2015.08.31  安保法案の陰で進む危うい大学入試改革
       
小川 洋 (大学教員)

 数年の内に大学入試センター試験が廃止され、新しい入試制度が導入されることを、どれほどの国民が理解しているだろうか。テストの姿形も見えないままに、改革の工程表だけは発表されている。教育関係者の間でも驚くほど情報は少なく、政策論議のあまりの乱暴さに、呆れたり憤ったりする研究者も少なくない。
 最近のある教育関連学会のシンポジュウムでのこと。登壇者の一人は改革案について、「井戸端会議以下だ」と評した。井戸端会議なら、お母さんたちが自分の子どものことを考えているから、素人談義とはいえ現実的な部分がある。しかしオジサンたちの居酒屋談義は、現実から遊離し、万が一にもそこでの議論が取り上げられるようなことがあれば、百害あって一利なし、という意味である。その「万が一」が、安保法案の陰に隠れて進行中なのであるから、事情を知る教育研究者の間には、危機感が強まっている。

 1990年に始まった大学入試センター試験が、おもに進学率の上昇によって、その耐用年数が来ていることは間違いない。前身である共通一次試験の導入が1979年で4年制大学進学率26.1%、1990年も24.6%と横這いで推移していたが、90年代に入るとコンスタントに上昇し、現在は50%を超え、短大も含めれば55%程度になる。
 中学校や高校時代を思い出してほしい。進学率が25%なら50人クラスから10余名の進学者である。成績最上位の2、3人は、ほとんど全教科にわたって優秀であるが、その下の生徒たちになると、多少とも不得意の科目を抱える。この学力上位層を対象として60点平均のテストを行えば、個々の受験生の学力特性は相当程度、正確に判定できる。しかし成績が20番目や25番目の生徒が進学する私立大学の多くでは、センター試験の利用はアラカルト方式(一部の教科・科目)である。受験生の学力特性を把握するという本来の目的に使われていない。また参加者が中位層に広がることで、テスト難度は下げられ、上位層の得点率は上昇し学力特性の判別は難しくなる。

 センター試験に代わる制度として、民主党政権時代に佐々木隆生(当時北海道大学)を主査とする研究会が文科省の委嘱を受け、高校在学中の生徒を対象とした「到達度テスト」を提案する報告書を出している。得点競争をさせるタイプのテストではなく、個々人の各科目の理解度を測るものである。技術的な課題も少なくないが、転換の方向性としては評価できるものであった。しかし民主党政権の退場とともに店晒しとなってしまった。

 さて、第二次安倍政権は教育改革に熱心である。政権復帰前から党内に「教育再生本部」を置き、次々と提言を行った。「大学教育の強化」部会の座長は山谷えり子である。在特会のメンバーと一緒に写真に納まったことが指摘されるなど、高等教育を論じるに相応しい背景の持ち主ではないが、2013年5月、①高校在学中の複数回受験可能な達成度テスト創設、②テスト結果を、学力試験を課さない推薦入試などに利用する、③大学入試の多面的評価への転換、などの入試改革提言を行った。思い付きの域を出ないものである。

 再生本部の提言を受けて政策化するのが、内閣府に置かれた首相の私的諮問機関の「再生実行会議」である。ここにも、大学学長などの教育関係者はいても教育研究者は任命されていない。逆に曽野綾子や八木秀次(元・新しい教科書を作る会会長)など、安倍首相に近い人物がメンバーに入っている。実行会議は、2013年10月、再生本部の提案を踏襲しながら、在学中の基礎レベルと進学者希望者向けの発展レベルの2種類のテストを提案した。進学者向けテストとして教科・科目の学力テストの他に、「言語運用能力、数理論理力・分析力、問題解決能力等を測る問題の開発」を検討するとして、アメリカの進学適性検査であるSAT(Scholastic Assessment Test) をイメージしたらしいものを示唆している。この提案も「(具体化は)、中央教育審議会の検討に期待する」として、実質的に文科省に丸投げした。

 文科省の中央教育審議会では「高大接続特別部会」を設置し、一年余りの時間をかけて、2014年12月、「新しい時代にふさわしい高大接続の実現に向けた高等学校教育、大学教育、大学入学者選抜の一体的改革について」と題する答申を出した。この特別部会の委員には、再生実行会議同様、部会長の安西祐一郞元慶応大学塾長以下、教育関係者はいても、試験制度などの教育研究者はいない。逆に櫻井よしこのような安倍首相好みの人物が配されている。
 通常、中教審の答申段階で、基本的な制度設計が示され、あとは官僚による法整備の段階となるが、この答申はまったくその役割を果たしていない。副題が「すべての若者が夢や目標を芽吹かせ、未来に花開かせるために」となっていて、その情緒的言葉遣いにも違和感を覚えざるをえないが、内容も居酒屋的談義を引きずり、上っ調子で実現性に欠けるのである。

 さすがに臨時委員などから慎重論があったが、安西部会長の前のめりの姿勢に引きずられて答申の取りまとめが行われたと言われる。安西氏は、昨年末の「IDE現代の高等教育」に寄稿し、「いろいろな誤解や批判がある」としながら、「20年後、30年後を見据えた新たな教育の在り方を実現するには、なんとしても早急に改革を出発させなければならない」と主張している。浮足立った切迫感が感じられるばかりで説得力を欠き、このような人物に一国の入試制度の検討をさせてもいいものか、不安にならざるをえない。

 具体的に2点ほど指摘しておこう。第一に、「大学入学希望者学力評価テスト(仮称))」のテストを、「現行の教科・科目の枠を越えた『思考力・判断力・表現力』を評価するため、(中略)『合教科・科目型』『総合型』(中略)とすることを目指す」としている点である。具体的には、「国語・英語を、他教科・科目(例えば理科)と組み合わせ、理科の文脈の中で言語に関する『思考力・判断力・表現力』を評価する問いを作問する、といったことが考えられる」としている。「そんなもの、考えられるわけないだろう」と、突っ込みたくなるところである。物理の試験を英語で出題したとして、どう思考力や判断力を判定することができるというのか。得点が70点だった受験生は、物理については100%の理解をしていたにも関わらず英語力が不十分だったのかもしれない。あるいは、その逆だったのか。そのようなテストを大学は合否判定資料として利用するわけにはいかない。

 もう一つ。テスト結果を「一点刻み」で利用をしない、という点である。一点差で合否が分かれるのは、人情として忍びないという妙な人情論が入り込んでいるとしか思えない。では何点刻みであれば良いのか、またその根拠は、という問いには答えていない。素点主義を前提として考えているようだが、答申ではアメリカのテスト理論にも言及している。アメリカのテスト機関であるETS(Educational Testing Service)のSATや、留学生向けの英語力試験であるTOEFLの結果は、素点ではなく統計処理をした能力値として示され、その1ポイントの差には明確な意味がある。議論の前提さえ、まともに整理されていないのである。この杜撰な作業に予防線を張ったつもりか、「点数のみに依拠した(中略)従来型の『公平性』の観念」を捨てるように、と国民に説教をしている始末である。

 「若者に未来を開かせる」はずの大学入試制度の「改革」論は、居酒屋談義のまま政策決定まで来てしまった。現在、安西を長とする「高大接続システム改革会議」が設置され、さらにその下でワーキング・グループが具体案の策定作業を進めている。具体案の様子はシステム改革会議の会議録を通じて窺うことしかできず、相変わらず漠然としている。もうひとつ気がかりな点がある。昨年末に一瞬、新聞報道された民間委託の話である(「毎日新聞」12月19日)。なぜかその後、まったく報じられなくなっている。国民の目の届かないところで、政府と民間企業の奇妙な協働作業(癒着)が進んでいる可能性もある。国民的な監視の目を強めていく必要がある。

 (追記)8月24日「日本経済新聞」(朝刊)に掲載された荒井克弘大学入試センター名誉教授の記事によれば、具体化の過程でさすがに困難さが明らかになりつつあり、新テストの導入を数年遅らせる方向である、という。
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