2019.12.11 記憶と反省と想像と
韓国通信NO621

小原 紘 (個人新聞「韓国通信」発行人)

最近、体力と記憶力の低下が気になりだした。記憶力は昔からよくないのであまり気にならないが、聴力と筋肉、特に足の衰えがひどい。わが国は人口の3割を高齢者が占める社会になった。さらに2025年には何と5人に1人が認知症になるという驚きの予想もある。
しかし日韓関係を見る限り、年齢に関係なく広範に認知症が広がっているように思える。82歳、フランシスコ・ローマ教皇の活躍が眩しかった。原爆と原発事故に見舞われた日本にやって来て、核兵器と原発は「イラナイ」と説いた。あたりまえの話を久しぶりに聞いたような気がする。
「核保有国と非保有国の橋渡しになりたい」と語る憲政史上最長の首相の顔が歪んで見えた。
教皇の姿を目の当たりにして、歳をとってもグレタ・トゥーンベリさん(16)のような若者に誠実に向き合える大人になりたいと思った。

11月27日、埼玉県浦和市で韓国について話をする機会があった。最悪といわれる日韓関係について話せと言う。日本中が韓国「たたき」で一色になっている。皆でこの問題について考えてみようというのが集まりの趣旨だった。話は日本社会が今陥っている韓国・朝鮮に対する「偏見」「軽視」「嫌韓」のルーツ探しから始めた。日本と朝鮮半島の歴史をたどった。

大和朝廷と朝鮮半島との深いつながり。その当時、今のような「偏見」「軽視」の感情があったとは考えにくい。小説家坂口安吾は、二つの民族は同じ言葉で意思の疎通ができたと「想像」したほどだ。ハングル文字ができるずっと以前の話だ。
16世紀、秀吉がしでかした二回の朝鮮侵略という大事件を除くと、日本と半島はおおむね友好的な関係だった。江戸幕府の鎖国時代も含め、朝鮮半島は大陸の文化、文物をわが国に伝える窓口だった。漢字も仏教も鉄の精錬技術も儒教も朝鮮半島からやってきた。
それが突如、侵略の対象となったのは明治政府の富国強兵策によるものだ。欧米の植民地獲得競争を見習い、大陸侵略の足掛かりとして1910年の日韓併合、満州国の建国、中国侵略へと突き進んだ。侵略を正当化する教育によって朝鮮半島に向ける日本人の眼差しが作られた。福沢諭吉の「脱亜入欧」、新渡戸稲造の「枯国朝鮮」、日本の近代を代表する彼ら知識人たちの朝鮮に対する軽視と侮蔑は明らかだ。
「保護条約」などいう、たいそうな名前の条約を押し付け、初代統監におさまった伊藤博文。彼らがそろって紙幣を飾ったのは朝鮮侵略の動かぬ証拠写真と言えるのではないか。
PaperMoney.jpg

 「古事記」「日本書紀」に出てくる神功(じんぐう)皇后による「三韓征伐」、豊臣軍の侵略を「朝鮮征伐」という表現は、明治時代にさかのぼる皇国史観にもとづき一般に流布された。戦後の新しい教育を受けた私でも「征伐」という支配者の表現を受け入れていた。

こうした日韓関係の歴史を踏まえて、最近の日韓間関係に触れた。以下は当日の話と不足部分を補ってまとめた最近の日韓関係の現状だ。


政府と主要メディアがGSOMIA問題で大騒ぎした。日本政府は輸出規制と関係のない問題だと一蹴、韓国政府、文在寅大統領を批判、マスコミも同調した。
それなら何故、日本が徴用工問題と関係のない輸出規制(経済制裁)をしたか説明すべきだった。自分のことを棚に上げて相手を非難する紛れもない「ヘイト」だ。安倍政権になってからこの種の応酬が韓国に対して多くなった。
感情先行、何を議論しているのかわかりにくい。肝心のGSOMIAそのものについてあまり議論がないのが不思議だ。
北朝鮮の脅威に備えてアメリカの主導によって2016年朴槿恵政権との間で結ばれたGSOMIA。締結の前年、日本は安保法制を成立させ、海外で米軍とともに戦う法整備をした。国会の承認が必要のない政府間協定だが(逆にそれほど軽い協定だったと云える)、微妙な時期に結ばれた「協定」は本来、国会できちんと審議をすべきだった。しかし「軍事協定」であることに違いはない。締結当時与党だった現「ウリ共和党」もそう主張している。
北朝鮮のミサイル発射に備えて、Jアラート、防空訓練と、「戦争前夜」を思わせる雰囲気は記憶に新しい。北朝鮮がミサイル発射をする度に迎撃ミサイル、イージス艦出動と大騒ぎしたが、最近はそんな話は聞かない。
理由は簡単だ。米朝会談と南北首脳会談が開かれ、国交正常化、南北統一へ向けた話し合いが進んでいるからだ。韓国にとって北朝鮮を仮想敵国としたGSOMIAは不要になったのは理解できるだろう。米朝の話し合いが順調に進むなら、アメリカにとっても日韓のGSOMIAなどは、「どうってことはない」はずだ。「無条件で話し合いたい」と表明しバスに乗り遅れまいとする日本にも「あってもなくてもいい」。それでも日本は日米韓の「結束」を訴えてアメリカにGSOMIA破棄を韓国に思いとどまるように頼み込んだ。
頼まれれば、将来、中国、ロシアに対抗するために利用価値のある韓国と日本の対立は好ましくなく、アメリカは「おせっかい」をした。おせっかいの代償は両国に米軍の駐留費をそれぞれ5倍に増額させること。トランプ政権は抜け目がない。しかし韓国政府はおそらく増額に応じないばかりか、米軍の撤退を求める可能性すらある。日本政府は増額を認め、韓国から撤退した米軍を受け入れるに違いない。

<日本の輸出規制の理由は>
日本が突如言い出した半導体の輸出規制と「ホワイト国除外措置」決定は韓国にとって大きな打撃だった。日本政府は当初、徴用工問題に対する「報復措置」として発表したが、その後撤回、安全保障と純粋な貿易問題にすり替えた。日本の大国意識まるだしの力による報復措置に韓国市民が激怒したのは当然だった。
今回、韓国側がWTO(世界貿易機関)への提訴を取り下げたのは話し合いによる解決を求めるシグナルであり、一歩引いた韓国から投げ返されたボールを日本がどう受けとめるか注目される。韓国ではGSOMIA破棄の声は大きいが、協定失効を一時的に停止したところで実害はない。韓国は報復の連鎖を断ち切るために一歩譲って徴用工問題と関係のない輸出規制を撤回させようとするしたたかな外交戦略を展開しているように見える。アメリカの説得に応じた韓国が今度はアメリカを背に日本に輸出規制の撤廃を求める構図はみものである。

<徴用工問題の解決に立ちふさがる安倍首相>
  昨年10月、韓国大法院が徴用工の訴えを認めて日本の加害企業に損害賠償を求めた。日本政府は「すべて解決済み」、「国際条約違反」と批判した。問われたのは植民地時代の非人道的奴隷労働を強いた日本企業に向けられたものだったが、日本政府が判決の前に立ちはだかり、外交問題に発展した。韓国の大法院判決を認めず、政府に圧力をかければ解決すると考えたのが最初の間違いだった。かつてアメリカ政府が圧力をかけて「伊達判決」を取り消させたように、日本も韓国を恫喝すれば従うと思ったのだろう。
欧米の力を背景に締結させ「日朝修好条規(1876)、日露戦争の勝利に乗じて「保護条約」を締結させ5年後に併合した経緯「日韓基本条約(1965)締結時には「37年間、日本は韓国に悪いことはひとつもしていない」とまで言い放った日本側代表の傲慢さが思いだされる。
choyokoKT.jpg
<日本製鉄の謝罪と補償を求める人たち>
   
新日鉄住金(2019年4月に「日本製鉄」と社名変更)に続き、三菱重工、不二越にも同様の判決が下された。しかし被告企業は安倍首相の陰に隠れ、問われた犯罪について何も語らない。
今回、従軍慰安婦問題、徴用工問題が再浮上して、日韓に横たわる懸案が一歩前進できる折角のチャンスに安倍首相は日韓条約を前面に押し出して「ちゃぶ台返し」を演じた。これまで宮沢、細川、村山、小渕の歴代内閣の努力によって築き上げられてきた信頼関係が根底から崩れた。日本人の善意を評価して日韓間の「和解のために」奮闘した朴裕河の努力も水泡に帰した。
高橋哲哉、浅井基文、宇都宮健児ら多くの学者、また日韓の法律家たちも共同宣言で補償請求の妥当性を認め速やかな解決を求めている。国際機関に提訴しても勝ち目のない日本政府はいつまでも非常識な主張を続けるつもりか。補償は「国際条約違反」でなければ「解決ずみ」でもない。韓国にはフェイク(ウソ・デッチあげ)を平然と言い放つ政府とそれに追随するマスコミ報道。日本は新たな危険な事態に突入した。

<「照射」事件と文議長の「天皇」発言>
徴用工問題が表面化した直後、自衛隊機が韓国艦船から「照射」を受けた事件が連日報道された。危機一髪、戦争の可能性まで報じられたが、いつの間にか議論が立ち消えた。自衛隊と防衛省の発表によって、危険な韓国の存在が大々的に報じられた。タカ派で知られる田母神元航空幕僚長が「領域周辺ではよくあること」と正直に述べたことや、韓国側の反論によって日本側の主張は急速に力を失った。煽るだけ煽った「嫌韓」感情だけが記憶された。この時もマスコミは政府に翼賛した。日韓関係は最悪。しかしそれ以上に最悪なのは日本の政治であり、日本人の精神状態だ。何故多くの韓国民が「NOアベ」なのか。それを「反日」と理解するようでは安倍首相の思うつぼだ。

文喜相(ヒサン)韓国国会議長の「首相か天皇が謝ってくれれば」という発言。
慰安婦問題解決のために語った発言に怒りが沸き起った。象徴天皇が国事行為として謝罪できるはずがない。しかし天皇の国事行為として認められるかどうかは別にして、一国の代表として首相には謝罪する資格は十分ある。しかし首相は天皇が謝罪を求められたことを非難するばかりで自分が謝罪を求められていることを無視した。
10億円を支払っても「謝罪はしない」。安倍首相の論理は破綻している。これでは意味のない金(税金)をドブに捨てたようなものだ。
「嫌韓」の根は深い。福沢諭吉、新渡戸稲造、伊藤博文を大切に懐に抱いてきた日本人は、失ってしまった私たちの記憶を、あらためて思いだす必要があるのではないか。

2019.12.09 日韓関係、浅井基文氏の論文―圧倒的な説得力
26日のリベラル21に書いた「唯一の隣国との友好関係を取り戻そう」を読んだ友人が、これに関連した論文を私に転送してくれた。その論文は、元広島平和研究所所長の浅井基文氏がご自身のWebサイトに掲載されたもので、圧倒的な説得力に納得し、もちろん同感した。「多くの方に読んでいただけたらうれしいです」と書かれているのに甘え、以下に転載させていただきます。(坂井定雄・龍谷大学名誉教授)

浅井基文  

日韓関係を破壊する安倍政権
2019.09.21.
 8月25日付のコラムで、9月に韓国であった会合で読み上げる原稿「日韓関係を中心とした朝鮮半島情勢」を紹介しましたが、最近ある集会でこの原稿を踏まえたお話をする機会がありました。ある雑誌の編集者がその「起こし」を送ってくれて若干手を入れたのが、以下に紹介するものです。日韓関係の現状に関わる私の安倍政権そして日本の政治のあり方に対する基本的判断を示しています。多くの方に読んでいただけたらうれしいです。

■日韓関係悪化の全責任は安倍政権にある
いわゆる「従軍慰安婦」問題と徴用工の問題を契機として日韓関係がおかしくなりました。徴用工の問題について、安倍政権は「過去の個人請求権は1965年の日韓請求権協定ですべて解決済み」と言っています。私は、25年間外務省に勤務し、その中でアジア局や条約局に勤務したことが合計9年間ありましたので、1965年日韓請求権協定で解決済みとしてきた日本政府の主張は理解しています。すなわち、当時は個人の請求権は国が肩代わりして解決することができるというのが国際的な理解であり、日本が独立を回復したサンフランシスコ平和条約における請求権問題に関する規定もそういう考えに立っています。1965年に日本が韓国との間で請求権の問題を解決する時にも、サンフランシスコ条約以来の国際的な理解に基づいて事を処理したということです。それは日本だけの主張ではなく、世界的に認められていました。しかし、その後、国際人権法が確立することによってこの主張・理解は崩れたのです。
文在寅大統領も「国際的な人権、人道の考え方が確立した今日では日本の主張はおかしい」と言っていますが、具体的には国際人権規約B規約を見て頂ければわかります。これに日本が加盟したのは1978年ですが、私はその年には条約局国際協定課長という立場にあり、この国際人権規約の国会承認の事務方の先頭に立っていました。ですから、私はこの条約に非常に思い入れがあります。ところが、今回の日韓の問題を議論する時に、誰も国際人権規約のことを言わないのは、私からするとまったく理解できません。
国際人権規約B規約第2条3項は、「この規約において認められる権利又は自由を侵害された者が、公的資格で行動する者によりその侵害が行われた場合にも、効果的な救済措置を受けることを確保すること」と規定しています。この規約において認められる「権利」や「自由」を「侵害された者」とは、従軍慰安婦問題や徴用工問題との関わりでいえば、第7条と第8条3項(a)が重要です。第7条は「何人も、拷問又は残虐な、非人道的な若しくは品位を傷つける取扱い若しくは刑罰を受けない」と規定しています。これはまさに「従軍慰安婦」にぴったり当てはまります。また第8条3項(a)には、「何人も、強制労働に服することを要求されない」とあります。これがまさに徴用工の問題にあたるのです。
ですから、元「従軍慰安婦」の方々、徴用工の方々は日本国に対して効果的な救済措置を講じるように要求する権利があることがはっきり言えるのです。この国際人権規約をはじめとする国際人権法が確立した後、世界各国では過去にそれぞれの国が行った国際人権規約に違反する行為についての救済措置が講じられました。オーストラリア、カナダ、ニュージーランド、アメリカでは先住民族に対する謝罪や補償が行われました。アメリカは第二次大戦中に日系アメリカ人に対して行った隔離政策を謝罪し、補償しました。よく知られているものとしては、第二次大戦中の強制労働問題に関してドイツが作った「記憶・責任・未来」基金があります。そのように、国際人権規約をはじめとする国際人権法が確立されてから、各国で過去に国が行った行為についての謝罪や補償が行われるようになったことを考えると、日本も従軍慰安婦や徴用工の人たちに対して、謝罪し、補償しなければいけないことは当然です。
もう一つ重要なことは、日韓請求権協定や日ソ共同宣言に関して、国が放棄したのは個人の権利を保護する外交保護権であると、日本政府自身が明確にしていることです。個人の請求権自体は協定によっても消滅することはないのです。この点については、1991年8月27日に国会で外務省の条約局長がはっきり答弁しています。そういう国会答弁がなされたのは、国際人権規約ができてからの諸外国の実践に鑑みて、もはやサンフランシスコ条約当時の主張・理解を維持することはできないということで、政府が軌道修正したのだと考えます。
元徴用工の人たちが韓国の裁判所に訴え、韓国にある日系企業、特に強制徴用をした新日鉄や三菱重工業の財産を没収して、それを権利救済に充てることを求めたのに対して、韓国大法院はそれを是とする判決を出しました。それは1991年の外務省の国会答弁からしても抗弁できないのであり、認めなければいけないと思います。しかし、1991年に政府ははっきり答弁しているにもかかわらず、今回の問題が起きてからの安倍政権はだんまりを決め込んでいます。これは非常に不誠実であり、許されないことだと思います。
いずれにしても、国際人権規約の関連条項がサンフランシスコ平和条約で理解されていた「国が個人に代わって請求権を放棄できる」という伝統的な理解をひっくり返したのです。それが大きなポイントです。みんな人権は大事だと言いながら、国際人権規約をすっかり忘れていることは、非常に遺憾なことだと思います。それをまず踏まえていただきたいと思うのです。
さらに、安倍政権が報復として韓国をホワイト国から除外するとか様々なことをしましたが、それを根拠づけるものとして政府は「安全保障上の例外条項を適用した」と言っています。確かに、GATT(関税と貿易に関する一般協定)という貿易の自由化について定めた条約の中に、「安全保障上の理由で、貿易の自由の原則から逸脱することができる」という規定が第21条(b)(ⅱ)にあるのです。ただ、「安全保障上の例外」というのは、本当に安全保障上の重大な事由についての例外です。ところが安倍政権が言っているのは、韓国が日本から輸入した3品目を朝鮮に横流しした疑いがあるという非常に曖昧模糊とした理由であり、しかも明確な根拠を示しているわけではありません。
ちなみに安倍政権は、一切の条件なしに金正恩と話し合いに入りたいと言っていますが、安全保障上の例外条項を適用して韓国を制裁するということは、有り体に言えば、「朝鮮に横流しした」と言っているのに等しいですから、朝鮮は非常に怒っています。「俺と無条件で話し合いをする用意があると言いながら、結局俺を敵扱いしているじゃないか」ということです。ここにも安倍政権の非常に場当たり的で、お粗末極まりない対応があるのです。
以上を踏まえれば、韓国には100%の理があり日本には100%の非があります。安倍政権が韓国に対して居丈高に振る舞うことは許されないと思います。

■日韓関係悪化の根本的な責任は主権者・国民にある
このように非常にでたらめなことをしている安倍政権ですが、そのでたらめさをほとんどの国民が認識していないことが大問題です。むしろ、大波に流されるように、多くの国民が「韓国けしからん」「文在寅けしからん」と言って安倍政権を支持しています。今や文在寅政権の法務大臣の任命などおよそ日本と関係のないことでも、四六時中韓国をバッシングしなければ気が済まないという異様な雰囲気がありますが、このおかしさに誰も気が付いていないのです。
どうしてそうなってしまったのかといえば、日本国民の意識は政府の政策によって支配される傾向が非常に強いからです。そうなってしまう原因として、私は主に3つの要因の働きがあると思います。
その一つは、丸山眞男という日本政治思想史の大家が、政治意識、歴史意識、倫理意識における『執拗低音』と言っていますが、外務省での私の実務体験から言っても、丸山眞男の「執拗低音」ほど日本政治の本質を捉えている言葉はないと確信しています。
政治意識とは、一般的に政治は統治することであり上から下への行動ですが、日本における政治意識とは「捧げる」「奉る」という意味合いが強いということです。つまり、「お上」意識が非常に強く、その裏返しとして下の者を見下すという「上下」意識が出てくるのです。
歴史意識とは、今・現在のことしか意識しないという時間についての意識です。丸山眞男は万葉集、古事記まで遡って、いろいろ時に関する日本人の意識を追究したのですが、「つぎつぎになりゆくいきほひ(次々になりゆく勢い)」という言葉でまとめています。つまり、常に今しかないのです。過去は干からびたもの、未来はどうなるかわからないもの、したがって今だけが重要なのです。ですから私たちは刹那的であり、一度できた現実を受け入れてしまう傾向が非常に強いのです。丸山眞男はそれを「既成事実への屈服」と表現しています。既成事実の中でも、特に権力が作り出した現実に対して私たちは頭を下げてしまう傾向が非常に強いのです。
もう一つは倫理意識です。日本人に忠誠心がないわけではないのですが、何に対する忠誠心かが問題です。西洋でも中国でも真理とか正義、あるいは一神教でいう神とか、マルクス主義でいえば歴史の法則とか、客観的に存在するものに対する忠誠心が倫理意識としては支配的です。ところが、日本の政治思想にはそういう普遍的なものがありません。あるのは、上の者や集団に対して忠誠を誓う集団的帰属感です。
こうした政治意識、歴史意識、倫理意識がすべて重なって、古代から今日に至るまで貫徹しています。明治維新以降はそれが天皇中心主義となり、第二次世界大戦後は天皇がアメリカに代わって、アメリカ中心主義で生き続けているのです。
私は、丸山眞男の3つの意識にプラスして、もう一つ「天動説的国際観」とでも言うべき対外意識について考えています。つまり、日本人にとっては常に日本が中心で、世界は日本を中心にして動いていると思っているのです。他の国と揉め事が起きれば「自分が悪いはずがない。悪いのは相手だ」となるのです。まさに今回の日韓問題ではそれがものの見事にあらわれています。以上、この4つの意識の働きが、権威・権力に弱くその意のままに動いてしまう国民の行動パターンを形作っていると思います。
次に、二つ目の要因です。それは、アメリカの対日占領政策転換以後、政府・自民党が一貫して戦争責任を否定する歴史観に基づいて歴史教科書の書き換えに取り組んできたことです。私は外務省を辞めてから明治学院大学で日本政治の講義を受け持ち、学生たちからの反応をメモでもらっていました。そこで愕然としたのは、ほとんどの学生が検定を経た歴史教科書に書いてあることを歴史の事実として受け止めていることです。アジアに対する侵略戦争や植民地支配を否定し、従軍慰安婦はなかった、重慶大爆撃や南京大虐殺もなかったと受け止めているのです。
その学生たちは今では40歳代後半です。ということは、40歳代後半以下の世代は間違った歴史認識で染め上げられているのです。良心的な教師に出会った子は歴史の事実を教わり正しい問題意識をもっていますが、それは圧倒的に少数です。そのために、今のような日韓の紛争が起こると「韓国は間違っている、けしからん」となり、安倍政権を強力に下支えする国民的支持基盤となるのです。これが2つ目です。
三つ目の要因は、「大本営の情報」を垂れ流すマスメディアです。大本営とは、要するに安倍政権です。私が外務省にいた時に自ら目撃したことをお話します。1960年代後半から、臨調など政府主体の諮問会議がいろいろできて、そこにマスメディアの代表も呼ばれるのです。初めの頃は、「私たちは内部から権力をコントロールする」と言っていたマスメディアの人たちが、結局ミイラ取りがミイラになって、大本営情報を垂れ流しするようになりました。今では情報入手源が多様化しているのに、マスメディアはこぞって政府の情報を垂れ流しています。ネット情報で逆のことを言う人がいても、結局はコンセンサスとしてはマスメディアの流す情報に集約されていくのです。
もう一つの重要な問題は、日韓関係、日朝関係を判断するときの国民のモノサシは何か、という問題です。日韓関係に関して言えば、1965年の日韓基本条約・請求権協定は、アメリカが対アジア戦略をスムーズに行う必要から、日本と韓国の関係正常化を推進したものです。黒幕はアメリカでした。当初、日本政府は嫌々だったのですが、最終的には「請求権をチャラにする代りに有償無償の合計5億ドルの金をやるから文句を言うな」、としたのです。これが私の言う「1965年日韓体制」です。ところがこの「1965年日韓体制」が圧倒的多数の国民のモノサシ(判断基準)になってしまっており、安倍政権が「請求権問題は1965年に解決した」と言えば、「そうだ!」となってしまうのです。しかし、本当にそれが日韓関係のあり方を判断する出発点として妥当なのかを考えなければなりません。
それから、日朝関係はもっと悪いのです。1945年以降、アジアは米ソによって二分され、アメリカにくっついた日本は、ソ連の同盟者とされた朝鮮を敵視してきました。アメリカの冷戦政策が私たちの頭の中に入り込み、私たちの考え方を染め上げたのです。しかし、そもそも朝鮮を敵視する発想は正しいのかを考えなければいけないのです。
そこで、私たちはどうしたらいいのかということですが、一つは私たちの意識のあり方を根本的に変える必要があります。つまり、政治意識、歴史意識、倫理意識、そして対外意識という4つの意識を根本的に清算するということです。もう一つは、私たちの頭の中に染み込んでいる冷戦的発想の元凶であるアメリカとの関係を考え直さなくてはいけないということです。私はそれを「開国」という言葉で表しています。丸山眞男にも「開国」という大論文があるのですが、これは私なりに作り直していることをお断りします。私は、日本人が自分の精神構造・冷戦的発想を変えるには3つの方法があると思います。それは、精神的な開国、物理的な開国、そして強制的な開国です。
「精神的開国」とは、今の日韓関係について考えればわかると思います。韓国の国民や文在寅政権は、日本に対して人間の尊厳と基本的人権に立脚して物事の良し悪しを考えています。人間の尊厳や人権の尊重を日ごろ言っている私たちが、韓国の人たちの主張に、どうして耳を傾けないのでしょうか。人間の尊厳や基本的人権は何もの物にも勝る価値であるという考えが、私たちの心の奥底までストンと落ちているのであれば、韓国国民がなぜ日本に対して怒っているのかを見極めることができるはずです。
韓国のハンギョレ新聞にコ・ミョンソプという方が、「正直であることもできず自己省察もなく民主的でもない国が、人類普遍の共通感覚が認める『美しい国』になることはできない」と書いています。そして韓国国民が行っている安倍反対闘争がもつ意義は、何も韓国の私憤ではなくて超国家的意義があると言って、決して韓国だけのことを考えた議論ではないことを主張しています。韓国の国民がそういう問いかけをしていることに虚心坦懐に、謙虚に耳を傾けること、それが私の言う「精神的開国」です。
二番目は「物理的開国」です。これは、端的に言えば日本が多民族国家に生まれ変わることです。ありとあらゆる文化的、歴史的、精神的、宗教的背景をもった人たちが大量に私たちと接することになれば、私たちは否応なしに異文化と接触し、切磋琢磨しなければなりません。そうすることによって、私たちの4つの意識がいかに世界でも稀でおかしな精神構造なのかがわかってきます。精神的開国と同時に物理的な開国をして、自分たちのおかしさを、他者という鏡に照らして知ることになります。日本は多民族国家になるという荒療治を通じて今の精神構造を打開することが不可欠です。
私が失望したのは、安倍政権が「外国人労働者受け入れ拡大」の法律を推進したとき、野党がまともにその考え方を批判しなかったことです。安倍首相にとって、日本が多民族国家に生まれ変わることは彼がもっとも大事にしている「国体」を突き崩すことに直結します。彼にとっては、日本の人口が減少し、衰退していくことよりも「国体」を守ることの方が大事なのです。彼が「外国人労働者の限定的な受け入れ枠拡大」に執着したのはそのためです。野党のどれ一つとしてそのことを問題視せず、日本社会全体を見てもそのことに気がつかなかったということは、日本の「たこつぼ」的本質を如実に示しています。
西側諸国の多くが、大量の移民を受け入れることによって初めて人口が拡大再生産できる1.75%以上の人口成長率の水準を維持しています。大量の移民、難民を受け入れることにより、私が申し上げている「開国」が可能になると同時に、国家としての拡大再生産もできるのだということを真剣に考えていただきたいと思います。
私が最も望んでいないのが三番目の「強制的開国」です。それは、端的に言えば日本がもう一度1945年8月15日に逆戻りすることです。第二次大戦の結果を受け入れようとせずに、人間の尊厳や基本的人権を無視する今の安倍政権の異常さについては、アメリカの中にも「おかしい」と言う人たちが出てきています。仮に、安倍政権がアメリカを怒らせることになったら、アメリカはポツダム宣言をともに作った中国、ロシアと再び手を組んで、日本に対して「いい加減にしろ。ポツダム宣言に戻れ」と動く可能性は確実に出てくると思います。それは戦わずして1945年8月15日に戻ることです。その時、私たちは再び強制的な開国を強いられ、1945年8月15日の時よりも冷厳な現実が押し寄せます。それは本当にあってはならないことなので、私たちは精神的開国、物理的開国によって日本を作りかえ、われわれの精神構造も作りかえていくことを考えなければいけないのだと思います。

■アメリカの北東アジア政策からの決別
アメリカは、トランプ政権になって随分変わりました。勝つか負けるかのパワー・ポリティクスという伝統的な政策という点では、今までの政権と違いはないのですが、オバマ政権まではイデオロギーや思想による勝つか負けるかでした。しかし、トランプはそろばん勘定における勝つか負けるかです。トランプは「アメリカは日本を守ってやっているのに日本はアメリカを守ってくれない」とか馬鹿げたことを言っていますが、日米軍事同盟をやめるとは口が裂けても言いません。アメリカがアジアで威を張るには、日本という不沈空母がなければどうしようもないからです。日本という同盟者がいなくなったら、アメリカはグアム、ハワイまで後退しなければなりません。それは対アジア戦略の崩壊ですから、アメリカは誰が政権を取ろうと日本を離そうとしないでしょう。
逆に言えば、アメリカは自分のために日本を飼い殺しにしているのです。そのアメリカに対して、内閣府の調査によれば、75%以上、つまりの4人に3人の日本人が好感をもっているのです。これは本当に不思議なことです。今のままでは私たちの対外政策、平和政策、安保政策はどうあるべきかという原点に戻れないのです。その原点は何かといえば、アメリカ的な勝つか負けるかのゼロ・サムのパワー・ポリティクスに立つか、それともウィン・ウィンでともに勝つ脱パワー・ポリティクスという選択をするのかということです。その選択が21世紀において迫られているのです。
日本に当てはめれば、ゼロ・サムのパワー・ポリティクスを具現しているのは対日平和条約であり、それと同時に結ばれた日米安保条約、今でいう日米軍事同盟体制です。一方、ウィン・ウィンの脱パワー・ポリティクスの思想を体現しているものは1945年のポツダム宣言であり、それを元に作られた日本国憲法です。しかし、日本国民の3人に2人が「安保も憲法も」と考えています。憲法は変えたくないが安保も必要という、これほど自己分裂している考え方はありません。この二つは両立するはずがないのですが、そこをはっきりさせず「現実」を追認するのです。丸山眞男の言う「既成事実への屈服」の典型例です。これではいけないと思います。
私は、日本の原点はポツダム宣言であり日本国憲法であるという立場に立っています。アメリカへの追随から決別する上でも、私たちはポツダム宣言と日本国憲法に回帰しなければいけないと思います。日韓関係に関して言えば、戦後の冷戦構造にどっぷりつかるのではなく、脱冷戦の構造にもっていくことです。1965年の日韓体制はまさにゼロ・サムのパワー・ポリティクスの産物ですから、その体制から脱却しなければいけません。韓国側が呼びかけている人間の尊厳と基本的人権の尊重を基礎とする新日韓体制を構築するべきです。
ちなみに、習近平の中国がやろうとしている外交は、アメリカのパワー・ポリティクスを否定して、ウィン・ウィンの民主的な国際秩序づくりです。中国のことを強権国家で覇権国家だと思っている日本人が結構多いのは、パワー・ポリティクス的な発想に染まっている証左です。平和憲法に立脚するわれわれの平和外交と、中国の今やろうとしている外交の方向が一致しているならば、それと共同してみなければ始まりません。それでうまく行ったら、こんな嬉しいことはないのです。
今のアジアは「米・日」対中国です。これが米対「日・中」となれば巨大な地殻構造の変化が起きます。朝鮮半島に関して言えば、今は「朝鮮+中露」対「韓国+米日」です。それが米対「朝中露+日韓」になれば勝負ありです。そういう可能性がわれわれの目の前にあります。取るか取らないかは私たち次第です。主権者・国民である私たちには何が求められているのでしょうか。それは皆さんご自身で考えてください。
2019.12.05 トランプは習近平の救いの神?- 棚からぼた餅のサンドバッグ
習近平の中国(9)

田畑光永 (ジャーナリスト)

 米議会上下両院がともに圧倒的多数で「香港人権・民主法案」を可決したのを受けて、その成立のための大統領署名を中国との貿易交渉を抱えているトランプ大統領がすんなりするかどうか、世界が注目する中、11月27日、トランプはあっさり署名して同法は成立した。
 ご承知かと思うが、この法律の趣旨は、香港での人権や民主主義にもとる出来事の有無を米政府に監視させて、議会に報告させ、あった場合にはそれにかかわった香港政府の人間に対して米国への入国を制限したり、在米資産を差し押さえるなどの制裁を加える、というものである。
 他国の領土における人権、民主状況についてこういう措置をとるのは異例ではあるが、その根拠は1997年に香港が英から中国に返還されるにあたり、中国政府がそれまでの英国統治時代の、つまり資本主義世界の諸制度を香港ではそのまま維持し、中国本土とは別の法体系の下に置く「一国二制度」を50年間続けると国際社会に約束したことにある。
 とはいえ、実際にはその約束は徐々に影が薄くなり、本土化が進んでいることは周知の事実である。端的な例は香港の行政の責任者である行政長官は返還20年後には普通選挙で選ばれることになっていたのを、2014年に中國が間接選挙にしてしまったことである。今年5月以来の市民運動の発火点となった「逃亡犯条令」の改正案(香港に逃げ込んだ犯人を大陸に引き渡すことを可能にする改正)もまさに「一国二制度」の切り崩しの一例である。
 米の新法はそれに歯止めをかけようとするものであるが、中国にしてみれば、内政に干渉する大きなお世話ということになる。だからここ数日、政府、メディアは口を極めて対米非難を繰り広げている。
 その論点は新法成立直後の28日の中国外交部の記者会見における耿爽報道官の発言でほとんど尽きている。それはーーー
新法は、香港のことがらに関与しようとする内政干渉であり、国際法と国際関係の基本原則に反する、赤裸々な覇権行為であって、中国政府と中国人民は断固として反対する。
新法は、公然と暴れまわって、罪のない市民を傷つけ、法治を踏みにじり、社会秩序に危害を及ぼす犯罪分子を元気づけるきわめて悪質かつ悪意に満ちており、その根本目的は香港の繁栄と安定を破壊し、「一国二制度」の偉大な実践を破壊し、中華民族の偉大な復興の歴史的進展を破壊しようとするものである。
われわれは米国が独断専行をやめるよう勧告する。やめなければ中国は必ずや断固たる反撃を加え、そこから生ずるすべての結果は米側が責任を負わなければならない。
この趣旨を、28日「新華社」評論員『米は独断専行の悪果を自ら食せ』、同日「人民日報」評論員『いかなる脅しも中国人民には無益―内政干渉は成功せず』、同日「環球時報」社説『米の香港干渉法も香港が中国であることを変えられず』、30日「人民日報」評論員『米の覇道に断固反撃―強権をもてあそぶものは失敗する』、同日「人民日報・海外版」望海楼『強権陰謀はかならず破綻』、同日「環球時報」社説『ワシントンは香港と世界の連携を断ち切れず』・・・こんな調子で大合唱して(まだほかにもあるだろうが)、反米世論を盛り上げている。
********
こういう衆を恃んでのキャンペーンは中国メディアの得意とするところで、したがって読むほうも慣れているから驚かないが、今度ばかりはトランプはなんと無邪気に中国に助け舟を出したのだろうと舌打ちしたい気分である。
というのはほかでもない。前回取り上げたようにトランプの署名の3日前、11月24日には香港区議会議員の選挙が行われた。総数452議席をめぐって、人口約700万人のうち294万人が投票し(投票率71.23%)、民主派が385議席(得票率57%)を得たのに対して、親中派は59議席(得票率41%)と惨敗した、というのがその結果である。
私はここにいくつかの数字を掲げたが、じつはこれらは邦字紙と地元のダウ・ニュースからの引用で、選管当局ないしは中国官制メディアからのものではない。どちらも外国にいる私が目にできるような形では選挙結果を報じていないからである。
都合の悪いことは頬被りをして素通りするという、メディアとしては許されない不道徳が中国ではまかり通るが、今回もそれである。しかし、今回の選挙はそれこそ「一国二制度」の香港、世界に開かれた香港での選挙である。それも中国共産党の傀儡である現体制を支持するか、しないかで半年近くも市民が街頭に出て、主張をぶつけ合ってきた中での選挙であった。
その結果を内外に知らせることは、責任ある大国としては当然の義務である。結果は中国の政権にとってはあるいは晴天の霹靂であったかもしれない。というのは、毎週のように激しい街頭行動が続いていたので、対立の火に油を注がないために、この選挙は延期されるのではないかという観測が広くおこなわれていた。ところが、選挙は実施された。おそらく、街頭闘争にうんざりした市民は民主派を勝たせることはないだろうというのが政権側の予測であったと思われる。「中央テレビ(CCTV)は投票日直前まで『投票に行って暴力を蹴散らそう』と選挙の大切さを訴える香港各界の様子を伝えていた」(11月29日・日本経済新聞)という。
香港市民は政権のそうした思惑どうりには投票しなかった。それでもその結果を国民に正直に知らせて、そこから何をくみ取ったかを明らかにするのは当然の義務であるはずだ。しかし、私の目の届く限りでは中国の公式メディアは結果を報じていないし、それへのコメントも一切報じない。選挙から目をそらせるためには、反トランプ、反米のキャンペーンまことに時宜を得た好材料である。トランプの行動が結果として、中国メディアに恰好のサンドバッグを棚からぼた餅のように届けたのである。
11月30日の「新華時評」『香港と国家の利益を売り渡す者は歴史の懲罰を受ける』は、香港の運動と米国を結び付けて、彼らを売国奴と糾弾している。選挙に現れた民意に古めかしい罪名を着せかけて、選挙結果をうやむやにしようという底意が見える。
表向きの激怒の裏側で習近平は「いい時にいいプレゼント」とトランプの署名の絶妙のタイミングに手を合わせているのではあるまいか。                 (191201)
2019.11.28 香港区議会議員選挙結果の巨大な意義 ― ゆらぐ一党独裁の根拠
習近平の中国(8)

田畑光永 (ジャーナリスト)

 世界が注目する中、24日に投開票がおこなわれた香港区議会選挙の結果はいわゆる民主派の圧倒的勝利となった。投票総数約300萬、得票率は民主派57%、親中派41%。当選者数民主派395人、親中派59人、その他8人(11月26日・日本経済新聞による)。この意味の「巨大さ」を考えたい。
 知られているように香港は1997年に英から中国に返還されて以来、「一国二制度」が適用される特別行政区として他の省・市とはことなる法的地位をもっている。その象徴的な存在が3つの選挙である。
 まず特別行政区の行政のトップを選ぶ「行政長官選挙」、そして立法機関である「立法会議員選挙」、そして先日行われた地方議会たる「区議会選挙」である。中国本土では一般民衆は全国人民代表大会の末端である基層(地区や職場、所属単位)人民代表の選挙に参加できるだけ、それも被選挙権となると様々に制限されているのに比べれば、香港の参政権は格段に大きい。
 といっても、それは中国本土に比べてというだけで、「一国二制度」も当初の想定とは今や似ても似つかないものに変質してしまっている。行政長官選挙は返還前には「返還20年後には完全な自由選挙」のはずだったのが、それが近づいた2014年に自由選挙でなく、産業界など各分野から選出された1200人の選挙委員による現行の間接選挙へと本土の命令で様変わりすることになり、それに怒った若者たちがあの「雨傘運動」を展開した。
 立法会議員選挙も全員が自由選挙で選ばれるのでなく、定数70の半数を業界団体から選ぶことになり、また直接選挙も比例代表制となったり、当選後も議会で中国への忠誠を誓わなければならないといった「踏み絵」が設けられたりして、民主派が多数を占めるのは難しくなっている。
 この2つに対して18選挙区で452の議席を争う区議会議員選挙だけは、18歳以上の市民に1人1票が与えられる選挙らしい選挙である。その結果はとてつもなく大きい。当選しても立法機能があるわけでもなく、政策提言程度の権限ではあるが、そんなことは今回はどうでもいい。
 5月以来、何度も100萬を超える市民が「政治」に立ち上がり、思いを行動に移してきたそのエネルギーの量と方向とをここではっきりと数字にして残すことができたのが大きいのだ。中国では建国以来空前の壮挙である。
***********
 中国共産党は選挙が嫌いである。有名な言葉を1つ紹介しよう。
 「中国であなた方がやっているような多党制、三権分立をやれば、間違いなく大混乱だ。今日はこっちの連中が街に出れば、明日はあっちから出てくる。中国には10憶の人口がいる。1年365日、毎日が大騒ぎだ。それで日が過ごせるわけがない」
 これはかの鄧小平が1987年6月29日に米カーター前大統領(当時)を北京に迎えた時の談話の一部である。(『鄧小平文選 第三巻』244頁 人民出版社 1993年)
 鄧小平一流の諧謔であるが、この後2年も経たないうちに、あの天安門事件につながる北京の民主化運動が起こったことを考えると、鄧小平はそれを気持ちのどこかで予期していたか、などと想像したくなる。
 閑話休題。中国共産党が選挙を嫌うのは、騒ぎが起きるからではなくて、選挙が怖いのである。
 共産党政権はなぜ選挙をせずにここまでやってこられたか。それは革命戦争に勝ったからである。選挙は「風」で勝つこともできるが、革命はそうはいかない。中国共産党が武器にも不自由な少数の革命軍で、米国製兵器を持った国民党の大軍勢に勝つことができたのは、正義が共産軍にあったからだ。その勝利の重さは1回や2回の選挙で勝つことの比ではない。
 周知のレーニンの「プロレタリア独裁」、毛沢東の「人民民主独裁」の根拠がこの論理である。命と引き換えに手に入れた権力を気まぐれな「風」に奪われるなど論外だ、というのは分かる。しかし、この命題に有効期限はないのか。それが問題である。引用した鄧小平の言葉は革命勝利38年後である。しかし、鄧小平本人は革命戦争を実際に戦った人間である。
 常識的に考えれば、先の論理が通用するのはせいぜいが鄧小平あたりまでではないのだろうか。その後、中国共産党を動かして来た江沢民以下の幹部たちは革命体験者ではない。革命70周年を迎えた今の習近平以下の面々となると革命当時は生まれてもいなかった。
 その面々が建国当初の「中国共産党がすべてを指導する」というスローガンを振りかざして、自ら「民意の代表」をもって任じ、仲間内の談合で生まれたに過ぎない「総書記」がいつの間にやら「核心」などと称して、全知全能の軍司令官でもあるかの如くに振舞っている。
 このからくりを温存して、支配者として君臨し続けるためには、「核心」に国民が心服している形を整えなければならない。最近の中国のメディアが文革当時を思わせる個人崇拝に溢れているのはそのためである。
 しかし、どの程度の国民がそれを真に受けているのか、その実態を国民同士が知った時を彼らは恐れる。昨年春の人民代表大会で国家主席の任期を廃して、実質、終身主席に道を開いた憲法改正についての投票結果を2970対0という喜劇的数字に操作することはできても、無名の民衆全員に1票づつ与えて治世について公に信を問う勇気は習近平にはない。選挙は彼の周辺では禁句であろう。
 ところがそれが今回、香港で突如、実現したのである。どのような理屈をつけようとも、今回の選挙は実質的に中国共産党の香港統治、さらには中国全体の現状を肯定するか否定するかの二択の選挙であった。そして、出た結果にもっとも衝撃を受けているのは北京中南海の住人たちであろう。
 今のところ、中国のメディアは香港の民意を直接論評しているものは見当たらない。あくまで「一国二制度」の中の局部の問題と位置付けて、市民に自重を求める(26日『環球時報』社説)、あるいは米国の干渉を批判したり(27日『人民日報』「鐘声」欄)、といったところが目に付く程度である。
 われわれは「香港市民が共産党にノーと言った」という結果が広く中国の庶民の耳に伝わった後に聞こえてくる声に耳をそばだてよう。                    (20191127)

2019.11.27 ライク外務大臣粛清の全容(2)
 フィールド一家の悲劇

盛田常夫(在ブダペスト、経済学者)

 ライク逮捕・起訴において、ノエル・H・フィールドの存在と「自供」(氏名リスト)は決定的な証拠とされた。フィールド逮捕は極秘事項であり、フィールドは自らの拉致を外に知らせる手段をもっていなかった。
チェコスロヴァキアの諜報部に出向いたはずの夫から、長い間にわたって連絡が無いのを不審に思った妻のヘルタは、プラハの諜報部に出向き、夫の消息を尋ねた(1949年8月26日)。チェコスロヴァキア諜報部は夫のノエルはハンガリー国境近くの町の病院に入院しているとヘルタをブラチスラヴァへ案内し、そこからさらにハンガリー国境へ移動しハンガリー諜報部隊に引き渡した(8月28日)。夫に続いて、妻も拉致されたのである。もっとも、この拉致によってフィールド夫妻は合流することになったが。夫人逮捕の理由は、アメリカのスパイである夫との共謀罪であった。
 フィールド尋問内容はチェコスロヴァキア諜報部やポーランド諜報部にとってもきわめて重要な情報であり、フィールド逮捕後に、両国の諜報部員が頻繁にブダペストを訪れ、直接にフィールドを取り調べている。

事実は小説より奇なり
 ヘルタが消える前、ノエル・フィールドの弟であるヘルマン・フィールドはヘルタの知らせにチェコスロヴァキアに渡り、そこからワルシャワに飛んで友人たちと会い、その後音信不通になった。プラハに戻る帰路、ワルシャワ空港でポーランド諜報部に逮捕され(1949年8月22日)、ワルシャワのミエンジェシンにあるポーランド諜報部の監獄に拘束されたのである。
 ヘルマン・フィールド夫妻は建築家で、欧州の戦後復興計画を調べるために、度々欧州に出向いていた。ポーランドで調査したこともあり、ワルシャワには建築家の友人たちがいた。その手助けでビザを取得してワルシャワに入り、帰路プラハへ戻る時に拘束された。逮捕を実行したのはポーランド保安警察第10課(国内共産党内部のスパイ摘発)次長のユゼフ・スフィアトゥヴォ(Jozef Swiatlo)だが、逮捕指示は当時の共産党書記長で大統領を兼ねていたビエルトから出ていた。ライク事件の出発点になったフィールド逮捕と取調べは、ハンガリーのみならず、チェコスロヴァキアとポーランドの諜報部にとっても、きわめて重要な案件であった。
 後にヘルマン・フィールド夫妻が記した手記(Herman Field, Trapped in the Cold War: The Ordeal of an American Family, Stanford University Press, 2000.pp. 5-15, pp.365-367)に、ワルシャワ空港での逮捕状況が記されている。当時、アメリカ国務省は1949年9月13日付けで、ポーランド外務大臣宛にヘルマン・フィールドの消息を尋ねる外交文書を送付した。これにたいして、ポーランド外務大臣は9月28日に、アメリカ大使に口頭で、「彼の動向は不明(really mystified)」と回答した(Hermann Field, 上掲書429頁)。
 こうして、ハンガリーに拉致されたノエルだけでなく、ヘルマン・フィールドもポーランドに拉致・収監されたのである。

フィールド夫妻養女の拉致
 フィールド夫妻が育ての親であるエリカ・ヴァラックはドイツの共産主義者の仲介を得てベルリンに向かい、両親の消息を探ろうとしたが、ソ連占領地に入ったまま消息不明になった。ソ連軍に逮捕された(1950年8月)。かくして、フィールド一家はそれぞれがハンガリー、ポーランド、ソ連の保安警察部隊に拘束され、消えてしまった。
 エリカ・ヴァラックは社会主義の理想を信じて、共産党員になった。フィールド夫妻の消息を探るために、ドイツ共産党員レオ・バウアー(Leo Bauer)に助けを求めたところ、東ベルリンで会うことになった。西ベルリンのテンペルホフ空港に午後1時に到着し、午後3時に東ベルリンに入って1時間もしないうちに、スパイ容疑でドイツ保安警察に逮捕され、ソ連側に引き渡された。
 逮捕後、1年半の間、ベルリンの刑務所に拘束され、ソ連の軍事法廷で死刑を宣告された。その後、ポーランドのブレスト(Brest)に移送され、そこからさらにモスクワに移送されて処刑を待つ身となった。モスクワに到着して半年ほど経過して、死刑から15年の強制労働へ減刑という通知を受け、ヴォルクタ(Vorkuta)の労働キャンプへ移送された(1953年8月)。1954年12月までヴォルクタで強制労働に従事し、そこからすべての外国人はアベズ(Abez)の一般刑務所に移送された。そこに1955年9月まで拘束され、その後にモスクワの拘置所に移された。モスクワ移送は「再調査の結果、無罪と認定されたから」というものだった。1954年秋に釈放されたフィールド夫妻とヘルマン・フィールドは、ポーランドとハンガリーの当局にエリカ・ヴァラックの消息を求める要請を行い、フルシチョフにも手紙を送った。アメリカ国務省もソ連側に釈放を求めた。最終的に1955年10月に釈放され、10月27日に空路で東ベルリンへ向かい、そこからタクシーで西ベルリンへ戻った。
 以上の足跡は、1955年12月9日付のU.S. News and World Reportに掲載されたエリカ・ヴァラックのインタヴュー記事を要約したものである。
 当時、東欧各国の保安警察ではスパイ容疑で逮捕した者をソ連保安警察に引き渡すことが慣例になっていた。というより、「ソ連に引き渡す」という殺し文句が自供を引き出す取調べ手段になっていたのである。ライク夫人も、ハンガリー保安警察の取調べにおいて、取調官からソ連への引渡しの脅しをかけられていた。何ともやるせない。
 数奇な運命を辿ったヴァラックは自らの体験を綴った書籍を出版した(Erica Glaser Wallach, Light at Midnight, Doubleday; 1st edition 1967)。このタイトルは、ハンガリー人作家アーサー・ケストラー(Arthur Koestler)のノンフィクション的小説Darkness at the Noon(Macmillan, 1940. 邦訳『真昼の暗黒』(岩波文庫、2009年)から着想された。ケストラーの小説の主人公はエヴァ・ストライカー(Eva Striker Zeisel, 1906-2011年)で、マイケル・ポラーニィの妹ローラとシャンドール・ストライカーの間に生まれた子供である。エヴァはオーストリアの物理学者と結婚してソ連に移住したが、そこで遭遇した苦難を描いたものである。

フィールド拉致事件の暴露
 フィールド拉致はライク裁判においても極秘事項だった。そして、もしその後に起きた亡命事件が発生しなければ、フィールド一家の拉致事件は永遠に知られることなく、闇に包まれたまま歴史から消えるはずであった。
 ところが、フィールド一家拉致が公になる事件が発生した。
 フィールド逮捕からすでに5年半が過ぎた1954年10月、ラーコシは湯治目的でモスクワに滞在していた。そこへポーランド統一労働者党第一書記長ビエルトが突然やってきた。緊急の用件でモスクワに出向いてきたのだ。ポーランド諜報部幹部でヘルマン・フィールド逮捕を実行したユゼフ・スフィアトゥヴォが、前年暮れの東ベルリン出張時に亡命し(1953年12月5日)、ヘルマン・フィールド拉致を明らかにしたために、アメリカ国務省から外交ルートを通して、引渡し要求が来ているというのだ。それで、慌ててモスクワに飛んで来た。ヘルマン・フィールドを釈放するだけでなく、ハンガリーに拘束されているノエル・H・フィールドも釈放しないとまずいという。ラーコシは暫く時間が欲しいと答えたが、その日のうちにノエル・H・フィールドの釈放指示を出した。
 亡命したスフィアトゥヴォはフランクフルトのCIA離反者受付センター(CIA Defector Reception Center)で取調べを受け、1954年4月にアメリカ本国に移送され、さらに取調べを受けた。スフィアトゥヴォが公の場に姿を現したのは、1954年9月28日のラジオ・フリー・ヨーロッパの放送である。これでヘルマン・フィールド拉致事件の全貌が公になり、アメリカ国務省が正式な引渡し要求を行い、4週間後にヘルマン・フィールドの釈放が実現した。1949年にスフィアトゥヴォは何度もブダペストに出向き、ノエル・H・フィールドの尋問を行っているから、フィールド夫妻がハンガリーに拘束されていることも知っていた。ノエル・H・フィールド夫妻が釈放されるのは、その3週間後である。

 なお、ハンガリーで釈放されたノエル・H・フィールド夫妻にアメリカへ戻る意思はなく、ハンガリーに「亡命」することになった。ハンガリー(カーダール)政府は賠償金を支払い、住居と職を与え、ラーコシ時代の暴挙を謝罪した。ノエルは1970年に、妻のヘルタは1980年にブダペストで他界した。
 ノエル・H・フィールドのドキュメンタリー映画が制作されたように、西側ではフィールド一家の悲劇の調査や研究が多数発刊されているが、ハンガリーでは専門家以外にフィールド事件を知る人はほとんどいない。

2019.11.26 唯一の隣国との友好関係を取り戻そう
ー韓国がGSOMIA破棄を「停止」・WTO提訴も中断
最も積極的だった朝日の報道


坂井定雄 (龍谷大学名誉教授)

 文在寅大統領率いる韓国政府は23日、日本との軍事情報包括保護協定(GSOMIA)の破棄通告を、発効前日に「停止」し、日本から韓国への半導体など3品目の輸出手続き煩雑化に対するWTO(世界貿易機関)への提訴を停止すると発表した。まずはよかった。米国政府の両政府への精力的な調停工作が功を奏した。こんご両国は、昨年来の両国関係悪化の直接的な原因となった、日本支配下の徴用工への補償問題を“棚上げ”などで解決し(日本政府は徴用工問題への報復とは言わず、韓国側の貿易管理に問題があるための制限措置と主張)、日本側は輸出手続きを元通り正常化しなければならない。
 今回の問題でも、安倍政権と一部の民放番組、週刊誌は、反韓国宣伝・扇動に狂奔した、安倍政権が対韓政策を修正、転換できるかどうか。中国、ロシアの2大国、北朝鮮に対して、日本、韓国と同盟関係にある米国では、自国の利益のみを優先するトランプ政権がますます横暴になっている。今回は、米国の戦略上、日韓関係でのGSOMIAの維持が極めて重要だから、米政府は解決に尽力した。日本政府は自国の安全、経済的繁栄のために、韓国との友好関係を、早急に改善する努力をすべきだ。

 今回の韓国政府によるGSOMIA破棄、破棄「停止」問題の新聞報道では、朝日新聞の報道が最も積極的で、多くの紙面を埋めたと思う。韓国がGOSMIA失効期限前日の22日に一転し、文在寅大統領府が「効力停止」を発表した翌日の23日、朝日新聞の報道は1面「GOSMIA一転継続―韓国が破棄を「停止」―WTO提訴も中断」、2面の「土壇場文政権が軟化」、12面の社説「日韓情報協定―関係改善の契機とせよ」だった。
 ところが翌24日(日)の紙面は次のような構成で、いわば“朝日の全力投球”
 1面 日韓主脳会談 来月で調整、外相会談 連携の重要性確認
 3面 失効回避の裏 米が「圧力」
   「GOSMIA維持 日韓に働きかけ」
 4面 GOSMIA継続 韓国厳しい見方も
   考/論 元徴用工含まぬ合意 両国は対話を(趙太庸・韓国外交省・元第1次官)
 8面 社説余滴(箱田哲也)日韓、米国頼みのたそがれ
 31面 ナショナリズムの迷宮 すれ違う日韓(下)
    両立できぬ「歴史の物語」
    日韓 譲れない自国への誇り
    根深い近親憎悪
 すでにお読みの方も多いとは思いますが、ここでは、23日の朝日社説を再録します。

(社説)日韓情報協定 関係改善の契機とせよ

 日韓の安全に資する協定が、かろうじて救われた。ひとまず安堵(あんど)できても、問題の根本は手つかずだ。理不尽な事態を繰り返さないための健全な関係回復に本腰を入れるべきだ。
 きょう失効を免れたのは、GSOMIA(ジーソミア)と呼ばれる政府間の取り決めである。両国が軍事情報を共有するための協定で、文在寅(ムンジェイン)政権は寸前のところで破棄を撤回すると発表した。
 日米韓は、この協定を主要な回路の一つにして、安全保障の情報をやりとりしている。破棄となれば、共同歩調に悪影響が出ることが懸念されていた。
 北朝鮮の不穏な動きが続くなかで、日韓関係がここまでこじれたのは不毛というほかない。今回の失効回避を機に、両政府は国民の実利を損ねる負の連鎖を止めなければならない。
 韓国側が8月に協定の破棄通告をしたのは、日本による輸出規制強化への対抗策だった。きのうの発表でも、今後いつでも破棄できると強調し、日本側に相応の対応を求めた。
 だが、いくら韓国内の対日世論が硬化したからといって、安全にかかわる問題を取引材料にすること自体に無理がある。
 北朝鮮に加え、中国やロシアも日韓関係の悪化に乗じて軍事的な挑発行動に出ている。内外の現実を慎重に考慮すれば破棄の選択肢はなかっただろう。
 一方、日本政府にも関係改善への重い責任がある。7月に唐突に打ち出した韓国向け輸出の規制強化は、昨年来の徴用工問題をめぐる事実上の報復にほかならない。
 韓国では、製造業で不安が広がっただけでなく、日本による「強圧」に対する世論の反感を増幅させた。韓国からの訪日客の激減は日本の観光地を悩ましているほか、さまざまな市民交流も滞っている。
 文政権が誤った対抗措置のエスカレートを踏みとどまった以上、日本政府も理性的な思考に立ち返るべきである。輸出規制をめぐる協議を真摯(しんし)に進めて、強化措置を撤回すべきだ。
 いまの両国間に横たわる問題の本質は、日本企業に賠償を命じた韓国大法院(最高裁)判決への対応である。今回図らずも芽生えた両政府間の危機管理の対話を発展させて、徴用工問題を打開する枠組みづくりを急がねばならない。
 文氏も安倍首相も、相手との妥協を政治的な損失ととらえる考え方から脱すべきだ。たとえ不人気であっても、国民の未来を見すえた外交の価値を説くのが政治家の務めである。
 両国関係の土台である1965年の日韓請求権協定を守り、両国関係全般を本来の軌道に戻す一歩を踏み出してほしい。

2019.11.25 少数民族にとって中国革命とは何だったか(7)
――八ヶ岳山麓から(300)――

阿部治平 (もと高校教師)

ここでは皇帝に匹敵する権力と階級闘争の論理が少数民族の衰退を導いた経過を見る。

反右派闘争の始まり
1956年2月、ソ連共産党20回大会でのフルシチョフ首相のスターリン批判は世界に大きな衝撃を与えた。とりわけハンガリーやポーランドなど東欧諸国の衝撃は大きく、社会的動揺が生れた。
5月毛沢東はこれによって自信が揺らいだのか、ひろく中共の支配に対する批判を求めた。「百花斉放百家争鳴」運動である。知識人らは、はじめ報復を恐れて批判を口にしなかったが、何回も促されてようやく意見表明に踏み切った。批判の多くは誰が考えても当を得たものであった。
しかし毛沢東は、6月になると人民の敵=右派が一斉に立ち上がったものと受け止めて中共批判に激しく反論し、それまで中共に寄り添ってきた民主同盟や農工民主党を「反共反社会主義」と名指しで批判した。毛沢東による批判は皇帝の裁決と同じ意味を持つ。
毛沢東は、社会主義改造がおわった中国になおプロレタリアートとブルジョアジーの矛盾が存在し、社会主義と資本主義の生死を賭けた路線闘争が存在する。これに勝利しなければ体制の危機が生まれると考えていた。プロレタリア独裁下の継続革命と階級闘争の理論である。
このとき、反右派の熱狂が中国中を駆け巡った。知識人はブルジョアジーに区分され、攻撃の対象になった。中国の建設に必要な知識人55万余が社会的に葬られた。彼らの家族も運命を同じくした。これ以後毛沢東路線に反対する者はほとんどいなくなった。
だが、3年後の59年の廬山会議では、彭徳懐らは民衆の餓死・放浪・離散の惨状を背景に、あえて毛沢東の大躍進政策を批判した。毛沢東はこれもブルジョア階級の反撃として退けた。彭徳懐は文化大革命の初期、暴行虐待を受け獄死した。

青島民族会議と地方民族主義
チベット人地域反乱と同時に反右派闘争がつづくなか、1957年7月山東省青島に29の民族105人の代表を集めた民族工作座談会がひらかれた。総理周恩来は、はじめ遠慮のない発言を求め、発言に対して報復をすることはありえないといった。
新疆の独立運動すなわち「東トルキスタン共和国」運動を戦ったものからは、連邦国家と自治区の区域変更の要求が出された。青海省副省長だったタシ・ワンチュクは、チベット自治区をチベット人地域全体に拡大するよう要求した。さらに叛乱鎮圧の仕方が無慈悲で、罪のないものが大量に殺されていると抗議した。
会議の終わりに、総理周恩来は少数民族の要求を全面的に退ける挙に出た。少数民族は漢民族などと雑居しており、独立した経済単位となってはいない。したがって独立の主体とはなりえない、と民族自決と連邦国家構想を否定し、民族自治区域の変更も拒否した。
57年11月、北京での中央民族委員会座談会において、責任者の汪鋒は「自治区拡大や単一民族の自治区を求めるのは、中央の政策に逆らうものだ」「地方民族主義批判は、少数民族地区における社会主義と資本主義の二つの道の戦いだ」と発言した。
これ以後、民族問題についてなにか発言するものは、地方民族主義すなわち階級的敵のレッテルをはられた。
プンワンは、かつて毛沢東が大漢民族主義に反対せよと発言したことを指摘したにもかかわらず、「この階級闘争の結果、全国人口の8%しかない少数民族のうち、十数万の人々が地方民族主義の帽子をかぶせられ、迫害を受けた。これに引きかえ人口の92%を占める漢人にはだれひとり大漢民族主義分子がいないのである。この不公正な現象はどうしても理解できない」と慨嘆した(“A Brief Biography of Phuntsok Wanggyal Gorananpa” by Daweixirao )。

青海の方法
毛沢東は、少数民族問題もプロレタリア独裁下の階級闘争の論理で裁いたのである。
58年3月毛沢東は、中共四川省委員会の『甘孜蔵族自治州民主改革問題に関する中央への報告』に同意し、「(チベット政府管轄地域は延期したが)金沙江の東(すなわち甘孜州)は断固としてやる」「民衆に依拠してやる。基本的な環節は、農牧民が主人公になる気持があるかどうかだ」といった。ところが農牧民には、集落首長や寺院を乗り越えて主人公になる気はすこしもなかった。
毛沢東はこの実態を見ようとしなかった。だから叛乱鎮圧については、「戦争はどうやるか?準備しなくてはならなない。準備して大いにやれ。やればやるほどよい。これはいい加減にはできない。ぐずぐずしていれば余計悪くなる」と指示したのである。
中共青海省委員会は58年1月2日から3月8日まで、拡大全体会議を開き、党書記孫作賓ら省政府幹部数名を、少数民族政策と宗教政策において中共中央の路線に反した反党集団として除名した。このとき、党省副書記タシ・ワンチュクも副省長の職務が剥奪された。実権を握った急進派は、叛乱の徹底鎮圧を中央に申請した。58年6月24日毛沢東は、これに同意の回答をした。
「青海の反動派の叛乱は極めて結構だ。労働人民解放のチャンスがやって来た。青海省委の(断固鎮圧するという)方針は全く正確だ」
「チベット人地域の問題は戦略問題であり、革命の問題である。革命の問題は革命の方法を採用しなければならず、任務は素早く徹底的にやれ。青海は初めのころ平和的にやった。だがいま革命的方法をとっているのは正しい」
青海の急進派は本当にこの通りにやった。たとえば海南州マンラ(貴南)県では集落首長や僧侶41人を「学習」名目で招集して大部屋に監禁し、窓から銃を撃ち込んで皆殺しにした。これを私が知ったのは、当時の公安警察幹部だった人物が55年後に事件を明らかにしたからである(尹曙生論文「炎黄春秋」2012・3)。
「青海の方法」はすべての叛乱地域に適用された。中共軍は遠慮することなく、チベット高原の仏教寺院を反革命拠点としてほとんど打ち壊し、虐殺と略奪から逃亡しようとしただけの「労働人民」を大量に殺戮したのである。

毛沢東は今も生きている
王希哲は1980年に香港で発表した論文「毛沢東と文化大革命」の中でこう指摘した。
「……毛沢東が成功裏に指導したこの革命は、農民革命にすぎなかった、ということだ。それは共産党の指導下に行われたが、その内容について言えば、農民革命の範疇を出るものではなかった。
……もしわれわれが毛沢東を一人の農民首領として考察するのであれば、別に何も彼を
糾弾せねばならぬところはない。毛沢東は中国の歴史上もっとも偉大な、空前絶後の農民首領である。彼が後に中国の帝王になったのは、まったく農民首領の階級的必然性がしからしめたのであって、すこしもおどろくにはあたらない」(高島俊男『中国の大盗賊』講談社現代新書)。この論文によって王希哲は懲役15年の刑を受けた。

中共は抗日戦争を8年、国共内戦を4年戦った。中共の勝利は党内で最高の地位にあったものの勝利であった。中国は農民がほとんどを占めていた。農民は貧困と圧政からの脱出と平等を渇望し、その実現をいつも英雄に託してきた。歴史上勝利した英雄はたちまち誰からも干渉を受けない地位に昇った。
レーニンの時代から各国共産党には、下級は上級に従う、少数は多数に従うという組織原則があった。これがスターリンなど指導者個人に権力が集中し、個人崇拝を生んだ原因のひとつとなった。ところがこの原則は中国伝統の皇帝支配の論理に非常にうまく調和した。
毛沢東は「私は秦始皇にマルクスを加えたものである」と公言してはばからなかった。彼は自分が大衆の崇拝を受け大衆に君臨している事実を十分に自覚していた。
私が中国生活の中で日常的に感じていたのは、伝統的思考と習慣の強さである。毛沢東崇拝を自然発生的とすれば、その後継者の権威はかなり人為的なものである。だが、人々は後継者が至高の権力を持つことにも、行政の各レベル・各地方に「土皇帝」・小毛沢東があることにも何の抵抗も感じていなかった。皇帝崇拝に慣らされた者が皇帝を批判することはありえない。権力者に対する追従と贈賄はあたりまえのように行われていた。

中国は、古代秦帝国以来、周辺異民族を征服し漢民族に同化させてきた専制国家である。
漢民族とは異なる少数民族の歴史、文化、宗教を守ろうとするものは異端とされてきた。異端は排撃される。
いま新疆(東トルキスタン)でもチベット高原でも、少数民族のこれという人物は社会から葬り去られ、学校教育から少数民族語が消えている。モンゴルに至っては、ほとんど民族語を失い漢民族の大海の中に埋没しつつある。民族自決あるいは高度の自治、あるいは民主と自由を中共に期待した者たちの希望は、皇帝支配と階級闘争の論理によって異端とされ、無残に踏みにじられた。
荒野を血で染めた農民革命は、20世紀半ばに新たな専制国家を生み出し、それが過酷な運命を少数民族にもたらしたのである。(おわり)
2019.11.23 少数民族にとって中国革命とは何だったか(6)
――八ヶ岳山麓から(299)――

阿部治平 (もと高校教師)

チベット人は現行の行政区分とは別に、チベット人地域を3区分する。ラサやシガツェを中心とする地域はウ・ザンである。カムは現在のチベット自治区のチャムド地区と四川省甘孜州、雲南省徳欽州、それに青海省の玉樹州を合わせた地域。アムドは青海省の玉樹州を除いた地域に甘粛省甘南州、四川省アバ州を合わせた地域である。カム人はカムパ、アムド人はアムドワという。以下にカムパのゲリラとアムドワに対する殺戮の概略を記す。

カムパの叛乱
1956年初め、甘孜州すなわち金沙江の東のカムパは、中共の「民主改革」に直面すると、かつて中共軍のラサ進軍のための第一の作戦すなわちチャムド戦役を支援した姿を一変させた。完全に友好的態度を捨て「民主改革」に激しく抵抗したのである。

牧野のリタン(理唐)僧院では、僧侶と牧民が「仏教擁護」を掲げて立てこもった。中共軍は、3月22日抵抗する寺院を包囲した。翌日チベット人副州長らが24時間以内に降伏するよう勧告するが、叛乱側はこれを拒絶。30日深夜に中共軍は砲弾数十発を打ち込み、寺院は瓦礫の山となり、叛乱側は死傷者多数を出し総崩れとなった。
こののち、中共軍による叛徒への報復があまりに残酷だったのを知った中共四川省委員会と成都軍区は、「いかなる報復も禁止する、破壊された部分を修復し、大衆を政治的に味方につけるよう工作をおこなえ」と善後措置を命令した。これによって尋問中の(おそらくは高級僧侶と集落首長ら)72人のほかは、捕虜1,263人が釈放されたという(『甘孜蔵族自治州民主改革史』)。

ダライ・ラマ十四世は、リタン僧院が破壊され多数の僧俗人民が殺されたことを知ると、ラサ駐留の中共書記張国華に激しく抗議した。張国華の回答から中共の論理がわかる。
「そのような批判は、チベット人民を保護し援助しようとする祖国への侮辱である。もし国民のあるものが改革を望まないならば、——改革は搾取をなくするがゆえに、民衆のためになるはずのものであるから―—彼らは処罰されるべきである」
私は21世紀初め2回リタン僧院を訪ねたが、多くの寺院が再建されるなか、ここはまだ瓦礫の山で、原状回復というにはほど遠かった。

56年5月までに、叛乱は甘孜州20県77区のうち、18県45区に拡大した。公式には甘孜州全体の叛乱参加者は1万6000人というが、叛乱を記録した記事を合計するとこの数字を超えてしまう。
叛乱が起きて1,2ヶ月の間に中共側の軍・官僚200人以上が殺され、100人余りが負傷した。また中共によって短期養成されチベット人「積極分子」100人余りが殺された。チャムド・リタン・バタン(巴塘)・ガンゼ(甘孜)の県城(県庁所在地)は軒並み叛徒に包囲され、一部地域では中共軍部隊が崩壊した。
56年7月になると、チャムド地区ジョムダ県で大規模な叛乱がおきた。このことは『ダライ・ラマ自伝』、中共『中共西蔵党史大事記』の双方に記録されている。大首長ジミゴンポが金沙江東岸のデゲ土司とその執事ウォマジランと結んで起こしたものだが、ウォマジランはそれ以前の4月にラサで開かれたチベット自治区準備委員会成立大会に参加していたから、このときに蜂起の腹を決めたと思われる。

カムパ・ゲリラ
叛乱は各地にほとんど同時に発生したから、各地中共部隊は駐留している県城を守るのが精いっぱいになった。中共中央は一時的に叛乱を鎮静化させるために、「民主改革」のテンポを緩め集団化に進むことなく、叛乱側と「和平協商」を進めるよう指示した。
だが、57年3月毛沢東は強硬路線に転じた。叛乱地域救援のため第二野戦軍の主力が投入された。こののち叛徒たちは県城攻撃からゲリラ戦に転じ、カム北部に「カム・チベット中央政府」を設立した。これが殲滅されると南部に「安日新康(意味不明)」政府を組織した。これは一時甘孜州南部6県を制圧したほどの力があった。
57年中に北部農耕地帯の叛乱を鎮圧した中共軍は、58年3月には南部の鎮圧に着手し、激烈な戦闘の末にこれを殲滅した。「安日新康」指導者ディヨン・アチョンは捕虜となり、抑留中に獄死した。

抵抗はダライ・ラマ亡命後も続いた。カムパ・ゲリラは一時は1万3000を数えたと伝えられる。59年11月からはアメリカCIAによってグアムで訓練されたゲリラが数回、落下傘降下した。だが戦局を変えることはできなかった。
1961年10月までに叛乱はほぼ鎮圧された。中共が投入した兵力は20万。2年間に犠牲1551人と負傷者1987人を出した。中共軍の寺院破壊と殺戮の方法は苛烈で、朝鮮戦争から帰還した部隊のなかには、長髪でチベット服と見ればかたっぱしから殺したところもあった。
59年3月から60年上半期までに、ダライ・ラマを追って10万余の難民がヒマラヤを越えた。ネパールの藩王国ムスタンを根拠地にしたゲリラは、カムパでなくても世に「カムパ・ゲリラ」と呼ばれ、中共軍の小部隊などを襲撃した。
だが、1971年アメリカは米中和解のため、ゲリラへの援助を中止した。ダライ・ラマもまたゲリラ集団に武力闘争をやめるよう説得した。ネパール軍に降伏したゲリラの子孫は、今もムスタンで牧畜生活を送っている。

ラサで起きたこと
以下の内容は主に『中国共産党西蔵党史』による。
1958年末からアムドやカムの多数のチベット人がラサへ逃げるようになった。ダライ・ラマの救済を求めた難民である。彼らを見て、200家族近い貴族も一般のラサ人も、明日のわが運命を思って戦慄しただろう。さらに59年正月のモンラム(大祈祷会)のために毎年の巡礼が集まった。中共軍とラサ政府のあいだに緊張が増した。
同年3月10日ダライ・ラマが解放軍駐屯地を訪問するというニュースが伝わると、ラサ民衆はダライ・ラマの安全を気遣ってノルブリンカ宮殿を取り囲み、駐屯地にいかせまいとし、親中共派カロン(大臣)を投石で殺した。
ラサ政府の独立宣言が出された。3月17日、騒然としたなか、ダライ・ラマとその取巻きはインドへ向かった。
毛沢東はカムとアムドの叛乱を見て、ラサ駐留軍に十分な準備をさせていた。寄集めのチベット軍は2日しかもたなかった。逃げそびれた貴族と将兵、チベット政府官僚、さらには僧侶も逮捕、投獄された。そして20年後、文化大革命が終わると、わずかの生き残りが釈放された。
中国では、ダライ・ラマ亡命は毛沢東がわざとインドに逃がすよう狙ったもので、ラサから国境タワンまでの逃亡ルートも偽装攻撃地点も詳細に指示したといわれる(許家屯『香港回収工作』)。しかし、これこそが作られた毛沢東神話である。地図もないのにそんなことができるはずはない。

青海の惨状
以下は煩雑だが、お許しいただきたい。
1953年の第一次センサスによれば、中国全体の人口は5億8796万であった。1963年の第二次センサスでは7億0499万になり、大躍進によって4000万ともいう餓死者が出たものの、10年間に1億1700万人が増加した。
チベット人全人口は53年センサスでは277万5000と推計された。63年には250万5000だったから10年間に27万人減少している。青海省のチベット人人口は、53年センサスでは49万3463人、64年には44万2664人となり、ここでも10年間にほぼ5万人が減少している。チベット人の叛乱鎮圧時と大躍進期の死者数は、10年間の自然増ではカバーしきれなかったのである。
青海省ゴロク(果洛)蔵族自治州では、1957年末の人口が7万3300人であった。58年末には5万1700人となって、1年間で2万1600人(30%)が減少した(邢海寧『果洛蔵族社会』)。大半は、叛乱鎮圧の際にモンゴル人部隊に殺されたか、あるいは彼らにテントや食料をうばわれて凍死・餓死した者たちである。
叛乱鎮圧の模様は、性比(女性を100としたときの男性人口)にはっきり現れている。1990年センサスの年齢別の性比は、65歳(1925年生れ)以上では、漢人103.2に対し、チベット人は54.9しかない。つまり叛乱が始まったころ、31歳以上だったチベット人男性は、女性の半分しか生存していないのである。叛乱が始まったとき、16歳以上だった階層をとっても同じ傾向が得られる(日本は2015年94.7)。
『叛乱鎮圧時のゆきすぎ問題に関する青海省から中央への報告書』(1981・5)によると、逮捕・拘留・集中訓練・死刑判決をうけたもののうち8万4566人を再審査したところ、7万8147人が冤罪と判定されたという。つまり90%強は無罪だったというのである。叛乱当時青海省のチベット人モンゴル人は51万強だから、人口の16%が逮捕拘留・死刑にされたことになる。(つづく)
2019.11.22 ライク外務大臣粛清の全容(1)
 -ノエル・H・フィールド拉致事件

盛田常夫(在ブダペスト、経済学者)

 東欧社会主義の成立過程で、冷戦が始まり、ユーゴスラヴィアが国際共産主義運動からの「破門」された1948年以降、ソ連共産党の指示で、各国共産党では「共産党内の敵を摘発する闘い」が始まった。1949年10月のハンガリー外相ライク・ラースロー処刑に始まり1952年12月のチェコスロヴァキア共産党書記長スランスキー処刑にいたる共産党内外の政治家粛清の嵐は、「共産主義ファシズム」=スターリン主義に侵された東欧社会主義国家に重大な人的犠牲を強いた。
 東欧社会主義国における粛清の先駆けとなった「ライク・ラースロー外務大臣処刑」について、1990年以降に入手された資料にもとづいて、これまで長期にわたって秘匿された事実関係を明らかにして、その全容を明らかにしたい。

ライクを標的
 スターリンの歓心を惹くために、1948年からラーコシは積極的に「共産党内の敵」摘発を企てていた。インパクトのある政治家でなければ意味がない。ラーコシは国内組の中でもっとも人望のあるライクに目をつけていた。小太りのラーコシとは正反対で、端正なマスクと長身のライクは政治的ライヴァルになる可能性もあった。しかも、ライクの弟は戦前のホルティ政権時代のファシスト組織矢十字党幹部であり、非合法活動で逮捕されたライクは弟の手助けで釈放された過去をもっていた。また、スペイン内戦に参加した経歴のある者には、いろいろな難癖をつけることもできた。とりわけ、内戦に参加しながらソ連共産党の指示に従わなかった者は「トロツキー主義者」とされていた。これらライクの履歴に何かもう一つ、アメリカとの関係を暗示するものを付け加えることができれば、ライク粛清のシナリオが描かれる。こうして、ラーコシは早くからライクを標的にしていた。1948年頃からラーコシはファルカシュやカーダールなどに、「ライクはアメリカ帝国主義のスパイである可能性が強い」と漏らしていたことが確認されている。

スイスの諜報部員からの報告
 戦中戦後のスイスには東欧各国の亡命共産党員が集まっており、アメリカの諜報機関やユニタリアンの活動も活発化していた。ハンガリー国防省諜報部員に組織されたスイス在住の若者フェレンツィ・エドモンドが、ハンガリーの亡命共産主義者の情報を本国に送っていた。ジュネーヴで教育を受けたフェレンツィは語学に堪能で、学生時代から各国の亡命共産党員を世話するうちに、ハンガリーの諜報部員になった。その彼が、1949年初頭にスイスにおけるアメリカ人活動家から得た情報をハンガリーに送った。
 それによれば、「1945年1月6日、スーニィ・ティボール(1949年当時、党中央委員で党本部勤務)他4名は、ユーゴスラヴィア共産主義者から取得した偽の軍医証明書を使って、マルセイユ、ナポリ経由でベオグラードに入り、そこでユーゴスラヴィアの要請に応じて軍医証明書を廃棄し、(ハンガリーの)セゲドへ入った」というものである。この情報は、スイス在住のアメリカ人でソ連共産党員のノエル・H・フィールドから聞き出したものだった。フィールドは亡命共産党員と交流が深く、多くの友人知人をもっていた。
 この情報を得たハンガリーの国家保安局長で「ハンガリーのベリア」と呼ばれたピーテル・ガーボルはラーコシの了解を得て、ノエル・H・フィールドを拉致する計画を立てた。当時、フィールドはアメリカ下院非米活動委員会の調査対象になっており、ドイツに定住地を求めるべく、チェコスロヴァキアの諜報部と頻繁にコンタクトを取っていた。それを知ったハンガリーの国家保安局はプラハにフィールドをおびき出し、拉致してハンガリーに連行する計画を立て、チェコスロヴァキア諜報部に協力を求めた。いったんは断られたが、ゴッドワルド大統領とソ連国家保安省東欧責任者ベルキンの了解を得て、拉致を実行した。

ノエル・H・フィールド拉致事件
 プラハに到着したフィールドは、1949年5月11日、プラハ・パレスホテルからチェコスロヴァキア諜報部の迎えの車に乗ったところ、郊外に連れ出され、ハンガリーの諜報部員にクロロホルムを嗅がされ拉致され、ハンガリーに連行されたのである。1996年に制作されたフィールドにかんするドキュメンタリー映画(Noel Field―The Fictitious Spy、スイス・ドイツ合作)の冒頭部では、ブダペストの路上で逮捕される場面が出て来るが、この部分はフィクションである。
 フィールド拉致事件は「ライク粛清シナリオ」の重要部分を構成するもので、極秘のアクションだった。ハンガリー人でも専門家以外にフィールド拉致事件を知る人はきわめて少なく、フィールド一家が辿った悲劇はハンガリー人に共有されていない。ライク裁判を含め、この拉致事件のことが明るみになったのは、ハンガリー共産党の4人組の一人、ファルカシュ・ミハーイの息子ヴラジミールのオラルヒストリーが出版されてからである。
 ヴラジミールは国家保安局の通信・盗聴技師で主要な事件の盗聴作業に携わっており、国家保安局でも若くして重要ポストに就いた。ところが、スターリン批判後に、ラーコシ時代の各種の粛清責任がファルカシュ・ミハーイとヴラジミール父子に転嫁され、動乱後のカーダール政権下できわめて不遇な時代を過ごしてきた。カーダール時代の終焉が近づいた時点から、オラルヒストリーによるラーコシ時代の所業を公表する作業に入り、それが1990年に700頁にわたる書物として発刊された。カーダールの関与を暴露することで、カーダールへの復讐をも図ったのである。この出版時点ではカーダールは他界していたが、国家保安警察の関係者たちの多くは存命していた。複雑な人間関係のなかで、このオラルヒストリーの書物は第1版以後、増刷されなかった(現在は古本市場で入手可能)。
 このオラルヒストリーのなかで、拉致の詳細やフィールドの極秘尋問に盗聴技術者として立ち会ったヴァラジミールが、実に生々しい状況を語っている。第一級の史料である。ライク拉致は、ライクの口から彼の世話になった東欧の共産主義者の氏名を得ることだった。拷問を受けたフィールドは、スイスで関係のあった中・東欧諸国の共産主義者の氏名を記すことになった。500名を超える氏名リストが作られた。
 ラーコシはこれに小躍りして、このリストをスターリンだけでなく、中・東欧諸国の共産党書記長に送った。これをもとに、各国では「アメリカのスパイ摘発」が本格化した。

スーニィ、サライ逮捕からライク逮捕へ
 フィールド「自供」によって、共産党本部勤務のスーニィとサライが、アメリカのスパイでユーゴスラヴィア修正主義者の手先として逮捕された(5月23日)。相互に面識があることは否定のしようもなかった。問題はライク外相を逮捕する口実とタイミングである。
 フィールド取調べで、数多くの顔写真から知人を割り出す方法がとられていたが、そのなかにライク外相の顔写真が挟み込まれた。寝ることも許されず拷問されたフィールドに、ライクの写真を見せ、知り合いであることを確認させる手法がとられた。フィールドにとって、もう誰でも良かった。「見たことがある」という告白によって、ライクが「ハンガリーのアメリカ帝国主義のスパイの親玉」という証拠とされた。
 ラーコシはライク逮捕前日に、ライク夫妻をバラトン湖畔の党保養施設に呼び、懇談していた。別れ際に、「そのうち、赤ん坊を見に行くからな」と伝えて分かれた。この時、ゲルー、ファルカシュ、カーダール、ピーテル・ガーボルがラーコシに会いに保養施設を訪れ、ライク夫妻が出発するまで車のなかで待機していた。この時の様子を、ファルカシュが息子のヴラジミールに語ったことが、オラルヒストリーに記されている。この時の会合で、ラーコシからライク逮捕の指令が発せられた。カーダールは躊躇したが、すでにスターリンの了解も得ていると説得され、それなら「チェスを指すようにライクをブダ丘陵の党施設に誘うから、その帰りに逮捕すればよい」と積極的な提案を行った。後に、ブダペスト党活動者会議で、「ライクに死刑判決を」の決議を行った際に、カーダールがライク逮捕の状況を自慢げに披露したことが知られている。
 こうして、1949年5月11日にフィールドが拉致され、5月23日にサーニィとサライが逮捕された。そして、最後にライク外相が5月30日に逮捕された。
 ライク外相の取調と拷問はブダ丘陵にある国家保安警察の秘密の館で行われた。保安警察の取調官が全員動員され、24時間の取調が実行された。さらに、特殊(拷問)部隊による拷問も実行された。しかし、ライクはフィールドを知らず、自らの容疑を認めることはなかった。この一連の取調べを隣室で録音していたのが、ファルカシュ・ヴラジミールである。オラスヒストリーにはその様子が詳しく描かれている。
 そして、最後の取調べにあたったのが、カーダールとファルカシュ・ミハーイである。「党は犠牲を必要としている」という説得に、自らの運命を悟ったライクは筋書き通りに「自供」した。
2019.11.16 トランプ大統領、IS壊滅の同盟者クルド人を裏切る
NYタイムズの調査報道(4完)

坂井定雄 (龍谷大学名誉教授)

(NYタイムズの調査報道の最終部)
「アメリカはクルド人を裏切った!」とクルド人の氷売り店のファーハン・モハメドは、シリア国境に通じる道路を走る、米軍の車列に叫んだ。彼の仲間も叫び、手の親指を下に向けた。
 「トランプはツイートどおり、俺たちの未来を決めやがった!」
 トランプ氏は、彼の決定を実行したのだ。
 トランプ氏は今月になって、「われわれは、クルド人たちの今後の人生まで保護することまでは、決して約束していない」と言い、「イスラエルとヨルダンの要求で、少数の米軍部隊がシリア東部に残るだろう」と述べ、「石油を守るためにだ」「それ以外には残す理由はない」と付け加えた。
 トランプ氏はツイーターで、「たぶん、クルド人にとって、産油地域を目ざし始めるべきときなのだ」と、クルド人たちに別な役割を与えるようなことを書いた。
 しかしクルド人たちはトルコ軍の侵攻に抵抗するのに忙しかった。クルド人たちは、彼らの郷土でのトルコ軍による民族浄化を恐れていた。
 クルド人の指導者たちは、米国との5年間にわたる協力が、彼らの犠牲をもっと尊敬して終わることを望んでいた、と語っている。
 クルド人の軍事組織SDFの助言者キャン氏は、「すべてを放棄し、政権とロシアとイランに与えようとしているのだ。そんなアメリカを、だれが信用するのか。だれもいないさ」と語った、
 クルド人たちは、怒りにもかかわらず、米国との結びつきを断絶しなかった。
 彼らの最高指導者アブディ氏は、トランプ氏に2回電話し、彼のワシントンを訪問についても話し合った。クルド側は、一部のクルド人武装勢力が、油田防衛のためシリア東部に駐留するという、トランプ提案を拒否しなかった。
 しかし、ホワイトハウスへの信頼は失われた。
 「情勢は変わった」と、先週ワシントンを訪れ、他の米当局者と協力関係の継続について話し合ったクルド当局最上部のイルマン・エメドは語った。「しかし我々は、米国民の中に多数の友人がいる事実を信じている。米下院と上院に。軍事指導者たち。わたしは、彼らの支持を信頼している」(了)