2007.04.30
暴論珍説メモ(番外・続)
田畑 光永
戦争・賠償・裁判
前回の本欄で注目しようと呼びかけた4月27日の最高裁。大方の予想どおり、最高裁はこの日、戦争被害に対する個人補償を求める多くの裁判にまとめてケリをつける挙に出た。
戦争中、中国から強制連行されて西松建設の広島の工事現場で働かされ、虐待された中国人労働者とその遺族たちが同社に損害賠償を求めた裁判と中国人慰安婦の賠償請求裁判の上告審で、最高裁の別の小法廷はいずれも請求を退ける判決を下し、このほかの同様な3つの案件についても文書で原告側の敗訴を決定した。
このうち判決のあった慰安婦裁判では、この日に判決という連絡があったのはわずか8日前の19日で、中国人原告は手続きが間に合わず、公判に出席できなかった。文書で決定のあった3件のうちのすくなくとも1件は27日当日に突然、電話で決定を知らされたという。
こうした経過を見るかぎり、大型連休の前日で、安倍首相の訪米中というタイミングのこの日に狙いを定めて、司法がおそらく政府との連絡のもとに、個人補償裁判の命脈を絶つためのかねての計画を実行に移したものと見て間違いなかろう。
それでは司法は何にどう決着をつけたのか。本論に入る前にごく簡単に現状を見ておく。
第二次大戦中に日本あるいは日本軍によって被害を受けたとする中国人が損害賠償を求める裁判を日本の裁判所に起している案件は数十件ある。原告は慰安婦、強制連行された人々、日本軍の毒ガスによる被害者などさまざまで、各地の地裁、高裁ですでに多くの判決が出ている。訴えを退ける例が多いが、中には請求を認める判決もある。今回、最高裁で判決のあった西松訴訟は広島高裁が原告の訴えを認める判決を下し、被告の西松建設が上告していたものである。
訴えを退ける判決でも、原告が被害を受けた事実そのものは認定しながら、一方で賠償請求は認めないとするのが共通するパターンである。請求を認めない理由は3通りある。
まず(1)国家賠償法がなかった戦前、戦中の出来事では国家の責任は追及出来ないという「国家不当責」という理由。つぎに(2)訴訟を起したのが遅すぎて、すでに時効(民事の場合は除斥期間)が成立しているという理由。そして(3)日華平和条約、あるいは日中共同声明で時の中国政府が対日賠償請求を放棄しているからという理由、この3つである。
(1)は慰安婦などには有効だが、西松裁判のような場合は使えない。(2)は被害の程度がひどい場合、時効、除斥期間の適用は「権利の乱用」とされる可能性がある。西松裁判の広島高裁判決がその例である。(3)は訴えを門前払いするにはもっとも有効だが、日中共同声明の当該条項は「中華人民共和国政府は、中日両国国民の友好のために、日本国に対する戦争賠償の請求を放棄することを宣言する」とあるだけで、これだけでは個人が賠償を請求する権利まで中国政府が放棄したのかどうか、はっきりしない。
そこで最高裁として初めての個人賠償請求訴訟に対する判断となった27日の西松訴訟判決は、要するにこの日中共同声明の文言は個人の賠償請求権をも放棄するものであって、個人が裁判を起して補償を請求してもだめだ、というものである。
なぜそうなるかは、われわれ素人にはなかなか分かりにくい。日本が独立を果たしたサンフランシスコ平和条約では「連合国は、連合国のすべての賠償請求権、・・・連合国及びその国民のその他の請求権・・・を放棄する」と、連合国国民の請求権の放棄を規定している。中国はこの条約に署名していないが、判決は日中共同声明もこの「サンフランシスコ条約の枠組みを外れてあえて個人の請求権処理を未定のままにせざるをえなかったような事情は何らうかがわれず」として、この条約同様に日中共同声明も個人を含め「すべての請求権を相互に放棄することを明らかにしたものというべきである」というのである。わざわざ違うものにする理由はなかったはずだから、同じものと見るというわけだが、そういう理屈が法律の世界で通用するのかどうか、いずれ専門家の議論の材料になるだろうから、われわれはそれを待つしかない。
ただ、判決は面白いことも言っている。中国国民の日本、日本人、あるいは日本法人に対する請求権は「日中協同声明第5項によって、裁判上訴求する機能を失ったというべきであり、そのような請求権に基づく裁判上の請求に対し、同項に基づく請求権放棄の抗弁が主張されたときは、当該請求は棄却を免れないことになる」とある。
後半は、今後は裁判で賠償を請求しても、相手が共同声明第5項を持ち出してきたら、訴えは棄却だよ、と裁判を起させないために釘を刺しているのだが、前段の「裁判上訴求する機能を失った」とはどういう意味だろう。文字通りに解釈すれば、請求権そのものがなくなったわけではなく、裁判を起す機能だけがなくなったと受け取れる。この点は判決の末尾につけられた、西松建設に対する「被害者らの被害の救済に向けた努力をすることが期待される」という付言と重ね合わせると、最高裁の意思は「裁判所に持ちこまれては困るが、当事者間で被害の救済を図れ。被害者にはそう要求する権利はある」というところにあるようにも見える。