2017.07.26 「自由」は反マルクス主義であり反革命である
          ――八ヶ岳山麓から(228)――
               
阿部治平 (もと高校教師)

ほとんどの中国人は、中国に劉曉波という人物がいて、08憲章なるものを起草して民主化を要求し、そのために投獄され、獄中でノーベル平和賞を受賞したことを知らない。その死は伝えられることはない。
そうした中国の統治者である中国共産党中央が、先に紹介した。「自由があってこそ創造があるのだ」という北京大学教授張維迎氏の主張を放置するはずはなく、同主張はネットに登場してから12時間足らずで消去され、かわって当局の意向を忖度した反論がただちに登場した。
ここでは「張維迎の類が北京大学を利用して『墓堀人』を養成するのを絶対に許さない」という論文(以下「反論」)を検討してみる。
https://finance.sina.cn/china/cjpl/2017-07-11/detail-ifyhwefp0577990.d.html?vt=4&pos=108

「反論」の要点
張維迎論文の中心は、「中国の過去500年の(イノベーションの)空白は自由が制限されていたからだ。思想の自由がなければ、行動の自由もない。自由があってはじめて中国人の企業家精神と独創力を十分に発揮でき、中国を新しい国家に変えることができる」という点に尽きる。張氏は中国経済の高度成長をそれなりに評価しているのだが、さらにその先の段階へ進むためには徹底した市場化をやるほかないと主張してきた人物である。
したがって、張維迎への批判は、自由がなくても科学技術は発展するとか、中共施政下でも独創的技術が生まれたとかいうことでなければならない。ところがこの「反論」では欧米日の中国侵略の歴史や、鄧小平農政の自作農創設や、中共治政下の経済の高速発展が偉大なものであったことをことさらに強調し、さらには習近平主席が毛沢東に心酔していることを受けて、毛沢東が文化大革命中に青年を農村に「下放」したことを肯定し、現在の中共中央指導部に「下放」経験者が数多くいることを誇らしげに記している。
この「反論」が技術開発にまともに触れた部分は、わずかに屠yaoyao(yaoは口ヘンに幼)女史が新薬の開発でノーベル生理学医学賞を受けた事実と、中国「雑交水稲」の父袁隆平氏のハイブリッド水稲技術、さらに中国の特許申請件数が世界一の多さに達したことしかない。
科学技術分野でのノーベル賞受賞者が屠女史たった一人、めざましい業績が袁隆平氏一人という事実は、むしろ張維迎氏の「自由がないところには独創がない」という主張を裏付けるものだ。特許に至っては、洗濯機のごみ取りからips細胞周辺までそのレベルは千差万別だから、特許申請件数が多いことがただちに中共支配下で独自の技術開発が数多くあることの証明にはならない。

「反論」氏が本当に反論したかったこと「反論」の著者もこうした「反論」がいかにも愚かで、まかり間違えば張維迎論文を肯定することになりかねないことはわかっているかもしれない。では「反論」氏が本当にいいたいことは何か。
答えは簡単で、張氏が「自由がなければ、独創も科学技術の発展もない」といったことがいけないのである。「反論」氏にとっては、これこそマルクス主義に反し、共産党の指導を否定する資本主義の道を歩ませることになる。そこでこんなふうに口を極めて張維迎氏を非難するのである。
「学んでは人の師、行なっては世の模範であるべきなのに(張維迎は)『自由と責任』のスローガンを打ち立て、ほらを吹き、極めて険悪な了見で、新中国で生まれた天地をひっくり返すような変化を根本的に無視し、改革開放以来の目を見張る成果を否定し、共産党の指導を否定し、我々の路線と理論、制度、文化についての自信を破壊している」
「突き詰めたところ共産党の指導を覆し、英米モデルによって中国を徹底改造し、資本主義の道を歩ませようとしている。これは学術問題でもなんでもない。重大な原則問題・政治問題である」

なぜ自由を求めるものが生れるか
劉曉波氏にしたように、中国憲法の民主的条項の完全実施や司法の独立を要求するものをただちに投獄したとしても、中国には思い出したように、自由だの民主主義だのを求める張維迎氏のような人物が現れる。
そこで「反論」氏は「現在(張維迎のような)社会上のあれこれの反党・反軍・反政府などのマイナス感情がなぜ盛んになったのか」と問い、自ら答える。
「わが国改革の全面深化・全方位対外開放・中外の交流は頻繁になり、英語・ロシア語・日本語・ドイツ語・フランス語など外語使用の人はだんだん多くなった。我々は外語を使用すると同時に、自覚するか否かにかかわらず一種の価値観念・思惟方式・言語体系を受取り押し広めている。こうした状況の中では、人によっては、『ヨーロッパは強く自分は弱い』という言語構造の中で定見をうしない、ヨーロッパ理論と価値観の『伝声管』になり、実質的には『魂を失う』ものが出てくる」
つまり、経済のグローバル化や文化の多元化が中国インテリの思考を「西側化」し、反マルクス主義的にしているというのである。ならばいくら警戒しても「定見」を失い「墓堀人」の卵となるインテリは、いくらでも生まれることになる。そうだとすればこれは力で抑えつける以外にない。
私が知るかぎり、力づくではない方法もある。中国で生活していたとき、私が接した学生のほとんどはマルクス主義の初歩の教条を知らなかった。「中学高校でいやになるほど暗記させられたから、もうマルクスはいやだ」というのがその答えだった。
若者がマルクスを忘却の彼方の追いやることは、中共指導者にとってはたいへんに都合のよいことである。中国の現状をマルクス経済学の教条に照らして、「中国では資本による労働の搾取があるのか」とか、「中国富裕層のあの巨万の富はどこから来たか」などと若者に言いだされては困るのである。

プロレタリアート叛乱への恐怖
まじめな話だが、中国では一党独裁を非難したり、資本の利益制限を主張したりするものは反マルクス主義的であり反革命である。権力と富とが特定階層に集中する現体制を正当化し、国家独占資本主義のゆがんだ市場経済を擁護するイデオロギーこそがマルクス主義である。マルクス先生、エンゲルス先生がご存命であればどんなに驚かれることであろう!
そして張維迎氏のように徹底した市場化を主張する体制側イデオローグでも、自由を掲げて現状を批判すれば打倒の対象になる。それは市民・労働者の反権力的組織的抵抗を導く恐れがあるからである。中共中央が恐れるのは、1989年の民主化運動の再現である。市民・労働者が組織され、民主主義への体制変革とか、資本の利益制限とか、社会福祉などを要求しだすことである。
中共は中央から地方の末端まで権力の網をしっかり張ってはいるが、その支配を正当化するイデオロギーは、現実との乖離がはなはだしく、現体制によって利益を得ている数百万の富裕層をのぞけば、十数億人民大衆に対しては説得力はほとんどない。
そこで中国政府はこの6月はじめ、イデオロギー規制を強化する「ネット安全法」を施行した。当局は遠慮なくネット情報をコントロールできるし、ネット運営者は利用者の個人情報などを提供しなければならない。反政府運動が起きないのはこのように人民大衆がバラバラにされ、横の連携を絶たれているからである。こうして張維迎氏へのばかばかしい「反論」には、体制側イデオロギーの深刻な危機感が反映されていることがわかるのである。
2017.07.25 アリスとの出会いーその「奇跡」の人生から学ぶ
韓国通信NO530

小原 紘(個人新聞「韓国通信」発行人)

 一年ぶりのアウシュヴィッツ平和博物館※。
水仙、桜、れんぎょう、こでまり、芝桜が一斉に咲くのを見て14年間の歳月を思い出した。栃木県から福島県白河へ移転した博物館のオープンを記念して植えた芝桜が特に思い出深い。<写真/アウシュヴィッツ平和博物館本館>
(※1988年からポーランドのアウシュヴィッツ博物館から借り受けた資料等を全国巡回後、2003年から福島県白河市で常設展示。原発事故後、原発災害資料センターを併設)
韓国通信530

 ホロコースト、チェコのテレジン収容所に長年かかわってきたピアニスト志村泉さんの『アリスの奇跡』コンサートが、アウシュヴィッツ平和博物館主催で4月22日、同博物館で開かれたので、それを聴きに白河を訪れたのだった。
アリス・ヘルツ=ゾマーは1903年生まれ。チェコ出身のピアニスト。4年前に110歳で亡くなるまでピアノを弾き続けた数少ないホロコーストからの生還者。ピアニスト、ピアノ教師、母親として、一市民として、愛にあふれた生涯を送った。

<ピアノとお話>
 ピアノ演奏の前に志村さんはアリスの数奇な人生を語り、曲ごとにアリスとのかかわりについて聴衆にレクチャーした。<写真下/志村泉さん> まず、ショパンのエチュード「別れの曲」。
 1943年7月5日、アリスは隣人のナチス党員夫妻の求めに応じて、「別れの曲」を弾いたといわれている。アリス一家がテレジン収容所に送られる前夜である。すべての財産を奪われ、空っぽの部屋に残されたピアノで弾いた。(『アリスの奇跡』キャロライン・ステンジュー著より)。
 志村さんは、この曲を収容所に送られるアリスの気持ちになって演奏したはずだ。狂おしいほど不安なはずだったアリスは絶望せず、希望を失わなかった。
 アリスは生涯ベートーベンを尊敬し、「熱情」ソナタを好んで演奏したといわれる。ピアノがうなり、息を呑むような情熱的な演奏から、志村さんのアリスと曲への思いが伝わってきた。
 初めて聴くウルマン(チェコ出身。1898~1944、作曲家、指揮者、ピアニスト)のソナタ第2番。アリスは、テレジン収容所で、アウシュヴィッツへ送られるウルマンの前でこの曲を演奏した。とかく難解といわれる現代曲だが、初めて聴くソナタは、ベートーベンやショパンを感じさせる甘く親しみやすいメロディながら、ウルマンの「不安」と「苦悩」が重なる。
 会場では福島原発事故をテーマにした三人の絵画展が開かれていた。その作品に囲まれたウルマンの曲は「フクシマ」と響き合った。アリスは100回を越す「収容所コンサート」を開いたという。志村さんは、アリスを語り、アリスになり切って熱演した。
韓国通信530ー2

<テレジン収容所(1941/11~1945/4)のこと>
 チェコのテレジン収容所には音楽家を始め多くの芸術家や科学者たちが収容された。最盛期にオーケストラが四つもあったとは驚く。劣悪な環境の中で子どもたちのためのオペラまで上演された。「文化」に溢れた収容所に見えるが、ガス室による大量虐殺をカムフラージュするためだった。そのため国際赤十字団を招いてコンサートまで開かれる一方で、収容されたユダヤ人を次々とアウシュヴィッツのガス室へ送るという類まれな「通過施設」だった。
 収容されたユダヤ人は156千人、解放時には生存者はわずか17千人。生存率は11%たらず。「消えた人たち」はアウシュヴィッツに送られ、あるいは収容所内で死亡した。
 アリスのピアノは、収容された人たちを励まし、希望を与え続けた。自分を待ち構えている苛酷な運命に絶望してはできないことだった。強制労働と特別に許可された練習とコンサートがその後のアリスの生き方を決定づけた。

<アリスの世界>
 音楽の力によってナチの恐怖を超えたアリスは奇跡的に生き延びた。夫はすでにアウシュヴィッツで殺されていた。彼女は42才になっていた。解放後、イスラエル、イギリスへ移住してピアニストとして目覚ましい活躍を続けた。
 ピアニストとしての名声とは別に、彼女は私生活をとても大切にする人で、たびたび友人たちを招いてはホームリサイタルを開いている。これは生涯続いた。アリスは自分の体験から「愛」と「希望」の大切さを語り続けた。<写真/本の表紙/アリス・ヘルツ=ゾマー>
韓国通信530ー4

 志村さんのこの日のコンサートはアリスの世界を彷彿とさせた。演奏会が終わって参加者たちとアリスの世界を語り、音楽の素晴らしさを語った。テレジン収容所でアリスが弾いたピアノはポンコツだったが、この日、主催者が用意したピアノは生前アリスが愛用したスタンウェイだったことも話題となった。

 アリスは大変な勉強家、読書家でもあった。高齢になって大学で哲学を学び、カフカやスピノザに親しみ、シュテファン・ツバイクの『昨日の世界』を愛読し、生涯、日々学び、思索を重ねた。数多くの著名な文化人、演奏家、指揮者たちが彼女の自宅を訪れたが、無名の人たちとも心を開いてつきあい、孤独とは無縁な生活を送った。
 憎悪を嫌ったアリスは、無限の寛容な心を持った人だった。「私たちは永遠からやって来て、永遠に戻る」と語り、マーラーの交響曲第二番四楽章の歌詞「私は神から出でて、神に戻る」はアリスの魂のテーマだったとも伝えられる。
 アリスは夫や家族、友人たちを奪ったナチスの残虐行為をどのように考えていたのだろうか。アイヒマンの公判を傍聴して、ハンナ・アーレントと同様に「自分の責任を果たしただけ」と平然と述べたアイヒマンの凡庸さに衝撃を受けた。だから、彼女はホロコーストがなくなっても世界は何も変わっていないと感じていた。人を理解すること、愛することからすべてが始まると主張してやまなかった。2001年9.11事件以降、憎しみの連鎖が世界を覆ったことに心を痛め続けた。

<憎しみにあふれた世界にも春は来るのか>
 今、世界は「憎しみの連鎖の」なかにある。そして、テロと戦争が続発している。自国第一主義、排他主義が広がり、至る所で人間の尊厳が貶められている。
 「ホロコーストは終わっていない」という収容所からの帰還者であるアリスの言葉は重い。終生、音楽と愛の力を信じ、憎しみのない未来を願ったアリスは私たちが忘れがちな大切なことを思いださせてくれる。アリスは自分を苦しめたナチスに対して憎悪を燃やすことはなかったが、憎悪そのものは許せなかった。憎悪を煽ったヒットラーを「無教養」な「ポピュリスト」とあざ笑い、闘おうとしなかったことがホロコーストを生み戦争を生んだというアリスの指摘は、今でもそのまま通用する。トランプ米大統領のポピュリズム、安倍首相の無知蒙昧を笑ってすましてはいけない。アリスがもし生きていれば、間違いなく彼らとヒットラーに違いはないと答えるはずだ。
 韓国の詩人李相和の「失われた野にも春は来るのか」は、日本によって奪われた祖国に春が来ることを願った詩である。私はその一節を、憎しみに覆われた地球に春が訪れることを願う人類共通の願いとして心に留めておきたい。

 なお本文は「未来へのかけ橋」<テレジンのピアノの会発行>NO39掲載文章を加筆修正したものです。

2017.07.24 衝撃的なアルジャジーラのモスル解放報道
 
坂井定雄 (龍谷大学名誉教授)

 モスル解放のニュースは洪水のように、世界で報道された。主としてネットを通じてできるだけ多くの報道に目を通したが、中東カタールに本社がある国際衛星テレビ局アルジャジーラの報道がとりわけ優れていると思った。アルジャジーラについては、6月29日の本欄で「アルジャジーラを潰すな!中東唯一の自由な国際衛星TV局。サウジ、エジプトらが閉鎖要求」で書いた。サウジアラビア、エジプトなど中東4か国が、6月5日に国交断絶、わずかな通行ルートを残して陸路、航空路を閉鎖、22日には、イランとの外交関係の縮小、エジプトのムスリム同胞団やシリアの一部反政府過激派への援助の停止、アルジャジーラの閉鎖など13項目を要求。カタール政府はこれらすべてを拒否した。アルジャジーラも従来通り、アラビア語、英語報道を続けてきた。
 モスル解放の報道でも、その報道姿勢は、英BBC以上に、人の命、人権を尊重する立場を失わずに、戦場から、後方の難民キャンプから、首都バグダッドから、現地報道を続け、イラク軍や米軍の行動に対しての批判も避けなかった。
 その中から、ここでは、アルジャジーラ電子版が伝えた、イラク政府のモスル解放宣言(7月10日)前後にアルジャジーラ取材陣が現場で撮影した写真を紹介しよう。

(写真説明)撮影者はアルジャジーラのEmanuele Satolli.
「イスラム国IS]支配から解放されたモスル市西部。自宅の地下などに何週間も隠れていた市民たちが、激しい爆撃と銃撃戦で瓦礫となった街頭に出てきた。

モスル写真1
1.自宅の壁の穴から出てきた女性

モスル写真2
2.まだ、自宅の地下室からでられなかった家族

モスル写真3
3.ISの抵抗が終わり、かってはにぎやかだった街頭に出てきた市民たち

モスル写真4
4.赤ちゃんをだいて出てきた女性

モスル写真5
5.高級だったモスル・ホテルのロビーで休むイラク兵たち


2017.07.18  これは灯火が消える前の一瞬の輝きか
          ――八ヶ岳山麓から(227)――

阿部治平 (もと高校教師)

7月1日、経済学者張維迎氏は、北京大学国家発展研究院の卒業式で、教授陣を代表して「自由とは責任にほかならない」という表題の講演をおこなった。彼は自由を推進することの歴史的意義を強調して、これは祖国の命運に関心をもつ「北京大学人」の責任であり使命であると語った。
張氏は1959年生。中国経済の徹底した市場化、国営資本の民営化を提唱して新自由主義経済学者の旗手といわれた。だが、企業家精神を擁護するあまり、その不当行為を容認するような議論に及んだため、資本家の代弁者といった批判を受けた人物でもある。
講演は政府筋を恐慌に陥れたらしく、北京大学国家発展研究院の公式サイトから速やかに削除された。苛烈な思想弾圧がつづく今日、彼が当局からどんな扱いを受けるか懸念される。以下はこの講演の私なりの要約である。

「自由とは責任にほかならない」
                                                     張維迎
1500年以降中国人は何も創造しなかった
イギリスの科学博物館の研究者Jack Challonerの統計によると、旧石器時代(250万年前)から2008年のあいだに世界を変えるような重要な発明は1001件あった。そのうち中国は30件で3%を占めるという。この30件はすべて1500年以前にうまれ、1500年以前の時代の全世界163件の重大発明の18.4%を占めるという。
最後の一件は1493年発明の歯ブラシである。これは明代たったひとつの重大発明である。1500年以後500年余り全世界の838件の重要発明中、中国がものしたものは一件もない。

技術開発と急速な拡大
1500年以後世界は一体化した。技術の発明が速いばかりか、その拡散速度はさらに早くなった。新技術がある地方に現れると、たちまちほかの地方が引入れるから、人類全体の進歩には重大な影響を及ぼすこととなった。経済成長のみなもとは、新製品・新技術・新産業の絶えざる創出である。
自動車を例に取ろう。自動車産業は1880年中期にドイツ人のKarl BenzやGottlieb Daimler、それにWilhelm Maybachなどが作り出したものである。ドイツ人が自動車を発明するや、15年後にはフランスが世界第一の自動車生産国になり、さらにその15年後にはフランスに代わってアメリカが第一となり、1930年アメリカの自動車普及率は60%に達した。
自動車産業の技術史をみると、有名な発明者は千をもって数えることがわかる。中国はいま第一の自動車大国だが、技術革新はドイツ・フランス・イギリス・イタリア・ベルギー・スウェーデン・スイス・日本などで行われ、中国人はだれ一人いないのだ!

人口規模と独創の関係
理論上は、ある国家の人口規模が大きいほど創造は多く、技術進歩も早いといえる。しかし創造と人口の比は指数関係であり、単純な等比関係ではない。
10数年前、アメリカの物理学者Geoffrey Westらは、都市生活中、人類の発明創造と人口の関係には「4分の5乗」の法則があることを発見した。もしある都市の人口が他の都市の10倍であるとすれば、発明創造の総量は後者の10を「4分の5乗」して得られる数値すなわち17.8倍となるという。
これからすると中国の世界発明創造に対する貢献は、中国の人口規模とはまったく比例しないことになる。中国人口はアメリカの4倍、日本の10倍、イギリスの20倍、スイスの165倍である。知識創造の指数累乗法則に従えば、中国の発明発見はアメリカの5.6倍、日本の17・8倍、イギリスの42.3倍、スイスに至っては591倍となるはずである。
そのスイス人は、手術用の鉗子、電子補聴器・安全ベルト・整形技術・液晶パネルなどを発明した。中国人民銀行発行の人民元紙幣に使われているニセ札防止インキはスイスの技術であり、国産の小麦粉の60~70%はスイス・ブロン社製の機械で製粉したものである。

中国にもかつて自由な時代があった
中国人の遺伝子に問題があるわけではあるまい。我々は古代中国の輝かしいものと理解される方法を、現代というこの時期に失っているのだ。明らかに我々の体制と制度に問題があることがわかる。独創力は自由にささえられたものである!思想と行動の自由だ。中国体制の基本的特徴は人の自由を制限し、個人の独創性と企業家精神を扼殺するものである。
中国人がもっとも創造力を発揮したのは、春秋戦国と宋代である。これは偶然ではない。この二つの時代は中国人が最も自由な時代だった。1500年以前、ヨーロッパもアジアも昏迷の中にあった。1500年以後、ヨーロッパに宗教改革とルネッサンスがおこり、だんだんに自由と法治に向かって歩み出した。いま我々はその逆を行っている。
私は強調したい。自由は不可分の総体である。心の不自由なとき、行動の自由はありえない。言論が不自由なとき、思想は自由ではありえない。自由があってこそ創造があるのだ。例をあげる。

手洗いと活字印刷、顕微鏡の関係
今日、食事の前とトイレのあと手を洗うのは習慣となった。だがハンガリーの内科医Ignaz Semmelweisが、医者と看護師は産婦に接触する前に手を洗う必要があるといいだしたのは、1847年のことである。これは当時の習慣と異なっていたから、彼は同僚のご機嫌をそこね、仕事を失い、精神病院で死んだ。享年47。
では人類の衛生習慣はどのように変化したのか。
これは印刷機の発明と関係がある。1440年代、ドイツの企業家Johannes Gutenbergが活字印刷を発明した。印刷機によって書籍と読書が普及した。そこで眼鏡の必要が生れ爆発的に増加した。印刷機の発明から100年後、ヨーロッパには数千のメガネ屋が生まれた。これが光学技術の革命を引きおこした。
1590年、オランダの眼鏡製造商Janssen父子は、いくつかのレンズを円筒の中に重ねておくと、ガラスを通してみたものが大きくなるのに気がついた。これが顕微鏡の発明につながった。イギリスの科学者Robert Hookは顕微鏡をつかって細胞を発見し、科学と医学の革命を引き起こした。初期の顕微鏡は解像度がたいへんに低く、1870年代に至ってドイツのレンズ製造商Carl Zeissが新しい顕微鏡を生産したが、それは精密な数学公式を基礎とした構造であった。
ドイツの医者Robert Kochなどは、まさにこの顕微鏡を使って微生物・細菌を発見し、かのIgnaz Semmelweisの見方が正しかったことを証明した。これによって微生物理論と細菌学が創設され、これによって人類の衛生習慣が改善され、人類の余命が大幅に延長されることになったのである。

発明・独創は自由あってこそ
過去30余年、中国経済はまれにみる発展を遂げた。この成果は西側世界300年の発明と創造が蓄積した技術を基礎として実現したものである。ところが中国経済の高度成長を支えた重要な技術と製品はすべて他人の発明したもので、自分の発明はひとつもない。我々はただの利ざや稼ぎをやったのであって、独創者ではない。我々は他人が作った大建築の上に小さな楼閣をつくったにすぎない。我々には自らを誇る理由がないのだ!
これから50年、100年と世界の発明発見は歴史を重ねるだろうが、中国は過去500年の歴史上の空白を変えることができるだろうか?答えは中国人が享有する自由を持続し向上させることができるか否かにかかっている。なぜなら自由があって、はじめて中国人はその企業家精神と独創力を十分に発揮でき、中国を新しい形の国家に変えることができるからである。
ここにおいて自由を推進し、またそれを擁護することは、中国の命運に関心をもつ一人一人の責任である。さらにいえば、これは「北京大学人」の使命である! 自由を守らずして「北京大学人」を自称するなかれ!
(2017・7・12記)
2017.07.17  花岡事件遺族6人が益子の朝露館を訪問
          韓国通信NO529

小原 紘(個人新聞「韓国通信」発行人)

 7月2日、花岡事件(花岡鉱山事件)<注1> の遺族たちが栃木県益子の朝露館陶芸美術館 <注2>へやってきた。一行は72年目を迎えた花岡事件の追悼慰霊祭に参加のため6月28日来日、30日の行事を終えて、日程をやりくりして東京からバスで益子に向かう強行軍だった。

 遺族6名を含む訪問団19名は正午近く到着。昼食もとらず早速館内を見て回った。館長の関谷興仁さんの説明で、一階展示室で済州島4.3事件、福島の原発事故のコーナーを興味深げに見学、二階展示室に移動すると、彼らは目の前に広がる、花岡事件など「中国人強制連行」の記録 <注3>に釘付けとなった。

 秋田県大館市花岡町の瀬野公園墓地で開かれた追悼慰霊祭には市長をはじめ180名が参加し、419名が殺された花岡事件の悲劇を「二度と繰り返すな」と誓った(毎日新聞6/30付秋田地方版)。
公式行事の感想は聞きそびれたが、関谷さんが彫り続けてきた「悼」の作品群を見て遺族たちの心は強く揺さぶられたようで、私も想像もしていなかった感動的な光景に衝撃をうけた。

 連行された中国人の悲鳴と苦しみが聞こえそうな膨大な作品群。作者の怒りと追悼の思いが伝わってくる。陶板に「不明」と彫られた夥しい数の「名札」が、事件の異常さをあらためて気づかせ、無名の死者への作者の深い思いが彼らに伝わったようだ。
 彼らから言葉が出ない。質問をうながす声に、「この作品を作るのに何年かかったか」という質問がせいぜいで、しばらく沈黙が続いた。その沈黙を破るように突然、中年の男性がややうわずった声で話しだした。その場にいた人たちは皆、耳をそばだてた。
「名札に私の祖父の名前を見つけて驚いた。亡くなった祖父に再会したようで、とても嬉しい。感動した」。中年の男性は涙声になり、関谷さんの手を固く握りしめた。
 「花岡では父親の名前は見つからなかったが、ここで父の名前を発見した」と、名前が書かれた陶板を指さした別の男性は、関谷さんに抱きつき、ひざまずいて男泣きした。

 彼らには、小さな陶板が「墓標」のように感じられようで、虫けらのように酷使され殺された家族への思いを新たにしたようだった。とおり一遍の「謝罪」や「補償」では得られない、陶芸作家の悼む「心」に触れた。彼らは、日本の蛮行を今でも許せないと思っている。なぜなら、南京虐殺事件さえも忘れ去ろうとする日本人のことを彼らはよく知っているから。忘れてはならない記憶を陶板作品に残した日本の老陶芸作家と出会い、祖父や父親たちの人間としての尊厳が少しでも取り戻せたように思い、感動のあまり涙を流したのではないか。

 朝露館に生けてあったあじさい紫陽花を小さな花束にして贈った。花言葉は「家族への愛」。「地球村」の家族への愛を紫陽花に託した。一行は足尾銅山中国人慰霊碑を訪れ、7月4日に帰国した。



<注1>花岡事件/戦争末期、国内の労働力不足を補うため政府は「華人(中国人)労務者内地移入に関する件」を閣議決定し、日本国内に連行された約4万人の労務者たちが各地の事業所で強制労働させられた。秋田県花岡町(現大館市)では花見川の改修工事を請け負った鹿島組(現鹿島建設)によって986人の中国人が従事したが137人が死亡するいう過酷な労働を強いられた。敗戦間際の1945年6月30日に約800人が脱走をくわだて蜂起、補導員4人を殺害し逃亡を図ったが捕えられ419人が殺された。戦後、BC級軍事裁判で鹿島関係者と警察関係者に死刑を含む判決が言い渡された。その後、本人および遺家族が鹿島に対する謝罪と賠償を求めて提訴。2000年11月、鹿島が責任を認め東京高裁で和解した。1985年以降、毎年蜂起の日の6月30日に大館市によって追悼慰霊祭が行われている。

<注2>朝露館陶芸美術館/正式名称は朝露館関谷興仁陶板彫刻美術館。陶芸作家関谷興仁氏の全作品が収蔵されている。大半の作品は陶板作品で、関谷氏の心に刻まれた言葉が展示されている。済州島4.3事件の詩、ヒロシマ・ナガサキ、アウシユヴィッツを描いた「ショアー」、平和を祈る詩人の言葉、福島原発事故の惨状を刻んだ作品、さらに花岡事件をテーマ化した作品などがならぶ。非公開だったが2015年から春秋、週末限定ながら一般公開を始めた。作品に共鳴した人たちが館を支えている。ホーム・ページhttp://chorogan.org/

<注3>「中国人強制連行」の記録/一連の作品は花岡事件から始まり、満州の他、中国の占領地区における強制労働に注目して作品化されている。病気やケガで労働力にならない労務者を生き埋めにされたという「万人坑」もテーマとなっている。
2017.07.10 悲劇の朝鮮最後の王女 徳恵翁主(トッケオンジュ)の生涯
   韓国通信NO528
     
小原 紘(個人新聞「韓国通信」発行人)

 昨年、大邱(テグ)で買った小説『徳恵翁主』を読んだ。小説は7年前に発行され、韓国内で大きな反響を呼び起こし、ベストセラーになった。昨年映画化(監督 ホ・ジノ 出演 ソン・イェジン)され、約500万人が映画を見て、一躍、徳恵翁主は「時の人」となった。
昨年夏、友人夫妻と対馬の厳原の万松院にある対馬藩37代当主、宗武志と徳恵の結婚記念碑(下の写真)を偶然見つけ、さらに年末には娘と行ったソウルの昌徳宮で徳恵翁主の住まいを見学した因縁もあり、400ページを越す長編小説に辞書と首っきりで格闘した。一日数ページの読書では筋がわからなくなるのが心配だったが、展開がドラマチックなので楽しみながら読み通せた。
徳恵翁主(1912~1989)は大韓帝国皇帝高宗(コジョン)の娘である。翁主とは側室の子どもに付けられる称号である。高宗の息子李垠(英信王)の妻となった日本人の梨本宮方子 (なしもとのみやまさこ:李方子)は比較的知られているが、徳恵のことは余り知られていない。韓国も事情は同じようで、今回、小説と映画をとおして彼女は有名人になった。
悲劇の朝鮮最後の王女 徳恵翁主(トッケオンジュ)の生涯

李方子は敗戦後、韓国人の妻として日本国籍を喪失、1963年に夫とともに韓国へ「帰国」した。生涯、夫の祖国を自分の「祖国」として生き、福祉活動に献身したことは韓国でも広く知られている。昭和天皇の妃候補だった方子の結婚は「内鮮一体」を目的とした政略結婚だったが、徳恵の場合も同じ政略結婚ながら併合された国の王女だったため人質的色彩が強かった。
高宗は李朝の創始者李成桂から数えて李朝26代国王である。「日韓併合」に抵抗したため、1907年に退位させられ、息子の純宗(スンジョン)に皇帝の地位を譲った。高宗の夫人は虐殺された明成皇后、閔妃(ミンピ)である。失意にあった高宗は末娘の徳恵の行く末を心配して、侍従職の養子を婿にすることを決めたが、急死してしまう(1919)。人一倍気位が高く利発だった徳恵は文学少女に成長するが、12歳(1925)の時、不本意な日本留学を求められ、やむなく学習院に入学する。

小説では母親がいる祖国朝鮮への思いと亡国の王女として辛い毎日が随所で語られる。東京に住む異母兄である英信王夫妻と朝鮮から連れて来た侍女ポクスンが心の支えだったが、やがて精神に異常をきたし始める。徳恵20才、対馬宗家の当主、宗武志(そうたけゆき)伯爵と結婚。拉致同然の日本行きと政略結婚に心はさらに傷つき、東京にいる留学生たちによる「徳恵奪還計画」に期待するが失敗に終わる。夫の武志は「亡国の王女」が心を開くことを優しく見守るが、娘(正恵)を出産してから徳恵の精神状態はますます悪化、東京の松沢病院(精神病院)に入院。娘正恵も両親の民族と地位の違いに悩み自殺するという不幸に見舞われる。終戦後、武志と離婚、小説では韓国人青年たちの手引きによって脱走するようにして祖国へ帰る。
小説のあらすじを追ったが、いたいけな徳恵が日韓併合という歴史の渦に巻き込まれて悲劇的な人生を送ったことに多くの韓国人が血涙をしぼった。宗武志は包容力のある知性溢れる愛妻家として描かれ、事実そうだったようだが、徳恵の祖国に対する思いがそれに勝(まさ)り、愛を受けいけることはなかった。つまり併合による悲劇が彼女の人生の不幸のすべてとして語られる。
小説と映画をつうじて多くの韓国人に歴史に翻弄された少女の人生の不幸と悲劇を再認識させたようだ。それが「徳恵ブーム」となった。(写真/対馬訪問/左/宗武志 右/徳恵)

悲劇の朝鮮最後の王女 徳恵翁主(トッケオンジュ)の生涯

歴史小説である。日本では「事実と違う」、「誇張され過ぎ」といった批判が生まれそうだ。わが国でも歴史上の人物が小説にとりあげられることは多いが、事実について細かく詮索して批判することはあまりしない。日本とのかかわりが多いだけに、「小説」であることを忘れて批判するのは読み方としては感心できない。彼女の人生を描けば苦悩の背景に日韓併合があるのは当然で、過去の侵略の歴史を認めたくない人には面白くないかも知れない。「過去は水に流して」は被害者が語る言葉であり加害者が語る言葉ではない。過去を忘れて「未来志向」というわが国の一般的な風潮からすれば「反日的」な小説であり、映画なのかも知れない。大筋から外れたところで、この小説には従軍慰安婦が登場する。韓国人には徳恵は従軍慰安婦と切り離せないものと受け止められたはずだ。
しかし日本人としては、小説を読み、映画を見て多くの韓国人が何故怒りを新たにし、涙したのか真摯に向きあう必要がある。「反日映画」と片づけられ日本での上映が危ぶまれるが(注)、韓国人の涙を「反日」だとみなして受け入れられないようでは、日韓の相互理解は遠くなるばかりだ。
読み終わって小説『徳恵翁主』が翻訳され出版されていることを知った。齊藤勇夫訳 かんよう出版 2592円。
(注)日本での上映が難しいと思っていたが6月24日から東京と大阪で『ラスト・プリンセス』というタイトルで上映が始まっていることを知った。うかつだった。
悲劇の朝鮮最後の王女 徳恵翁主(トッケオンジュ)の生涯

 <オバカな日本政府、「文大統領発言」に抗議>
日本政府は文在寅大統領が演説の中で「福島原発で1368名が死亡、放射能の影響による死者やがん患者の発生数は把握さえ不可能」と語ったことに対して抗議したという。(6月26日付時事.com)
これは「原発で死んだ人はいません」「原発・放射能は安全」「印象操作はやめて」と言っているようなもの。抗議するなら死者の数は正確には何人なのか、甲状腺がんと放射能は関係がないと主張するならその根拠を明らかにすべきだ。「自宅に戻らないのは自己責任」とまで言いだした日本政府が韓国政府には子供だましのような理屈をつけて「抗議」した。恥ずかしくて言葉もない。
2017.07.06  アフガニスタン 2001年以来最悪の危機に(下)
          国家破綻を救う、周辺諸国と米、ロの協調ができるか

坂井定雄 (龍谷大学名誉教授)

 たびたび本欄でも紹介しているパキスタンの国際的ジャーナリスト、アハメド・ラシッドは、1978年に王族出身のアフガン政権が、若い左翼民族主義勢力のクーデターで打倒され、翌79年末には後継の親ソ連政権を支援するためソ連軍が大規模に介入して以来のアフガン・ウオッチャーだ。現在、アフガニスタンのニュースと分析を、おもに英BBC,ウォールストリート・ジャーナル、NYレビュー・オブ・ブックなどに書き続けている。
 そのラシッドは、カブールの政府・外交特別警戒地区での大規模爆弾テロ(死者170人以上)の後の6月5日、BBC電子版での分析を次のように書き出しているー「カブールで先週発生した破滅的な自爆テロは、政府、その政策そして何より、アシュラフ・ガニ大統領への国民の信頼に危機をもたらした。アフガンスタンは、破綻しつつある国家から、破綻した国家へと急速に動いている。爆弾テロは、経済の混乱を一層深め、野党勢力のガニ大統領への辞任要求とデモをさらに強めさせることになった」
 さらにラシッドは18日、NYレビュー・オブ・ブック掲載の「アフガニスタン:それは遅すぎる」でさらに詳細に分析し、次のように書いているー「アフガニスタンは、いまや、多くの人が理解しているよりも、はるかに深刻な危機に直面している。軍閥の指導者たちや閣僚を含む政治家たちは、ガニ大統領と軍事・治安担当の閣僚たちが無能で傲慢そして民族間の憎悪を煽ると非難して、辞任を要求している。カブールの街頭では、毎日十ものデモが、若者たちや最近の爆弾テロの犠牲者の家族たちによって行われている」
 本稿の(上)で書いたように、2014年、米国の強い介入で発足できたガニ大統領の政権は、大統領と同格のアブドラ官房長官以下が離反して弱体化、大統領選挙をやり直して、挙国体制を作り直さなければ、経済再建も、30万人余の国軍・警察のタリバンとの戦いも進められない状態になった。米国以外にはNATO諸国さえも軍の再増派は見込めず、米国のトランプ政権も、現在の8千人態勢に3-5千人の増派をやっと国防長官が口にし、軍にその規模などの策定を委ねた。
 アフガニスタンでは、89年のソ連軍撤退後、パシュトゥン、タジク、ハザラ、ウズベク各民族ごとの軍閥が割拠して流血の権力争いをやった時期も、国家として破綻状態だった。国民がその状態に苦しむなか、98年にパシュトゥン人の硬直したイスラム主義武装集団タリバンがほぼ全土を支配して、3年間のタリバン政権時代を維持した。しかし2001年9月、米同時多発テロ事件を起こしたとされる、国際テロ組織アルカイダの本拠地がアフガニスタンにあったため、ブッシュ(子)政権下の米国が主導して、大規模な戦争を開始、タリバン政権は崩壊した。
 それ以後、米国中心に、NATO諸国はじめ日本を含む諸国が、2004-14年のカルザイ政権による国家再建を支援してきた。
 一方、01年の戦争で政権が壊滅、辛うじてパキスタンの山岳地帯に逃れたタリバン指導部は、パキスタンのイスラム過激派の支援を受けて組織を徐々に再建。カルザイ政権下のアフガンの農村部に再潜入し始めた。2014年からのガニ政権下、とくに農村部、地方都市で行政の不備、役人の腐敗行為などへの国民の様々な不満の強まりをくみ取って、タリバンはさらに影響力、支配地域を再建していった。カタールはじめ湾岸諸国の一部王族や金持ちの秘密資金供与がタリバン再建を助けている、という情報もあった。
 本稿(中)で紹介した、BBCが現地報道したタリバン支配地域は、タリバンにとって最も進んだ、安定した地域で、他の地域では競合地域も多いが、政府支配地域が57%に減少したという米政府の見方は楽観的過ぎるかもしれない。タリバン自身は国土の80%を支配したと言っている。現に、農村部だけでなく、北部の省都クンドゥーズ(人口30万人)などもタリバンの支配下になる形勢だ。
 タリバンは、2001年の壊滅的敗北と、その後の再建の過程、支配地域での住民との接触の中で、多くのことを学び、現代の人々の生活、要求、希望をくみ取る寛容が必要なことを、ある程度理解したのではないだろうか。それによって、国家再建への挙国一致政権を作り直す過程に、タリバンが参加する可能性が生まれた。
 アフガニスタンには、別な危険も迫っている。それは、シリア、イラクで壊滅しつつある偏狭なイスラム過激派「イスラム国(IS)」の残党が、アフガニスタンに逃げ込みつつあることだ。すでにISは数年前からアフガンに拠点を築いた。ただ、タリバンの協力が得られず、支配地域を東部の1州にしか拡大することができなかった。トランプ政権になって、米軍はアフガンのIS拠点を、巨大な爆風と音響を発生する爆風爆弾の実験場に使った。一方ISは、カブールでの軍病院襲撃(3月、医師、患者ら50人以上死亡)に犯行声明をだした。ISは、アフガンでの再建を狙っている。
 ロシアがアフガニスタン、パキスタンへの影響力を強める「新グレートゲーム」に取り組み始めたことを、1月に本欄に書いた。プーチン政権が、アジア中枢部進出の野心を抱いていることは確かだと思う。アフガニスタンを「破綻国家」転落から救い、再建するためには、隣接国でタリバンを保護してきたパキスタンをはじめ、タリバンをひそかに支援しているロシアとイラン、インドそして中国、もちろん米国とNATO諸国すべてが参加するアフガン再建国際会議がどうしても必要ではないだろうか。ラシッドは、国際的な「外交努力」によって、公正な大統領選挙をやり直し、挙国政権を作り直すことに望みを託している。タリバンを含めた挙国体制、あるいは協調を得た政権ができれば、アフガニスタンを国家破綻から救うことができる、かもしれない。トランプ政権が約束した米軍増派などでは、何の役にも立たない。(了)
2017.06.29  アルジャジーラを潰すな!
          中東唯一の自由な国際衛星TV局、サウジ、エジプトらが閉鎖要求

坂井定雄 (龍谷大学名誉教授)

サウジアラビア、エジプト、アラブ首長国連邦(UAE),バーレーンの中東4か国が突然、ペルシャ湾岸の半島(面積は秋田県ほど)にある富裕な(2015年一人当たり国民所得2万350ドル)産油国カタールと断交したのが、6月5日。大国サウジアラビアは、カタールとの唯一の陸上交通路を閉鎖、カタールに出入国する航空機,船舶の領空・領海通過を禁止した。以後、人口270万人の同国への、人間の出入りと、おもにイラン、トルコからの食糧輸入はじめ物資の流通は陸路を断たれ、サウジがわずかに認めたごく狭い海路、空路だけになった。
サウジやエジプトは以前から、中東全域に視聴者が拡がる国際衛星TV局アルジャジーラや、各国で活動する一部イスラム主義組織への支援、イランとの良好な関係などでカタールを非難してきたが、国交断絶、過酷な制裁実施は突然の措置だった。4国は、この措置の理由を公式には発表せず、外国通信社にいくつかの理由を漏らした。
 そしてようやく、22日になって、サウジアラビア政府からカタール政府に13項目の要求項目を記した公式な文書が届いた。諾否の回答の猶予期間は10日間。その要点は公式文書順に次の通りだー
1.イランとの外交関係の縮小、カタールでのイラン外交公館の閉鎖、イラン革命防衛隊員の国外退去、イランとの軍事・情報協力の断絶。イランとの貿易・経済協力は米国の制裁に同調すること。
2.カタールで建設中のトルコ軍事基地の即時閉鎖。国内でのトルコとの軍事協力中止。
3.すべてのテロリストとくにムスリム同胞団、IS=イスラム国、アルカイダ、ファタハ・アッシャム(もとヌスラ戦線)レバノンのヒズボラのほかこれまで及び今後サウジ、エジプト、UAE、バーレーンが宣言する組織との関係断絶。
4.テロリスト個人、グループ、組織に対するあらゆる資金支援の停止。
5.逮捕したテロリストの引き渡し、資産凍結、住居や資金についての情報交換。
6.アルジャジーラと関連報道機関の閉鎖。
7.主権国家への内部問題への不干渉。
8.カタールの政策がもたらした人命と経済的損失への補償。
9.カタールの軍事、政治、社会、経済政策の、湾岸はじめアラブ諸国のとの調整。
10.カタールと4か国の政治的反対勢力との接触禁止。
11.カタールの資金援助を直接、間接に受けているアルジャデイード(レバノン)などすべての報道機関の閉鎖
12.10日以内に.上記すべての要求を受諾すること。それ以外の回答は無効。
13.略
カタールのアルサーニ外相は早速、アルジャジーラの取材に4か国の要求を非現実的だと批判、クウエートが仲介にのりだした。
13項目の要求の中で、最も直接的、具体的な要求は、アルジャジーラの閉鎖だ。
アルジャジーラはカタールの首都ドーハに本社がある、中東で唯一の、国際衛星TV局。
政府が大きく財政支援する。電波が届かない中東以外でも、電子版でニュースと解説、多くの人の発言を知ることができる。自由、民主主義、人権を尊重する立場で、ぎりぎりのところまで報道している。(ネットで“aljazeera”参照)。サウジアラビアで行われている、様々な女性差別、不倫をした女性を投石で殺す残酷な刑罰の執行、少数宗派シーア派への圧迫などの人権侵害を報道してきた。
2013年のエジプトのムバラク独裁政権の打倒をピークにした「アラブの春」を支持し、最も精力的に報道したのはアルジャジーラだった。その後の初の民主的選挙での穏健なイスラム主義のムスリム同胞団政権の成立から、軍のクーデタ―による打倒、軍と治安警察が、抗議行動を続ける多数の一般市民を多数殺害した事実を、現場から報道したのは、アルジャジーラと英BBCなど少数の国際メディアだった。その後、軍事政権は打倒したモルシ大統領はじめ同胞団員・協力者数千人を逮捕投獄。アルジャジーラのカイロ支社を閉鎖、国外脱出をしなかった支局長以下の記者やカメラマンたちをほぼ全員逮捕した。現地報道は不可能になったが、エジプトでの同胞団弾圧について、アルジャジーラは鋭い報道を続けた。サウジアラビア主導の、湾岸諸国の内紛ともいえる今回の事態に、エジプトが加わったのは、サウジからの要請があっただけでなく、カタール政府がアルジャジーラを財政的支援していることと、モルシ政権と同胞団を支援してきたために違いない。
今回のカタール攻撃のもう一つの要点は、イランとの関係だ。カタールは湾岸アラブ諸国の中で唯一、イランと友好関係にある。最近サウジとイランの関係は、イエメンでの政府軍と反政府軍の内戦で、サウジが空爆をはじめ政府軍を全面支援、反政府勢力をイランが支援して、解決の見通しが立たないことがある。カタールはそのイランと友好関係を維持し、生鮮野菜を始めイランからの輸入に大きく依存している。スンニ派が多数の他の湾岸アラブ諸国は、少数宗派のシーア派をイランが物心両面で支援していると非難している。
トランプ政権下の米国もかかわっている。カタールには湾岸で最大のアルウデイド米空軍基地がある。しかしトランプは先月の中東初訪問で、サウジアラビア国王と首脳会談、湾岸地域でのサウジとイランの覇権争いでの、サウジへの全面支持を再確認した。イランの核開発を厳しく制限する欧米など6か国の交渉が15年10月に妥結、16年1月に合意の実行が確認され、制裁が解除された。しかし米国だけは、一部の制裁を残し、トランプ政権は今年1月の発足直後に一部強化した。トランプのサウジ訪問・首脳会談後まもなく、サウジが主導して、湾岸アラブ諸国で唯一イランと良好な関係を維持しているカタールへの制裁に突如着手したことは、トランプと同意したことがうかがわれる。(了)
2017.06.28  動き出した新政権の挑戦 脱原発宣言
          韓国通信 N0527

小原 紘(個人新聞「韓国通信」発行人)

6月19日、釜山市機張郡(キチャン)の古里原発1号機の廃炉式に出席した文在寅大統領が、原発に依存したこれまでのエネルギー政策を転換し、「脱原発」を宣言した。日本政府と「原発ムラ」の人たちには衝撃的、原発に不安を募らせる人には目が覚めるようなビッグニュースだ。
 「韓国に越された」「原発の再稼働なんて信じられない」と友人たちは口を揃えた。
原発事故の原因究明も責任追及もせず、次々と原発を再稼動させる日本政府のいいかげんさが改めて浮き彫りになった。韓国の新政権はセウォル号沈没事故の真相究明と責任を徹底追及すると言明している。この違いは決定的だ。日本がやるべきことは「事故の処理」「脱原発」だ。それができないなら「オリンピックは返上」という声まであがる。
台湾も韓国も福島の原発事故を教訓にした。日本は「認知症国家」といわれても仕方ない。

<子孫のために>
 「脱原発は逆らうことのできない時代の流れ。数万年この地で生きていく私たちの子孫のために、今始めなければならない」と語った大統領の言葉を「人気取り」と批判するむきもあるが、冷静さを装った負け惜しみに聞こえる。原発推進勢力にとって衝撃的なことに変わりはない。
 早速、韓国の保守系新聞「朝鮮日報」が原発推進の立場から反論した。日本は「エネルギーの自給率が低下したため、6日に高浜原発を再稼働させた」と指摘、代替エネルギーへの懸念を表明した。原発がなくても「電気は足りている」という日本の現実を無視した原発擁護の理屈である。「原発はコストが安い」「原発は環境にやさしい」などと、わが国ではすでに破たんした理屈だ。原発事故を起こしてもなお原発に固執し続ける日本を「見習え」といわんばかりである。

<経済優先からの脱却>
「脱原発宣言」は経済優先からの転換をはかろうとする新政権のスタートにふさわしい選択である。「脱原発宣言」からは、非正規雇用の増大(所得格差)、少子高齢化、福祉の後退、人権軽視、環境破壊の解消を目指す政権の強いメッセージが伝わってくる。

<従来の日米韓の枠組みを超える>
「脱原発」だけではない。新政権が韓半島の平和に積極的に動き出しているのが注目される。前政権の軌道修正に慎重姿勢を見せながら、対決より外交・話し合いを優先させようとしている。
北朝鮮に対する「憎悪」がこれまでの日米韓政府に共通する東アジア戦略の核心とするなら、韓国の変化によって日米は戦略の見直しを余儀なくされる。特に北朝鮮を政権維持のために「利用」してきた安倍政権にとって痛手になる。ミサイル発射のたびに支持率が上がる安倍政権は異常ではないか。朝日新聞は社説(6/13)で、韓国政府に対して「外交の基軸は、自由と民主主義の価値を共有する米国と日本との連携におく姿勢を忘れずにいてもらいたい」と注文をつけた。韓半島の安定を望みつつ従来の枠組みの踏襲を求めた。
日韓両国がアメリカへの従属から解き放たれてこそ、朝鮮半島と東アジアの平和が近づくという視点が見られない。日米韓の連携を気安く言うべきではない。トランプと安倍に付き合ってはいられないという韓国の人たちに思いをはせた。
2017.06.26  今年も「六四天安門事件」記念日がやってきた
          ――八ヶ岳山麓から(225)――

阿部治平 (もと高校教師)

このほど産経新聞は、1989年6月4日の中国天安門事件の記念日社説で、かの国の学生市民運動が苛烈な弾圧を受けた歴史をふりかえりつつ、彼らが要求した「民主」がいまだ実現せず、むしろ状況は悪化しているとして、つぎのような文言を掲げた。
「習近平政権は『反腐敗』を掲げた党幹部の粛清と並行し、『反テロ法』『国家安全法』『反スパイ法』などの治安法令を相次いで制定してきた。(6月)1日に施行されたサイバーセキュリティー法は、『国家政権の転覆や社会主義制度の打倒』につながる情報の排除などを企図している。
すでに国内では、天安門事件に関するデータ検索すら規制されている。新法の広義の解釈により、規制や摘発の対象は中国国民のみならず、外国籍企業やビジネスマンに及ぶ恐れもある(2017・06・04)」

たしかに中国における言論と情報に対する統制はすさまじい。たとえば2015年7月から2カ月の間に「政権転覆を謀り扇動した」という理由で、北京鋒鋭律師事務所の王宇女史ら民主・人権派の弁護士を中心に300人が逮捕拘束されるといったありさまだ。
しかし日本でも、昨年特定秘密保護法が制定され、いま共謀罪が反テロの口実で成立した。国連機関がこれに敏感に反応し、共謀罪法案については5月18日国連のケナタッチ特別報告者が、「表現の自由を不当に制約する恐れがある」と懸念を示した。
同30日にはデービッド・ケイ特別報告者が、特定秘密保護法について「ジャーナリストを萎縮させないよう法改正すべきだ」などと勧告する報告書を発表した。これらに対して政府はすぐさま「不正確な内容」と、これを一蹴した。だが、皮肉なことに国連機関の日本への勧告は、安倍政権機関紙とも思える産経新聞の上記中国批判の社説と同じ趣旨である。
「共謀罪」法の条文を読んだとき、私は「あれ、前にも同じようなことがあった」と、いわゆる既視感にとらわれた。しばらくして中国での生活体験に思いあたった。それで私なりの体験をここに書こうと思う。

1989年の学生市民による民主化運動を中国では「六四学運(学生運動の略)」といい、日本では「天安門事件」という。6月4日北京の天安門広場とメインストリートの長安街で、人民解放軍による学生市民の大量虐殺があった。私はこれを思い出して、「六四(リュゥスゥ)」という響きを聞くといつも悲しくなる。
1986年に学生の民主化運動があり、これを支持して失脚した胡耀邦が89年に亡くなると、学生の間に胡耀邦は高級官僚の汚職腐敗を会議で糾弾しているうちに憤死した、といううわさが広がった。
北京でデモが起きた。天津の大学生はみな北京のデモに参加した。あのとき私は天津で中学高校生に日本語を教えていた。当時、激しいインフレで、毎週のようにモノの値段が上がっていた。学生の「汚職官僚打倒」を支持する町の人のなかには、物価騰貴の原因を官僚の汚職にあると思い込んでいる人もいた。
そのうち天津の中高生もデモをやるという。教師たちは校長のほかは、知らんぷりしていたが、私は生徒たちを守らなくてはならないという思いで、彼らのあとについて行った。デモの後、私には公安の尾行がつくようになった。
10年後、私はまた中国へ行って日本語教師をやったが、教室で「チベット人地域へ遊びに行った」と話してからは、ふたたび公安機関の監視がつきまとうようになった。今度は「チベット」がいけなかったらしい。

学生らは「民主」を叫んだ。彼らは「『民主』は『君主』に対するものだ」といった。日本の大新聞のさる北京特派員は、「学生らはものごとがよくわかっている」と感心した。ところが学生は「民主とは人民が主人公の意味だ」としつつも、「人民を代表するものは中国共産党だ」と言っていたのである。
学生らがデモクラシーの初歩を知っていれば、「なぜ中共は人民を代表できるのか」「幹部の権力を制約する制度は何か」といった問題意識が生れたはずである。
北京での学生運動指導者である北京師範大学のウルケシや柴玲、北京大学の王丹らからは、憲法擁護、汚職反対、報道の自由を要求することばは聞いたが、議会制民主主義とか三権分立といったことばを聞くことはなかった。彼らは民主化運動を中共に清潔な政治を求めるレベルにとどめ、体制変革をめざしたりはしなかったのである。
だからといって、私は「六四学運」の意義を否定するものではない。学生らは「民主」を要求しながら民主主義とは何かを知らなかったというだけである。
権力の側はといえば、学生の論理を分析すれば対応の仕方も変わったであろうに、ただただ民主化運動を「暴乱」と断定して、しゃにむに弾圧したのである。

日本には、89年の民主化運動が「五四運動」以来の精神を継承したものと解釈する人が多いが、これにもすこしの違和感がある。文革時代の1974年には「李一哲の大字報」、文革後の78年からは「民主の壁」、79年には魏京生の「人権・平等・民主主義」があった。しかし、民主化運動に参加した学生たちは、私が接したかぎりのことだが、「李一哲」も魏京生も知らなかった。
もちろん識者は学生とは違った。
1919年べルサイユ条約の結果に反対する抗日・反帝の五四運動から1920年代にかけては、軍閥支配を打倒し共和制=議会制民主主義に進む可能性を生んだ時期があった。1924年の国民会議運動はその有力な運動であった。
1989年民主化運動昂揚のなか、哲学者李沢厚は近代史上でのこの時期の政治運動を論じて、自由と民主主義を強調する「啓蒙」思想と日本の侵略に抵抗する「救亡」思想とをあげ、最終的に「救亡」を口実にした独裁が「啓蒙」を圧倒したと発言した。日本の侵略が東アジア史上初の共和制の芽を摘んだのである。
抗日戦に勝った国民党は1945年以後も独裁体制を維持した。中共が主導した国共内戦末の人民政治協商会議の「共同綱領」は、自由と民主主義・人権の尊重をうたった。にもかかわらず、中共勝利後の中国憲法はその精神からはずっと後退したものになった。
1957年の反右派闘争以来20年間にわたる圧政がつづいたのち、「四人組」逮捕によって毛沢東の帝国は崩壊した。だが一党独裁は維持された。知識人の一部は「改革開放」を政治領域に拡大するよう要求しつづけて現在に至る。

民主化運動の主だった指導者たちは、アメリカやフランスへ渡った。これに対して運動参加者から「なぜ国にとどまって戦わないか」という声が上がった。当局よりの人は「なぜ連中を逃がすのか」と怒った。
またある人は「国にとどまって投獄されても国外に逃亡しても、国内に影響を及ぼすことはできないのだから、いずれにせよ同じことだ」といった。この見かたは正しかった。事件から28年経つが、亡命した指導者たちの誰一人として国内に影響力をもたない。
「80後(パーリンホウ・1980年代生れ)」以後の若者たちは「六四学運」を知らない。中共の恥部について語ることは、タブーだからである。中共は大躍進や文化大革命や天安門事件の記憶がなくなることを望んでいる。そして、いま期待どおりになった。
中共は強力な治安機関と経済的成功に寄りかかって独裁を維持し、自ら三権分立や代議制への改革に乗り出す気はまったくない。どうみても政治体制は、魯迅が『阿Q正伝』を書いた100年前よりも後退している。阿Q精神も姿を変えて生きている。
というわけだから、天安門事件の死者はいまのところは「犬死」である。(6月16日記)