2008.04.03 地の塩・一粒の麦に徹す
 中島竜美さんを悼む

岩垂 弘 (ジャーナリスト)


 「彼こそ、地の塩、一粒の麦と呼ぶにふさわしい人だった」。1月10日に急逝したフリージャーナリストで在韓被爆者問題市民会議代表の中島竜美さん(80歳)を偲ぶ会が3月29日、東京・杉並区阿佐谷で開かれ、その死を悼んで集まった人たちは口々に在外被爆者、とりわけ在韓被爆者の援護のために半生をささげた中島さんの功績を讃えた。

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 中島さんは東京都出身。早稲田大学を卒業後、執筆活動に入った。東京から広島へ通い、もっぱら原爆被害者に関する取材にあたった。
 1960年代の半ば、そのころ、韓国在住の被爆者の実情を日本に初めて紹介した中国新聞記者の平岡敬氏(その後、広島市長)と知り合う。広島、長崎で被爆した朝鮮人は太平洋戦争後、祖国に引き揚げるが、被爆地の政府(日本政府)からも韓国政府からも放置され、身体面でも生活面でも苦境のどん底にあった。中島さんは平岡氏を通じて在韓被爆者の実態を知る。こうして、在韓被爆者援護問題が中島さんにとって終生の関心事となる。

 1970年暮れ、韓国の被爆者、孫振斗氏が原爆症の治療を求めて佐賀県の港に密入国し、逮捕される。密入国の罪で懲役刑に処せられるが、孫振斗氏は原爆医療法に基づく被爆者健康手帳を申請、福岡県が「原爆医療法は社会保障法であり、手帳交付には適法な在留が必要」として、これを却下すると、同氏は同県を相手取り手帳交付を求める行政訴訟を起こす。福岡、広島、京都、東京などに孫振斗氏支援組織ができたが、その中心にいたのが中島さんだった。 
 この裁判は一、二審で勝訴し、1978年には最高裁でも勝訴する。最高裁判決は「原子爆弾による健康上の障害は戦争という国の行為によってもたらされたものであり、原爆医療法は実質的に国家補償的配慮が制度の根底にある」「(孫氏が)被爆当時は日本国籍を有し、戦後平和条約によって自己の意思にかかわりなく日本国籍を喪失したものであるという事情をも勘案すれば、国家的道義のうえからも(孫氏の訴えは)首肯される」と述べていた。
 これを機に、外国人被爆者も原爆医療法に基づく治療を受けられるようになった。孫振斗裁判は在外被爆者の援護に道を開いた画期的な裁判だったわけで、これを理論、運動の両面で支え続けた中島さんの役割は大きかった。
 
 その後も、権利回復と一層の援護を求める在韓被爆者によるさまざまな提訴が相次いだ。中島さんは「在韓被爆者問題市民会議」を組織して、これらの裁判にかかわり、在韓被爆者への支援を続けた。
 昨年11月には、三菱広島・元徴用工被爆者裁判が最高裁で勝訴。これは、太平洋戦争中に朝鮮半島から広島市の旧三菱重工業の工場に強制連行され、被爆した韓国人元徴用工40人が、国や三菱重工業などに損害賠償などを求めた訴訟の上告審で、最高裁は、帰国を理由に健康管理手当を支給しなかった在外被爆者対策を違法として国に国家賠償を初めて認めた。中島さんはこの裁判でも原告たちを支援し、昨年12月24日、広島で開かれた勝訴報告会にも姿をみせ、「大きな成果だ」と講演した。これが、中島さんの最後の活動となった。

 偲ぶ会には被爆者、弁護士、学者、報道関係者ら約30人が集まった。中島さんが関わった被爆に関するテレビ・ドキュメンタリーが上映されたあと、海外から寄せられた追悼文が披露された。
 韓国原爆被害者協会の郭貴勲・元会長は「中島さんは私たち韓国被爆者たちの師であり、後援者であり、リーダーであったのは周知のことですが、孫振斗の密航事件が七〇年に起こると中島さんは広島の良心と協力して全力を尽くして、孫振斗を助け、三審まで勝ち抜きましたのが在外被爆者援護の始まりです」「訃報に接し、形容のない悲しみとなげきと、人生の儚さに苛まれました。住み慣れた三軒屋が潰れてしまったような心境です。在外被爆者問題ももう一息で終わろうとしているときに、決戦場で司令官を失った兵士たちはどうすればよいのでしょうか」と述べていた。
 また、辛亨根・韓国大田広域市国際関係諮問大使は「先生は、韓国被爆者問題に関してどの韓国人よりも苦心して解決方法を模索しながら、日本の支援団体が韓国原爆被害者たちを助けて韓日両国政府がもっと責任ある措置をとるようにするなど積極的な行動の先頭に立つ実践家であられました。韓国被爆者問題を通じて新しい時代の韓日親善ををどのように実践しなければならないかという模範を示した『行動する日本の良心』でした」「先生はその足跡を通して韓国人被爆者とその子孫に対して、過去に責任をとる日本の良心のシンボルとして、歴史の桎梏を乗り越えて新しい未来を開く責務を負う韓日の市民たちに、どんなに小さなことでも言葉よりも行動と実践だけが真の友誼と親善の実を結ぶという教訓を与えてくれました」と述べていた。
 外国人からこれほどの哀悼の言葉をささげられた日本人を、私は他に知らない。

 同胞からも次のような追悼文が寄せられた。
 「私たち海外に住む被爆者は長い間、苦しい差別を受け続けて来ました。韓国の被爆者、北米の被爆者、北朝鮮の被爆者とみんな同じ苦難の道のりを歩いてきました。こんな状況の中で敬愛する中島さんはその矛盾を公にしての運動に生命をかけられました。いつも穏やかな笑顔で温かく在外被爆者を迎えていただきました。特にブラジルより24時間の飛行機便で着く私たちの為にホテルや、東京での一切の手配をして頂きました」(森田隆・在ブラジル原爆被爆者協会会長)

 その後、参会者全員が発言したが、袖井林二郎・法政大学名誉教授は「中島さんは、地の塩のような存在だった」と讃えた。中島さんの後を継いで在韓被爆者問題市民会議の代表になった笹本征男氏は「ずっと運動の中心にいてまとめ役を果たしながら、運動の表に出て運動を派手にやる人ではなかった。そう、聖書に出てくる『一粒の麦』のような稀有の人でした」と声をつまらせた。
 笹本氏はさらに「私が中島さんから学んだ最も大きなことは、国家の加害性の問題です。為政者の加害性、同時に国家を構成する国民の加害性です」と述べたが、中島さんの子息も「父は運動一筋の人でした。父は、日本政府はアジアの人々の生命を奪い、言葉を奪いながら、謝罪も補償もしなかった、日本政府は何もしなかった、と怒っていました。その怒りがバックボーンになっていたようです」とあいさつした。
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