の反中攻勢をどうする?
 それにしても伝えられた限りではあるが、この内容で米との経済休戦に首を縦に振った習近平の内心はどういうものであったか、私には容易に推測できない。
 習近平に自分を置き換えて昨年を振り返ってみると、トランプ率いる米は「なんの恨みがあってこちらのいやがることばかりするのだ」と殴りつけてやりたい衝動に駆られているはずと思う。
 「香港の長い、激しいデモには本当に手を焼いたが、南の玄関口のことだから、手荒い真似もできずに困っていると、米はなにかとデモ隊を勇気づけた。香港人権・民主法案など、いったいあれはなんだ。他国を何だと思っているんだ。デモ隊が星条旗を振り回しているのを見た時の憤怒の感情は忘れられない」
 「台湾にしたってそうだ。なるべく話し合いで取り込もうと苦労しているのに、戦闘機だ、ミサイルだ、戦車だと、子供に欲しがるものを与えるようにトランプが気前よく渡すものだから、あれほど人気のなかった蔡英文が800万票も集めて、総統に再選となってしまった。手の打ちようがなくなってしまったではないか。いったい台湾をどうしようというのか」
 「そればかりではない。新疆ウイグルにまで去年はあれやこれやうるさかった。あんな遠いところの何百万かの人間に米がいったい何のかかわりがあるんだ。いい加減にしてもらいたい。香港につづいてこんどは『新疆ウイグル民主・人権法案』だと。オレたちが『アラスカ解放法案』だの、『フロリダ民主化法案』だのを全人代で立法したらお前さんはどんな顔をするんだい・・・・」
 とまあ、習近平は思っているに違いない!。
 しかし、問題はそれだけではない。同じことを国民の相当大きな部分が感じているだろうし、同じことを感じていなくても、習近平の無策をせせら笑っている人間もかなりいるだろう。その米の言いなりにものを買ったり、米の証券会社や銀行に儲けさせたりするのはどういう了見なんだとも。
 習近平はしばらく(いつまでかは分からない)夜も眠れないだろう。それについての情報があったら、次の機会に報告する。
                                                   (200116)
2020.01.15  記憶と反省と想像(7) 最終章
     韓国通信 NO627

小原 紘(個人新聞「韓国通信」発行人)

2019年12月24日、日韓首脳会談が1年3カ月ぶりに開かれた。
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文在寅政権発足から2年6ヶ月、どちらが避けてきたかなどと野暮な詮索はしないが、この間、両国首脳の話し合いはほとんどなかったに等しい。
すべて解決済みという日本側の頑なな姿勢ではまともな交渉にならなかったようだ。
文在寅大統領は法律家らしく、韓国大法院の判決が日韓条約と何ら抵触しないことを諄々と説明したと想像される。しかし安倍首相はハナから聞く耳を持たなかった。トランプ大統領には恥ずかしいほど卑屈な安倍首相が韓国に対しては強さを見せつけた。東学農民戦争、日韓併合、3.1独立運動で見た日本帝国の傲慢さを彷彿とさせる。戦後の日本の首相のなかで、特定の外国との交渉にこれほど不遜・傲慢な態度を見せた人物はいただろうか。
「圧迫と偏狭の除去」「他国と対等な関係」「諸国民の公正と信義に」にもとづく恒久世界平和を謳った憲法を持つ国の首相として資質が疑われる。忖度を続けるマスコミの責任は重い。

歴史に謙虚でありたい
徴用工問題をめぐって首相、閣僚から一斉に韓国批判の声があがった。自分の主張は強硬、相手の主張に聞く耳を持たない安倍政権の体質は何も韓国問題に限らない。美しい日本、日本を取り戻すことに執念を燃やす彼らは、これまで多数を恃(たの)み、憲法違反の数々の悪法を制定、自分たちの悪事が露見しても無視し続ける独裁政権となった。
閣僚のほとんどが属する日本会議は、都合の悪い過去は認めない特殊な右翼集団だ。侵略戦争を認めず、美化さえする歴史歪曲集団による政治の横行、あげく憲法まで変えようとしている。彼らが過去最大の被害国と謙虚に向き合わないのは当然かもしれない。
韓国についてレクチャーする機会が与えられ、あらためて日韓の近現代史を学び直した。気がついたことは自分を含めて私たちが歴史をあまりにも知らないことだった。学ばず、教えられてこなかった日本人が安易に嫌韓気分に陥り、いつの間にか「日本会議」化されている疑いを強く持った。
過去に目をふさぎ、反省しなければ同じことを繰り返す。歴史に謙虚であらねばという思いでシリーズ最終号を締めくくることにする。

関東大震災の朝鮮人虐殺はデマか
前回、光州事件までたどりついたところで、およそ100年前の1923年、関東大震災で起きた忌まわしい事件について触れていないことに気がついた。3.1独立運動から14年後に起きた虐殺事件は独立運動弾圧の余波を思わせる。違うのは舞台が日本、それも未曽有の大震災の中で軍と民間人が虐殺に加わった点が際立つ。ネットでは、「虐殺はなかった」「ウソ」という主張が平然と語られている。美しい日本を取り戻すために、ここまで歴史の改ざんが進んでいる。
朝鮮人が「井戸に毒を入れた」「暴動を起こした」というデマ情報によって、推定4千人から6千人もの朝鮮人が殺された。殺害の経緯、責任、殺害された人数さえ明らかになっていない。
「すべて解決ずみ」とは何か。徴用工問題と比較にならないほど理不尽な虐殺事件を私たち日本人は何と説明したらいいのか。韓国の人たちの心に虐殺の記憶が消えていないのは当然だ。立場を変えて虐殺の犠牲者が日本人だったら私たちは許せるのか。
小池東京都知事(この人も日本会議メンバーだ)は、関東大震災の犠牲者は朝鮮人だけではなかったという見解を明らかにした。安倍首相もその問題に触れるのは「自虐的」とでもいうのだろうか。

6月民主抗争後も民主化運動は続く
およそ30年前、韓国社会は民主化を実現した。東学農民戦争から始まった数々の苦難の歴史がたどりついた輝かしい到達点。私たち日本人には想像を絶する闘いの歴史、多くの血と命を犠牲にして市民自らが勝ち取った民主主義だ。
彼らの歴史と深くかかわりを持つ日本の一末裔としては彼らに対する敬意は強くなるばかりだ。
6月民主抗争のあらましをスケッチしておこう。
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           映画のポスター     友に支えられる李韓烈

光州事件を武力で抑えた全斗愌政権は1988年のソウルオリンピックを政権維持のために利用しようとしたが、目論見は破綻した。民衆デモの大きなうねりのなかで、学生の拷問死が発覚すると抗議運動は一層大規模な運動に発展した。
2017年に公開(日本は2019年)された映画『1987、ある闘いの真実』では、拷問で殺された朴鐘哲の死と「民主化宣言」に至る歴史が詳しく描かれ、改めて韓国社会に衝撃を与えた。
6月10日から始まった反政府運動は全国各地に広がり、連日数十万のデモ、27日の「平和大行進」には100万人が参加、ついに29日に「「民主化宣言」の発表、軍事政権は幕を下ろした。闘争の中で大学生李韓烈が催涙弾の直撃をうけ死亡した事件も民主化運動の記憶として多くの人に語り継がれている。
以降、盧泰愚、金泳三、金大中、廬武鉉、李明博、朴槿恵から文在寅まで、紆余曲折をへながらも韓国社会は進化し続けてきた。しかし統一問題、所得格差、人口減少、雇用問題など多くの課題を抱えたままだ。ローソク市民たちのエネルギーと期待を背に、公平な社会の実現、新自由主義の克服をめざす文在寅政権と市民たちの挑戦が続く。日本人として学ぶことは実に多い。


2020年、新年を迎え、わが国は天皇とオリンピックに染まりつつある。日本人がこれほどに天皇が好きで、スポーツ好きの民族とは知らなかった。個人の好みに干渉する気はないが、演出され、操作されたブームの後に何が起きるのかは容易に想像できる。万世一系は天皇だけではない。生きている私たち一人ひとりも万世一系である。メダルよりひとりひとりの生活が大切だ。
2020.01.14  台湾総統に蔡英文再選
――流れは変わった、負けたのは習近平である

田畑光永 (ジャーナリスト)

 去る11日の台湾総統選。予想された結果とはいえ現職の蔡英文が得票率57.13%、800万票余を積み上げて圧勝したことは、中華人民共和国誕生以来の中国の歴史の流れが変わったのを世界に知らしめる一大エポックを画すものであった。
 蔡英文の勝利について、香港のデモが味方したとか、米の肩入れが大きかったとか、さまざま言い方はあろうし、どれもなにがしかあたっているだろうが、最大の要因は中国本土における習近平体制そのものが広く人心を失い始めたことであると私は見る。
 考えてみれば、現在、中国本土と台湾が対立しなければならない実質的理由は全くないと言っていい。前世紀の前半期、共産党と国民党は中国大陸を舞台に武力をもって相争った。そして共産党が北京に政府を作り、国民党は台湾に逃れて、何とか中華民国の看板を下ろさずに命脈を保った。対立は続いた。
しかし、それは習近平も蔡英文も生まれる前のことである。その後、時はながれ、とくに大陸が鄧小平の主導のもとに改革・開放路線に乗り出してからは、双方に争う理由はなくなり、経済面では相互補完的関係が幅広く成立している。大陸の通信機器メーカーと台湾の半導体組み立て企業とは今や切っても切れない関係にある。
 それに伴って海峡をはさんでの双方の人間の往来、交流はほとんど自由化された。ただ北京と台北にそれぞれ政府があり、通貨の名前が異なっているのが歴史の遺物として残っているに過ぎない。時に摘発される国際的な中国人オレオレ詐欺団の構成メンバーに、多くの場合、双方の人間が入り混じっているなどは、海峡両岸関係の親密さを皮肉な形で示している。
 問題は政府である。政府どうしもオレオレ詐欺団のように(冗談!)双方が手を組んで、「政府はいくつあってもいい」と割り切れば、やがては自然に「一緒になろう」という機運が熟するはずだ。そうならないのは大陸の政府が、「オレのほうがでかいのだから、台湾は吸収合併する」と身勝手を譲らないからだ。
 問題はなぜ大陸政府はそうなのか、という点である。ここから話はややこしくなる。
 大陸の共産党政権は先述したように内戦に勝って政府を打ち立てた。今でも世界には時に武力によって政権が誕生することがあるが、そういう政権もやがて選挙を実施して国民に信を問い、存在の正当性を身にまとうのが普通である。ところが中国の共産党政権はそれをしなかった。
 もっとも当時はまだマルクス主義が生命力を保っていて、特に革命直後は「プロレタリア階級独裁」で革命の果実を死守すべしというテーゼが社会主義圏では受け入れられていたから、10年や15年は選挙がなくてもやむを得なかったと言える。しかし、それが70年ともなっては話は別である。
 革命とは無関係な人間たちが、革命を自らの手柄のような顔をして、いつまでも権力をたらい廻しするのは横領罪に近い。おそらく習近平もそれを自覚している。だから彼は自分を指導者として納得させられるだけの手柄を立てたい。勿論、それは前任の江沢民にも胡錦涛にもあったろうが、彼らは習近平ほど露骨でなかった。
 「一帯一路」だの、「人類運命共同体」だの、大げさな号令をかけるのが、習近平政治の特徴だが、前の世代が果たせなかった「台湾解放の実現」はなかでもとりわけ喉から手が出るほどに欲しい勲章なのだ。2015年秋、当時の台湾・馬英九総統とシンガポールでの会談にこぎつけたおり、世界中の記者、カメラマンの前で何分間も馬英九の手を握って離さなかったシーンは、その象徴であった。
 しかし、習近平政治の本拠は言うまでもなく中国大陸である。そこでも彼は自らの威信を確固たるものとすべく手をつくしている。自分を党の「核心」と呼ばせて権力を集中し、憲法を改正して、国家主席の座に無期限に座り続けることを可能にした。そして自らに対する反抗の芽を摘むことに過度に力を入れるようになり、防犯カメラ、ネット検閲、盗聴器などの網を張り巡らせて、一大監視国家をつくり上げた。それが中国の国民はもとより、世界の人々の目につくようになり、とりわけ民主、自由を知っている香港や台湾の人々の不安をかきたてている。
 昨年来の香港における大規模デモの永続、今回の台湾総統選、いずれもエネルギー源は政治の民主化を忌避して、いわれなく権力を握り続けようとしている習近平その人である、というのが私の見立てである。                    (200113)
2020.01.10  トランプの任期切れまであと1年(1)
  ―イラン国民が崇拝する司令官殺害で幕開け

坂井定雄 (龍谷大学名誉教授)

トランプ米大統領の任期はあと1年。もちろんトランプは11月の大統領選挙での再選を目指しているが、少なくとも第2次大戦後、これほど世界に損害を与えた米国の最高指導者はいなかった。トランプを再選させてはならない。決して他人、他国のことではないのだ。現時点では、民主党の候補者が未決定だが、トランプ再選の可能性は45%程度。だから、トランプは、再選に役立つことすべてだけでなく、自分が米大統領の権限を行使しなければできないことを、やり続けてきた。
そのトランプが米軍に命令し、新年早々の3日朝、実行させたのは。イラン革命防衛隊のソレイマニ司令官(62)の殺害だった。殺害場所は、協力関係にある隣国イラクの首都バグダッドの空港近く。イラク駐留米軍基地から操縦されたドローン(無人機)による攻撃で、おそらく迎えに同行していたイラクのシーア派武装組織の副司令官も殺害された。米大統領の命令による最悪の国際テロ。ソレイマニはイラン国民の信頼と人気が最も高い軍事指導者だった。3日から3日間、国の最高指導者ハメネイ師の呼びかけで首都テヘランをはじめ、全国で追悼集会が開催されたが、その圧倒的な参加者たちの数と怒りの姿は、1978年から79年1月にかけてのイラン革命の際の、全国で2千万人を超える集会とデモに匹敵した。
イラン革命防衛隊は、陸海空三軍とは別組織で、総数は陸軍の3分の1の12万5千人余。1979年に創設され、国境警備、対テロ任務を主としているが、その中の精鋭とされるコッズ部隊は対外工作や情報活動を主任務とし、ソレイマニが最高指揮官を務めた。革命防衛隊は国内の民主化運動への情報収集はじめデモなどの弾圧に出動することもあるが、民主化運動の活動家たちも、トランプの命令によるソレイマニ殺害への巨大な抗議デモには参加している。デモでは米国への報復を求める声が圧倒的だ。
ハメネイ師もラバン国連大使も、米国への報復を公言している。
それに対しトランプは「彼らが米国人や米国の資産に報復をすれば、我々は標的にしているイランの52か所をとても素早く、とても激しく攻撃する」と応酬した。52か所とはイラン革命の際にイランの学生たちがテヘランの米大使館を占拠、館内にいた米国人を人質にした数だ。トランプは、その際の怒りの報復をしようとしているのだ。
11月の米国大統領選でのトランプの再選の可能性は残っているが、世界各国の大多数の人々と政府が、トランプ大統領の敗北を望んでいる、と思う。トランプに最もゴマをすり、トランプの横暴な要求をはねつけることができず、米国製兵器の購入に巨額な国民の税金を浪費する安倍政権。沖縄県民の意思を踏みにじり、米海兵隊基地の辺野古移設に長い年月と巨額の移転・建設費を投入し続ける安倍政権。その安倍首相でさえ、トランプとの親密さ誇示する姿勢が、控えめになってきたのではないか。(続く)
2020.01.09 記憶と反省と想像 (6)  朴正熙박정희
   韓国通信NO626

小原 紘(個人新聞「韓国通信」発行人)

日本語読みで「ボクセイキ」、正式には「パクチョンヒ」。1917年生まれ、創氏改名による日本名は高木正雄である。大邱(テグ)師範学校卒業後、満州国陸軍士官学校を経て日本の陸軍士官学校57期生として教育を受けた。
私の叔父が朴正熙の士官学校時代の教官として大統領から招待をうけ韓国に行ったことがある。
大統領から招待されるなんて、「叔父さんスゴーイ!」と僕は目を丸くした。朴正熙は日本の軍人だった。
その後の経歴は省くが、1948年 麗水・順天反乱事件に南朝鮮労働党員として反乱軍に加わり終身刑判決を受けたが、仲間の情報を当局に提供して免罪釈放された経歴がある。
1961年の5.16軍事クーデターで最高会議議長に就任すると、直ちに反共法を公布。日本との国交正常化交渉に意欲を示し、1963年に第5代大統領に就任した。
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             <クーデター直後の朴正熙/左端>
腹心の部下、中央情報部(KCIA)長の金載圭によって射殺されるまで16年間軍事政権の大統領(5代~9代)として君臨し続けた。

<朴正熙大統領の記憶>
朴正熙は朴槿恵前大統領の父親として知られるほかは「過去の人」になりつつある。朴正熙の評価はさまざまだが、私の記憶にあるイメージは不正選挙、狂信的な反共主義、事件の捏造、中央情報部(KCIA)による恐怖政治を行った独裁者以外の何者でもない。
人民革命党事件(1964)、東ベルリン事件(1967)、統一革命党事件(1968)、金大中拉致事件(1973)、民青学連事件(1974)、第二次人民革命党事件(1974)、学園浸透スパイ団事件(1975)など数々の事件を捏造し、民主化を求める運動もことごとく力で押さえ込んだ。
日本のかつての治安維持法下の憲兵・特高とそっくりな中央情報部が人々を苦しめた。アメリカに促されて成立した日韓条約による経済協力金が、朴正熙政権を支えた。日本の関与が疑われる金大中拉致事件もいまだに真相は明らかでない。朴政権はアメリカの極東戦略に組み込まれた親日、対米従属政権だった。
突然訪れた朴正熙大統領の死。だが、その後の5.18光州事件によって民主化運動は挫折を余儀なくされた。後継の全斗愌政権が目指したのは民主化勢力の一掃、不満分子の再教育、労働運動への弾圧、報道干渉、日米との関係強化だった。中曽根内閣とレーガン大統領は新軍部政権を全面的に支持、全斗煥は国賓として来日(1984)、中曽根首相は40億ドルの借款を約束した。

<ああ光州よ>
文在寅大統領は政権発足直後の5.18光州事件記念演説で、「文在寅政府は光州民主化運動の延長線上に立っている」「新政府は5.18民主化運動とローソク革命の精神を仰ぎ、民主主義を完全に復元する。光州の英霊たちが心安らかに休めるよう 成熟した民主主義の花を咲かせよう」と述べ、3.1独立運動、4.19学生革命とともに光州事件を憲法に盛り込むことを国民に約束し、軍事政権時代の反省と清算にもとづき歴史を前に進める決意を語った。
光州事件は6年間に及ぶ全斗愌軍事独裁を生んだが、それは朴正熙から始まった長い軍事政権の終わりを告げる序曲でもあった。

<5.18光州事件>
1980年5月18日、全羅南道光州に起きた光州事件の映像が流れると全世界に戦慄が走った。
容赦なく打ち据えられ、連行される学生・市民たち、血まみれのまま路上にうずくまる多数の市民たちが映し出された。圧倒的な軍隊に向って抵抗を続ける人たち。
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人間がこれほどにも残虐になれるのか! 「兵士たちは薬物を飲まされたに違いない」と在日の韓国語の老先生は涙した。
事件は朴正熙大統領の死後、労働争議が多発、民主化を求める運動が高まるなかで起きた。当時、学生運動、在野運動が盛んな光州では市民と一体となった民主化運動が展開されていた。
全斗煥少将は光州に空挺団を派遣した。光州を「みせしめ」にして反政府勢力を押さえつける目的で、金大中を扇動者として逮捕した。鎮圧部隊は妊婦、子供まで逮捕、連行、そして殺傷した。
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光州事件については多くの写真、映像が残され、出版物も多い。ドラマ・映画作品としては『砂時計』(1995)、映画『光州事件』(2007)、『タクシー運転手- 約束は海を越えて』(2017年)などがある。事件を物語る数字として、鎮圧部隊3万人、市民の死者154人、行方不明者70人が記録されている。全斗煥の軍事行動は事前に在韓米軍の了解の下で行われた。

<日本人にとって光州事件とは>
事件から11年後の1991年に初めて光州を旅した。宿泊した市内を見下ろすホテルで光州事件の夢を見た。その8年後、旅の途中で出会った文学者青柳優子氏に望月洞(マンウォルドン)にある市民墓地を案内してもらった。2005年には小説『太白山脈』の舞台となった筏橋(ポルギョ)をまわり、5.18式典当日に光州を訪れたことも忘れられない。その日、市内には、『ニムのための行進曲』が流れ、光州は悲しみに包まれた。
『ニムのための行進曲』は光州事件の翌年、道庁で銃撃戦のすえ亡くなった若者を追悼する集まりの中から生まれた。以後、今日まで民衆抵抗の歌として歌われてきた。
歌に感動し、これを『君に捧げる行進曲』と翻訳し直し、作曲家の安藤久義氏にピアノ曲にしてもらい発表会で演奏したことがある。この曲に「入れ込んだ」理由はただひとつ、光州事件の悲劇を心に刻んでおきたいという思い、それも悲劇として刻むだけではなく、民主化のために闘った韓国の民衆の心を自分のものにしたいという思いからだった。


     君に捧げる行進曲       詞 白基玩(ペク・キワン)

         愛も名誉も名も 残さず
         貫き通した 熱い約束
         君は 斃(たお)れ旗はたなびく
         明日を信じて ともに進もう

         歳月は流れても 山河は忘れない
         君を思う熱い心
         君の後に ともに進もう
         君の後に ともに進もう !


 2016年に起きたローソクデモの源流をたずね、東学農民戦争から始まり、3.1独立運動、5.18光州事件にいたる韓国の歴史をたどった。軍事政権は悪あがきを続けたが、民衆の力に抗しきれず1987年6月29日、「民主化宣言」を発表して崩壊した。
 多くの犠牲を払った末に掴みとった民主主義はタナボタ式民主主義とは違う。そのタナボタ民主主義が皮を剥ぐように奪われてきたことに気づかない日本人が多い。
民主主義を求め地底から這いあがってきた韓国社会を、傷ついた「上り龍」に喩えるならば日本は何に喩えるべきか。四半世紀の同時期、日韓がたどった道はこんなにも違う。

 光州は民主化運動の聖地となった感がある。民主主義は「闘いとるもの。闘い守るもの」。学ぶことが実に多い。だが、「民主化宣言」以降も韓国の苦難の道は続く。未完の民主化運動。祖国は分断されたままだ。



映画『1987、ある闘いの真実』は民主化闘争のなかでKCIAによる拷問死を遂げた学生をテーマにした作品で、韓国では公開後700万人以上が見た話題作だ。

『君に捧げる行進曲』は次のサイトから見ることができます。2106年12月10日 60万人が集まったローソクデモ光化門広場の歌声です。
https://www.youtube.com/watch?v=j3ezBIj1mJw
2020.01.06  記憶と反省と想像 (5)
   韓国通信NO625

小原 紘 (個人新聞「韓国通信」発行人)

「内憂外患」の連続だった韓国・朝鮮の歴史。中国に隣接する地理的な条件に加え、日本の存在が、外患、いつも「災いの元」だった。
日本からの解放後も棘の道を歩まなければならなかった。沖縄と北方領土いう例外はあるが、日本は分断を免れ、「タナボタ」という表現には異論があるかも知れないが、「民主化」を享受する道を歩んだ。戦後韓国が歩んだ道は、日本は関係がないように見えるが「災いの元」日本とは無縁ではなかった。
日本人は1945年以降の隣国に対して無関心であり続けた。日本人が韓国を「発見」したのは、「民主化宣言」(1987/6/29)の翌年の88年ソウルオリンピックだった。それまでの韓国は魅力が乏しく観光にでかける人は少なかった。ところが、夜間外出禁止令に象徴される韓国に劇的な変化が生まれた。私が初めて韓国を旅行したのも、「民主化宣言」直後の87年10月だった。「
民主化宣言」にいたる歴史を復修(さら)ってみた。

<済州島4.3事件から朝鮮戦争へ>
「済州島4.3事件」(1947)では島民8万人が虐殺された。占領軍でもない米軍政が韓国政治に公然と干渉し、政府軍と右翼に「済州島4.3事件」(1947)では島民8万人が虐殺された。占領軍でもない米軍政が韓国政治に公よる虐殺事件を起こした。未曽有の虐殺の真相と責任は闇に閉ざされたままだ。
同胞が血で血を洗う朝鮮戦争は明らかな米ソの代理戦争だった。国土は廃墟と化し、南北あわせ530万人という犠牲者は、実に総人口3,500万人の6分の1にあたる。離散家族は今でも1千万人といわれる。
二つの事件は韓国社会を決定づけた。極端な反共国家へ、軍事政権が生まれる素地となった。日本は戦争特需で経済復興を遂げた以外は無関心だった。
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<写真/避難民たち 東亜日報>

<4.19学生革命>
南朝鮮(韓国)の初代大統領李承晩は朝鮮独立運動の功労者だが、アメリカの傀儡でもあった。また「李承晩ライン」によって多くの日本の漁船が拿捕されたため、日本人の韓国に対する悪感情が生まれたことも否定できない。
李承晩の腐敗独裁政治に「ノー」を叩きつけた4.19学生革命は、日本の60年安保闘争と全く同じ時期に起きた。高校生によって始められた運動は全国に波及、流血の事態は186人を超す死者を生んだ。政府は戒厳令で対決したが、結局、李承晩はアメリカからも見放されアメリカに亡命。その後起きた朴正熙の軍事クーデターによって韓国社会は長い「冬の時代」に入る。
日本の新安保条約は自然承認となり、岸首相は退陣。政権は池田内閣に引き継がれ、日本は高度経済成長時代に突き進んだ。60年安保闘争は戦後最大の反政府運動と評価される一面、学生運動、労働運動の挫折の歴史として語られることが多く、いまや人々の記憶から消えようとしている。
韓国憲法の前文で、4.19学生革命は3.1独立運動とともに継承すべき輝かしい偉業として記されている。独裁政権と闘う民主化運動の精神的支柱として人々の心に生き続ける。

<アメリカが主導した日韓条約>
4.19学生革命、60年安保闘争から5年目に締結された日韓条約に日韓双方で反対運動が繰り広げられた。私が通っていた大学でも「日韓条約粉砕!」の立て看板が掲げられ、デモへの参加呼びかけが盛んに行われた。60年安保闘争に参加した私は日韓条約が新安保条約の延長上にあると理解したが、就職試験を前に反対運動に参加するゆとりはなかった。日本側は反米闘争、護憲の色彩が強く、韓国側は日本に対し植民地時代の清算と謝罪を強く求めた。同じ反対運動だったが、日韓での意識のずれは大きかった。また、韓国の反対運動は数倍も規模が大きく、先鋭化した。
日韓の国交正常化はアメリカの極東戦略の一環だった。ベトナム戦争の激化によって、韓国は派兵、日本は後方支援を米国から求められた。憲法の制約があって日本は派兵ができなかった。
無償3億ドル有償2億ドルという経済協力資金を得るために朴政権は反対勢力を力で押さえ込んで締結を強行した。朴大統領は金で韓国の心を売ったと批判された。日韓条約反対運動は4.19以後最大の反政府運動だった。
韓国政府は経済協力資金を利用して「漢江の奇跡」といわれる経済発展を遂げたが、経済協力資金は軍事政権維持のためにも使われた。日本が軍事政権を支えたといわれる所以だ。<次号「光州事件」へ続く>

NHKへモノ申し
「桜を見る会」問題で安倍内閣は窮地に追い込まれている。今年の桜が散る頃が見ものだ。

12月17日、大阪高裁が森友学園に対する国有財産払い下げ額を明らかにしなかった国に「有罪」判決という画期的なニュースが飛び込んできた。
「隠匿」「改ざん」を常習とする政府への痛打である。まっとうな判決に希望を感じながら、その日の夕方7時のNHKニュースがこれをどう伝えるか見守った。
その日のトップニュースは池江璃花子の退院のニュース(5分)、続いて共通試験での記述式国語と数学の見送り(5分)、聖火リレー関連(7分)、予算編成閣僚折衝(3分)、立憲・国民の合流(2分)と続き、最後まで大阪高裁の判決は報じられなかった。
「またやったかNHK! 」と憤慨、次のメッセージをNHKに送った。
「森友学園への国有地売却額を不開示にした政府に対して大阪高裁が不開示決定は違法とする判決を下した。政府にとっては厳しい判決で大打撃だったはず。しかし全く報道されなかった。安倍内閣に対する忖度もいい加減にして欲しい。ニュースの順番、時間についてチェックしている視聴者がいることを忘れないでほしい。最近のNHKのニュース選択は異常だ。反省を求めても無理なのかも知れないが、抗議だけはしておきたい。回答をいただけるならそれにこしたことはない」。今のところ回答はない。グチを言わずNHKを育てよう。

2020.01.04 サハロフ賞受賞、されど受賞者の消息は不明
――八ヶ岳山麓から(302)――

阿部治平(もと高校教師)

12月18日、欧州連合(EU)の欧州議会で、人権や民主主義を守る上で功績のあった人に贈る「サハロフ賞」の授賞式があった。今年の受賞者、ウイグル族の経済学者イリハム・トフティ氏(50)は、中国で国家分裂罪に問われて収監されており、米国在住の娘のジュハルさんが代わって出席した。ジュハルさんは「多くのウイグル族の人たちと同じように、父は、改めるべき思想を持った暴力的な過激主義者というレッテルを貼られた。中国政府は収容所に送ったウイグル族の人たちに改宗を強い、文化を捨てるよう迫り、拷問し、死ぬ人もいる」と話した。ジュハルさん家族がイリハム氏の消息を最後に聞いたのは2017年で、今はどこにいるのかも分からないという (朝日 2019・12・20)。

私にとって、イリハム・トフティ氏についてのニュースは、彼が2014年1月16日に無期懲役を言い渡されて以来のことだった。2017年以後彼の所在は家族にも不明とのことだが、私は虐待による獄死を恐れている。以下、以前ここに書いた記事のいくつかを要約して述べる。

1949年12月、中共軍第一野戦軍第一兵団が新疆に進駐したとき、司令王震は戒厳令を敷き、ウイグル語を禁止し、男子が街頭に3人以上集まれば銃殺し、中共支配に反抗的な集落とみれば、これを襲って機関銃で皆殺しにするなどの挙に出た。
文化大革命時代には、漢人の酷政にたまりかねたカザフ牧民が何度も大量にシベリアに逃亡した。1980年代、90年代に起きたパリン郷事件、ホータン事件、なかでも1997年のイリ(クルジャ)暴動は新疆の中共支配を揺るがした。テロをやったのは主に地下コーラン学校の「タリフ(学生)」である。
だが、テロの攻撃対象は警察や役所などの権力機関や民族の裏切者とされた人物であって、漢人一般に向けられてはいなかった。だから20世紀には、一般の漢とウイグルとの間は好かったとは言えないにしても、正月のあいさつ程度の付き合いはあった。
ところが、2009年のウルムチ大暴乱(漢・ウイグル両民族の相互襲撃事件)以降のテロ事件は、14年3月の昆明無差別殺傷事件(漢人など45人死亡)、4月ウルムチ駅前爆発事件(自爆2人を含む3人死亡、79人負傷)、市場爆発事件など、いずれも漢人に対する無差別テロとなった。

かつて中共内部には「経済を発展させることは、新疆問題を解決するカギである」という考えもあった。経済が発展し、生活水準が向上すれば、「国家分裂活動」は市場経済の中に消失するし、宗教の影響も世俗化が進んで消え、問題は自然に解決することができるという理屈だ。これはむなしい期待だった。
市場経済浸透のもとで格差は急速に開いた。すでに2008年新疆全体の年一人当たりGDPは1万9000元(2800ドル)に達したが、農村地域のそれは3800元(560ドル)、なかでもウイグルの多数が住むタリム盆地のオアシスの郷村では1500元(220ドル)前後にすぎなかったのである。いま格差はもっと開いているだろう。
漢人移民は、政府の政策に従って入植し、草原を開墾し、水を引き、石油・天然ガスなど資源を開発し、新疆の経済発展に貢献してきたと誇る。それに引き換え、ウイグルやカザフは勤勉ではないし、教養もない(=漢語ができない)のだから、漢人が彼らより金持になるのは当然だと考える。
だが、ウイグルやカザフら現地農牧民からすれば、漢人移民は災難そのものである。家畜放牧地を勝手に耕地にして、集落の水源から用水路を引き、塩類化が進んで作付けができなくなると、耕地を放棄し別な草原を開墾する。彼らのために砂漠が広がり、河川や湖の水が少なくなり、さらには石油試掘井の廃水が水源地と耕地と草原を汚染した。

新疆の中共当局は、チュルク系民族の民族運動の目的は、漢人を新疆から追い出し、東トルキスタン共和国をつくることだと宣伝している。漢人移民にしてみればウイグルやカザフの攻撃対象になるなど論外である。彼らがテロに走るなら、殺したところで何の差支えもないと考えるのがふつうである。
今や人口だけみても漢・回人口の合計はウイグル・カザフに匹敵する。しかも武装力は政府・漢人側にある。新疆の社会矛盾は、中共当局とウイグルやカザフをはじめとする先住ムスリム民族との対立ではなく、漢人と先住ムスリム民族の民族間の対立に変貌したことにある。

このような状態を憂えて、イリハム・トフティ氏は2009年11月中央民族大学で「中国の民族政策は再検討すべきときである」と題する記念すべき講演をおこなった。
この中で氏は、中国憲法と民族自治法の実施、就職や営業の機会平等、民族の言語、信仰、伝統、習慣の尊重などを求めたのである(この内容は「八ヶ岳山麓から(97)」を参照)。
トフティ氏は、新疆独立が問題解決の唯一の道だと考えるウイグル人はごく少数だという。多くのウイグル人は中国共産党の新疆に対する統治の現実を受け入れている。ただ本当の意味の自治を要求しているだけだと訴えた。そして「今日、新疆の民族政策を検討する必要がある」と問題を投げかけ、民族間対話の回路を作り、泥沼状態から新疆を救おうとしたのである。
かつての私の生活経験からしても、市場経済は現地少数民族に対して公正・平等ではない。新疆でもチベットでも内モンゴルでも、漢人はほとんどの行政と経済、知的資源を握っていて、どんな場合でも現地少数民族を飛び越して利益を獲得できる。たとえば漢語が公用語であることは当然だが、民族自治区のどこでも、漢語が卓越し少数民族語は片隅に追いやられている。漢語が堪能でないと少数民族の就職はほとんど不可能だが、漢語ができたとしても、雇う側が漢人か現地人かを選択するときは、間違いなく漢人を選ぶ。新疆各地を結ぶ飛行機の機内放送はウイグル語ではなく漢語と英語のうえ、機内食はムスリムではなく漢人の会社が作っている。
無神論を教育された漢人は、迷信と宗教との区別ができないし、信仰上のタブーも考慮しない。たとえばイスラム教徒は死者の骨灰を忌避するのに、「王胡子(ヒゲの王)」と嫌われた王震が死ぬとその骨灰を天山に撒いた。モスクも破壊したり商店にしたりしている。

習近平政権は力業に出た。中国の治安維持費は国防費を上回っている。2014年度の「内地」を含めた治安維持に使われる「公共安全」予算は、前年比6.1%増の2050億元(約3兆4000億円)を計上した。2018年には治安維持費が国防費を20%も上回っている。
豊富な治安維持費によって、この5年の間に当局は「暴力的なテロに絶えず打撃を加え、慈悲を見せない」方法でテロに報復し黙らせ、反テロを名目に見境なく大勢のムスリムを収容所に放り込んだ。都市村落を問わず監視カメラを設置し、いたるところに顔認証装置を置き、背筋が寒くなるような厳しい監視網を張り巡らして、新疆全体を先住ムスリム民族の監獄にしたのである。かくして今やウルムチは、中国で最も治安のよい街だと称されるに至った。
イリハム・トフティ氏の勇気ある発言は、ただ思想取締りの対象になったに過ぎなかった。彼は「東トルキスタン共和国」の独立を主張するのでもなく、中共の支配を肯定し、ただ憲法と民族自治法の実現を願うだけの人物である。この彼すら、「中華民族の興隆」をめざす当局にとっては邪魔者であり、その命は鴻毛より軽い存在となった。いまは氏が新疆の極寒の冬を、どうか無事に乗り越えてほしいと願うばかりである。

2019.12.30 記憶と反省と想像 (4)
韓国通信NO624 

小原 紘 (個人新聞「韓国通信」発行人)

3.1独立運動100周年
今年は3.1独立運動から100年目の節目の年だった。
韓国の憲法前文は、以下のように3.1独立運動とともに憲法の理念と目的が語られている。

「悠久なる歴史と伝統に輝く我ら大韓国民は、3.1運動によって建立された大韓民国臨時政府の法統と、不義に抗して立ち上がった4.19の民主理念を継承し…」
3.1独立運動は韓国人にとって建国の礎となる大切な記憶であり続ける。
日清、日露戦争をへて日韓併合に至る歴史は日本による「残酷」かつ「巧妙」な歴史だった。東学農民戦争での「皆殺し」作戦に続き、日露戦争のさなか、日本軍兵士と浪士が王宮に乱入し、皇后閔妃(みんぴ)を殺害(1895/10)するという世界史上稀に見る事件を日本はひき起こした。「日韓議定書」による保護国化。さらに外交権をはく奪した「乙巳保護条約」(1905)締結後、伊藤博文が初代「統監」に就任、5年後に大韓帝国併合に至る。乙巳保護条約は日本軍が包囲するなか、伊藤博文が直接閣議に乗り込み、恐喝して条約締結を承諾させたことが明らかになっている。
大韓帝国皇帝高宗は「保護条約」を認めず、オランダのハーグで開かれる万国平和会議へ密使を送り、国際世論に日本の非を訴えようとしたが果たせず、更迭された。最終の仕上げ「日韓併合条約」は、大韓帝国が自ら併合を申し出て、日本が「認める」という形式の条約だったが、現在でも日本は「保護条約」も「併合条約」も国際法上「有効」と主張する。これは明らかに「国際法違反」だった。こうした「強姦」に等しい植民地化に民衆は憤激し、当然ながら抗日運動は高まった。安重根による伊藤博文暗殺はそれを象徴する事件だった。彼は李舜臣、全琫準とならび韓国でもっとも敬愛されている人物のひとりだ。日韓併合に反対した高宗が死んだ(一説には「毒殺説」もある)。そして、国葬の準備のさなか3.1を迎える。

<1919年3月1日>
併合から9年、朝鮮総督府は、行政、治安、土地事業などで露骨な植民地政策をすすめ、土地を奪われた多くの農民は生活に窮した。憲兵政治、武断政治と呼ばれ、一切の市民的自由を奪われた人々が怒りを爆発させた。
1919年3月1日、ソウルのパゴダ公園(現タプコル公園)で独立宣言文が読み上げられると、瞬く間に独立運動が全国に広がった。
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<上写真「独立マンセー」を叫ぶ市民たち>
独立宣言文は格調高く、「暴動」と決めつけた日本側の理解をはるかに超えた高邁なものだった。
独立宣言文は冒頭で「我らはここに朝鮮が独立国であることと、朝鮮人が自主の民であることを宣言する。これを世界万邦に告げて、人類平等の大義を克(よ)く、明らかにし、それを子々孫々につげて 民族自存の正しい権利を永く保有せしめるものである」と高らかに宣言し、朝鮮の独立と東洋平和、世界平和、人類の幸福を求めた。宣言文には「共生」「尊厳」「良心」「正義」「平和」という言葉がちりばめられ、理想が語られていた。意外なのは日本から独立を求める宣言でありながら、日本を憎悪の対象とせず、むしろ「憐れみ」の対象として語られていることだ。宣言は「我らはここに奮起する。良心はわれわれとともに存し、真理はともに進むのだ。着手がすなわち成功である。ただ、前方の光明に向って邁進するのみ」と結ばれる。
宣言文に署名した33名の「民族代表」には、天道教(旧東学党)教主をはじめ、キリスト教、仏教関係者が名を連ねた。発表後、彼らは直ちに逮捕されたが、宣言文は「独立万才(マンンセー)の声とともに各地に伝えられた。運動が全国に広がると、日本は警察に加え軍隊が出動し、国旗の大極旗を振り、素手で行進する民衆に向って容赦なく軍刀で切りつけ、発砲した。
資料には全国1,500カ所の集会とデモ、200万人以上の参加、7500名の虐殺、4万6千名の検挙者が記録されている。その規模の大きさと犠牲者数に驚く。
朝鮮併合を「ちょうちん行列」で祝った日本人には、祖国の独立を求める朝鮮の人たちの気持ちは全く理解できなかった。

3.1独立運動で起きたさまざまな虐殺事件のなかで、教会ごと住民たちを丸焼きにした「堤岩里(チェアムリ)事件」は残虐な事件として記憶されている。
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柳寛順(ユ・グワンスン)(上写真)の献身的な活躍も特筆される。捕えられ西大門刑務所で獄死する日まで、「独立マンセー」を叫び続けた16才の女子学生の記憶は韓国人の心に今なお生き続けている。

日本社会に今も残る韓国軽視・蔑視、最近の「嫌韓」のルーツを求めて、東学農民戦争、3.1独立運動をあらためてスケッチしたが、それは韓国の民主化運動のルーツ、「ローソクデモ」の源流をたずねるものでもあった。
徴用工問題、従軍慰安婦問題は、日本の朝鮮植民地化とそれに続く侵略戦争の中で生まれた悲劇である。全てを奪いつくしてなお、「韓国の近代化に尽くした」と言い放った侵略者の後裔たち、それに追随する学者、マスコミもその歴史認識から一歩も抜け出ていない。
朝鮮併合を豊臣秀吉と重ねて、初代朝鮮総督寺内正毅は「小早川加藤小西が世にあらば 今宵の月をいかに見るらむ」と、日本の朝鮮支配の実現に胸を張った。
私たちが隣国と真摯に向かい合うなら、「地図の上 朝鮮国に黒々と墨を塗りつつ秋風を聴く」と詠んだ啄木。朝鮮侵略に公然と反対した幸徳秋水、吉野作造、柳宗悦から学ぶことは多い。彼らは日本と韓国・朝鮮とのあるべき将来の道しるべだ。
「3.1」から100周年を迎えた今年、韓国では国をあげて3.1独立運動を記念する行事が行われ、屈辱とたたかいの記憶を新たにしたはずだ。かつての「宗主国」日本から伝えられたのは、「すべて解決ずみ」、「国際法違反」という非難の嵐だけだった。そればかりでない。日本では2018年に日本政府によって明治維新150年の式典が行われ、日本の「成功」を祝ったのである。

2019.12.23 全琫準(チョンボンジュン)がやってきた 記憶と反省と想像(3)
韓国通信NO623

小原 紘 (個人新聞「韓国通信」発行人)

ローソクデモを知れば知るほど韓国人のパワーに驚ろかされる。つくづく日本人との違いについて考え込んでしまう。血液型、宗教、大陸と島国の違い、騎馬民族と農耕民族といった民族性の違いも考えられる。が、いずれにしてもあのようなローソクデモが突然起きたとは考え難い。やはり韓国の市民運動を考えるうえで韓国の歴史を知ることが何よりも大切ではないか。
「東学農民戦争」、「3.1独立運動」、「光州事件」、「6.29民主化宣言」は韓国にとって決定的な大事件だった。これらに焦点を当てて考えてみたい。

東学農民戦争(革命)
韓国の市民たちの東学農民戦争に対する認識は近年ますます高まっている。日韓の学者たちの研究がそれに貢献したことも事実だ。現代に生きる東学思想と農民戦争を追った。

<ローソクデモの中で>
2016年12月、全国各地からトラクターに乗った「全琫準闘争団」がソウルに登場した。彼らは全国各地から約1000台のトラクターに乗って3週間かけて集会に乗りつけた農民たちだ。私もそれを聞いて「全琫準が生きている」と衝撃を受けた。その年の10月、私は大邱から始めた東学農民戦争の戦跡をまわる旅を終えて帰ってきたばかりだった。
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<上写真/市民から歓呼を浴びる闘争団>

闘争団の団長は語る。
「お集まりの親愛なる皆さん! 私たちは歴史の荒波をかき分け、ここにいます。新しい歴史は今から始まります。私たちは普段は田畑を耕しますが、間違った政治を正すためにアスファルトも耕します。この腐り切った世の中をたがや耕し返し、希望のタネを蒔くために私たち農民は命をかけます。警察が止めたトラクターに再びエンジンをかけます。民衆の闘いが朴大統領を追い込む時です」(12月8日)
「東学農民」の出現に市民たちは驚き、感動したことは想像に難くない。1000台のトラクターが時速30キロの速さで「大統領退陣」の旗を掲げて行進するさまは、さぞ壮観で、沿道の人たちに熱烈に歓迎されたことだろう。それは東学農民革命が生き続けていることを、多くの人たちに強く印象づけた。

<東学農民戦争とは>
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李朝末、庶民、特に農民たちは地方官吏の苛酷な搾取に苦しんでいた。教祖 崔済愚(チェジェウ)によって唱えられた「東学」思想が広まった。東学は西学(キリスト教)に対抗して生まれたもので、その主張は①侍天主(じてんしゅ) 人乃天 (すべての人が自分の心に天を持っている「天心即人心」)②輔国安民(ほこくあんみん)(「斥和洋」国の独立をはかる)③後天開闢(こうてんかいびゃく)(必ず未来は開ける)④有無相資(うむそうし)(助け合い)といったものだった。こうした主張は王朝によって世の中を惑わす危険思想として禁止され、1864年教祖は処刑されたが、ますます庶民の間に広まった。
東学農民戦争は全琫準の蜂起から始まった(1894/2全羅道古阜)。背景に日本の侵略による国難、官吏の専横による生活苦があったが、東学の公認を求める農民の組織も数段強化されていた。
全琫準に指導された農民軍は王朝政府軍を撃破、全州城を占領(1894/5)した。<左上の絵/中心人物が全琫準>。「倡義文」(決起を促す宣言文)のもとに集まった農民軍の結束と軍律は固く、「人をむやみに殺すな」、「財産を奪うな」、「民の平安」、「日本人を追いだし、国を立て直す」といったことが農民軍に徹底されていった。
東学農民の挙兵を知った清国(中国)と日本が出兵。農民軍はソウル(漢陽)攻撃を断念、政府に弊政改革を約束させ停戦した。「全州和約」(1894/6/11)成立。これが第一次農民蜂起だ。

<日清戦争のドサクサに行われたジェノサイド>
この後、情勢は急変する。日清戦争が始まった(1894/7)からだ。日本軍の朝鮮侵略に対抗するために東学農民は再び挙兵する(1894/10)。農民たちによる祖国防衛戦だった。
農民軍が次々敗退したのは当然である。竹槍、カマ、猟銃で武装した農民軍と近代装備をした日本正規軍ではまともないくさになるはずがなかった。
日本軍の数倍、数十倍の東学農民たちは白装束に身を固めて立ち向かった。日本軍の戦闘方針は、「悉(ことごと)く殺戮(さつりく)」、捕虜も殺すという殲滅(ジェノサイド)だったと日本側の資料は伝える。
派遣された日本軍4千。そのうち死者は1名(公式発表は0人)に対して、農民軍の死者は推定5万~20万人といわれる。日清戦争の日本側の死者1万3千人、清国側の死者3万5千人をはるかに上回る戦死者だった。

<今に生きる東学農民精神>
全琫凖は捕えられ、日本軍によって処刑された(1895/3)が、現在でも「緑豆(ノクトウ)将軍」と敬愛されている。一方、日本では東学農民戦争は「乱」「暴動」であり、全琫準はその首魁扱いだ。
先日、東洋大学で開かれた「東学思想から学ぶ」シンポジウムに参加し、東学思想の研究者として著名な円光大総長の朴猛洙さんの話を聞いた。そこで田中正造と全琫準の結びつきを知った。田中正造は「全琫準は公明正大、東学は文明的、軍律を厳守、人民の財を奪わず、婦女を辱めず」と絶賛(朝鮮雑記1896)。朴猛洙さんは二人が「公共の利益」と「生命」という視点で共通していると高く評価した。
東学農民は日本軍によって壊滅させられたが、朝鮮人の心の中に今なお生き続けている。豊臣軍の文禄・弘安の朝鮮侵略とともに、民族の危機に対する民衆蜂起の記憶として、さらに支配者の間違いを正した記憶として生きている。
その後、三代教祖 孫秉熙(ソンビョンヒ)は3.1独立運動の中心人物として活躍。天道教(旧東学)の「公共の利益」と「生命」を守る精神は引き継がれ、共生社会を目指す社会運動(消費者運動・協同組合運動)の指導的な精神となった。
東学の犠牲者のこころざしは現代に生きている。ローソクデモのエネルギー、市民運動の源流は東学農民戦争にあるといってよい。