2007.11.27
アーニーさん、バーコードを考案した人
松野町夫(翻訳家)
バーコード (barcode)は、今ではもうすっかり定着した。知らない人はいない。スーパーなどで買い物をすると、ほとんどすべての商品にバーコードがつく。バーコードは、商品の種類や価格などの情報を白と黒の線(バー)で表示しているので人には読めないが、レジ係は情報をスキャナーで読み取りコンピュータ(POSシステム)に入力している。この特許はすでに失効しているので、誰でも手軽に利用でき、販売管理や在庫管理システムなどに広く活用されている。バーコードは情報化時代の必須アイテムだ。ところで、このバーコードを発明した人は?と質問すると、ご存知の方は少ない。答えは、アーニー・ナシムビーン (Ernie Nassimbene)。私の長年の友人である。
アーニーさんは、私の最も敬愛するアメリカ人。バーコードを最初に発案した。バーコード以外にも、15もの特許を当時すでに取得していた。物静かで理知的で人情味にあふれた、それでいてどこか少年のような茶目っ気のある人だ。1976年、私は、サンフランシスコのIBM本社で開催された小さな社内パーティにゲストとして招待された。アーニーさんの口利きだった。当時、彼はIBMのシニア・エンジニア。パーティの席で、私のことを「日本から来たスペシャル・フレンド」と全員に紹介してくれた。私は有頂天になった。今思うと、あのときが私の絶頂期だったのかもしれない。
出会いのきっかけは手品だった。アーニーさんも私も大の手品愛好家。1976年、国際奇術大会が東京の帝国ホテルで3日間開催された。PCAM (Pacific Coast Association of Magicians) 1976 Convention. 私は、共催者の日本奇術連盟の渉外幹事として、海外マジシャンとの出演交渉の窓口を勤めたが、アーーニーさんはこのときボランティアとして、アメリカ・カナダの交渉を担当した。これがきっかけだった。
大会は2年の準備期間を要した。契約交渉には駆け引きがつきものだが、私はまだ青二才。予算は限られていた。法外な要求やギャラには、たとえ一流のマジシャンといえども拒絶しなければならめ。私は悲壮な覚悟で交渉に臨んだ。正直にやれば、きっと相手もわかってくれる。Honesty is the best policy. というではないか。当時、インターネットやEメールはなく、交信はもっぱらエアメールだった。アーニーさんは、私のたどたどしい英文を的確に理解し、そのつど明晰な英文ですぐに回答してくれた。たまに、あつかましいお願いをしたこともあったが、いつも紳士的に対応していただいた。アーニーさんからの英文レターは20通を超え、そのわかりやすいシンプルな表現に私はいつも酔いしれ感心した。うーん、ネイティブの英語はやはり違う。これからは彼の英文をお手本にしよう。感嘆は尊敬に変化し、いつしか私は、「アーニーさんのようになりたい、彼のためならたとえ死んでもいい」と思うほどになっていた。英語の師がいつのまにか人生の師匠になっていた。二人の親交は、この2年間の準備期間で培われたと思う。
大会期間中、さまざまなイベントがホテルの施設を利用して行なわれた。テレビも連日放映した。アーニーさんは奥さんのアンドレアさんを伴って参加した。大会2日目に、アーニーさんは手品の実演講習会を開いた。彼はアマチュアではあったが、オリジナルの作品も数点あり、アメリカ流の演出がおもしろく、30人ほどの日本の奇術愛好家が出席した。私は無謀にも通訳をつとめた。おおやけな場での通訳など初めての経験ではあったが、師匠の話は不思議なことに、すらすらと難なく理解できた。
大会への参加以降、日本びいきになったアーニーさんは、たびたび仕事や観光で日本を訪れた。10数年前、私はアーニーさんを阿佐ヶ谷の自宅に招待しようと考えた。ただ、多少、気になることはある。広々とした景観や、散策できるほどに広い木立を持つ豪華なアーニーさんの住まいと違って、こちとらは中央線沿線のせまい賃貸アパート。景観などとはおよそ縁がない。窓から手を伸ばせば隣家に届くほど密集している。普通の人なら、まず他人は呼びたがらない。しかし、私には勝算があった。庶民の暮らしは新鮮な驚きがあるはず。それに、アーニーさんの家に以前、1週間滞在させてもらっているのに、お返ししないのは失礼にあたる。
綿密な招待計画を練る。事前に根回しを施してから、ある夏、週末の夕暮れ時の阿佐ヶ谷にアーニーさんを呼んだ。まずは、飲み屋街の狭い通りに面した赤提灯のやきとり屋に案内する。カウンターは、週末のサラリーマンでごったがえし活気に満ち溢れている。打合せ通り、店主が2人分の席を何とか開けてくれる。私たちは、ギューギュー詰めのカウンターの中央に陣取る。アーニーさんは少し当惑した様子。ビールを飲み、焼き豚を食べ、やがて、カウンターはいつのまにか外人のアーニーさんを中心に話がはずんできた。腹ごしらえのすんだところで、ころあいをみて、次に、今夜のメーンイベント会場であるいきつけのカラオケ・スナックに案内する。ママとお店の子がとびっきりの笑顔でアーニーさんを出迎えた。Hello, Earnie-san! It's nice to meet you. I've heard a lot of good things about you. と、ママが英語で挨拶する。英語仲間の友人も約束通り待っていてくれた。ここでもアーニーさんを中心に話がはずむ。アーニーさんがお得意のテーブル・マジックを披露する。驚きと感嘆の声が店内にあがる。おかえしに、ママがFall in Love を歌う。演歌党の私はスキヤキ・ソングを原語で歌う(坂本九の「上を向いて歩こう」を日本語で歌ったの意)。メーンイベントは大成功だった。スナックを出て、私たちは寿司を食べ自宅へと向かう。夜気が頬に心地よい。
自宅は「ノースプラザ」の202号室。それにしてもノースプラザとは、うまいネーミングだ。これだと、青い瓦葺き、白壁の木造2階建ての賃貸アパートは連想できない。実体との乖離がこれほどまでのものは、東京といえども、そうざらにはない。アーニーさんもさぞ恐れ入ったことだろう。
アパート入口には3つの赤いメールボックスが2段に並ぶ。全部で6所帯の小さなアパート。入口をぬけ薄暗い通路を一列で進む。私が先頭、アーニーさんは後からついてくる。狭くて並んではとても通行できない。通路の片側に隣家のブロック塀がすぐ近くに迫っているから。5メートルほど直進し、角を左に曲がり10メートルほど進むと、通路は大屋さんの部屋の玄関に突き当たる。その少し手前の左側に2階への階段がある。この階段は相当狭い。ここに着くまでに、狭い通路を通り抜け「狭さ」に多少慣れたところで、この狭さにはとてもかなわない。手すりはなく、階段は、両側ともモルタルの白壁でそのまま天井まで続く。しかも急勾配なので落下の不安と圧迫感がある。一般に、白壁は開放感を与えるというが、その理論はここでは通用しない。会社の同僚が一度、痛風で欠勤した私のお見舞いに来たことがあったが、公団住まいの、その彼女までもが「狭いのなんのって、あれは、まさに究極の階段ね」と驚いたほどだ。
究極の階段の前で、私たちは立ち止まる。
私: ここは急勾配なので、足下に気をつけてください。
アーニーさん: OK、ノープロブレム。
あれぇー、驚かないの?。もう少しオーバーなリアクションを期待していただけに、ちょっと拍子抜けした感じ。
202号室の玄関のドアを開ける。「さあ、ここですよ。どうぞ中へお入りください」と、私は靴を脱ぎ、急いで台所の照明をつける。「あ、アーニーさん、だめだめ、靴のまま上がって来ては…」。アーニーさんは素直に私の指示に従う。1DKの典型的なアパート。4.5畳ほどのダイニングルーム。ここも狭い。もともと狭いのに、台所の反対側の壁に机が2つ並び、パソコン、プリンター、電話、ファックスなどが置いてあるので、なおさら狭い。通り抜けるのがやっとだ。パソコンの左奥がユニットバスとトイレ。ダイニングルームのガラス戸を開けると、6畳の居間兼寝室、プラス押入。ここだけは伝統的な和室。これで全部。
居間の窓を開け外気を入れる。隣家の窓もすぐ目と鼻の先だ。下を見ると、隣地境界線沿いに細長いスペース (幅約1m、長さ約12m) が見える。両側には盆栽や鉢物がずらりと並ぶ。その一番奥には畳2枚ほどの広さの池がある。照明がついているので夜でも観賞用の錦鯉が数十匹、泳いでいるのがわかる。雨を避けるため、池の上部にはライトブラウンの半透明アクリル屋根が付けてある。この空間はすべて、大家の趣味のためのスペースである。私の説明にアーニーさんは、窓から身を乗り出しながら、ひとつひとつ興味深げにうなずく。
翌朝、朝食は近くの喫茶店に行く。店内は狭く混んでいた。コーヒーテーブルも狭く、2人分のモーニングセットを置くのに一苦労する。コーヒー、トースト、ゆで卵、野菜サラダがセットになった500円のモーニング・サービスにアーニーさんはとても感激したようだ。コーヒーは1000円するものと思っていたという。都心のホテルでは確かにそうだ。別れ際にアーニーさんがお礼を述べた。「ありがとう、マチ。楽しかった。貴重な体験をさせてもらった。日本人って空間利用の名人だね」。なるほど、狭いって、そういうことだったのか。
アーニーさんは現在、アール・ブイ (Recreational Vehicle、キャンピングカー) に乗って、アンドレアさんと一緒にアメリカ各地を旅行している。
大会は2年の準備期間を要した。契約交渉には駆け引きがつきものだが、私はまだ青二才。予算は限られていた。法外な要求やギャラには、たとえ一流のマジシャンといえども拒絶しなければならめ。私は悲壮な覚悟で交渉に臨んだ。正直にやれば、きっと相手もわかってくれる。Honesty is the best policy. というではないか。当時、インターネットやEメールはなく、交信はもっぱらエアメールだった。アーニーさんは、私のたどたどしい英文を的確に理解し、そのつど明晰な英文ですぐに回答してくれた。たまに、あつかましいお願いをしたこともあったが、いつも紳士的に対応していただいた。アーニーさんからの英文レターは20通を超え、そのわかりやすいシンプルな表現に私はいつも酔いしれ感心した。うーん、ネイティブの英語はやはり違う。これからは彼の英文をお手本にしよう。感嘆は尊敬に変化し、いつしか私は、「アーニーさんのようになりたい、彼のためならたとえ死んでもいい」と思うほどになっていた。英語の師がいつのまにか人生の師匠になっていた。二人の親交は、この2年間の準備期間で培われたと思う。
大会期間中、さまざまなイベントがホテルの施設を利用して行なわれた。テレビも連日放映した。アーニーさんは奥さんのアンドレアさんを伴って参加した。大会2日目に、アーニーさんは手品の実演講習会を開いた。彼はアマチュアではあったが、オリジナルの作品も数点あり、アメリカ流の演出がおもしろく、30人ほどの日本の奇術愛好家が出席した。私は無謀にも通訳をつとめた。おおやけな場での通訳など初めての経験ではあったが、師匠の話は不思議なことに、すらすらと難なく理解できた。
大会への参加以降、日本びいきになったアーニーさんは、たびたび仕事や観光で日本を訪れた。10数年前、私はアーニーさんを阿佐ヶ谷の自宅に招待しようと考えた。ただ、多少、気になることはある。広々とした景観や、散策できるほどに広い木立を持つ豪華なアーニーさんの住まいと違って、こちとらは中央線沿線のせまい賃貸アパート。景観などとはおよそ縁がない。窓から手を伸ばせば隣家に届くほど密集している。普通の人なら、まず他人は呼びたがらない。しかし、私には勝算があった。庶民の暮らしは新鮮な驚きがあるはず。それに、アーニーさんの家に以前、1週間滞在させてもらっているのに、お返ししないのは失礼にあたる。
綿密な招待計画を練る。事前に根回しを施してから、ある夏、週末の夕暮れ時の阿佐ヶ谷にアーニーさんを呼んだ。まずは、飲み屋街の狭い通りに面した赤提灯のやきとり屋に案内する。カウンターは、週末のサラリーマンでごったがえし活気に満ち溢れている。打合せ通り、店主が2人分の席を何とか開けてくれる。私たちは、ギューギュー詰めのカウンターの中央に陣取る。アーニーさんは少し当惑した様子。ビールを飲み、焼き豚を食べ、やがて、カウンターはいつのまにか外人のアーニーさんを中心に話がはずんできた。腹ごしらえのすんだところで、ころあいをみて、次に、今夜のメーンイベント会場であるいきつけのカラオケ・スナックに案内する。ママとお店の子がとびっきりの笑顔でアーニーさんを出迎えた。Hello, Earnie-san! It's nice to meet you. I've heard a lot of good things about you. と、ママが英語で挨拶する。英語仲間の友人も約束通り待っていてくれた。ここでもアーニーさんを中心に話がはずむ。アーニーさんがお得意のテーブル・マジックを披露する。驚きと感嘆の声が店内にあがる。おかえしに、ママがFall in Love を歌う。演歌党の私はスキヤキ・ソングを原語で歌う(坂本九の「上を向いて歩こう」を日本語で歌ったの意)。メーンイベントは大成功だった。スナックを出て、私たちは寿司を食べ自宅へと向かう。夜気が頬に心地よい。
自宅は「ノースプラザ」の202号室。それにしてもノースプラザとは、うまいネーミングだ。これだと、青い瓦葺き、白壁の木造2階建ての賃貸アパートは連想できない。実体との乖離がこれほどまでのものは、東京といえども、そうざらにはない。アーニーさんもさぞ恐れ入ったことだろう。
アパート入口には3つの赤いメールボックスが2段に並ぶ。全部で6所帯の小さなアパート。入口をぬけ薄暗い通路を一列で進む。私が先頭、アーニーさんは後からついてくる。狭くて並んではとても通行できない。通路の片側に隣家のブロック塀がすぐ近くに迫っているから。5メートルほど直進し、角を左に曲がり10メートルほど進むと、通路は大屋さんの部屋の玄関に突き当たる。その少し手前の左側に2階への階段がある。この階段は相当狭い。ここに着くまでに、狭い通路を通り抜け「狭さ」に多少慣れたところで、この狭さにはとてもかなわない。手すりはなく、階段は、両側ともモルタルの白壁でそのまま天井まで続く。しかも急勾配なので落下の不安と圧迫感がある。一般に、白壁は開放感を与えるというが、その理論はここでは通用しない。会社の同僚が一度、痛風で欠勤した私のお見舞いに来たことがあったが、公団住まいの、その彼女までもが「狭いのなんのって、あれは、まさに究極の階段ね」と驚いたほどだ。
究極の階段の前で、私たちは立ち止まる。
私: ここは急勾配なので、足下に気をつけてください。
アーニーさん: OK、ノープロブレム。
あれぇー、驚かないの?。もう少しオーバーなリアクションを期待していただけに、ちょっと拍子抜けした感じ。
202号室の玄関のドアを開ける。「さあ、ここですよ。どうぞ中へお入りください」と、私は靴を脱ぎ、急いで台所の照明をつける。「あ、アーニーさん、だめだめ、靴のまま上がって来ては…」。アーニーさんは素直に私の指示に従う。1DKの典型的なアパート。4.5畳ほどのダイニングルーム。ここも狭い。もともと狭いのに、台所の反対側の壁に机が2つ並び、パソコン、プリンター、電話、ファックスなどが置いてあるので、なおさら狭い。通り抜けるのがやっとだ。パソコンの左奥がユニットバスとトイレ。ダイニングルームのガラス戸を開けると、6畳の居間兼寝室、プラス押入。ここだけは伝統的な和室。これで全部。
居間の窓を開け外気を入れる。隣家の窓もすぐ目と鼻の先だ。下を見ると、隣地境界線沿いに細長いスペース (幅約1m、長さ約12m) が見える。両側には盆栽や鉢物がずらりと並ぶ。その一番奥には畳2枚ほどの広さの池がある。照明がついているので夜でも観賞用の錦鯉が数十匹、泳いでいるのがわかる。雨を避けるため、池の上部にはライトブラウンの半透明アクリル屋根が付けてある。この空間はすべて、大家の趣味のためのスペースである。私の説明にアーニーさんは、窓から身を乗り出しながら、ひとつひとつ興味深げにうなずく。
翌朝、朝食は近くの喫茶店に行く。店内は狭く混んでいた。コーヒーテーブルも狭く、2人分のモーニングセットを置くのに一苦労する。コーヒー、トースト、ゆで卵、野菜サラダがセットになった500円のモーニング・サービスにアーニーさんはとても感激したようだ。コーヒーは1000円するものと思っていたという。都心のホテルでは確かにそうだ。別れ際にアーニーさんがお礼を述べた。「ありがとう、マチ。楽しかった。貴重な体験をさせてもらった。日本人って空間利用の名人だね」。なるほど、狭いって、そういうことだったのか。
アーニーさんは現在、アール・ブイ (Recreational Vehicle、キャンピングカー) に乗って、アンドレアさんと一緒にアメリカ各地を旅行している。
Comment
今ではバーコードは当たり前のようだが、私は今日のいままで日本人が発明したものだと思っていた。初めてアメリカ人と知りました。最初は不思議でならなかった。バーコードが世に出てきたときは驚いたと同時に便利さに感謝した。お店の棚卸がこのバーコードによってほんとに助かったこと‥‥ アーニーさんの写真などがあれば見てみたいものですね。(津田)
津田 (URL)
2007/11/28 Wed 20:57 [ Edit ]
| Home |




