2008.01.18 松下先生
松野町夫(翻訳家)

私の高校時代の恩師、松下先生のお話。私の浮草人生で45年という最も長期にわたる親交関係のある人、その分、私の人生に最も影響を与えた人。人生の節目節目では再会して親交を深めたりしたが、たいていは、英語を使用して文通したり電話したりした。メールではお互いをファースト・ネームで、Haru, Machio と呼び合う。今も続く先生との親交は私の自慢の種である。

私の母校、鹿児島県立高山高等学校は、松下春義(はるよし)先生が鹿児島大学を卒業して最初に赴任された高校である。松下先生は英語の先生で卓球部の顧問。ただし私の英語のクラスは、別の先生が担当されていたので、直接、授業で教えてもらったことは一度もない。先輩たちから「手品をしながら英語の授業をする変わった先生がいる」とよく聞いていたので、当初から強い関心は抱いていた。松下先生は俳優の待田京介(まちだ きょうすけ)に似ていたので、待田京介主演の『月曜日の男(TBS)』の持等院丈太郎(通称J.J)をもじって、先輩たちは先生を「ジェイ・ジェイ」というニックネームで呼んでいた。

高校1年生の初夏の放課後のこと。先輩から「ジェイ・ジェイがお前を呼んでるぞ」と聞いて、はて何の用件だろうと不審に思いながら急いで職員室に行く。職員室は教室をふたつ合わせたほどの広さで、入口に近い左側が先生の席だった。机の上やその周りには、分厚い辞典や雑誌・洋書などが山積みになって先生の席を取り囲んでいる。「そうですか、君が松野君ですか、松下です。よろしく」。先生と間近に対面したのはこのときが初めてである。「あのー、何か用事でしょうか」と、私は落ち着かない。「まあ、お掛けなさい」。私は近くの椅子に座る。「君は催眠術をやるそうだね」と先生が訊く。やばい、ちょうど前日、担任の岩切先生に催眠術のことで叱られたばかりだった。
催眠術は、小学6年生から始めたので、このときすでに3年ほどの実技経験もあり、かなりの腕前だとうぬぼれていた。当初、仲のよい同級生だけに催眠術をかけていたのだが、いつしか校内でうわさが広まり、三年生の番長までもが「俺にもかけてくれ」と言い出す始末。断ったら脅され仕方なく番長の家まで出向いて実演したこともあった。図に乗って、ついこの3日ほど前に、同じ高校の家政科の女子高生数人を集めて、校内の女子寮の近くで催眠術の野外実演をしていたら、いつのまにか人だかりの山。柔道部や剣道部の部員たちも稽古着のまま、見に来ている。観客の中に、あろうことか先生たちまでもがいる…。万事休す。「ええい、ままよ」とやけっぱちな気分になり、なかば狂乱状態でそのまま演技を続行したら、野外実演は望外の大成功を収めた。しかし案の定、翌朝、職員会議にかけられて私は厳重叱責される破目になった。校内での催眠術は今後二度とまかりならん、と。

「はい、催眠術の件で岩切先生にも昨日叱られました」と私が神妙に答えると、松下先生は「手品もやるんだって?」と質問を続ける。手品をしてから催眠術に入ると相乗効果が働くので、その組み合わせで実演する場合が多かった。「ぼくも手品が好きでねぇ。君の得意な手品は何ですか?」と、先生は意外な方向に話を進める。会話は、先生と生徒の関係を離れて、手品愛好家同士の談話へと推移する。先輩の言うとおり、ちょっと風変わりな先生だ。

先生は、どこからか赤い木製の玉を1個取り出し、右手の親指と人指し指の間に挟んで示してから、私のすぐ目の前で、一瞬にしてそれを2個に増やし、増えた分を右手の人指し指と中指に挟んで示した。次に、その2個の赤い玉が一瞬にして1個となり、消失したはずの1個が今度は左手から出現。これには本当に驚いた。その後、玉は次々と増え続け、最後に4個となった。これは、ビリヤード・ボールを用いた有名な「シカゴの四ッ玉」の手品だが、当時の私には衝撃だった。それから、「シンブル(指ぬき)」や「色の変わるハンカチ」など先生は次々に実演した。すごい、うまいな、自然な動きだ、すぐ目の前で見ているのに、タネをまったく意識させない!

その日、意気投合した二人は並んで校門を出た。夕食は先生のおごりで町のラーメン屋に行く。ラーメンが来るまでの間、先生は小脇に抱えていた風呂敷包みをテーブルに置き風呂敷をほどいて、中から分厚い英英辞書を取り出し、静かに自分の真正面にセットした。ブツブツと何か単語をつぶやきながら、背筋をピンと伸ばして真剣な表情でピアニストのような華奢な白い指でパラパラとページをめくる。指の腹を使って各ページの上縁あるいは下縁を持ち上げてめくる。決して、なめた指でページを挟むようなことはしない。なるほど、先生のやりかただとページにしわや手垢がつくことはない。このときのしぐさに相当感銘を受けたのか、今でも時々この場面を思い出すことがある。聖職者が聖書に接するとき、あるいは武士が日本刀に接するときの所作を連想させた。そうか、辞書って神聖なものなんだ。その日に食べた、こってり風味の乳白色の豚骨スープの鹿児島ラーメンは、これまでに食したどの料理よりも強く印象に残っている。

この日を境に私たちはすっかり親しくなった。先生のアパートで夜遅くまで文明や人生を、時には恋愛を論じた。先生の日課であるラジオ短波放送の VOA (Voice of America) も、雑音が入るので受信状態はあまりよくなかったが、一緒に聞いた。気が向くと、かたことの英語ながら会話も楽しんだ。討論は明け方近くまで続くこともあり、そんなときは、そのまま泊めてもらい、翌朝、並んで登校した。もちろん当時の私に先生に対抗できるほどの経験や見識があったわけではなく、私は、ただ必死になって感情的に反応したことが多かったような気がする。先生はたまに、8歳も年下の私に、赤裸々な心情を吐露することもあった。教え子のA子さんは実に理知的でしかも魅力がある、彼女が微笑むと体中に電気が走り息苦しくなるとか、また、あるときは、このところおかしい、女生徒を見ても感動しなくなった、なぜだろう、君はどう思うか、などなど。一度、先生を家に招待し家族を紹介したことがある。先生は私の兄と同年齢だった。翌朝、朝食後先生が帰った後で、兄は私に「松下先生って、少年のように純粋な人なんだね」と印象を述べた。妙に可笑しかった。やっぱり、兄さんもそう思うんだ。

松下先生は卓球部の顧問だった。放課後、私はたまに卓球部の練習をのぞいた。卓球部員のなかには、先輩部員に混ざって同級生のT君、H君、S君などもいた。私は特に、T君の優美なフォームにいつも魅力を感じていた。彼は小学生の頃から卓球クラブに通い、数々の地元のタイトルを手にしている有力選手だ。練習は、試合形式で行なわれることもあり、松下先生も部員たちと一緒に試合に参加した。そして私は驚いた。そこで見る先生は、私の慣れ親しんだ先生ではなく、まったくの別人なのだ。いつもの、あのひょうひょうとした、他人の思惑や評価などにはまったく無頓着で、ただ自分の信ずるところを淡々と歩く求道者、あるいは好きな学問に没頭する学究肌の姿は微塵もない。そこにあるのは、真剣勝負に挑んでいる勝負師の顔。相手を鋭く見据え、きびきびした動作で敵の弱みを巧みにつき、勝負どころでは急所に思い切り速球を叩きこむ迫力の剣士。優美なフォームなどとはおよそ無縁の、戦闘的・実戦的な流儀だ。無駄な動きは一切ない。強い。美しいとか、かっこいいのではない。ただ、強いのだ。実際、部員の中で彼を打ち負かせる者は誰一人いない。T君も先生と対戦すると哀れにさえ見える。優美なフォームが戦闘では「甘さ」に思えるほどだ。T君はたぶん一度も先生に勝てなかったと思う。

卓球はフォームから入った方が上達が早いと、よく聞く。我流とも思える超実戦的な先生の型をどう評価してよいのか。先生の中に宿る2つの顔、ひょうひょうとして内向的で傷つきやすい純粋な少年の顔と、戦闘的で冷徹な勝負師の顔。当初、この二面性に異様な違和感を感じ、なかなかなじめなかった。どちらが本当の先生なんだろう?高校1年生の頭ではそれを事実として素直に受け入れることができずにいたが、そのうちに慣れてきた。人はさまざま、十人十色。英語のことわざにもあるじゃないか、So many men, so many minds. と。

高校の文化祭は、体育館が会場だった。松下先生はステージに上がって、黒の緞帳(どんちょう)を背景に手品を実演した。シカゴの四ッ玉、シンブル(指ぬき)、色の変わるハンカチ、ロープの復元、小さくなるトランプ、そして「とり」はチャイナ・リング。直径30 cm ほどのチャイナ・リングを自在にはめたり外したりしながら、最後に、W 型に組み合わせて、オリンピックのシンボルマークの五輪 (Olympic Rings) を作って完了した。心憎いまでにしゃれた演出!すべてがプロ級の腕前だった。それもそのはず、学生時代からプロのマジシャンと交流があり、たまにプロの代役を務めたこともあるぐらいだから。会場は、学生たちの驚きと歓声とアンコールで盛り上がる。私もすっかり魅了された。いつか、自分もプロのマジシャンになりたいと思うほどに。

それから10数年後に、松下先生は教え子の一人と結婚、今から8年ほど前に高校教師を定年退職された。退職後、半年ほどオーストラリアに滞在しボランティアの日本語教師を経て帰国。現在、奥さんが長年運営してきた、自宅の一室を教室に改築した進学塾で、奥さんのサブとして、30人以上の塾生に英語を教えているとのこと。もちろん今でも、手品や卓球の腕前は衰えを見せず、こちらもゆうゆうたる現役である。
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