2013.03.07
共産党は政策でなく政党イメージで総選挙に負けた、選挙は“政治空間”であると同時に“社会空間”なのだ、革新政党の不振と衰退は目を覆うばかりだ(9)
~関西から(93)~
共産党の機関紙『赤旗しんぶん』は、社民党の『社会新報』にくらべて容易に入手できる。大学図書館の新聞コーナーにも備えられているし、(共産党が強い京都では)市内あちこちに販売所の看板を見つけることもできる。それに一般新聞と同じく読者の家に早朝宅配されるシステムが整っていて、政党機関紙としては世界的にも珍しい地域配達網が行き渡っている。これらは地を這うような政党活動の積み重ねの成果であり、(公明党を除いて)どの政党でも真似のできない活動スタイルだといえる。
しかしこれは一般的にも言えることだが、組織が強固であればあるほど体質が閉鎖的になるという傾向(弊害)は避け難い。共産党もその例に漏れず(というよりは)「共産党は政治臭が強すぎて嫌いだ」という人が少なからず存在する。政党組織なのだから政治色が強いのは当然なのに、それが敬遠されるのはいったいなぜなのか。私はそこに「公明党は宗教臭がきつすぎて嫌いだ」という人と同じ空気を感じる。
私自身は無神論者なので、キリスト教信者やイスラム教徒のような強い信仰心を持った人々とは対照的な立場に位置している。といって、先祖のお墓参りはするし、正月には初詣にも出かけていく。また旅先で訪れた神社仏閣への参拝も欠かさない。しかし、時々家を訪ねて来ては強引に折伏しようとする「エホバの証人」や「創価学会」の人たちを玄関に招き入れたことはない。
こんな自分の行動を分析してみると、どこかに「会話せずに主張ばかりするような人には付き合いたくない」といった気分や心情が横たわっていることに気付く。それは、よくいわれるような消極主義でもなければ引っ込み思案でもない。むしろ自分の個性・主体性を大切にしたい、アイデンティティを失いたくないという気持ちに通じているように思えるのである。
冒頭からなぜこんな心性論や文化論みたいなことを持ち出すかというと、今回の総選挙で、共産党は政策ではなく「政党イメージ」で負けたと思うからだ。普通の国民が抱いている気分や心情に的確に訴えることなく、自らの政治的主張を一方的にまくし立てるという硬骨なイメージを拭えなかったことが最大の敗因だと思うのである。共産党の敗因を知ろうと思えば、「日本共産党第6回中央委員会総会決定」(6中総決定、『赤旗しんぶん』、2013年2月11日、13日)を読んでみればよい。
「6中総決定」を読んで私が真っ先に感じることは、共産党は「おそろしく空気を読めない政党」(KY政党)だということだ。社民党総括の10倍もあるこの膨大な6中総決定は、一貫して共産党の主張を述べているものの、それが国民の眼にどう映っているかということは一切眼中にないようなのである。政党の総選挙総括文書であり、次期参院選の選挙方針だから、まず党組織や党員に政治方針を徹底させることが最重要であることはわかるが、国民・有権者に訴える文章としてはとにかく長すぎる。もっとコンパクトで説得力のある文章にできないものか。
広原盛明(都市計画・まちづくり研究者)
共産党の機関紙『赤旗しんぶん』は、社民党の『社会新報』にくらべて容易に入手できる。大学図書館の新聞コーナーにも備えられているし、(共産党が強い京都では)市内あちこちに販売所の看板を見つけることもできる。それに一般新聞と同じく読者の家に早朝宅配されるシステムが整っていて、政党機関紙としては世界的にも珍しい地域配達網が行き渡っている。これらは地を這うような政党活動の積み重ねの成果であり、(公明党を除いて)どの政党でも真似のできない活動スタイルだといえる。
しかしこれは一般的にも言えることだが、組織が強固であればあるほど体質が閉鎖的になるという傾向(弊害)は避け難い。共産党もその例に漏れず(というよりは)「共産党は政治臭が強すぎて嫌いだ」という人が少なからず存在する。政党組織なのだから政治色が強いのは当然なのに、それが敬遠されるのはいったいなぜなのか。私はそこに「公明党は宗教臭がきつすぎて嫌いだ」という人と同じ空気を感じる。
私自身は無神論者なので、キリスト教信者やイスラム教徒のような強い信仰心を持った人々とは対照的な立場に位置している。といって、先祖のお墓参りはするし、正月には初詣にも出かけていく。また旅先で訪れた神社仏閣への参拝も欠かさない。しかし、時々家を訪ねて来ては強引に折伏しようとする「エホバの証人」や「創価学会」の人たちを玄関に招き入れたことはない。
こんな自分の行動を分析してみると、どこかに「会話せずに主張ばかりするような人には付き合いたくない」といった気分や心情が横たわっていることに気付く。それは、よくいわれるような消極主義でもなければ引っ込み思案でもない。むしろ自分の個性・主体性を大切にしたい、アイデンティティを失いたくないという気持ちに通じているように思えるのである。
冒頭からなぜこんな心性論や文化論みたいなことを持ち出すかというと、今回の総選挙で、共産党は政策ではなく「政党イメージ」で負けたと思うからだ。普通の国民が抱いている気分や心情に的確に訴えることなく、自らの政治的主張を一方的にまくし立てるという硬骨なイメージを拭えなかったことが最大の敗因だと思うのである。共産党の敗因を知ろうと思えば、「日本共産党第6回中央委員会総会決定」(6中総決定、『赤旗しんぶん』、2013年2月11日、13日)を読んでみればよい。
「6中総決定」を読んで私が真っ先に感じることは、共産党は「おそろしく空気を読めない政党」(KY政党)だということだ。社民党総括の10倍もあるこの膨大な6中総決定は、一貫して共産党の主張を述べているものの、それが国民の眼にどう映っているかということは一切眼中にないようなのである。政党の総選挙総括文書であり、次期参院選の選挙方針だから、まず党組織や党員に政治方針を徹底させることが最重要であることはわかるが、国民・有権者に訴える文章としてはとにかく長すぎる。もっとコンパクトで説得力のある文章にできないものか。
だがこの問題は単なる文章作法の問題ではなく、共産党という政党の体質そのものを反映している問題でもある。それは党中央が政治方針の全てを起草して決定し、それを全国の党組織に伝達し、学習を通して党員に徹底させ、国民・有権者の間に広げていくという上意下達のコミュニケーションシステム(「民主集中制」と言われている)がそうさせるのだと思う。国民との広範な会話を通してそのときどきの有権者の気分や要求を掬い取り、それらを最も効果的な政治スローガンに仕立てて選挙活動を展開するというよりは、党中央の「決定」にもとづく選挙方針を(画一的に)国民に説得するというやり方がいまだ抜け切らないのである。
総選挙は「凝縮された政治空間」であるが、全ての国民・有権者がそこに住んでいるわけではない。普通の人々は「日常的な社会空間」のなかで暮らしているのであり、選挙は一過性のイベントに過ぎない。プロの政治家や政党活動家にとっては政治世界が全てであっても、普通の人々にとってはごく一部に過ぎないのである。だから「政治のプロ」が書いた文章や方針は一般社会には通じにくい。
橋下維新の会代表の演説や主張がなぜ大阪人の心を掴むのか。それは、彼が「日常的な社会空間」のなかで暮らしている普通の人々にアピールする言葉に習熟しているからだ。彼は意識して「政治空間」のことは語らない。普通の人びとの不満や不平を単に政治用語に吹き替えているだけだ。そこにデマゴーグ(扇動家)としての彼の本領があるのだが、橋下氏は政治世界を経由しないでとにかく人々を思うように投票行動に駆り立てるのである。
これと対照的なのが6中総決定だろう。まず「1.現在の情勢を大局的にどうつかむか」という政治情勢の分析から説き起こし、「2.参議院選挙にむかう国政の焦点と日本共産党の立場」、「3.東アジアの平和・安定・友好にかかわって―三つの国際問題」と国内・国際問題について論じ、最後に「4.総選挙の総括と教訓について」で締めくくるのである。ジャーナリストや研究者ならともかく6万字にも及ぶ大論文を読むのは大変だ。だから、前半は適当に飛ばして「選挙をどうするか」という話になる。
総選挙の総括の部分では、敗北の主たる原因として「党の自力の問題」すなわち「国民に溶け込み結びつく力」が足りなかったことをしきりに強調している。そして党員の自覚と奮起によって自力回復は可能だと叱咤激励するのである。この方針は一般的に言えば正しいし、その通りだという他はない。だが問題は、「6中総決定」を徹底的に学習すれば果たして「国民に溶け込み結びつく力」が湧いてくるかということだろう。
革新政党の使命と役割は、「日常的な社会空間」のなかで暮らしている普通の人々に「政治空間」の存在を知らせ、その関係性を具体的に理解してもらうことだと私は考えている。その機会の一つが選挙である以上、出発点はあくまでも地域の現実(社会空間)にあるのであって、上からの政党決定ではない。だが、上意下達のコミュニケーションシステム(「民主集中制」)の下では方針徹底と得票だけが目標となり、地域との対話のなかから「国民に溶け込み結びつく力」が湧いてくることは難しい。集権的機構のもとで「国民に溶け込み結びつく力」を強調すること自体が自己矛盾であり自己撞着なのに、そのことがわかっていないところに共産党の敗因が横たわっている。(つづく)
総選挙は「凝縮された政治空間」であるが、全ての国民・有権者がそこに住んでいるわけではない。普通の人々は「日常的な社会空間」のなかで暮らしているのであり、選挙は一過性のイベントに過ぎない。プロの政治家や政党活動家にとっては政治世界が全てであっても、普通の人々にとってはごく一部に過ぎないのである。だから「政治のプロ」が書いた文章や方針は一般社会には通じにくい。
橋下維新の会代表の演説や主張がなぜ大阪人の心を掴むのか。それは、彼が「日常的な社会空間」のなかで暮らしている普通の人々にアピールする言葉に習熟しているからだ。彼は意識して「政治空間」のことは語らない。普通の人びとの不満や不平を単に政治用語に吹き替えているだけだ。そこにデマゴーグ(扇動家)としての彼の本領があるのだが、橋下氏は政治世界を経由しないでとにかく人々を思うように投票行動に駆り立てるのである。
これと対照的なのが6中総決定だろう。まず「1.現在の情勢を大局的にどうつかむか」という政治情勢の分析から説き起こし、「2.参議院選挙にむかう国政の焦点と日本共産党の立場」、「3.東アジアの平和・安定・友好にかかわって―三つの国際問題」と国内・国際問題について論じ、最後に「4.総選挙の総括と教訓について」で締めくくるのである。ジャーナリストや研究者ならともかく6万字にも及ぶ大論文を読むのは大変だ。だから、前半は適当に飛ばして「選挙をどうするか」という話になる。
総選挙の総括の部分では、敗北の主たる原因として「党の自力の問題」すなわち「国民に溶け込み結びつく力」が足りなかったことをしきりに強調している。そして党員の自覚と奮起によって自力回復は可能だと叱咤激励するのである。この方針は一般的に言えば正しいし、その通りだという他はない。だが問題は、「6中総決定」を徹底的に学習すれば果たして「国民に溶け込み結びつく力」が湧いてくるかということだろう。
革新政党の使命と役割は、「日常的な社会空間」のなかで暮らしている普通の人々に「政治空間」の存在を知らせ、その関係性を具体的に理解してもらうことだと私は考えている。その機会の一つが選挙である以上、出発点はあくまでも地域の現実(社会空間)にあるのであって、上からの政党決定ではない。だが、上意下達のコミュニケーションシステム(「民主集中制」)の下では方針徹底と得票だけが目標となり、地域との対話のなかから「国民に溶け込み結びつく力」が湧いてくることは難しい。集権的機構のもとで「国民に溶け込み結びつく力」を強調すること自体が自己矛盾であり自己撞着なのに、そのことがわかっていないところに共産党の敗因が横たわっている。(つづく)
| Home |
ところで、この記事はもう共産党に送っておられるのですか? 読んで知っているはずだ、で済ませず、郵送された方がよいと思います。