2008.04.23 鼓楼のある村―トン族・増衝村の人々
佐藤憲一 (写真家)

*ダブルクリックすると、写真はいずれも拡大します。
鼓楼のある村―トン族・増衝村の人々

鼓楼のある村―トン族・増衝村の人々

鼓楼のある村―トン族・増衝村の人々

鼓楼のある村―トン族・増衝村の人々

鼓楼のある村―トン族・増衝村の人々
 中国南部、貴州省周辺に住むトン族(=侗族)は人口約250万人の少数民族。特に貴州省東南部に多く住む。1999年から2005年にかけて、合計4回延べ1ヶ月半にわたり僕が滞在した増衝(ぞうしょう)村は標高700mの山深い地にあり、約1500人のトン族の人々が静かに暮らしている。村の三方を囲むように川が流れる美しく小さな村だ。もちろん宿はないので、ミャオ族の日本語ガイド万さんと一緒に村人の石朝亮おじいちゃんの家に居候させてもらい、昼は田んぼ仕事を手伝い、夜は酒を一緒に飲みながら、日々を過ごし、村人の写真を撮った。
 トン族は木の民・稲の民・藍の民、そして唄の民。優秀な建築技術を誇り、増衝村には1672年に建てられたトン族最古の鼓楼が村の中心にそびえたつ。釘を一本も使わずにたてられる鼓楼はトン族の象徴。鼓楼の最上部には太鼓があり、緊急時には村中にその音が響き渡る。鼓楼とともにトン族の村の景色を彩るのが風雨橋。ロマンチックな響きが印象的だが、その名の通り、風や雨をしのぐ屋根の架かる橋。トン族の人々にとっては、人が集い憩う場であり、作業の場ともなる大切な場所である。また、天まで届くかのような棚田で米を作り、農閑期には女性たちは布を織り、藍染めをする。雨が多い地域なので、卵の白身を使ってコーティングし、独特の光沢感をもつのがトン族の藍染めの特徴だ。つい最近まで歌垣の習慣が残っていたほど、歌好きな民族としてもしられ、生命感にあふれた輪唱の歌声は一聴に値する。
 気候に恵まれ基本的に自給自足なので暮らしに困ることはない。必要のない物や情報が過剰にあふれている現在の日本と比べると、貧しいといっていいぐらいに素朴な村だ。しかし、だからこそ人が生きていく上で本当に必要なものは、実は増衝村の暮らしの中にほとんどあるのだということを痛感した村での日々だった。僕たち日本人はなんと過剰な社会に生きているのだろう。僕は、この日本という国の中で、まるで迷子になった子どもかのように、時々、呆然と立ち尽くし途方にくれてしまう。その一方で、増衝村の働き盛りの男性たちのほとんどは現金収入を得るために大都市に出稼ぎに出ており、確実に消費社会の波に飲み込まれつつあるのも現実だ。
 話はずれるが、黄河文明よりもはるか前、少なくとも6000年前には長江流域で高度な稲作文明が栄えていたことが最近の研究でわかってきた。しかし、北方からの民族に追いやられ、南に逃れてきた稲作文明の末裔が今のトン族やミャオ族らの少数民族となり、一部は海を渡って日本に渡来し、弥生時代の稲作文化を築く手助けをしたと思われる。つまり、トン族と日本人には同じ血が混じりあっている。だからこそ、不思議なほどの親近感や懐かしさを感じるのだろう。僕たちの原風景が彼らの暮らしの中にまだ残っている。
 そんな、トン族・増衝村の人々の暮らしをテーマにした写真展を5月6日(火)まで開催中。佐藤憲一写真展「鼓楼のある村−トン族・増衝村の人々」。会場は東急東横線学芸大学駅徒歩30秒の喫茶店“平均律”(東京都目黒区鷹番3-7-5 TEL.03-3716-6537)。詳細は写真家・佐藤憲一オフィシャルホームページ http://www.shamuu-photo.com をごらんになってください。  
Comment
 素敵な写真と文章に感謝します。
 文章では特につぎの一節に感銘深いものがあります。

 気候に恵まれ基本的に自給自足なので暮らしに困ることはない。必要のない物や情報が過剰にあふれている現在の日本と比べると、貧しいといっていいぐらいに素朴な村だ。しかし、だからこそ人が生きていく上で本当に必要なものは、実は増衝村の暮らしの中にほとんどあるのだということを痛感した村での日々だった。僕たち日本人はなんと過剰な社会に生きているのだろう。
(中略)
 トン族と日本人には同じ血が混じりあっている。だからこそ、不思議なほどの親近感や懐かしさを感じるのだろう。僕たちの原風景が彼らの暮らしの中にまだ残っている。

特にご指摘の「僕たちの原風景」はこれからの日本が目指すべき一つのモデルになるかも知れません。
 私(安原)は一般の大学経済学部で講義されている現代経済学への批判から出発して、仏教経済学なるものを構想しています。そのキーワードはいのち、非暴力(=平和)、共生、利他、簡素、知足、持続性、多様性 ― の八つです。いずれも現代経済学には欠落しています。だからこそ現代経済学は破産状態に陥っているといえます。そういう破産状態にある現代経済学に替わる新しい経済思想、仏教経済学が志向する一つの新しい社会のモデルもやはりその「原風景」であるような気がしています。これは単純な過去への回帰ではなく、未来の創造です。

 一方、米日など「大国没落」の時代が始まっています。それは同時に「小国勃興」を意味しているのではないでしょうか。憲法改正(1949年)によって軍隊を廃止した中米の小国・コスタリカ、GNP(国民総生産)の代わりにGNH(国民総幸福)を目標に国造りを進める小王国・ブータン、そして「原風景」のトン族・増衝村 ― 大国・中国の中の小国ともいえます ― などが具体例です。
日本が没落を避けるためには、これら小国に学ぶ必要があります。
 以上のようなことを考えさせられる写真と文です。一層のご活躍を祈ります。
安原和雄 (URL) 2008/04/23 Wed 11:50 [ Edit ]
過分な褒め言葉をいただきどうもありがとうございます。学問には無知ですが、確かに、現代の経済学(資本主義)はすでに破綻しているのかもしれません。この先の延長線上に、人々の豊かな暮らしが成立するとはとても思えません。結局、社会主義だけではなく、資本主義も失敗だったということなのでしょうか。まだ、資本主義に修正の余地はあるのでしょうか。
トン族・増衝村については、間違いなく、これから消費社会の波に呑み込まれていくでしょう。その「僕たちの原風景」を、単純な過去への回帰ではなく、未来の創造につなげるには、どうしたらいいのでしょうか?
佐藤憲一 (URL) 2008/04/24 Thu 15:29 [ Edit ]
「僕たちの原風景」を未来の創造につなげるにはどうしたらいいのか?
という問題提起をいただきました。簡単に答えの出せる問題ではありませんが、考えてみるに値するテーマです。その手がかりとなるのが中国前世紀の古典、『老子』です。小国寡民(=小さい国に少ない住民)の話が出てきます。老子が理想社会として描いたもので、解説によると、つぎのような国です。
・さまざまな文明の利器を用いさせない。
・人民に生命(いのち)を大切にして遠くに移住させない。
・舟や車があってもそれに乗ることはない。
・武器はあっても使用することはない。
・己れの食物を美味いとし、その衣服を立派だとし、その住居に落ち着かせ、その習俗を楽しませる。
・人民は年老いて死ぬまで他国に往き来することがない。
 以上からイメージできるのは自給自足を軸にした閉鎖社会です。現代文明の中に首まで浸かって生きている現代人には、このすべてを受け容れる、というわけにはいかないイメージです。
 
 しかしつぎの文明批判はいかがでしょうか。
 老子にとって第一義的な関心は「人間の安らかな生活」だったといわれます。いいかえれば老子が恐れるのは、人間の自然の純朴さが文明の狡智と軽薄さによって破壊されることでした。当然、以下のように「文明の進歩」に批判的です。
 文明の利器は人間労働を軽減し、生活を豊かに華やかに楽しませはするが、同時に怠惰と浪費、生命の衰退現象と内面の浅薄化をもたらす。武器の発達は敵を斃すが、己れもまた斃される。知識の進歩は、同時に陰険な狡智ともなり、人間が人間を喰う果てしない対立と闘争が繰り広げられる。世俗のいわゆる知恵者は利害の打算ですべてを計量し、人間を人間そのものとして尊重せず、己れ以外のものを己れの道具視する。(以上は中国古典選『老子』下=解説・福永光司=朝日文庫から)

 老子のこのような文明批判論にはむしろ今日こそ「その通り」と納得させられるものがあります。今必要なのは現代文明の抑制です。私はこれを文化の新たな創造とも考えます。これが「未来の創造」の一つの柱になるように思います。このイメージは「僕たちの原風景」の写真で見るイメージと、すべてではないとしても、重なり合うものがいくつかうかがえるような気がします。
 問題にされている点は「これから消費社会の波に呑み込まれていく」ということです。この見通しについて私には発言能力はありませんが、そうだろうと想像できます。しかしそれを文明国が拒否する資格はないと思います。米、日、ヨーロッパの文明国とそうでない国々との消費格差が大きすぎます。文明国はその消費 ― 正確には浪費 ― を抑える義務があります。浪費抑制に失敗すれば、文明国は「地球の汚染・破壊国」として指弾されるでしょう。すでにそれが始まっています。

 文明国が浪費を抑え、一方、トン族などが消費を増やせば、双方が出会う地点があるはずです。その場合、双方が「簡素にして持続的な社会」を堅持することが大前提です。そこに「新しい社会モデル」を発見できるのではないか、それが私の夢でもあります。
安原和雄 (URL) 2008/04/26 Sat 17:28 [ Edit ]
せっかく貴重なご意見をいただきながら、お返事が遅くなってしまい、ごめんなさい。
昨年、加島祥造『求めない』という詩集を手に取り、その後、老子については関心を持っています。少しずつでも、そういう方向性を目指す人が増えていけばいいのかなぁとも思いますが、世の中の女性雑誌を象徴に“くだらない(?)物”を売らんかな主義に踊らされている人のほうが圧倒的多数で、そういう自分自身も物欲はないわけでもないので、偉そうなことも言えません。
また、その一方で、日本という国が「物を作って、売って、買って……」というお金の回転で成り立っている国なので、消費抑制をするなんて夢の夢ではないかとも思ってしまいます。
物を売ることで成り立っている日本という国が、消費を迎える新しい社会モデルを作ることは可能なのでしょうか?
佐藤憲一 (URL) 2008/05/01 Thu 11:16 [ Edit ]
またまた難問を頂戴しました。
「物を売ることで成り立っている日本という国が、消費を迎える新しい社会モデルを作ることは可能なのでしょうか?」と。
実はこれはわたし自身にとっても大問題です。これに明快な答えが直ちに出せるようであれば、苦労はないように思います。
ここでは逆の方向から考えてみるのも一つの手法ではないでしょうか。
こういうことです。消費抑制―正確には浪費抑制―に失敗すれば、どうなるかです。結論を急げば、人類は滅亡への道をたどる以外の選択肢はないように思います。その中で日本だけが生き残るとは考えられません。
その兆候はあちこちに顕著になりつつあります。例えば、世界的な食料危機です。貪欲な消費に供給が追いつかなくなっています。その背景に地球温暖化に伴う食料供給の不安があります。地球温暖化は、石油などのエネルギー多消費による二酸化炭素(CO2)の大量発生が原因です。
要するに多様な浪費の構造が回り回って食料危機を招き、人類を危機に追い込んでいます。食料自給率39%という異常な低水準にある日本が一番打撃を受けるのではないでしょうか。

単純化していえば、消費の抑制によって生きのびるか、浪費の罠から抜け出せないまま、滅びるのか、その二者択一を迫られているといえます。
そうだとすれば、消費抑制が可能かどうかではなく、抑制以外に生きのびることはできないという事態に直面していると受け止めるときです。こういう事態は知識では対応できず、英知に頼るほかないと思います。果たして我々日本人は英知を発揮できるのでしょうか。ここでも問題はできるかどうかではなく、やり抜くほかないともいえます。21世紀の地球環境時代とはそういう時代だと私は考えます。

安原和雄 (URL) 2008/05/08 Thu 16:55 [ Edit ]
ありがとうございます。
果たして日本人が英知を発揮できるのかどうか、自分もその一員として、諦めずに努力したいと思います。
佐藤憲一 (URL) 2008/05/15 Thu 08:41 [ Edit ]
管理人にだけ表示を許可する
 
TrackBack