2007.10.02  予想を大幅に上回る参加者、       「教科書検定意見撤回を求める県民大会」
市来 哲雄 (フリーランスライター)

沖縄小景 (2)

 沖縄戦で起きた県民の「集団自決」について、駐留していた日本軍による強制性を示す記述に、〇六年度の高校の日本史教科書の検定で修正意見が付き、主語(日本軍)が削られるなどの書き換えが行われたことに抗議し、その撤回を求める県民大会が九月二十九日、沖縄本島中部の宜野湾市の宜野湾海浜公園で開催され、十一万人(主催者発表)の参加者があった――と新聞記事の前文のように書いても、この大会の雰囲気を伝えることはできないだろう。
 この大会は、八月になって期日が決まった。当初は九月二十三日に本島南部、糸満市の平和祈念公園での開催が伝えられた。これがしばらくして、おそらく会場規模や交通アクセスの問題から、二十九日・宜野湾海浜公園に変更された。その後も継続して、県内メディアでは関連する報道が多く流された。しかしながら、一九九五年十月に行われた「少女暴行事件」に抗議した大会(主催者発表で八万五千人)に比べると、「大会に参加しましょう!」的な広報は、手が回らなかったのか低調なまま推移していた。
 九月中旬になると、広報車が回ることもあったが、すぐに聞こえなくなった。主要道路の交差点に掲げられる横断幕を目にするようになったのが十日前くらいから。このころになると地域の医院の待合室にポスターが掲示されるなど、人の集まるところにはひととおり参加の呼びかけが目に付くようになった。それでも十二年前と比べると、私の周囲では事前広報による盛り上がり感は静かなものだった。



 主催者は五万人の参加を目標にしていると報じられていた。当然、「主催者発表」の五万人だから、実際の三万人強程度だとすると、なんとか達成されるだろうと私は考えていた。
 当日、私は家族で参加した。二歳児がいるので、その都合を考えるとバス利用は不安なので車で行くことにした。そうすると混雑が予想される→早めの出発が必要→昼食とその後の子どもの午睡の時間のためさらに余裕が必要、ということで、十一時半に出発した。大会は三時から。会場までは通常、渋滞がなければ四十分くらいなので、きわめて早い。地域ごとに割り当てられた駐車場にはすでに数十台の車。会場は車で三分ほど離れていて、臨時のシャトルバス(片道百円)で会場入りしたのが一時過ぎ。それから隣接するホテルでランチバイキング。待ち時間を含め一時間半をホテル最上階で過ごしたので、参加者の増え方がよく分かった(写真参照)。










 (写真上)は一時半過ぎ、(写真下)は三時。大会は三時からだが、歌や演奏などのアトラクションが二時から予定されていたので、(写真上)はいかにも少なすぎる(このころ短いスコールがあった)。(写真下)では私の目算で五万人超。おそらく一時以降、かなりの渋滞、混雑が会場周辺で発生していたはずだ。私が会場入りした三時以降も参加者はわき出してくるように増え続けた。(写真下)でも分かるように、海浜公園の周囲にも人は溢れ始めていた。仮に三時時点で五万人とすると大会が終了した五時前時点では、七、八万人が会場およびその周辺に集まっていたのではないか。



 こうした中、大会はプログラムどおりに進行した。県議会議長(大会実行委員長)、県知事、県教育委員会委員長、那覇市長(県市長会会長)、高校生、戦争体験者、子ども会代表、県青年団協議会会長の挨拶など、県内のあらゆる代表、団体が参加したこの大会の性格を示していた(報道によれば、県内の主な団体のうち組織として参加しなかったのは、経済団体に四つあった)。会場の雰囲気は雑然とした中にも落ち着きがあり、時折共感の拍手が会場全体から起こり大会の進行に一定の集中があることがよく分かる雰囲気だった。途中、迷子の案内が何回かあった。
 私が注目したのは、女性代表として挨拶した小渡ハル子さん(沖縄県婦人連合会会長)の発言に、「住民は集団自決したが、軍の中隊長などは生き残って名誉回復のための裁判をしているのは大いに疑問」(私が聞き取れたうちの大意)とあったことだ。これは、二〇〇五年八月に沖縄戦当時、慶良間諸島の座間味に駐屯していた戦隊長と渡嘉敷に駐屯していた戦隊長の遺族が沖縄戦について書いた作家の大江健三郎さんとその書籍を出版した岩波書店を相手に出版差し止めを大阪地裁に提訴し現在も審理が続く裁判のことを指す。
 この裁判が係争中であることが今回の教科書検定の修正意見の理由の一つと伝えられている。自治体なり国なりの権力に対し堂々と抗議することはあっても個人などあまり力を持たない対象を糾弾することのないウチナーンチュが、公の席である個人などを特定できる形で非難することはきわめて珍しい。今回の教科書検定に対する沖縄戦体験者の静かだがきわめて強い怒りを垣間見たように、私は感じた。
 主催者の目標を二倍以上上回る復帰後最大規模の参加者を集めたことは、この県民大会の特徴の筆頭に挙げなければならない。これは翌日の地元二紙が揃って一面と最終面を見開き扱いにして大きく写真を掲載したことにも現れている。しかし考えてみてほしい。九月下旬ながら連日三十度を超え、強烈な西日を浴びる時間帯に行われたこの大会に参加できる七十歳代以上の沖縄戦経験者は、多くはないはずなのだ。



 ウチナーンチュの私の妻には、沖縄戦を経験した身内が数人いるが、その誰もが参加していない。だが、大会や一連の報道には強い関心を持っている。直接聞いたわけではないが、妻にしてみれば、自分の意志とは別にこうした身内の思いを受けての参加でもあったろう。したがって、参加者数を考えるとき、主催者の予想を大きく上回った十一万人という数字ではあるが、その背後にはさらに多くの思いがあると捉えるべきだろう。
 地元紙で今回の検定報道があったのが、三月三十一日。半年間、沖縄ではこの問題が最大関心事であり続けている。六月九日にも三千五百人(主催者発表)規模の大会があった。同二十二日には検定意見撤回を求める意見書を県議会が全会一致で可決、同二十八日までに沖縄県全四十一市町村で同様の意見書が可決された。
 七月四日、副知事など県、県議会などが文科省に撤回を求めて上京したが伊吹文明大臣(当時)が面会せず、担当審議官が対応した。私はこのころから、県民の反発が本格的に始まったと思う。この大臣の「(教科書検定は)文科省の役人も、私も、安倍総理も口出しできない仕組みで行われている」(四月)などの人ごとのような発言は、沖縄ではすでに大きく報じられていた。ちょうど十二年前の少女暴行事件で、捜査に支障のある日米地位協定の改定要求が出始めたころ、河野洋平外務大臣(当時)の「議論が走りすぎている」発言が、沖縄での抗議行動に油を注ぐ結果になったことを思い出した県民も多かったはずだ。
 ところで大会終了後が大変だった。当然ながら、これだけの人が集まったわけだから、ことは簡単ではない。私の場合は、シャトルバスに待たされ、指定駐車場に着いたのが六時過ぎ。さらに駐車場から幹線道までが一時間。帰宅したのは八時ごろだった。途中、ラジオのニュースから仲井間県知事の感想として「これだけ短い時間でこれほど大勢の県民の集まりは見たことがない。ある種のマグマ、エネルギーが爆発寸前にあるのではないかと予感させるような大会だった」と流れるのを聞いた。疲労感の中、私も同様の印象を感じていた。子どもはチャイルドシートで寝入っていた。
 大会は大成功だったが目的は教科書検定修正意見の撤回だ。県民はじっと今後の展開を注視している。
Comment
管理人にだけ表示を許可する
 
TrackBack
教科書検定に抗議する沖縄の県民大会を心から支持いたします。昨年私たちが講演と朗読の会で取り上げた、東京新聞社会部編の「あの戦争を伝えたい」の[沖縄戦]の所を改めて読み返してみました。軍に手榴弾を渡されたり、投降を促す捕虜を虐殺したり、泣き声を立てる幼児を
老人党リアルグループ「護憲+」ブログ 2007/10/02 Tue 17:18
沖縄県民大会の実行委員会は、12万人以上としていた参加人数を、約11万人と発表訂
好き。 2007/10/28 Sun 17:33