2015.06.03  チベット仏教からの発信
          ――八ヶ岳山麓から(146)――

阿部治平 (もと高校教師)

中国の「蔵人文化網」という民間ネットサイトに、中国政府の宗教民族政策に対する大胆な批判論文が発表された(蔵人文化網www.tibetcul.com,2015・5・8)。
著者はドシ・リンポチェ(多識仁波切、リンポチェは転生ラマの敬称)、西北民族大学博士課程教授である。
論文は、表題を「仏教教学改革は一刻も猶予できない」としてチベット仏教教育の革新を訴えながら、中国共産党の宗教・民族政策の変更を迫るものである。
「蔵人文化ネット」は、2004年に西北民族大学教授ワンチュク・ツェダン(旺秀才丹)らが創設したもので、ドシ・リンポチェはその顧問。漢語で最新のチベット文化の情報を発信して国内外の学者からは歓迎されているらしいが、漢人の一部から亡命政府や外国の情報を国内に発信しているという非難がある。以下( )内は阿部の注。

まずドシ・リンポチェ論文の結論部分。
「1958年の民主改革と文化大革命は僧院を破壊し、チベットの仏教と文化だけではなく、信仰の秩序をも破壊した。さらにまた執政党と政府の国際的イメージに重大な損害をあたえ、チベット人地域の安定した社会構造を破壊するものとなった。僧院は知識の中心であり、外界の注目が集まるところであり、政府が安定を維持する重点である。
(政府が)僧院の積極的役割を軽視し、マイナス面の影響を過大視し、従来習慣的に用いられた単純で粗暴な政策をとり続けることは民族の団結、人心の安定にとって『百害あって一利なし』という結果を導く」
この主張は中共の硬直した民族宗教政策が持続するならば、チベット人の抵抗はやむことがないというに等しい。

論文は、仏教の中心がインドに移ったこと、インドのチベット人社会に建設された寺院が現代に即応した教育を行なっていること、それに対しチベット人地域大僧院には教育変革の能力がないことを指摘する。
「チベット人地域の僧院は幾たびもの政治運動によって重傷を負い、活力を失い、さらに高僧大徳が外国に亡命し、あるいは自然死したために仏教教育は二度と立ち直ることができず、教育と信仰の中心は外国に移転してしまった。これはチベット人地域に存在する重大な問題である」
「各レベルの僧院は因循守旧で、時代とともに進む考えがない。学制と教育方法が古すぎ、教育内容に現代科学の知識や時代の趨勢に関する知識、漢語や外国語がない。このため、ここで養成された僧侶は知識が狭く思想が保守的である。国外(すなわちインド)の僧院では学制と教育内容を数多く改善している。たとえば学位をとるまでの年限を短縮し、試験の方法を変え、教学課程に現代科学と外国語を増やすなど、現代社会に適応する知識・技能教育を増強している」
ここに大僧院の伝統的な教育内容とその方法を示すと以下の通り。
初歩の基礎教育(文字教育)は当然のことながら、専門課程では因明論(仏教論理学)・般若論(大乗修道総論)・中観論(中観哲学)・倶舎論(仏教知識概論)・律論(戒律学)の5部の大論を学ぶ。その教育方法は伝統的な「受学(授業)」「背誦(暗唱)」「閲読」「弁論」の四つである。
さらに大僧院は密教学院・医学院・時輪学院・文化学院などの専門学院をもうけている。これらは密教・チベット医学・天文暦算・サンスクリット・チベット語文法学・文学・歴史・美術工芸などの「10学」と称する教育任務を継承している。このため学業の完成までに18年から20年という長い時間がかかる。

破壊された寺院再建には民間資金と共に政府も一定の予算を投じているが、ドシ・リンポチェはその方法が間違っているという。
「チベット人地域の僧院は1958年の民主改革と文化大革命によって歴史的な災難をこうむり(寺院の90%以上が)ほとんど廃墟と化した。(1978年末の)中共11期3中全会後、民族宗教政策が回復し、大僧院は閉鎖を解かれ再建に向かったけれども、再建されたのは破壊された殿堂と経堂だけで、それも十分ではない。
こんにち、師僧集団と伝統的学制・教育事業など非物質的ソフト力量の回復再建が必要だが、傑出した師僧は失われ、新入生の供給源は(政府の)出家年齢(18歳以上)・寺院の区域・僧侶定員などによって制限されている。
たとえば再建状態が良好だといわれる甘粛南部のラブラン僧院ですらその規模は元来の半分、師僧の力量や教育のレベル、管理なども昔日のようではない。(ガンデン・セラ・デプンなど)ラサ3大僧院はさらにひどいもので、ほとんど有名無実の状態である」

1958年の叛乱鎮圧の際、多くの高僧は殺されるか投獄され、生き残りはたいていインドへ亡命した。このためチベット本土では、真剣に修行を行ない、仏教学を極めようとしても、適切な指導者を得ることができない。
これに対しインドのチベット仏教僧院では、その困難が存在しない。1970年代、インド・カルナタカ州南部のチベット人入植地にガンデン寺・セラ寺・デプン寺が再建され、亡命した高僧が集中した。この結果、亡命社会の大僧院はは伽藍だけでなく教育陣が充実するようになった。私はインドのチベット僧院で教育され、ラランバ学位(博士)をとった人の話を聞いたことがあるが、それはドシ・リンポチェの先の主張を裏付けるものであった。
2008年3月のチベット全土蜂起までは、毎年1000人程度、女性を含めた僧俗チベット人が生命の危険を冒してヒマラヤを越えていたし、子供をインドで教育しようとするものも絶えなかった。2000年カルマ・カギュ派17世法王ウゲン・ティンレー・ドルジェがインドに亡命したのもその一例である。
全土蜂起以後は、国境警備が厳しくなり亡命者は激減している(別所裕介『ヒマラヤの越境者たち』参照)。
実態がそうであっても、こんにち亡命チベット人の僧院を持上げ、対比してチベット人地域僧院の惨状が中国の宗教政策のもたらしたものと指摘することは、相当の覚悟が要る。

またドシ・リンポチェはチベット人地域の学校教育に関してこう主張する。
「チベット人地域の地方公立小中学校のなかには、現地の実情から離れ、民族語文と民族文化の教育を軽視しているものがある。ひどいのは、民族政策と法規を無視し、民族語文教育を勝手にやめて民衆の集団抗議事件を引き起こしている。またところによっては、チベット語による小中学校を設立しないために、子供をインドに送って勉強させようとするものを生んでいる」
チベットでも革命から数年は少数民族語による学校があった。1957年から「地方民族主義」に反対する闘争があり、58年には各地に反乱とその鎮圧があり、さらに文化大革命があって、80年代に再開されるまでの20数年間は民族学校は閉鎖され、ときに教師は用務員になり、民族語書籍を見ることは「民族感情」をもつものとみなされ投獄の憂目にあった。
2010年9月青海省当局は、チベット人地域の幼稚園から高校までの教育用語を数年内に漢語にするとした。反対の声が中高校生を中心に澎湃として起った。彼らはデモを行い「チベット語で学びたい!」と叫んだ。私は学生・生徒たちの緊張した必死の表情を忘れることはできない。
いま「民族語文教育を勝手にやめて」いるのは上級行政当局である。このため少数民族語による教育が当然と考える学者・教育者でも、多くは権力に怯えて発言しない。ドシ・リンポチェはあえて青海のチベット人中高生と同じ抗議をくりかえしたのである。

「僧院は仏教と民族伝統文化の教育センターであり、また物的文化非物的文化を保存し繁栄させる基地であった。生けるもの死するものの心のよりどころであった。ことわざに『金持になると漢人は耕地を買い、チベット人は寺を建てる』という。(清朝)乾隆帝は『僧院をひとつ立てるのは十万の兵を養うに勝る』といった。これはチベット仏教の漢チベットの団結と辺境の安全保障の上の役割を説明している」
チベット人の心理からすれば寺はこのように重要な存在だが、現在中共中央の指導者にこれが理解できる人がいるだろうか。ドシ・リンポチェの主張は正当で勇気あるものであるが、中共中央の強烈な中華民族主義・排外思想からすれば、到底受け入れられるものではない。
いまはただ、この勇敢な僧侶の安全を祈るのみ。
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