2023.09.30 世界のノンフィクション秀作を読む(27)
クワメ・エンクルマの『わが祖国への自伝』――「アフリカの独立の烽火」の克明な記録(上)

横田 喬 (作家)

 1957年にイギリス領黄金海岸(ゴールド・コースト)植民地がガーナとして独立し、1960年のいわゆる「アフリカ独立の年」の烽火となった。上掲の著書は、このガーナの独立がどのようにして起こったかを、そのリーダーだったクワメ・エンクルマ自身が克明に記す。彼自身の比類ない魅力的な個性も如実に示され、私は感嘆しながら読み進み、人種的偏見の誤りをしかと思い知った。

①我が生い立ちと教師生活の頃
 私は(アフリカの)黄金海岸南西端の小さな村に生まれた。私たちの部族の習慣では、人の誕生は記録しようとされず、多少の根拠ある推測では1909年9月頃とされる。当時のこの地方では通い婚の一夫多妻制が普通で、父母は別居して暮らしていた。母は非常に優れた保護者で、私に多くの自由を与え、天性の指導力があった。鍛冶屋の父は強い性格の持ち主で、子供には非常に優しかった。私は大変に我儘で、いたずらっ子だったらしい。
 初等学校で八年間を過ごした後、1927年に首都アクラの国立師範学校に入った。この三年前、プリンス・オブ・ウエールズ大学が開校し、K・アグレイ博士が副総長補佐に就任。アフリカ人として初めて大学の中枢に参加し、私には誰よりも偉大な人物に映り、私は心から彼を慕った。博士は激しい生活力と熱情と腹の底からの明るい笑い声を持ち、稀に見る大雄弁家でもあった。私の民族主義が培われたのは、博士のお陰である。
 博士は自分の皮膚の色を何物よりも誇っていたが、人種差別はどんな形のものにも強く反対した。黒人と白人の協同が、博士の思想の骨子であり、彼の布教の眼目だった。が、私は既にその頃から、アグレイのこの思想を実際的なものとしては受容できなかった。博士はこの頃、イギリス経由でアメリカへ旅立ち、ニューヨークで罹病~急死してしまう。
 私は激しいショックを受け、三日間は何一つ食べることができなかった。が、胃の腑が空でも、勉学を続けるエネルギーだけは溢れるほど有ることに気付く。この発見は、後日アメリカやイギリスへ行った時に大変貴重なものとなった。私は貧乏なため食事を摂らずに勉強もし、休暇には大学の授業料を稼ぐために働きもしなければならなかったからである。

 博士を心から尊敬していたから、私はアメリカへ行き、もっと勉強しよう、と考え始めた。そのために、師範学校の課程を終えたら、五年間教師をして、その間に旅費を貯めるという計画を立てた。アクラの師範学校は1928年にプリンス・オブ・ウェールズ大学の一部になった。私は頭に詰め込めるだけの知識を得たいと力一杯の努力はしていたが、クソ勉強家や本の虫にはならなかった。友人も沢山できたし、スポーツも好きだった。
 私は短距離走者として規則正しい訓練を受け、大学対抗競技では百、二百、四百メートルの競走に出た。スポーツマンシップというものが人間の性格の非常に重要な部分を作ることを知り、国を発達させるためスポーツを奨励することの必要を後に考えるようになった。
 宗教については、ローマ・カソリック教会が定めたものとは違った考えを抱き始めていた。教会へ行くことを義務づけるべきではなく、良心の問題とすべきだと固く信じた。
 私は弁論に興味を持ち始め、学内に討論の会を組織した。ある見解に同意する・しないを問わず、私はいつも少数派の味方になった。最初はどんなに不利な立場にいても、最後には私の支持した考えに反対派を屈服させ、討論を勝利のうちに終わらせる場合が多いことに気付いた。この経験は後には非常に貴重なものになった。この「おしゃべりの才能」がなかったら、私の闘いが緒戦で敗れ、私たちの闘争の全部が無駄についえたと思われるからだ。

 1930年に私は師範学校を卒業した。沿岸地方の下級学校初等科教師の職を与えられ、一年生を教えた。子供を少しでも続けて教える最初の経験だったが、子供たちが私に懐いてくるのに驚き、感動もした。私は教師の地位を高めたいと願い、余暇の時間の多くを教師の組織を作るのに使った。それが教師の状態を改善する第一歩になるだろう、と思ったからだ。
 一年後、私は地方の小都市のローマ・カソリック下級学校の専任教師に昇進。在任中、ロンドン大学の入試に備えるための通信講座をとった。ラテン語と数学を学び、後にリンカーン大学で一年目の試験を受ける際、非常に役立った。余暇はエンジマ文学協会をつくるのに充て、当時英領西アフリカ民族会議の秘書をしていたS・R・ウッド氏と会談。私はアメリカへ渡る決心を伝え、彼はそれを心から支持し、ペンシルバニアのリンカーン大学に入学できるよう、一通の証明書を書いてくれた。
 二年後、ローマ・カソリックの神学校教師になる。ここでもっと学問を続けよう、それにはアメリカへ行かねば、という考えが再び私の心を占めた。早く行動を起こさねば、生涯神学校の壁に閉じ込められることになる、と私は感じた。

②アメリカでの勉強
 35年初め、私は東方のナイジェリアの首都ラゴスを経由し、アメリカへの旅券をもらうため海路ロンドンへ行った。リヴァプールに半月ほど滞在した後、再び海路アメリカへ向かった。ロンドンでは「ムッソリーニ、エチオピアへ侵入」という張り紙が目に入った。その一瞬、ロンドンの全部が、私に宣戦を布告しているように感じられ、私は植民地制度を倒すために私の働ける日の来ることを祈り、必要なら地獄へでも行こうと私は決心した。
 ニューヨークに着いたのは十月の終わり頃だった。1854年創立のリンカーン大学は、黒人に高等教育を与え、合衆国内の黒人社会の有用な指導者を育てることを目的として建てられた最初の教育機関である。到着した時、私の所持品は四十ポンド相当のドル紙幣と中学校教師の免状と知人による一通の紹介状だけ。私は学部長の処へ行き、経済的に困っていることや在学中は働いて勉強したい、と話した。学部長はいい顔はしなかったが、人がいい性格ゆえに私の申し出を受け入れてくれた。

 次の試験で良い成績をとれば第一学年への編入を許可するという約束で、私は見習い学生に採用された。大いに努力し、試験を受けて入学資格を獲得した。大学の施設は百~二百人の学生を対象とし、成績の悪い者は退学を求められ、首席と次席の学生は奨学金が与えられた。幸い私はいつも首席か次席にいたので、在学中はずっと奨学金を貰っていた。
 奨学生のために、図書館の助手と食堂の給仕という二つのアルバイト口があった。後には、収入のもっと多いアルバイトを見つけた。社会学と経済学の講師が、沢山の本からレポートを作成するよう指示。多くの学生が音を上げ、仕事を探していた私は一回一ドルでレポート作成を引き受けた。懐が寂しくなる度、これで数ドルずつ稼ぐことができた。
 弁論には相変わらず非常に興味があり、一学年の時には大会で第二位になり、金メダルをもらった。このメダルは後に短期間しか交際しなかった娘の一人が、記念のためにと言って私から取り上げてしまった。私は学生仲間と付き合うのに困難を感じたことはなかったが、39年の学級年鑑に「最も興味ある学生」として選ばれた時には感動し、光栄にも思った。
 39年にリンカーン大学を卒業。経済学と社会学を専攻し、学士の資格を得たが、学校に借金が残っていたため、すぐに学位をもらうことはできなかった。意気阻喪する折、リンカーン大学の神学・哲学科の教授ジョンソン博士から「助講師に採用するから来ないか」との誘いがあり、この招きを受けて同年秋、私は同大学哲学科の助講師になった。

 この環境の変化を私は百パーセント利用した。仕事はそれほど忙しくはなかった。それで暇な時間に、手に入る近代哲学の本を片っ端から読み始めた。カント、ヘーゲル、デカルト、ショーペンハウエル、ニーチェ、フロイトなどの著書を読んだあげく、法律や医学や芸術が知識の手と足で、哲学がその頭脳である、という言葉の正しいことを知った。
 その年七月、ワシントンの長老教会から奨学金百ドル賦与の報せがあり、この奨学金でペンシルベニア大学の幾つかの課程の費用を払い、哲学と教育学の研究を続けることにした。
 42年にリンカーン神学校を首席で卒業。神学士の称号を得、慣例に従い、その年の卒業演説をさせられた。「エチオピアは神の道を選ぶか」という表題で、私は弁じた。終了後、教授や元の学友たちが駆け寄り、強く握手してくれ、演説が成功したことを知った。

 ペンシルベニア大学では、哲学や初級ギリシャ語、黒人史を講義。最も人気があったのは黒人史で、その時間には教室は満員になった。私はいつも自分を新参講師としか考えていなかったので、45年――私がアメリカを去る年、リンカーン大学の機関誌に「今年の最優秀教授」として選ばれたのを知った時、大変に嬉しい驚きを味わった。
 その頃、生活を維持し、研究費を稼ぐため、私はフィラデルフィア近郊の工業都市チェスターの造船所に勘定係として雇われた。季節を問わず、深夜の十二時から翌朝八時まで働いた。冷えた日には、手が鋼鉄に張り付きそうになり、持っている全部の衣服を着ても、骨の髄からガタガタ震えた。ある日、下宿で十八時間も眠ってしまい、直後に肺炎に罹った。
 救急車でチェスター病院に運ばれ、酸素室に入れられた。私は初めて自分の生活を真剣に見つめ直した。無性に母に会いたくなった。病気が治り次第、なるべく早くアメリカを去って故国に戻ろう、と私は決心した。