2017.11.24 「イスラム国(IS)」イラク・シリアで壊滅(3)
―生き残り組は投降、分散、再建不可能

坂井定雄 (龍谷大学名誉教授)

 「イスラム国(IS)」はついに壊滅した。最終段階まで、シリア、イラクで抵抗し続けたISの指導部と戦闘員たちは、おそらく数千人。その大部分が、都市で地下壕を掘り、包囲作戦に抵抗し続けたが、地上の戦闘、空爆、砲撃で死亡するか、投降した。両国は投降者の総数は発表していないが、イラク当局者は多くが死刑になると予想している。しかし、最終段階の前に、ISの中核だった旧イラク軍とフセイン時代の支配政党バース党の幹部級、宗教指導者らは、イラクのモスルからシリアのラッカへと逃れ、さらにラッカがクルド人勢力に完全包囲される前に逃げ出し、一部はイラクに戻って協力者、近親者のもとに潜んだと思われる。また一部はトルコに向かい、さらにエジプトのシナイ半島やリビアの「イスラム国」を名乗る武装集団の下へ、一部はアフガニスタンにまで逃げたとみられている。
 このうちリビアでは、16年1月以来、中部の石油施設や地中海岸の都市シルトの港湾部などを「イスラム国」を名乗る武装勢力が占領したが、リビア暫定政権下の政府軍が米軍の支援爆撃を得て反撃し、6月には奪回している。
 またエジプトのシナイ半島では、2011年の民主革命以来、国際テロ組織アルカイダ系のイスラム過激派が活動していたが、14年のクーデターで政権を握ったシシ政権に対して、「シナイ半島のイスラム国(IS)」と改称して、テロ攻撃を開始した。以後、政権側は軍を動員して同組織の壊滅に努めているが、(IS)のテロ攻撃が繰り返されている。
 また、アフガニスタンでは、東部ナンガハル州に、「イスラム国(IS)」が16年以来拠点を築き、首都カブールなどへのテロを繰り返し始めた。17年に入って、発足間もないトランプ政権下の米軍はナンガハル州のIS拠点を空爆し、地下深くまで破壊できる巨大爆弾を使用してIS側に打撃を与えたが、その後もISのテロは繰り返されている。
 さらに、フィリピンでもミンダナオ島に入り込み、同島のイスラム武装勢力に支援を得て根拠地を築き始めたが、政府軍がいち早く鎮圧作戦を開始して、ほとんど絶滅した。
 こうして列挙すると、ISの勢力は中東からアフガニスタンさらにはフィリピンへ、中東から北アフリカ、中央アジア、東南アジアに勢力を広げているように見えるが、決してそうではない。ISは豊富な資金力によって、各地のイスラム過激派に接近し、支援して「イスラム国(IS)」を名乗らせるが、実態は各地の紛争の歴史的、政治的経過、民族性の違いに阻まれ、一体化、指揮命令系統を築くことは困難だった。
 まして現在、イラク、シリアでのIS本体の巨大な資金源はなくなり、各地のISを名乗るイスラム過激派組織に逃げ込んでも、主導権を握るどころか、合体することもできないだろう。バグダーディが死亡して、彼の卓越したカリスマ性に導かれた「イスラム国(IS)」の再建はできるはずがない。(続く)
2017.11.22 「イスラム国(IS)」イラク・シリアで壊滅(2)
バグダーディのカリフ国家樹立宣言も4年間で終わる

坂井定雄 (龍谷大学名誉教授)

 シリアのラッカ、イラクのモスルを最大拠点として、イラク人のバグダーディが自らをカリフ(最高権威者)として樹立を宣言したイスラム宗主制国家は4年足らずで崩壊した。
 バグダーディはすでに死亡したと思われ、後継者もいない。
 2003年のイラク戦争で、米軍を中心とした多国籍軍がフセイン政権を打倒、イラクを占領して以来、占領支配と、その後も駐留米軍によって支えられてきた11年にわたるマリキ首相のシーア派偏重統治のもと、スンニ派のフセイン政権残党による反米、反政府反乱が広がった。それに結び付き反米テロを続けてきたイスラム過激派組織「イラクのアルカイダ」(AQ)は米軍撤退完了の2010年にバグダーディが後継者に就任、イラク中部のファルージャなどスンニ派多数の都市を根拠地にして組織を強化した。そのころAQは「イラクとシリアのイスラム国」(ISI)と改称した。すでに、イラク国内だけでなく、シリアはじめ国境を越えた勢力拡大を目指していたのだ。
 2011年、シリアでアサド政権と反政府民主化勢力の内戦が始まるとISIはシリアに幹部と戦闘員を派遣、現地で若者たちを2,3千人集め、武器を与え、訓練を施して、政府軍支配が弱体のシリア東部で支配地域を広げていった。2013年、ISIは「シリア北東部の中心都市ラッカを占領、「イラクとアッシャムのイスラム国」と改称した。アッシャムとは、パレスチナからレバノン、ヨルダン、シリア、イラクに至る地中海東部沿岸地域を包括する地域名。ラッカはシリア北東部の産油地域にあり、「イスラム国」は大きな資金源を獲得した。「イスラム国」は原油と豊富な古代遺跡の出土品をトルコ経由、国際市場への密売を拡大した。その資金をもとに、アラブ・マグレブ諸国、欧州さらには中央アジア、中国新疆ウイグル自治区まで、イスラム過激派への人的働きかけと、インターネットを通じた宣伝・募集活動を展開。とくに欧州と中東諸国からは、ユーチューブやネット・システムの専門家を集めた。また、武器・弾薬製造、修理の技術者には、旧イラク軍、バース党の残党を活用した。
 そして2014年6月、イラクにシリアから逆侵攻、短期間にイラク第2の都市モスルを占領した。最高指導者のバグダーディの幕僚を構成する旧イラク軍とバース党の残党が、イラク政府軍の弱点とイラクのマリク独裁政権へのスンニ派国民の強い不満を知り抜いていたからこそ、モスルとイラク北部の都市を占領がこれほど敏速にできたのだ。
 こうして、イラク、シリアの広い地域を占領し、樹立宣言をした「イスラム国」(IS)は消滅し、主要幹部は姿を消し、最盛時3万人を超えた戦士たちは、戦闘で死亡したか、イラク軍の捕虜になったか、中東や、北アフリカ、欧州諸国、アフガニスタンなど過激派組織に保護を求めたか、母国に帰国しただけなのか、各国は行方の把握に必死だ(続く)
2017.11.18 「イスラム国(IS)」イラク、シリアで壊滅(1)
偏狭なイスラム過激勢力との三つの戦いの教訓は?

坂井定雄 (龍谷大学名誉教授)

 約3年半前の2014年6月、偏狭なイスラム過激派武装勢力がイラク北部の同国第二の都市モスルを占領し、カリフ(最高指導者)を自称したバグダーディが歴史豊かなモスクで「イスラム国」樹立を宣言してから3年5か月。イラク、シリア両国政府軍とクルド人武装勢力はじめ民兵勢力の地上作戦、さらには米軍はじめ有志国軍、ロシア軍の主に空爆支援によって、「イスラム国」はついに壊滅した。バグダーディの生死については、ロシア軍が空爆で死亡したと非公式に発表したが、信頼できる確認情報はない。しかし、生きていることを示す情報は全くないので、死亡していると思う。ISの軍事部門の中枢を占めた旧イラク軍・情報機関の残党組については、これまでに死亡がつたえられた一部幹部以外についての情報はほとんどない。
イラクでは、モスルが今年7月、「イスラム国」の首都とされてきたシリア北東部のラッカが9月、最後の拠点としデリゾールが10月に陥落。残存していたISの戦闘員たちは、一部は砲爆撃と自爆で死亡、一部は車両で脱出して姿を消すか、投降した。いずれも悲惨な最期だった。
 イスラム世界の歴史は、キリスト教世界と同様、大部分が自世界内部だけでなく他宗教の世界との共生に努力、実現してきた。その一方で他宗教、宗派間との争いも、過激派による非人道的な殺戮まで含め、繰り返されてきた。「イスラム国」との攻防と今後への教訓のためには、最近の偏狭なイスラム主義武装勢力、アルカイダ、タリバンとの比較が役立つ。
 90年8月、産油国クウエートに独裁者サダム・フセイン大統領支配下のイラク軍が侵攻、占領した。それに対して米軍中心の多国籍軍が91年に空爆を開始、イラク軍がクウエートから敗走した湾岸戦争の中で、アルカイダは生まれた。米軍がイラク空爆にサウジアラビアの空軍基地を使用したことに怒った大富豪の息子ウサマ・ビンラディンが組織した。それまで、イスラム教の聖地であるサウジアラビアは外国軍の軍事基地は許されなかった。ビンラディンは80年代のアフガニスタン戦争で、反ソ連武装勢力を支援する国際的支援活動で中心的な役割を果たしたが、湾岸戦争以後、国際的反米テロ活動を展開。本拠地のスーダンを追われてアフガニスタンに本拠地を移し、タリバン政権の保護のもとに2001年9月11日「9.11」の米同時テロを実行した。
 アフガニスタンのタリバンは、70年代末から88年まで続いたソ連との戦争のあと、92年から始まった内戦のなか、94年に生まれた。内部抗争が続く政権への国民の強い反感を背景に、保守的、偏狭なイスラム思想と厳しい戒律を強制する最高指導者オマルに率いられて政権への武装攻撃を展開、98年にはほぼ全土を制圧してタリバン政権を樹立した。タリバン政権は、それなりの統治を続けたが、アルカイダの本拠地、訓練施設を保護していたため、「9.11」後の2001年10月、米軍の攻撃(アフガン戦争)で壊滅状態となり、オマル以下政権幹部はパキスタンの山間部に脱出した。それより先にウサマ・ビンラディンらアルカイダ幹部もパキスタン山間部に脱出、根拠地を築き始めていた。
 「イスラム国」とアルカイダ、タリバンには、多くの共通点と相違点がある。
 どれも、厳格・偏狭な原理主義的イスラム主義であることは共通している。神の予言である経典コーランと、ムハンマドの膨大な言行伝承を記録し、解釈を示したハディースに基づき、指導者が自らの組織と支配下の民衆に、イスラムの教えとして強制する。アルカイダにはウサマ・ビンラディン、タリバンにはオマル、「イスラム国」にはバグダーディが最高指導者に就任した。バグダーディは、第一次大戦で崩壊したカリフ制国家の再現と自らカリフであることを宣言した。カリフは全イスラム共同体の最高指導者とされてきた。バグダーディはイラク、シリアだけでなく、全世界のイスラム国、イスラム教徒を一つにする国家を宣言したのである。もちろん、“空想の産物”に過ぎないのだが、中東から北アフリカ、西アジアへとイスラム国家を広げる夢を示し、それらの地域だけでなく欧州で生活するイスラム移民まで戦闘員として呼び寄せ、あるいはそれぞれの相手国での決起をうながした。
 バグダーディには、ビンラディンやオマルにはない、卓越した能力があったといえよう。それを示したのが、ユーチューブなどを駆使した宣伝工作だ。また、占領地で強制連行した異教徒の女性たちを、市場で外国人兵士たちに安価で売り、強制妻とさせるのもその一つ。こうして、3万人を超える若者たちを志願兵として集め、原油と盗掘美術品の密売、銀行襲撃で集めた資金で、給与を支払っていた。(続く)

2017.11.14 ロシア革命100年から何を学ぶのか(2)
盛田常夫 (在ブダペスト、経済学者)

忘れ去られる「パラダイム転換」
 今、ハンガリーのみならず、チェコでもポーランドでも、民族主義的な政策を掲げる政党が政府を構成している。政治家のみならず、ほとんどの経済学者も、もう体制転換がどのようなパラダイム転換を課題にしていたのかについて語ることはなく、目先の経済的利益に右往左往しているだけだ。それは、旧体制の経済社会の解明に真摯に向き合っていないことの結果でもある。
 国際社会が目まぐるしく変化するので、過去の事象は次第に後景に追いやられ、政治家も学者も新しい事象を解釈し、理解することに精一杯になっている。その結果、いつの間にか、ハンガリーでは再び中央集権的配分システムにもとづく経済システムが構築されている。市場経済がいまだ初期的発展状態にあるにもかかわらず、所得税15%、社会保障負担18.5%、消費税率27%でGDPの半分を国庫に経由させ、政治家が容易に国家財政を采配できる経済システムが構築され、それが消費財市場と自営業者の発展を阻害している。2016年からは、「脱税を阻止し、市場の暴走を止めるため」と称して、税務署に直結したPOSレジの設置を小売り事業者に強制し、小売業の売り上げ監視を強めた。これでは旧社会主義のカーダール体制と変わりがない。
 また、社会主義体制時代には「贈収賄」という観念自体が存在しなかった。共産党組織そのものがインサイダー組織で、その中では「何でもあり」の世界だった。市場経済が発展していないハンガリーでは市場経済倫理が育つ余地がなく、依然として「贈収賄」という社会的規範も確立されていない。旧社会主義国家ではどこも似たり寄ったりの状態である。だから、政治家はかなりの程度、自由に公金に手を突っ込んでも、恥じることはない。何のことはない新時代を唱えて政権に就いた若い政治家たちが、GDPの過半を政府に経由させ、そこからインサイダー情報を使って私財をため込んでいる。
 ルーマニアのチェウシェスクと違って、子供がいなかったカーダールは公金を使って子供に贅沢させる必要はなく、質素な生活を送っていたが、今の若い政治家は役得とばかりに、国民から最大限に集めた税金を、各種補助金や随意契約を通して、近親者や友人実業家に流し、私財をため込んでいる。これではカーダール社会主義体制時代より質が悪い。
 有権者の絶対数で25%の支持を得ているハンガリーの現政権は、4割程度の得票率で3分の2の議席を確保している。日本と同じ構図である。この権力を死守するために、民族主義的なスローガンを掲げ、25%の有権者の支持をつなぎとめている。こういう政治がハンガリーだけでなく、中・東欧全体に広がっている。日米両政府を含め、ポピュリズムが世界の政治を支配している。そのなかで、中・東欧世界はソ連型社会主義からの転換を目指したはずなのに、再び同類のシステムに回帰している。明らかに、経済システムのパラダイム転換が、政治家のみならず、経済学者たちにも理解されていないことの証左である。
 ロシア革命から100年を経た現在もなお、いまだ20世紀社会主義の崩壊から学ぶべきことは多い。
2017.11.13 ロシア革命100年から何を学ぶのか
盛田常夫 (在ブダペスト、経済学者)

 ロシア革命から100年の時間が経過した。ソ連社会主義はおよそ70年、中・東欧の社会主義はおよそ40年時間を経て自己崩壊した。20世紀におけるロシアと中・東欧の社会主義実験から何を学ぶことができるのか、それとも学ぶことは何もないのか。20世紀から21世紀に生きる者にとって、この100年あるいは40年の歴史をどう理解するかは、ないがしろにできない課題である。
 しかしながら、日本のみならず、ヨーロッパ諸国でも、社会主義社会・経済を研究してきた学者や政党政治家が、体制転換からの四半世紀の間、この課題に真摯に取り組んできたとは到底思われない。学者の多くは体制崩壊以後の新しい社会現象の分析に精をだしても、なぜ20世紀社会主義が崩壊したのか、そこからどのような理論的結論が得られるのかという営為に真摯に取り組むことはなかった。政治家もまた同様に、何十年にもわたって賞賛してきた社会主義国家が崩壊したことに真正面から向き合うのではなく、「あれは本当の社会主義ではなかったから崩壊するのは当然」と「知ったかぶり」で済ませようとしている。このような姿勢や態度は浅薄極まりない。
 日本においても、学者個人や学会が、総力を挙げて、ソ連や中・東欧における社会主義社会崩壊の分析に取り組んできたとは思われない。学者がこの体たらくなら、政治政党はもっと浅薄な総括で事を済ませている。「ロシアと中・東欧社会主義の崩壊は社会主義の失敗ではなく、覇権主義と官僚主義の失敗だった」というような一片の政治的言明で、20世紀社会主義の分析を終わらせようとしている。このような安直な態度からは、歴史の総括のみならず、現代社会分析や将来社会のあり方について、説得力のある議論を期待することなど不可能である。

社会主義体制崩壊の最大の教訓は何か
 20世紀社会主義崩壊の最大の原因は、資本主義に代わる計画経済システムを構築できなかったことに尽きる。ロシア革命直後には、国民経済計画策定のための手段や方法が探求されたが、その実現の不可能性から、経済計画は早々と共産党政治局による集権的管理・配分、事実上の戦時的配給制度に堕してしまった。この視点から、私は20世紀社会主義を、「封建時代から資本主義時代への歴史的転換において一時的に出現し短命(失敗)に終わった社会主義実験で、戦時社会主義を超えるものではなかった」と総括した(拙著『ポスト社会主義の政治経済学』日本評論社、2010年)。
 20世紀の共産党独裁体制はいわば啓蒙君主制の労働者階級版を超えるものではなく、その意味で歴史時代に制約された社会体制であった。ソ連型社会主義は20世紀に現れた啓蒙独裁政治体制であり、国民経済計画の不可能性によって、その経済システムは共産党の恣意的な政治指導対象物に転化した。経済の政治的指令を貫徹させるために、個人事業者を抑圧し、市場経済を一掃した。こうして個別経済主体の活動能力を抑え込んだ結果、社会主義経済は定常経済に陥ったが、対西側との鎖国政策は国民が経済停滞状況を感じ取ることを妨げた。しかし、社会主義体制が崩壊し、それぞれの国民経済が世界に向かって開かれた時に、旧社会主義国家は埋めることができない西側との経済発展格差に直面し、社会主義工業企業は体制転換恐慌に陥り、工業部門の全般的崩壊という危機に陥ったのである。
 人類の経済社会は「交換」をベースにする市場システムをベースにしない限り、持続可能な経済システムを持ちえない。しかも、「交換」は経済主体の平等を前提とする。つまり、give and takeという原理は「交換」における主体の同等性を前提している。これにたいし、中央集権的な「配分」は容易に、give, but obeyという支配-従属の原理に転化する。「交換」をベースにする経済システムは平等・公正の社会的規範を発展させるのにたいし、「配分」をベースとする経済システムは与える者と与えられる者との支配従属関係を生み出し易い。
 市場的交換システムを全面否定した20世紀社会主義は、国民経済を発展させる基盤を失った。「市場は悪」というイデオロギー的な断罪が、国民経済の発展を阻害し、20世紀社会主義の自己崩壊を帰結したのである。

社会発展の契機で見た二つの基底的経済行為の特性比較

社会的・経済的モーメント

基底的経済行為

交  換

配  分

1.コミュニケーション

情報的・双務的

物理的・片務的

2.制度化

自己組織化された市場制度

官僚制度

3.人間関係

非人格化-文明化

人格依存-非文明化

4.組織化

開放性と透明性

閉鎖性と秘密性

5.社会的行動

自立と個人責任

権威への依存

6.複雑性

継続的に増大

単純化への退化

7.自己発展

自生的・継続的

劣化的・自己破滅的

 出所:拙著『ポスト社会主義の政治経済学』7頁(日本評論社、2010年)

西欧の社会民主主義
 20世紀社会主義は何もロシアと中・東欧世界だけの話ではない。ロシア革命の影響は直接間接に、西欧社会に社会保障制度を充実させる圧力となり、西欧ではソ連型社会主義とは異なる社会民主主義国家の建設が急がれた。そこでは市場経済をベースに、社会保障制度を構築することが追求された。
 市場経済の発展に裏付けられた福祉国家は、ソ連型社会主義国家よりはるかに高水準の社会保障制度を構築することができた。西欧社会を構成する諸国は単純に資本主義国家と規定できない。そもそも社会主義か資本主義かという問題の立て方は、戦争か平和という問題設定とほとんど同義であり、政治的な問いかけである。現実世界はもっと複雑であり、西欧福祉国家は市場経済をベースにしつつ、巨大企業の社会的制御を強め、社会保障制度の充実を図って、ソ連型社会主義よりはるかに高度な福祉国家が建設することができたのである。
 このことは、医療制度や年金制度を比較すれば一目瞭然である。旧社会主義国は体制転換から30年近くを経ても、いまだに旧体制の医師主権の権威主義的システムから脱皮することができず、医療サービスの質はきわめて低い。年金額も西側に比べて、きわめて低い。市場経済の発展を抑圧してきた数十年の歴史は、いまだに旧社会主義国家に負の影響を与え続けている。
 社会主義的政策を掲げてきた西欧型福祉国家社会とソ連型社会主義社会を比較すれば、その本質的な違いは明瞭である。だから、体制転換を契機に、西欧諸国の共産党が20世紀社会主義から決別して政党名称を変更したのは必然的な帰結である。世界を見渡しても共産党の名称が残存しているのは、社会的後進性をもつアジア世界だけという事実はたいへん興味深い。権力にある共産党は自らの専制的支配を正当化するために「社会主義・共産主義」のスローガンを利用し、権力にない共産党は地上に存在することのない桃源郷を目標に「社会主義・共産主義」の旗を降ろさない。前者が自らの支配を合理化するための社会主義イデオロギーの便宜的利用だとすれば、後者は20世紀社会主義の現実の営みから目を背け、19世紀のイデオロギーにしがみつく空虚で空想的な社会主義への回帰である。

ロシア革命100年から何を学ぶのか
出所:Eurostat (online data code: gov_10a_main) 2017年4月24日
図 EU諸国の対GDPで見た財政支出と歳入

 ソ連や中・東欧諸国の社会主義は、国家の再分配率が高くても、基礎となる経済発展水準が低いために、高い水準の社会保障サービスを提供することができなかった。そのため、労働者の不満を抑えるべく、有給休暇だけは、西側諸国を上回る制度を構築してきた。体制転換後も、西側並みか、それ以上の休暇制度だけは何の変更もなく存続しており、就業年数とは無関係に、自然年齢による有給休暇が取得できる。ハンガリーの場合、年休は年20日から始まり、40歳半ばには30日で上限を迎える。このほかに、病欠が年15日認められるので、これをすべて消化すると、50歳になる前に、年45日、実に9週間の休暇の取得が可能になる。
 この休暇制度は体制転換後の経済発展を阻害する要因になっている。社会主義時代は休暇の自由時間だけを享受する、まさに貧困を分け合う共産主義(コルナイは、これを「未熟児として生まれた福祉国家」と称している)だったが、体制転換後は「EU共産主義」にジャンプしたかのように、40歳代半ばで9週間の休暇を得る「早期年金生活国家」を維持している。何のことはない、旧体制時代と本質的に変わっていない。市場経済の発展にもとづく高いレベルの福祉国家を目指すのではなく、市場経済の発展に裏付けられることのない低いレベルの福祉国家を維持するという点で、旧体制が抱えていた問題をそのまま引き継いでいる。
 
2017.11.09 習近平思想とは何か
       ――八ヶ岳山麓から(240)――
             
阿部治平 (もと高校教師)

中国共産党第19回大会が終った。
習近平総書記(国家主席)は18日の報告で、「中国の特色ある社会主義は新時代に入った」と宣言し、3年後の2020年には「小康(ややゆとりのある)社会」を実現し、建国100周年を迎える2049年ごろには「社会主義現代化強国」を建設するとした。これは(アメリカ並みの)国際的影響力を有する軍事大国、中華民族の意気高く世界の中に屹立する国家を意味する。この報告では「新時代」という語彙は35もあった。また「中華民族の偉大な復興」という言葉は27回使用されたという。
習氏は、5000年以上の文明史をもつ世界の偉大な民族「中華民族」は、アヘン戦争以降、苦難に陥った、だから「中華民族」の「偉大な復興」は「偉大な夢」であり、そのために「偉大な闘争」をおこなわなければならないという。「大国崛起」は江沢民時代からいわれた言葉だが、習近平氏の統治を示す「新時代」の「復興」には新しい意味がある。

習氏は就任した時、たいした権力基盤をもたなかったが、この5年間たくみにおのれの地位を高めてきた。それは、大衆受けする貪官汚吏の腐敗摘発という手段で政界や軍の政敵とそれに連なる経済人を葬り、民主人権派の弁護士をはじめとする数百人の人々を逮捕投獄して苛烈な拷問を加え、香港にまで手を伸ばして言論弾圧をするという恐怖政治であった。
そのことによって、党大会は(習近平の名を)「『習近平による新時代の中国の特色ある社会主義思想』という文言で、マルクス・レーニン主義、毛沢東思想、鄧小平理論、『3つの代表』の重要思想、科学的発展観と同列に党の行動指針に盛り込むことを全会一致で決定した(人民ネット日本語版)」以下これを習近平思想という。
すでにこの2年ほど中国のメディアでは、「習近平同志の一連の重要講話」「(習近平同志の)治国理政の新理念新思想新戦略」がきまり文句になっていたし、一連の大会議題が習氏の2期目に向けての権力集中を加速させる内容であったから、これは誰もが予想できたことであった。
だが、1982年に廃止された「党主席制度」を復活させることはできなかった。ここにかれの力の限界がある。「中共中央主席」こそは1945年以来毛沢東が終生ゆずることのなかった、独裁政治最高の地位である。

「習近平思想」を規約に書きいれたことによって、「新時代」の思想がなんであるか、体系だったものを示す必要が当然に生れた。
習氏が傾倒する毛沢東は当代一流の中国文化人であったし、側近が代筆したものだとしても幾多の彼の著作とされるものがある。ところが習氏には伝統的教養もまとまった著作もない。鄧小平のような画期的政策転換をしたこともない。毛・鄧と並べると、誰の目にもその評価が隔絶するところは明らかである。
この思いは私ばかりではない。習近平賛歌を歌う中共中央周辺の理論家も同じらしい。だから彼らが忖度する習近平思想らしき論文がいくつも公表されている。
典型は、党大会の直前の中国社会科学院院長王偉光氏の言説である。
王偉光氏は「『普遍的価値』の反科学性と虚偽性、欺瞞性」という、1万4000字ほどの大論文の結論でこう述べた。
中国でも国家の制度として、(辛亥革命以後)欧米風の共和制などさまざまな政治制度を試したがうまくゆかなかった。現行の「中国の特色ある社会主義」が中国にもっとも適した制度であると。
習近平報告にもこれと同じ趣旨の、政治制度は特定の社会・政治条件や歴史・文化伝統から切り離して抽象的に論じられるべきではないとか、「中国の特色ある社会主義」の発展の道は、外国の政治制度を機械的にまねすべきものではないとする箇所がある。

王偉光氏は、とりわけ民主主義について以下のようにいう。
――ブルジョアジーにはブルジョアジーの民主・自由・人権観があり、プロレタリアートにはプロレタリアートの自由・民主・人権観がある。欧米には欧米の、中国には中国の自由・民主・人権がある。
――欧米諸国は、17,8世紀の欧米の市民革命を経て成立した政治形態、すなわち国民主権、基本的人権、法の支配、権力分立などを民主主義とし、これを人類一般に通用すべき普遍的価値としているが、これには反対する。あるいは人間の自由と平等を尊重する立場を普遍的価値としているのにも反対する。
――普遍的価値は資本主義的、唯心主義的、反科学的、欺瞞的な価値観である。個別的、具体的、歴史的、階級的価値観から離れ、しかも独立した存在、一切を超越した不変的価値観なるものは根本的に存在しない。これは欧米資本主義の政治に服務するイデオロギー的手段である。
――普遍的価値は欧米勢力がプロレタリアート・労働人民を主人とする民主専政の社会主義国体と、共産党の指導を転覆しようしているしろものである。
(http://mp.weixin.qq.com/s/uPWkS7ok0Az56WBIJ1qgKg)

たしかに自由・民主・人権は、ヨーロッパでブルジョアジーの成長とともに生れた観念である。
では王氏のいう、プロレタリアートの民主・自由・人権観とはどんなものか。中国の民主・自由・人権はどのように存在するか。氏はそれを「個別的、具体的、歴史的、階級的」に明らかにする義務がある。ところが、氏の論文はブルジョア民主主義を罵倒するだけで、これがまったくないのである。
ならば、わたしは王先生にうかがいたい。
中国の言論人はこの王偉光論文に公然と反対し、批判を発表し、出版することが許されるか。労働者が組合をつくるのを警察がこれを妨害することはないか。資本家と交渉したりストライキをしようとすれば逮捕、監禁、拷問されるといったことはないか。

中国の労働者の状態は、マルクスやエンゲルスが生きた時代の、あるいは戦前の日本の無権の労働者階級の状態に似ている。労働者の基本権である団結権・団体交渉権・ストライキ権など薬にしたくてもない。とくに出稼ぎ労働者においてしかり。
この現状を「中国の特色ある社会主義」として是とするかぎり、氏のいうプロレタリアートの民主・自由・人権はありえない。王氏といえども実在しないものを論じることはできないのだ。習氏も19回党大会報告で「人権」にふれたのは、統治方法を論じた部分においてだけである。

中共19回大会が毛沢東と同じ位置に習近平を並べたことは、中国の未来を象徴している。習氏の毛沢東流統治が容認されたことになるからである。毛沢東の治政は、歴代の皇帝支配と農民的平等主義、レーニン・スターリン流独裁のアマルガムであった。
党大会報告からすると、習氏の統治は毛沢東の治政から農民的平等主義を除き、それに新自由主義を接木した強権政治である。内政がこうだとすれば、国際的には、アジアインフラ投資銀行AIIBを核に「一帯一路」政策を一層拡大し、隣国には高圧的に臨むだろう。東シナ海・南シナ海、中印国境は荒れる。

「北朝鮮はおれの生きているうちに崩壊するだろうが、中共独裁はいつ危なくなるだろうか」と聞いてきた友人がいた。――そうはゆかない。
中共中央は、いや中国人の多くもいまや力は全身にみなぎっていると判断している。経済ひとつとりあげても、日本は中国を必要としているが、中国はすでに日本がなくてもやってゆけるレベルにある。その外交もすでに日本を素通りしている。北朝鮮問題でもほとんど日本を勘定に入れていない。中国外交官が日本に関して発言したのは、安倍政権が露骨な反中国外交を展開した時だけである。
日本はこの隣人と否が応でもつきあわなければならない。アメリカ一辺倒の従来体制では、どのような政治勢力が政権の座に就こうとも、意気天を衝く「中華帝国」に対応できないだろう。(2017・10・29記)

2017.11.07 トランプ大統領、過去70年で最悪の支持率

安倍首相もNHKなども世界から軽蔑されないか

坂井定雄 (龍谷大学名誉教授)


 トランプ米大統領が訪日した5日、大統領の支持率が米大統領として過去70年で史上最低であることを示す世論調査結果が明らかになった。ほかにも同日、トランプ政権の危なさを示す報道が世界に流れた。ゴルフをやって、大統領も首相も大いに浮かれていたが、お二人だけでなく、全く無批判にはしゃいで報道したNHKや日本の一部メディアは、首脳会談をいくらPRしても世界から軽蔑されるのではないか。
 米紙ワシントン・ポストは5日、同紙とABCニュースによる最新の合同世論調査結果を発表、トランプ大統領の支持率が37%、不支持率が59%(50%は強く不支持)で、就任から同時期の歴代大統領として、過去70年間に最低であることを明らかした。
 共同通信は6日、次のように報道しているー「前政権が導入した医療保険制度(オバマケア)の見直しなど重要公約が軒並み停滞していることが主因。北朝鮮対応で51%が『全く信用できない』とした。無党派層の支持低下が著しく、経済、人種問題、オバマケアを巡りトランプ政権の業績を評価するとの回答は、無党派層では政権発足時より20ポイントも低下した」
 さらに同日、米国メディアも英BBCはじめ世界のメディアが、「トランプ政権のウイルバー・ロス商務長官が、タックスヘイブン(租税回避地)にある複数の法人を介して、ロシアのプーチン大統領に近いガス会社との取引で利益を得ていたことが、国際調査報道ジャーナリスト連合(ICIJ) の調べで分かった」(朝日新聞)と報道した。大富豪の実業家ロス商務長官は米上院で承認を受ける際、法律に従い、職務と利益相反になり得るとして、大半の資産を手放すことを宣誓しており、重大な宣誓違反として、辞任を迫られる可能性が大きい。
 もう1件ある。米NBCテレビが5日に報道した。大統領選挙にロシアの工作がかかわった疑惑を捜査しているモラー特別検察官が、トランプ大統領と密接だったフリン前補佐官を「訴追する十分な証拠を得た」ことが明らかになった件だ。共同通信のワシントン電は次のように伝えているー
 「米ABCテレビ5日、ロシア政府による昨年の米大統領選干渉疑惑を捜査するモラー特別検査官のチームが、フリン前大統領補佐官の訴伯に十分な証拠を得たと報じた。複数の捜査関係者の話としている。
 疑惑を巡っては先月、トランプ陣営のマナフォート元選対関係者3人が訴追された。フリン氏が訴追されれば、トランプ政権元高官で初となる。
 フリン氏は今年2月、1月の政権発足前に駐米ロシア大使と対ロ制裁解除を協議したことを巡りペンス副大統領に虚偽の報告をし、辞任に追い込まれた。」(了)

2017.11.01  満つれば欠くるは・・・“習一強”体制のゆくえ
          新・管見中国(31)

田畑光永 (ジャーナリスト)

 注目された中国共産党の第19回全国代表大会が終わった。10月24日の閉会に続いて、翌25日に開かれた第19期第1回中央委員会総会で、中央政治局、中央軍事委員会、中央紀律検査委員会のメンバーが決まり、習近平総書記体制2期目の5年がスタートした。
 この大会を報じた各メディアが申し合わせたように強調したのは“習一強体制固まる”であった。しかし、この言葉にはすでに近未来に待ち受ける不安定が含意されていることに注意しなければならない。
 中国が中国共産党の一党支配のもとにあることの是非は、ここの主題ではないが、その一党支配のメカニズムがまたきわめて不安定である。統治の最高責任者を決める手続きが決まっていないのである。
 内戦という武力闘争に勝利して権力を掌握した直後には、党のトップの毛沢東が国政の全権を握ったのは自然であるとしても、以後の権力継承についてのルールはいまだにない。その間、権力をめぐって多くの悲劇と政治の混乱が起こった。
 ルールがないといっても、形の上では党大会で選出された約200人の中央委員の投票で、25人ほどの中央政治局のメンバーが決まり、その互選で総書記、常務委員が決まることになっている。しかし、その過程は一切明らかにされない。一般党員も国民も結果を知らされるだけである。

―鄧小平方式―
 このブラック・ボックスに多少光を当てるようにしたのが、1980年代から90年代にかけて、副首相のポストにいながら全権を掌握して「最高実力者」と言われていた鄧小平であった。彼自身、権力を陰で握りながら、その矛盾を気にしていたのであろう。
 多数の死者を出した1989年の天安門事件の後、鄧小平は当時、上海のトップだった江沢民を総書記に抜擢したが、1997年の党大会ではその後継者として若い胡錦涛を政治局常務委員に入れた。そして、2002年に胡は江沢民から総書記を引き継いだ。
 胡錦涛もまた2007年の党大会では習近平、李克強の2人を常務委員に入れて、2012年に習近平、李克強体制が誕生した。
 かつての林彪、劉少奇の悲劇、あるいは「四人組逮捕」といった混乱なしに、ここ4半世紀、中国の政治が動いてきたのは、「総書記10年、後半のスタート時に後継者候補内定」という鄧小平方式のおかげである、といっていい。
 2012年の習近平総書記のスタート時にもこの方式は生きているように見えた。中央政治局員25人のうち、常務委員7人を除いた18人の中に孫政才(重慶市トップ)、胡春華(広東省トップ)という1960年代生まれの若い幹部が登用されていた。17年にこの2人が常務委員になれば、後継候補として広く認知されることになる。
 もっともこの配置は総書記に就いた習近平の、というより、辞めてゆく胡錦涛の発意であったろうから、今、思えば、習近平は自らの任期を10年に制限するようなこの人事には当初から反発していたであろうことは想像に難くない。

―トラもハエも、軍、共青団―
 さて、その後の習近平の施政を見るに、特筆すべきは経済政策でもなければ外交活動でもなく、「トラもハエも叩く」のかけ声で展開された腐敗摘発である。これまでに末端幹部を含めて153万人という対象の裾野の広さもさることながら、前胡錦涛時代の党中央弁公庁主任の令計画を手始めに、前政治局常務委の周永康、重慶市トップの薄熙来、軍トップの徐才厚、郭伯勇と大トラを次々とお縄にかけていった。これには大衆が快哉を叫ぶ一方で、政権内に「習、恐るべし」という空気を生むことになった。
 2015年9月2日、抗日戦勝利70周年記念軍事パレードの式場で、習近平は「30万人の人員削減計画」を明らかにして、大規模な軍の再編に手をつけた。トップ2人を射落とされた軍には抵抗するすべもなく、2年のうちに八路軍以来の伝統の組織は大きく改編され、その過程で軍人事は習の自家薬籠中のものとなったことは間違いない。
 習近平はさらに共産党の下部組織でエリート幹部の養成機関である共産主義青年団を批判の標的とした。その体質が「機関化、行政化、貴族化、娯楽化」しているというのである。「かけ声ばかりで、実体がなく、四肢は麻痺している。・・・決まりきった話をするだけで、広汎な青年のリード役どころか、尻尾に成り下がっている」(習『青少年と共青団の仕事について』2017)と悪罵を浴びせたほどである。そして、今年9月には共青団のトップ、秦宜智第1書記を国家質量検験検疫総局副局長という閑職に異動させ、翌月の共産党大会への出席資格も与えなかった。共青団出身でも幹部になれるとは限らないことを実例で示すとともに、同出身の若手政治局員、胡春華(54)に引導を渡したものであったろう。
もう1人の若手政治局員、孫政才(56)はずばり処分された。7月、任地の重慶から北京へ出張し、そこで拘束されて以降、公の場から姿を消した。腐敗で規律検査委が調査中というだけで具体的な罪名は明らかにされていない。後任には習直系の陳敏爾(57)が貴州省のトップから転じている。
こうして第19回党大会は10月18日の開会を迎えたのである。結果として出てきた最高幹部の常務委員7人の顔ぶれを見ると、習近平、李克強以外の新任5人のうち人脈的に100%習派ではないのは汪洋、韓正だが、いずれも習との関係は悪くないし、残りの3人、栗戦書、王滬寧、趙楽際はいずれも習の身内と言っていい。後継候補と目される人物はいない。
さらに18人の政治局員をみると新任15人のうち、かつて習の部下だった者が5人、習の学友が2人もいる。反習近平派と目されるような人間はいない。
江沢民、胡錦涛が従い、自分もそのおかげで今日がある鄧小平方式を、習近平は大きな議論を起こすことなく有耶無耶にすることに成功したのである。世間はそれを「習一強体制の強化」などとこともなく呼んでいることは、習近平にとっては願ってもないことであろう。
では、このまま5年が過ぎた暁にどうなるのか。習がそのまま居座ることを中国社会は認めるのか、それとも・・・。「満つれば欠くるは、世のならい」ではある。
2017.10.31  何が何でも米朝戦争は回避しなくてはならない
          元将軍で固めたホワイトハウスの理性的判断がカギ

伊藤力司 (ジャーナリスト)

北朝鮮の核・ミサイル開発問題をめぐってアメリカと北朝鮮の恫喝合戦が激化、このチキンレースが恐ろしい米朝戦争に点火しかねないという恐怖が北東アジアに居座っている。トランプ米大統領は9月19日、ニューヨークの国連総会演説でこう脅した。

アメリカは「自国か同盟国を防衛することを余儀なくされれば、北朝鮮を完全に破壊する以外に選択肢はない」。「これが不要になればいいが」「アメリカには(そうする)用意も意思も能力もある」と。

これに対し北朝鮮の金正恩・朝鮮労働党委員長は同21日、国務委員会委員長としての初声明を発表。「世界の面前で私と国家を侮辱し、共和国をなくすという歴代最悪の宣戦布告をした以上、それに相応する史上最高の超強硬対応措置の断行を慎重に検討する」と表明。

「史上最高の超強硬対応措置」について、国連総会出席のためニューヨークに滞在していた李容浩・北朝鮮外相は記者団に「委員長同志が行うことなのでよく分からない」としつつ「太平洋上の水爆実験」を示唆した。これについては「火星12型」などの弾道ミサイルに核弾頭を搭載して爆発させる可能性が指摘されている。

米朝最高責任者が恫喝合戦を繰り広げるのを聞いていると、今にも米朝戦争が勃発するのではないかという不安心理が世界に広がる。しかし米朝双方が核兵器を持っている現在、
いったん戦争が始まれば、広島、長崎の惨事の数百倍もの「生き地獄」が発生する。

米ジョンズ・ホプキンズ大学の北朝鮮分析サイト「38ノース」は、米朝軍事衝突が起き、北朝鮮が手持ちの核兵器で東京とソウルを攻撃すれば、死者が計210万人、負傷者が770万人に上るとの推計値を発表している。

トランプ大統領、金正恩委員長とも相手に対して一歩も引かない強気の姿勢を見せているが、双方の参謀たちは本当に戦争をやる気はない。とりわけ北朝鮮の持っている核兵器(推定10~20発程度)に比べ、アメリカの保有する核兵器は6800発。世界一の軍事大国アメリカと、口だけは大言壮語の北朝鮮の軍事力の差は「大人と赤ん坊」並みだ。

もし北朝鮮が先制攻撃すれば、アメリカ軍の反撃で北朝鮮はトランプ大統領の言うように「完全に破壊」されるだろう。北朝鮮側は口を開けば、強気一筋だが、実際の行いは慎重だ。8月中旬に米軍事基地のあるグアム島周辺に4発のミサイルを撃ち込む計画があると高言しながら、金正恩委員長は結局「しばらくアメリカの出方を見る」と称して実行を保留した。

9月21日の金正恩委員長の発言も、前段は「史上最高の超強硬対応措置の断行」と勇ましいが、後段では「慎重に考慮する」と述べている。前段の「史上最高」「超強硬」とかの大袈裟なセリフが、実は『こけおどし』であることを言外に物語っている。

一方のトランプ大統領も勇ましい言葉を吐き散らした上、金委員長のことを”mad man”
とか”rocket man”とからかったりして、チキンレースでは一歩も引かぬ構えだ。しかしホワイトハウスの内実は決して好戦論一本槍ではない

トランプ政権は発足後8カ月を超えたところだが、トップ級人事がころころ変わった。その結果、安全保障関係の枢要ポストを軍人出身者が占めるに至った。ホワイトハウスの大番頭たる大統領首席補佐官は7月28日、ラインス・プリーバス元共和党全国委員長(1月20日就任)が更迭され、ジョン・F・ケリー国土安全保障長官(海兵隊退役大将)になった。

安全保障担当の大統領補佐官は2月20日、マイケル・T・フリン退役陸軍中将からハーバート・℞・マクマスター退役陸軍大将に代わった。1月20日トランプ政権発足以来、今日まで変更なく国防長官のポストにあるのはジェームズ-N・マティス退役海兵隊大将である。

一方、米外交を取りしきる国務長官は純粋シビリアンで、世界最大の石油会社エクソン・モービルの会長だったレックス・W・ティラーソン氏。石油ビジネスを通じてプーチン・ロシア大統領と昵懇の仲といわれる。

国務長官を別としてこれら米国の外交・安全保障を執りしきる退役大将たちは、軍人だから好戦的かというとそうではない。彼らは皆ベトナム戦争、アフガン戦争、イラク戦争と米軍にとって不名誉な戦争の体験者であり、2度とあのような戦争を戦いたくないと考えている人々だ。

トランプ大統領は好き勝手な言葉をツイッターで振り撒いているが、ホワイトハウスの要所を押さえているのは、アメリカが戦った不名誉な戦争で苦労した将軍たちである。彼らはやはり和平派のティラーソン国務長官と組んで、米朝戦争を起こすまいと懸命に努力しているのだ。

まして北朝鮮は遠からず、米本土に届く核弾頭付きICBM(大陸間弾道ミサイル)を入手しそうだと予測されている。ヒロシマ、ナガサキを体験した人類にとって、まして核兵器の威力を熟知している世界中の軍高官にとって、核戦争はありえない。

核戦力はあくまでも抑止力である。だからこそ金正恩は何としても抑止力を手に入れようと、アメリカ本土に届く核弾頭付きICBMを獲得するまで、プーチン・ロシア大統領の言葉通り「雑草を食ってでも核・ミサイル開発を続けるだろう。」

今から23年前の1994年、ホワイトハウスの主がビル・J・クリントン大統領だったい時代のこと。北朝鮮初代ボスの金日成主席は1993年に核不拡散条約(NPT)から脱退、核兵器生産の意図を世界に向かって明示した。

北の核を阻止しようとした、懸命な外交努力に耳を貸さない北朝鮮に業を煮やしたクリントン大統領は開戦を覚悟したが、当時の金泳三・韓国大統領の強い反対と「ソウルは火の海に100万人単位の犠牲者が出る」との在韓米軍当局の判断を聞いて、開戦を断念した。

北朝鮮と韓国の事実上の国境線である非武装地帯(DMZ)から韓国の首都ソウル(人口約1000万人)はわずか50キロほどしかない。DMZの北側に並べられた北朝鮮軍の長距離野戦砲8000門が火を噴けば、ソウルが「火の海」と化すのは疑いのないところだ。

こうした事情は23年前と基本的に変わっていない。マティス米国防長官は9月18日、北朝鮮の報復攻撃でソウルが危険にさらされない「軍事的選択肢」がある、と述べた。「選択肢」が何であるかはもちろん秘密だが、それが本当に有効であるかは検証されていない。

トランプ対金正恩のチキンレースは一見破局に向かっているかに見えるが、双方とも破局を回避したいのが本心だし、回避できると思っているのではあるまいか。この緊張を歓迎しているのは、超高価なミサイル迎撃ミサイルの注文が飛び込んだアメリカの兵器産業だけである。
2017.10.30  日本への恨み考-―「満州事変を忘れるな」の補遺
          ――八ヶ岳山麓から(239) ――

阿部治平 (もと高校教師)

先月のことだが、産経新聞に概略次のような記事があった。
9月22日、河南省鄭州大学で行われた就職説明会で、通信機器メーカーの小米科技(シャオミ)の幹部社員が、「英語やアラビア語を勉強している学生は歓迎するが、日本語専攻の人はお帰りいただきたい」と発言し、さらには「日本語専攻者はアダルトビデオにでも就職すれば?」ともいったことがわかった。
侮蔑を感じた日本語専攻の女子学生が、問題発言の詳細をインターネット上で暴露し、小米科技の雷軍・最高経営責任者に謝罪を要求した。結局雷氏は、24日に発言者の譴責処分を発表。発言者も公式に陳謝した。
ところが新浪など中国の大手ポータルサイトでは、この騒ぎをめぐる書き込みに女子学生への同情があまりみられず、むしろ「日本語学習者なら日本に行け」など、不当な発言を支持する意見が圧倒的に多い展開となった。
中国のテレビでは、旧日本軍の残虐性を強調する抗日ドラマが連日放映されてきた。最近では、ニュース番組でも、中国での相次ぐ日本人拘束事案を『日本人スパイ』と言い立てて、国民の反日感情を刺激する事態が続いている(産経「矢板明夫の中国点描」2017.9.27)。

さて私が中国への往来を始めた1988年ころは、両国間の国民感情はむしろ良好だった。私は天安門事件の2か月後に中国から帰国し、11年後の2000年に再び中国にわたってさる研究所に勤務した。
翌2001年、小泉首相の靖国神社参拝によって日中関係は急速に悪化した。このとき私は研究所の人々の私を見る目が急に冷たくなったのを感じた。天津の街頭では日本人の知人がズボンに痰を吐きかけられた。

2005年3月、韓国で反日運動が起きると、中国でも歴史教科書問題や日本の国連安保理常任理事国入り要求をめぐって反日運動が起きた。翌月には成都で日系スーパーに対する襲撃があり、引き続く北京、上海ではデモが暴徒化した。このとき私はある大学に勤務していたが、初めてインターネットや携帯メールによってデモが各地に拡大するさまを体験した。そこの大学でも学生が校舎に反日スローガンの垂幕をたらし、日語系学生が説得して短時間でこれを下すということがあった。

2010年9月になると東シナ海での中国漁船衝突事件が発生し、時の民主党政府は船長を逮捕した。日本は中国の強硬姿勢に苦しみ、あげく船長釈放を沖縄地検の判断に頼るというみっともない幕引きをした。このときも中国ではネットやメールなどで反日デモの呼びかけが行われ、中国内陸部の各都市で反日デモが発生した。デモ隊は「愛国無罪」といいつつ日章旗を燃やし、日系商店のガラスや看板を砕き、日本車を破壊するなどした。最終的には中国政府が武装警察を動員して事態をおさめた。

2012年には中国人活動家数人の尖閣諸島上陸という事件があってのち、胡錦濤主席の「やってくれるな」の申入れにもかかわらず、野田政権が尖閣の国有化を決めたのが直接のきっかけで両国関係は険悪になった。
中国側はテレビ・新聞を中心に大々的な尖閣特集を組み、反日報道を展開した。9月15日から全国各地のデモは20数都市に拡大した。それは2005年のデモを越える規模になり、日系の店舗、工場、企業を軒並み襲撃し、略奪や放火をした。中国人経営の日本料理店や日本車に乗っていた中国人までもがやられた。

こうした中国の反日デモを、日本のメディアはどのように伝えてきたか。
デモ参加者はもちろん一般市民だったが、メディアはこれを自発的行動とはみなさず、中国政府によって扇動されたものだと解説した。
たとえば2012年のデモは、胡錦濤政権下で次期中国共産党総書記に内定していた習近平国家副主席が、対日強硬路線を主張して実施したともいわれた。1回10元(約130円くらい)の日当とか、いや100元だとか、裏にそのスポンサーがいるとかいう話もあった。さらにデモにともなう破壊行為は、民衆が日頃の政府に対する鬱憤を晴らそうとしているためだ、といった解説もあった。
新聞もろくにみない庶民層が外交問題でデモをやることが不可解だし、そもそも中国では政府の許可または黙認なしにデモをすることはできない。だから、大規模なデモの裏側に中共当局の意図が働いていたと見るのは、間違いではない。

しかしそれはすべてはない、と私は思う。
すべてのデモ参加者に自発性がなかったということはできない。どんな中国人であっても、多少なりとも日中戦争を知っている者ならば、心の底に激しい反日感情をもっている。だからこそ政府による「刺激」にたちまち反応し、「愛国無罪」のデモが生れたのである。
ここからはまったくの個人体験である。

1985年夏、私は中国山西省太原で、日本人向けセミナーの漢語学習班に参加した。あるとき、顔見知りの事務官が「日本鬼子又来了(日本の人殺しがまた来た)」といったことがあった。私が自分のことかと驚くと、彼は漢語学習に参加した数人の日本人年配者をさして「君ではない。あいつらが鬼子だ」というのだった。その人たちは日中戦争時に太原を占領した部隊の生残りだった。かの事務官は私に向かってこういった。
「あいつらが来たとき、父は私を抱いて3日間トウモロコシ畑に隠れていた。それでようやく助かったのだ」。

友人の地理研究者は日本に来たばかりの時、すでに日本語会話ができた。なぜかという問いに「日本語学習は自分の希望ではなかった。大学当局が私を日語履修班に振り分けたから」と答えた。
親しくなってから、彼は自分の家族の歴史を語ってくれた。1937年11月、日本軍は上海を制圧し、12月には南京を占領した。日本軍が上海から南京へ向かう途中に、彼の祖父の家があった。祖父は捉えられて柳の木に縛りつけられ、銃剣刺突の的にされた。祖母は輪姦され、そのショックで目が見えなくなった。一家は働き手を失い、男女5人の子供のうち4人は餓死し、彼の父だけが生き残った。
「そういうわけで、親戚は私に日本語をやるなら縁を切るといったのです。私?……忍耐して日本語を勉強するしかないでしょう?」

1988年私は日本語教師として中国天津に派遣された。
赴任先の中学(中学高校)には英語系と日語系のコースがあり、生徒たちの学習意欲はかなり高かった。私が生徒たちの成績をほめると、若い副校長は、「いやいや、なかなか苦労がありまして……」といった。
この学校でも入学者を英語系と日語系に振り分ける作業は学校側が行なっていた。日本語ブームが存在したころだったが、たいていの入学者は英語系を強く希望した。「運悪く」日語系に回されると、親の中には承知することができず、激昂して怒鳴り込むものがいた。
「毎年、それをなだめるのが容易ではありません」
そして生徒の中には、我々日本人教師に露骨に反感を示すものがいた。こうした「底流としての反日感情」の発露に、私は頻繁に遭遇した。

小さいころ、夕方遅くまで遊んでいると「ボーコが来るぞ」と脅されたことを思い出す。それが蒙古のことであり、13世紀の文永・弘安の役に関連していると知ったのは、大人になってからのことである。侵略の歴史は、被害者にはかくも長く記憶されるのである。
ましてや日中戦争は近年のできごとである。現在の中国人の中にやみがたい反日感情が生き続けるのは、ごく当然のことだ。もしわれわれの祖先が同じ体験を強いられていたらと考えると、それは納得せざるを得ないものである。
過去日本の侵略は、現在の中国の人々に悲憤の種を残した。そして中国からご先祖の悪行を指摘されるたび、心からのお詫びをいい続けなければならないのである。