2008.04.27
中国はチベットを手放さない(再論)
―チベット高原の一隅にて(16)
新華社電によると、中国の胡錦濤国家主席は4月12日、オーストラリアのラッド首相と海南省三亜で会談し「チベット問題は完全に中国の内政にかかわること」と述べ、外国の干渉を許さない姿勢を強調した。また、胡錦濤主席は「ダライ・ラマ( 十四世)一味との闘争は民族、宗教や人権の問題ではない。国家の統一を守るか、あるいは祖国の分裂を許すのかという問題だ」と述べた。(共同)
こうした発言を日本ではどう受けとめているだろうか。少数民族にたいする威圧的な政治的表現だとか、民族運動鎮圧についての弁解だと考える人がいるかもしれないが、わたしは、これを真剣な意志を表明したものとして字面どおりに受止めるべきだとおもう。3月ラサ事件に関しては映像でみるかぎり暴力と破壊そのものだから、法にもとづいて刑事責任を問うことは当然である。ただ、事件を誰が(真の演出者か)どのような政治的意図で起こしたか全体像は依然ナゾのままだ。
チベットのみならずチュルク系、モンゴルなど少数民族の分離独立ではなく、「高度自治」あるいは自治区の区域変更などの要求までも、なぜ「国家の統一を守るか、分裂を許すのかという問題」になるのか。ここではこうした認識がうまれてから現在に至るまでの経過をたどってみたい。
阿部治平 (中国青海省在住、日本語教師)
新華社電によると、中国の胡錦濤国家主席は4月12日、オーストラリアのラッド首相と海南省三亜で会談し「チベット問題は完全に中国の内政にかかわること」と述べ、外国の干渉を許さない姿勢を強調した。また、胡錦濤主席は「ダライ・ラマ( 十四世)一味との闘争は民族、宗教や人権の問題ではない。国家の統一を守るか、あるいは祖国の分裂を許すのかという問題だ」と述べた。(共同)
こうした発言を日本ではどう受けとめているだろうか。少数民族にたいする威圧的な政治的表現だとか、民族運動鎮圧についての弁解だと考える人がいるかもしれないが、わたしは、これを真剣な意志を表明したものとして字面どおりに受止めるべきだとおもう。3月ラサ事件に関しては映像でみるかぎり暴力と破壊そのものだから、法にもとづいて刑事責任を問うことは当然である。ただ、事件を誰が(真の演出者か)どのような政治的意図で起こしたか全体像は依然ナゾのままだ。
チベットのみならずチュルク系、モンゴルなど少数民族の分離独立ではなく、「高度自治」あるいは自治区の区域変更などの要求までも、なぜ「国家の統一を守るか、分裂を許すのかという問題」になるのか。ここではこうした認識がうまれてから現在に至るまでの経過をたどってみたい。
新疆のチュルク系民族は1944年からソ連の援助を得て「東トルキスタン共和国」運動(中国では「三区革命」)をおこし、国民党と和戦両様の戦いを展開した。49年9月指導者集団は、中共主導の人民政治協商会議に参加するために北京に向かう途中、搭乗したソ連機が墜落して全員が死んだ。これによって新疆は直接中共第一野戦軍の支配するところとなった。
モンゴル人中共幹部のウランフは、新中国成立以前に内モンゴル自治区を成立させた人物だが、青年時代から独立の夢を中共に託していた。47年3月にも中央に上申して、当面自治区を成立させてもいいが、やがては少数民族の自治権をみとめて平等民主の中国連邦を作るべきだといった。チベット共産党創始者のプンツォク=ワンギェル(プンワン)以下の人々もこれとほとんどおなじ意見を持っていたと推測できる。
中共も1947年10月の「解放軍宣言」では依然として「中国領内の少数民族の平等・自治、それに彼らが中国連邦に加入する自由を持つことをみとめる」といっていた。ソ連型の共和国連邦の樹立である。これは当時全世界の共産主義者の常識であった。
ところが、1949年新中国成立の1ヵ月前人民政治協商会議は、民族自決ではなく「民族の区域自治を実行する」と決議した。チベット担当の第二野戦軍には中央から「党の民族政策は人民政治協商会議の規定どおり実行しなければならない。少数民族の自決権に関しては今日ふたたび強調すべきではない」という強い指示が出された。
49年の人民協商会議から8年経った1957年7月、青島で全国民族工作座談会がひらかれ、全人代の代表のうち29の民族、105人の代表が青島に集まった。ここで新疆のチュルク系民族代表は民族自治区の変更とソ連型連邦の要求を提起した。連邦制と自治問題は49年以後ずっとくすぶり続けていたのだ。だが会議の最終日に総理周恩来は中華連邦構想と民族自治区の区画変更を拒否した。
49年に連邦制から自治区制への政策転換がどのような経過でなされたかはわからない。ただこれが毛沢東の強い意志であったことは推測できる。毛沢東はチベット制圧直後、1951年にチベット上層部人士と懇談して、チベット民族が中国でしかるべき地位を占めるべきだと論じ、「きみたちチベットが新中国の大家庭に帰ってきたことは、われわれの巨大な資本だ。もしそうでなかったらわれわれの防衛線は四川省の境界になっただろう」と発言した。それまでは金沙江が国民政府とラサ政府の境界だった。
チベットが中国に帰属したことでその防衛線はヒマラヤになったが、新疆に「東トルキスタン共和国」ができたら中国の防衛線はクンルンからアルチンタークをへて北山にいたる線、「内モンゴル共和国」とは大興安嶺から長城の線になる。
さらに毛沢東の51年12月の声明では、過去、帝国主義があえて中国を侮った原因のひとつは、中国の各民族が分裂していたからだ。だが新中国が成立したその日から中国の各民族は団結し友愛協力による大家庭となり始めたという。こうして中国からの分離独立を目指すことは、ただちに帝国主義の中国分割の陰謀に加担することになった。
つぎに民族区域自治制度はどうか。これは地方自治か民族自治かの問題を含んでいるが、それをさておいて経過だけをみる。
1953年徳格(現在の四川省甘孜州北部)土司弟のケサン=ワンドゥが(カムとアムドをふくめた)大チベット人地域の自治を提案した。このとき民族委員会責任者李維漢は「それは・・・いいことだ。中央は同意するはずだがいまはその条件はない」とこたえた。また副総理陳毅は、56年ラサでのチベット工作委員会の席上、地図を指しながら「もし青海・甘粛・四川・雲南のチベット人地域を含めて統一した自治区を作ることができたら・・・国家統一にとっても有利だ」といった。とすれば、56年当時までは自治区域は流動的で確定不動のものではなかったのだ。だが、青島民族工作座談会以後は境界変更要求もほとんど反革命扱いされるようになる。
ところがチベット人理論家プンワンは、文革後の1980年代初め憲法改定時に、あえてこの問題を提起した。彼は教条主義的なくらいレーニンによりながら、国防と外交は中央が掌握し自治区域は高度の内政自治権を行使するものとし、分割統治の区分をやめ同一民族が連続分布する地域はひとつの民族自治地域を作るべきだ(注)。そうすれば自治要求を満足させ、亡命チベット人らの独立要求は成立ちがたくなるだろうと主張した。
プンワンの反対者はすかさず「それは独立への道をひらくものではないか」と反問している。おもうに、少数民族が(分割状態ではなく)統一した自治区を形成すれば、民族主義がより速やかに醗酵して独立への志向が高まり、中国の安全への脅威となるからである。自治と民族区域をめぐる激しい論争のとき、プンワンの反対者は「国家主権」の平等はみとめるものの、「すべて民族は自由でありその主権は平等である」というレーニンやスターリンの論理を理解していなかったらしい。
プンワンはいたく失望して、彼らの本音は「少数民族は漢民族に従属するべきだ」というものだったという。それでも中共首脳部の支持を得て憲法には民族の平等が書き込まれた。だが区画は動かなかった。
もちろんプンワンは独立論者ではない。レーニンを引用しつつマルクス主義者はすべからく少数民族の立場に立つべきだ、民族自決は固有の権利だと主張したが、今日の歴史的条件下では分離しようとすれば損害をこうむる民族が出るし、やろうにもやれるものではないというのが彼の意見である。
中国の民族政策はプンワンが引用するレーニンではなく、対照的なレーニン理論によって合理化されている(たとえば『民族理論和民族政策綱要』中央民族大学出版社 1993年)。
いま不確かな記憶にたよると、レーニンは民族の自由とか分離独立権とか平等とかを主張する一方で、中央集権的大国家を高く評価し、連邦制とか民族自治とか地方分権に反対した。また民族問題は高度な民主主義のみが解決できる問題だ、民族は社会主義の達成によっていずれ消滅へと導かれる存在であるとし、民族の融合を支持した。レーニンの論理では、連邦制はロシア革命当時の各民族の状況に応じた臨時的措置であって集権国家への過渡期のものにすぎない(これに対しては、民族は人間存在の根本的基盤だが、レーニンにはその認識がないという批判が当然生まれるだろう)。
こうなるとレーニンに寄りかかりつつ、国家は集中原則でなければならず、民族自決はその例外だとして連邦制を否定することができる。民族の自由とか平等については、プンワンのように弱小民族の利益を主張することも可能であるが、逆に中国国家にとって自治機能のあまり高くない自治区制こそがレーニン理論に合致したものであるという理屈も可能だ。やがて融合する少数民族に高度自治権を与える必要はない。同様に、香港に実施し台湾に提起している「一国二制度」はこれらの地域が中共の統治下にないからであって、自治区はすでに中共統治のもとにあるから、そのような制度の必要はない。香港・台湾もやがては中共の直接統治下に入るのである。
いま中共当局によって高度自治も自治区の再区画も分離主義のレッテルを貼られているが、それは少数民族の民族主義を鼓舞し分離独立につながると考えられるからである。中共は建国以来各種の民族運動を犯罪視してきた。だが、それはレーニンの中央集権的大国家論によって通行切符があたえられている。冒頭の胡錦濤主席の発言は、このようなレーニンを踏まえたうえで毛沢東の安全観・領土観を継承した論理によっていると私にはおもえる。
(注)かつてはブータンの外交と軍事の権限はインドにあったが、現在ブータンは独立国家である。もしこれにあった地域をあげるとすれば、アメリカに外交と軍事をほとんど従属する日本が適切かもしれない。
モンゴル人中共幹部のウランフは、新中国成立以前に内モンゴル自治区を成立させた人物だが、青年時代から独立の夢を中共に託していた。47年3月にも中央に上申して、当面自治区を成立させてもいいが、やがては少数民族の自治権をみとめて平等民主の中国連邦を作るべきだといった。チベット共産党創始者のプンツォク=ワンギェル(プンワン)以下の人々もこれとほとんどおなじ意見を持っていたと推測できる。
中共も1947年10月の「解放軍宣言」では依然として「中国領内の少数民族の平等・自治、それに彼らが中国連邦に加入する自由を持つことをみとめる」といっていた。ソ連型の共和国連邦の樹立である。これは当時全世界の共産主義者の常識であった。
ところが、1949年新中国成立の1ヵ月前人民政治協商会議は、民族自決ではなく「民族の区域自治を実行する」と決議した。チベット担当の第二野戦軍には中央から「党の民族政策は人民政治協商会議の規定どおり実行しなければならない。少数民族の自決権に関しては今日ふたたび強調すべきではない」という強い指示が出された。
49年の人民協商会議から8年経った1957年7月、青島で全国民族工作座談会がひらかれ、全人代の代表のうち29の民族、105人の代表が青島に集まった。ここで新疆のチュルク系民族代表は民族自治区の変更とソ連型連邦の要求を提起した。連邦制と自治問題は49年以後ずっとくすぶり続けていたのだ。だが会議の最終日に総理周恩来は中華連邦構想と民族自治区の区画変更を拒否した。
49年に連邦制から自治区制への政策転換がどのような経過でなされたかはわからない。ただこれが毛沢東の強い意志であったことは推測できる。毛沢東はチベット制圧直後、1951年にチベット上層部人士と懇談して、チベット民族が中国でしかるべき地位を占めるべきだと論じ、「きみたちチベットが新中国の大家庭に帰ってきたことは、われわれの巨大な資本だ。もしそうでなかったらわれわれの防衛線は四川省の境界になっただろう」と発言した。それまでは金沙江が国民政府とラサ政府の境界だった。
チベットが中国に帰属したことでその防衛線はヒマラヤになったが、新疆に「東トルキスタン共和国」ができたら中国の防衛線はクンルンからアルチンタークをへて北山にいたる線、「内モンゴル共和国」とは大興安嶺から長城の線になる。
さらに毛沢東の51年12月の声明では、過去、帝国主義があえて中国を侮った原因のひとつは、中国の各民族が分裂していたからだ。だが新中国が成立したその日から中国の各民族は団結し友愛協力による大家庭となり始めたという。こうして中国からの分離独立を目指すことは、ただちに帝国主義の中国分割の陰謀に加担することになった。
つぎに民族区域自治制度はどうか。これは地方自治か民族自治かの問題を含んでいるが、それをさておいて経過だけをみる。
1953年徳格(現在の四川省甘孜州北部)土司弟のケサン=ワンドゥが(カムとアムドをふくめた)大チベット人地域の自治を提案した。このとき民族委員会責任者李維漢は「それは・・・いいことだ。中央は同意するはずだがいまはその条件はない」とこたえた。また副総理陳毅は、56年ラサでのチベット工作委員会の席上、地図を指しながら「もし青海・甘粛・四川・雲南のチベット人地域を含めて統一した自治区を作ることができたら・・・国家統一にとっても有利だ」といった。とすれば、56年当時までは自治区域は流動的で確定不動のものではなかったのだ。だが、青島民族工作座談会以後は境界変更要求もほとんど反革命扱いされるようになる。
ところがチベット人理論家プンワンは、文革後の1980年代初め憲法改定時に、あえてこの問題を提起した。彼は教条主義的なくらいレーニンによりながら、国防と外交は中央が掌握し自治区域は高度の内政自治権を行使するものとし、分割統治の区分をやめ同一民族が連続分布する地域はひとつの民族自治地域を作るべきだ(注)。そうすれば自治要求を満足させ、亡命チベット人らの独立要求は成立ちがたくなるだろうと主張した。
プンワンの反対者はすかさず「それは独立への道をひらくものではないか」と反問している。おもうに、少数民族が(分割状態ではなく)統一した自治区を形成すれば、民族主義がより速やかに醗酵して独立への志向が高まり、中国の安全への脅威となるからである。自治と民族区域をめぐる激しい論争のとき、プンワンの反対者は「国家主権」の平等はみとめるものの、「すべて民族は自由でありその主権は平等である」というレーニンやスターリンの論理を理解していなかったらしい。
プンワンはいたく失望して、彼らの本音は「少数民族は漢民族に従属するべきだ」というものだったという。それでも中共首脳部の支持を得て憲法には民族の平等が書き込まれた。だが区画は動かなかった。
もちろんプンワンは独立論者ではない。レーニンを引用しつつマルクス主義者はすべからく少数民族の立場に立つべきだ、民族自決は固有の権利だと主張したが、今日の歴史的条件下では分離しようとすれば損害をこうむる民族が出るし、やろうにもやれるものではないというのが彼の意見である。
中国の民族政策はプンワンが引用するレーニンではなく、対照的なレーニン理論によって合理化されている(たとえば『民族理論和民族政策綱要』中央民族大学出版社 1993年)。
いま不確かな記憶にたよると、レーニンは民族の自由とか分離独立権とか平等とかを主張する一方で、中央集権的大国家を高く評価し、連邦制とか民族自治とか地方分権に反対した。また民族問題は高度な民主主義のみが解決できる問題だ、民族は社会主義の達成によっていずれ消滅へと導かれる存在であるとし、民族の融合を支持した。レーニンの論理では、連邦制はロシア革命当時の各民族の状況に応じた臨時的措置であって集権国家への過渡期のものにすぎない(これに対しては、民族は人間存在の根本的基盤だが、レーニンにはその認識がないという批判が当然生まれるだろう)。
こうなるとレーニンに寄りかかりつつ、国家は集中原則でなければならず、民族自決はその例外だとして連邦制を否定することができる。民族の自由とか平等については、プンワンのように弱小民族の利益を主張することも可能であるが、逆に中国国家にとって自治機能のあまり高くない自治区制こそがレーニン理論に合致したものであるという理屈も可能だ。やがて融合する少数民族に高度自治権を与える必要はない。同様に、香港に実施し台湾に提起している「一国二制度」はこれらの地域が中共の統治下にないからであって、自治区はすでに中共統治のもとにあるから、そのような制度の必要はない。香港・台湾もやがては中共の直接統治下に入るのである。
いま中共当局によって高度自治も自治区の再区画も分離主義のレッテルを貼られているが、それは少数民族の民族主義を鼓舞し分離独立につながると考えられるからである。中共は建国以来各種の民族運動を犯罪視してきた。だが、それはレーニンの中央集権的大国家論によって通行切符があたえられている。冒頭の胡錦濤主席の発言は、このようなレーニンを踏まえたうえで毛沢東の安全観・領土観を継承した論理によっていると私にはおもえる。
(注)かつてはブータンの外交と軍事の権限はインドにあったが、現在ブータンは独立国家である。もしこれにあった地域をあげるとすれば、アメリカに外交と軍事をほとんど従属する日本が適切かもしれない。
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