2007.08.21
新刊紹介 軍事的には原爆投下は不要だった
伊藤力司 (ジャーナリスト)
世界を不幸にする原爆カード −ヒロシマ・ナガサキが歴史を変えた−
金子敦郎著 明石書店 定価(本体1800円十税) 349ページ
広島、長崎での62回目の「原爆の日」が終わった。「原爆投下はしようがなかった」との久間前防衛相の妄言の後だけに、原爆を許してはならないという想いを一際強くした。折しも、原爆投下に踏み切ったトルーマン大統領を取り巻くアメリカの政治状況をリアルに描写した本書を読んで、原爆は本当に避けられなかったのか、強い疑問を抑えることができないでいる。
本書によると、1945年7月当時の米軍事指導者たちは一様に、日本を降伏させるのに原爆投下は不要だと判断していたが、政治家たちが戦後の対ソ連外交を有利にしたいとの思惑から原爆使用を決断したのだった。それをリードしたのが、トルーマン大統領の政治的先輩であり、実力者だったバーンズ国務長官である。
トルーマンは、ルーズベルト大統領の急死(1945年4月)を受けて副大統領から昇格したばかりで、特に外交面ではずぶの素人だった。だから彼は、バーンズに外交の全てを任せることを条件に国務長官就任を懇請したという関係だった。大統領就任まで原爆開発のマンハッタン計画について知らされていなかったトルーマンに対し、戦時動員局長として原爆開発状況を熟知する立場にあったバーンズは、「原爆外交」でトルーマンを引っ張る立場でもあった。
ドイツ降伏(45年5月)後の欧州の戦後処理と対日降伏勧告問題を米英ソ3首脳が話し合うためのポツダム会談を、チャーチル英首相は5月中にも開催しようと呼び掛けた。しかしトルーマンの意向で7月中旬までポツダム会談開催が延ばされたのは、7月に最初の原爆実験が行われる予定だったからだ。ポツダム会談の合間に実験成功の秘密報告を受けたトルーマン=バーンズ・コンビはスターリン・ソ連首相との交渉で、心理的に強いカードを持つことができた。
沖縄戦が6月23日終結した後、日本の降伏は時間の問題とされていた。ポツダム会談当時、日本は対英米「和平工作」をソ連に仲介してもらおうと動き出していた。これより先1945年2月の米英ソ3国首脳によるヤルタ会談で、スターリンはルーズベルトの要請に応えて対独戦終了後3カ月以内に対日戦を開始すると約束していた。これがヤルタの密約である。日本にソ連参戦が迫っていることを教えれば、日本は間違いなく降伏すると米軍首脳部は考えていた。また日本が最後までこだわっていた天皇制維持の問題について米国が柔軟な姿勢を示せば、降伏しやすくなるとの判断もあった。だから原爆を使わなくても戦争を終わらせることができると米軍指導部は考えていた。
原爆の完成が近づくと、原爆の威力と非人道性をよく認識している科学者たちの間に原爆不使用を望む声が広がり、マンハッタン計画に参加した科学者を含む数百人が署名した原爆投下をやめるよう嘆願する文書をトルーマンに提出した。また彼らは、米国が原爆の秘密を独占しようとしても早晩ソ連が追い付くことは必至で、やがては恐ろしい核軍拡競争を引き起こすことになるとして、これを予防するために核の国際管理を提唱した。政治家や外交官の間にも戦後の和平を願う科学者の意見に同調する空気もあった。
しかしトルーマンは、ポツダムから帰国する前に原爆投下を実行部隊に命令した。20億ドルもの税金を使って開発した兵器を使わないのでは議会が納得しない、原爆の威力を世界に見せつけ、原爆の秘密独占を外交カードに活用する、原爆の威力で日本の降伏を早めればそれだけ米軍の死傷者を減らせる、などが原爆使用論の根拠であった。
しかし実際に広島、長崎の惨状が明らかになると、米国世論からは原爆の非人道性への批判や原爆投下が本当に避けられなかったのかの疑問が噴き出した。トルーマン政権は予想を超える原爆の破壊力に衝撃を受けつつも、反撃を加えた。狂気の日本軍部は「一億玉砕」を叫んでおり、日本上陸作戦では100万人を超える犠牲が予測されていた以上、原爆投下は米軍の犠牲を少なくして日本を早期降伏に追い込む唯一の正しい選択だったとするキャンペーンである。以後米国内では、原爆のおかげで100万人の犠牲が避けられたとする原爆投下必然論が独り歩きすることになる。
原爆を独占することで対ソ外交を有利にと考えたバーンズとトルーマンの思惑は、1949年8月のソ連原爆実験成功で崩れ去った。むしろ米国の原爆外交はソ連の警戒心を高めて冷戦激化を招き、米ソは冷戦下で原爆の数百倍もの破壊力を持つ水爆開発競争に血道を上げた。科学者の恐れた通りの核軍拡競争であった。歴史にイフは許されないが、もしトルーマンが科学者の進言を聴いて原爆投下を思い留まったとしたら、もし第2次大戦後の平和構築にソ連との協力が必要だと考えていたルーズベルトがもう半年長生きしていたとしたら、原爆投下も核軍拡競争も避けられていたかも知れないのだ。
以上本書のさわりだけを紹介した。1970年に成立した核不拡散条約(NPT)が米英露仏中の5大国に核兵器の放棄を要求し、新たな核保有国を認めないことを明確にしているにもかかわらず、核廃絶も核不拡散も進んでいない。被爆後62年の今年、「20世紀最大の出来事」とされる原爆問題を歴史的かつ総合的に検証した本書が出版されたことの意義は大きい。今なお原爆投下の謎をもっとよく知りたいと望む読者を代表して、著者と出版社に感謝したい。
著者は共同通信の記者として国内、国際ニュースの報道に30年以上携わったベテラン・ジャーナリストである。さらに共同通信社の常務理事や大阪国際大学の教授、請われて学長も務めたという経歴の人である。若いころに広島、長崎を取材した体験を原点に、後年ワシントン特派員やワシントン支局長として、なぜ広島、長崎に原爆が投下されなければならなかったかを取材し続けた。
原爆投下で批判を浴びたトルーマン政権は、原爆関連の情報や資料を秘密指定にして原爆投下に至る歴史の解明を封じようと試みた。しかし1960年代から70年代を通じて原爆関連秘密資料の開示が始まり、G・アルベロヴィッツやM・シャーウィンなど米国のの歴史家は公開された資料を使って、原爆投下に至るトルーマン政権の内情について研究を進めた。原爆はバーンズの対ソ戦略に利用されたとのアルベロヴィッツの「原爆外交論」(Atomic Diplomacy : Hiroshima and Potsdam, Pluto Press, 1985 )は、著者が最も参考にした歴史書だった。
著者はアルベロヴィッツだけでなく、米国で公開された膨大な原爆関連資料や参考文献を読みこなし、さらにワシントン在勤中に行った関係者への直接取材で得た心証を基に本書を書き下ろした。今から22年前の1985年、ワシントン支局長だった著者が中心になってまとめ、共同通信が全国加盟社に配信した原爆投下40年の連載企画は、バーンズの「原爆外交」を初めて日本に紹介するものだった。本書はこれを下敷きにしつつ、その後著者が積み重ねた学問的研究を盛り込んだ集大成である。
沖縄戦が6月23日終結した後、日本の降伏は時間の問題とされていた。ポツダム会談当時、日本は対英米「和平工作」をソ連に仲介してもらおうと動き出していた。これより先1945年2月の米英ソ3国首脳によるヤルタ会談で、スターリンはルーズベルトの要請に応えて対独戦終了後3カ月以内に対日戦を開始すると約束していた。これがヤルタの密約である。日本にソ連参戦が迫っていることを教えれば、日本は間違いなく降伏すると米軍首脳部は考えていた。また日本が最後までこだわっていた天皇制維持の問題について米国が柔軟な姿勢を示せば、降伏しやすくなるとの判断もあった。だから原爆を使わなくても戦争を終わらせることができると米軍指導部は考えていた。
原爆の完成が近づくと、原爆の威力と非人道性をよく認識している科学者たちの間に原爆不使用を望む声が広がり、マンハッタン計画に参加した科学者を含む数百人が署名した原爆投下をやめるよう嘆願する文書をトルーマンに提出した。また彼らは、米国が原爆の秘密を独占しようとしても早晩ソ連が追い付くことは必至で、やがては恐ろしい核軍拡競争を引き起こすことになるとして、これを予防するために核の国際管理を提唱した。政治家や外交官の間にも戦後の和平を願う科学者の意見に同調する空気もあった。
しかしトルーマンは、ポツダムから帰国する前に原爆投下を実行部隊に命令した。20億ドルもの税金を使って開発した兵器を使わないのでは議会が納得しない、原爆の威力を世界に見せつけ、原爆の秘密独占を外交カードに活用する、原爆の威力で日本の降伏を早めればそれだけ米軍の死傷者を減らせる、などが原爆使用論の根拠であった。
しかし実際に広島、長崎の惨状が明らかになると、米国世論からは原爆の非人道性への批判や原爆投下が本当に避けられなかったのかの疑問が噴き出した。トルーマン政権は予想を超える原爆の破壊力に衝撃を受けつつも、反撃を加えた。狂気の日本軍部は「一億玉砕」を叫んでおり、日本上陸作戦では100万人を超える犠牲が予測されていた以上、原爆投下は米軍の犠牲を少なくして日本を早期降伏に追い込む唯一の正しい選択だったとするキャンペーンである。以後米国内では、原爆のおかげで100万人の犠牲が避けられたとする原爆投下必然論が独り歩きすることになる。
原爆を独占することで対ソ外交を有利にと考えたバーンズとトルーマンの思惑は、1949年8月のソ連原爆実験成功で崩れ去った。むしろ米国の原爆外交はソ連の警戒心を高めて冷戦激化を招き、米ソは冷戦下で原爆の数百倍もの破壊力を持つ水爆開発競争に血道を上げた。科学者の恐れた通りの核軍拡競争であった。歴史にイフは許されないが、もしトルーマンが科学者の進言を聴いて原爆投下を思い留まったとしたら、もし第2次大戦後の平和構築にソ連との協力が必要だと考えていたルーズベルトがもう半年長生きしていたとしたら、原爆投下も核軍拡競争も避けられていたかも知れないのだ。
以上本書のさわりだけを紹介した。1970年に成立した核不拡散条約(NPT)が米英露仏中の5大国に核兵器の放棄を要求し、新たな核保有国を認めないことを明確にしているにもかかわらず、核廃絶も核不拡散も進んでいない。被爆後62年の今年、「20世紀最大の出来事」とされる原爆問題を歴史的かつ総合的に検証した本書が出版されたことの意義は大きい。今なお原爆投下の謎をもっとよく知りたいと望む読者を代表して、著者と出版社に感謝したい。
著者は共同通信の記者として国内、国際ニュースの報道に30年以上携わったベテラン・ジャーナリストである。さらに共同通信社の常務理事や大阪国際大学の教授、請われて学長も務めたという経歴の人である。若いころに広島、長崎を取材した体験を原点に、後年ワシントン特派員やワシントン支局長として、なぜ広島、長崎に原爆が投下されなければならなかったかを取材し続けた。
原爆投下で批判を浴びたトルーマン政権は、原爆関連の情報や資料を秘密指定にして原爆投下に至る歴史の解明を封じようと試みた。しかし1960年代から70年代を通じて原爆関連秘密資料の開示が始まり、G・アルベロヴィッツやM・シャーウィンなど米国のの歴史家は公開された資料を使って、原爆投下に至るトルーマン政権の内情について研究を進めた。原爆はバーンズの対ソ戦略に利用されたとのアルベロヴィッツの「原爆外交論」(Atomic Diplomacy : Hiroshima and Potsdam, Pluto Press, 1985 )は、著者が最も参考にした歴史書だった。
著者はアルベロヴィッツだけでなく、米国で公開された膨大な原爆関連資料や参考文献を読みこなし、さらにワシントン在勤中に行った関係者への直接取材で得た心証を基に本書を書き下ろした。今から22年前の1985年、ワシントン支局長だった著者が中心になってまとめ、共同通信が全国加盟社に配信した原爆投下40年の連載企画は、バーンズの「原爆外交」を初めて日本に紹介するものだった。本書はこれを下敷きにしつつ、その後著者が積み重ねた学問的研究を盛り込んだ集大成である。
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世界権力構造の秘密 Eustace Mullins 2 原爆ホロコースト
21世紀がホロコースト本格化の時代にならないようにするには、真因を多くの人達が理解していくことが重要です。(まだ、あきらめてはいません)
世界権力の政治上、必要だったことは確かです。