2008.10.31 黒澤明全作品30作の放映(25) 『赤ひげ』(1965年)
―黒澤教養主義の頂点―

半澤健市 (元金融機関勤務)

■『赤ひげ』は08年11月1日(土)午後9時からNHK・BS2で放映されます■

《黒澤明の教養主義とはなにか》 処女作『姿三四郎』(1943年)から22年を経て黒澤明の「教養主義」はその頂点に達した。『赤ひげ』の誕生である。柔道の恩師矢野正五郎とその弟子姿三四郎の関係は、何作かで変奏を演じたのち、小石川養生所の名医新出去定(にいで・きょじょう、三船敏郎)と長崎帰りの青年医師保本登(やすもと・のぼる、加山雄三)の関係に継承されたのである。

黒澤の「教養主義」とは何か。
「教養主義」または「人格形成物語 Bildungsroman」 とは、未熟な若者が優れた先達に出会い技能・学芸の鍛錬と克己を重ねて強い自己形成に至ること、またはその過程を描いた物語のことである。読者はすでに黒澤作品ですぐれた人格形成のいくつかの実例をみている。
『姿三四郎』正続編の三四郎は勿論だが、『一番美しく』の渡辺ツル(矢口陽子)において、『わが青春に悔なし』の八木原幸枝(原節子)において、『野良犬』の村上刑事(三船敏郎)において、『七人の侍』の勝四郎(木村功)において、黒澤は師に学び努力する青年像を描いた。私は『酔いどれ天使』のヤクザ松永(三船敏郎)ですら、医師志村喬への弟子入りを望んでいたと思うほどである。

《山本周五郎の教養小説を選択》 『赤ひげ』の原作者山本周五郎は「人格形成物語」を得意とする作家であろうか。必ずしもそうではない。江戸の武士や庶民の生活と心情を山本は描いた。視点が多様だったことは、黒澤の次作『どですかでん』(1970年)によって明らかになるだろう。黒澤は生涯に3本の山本作品を映画化したが、『赤ひげ』では「教養小説」を意図して選んだのである。赤ひげ新出去定と保本保が出会ってまもなくの会話で去定はこういう。

赤髭 現在われわれにできることは、貧困と無知に対するたたかいだ、それで医術の不足 を補うほ かはない
登 (なにか言いかける)
赤髭(怒ったように)それは政治の問題だと言うのだろう、誰でもそう言って済ましてい る、だがこれまで政治が貧困や無知に対してなにかしたことがあるか、人間を貧困と無知のままにして置いてはならぬ、という法令が一度でも出たことがあるか

この会話は非政治的人間である黒澤明がつくったものと私は思っていた。ところがそのまま山本の原作にあるのである。また私は、文芸評論家荒正人による次のような原作の解説にも納得する。荒はいう。(講談社版の山本周五郎全集の解説)
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