2007.12.17 去来したものは愛憎を超えた虚しさ
〔書評〕 諸田玲子著『おんな泉岳寺』(集英社文庫、¥440)

雨宮由希夫 (書評家)

 梅雨の晴れ間のある日の高輪泉岳寺、元赤穂藩主・浅野内匠頭長矩の後室・瑶泉院は亡き夫の墓に参る女がいることを知る。
 「素性もわからない一介の老女」が「由緒ある武家の奥方様のようなご老女」であり、ついには吉良上野介義央の未亡人富子であると知るにいたるこのショートストーリーの装置は秀抜である。
 元禄14年(1701)3月14日。赤穂藩主・浅野内匠頭が殿中において、吉良上野介義央に刃傷に及び、将軍綱吉の直裁により即日切腹を命じられる。大石内蔵助良雄ら赤穂浪士四十七士が亡君の仇・吉良上野介の邸に討入ったのは元禄15年(1702)12月14日のことであり、内蔵助以下四十六士が切腹し、泉岳寺に葬られたのは翌年2月のことであった。
 「世間を騒がせた大事件から、2年余の歳月が経っている」とあり、小説の舞台は元禄16年(1703)初夏である。
 赤穂事件の真実については、そもそも浅野内匠頭がなぜ刃傷に及んだかについてはさまざまな解釈があり、ついに不明のまま現在に至っているが、本書の解釈はユニークであり、なるほどと納得さられる。
 事件当時、浅野内匠頭は35歳で、いまだに嫡子がなかった。大名にとってこれにすぎる悩みはない。吉良義央がどこでどうその話題に触れたかわからないが、「子がないと家がつぶれる。倹約ばかり考えず、内情の豊かな家から子をもろうたらどうか」と義央が内匠頭に語ったことがあり、このことが事件を誘引したのではと作家はストーリー作りをしている。その時の夫の言い方・態度が横柄・傲慢に聞こえたのかもしれないが、「少なくともこのことに関しては、夫に悪意がなかった」と富子は思う――。
 このように、伏線として、吉良家の嫡子の問題が語られる。
 米沢藩30万石藩主上杉定勝の女である富子が、4千200石の旗本で高家衆の筆頭であった吉良上野介に嫁いだのは万治元年(1658)吉良上野介18歳、富子19歳であった。当時の女性としては晩婚であった。 
 寛文4年(1664)、兄の上杉綱勝が急死したため、上野介義央と富子の初子であり吉良家の嫡男である三之助(のちの綱憲)を養子として上杉家へ差し出した。御家断絶の危機に瀕した上杉家を救うためとはいえ、吉良夫妻にとっては苛酷なことであったろう。のちに、吉良家の跡取りとして上杉から貰い受けたのが義周である。義周は綱憲の次男であり、富子の孫に当たるが、貰い受けるまで吉良家は嫡子不在であったことになる。   
 義央が内匠頭に語りかけた背景にはかつて子がないばかりに廃絶の危機に瀕した義央自身の体験があった、と物語る本書の作家の筆は冴え渡る。
 雪の日の墓参――。
 武士なら手合わせの前に名を名乗り、仔細を詳らかにしたうえで勝負を挑むのが礼儀。ご自分だけ勝手に憤り、凶刃をふるい、あわただしく彼岸へ逃げ込むなど、人倫にもとる行為ではございますまいか。
 富子は雪塊を内匠頭の墓石に投げつけた。

 刃傷事件から1年。追い詰められ、見えない敵の影に怯える上野介は、「わしになにがあっても、恨むな。憎むな。吉良の女は、取り乱してはならぬ」と富子を諭すが、富子が手放しで泣いたのは討ち入り後、めぐりめぐって義周の身に災難が降りかかり、義周との別れを強いられる時であった。「もとはと言えば、この私のせいだ」と富子が義周にすがって赦しを請うシーンは感動的である。
 吉良家の当主・義周は父の首を奪われながら生きのびたのは見苦しいとされ、三河吉良荘の領地を召し上げられ、信州高島(長野県諏訪市)諏訪安芸守忠虎に御預けとなる幕府による厳しい処断を受けたのである。
 内匠頭の墓前。「夫の首が供えられたという墓」に参る富子。富子が見るに、真実をひた隠しにしようという頑固さが、内匠頭の墓石にはなおあったと作家は情景を描写し、富子に「そもそも……真実などあるものだろうか――」とつぶやかせている。
 浪士の切腹について、富子には何の感慨もなかった。
 「老夫の命一つを奪うのに、これほど多くのモノたちが命を奪い、家族を悲嘆の淵に突き落とす必要があったのか」
 あるのは虚しさのみであった。
 富子は、瑶泉院に招かれたと知ると、瑶泉院に逢うのを避け、歌を詠んだ巻紙を託して、泉岳寺を去っていく。
 巻紙には「人もをし 人もうらめし あぢきなく」とのみ書かれてあった。
 承久の変で隠岐に流された後鳥羽上皇の若き日の歌の上の句で、「世を思ふ故にもの思ふ身は」と続く、自らの胸のうちを代弁しているこの歌を読み、瑶泉院は瞬時にして、「素性もわからない一介の老女」そのひとが吉良富子であることを知り、「あのお方の思いも私の思いも、すでに過去のものにございます」と虚空を見やる。
 刃傷事件の直後の瑶泉院は「生きのびた上野介への憎悪をたぎらせていた」が、すべてがおわってみると、「残ったものは虚しさ。四十六士の命を散らせたことが、果たして夫の供養になったのか」と悟っている。
 2人の胸に去来するものは愛憎を超えた虚しさのみであった。「人もをし 人もうらめし」――あるときは愛おしくもあり、またあるときは恨めしくもあった瑶泉院と富子はついに名乗りあうことはなく、この物語は終わっている。
 世に<赤穂もの>の歴史小説は数限りなくあり、たとえば湯川裕光『瑶泉院』(新潮社 平成10年)など討ち入り事件を「おんな」の側から描いた作品もこれまでにもあったが、本書の如く、新しい視点と解釈で浅野家と吉良家の未亡人を対峙させ両人の愛憎こもごもの心の葛藤および事件を描いた作品はおそらく本邦初ではなかろうか。
 ものの本によれば、吉良富子は宝永元年(1704)8月に没している。享年62であった。本書との関連から言えば、富子は泉岳寺墓参からわずか1年しか在世しなかったことになる。富子が愛した吉良義周が御預け先の信州で没するのはその二年後である。義周、享年わずかに21歳。痛ましいことである。
 義周の死をみることなく、富子が逝去したことがせめてもの救いといえるであろうか。それにしても、なんと儚く虚しいことであろうか。
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