2012.09.11 続・「いじめ」と教師の力量
――八ヶ岳山麓から(43)―― 

阿部治平(もと高校教師)


大津市の「いじめ」被害中学生の自殺事件をきっかけに、「いじめ」問題がメディアにとりあげられ、それに関連して識者とか教育評論家がテレビに登場し、毎度おなじみの発言があった。大津市の教育長・校長などは非難報道の標的になったが、それはほとんど「いじめ」に近いものであった。

学校教育は巨大台風と同じで、数年おきに問題が起きる。起きても1ヵ月も過ぎれば忘れられる。その主な原因は巨大メディアにある。メディアは騒ぎ立てるだけで社会的責任をとる気がない。いつも記者や正義の味方づらする。ジャーナリズムが劣化している。行政当局もメディアに追随してひところの緊張を忘れる。テレビが取上げなくなると、直接の関係者の苦悩は続いても世間は関心を持たなくなる。

1970年代末、「荒れる中学」が社会問題となった。「荒れた中学生」は束になって私の勤務していた高校に入ってきた。非行は中学生にとどまらず、テレビ局記者が中学生にたばこを吸わせてその映像を流すという「メディアの非行」もうまれた。だが彼らによって痛烈な教師批判が行われた。我々教師には反批判をする手段がなかった。今回も当該中学教師の声を反映した報道はひとつもなかったように思う。

「いじめ」議論の中で、メディア関係者もわかっているくせに触れないのに家庭の収入問題がある。かつて「荒れる中学」は新興住宅地に集中的に起きた。そこにはローンに追われて子供をかえりみる暇もない家庭があった。おおまかには学力は家庭の安定した収入の程度にほぼ正比例するのである。
いま、どういう階層の子どもがいじめ、いじめられているか。例外は数多いと思うが、学力が中かそれ以下の児童生徒の間に「いじめ」が広がっているだろう。「いじめ」は「いじめ」対策だけでは少なくならない。「授業は面白く、学校では楽しく」なければならない。教科学習で落ちこぼれを少なくする重要性はここにある。

文科省・県教委は「いじめ」や暴力事件を抑えよといい、地域社会などは事件発生回数によって学校を評価する。したがって「わが校で起こったいじめ」の実態を校長も教師も明らかにするのを好まない。教師は学級での問題を同僚にすら内緒にしたがる。これに加えて問題解決を難しくしているものに携帯電話・インターネットによる「いじめ」がある。

直接「死ね」といったいやがらせメールを送るのはもちろん、かなりの人数がしめしあわせて特定の子どもを孤立化させる「シカト」は日常的に起きている。この「いじめ」では被害者が加害者に転化することもしばしばである。

「シカト」による精神的ショックは大人が考えるよりは深刻である。小中学校でこれに耐えた教え子の話だと「やはり自分を強く持つこと、それには親の励ましも必要だ」とのことであった。私は「ポケベル」時代の経験しかないが、教師がこれを防止あるいは事後指導することは非常に困難だと思う。教え子らに聞いても、ほとんどが携帯電話による嫌がらせや「シカト」はまずとめられないという意見であった。彼らも、携帯電話を持つもののモラルが向上しない限りこの種の「いじめ」は続くという。

だから携帯電話やインターネットを持たせる前にモラルについての教育が必要だが、学校だけでは到底できない。マスメディアや親もそれに参加しなければならない。それでも数年でまずまずというレベルにはなるまい。モラル向上には一世代かかる。
とりあえずは、携帯電話などによる執拗ないやがらせはストーカー行為規制法の対象すなわち刑事事件であるという認識を児童生徒に持たせること。被害にあったときすぐ学校に届け、学校はそれに対応する態勢が必要である。

「いじめ」は少なくはできるが、根絶できないというのが私の考えである。
では被害者はどうすればいいのか。あれこれ試みてもだめなら転校するか、それができなければ学校へ行かないで家で過ごすのがいい。家庭もそれを受入れるのがいい。
35年教師生活を送った私の結論は、学校は自分の命と取替えたり地獄の苦しみを耐えなければならないほど価値のある場ではない、ということだ。(2012・9・4)

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