2012.02.29 日本人・井真成も登場する国際的な唐帝国で際立つ安禄山の民族性
〔書評〕塚本史著『安禄山』(角川書店、¥1890) 

雨宮由希夫 (書評家)


 安禄山は中国、唐・玄宗時代の軍人であり、叛将である。平盧、范陽、河東の節度使を兼任して唐軍全体の3分の一に相当する大兵力を有する勢力となり、遂には「安史の乱」を惹き起こし、実子に殺害されて生涯を終えた。

 唐は遠くパミール以西の諸国とも相通じ、中央アジアにまで領域が及んだ大帝国。シルクロードへの起点となった大都・長安は国際色豊かな花の都で、その繁栄と殷賑は杜甫や李白など盛唐の詩人たちに詠われている。
日本との係わりでいえば、遣唐使。阿倍仲麻呂や鑑真和上がただちに思い浮かべられ、近年では西安市で墓碑銘が発見された井真成(せいしんせい)が話題となっている。

 本書は時代の申し子、安禄山の一代記である。物語のスタートは開元8年(720)。唐にとっては異国の出身者である高麗人の高仙芝(こうせんし)と日本人井真成が相ともに登場し、若き日の安禄山の知人となる――という塚本史ならではのスケールの大きい幕明けに、読者は先ずひきこまれよう。
安禄山同様、玄宗時代の軍人である高仙芝は、唐の西域方面総督というべき地位・安西都護にのぼり、後に、安史の乱の緒戦で、玄宗の命で斬刑に処せられる悲劇の名将である。

井真成は第八次遣唐使船で、仲麻呂や吉備真備、玄とともに、開元5年(717年)に入唐。時に19歳。その井真成が唐の辺境まで足を伸ばして、牧場や田畑の調査をしている。唐の律令制を手本として国づくりをはじめた日本から派遣された「若い役人」と安禄山の眼には映るが――。
 阿部仲麻呂が玄宗の寵臣である宦官・高力士に戒律僧の推薦を依頼、のち、鑑真が密航する話を禄山が立ち聞きするシーンがあり、在唐三十数年にして帰国を許された仲麻呂を送別する詩人たちの宴を禄山が垣間見るシーンもある。

杜甫や李白ら盛唐の詩人たちは玄宗時代の文化史的な象徴である。とりわけ、李白は玄宗、楊貴妃の目の前で詩を詠じた唯一の詩人で、「清平調詞」は道士時代の楊貴妃を詠んだものである。
詩人たちと阿倍仲麻呂の交遊については、李白の「晁卿衡を哭す」や王維の「秘書晁監 日本国に還るを送る」など唐詩数首以外の資料は遺されていない。したがって、より具体的な人間関係は作家自らの構想力で創造するしかない。

禄山は仲麻呂や李白らと面識があったが、〈禄山にとって、李白は興味の埒外の人物〉などとする造形は塚本史の面目躍如たるものがある。塚本の舞台装置の用意周到さは、物語のはじめに高仙芝を配したことで判るように、その後の歴史的時間の中で、ある種の運命を予感させずにはおかないように設営されていることである。
杜甫と王維は安禄山の軍に捕らえられ、一時、賊軍のなかに幽閉された。李白にあっては安禄山討伐の軍に入隊しながら、反乱分子と見なされている。詩人たちにとって、安史の乱は一つの大きな転機を画すべき事件であった。

 イラン系のソグド商人を父とし、北方騎馬民族、突厥の女を母とした「雑胡」の安禄山が、巡閲の中央官吏に贈賄して関心を引き、絶妙の処世術で、巧みに自己宣伝して中央政界にのし上がっていく姿を活写している本書は唐土(もろこし)版「国盗り物語」のおもむきがある。

禄山が幽州節度使・張守珪に仕え、その養子となってはじめて長安に上った時、科挙上がりの宰相・張九齢が禄山を見て、「将来、幽州周辺で反乱を起こすとすれば、きっとこのような人相の男であろう」といい、将来の安史の乱を予見したとされるが、作家は、物語にこのエピソードを引き、「それは違う。ただ張の驕りと、異民族への差別感情が明瞭に窺えるだけだ」と一刀両断した。
その上で、「漢人は、漢族特有の、商人や商業蔑視の観念から抜け出せない」、対して「安禄山はソグド商人の精神を肉体に塗りこめたような存在だから、流通の大切さは身に沁みて判っている。いや、その考えを前面に出して、ここまで上り詰めた男である」と安禄山の民族性を押し出している。

安禄山は「雑胡」である。漢民族以外の者同士の混血を唐語で「雑胡」といい、「雑胡」には差別的なニュアンスがある。安禄山の出自に関連付けての楊貴妃という稀代の美女の掘り下げは、本書の眼目である。曰く、禄山は楊貴妃にはじめて会ったとき、「漢族の容貌と少し違ったところがある。きっと彼女には、何分の一かソグド人の血が入っている」と直感する。

のち、玄宗に取り入り、楊貴妃の養子になることを希うが、その野望が実現するや安禄山に「ソグドの血、万歳」と叫ばせている。曰く、楊貴妃が禄山を気に入った理由の一つは、「血脈の一部が一致すること」である。また曰く、玄宗が禄山を間近で見たとき、「(玄宗には、)安禄山が、なぜか楊玉環と同系列の容貌に思えた」と。
さらにまた、「日本人のおぬしらは知らぬであろうが、唐も鮮卑だ」と禄山に告げられ、蒼くなる井真成の姿をも作家は映している。
... 続きを読む