2008.01.26 安楽死を巡るディスカッションドラマ
―民芸の新作公演『選択 一ヶ瀬典子の場合』を観る―

半澤健市 (元金融機関勤務)

『選択 一ヶ瀬典子の場合』(木庭久美子作、渾大防一枝演出)は、東京裁判を題材にした木下順二の『審判』やフルトヴェングラーの戦争責任を問うたハーウッドの『どちらの側に立つか』などと並んで民芸のディスカッションドラマの系譜に優れた一本として加わることになるだろう。

《殺人罪に問われる女医一ヶ瀬典子》
医師一ヶ瀬典子は末期ガン患者に塩化カリウムを注射して安楽死させる。殺人罪に問われた典子は、患者の妻村石ハルから安楽死の処置を依頼されたと主張するがハルはそれを否定している。典子の行為は考えた末の行為であった。患者のこと、家庭環境のことを良く知っていた。患者の息子は交通事故で妻を亡くしたうえ勤務先からリストラされタクシー運転手に転職していた。村石家に「不幸が束になってやってきた」(ハルの台詞)時期であった。三年の看病に疲れきったハルは「主人を早く楽にしてやってください。早く、早く天国に送ってやってください」と言った。それを聞いたとき、典子にはアルツハイマーで娘を判別できない自分の母親の顔が浮かんだ。町医者だった実直な父親の記憶も典子の生死観に影響していた。総合病院を経営する兄壮太郎との会話で彼女はこう言う。

典子 あたしは、医学生の頃、父の手伝いをしていたから、よく知っているのよ。お父様は、末期癌の患者さんを安楽死させてた。
壮太郎 今とは時代がちがうんだ。親父は、医師としては、実に真面目な男だった。人の命を軽々しく扱うような医者ではなかった。
典子 死の迫った病人を安らかに死なせることが、生命を軽々しく扱うことになるんですか?
壮太郎 安楽死は、日本の現状では、認められていないんだ。親父の名誉に関わることを軽々しく口にするな。
《典子の真情はなにだったのか》
若い弁護士保坂は弁護の過程で彼女の心情を理解するようになる。

典子 三日、あるいは二日なのよ。たったそれだけの時間を、あたしはあの患者から奪ったのよ。ただ意識もなくベッドに横たわっていたあの人の時間をあたしは奪ったのよ。もし確実に天国があるとしたら、あたしは、胸をはって、村石さんを天国へ送りましたっていえるのに・・・今は誰もが、あたしを殺人者だって、あたしめがけて石を投げつけてくる。・・・あたし、自分の天職だと思っていたのよ。子供の時から、父のような医者になりたいと思ってたのよ。人の命を助けることはあたしの天職だと・・・なんてことでしょう。人の命を助けるために医者になったというのに・・・。
保坂 あなたという人が、少しずつわかってきました。こんなことで、あなたの医師免許が剥奪されるとしたら、実に不当です。僕はなんとかしてあなたを助けたい。

保坂の法廷戦術としてはハルの「私が安楽死を頼んだ」という証言を引き出したい。典子はハルに同情しその言葉に従っただけというのが弁護の論理である。典子は裁判のルールを破ってハルに直接頼み込んで証言の約束を取りつける。法廷場面がどう展開したか。裁判の結果はどうなったのか。詳細を述べる紙数はないが、二人の女性が対峙するハルの自宅場面やハイライトの法廷場面では恐いほどの緊張感が走った。観客は固唾を呑んで舞台に見入った。

《木庭作品のもつ重層性》
作者の木庭久美子は主人公典子の立場からだけで作品を組み立ててはいない。
ハルの立場、検事や弁護士という法律家の立場、ほかにも典子を囲む人々の重層的な視線を設定してドラマの客観性を深めている。深みと厚みを与えている。
老齢社会における終末医療と痴呆介護、患者と医師との人間関係、ハイテク医療出現の影響、説明責任と訴訟指向、困難を増す病院経営。安楽死問題はまことに多様な側面をもっていることをこの作品は教えてくれる。しかしこの今日的なテーマにもまして作者が提示するのは「医師は他人の生命を奪えるのか」、「人は人を裁けるのか」という形而上学的な問題である。作者がクリスチャンであることはその一つの理由であるだろう。しかし作者の論理的な思考で追い詰めればこの問題に突き当たる筈だ。作者の解答はあるのか。観客へ問題を投げ出しつつも作者は典子に寄り添っていると私は感じた。
この戯曲は一人の医師が自分の内面を見つめながら世間と戦い挫折する物語である。と同時に主人公が新しい自分を発見する物語である。開幕直後に出てくる総合病院を経営する実兄壮太郎夫婦の俗物性が次第に視界から消えていく。医師会会長やロータリークラブ会員への壮太郎の関心が実に矮小なものに見えてくる。精神の論理が生活の論理を追い越していくのである。

芝居が終幕に近づくにつれて観客席からすすり泣きの声が聞こえた。私も見終わって直ぐには席を立てなかった。『選択 一ヶ瀬典子の場合』は今日的なテーマのなかに人間の生と死を深く考えさせる力作である。

東京新宿の紀伊国屋サザンシアターで2月3日(日)まで上演中。
問い合わせは劇団民芸へ。電話044-987-7711、www.gekidanmingei.co.jp/
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