2007.12.01
中国の「革命」の意味を問う
―浅田次郎著『中原の虹 第四巻』(講談社)を読んで―
浅田次郎が『蒼穹の昴』に続く、近代中国の苦難の歴史を背景とした中国歴史小説『中原の虹』第一巻を刊行したのは2006年9月のことであった。全四巻構成の『中原の虹』が足掛け二年余の歳月を経て、このたび完結した。
年齢も育った環境も違いすぎる二人。
袁世凱 清の大官――。
張作霖 貧しき流民の子――。
人と人の交差を繰り返しながら、歴史は創られていく。二人の男のかすかな交差こそが時代の交差である。
雨宮由希夫 (書評家)
浅田次郎が『蒼穹の昴』に続く、近代中国の苦難の歴史を背景とした中国歴史小説『中原の虹』第一巻を刊行したのは2006年9月のことであった。全四巻構成の『中原の虹』が足掛け二年余の歳月を経て、このたび完結した。
年齢も育った環境も違いすぎる二人。
袁世凱 清の大官――。
張作霖 貧しき流民の子――。
人と人の交差を繰り返しながら、歴史は創られていく。二人の男のかすかな交差こそが時代の交差である。
浅田は張作霖が長城を越えたときをもって、この物語にひとまず幕を降ろしているが、歴史はこの後の張作霖の運命を、さらには日本の運命を、そして中国の運命をすでに照らし出している。そうしたことを熟知しているはずの著者による張作霖を主人公とした『中原の虹』の意図は何処にあるのか。それを理解するには、改めて本書の、〈時〉、〈人〉、〈場所〉の全体像を俯瞰しなければならない。
時代は清末民初。中国の主権が清国から中華民国へ、さらに中華帝国へとめまぐるしく交代し、国家財政の破綻した中国が半植民地化への道を突き進む時代が歴史背景である。
主なる<場所>は東三省(=満州)。かつて無法地帯であった関外の東三省は、すこぶる曖昧模糊たる時間の流れの中で、旧清国にも革命派にも帰属しない別世界の観を呈し、いまや中国国内のどこよりもまとまりのある国家のなかの国家といえた。
<人>は東三省の主権者である張作霖。その満洲を支配した者は生き残るために、中原を目指すほかなかったが、張作霖もその道をたどる。あの時代を描くのに作家が選び、時代の主人公として据えたその人は袁世凱でも、孫文でもなかったのである。
浅田次郎は流民の子から身を起こし、反社会的存在としての匪賊・馬賊の類から限りなく軍隊に近い存在となって、当時の満洲社会で台頭した張作霖を魅力ある人物として、描いているのである。中国5000年の理不尽と没法子が張作霖という一人の男に集約され、張作霖を怪物足らしめているが、張こそは聖者であるとまで言い、人物造形に力を入れている。
西太后の人物造形もとびぬけて特徴的である。
「いつか長城を越えて中原の覇者になろう」とする張作霖こそ、西太后の遺志を継ぎ、西太后のただ一つの夢をかなえる人物であるとして、この物語をつむいでいる。
西太后は、一般に、「避け得ない革命の到来を50年引き伸ばした」のようにいわれるが、西太后は悪女などではなく、西太后は亡国の鬼女となって、自身の力で崩れゆく清朝を支えようとしたのであって、滅ぶべき天下を支え続けたという自負が西太后にはあったとしている。
そもそも「革命」に対する浅田の歴史解釈もまた刺激的である。孫文は、「巷間噂されるほど、特段に優れた人物であるとは思えぬ」と登場人物の一人に吐かせている。
宣統3年(1911)10月の武昌蜂起に始まった中国の革命は、清朝の崩壊、中華民国の誕生をもたらすが、浅田は「辛亥革命そのものが暴挙」であるとする。「民国は革命こそ果たしたものの、旧王朝を倒し長きにわたる帝政を成算するだけの実力しか持たなかった。国は初めから破れ敗れていた」からであるとするのが、浅田の「革命」観である。
袁世凱の人物造形も独創的である。
西太后の死後、「袁世凱の復権が清国にとって唯一の選択」であることは清朝の誰もがわかっていることだった。どのような局面においても「裏切り者で、金と権力だけを望む天下一品の俗物」であるこの男しかいなかったとしているが、作家は袁世凱に重要な役割を演じさせている。光緒帝の夢、西太后の夢と、中原の虹を見んとする張作霖をつなぐ人物としての袁世凱である。1916年、袁世凱の中華帝国は即位と同じに瞬く間に終焉するが、それを見た張作霖は山海関の長城を越え北京を目指して行動を起こす。
まったくの架空の人物であるところの、西太后に仕えた大総管太監・李春雲と、張作霖麾下の李春雷の兄弟の再会も、袁世凱と張作霖の交差の別景色であり、歴史の闇に葬られた寸劇として観ることができる。
「真実はことごとく歴史の闇に葬られてゆく。ならばせめて、ありのままを見届けることがおのれの使命」であるとは、作中人物である万朝報の岡圭之助のつぶやきだが、それはこの物語をつむいだ作家浅田次郎の覚悟の言でもあろう。
物語を読み終わったとき、そこからさらに流れゆき、現在へと続き、さらに未来へと流れていく歴史について思いを新たにせずにはいかなかった。
張作霖が長城を越えようと行動を起こすラストシーンが、未来を暗示している。
あの時点で、没法子の国・中国の未来はまったく定まらない混沌のなかにあったが、中国のナショナリズムを見損なっていた日本は満蒙権益の擁護と拡大を日露戦争以来の国策として中国に介入していく。その日本に立ちはだかったのが張作霖であった。
『中原の虹』の続編が期待される。
『中原の虹』の続編の主人公は毛沢東あるいは周恩来か。人も、人の創る歴史も過去と現在の積み重ねの上に未来へと向うものである。孫文が投げ出し袁世凱がねじふせた「革命」の意味を問い、現代中国に至るまでを描かずして近代中国が完結したとは言えず、作家の筆が擱かれることはないだろう。(¥1600)
時代は清末民初。中国の主権が清国から中華民国へ、さらに中華帝国へとめまぐるしく交代し、国家財政の破綻した中国が半植民地化への道を突き進む時代が歴史背景である。
主なる<場所>は東三省(=満州)。かつて無法地帯であった関外の東三省は、すこぶる曖昧模糊たる時間の流れの中で、旧清国にも革命派にも帰属しない別世界の観を呈し、いまや中国国内のどこよりもまとまりのある国家のなかの国家といえた。
<人>は東三省の主権者である張作霖。その満洲を支配した者は生き残るために、中原を目指すほかなかったが、張作霖もその道をたどる。あの時代を描くのに作家が選び、時代の主人公として据えたその人は袁世凱でも、孫文でもなかったのである。
浅田次郎は流民の子から身を起こし、反社会的存在としての匪賊・馬賊の類から限りなく軍隊に近い存在となって、当時の満洲社会で台頭した張作霖を魅力ある人物として、描いているのである。中国5000年の理不尽と没法子が張作霖という一人の男に集約され、張作霖を怪物足らしめているが、張こそは聖者であるとまで言い、人物造形に力を入れている。
西太后の人物造形もとびぬけて特徴的である。
「いつか長城を越えて中原の覇者になろう」とする張作霖こそ、西太后の遺志を継ぎ、西太后のただ一つの夢をかなえる人物であるとして、この物語をつむいでいる。
西太后は、一般に、「避け得ない革命の到来を50年引き伸ばした」のようにいわれるが、西太后は悪女などではなく、西太后は亡国の鬼女となって、自身の力で崩れゆく清朝を支えようとしたのであって、滅ぶべき天下を支え続けたという自負が西太后にはあったとしている。
そもそも「革命」に対する浅田の歴史解釈もまた刺激的である。孫文は、「巷間噂されるほど、特段に優れた人物であるとは思えぬ」と登場人物の一人に吐かせている。
宣統3年(1911)10月の武昌蜂起に始まった中国の革命は、清朝の崩壊、中華民国の誕生をもたらすが、浅田は「辛亥革命そのものが暴挙」であるとする。「民国は革命こそ果たしたものの、旧王朝を倒し長きにわたる帝政を成算するだけの実力しか持たなかった。国は初めから破れ敗れていた」からであるとするのが、浅田の「革命」観である。
袁世凱の人物造形も独創的である。
西太后の死後、「袁世凱の復権が清国にとって唯一の選択」であることは清朝の誰もがわかっていることだった。どのような局面においても「裏切り者で、金と権力だけを望む天下一品の俗物」であるこの男しかいなかったとしているが、作家は袁世凱に重要な役割を演じさせている。光緒帝の夢、西太后の夢と、中原の虹を見んとする張作霖をつなぐ人物としての袁世凱である。1916年、袁世凱の中華帝国は即位と同じに瞬く間に終焉するが、それを見た張作霖は山海関の長城を越え北京を目指して行動を起こす。
まったくの架空の人物であるところの、西太后に仕えた大総管太監・李春雲と、張作霖麾下の李春雷の兄弟の再会も、袁世凱と張作霖の交差の別景色であり、歴史の闇に葬られた寸劇として観ることができる。
「真実はことごとく歴史の闇に葬られてゆく。ならばせめて、ありのままを見届けることがおのれの使命」であるとは、作中人物である万朝報の岡圭之助のつぶやきだが、それはこの物語をつむいだ作家浅田次郎の覚悟の言でもあろう。
物語を読み終わったとき、そこからさらに流れゆき、現在へと続き、さらに未来へと流れていく歴史について思いを新たにせずにはいかなかった。
張作霖が長城を越えようと行動を起こすラストシーンが、未来を暗示している。
あの時点で、没法子の国・中国の未来はまったく定まらない混沌のなかにあったが、中国のナショナリズムを見損なっていた日本は満蒙権益の擁護と拡大を日露戦争以来の国策として中国に介入していく。その日本に立ちはだかったのが張作霖であった。
『中原の虹』の続編が期待される。
『中原の虹』の続編の主人公は毛沢東あるいは周恩来か。人も、人の創る歴史も過去と現在の積み重ねの上に未来へと向うものである。孫文が投げ出し袁世凱がねじふせた「革命」の意味を問い、現代中国に至るまでを描かずして近代中国が完結したとは言えず、作家の筆が擱かれることはないだろう。(¥1600)
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