2007.08.29  被爆体験を継承するにはどうしたらいいか
岩垂 弘 (ジャーナリスト)


広島・長崎での見聞から

 8月21日付の朝日新聞の「声」欄にこんな投書が載っていた。
 「スティーブン・オカザキ監督の『ヒロシマナガサキ』というドキュメンタリー映画を見た。被爆者の体験に基づく証言は、何度聞いても悲惨で苦しくなる。
 今回の映画で一番印象深かったのは、人口の75%が戦後生まれという事実だった。戦争の生き証人がいなくなるという危機感が初めて伝わってきた。75%が80%になり90%になった時、戦後生まれの私たちが『戦争』『原爆』の愚かさ、悲惨さをどう伝えていくか、考えていかないといけないと強く思った」
 長崎県在住の、53歳になる無職の女性からの投稿だった。

 私は今年も、8月6日の「広島原爆の日」、8月9日の「長崎原爆の日」をはさんで、広島、長崎両市で開かれた一連の被爆62周年関連の催しを見て回ったが、その間、私がとくに痛感したことの一つは、この投書の主と同様の懸念だった。すなわち、「これから先、被爆体験を伝えてゆくにはどうしたらよいか」という懸念だ。

2007.08.28  いよよ華やぐ 84歳のファッションモデル
田尻孝二 (生協役員)


 守田美津子さんは84歳、ある新聞社が主催したニューエルダーシチズン大賞で見事新聞社賞に輝きました。彼女は高齢者の文化サークル、「いよよ華やぐ倶楽部」で、モデルとして活躍しています。

 ピアノが奏でるジャズのスタンダードに合わせ、モデルはひとりひとりライトの中に歩んで行きます。ここは舞台の袖、だれもが真剣に目はじっと前の進行を追っています。出を待つ出演者に快い緊張が走る一瞬です。
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2007.08.27  単双号限行  効果あげられるか、北京の交通規制
丹藤佳紀 (早稲田大学講師)

こんな言葉が! (15)中国で

 来年8月8日の北京オリンピック開催まで1年足らずになった。その北京では、本番に備えて8月17日から4日間、車両ナンバー末尾の「単号」(奇数)、「双号」(偶数)で走行を制限する自動車交通規制が試行された。表題の「単双号限行」である。

 奇数日には末尾が奇数ナンバー、偶数日には偶数ナンバーの車しか走行できないという規制で、理論的には交通量が半減することになる。違反した車両には100元(約1600円)の罰金が科せられ、出発地へ逆戻りさせられた。

 この方式は、1988年、ソウルで開かれた「88(パルパル)五輪」で採用され、効果を上げた。ちなみに、北京五輪初日が8月8日に設定されたのは、広東語の発音で8=発で、「発財=もうかる」につながる縁起のいい数字とみなされているからだ。漢数字の「八」がわが国で「末広がり」と喜ばれるのと一脈通じている。
2007.08.25 暑くたって忘れまい
田畑 光永 (ジャーナリスト)

暴論珍説メモ(19)

 暑かった!この8月は。と言っても、まだ一週間あるから油断はできない。暑いと物忘れがひどくなるので、覚えておいたほうがいい言葉を書き留めておく。
 まず先月末の参議院選挙で負けた安倍首相、意地をはって続投すると表明したが、その前提として「反省すべき点は反省して」と言った。ところが、その後、なにをどう反省したのか、なにもおっしゃらない。おっしゃる気配もない。大体この人、出来合いの見栄えのいいフレーズで当面をごまかして、具体論は知らんぷりということがよくある。「年金は私の責任で最後の一人までお払いします」とも言ったが、5000万件も未統合記録があって、どうしてそんなに安請け合いができるのか、不思議千万だが、これも具体的な裏づけはないらしい。
 ともかく、「反省すべき点を反省」したら、その結果をみんなで聞こうじゃありませんか。
なぜなら、この人は声を張り上げて他人を批判することはあっても、自らの非を認めたのを聞いたことがないからだ。自民党でも野党でもいい、議員の皆さん、反省結果開示請求をお忘れなく。
2007.08.23 「段ボール肉まん」報道、スピード判決の背後に
丹藤佳紀 (早稲田大学講師)


 中国<新華ネット>によると、8月3日の本ブログ「こんな言葉が!(14)中国で」で取り上げた「"やらせ"だった段ボール肉まん報道」の中心スタッフに12日、北京の地方裁判所で懲役1年、罰金1000元(約1万6000円)の判決が宣告された。
 罪名は「商品名誉信用毀損罪」である。段ボール紙を餡に加えて肉まんを製造したという事実をでっち上げ、さらにそれを事実として虚偽の報道をテレビで流したーとして「特定の食品、食品業界の名誉、信用を損なった」と判定された。
 <新華ネット>によると、判決公判で、被告である北京テレビ局のこの臨時職員は検察側の挙げた罪状をすべて認め、テレビ視聴者、肉まん業界の企業や従業員などに「対不起(ドィブチー=済みません)」と謝罪したという。
 番組が放映されたのは7月8日。内外で大きな反響を呼んだため北京市当局が調査を始め、16日には「でっち上げ」、「やらせ」との結論に達した。北京テレビ局も20日、テレビで公式に謝罪した。この事件では、番組を制作したこの臨時職員など6人が7月下旬に逮捕され、上司3人が懲戒解雇などの処分を受けていた。

2007.08.22  韓国大統領選挙まであと3か月、与野党の動き
前田 康博 (ジャーナリスト)


ソウル最新事情その2

― 野党、ハンナラ党は李明博・前ソウル市長に一本化―
 8月19日、韓国の第1野党であるハンナラ党が、党内予備選を行い、前ソウル市長の李明博(イ・ミンパク)候補(65歳)を党公認候補として選出した。4人が立候補したが、初めから元党代表、朴槿恵(パク・クネ)候補(55歳)の人気が伯仲し、一騎打ちとなった。李氏8万1084票、朴氏7万8632票、その差わずか2452票で決まった。
 朴氏は李候補を祝福し、「政権交代のためにいっそう和合と団結しよう」と党員に呼びかけた。朴氏は50歳代以上に人気があり、他方、市長時代にスラム化した市街浄化に成功し、若年層に支持が多い李氏と有権者の評価は二分されたようだ。
 韓国では98年以来8年2月まで金大中・盧武鉉2代の10年間、ハンナラ党は政権から見離されてきた。盧大統領の人気急落に合わせて、与党「開かれたウリ党」(略称・ウリ党)からの脱党者が続出し、反面、ハンナラ党の李・朴両氏が支持を拡大しウリ党の出馬予定者を寄せつけなかった。
2007.08.21 新刊紹介 軍事的には原爆投下は不要だった
伊藤力司 (ジャーナリスト)


世界を不幸にする原爆カード −ヒロシマ・ナガサキが歴史を変えた−
金子敦郎著
  明石書店 定価(本体1800円十税) 349ページ

 広島、長崎での62回目の「原爆の日」が終わった。「原爆投下はしようがなかった」との久間前防衛相の妄言の後だけに、原爆を許してはならないという想いを一際強くした。折しも、原爆投下に踏み切ったトルーマン大統領を取り巻くアメリカの政治状況をリアルに描写した本書を読んで、原爆は本当に避けられなかったのか、強い疑問を抑えることができないでいる。

 本書によると、1945年7月当時の米軍事指導者たちは一様に、日本を降伏させるのに原爆投下は不要だと判断していたが、政治家たちが戦後の対ソ連外交を有利にしたいとの思惑から原爆使用を決断したのだった。それをリードしたのが、トルーマン大統領の政治的先輩であり、実力者だったバーンズ国務長官である。

 トルーマンは、ルーズベルト大統領の急死(1945年4月)を受けて副大統領から昇格したばかりで、特に外交面ではずぶの素人だった。だから彼は、バーンズに外交の全てを任せることを条件に国務長官就任を懇請したという関係だった。大統領就任まで原爆開発のマンハッタン計画について知らされていなかったトルーマンに対し、戦時動員局長として原爆開発状況を熟知する立場にあったバーンズは、「原爆外交」でトルーマンを引っ張る立場でもあった。
2007.08.20  朝鮮各地で未曾有の水害、南北首脳会談延期へ
前田 康博 (ジャーナリスト)


<南北対話最新事情>その2

 ―食糧難の再現を阻めるか― 

 8月末、平壌で2回目の南北首脳会談が朝鮮民主主義人民共和国(朝鮮)各地の水害によって10月初まで先送りとなった。
 朝鮮では95年に大水害とその後の凶作、食糧難に見舞われたが、今回はこれを上回る被害になっているという。
 朝鮮中央通信(9日)は8月7日から梅雨前線の影響により朝鮮の西海岸と東海岸一帯が豪雨に見舞われていると報道を始めた。黄海北道の山岳地帯で400ミリ〜300ミリ、平安南道、江原道、咸鏡南道はほぼ全域でまとまった雨が降ったという。さらに11日、13日と多くの人的・物的被害が発生していると報じ、「12日までの集計では、数百人が死亡・行方不明になり、3万余棟、6万3300世帯の住居が破壊され、浸水した」と報道、数万ヘクタールの耕地が冠水、水没、流失や灌漑施設や橋梁鉄道基盤の被害が大きいと伝えた。同通信(15日付)は農業省の局長の話として、農作物の被害は過去の洪水被害を上回り、14日現在、全国の田畑の11%が冠水、水没した。出穂期にはいった穀倉地帯の平安南道で2万6千ヘクタール、黄海南道で2万余ヘクタールが完全に水没したという。とくに大同江流域の平均降水量は気象観測以来、最高を記録した。
2007.08.19 ”CHA−ri−T−y” (ホテル・アストリアの黒猫ちゃん)
出町 千鶴子

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2007.08.16  あの辺のこと
丹藤佳紀 (早稲田大学講師)


 私は昭和15年に生まれた。この年は「皇紀紀元2600年」で、私の名はそれを寿いだものだ。日本はそれをバネに翌年、真珠湾攻撃に突っ込む。

 昭和20年の「あの日」、私はあとひと月で満5歳という年格好だった。残念ながら玉音放送を聞いた記憶はない。そこまでの戦時中、草深い会津では空襲もなかった。ただある時、警戒警報のサイレンが鳴り、電灯の笠を黒い布で覆った灯火管制下で、生まれたばかりの弟を背負った母などのあわただしくしていたひとコマだけが影絵のようなイメージで残っている。
2007.08.16  これで死ななくて済む 終戦の日のこと
伊藤力司 (ジャーナリスト)


 終戦の日、わたしは八ヶ岳山麓の山村の国民学校5年生だった。この年の8月15日は、信州にしてはひどく暑い日だった。前夜妹とともに母親に連れられて上諏訪の母の実家に泊まり、この朝自分一人だけで村に帰ることになった。玉音放送を自宅で聴かなければならないと思ったためだったか、それとも他の事情のためだったかは記憶にない。とにかく暑い日だったことは記憶に鮮明だ。

 上諏訪から村まで約8キロほどを急いで歩いた。列車もバスも本数に限りがあって、8キロ程度なら歩くのが当然だったのだろう。とにかく暑くて汗をだらだら流しながら、それでも必死になって歩いた。へとへとになりながら何とか正午までに自宅に帰り着いた。こわい顔をした父親たちと雑音だらけの玉音放送を聴いたはずなのだが、内容はさっぱりわからなかったし、何も覚えていない。ただ戦争に負けたのだということは、まわりの雰囲気で何となくわかった。
2007.08.15  あの日のこと
岩垂 弘 (ジャーナリスト)


 私は「あの日」を長野県岡谷市の自宅で迎えた。「あの日」も、62年後のきょうと同じように青空から白熱の太陽光線が降り注ぎ、信州の夏にしてはことさら暑い日だった。当時、私は国民学校(小学校)の4年生で、夏休みの真っ最中だった。

 玉音放送があったのは正午。その時、私は一人で自宅にいたように記憶している。市立病院勤めの父は勤務中だったし、母は兄と妹を連れて近くの農村にリンゴの買い出しに出かけていた。
2007.08.15 私の八月十五日、そしてその後。
田畑 光永 (ジャーナリスト)


 六十二年前の八月十五日。国民学校三年生であるべき私は、神奈川県高座郡大和町南林間(現大和市南林間)というところに疎開していた。「あるべき」というのは、前年春、まだ東京に住んでいた時に肺結核を患って、学校を休学し、そのまま疎開したために、この時は通うべき学校もなく、小さなくせに療養中の半病人といった境遇だった.

 玉音放送のことはよく覚えている。疎開先は母親の親戚筋で、その庭の一隅にバラックを建てさせてもらっていたので、母屋の親戚の家の庭先に近所の人たちも集って、廊下に置いたラジオに耳を傾けたのであった。よく覚えているといっても、勿論、内容が子供にわかるはずもなく、大人たちが炎天の下にきちんと並んだ、いつもとちがうその生真面目な様子が記憶に残っているだけだ。
2007.08.14  盧武鉉大統領が8月末、平壌へ
前田 康博 (ジャーナリスト)


<南北対話最新事情>その1

―入り乱れる思惑報道― 
 南北朝鮮が8月28〜30日に平壌で南北首脳会談を開催すると同時発表した。00年6月の金大中大統領(当時)の平壌訪問から7年ぶり。レイムダックの盧大統領だけにソウルはもとより日米などでもその動機、目的から会談の成否にまで種々の観測が渦巻いている。 分断された民族国家間で首脳会談が実現することは、日本などでは想像もできない出来事であり、57年間を民族分断のまま"半分国家"として生きてきた民衆・人民の虚無感、あるいは閉塞感に一筋の光が射したというのは第三者の感傷的な見方だろうか。
 次は金正日総書記がソウル訪問の番だ、とソウルのオールド・メディア各紙は息巻いているが、金総書記が米情報機関の暗殺を避けて、ソウルはもとより国外に出ないのは常識となっている。
2007.08.13 「家族ぐるみ、呼びかけに応えて ― 小田実氏の死を悼んで」(下)
伊藤 三郎 (ジャーナリスト)


 小田さんが逝く直前、私が読み急いだ『終わらない旅』に話を戻す。これは小説だから主人公ツヨシはもちろん小田さん本人ではないが、そのことばは紛れもなく小田さんのそれであり、この小説の登場人物のほとんど全員が入れ替わり立ち代り小田さんの思想・哲学・主張を語る、という内容。その結果、この小説は小田さんの「遺言集」となった。そこで、この遺言の中からさわりのところをごく一部抜粋してここに紹介する。いまさら無粋なコメントなど添えるよりも、原文そのままを提供することが小田さんへの供養になる、と信ずるからだ。

<遺言その1 ― ツヨシが娘・久美子へ>
 『・・私がそのころ両親とともに住んでいた大阪は、戦争末期、一九四五年三月の夜間空襲に始まって、六月からは、もう日本には抵抗する力はなくなったとみきわめたにちがいない、昼間空襲に切り替わった米軍機による爆撃を何度も受けた。日本近海まで来た機動部隊の艦載機による空襲もあったが、大阪の市街を根こそぎ破壊し、焼き尽くし、住民を殺戮したのは、「北爆」のB=52 爆撃機の先行機に当たる、当時の世界最大、最強のB=29「超空の要塞」爆撃機が三百機、四百機、五百機と来襲しての大規模爆撃だった。結果として地上を覆う黒煙、白煙のダンダラ縞のぶ厚い雲の広がりだ。それは上空の爆撃機から見ていればただの雲だが、そう見えたに違いなかったが、なかは火炎が燃えさかり、渦巻き、建物が破壊され、焼け落ち、人が倒れ、焼け死ぬ現場だった。
 「久美子、戦争は対立する、敵対する勢力が、お互いの持つ武力を使って戦うことだ。しかし、もうそのときには、日本はアメリカ軍のその爆撃に対するだけの武力、戦力を完全なまでに失っていた。初めのうちこそ、少しは高射砲を射ち、戦闘機も舞い上がっていたようだったが、じきにそうしたはかない抵抗はすべて姿を消した。あれは、もう戦争ではなかった。ただの一方的な破壊と殺戮だった。私はその一方的な破壊と殺戮の中にいた。なかは、久美子、当然、地獄だ。」 』
2007.08.12 「家族ぐるみ、呼びかけに応えて ― 小田実氏の死を悼んで」(上)
伊藤 三郎 (ジャーナリスト)


 先月半ばの10日間、ある調べもののため久しぶりに米国ワシントンDCを訪ねた。その出発直前小田実さんの最後の小説『終わらない旅』を、なぜか急き立てられるように読み通した。そして帰国後1週間、時差ボケが漸く解けた7月30日、小田さんの訃報が ― そうか、小田さんのただならぬ病状を知っていた自分は、この小説を彼の遺言として読み急いだのだ、と気付いた。
 8月4日、東京・青山葬儀所での葬儀に家人とともに参列した。評論家の加藤周一さんは弔辞の中で「彼の呼びかけは格別の説得力を持っていた」と評した。葬儀のあと、追悼デモに参加し、青山一丁目駅近くまで歩いた。葬儀委員長を務めた鶴見俊輔さんに連なり、「憲法9条を守ろう」と叫び、懐かしの反戦歌" We shall overcome. "を合唱しながら、小田さんのデビュー作『何でも見てやろう』(1961年)以来、自分は何と長い間、小田さんの呼びかけに応え続けてきたかを想った。それも家族ぐるみで。
 「ベトナムに平和を!市民連合」(ベ平連)をはじめとする数々の市民運動の先頭に立って叫び続けた小田さんの顔とは別に、家族に優しい家庭人の顔が強く印象に残っている。西宮市に小田さんの自宅を訪ね、初めてインタビューしたとき、小田さんの第一声がこうだった。
 「このあいだ、僕のこども(ならちゃん=当時小学校低学年=伊藤・注)が僕の顔をじっと見つめて、お父さん、何を考えごとしてるの、と聞かれて、われに返ったことがあった。その時自分は、こどもの顔を見つめながら、この子が大きくなったら世界は一体どうなっているんだろう、と途方にくれていた。そこをこども心に見抜いたんだろうね。どうも途方の暮れ方が深そうだ、父親の自信喪失は深刻だ、とね(笑い)」
 1992年1月、米ソ冷戦の終結に続いて、ソ連・東欧の社会主義国家の連鎖崩壊。その激動を踏まえ『社会主義のゆくえ』(「朝日新聞」連載)というインタビューをした時のことだ。資本主義、社会主義、第三世界というそれまでの「三極構造」が崩れた後の混沌状態に、さすがの小田氏も世界の先行きを展望しかねていた当時である。
2007.08.10 朝青龍処分  相撲協会さん、お気を確かに!
田畑 光永 (ジャーナリスト)

暴論珍説メモ(18)

 正直なところ、相撲の話は得意ではない。だから今回の朝青龍処分にしても当初はさほど関心がなかった。しかし、1日の処分決定から朝青龍本人の状態やらそれをめぐる様々な議論を見聞しているうちに、どうも釈然としない点が出てきたので、あらためて考えてみた。

 まず、朝青龍本人の行動であるが、「腰の疲労骨折」という医師の診断書を提出して、相撲協会の公式行事である夏巡業を休ませてもらうことにしながら、故郷のモンゴルでサッカーに興じていたというのは、「ずる休み」にほかならず、この点では朝青龍に弁明の余地はない。

 そこで相撲協会が朝青龍を処分するというのも組織としては当然であろう。問題はその内容である。「2場所出場停止・九州場所千秋楽まで117日間の謹慎・30%減俸4ヶ月」という処分はいかにも過酷である。減俸はともかく、出場停止と長期間の謹慎、とくに謹慎には相撲協会が蒙った損害を賠償させるということを超えた「こらしめ」を感じさせる。

 どうやらその背景には、日本の「国技」である相撲の最高位に立つ横綱は「心・技・体」ともに完成されたものでなければならないという前提があるようである。しかし、技と体はいいが、心のありようまでを問題にするのはいかがなものか。しかも、横綱の心はどうあるべきかという規範が明らかにされているならともかく、それなしに「ずる休み」をするとは「心」がなっていないと決めつけるのは、相撲協会が力士の心のありようまで支配する権威を持つようで、第三者には不可解である。
2007.08.10 原水禁運動を活気づけた「久間発言」  8・9長崎から
岩垂 弘 (ジャーナリスト)


 62年目の「長崎原爆の日」を迎えた8月9日を中心に長崎市で原水爆禁止を目指すさまざまな催しが行われたが、長崎県は原爆投下を「しょうがない」と述べた久間章生・前防衛相の出身地とあって、久間発言に対する怒りや憤りの声が相次いだ。このところ、停滞気味だった原水爆禁止運動が、核兵器使用を容認するものと受け取られた久間発言によって活気づけられた格好だ。

 7日から9日にかけて同市内で開かれた平和団体や市民団体の大会や集会では、久間発言への言及が目立った。

 7日、県立総合体育館で開かれた、連合、原水禁、核禁会議共催の「核兵器廃絶2007平和ナガサキ大会」には3700人が集ったが、主催者を代表して挨拶した高木剛・連合会長は「久間防衛大臣の核兵器容認発言は、言語道断である。被爆者や、核兵器廃絶を願う多くの人々の気持ちを踏みにじるもので、心から反省を求める。暴力や核兵器容認をゆるさず、核兵器廃絶への意思をたかめよう」と述べた。
2007.08.07 鳴り響け!平和の鐘
岩垂 弘 (ジャーナリスト)


 「長崎原爆の日」の8月9日、原爆が投下された午前11時2分に全国の20余の寺や教会で、「長崎を最後の核兵器使用の場とし、これからは核のない世界を築こう」との祈りを込めた鐘がいっせいに鳴らされる。長崎出身の作家、鶴文乃さん(茨城県つくば市)が提案した「平和の鐘、一振り運動」に寺や教会が応えたものだ。

 鶴さんはこれまで長崎原爆をテーマとした小説やノンフィクションを書いてきたが、しばらく前から、8月9日に長崎で何があったかを知らない人たちが増えてきたことが気になり、どうすれば長崎に原爆が投下されたという事実を認識してもらえるだろうか、どうすれば平和な社会を築く行動を起こしてもらえるだろうか、と考え続けてきたという。
 その結果、鶴さんが思いついたのが「平和の鐘、一振り運動」である。すなわち、神社、寺、教会、公舎などにお願いして、長崎に原爆が落とされた8月9日の午前11時2分に、鐘や鈴、あるいはサイレンを「一鳴らし」してもらうという運動だ。これを耳にした人たちは、おそらく「いったい何だろうと」と考えるにちがいない。運動側が運動の趣旨を説明すれば、やがて、その「一鳴らし」が、核兵器の恐怖を伝える警鐘であり、長崎原爆の犠牲者への鎮魂と「核なき社会」実現への祈りを込めた響きであることを理解してくれるだろう、というのだ。

 鶴さん一人では限界がある。だから、運動の趣旨に賛成した人が自ら神社、寺、教会、公舎などに足を運んで「一鳴らし」を頼んでほしい、と呼びかけている。「こうすれば、ヒロシマ・ナガサキを被爆者のみの問題とせず、被爆国の国民として、平和を自らの問題としてとらえることができるはずです」と鶴さん。そこには「平和運動は、特定の地域や特定の人たちに委ねるのでなく、日常生活の中でだれもが無理せず関われるものでなくてはならない」との鶴さんの思いが投影している。

 鶴さんや、鶴さんの提案に賛成した人たちの奔走によって、8月9日の「一鳴らし」に賛同してくれたところは、7月23日現在、茨城、千葉、東京、静岡、長崎、宮崎の6都県で計22カ所。仏教のお寺、天理教の教会、カトリックの教会などだ。9日までにはまだ増える見込みという。
 鶴さんは、この運動を世界に広めたいという。

 問い合わせは、「平和の鐘、一振り運動」と件名を明記して下記へ。
umezono-fumino@w6.dion.ne.jp
2007.08.06  憲法擁護の訴えが目立つ  62年後のヒロシマ
岩垂 弘 (ジャーナリスト)


 62回目の広島原爆の日の8月6日、広島市では、さまざまな記念行事や、原水協・原水禁など平和団体による大会・集会が行われたが、これらを通じて例年通り「核兵器廃絶」への努力が強調される一方、「平和憲法擁護」の訴えが例年になく目立った。これは国民投票法が制定されるなど、安倍内閣と自民党による改憲のスケジュールが急テンポで進んでいることへの国民の危機感を反映したものとみていいようだ。

 この日の広島市は「8・6」にしては珍しく午前7時ころから豪雨があったが。が、市主催の平和記念式が始まった午前8時には雨が上がって曇り空になった。
 会場の平和記念公園には、開会前から全国から多数の参列者がつめかけ、開会時には4万人が会場を埋めた。
 原爆が投下された午前8時15分には、参列者全員で黙とう、直後に秋葉忠利・広島市長が「平和宣言」を読み上げた。

 平和宣言は、まず「運命の夏、8時15分。朝凪(あさなぎ)を破るB−29の爆音。青空に開く『落下傘』。そして閃光(せんこう)、轟音(ごうおん)ーー静寂ーー阿鼻叫喚(あびきょうかん)」と切り出し、次のように続けた。
 「落下傘を見た少女の眼(まなこ)は焼かれ顔は爛(ただ)れ、助けを求める人々の皮膚は爪から垂れ下がり、髪は天を衝(つ)き、衣服は原形を止めぬほどでした。爆風により潰(つぶ)れた家の下敷きになり焼け死んだ人、目の玉や内臓まで飛び出し息絶えた人ーー辛うじて生き永らえた人々も、死者を羨(うらや)むほどの『地獄』でした」
 広島市の平和宣言が、被爆時の悲惨な状況を述べたのは異例である。これは、久間章生・前防衛大臣が原爆投下を「しょうがない」と発言するなど、原爆投下正当論が公然と語られることを憂慮し、今こそ原爆投下によっていかに悲惨なことが起きたかを改めて認識しようとの意図があったものと思われる。

2007.08.03 「グローバルヒバクシャ」という言い方
岩垂 弘 (ジャーナリスト)

「やめたい『唯一の被爆国』」再論

 7月8日付の本欄で「やめたい『唯一の被爆国』」と題する小論を書いたが、これは、その続編である。
 前回、私が小論で書いたのは「日本は『唯一の被爆国』という表現を使うと、原爆による被害者は日本国民だけという認識が定着し、外国人、例えば朝鮮人にも多数の原爆被害者がいたという事実が忘れ去られてしまうおそれがある」ということだった。そして、私はその小論の中で、こうした点への反省から十数年前には原水爆禁止運動関係者や報道関係者の間で「原爆被害に関する認識をミスリードする、日本は『唯一の被爆国』という言い方はやめよう 」という機運が高まり、代わって「日本は『被爆国』」あるいは「日本は『世界最初の被爆国』」といった表現を使うようになったこと、ところが、最近また元に戻ってしまい、各方面で「唯一の被爆国」といった言い方がまかり通っていることを紹介し、こういう言い方はぜひやめたいと提案した。

 続編では、近年、「唯一の被爆国」に代わる「グローバルヒバクシャ」という言い方を始めた人たちを紹介する。
  
 2004年、「グローバルヒバクシャ研究会」という研究グループが発足した。1954年に起きたビキニ水爆被災(太平洋のビキニ環礁で行われた米国の水爆実験で日本の漁船・第五福竜丸の乗組員や、周辺の島々の住民らが「死の灰」を浴びた事件)を研究している高橋博子さん(広島市立大学広島平和研究所助手)と竹峰誠一郎氏(早稲田大学・大学院生)らが、ビキニ水爆被災から50年を機に創設したものだ。
 「広島・長崎への原爆投下から60年経っても、核兵器は廃絶されていない。さらにヒロシマ・ナガサキにとどまらず、核被災は地球規模の広がりをみせている。ヒロシマ・ナガサキを含めたグローバル・ヒバクの実態は隠蔽される傾向があり、明らかにされたとはいえない。グローバル・ヒバクシャたちからは、被害の認知と補償要求がなされている。このような現状をふまえて、広島・長崎の被爆の実相を含む、世界に広がる様々なヒバク実態を多角的な視点から横断的に解明しつつ、普遍化、理論化、思想化を進めていく」のが目的という。
 グローバルヒバクシャ研究会は2006年6月、東京でシンポジウム「<被爆・敗戦60年を越えて>いま日本政府に戦争責任を改めて問う――広島・長崎原爆、東京大空襲、重慶爆撃から」を開いたが、同年10月、そのシンポジウムの記録『いまに問う ヒバクシャと戦後補償』を凱風社から刊行した。
2007.08.03 紙餡包子(ヂーシエンバォズ) "やらせ"だった段ボール肉まん報道
丹藤佳紀 (早稲田大学講師)

こんな言葉が! (14)中国で

 ひとつの報道で二度びっくり。7月8日に放映され、世界に伝えられた後で「虚仮新聞」(でっちあげ)とされた中国・北京テレビの"独家新聞"(スクープ)のことである。
 何しろ、肉を素材にした餡を、練った小麦粉の皮で包む「包子」は北京など中国の北方では市民にとって一番身近な食べ物。それを製造する際、段ボール箱(廃紙箱)の紙を使い、ホンモノの肉6割に4割の段ボールを加えて餡を作っていたーと北京テレビ局(しかも番組名は『透明度』)が報道したのである。
 テレビだから、大きなタライに段ボール紙を入れ、水に浸してドロドロにする工程も放映された。そのため、まがいもの、ニセ物には慣れているはずの市民も「ウソーッ」という騒ぎになった。(ちなみに、表題に使った「肉まん」は日本の造語。中国では、餡の入っているものを「包子」といい、「饅頭」(マントウ)はふつう餡(具)が入っていない)。
 ここまでが一つ目のびっくり。

2007.08.02 安倍続投に驚き 欧米主要紙の参院選報道
伊藤力司 (ジャーナリスト)


 自民党惨敗という参院選結果は海外にどう報道されたか。欧米の代表的新聞で見ると、安倍首相が大敗北にもかかわらず、引き続き政権をになうと宣言したことに驚きを感じた報道ぶりだ。
 例えば英国のガーディアン紙は「日本首相、選挙大失敗にもかかわらず居座りを公言」との見出しを掲げた。同じ英国のフィナンシャル・タイムズは「選挙大敗後、生き残りのために戦うアベ」、フランスのルモンド紙早版は「シンゾウ・アベ、参議院多数を失ったが辞任を拒否」、米紙ニューヨーク・タイムズは「アベ、辞任要求に抵抗」であった。
 これらの見出しは各紙の東京特派員が送った記事に付けられたものだが、各紙が見出しになると感じたのはやはり「安倍首相が大敗したのに続投を表明した」事実だった。東京に駐在し、日本政治について詳しい特派員たちが書いた記事だから、続投が可能な理由として、有力後継者がいないこと、首相指名権を持つ衆議院で与党が圧倒的多数を占めていることなどを説明してはいる。
 また自民党の敗因として、欧米各紙も年金記録の不明、相次ぐ閣僚の政治資金絡みのスキャンダル、ワーキングプア激増に見られる社会的格差、都市と農村の地域的格差の拡大など、日本の新聞で指摘された事象をそれぞれ紹介している。さらに参議院多数を失った安倍政権が、これからの政権運営に苦しみ、立ち往生する場合もあると予測している点も日本の新聞と共通している。