2018.11.17 中間選挙後のトランプ外交(3)
    
伊藤力司 (ジャーナリスト)


1979年2月、パリに亡命していたイスラム教シーア派のトップ指導者ホメイニ師の帰国で実現したイラン・イスラム革命。その結果、親米パーレビ国王の統治は瓦解し、国王は亡命した。革命で意気上がったテヘランの学生など若者たちは同年11月、米大使館を襲って占拠し、大使館員やその家族ら152人を人質にして大使館内に閉じ込めた。

時のカーター米政権は人質救出のための隠密作戦を試みたが、救出用のヘリコプターが事故を起こすなどして失敗。人質たちは444日もの幽閉生活を送らされた後の1981年1月末、レーガン大統領の就任を機に解放された。こうしたいきさつから一般アメリカ人は、イスラム教シーア派が支配するイランに反感を持ち、概してトランプ政権のイラン制裁を支持しているようだ。

だがイラン側から見ると図式は逆転する。第2次世界大戦後イランは英国の半占領状態に置かれ、イラン石油の輸出は英国の石油会社に独占された。だが1951年に樹立された民族派のモサデグ首相率いる新政府は、イラン石油の国有化に踏み切った。

怒った英国はペルシャ湾に海軍艦艇を動員して、イラン石油を買い付けようとする第3国の石油会社を封じ込めようとした。1953年3月、日本の出光石油のタンカー日章丸が英海軍の監視網をかいくぐってイランの港に入港、石油の買い付けに成功したことは当時の大ニュースだった。以来イラン国民はずっと親日的である。

しかしモサデグ政権は1953年8月、アメリカの諜報機関CIAが画策したパーレビ国王を担ぐクーデターによって打倒された。以来1979年のイスラム革命まで、イランではアメリカを「影の支配者」とするパーレビ体制が4半世紀にわたって続いた。こうして見ると、今日のアメリカとイランが相克し合う因縁は極めて深く重いことがわかる。

トランプ政権の中東政策の特徴は、歴代のどの米政権よりイスラエル支援が強いことだ。イスラエル建国から70年の国際常識に反してエルサレムをイスラエルの首都に認定し、アメリカ大使館をテルアビブからエルサレムに移転させた。世界中でアメリカ1国だけであり、世界中で嫌われ者のネタニヤフ首相のイスラエル政府を狂喜させた。

国の周辺に敵意を持つアラブ・イスラム国に取り囲まれたイスラエルの安全保障は厳しい。イスラエルは建国以来アラブ諸国と4次の中東戦争を戦い、その都度アラブ勢を打ち負かし、パレスチナ人の土地を侵食してきた。アメリカ・ブッシュ政権が起こしたイラク戦争でサダム・フセイン・イラク大統領が殺された結果、イスラエルを脅かすアラブの国はなくなった。

しかしイスラエルにとっての潜在的脅威は完全になくなったわけではない。2011年から続いたシリア内戦でアサド政権が生き残った結果、アサド政権を支援した隣国イランの影響力が高まった。シリア内戦には、イランの精強部隊である革命防衛隊とイランの影響下にあるレバノンのシーア派部隊ヒズボラがアサド政権支援に加わっていた。

7年半も続いたシリア内戦でアサド政権が生き残ったことは、アサド政権に肩入れしたロシアとイランの影響力が高まり、反政府側を支援した米英仏やサウジアラビア、カタール、トルコなどが威信を落としたことを意味する。中東でイランの影響力が高まったことは、イスラエルにとって新たな脅威である。トランプ政権にとって、イラン制裁を強化することはイラン嫌いの国内世論対策とイスラエル支援の「一石二鳥」の策というわけだ。
2018.11.16 中間選挙後のトランプ外交(2)
     
伊藤力司 (ジャーナリスト)


1946年3月、時の英国首相ウィンストン・チャーチルは訪米中の演説で「鉄のカーテンが引かれた」と述べて東西冷戦のスタートを予言したが、このペンス演説は本格的な米中冷戦の幕開けを告げることになるのだろうか。当面は米中両国とも、冷戦の火ぶたを切るのを回避する姿勢を見せている。両国の外相、国防相による「外交・安全保障会議が11月9日にワシントンで開かれたし、11月末日リオデジャネイロで開かれる主要20か国(G20)首脳会議の機会にトランプ大統領と習近平・中国国家主席の会談が予定されている。

ポンペオ米国務長官は9日の外交・安保会議後の記者会見で「中国との冷戦も封じ込め政策も追求していない」と述べ、中国の楊潔チ政治局員(前外相)は「両大国の健全で安定した関係が世界の利益となる」と応じ、双方が関係改善に前向きな姿勢を示した。この会談には米国のマティス国防長官、中国の魏鳳和国防相も参加したが、双方は首脳・閣僚レベルでの対話拡大が重要との認識で一致する一方で、対立する分野ではお互いに従来の主張を繰り返して平行線をたどった。

11月末リオデジャネイロでの米中首脳会談で、米中間の緊張緩和が図られるだろうか。これまでの双方の主張を見る限り、局面打開が図られるとは予想されない。トランプ大統領はこれまでに何回となく中国に大幅貿易不均衡の是正を要求、また中国に投資している米企業が特許や知的財産権を奪われたとの抗議を繰り返してきた。

しかし米中間の貿易不均衡は構造的に埋め込まれている。米企業は米国より人件費の安い中国に積極的に投資する。投資によって中国で製造された割安商品を米国が輸入するという構造である。中国が米国製の航空機を何百機輸入しても追いつかないほどの中国側の大幅黒字、米国側の大幅赤字が生まれる構造である。この構造を何とかしない限り米中間の貿易不均衡は治らないわけで、トランプ氏がいくら吠えても問題は解決しない。

しかしトランプ氏としては、中間選挙を前に米国民に向かってこれだけ中国の非を鳴らした以上、米中関係をこのまま放置するわけにもゆかない。しかし効果的な「打つ手」は見当たらない。米中戦争を引き起こすわけには行かない。米中冷戦が深化・激化することになるわけだ。

一方、トランプ政権が派手に打ち出したイラン制裁の行方は剣呑だ。アメリカでは一般に反イラン感情が強いので、イラン制裁は好意的に受け止められているようだ。その反イラン感情は今から30年近く前のイラン・イスラム革命と米大使館員人質事件に起因する。
2018.11.15 中間選挙後のトランプ外交(1)
米中冷戦本格化、イラン制裁で「一石二鳥」
中間選挙後のトランプ外交はさらに硬化
    
 
伊藤力司 (ジャーナリスト)


米中間選挙の結果、連邦下院では野党民主党が与党共和党を逆転して過半数を占め、上院ではこれまでの多数派共和党が議席を増やして優位を保つことになった。トランプ大統領は上院の結果を誇大に評価して「大勝利」と自賛したが、下院で共和党が少数派に転落したことはトランプ大統領の敗北というのが実態であろう。

下院は上院に先駆けて連邦予算を審議す仕組みになっているから、トランプ政権が望む予算を通すことは難しくなる。トランプ氏が年来叫んでいる、移民封じのためのメキシコ国境の壁づくりの予算を通すことは、ほぼ絶望的になった。トランプ大統領は中間選挙後初の記者会見で民主党に協力を呼びかけたが、来年1月3日に発足する新下院多数派の民主党が大統領の呼びかけに協力するとは考えられない。

しかしアメリカ政治の仕組みでは、外交はいわば行政府の専権事項であって、議会がホワイトハウスの個々の外交活動に介入することはない。したがって「アメリカ・ファースト」つまり「アメリカ・エゴイズム」丸出しのトランプ外交はこれまで通り、あるいはこれまで以上に強硬かつ独善的に展開されるだろう。

当面の焦点は、関税の引き上げ合戦で火を噴いた貿易戦争に象徴される米中冷戦の激化である。マイク・ペンス副大統領は去る10月4日、ワシントンのシンクタンク「ハドソン研究所」で90分にわたって講演し、「邪悪な中国共産党との対決」を米国民に呼びかけた。この講演は入念に準備された内容で、中国が対米浸透工作を通じて中間選挙に介入して政権転覆を図ったと非難するなど、トランプ政権の対中国「宣戦布告」との声も出たほどだ。

その主な内容は▼米国の2017年対中貿易の赤字は3750億ドルで全赤字の半分近くを占める▼「Made in China」2025」計画により、官民挙げて米国の知的財産を獲得し、ロボットやバイオテクノロジー、AIなど世界の先端産業の90%支配を目論む▼米国企業を買収することで先端的な武器の設計図などの技術を盗む▼陸海空、宇宙における米国の軍事的優位を脅かす。西太平洋から米国を追い出そうとする▼中国指導者は南シナ海を軍事基地化しないと述べたが、人工島に対艦・対空ミサイル基地を建設した▼米国は中国との良好な関係を望むが、中国は経済的な攻勢を緩めず、軍事力の強化につなげてきた-など。
2018.11.14 第二のふるさと訪問記
――八ヶ岳山麓から(269)――

阿部治平 (もと高校教師)

中国の西北、青海省の少数民族が多い大学での日本語教育から離れて満7年、日本への留学を支援した学生たちも順次日本で博士の学位を取得し、母国に帰って大学での教職に就くようになった。これを機に私は自分のもつ本や資料を彼らの研究機関に送りたいと考え、少し前にそれを実行に移した。
すると先方からその贈呈式をやりたいといってきたので、年齢も考えず出かけることにした。かつて私の生活の場だった大学の変化も見たかったが、慣れ親しんだ農村牧野へも行きたかったのである。その旅から数日前に帰国した。

大学は立派になった
大学の建物は増設され豪華になっていた。以前畑だった広大なキャンパスに、「なんとか楼」「かんとか研究センター」などのビルが建っている。広すぎてバイクか自転車で走り回らないと間に合わない。
教室が明るくなった。これがかつてのボロ校舎か、暗かったあの教室かと目を見張る思いだった。教師の研究室も豪勢になり、大学内のある文系研究所では、日本の小学校の教室の2倍くらいのところに教師が3人入っていた。難をいえば個室ではないことだ。教師の月給も倍増し、講師レベルで7000元(12万円):くらいになった。研究項目によっては支給される研究費もかなりあるようで、その分も収入と見れば彼らの研究にはゆとりが生れる。
今年大学に就職したものの中に車を持っているのが二人いた。「アウディ」である。「いまはトヨタとドイツ車の競争です」といった。どうやって買ったのかと疑うと、「大学が「安家費(就職支度金)」を出してくれたから」という。その金額たるや今年就職組は数十万元、私の年金の2倍近い。去年組はその半分。彼らは「今年就職すればよかった」と笑った。それであるものはマンションを確保し、あるものは乗用車を買ったのである。
国家には外国留学者の頭脳流出を防ぐという目的もあるだろうが、この大学では有能な人材確保のためである。中国は大衆教育の時代に入りつつある。学部が新設され大学が拡大し、教師不足になっているかもしれない。
「賃金が上がって建物が立派になっても内容が伴わないと」というと、チベット文化専攻の若い研究者から「私たちはネパールやブータンへ調査に行ってきました」という答が返ってきて驚いた。大学当局が彼らをヒマラヤを越えてネパールやブータンのチベット仏教圏に送ったのだ。宗派や寺院の分布など基礎的事項を調べたらしい。恐るべき変化である。
いままでチベット人がヒマラヤを越えるといえば、非合法の亡命しか考えられなかった。これは習近平国家主席の提唱する「一帯一路」政策と関連しているかもしれないが、ヒマラヤといわず仏教圏の文化人類学・民俗学研究は、まもなく予算の乏しい日本の研究水準を越えるだろう。
この大学はいわゆる「国家重点大学」ではない。だがどれもこれも国家と省政府から回る予算がけた外れに多くなったことを思わせる。確かに中国は確実に豊かになったのである。

田舎の寺院
このたびは、農牧地帯の寺院を5カ所ほど訪れた。そこには例外なく絢爛豪華というほかない伽藍が増築されていた。金色の屋根、きんきらきんのチョルテン(仏塔=ソトーバ)が寺域にみちている。屋根の上に20メートル近い金色の大きな仏像が載っているものもあった。こんなものが村人の力だけでできるものではない。
「誰が寄付したのかね」
「チベット人の金持、つまり冬虫夏草の取引で儲けたやつ。それに東部の漢族の成金が寄贈したんですよ」
「チベット人はともかく、漢人に信仰があるのかね」
「漢人の参拝者は増えています。信仰心があるかないかはわからないが、とにかく来世は極楽へという気持でしょう」

初期の大乗仏教運動は、既存の各派が権力者に接近し、富豪から政治的経済的支援を受けて広大な荘園を所有することを非難した。巨大な建造物を寄進するよりは、むしろ経典を筆写するのが純粋の信仰で、それを尊いとしたはずだ。
すでに観光地として売出した寺院では、地方当局の補助を受けて寺域を拡張したり新築したりしている。こうした寺を見ると、観光開発を名目に寺と地元権力者が結んでいると想像したくなる。
わたしは寺院を増築するよりは、病院や教育施設を作ったほうがよほど住民のためになるはずだといった。そうした声はあるが無力だということだった。それどころか、あちらの村の寺が豪勢になったと知れば、こちらも負けじともっと大きくてきれいな建物をつくろうとする。「寺院や郷村単位の面子競争です」という話だった。いまや僧侶の数が不足しているという。

寺院にたくさんの仏像とパンチェン・ラマ十世の肖像写真があるのは、10年前と同じだった。チベット仏教界では、パンチェン・ラマはダライ・ラマに次ぐ地位にある。パンチェン・ラマ十世はもともと中国共産党よりの人物だったが、中共の民族宗教政策に異をとなえ、61年嘆願書「七万言書」を提出して、毛沢東によって14年間監禁された人物である。文化大革命後名誉回復したが、1989年急逝した。
現在は中国政府が彼の後継者として認証した十一世が北京にいる。これに対しダライ・ラマ十四世が認証したパンチェン・ラマは、幼時に逮捕され行方不明である。いま寺院にはパンチェン・ラマ十世の大きな肖像があり、現十一世のものはまったくない。これはチベット人の民族感情と信仰を表している。
今回訪ねてみると、それどころではなかった。寺によっては従来人目につくところにはなかったダライ・ラマ十四世の肖像が、パンチェン・ラマ十世と並んで経堂の正面に堂々と飾られていた。1959年インドに亡命したダライ・ラマ十四世は「国家分裂主義者」として政府から敵視され、肖像写真など飾ることは禁止されているはずだ。
寺僧に「これは危ないじゃないか」というと、「いや、検査があるときはジャワ・リンポチェ(チベット人のダライ・ラマに対する尊称)のは外します」という返事が返ってきた。

そうはいっても、どんな寺院でも監視カメラが設置され、隅々までその眼が光っているのだから、ばれないはずはないのである。わたしは当局が見て見ぬふりしていると思った。厳しく取締ったらチベット人の反発を招くだけだから。
チベット人のダライ・ラマ十四世に対する崇拝の念は抜きがたいものがある。いまもむかしも、農牧民の家庭でダライ・ラマの写真がないうちはない。
中共中央の民族政策では、漢族を中心にチベットもウイグルもカザフもモンゴルもみな「中華民族の大家庭の一員」ということになっている。だが中共中央がダライ・ラマ崇拝を禁止しているうちは、チベット人は決して自分から中華民族の仲間入りはしないだろう。

交通事情
いま省都西寧には車がひしめきあっている。出退勤時間は渋滞が当り前だ。大学構内も横町も車でいっぱいだった。地方の比較的小さな町でもこの状態は同じで、寺院ですら参詣人と坊さんの車で駐車場は身動きできない感じだった。
10年前、大学の近くには自動車商と修理業の店がずらりと並んでいた。車の売行きはすこぶる好調だった。自動車屋は1台売るたびに爆竹を鳴らしたから、うるさくて授業に差支えるほどだった。これが今に続いて深刻な状態に到ったのである。
あのころ、すでに西寧から主だった地方都市に行く幹線道路は高速化されつつあった。いまそれが完成し、かつ延長されていた。以前工事用の大型トラックが走った道路は、いまは乗用車が大半である。しかも日本ではふつうにみられる軽乗用車や軽トラックがほとんどない。

かつて牧野の小さな町まで行くのに、路線バスで早朝から晩まで丸1日かかった。それが今回は3時間とかからなかった。集落の道路は家の前まで舗装されていた。2008年のリーマンショックが中国に波及するのを回避するために、中国政府は4兆元のインフラ投資を行ったが、それがここ西北の片田舎にもこのような恩恵をもたらしたのであろう。
見方によっては、少数民族地域だからこの投資が行われたともいえる。不穏な情勢が生じればすぐ軍や警察を送ることができる。いやそれ以上に道路を通した市場経済の急速な浸透がチベット人など少数民族の漢化を促す効果が期待できる。いま、チベット人地域ではそれにかなり成功しつつあるといえるのではないか。

2018.11.13 続・続からくにの記 (その2) 2018.10.23~10.30
韓国通信NO578
       
小原 紘(個人新聞「韓国通信」発行人)

 「内蔵山(ネージャンサン)の紅葉は最高。気をつけてイッテラッシャーイ」。ホテルから乗ったタクシー運転手の声に送られ、私たちはソウル龍山(ヨンサン)駅から新幹線KTXに乗り込んだ。
 井邑(チョンウプ)駅で下車。まず目指したのはその日に泊るモーテルだった。(写真は井邑駅前広場、左の銅像は全琫準)
韓国通信578(1)

<モーテルに泊まったワケ>
 そのモーテルに泊まるのには訳があった。二年前、東学農民戦争の戦跡めぐりで、全羅北道の井邑(ジョンウプ)、古阜(コブ)を訪ねたことがある。 
 一帯は東学農民軍の総大将、全琫準(チョンボンジュン)が蜂起した地として知られる。帰りがけに「事件」が起きた。 
 モーテルにカメラを忘れ、青くなった。木浦行き電車の発車までいくらもない。そこへモーテルの主人が息を弾ませてカメラを持って駅に現れた。バスターミナルで探したが見つからないので駅までやってきたという。
 どんなに嬉しく、あり難かったことか! いつか井邑に行くことがあればお礼を言いたい。その機会がやってきたのだ。モーテルの窓口で二年前の「事件」を話し、お土産を差し出すとモーテルの奥さんは目を丸くした。その後、カメラを届けてくれたご主人とも会え、直接お礼をいうことができた。チェックアウトの時間を聞いたら、「何時でも構わない」と破格の便宜をはかってくれたうえ、客室にたくさんの柿と自家栽培した覆盆子(トックリイチゴ)のジュースまで差し入れしてくれた。

<韓国の旅館事情>
 モーテルはその名のとおり、ドライバーが泊まる宿泊施設で日本と同じ。(写真は宿泊したモーテル)
韓国通信578(2)

 日本のモーテルに泊まったことはないので、日韓の違いはわからないが、韓国のモーテルには例外なく温泉マークが付いている。それも飛び切り大きなマークなので目につきやすい。夜になるとネオンが光り、一層存在感を増す。
 モーテルはラブホテルと考えられるが、一般客も利用しているようなのでこれまで何回か利用した。このほか「荘(チャン)」「旅館(ヨガン)」という宿泊施設もあるが最近はあまり見かけなった。
 モーテルの設備はホテルとあまり変わらないうえ料金がとても安い。
 最近は「チムチルバン」というオールナイトのよいんサウナに泊まる旅行客もいるらしい。ザコ寝だが設備もそこそこ、千円内外で泊まれるので意外な穴場かも知れない。
 あなどれないものに「旅人宿(ヨインスク)」というのがある。掘っ立て小屋のイメージ、相部屋の宿泊施設で、とても安いらしい。一度泊まってみたいと思っているがいまだに「夢」は果たせないでいる。
 紅葉観光にモーテルに泊まることに妻が何というだろうかと心配したが、私の事情を聞いて納得してくれた。特別室が一室6万ウォン(6千円)という。ためらわず特別室にした。
 部屋もバスルームも広く、清潔そのもの。驚いたことは大きなテレビがあったこと。2年前はタバコが吸えたのに今回は灰皿がなくなっていた。荷物を置いて早速、内蔵山観光に出かけた。

<ああ内蔵山>
 内蔵山は紅葉のシーズン、韓国中から観光客が集まる一大景勝地だ。日本で発行されている韓国旅行のガイドブックにも紹介されているが、ソウルや釜山から離れているせいか、短期間の外国人旅行者からは敬遠されているようだ。
 井邑市内からバスで30分、下車したあたりは食堂、土産物屋が軒を連ね、平日だというのにかなりの人出だ。

韓国通信578(3)

 腹ごしらえをすまして「登山」に向かう。ゆるやかな上り坂、紅葉の中を縫うように散策路が続く。まだ紅葉していない葉もあるが、それで十分と思われるほど、人の顔まで紅く見える。
 今日も快晴。木々の合い間から見える青空が紅葉を一層引き立てる。道に沿って流れる小川のところどころが段差となって水しぶきをあげ、水たまりには上流から流れついた紅葉が織布のように浮かんでいる。
 帰りのバスの時間が気になったが、とにかく行けるところまで行ってみようと歩き続けた。この景色のなかに出来るだけ長く留まりたかった。池に浮かぶ美しい観覧亭を眺めながら、やがてケーブルカー乗り場に着いた。ここまで来たら山頂まで行くしかない。乗車待ちする列の後に続いた。山頂駅に着くとそこからさらに展望台まで100メートル歩かなければならないことを知り、思わず疲れた足をさすった。展望台から見た景色は山頂の絶壁あたりを除いて、まさに全山紅葉、「織りなす綾錦」とはこのようなものかと見惚れた。
 紅葉の美しさに見とれはしたが、今回の旅行のもうひとつのテーマ、東学農民戦争を忘れたわけではない。
(写真は井邑 緑豆(ノクト)記念館前庭にある無名東学農民軍慰霊碑)
韓国通信578(4)

 井邑の古阜(コブ)は東学農民戦争発祥の地。全羅南北道と慶尚南道一帯で、農民軍は日本軍と朝鮮政府軍を相手に死闘を繰り広げた。
 韓国の人たちに脈々と受け継がれている東学の思想、「平等」、「民本」、「相互扶助」という理想社会の実現を目ざして戦い、そして敗れた地である。
 第二次農民戦争(1894年10月~95年1月)では南北農民軍が論山(ノンサン)(忠清南道)で合流、ソウルを目指し北上したが、多数の死者を出して敗走した。農民側の死者は日清戦争における日本側の死者(1万3千人)よりはるかに多い3万人以上、負傷者は30万人~40万人と推定されている。
 全琫準は現在の井邑から内蔵山を経て、盟友、金開南(キムゲナム)とともに再興を図ったが、94年12月に全羅北道淳昌(スンチャン)で捕えられ、翌年、日本軍によって絞首刑となった。侵略軍に果敢に抵抗を挑んだ全琫準は日本にとっては「乱」を起こした「賊軍」の大将だが、韓国では祖国のために戦った英雄として記憶され、語り継がれている。
 帰途、薄ら寒くなった夕暮れの道を歩きながら、どこからか農民軍の足音、叫び声が聞こえたような気がした。

 未曽有の死者を出した戦争は、宣戦布告なしで「皆殺し」を狙った虐殺事件だった。異常なのは日本軍の死者がゼロまたは1名と言われていることからわかるように、まるで「赤子の首を絞める」ような戦争だったことだ。日本軍の近代兵器に対して素手同然の戦いだったから当然の結末と言える。近年、日韓両国で東学農民戦争の研究が進んでいる。だが日本人の関心は薄く、歴史教科書に記された日清戦争前夜に起きた「東学党の乱」を記憶する水準にとどまっている。

 夜、町を歩いていたら「少女像」に出合った。銅像の横の椅子に腰かけて女性たちが記念撮影をしていた。説明板には日本軍によって慰安婦にさせられた少女の訴えが刻まれていた。
 井邑のある全羅北道は韓国屈指の牛の産地として、また豊富な野菜の生産地として知られる。肉と野菜たっぷりの食事に徒歩5時間。体調はすこぶる良い。
2018.11.12 続・続からくにの記  (その1)2018.10.23~10.30
韓国通信NO577
 
小原 紘(個人新聞「韓国通信」発行人)

 これまで韓国に何回でかけただろうか。100回にはならないはずだが、とにかく数えきれない。
 40年前に韓国語の勉強を始め、1987年にその仲間たちと始めて韓国を旅行した。民主化宣言直後の韓国を個人で旅行するのは考えられない頃だった。旅行社の添乗員と現地の添乗員つきでソウルの市内観光、慶州と釜山を駆け足でまわる3泊4日の旅だった。その感動を冊子『からくにの記』にまとめた。
 それから4年後、1カ月の休暇をとって韓国中を旅した。観光バスから解き放たれたひとり旅は驚きに満ち溢れていた。帰国後、『続からくにの記』にまとめた。
 『続からくにの記』を読んだ作家の永山正昭さんに夏目漱石の『満韓ところどころ』より面白いと褒められた。漱石と比べるなんて、おそれおおくて冗談話に聞き流したが、最近、漱石を読み、永山さんの指摘がわかったような気がした。日韓併合直前に満州、韓国を旅した漱石には中国人と朝鮮人は汚らしく感じられたようで、文明国から見た中国・朝鮮にたいする侮蔑感があった。リュックを担いで悪戦苦闘した私の姿に永山さんは漱石より上等なものを感じられたのかも知れない。
 「臨場感に溢れ 一緒に旅をしているような どきどき感!」と感想を寄せてくれた詩人の茨木のりこさんも私の韓国に対する愛情を感じ取ってくれたような気がする。
 今回の旅行は7泊8日。短くも長くもない旅だったが31年前の初旅行、そして27年前のひとり旅に劣らない印象深いものになった。「通信」でのレポートを、名付けて、『続・続からくにの記』としてまとめたい。

 汝矣島(ヨイド)はソウルを流れる漢江の中州(なかす)である。地名の漢字には「お前は島なんだなあ!」「それでも島か?」という意味があると聞いたことがある。国会議事堂、大韓生命の63ビルを始めとして高層ビルディングが林立し、金融センター、テレビ局、新聞社の本社があって、とても島とは思えない。本当に「それでも島か」と実感してしまう。ソウルの「マンハツタン」ともいわれているが、かつて空き地で政治集会や労働組合の集会が開かれた場所としても知られている。1998年、留学時代に民主労総の決起集会を見に行った記憶があるが、その場所らしいところは今では見当たらない。川沿いの桜並木もそれは見事なものだった。
 そのヨイドのケンシントンホテルから旅は始まった。学生の団体客の騒音で妻は耳栓をしなければ眠れなかったとこぼした。耳が遠くなったのか酒が効いたのか、私には何も聞こえなかった。
 翌朝、朝食を済ませてからヨイド公園を散策した。ビジネス街のど真中で紅葉を楽しみながら住民たちがジョギングや散歩を楽しんでいた。まさにそこは都会の「オアシス」だった。妻はカチ(カササギ)の姿を追って写真に夢中だった。カチという鳥、鳴き声はカラスに似ているが姿はとても優雅で人懐こい。日本には棲息しないと思っていたが佐賀出身の友人が「カチがらす」という名前で佐賀にもいると教えられた。ソウルの都会、全国で姿を見ることのできる韓国のシンボル的存在、韓国を訪れた人なら印象に留めている人も多いはずだ。
 10月も後半ともなるとソウルのどこへ行っても紅葉が美しい。ヨイドから旧市街、徳寿宮を散策した後、裏道を通って鐘路、光化門通りに出た。李舜臣の銅像近くに黄色のテントが見えた。ローソクデモが起きた2年以上前からテントは常設されている。以前に比べると規模は小さくなったような気がしたが、テントの向かい側にある展示パネルを見学する人が後を絶たない。2014年4月のセウォル号沈没事故の抗議のテント小屋だ。署名をしていたら声をかけられた。日本人観光客としてインタビューを受けた。機関誌の記事にするという。
韓国通信577写真(1)

Q 日本人としてこの問題に何故関心をお持ちですか。
A 事件発生直後から関心を持っていました。福島の原発事故と似ています。真相解明と責任者の処罰を求めているのにそれが出来ていないことに心を痛めています。皆さんの粘り強い運動に学ぶところは大きいです。
 テントで貰った黄色いリボンを旅行の間つけて歩いた。私にとって黄色いリボンはセウォル号事件の犠牲者に対する哀悼の気持ちだけではない。福島原発事故の被害者との「連帯」、再び事故を起こすな、「反原発」の意思表示として帰国後もつけている。
 教保文庫に久しぶりに寄った。ローソクデモ関連の図書を探したが、特別なコーナーはないとあしらわれてしまった。淋しい気がした。具体的に本の名前を挙げないと「検索」できないようだった。

 水曜日なので日本大使館前に。従軍慰安婦の定例デモは正午から開かれる。どんな立派な大使館を作ろうとしているのかわからないが、二年前と同様に日本大使館は基礎工事の段階だった。会場で尹美香(ユン・ミヒャン)さんと久しぶりに再会して声を交わした。まず集まった中高生たちの多さに圧倒された。「スゴイでしょ」彼女も誇らしげだった。彼女のスピーチは日本政府への批判にとどまらない。それは、あらゆる戦争によって引き起こされた女性が蒙った性被害に対する批判で、それはベトナム戦争において韓国軍兵士たちが犯した性犯罪にまで及ぶものだった。教師のように生徒たちに向かってわかりやすく話をしていた。従軍慰安婦問題から始まった運動が今や全世界の女性の人権の回復と向上を訴える運動になった。
 若者たちは熱心に耳を傾けていた。水曜日ごとに市内、近郊から、おそらく学校の先生に引率されてやってくる生徒たちは、数少なくなった元慰安婦のハルモニたちを励まし、社会の問題、とりわけ性暴力の問題について学んでいるようだった。
 日本人の発想では、平日に先生と一緒に大使館前の抗議に参加するのは教育の中立性から、「いかがなものか」ということになるのかも知れないが、韓国社会では生きた社会勉強するのは当然と受け止められているようで興味深い。数年前、ハルモニたちが次々と亡くなっている現実に、運動をどう広げていくか議論した時、若者たちにどう伝えていくかが議論されたことがある。慰安婦の運動が着実に若者たちに広がっているのを感じた。
韓国通信577写真(2)

 タクシーの運転手にすすめられて昌徳宮(チャンドッククン)にでかけた。かつて「秘園(ピウォン)」と呼ばれた庭園の紅葉は絵葉書のような見事なものだった。正殿から後宮までの一周を歩くのに一苦労したが大いに癒され楽しんだ。
 李朝最後の皇太子李垠(イグン)(高宗の息子)と結婚した李方子(イ・バンジャ)(梨本宮方子)と高宗の娘である徳恵翁主(トッケオンジュ)がともに暮らした屋敷の前。見学していた韓国の女性に「徳恵翁主がここに住んでいたの知ってるか」と尋ねると、「もちろん知ってるわ」と返事が帰ってきた。「小説と映画が評判だったようだけど」と聞くと、「もちろん見た」とのこと。「僕も見た」と云ったら、日本人と気づいた女性たちは「変な日本人」にしきりに感心していた。対馬の藩主宗武志と結婚した徳恵の悲劇的な生涯については小説と映画をとおして日韓併合が生んだ悲劇として多くの人たちは忘れていないようだ。
 遅い食事をとった後、清渓川の橋に設置された全泰壱(チョン・テイル)(労働基準法を守らせるために闘い抗議の自殺をした1970年)の銅像を見ながら、広蔵市場、平和市場、東大門市場にある衣料品のデバート「トゥンサンタワー」を巡った。初めて韓国を訪れた時に見た野球場があったあたりは跡形もなく、映像とファッションの華やかな街に変わっていた。屋台をまわりながら、このあたりだったろうか、一緒にスンデ(豚の腸詰)を食べながらマッコルリを飲んだのは。故人となった日本フィルの松本茂君の懐かしい顔を思いだした。新しい町の中に思い出を見つけるのに苦労する。

 ソウルは二泊して明日は移動日だ。この日は時間を惜しむように随分と歩きまわった。食事や休憩時間を除いても5時間はたっぷり歩いたが、そのわりには疲れはない。地下鉄5号線でヨイナル駅下車。ホテルまでの道を間違え、夜道を30分は歩いただろうか。おまけの30分で疲れが「どっ」と出た。夕食にホテル近くのパン屋でサンドウィッチと菓子パンを買った。昼食の焼き肉サムパップ(野菜巻)とのカロリーのバランスを図った。焼酎とビール各1本ずつ。
2018.11.07 大変革進行中の中国みたまま(3)
―関心が低くなった?日本人の存在

坂井定雄 (龍谷大学名誉教授)

 今回、中国旅行から帰国し「中国に行ってきた」と友人や家族に話すと、決まったように「対日感情はどうだった?」と訊かれた。たしかに2010年の尖閣諸島海域への中国漁船団の侵入、2012年の石原都知事による尖閣諸島購入方針表明、野田政権による国有化に対する中国各地での反日デモ、同年12月の第2次安倍内閣発足、安倍首相の靖国神社参拝以来、日中関係が悪化した。ごく一部での出来事だったが、中国で反日デモが日本の商業施設をぶち壊すような事件も発生。それが大々的に日本国内で報道されたことから、以後、日本企業が中国から撤退、縮小する事態が続いた。
 10年前まで、中国に行く機会がしばしばあったが、今回は上海、蘇州、北京、東北部の長春、瀋陽を動き回り、昼食、夕食はすべて現地の飲食店で食べた。人が多数集まる上海の外灘、北京の天安門広場にも行ったが、どこでも10年前とはかなり違う感じを受けた。広大な天安門広場出入り口は2、3か所で、全国から集まる人々、団体でぎっしりと行列ができているが、その人々も、チェックポイントの警官も日本人だからと特別な表情を示すことは全くなく、パスポートかホテルのカードですんなり通し、なければ絶対に入れない。
 周りの入場者も、何の関心も示ささない。街の飲食店でもレストランでも、日本人だからといって、特別に親切にすることも、そっけなくすることもなく、扱い、態度は街の人々と違いがない。
 どこでも街を走る乗用車で目立つのはドイツ車とくにフォルクスワーゲンだ。それにだいぶ離れて次ぐのは日本車か韓国車だろう。
 第2次安倍内閣の6年間に、中国にとっても、中国人にとっても、日本との関係がいわば疎遠になり、敵視もしないが、重視もしない他人になったのではないだろうか。だが、世界第2位、第3位の隣国がこんな関係でよいのか。中国は「シルクロード外交」重視で西と南西を向いて力を注いでいるが、日中が外交・経済協力関係をもっと改善・強化すれば、双方にとって利益になり、朝鮮半島をはじめ国際社会への影響力が間違いなく大きくなるはずだ。
 ▼旧満州国(中国では偽満州国と呼ぶ)旅行の勧め
 中国の東北地方では大連に何回も行ったことがあり、大連市の下水処理水を沖合に放流する海中放水路建設を指揮した親しい友人には、いつもお世話になった。北朝鮮、ロシアとも国境を接する吉林省朝鮮族自治州には1週間滞在したこともある。しかし、吉林省長春、遼寧省瀋陽は初めての旅行だった。いうまでもなく、両市は日本支配下の旧満州国時代の新京と奉天だ。長春では、日本に留学して帰国した大学院生が案内役を務めてくれた。
 長春は日本軍の侵攻、占領下に作り上げた旧満州国の首都(占領下に新京と改称)。日本が担ぎだして、皇帝の冠をかぶせたのが溥儀だった。
 長春には旧満州を軍事支配した関東軍の司令部はじめ、満州八大部と呼ばれた軍事部、司法部、経済部、外交部、文教部、交通部,興農部、民生部の八部の建物と、皇帝溥儀のささやかな執務宮殿、居住宮殿など、数多くの建物が現存している。満州八大部の建物はほとんど省や市が使用しているが、残存ビルでおそらく最大の関東軍司令部があった建物は子供専門病院になっていた。
 長春では精力的に動いたので疲れ果て、夕食は北朝鮮料理が自慢のレストランへ行った。北朝鮮料理といえばまず冷麺。8~10人が座れるテーブルごとに仕切っている。ピアノを置いたステージがある。さっそく中国産ビール「青島」と冷麺、他の料理を3点ほど注文して間もなく、そろいの朝鮮民族衣装チョゴリで着飾った若い女性たちの演奏と踊りが始まった。かなり広いフロアでひと踊りすると、フロアから客席を回る。踊り子は5人。ピアノとヴァイオリンの女性は定位置で、かなり上手だ。脇の椅子に、団長と思しき中年の女性が座っていた。食卓から立って、フロアの脇で踊りをみつめ、拍手していたら、曲が日本歌曲の「浜千鳥」になり「上を向いて歩こう」に続いた。他の客と同じような軽い服装をしていたのだが、やはり日本人と分かったようだ。
 長春にも瀋陽にも、日本軍の占領支配、偽満州帝国をテーマにした大きな歴史博物館があり、見学者がかなりいた。過酷な写真や新聞コピーなどの展示が多く、中国語だけでなく日本語の説明もかなり率直あるいは乱暴についていた。観客はけっこう立ち止まって読んでいる人もいたが、私たちに目を向ける人は一人もいなかった。歴史は遠くなったのだろうか。
 最近、日本では半藤一利著「ノモンハンの夏」をはじめ日本軍の無謀な侵略、旧満州支配、すさまじい数の日本軍兵士たちの犠牲について追及する歴史書、TVドキュメンタリーが注目を集めたようだ。
 旧満州(偽満州国)はまだな人に、まずは、長春を訪れることを勧めたい。(了)
 
中国見たまま(3)写真1 
1、長春には旧満州国(中国では偽満州国と呼ぶ)の建物がほとんどそのまま保存され、使用されている。写真は旧関東軍本部跡の看板

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2、旧関東軍本部の建物。子供専門の吉林大学付属病院になっている。

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3、長春にある北朝鮮レストランには毎晩、北朝鮮の歌舞団が出演していて大人気。
(いずれも坂井撮影)






2018.11.06 オ~寒っ  ソウルの最低温度は0度
    韓国通信NO576

小原 紘(個人新聞「韓国通信」発行人)

 仁川空港へ向かうバスのテレビが、新日鉄住金に原告各人に1億ウォン(約1千万円)の支払いを命じた大法院(最高裁)判決を速報で伝えていた。 
 テレビ各局が特集番組を組むくらいに韓国では国民の関心は高かった。これまでの流れから見ると、紆余曲折はあったが強制徴用された原告の勝利は十分に予想されていた。日本政府もそれを見越して韓国政府に「警告」を発していた。政府に圧力をかければ判決が覆ると考えたのは不遜、お粗末としか言いようがない。かつてアメリカが日本の主権を犯して砂川事件の判決を覆えさせたことを思いださせる。
 帰国すると案の定、ニュースは安倍首相、河野外相の抗議、コメンテーターも「国際信義に反する」と非難一色、日本中が怒っているように感じられた。

<何かがおかしい>
 1965年の日韓条約ですべて「解決済み」とする政府の主張が正しいなら、韓国側が個人補償を求めるのは理屈に合わないのは確かだ。対日請求権によって日本側が支払った無償3億ドル、有償2億ドルの資金の他に個人が受けた被害が救済されるべくもない。しかしそう簡単に言い切れるものかどうか。日韓条約締結に至る経過とその後の韓国政府の見解の「揺らぎ」を並べ立てても仕方がないが、従軍慰安婦問題にせよ徴用工の問題にせよ謝罪と補償を求める人たちが存在し、韓国民がそれを支持している現実に変りはない。政府間の対立にまかせるなら泥沼化することは目に見えている。心ある日本と韓国の市民たちは心を痛めているはずだ。

 もう一度37年間にわたった日本の植民地支配とそれを「清算」したとする日韓基本条約と請求権協定について冷静に考える時期なのかも知れない。日韓の交渉内容を不服とする韓国内の勢力(彼らは日本の侵略に対する反省と謝罪を強く求めていた)を抑え込むために朴正煕政権は戒厳令、衛戍令を連発して締結を強行した。あわせて極東戦略の必要性から日韓条約成立を急がせたアメリカの介在を知るなら、日韓条約ですべてが「解決済み」と言い切る日本政府に韓国人が納得していないことくらいは理解できるはずではないか。私たち日本人は日韓、日朝の歴史をあまりにも知らなすぎる。「信じられない」「許しがたい」などと感情的な発言をする前に韓国側の主張にもっと耳を傾ける必要がある。

 韓国を旅行しながら考え続けたのは日韓の未来のことだった。市民レベルでの理解が進んでいるのを感じる一方では、わが国の韓国に対する根強い不信感。それは市民の側の責任というよりアメリカには卑屈なほどに追従しながら韓国を軽視する政治家とマスコミ、エセ学者に負うところが大きい。強制労働による徴用工が20万人もいたこと、性奴隷として貶められた数多くの少女たちの存在。関東大震災時に虐殺された在日朝鮮人の存在。「存在しなかった」、「解決済み」と考えるのは金銭補償の問題以前の、市民感覚としては「恥ずかしい」道義的問題だ。今回の徴用工問題を奇貨として慰安婦問題も「解決済み」に持ち込みたい政府の意図も見え隠れする。
 絶好の天候に恵まれ、素晴らしい紅葉と海を眺めながら、気持ちは晴れなかった。10月には珍しく、韓国旅行最終日29日の朝は氷点下近く、日中も10度を越えなかった。冬の到来には早すぎる。
2018.11.03 大変革進行中の中国みたまま(2)
―北京の大気汚染は解消したのか

坂井定雄 (龍谷大学名誉教授)

 悪名高いかった北京の大気汚染は解消したのだろうか?
今回の中国旅行中、強い関心があったことの一つは、北京のひどい大気汚染は解消したか、ということだった。しかし、わずか4日間の北京滞在中、あのどんより濁った、大気汚染をまったく感じなかった。初秋のさわやかな2千万都市北京だった。上海は海に近いので大気汚染問題は、生じなかったのではないか(私が知らなかっただけかもしれないが)。
 もちろん、わずかな滞在日数を秋に過ごしただけで、判断はできない。しかし北京市民の友人、知人たちに尋ねると誰もが、あの大気汚染はもう気にしなくなった、という答えだった。
 中国政府と北京市当局は、大気汚染解消に二つの重要対策で取り組んできたという。
その第一は、北京市内と周辺の、大量に汚染排気、排水を排出してきた工場をほとんど潰したこと。本リベラル21で、有数の中国通の田畑光永さんがリポートしている、昨年11月北京市大興区で強行された「区画丸ごと取り壊し・全住民強制立ち退き」のような強行手法で、大気汚染源とみなした工場などをつぶすか、追い出してきたのだろう。北京で会った友人たちは、大興区での取り壊し・全住民強制立ち退きを知っていたが、“ひどいことをする”という非難めいた顔はなかった。
 もう一つの大気汚染対策は、乗用車のガソリン・エンジンから電池エンジン、あるいはガス・エンジンへの転換の推進だ。すでにタクシーの大部分が、電池エンジンかガス・エンジンで走っているのではないか、と思った。統計を見ていないから、間違っているかもしれないが。ともかく、北京はじめ市内では、ガソリン・スタンドよりもガス・スタンドか電池用充電スタンドが目に付く。どこもタクシーが集まっていた。自家用車の場合は、おそらくガソリン・エンジンの方が急速に速度を上げられるから、自家用車をバッテリー車に替えたと言う人はいなかったが、転換は拡がりつつあると思った。
 今回の北京、上海、長春、瀋陽の旅では、瀋陽市内から空港に行く道路でだけ、大気汚染で上空がややどんよりしていた。
 ▼今なお残る旧市街「胡同(ホートン)」
 10年前には、北京では高層ビジネス・ビル、高層住宅ビルの建設が進み、市街の変化がどんどん進行していた。繁華街王府井の中心を貫く道路は、いま歩行者専用になっている。それよりも、どうなったか気になっていたのは、王府井からも遠くない北京の旧市街胡同がどうなったかだった。いまや古い話になったが、1966年から73年にかけての文化大革命期、胡同は旧勢力の巣窟として紅衛兵の攻撃目標になり、建物が破壊され、住民が追い出された。文化大革命が終わったあと、首都の再建、発展計画が打ち出され、広い胡同地域は建物が壊され、近代的なビル、道路に代わっていくとの説明だった。中国に行くたびに胡同がどうなっているか聞いたが、案内役は「再開発が進み、胡同はなくなりますよ」との答えばかりだった。
 だが今回、偶然、胡同に入り込んでしまった。そのたたずまいは、かなりくたびれてはいるが、70年代に歩いたままの民家の街並みが残り、住民が歩き、生活していた。うれしかった。中国政府と北京市当局の計画は、胡同の一掃ではなく歴史的・文化的価値を尊重して保存するものだったのか、住民の抵抗が根強かったために、変更したのか。わからない。
 たまたま、今日ネットで検索したら、以下のAFP電が紹介してあったー「2017年5月24日 AFP Fred Dufoul記者:中国・北京の旧市街に残る胡同と呼ばれる細い路地。数百年前には胡同に面して風格のある赤い扉が立ち並び、扉の向こうには中庭が広 がっていた。中庭を囲む建物の小屋ばりは曲線を描き、柱は色付づけされていた。庶民の家でさえ、広々とした中庭があった。
 しかし、20世紀半ば以降、とくに文化大革命期には胡同の多くの家々が接収され、破壊された。
 現在は2150万人が暮らす土地不足の北京で、胡同に面する中庭は木造の掘立小屋か、もう少しましなコンクリートの部屋で埋め尽くされている。いくつかの世帯が生活をともにし、家族ではないが皆、とても親しい」
2018.11.02 難民・移民をめぐる左右のポピュリズム
盛田常夫(在ブダペスト、経済学者)

ドイツの州議会選挙結果が教えていること
 10月にドイツの2州で州議会選挙が行われた。10月14日のバイエルン州の議会選挙、10月28日のヘッセン州の議会選挙は、ともに類似した結果となった。バイエルン州の与党CSD(キリスト教社会同盟)とSPD(社会民主党)は得票率を10%減らし、ヘッセン州でもCDU(ドイツキリスト教民主同盟)とSPDが同様に10%強の得票減となった。バイエルン州は難民・移民の受入れ窓口であり、ヘッセン州はバイエルン州とともにドイツ経済の中心地である。この2つの州における与党の大幅後退はドイツ政治の安定時代の終焉を意味している。
 CSDとCDUの後退は政権政党の難民・移民政策への批判の結果であり、これらの党から離れた支持者はAfD(ドイツのための選択肢)に流れ、SPDから離れた支持者はGrüne(緑の党)とLinke(左翼党)に流れたと推測される。とくに、社会民主党は得票率を半減させており、連立政権政党から一介の少数党に転落した。
 ドイツ社会民主党のみならず、欧州左翼は難民・移民問題での対応を誤り、政治的影響力を急速に失っている。大量の難民・移民の無条件受入れが地域社会のアイデンティティを喪失する危機的事態を迎えたにもかかわらず、それを無視して、住民の危機的感情を「ポピュリズム」、「極右民族主義」と切り捨てる政治姿勢が、支持を失った最大の原因である。問題の本質を見失った政治的対応が、現実の利害関係に苦しむ地域住民の支持を失ったと考えるべきだろう。

人道主義vs民族主義は架空の対立軸
 ドイツが難民とも移民ともつかない人々をほとんど無条件に受け入れた背景には、過去にユダヤ人を虐殺したという負い目があり、そのことが大量流入初期の人道主義的対応となった。また、ここ数十年、産業界の要請からトルコや旧東欧諸国から大量のゲストワーカーを受け入れていることも、事実上の無条件移民を受け入れる世論を醸成した。
 ところが、余儀なくされたものとはいえ、2015年秋からの無秩序な大量受入れは当該地域社会を、危機的な状況に陥れた。学校の講堂が難民・移民で占拠され、小さな町や村には見慣れない人々が日中から屯(たむろ)するようになった。小さな地域社会であればあるほど、地域の雰囲気が激変した。村や町の人口に匹敵する難民・移民が押し寄せたところもある。難民・移民を受け入れていない地域や都市の住民は理想主義を語っていればよいが、当該地域住民は日常生活そのものが急速に悪化することに不安を抱かざるをえない。
 ところが、政党政治家や知識人たちが人道主義にもとづいて難民・移民の大量流入を支持し、それを批判する人々を「極右民族主義」と見下したのでは、地域社会に生きる人々は地域社会で生きる拠り所を失ってしまう。連邦政府の無定見な難民・移民政策を批判する政党に票が流れるのは、自然な流れである。それを「極右の進出」と騒ぐのは間違いである。
 明らかに、ドイツ社会民主党は地域住民の日常生活における不安や地域社会のアイデンティティ喪失の危機にたいして、適切な政策対応をおこなわず、イデオロギー的に批判するのみであった。これでは有権者の支持が減るのは当然である。
 問題の本質は、人道主義と民族主義の対立にあるのではない。まして、センチメンタリズムで解決できるものでもない。地域社会のアイデンティティを維持しながら、どのように難民・移民を受け入れることができるかを明確にしない限り、問題の解決にはならない。イデオロギーの対立が本質なのではなく、地域社会、ひいてはドイツ社会をどのような社会にするのかというコンセンサスを醸成することが重要なのである。それなしに、地域住民の危機感情を無視すれば、政権は支持されないということだ。
 この問題に見られるように、欧州左翼は理性を優先した現実無視の観念論に傾斜する傾向があり、地域住民の現実的感情を汲み取ることができない。将来社会のあり方について真摯な議論をせずに、旧来の観念論的人道主義だけを掲げていたのでは、有権者からも見放されるということだ。これはドイツに限らず、社会主義体制崩壊後の欧州左翼が共通に抱える問題である(日本も例外ではない)。

難民と移民の区別
 難民と移民は明確に区別されるべきものである。ところが、2015年の大量流入はその区別を事実上不可能にした。2015年当時でも、難民を称する人々のほとんどが、事実上の経済移民であった。最終目的地(国)を指定する「難民」は難民ではなく、経済移民である。2015年当時でもシリアからの難民は3割程度で、後の7割はシリア難民に便乗して世界各地からトルコの沿岸に集まり、密航業者にお金を払った移民希望者である。
 EUは今年6月の首脳会議において、ようやく「難民」と「移民」の選別に乗り出し、「難民」の欧州域内移動についても、統一的なルール設定に動き出した。また、密航業者の手引きでアフリカから地中海を経由してイタリアやギリシアに向かう人々を海上で救助する救助船の入港は各国から拒否され、最大の救助船(NGO SOS Méditerranéeを掲げたAquarius号)はパナマの船籍を剥奪され、活動を停止せざるを得なくなった。不法入国幇助と認定されたのである。なぜなら、アフリカから地中海を経由して欧州に入国しようとする人々の9割以上が経済移民で、難民は数パーセントだからである。
 経済移民をどう受け入れるかは、欧州各国の主権事項である。すでに多民族国家になっている国もあれば、ほとんど単一民族国家に留まっている国もある。フランス、ベルギー、オランダのように、イスラム系住民がかなりの比率を占めている国もある。ベルギーやオランダの貧困な移民スラム街からパリテロ事件の実行犯が生まれ、オランダから多くのIS兵士が旅立った。他方、イスラム系住民がほとんどおらず、移民労働力を必要としない国もある。したがって、「欧州統合は多民族の共存社会だから、すべての国で移民を受け入れなければならない」ということにはならない。100年200年先の欧州がそのような多民族統合社会になるかもしれないが、21世紀初頭の欧州社会はまだそのような統合を共通の目標にしてはいない。
 欧州左翼が多民族統合社会を目指すために、地域住民の危機意識を無視すれば、支持を失っていく。理想は必要だが、足を地に着けて現実問題を解決しながらステップを踏まなければ、手痛いしっぺ返しを受けることになる。

左派ポピュリズムと右派ポピュリズム
 このように見ると、移民を拒否する国をいとも簡単に民族主義とレッテル貼りするのは間違っている。もちろん、ハンガリーのように、「ハンガリー・ファースト」をさらにイデオロギー的に強め、種々の問題にたいするEUからの批判を「ハンガリーを移民国家にするための企み」として、政府を挙げて政治キャンペーンを張るのは、難民・移民問題を利用して権力基盤を固めようとする民族主義的なポピュリズムである。したがって、問題の本質とイデオロギー的な宣伝を明確に区別することが必要である。
 ハンガリー政府の立場が民族主義的ポピュリズムだとすれば、欧州左翼は観念論的人道主義だと言えよう。観念論的人道主義は左派ポピュリズムである。それぞれのポピュリズムは、それぞれの政党支持層をつなぎ止めるイデオロギーである。
 しかし、イデオロギーの違いが問題なのではない。欧州統合をどのように考え、民族国家のあり方をどのようにしていくのかという地道な歩みが必要なのである。左右のポピュリズムの対立は問題解決にはならない。

本ブログ寄稿者 盛田常夫氏講演会のお知らせ

日本大学経済学部中国アジア研究センター主催研究会
日時 2018年11月19日月曜日18時から20時
講演者 盛田常夫氏(元法政大学教授、在ハンガリー)
講演テーマ 難民・移民問題における左派ポピュリズムと右派ポピュリズム
場所 日本大学経済学部7号館4階7043教室
   JR水道橋駅下車、お茶の水側出口を出て、右へ5分、
          右側に日大経済学部のビルがあります。

ご連絡は不要です。ご自由にお越しください。
幹事 池本修一 日本大学経済学部
   ikemoto.shuichi@nihon-u.ac.jp