2008.04.06 バスラ戦争はシーア派の同士討ち
ブッシュ政権にとって最悪の帰結

伊藤力司 (ジャーナリスト)

昨年9月頃から小康状態にあったイラクで3月25日突如戦火が再燃、南部の港湾都市バスラや首都バグダッドでシーア派反米過激派民兵のマハディ軍と政府軍の激戦が続いた。マリキ首相自らバスラに乗り込んで政府軍の陣頭指揮に当たり、マハディ軍を殲滅するまで戦うと宣言したが、結局は6日後に停戦となった。

400人以上の死者を出したこの6日戦争でマハディ軍は生き残り、米軍が訓練したイラク政府軍は戦闘中に脱走兵が相次ぐなど、民兵に勝てないことが証明された。実は政府軍もシーア派主体で構成されているから、この戦争は実質的にシーア派の同士討ちだった。この戦争はイラクのシーア派に強い影響力を持つイランの仲介で停戦したが、米国にとって不倶戴天の敵のイランに名をなさしめる結果になった。イラク政府軍を強化して治安維持に当たらせ、米軍を段階的に撤退させようとするブッシュ政権の思惑は怪しくなった。

イラクの人口2900万人の約60%は、イスラム教シーア派で占められる。2005年12月に行われた民主的な総選挙で、シーア派の統一イラク同盟(UIA)が多数派になったのは自然なことだった。難航した組閣交渉の末、UIAを基盤とするマリキ内閣は2006年5月に発足したが、内実は今回の6日戦争に見られるようにシーア派内では内部権力抗争が激しく闘われている。

大まかに言って、UIAはシーア派のダーワ党、イラク・イスラム最高評議会(IISC)、モクタル・サドル師派の3派の寄せ集めである。ダーワ党は1957年に結成された古参政党で、現在の党首はマリキ首相。IISCは1982年テヘランで結成されてイラン流のイスラム国家を目指し、バドル旅団という民兵組織を傘下に持つ。指導者はハキム師。

第3のサドル派は反米強硬派で、米軍の撤退期限明確化をマリキ首相に要求したが拒絶されたため、2006年4月に全閣僚を引き揚げ、9月にはUIAからも離脱して野党に転じた。約6万人といわれる民兵集団マハディ(救世)軍を擁している。
イスラム教シーア派ではウラマー(イスラム法学者)と呼ばれる聖職者集団がハウザ(学会)に依って、特別の地位を占める。ハウザはヒエラルキー構造を持ち、どれだけの学識と経験を積んだ学者であるかを位階によって示す。その頂点に立つのがマルジャー・アッタクリード(模倣されるべき源泉)という地位にある法学者だ。この「マルジャー」と呼ばれる法学者が弟子を育成し、金曜礼拝を通じて信徒に語りかけ、教化するのがシーア派のシステムである。現在のイラクではシスタニ師だけがこの「マルジャー」だが、複数存在した時期もある。

さて30歳そこそこの若いモクタダ・サドル師は、「マルジャー」のムハンマド・サーディク・サドル師を父として、バグダッド郊外カジミーヤに生まれた。このサドル家は、ダーワ党を創設して指導者となったムハンマド・ハキル・サドル師など歴代のシーア派法学者を輩出した名門である。父サーディク師はシーア派が弾圧されたサダム・フセイン時代、一度は禁止された金曜礼拝の復活を政府に認めさせ、シーア派信徒集団を再生したことで知られる。バグダッド市内東北部の貧しいシーア派地域がサドル・シティと呼ばれるのは、1999年にフセイン政権に殺されたサーディク・サドル師を悼んでのことだ。

その息子のモクタル・サドル師は侵攻した米軍がフセイン政権を打倒した後、サドル・シティやシーア派の聖地カルバラ、ナジャフをはじめ、多くのシーア派信徒が住むイラクの中部から南部でサドル派の勢力を広げた。イスラム教に対する差別意識を持ち、シーア派の宗教行事に無理解な米占領軍に対する大衆の激しい反発心を汲んで、若きサドル師は正面から米軍の早期撤退を掲げ、シーア派大衆の心を惹きつけた。彼の呼びかけに応え2004年8月には、100万人単位のデモ隊がカルバラとその周辺を埋め尽くしたことがある。

サドル派に敵愾心を燃やしているのが、シーア派エリートのIISCである。フセイン政権のシーア派弾圧を逃れてテヘランに亡命した、比較的裕福なイラクのイスラム法学者たちが、イラン・イスラム共和国の実権を握る法学者のバックアップを受けて結成した組織である。当初はイランのイスラム革命にならってイラク・イスラム革命最高評議会(IIRSC)を名乗っていたが、昨年7年「革命」を削ってイラク・イスラム最高評議会を名乗るようになった。指導者のハキム師は、サドル家と同様多くのイスラム法学者を生んだ名門ハキム家の出である。

06年にサドル派がマリキ政権を離脱してから、マリキ首相のダーワ党とIISCの関係が深まる。米軍による訓練の下、急遽編成されたイラクの政府軍と警察は主としてダーワ党とIISC傘下のバドル旅団のメンバーから徴募された。その多くは貧しいシーア派の失業青年たちであり、マハディ軍を構成する青年たちとさして変わらない。

モクタル・サドル師は07年9月、突如としてマハディ軍に6カ月の停戦を命じる。それまでのマハディ軍はスンニ派との宗派抗争や米軍への攻撃でイラクの治安悪化の“主役”を演じていた。サドル師がこの時期に停戦を命じた動機は不明だが、この9月から際だってイラクの治安は小康状態に入った。ブッシュ大統領は、米民主党など国内の反対を押し切って、07年初めからイラクに増派した3万人の米軍戦闘部隊の成果だと宣伝しているが、客観的に見てマハディ軍の停戦の成果が大きかった。

サドル師はさらに今年3月、停戦の6カ月延長を命令した。小康状態が続くと誰もが予想した。ところがマリキ首相は3月25日、バスラに政府軍1万5000人、イラク警察1万5000人の計3万人を動員して、マハディ軍征伐を開始した。マハディ軍は直ちに反撃し、戦闘はバグダッドのサドル・シティから中部のナジャフ、クートなどのシーア派地域、さらには北西部のスンニ派地域のティクリートまで拡大した。マリキ政府は急遽バグダッドに外出禁止令を出したが、バグダッドで最も安全と言われてきたグリーン・ゾーンにロケット弾が撃ち込まれ、副大統領官舎が破壊され、警備兵が死亡した。

政府側とマハディ軍の双方に400人を越す死者を出した後、3月30日サドル師が政府側がマハディ軍掃討作戦を止めることを条件に、マハディ軍も停戦せよとの命令を出してこの戦争は終息した。停戦命令の背後には、ダーワ党、IISC、サドル派から成る使節団がイランの高位聖職者の住むコムを訪れ、イラン側に仲介を依頼したという事実がある。イラン政府を指導する高位聖職者の言うことに、イラク・シーア派3派は素直に従うのである。

ブッシュ大統領はバスラの戦闘が始まった段階で「米軍が訓練したイラク政府軍がマハディ軍を掃討するようになった」とのコメントを出したが、停戦が実現すると沈黙を守った。ブッシュ大統領が最も嫌うイランの聖職者が停戦を仲介した途端、ダーワ党もIISCも政府軍・警察も、これに従った。クロッカー駐イラク米大使が07年12月、イラクの治安が改善したのはサドル師のおかげだとの声明を出したことがある。イラクの治安は、サドル師とサドル師に命令できるイランに懸かっている現実を、米国も認めざるを得ない。

4月3日付ニューヨーク・タイムズによると、バスラ攻略に向かったイラク政府軍では1000人を越す脱走兵が出たという。貧しい階層出身の政府軍兵士たちには、貧しい同胞のマハディ軍と戦う同士討ちを拒否して「脱走」したり、マハディ軍に帰順したりした者が多かったという。

口を開けば「対テロ戦争に勝利する」と唱えているブッシュ大統領だが、対テロ戦争の前線であるイラク、アフガニスタン、パキスタンで、ブッシュの同盟者たちはいずれも旗色が悪い。マリキ・イラク首相、カルザイ・アフガニスタン大統領、ムシャラフ・パキスタン大統領の面々である。あわよくば、親米イラク政権(傀儡政権)をつくり、在韓米軍、在日米軍基地のような恒常的な米軍基をイラクに置ける見通しを得てから、米軍を順次撤退させたいと思惑のブッシュ大統領にとって、宿敵のイランの声望が上がることは最も避けたい事態である。しかし今回のバスラ戦争の帰結は、米国の思惑がますます実現困難になり、ベトナム型全面敗北の形で米軍をイラクから撤退させなければならない蓋然性が増してきたことを示している。
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