2008.01.27
テロの根源は「パレスチナの人種隔離」(上)
カーターが「勇気ある発言」
カーター元米大統領は近著『パレスチナ―人種隔離(アパルトヘイト)ではなく平和を』(2007年11月)のなかで、イスラエルのパレスチナ占領政策とそれを擁護し続けてきた米外交を厳しく批判しながら、両国政府がイスラエル・パレスチナ問題を本当に解決しようとする継続的な努力をしていないことが世界に反米意識を広げ、中東・イスラム世界にテロを拡大させている主たる原因であると述べている。世界の動きに関心を持っている人のほとんどは、そう思っているのだが、それが公には言えない状況が続いてきた。特に「9.11テロ」以後、米ブッシュ政権が「テロとの戦い」を世界中に押し付ける中で、「テロの根源」を問う議論は封殺されてしまった。カーターの「勇気ある発言」である。
カーターはまた、イスラエルを一方的に支持してきた歴代米政権の背後で、在米イスラエル・ロビーが過剰なまでの強い影響力を行使していることにも、強い批判を投げかけている。これもまさに「タブー」への挑戦である。
カーターは1978年、サダト・エジプト大統領とベギン・イスラエル首相を大統領山荘キャンプ・デービッドに13日間缶詰めにして中東和平を目指す「合意」をまとめた。このキャンプ・デービッド合意は、占領地への入植地建設凍結とパレスチナ人自治という中東和平の「基本条件」を取り決めたものだった。しかし、それから30年、中東では「和平」どころか暴力の応酬が拡大するばかりで、冷戦後世界の最大の不安定要因になっている事態に、カーターは我慢しきれなくなったのだと思う。
金子敦郎 (ジャーナリスト)
カーター元米大統領は近著『パレスチナ―人種隔離(アパルトヘイト)ではなく平和を』(2007年11月)のなかで、イスラエルのパレスチナ占領政策とそれを擁護し続けてきた米外交を厳しく批判しながら、両国政府がイスラエル・パレスチナ問題を本当に解決しようとする継続的な努力をしていないことが世界に反米意識を広げ、中東・イスラム世界にテロを拡大させている主たる原因であると述べている。世界の動きに関心を持っている人のほとんどは、そう思っているのだが、それが公には言えない状況が続いてきた。特に「9.11テロ」以後、米ブッシュ政権が「テロとの戦い」を世界中に押し付ける中で、「テロの根源」を問う議論は封殺されてしまった。カーターの「勇気ある発言」である。
カーターはまた、イスラエルを一方的に支持してきた歴代米政権の背後で、在米イスラエル・ロビーが過剰なまでの強い影響力を行使していることにも、強い批判を投げかけている。これもまさに「タブー」への挑戦である。
カーターは1978年、サダト・エジプト大統領とベギン・イスラエル首相を大統領山荘キャンプ・デービッドに13日間缶詰めにして中東和平を目指す「合意」をまとめた。このキャンプ・デービッド合意は、占領地への入植地建設凍結とパレスチナ人自治という中東和平の「基本条件」を取り決めたものだった。しかし、それから30年、中東では「和平」どころか暴力の応酬が拡大するばかりで、冷戦後世界の最大の不安定要因になっている事態に、カーターは我慢しきれなくなったのだと思う。
カーター「発言」に対してイスラエル・ロビーからは、例によって反ユダヤ主義との「レッテル貼り」攻撃が浴びせられている。だが、カーターはいまや孤立しているわけではない。カーターの言う「イスラエルの人種隔離政策」に対する批判は欧州では既に広がりを見せており、米国でも有力学者やジャーナリストによって、米政府のイスラエルと一体化した中東政策は米国益に反するといった批判を込めた著作が相次いで出版される状況が起こっている。中東和平の行方を決めるのは、こうした米国の世論がどこまで広がっていくかにかかっていると思う。
「時計」外して根気の勝負
「失敗した大統領」といわれるカーターだが(筆者は公平な評価とは思わないが)、キャンプ・デービッド合意達成は歴史的な業績として残っている。カーターがサダト・エジプト大統領とベギン・イスラエル首相を大統領山荘キャンプ・デービッドに呼びつけての3首脳会談は1978年9月5日始まった。山麓サーモントの町外れにぽつんと建つ在郷軍人会ホールの特設プレスセンターには、世界中から数百人の報道陣が詰めかけた。通信社のワシントン支局勤務だった筆者はその1人だった。
報道官の1日1回、夕方の発表は、3首脳が何回会った、補佐官の誰が同席した、というだけだ。材料はなくても毎日、あれこれ思いをめぐらせて記事を作らなければならない。会談は5日、1週間、そして10日・・・。一体、何が起ころうとしているのだろうか。苛立ちながらも退屈をもてあましていた記者たちの間に、次第に緊張が交錯していった。
前年11月サダトが突如エルサレムを訪問してイスラエルとアラブ世界を隔てる堅い壁に、ついに穴が開けられた。とはいえ、その穴はまだ小さい。サダトとベギンが直接話し合うと、すぐに怒鳴り合いになってしまう。そこで両者が逗留する小屋の間をカーターが行き来して話し合いの糸口を探り、仲介し、説得する。カーターの誠意と根気が勝負といった会談だった。3首脳は時間にとらわれないよう腕時計を外し、キリスト教、イスラム教、ユダヤ教とそれぞれのための礼拝施設も特設されたという。
13日目の同17日午後7時過ぎ「ホワイトハウス別館で午後9時からブレジンスキー大統領補佐官が記者会見する」という発表。記者団がいっせいに駐車場へ走った。ホワイトハウスまでは約70マイル(112キロ)を飛ばして1時間あまり。ハイウエーに乗ったとたん、空が真っ暗になり、ものすごい雷とシャワーで視界はほとんどゼロ。はやる心を押さえながらの危いドライブだった。
「エジプトとイスラエルは平和条約を結ぶことで合意した。1967年戦争の占領地からの撤退を求める国連決議242を基礎に、イスラエルは占領地での入植地建設を凍結し、パレスチナ人の自治を認める」。ブレジンスキーが切り出した。
「情報操作」で圧力
ベギンの帰国後、イスラエルでは合意反対の動きが噴出した。難交渉のすえ合意にはこぎつける。だが、履行されずに骨抜きになる。「中東和平」のパターンの始まりだった。半年後の1979年3月カーターが現地に乗り込んだ。カーターはエルサレムのイスラエル議会で演説、合意受け入れを求めたが、反対の野次が飛び交って演説も途切れがちだ。カーターの表情が引きつっていく。一方のベギンは天井をみている。
ホワイトハウスに密着取材しているAP、UPI、ロイターがいっせいに「現地調停は失敗。カーターに屈辱」「カーターはベギンに激怒」と速報を流し始めた。「米政府は対イスラエル政策を再検討」と洪水のような電報が続く。
翌朝のテルアビブ空港。滑走路の脇に押し込められた記者団が待ち受けるなか、カーターがベギンに見送られて大統領専用機エアフォース・ワンに乗り込む。同行の親しい日本人記者が用意周到に双眼鏡を携行していた。レンズは2人の表情が昨日とはがらりと違うことをとらえていた。相好を崩して握手し、抱き合っている。2人は最後の会談として朝食をともにした。そこで「合意」にこぎつけたことは間違いない。だが、速報の手段はない。
記者団はそのまま同行機に乗せられて、エアフォース・ワンを追った。
カイロに向かう機中、双眼鏡で見た光景を各国の記者たちに話すと、みんな頭を抱え込んだ。通信社の電報に引きずられて、ほとんどの記者が「調停失敗」の記事を送っていたからだ。ワシントンから同行の筆者はテルアビブ特派員と相談して、「調停難航、打開へ朝食会が最後のチャンス」とする記事を書いた。ところが本社デスクがやはり「調停失敗」に踏み切って一連の配信記事を組み立てていたことをあとで知った。
自社特派員より外国通信社の判断を優先させるのか、と腹立たしい思いをしたが、実はこれはよくあることだ。個々のケースは別にして、米国や欧州での国際ニュースの取材力では、日本のメディアは彼らには敵わないという現実が厳としてあるからだ。
国際通信社電は「カーターの現地調停失敗」の「誤報」を世界中に広めただけではなかった。「カーターに屈辱」「カーターが激怒」「対イスラエル政策再検討」という報道の裏には、通信社速報を操って圧力を掛けようとしたホワイトハウスのリーク(情報操作)があったことは間違いない。米国を本当に怒らせてはまずい。さしものベギンも最後に折れざるを得なかった。
ベギンの大イスラエル主義
2週間後の同26日ホワイトハウスでエジプト・イスラエルの平和条約が調印された。
ベギンはアラブ世界の盟主エジプトを単独和平に取り込み、イスラエル包囲網の分断に成功した。サダトはその見返りに国連決議242による入植地凍結やパレスチナ自治交渉推進を得るはずだった。だが、何ももらえないまま、アラブ世界から「裏切り者」とされて1981年10月イスラム過激派に暗殺された。サダトが得た代償だった。
キャンプ・デービッド会談でカーターは「国連決議を無視して10年も占領が継続されている」とベギンに決議履行を迫った。ベギンは、われわれはパレスチナの地に戻るのを2000年待ったと答えたという。「パレスチナは神がユダヤ人に与えた土地」とする大イスラエル主義を掲げるリクード党が1977年に総選挙を制して、ベギンが首相なった時、中東和平はこれで絶望的との悲観論が世界に広がった。ベギンはワシントン入りしたときの記者会見で、ヨルダン川西岸などの占領地を旧約聖書に記された地名ジュデア、サマリアと呼んで記者席にざわめきが広がったことを覚えている。
前大統領となったカーターは1983年ベギンを訪問し、「約束違反」を問い質そうとしたところ、首相執務室から追い出されたと書いている。
<金子敦郎氏の略歴>
1935年東京生まれ、58年東大卒、共同通信社入社、
福岡支社、社会部を経て外信部へ、サイゴン支局長、
ワシントン支局長、国際局長、常務理事を歴任。
「時計」外して根気の勝負
「失敗した大統領」といわれるカーターだが(筆者は公平な評価とは思わないが)、キャンプ・デービッド合意達成は歴史的な業績として残っている。カーターがサダト・エジプト大統領とベギン・イスラエル首相を大統領山荘キャンプ・デービッドに呼びつけての3首脳会談は1978年9月5日始まった。山麓サーモントの町外れにぽつんと建つ在郷軍人会ホールの特設プレスセンターには、世界中から数百人の報道陣が詰めかけた。通信社のワシントン支局勤務だった筆者はその1人だった。
報道官の1日1回、夕方の発表は、3首脳が何回会った、補佐官の誰が同席した、というだけだ。材料はなくても毎日、あれこれ思いをめぐらせて記事を作らなければならない。会談は5日、1週間、そして10日・・・。一体、何が起ころうとしているのだろうか。苛立ちながらも退屈をもてあましていた記者たちの間に、次第に緊張が交錯していった。
前年11月サダトが突如エルサレムを訪問してイスラエルとアラブ世界を隔てる堅い壁に、ついに穴が開けられた。とはいえ、その穴はまだ小さい。サダトとベギンが直接話し合うと、すぐに怒鳴り合いになってしまう。そこで両者が逗留する小屋の間をカーターが行き来して話し合いの糸口を探り、仲介し、説得する。カーターの誠意と根気が勝負といった会談だった。3首脳は時間にとらわれないよう腕時計を外し、キリスト教、イスラム教、ユダヤ教とそれぞれのための礼拝施設も特設されたという。
13日目の同17日午後7時過ぎ「ホワイトハウス別館で午後9時からブレジンスキー大統領補佐官が記者会見する」という発表。記者団がいっせいに駐車場へ走った。ホワイトハウスまでは約70マイル(112キロ)を飛ばして1時間あまり。ハイウエーに乗ったとたん、空が真っ暗になり、ものすごい雷とシャワーで視界はほとんどゼロ。はやる心を押さえながらの危いドライブだった。
「エジプトとイスラエルは平和条約を結ぶことで合意した。1967年戦争の占領地からの撤退を求める国連決議242を基礎に、イスラエルは占領地での入植地建設を凍結し、パレスチナ人の自治を認める」。ブレジンスキーが切り出した。
「情報操作」で圧力
ベギンの帰国後、イスラエルでは合意反対の動きが噴出した。難交渉のすえ合意にはこぎつける。だが、履行されずに骨抜きになる。「中東和平」のパターンの始まりだった。半年後の1979年3月カーターが現地に乗り込んだ。カーターはエルサレムのイスラエル議会で演説、合意受け入れを求めたが、反対の野次が飛び交って演説も途切れがちだ。カーターの表情が引きつっていく。一方のベギンは天井をみている。
ホワイトハウスに密着取材しているAP、UPI、ロイターがいっせいに「現地調停は失敗。カーターに屈辱」「カーターはベギンに激怒」と速報を流し始めた。「米政府は対イスラエル政策を再検討」と洪水のような電報が続く。
翌朝のテルアビブ空港。滑走路の脇に押し込められた記者団が待ち受けるなか、カーターがベギンに見送られて大統領専用機エアフォース・ワンに乗り込む。同行の親しい日本人記者が用意周到に双眼鏡を携行していた。レンズは2人の表情が昨日とはがらりと違うことをとらえていた。相好を崩して握手し、抱き合っている。2人は最後の会談として朝食をともにした。そこで「合意」にこぎつけたことは間違いない。だが、速報の手段はない。
記者団はそのまま同行機に乗せられて、エアフォース・ワンを追った。
カイロに向かう機中、双眼鏡で見た光景を各国の記者たちに話すと、みんな頭を抱え込んだ。通信社の電報に引きずられて、ほとんどの記者が「調停失敗」の記事を送っていたからだ。ワシントンから同行の筆者はテルアビブ特派員と相談して、「調停難航、打開へ朝食会が最後のチャンス」とする記事を書いた。ところが本社デスクがやはり「調停失敗」に踏み切って一連の配信記事を組み立てていたことをあとで知った。
自社特派員より外国通信社の判断を優先させるのか、と腹立たしい思いをしたが、実はこれはよくあることだ。個々のケースは別にして、米国や欧州での国際ニュースの取材力では、日本のメディアは彼らには敵わないという現実が厳としてあるからだ。
国際通信社電は「カーターの現地調停失敗」の「誤報」を世界中に広めただけではなかった。「カーターに屈辱」「カーターが激怒」「対イスラエル政策再検討」という報道の裏には、通信社速報を操って圧力を掛けようとしたホワイトハウスのリーク(情報操作)があったことは間違いない。米国を本当に怒らせてはまずい。さしものベギンも最後に折れざるを得なかった。
ベギンの大イスラエル主義
2週間後の同26日ホワイトハウスでエジプト・イスラエルの平和条約が調印された。
ベギンはアラブ世界の盟主エジプトを単独和平に取り込み、イスラエル包囲網の分断に成功した。サダトはその見返りに国連決議242による入植地凍結やパレスチナ自治交渉推進を得るはずだった。だが、何ももらえないまま、アラブ世界から「裏切り者」とされて1981年10月イスラム過激派に暗殺された。サダトが得た代償だった。
キャンプ・デービッド会談でカーターは「国連決議を無視して10年も占領が継続されている」とベギンに決議履行を迫った。ベギンは、われわれはパレスチナの地に戻るのを2000年待ったと答えたという。「パレスチナは神がユダヤ人に与えた土地」とする大イスラエル主義を掲げるリクード党が1977年に総選挙を制して、ベギンが首相なった時、中東和平はこれで絶望的との悲観論が世界に広がった。ベギンはワシントン入りしたときの記者会見で、ヨルダン川西岸などの占領地を旧約聖書に記された地名ジュデア、サマリアと呼んで記者席にざわめきが広がったことを覚えている。
前大統領となったカーターは1983年ベギンを訪問し、「約束違反」を問い質そうとしたところ、首相執務室から追い出されたと書いている。
<金子敦郎氏の略歴>
1935年東京生まれ、58年東大卒、共同通信社入社、
福岡支社、社会部を経て外信部へ、サイゴン支局長、
ワシントン支局長、国際局長、常務理事を歴任。
Comment
カーターの「勇気ある発言」と、それを紹介された金子敦郎さんの臨場感溢れる表現、読みやすさに感動しました。いつまでたっても解決しない中東問題、相変わらずの仲介者アメリカのイスラエル寄りの姿勢、人類の愚かさ、宗教への絶望感など、常日頃不満に思っていたものが少し和らぎ、人間、そう捨てたものじゃない、まだ見込みはあると感じました。続編が楽しみです。
タウンズマン (URL)
2008/01/27 Sun 10:16 [ Edit ]
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