2008.01.13 現代史の証人・高杉一郎さん逝く
岩垂 弘 (ジャーナリスト)

 「おい、高杉さんが亡くなったぞ」。1月9日午後11時過ぎ。朝日新聞での同僚だった白井久也氏(日露歴史研究センター代表)からの電話だった。私は、直ちに新聞社に電話し、その旨を伝えたが、電話をかけながら、私自身が「しまった。これで、現代史の証人ともいうべき人物にロングインタビューする機会を永遠に失ってしまった」という取り返しのつかない深い後悔の海に沈んでゆくのを感じていた。「高杉さん」とは、9日に99歳で亡くなった、作家であり、評論家であり、英文学者、翻訳家であった高杉一郎さんである。

 高杉さんは本名小川五郎。静岡県中伊豆町(現伊豆市)生まれ。東京文理科大学英文科を卒業後、1933年に改造社に入社し、雑誌『文藝』の編集者を務めた。1944年の改造社解散直後に召集され、中国東北部(旧満州)のハルビンで敗戦を迎える。しかし、旧ソ連により4年間、シベリアに抑留され、帰国後、その体験をつづった 『極光のかげに』がベストセラーとなる。その後、静岡大学教授、和光大学教授を歴任。
 その間、沢山の著作や翻訳書を著し、注目を浴びる。主著にシベリア抑留のことを書いた『スターリン体験』『シベリアに眠る日本人』、ロシアの盲目詩人エロシェンコの生涯を描いた『夜明け前の歌』、アメリカの女性ジャーナリスト、アグネス・スメドレーの生涯を描いた『大地の娘』などがあり、翻訳には『エロシェンコ全集』、スメドレーの『中国の歌ごえ』などがある。海外の児童文学の翻訳も多く、とくにフィリッパ・ピアス『トムは真夜中の庭で』、ルイス・キャロル『ふしぎの国のアリス』『鏡の国のアリス』は名訳とされる。

 私が初めて高杉さんにおめにかかったのは、46年前の1962年前のことだ。私はこの年、朝日新聞静岡支局に赴任したが、当時、静岡市教育委員会社会教育課が開いていた「婦人文学教室」が人気を集めていた。その講師の1人が当時、静岡大学教育学部にいた高杉さんだった。その取材を通じて高杉さんの知遇を得、自宅を訪ねる機会にも恵まれた。
 その後、私は東京勤務になったので、お目にかかる機会はなかった。久しぶりに再会させていただいたのは3年前の2005年3月13日のことだ。
 私もメンバーの1人である読書会に「版の会」というのがある。29年前に哲学者・古在由重(故人)をチューターに発足した読書会で、古在の死後も続いている。05年3月の例会のテキストは、高杉さんの『征きて還りし兵士の記憶』(岩波書店、1996年)だった。いわば高杉さんの自伝だが、この中に古在が出てくるということもあって取り上げたのだった。
 メンバーの中に静岡大学を卒業した女性が2人いた。そのうちの1人が言った。「在学中に高杉先生に会ったことがあるの。私は演劇部にいたが、先生はその顧問だったから。もう一度先生に会ってみたい」
 私もまた久しぶりにお目にかかりたいと思った。当時、私は日中戦争中に中国で前線の日本兵に向けて反戦放送をした日本女性、長谷川テルのことを調べていたが、高杉さんにテルのことを聞いてみたいという気持ちが高じていたからだ。高杉さんにテルに関する著作『中国の緑の星』や、テルの作品の翻訳『嵐の中のささやき』があったからである。
 
 女性の1人が電話して訪問したい旨を伝えると、「どうぞ」ということだったので、新宿で落ち合った私たち3人は、人名録にあった住所を頼りに高杉さんの住居を探し当てた。それは、渋谷区神宮前の高級マンションの5階だった。日当たりと見晴らしのよい広いワンブロックに高杉さんはひとりで住んでいた。いや、「2人で」といった方が正確だろう。住み込みのお手伝いさんに炊事、掃除、洗濯など身辺の世話をしてもらっていたからだ。居間兼書斎の棚には、2年前に亡くなったばかりという夫人の遺骨が置かれていた。
 高杉さんはこの時、96歳。私たちを快く居間兼書斎に招き入れ、私たちの来訪を喜んでくれた。私を覚えていてくださった。無精ひげをはやしていたことと、ゆっくりとした話しぶりと動作がいかにも高齢の人という印象を与えたが、がっしりとした体躯で記憶も明快だったから、とても100歳近い高齢者とは思えなかった。

 私たちの矢継ぎ早の質問に、嫌な顔もせず、応えてくれた。しばらく考えてからの受け答えもあったが。時間はあっという間に過ぎ、戸外は薄暗くなっていた。訪問時からすでに4時間近くがたっていた。
 高齢なのに長時間にわたって私たちの質問に答えてくれた高杉さん。おそらく、訪れる人も少ないから、私たちの訪問がうれしかったのだろうか。私には、だれにでも誠意をもって接する「誠実な人」だからではないか、と思えた。

 この時の高杉さんの話でとくに印象に残っているのは、やはり、シベリア抑留のころの体験。抑留からすでに60年になるのに、抑留者に対しては何ら補償がない、と高杉さんは憤った。
 次に印象に残ったのは、応召前に改造社で雑誌『文藝』の編集者をしていたころの話。そのころ、高杉さんが接した文学者の名前が何人も出てきたが、高杉さんが宮本百合子と中野重治を作品と人間性の両面で高く評価していることに強い印象を受けた。
と同時に、改造社時代のことに及んだ高杉さんの話で印象に残ったのは「横浜事件」にからむ言及だ。「横浜事件」とは、1942年、改造社が発行していた総合雑誌『改造』に掲載された論文が共産主義を宣伝し、ソ連を賛美するものとして治安維持法違反に問われ、改造社、中央公論社の編集者、朝日新聞社の記者ら約60人が神奈川県警特高課に逮捕された事件。拷問により獄死者も出た。有罪判決を受けた人や遺族は「まったくのでっち上げ」と主張し続けており、戦時下最大の言論弾圧事件とされている。
 高杉さんによれば、この事件により改造社は政府から解散を命じられ、高杉さんは職を失った。召集令状がきたのはその直後だ。
 さらに、日本共産党の最高幹部だった宮本顕治・元同党中央委議長に言及した話も私には興味深かった。高杉さんの奥さんの妹が宮本夫人という関係から、高杉さんは宮本氏と親戚づきあいがあったのだ。宮本氏が妻百合子の死後に百合子の秘書だった高杉夫人の妹と再婚した時、高杉さんも披露宴に招かれた。「その席で、二人の結婚を祝う歌をドイツ語で歌ったんだよ。こんなふうにね」。そう言って笑った高杉さんは、私たちを前に、その時のドイツ語の歌をひとしきり口ずさんだ。

 高杉さんの話に耳を傾けているうちに、私は思った。「日本兵のシベリア抑留といい、横浜事件といい、はたまた日本共産党の最高幹部の動静といい、今や、すべて世界史と日本史のひとこまではないか。そうだ、私の目の前にいる人は現代史の証人なんだ。ならば、その証言を聞いておかねば」。そこで、帰り際に「先生、日を改めてロングインタビューをさせていただけませんか」とお願いすると、高杉さんは「いやいや、それはダメだ」と応じなかった。

 私たち3人は翌年(06年)5月8日にも高杉さん宅を訪問した。この時、私は1977年のソ連取材の際に同行のカメラマンが撮影したシベリア・ブラーツクの初夏の風景写真を持参した。高杉さんがソ連に抑留されていた時、ブラーツクにもいたことがあったからだ。高杉さんは、その写真を手にとって懐かしそうに眺めた。
 この2回目の訪問でも、私はロングインタビューに応じてほしい、と粘った。が、ついにOKが出なかった。このころ、宮本氏はまだ健在だった。高杉さんとしては、宮本氏に関してはしゃべりたくなかった、あるいはしゃべりにくかったということであろうか。
 いずれ、暖かくなったら、三度お願いにゆかねばと思っていたところへ今度の訃報。かくして、ロングインタビューのチャンスは永遠に失われてしまった。かえすがえすも残念である。

◇告別式は1月26日午後1時から東京都港区南青山2丁目の東京都青山葬儀所で。喪主は長女の田中泰子さん。
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() 2008/02/05 Tue 13:30 [ Edit ]
初めまして。TBさせていただきました。
magnoria (URL) 2008/02/10 Sun 11:03 [ Edit ]
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2011/03/14 Mon 07:18