2012.09.30 日本側の無思慮で「棚上げ」方式が瓦解
日中関係の破局を考える(上)     

伊藤力司 (ジャーナリスト)


野田内閣が9月10日尖閣諸島の国有化を閣議決定したことで、中国で反日デモの嵐が吹き荒れた。日中国交回復40年を祝うべき記念の年に、日中関係はこの40年間で最悪の事態を迎えている。暴徒化したデモ隊が日系大型店に乱入して破壊と略奪の限りを尽くす映像に「乱暴狼藉」という言葉が浮かんだ。何とおぞましい行為か。しかし前世期、われわれの父と祖父の世代は中国で何十万倍、何百万倍の乱暴狼藉を働いたのではなかったか。そのことに思いを致しながら、日中破局について考えてみたい。

日中関係の「トゲ」というべき尖閣問題を悪化させないために、これまでは問題を「棚上げ」するという曖昧な方式が両国間に働いていた。発端は1972年、時の田中角栄首相が訪中して周恩来首相と国交回復を話し合った際、田中首相が尖閣問題を取り上げようとしたところ周首相は「その話はしないでおこう」と述べたことだ。1960年代末に行われた尖閣諸島周辺・東シナ海の国際調査で有望な海底石油資源が発見された。それまで尖閣諸島の日本領有に異議を挟まなかった中国も、これを機に1970年から釣魚島(尖閣諸島の中国名)の領有権を主張し始めていた。田中首相はそのことを承知していた。

続いて1978年、日中平和友好条約締結の際に中国の実力者、鄧小平副首相が園田直外相(当時)に「放っておこう。こういう問題は10年棚上げしてもかまわない」と述べたという。園田外相が「もうそれ以上言わないでください」と応じ、双方がこの問題を「棚上げ」にするという暗黙の了解が交わされた。尖閣ではその後30年以上の間に、日本の政治結社が灯台を建てたり、中国、台湾、香港の活動家が島に上陸したりして、その都度外交紛争になったが結局は「棚上げ」方式で事態を収めてきた。しかし問題はこれが曖昧な「了解事項」であって、成文化された合意でないところに問題がある。

石原慎太郎都知事が今年4月訪米、超保守のネオコン系シンクタンク「ヘリテージ財団」の会合で「尖閣を東京都が買い取る」と爆弾発言をしたことが、棚上げ方式を瓦解させる発端となった。右翼イデオローグとして自他ともに許す石原知事としては、領土問題という妥協不可能なテーマを突きつけることで、「軟弱な対中姿勢」を続ける日本人に国家防衛意識を掻き立てようとしたのだろう。かつて米国に向けて「NOと言えるジャパン」を叫び、都知事選挙の公約に「横田基地の返還」を掲げた石原氏だが、何故あえてワシントンで日中関係にトラブルを起こす「挑発」を行ったのか。

2009年の政権交代で誕生した民主党の鳩山由紀夫首相と小沢一郎幹事長のコンビが「対等な日米同盟」「東アジア共同体構想」を掲げ、アジア重視(実質的には中国重視)を鮮明にしたことは、長年自民党政権下の日本を「従属的同盟者」扱いをしてきた米国を刺激した。米海兵隊・沖縄普天間基地の「国外移転、悪くても県外移転」に失敗した鳩山政権は、1年ももたずに潰されたが、日本独自の対中接近を嫌うワシントンの空気を察知していたからこその「アメリカに恩を売る」石原発言だったに違いない。

石原発言を受けて野田佳彦内閣は動いた。東京都でなく国が島を買い取る方針を決めて、地主からの買い取り交渉に敏速に動いたのである。東京都に買い取られたら、石原氏の持論である灯台の改修や船舶停泊施設の建設に取り組むだろう。そうすれば尖閣の現状変更を行うことになり、「棚上げ」で暗黙に了解している島の現状維持に反する結果を招く。「平穏かつ安定的な維持管理を図るために」(藤村修官房長官9月10日記者会見)国が買い取ることを決めたという訳だ。

この前日の9月9日、野田首相はウラジオストクで開かれたAPEC(アジア太平洋経済協力会議)首脳会議の合間に、胡錦濤中国主席と15分間の立ち話をした。日本側は正式な日中首脳会談を申し入れたのだが、中国側は既に報じられていた野田内閣の尖閣国有化計画に反発して正式会談に応じなかった。この立ち話で何を話したかと記者団に問われた野田首相は「中国の発展は、わが国や地域社会にはチャンスで戦略的互恵関係を深化させていきたい。現下の日中関係については大局的見地から対応したいと申し上げた」と語った。

一方の胡主席の発言は、中国の公式メディアで繰り返し報道された。その趣旨は「このところ中日関係は釣魚島問題で厳しい局面を迎えている。この問題で中国の立場は一貫しており、明確だ。日本がいかなる方法で釣魚島を買おうと、それは不法であり、無効である。中国は(日本が)島を購入することに断固反対する。中国政府の領土主権を守る立場は絶対に揺るがない。日本は事態の重大さを十分に認識し、間違った決定を絶対にしてはならない。中国と同じように日中関係の発展を守るという大局に立たねばならない」というものだった。

しかしその翌日、野田内閣は予定通り尖閣の国庫による買い取り、つまり尖閣の国有化を閣議決定した。胡錦濤主席のメンツは丸つぶれである。その翌日の11日から中国全土で反日デモの嵐が吹き荒れた。それから8日間、当局公認の反日デモが中国各地で連続した。9月18日は、満州事変(東北3省の日本による事実上の植民地化)の発端となった関東軍の謀略による柳条湖事件の記念日、中国からすれば「国恥デー」だ。それまで盛り上がり続けた反日デモを、中国当局はこの日を境目に抑制に転じた。しかし、9月27日に北京で予定されていた国交回復40周年記念式典が中止になっただけでなく、民間レベルの日中交流事業やビジネス関連の各種イベントなども、中国当局の意向で片端から取りやめになった。「野田首相に裏切られた」胡錦濤政権の怒りがどれほど強いかが、連日明白になった。

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