2008.01.20
原水禁のリーダー相次いで逝く
関口和氏と池山重朗氏
わが国の原水爆禁止運動における二大勢力の一つ、原水爆禁止日本国民会議(原水禁=旧総評系)のリーダーだった二人が相次いで亡くなった。事務局長だった関口和氏(七九歳)と、事務局次長だった池山重朗氏(七六歳)。私が両氏に接したのはもっぱら新聞記者としての立場からだったが、両氏が原水爆禁止運動に残した足跡はまことに大きく、改めて敬意を表したい。
一月十七日、寒風が吹きすさぶ東京都昭島市の龍田寺で、関口氏の葬儀があった。同十三日に死去。参列者には旧国鉄の退職者が目立った。焼香台のわきには、生花を寄せた団体として原水禁のほか、国鉄労働組合、鉄道退職者の会全国連合会、社民党全国連合、第五福竜丸平和協会、在日本朝鮮人総連合会などの名前が掲示されていた。
関口氏は北海道函館市の生まれ。幼いころ、父と死別し、母と一緒に昭島市に移ってきた。戦時下だったから、陸軍少年航空兵に志願し、訓練を受けたのち青森に配属されたが、まもなく敗戦を迎えた。
昭島市に帰ると、旧国鉄に就職し、電気機関車の運転士となった。立川機関区に所属し、主に貨物列車の運転に従事。が、まもなく労働運動に飛び込み、国労の八王子支部、東京地方本部、中央本部の役員を歴任。中央本部では政治部長を務めた。この間、立川基地拡張反対闘争(砂川闘争)、安保反対闘争などに取り組んだ。
当時、日本の労働運動をリードしていたのは総評(日本労働組合総評議会、連合の前身)で、その中核が国労だった。関口氏はその政治部長だったわけだから、労働界や、対社会党(社民党の前身)といった関係ではかなりの実力者だったとみていいだろう。風貌も、いかにも押しの強さを感じさせる労組指導者タイプだった。
岩垂 弘 (ジャーナリスト)
わが国の原水爆禁止運動における二大勢力の一つ、原水爆禁止日本国民会議(原水禁=旧総評系)のリーダーだった二人が相次いで亡くなった。事務局長だった関口和氏(七九歳)と、事務局次長だった池山重朗氏(七六歳)。私が両氏に接したのはもっぱら新聞記者としての立場からだったが、両氏が原水爆禁止運動に残した足跡はまことに大きく、改めて敬意を表したい。
一月十七日、寒風が吹きすさぶ東京都昭島市の龍田寺で、関口氏の葬儀があった。同十三日に死去。参列者には旧国鉄の退職者が目立った。焼香台のわきには、生花を寄せた団体として原水禁のほか、国鉄労働組合、鉄道退職者の会全国連合会、社民党全国連合、第五福竜丸平和協会、在日本朝鮮人総連合会などの名前が掲示されていた。
関口氏は北海道函館市の生まれ。幼いころ、父と死別し、母と一緒に昭島市に移ってきた。戦時下だったから、陸軍少年航空兵に志願し、訓練を受けたのち青森に配属されたが、まもなく敗戦を迎えた。
昭島市に帰ると、旧国鉄に就職し、電気機関車の運転士となった。立川機関区に所属し、主に貨物列車の運転に従事。が、まもなく労働運動に飛び込み、国労の八王子支部、東京地方本部、中央本部の役員を歴任。中央本部では政治部長を務めた。この間、立川基地拡張反対闘争(砂川闘争)、安保反対闘争などに取り組んだ。
当時、日本の労働運動をリードしていたのは総評(日本労働組合総評議会、連合の前身)で、その中核が国労だった。関口氏はその政治部長だったわけだから、労働界や、対社会党(社民党の前身)といった関係ではかなりの実力者だったとみていいだろう。風貌も、いかにも押しの強さを感じさせる労組指導者タイプだった。
一九七七年には、国労から原水禁事務局へ。当時の原水禁は総評が資金的にも人的にも圧倒的な影響力を持っていたから、関口氏の原水禁事務局入りは総評と国労幹部の意向といってよかった。八〇年には事務局長となり、九二年まで務めた。その後は、代表委員、次いで顧問。
当時の原水禁のトップは代表委員。広島大学名誉教授の森滝市郎氏(故人)がそのポストにいたが、森滝氏は原水禁のシンボル的存在であり、理論的指導者だった。原水禁を実際に切り盛りしていたのは事務局長で、十二年にわたってそのポストにあった関口氏が果たした役割は大きかったといえる。
とくにこの際強調しておきたいのは、関口氏が事務局長というポストにいたから、原水禁と原水協(共産党系)の共闘がまがりなりにも八年間にわたって続いたということだ。この共闘は一九七七年に原水協と原水禁のトップが電撃的に会談し、世界大会を統一して開催するなどで合意したことで始まったが、この合意に対しては原水禁内で反対が強く、かなりもめた。が、関口氏は共闘を進めた。その結果、一九八二年には、国連軍縮特別総会に向けた運動で、日本の原水爆禁止運動は空前の盛り上がりをみせる。
もっとも、共闘中も原水禁と原水協の対立は解けず、統一世界大会を主催する実行委員会はさながら「禁」「協」対決の舞台だった。委員会はいつも関口氏と吉田嘉清・原水協代表理事の激論で終始したといってよかった。報道陣の間には「関口氏は何を言っているかわからない」という声もあったが。
二〇〇三年四月からは第五福竜丸平和協会の理事を務め、東京・夢の島にある都立展示館内に展示されている、ビキニ水爆実験の被災船・第五福竜丸の保存に尽力した。
一方、池山氏の死去を私が知ったのは、一月十一日である。知人から知らせがあり、自宅に電話すると、昨年十二月八日に病死したとのことだった。「家族だけで葬式をするように」との遺言で葬儀も内輪ですませ、だれにも知らせなかったという。池山氏の性格や人柄を知っている者としては「いかにも池山さんらしい最期だ」と思った。
池山氏は本名富田和男。茨城県鉾田町生まれ。東京教育大(現筑波大)文学部卒業。在学中から学生運動や原水爆禁止運動に加わり、卒業後、原水協事務局に入る。当時の原水協は社会党系団体、、共産党系団体 、総評など労働団体、市民団体などが結集する幅広い国民的組織だったが、一九六三年に社会党・総評と共産党が「いかなる国の核実験にも反対する」などの点をめぐって対立し、社会党・総評系が脱退して、新しい組織の原水禁を結成した。池山氏はこの原水禁結成にはせ参じ、やがて事務局次長になる。
しかし、「禁」「協」の共闘が始まった直後、池山氏は決然と原水禁を去る。原水協が共闘にあたって「原水禁の結成に参加した者は、運動の分裂分子だから、同席しない」と言い出し、池山氏が「禁」「協」話し合いの席に出てくるのを拒んだからだった。その後、江田五月氏(現参院議長)らの社会市民連合(社市連)の企画委員となり、七七年七月の参院選挙全国区に立候補する。が、二万六三八〇票しかとれず、一〇二人中八十二位で惨敗。その後は、核問題評論家として執筆活動に携わる。
池山氏が残した仕事のうち、注目すべきものが二つあったと私は思う。
まず、ビキニ水爆実験で被災したマーシャル群島住民の被害調査の先鞭をつけたことである。一九五四年三月一日に太平洋のビキニ環礁で行われた米国の水爆実験で第五福竜丸乗組員や周辺住民が被災したが、住民がこうむった被害は長く明らかにされないままだった。これに対し、被災住民の要請を受けて真っ先に医師を含めた調査団を派遣したのが原水禁で、一九七一年十二月のことである。その調査団の事務局長を務めたのが池山氏。
調査団はマーシャル群島のマジュロ島まで行ったところで米国政府により強制退去処分となり、被災住民が住む島までは行けなかった。しかし、調査団はマジュロ島に移住してきていた被災住民との接触に成功し、被害実態を解明する上で先駈け的な役割を果たした。
もう一つは、原水禁の路線を確定する上で積極的な役割を果たした点だ。
原水禁が、原子力発電に反対する「反原発・脱原発」の方針を打ち出したのは一九七六年ごろから。これは、核エネルギーの軍事利用はもちろん、核エネルギーの「平和利用」、すなわち原子力発電にも反対する「核絶対否定」の立場を具体化したものだが、その「核絶対否定」を唱えたのは森滝市郎代表委員だった。その森滝理論を運動化したのが池山氏だったといってよい。
池山氏死去の報に接した、かつて運動上では“敵対陣営”にいた吉田嘉清・元原水協代表理事は「池山氏は、原水爆禁止運動で一つの新しい時代を切り開いたパイオニアだった」と讃えた。
当時の原水禁のトップは代表委員。広島大学名誉教授の森滝市郎氏(故人)がそのポストにいたが、森滝氏は原水禁のシンボル的存在であり、理論的指導者だった。原水禁を実際に切り盛りしていたのは事務局長で、十二年にわたってそのポストにあった関口氏が果たした役割は大きかったといえる。
とくにこの際強調しておきたいのは、関口氏が事務局長というポストにいたから、原水禁と原水協(共産党系)の共闘がまがりなりにも八年間にわたって続いたということだ。この共闘は一九七七年に原水協と原水禁のトップが電撃的に会談し、世界大会を統一して開催するなどで合意したことで始まったが、この合意に対しては原水禁内で反対が強く、かなりもめた。が、関口氏は共闘を進めた。その結果、一九八二年には、国連軍縮特別総会に向けた運動で、日本の原水爆禁止運動は空前の盛り上がりをみせる。
もっとも、共闘中も原水禁と原水協の対立は解けず、統一世界大会を主催する実行委員会はさながら「禁」「協」対決の舞台だった。委員会はいつも関口氏と吉田嘉清・原水協代表理事の激論で終始したといってよかった。報道陣の間には「関口氏は何を言っているかわからない」という声もあったが。
二〇〇三年四月からは第五福竜丸平和協会の理事を務め、東京・夢の島にある都立展示館内に展示されている、ビキニ水爆実験の被災船・第五福竜丸の保存に尽力した。
一方、池山氏の死去を私が知ったのは、一月十一日である。知人から知らせがあり、自宅に電話すると、昨年十二月八日に病死したとのことだった。「家族だけで葬式をするように」との遺言で葬儀も内輪ですませ、だれにも知らせなかったという。池山氏の性格や人柄を知っている者としては「いかにも池山さんらしい最期だ」と思った。
池山氏は本名富田和男。茨城県鉾田町生まれ。東京教育大(現筑波大)文学部卒業。在学中から学生運動や原水爆禁止運動に加わり、卒業後、原水協事務局に入る。当時の原水協は社会党系団体、、共産党系団体 、総評など労働団体、市民団体などが結集する幅広い国民的組織だったが、一九六三年に社会党・総評と共産党が「いかなる国の核実験にも反対する」などの点をめぐって対立し、社会党・総評系が脱退して、新しい組織の原水禁を結成した。池山氏はこの原水禁結成にはせ参じ、やがて事務局次長になる。
しかし、「禁」「協」の共闘が始まった直後、池山氏は決然と原水禁を去る。原水協が共闘にあたって「原水禁の結成に参加した者は、運動の分裂分子だから、同席しない」と言い出し、池山氏が「禁」「協」話し合いの席に出てくるのを拒んだからだった。その後、江田五月氏(現参院議長)らの社会市民連合(社市連)の企画委員となり、七七年七月の参院選挙全国区に立候補する。が、二万六三八〇票しかとれず、一〇二人中八十二位で惨敗。その後は、核問題評論家として執筆活動に携わる。
池山氏が残した仕事のうち、注目すべきものが二つあったと私は思う。
まず、ビキニ水爆実験で被災したマーシャル群島住民の被害調査の先鞭をつけたことである。一九五四年三月一日に太平洋のビキニ環礁で行われた米国の水爆実験で第五福竜丸乗組員や周辺住民が被災したが、住民がこうむった被害は長く明らかにされないままだった。これに対し、被災住民の要請を受けて真っ先に医師を含めた調査団を派遣したのが原水禁で、一九七一年十二月のことである。その調査団の事務局長を務めたのが池山氏。
調査団はマーシャル群島のマジュロ島まで行ったところで米国政府により強制退去処分となり、被災住民が住む島までは行けなかった。しかし、調査団はマジュロ島に移住してきていた被災住民との接触に成功し、被害実態を解明する上で先駈け的な役割を果たした。
もう一つは、原水禁の路線を確定する上で積極的な役割を果たした点だ。
原水禁が、原子力発電に反対する「反原発・脱原発」の方針を打ち出したのは一九七六年ごろから。これは、核エネルギーの軍事利用はもちろん、核エネルギーの「平和利用」、すなわち原子力発電にも反対する「核絶対否定」の立場を具体化したものだが、その「核絶対否定」を唱えたのは森滝市郎代表委員だった。その森滝理論を運動化したのが池山氏だったといってよい。
池山氏死去の報に接した、かつて運動上では“敵対陣営”にいた吉田嘉清・元原水協代表理事は「池山氏は、原水爆禁止運動で一つの新しい時代を切り開いたパイオニアだった」と讃えた。
| Home |





