もう一つの祖国の敵国・日本と向き合おうとした日中混血の女性

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〔書評〕高橋信也著『魔都上海に生きた女間諜 鄭蘋如の伝説1914―1940』(平凡社、¥860+税)

雨宮由希夫 (書評家)


 不幸な時代、日中のはざまで生きた女性として李香蘭、川島芳子が著名だが、鄭蘋如も彼女ら二人に勝るとも劣らない鮮烈なる生を二十世紀という時代に刻している。
 鄭蘋如の父、鄭鉞は、浙江省蘭渓の人で清朝末期の明治39年(1906)官費留学生として来日し、中国同盟会に入会した孫文以来の国民党の幹部である。蘋如は、このような中国人を父とし、茨城県真壁の出身の日本人、木村はな(鄭華君)を母とし、大正3年(1914)5月、東京牛込で生まれた。日本人でありながら中国人だと偽って女優活動を続けた李香蘭は、大正9年(1920)両親を日本人として、奉天郊外の北煙台に生まれている。
日清・日露から侵略戦争への道を歩むことになる時代状況下にあって、中国人を「支那人」と見下げた社会背景での国際結婚は、周囲から必ずしも全幅の祝福を得たものとは思えないが、鄭蘋如の両親の場合はどうであったのだろうか。
鄭蘋如の没年は昭和15年(1940)、わずか25歳の生涯だった。鄭蘋如は処刑されると知るや、銃口を前に「お願い! 顔だけは撃たないで」と叫んだと伝えられる。
この1940年の3月30日には、汪兆銘の政府が「国民政府」として南京に成立し、重慶と南京に二つの国民政府が並存することになる。映画『支那の夜』(伏水修監督、長谷川一夫・李香蘭主演)の大ヒットによって、李香蘭が一気にスターの座に駆け登ったのも、この年のことである。

著者の高橋信也(1951年、京都府生まれ)は蘋如が国民党の特務機関・中統=CC団のスパイとなったのは1937年の秋頃と見なしている。
翌年の昭和13年(1938)1月、「爾後、蔣介石政府を相手とせず」との第一次近衛声明が出されるが、この頃から5月頃まで蘋如は日本軍による「大上海放送局」に勤務しているという。著者は「この段階では、鄭蘋如はすでに『CC団』の運用メンバーに加盟していた」と断じている。
徹底した抗日を謳う蒋介石に対し、国民党ナンバー2で和平派の汪兆銘を取り込み、汪兆銘を首班として親日和平政権を擁立し、「撤兵」を条件に交渉を行なうとする汪兆銘擁立工作がスタートするのは3月である。
 10月には、李香蘭18歳が「日満親善女優使節」としてはじめて祖国日本の土を踏み、12月には、汪兆銘が重慶を脱出してハノイに至っている。
鄭蘋如が諜報員としての活動したのは約2年半ということになる。あまりにも短い活動期間であると共に、活動範囲が戦時下の上海という一都市に限られていることも特徴的である。
日本軍の占領下にあり、謀略が渦巻き、抗日テロ組織の巣窟と化していた「魔都」上海で、日本語能力や自らの美貌を武器に歴史的舞台への登場を宿命づけられた女性が鄭蘋如である。「168センチの見事な姿態、美貌と聡明さ、明るい性格、母親が日本人で日本語が巧み。日本軍の情報を摂取するのに、これ以上の逸材がいただろうか。彼女の存在が状況を呼び寄せたともいえる」と著者は書いている。

日中混血であることは、両刃の剣でもあった。本書にも登場する悲劇的な最期を遂げた台湾人映画監督・劉吶鷗のケースも同断である。植民地出身や日中混血であるために双方から利用される人々はまた双方から猜疑の目で見られる存在であった。日本国籍を持つがゆえに日本の国策映画会社とかかわりを持ち、暗殺された劉吶鷗は生前、鄭蘋如の窮状に同情している。

「鄭蘋如は中統の仕事に関わり始めて、それまで自分の存在を危くすることもあった混血という宿命を乗り越えられたという実感を持つようになっていったのではないか」と著者は蘋如の胸中を推し測っている。
鄭蘋如には「二つの歴史的ステージがある」とする著者は、「近衛文隆との交際が、若々しく健康な愉悦の時であったとすれば、丁黙邨との交際は、深く沈んだ不信と孤独のうちにある『陰』の時であった」とする。 

首相近衛文麿公爵の長男文隆23歳が東亜同文書院の若き学生主事として上海へ渡るのは昭和14年(1939)2月のことである。近衛文隆との交際については、「意図をもって近付いた鄭蘋如が、いつしか文隆を本気で愛するようになり、自分の身分を明らかにして、共に手をたずさえて重慶を訪れ、蔣介石と近衛文麿公間の連絡ルートを作って、日中和平を図ろうとした」。
「中統に加わることで内なる中国人としてのアイデンティティを確信した鄭蘋如は、近衛と出会うことで、近衛に象徴されるもう一つの祖国でもある敵国日本と自分の力で向き合おうとした」との著者の分析は当を得ている。

 もう一つの「歴史的ステージ」は昭和14年(1939)12月の丁黙邨暗殺未遂事件である。鄭蘋如は重慶政権のスパイとして、汪兆銘政権の要人で「ジェスフィールド76号」の中心人物・丁黙邨に接近し懐柔して、暗殺を期して誘導する役目を命じられていたが、暗殺に失敗する。「ジェスフィールド76号」とは重慶テロ組織「藍衣社」出身の中国人、丁黙邨、李士群の働きかけによって、日本軍が資金、武器を供与してスタートした抗日テロ弾圧組織である。
この事件で、鄭蘋如は暗殺未遂犯の一人であり重慶側のテロリストであることが明らかになったが、処刑されない可能性が高いと踏んだ彼女は逃げなかった。しかし、汪兆銘政権の要人の暗殺未遂は、南京国民政府樹立を目前とした汪兆銘政権と日本にとっては到底見すごすことのできない大事件であった。
蘋如の父鄭鉞に対して、「日本側から、和平派への参加に応じれば、蘋如を釈放するとの取引のはたらきかけがあったが、悩んだ末、やむなくこれを拒絶したという。この段階で、鄭蘋如の運命は決定した」。己れの決断次第で愛娘の生死が決まると知って苦悶する鄭鉞とその日本人妻華君の歎きはいかばかりであったろうか。

蒋介石との直接和平をめざした小野寺機関の和平工作や汪兆銘擁立計画などの史実を基に、鄭蘋如を取り巻く謀略戦の背景を明らかにした著者は、「周りの人間たちは、彼女の存在を評価できなかった。混沌の上海に、婉然と咲く大輪の花だった。愛国者として一貫した彼女の本質を把握することさえできなかった」としめくくっている。そしてまた、著者の筆は、蘋如を主人公として様々に脚色されたフィクションの形成過程を解き明かすことに費やされている。

読了して、「『愛国烈士』か、『重慶の白蛇』か、時代に翻弄された日中混血の女性の生。魔都にも重なる変幻自在なイメージ、その正体とは?」とある帯を含めた表紙を眺めると、様々なことが走馬灯のように浮かんでくる。
 鄭蘋如が大正4年(1915)の生まれのわが父より1歳年上だと知った。近衛師団司令部の歩兵として終戦を迎えた父は平成11年(1999)に84歳で他界しているが、本書を紐解いて、父の生年を思い浮かべるということ、これはまず大きな驚きであった。李香蘭の生年と母の生年、そして叔父である内村剛介の生年(~2009)が同じであることにも気がついた。

鄭蘋如の没年である昭和15年(1940)は「皇紀2600年」の年である。「皇紀」は『日本書紀』の紀年に基づき、神武天皇即位の年を元年と定めた紀元である。今年91歳、当時20歳の母には「皇紀2600年祝賀」の提灯行列の思い出がある。鄭蘋如の生涯は25年であったが、母と李香蘭、そして内村は25歳で終戦を迎えている。
シベリアに抑留された内村はソビエトのラーゲリで近衛文隆とある時期、同房であった。近衛文隆は不慮の死を遂げているが、文隆の棺を担いだ内村はソ連政府による他殺であったと語っている(陶山幾朗編『内村剛介ロングインタビュー』恵雅堂出版 2008年刊)。鄭蘋如のことを文隆は内村に語ることがあったろうか。あったとすれば、どのように語っていたのだろうか。内村に聞いておけばよかったと思うが今となっては詮方ない。

今年は戦後66年。青年として自身の汗と涙で戦中戦後を生き抜いた人は80代の後半から、90歳代となっている。戦争体験の生き証人たちは年を追うごとに激減していく。この厳粛なる自然の摂理に対してなすべき術はない。
丁寧な目配り、気配りのもと、当時を再現するかのように書かれた本書は戦争ものノンフィクションの、印象に残る貴重な一冊の本となった。

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