2012.12.30 平成おうなつれづれ草
難儀なカーブ

鎌倉矩子(元大学教員)


午後2時。書き上げた年賀状の束を手にして家を出た。毎年郵便局は、「年賀状は遅くても12月25日までに出してください」と言っている。ことしはその期限に間に合った。生まれてはじめてのことだ。これも引退生活の余禄だと少しうれしい気持ちになって道を進む。T字路にさしかかったので左へ曲がろうと、左右をよく見て、車道を横切って歩道にあがった。
そこで思いさま、歩道に体を叩きつけられた。気がつくと、前のめりに両手をついて地に這いつくばっている。痛くてしばらく動けない。「大丈夫ですか? 大丈夫ですか?」。子連れの女性がかけよってきた。

情けなや。段差に足をとられたのである。最近しばしば、転倒まではいかないがバランスが小さく崩れることがあって気になっていた。バランスは反射である。気をつけようがない。そしてついに今日、この体たらくとなった。
倒れた瞬間、わあ、年寄りみたい!と思った。もし友人が傍にいたら、「年寄りなんだよ。73歳はりっぱな年寄りだぜ」と言ったに違いない。それは解っている。でも自分が年寄りのようになるとは思っていなかった。こんな不意打ちがやってきて、否応なく、自分は老人だと自覚させられた。次にはもっと大きな不意打ちがやってくるだろう。そうやって人は、じわじわと老人に仕上がっていくのに違いない。

実はきのう見た映画も、老人が主人公だった。クリント・イーストウッド主演の『人生の特等席』(ワーナーブラザーズ)である。
イーストウッド演じるガスは、野球大リーグの、すこぶるつきの名スカウトマンである。いや、であった。妻をはやくに亡くしてひとり暮らし。ひとり娘ミッキーは独立していて、二人の間には何かわだかまりがある。そしていま老化の波が彼の上に押し寄せている。オシッコの音はちょろちょろしているし(何のことかと思ったが、冒頭のシーンがこれなのです)、歩けば物にぶちあたるし、ハンバーガーを焼けば室内は煙もうもう、あわや火事かという騒ぎである。パソコンやデータなどにははなから目もくれていない。まわりは彼にどう引導をわたしたものかと考えざるを得ない。だがガスはかまわずスカウトマンの旅に出かけていく。すでに美しく有能な弁護士となっているミッキーが、昇進の機会を失う危険を冒してその後を追う。

地方リーグの「その選手」は、下品なヤツだが、大リーグのスカウトマン達が群がる強打者だ。ガスと同じ球団(レッドソックスだったかな)のライバルスカウトマンも、やはり彼を狙っている。注目の試合がある日、ガスは球場のスタンドに身を置いている。視力がもう役に立たないことは自分でもよくわかっている。そこで娘に、「ヤツはカーブが打てない。近くで見てこい」と言う。確かめに行った娘は戻ってきて言う。「その通りね。手が泳いでいたわ」(娘も父親ゆずりの天才的鑑識眼を備えていた)。続いて娘が聞く。「でもどうしてわかったの?」。「音でわかったさ」。

かくしてガスは、球団に「ヤツを取るな」と進言する。だが球団は、ライバルのスカウトマンの判断を取った。ガスは敗れ、失職する。ミッキーも昇進の椅子をライバルに奪われた。恋人も去った。
八方ふさがりの父娘だが、ここでふたりは逆転劇に打って出る。ミッキーが父親譲りの才を生かして天才的剛腕投手を見つけ出し、かの下品な強打者に向かってカーブを投げさせ、彼がそれを打てないことを、球団のエライさんたちに見せつけるのだ。
この後は次々とよいことが起こってハッピーエンド。ここでは省くが、ガスの友人の気遣いやら、父娘のわだかまりのいきさつやら、娘の失恋と新しい恋の話やらがからんで、ほどよいお話に仕上がっている。

いかにもアメリカ的な(ハリウッド的な?)ハッピーエンドだったけれど、いい映画だったと思う。俳優のひとりひとりが光っていた。老人を淡々と演じたイーストウッドという俳優がとてもよく、娘を演じた俳優も可愛くて、さりげなくて魅力的だった。

これは世の老人たちに贈るおとぎ話だ。こんなにうまい話が実際に起こることはないと誰もが承知している。この物語のガスにだって、やがては天賦の耳に頼れない日がくるだろう。誰の身にも少しずつ、確実に忍び寄る老い。その足音を聞きながら暮らす日々の中にも、ときには煌めく時間が訪れることがある。そんなことを語りかける映画だったと言えようか。今日私はぶざまにぶっ倒れて悲しい思いをしたが、いまこうして昨日の映画を思い出し、痛くて甘美な思いに浸っている。これは幸せなことだ。

映画の題名は『人生の特等席』。でも何だかしっくりしないなあ。原題は何て言うんだろう。
ネットで調べたら、それは“Trouble with the Curve”というのだった。「難儀なカーブ」? あ、人生のカーブと投球のカーブとをひっかけたのか。そう言えば、今日の私の転倒も、路上のカーブでのできごとでした。
(2012.12.22記)

筆者紹介: 
鎌倉 矩子(のりこ)さんは作業療法士・医学博士。1962年東京大学医学部衛生看護学科を卒業後、障害のある人が作業を通じて社会生活に復帰するための作業療法の実践と研究に専念、日本における同療法のパイオニア役を果たす。1993~2001年広島大学医学部教授、2001~08年国際医療福祉大学大学院教授として後進を指導し、両大学から名誉教授号を贈られた。著書は「作業療法の世界-作業療法を知りたい・考えたい人のために」(三輪書店)他多数。現在は郷里の長野県原村に居住。