2023.12.02
ネタニヤフ政権を止めるには
イスラエル・パレスチナ抗争を考える
筆者は中東問題に深い知識をもつものではない。しかし、10月7日に始まった今回の武力紛争によって深刻な人道的危機が進行している状況について、このサイトでも何かしら取り上げるべきだと考えた。とりあえず、西側およびアラブ系メディアの英語報道と日本国内の報道などをチエックして、イスラエル・パレスチナ抗争を理解する一助としたい。
軌道修正した西側諸国
当初、EUはイスラエルの報復的なガザ攻撃の正当性を認め、イスラエルへの連帯を示した。欧州議会フォンデアライエン委員長はテルアビブに飛び、ネタニヤフ首相と会談しイスラエル支持を表明している。ただ初期段階からアイルランドはパレスチナ支持の姿勢を隠していなかった。アイルランドがイギリスによる植民地支配の長い記憶があり、パレスチナ人に共鳴する部分が大きいからだと指摘される。
その後、10月27日にイスラエル軍が地上侵攻を開始し、無差別的な攻撃を始めると「ガザが子どもの墓場になっている」という言葉が国連などでも飛び交うようになった。病院施設や学校さらには国連機関が運営する施設にまで甚大な被害は拡大し、数えられる限りでも死者は15,000人に達した。さすがに西側諸国の多くも、イスラエルの軍事行動による被害が、ハマスによる被害と「釣り合わぬ」とする主張が支配的になった。そのなかで、一時停戦への流れが生まれ、停戦と人質交換交渉が成立した。
人質交換の報道
11月24日に始まった人質交換の際、アルジャジーラなどアラブ系のメディアは、解放されたパレスチナ人たちを、イスラエルによって「拘束(detained)されていたパレスチナ人」と表現している一方、欧米系メディアは「パレスチナ側のprisoner」と表現した。日本のメディアの多くは、初めに「囚人」あるいは「受刑者」と報じたが、これは誤訳である。
英語のprisonerには①犯罪の懲罰として刑務所に収容される者、②強制力により連れ去られ、拘束されている者、など多様な意味がある。この場合の意味は②であるから、日本語で刑事犯罪によって収監されている者の意味に近い「囚人」は不適切である。
メディアの多くは間もなく、「イスラエルの刑務所に収容されていた」とする表現に修正している。
10月27日段階では、NHKニュースは、7500人のパレスチナ人がイスラエル側に拘束されており、その多くが罪状なども明らかにされないまま拘束されていることを指摘し、その人々の中から、イスラエル側の人質と交換に解放されていると説明報道をした。
付け加えるならば、イスラエル警察と軍は、占領しているヨルダン川西岸のユダヤ人入植者を支援し、抵抗するパレスチナ人の拘束を継続的に行っており、イスラエル側に拘束されているパレスチナ人の多くは、これらの人々である。被拘束者の8割は裁判にかけられることもなく、またその多くは未成年でありローティン(10代前半)も少なくない。イスラエル政府が意図的に、より多くのパレスチナ人家族にダメージを与え、将来、若者たちがイスラエルに抵抗する意欲を喪失させることを狙っているともいわれる。
また人質交換が行われるなかでも、イスラエルは西岸地区で、同程度の数のパレスチナ人の不当、不法な拘束を続けているとする報告もある。また入植者ユダヤ人たちのパレスチナ人たちに対する暴力行為が拡大しているという報道も続いている。
おざなりなプロパガンダの意味するもの
SNSの時代である。双方ともテレビ局や新聞社などの既存メディア対策をとるとともに、ネット上でプロパガンダを展開している。当然、情報量はイスラエル側が圧倒的である。しかしそのイスラエルのプロパガンダがひどく雑なのである。テレビなどで紹介された途端に、ネット上でその虚偽性が指摘される事態となっている。典型的な話はアルシファ病院である。10月7日以降の紛争激化のなかで、イスラエル軍がハマスの軍事拠点となっているとして、病院へ激しい攻撃を加える様子は世界中に流れた。
このガザ地区の病院はイギリス統治下の1946年に初期的な施設が開設されており、その後、エジプト領となり、さらにイスラエルが占領し、その間に施設が拡張された。イスラエル政府は、国際社会の批判とパレスチナ側の抵抗に手を焼き、2005年にガザ地区から入植者と軍を撤退させ、実質的にパレスチナ人の居住する土地となった。その後、国際機関の援助なども加わり、アルシファ病院はガザ地区最大のパレスチナ人たちのための医療機関となったのである。
医師や患者まで追い出したイスラエル軍は、徹底的に破壊された病院をメディアに公開した。病院がハマスの指揮所として使われ、人質たちもここに拘束されていたと説明し、一室の壁に貼られた表を指さし、「これが人質の見張り担当者たちの当番表だ」とした。ところが、SNS上には瞬時にして、「それはただのカレンダーだ。人名として指さされていた文字は曜日だし、アラビア語は右から左に向かって読む」など、その説明の虚偽性を指摘する投稿が溢れた。
アルシファ病院については、さらに驚くべき情報が流れた。CNNの有名記者アマンプールが、イスラエル元首相のエフード・バラク(1999年~2001年在任)に行ったインタビューのなかで、元首相は、アルシファ病院の地下施設は占領中にイスラエルが建設したものだと述べたのである。アマンプールが驚いて問い返すのだが、説明は変わらない。イスラエル事情に詳しいジャーナリストによれば、アラブ諸国と繰り返し全面戦争を経験してきたイスラエルでは、病院に地下壕を設営することは一般的なのだと指摘する。
イスラエル政府は、初めからパレスチナ人たちの命を守る医療インフラを廃墟とするつもりであり、プロパガンダは、国際社会の目を少しの間でも欺くことができればいいと考えていたのであろう。アルシファ病院ほどには注目されていなかったが、ほぼ同時期に同じガザ地区にあるインドネシア病院(2015年、世界最大のムスリム人口を抱えるインドネシアの人々の寄付によって開設)にも陸海空からの全面的攻撃が加えられ電気も止まり、多数の死傷者を出している。
抗争の今後について
今回、さまざまなメディアの情報に触れる中で、強く印象に残ったのは、アラブ系のジャーナリストが指摘した「ハマスは組織名ではない。ハマスはBrandだ」との言葉である。たしかにハマスの正式名称は英語で、“Islam resistant movement”だから組織名ではない。実際にはハマスには外交組織や軍事組織をもつ「組織」の側面はあるのだが、イスラエルが550万人のパレスチナ人たちを抑圧し続ける限り、ハマスすなわちパレスチナ人たちの抵抗運動は続く。
ネタニヤフ首相は「ハマスを壊滅させるまで戦う」と繰り返し発言しているが、彼はハマスが単なる組織ではなく抵抗運動であることを理解しているだろう。政権内の極右政治家や市民のなかに、パレスチナ人を「人間の姿をした動物」であり「駆除すべき生物」と表現する者さえいる。「ハマスの壊滅」とはパレスチナ人のFinal Solution(最終的解決)を意味する。
ナチス政権はユダヤ人たちを同じような表現によって人間と見做さず、強制収容所に送って数百万人を殺戮した。今回のパレスチナの展開は、その歴史のネガフィルムを見せられているようだ。ネタニヤフは後世、自らが「ユダヤのヒトラー」と評価されることは避けたいであろう。国際社会はイスラエルの暴走を止めるための策を至急に講じなければならない。アラブ諸国とイスラエル双方に一定の距離をとることのできる日本政府にもできることがあるはずである。
小川 洋 (教育研究者)
筆者は中東問題に深い知識をもつものではない。しかし、10月7日に始まった今回の武力紛争によって深刻な人道的危機が進行している状況について、このサイトでも何かしら取り上げるべきだと考えた。とりあえず、西側およびアラブ系メディアの英語報道と日本国内の報道などをチエックして、イスラエル・パレスチナ抗争を理解する一助としたい。
軌道修正した西側諸国
当初、EUはイスラエルの報復的なガザ攻撃の正当性を認め、イスラエルへの連帯を示した。欧州議会フォンデアライエン委員長はテルアビブに飛び、ネタニヤフ首相と会談しイスラエル支持を表明している。ただ初期段階からアイルランドはパレスチナ支持の姿勢を隠していなかった。アイルランドがイギリスによる植民地支配の長い記憶があり、パレスチナ人に共鳴する部分が大きいからだと指摘される。
その後、10月27日にイスラエル軍が地上侵攻を開始し、無差別的な攻撃を始めると「ガザが子どもの墓場になっている」という言葉が国連などでも飛び交うようになった。病院施設や学校さらには国連機関が運営する施設にまで甚大な被害は拡大し、数えられる限りでも死者は15,000人に達した。さすがに西側諸国の多くも、イスラエルの軍事行動による被害が、ハマスによる被害と「釣り合わぬ」とする主張が支配的になった。そのなかで、一時停戦への流れが生まれ、停戦と人質交換交渉が成立した。
人質交換の報道
11月24日に始まった人質交換の際、アルジャジーラなどアラブ系のメディアは、解放されたパレスチナ人たちを、イスラエルによって「拘束(detained)されていたパレスチナ人」と表現している一方、欧米系メディアは「パレスチナ側のprisoner」と表現した。日本のメディアの多くは、初めに「囚人」あるいは「受刑者」と報じたが、これは誤訳である。
英語のprisonerには①犯罪の懲罰として刑務所に収容される者、②強制力により連れ去られ、拘束されている者、など多様な意味がある。この場合の意味は②であるから、日本語で刑事犯罪によって収監されている者の意味に近い「囚人」は不適切である。
メディアの多くは間もなく、「イスラエルの刑務所に収容されていた」とする表現に修正している。
10月27日段階では、NHKニュースは、7500人のパレスチナ人がイスラエル側に拘束されており、その多くが罪状なども明らかにされないまま拘束されていることを指摘し、その人々の中から、イスラエル側の人質と交換に解放されていると説明報道をした。
付け加えるならば、イスラエル警察と軍は、占領しているヨルダン川西岸のユダヤ人入植者を支援し、抵抗するパレスチナ人の拘束を継続的に行っており、イスラエル側に拘束されているパレスチナ人の多くは、これらの人々である。被拘束者の8割は裁判にかけられることもなく、またその多くは未成年でありローティン(10代前半)も少なくない。イスラエル政府が意図的に、より多くのパレスチナ人家族にダメージを与え、将来、若者たちがイスラエルに抵抗する意欲を喪失させることを狙っているともいわれる。
また人質交換が行われるなかでも、イスラエルは西岸地区で、同程度の数のパレスチナ人の不当、不法な拘束を続けているとする報告もある。また入植者ユダヤ人たちのパレスチナ人たちに対する暴力行為が拡大しているという報道も続いている。
おざなりなプロパガンダの意味するもの
SNSの時代である。双方ともテレビ局や新聞社などの既存メディア対策をとるとともに、ネット上でプロパガンダを展開している。当然、情報量はイスラエル側が圧倒的である。しかしそのイスラエルのプロパガンダがひどく雑なのである。テレビなどで紹介された途端に、ネット上でその虚偽性が指摘される事態となっている。典型的な話はアルシファ病院である。10月7日以降の紛争激化のなかで、イスラエル軍がハマスの軍事拠点となっているとして、病院へ激しい攻撃を加える様子は世界中に流れた。
このガザ地区の病院はイギリス統治下の1946年に初期的な施設が開設されており、その後、エジプト領となり、さらにイスラエルが占領し、その間に施設が拡張された。イスラエル政府は、国際社会の批判とパレスチナ側の抵抗に手を焼き、2005年にガザ地区から入植者と軍を撤退させ、実質的にパレスチナ人の居住する土地となった。その後、国際機関の援助なども加わり、アルシファ病院はガザ地区最大のパレスチナ人たちのための医療機関となったのである。
医師や患者まで追い出したイスラエル軍は、徹底的に破壊された病院をメディアに公開した。病院がハマスの指揮所として使われ、人質たちもここに拘束されていたと説明し、一室の壁に貼られた表を指さし、「これが人質の見張り担当者たちの当番表だ」とした。ところが、SNS上には瞬時にして、「それはただのカレンダーだ。人名として指さされていた文字は曜日だし、アラビア語は右から左に向かって読む」など、その説明の虚偽性を指摘する投稿が溢れた。
アルシファ病院については、さらに驚くべき情報が流れた。CNNの有名記者アマンプールが、イスラエル元首相のエフード・バラク(1999年~2001年在任)に行ったインタビューのなかで、元首相は、アルシファ病院の地下施設は占領中にイスラエルが建設したものだと述べたのである。アマンプールが驚いて問い返すのだが、説明は変わらない。イスラエル事情に詳しいジャーナリストによれば、アラブ諸国と繰り返し全面戦争を経験してきたイスラエルでは、病院に地下壕を設営することは一般的なのだと指摘する。
イスラエル政府は、初めからパレスチナ人たちの命を守る医療インフラを廃墟とするつもりであり、プロパガンダは、国際社会の目を少しの間でも欺くことができればいいと考えていたのであろう。アルシファ病院ほどには注目されていなかったが、ほぼ同時期に同じガザ地区にあるインドネシア病院(2015年、世界最大のムスリム人口を抱えるインドネシアの人々の寄付によって開設)にも陸海空からの全面的攻撃が加えられ電気も止まり、多数の死傷者を出している。
抗争の今後について
今回、さまざまなメディアの情報に触れる中で、強く印象に残ったのは、アラブ系のジャーナリストが指摘した「ハマスは組織名ではない。ハマスはBrandだ」との言葉である。たしかにハマスの正式名称は英語で、“Islam resistant movement”だから組織名ではない。実際にはハマスには外交組織や軍事組織をもつ「組織」の側面はあるのだが、イスラエルが550万人のパレスチナ人たちを抑圧し続ける限り、ハマスすなわちパレスチナ人たちの抵抗運動は続く。
ネタニヤフ首相は「ハマスを壊滅させるまで戦う」と繰り返し発言しているが、彼はハマスが単なる組織ではなく抵抗運動であることを理解しているだろう。政権内の極右政治家や市民のなかに、パレスチナ人を「人間の姿をした動物」であり「駆除すべき生物」と表現する者さえいる。「ハマスの壊滅」とはパレスチナ人のFinal Solution(最終的解決)を意味する。
ナチス政権はユダヤ人たちを同じような表現によって人間と見做さず、強制収容所に送って数百万人を殺戮した。今回のパレスチナの展開は、その歴史のネガフィルムを見せられているようだ。ネタニヤフは後世、自らが「ユダヤのヒトラー」と評価されることは避けたいであろう。国際社会はイスラエルの暴走を止めるための策を至急に講じなければならない。アラブ諸国とイスラエル双方に一定の距離をとることのできる日本政府にもできることがあるはずである。
2023.11.11
新疆の惨状はやはり事実である
――八ヶ岳山麓から(448)――
阿部治平 (もと高校教師)
はじめに
久しぶりに「馬戎」という名前を見た(環球時報2023・11・03)。馬氏は北京大学社会学系の教授で、中国民族学・社会学の権威費孝通亡きあとは、中国民族問題の第一人者である。彼は2015年に標準語(「普通話」)の「漢語」といういい方を「国語」に変えようじゃないかと提唱したことがある。その底意は、「漢語」といえば漢人の言語という意味に過ぎないが、「国語」といえば中国の「国家語」として少数民族にこれを強制させやすいからである。
「中華民族の多元一体的構造」をなぜ強調するか
その馬戎先生が、この度は「『中華民族共同体』という概念をいかに理解するか」を論じた。氏は概略こんなことをいう。
――中国は多民族が存在する。しかもこれが統一されている。そこでは「56の民族」は基層にあり、「中華民族」という概念はより高いレベルにある。主体である漢人をはじめとして、それぞれの民族が「中華民族」としての同一性・一体性をより高いレベルで持っている。同時に低層では、漢・チベット・モンゴル・イなどの群体内部には、言語文字・社会組織・生活習慣・地域アイデンティティの違いがある。つまり「多元的」構造が存在している――
どうして馬氏はにわかに「中華民族の多元一体的構造」を持ち出したのか。それは論文の末尾でようやくわかった。
氏は言う、「ここ数年、中央政府が『中華民族共同体の確固とした意識の醸成』を特に強調しているのは、決して不当なものではなく、まさにこの『中華民族共同体』という重要な層次のアイデンティティに問題を抱えている人々がいることを示している。習近平総書記が2021年の中央民族工作会議で、『中華民族共同体という確固とした意識を形成することが、新時代における党の民族工作の「綱領」であり、すべての工作はこれに重点を置くべきである』と強調したのは、まさにこのためである」と。
馬氏は、中国にはまだ「まつろわぬ民」がいる、その「まつろわぬ民」に高次の「中華民族共同体」への帰属意識を持たせなければならないというのである。
「アイデンティティに問題を抱えている人々」の現状
この「まつろわぬ民」を描き出した著作がある。『信仰と越境のウイグル』(文理閣 2023)である。著者中屋昌子さんは、トルコに脱出したウイグル人からの聞き取りによって、中共の民族政策がなんであるか、それによる現地少数民族がどんな状態に置かれているかを我々に知らせてくれた。それはわたしの知るところと同じであった。そのなかから2例を私なりに要約して紹介する。
アフメット氏の場合
アフメット氏は、中国共産党の教育を受けた模範生で、1981年新疆の大学に合格し、成績がよかったので1985年共産党員となった。ところが、トゥルグン・アルマスの『ウイグル人』を読む機会があり、これによって「新疆は古来中国領土の辺境であり不可分の領土である」という、学校で教育された歴史観がひっくり返った(注)。彼は、チュルク系民族が東西トルキスタンに王朝を築き、この地域の主人公であった歴史を知ったのである。
注)1990年代から中国では、イミン『東トルキスタン史』(1940)やトゥルグン・アルマスの3部作『ウイグル人』・『匈奴簡史』・『ウイグル古代文学』(1986~90)などは、パン・トルコ主義、東トルキスタン独立思想を煽るものとして禁書となっている。
1980代から日本にはシルクロード・ブームが起こり、1990年代には新疆から中央アジアを訪れる日本人旅行者が激増した。氏は日本留学を目指して日本語を学んでいたが、外国留学は中共幹部の子供が優先されていたので、彼はあきらめなければならなかった。
ところが日本語の能力をかわれ、国際旅行社にガイドとして雇用された。職場にインターネットが導入されると、今日のような当局によるメールの監視がまだ始まっていなかったので、世界各地に散らばるウイグル民族主義者らと交流することができ、「同志」としての連帯感を持つようになった。
彼は観光案内の一方、漢人ガイドやバス運転手などが日本語がわからないのを幸いに、日本人観光客に中国の新疆侵略とウイグルの中国化を非難し、ウズベキスタンのブハラからクムル(哈密・ハミ)まで、チュルク系民族の活動の舞台であった歴史を大いに語った。日本人はこれを興味深く聞いてくれ、その受けもよかった。ところが、それが裏目に出た。
2001年宴会での日本人ガイドの不用意な「ほめ言葉」を通して、これが国際旅行社側にばれ、やがて当局によって重大問題とされた。彼は知人の知らせに助けられ、逮捕寸前に家族を置いたまま、ガイドの資格を利用してクルグスタン(キルギス)に逃れ、知人を通してトルコのヴィザをとり、トルコに行くことができた。
氏はトルコでチュルク民族主義やウイグル亡命者の宗教上・民族上の意識の違いに悩みながら、やがて敬虔なムスリムとしての意識を高めていく。
メフメット氏の場合
2009年7月5日、新疆ウイグル自治区の区都ウルムチ市に「暴動」があった。ことの始まりは、6月広東省の玩具工場で漢人の女性がウイグル人に強姦されたといううわさが広がり、ウイグル人労働者が漢人に襲撃されて2人が殺され、多数が負傷したことによる。
事件がウルムチに伝わるとウイグルなどの学生300余人が人民広場に結集し、抗議デモを敢行して治安当局と衝突した。当日はウイグル人が漢人を襲ったが、数日後には、漢人数万がウイグル人への抗議デモを敢行し、ウイグル・漢両民族は激しく衝突した。
当局発表の漢人の死者197人、負傷者1700人以上。世界ウイグル会議(ウイグル亡命組織)の調査では死者800~1000人、負傷者2000~3000人に上るという大事件である。のちに実行犯とされたウイグル人30人が死刑判決を下された。漢人にお咎めがあったという話はない。
メフメット氏は当日この事件のさなかにあって負傷者の救助を行った。その際外国メディアに、チュルク系負傷者を医者が治療しないといった不満を訴えた。これが当局に察知され、逮捕連行された。
留置所では両手を挙げて縛られ、5日間、ほとんど飲まず食わずで糞尿も垂れ流しのままだった。そこで拷問を受けた者は、すべてウイグル男性だった。そして何よりも耐えられなかったのは、向かいの部屋でまだ小学生くらいの男女の子供が裸でずっと立たされていたことを目にしたことだ。……メフメット氏は、これも拷問のひとつだったという。
さらに彼は、地下室の真っ暗なところに両手を縛られて長時間入れられた。そこでは、低い天井のため首を曲げて立ち、水は胸まであって、膝下まで泥につかるようになっていた。かくして、「この過酷な状況に至っては、もはやアッラーのご慈悲にすがるのみ」という心境になり、中国を去る決意したのである。
おわりに
ここに中屋昌子さんの本を紹介したのは、2021年9月革新・リベラル派の一角を担うはずのマルクス主義雑誌「経済」(新日本出版社)に、以下のような文言があり、いまだに何らの弁明もなく訂正もされていないからである。
「なお(新疆においては)、『ジェノサイド』などと欧米で宣伝されていますが、これは明確な根拠が乏しく……反体制派の人物も殺されることはあまりありませんでした。収容所(通常の『監獄』以外に多数存在する『労働改造管教隊』施設)にいれ『教育する』形がとられました(p132)」
「中国では少数民族は弾圧を受けているという側面もありますが……(少数民族が)犯罪を行っても逮捕されにくいという実態から、漢民族の方が少数民族を恐れているという側面もあるのです(p138)」 (2023・11・07)
2023.11.06
イスラエルはガザへの攻撃を中止せよ
世界平和七人委が緊急アピール
岩垂 弘 (ジャーナリスト)
世界平和アピール七人委員会は11月4日、「イスラエルはガザへの攻撃を中止すべきである」と題するアピールを発表した。
その中で、七人委は「今回、ガザの隔壁を越えて行われたハマスの攻撃に際しての民間人殺害や人質作戦は決して許されるものではない。しかし、その報復だというイスラエルのガザへの総攻撃が、子どもたちを含む多数のパレスチナ人に死を強要していることは明らかであり、人間として、決して正視できないジェノサイドに等しい。パレスチナ人もイスラエル人と同じ人間であり、パレスチナ人を非人間のように扱うことは許されない」とし、「イスラエルとパレスチナ双方の当事者に、人類社会の多様性を認め、真の『人間同士』として、その尊厳を尊重し合い、武力に頼らないで相手と対話をすることを求める。それは当該地域の長期的な平和のために、大きな一歩を踏み出すことになる」と述べている。
さらに、日本政府に対し「とりわけ平和憲法をもち、中東地域諸国と長年、友好関係を培ってきた日本政府は、多くの生命が失われ、多くの人々が日々苦しむ現在の当該地域の事態から目をそらすことなく、人道的な観点を尊びつつ平和のための支援に最善の努力を行うことを求めたい」としている。
世界平和アピール七人委は、1955年、ノーベル賞を受賞した物理学者・湯川秀樹らにより、人道主義と平和主義に立つ不偏不党の知識人の集まりとして結成され、国際間の紛争は武力で解決してはならない、を原則に日本国憲法擁護、核兵器廃絶、世界平和実現などを目指して内外に向けアピールを発してきた。今回のアピールは158回目。
現在の委員は大石芳野(写真家)、小沼通二(物理学者)、池内了(宇宙物理学者)、池辺晋一郎(作曲家)、髙村薫(作家)、島薗進(上智大学教授・宗教学)、酒井啓子(中東地域研究・千葉大学教授)の7氏。
アピールの全文は次の通り。
イスラエルはガザへの攻撃を直ちに中止すべきである
世界平和アピール七人委員会
私たちは、イスラエルの非人道的な完全封鎖の下でパレスチナ人が住むガザに対しておこなわれているイスラエルの連日の空爆と地上からの攻撃によって、多数のパレスチナ人が殺され傷つけられていることに、深い悲しみとともに強い憤りを覚えている。イスラエルは、ハマスのテロ行為に対する自衛だと主張しているが、多数の子どもたちを含むパレスチナの人々を無差別に殺し傷つける行動を正当化することはできない。
元来、パレスチナの地には、宗教や出自が異なる多様な民族が共存していた。1948年にこの地にイスラエルが建国して以来、多くのパレスチナの人々が生活してきた土地から追い出され、基本的人権を無視された難民となった状態が75年も続いてきたことを忘れるべきではない。ガザ地区に生きるパレスチナ人たちは、狭い地域に閉じ込められ、厳しい検問や監視のもとに置かれ、度重なる攻撃によって苦しんできた。ガザが「天井のない監獄」と言われる状況にあることは、世界に広く知られている事実である。
今回、ガザの隔壁を越えて行われたハマスの攻撃に際しての民間人殺害や人質作戦は決して許されるものではない。しかし、その報復だというイスラエルのガザへの総攻撃が、子どもたちを含む多数のパレスチナ人に死を強要していることは明らかであり、人間として、決して正視できないジェノサイドに等しい。パレスチナ人もイスラエル人と同じ人間であり、パレスチナ人を非人間のように扱うことは許されない。
暴力に対して暴力をという報復の連鎖では、何らの解決にならないということは、人類の歴史を見れば明らかである。パレスチナ人にも、あらゆる迫害・殺戮から解放され、安全に暮らす人間としての権利がある。
私たちは、10月26日の国連緊急特別総会で採択された決議「民間人の保護と法的・人道的義務の遵守」を支持する。イスラエルとパレスチナ双方の当事者に、人類社会の多様性を認め、真の「人間同士」として、その尊厳を尊重し合い、武力に頼らないで相手と対話をすることを求める。それは当該地域の長期的な平和のために、大きな一歩を踏み出すことになる。
私たちはまた、日本政府を含む世界各国の政府がそのために積極的な支援を行い、貢献することを心から望んでいる。とりわけ平和憲法をもち、中東地域諸国と長年、友好関係を培ってきた日本政府は、多くの生命が失われ、多くの人々が日々苦しむ現在の当該地域の事態から目をそらすことなく、人道的な観点を尊びつつ平和のための支援に最善の努力を行うことを求めたい。
2023.11.04
これが国連特別総会の人道的休戦決議の日本語訳全文
グローバルサウス諸国が中心となって作成
岩垂 弘 (ジャーナリスト)
10月27日、国連第10回緊急特別総会で、決議「敵対行為の停止につながる人道的休戦」が、圧倒的多数で可決された。日毎に緊迫度を増すパレスチナ・イスラエル問題の今後を展望する上で画期的な決議だが、その日本語訳全文はまだ外務省や国連広報センターから発表されていない。そんな中、10月31日、ラテンアメリカ現代史研究家の新藤通弘さんから、日本語訳全文が発表された。
新藤さんによると、決議案「敵対行為の停止につながる人道的休戦」は40カ国により共同提案され、賛成121カ国、反対14カ国、棄権45カ国、欠席14カ国で可決された。米国、イスラエルなどが反対し、日本政府は、「ハマスのテロ行為に対する強い非難がなく、バランスを欠いている」として、棄権に回った。
新藤さんによると、各国の決議の投票動向は、下記の通りだが、この決議案は、いわゆるグローバルサウス諸国を中心に作成され、よく吟味されており、合理性と説得力があり、フランス、スペイン、ノルウェー、ベルギーなどのNATO諸国も賛成に回ったという。
この総会決議に従い、パレスチナ・イスラエル戦争を、国際法に基づき、人道的休戦を実現し、早急に終止して、これ以上の大規模な人命の損失を避けなければならない、と新藤さんはいう。
決議「敵対行為の停止につながる人道的休戦」
■国連総会での投票行動
共同提案国=40カ国
バーレーン、バングラデシュ、ベリーズ、ボリビア(多民族国)、ボツワナ、ブルネイ・ダルサラーム国、コモロ、キューバ、朝鮮民主主義人民共和国、ジブチ、エジプト、エルサルバドル、インドネシア、イラク、ヨルダン、クウェート、レバノン、リビア、マレーシア、モルディブ、モーリタニア、モロッコ、ナミビア、ニカラグア、オマーン、パキスタン、カタール、ロシア連邦、セントビンセント・グレナディーン諸島、サウジアラビア、セネガル、ソマリア、南アフリカ、スーダン、トルコ、アラブ首長国連邦、ベネズエラ(ボリバル共和国)、イエメン、ジンバブエ、パレスチナ
賛成=120力国
アフガニスタン、アルジェリア、アンゴラ、アルゼンチン、アルメニア、アゼルバイジャン、バーレーン、ベラルーシ、ベルギー、ボスニア・ヘルツェゴビナ、ボツワナ、ブラジル、中国、コロンビア、コスタリカ、コートジボワール、キューバ、朝人民共和国人民共和国、コンゴ民主共和国、ジブチ、エジプト、フランス、ガボン、インドネシア、イラン、アイルランド、ヨルダン、カザフスタン、ケニア、クウェート、レバノン、リビア、リヒテンシュタイン、ルクセンブルク、マレーシア、モルディブ、マリ、マルタ、メキシコ、モンゴル、モンテネグロ、モロッコ、モザンビーク、ミャンマー、ナミビア、ネパール、ニュージーランド、ニジェール、ナイジェリア、ノルウェー、オマーン、パキスタン、ペルー、ポルトガル、カタール、ロシア、サウジアラビア、セネガル、シンガポール、スロベニア、ソロモン諸島、ソマリア、南アフリカ、スペイン、スリランカ、スーダン、スイス、シリア、タイ、東ティモール、トルコ、ウガンダ、アラブ首長国連邦、タンザニア、ベトナム、イエメン、ジンバブエ
反対=14力国
オーストリア、クロアチア、チェコ、フィジー、グアテマラ、ハンガリー、イスラエル、マーシャル諸島、ミクロネシア、ナウル、パプアニューギニア、バラグアイ、トンガ、米国
棄権=45力国
アルバニア、豪州、ブルガリア、カボベルデ、カメルーン、カナダ、キプロス、デンマーク、エストニア、エチオピア、フィンランド、ジョージア、ドイツ、ギリシャ、ハイチ、アイスランド、インド、イラク、イタリア、日本、キリバス、ラトビア、リトアニア、モナコ、オランダ、北マケドニア、パラオ、パナマ、フィリピン、ポーランド、韓国、モルドバ、ルーマニア、サンマリノ、セルビア、スロバキア、南スーダン、スウェーデン、チュニジア、ツバル、ウクライナ、英国、ウルグアイ、バヌアツ、ザンビア
無投票=14力国
ペナン、ブルキナファソ、ブルンジ、カンボジア、エスワティニ、ジャマイカ、リベリア、ルワンダ、サモア、サントメ・プリンシペ、セーシェル、トーゴ、トルクメニスタン、ベネズエラ(ベネズエラは、共同提案国だが、国連分担金が未納で、投票権ない)
<決議の日本語訳全文>
占領下の東エルサレム及びそれ以外の占領下のパレスチナ地域におけるイスラエルの非合 法的行動
バーレーン、バングラデシュ、ベリーズ、ボリビア(多民族国)、ボツワナ、ブルネイ・ ダルサラーム国、コモロ、キューバ、朝鮮民主主義人民共和国、ジブチ、エジプト、エル サルバドル、インドネシア、イラク、ヨルダン、クウェート、レバノン、リビア、マレー シア、モルディブ、モーリタニア、モロッコ、ナミビア、ニカラグア、オマーン、パキス タン、カタール、ロシア連邦、セントビンセント・グレナディーン諸島、サウジアラビア、 セネガル、ソマリア、南アフリカ、スーダン、トルコ、アラブ首長国連邦、ベネズエラ (ボリバル共和国)、イエメン、ジンバブエ、パレスチナ:
民間人の保護と法的・人道的義務の遵守
総会は、国際連合憲章の目的と原則に導かれ、パレスチナ問題に関する関連決議を想起し、 1949 年 8 月 12 日のジュネーブ条約第 1 条に基づき、あらゆる状況において国際人道法を 尊重し、その尊重を確保する義務を再確認し、
安全保障理事会の以下を含む関連決議、1967 年 11 月 22 日の決議 242(1967)、1973 年 10 月 22 日の決議 338(1973)、1979 年 3 月 22 日の決議 446(1979)、1979 年 7 月 20 日の決議 452(1979)、1980 年 3 月 1 日の決議 465(1980)1980 年 6 月 30 日の 決議476 (1980)、1980 年 8 月 20 日の 決議478(1980)、1994 年 3 月 18 日の決議 904(1994)、2002 年 3 月 12 日の決議1397(2002)、2003 年 11 月 19日の 決議1515(2003)、2008 年 12 月 16 日 の 決議1850(2008)、2009 年 1 月 8 日の 決議1860(2009)、2016 年 12 月 23 日の 決議2334 (2016)を想起して
子どもと武力紛争を含む、武力紛争における文民の保護に関する安全保障理事会決議も想 起して、
2023 年 10 月 7 日の攻撃以来の暴力の最近のエスカレーションと、この地域、特にガザ地 区と東エルサレムを含むその他のパレスチナ占領地およびイスラエルにおける状況の深刻 な悪化に重大な懸念を表明して、
すべてのテロ行為および無差別攻撃、ならびにすべての挑発行為、扇動行為、破壊行為を含め、パレスチナおよびイスラエルの市民を標的としたすべての暴力行為を非難して、
敵対行為の遂行において、区別、必要性、比例性、予防措置の原則を堅持する必要性を想起して、
国際人道法および国際人権法に従い、民間人が保護されなければならないことを強調し、 この点で、民間人の多大な犠牲と広範な破壊を嘆き、
また、説明責任を追求する必要性を強調し、この点で、国際基準に従って独立した透明性 のある調査を確保することの重要性を強調し、
ガザ地区における壊滅的な人道的状況と、主に子どもたちを含む民間人に対するその甚大な影響に重大な懸念を表明し、完全かつ緊急で、安全で、妨げのない持続的な人道的アク セスの必要性を強調し、
事務総長の努力と、ガザ地区のパレスチナ民間人の最も基本的なニーズに応えるため、人道援助の即時かつ無制限のアクセスを求める同事務総長の呼びかけに対する強い支持を表 明し、食糧、水、医薬品、燃料を持続的かつ大規模に供給する必要があるという事務総長 のメッセージを強調し、この点でエジプトが果たした重要な役割に感謝の意を表明し、
また、敵対行為の即時停止を達成し、民間人の保護を確保し、人道援助を提供することを 目的とした、地域および国際的なあらゆる努力に対する強い支持を表明し、
1 敵対行為の即時停止につながる、永続的かつ持続的な人道的停戦を求める;
2 すべての当事者に対し、国際人道法および国際人権法を含む国際法の下での義務、特に
民間人および民間対象物の保護、人道要員、非戦闘員、人道施設および資産の保護、なら びにガザ地区で必要なすべての民間人に必要な物資およびサービスが届くよう、人道的ア クセスを可能にし、促進する義務を、即時かつ完全に遵守することを要求する;
3 また、ガザ地区全域の市民に対し、水、食料、医療品、燃料、電気を含む、またこれら に限定されない、必要不可欠な物資とサービスを即時、継続的、十分かつ妨げずに提供す ることを要求し、国際人道法上、市民が生存に不可欠なものを奪われないようにすること が不可欠であることを強調する;
4 国連パレスチナ難民救済事業機関、その他の国連人道援助機関およびその実施パートナー、赤十字国際委員会、その他人道主義を堅持し、ガザ地区の市民に緊急援助を提供する すべての人道援助団体に対し、即時、完全、持続的、安全かつ妨げのない人道的アクセス を求め、人道回廊の設置および市民への人道援助提供を促進するその他のイニシアティブ を奨励し、この点に関する取り組みを歓迎する;
5 また、占領国イスラエルが、パレスチナ市民と国連職員、人道医療従事者に対し、ワ ジ・ガザ以北のガザ地区全域から避難し、ガザ南部に移転するよう命じたことを撤回する よう求める。また、民間人は国際人道法の下で保護されており、どこにいても人道支援を 受けるべきであることを想起し、繰り返し表明するとともに、民間人、特に子どもの安全 と幸福を確保し、その保護と安全な移動を可能にするための適切な措置を講じる必要性を 改めて表明する;
6 パレスチナ民間人の強制移動のいかなる試みも断固として拒否する;
7 違法に拘束されているすべての民間人の即時かつ無条件の解放を要求し、彼らの安全、 幸福、そして国際法に則った人道的待遇を求める;
8 また、この地域の武力紛争において、病院やその他の医療施設、その輸送手段や設備、 学校、礼拝所、国連施設を含むすべての文民・人道施設、ならびにすべての人道・医療要 員、ジャーナリスト、メディア関係者、関連要員を、国際人道法に沿って尊重し、保護することを求める;
9 武力紛争が、難民や避難民を含む女性や子どもたち、また、障害者や高齢者など、特定 の脆弱性を持ちうるその他の民間人に与える影響が特に深刻であることを強調する;
10 同様に、国際法および関連する国連決議に従い、パレスチナ民間人の保護を確保する 仕組みを緊急に確立する必要性を強調する
11 さらに、国際連合施設とすべての人道的施設の保護を確保し、支援隊が妨げられるこ となく移動できるようにするため、人道通報メカニズムの重要性を強調する;
12 同地域における暴力のさらなる不安定化と拡大を防止することの重要性を強調し、こ の点に関し、すべての当事者に対し、最大限の自制を求めるとともに、影響力を有するす べての者に対し、この目標に向けて努力するよう求める;
13 イスラエル・パレスチナ紛争の公正かつ永続的な解決は、関連する国連決議に基づ き、国際法に従い、二国家間解決に基づく平和的手段によってのみ達成されうることを再 確認する;
14 10回緊急特別総会を一時休会し、直近の総会議長に対し、加盟国の要請があれば総会を再開する権限を与えることを決定する。
(1) 国際連合条約シリーズ 75 巻 970-973 号。
(新藤通弘 仮訳)
2023.11.01
やはり「民族同化」は進んでいる
――八ヶ岳山麓から(447)――
近頃珍しく、人民日報国際版の「環球時報」にチベットが登場した。
「チベットに来い、そして『強制同化』の話がどのくらいでたらめかを見よ」という威勢のよい「見出し」の評論である(2023・10・10)。筆者は王建斌、北京外語大学区域全球治理高等研究院副院長である(「全球治理」はグローバル・ガバナンスというべきか)。
冒頭、王氏は「9月下旬、米ニューヨーク・タイムズ紙は、『チベット人強制同化問題』に関する米国務省の報告書を受け、中国が100万人のチベット人児童を『強制同化』のために寄宿学校に送ったというデマ記事を掲載した。そして一部の欧米メディアや反中国勢力がこの誇大広告に追随した」と大いに非難している。
王氏は評論の終りでも、米国や西側の一部の政治家やメディアがチベットについて宣伝をやるのは、「彼らが過去に主張していた新疆における『大量虐殺』や『強制労働』が、現在の新疆の安定と団結の発展を前にして新鮮さを失い、もはや説得力を失ったからである」という。
欧米メディアは、「チベットの子どもたちが全寮制の学校に強制的に移され、そこで『普通話(いわゆる中国語・漢語)』の教育を受けなければならず、チベット語や歴史、文化を学べなくなり、漢民族の文化に強制的に同化させられている」「この 『強制政策』は、チベット人の若い世代の独特な言語的、宗教的伝統を消去することを目的としている」と主張していると怒るのである。
わたしが青海省で教員をしていたのは21世紀のはじめから11年間だが、チベット人地域の牧畜地域では、小学校の統廃合がすすみ、遠距離通学を余儀なくされた1年坊主から町の学校の寄宿舎に入ることとされていた。村によっては、年寄りたちがこれを悲しんで、「私らから孫を奪わないで」と地方教育当局に集団で頼んでいた。また、すでに寄宿舎生活のある小学校では、おねしょや皮膚病などで子供がかわいそうだという話もあった。だから、寄宿舎制度は今に始まったことではない。
一方、中学高校の歴史教科書は、「夏、商(殷)、周、春秋、戦国、……」と、「中国史」そのものだった。そこにチベットが登場するのは、唐代つまり7世紀にチベット高原を統一して吐蕃王国を建国したソンツェンガンポ王と文成公主の結婚だけ。だから、わたしの学生たちはインド仏教の伝来もダライ・ラマ制度の成立もちゃんとした知識を持たなかった。
私がいた当時は、青海省ではチベット人地域でも「農暦(旧暦)」を使っていたこともあり、チベット暦が太陽大陰暦であることも知らなかった(聞くところによると、現在ところによっては農歴の「春節」をやめ、チベット暦のロサル(新年)を祝うようになっている)。
さらに問題は教師が教室で使う教育言語である。2010年10月、青海省当局は幼稚園から高校まで学校の授業は、すべての教師に「普通話」を使わせるという通達を出した。これに対して教師や学生生徒はもちろん、チベット人の官僚退職者まで猛然と反対し、青海省の各地でチベット人はデモを敢行した。
結局は青海省当局がチベット人に譲歩し、「実施可能な学校から実施する」というところに落ち着いたのだが、いま小学校低学年を除けば、多くの学校で「普通話」による教育が行われている。
王氏は、「2023-中国チベット発展フォーラム」に出席した100人近くの在中国使節や国際的な著名人に同行し、チベット自治区の林芝(リンジ)の林芝第二小学校とラサのラサ実験中学(中高一貫のエリート校)を訪問した。
「これらの学校では、子どもたちはチベット語の体系的な学習を受けている。 林芝市の第二小学校はそのような民族学校のひとつで、特別なチベット語教育研究室があり、チベット人教師が子供たちにチベット語を教え、チベット文の書道の練習を指導している。……この学校には、民族楽器や民族舞踊の課程もある」という。
問題は、カリキュラムの中にチベット語やチベット史の授業が週何時間を占めているかであるが、氏は、チベット語教育の授業時間についても、教師が授業に使う言葉がチベット語か否かについても何も語らない。
これは、ラサや林芝の学校では「普通話」が使われて20年は経っているから、彼が「普通話」を使うのが当然と考えているからであろう。また、わたしが知る限り、大規模大学の民族系学部、民族系大学を除けば、中国には少数民族史・民族文化を学べる学校はほとんどない。
王氏は「子どもたちは(寄宿制)学校で家族や社会から切り離されてはいない」と強調する。
「ラサの実験中学では、2400人強の生徒の90%以上がチベット人である。 寄宿生は、平日は学校で生活するが、週末と祝日、チベット正月や『雪屯節』のようなチベットの伝統的な祝日や夏休み冬休みには、家に帰ることができる」と。
だが、小学校段階の寄宿制度は、教育上はやはり「強制」というべきで、子供を情緒不安定にすることは間違いない。中学段階ならば、生徒が家族・社会から切り離されているか否かの判断は人によるだろう。
王氏は、さらにラサの実験中学の卒業生の多くが北京、上海、広州などの大都市の大学に進学している事実をあげる。たしかにこの実験中学に限らず、北京大学や清華大学などの一流大学に進学するチベット人学生が増えているし、一般大学にもチベット人学生が進学するようになった。だからといって、彼らが漢文化に「同化」していないとは言えない。
事実は、母語よりも「普通話」がよくでき、漢語・漢文化についての知識は身に着けているが、チベット文化や歴史に無知のチベット人大学生が増えている。これは間違いない。
中国共産党の民族政策は中華民族の一体化である。民族文化・宗教の中国化、すなわち「漢化」である。「漢化」は確実に進んでいる。だが、わたしは少数民族青年のすべてを「強制同化」の結果だと断定することはできない。またそこに「強制」がないとも思わない。
1990年代のはじめ、わたしは、チベット人地域の中のモンゴル民族島とでもいうべきところにいた。そこの小学校教師は、自分ではモンゴル語を教えながら、娘を漢語中心の幼稚園へやっていた。なぜかと聞くと、「もし娘たちの世代が漢語がわからなかったら、この地域の役人や指導者はよその民族(すなわち漢人)になってしまう。それでは我々は生きていけない」と答えた。
わたしの学生も、かつて同じ趣旨の考えを語ったことがある。中国では漢民族は91%を占めている。だから、われわれは圧倒的な彼らとの競争の中で生きるために、漢人並みの漢語と漢文化を身につけなければならない、だから「漢化」は「権力による強制」というよりは、「社会的・経済的強制」とでもいうべきものであると。
日本国家が、アイヌ民族からアイヌ語を抹消していったように、中国もまた中華民族の一体化をめざして、あるいは強制しあるいは自然に任せて、確実に少数民族から文化と母語を奪っているのは間違いないと思う。 (2023・10・27)
阿部治平(もと高校教師)
近頃珍しく、人民日報国際版の「環球時報」にチベットが登場した。
「チベットに来い、そして『強制同化』の話がどのくらいでたらめかを見よ」という威勢のよい「見出し」の評論である(2023・10・10)。筆者は王建斌、北京外語大学区域全球治理高等研究院副院長である(「全球治理」はグローバル・ガバナンスというべきか)。
冒頭、王氏は「9月下旬、米ニューヨーク・タイムズ紙は、『チベット人強制同化問題』に関する米国務省の報告書を受け、中国が100万人のチベット人児童を『強制同化』のために寄宿学校に送ったというデマ記事を掲載した。そして一部の欧米メディアや反中国勢力がこの誇大広告に追随した」と大いに非難している。
王氏は評論の終りでも、米国や西側の一部の政治家やメディアがチベットについて宣伝をやるのは、「彼らが過去に主張していた新疆における『大量虐殺』や『強制労働』が、現在の新疆の安定と団結の発展を前にして新鮮さを失い、もはや説得力を失ったからである」という。
欧米メディアは、「チベットの子どもたちが全寮制の学校に強制的に移され、そこで『普通話(いわゆる中国語・漢語)』の教育を受けなければならず、チベット語や歴史、文化を学べなくなり、漢民族の文化に強制的に同化させられている」「この 『強制政策』は、チベット人の若い世代の独特な言語的、宗教的伝統を消去することを目的としている」と主張していると怒るのである。
わたしが青海省で教員をしていたのは21世紀のはじめから11年間だが、チベット人地域の牧畜地域では、小学校の統廃合がすすみ、遠距離通学を余儀なくされた1年坊主から町の学校の寄宿舎に入ることとされていた。村によっては、年寄りたちがこれを悲しんで、「私らから孫を奪わないで」と地方教育当局に集団で頼んでいた。また、すでに寄宿舎生活のある小学校では、おねしょや皮膚病などで子供がかわいそうだという話もあった。だから、寄宿舎制度は今に始まったことではない。
一方、中学高校の歴史教科書は、「夏、商(殷)、周、春秋、戦国、……」と、「中国史」そのものだった。そこにチベットが登場するのは、唐代つまり7世紀にチベット高原を統一して吐蕃王国を建国したソンツェンガンポ王と文成公主の結婚だけ。だから、わたしの学生たちはインド仏教の伝来もダライ・ラマ制度の成立もちゃんとした知識を持たなかった。
私がいた当時は、青海省ではチベット人地域でも「農暦(旧暦)」を使っていたこともあり、チベット暦が太陽大陰暦であることも知らなかった(聞くところによると、現在ところによっては農歴の「春節」をやめ、チベット暦のロサル(新年)を祝うようになっている)。
さらに問題は教師が教室で使う教育言語である。2010年10月、青海省当局は幼稚園から高校まで学校の授業は、すべての教師に「普通話」を使わせるという通達を出した。これに対して教師や学生生徒はもちろん、チベット人の官僚退職者まで猛然と反対し、青海省の各地でチベット人はデモを敢行した。
結局は青海省当局がチベット人に譲歩し、「実施可能な学校から実施する」というところに落ち着いたのだが、いま小学校低学年を除けば、多くの学校で「普通話」による教育が行われている。
王氏は、「2023-中国チベット発展フォーラム」に出席した100人近くの在中国使節や国際的な著名人に同行し、チベット自治区の林芝(リンジ)の林芝第二小学校とラサのラサ実験中学(中高一貫のエリート校)を訪問した。
「これらの学校では、子どもたちはチベット語の体系的な学習を受けている。 林芝市の第二小学校はそのような民族学校のひとつで、特別なチベット語教育研究室があり、チベット人教師が子供たちにチベット語を教え、チベット文の書道の練習を指導している。……この学校には、民族楽器や民族舞踊の課程もある」という。
問題は、カリキュラムの中にチベット語やチベット史の授業が週何時間を占めているかであるが、氏は、チベット語教育の授業時間についても、教師が授業に使う言葉がチベット語か否かについても何も語らない。
これは、ラサや林芝の学校では「普通話」が使われて20年は経っているから、彼が「普通話」を使うのが当然と考えているからであろう。また、わたしが知る限り、大規模大学の民族系学部、民族系大学を除けば、中国には少数民族史・民族文化を学べる学校はほとんどない。
王氏は「子どもたちは(寄宿制)学校で家族や社会から切り離されてはいない」と強調する。
「ラサの実験中学では、2400人強の生徒の90%以上がチベット人である。 寄宿生は、平日は学校で生活するが、週末と祝日、チベット正月や『雪屯節』のようなチベットの伝統的な祝日や夏休み冬休みには、家に帰ることができる」と。
だが、小学校段階の寄宿制度は、教育上はやはり「強制」というべきで、子供を情緒不安定にすることは間違いない。中学段階ならば、生徒が家族・社会から切り離されているか否かの判断は人によるだろう。
王氏は、さらにラサの実験中学の卒業生の多くが北京、上海、広州などの大都市の大学に進学している事実をあげる。たしかにこの実験中学に限らず、北京大学や清華大学などの一流大学に進学するチベット人学生が増えているし、一般大学にもチベット人学生が進学するようになった。だからといって、彼らが漢文化に「同化」していないとは言えない。
事実は、母語よりも「普通話」がよくでき、漢語・漢文化についての知識は身に着けているが、チベット文化や歴史に無知のチベット人大学生が増えている。これは間違いない。
中国共産党の民族政策は中華民族の一体化である。民族文化・宗教の中国化、すなわち「漢化」である。「漢化」は確実に進んでいる。だが、わたしは少数民族青年のすべてを「強制同化」の結果だと断定することはできない。またそこに「強制」がないとも思わない。
1990年代のはじめ、わたしは、チベット人地域の中のモンゴル民族島とでもいうべきところにいた。そこの小学校教師は、自分ではモンゴル語を教えながら、娘を漢語中心の幼稚園へやっていた。なぜかと聞くと、「もし娘たちの世代が漢語がわからなかったら、この地域の役人や指導者はよその民族(すなわち漢人)になってしまう。それでは我々は生きていけない」と答えた。
わたしの学生も、かつて同じ趣旨の考えを語ったことがある。中国では漢民族は91%を占めている。だから、われわれは圧倒的な彼らとの競争の中で生きるために、漢人並みの漢語と漢文化を身につけなければならない、だから「漢化」は「権力による強制」というよりは、「社会的・経済的強制」とでもいうべきものであると。
日本国家が、アイヌ民族からアイヌ語を抹消していったように、中国もまた中華民族の一体化をめざして、あるいは強制しあるいは自然に任せて、確実に少数民族から文化と母語を奪っているのは間違いないと思う。 (2023・10・27)
2023.10.30
中國・李克強前首相の死を惜しむ
―誰かさんに教えたい論理的思考法
中国の李克強前首相が10月27日に亡くなった。68歳であった。惜しい、と思う。と言っても、もとよりその人となりに直接触れたことがあるわけではない。伝えられるニュースを見聞して、もっと活躍してほしいと思っていたからである。
3年前の20年5月、全国人民代表大会終了後の恒例の首相記者会見で、時の李克強首相は質問に答えて、中国人一般の生活レベルに触れ、「人口の半分、6億人がまだ月1000元(当時のレートで1万5~6、000円)以下で暮らしている。これでは中位の都市で部屋を借りるのさえ難しい」と語った。
万事順調、習主席万歳!、で大会を締めくくって欲しかった習近平総書記にとってはさぞ不快な発言であったろう。この後、ひとしきりこの李克強発言は事実か否かが話題になった。たしか「間違いだ」ということにはならなかったはずだ。
死去の報道で「リコノミクス」という言葉がよく使われた。「李克強経済学」という意味だが、この言葉は本来、首相としての氏の経済政策を意味するものではなく、発端は氏が遼寧省の書記(トップ)当時、米誌のインタビューに答えて、「私は発表される経済についての統計数字はあまり見ない。それより貨物輸送量、電力消費量、銀行融資残高を見れば、経済の状況は分かる」といったことがその語源である。
当時も思い切った発言として注目されたが、経済の動きを構造的にとらえ、その自律的動きを理解しているからこそ、言える言葉である。それが新鮮でリコノミクスという言葉が生まれたと理解している。
と言っても、中国の指導者たち誰も経済を構造的に捉えないという意味ではない。革命以来の指導者、毛沢東も鄧小平もそれぞれ自らの論理の中で構造的に経済をとらえてはいたと思う。
例えば毛沢東の有名な言葉に「階級闘争が要(カナメ)である」というのがある。これは階級闘争さえやっていればよい、という意味ではない。階級社会では階級闘争を通じて搾取、被搾取の構造を理解、納得してこそ労働者階級は革命に立ち上がる。社会主義社会でも搾取階級の残りかすを暴き、なくしてこそ、民衆の労働意欲は高まると毛沢東は考えたのである。
1950年代、東欧で続発する反スターリン暴動を見て、毛沢東が国内で反右派闘争や大躍進という政治運動を繰り広げたのは、別に闘争のための闘争ではなく、それをしなければ労働者や農民の生産意欲をかきたてられないと考えたからだと私は理解している。
50年代の反右派闘争、大躍進運動などが失敗に終わっても、毛沢東は60年代に再び文化大革命を発動し、「資本主義の道を歩む実権派」の打倒を呼びかけた。66年8月の中国共産党8期11中全会という会議が採択した「プロレタリア文化大革命に関する決議」(いわゆる「16条決議」)が文革開始ののろしとされているが、その第14条にはこうある。
「革命に力を入れ、生産を促すこと。文革はわが国の社会的生産力を発展させる強大な推進力である。文革を生産の発展と対立させるような考え方は正しくない」
毛沢東はまた、文革が成功したか否かを決めるのは「生産が上がったか否かである」とも言っている。毛の闘争はたんに闘争のための闘争ではなかった。それが結果として失敗に終わり、大きな悲劇を生んだことは毛沢東の責任であるが、彼とてやみくもに社会を混乱させたわけではなく、国民の生産へのエネルギーを引き出すための革命であったのである。
1970年代末、毛沢東の次にリーダーの旗を握ったのは鄧小平である。鄧は毛の「階級闘争が要である」に代えて、「発展こそ道理の中の道理である」(原文は「発展こそ硬い道理」)いう一句を掲げた。「世の中に道理はさまざまあろうが、経済を発展させなければ何事も始まらない」という意味である。そこから「白い猫でも黒い猫でも、ネズミをとるのがよい猫だ」という有名なスローガンが出てくる。そして中国は改革・開放路線へ進み、今日に至っている。
毛沢東と違って鄧小平は、人間はだれしも「豊かになりたい」という欲を持っており、国民の手足を縛ってちいさな金儲けまで禁ずるのは間違いである、それは理屈にあわないと割り切る。その結果、小さな商売が生まれ、社会には「万元戸」(この言葉、ご記憶だろうか。1万元貯めた家という意味)が群生した。
一方、「革命で尻尾を巻いて出て行った外国帝国主義が、今度は札で膨らんだ鞄を抱えて戻ってきた」という庶民の皮肉をよそに、鄧小平は外国資本に割安の土地と労働力を提供して、国土に大々的に生産活動を移植した。この積極的な外資導入策の効果は覿面(てきめん)で、2010年にはGDP総額で日本を抜いて、中國は世界第2の経済大国にまで登り詰めた。
さて、そこで現在である。明らかに「割安の土地と労働力」がものを言った時代は過ぎた。2010年代半ばごろには、なにもしなくてもある程度の経済成長は続くという時代は終わった。ここからは問題の所在を突き止め、惰性に流されるのでなく、時宜に即した経済運営を適宜適切に進めなければならなくなったのだが、その先頭にたつ習近平にはまったくその能力がない。
見るところ習近平には物事を構造的にとらえる能力が欠如している。したがって、彼の発する指示は自分の望むところを羅列するだけで、それをいかに実現するかには彼の頭脳はまったく働かない。それが分かるのは、望む結果をいくつも並列するだけの指示がすこぶる多いからである。2つのナントカから始まって、3つの、4つの、5つの、6つのくらいまでの多数の指示は、ああせよ、こうせよと望む結果を並べるだけである。
「2つから」例を挙げると、まずもっとも頻出する標語に「両個確立」、「両個維護」というのがある。「2つの確立」は「習近平同志の党中央の核心、全党の核心の地位を確立し、習近平新時代の中国の特色のある社会主義思想を確立する」であり、次の「2つの擁護」は「断固として習近平総書記が党中央の核心、全党の核心であることを擁護し、断固として党中央の権威とその集中的、統一的指導を擁護する」である。要するに習近平を指導者として盛り立てようというだけのことをこれだけくどい言葉遣いで強要しているスローガンである。
次に国民に向かって「持て」と呼びかける「4つの意識」と「4つの自信」を見よう。まず持つべき「4つの意識」とは「政治意識、大局意識、核心意識、看斎意識」である。常に政治や大局を意識せよというのだが、最後の「看斎意識」とは「多数に協調せよ」という意味で、直訳すると「右へ倣(なら)え意識」である。「オレはみんなと違う」というのは許されないのである。
国民が持つべき「4つの自信」は「道路自信」、「理論自信」、「制度自信」、「文化自信」である。要するに国のやっていることには間違いはないのだから自信を持て。路線や制度に疑問を持つなということである。
それでは肝心の経済について習近平は国民にどんな指示を出しているか。これは6つづつ2つの範疇に分かれている「6穏」と「6保」と呼ばれている。
まず「6穏」。「つぎの6項目を安定させよ」という。「就業・金融・外資・外貿・投資・予期」の6項目である。これらが安定することは結構であろう。しかし、これを国民に向かって呼びかけてどうなるというのだろう。それぞれをいかに安定させるかはそれこそ習近平ら当局者が頭を絞って考えることで、国民にどうしろというのか。金融や投資が不安定になったからといって、国民にどうしろと言うのであろう。中でも不可思議なのは最後の「予期」である。ここではおそらく「予測」の意味であろうが、予測は過去の実績の上に冷静、客観的に立てなければならないもののはずだ。それを「安定させよ」とはどういうことであろう。まるで意味不明である。
もう1つ「6保」。これは以下の「6項目を確保せよ」ということである。「居民就業・基本民生、市場主体、糧食・エネルギーの安全、生産チェーン、サプライチェーン、基本的流通」である。
いずれも国民経済の基本であるから、これらを「保」、確保・安定させることは大事であるが、それを指導者が包括的に指示することになんの意味があるのだろう。
何処をどう動かせばどうなる、という構造を把握して、全体として齟齬をきたさないように運営するのが為政者の責任である。それを大声で国民に刷り込んでみてもどうなるものでもない。
とにかく習近平の政治は自分がこうあって欲しいということをスローガンにして叫ぶだけである。号令をかければ、国民はそれを実行し、実現するべきで、できなければ、できないほうが悪い。正しい指示を出しているのだから、という頭の持ち主なのであろう。
今、中國経済は様々な難問に直面している。中でも世界が注目するのは、とてつもない規模の不動産業の大不況である。
ひと頃は我が世の春を謳った、かつての業界トップの「恒大産業」に続いて、第二位の「碧桂園」もデフォルトに陥った。今、中国の地には建設途中でストップしたマンションが林立し、購入したのに建設が中断して、入居の目途が絶たない人たち、不動産会社の債券が紙くずになろうとしている人たち、工事代金を払ってもらえない建設業者たちが、不安の中に日を送っている。
これに対して習近平自身はもとより政策担当者からも事態収拾に懸命の努力をしているような気配は感じられない。やたらに指示を発するのが好みの習近平もこと不動産に関しては、数年前、今とは逆に買い手が多く、ブームに湧いていた頃、「住居は住むためのもので、転がして金儲けをするためのものではない」と加熱を抑える指示を出したことがあったが、深刻な不況に見舞われている今はだんまりを決め込んでいる。手の打ちようがないのであろう。
もしまだ李克強が存命で執行部にいたとしても、事ここに至っては、彼にも妙手があるとは思えないが、習近平の顔色を見るしか能のない側近集団だけでは、不動産業界は落ちるところまで落ちるかもしれない。反右派闘争、大躍進、文革、89年の天安門事件・・、中國では政治が大きな社会的不幸を生んできたが、その歴史にまた新しい頁が加わるかもしれない。(231028)
田畑光永 (ジャーナリスト)
中国の李克強前首相が10月27日に亡くなった。68歳であった。惜しい、と思う。と言っても、もとよりその人となりに直接触れたことがあるわけではない。伝えられるニュースを見聞して、もっと活躍してほしいと思っていたからである。
3年前の20年5月、全国人民代表大会終了後の恒例の首相記者会見で、時の李克強首相は質問に答えて、中国人一般の生活レベルに触れ、「人口の半分、6億人がまだ月1000元(当時のレートで1万5~6、000円)以下で暮らしている。これでは中位の都市で部屋を借りるのさえ難しい」と語った。
万事順調、習主席万歳!、で大会を締めくくって欲しかった習近平総書記にとってはさぞ不快な発言であったろう。この後、ひとしきりこの李克強発言は事実か否かが話題になった。たしか「間違いだ」ということにはならなかったはずだ。
死去の報道で「リコノミクス」という言葉がよく使われた。「李克強経済学」という意味だが、この言葉は本来、首相としての氏の経済政策を意味するものではなく、発端は氏が遼寧省の書記(トップ)当時、米誌のインタビューに答えて、「私は発表される経済についての統計数字はあまり見ない。それより貨物輸送量、電力消費量、銀行融資残高を見れば、経済の状況は分かる」といったことがその語源である。
当時も思い切った発言として注目されたが、経済の動きを構造的にとらえ、その自律的動きを理解しているからこそ、言える言葉である。それが新鮮でリコノミクスという言葉が生まれたと理解している。
と言っても、中国の指導者たち誰も経済を構造的に捉えないという意味ではない。革命以来の指導者、毛沢東も鄧小平もそれぞれ自らの論理の中で構造的に経済をとらえてはいたと思う。
例えば毛沢東の有名な言葉に「階級闘争が要(カナメ)である」というのがある。これは階級闘争さえやっていればよい、という意味ではない。階級社会では階級闘争を通じて搾取、被搾取の構造を理解、納得してこそ労働者階級は革命に立ち上がる。社会主義社会でも搾取階級の残りかすを暴き、なくしてこそ、民衆の労働意欲は高まると毛沢東は考えたのである。
1950年代、東欧で続発する反スターリン暴動を見て、毛沢東が国内で反右派闘争や大躍進という政治運動を繰り広げたのは、別に闘争のための闘争ではなく、それをしなければ労働者や農民の生産意欲をかきたてられないと考えたからだと私は理解している。
50年代の反右派闘争、大躍進運動などが失敗に終わっても、毛沢東は60年代に再び文化大革命を発動し、「資本主義の道を歩む実権派」の打倒を呼びかけた。66年8月の中国共産党8期11中全会という会議が採択した「プロレタリア文化大革命に関する決議」(いわゆる「16条決議」)が文革開始ののろしとされているが、その第14条にはこうある。
「革命に力を入れ、生産を促すこと。文革はわが国の社会的生産力を発展させる強大な推進力である。文革を生産の発展と対立させるような考え方は正しくない」
毛沢東はまた、文革が成功したか否かを決めるのは「生産が上がったか否かである」とも言っている。毛の闘争はたんに闘争のための闘争ではなかった。それが結果として失敗に終わり、大きな悲劇を生んだことは毛沢東の責任であるが、彼とてやみくもに社会を混乱させたわけではなく、国民の生産へのエネルギーを引き出すための革命であったのである。
1970年代末、毛沢東の次にリーダーの旗を握ったのは鄧小平である。鄧は毛の「階級闘争が要である」に代えて、「発展こそ道理の中の道理である」(原文は「発展こそ硬い道理」)いう一句を掲げた。「世の中に道理はさまざまあろうが、経済を発展させなければ何事も始まらない」という意味である。そこから「白い猫でも黒い猫でも、ネズミをとるのがよい猫だ」という有名なスローガンが出てくる。そして中国は改革・開放路線へ進み、今日に至っている。
毛沢東と違って鄧小平は、人間はだれしも「豊かになりたい」という欲を持っており、国民の手足を縛ってちいさな金儲けまで禁ずるのは間違いである、それは理屈にあわないと割り切る。その結果、小さな商売が生まれ、社会には「万元戸」(この言葉、ご記憶だろうか。1万元貯めた家という意味)が群生した。
一方、「革命で尻尾を巻いて出て行った外国帝国主義が、今度は札で膨らんだ鞄を抱えて戻ってきた」という庶民の皮肉をよそに、鄧小平は外国資本に割安の土地と労働力を提供して、国土に大々的に生産活動を移植した。この積極的な外資導入策の効果は覿面(てきめん)で、2010年にはGDP総額で日本を抜いて、中國は世界第2の経済大国にまで登り詰めた。
さて、そこで現在である。明らかに「割安の土地と労働力」がものを言った時代は過ぎた。2010年代半ばごろには、なにもしなくてもある程度の経済成長は続くという時代は終わった。ここからは問題の所在を突き止め、惰性に流されるのでなく、時宜に即した経済運営を適宜適切に進めなければならなくなったのだが、その先頭にたつ習近平にはまったくその能力がない。
見るところ習近平には物事を構造的にとらえる能力が欠如している。したがって、彼の発する指示は自分の望むところを羅列するだけで、それをいかに実現するかには彼の頭脳はまったく働かない。それが分かるのは、望む結果をいくつも並列するだけの指示がすこぶる多いからである。2つのナントカから始まって、3つの、4つの、5つの、6つのくらいまでの多数の指示は、ああせよ、こうせよと望む結果を並べるだけである。
「2つから」例を挙げると、まずもっとも頻出する標語に「両個確立」、「両個維護」というのがある。「2つの確立」は「習近平同志の党中央の核心、全党の核心の地位を確立し、習近平新時代の中国の特色のある社会主義思想を確立する」であり、次の「2つの擁護」は「断固として習近平総書記が党中央の核心、全党の核心であることを擁護し、断固として党中央の権威とその集中的、統一的指導を擁護する」である。要するに習近平を指導者として盛り立てようというだけのことをこれだけくどい言葉遣いで強要しているスローガンである。
次に国民に向かって「持て」と呼びかける「4つの意識」と「4つの自信」を見よう。まず持つべき「4つの意識」とは「政治意識、大局意識、核心意識、看斎意識」である。常に政治や大局を意識せよというのだが、最後の「看斎意識」とは「多数に協調せよ」という意味で、直訳すると「右へ倣(なら)え意識」である。「オレはみんなと違う」というのは許されないのである。
国民が持つべき「4つの自信」は「道路自信」、「理論自信」、「制度自信」、「文化自信」である。要するに国のやっていることには間違いはないのだから自信を持て。路線や制度に疑問を持つなということである。
それでは肝心の経済について習近平は国民にどんな指示を出しているか。これは6つづつ2つの範疇に分かれている「6穏」と「6保」と呼ばれている。
まず「6穏」。「つぎの6項目を安定させよ」という。「就業・金融・外資・外貿・投資・予期」の6項目である。これらが安定することは結構であろう。しかし、これを国民に向かって呼びかけてどうなるというのだろう。それぞれをいかに安定させるかはそれこそ習近平ら当局者が頭を絞って考えることで、国民にどうしろというのか。金融や投資が不安定になったからといって、国民にどうしろと言うのであろう。中でも不可思議なのは最後の「予期」である。ここではおそらく「予測」の意味であろうが、予測は過去の実績の上に冷静、客観的に立てなければならないもののはずだ。それを「安定させよ」とはどういうことであろう。まるで意味不明である。
もう1つ「6保」。これは以下の「6項目を確保せよ」ということである。「居民就業・基本民生、市場主体、糧食・エネルギーの安全、生産チェーン、サプライチェーン、基本的流通」である。
いずれも国民経済の基本であるから、これらを「保」、確保・安定させることは大事であるが、それを指導者が包括的に指示することになんの意味があるのだろう。
何処をどう動かせばどうなる、という構造を把握して、全体として齟齬をきたさないように運営するのが為政者の責任である。それを大声で国民に刷り込んでみてもどうなるものでもない。
とにかく習近平の政治は自分がこうあって欲しいということをスローガンにして叫ぶだけである。号令をかければ、国民はそれを実行し、実現するべきで、できなければ、できないほうが悪い。正しい指示を出しているのだから、という頭の持ち主なのであろう。
今、中國経済は様々な難問に直面している。中でも世界が注目するのは、とてつもない規模の不動産業の大不況である。
ひと頃は我が世の春を謳った、かつての業界トップの「恒大産業」に続いて、第二位の「碧桂園」もデフォルトに陥った。今、中国の地には建設途中でストップしたマンションが林立し、購入したのに建設が中断して、入居の目途が絶たない人たち、不動産会社の債券が紙くずになろうとしている人たち、工事代金を払ってもらえない建設業者たちが、不安の中に日を送っている。
これに対して習近平自身はもとより政策担当者からも事態収拾に懸命の努力をしているような気配は感じられない。やたらに指示を発するのが好みの習近平もこと不動産に関しては、数年前、今とは逆に買い手が多く、ブームに湧いていた頃、「住居は住むためのもので、転がして金儲けをするためのものではない」と加熱を抑える指示を出したことがあったが、深刻な不況に見舞われている今はだんまりを決め込んでいる。手の打ちようがないのであろう。
もしまだ李克強が存命で執行部にいたとしても、事ここに至っては、彼にも妙手があるとは思えないが、習近平の顔色を見るしか能のない側近集団だけでは、不動産業界は落ちるところまで落ちるかもしれない。反右派闘争、大躍進、文革、89年の天安門事件・・、中國では政治が大きな社会的不幸を生んできたが、その歴史にまた新しい頁が加わるかもしれない。(231028)
2023.10.26
中国、李国防相の解任ようやく公表
― 習一強体制になにが起きているのか
去る8月29日、北京での国際会議で発言して以来、ぱたっと姿を消し、国内メディアにも名前が登場しなくなってほぼ2か月、世界中が注目していた中国の李尚福国防相について、24日、習近平国家主席が「国防相と国務委員(副首相格)を解任する」主席令に署名したことが全国人民代表大会常務委員会から公表された。また同時に7月に外相職を解任された秦剛氏に関しても、これまで報道がなかった同氏の国務委員職についてあらためて「解任」が明らかにされた。
この奇妙な経緯をどう見るか。たとえば「習一強人事のほころび」(時事通信)とかたづけるのは簡単だが、「ほころび」程度なら、「いや、実は・・」と事態を説明するのは簡単だろうし、世界中が注目している中で2か月も3か月も「だんまり」を続けて、わざわざ疑問を膨らませる必要はなかったはずだ。
では、何があったのか、となると、両氏の解任の理由については、事ここに至っても、中国のメディアはなにも伝えていない。政権としてはおそらくそれを言いたくないから、解任そのものの発表がなかなかできなかったとも考えられる。
この間、外部では当然のことながら、解任理由についてさまざまな憶測が飛び交った。秦剛氏については、外国籍の女性ニュース・キャスターとの不倫、あるいは本人が米国のスパイであったのでは、といった推測が流れ、李尚福氏については、2017年9月から軍の「装備発展部長」をつとめていた間に資材の調達を巡って不正を働いたのではないかとの疑惑が指摘されている。
いずれもありそうなことと思えるが、われわれにはその真偽を判断する材料はない。ただこれらの推測のどれかが当たっているとして、それでこの間の事態についての疑問が解消されるわけではない。
疑問というのはほかでもない。とくに李氏の場合、姿を消してから2か月もそのことについて政府は一言も触れず、秦氏についても「外相罷免は分かったが、国務委員は?」という当然の疑問が即座に提起されたのに、それへの答えが3か月もかかったことになる。よそごとながら、どういうこと?である。
外相、国防相というのは一国の外向きの仕事を処理する外向きの顔である。その顔が引っ込んで長期間なんの説明もなかったのは異常である。引っ込んだ理由以上に、そちらのほうが関心を呼ぶ。
現在の中国の政権は「習近平一強体制」と言われる。確かに党の最高指導部である中央政治局常務委員会のメンバー7人は全員が習派(序列4位の王沪寧は江沢民によって常務委に取り立てられた人物だが、習時代でもすでに2期10年、常務委に留まっているので、習派に数える)であるし、常務委7人をふくむ24人の政治局員でも過半数が習派である。胡錦涛(元総書記)、李克強(前首相)を輩出し、中央指導部の人材養成機関と見られた共産主義青年団系は現在、政治局からいなくなった。
強力な反対派というのは、今の中国の政治世界には存在しない。共産党自身が共産党独裁を標榜し、政治世界の要所は習派が抑えている。そして人事というものは多くの場合、最高指導者の意向がほぼすべてを決定すると言っていい世界だ。
秦剛も李尚福も外相、国防相への起用を決めたのは習近平のはずだ。罷免も同様のはずだ。それでいて発表が遅れ、理由は沈黙、という事態が何を意味するか、そこが問題ではないだろうか。
しかし、そこから先のことは残念ながら私にはわからない。2人の罷免の最終決定は習自身によって行われ、それにはだれも異論は差し挟めなかったであろうが、可能性としてはそこから先で内部が割れたのではないか。私の推測は以下のような展開だ。
まず発表の仕方で、罷免と言ってしまうか、復活の可能性を残して病気といった理由にするかで対立が生じ得る。また、本人に同情したり、あるいは2人の罷免に続いて、さらに追及範囲が拡大するのを恐れる、脛傷(スネキズ)の人間たちが、発表時期や理由を言うか言わないかで、注文をつけることも考えられる。
こういう事態は最高指導部に反対派が存在する場合はなかなか表立っては話ができない。そこで少数の指導的立場の人間がひそひそ話で決めるということになりがちだが、自派の人間だけしかいない場では、たとえば李尚福が装備発展部長時代に装備の調達で不正を働き、それを知っていたり、そのおこぼれに与かったりした人間がいれば、罪状の公表には強く反対するだろう。
そうこうするうちに、形式的に処分を発表する立場にある全国人民代表大会常務委員会からは、いつまでも黙ってはいられないと、再三の催促がくる。そんなこんなで、とにかく「罷免だけ発表して、あとはだんまりでいこう」という戦術が決まる。24日の発表はこんな状況で決まったのではあるまいか、というのが私の推理である。
もとより当たっているかどうかは分からない。しかし、こんなことを胸に今後の事態を注目しようと思っている。「満れば欠くるは世のならい」というように、このところ習近平政権の動きはどこかギクシャクしている。一強体制とはかくも不便なものか、という習近平のボヤキが聞こえてくるような気がするのだが、それは私の空耳か。(231025)
田畑光永 (ジャーナリスト)
去る8月29日、北京での国際会議で発言して以来、ぱたっと姿を消し、国内メディアにも名前が登場しなくなってほぼ2か月、世界中が注目していた中国の李尚福国防相について、24日、習近平国家主席が「国防相と国務委員(副首相格)を解任する」主席令に署名したことが全国人民代表大会常務委員会から公表された。また同時に7月に外相職を解任された秦剛氏に関しても、これまで報道がなかった同氏の国務委員職についてあらためて「解任」が明らかにされた。
この奇妙な経緯をどう見るか。たとえば「習一強人事のほころび」(時事通信)とかたづけるのは簡単だが、「ほころび」程度なら、「いや、実は・・」と事態を説明するのは簡単だろうし、世界中が注目している中で2か月も3か月も「だんまり」を続けて、わざわざ疑問を膨らませる必要はなかったはずだ。
では、何があったのか、となると、両氏の解任の理由については、事ここに至っても、中国のメディアはなにも伝えていない。政権としてはおそらくそれを言いたくないから、解任そのものの発表がなかなかできなかったとも考えられる。
この間、外部では当然のことながら、解任理由についてさまざまな憶測が飛び交った。秦剛氏については、外国籍の女性ニュース・キャスターとの不倫、あるいは本人が米国のスパイであったのでは、といった推測が流れ、李尚福氏については、2017年9月から軍の「装備発展部長」をつとめていた間に資材の調達を巡って不正を働いたのではないかとの疑惑が指摘されている。
いずれもありそうなことと思えるが、われわれにはその真偽を判断する材料はない。ただこれらの推測のどれかが当たっているとして、それでこの間の事態についての疑問が解消されるわけではない。
疑問というのはほかでもない。とくに李氏の場合、姿を消してから2か月もそのことについて政府は一言も触れず、秦氏についても「外相罷免は分かったが、国務委員は?」という当然の疑問が即座に提起されたのに、それへの答えが3か月もかかったことになる。よそごとながら、どういうこと?である。
外相、国防相というのは一国の外向きの仕事を処理する外向きの顔である。その顔が引っ込んで長期間なんの説明もなかったのは異常である。引っ込んだ理由以上に、そちらのほうが関心を呼ぶ。
現在の中国の政権は「習近平一強体制」と言われる。確かに党の最高指導部である中央政治局常務委員会のメンバー7人は全員が習派(序列4位の王沪寧は江沢民によって常務委に取り立てられた人物だが、習時代でもすでに2期10年、常務委に留まっているので、習派に数える)であるし、常務委7人をふくむ24人の政治局員でも過半数が習派である。胡錦涛(元総書記)、李克強(前首相)を輩出し、中央指導部の人材養成機関と見られた共産主義青年団系は現在、政治局からいなくなった。
強力な反対派というのは、今の中国の政治世界には存在しない。共産党自身が共産党独裁を標榜し、政治世界の要所は習派が抑えている。そして人事というものは多くの場合、最高指導者の意向がほぼすべてを決定すると言っていい世界だ。
秦剛も李尚福も外相、国防相への起用を決めたのは習近平のはずだ。罷免も同様のはずだ。それでいて発表が遅れ、理由は沈黙、という事態が何を意味するか、そこが問題ではないだろうか。
しかし、そこから先のことは残念ながら私にはわからない。2人の罷免の最終決定は習自身によって行われ、それにはだれも異論は差し挟めなかったであろうが、可能性としてはそこから先で内部が割れたのではないか。私の推測は以下のような展開だ。
まず発表の仕方で、罷免と言ってしまうか、復活の可能性を残して病気といった理由にするかで対立が生じ得る。また、本人に同情したり、あるいは2人の罷免に続いて、さらに追及範囲が拡大するのを恐れる、脛傷(スネキズ)の人間たちが、発表時期や理由を言うか言わないかで、注文をつけることも考えられる。
こういう事態は最高指導部に反対派が存在する場合はなかなか表立っては話ができない。そこで少数の指導的立場の人間がひそひそ話で決めるということになりがちだが、自派の人間だけしかいない場では、たとえば李尚福が装備発展部長時代に装備の調達で不正を働き、それを知っていたり、そのおこぼれに与かったりした人間がいれば、罪状の公表には強く反対するだろう。
そうこうするうちに、形式的に処分を発表する立場にある全国人民代表大会常務委員会からは、いつまでも黙ってはいられないと、再三の催促がくる。そんなこんなで、とにかく「罷免だけ発表して、あとはだんまりでいこう」という戦術が決まる。24日の発表はこんな状況で決まったのではあるまいか、というのが私の推理である。
もとより当たっているかどうかは分からない。しかし、こんなことを胸に今後の事態を注目しようと思っている。「満れば欠くるは世のならい」というように、このところ習近平政権の動きはどこかギクシャクしている。一強体制とはかくも不便なものか、という習近平のボヤキが聞こえてくるような気がするのだが、それは私の空耳か。(231025)
2023.10.12
チリ・クーデタから50年
アジェンデは「民主的な社会主義」を目指していた(下)
≪アジェンデとカストロの厚い信頼と親交≫
チリでのクーデタの日、モネーダに空と地上から弾丸が降り注ぐ中、アジェンデの娘、ベアトリスとイサベルは「私たちもここに止まります」と訴えたが、父親は「今日、ここで何が起きたのか、人民連連合政権中に何があったのかをフィデルに伝える義務がある」と諭し、裏口から送り出した。アジェンデとカストロは厚い信頼関係で結ばれていたのである。
アジェンデが初めてカストロに出会ったのは、1959年1月、革命が成功し、カストロがハバナに入城した直後である。ベネズエラの大統領就任式に出席したあとハバナに立ち寄った。ポケットには数ドルしかなかった。人民社会党(旧共産党)のカルロス・ラファエル・ロドリゲスと出逢い、「マイアミの市長がパレードの車に乗っている。革命といえるものなのか。帰るよ」と言うと、「とんでもない。指導者に会ったら」と説得された。
午後に電話があり、迎えの車でカバーニャの要塞に向かった。ゲバラが喘息の発作で話ができなくなると、不意にフィデルが現れた。二人はアジェンデの政治家としての活動について良く知っていた。アジェンデは、革命理念のすばらしさ、モラルの高さ、国民との自然な交わりなどに感銘を受け、キューバ革命にラテンアメリカ諸国の将来の姿を重ね合わせた。カストロも初めて会ったその日から、アジェンデの誠実さや指導者としての優れた資質を見抜いていた。
≪定説の見直し—「武装闘争主義者カストロ」≫
世界に広がる「定説」からは想像し難いが、カストロは「社会主義へのチリの道」を高く評価していた。チリ革命や、とくにキューバについては、今では多くの資料が出され、様々な「定説」が見直しを迫られている。「武装闘争主義者カストロ」もその一つである。
1967年にはハバナで「ラテンアメリカ連帯大会」が開かれている。「ゲリラの大会」と言われたが、このときに採択された宣言では、基本路線は武装革命と謳われてはいたものの、平和的な道も可能とされていた。大会にはアジェンデも参加しており、常設機関のラテンアメリカ連帯機構の設置を提案し、認められている。
カストロは1971年末に3週間にわたりチリを訪問している。北から南まで、一日に何度も演説し、声が出なくなるほどであった。
いわゆる「急進派」との会合も行われた。アジェンデの漸進的移行政策を批判し、一挙に社会主義化を進めるべきだとして土地や工場の占拠を続けていた勢力であり、カストロの訪問に大きな期待を寄せていた。これに対し、カストロは「チリ革命はアジェンデの革命である。アジェンデ無くしてナッシングだ。外国人の自分にはチリについては判断できないが、キューバの経験から言うならば、体制転換は長い年月がかかる漸進的な過程である。米国は何をするかわからない。アジェンデのもとで統一していくことが不可欠だ」と諭した。だが、その後も土地占拠や工場占拠は続いた。
≪キューバの新しい社会主義≫
「キューバ革命は社会主義革命である」とカストロが宣言したのは反革命軍の上陸前夜の1961年4月16日、米国の空爆のために死亡した市民の葬儀の席上であった。
直後のメーデーでカストロは「識字教育と農地改革こそが社会主義なのだ」と語っている。
革命前には文字を読めない国民が多数を占め、米国の砂糖会社が農地の70%以上を支配していた。革命成功後、多くの若者が識字教育のため農村に向かったが、暗殺された。農業改革法が制定されるや、米国の本格的な干渉が始まった。マッカーシズムの影響で反共主義が強かったキューバだが、当たり前の政策を実施しただけで、なぜ米国は武力侵攻までするのか—多くの国民はいわば自然な形で社会主義を受け入れた。「初めにマルクス・レーニン主義ありき」ではなかったのだ。
社会主義宣言のあとも参加民主主義、平等主義体制、第3世界主義など、ソ連の体制とは一線を画す政策がとられてきたことはよく知られている。
平等主義体制は、経済発展という点でも、また人間の多様性という点から、すでに1980年代には限界が指摘されていたが、米国の封じ込め政策のために経済低迷が続き、国民の生活を守らなければならず、転換できなかった。口火を切ったのはカストロである。2005年11月、ハバナ大学の学生を前に、「平等主義はもはや維持できない。革命は自壊する。時代が異なるマルクスやレーニンの理論をそのまま当てはめることはできない。21世紀に相応しい社会主義とはいかなるものか。若い諸君は知の限りを尽くして考えてほしい」と訴えた。これを機に地域組織や職場や学校などで議論が繰り広げられ、2011年の第6回党大会で「新しい社会主義」への転換が決まった。
こうして国有部門は縮小され、中小の民間部門や協同組合などが拡大された。教育と医療を除き社会サービスも有料となり、所得税も導入された。所得格差の存在を前提とした社会である。
2019年に制定された新憲法では「キューバは社会主義国家である」と規定されている。ところが、「社会主義国家」のあとには長い形容詞がつけられ、「民主的で、主権を有する、法治主義と、社会正義の社会主義国である」となっている。ここからもキューバの人々が社会主義という言葉にどのような意味を込めているかが見えてくる。
市場原理が働くもとで、しかも多様化する国民を前に、いかにして「すべての国民の解放」という革命の基本理念を維持するか。キューバの前には難しい課題が立ちはだかっている。
***
今日、国際メディア網が世界を覆い、ステレオタイプなものの見方が浸透している。ウルグアイ問題についても、グローバル・サウス諸国がロシアの侵攻を非難しないのはロシアや中国との経済関係のためとされているが、未だに軍政のトラウマに苛まれ続けるチリの国民が、欧米諸国と声を合わせてロシアを非難することができるのかどうか。キューバも同様である。「制裁」の名のもとに、60年以上にわたり米国の経済封鎖や武力干渉やテロ活動など、戦争状態に置かれている。
通説や常識にとらわれことなく、少し目を転じれば異なる世界がみえてくる。
後藤政子(神奈川大学名誉教授)
≪アジェンデとカストロの厚い信頼と親交≫
チリでのクーデタの日、モネーダに空と地上から弾丸が降り注ぐ中、アジェンデの娘、ベアトリスとイサベルは「私たちもここに止まります」と訴えたが、父親は「今日、ここで何が起きたのか、人民連連合政権中に何があったのかをフィデルに伝える義務がある」と諭し、裏口から送り出した。アジェンデとカストロは厚い信頼関係で結ばれていたのである。
アジェンデが初めてカストロに出会ったのは、1959年1月、革命が成功し、カストロがハバナに入城した直後である。ベネズエラの大統領就任式に出席したあとハバナに立ち寄った。ポケットには数ドルしかなかった。人民社会党(旧共産党)のカルロス・ラファエル・ロドリゲスと出逢い、「マイアミの市長がパレードの車に乗っている。革命といえるものなのか。帰るよ」と言うと、「とんでもない。指導者に会ったら」と説得された。
午後に電話があり、迎えの車でカバーニャの要塞に向かった。ゲバラが喘息の発作で話ができなくなると、不意にフィデルが現れた。二人はアジェンデの政治家としての活動について良く知っていた。アジェンデは、革命理念のすばらしさ、モラルの高さ、国民との自然な交わりなどに感銘を受け、キューバ革命にラテンアメリカ諸国の将来の姿を重ね合わせた。カストロも初めて会ったその日から、アジェンデの誠実さや指導者としての優れた資質を見抜いていた。
≪定説の見直し—「武装闘争主義者カストロ」≫
世界に広がる「定説」からは想像し難いが、カストロは「社会主義へのチリの道」を高く評価していた。チリ革命や、とくにキューバについては、今では多くの資料が出され、様々な「定説」が見直しを迫られている。「武装闘争主義者カストロ」もその一つである。
1967年にはハバナで「ラテンアメリカ連帯大会」が開かれている。「ゲリラの大会」と言われたが、このときに採択された宣言では、基本路線は武装革命と謳われてはいたものの、平和的な道も可能とされていた。大会にはアジェンデも参加しており、常設機関のラテンアメリカ連帯機構の設置を提案し、認められている。
カストロは1971年末に3週間にわたりチリを訪問している。北から南まで、一日に何度も演説し、声が出なくなるほどであった。
いわゆる「急進派」との会合も行われた。アジェンデの漸進的移行政策を批判し、一挙に社会主義化を進めるべきだとして土地や工場の占拠を続けていた勢力であり、カストロの訪問に大きな期待を寄せていた。これに対し、カストロは「チリ革命はアジェンデの革命である。アジェンデ無くしてナッシングだ。外国人の自分にはチリについては判断できないが、キューバの経験から言うならば、体制転換は長い年月がかかる漸進的な過程である。米国は何をするかわからない。アジェンデのもとで統一していくことが不可欠だ」と諭した。だが、その後も土地占拠や工場占拠は続いた。
≪キューバの新しい社会主義≫
「キューバ革命は社会主義革命である」とカストロが宣言したのは反革命軍の上陸前夜の1961年4月16日、米国の空爆のために死亡した市民の葬儀の席上であった。
直後のメーデーでカストロは「識字教育と農地改革こそが社会主義なのだ」と語っている。
革命前には文字を読めない国民が多数を占め、米国の砂糖会社が農地の70%以上を支配していた。革命成功後、多くの若者が識字教育のため農村に向かったが、暗殺された。農業改革法が制定されるや、米国の本格的な干渉が始まった。マッカーシズムの影響で反共主義が強かったキューバだが、当たり前の政策を実施しただけで、なぜ米国は武力侵攻までするのか—多くの国民はいわば自然な形で社会主義を受け入れた。「初めにマルクス・レーニン主義ありき」ではなかったのだ。
社会主義宣言のあとも参加民主主義、平等主義体制、第3世界主義など、ソ連の体制とは一線を画す政策がとられてきたことはよく知られている。
平等主義体制は、経済発展という点でも、また人間の多様性という点から、すでに1980年代には限界が指摘されていたが、米国の封じ込め政策のために経済低迷が続き、国民の生活を守らなければならず、転換できなかった。口火を切ったのはカストロである。2005年11月、ハバナ大学の学生を前に、「平等主義はもはや維持できない。革命は自壊する。時代が異なるマルクスやレーニンの理論をそのまま当てはめることはできない。21世紀に相応しい社会主義とはいかなるものか。若い諸君は知の限りを尽くして考えてほしい」と訴えた。これを機に地域組織や職場や学校などで議論が繰り広げられ、2011年の第6回党大会で「新しい社会主義」への転換が決まった。
こうして国有部門は縮小され、中小の民間部門や協同組合などが拡大された。教育と医療を除き社会サービスも有料となり、所得税も導入された。所得格差の存在を前提とした社会である。
2019年に制定された新憲法では「キューバは社会主義国家である」と規定されている。ところが、「社会主義国家」のあとには長い形容詞がつけられ、「民主的で、主権を有する、法治主義と、社会正義の社会主義国である」となっている。ここからもキューバの人々が社会主義という言葉にどのような意味を込めているかが見えてくる。
市場原理が働くもとで、しかも多様化する国民を前に、いかにして「すべての国民の解放」という革命の基本理念を維持するか。キューバの前には難しい課題が立ちはだかっている。
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今日、国際メディア網が世界を覆い、ステレオタイプなものの見方が浸透している。ウルグアイ問題についても、グローバル・サウス諸国がロシアの侵攻を非難しないのはロシアや中国との経済関係のためとされているが、未だに軍政のトラウマに苛まれ続けるチリの国民が、欧米諸国と声を合わせてロシアを非難することができるのかどうか。キューバも同様である。「制裁」の名のもとに、60年以上にわたり米国の経済封鎖や武力干渉やテロ活動など、戦争状態に置かれている。
通説や常識にとらわれことなく、少し目を転じれば異なる世界がみえてくる。
2023.10.11
チリ・クーデタから50年
アジェンデは「民主的な社会主義」を目指していた(上)
チリ・クーデタ(1973年9月11日)から50年が経過した。
今年の9月11日には大統領府モネーダでボーリチ大統領の主宰で式典が行われた。
(因みに日本ではボリッチと表記されているが、現地ではボーリチと呼ばれている。出身地のチリ南部に多い東欧系の姓である)。
ボーリチは1986年生まれの37歳。アジェンデ大統領時代は言うまでもなく、軍政時代についてもほとんど記憶にないであろう世代である。そんな若者が、真摯な、また悲壮ともいえる面持ちで、人間にとって、また社会変革においても、いかに民主主義が重要であるかを訴えた演説は圧巻であった。アジェンデの三女で作家のイサベルも、民主主義や社会正義への信念を貫いた父親の思い出を威風堂々と語った。
アジェンデ政権は「世界で初めて選挙によって成立した政権」と言われている。しかし、それだけではなく、アジェンデは「民主的な社会主義社会」の建設を訴えていた。
≪民・軍クーデタ≫
チリでは1973年のクーデタは「民・軍クーデタ」(el golpe cívico-militar)と呼ばれている。米国や軍部だけではなく、中道派のキリスト教民主党も含め、反政府勢力が一体となって実行したものであった。
72年後半には反政府勢力が本格的な攻勢に乗り出し、トラック業者や民間企業のストライキなどが続き経済は悪化した。翌年3月の総選挙で人民連合が1議席でも減らせば合法的に政権を打倒できると反政府派は期待したが、逆に選挙では与党が議席を伸ばした。「社会主義化は不可避である。クーデタ以外に道はない」と考えたのである。
9月11日、クーデタが始まり、大統領府が爆撃された。アジェンデは側近とともに抵抗を続けたが、背中に銃弾を受けて負傷し、全員を退避させたあと、自らの銃で自殺した。街ではナチスをも凌ぐとも言われる虐殺が繰り広げられ、国立スタジアムは巨大な強制収容所と化した。16年半にわたる軍政下で殺害され、あるいは行方不明になった市民はおよそ3万人。
これほどおぞましい弾圧が繰り広げられたのは、社会主義化を阻止するには、制度だけではなく、そうした思想をもつ人間をも抹殺する必要があると考えたためである。実際、軍政下では焚書も行われている。
1975年にはシカゴ大学のフリードマンがチリを訪れ、カトリック大学などのシカゴボーイズが入閣し、新自由主義体制が導入された。まさにナオミ・クラインが指摘する「ショック・ドクトリン」であった。
≪エンパナーダと赤ワインの味がする社会主義≫
70年11月の大統領就任式の翌日、アジェンデは国立スタジアムで国民を前に、「選挙で成立した政権として、社会主義への移行は法治主義に基づき長い年月をかけて漸進的に進め、民主的な社会主義社会を建設する」と訴えた。これは「社会主義へのチリの道」(La vía chilena al socialismo)、「エンパナーダ(チリの人々が好んで食べる、ひき肉などの具材を薄い皮で包んでオーブンで焼いたスナック)と赤ワインの味がする社会主義」と呼ばれている。
チリ風の社会主義は、少数者ではなく、多数を占める働く人々や貧しい人々のための社会であり、虐げられ人々の平等、経済的文化的な生活の充足、国有部門と民間部門との共存による自立的な経済発展を目指す。
ここから彷彿とされるのは、今日、ラテンアメリカに広がる「21世紀の社会主義」である。新自由主義も、既成の社会主義も否定し、中央集権的経済運営体制を排し、疎外された人々の復権、代表民主主義と参加民主主義の結合などを掲げたものであり、ベネズエラなどの社会主義政権だけではなく、ブラジルのルーラ政権やメキシコのロペス・オブラドール政権など、いわゆる中道左派政権の政策理念とも相通じる。
しかし、当時、アジェンデのこの理念を理解していたのは少数の側近などに限られていた。チリ革命が悲劇に終わった一因もそこにある。人民連合の主要政党である社会、共産両党がこの理念を受容するのは軍政末期の1980年代以降のことである。
後藤政子(神奈川大学名誉教授)
チリ・クーデタ(1973年9月11日)から50年が経過した。
今年の9月11日には大統領府モネーダでボーリチ大統領の主宰で式典が行われた。
(因みに日本ではボリッチと表記されているが、現地ではボーリチと呼ばれている。出身地のチリ南部に多い東欧系の姓である)。
ボーリチは1986年生まれの37歳。アジェンデ大統領時代は言うまでもなく、軍政時代についてもほとんど記憶にないであろう世代である。そんな若者が、真摯な、また悲壮ともいえる面持ちで、人間にとって、また社会変革においても、いかに民主主義が重要であるかを訴えた演説は圧巻であった。アジェンデの三女で作家のイサベルも、民主主義や社会正義への信念を貫いた父親の思い出を威風堂々と語った。
アジェンデ政権は「世界で初めて選挙によって成立した政権」と言われている。しかし、それだけではなく、アジェンデは「民主的な社会主義社会」の建設を訴えていた。
≪民・軍クーデタ≫
チリでは1973年のクーデタは「民・軍クーデタ」(el golpe cívico-militar)と呼ばれている。米国や軍部だけではなく、中道派のキリスト教民主党も含め、反政府勢力が一体となって実行したものであった。
72年後半には反政府勢力が本格的な攻勢に乗り出し、トラック業者や民間企業のストライキなどが続き経済は悪化した。翌年3月の総選挙で人民連合が1議席でも減らせば合法的に政権を打倒できると反政府派は期待したが、逆に選挙では与党が議席を伸ばした。「社会主義化は不可避である。クーデタ以外に道はない」と考えたのである。
9月11日、クーデタが始まり、大統領府が爆撃された。アジェンデは側近とともに抵抗を続けたが、背中に銃弾を受けて負傷し、全員を退避させたあと、自らの銃で自殺した。街ではナチスをも凌ぐとも言われる虐殺が繰り広げられ、国立スタジアムは巨大な強制収容所と化した。16年半にわたる軍政下で殺害され、あるいは行方不明になった市民はおよそ3万人。
これほどおぞましい弾圧が繰り広げられたのは、社会主義化を阻止するには、制度だけではなく、そうした思想をもつ人間をも抹殺する必要があると考えたためである。実際、軍政下では焚書も行われている。
1975年にはシカゴ大学のフリードマンがチリを訪れ、カトリック大学などのシカゴボーイズが入閣し、新自由主義体制が導入された。まさにナオミ・クラインが指摘する「ショック・ドクトリン」であった。
≪エンパナーダと赤ワインの味がする社会主義≫
70年11月の大統領就任式の翌日、アジェンデは国立スタジアムで国民を前に、「選挙で成立した政権として、社会主義への移行は法治主義に基づき長い年月をかけて漸進的に進め、民主的な社会主義社会を建設する」と訴えた。これは「社会主義へのチリの道」(La vía chilena al socialismo)、「エンパナーダ(チリの人々が好んで食べる、ひき肉などの具材を薄い皮で包んでオーブンで焼いたスナック)と赤ワインの味がする社会主義」と呼ばれている。
チリ風の社会主義は、少数者ではなく、多数を占める働く人々や貧しい人々のための社会であり、虐げられ人々の平等、経済的文化的な生活の充足、国有部門と民間部門との共存による自立的な経済発展を目指す。
ここから彷彿とされるのは、今日、ラテンアメリカに広がる「21世紀の社会主義」である。新自由主義も、既成の社会主義も否定し、中央集権的経済運営体制を排し、疎外された人々の復権、代表民主主義と参加民主主義の結合などを掲げたものであり、ベネズエラなどの社会主義政権だけではなく、ブラジルのルーラ政権やメキシコのロペス・オブラドール政権など、いわゆる中道左派政権の政策理念とも相通じる。
しかし、当時、アジェンデのこの理念を理解していたのは少数の側近などに限られていた。チリ革命が悲劇に終わった一因もそこにある。人民連合の主要政党である社会、共産両党がこの理念を受容するのは軍政末期の1980年代以降のことである。
2023.10.10
砂にもどった中国人? ―論議を呼んだアジア大会でのバスケの敗北
田畑光永 (ジャーナリスト)
スポーツの秋、たけなわである。と言っても、当方、自分の四肢が不自由になるのに比例してスポーツのニュースは視界から遠ざかり、どこでどんな大会が開かれようと、ほとんど関心が向かないのだが、インターネットを徘徊していて、おもしろい記事にぶつかった。
中国の浙江省杭州で開催中のアジア大会で、去る4日、男子バスケット・ボールの準決勝、中国・フィリピン戦がおこなわれたのだが、この試合が物議をかもしているらしいのだ。
というのは、この試合、初めは中國チームが優勢で、一時は52対32と20点差までリードを広げたのだが、その後、第3クオーター終了時点では62対50と12点差まで詰め寄られ、最終第4クオーターの残り59秒となったところでは、76対74と2点差にまで追い上げられた。そして残り24秒の土壇場でフィリピンに3ポイント・シュートを決められ、そのまま中国の敗戦となった。
この結果に、メディアはこぞって中國チームのだらしなさを糾弾する文章をかかげ、同じくこのところ不振のサッカーと並べて、「中国の男子バスケはすっかり男子サッカーと化している。いずれもプロスポーツ改革の目玉だったのに、最終的に同じ道を歩んでいる」(『解放日報』)などと落胆の色を隠せない。
中で私がおやと目を引かれたのは、『南方都市報』という新聞の「驚いた。もしかしたら、われわれは団体のスポーツに本当に向いていないかも知れない」という一句である。
近代以来、中国が列強に侵略される歴史を歩み始めてから、中國人の国民性が内外で論じられたが、その中でとりわけ孫文の「4億の民がいるが、実際は一枚の皿に載った砂(「一盤散沙」)にすぎない」という言葉が有名である。これは中国人の個人主義的傾向を批判したものとされているが、共産党統治下では滅多に聞かれないことばである。
手軽に中国の検索サイト「百度」でこの言葉を引いてみると、「西暦1900年の義和団事変当時の写真を見ると、八カ国連合軍が北京城に攻め込む背後で、民衆は無心に手押し車で荷物を運んでいる。そこには自分の国が侵略されているといった受け止め方は感じられない。孫文はその情景を『皿の上の砂』と表現した」とあり、説明は「しかし、五四運動(1919年)がすべてを変えた。民族は目覚めた。そこから抗日戦争、解放戦争の勝利が生まれた」と続く。
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中國人の民族性については、さまざまな議論がある。中でも孫文のこの「一盤散沙」は有名だし、ほかにも「商の民」(商売がうまい)といった言い方もあるし、「中国人は何処まで行っても中国人」というのもある。中國人は住むところによって比較的気軽に外国の国籍を取得したりするが、それは自分の国籍を捨てるわけではなく、何国人になろうと自分は中國人であるという中心はびくともしないから、便宜上、他国籍を名乗ることに別に抵抗はないのだという説明がつく。
しかし、引用した「われわれは団体スポーツに本当に向いていないのかもしれない」という言葉は意味深長だ。「本当に」と言うからには、筆者はすくなくともそういう言葉を日常的に耳にしている、あるいはそれが常識として語られている、ということだろう。
そして、「団体スポーツ」に向いていない、という言葉の意味は、他人とあるいは複数の人間と、意思を一つにして行動することには不向きである、ということになる。
本当にそうなのであろうか?
なぜこんな言葉にこだわるかと言えば、そこのところが私にも本当にわからないからだ。毛沢東たちが新国家を建設してからだけを考えてみても、そうのようでもあれば、そうでないようでもある。
新国家発足は1949年だから、今年の10月で建国74年になる。その間、国民が文句を言わない(言えない)時期と必ずしもそうではない時期があった。
大躍進とか人民公社、あるいは文化大革命、さらには改革・開放など、上からの呼びかけに国民が脇目も振らずについて行った時期もあれば、その合間には壁新聞や街頭デモや新文学ブームなど、民衆が自らの望むことを大声で叫び合った時期もあった。
いったいどちらの中国人が本物の中国人なのか。いやどちらというのは間違いで、同じ中国人の2つの顔かも知れない。そう考えてもまだ分からないのは、1989年の6月4日、民主化を求める若者たちを軍隊が弾圧に出て、319人(公式発表)もの死者を出した6・4天安門事件以来、34年もの歳月が経過したのに、いっこうに「次」が来ないのはどうしたわけか。
昨年末、行き過ぎた「反コロナ禍」に抵抗する若者や市民の間に「白紙運動」なるものが始まった。A4版の白紙を掲げて集まるという運動だが、「スワ久しぶりの大衆運動か?」と色めきだったのは、どうやら外国のマスコミだけで、すぐにこの「運動」は消えてなくなった。
バスケット・ボールの敗戦ニュースから、話はあらぬ方へ飛んで着地点も見えなくなってしまったが、「もしかしたら、われわれは団体のスポーツに本当に向いていないかも知れない」という記者のつぶやきは、久しぶりに目にした中国人の自問自答である。
なんでもいい、中國人の自問自答をもっと聞かせてほしい。今、この世界で中国人は中国を、そして中国人自身をどう考えているのか、聞かせてほしい。(231007)