2007.11.07
軍人大統領が第2のクーデター
伊藤力司 (ジャーナリスト)
反テロ戦争担うパキスタンの混迷
8年前クーデターで権力を握ったパキスタンのムシャラフ大統領兼国軍参謀長が11月3日、非常事態宣言を発して憲法を停止、事実上の戒厳令を敷いた。パキスタンと言えばアフガニスタンとの国境地帯にタリバンやアルカイダの根拠地を抱え、ブッシュ政権の率いる反テロ戦争の大切な同盟国である。その指導者が米国の嫌う反民主的な権力行使を行ったのだから問題だ。だがブッシュ政権としてはムシャラフ政権に軍事支援を続けざるを得ないだろう。
ムシャラフ大統領が非常手段を採ることは事前に予測されていた。大統領は10月6日の間接選挙(国会議員と州議会議員の投票)で圧倒的な得票を得たのだが、最高裁が参謀長と大統領を兼任している人物には大統領になる資格がないとの憲法判断を、11月上旬にも下すと予想されていた。だから非常大権を握ったムシャラフ大統領が最初に行ったことは最高裁のチョードリ長官の解任であった。非常手段で大統領の任期を継続することが狙いであり、第2のクーデターと呼ばれるゆえんである。
パキスタンという国は1947年、旧英領インドから分離独立したイスラム国である。インドの独立運動を指導したマハトマ・ガンジーは多民族・多宗教の国家としての統一インド独立を主張したが、全インド・イスラム教徒連盟の指導者でパキスタンの国父となったモハメド・ジンナーはイスラム教徒の国としての独立を成し遂げた。「清らかな国」を意味するパキスタンは今日イスラム教徒が人口の97%を占め、インドネシアに次ぐイスラム大国(人口1億6500万人)である。
独立当時、カシミール地方はイスラム教徒が住民の多数を占めながら藩王がヒンドゥー教徒だったためにインド領に編入された。同胞意識が極めて強いイスラム教徒としてカシミールの領有を強く主張したパキスタンは、インドと戦火を交えることになった。1948年と1985年の2回にわたるカシミールをめぐる印パ戦争でパキスタンはインドに勝てなかった。
このことがインドに対する強い敵対意識を育て、インドが核兵器を持つとパキスタンも無理に無理をかさねて核兵器を持つに至った。イスラム教を国是としているだけに、インドに対抗しようとするパキスタンの愛国運動は必然的にイスラム教への傾倒を招き、これがイスラム原理主義を育てることにつながった。イスラム過激派の運動はタリバン以前に、カシミール紛争からスタートしていたのである。
パキスタンの軍人は東のインドとの緊張を常に意識してきた。インドとまた開戦という事態を想定すると、西のアフガニスタンとは是が非でも友好関係を保たねばならない。パキスタンは独立以来ずっと、パキスタンに友好的なアフガン政府を望んできた。その一環として、パキスタンのイスラム神学校(マドラサ)で学んだ青年たちが組織したタリバンのアフガニスタン支配を助けたのが、パキスタン軍の統合情報部(ISI)だった。
パキスタンとアフガニスタンの国境線は19世紀に英領インドの植民地当局者が人為的に引いたもので、現在も国境の両側には形式的にはアフガン国籍とパキスタン国籍だが、同じパシュトゥン人が住んでいる。タリバンはパシュトゥン人の組織で、外部から見ればアフガニスタンの運動だが、内部的にはパキスタン国籍を持つパシュトゥン人がいてもおかしくない。こうした事情だから、パシュトゥン人の住むパキスタンの北西辺境州にはタリバンの根拠地があっても不思議はない。そしてタリバンがかくまうアルカイダもパシュトゥン人地域を事実上の聖域にすることができるというわけだ。
ブッシュ政権は2001年の「9・11事件」直後、タリバン征伐のアフガン戦争を始めたが、パキスタンの軍事的協力を得ることが死活的に重要だった。時のパキスタン指導者は1999年のクーデター、つまり非民主的手段で権力を奪ったムシャラフ将軍だったが、この際アメリカお得意の民主主義より将軍の協力を取り付けることが先決だった。しかしパキスタン軍情報部門がこれまで支援してきた、いわば味方のタリバンを敵に回すのだから、国軍参謀長のムシャラフ将軍としては身を切られるような思いをしたに違いない。しかし米国の援助がなければ経済的に立ち行かないパキスタンの指導者としては、米国にノーと言うことはできなかった。
こうしてムシャラフ将軍はパシュトゥン人からは裏切り者と見なされ、タリバンやアルカイダの根拠地への討伐作戦を命令する立場になった。この根拠地があると言われる北西辺境州のワジリスタン地区は英領植民地時代から部族地区(tribal area)という名で特別視され、事実上の治外法権が認められている。いわばパシュトゥン人の長老や部族長たちによる自治地域である。こうした特別な地域であり、かつては味方同士であっただけに国軍とパシュトゥン人部族の戦闘は実に複雑で奇々怪々だ。停戦協定が結ばれたり、捕虜交換が行われたりしたと思うと、激戦のニュースが続いたり。
いったんは敗退したタリバンが過去2年ほどの間、アフガニスタンで活発なゲリラ活動を強めている。一方パキスタンではイスラム過激派の自爆テロが頻発するようになった。今年7月、首都イスラマバードの中心部にあるイスラム原理主義者の拠点「赤いモスク」に若者たちが立てこもって政府とにらみ合い、最終的には軍のコマンド部隊が突入して多数の死傷者を出して世界を驚かせた事件の記憶も新しい。10月には帰国したブット元首相を歓迎するカラチのパレードが自爆テロに襲われ、139人もの死者を出した。
8年近く亡命生活を送っていたブット氏が帰国したのはブッシュ政権の筋書きだった。参謀長を辞任して軍服を脱いで再選されるムシャラフ大統領と、来年1月の総選挙で勝利が予想されるブット氏が首相に就任して、民政を復活させるというシナリオだった。ムシャラフ氏もブット氏との秘密折衝を重ねて、大統領に再選されれば参謀長を辞任する意向を漏らし、アメリカの筋書きは実現しそうに見えた。ところが最高裁は参謀長兼任のままで大統領選に出ること自体を違憲と判断しそうな雲行きになった。ムシャラフ氏にしてみれば、チョードリ最高裁長官の拠って立つ司法の独立が許せなかったと言う以外にない。
独立以来60年、その半分以上は軍政下にあったパキスタン。この60年間インドの政権交代は必ず選挙の結果として起こり、インド人が「世界最大の民主主義国」と誇るゆえんである。パキスタンの国家構造はそれだけ不安定、パキスタンを取り巻く国際環境はそれだけ厳しいと言えるだろう。ムシャラフ大統領は欧米からの批判、非難に対し、パキスタンでは「欧米流民主主義は身に合わぬ」と弁解した。大統領にしてみれば、権力の源泉である軍の指揮権を手放すことはできないのだろう。
ブッシュ大統領は非常事態宣言を批判し、来年1月の総選挙を予定通り実施、ムシャラフ氏が参謀長を辞任するよう訴えたが、制裁については何も述べなかった。ライス国務長官が米国の対パキスタン援助を見直すと発言したが、国防総省は軍事援助を続ける方針を明らかにした。2001年以降、パキスタンは米国から100億ドル超の援助を受けているが、これはイラク、イスラエルに次ぐ第3位の援助額である。米国が対テロ戦争の足場としてパキスタンをそれだけ重視していることを意味する。民主主義のリーダーたるアメリカも、ムシャラフ政権を見捨てることはできないようだ。
独立当時、カシミール地方はイスラム教徒が住民の多数を占めながら藩王がヒンドゥー教徒だったためにインド領に編入された。同胞意識が極めて強いイスラム教徒としてカシミールの領有を強く主張したパキスタンは、インドと戦火を交えることになった。1948年と1985年の2回にわたるカシミールをめぐる印パ戦争でパキスタンはインドに勝てなかった。
このことがインドに対する強い敵対意識を育て、インドが核兵器を持つとパキスタンも無理に無理をかさねて核兵器を持つに至った。イスラム教を国是としているだけに、インドに対抗しようとするパキスタンの愛国運動は必然的にイスラム教への傾倒を招き、これがイスラム原理主義を育てることにつながった。イスラム過激派の運動はタリバン以前に、カシミール紛争からスタートしていたのである。
パキスタンの軍人は東のインドとの緊張を常に意識してきた。インドとまた開戦という事態を想定すると、西のアフガニスタンとは是が非でも友好関係を保たねばならない。パキスタンは独立以来ずっと、パキスタンに友好的なアフガン政府を望んできた。その一環として、パキスタンのイスラム神学校(マドラサ)で学んだ青年たちが組織したタリバンのアフガニスタン支配を助けたのが、パキスタン軍の統合情報部(ISI)だった。
パキスタンとアフガニスタンの国境線は19世紀に英領インドの植民地当局者が人為的に引いたもので、現在も国境の両側には形式的にはアフガン国籍とパキスタン国籍だが、同じパシュトゥン人が住んでいる。タリバンはパシュトゥン人の組織で、外部から見ればアフガニスタンの運動だが、内部的にはパキスタン国籍を持つパシュトゥン人がいてもおかしくない。こうした事情だから、パシュトゥン人の住むパキスタンの北西辺境州にはタリバンの根拠地があっても不思議はない。そしてタリバンがかくまうアルカイダもパシュトゥン人地域を事実上の聖域にすることができるというわけだ。
ブッシュ政権は2001年の「9・11事件」直後、タリバン征伐のアフガン戦争を始めたが、パキスタンの軍事的協力を得ることが死活的に重要だった。時のパキスタン指導者は1999年のクーデター、つまり非民主的手段で権力を奪ったムシャラフ将軍だったが、この際アメリカお得意の民主主義より将軍の協力を取り付けることが先決だった。しかしパキスタン軍情報部門がこれまで支援してきた、いわば味方のタリバンを敵に回すのだから、国軍参謀長のムシャラフ将軍としては身を切られるような思いをしたに違いない。しかし米国の援助がなければ経済的に立ち行かないパキスタンの指導者としては、米国にノーと言うことはできなかった。
こうしてムシャラフ将軍はパシュトゥン人からは裏切り者と見なされ、タリバンやアルカイダの根拠地への討伐作戦を命令する立場になった。この根拠地があると言われる北西辺境州のワジリスタン地区は英領植民地時代から部族地区(tribal area)という名で特別視され、事実上の治外法権が認められている。いわばパシュトゥン人の長老や部族長たちによる自治地域である。こうした特別な地域であり、かつては味方同士であっただけに国軍とパシュトゥン人部族の戦闘は実に複雑で奇々怪々だ。停戦協定が結ばれたり、捕虜交換が行われたりしたと思うと、激戦のニュースが続いたり。
いったんは敗退したタリバンが過去2年ほどの間、アフガニスタンで活発なゲリラ活動を強めている。一方パキスタンではイスラム過激派の自爆テロが頻発するようになった。今年7月、首都イスラマバードの中心部にあるイスラム原理主義者の拠点「赤いモスク」に若者たちが立てこもって政府とにらみ合い、最終的には軍のコマンド部隊が突入して多数の死傷者を出して世界を驚かせた事件の記憶も新しい。10月には帰国したブット元首相を歓迎するカラチのパレードが自爆テロに襲われ、139人もの死者を出した。
8年近く亡命生活を送っていたブット氏が帰国したのはブッシュ政権の筋書きだった。参謀長を辞任して軍服を脱いで再選されるムシャラフ大統領と、来年1月の総選挙で勝利が予想されるブット氏が首相に就任して、民政を復活させるというシナリオだった。ムシャラフ氏もブット氏との秘密折衝を重ねて、大統領に再選されれば参謀長を辞任する意向を漏らし、アメリカの筋書きは実現しそうに見えた。ところが最高裁は参謀長兼任のままで大統領選に出ること自体を違憲と判断しそうな雲行きになった。ムシャラフ氏にしてみれば、チョードリ最高裁長官の拠って立つ司法の独立が許せなかったと言う以外にない。
独立以来60年、その半分以上は軍政下にあったパキスタン。この60年間インドの政権交代は必ず選挙の結果として起こり、インド人が「世界最大の民主主義国」と誇るゆえんである。パキスタンの国家構造はそれだけ不安定、パキスタンを取り巻く国際環境はそれだけ厳しいと言えるだろう。ムシャラフ大統領は欧米からの批判、非難に対し、パキスタンでは「欧米流民主主義は身に合わぬ」と弁解した。大統領にしてみれば、権力の源泉である軍の指揮権を手放すことはできないのだろう。
ブッシュ大統領は非常事態宣言を批判し、来年1月の総選挙を予定通り実施、ムシャラフ氏が参謀長を辞任するよう訴えたが、制裁については何も述べなかった。ライス国務長官が米国の対パキスタン援助を見直すと発言したが、国防総省は軍事援助を続ける方針を明らかにした。2001年以降、パキスタンは米国から100億ドル超の援助を受けているが、これはイラク、イスラエルに次ぐ第3位の援助額である。米国が対テロ戦争の足場としてパキスタンをそれだけ重視していることを意味する。民主主義のリーダーたるアメリカも、ムシャラフ政権を見捨てることはできないようだ。
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