2008.01.15
牧野の戦いーー銃撃戦の果て
チベット高原の一隅にて (8)
10年ほど前、青海省の少数民族関係の仕事をしている友人に「放牧地の集団抗争をどのように措置するのか」と聞いたことがある。かれはしばらく考えてから「わが省では基本的に現行刑法によって解決しようとしている」といった。わたしはこの模範的な答を疑った。これが事実だとわかるまでには時間がかかった。
近代国家とすればきわめて特異のことだが、1970年代末までの30年間は中国には刑法がなかった。中国共産党の条例と高官の「ツルの一声」が法律であった。文化大革命が終わって「人治」から「法治」へが叫ばれたが、実定法がなければ「法治」はない。そこで大急ぎで刑法と刑事訴訟法をつくった。つくったからには法をチベット高原の集団抗争にも適用しなければならない。するとどうなるか、一例を見よう。
1988年、黄南蔵族自治州同仁県グァシツェ郷と循化県ガンチャ郷は境界の草山をめぐって何回も衝突し死者8人を出した。事件は司法当局の掌握するところとなり、グァシツェ郷のザシらをガンチャ郷のツァイラン殺しの犯人として逮捕起訴した。1989年12月、省高級人民法院(裁判所)は主犯ザシを死刑・執行猶予2年とし、従犯のものは無期徒刑2人、有期徒刑12年2人、刑事処分免除1人とした。民事については90年3月青海省政府が裁定文書を出した。
ところが双方の大衆はいずれも死刑などの判決と民亊裁定に対していきどおり、郷の幹部が権威ある転生ラマに再審査を依頼するよう県当局に迫った。同仁・循化両県はこれを認め、上級の黄南州と海東地区の政府も農牧民との対立を避けて両県の判断に追随した。ロザンフォダン(全国仏教協会理事・転生ラマ)とジャムヤン=ゲンドンチェツォ(黄南州人大常務委員会副主任・ロンウ寺転生ラマ)の両ラマは、地方政府の依頼にもとづいて、90年7月から22日間にわたって双方の代表から意見を聞き、次のような判断を下した。
刑事事件については、集団衝突以前にガンチャ郷のツァイランをグァシツェ郷の数人が殺したのは死刑に相当するかもしれないが、原因は放牧地抗争にある(ので刑は重過ぎる)。省高級法院に少数民族地域の草山抗争の特殊状況と関連法規にもとづいて再審理を行い被告人の刑を軽減することを要求する。
民事賠償については、集団抗争中に亡くなった循化県ガンチャ郷の5人、同仁県ガルツェ郷の死者2人に対して各死者の家族に生活費として1万元、葬式代として5千元を補償することとし、それぞれ相手側の負担とする。衝突まえに殺されたツァイランの家族に対してはグァシツェ郷が生活手当1万元と『カンギュル』(チベット大蔵経)を葬式代のかわりに差出す。さらに二人のラマは双方が奪いあった家畜や破壊した住宅、踏みにじったアブラナやハダカムギについても裁定をくだした。
阿部治平 (中国青海省在住、日本語教師)
10年ほど前、青海省の少数民族関係の仕事をしている友人に「放牧地の集団抗争をどのように措置するのか」と聞いたことがある。かれはしばらく考えてから「わが省では基本的に現行刑法によって解決しようとしている」といった。わたしはこの模範的な答を疑った。これが事実だとわかるまでには時間がかかった。
近代国家とすればきわめて特異のことだが、1970年代末までの30年間は中国には刑法がなかった。中国共産党の条例と高官の「ツルの一声」が法律であった。文化大革命が終わって「人治」から「法治」へが叫ばれたが、実定法がなければ「法治」はない。そこで大急ぎで刑法と刑事訴訟法をつくった。つくったからには法をチベット高原の集団抗争にも適用しなければならない。するとどうなるか、一例を見よう。
1988年、黄南蔵族自治州同仁県グァシツェ郷と循化県ガンチャ郷は境界の草山をめぐって何回も衝突し死者8人を出した。事件は司法当局の掌握するところとなり、グァシツェ郷のザシらをガンチャ郷のツァイラン殺しの犯人として逮捕起訴した。1989年12月、省高級人民法院(裁判所)は主犯ザシを死刑・執行猶予2年とし、従犯のものは無期徒刑2人、有期徒刑12年2人、刑事処分免除1人とした。民事については90年3月青海省政府が裁定文書を出した。
ところが双方の大衆はいずれも死刑などの判決と民亊裁定に対していきどおり、郷の幹部が権威ある転生ラマに再審査を依頼するよう県当局に迫った。同仁・循化両県はこれを認め、上級の黄南州と海東地区の政府も農牧民との対立を避けて両県の判断に追随した。ロザンフォダン(全国仏教協会理事・転生ラマ)とジャムヤン=ゲンドンチェツォ(黄南州人大常務委員会副主任・ロンウ寺転生ラマ)の両ラマは、地方政府の依頼にもとづいて、90年7月から22日間にわたって双方の代表から意見を聞き、次のような判断を下した。
刑事事件については、集団衝突以前にガンチャ郷のツァイランをグァシツェ郷の数人が殺したのは死刑に相当するかもしれないが、原因は放牧地抗争にある(ので刑は重過ぎる)。省高級法院に少数民族地域の草山抗争の特殊状況と関連法規にもとづいて再審理を行い被告人の刑を軽減することを要求する。
民事賠償については、集団抗争中に亡くなった循化県ガンチャ郷の5人、同仁県ガルツェ郷の死者2人に対して各死者の家族に生活費として1万元、葬式代として5千元を補償することとし、それぞれ相手側の負担とする。衝突まえに殺されたツァイランの家族に対してはグァシツェ郷が生活手当1万元と『カンギュル』(チベット大蔵経)を葬式代のかわりに差出す。さらに二人のラマは双方が奪いあった家畜や破壊した住宅、踏みにじったアブラナやハダカムギについても裁定をくだした。
裁判所は「基本的に」現行刑法を適用して、衝突以前の殺人に対する罪だけを裁いて、集団抗争時の7人の殺人については刑罰を適用しなかった。もともと集団抗争に罪刑をみとめない慣習に妥協したのである。ラマ二人は慣習法によって権威あるべき裁判所の判決のやり直しをもとめた。
これは20年も前のことだが、21世紀になっても状況はそう変わらない。わたしの友人のふるさとではここ数年にわたる衝突で14人もの死者を出した。双方の村人が逮捕され長期拘留されたものの、裁判はなかった。双方の集落はすべて権威あるラマの裁定に従って、相手側に何万元もの賠償金を差出した。
ところが、転生ラマなど調停者が合理的で公平であるかといえば、決してそうではない。河南蒙古族自治県(「河南蒙旗」)は周囲をチベット人集落に囲まれたモンゴルの民族島だが、その『県誌』によって行政区面積の変化をみると、1954〜57年は82.9万ヘクタールだったが、84年〜90年には70.0万ヘクタールに減少している。放牧可能な草地面積はこの期間に13万ヘクタール、20%近くも減少している。この変化は裁定のたびにモンゴル人地域から周辺チベット人地域に放牧地が割譲されたことをものがたる。裁定したのは多くはチベット人の高級ラマと、相対的に多数のチベット人が有力な地位を占める州や省行政・司法機関である。
にもかかわらず不公平があっても民衆はなお慣習法にこだわる。
1956年からの「民主改革」と58年の人民公社化以来20年間に中共はチベット人・モンゴル人村落共同体を徹底的に破壊した。農耕を強制し民族固有の衣服や住居を変え、信仰はもとより農牧両地域の物々交換まで禁止した。それが「革命」であり「進歩」だった。青海省では漢人の傲慢さは植民地時代の日本人が朝鮮人に対したように、チベット人にバスの席を譲らせるまでになり、少数民族は漢化するほか生きるすべがないと思われた。
ところが文化大革命が終わり締付けがゆるむと、假死状態の社会は息を吹返した。同一民族の社会変革では、新しい法律には変革の意志が書き込まれ、同時に一定の伝統と習慣も継承される。しかし、中共中央によって大急ぎで作られた新しい法体系はチベット人・モンゴル人の慣習や歴史とは何らの継承性はない。そこで新刑法体系は少数民族地域になかなか効力を及ぼせない。たちまち地下にあった慣習法は権力の空白を埋めるかたちでよみがえった。それは仏教とともに集落社会内外の秩序を維持する基準となって、こんにちまで社会秩序を保ったのである。これが民衆がラマと慣習法を尊重する理由である。
共同放牧地をめぐる集団抗争は関係者が多いうえに、州・県などの行政が当事者であることもある。しかも集団の混戦のなかでだれが何をやったか特定は難しい。死傷者が出ても民衆は司法当局から参加者を守ろうとしてかばいあい、確かな証言をしない。習慣に従って犠牲者の遺体を黄河などに流すから重要な証拠が消える。これだから、前記の裁判のように司法当局が首謀者なるものを逮捕しても、証拠・証言にもとづいて裁判らしい裁判をすることはとうていできない。やったとしても慣習法を横目でにらみながら刑を軽くするか無罪である。
司法当局は当然現行刑法体系と力量のある慣習法の相克に苦しむ。青海省もと検察長の張済民は、いますぐには現行刑法を適用できないことを前提に、放牧地の抗争で起きた殺人傷害事件は、事態終息後、宗教・民族問題を担当する「統一戦線部」が現地指導者・関係者を集めて調査処理するのがいい。そのとき打撃を与えるのはごく少数にとどめる。死刑と逮捕をできるだけ少なく寛大に(「両少一寛」)という精神でやるという。彼は一般論として教育を第一とし、刑法の適用範囲をやれるところからやり徐々に広げるという考えである。
ここに検察官が「事態が終息してから処理するのがよい」というのはわからない。なぜ予防策をとらないか。係争地に監視所などを置いて衝突を回避させることはできないのか。
農牧民の側を見ると、抗争が悲惨な結果を生んでいるのに戦闘意欲は衰えない。多額の戦費を使い事後の賠償金をはらって、小学校が維持できなくなるほど集落社会が貧しくなっても、放牧地を守るために命を賭して戦う。もちろんこれには生活がかかっているからだが、わたしはチベット高原の、とりわけ純牧地帯の尚武の気風によるとおもう。学生でも牧民出身のものはケンカに熱中し、ケンカに勝つのがえらいとおもっている。かつては鳥の羽毛を槍の先につけた騎馬が放牧地をまわれば誰もが武装して応召した。勇者は死して英雄であり、戦いでひるんだと判断されたものは女のきものを着せられた。
ところがこのごろの人の話によると、牧野の集団抗争は少しずつだが減る傾向にある。ケンカになって、檄を飛ばしてもおいそれと人数が集まらないことがある。ここには「ケンカは自分たちで勝手にやってくれ」という気分がある。以前は招集に応じなければ集落内で処罰できたけれどもいまそれも難しい。
用水路の修理など共同体の仕事が完全に消えたわけではないけれども、共同放牧地の分割によって季節移動やその他の作業で集落内の相互扶助の機会が少なくなり、家族中心の仕事となったこと。草原の砂漠化を防ぐために政府が放牧を制限するから、牧畜そのものがなくなった地方がでたこと(たとえば黄河最上流のマドゥの牧民は町の臨時住宅で5年間生活保護を受けながら、その間にべつな仕事をさがさなければならない)。
さらに市場経済が高原にも浸透して、密売の武器の値段、死傷者に対する賠償がはね上がったから、紛争のたびに生活が苦しくなる。以前とは違ってこれでは何のために戦ったかわからないという感情がすこしずつうまれている。
チベット高原でも寺参りは年寄りのものだけになり、たすけあいも隣同士のおしゃべりも減り、かわりに道路工事の出稼ぎに行ったり、道路際にテントを張って観光客用の茶店を出したり、もうけのおおい「冬虫夏草」を掘ったり、とにかくカネを稼ぐのを優先するようになった。こうなるといやおうなしに家族中心の生活になる。価値観はゆっくりとだが確実に変化している。
現行刑法体系は市場経済期のものである。たとえ集団抗争でも法にもとづけば個人の責任が問われる。それがいやなら集落対集落の銃撃戦はやめなければならない。いまや「基本的に現行刑法によって解決しようとすればできないことはない段階に入った」とわたしはおもう。
これは20年も前のことだが、21世紀になっても状況はそう変わらない。わたしの友人のふるさとではここ数年にわたる衝突で14人もの死者を出した。双方の村人が逮捕され長期拘留されたものの、裁判はなかった。双方の集落はすべて権威あるラマの裁定に従って、相手側に何万元もの賠償金を差出した。
ところが、転生ラマなど調停者が合理的で公平であるかといえば、決してそうではない。河南蒙古族自治県(「河南蒙旗」)は周囲をチベット人集落に囲まれたモンゴルの民族島だが、その『県誌』によって行政区面積の変化をみると、1954〜57年は82.9万ヘクタールだったが、84年〜90年には70.0万ヘクタールに減少している。放牧可能な草地面積はこの期間に13万ヘクタール、20%近くも減少している。この変化は裁定のたびにモンゴル人地域から周辺チベット人地域に放牧地が割譲されたことをものがたる。裁定したのは多くはチベット人の高級ラマと、相対的に多数のチベット人が有力な地位を占める州や省行政・司法機関である。
にもかかわらず不公平があっても民衆はなお慣習法にこだわる。
1956年からの「民主改革」と58年の人民公社化以来20年間に中共はチベット人・モンゴル人村落共同体を徹底的に破壊した。農耕を強制し民族固有の衣服や住居を変え、信仰はもとより農牧両地域の物々交換まで禁止した。それが「革命」であり「進歩」だった。青海省では漢人の傲慢さは植民地時代の日本人が朝鮮人に対したように、チベット人にバスの席を譲らせるまでになり、少数民族は漢化するほか生きるすべがないと思われた。
ところが文化大革命が終わり締付けがゆるむと、假死状態の社会は息を吹返した。同一民族の社会変革では、新しい法律には変革の意志が書き込まれ、同時に一定の伝統と習慣も継承される。しかし、中共中央によって大急ぎで作られた新しい法体系はチベット人・モンゴル人の慣習や歴史とは何らの継承性はない。そこで新刑法体系は少数民族地域になかなか効力を及ぼせない。たちまち地下にあった慣習法は権力の空白を埋めるかたちでよみがえった。それは仏教とともに集落社会内外の秩序を維持する基準となって、こんにちまで社会秩序を保ったのである。これが民衆がラマと慣習法を尊重する理由である。
共同放牧地をめぐる集団抗争は関係者が多いうえに、州・県などの行政が当事者であることもある。しかも集団の混戦のなかでだれが何をやったか特定は難しい。死傷者が出ても民衆は司法当局から参加者を守ろうとしてかばいあい、確かな証言をしない。習慣に従って犠牲者の遺体を黄河などに流すから重要な証拠が消える。これだから、前記の裁判のように司法当局が首謀者なるものを逮捕しても、証拠・証言にもとづいて裁判らしい裁判をすることはとうていできない。やったとしても慣習法を横目でにらみながら刑を軽くするか無罪である。
司法当局は当然現行刑法体系と力量のある慣習法の相克に苦しむ。青海省もと検察長の張済民は、いますぐには現行刑法を適用できないことを前提に、放牧地の抗争で起きた殺人傷害事件は、事態終息後、宗教・民族問題を担当する「統一戦線部」が現地指導者・関係者を集めて調査処理するのがいい。そのとき打撃を与えるのはごく少数にとどめる。死刑と逮捕をできるだけ少なく寛大に(「両少一寛」)という精神でやるという。彼は一般論として教育を第一とし、刑法の適用範囲をやれるところからやり徐々に広げるという考えである。
ここに検察官が「事態が終息してから処理するのがよい」というのはわからない。なぜ予防策をとらないか。係争地に監視所などを置いて衝突を回避させることはできないのか。
農牧民の側を見ると、抗争が悲惨な結果を生んでいるのに戦闘意欲は衰えない。多額の戦費を使い事後の賠償金をはらって、小学校が維持できなくなるほど集落社会が貧しくなっても、放牧地を守るために命を賭して戦う。もちろんこれには生活がかかっているからだが、わたしはチベット高原の、とりわけ純牧地帯の尚武の気風によるとおもう。学生でも牧民出身のものはケンカに熱中し、ケンカに勝つのがえらいとおもっている。かつては鳥の羽毛を槍の先につけた騎馬が放牧地をまわれば誰もが武装して応召した。勇者は死して英雄であり、戦いでひるんだと判断されたものは女のきものを着せられた。
ところがこのごろの人の話によると、牧野の集団抗争は少しずつだが減る傾向にある。ケンカになって、檄を飛ばしてもおいそれと人数が集まらないことがある。ここには「ケンカは自分たちで勝手にやってくれ」という気分がある。以前は招集に応じなければ集落内で処罰できたけれどもいまそれも難しい。
用水路の修理など共同体の仕事が完全に消えたわけではないけれども、共同放牧地の分割によって季節移動やその他の作業で集落内の相互扶助の機会が少なくなり、家族中心の仕事となったこと。草原の砂漠化を防ぐために政府が放牧を制限するから、牧畜そのものがなくなった地方がでたこと(たとえば黄河最上流のマドゥの牧民は町の臨時住宅で5年間生活保護を受けながら、その間にべつな仕事をさがさなければならない)。
さらに市場経済が高原にも浸透して、密売の武器の値段、死傷者に対する賠償がはね上がったから、紛争のたびに生活が苦しくなる。以前とは違ってこれでは何のために戦ったかわからないという感情がすこしずつうまれている。
チベット高原でも寺参りは年寄りのものだけになり、たすけあいも隣同士のおしゃべりも減り、かわりに道路工事の出稼ぎに行ったり、道路際にテントを張って観光客用の茶店を出したり、もうけのおおい「冬虫夏草」を掘ったり、とにかくカネを稼ぐのを優先するようになった。こうなるといやおうなしに家族中心の生活になる。価値観はゆっくりとだが確実に変化している。
現行刑法体系は市場経済期のものである。たとえ集団抗争でも法にもとづけば個人の責任が問われる。それがいやなら集落対集落の銃撃戦はやめなければならない。いまや「基本的に現行刑法によって解決しようとすればできないことはない段階に入った」とわたしはおもう。
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