2007.09.06 『生きる』から小泉・安倍政権まで
半澤健市 (元金融機関勤務)


◆『生きる』のテレビドラマ化
 黒澤明の『生きる』(1952年公開の劇場映画)が、55年後の今、テレビドラマとなる。(テレビ朝日で9月9日午後9時から放映。8日には『天国と地獄』がある)
主人公は30年を平凡に勤め上げてきた市役所の「市民課長」。男は余命少ない胃ガンを知って無気力な生き方を変える。不衛生な下水溜まりを児童遊園地に転換してくれという地域のおかみさんたちの要望が市民課に出ていた。たらい回しされ放置されていたその望みをかなえるために男は役所内で奮闘した末に小さな遊園地を完成させる。雪の深夜、遊園地のブランコで「ゴンドラの唄」を歌いながら男は死ぬ。この主人公を映画では志村喬が演じた。テレビでは松本幸四郎が演じる。
『生きる』は志村と女優小田切みき(いずれも故人)の名演と戦後混乱期の活写によって伝説的な日本映画となった。映画製作から半世紀、時代背景が激変した2007年の『生きる』はどう表現されるか興味は尽きない。

 映画には、陳情にくる「おかみさん」たちに対する市役所職員の「たらい回し」の描写がある。この主婦たちは半年にわたり、市役所のあらゆる関係部署、市役所外の関係組織で振り回される。市政への苦情、注文を歓迎するポスターを指しながらおかみさんたちは遂に次のように怒り出す。

  「なに言ってんだい。馬鹿にするのもいい加減におし。このポスターは一体なんのために貼ってあるのさ。あたし達に暇をつぶさせるためなのかい」
  「ふん、私達アね、お前さん達みたいなヒマ人とは違うんだよ。第一ね、私達ア、ただ臭い水溜りをなんとかしてくれって言ってるだけじゃないか。土木課でも下水課でも保健所でも衛生課でも消防署でもそんなことアどうでもいいんだ・・なにさ・・それをなんとかしてくれるのが市民課じゃないのかい」
  「もういい、お前さん達にゃ、もう頼まない。ほんとに、どこへ行っても人を馬鹿にしてさ。民主主義が聞いてあきれるよッ!」(映画『生きる』のシナリオから)

 人々の気持には、『生きる』が描いたような役所仕事に対する強い反発がずっとあったと思う。非効率、無責任、無自覚といった官僚制体質への反発である。それは、戦前・戦中の総力戦体制の時代から人びとの心の底に潜んでいたのである。1980年代の中曽根内閣の行革は国鉄や電電の民営化に結実して人々に改革の全面展開への期待を残した。

◆小泉首相への歓呼
2001年4月に、「改革なくして成長なし」、「民間にできることは民間に」と叫びながら小泉首相が登場したとき人々は歓呼の声を挙げた。
同年7月、炎天下の新宿駅前で小泉の参院選演説を聴くために一時間も前から待っていた数千人の群衆の姿を忘れられない。偶々そこを通りかかった私はその熱狂ぶりを見て不思議な感動におそわれたものである。彼らの歓呼の声には「市民課的なるもの」の欺瞞性に対する感情があり、小泉はそれを打破してくれるだろうという期待が込められていたのである。もちろん、人々の期待は官僚主義の打破だけではなかった。 「改革なくして成長なし」が支持されたのは、国全体を覆う閉塞感からの脱出、成長経済への回帰への願望が強かったからだという方が正確であろう。「自民党をブッこわす」ことによってそれは可能だと彼らは信じたのである。
 株価が1989年に、地価が1990年前後にそれぞれ最高値を記録して以来、バブルは崩壊して日本経済は「借金」、「雇用」、「設備」という過剰三点セットに悩まされていた。カネ不足、ヒト余り、モノ余りである。人はこれを「失われた10年」と呼ぶ。その間、政治が無為無策に終始したという批判は酷に過ぎよう。
 だが景気が一向に回復せず人々の気持に鬱屈したものが澱のように溜まった。不況脱出に何代もの政府はそれなりに対策を打った。90年以降、海部俊樹、宮沢喜一、細川護煕、羽田孜、村山富市、橋本龍太郎、小渕恵三、森喜朗の諸氏が政権を担当した。しかし政治は結果によってのみ評価されるのであって、小泉登場までの10年は「失われた10年」であった。それならば小泉政権と安倍政権のこの6年半は日本になにをもたらしたのか。それはもう一つの「失われた10年」をもたらそうとしているというのが私の考えである。

小泉・安倍路線はグローバル化時代の日本資本主義が求めている政治である。日本財界が求めている政治と言ってもよい。その淵源は中曽根康弘の時代に遡るものであろう。
 小泉・安倍路線は経済の分野でも急速かつ過激に「戦後レジーム」の脱却を図っている。
 問題は小泉・安倍政治、特に小泉路線をポピュリズムとパフォーマンスだと批判して済むのかどうかである。安倍路線に対する国家主義的という批判についても同じである。
 構造改革路線、日米同盟路線への批判は一筋縄でいかないのである。それはグローバル時代の新しいパラダイムを一定の範囲で反映しているからである。社民・共産両党が人気を失ったのは彼らの政策が新しいパラダイムを十分に反映していないからである。
 新しいパラダイムの中で財界や富裕層だけの利害を優先する小泉・安倍政治(竹中政策と言いかえてもよい)に対抗する論理をいかに構築するかが「戦後レジーム」を奉じる人々の務めである。私の視点は、参院選で自公連立政権が大敗した現時点では、いくらか「反時代的」に見えるであろう。しかし事態はそれほど楽観を許さないと思っている。
「グローバル化時代の日本資本主義が求めている政治」は人々の生活を豊かにするものではないと私は考えている。だからといって対案が簡単に構築できる保証はどこにもない。
 金融マンの経験や生活者の実感を大事にしながら経済、金融、それを巡るメディアに関して考えるところを書いていきたい。蟷螂の斧に終わるのは覚悟の上で一、二の問題提起でもできればうれしいと思っている。
Comment
半澤さんの<『生きる』から小泉・安倍政権まで>を興味深く読ませて貰いました。
次の2つの指摘には同感です。

1)小泉・安倍路線はグローバル化時代の日本資本主義が求めている政治である。日本財界が求めている政治と言ってもよい。その淵源は中曽根康弘の時代に遡るものであろう。

2)新しいパラダイムの中で財界や富裕層だけの利害を優先する小泉・安倍政治(竹中政策と言いかえてもよい)に対抗する論理をいかに構築するかが「戦後レジーム」を奉じる人々の務めである。

問題は2)の対抗論理をどう構築するかです。必要なのは、むしろ代案であり、もうひとつの構造改革路線といってもいいように思います。
その内容は、「脱成長主義」であり、「経済・生活の質の充実」です。その意味するところは人間の成長にたとえるのが分かりよいように思います。

日本経済はすでに成熟経済で、人間でいえば50歳を過ぎた実年で、体重は80キロを超えています。
ここで経済成長にこだわるのは、体重を毎年さらに増やすことに専念することを意味します。なぜなら経済成長とは、経済の量的拡大でしかありませんから。経済成長、つまりGDPの増大は質の充実とは無関係です。ごみを大量生産すれば、経済成長率は上がります。それによって自然環境の汚染・破壊をすすめても、いいかえれば、経済・生活の質の劣化を招いても経済成長率は高まります。逆に言えば、経済成長をいたずらに追求することは、資源・環境の浪費・悪化を招いて経済・生活の質の劣化をもたらすのではないでしょうか。

50歳を過ぎた実年になって毎年体重を増やす必要があるでしょうか。早死にしたいのであれば、おすすめです。必要なことは人間としての質の充実、いいかえれば人格、人間力の充実だと思います。体重の増大ではありません。

新しい時代をつくることが困難な事業であることはいうまでもありません。それには日米合体の新自由主義路線を根本から批判するのが容易ではないという事情があります。しかしその路線を克服しない限り、話はきれいごとに終わるように思います。
K.Y. (URL) 2007/09/07 Fri 13:53 [ Edit ]
K.Y.様
丁寧にお読みいただいた上、適切なコメント有り難うございました。大変励みになります。
小泉・安倍政策への対抗論理構築に際して「脱成長主義」を強調されるのは良く理解できます。私が「戦後レジーム」を奉じる人々と表現したので、「戦後レジーム」の一要素としての経済成長重視を意識されたのかと思います。経済成長が資源浪費と環境破壊をもたらす現状、すなわち「成長の限界」が人類的課題になっている今日、経済は「量から質」への時代であるというお説に全く同感します。

「戦後レジーム」と意識的に書いたのは、それが「天皇主権から国民主権へ、軍事国家から平和国家へ」という劇的な方針転換をしたこと、かつそれが不完全ながら戦後日本の全体を支配してきたことを強調したかったからです。現政権の思想は、民主主義を支える基本的人権を抑圧し、対米従属と同義たる軍事国家への道を、「美しい国」という空疎な言葉で包み込むものです。今後もそれを書いていこうと思っています。忌憚のないご批判、ご意見をお願いいたします。

                半澤健市
半澤健市 (URL) 2007/09/08 Sat 11:24 [ Edit ]
「生きる」は芸人マルセ太郎の一人芝居でも観ました。印象的なシーンがいくつかあります。主人公のお通夜の席で住民の要望をタライ回しにしていた役所の連中が自分の手柄にして酒を飲み、翌日から再びタライ回しが始まるシーンもそうです。

同じことを繰り返すということでは、右肩上がりの経済底上げ路線を標榜している安倍政権も同じです。ハイリゲンダム・サミットの環境宣言らしきものを手柄にするあたりも良く似てますが・・・。

成長には何事においてもエネルギーを必要とし、それは使われやすいものから使われにくいものに変わってゆきます。環境問題しかりです。最近は社会を構成する人さえも変えてしまっているのではないかと恐ろしい気がします。

「生きる」の主人公は若き女性職員の主体的な生き方に触発されて残りの命を公園造成にかけ、人生の平衡感を得たようでした。
日本にとっての主体的な生き方とはどのようなものでしょうか。私は、アメリカと協調してなおも「富」に象徴されるような経済的な豊かさを追求することではないと考えています。日本をはじめ欧米経済大国と言われるところは、既に莫大なエネルギーを使って物質的な豊かさを得たのであり、その還元を国際的にも国内的にも上手くやるだけの話ではないかと思うのです。

「生きる」の主人公のように、日本が一念発起するかどうか、それは政治の力量です。その点で参院に注目しています。

BRICSと言われる国々に、経済成長の歪みや環境汚染で同じことを繰り返えさせない役割が経済成長以上に大切なことであり、日本の平衡感として求められているのだと思うのです。
山彦 (URL) 2007/09/08 Sat 21:08 [ Edit ]
山彦様

コメント有り難うございました。
マルセ太郎の『生きる』をご覧になったとのこと、相当の見巧
者とお見受けします。
我々の「物質的豊かさ」を「上手く還元する」のは同感ですが
途上国が「開発権」を主張するとき先進国はどう対応すべきか。
現実は容易ではありません。私の問題意識も基本的にその点に
かかわるものと自覚しているつもりです。
半澤健市 (URL) 2007/09/12 Wed 20:49 [ Edit ]
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