2008.02.15 多様な表現形式を追求した「巨匠」
―映画監督市川崑のへ追想―

半澤健市 (元金融機関勤務)

「巨匠」が92歳で逝った。一映画好きとしての追想を書きたい。
「キネマ旬報」の市川作品一覧によれば第1作は『東宝千一夜』(1947年、以下19は省略)だが、一般には『花ひらく』(48年)がデビュー作で通っている。孤高の女流作家野上弥生子の小説『真知子』の映画化である。長編『迷路』を代表作とする野上は、左翼への同調的態度を通したが、本質は個人主義者であつたと思う。『真知子』はブルジョアの娘が革命青年に失望する物語である。学生(上原謙)と真知子(高峰秀子)の関係と破局の描写は、私の見た限り異様に暗い感じのする不思議な作品であった。東宝争議の分裂組合として独立した新東宝作品でのデビューという背景もあったのであろう。イデオロギー的思考に馴染まない市川の体質が困惑したのでもあろう。

第2作の『三百六十五夜』(48年)は上原、高峰のコンビに山根寿子がからむ絢爛たるメロドラマであった。同名の主題歌とともに市川は一挙に第一線に躍り出たのだった。50年代の都会的、社会風刺的な作品は市川モダニズムともいうべき作風で邦画界に新風を吹き込んだ。同時代の映画青年は、今井正や山本薩夫などの独立プロ系の社会派に魅力を感じる一方で市川の都会的洗練にも惹かれていたのである。
ここでは『プーサン』(53年)、『青色革命』(53年)、『億万長者』(54年)、『満員電車』(57年)などのタイトルを挙げるにとどめる。私個人には『青春銭形平次』(53年、人間国宝中村雀右衛門が大谷友右衛門の名前で出ている)、『愛人』(53年、森本薫の戯曲『華々しき一族』の映画化)が好みの作品である。一方で市川は文学作品にも強い関心を示して名作、佳作をつくった。漱石の『こころ』(55年)、竹山道雄の『ビルマの竪琴』(56年と83年)、谷崎の『鍵』(59年)と『細雪』(83年)、藤村の『破戒』(62年)、三島の『炎上』(58年)などである。
60年代で記憶に残るのは『雪之丞変化』(63年)と『東京オリンピック』(65年)である。前者は長谷川一夫映画出演300本記念作品だが、市川の洗練された映像美と原作者三上於菟吉の大衆性が結合した傑作だった。東京オリンピック映画は当初予定の黒澤明から予算の都合で市川に代わったといわれている。重厚な作品となったであろう黒澤作品とは異なり、市川作品は選手の人間的、心理的な側面を強調した独特の映像に結実した。アベベの哲人的な横顔のスローモーション画面が我々の脳裏から消えることはないであろう。独自の画面構成は時の文相河野一郎に「これは記録映画ではない」と叫ばせトラブルになつたほどである。
70年代以降は横溝正史のミステリーものや娯楽性の強い大作が多い。金田一耕助が主役の作品でも、原作のもつおどろおどろしさや地方共同体に残る地霊的心性の表現よりも謎解きと意表を衝く画面の工夫に力点がおかれている。

結局、市川崑はどういう映像作家であったのか。
彼は映像表現の様々な可能性を追求した作家であったといえよう。日本の映画監督で1チームを作れば市川は俊足攻打の二番打者あたりが似合う選手であろう。市川は晩年には「巨匠」と呼ばれたが、黒澤明や小津安二郎はカッコなしの巨匠であったのに比べ最後までカッコが取れることはなかった気がする。それは市川崑を貶めることにならない。万年映画青年として評価されることを自身が喜ばない筈はない。それに彼は国内外で数々の表彰によって世俗的評価は十分に受けているのである。先に逝った共同作業者和田夏十夫人の功績も忘れることはできない。娯楽性と芸術性を巧みにバランスさせて日本映画の黄金時代に一時期を画した作家の他界はやはりとても淋しいことである。
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