2008.01.14
ことば (Language)
(4) ことばと思考
ものを考えるとき、人はことばを使って考える。口に出さないときでも、無意識に心の中でことばを使用している場合が多い。極論すれば、ことばがなければ人は思考できない。日常生活で考え事をする際、私たちは通常、母語を使用して思考する。思考とは、母語を使用して自分と対話すること。ことばは、その集団(民族)特有の生活や社会、慣習、ものの見方を忠実に反映しているので、日本で生活する私たちにとって、日本語を使用してものを考えるのは理に適っているし、多くの場合、これで不都合はない。
日本語環境で育った私たちは、日本特有の生活や社会、慣習、ものの見方を子供のころからごく自然に受入れ、日本語はそれこそ骨の髄までしみこんでいる。私たちは日本語のネイティブ・スピーカーであり、日本語は私たちの母語(自然言語)である。
しかし自然言語は、思考するための言語としては不完全で限界があると私は考えている。ある民族のことばを使用するということは、その民族特有の生活や社会、慣習、ものの見方を強制されることでもある。ことばが思考を規制し、自由に考えることを妨害する。偏った見方を避け、ものごとをできるだけ普遍的に考えようと思っても、ことばそれ自身がアプリオリ(先天的)に、それ特有の色を思考に付加し、思考を自分の枠にはめようとする。ことばにはこうした面がある。
たとえば、英文科の日本の学生と年配の日本人教授の会話を想像してみよう。学生は、日本語よりも英語で対話するときの方が自分の考えをもっと率直にフレンドリーに教授に伝えることができるのではないだろうか。いや、今の日本の若者はアメリカナイズされているのでそんなことはない、とおっしゃるのであれば、絶対敬語を持ち儒教の影響がより強く残っている韓国の学生と家父長的な年配の韓国人教授の会話を想像してみよう。学生は、韓国語よりも英語で対話するときの方が自分の考えをもっと率直にフレンドリーに教授に伝えることができるのではないだろうか。日韓文化と英米文化の違いが対話にきっと反映されるはず。文化とは、民族特有の生活や社会、慣習、ものの見方であり、また、それによって生まれたもの。だから文化はことばに忠実に反映され、特有の色(雰囲気)を対話に付加する。
「先生」は一般的に言って日本語では敬称である。「先生」という敬称をいったん使用し始めると、自然に敬語を多用するようになり、「長幼の序」、「沈黙は金」、「言わぬが花」といった日本古来の伝統的な精神風土のなかに話し手、聞き手双方ともに無意識のうちに引きずり込まれてしまう。日本語の語法がそのように要請するのである。「長幼の序」は対等を拒み、「沈黙は金」や「言わぬが花」は主張を排除しようとする。こうして日本語での長幼間のフレンドリーな対話は、少し面倒なものとなる。
松野町夫 (翻訳家)
ものを考えるとき、人はことばを使って考える。口に出さないときでも、無意識に心の中でことばを使用している場合が多い。極論すれば、ことばがなければ人は思考できない。日常生活で考え事をする際、私たちは通常、母語を使用して思考する。思考とは、母語を使用して自分と対話すること。ことばは、その集団(民族)特有の生活や社会、慣習、ものの見方を忠実に反映しているので、日本で生活する私たちにとって、日本語を使用してものを考えるのは理に適っているし、多くの場合、これで不都合はない。
日本語環境で育った私たちは、日本特有の生活や社会、慣習、ものの見方を子供のころからごく自然に受入れ、日本語はそれこそ骨の髄までしみこんでいる。私たちは日本語のネイティブ・スピーカーであり、日本語は私たちの母語(自然言語)である。
しかし自然言語は、思考するための言語としては不完全で限界があると私は考えている。ある民族のことばを使用するということは、その民族特有の生活や社会、慣習、ものの見方を強制されることでもある。ことばが思考を規制し、自由に考えることを妨害する。偏った見方を避け、ものごとをできるだけ普遍的に考えようと思っても、ことばそれ自身がアプリオリ(先天的)に、それ特有の色を思考に付加し、思考を自分の枠にはめようとする。ことばにはこうした面がある。
たとえば、英文科の日本の学生と年配の日本人教授の会話を想像してみよう。学生は、日本語よりも英語で対話するときの方が自分の考えをもっと率直にフレンドリーに教授に伝えることができるのではないだろうか。いや、今の日本の若者はアメリカナイズされているのでそんなことはない、とおっしゃるのであれば、絶対敬語を持ち儒教の影響がより強く残っている韓国の学生と家父長的な年配の韓国人教授の会話を想像してみよう。学生は、韓国語よりも英語で対話するときの方が自分の考えをもっと率直にフレンドリーに教授に伝えることができるのではないだろうか。日韓文化と英米文化の違いが対話にきっと反映されるはず。文化とは、民族特有の生活や社会、慣習、ものの見方であり、また、それによって生まれたもの。だから文化はことばに忠実に反映され、特有の色(雰囲気)を対話に付加する。
「先生」は一般的に言って日本語では敬称である。「先生」という敬称をいったん使用し始めると、自然に敬語を多用するようになり、「長幼の序」、「沈黙は金」、「言わぬが花」といった日本古来の伝統的な精神風土のなかに話し手、聞き手双方ともに無意識のうちに引きずり込まれてしまう。日本語の語法がそのように要請するのである。「長幼の序」は対等を拒み、「沈黙は金」や「言わぬが花」は主張を排除しようとする。こうして日本語での長幼間のフレンドリーな対話は、少し面倒なものとなる。
長幼間のフレンドリーな対話では英語の方が適しているかもしれないが、それは決して英語が日本語より優れているということではない。民族語に優劣はない。英語にしろ、その他のどの言語にしろ、思考するための言語としては不完全で限界があるという事情に変わりはない。アメリカ人にとって米語(アメリカ語)は民族語である。米語は、アメリカ合衆国特有の生活や社会、慣習、ものの見方を話し手に強制しようとする。日本語の語法がそのように要請するのと同じように。普遍的に考えようと思っても、ことば自身が、特有の色を思考に付加し、思考を自分の枠にはめる。これは自然言語全般に言えること。
自然言語が思考言語としては不完全で限界があるとしても、ではそれに代わるものは何だ?と問われると返答に窮する。もちろん自分では、それは人工言語の一種だと確信しているのだが、私のような素人の独断と偏見に満ちた予測など説得力がないし、また、まだ開発途上でもあり、思想をも処理できるような総合的な人工言語の完成はまだずっと先の話だろうと思う。想定しているモデルは、数学、記号論理学、言語学、意味論、心理学、人間工学、価値観など科学的学問の各分野を統合した延長線上にあり、コンピュータのプログラミングの形式で提供できるもの、と信じている。
いずれにしても当面、思考する際は不完全で限界のある自然言語を使用しないわけにはいかない。偏った見方を避け、ものごとをできるだけ普遍的に考えるには、他人の意見に謙虚に耳を傾けるのがもちろん基本だと私も思うが、ここでは外国語が論理思考の検証の具 (tester) となりうること、外国語が論理的思考言語となりうるという点を指摘したい。
仕事がら、実務文書を和文英訳することが多い。日本語の文書を英語に翻訳する。依頼を受ける日本語の文書は、メール、報告書、新聞記事、カタログ、取扱説明書、仕様書、契約書など多岐にわたり、文章も各人各様であり、原文通り、文頭からすらすらと翻訳できるものもあれば、一度読み砕いて全体を英語の発想に変えてから翻訳しなければならないものまで実にさまざまだ。
文書の中には、当初、日本語の原文を読んだときには論理的に思え、どこにも欠陥の見えなかったものが、いざ翻訳する段になると、実際には相当に手間のかかるものだった、と後からわかるものがある。こういう文書に出くわしたときは、うれしい。こういうときは、無用な語句を省略し隠れた概念を補充するなどの処理をする。翻訳者の腕の見せ所。日本語の原文では見えなかったものが、英語という、日本語とはまったくかけ離れた構造を持つ外国語に置き換えることで、原文の「論理のほころび」や「日本での暗黙の前提」が初めて見えてくるのだ。英語が日本語の論理性のテスターとして働くのである。
たいていの日本人にとって、日本語は幼児期のころから慣れ親しんだ無意識的な言語であるが、英語は後から意識的に学習するものである。この場合、日本語は自然言語そのものだが、英語は人工言語的な側面を持つ。Japanese English は、私たちにとって人為的・後天的・意識的(=科学的)な人工言語としての側面を持つ。だからこそ、Japanese Englishが日本語の論理性・普遍性のテスターとして機能するのだ。外国語の意外な効用である。
自然言語が思考言語としては不完全で限界があるとしても、ではそれに代わるものは何だ?と問われると返答に窮する。もちろん自分では、それは人工言語の一種だと確信しているのだが、私のような素人の独断と偏見に満ちた予測など説得力がないし、また、まだ開発途上でもあり、思想をも処理できるような総合的な人工言語の完成はまだずっと先の話だろうと思う。想定しているモデルは、数学、記号論理学、言語学、意味論、心理学、人間工学、価値観など科学的学問の各分野を統合した延長線上にあり、コンピュータのプログラミングの形式で提供できるもの、と信じている。
いずれにしても当面、思考する際は不完全で限界のある自然言語を使用しないわけにはいかない。偏った見方を避け、ものごとをできるだけ普遍的に考えるには、他人の意見に謙虚に耳を傾けるのがもちろん基本だと私も思うが、ここでは外国語が論理思考の検証の具 (tester) となりうること、外国語が論理的思考言語となりうるという点を指摘したい。
仕事がら、実務文書を和文英訳することが多い。日本語の文書を英語に翻訳する。依頼を受ける日本語の文書は、メール、報告書、新聞記事、カタログ、取扱説明書、仕様書、契約書など多岐にわたり、文章も各人各様であり、原文通り、文頭からすらすらと翻訳できるものもあれば、一度読み砕いて全体を英語の発想に変えてから翻訳しなければならないものまで実にさまざまだ。
文書の中には、当初、日本語の原文を読んだときには論理的に思え、どこにも欠陥の見えなかったものが、いざ翻訳する段になると、実際には相当に手間のかかるものだった、と後からわかるものがある。こういう文書に出くわしたときは、うれしい。こういうときは、無用な語句を省略し隠れた概念を補充するなどの処理をする。翻訳者の腕の見せ所。日本語の原文では見えなかったものが、英語という、日本語とはまったくかけ離れた構造を持つ外国語に置き換えることで、原文の「論理のほころび」や「日本での暗黙の前提」が初めて見えてくるのだ。英語が日本語の論理性のテスターとして働くのである。
たいていの日本人にとって、日本語は幼児期のころから慣れ親しんだ無意識的な言語であるが、英語は後から意識的に学習するものである。この場合、日本語は自然言語そのものだが、英語は人工言語的な側面を持つ。Japanese English は、私たちにとって人為的・後天的・意識的(=科学的)な人工言語としての側面を持つ。だからこそ、Japanese Englishが日本語の論理性・普遍性のテスターとして機能するのだ。外国語の意外な効用である。
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