2008.03.30
サブプライム問題の射程(9)
―安原和雄さんへの「お答え」―
「サブプライム問題の射程(8) ベア・スターンズ救済の100時間」(3月24日)への同日コメント拝読しました。いつも鋭い指摘と問題提起をしていただき有り難うございます。回答を求めるとは書いておられませんが私なりの「お答え」をいたします。
「サブプライム問題」はどこまで拡がるのか。これは大きな問題の発端に過ぎず世界の金融市場、更には世界経済の全般的危機に至る発端ではないのか。そういう問題意識を私も安原さんと共有いたします。しかし、一刀両断で世界経済を斬りとる力は、市井の一市民にある筈もなく、個々の事象の観察から全体像に少しでも迫ろうと四苦八苦しているところです。
安原さんの問題提起は次の4点であると理解しました。
(1)サブプライム問題は90年代の日本のバブル崩壊とどう違うか。
(2)サブプライム問題は投資機会を失った「貧困ビジネス」の行き詰まりではないか。
(3)サブプライム問題は不健全なマネー経済の行き詰まりではないか。
(4)サブプライム問題に起因するドル下落は、債務国に転落したアメリカ経済が外資と過剰消費で支えられてきたシステムの行き詰まりではないか。
半澤健市 (元金融機関勤務)
「サブプライム問題の射程(8) ベア・スターンズ救済の100時間」(3月24日)への同日コメント拝読しました。いつも鋭い指摘と問題提起をしていただき有り難うございます。回答を求めるとは書いておられませんが私なりの「お答え」をいたします。
「サブプライム問題」はどこまで拡がるのか。これは大きな問題の発端に過ぎず世界の金融市場、更には世界経済の全般的危機に至る発端ではないのか。そういう問題意識を私も安原さんと共有いたします。しかし、一刀両断で世界経済を斬りとる力は、市井の一市民にある筈もなく、個々の事象の観察から全体像に少しでも迫ろうと四苦八苦しているところです。
安原さんの問題提起は次の4点であると理解しました。
(1)サブプライム問題は90年代の日本のバブル崩壊とどう違うか。
(2)サブプライム問題は投資機会を失った「貧困ビジネス」の行き詰まりではないか。
(3)サブプライム問題は不健全なマネー経済の行き詰まりではないか。
(4)サブプライム問題に起因するドル下落は、債務国に転落したアメリカ経済が外資と過剰消費で支えられてきたシステムの行き詰まりではないか。
以下は私の「お答え」です。
(1)バブルの形成と崩壊の本質は同じと思いますが、日本は国内問題だったのに比べ債権者が海外に散らばっている点が決定的に異なります。公的資金投入政策でも合意を取りつける当事者の数が異なります。
(2)投資機会を失ったとは思いません。バブルは対象を選ばずどこにでも起きると思います。オランダのチューリップ恐慌に始まり人間は後で考えると信じられないバカな「投資行動」を繰り返しています。
(3)必ずしもそうは思いません。なぜならマネー経済の拠ってきたる所以やマネーと実態との適正な比率がいまだに解明されたと思えないからです。
(4)お説のように80年代に米国が債務国に転じて以来、定性的にはいつ「アメリカの時代」が終焉しても説明はできると思います。問題は、ベクトルよりも「何時」「どのような速度で」起こるかです。債務超過のツケは最後には国内貯蓄と外国から受けとる利子配当などに依存しますが、国民の本源的貯蓄も底をついてきているようであり今度はいよいよ「終わりの始まり」であるような気がします。
ところで私が今度の救済劇で感じたことは二つあります。お読み下さい。
一つは「自由放任の終焉」ということです。
1926年のケインズ論考に発するこの思想は30年代から半世紀の間、世界経済を支配したのち、80年代に「新自由主義」によって取って代わられました。それから30年経過すると、永遠と見えた「新自由主義」イデオロギーも年貢の納め時が来たようです。「新自由主義者」または「市場原理主義者」の奉ずる原理を一言でいえば、「市場に任せれば全てはうまくいく」ということでしょう。しかし顧みれば、その間の主要な金融危機の決定的な救済者は「市場原理」ではなく「国家」や「業界組織」や「国際機関」でした。84年のコンチネンタル・イリノイの破綻、80年代末から始まった貯蓄貸付組合(S&L)危機、97年のアジア通貨危機、98年のヘッジファンドLTCMの危機。いずれも「経済外的強制」の手が深刻なシステミックリスクを回避しました。今回も同じです。ここまで書いたら、Financial TimesにThe market no longer has all the answers. by Michael Skapinker, March 24という記事を見つけました。「いまや市場は全能の解決者に非ず」とでも訳せましょう。私と共通する問題意識のように読みました。
二つは「証券と銀行」の分離の再構築の必要性です。
30年代大恐慌の教訓は「証券と銀行」の分離でした。グラス・スティーガル法や証券取引法の制定です。預金と貸出は商業銀行で、市場からの資金吸収と配分は投資銀行(証券会社)にという棲み分けです。これに対応した公的機関が確立しました。業界棲み分けによるリスクの回避という有効な政策も、「新自由主義」の繁栄と並行して「なし崩し」に垣根がなくなりました。そのうえ理学部数学科を出た人間でないと理解不能な金融工学が現れ、錬金術のような金融派生商品derivativesというものが発明されました。金融リスクは百鬼夜行の世界のなかにバラ撒かれました。今度の救済劇で明らかになったことは、過日紹介したイエール大学のルービニ教授の考察にもあった「影の金融システム領域」shadow financial systemの存在であり、連邦政府・連邦準備制度・通貨監督官・証券取引委員会というアメリカの誇る金融制度の行政・監督機構の監視の眼を逃れるシステムの跳梁跋扈です。しかもそれが世界大に膨張しているという現実です。メディアにもいくらかこの論議が現れています。しかし金融世界は制御不能になった、簡単にはコントロールできないという悲観論も生じています。いずれにせよ、この二つは今後数年、世界金融システムを論ずるときの最重要のテーマになると思います。
現時点で私がいえることはこんなところです。懲りずにおつきあい下さい。
(1)バブルの形成と崩壊の本質は同じと思いますが、日本は国内問題だったのに比べ債権者が海外に散らばっている点が決定的に異なります。公的資金投入政策でも合意を取りつける当事者の数が異なります。
(2)投資機会を失ったとは思いません。バブルは対象を選ばずどこにでも起きると思います。オランダのチューリップ恐慌に始まり人間は後で考えると信じられないバカな「投資行動」を繰り返しています。
(3)必ずしもそうは思いません。なぜならマネー経済の拠ってきたる所以やマネーと実態との適正な比率がいまだに解明されたと思えないからです。
(4)お説のように80年代に米国が債務国に転じて以来、定性的にはいつ「アメリカの時代」が終焉しても説明はできると思います。問題は、ベクトルよりも「何時」「どのような速度で」起こるかです。債務超過のツケは最後には国内貯蓄と外国から受けとる利子配当などに依存しますが、国民の本源的貯蓄も底をついてきているようであり今度はいよいよ「終わりの始まり」であるような気がします。
ところで私が今度の救済劇で感じたことは二つあります。お読み下さい。
一つは「自由放任の終焉」ということです。
1926年のケインズ論考に発するこの思想は30年代から半世紀の間、世界経済を支配したのち、80年代に「新自由主義」によって取って代わられました。それから30年経過すると、永遠と見えた「新自由主義」イデオロギーも年貢の納め時が来たようです。「新自由主義者」または「市場原理主義者」の奉ずる原理を一言でいえば、「市場に任せれば全てはうまくいく」ということでしょう。しかし顧みれば、その間の主要な金融危機の決定的な救済者は「市場原理」ではなく「国家」や「業界組織」や「国際機関」でした。84年のコンチネンタル・イリノイの破綻、80年代末から始まった貯蓄貸付組合(S&L)危機、97年のアジア通貨危機、98年のヘッジファンドLTCMの危機。いずれも「経済外的強制」の手が深刻なシステミックリスクを回避しました。今回も同じです。ここまで書いたら、Financial TimesにThe market no longer has all the answers. by Michael Skapinker, March 24という記事を見つけました。「いまや市場は全能の解決者に非ず」とでも訳せましょう。私と共通する問題意識のように読みました。
二つは「証券と銀行」の分離の再構築の必要性です。
30年代大恐慌の教訓は「証券と銀行」の分離でした。グラス・スティーガル法や証券取引法の制定です。預金と貸出は商業銀行で、市場からの資金吸収と配分は投資銀行(証券会社)にという棲み分けです。これに対応した公的機関が確立しました。業界棲み分けによるリスクの回避という有効な政策も、「新自由主義」の繁栄と並行して「なし崩し」に垣根がなくなりました。そのうえ理学部数学科を出た人間でないと理解不能な金融工学が現れ、錬金術のような金融派生商品derivativesというものが発明されました。金融リスクは百鬼夜行の世界のなかにバラ撒かれました。今度の救済劇で明らかになったことは、過日紹介したイエール大学のルービニ教授の考察にもあった「影の金融システム領域」shadow financial systemの存在であり、連邦政府・連邦準備制度・通貨監督官・証券取引委員会というアメリカの誇る金融制度の行政・監督機構の監視の眼を逃れるシステムの跳梁跋扈です。しかもそれが世界大に膨張しているという現実です。メディアにもいくらかこの論議が現れています。しかし金融世界は制御不能になった、簡単にはコントロールできないという悲観論も生じています。いずれにせよ、この二つは今後数年、世界金融システムを論ずるときの最重要のテーマになると思います。
現時点で私がいえることはこんなところです。懲りずにおつきあい下さい。
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この「終焉」について半澤さんはつぎのように指摘しています。
問題は、ベクトルよりも「何時」「どのような速度で」起こるかです。(中略)今度はいよいよ「終わりの始まり」のような気がします ― と。
「終わりの始まり」なのか、それとも「終わりの終わり」つまり土壇場に追いつめられているのか、は判断の難しいところです。ちょうど第2の関東大震災の可能性があるとしても、それが「いつ」なのか、これは現場感覚で判断するしかないように思います。しかし可能性があれば、事前にどう備えるかが課題となります。
アメリカの場合、多くの人が指摘しているようにドルの急落(あるいは暴落?)という形をとるでしょうから、その対策は、1兆ドル(約100兆円)を超える日本の外貨準備のほとんどをドル建て米国債で運用している現状をどうするかです。
そのままにしておいてドル急落で兆円単位の巨額の差損に泣きの涙で甘んじるか、それとも運用先の多様化を選択し、少しでもリスクの分散を図るか、どちらかです。いまの自民・公明政権では残念ながら前者の選択しかないように思います。いいかえれば泥船のような脆弱な日米運命共同体に国民は組み込まれていることになります。
なぜこういう仕組みになっているのか、これは「釈迦に説法」ですが、日米安保体制のゆえです。安保体制は軍事同盟であると同時に経済同盟です。軍事同盟であることは周知のことですが、経済同盟は日米安保条約第2条(経済的協力の促進)の「締約国は、その国際経済政策における食い違いを除くことに努め、両国の間の経済的協力を促進する」という規定によって性格づけられています。日本政府が機会あるごとに「日米同盟堅持」を強調することには、以上のような経済同盟としての含意もあると私は理解しています。
日米安保体制といえども、決して聖域ではありません。不都合であれば、国民の意思によって終了させる以外に妙策はありません。念のため言い添えれば、安保条約第10条(有効期限)に「条約は、終了させる意思を相手国に通告した後1年で終了する」とあります。
さて私はあえて「アメリカ帝国」という表現を使っています。これはアメリカが日本をはじめ海外に軍事基地を張りめぐらし、世界の軍事費の半分以上をアメリカ1国で占めており、しかも覇権主義と先制攻撃論に基づいて現実に軍事力を行使しているという、際限のない暴力と無駄と浪費を繰り返す世界で唯一の負の特質を持つ国家だからです。それがアメリカのさまざまな行き詰まりの背景となっているというのが私の基本的な捉え方です。
「かつてのローマ帝国が滅びたようにアメリカも崩壊の過程に入っている」旨を演説で指摘したのは、今から30年以上も前の1971年、当時のニクソン米大統領でした。
同じ共和党でありながら現在のブッシュ米大統領は世界から笑顔を消し去ることに熱心です。