2015.10.02 権威とは何か――それはときどき間違うものである
――八ヶ岳山麓から(159)――

阿部治平(もと高校教師)

かつて私は高校の地理教師だった。
地理教科書には、必ず北アメリカ・ヨーロッパ・中国の3つの農業地域区分図があった。中国の区分図は、1930年代金陵大学農学院教授L.バック(『大地』の作者パール・バックの夫)の研究をもとに若干の手を加えたものである。その核心は、南の水稲と北の小麦(田と畑)の境界を秦嶺山脈と淮河を結ぶ線(800~850㎜の等降水量線/年)とするものである。だが、30年40年たっても農作物分布に変化がないということがあるだろうか。
1960年代半ばに河野通博関西大学教授が中国農業の変化は、L.バック図を過去のものにしたと指摘した(『現代農業学習の構想』)。1970年代にも、文化大革命に陶酔したらしい某大学教授の「中国に農業区分はない」という奇説が教科書会社の宣伝誌に載った。
以前私は権威ある大学の先生や研究者の方々を大いに尊敬していた。尊敬しすぎて間違った言説を信じたこともある。しかしこのとき、私は「やはりL.バック図は生きている」という結論に達していたので、その批判を地理関係の雑誌に頼みこんで掲載してもらった。これに対して河野先生が自説再検討の意向を示されたときは、大いに恐縮したものである。
今日の「権威」の言説についても疑問や批判がないわけではない。

中国の少数民族問題に関する本や論文には、毛里和子早大名誉教授の『周縁からの中国』(1998)からの引用が多い。この分野では、毛里先生の論考は必ず通過しなければならない関門である。
彼女は中国共産党の民族政策を総括して、「中国は一時期を除いて小数民族の言語・宗教・風俗習慣を尊重する政策をとってきている。とくに(19)50年代はそのためにかなりのエネルギーを使い、注意深い措置もとられた。だが区域自治は政治的自治というには程遠く、あくまで文化的自治にとどまっており、……」という。
また「このように1950年代前半は、……緩やかな社会改革によって、辺境の住民を新政権に引きつけ、民族融和をある程度実現することができた。非漢民族たちは旧時代とは違う『何か』を感じ取ったにちがいない」ともいう。
しかし私は、毛里先生の著作からしても事実は逆であると思う。むしろ「中国は一時期を除いて少数民族の言語・宗教・風俗習慣を尊重する政策をとって来なかった」という方が正しい。毛里先生は「文化的自治」があったといわれるが、それはいつごろ存在したのだろうか。
1953年に中共中央が大漢民族主義批判を行なうと指示したのは、国民党との違いを示す必要もあっただろうが、解放軍の少数民族への対応が目に余るものであったからでもあろう。57年からの地方民族主義批判では、大漢民族主義として批判されたものが一人もいなかったのに、多くの少数民族知識人が失脚・投獄・殺害された。58年から各地に生まれた叛乱とその鎮圧では、村の人口が半減したとか、村が消滅した地域も生まれた。大躍進・文化大革命期は民族政策はなくなった。
文革後いったんは復活した民族語による教育も、今日新疆やチベット自治区では廃止された地域がある。ほかの地域でも、いま民族語による教育を公然と求めてごらんなさい、どんなことになるか。

神戸大教授の王柯先生(新疆出身の漢人。現地調査中、中国当局に拘束された人)は『東トルキスタン共和国研究』で名を馳せた人である。
彼も『多民族国家中国』(2005年)のなかで、毛里先生同様、中共の新政権は宗教の上層、俗政権の支配者など、旧来の社会上層部に対し適当な政治的地位を与えたという。これに関連して、解放軍に抵抗をつづけた首長を十数回説得して帰順させたとか、果洛や玉樹では首長らに忍耐強い説得工作をしたなどという。――不正確である。
旧支配者はいったんは「有職無権(おかざり)」の地位に就いたが、地方民族主義批判、叛乱につづく「民主改革」によってたちまち失脚し、つるしあげ・投獄・殺害されたのである。
さらに、解放軍にしつこく抵抗したのはナンチェンというチェンザ(尖扎)の一首長で、説得にあたったのは老紅軍ザシ・ワンチュクである。ザシはナンチェンを降参させるのに最後は迫撃砲を使ったし、果洛や玉樹では解放軍の武力を背景に帰順工作をした。
また王柯先生は「(古代?)中華文化は周辺の人々を……受入れて共存共栄することを正当な政治権力の象徴とする文化となった」という。――ほんとうかね?といいたいが、私には検証も反論も不可能だ。さらに、古代中国の東夷・南蛮・西戎・北狄などは蔑称ではなかったという。私は蔑称以外の意味を見つけられない。これについては、どなたからかご教示を得たい。

さらに京都大学教授(現在早稲田大学教授)大西広先生は中国の少数民族問題を論じて独特の位置にある方である。以下『チベット問題とは何か』(2008)から大きな問題二三を拾うことにする。
大西先生は、「ダライ・ラマには過去のおぞましい『農奴制』への責任を明確にする義務もある。この『農奴制』のおぞましさはちょっと特別で、それはあまりに度が過ぎているためにここで文章として表現できないほどである」という。
すでに1960年代にはA・L・ストロング女史や赤旗記者高野好久氏、写真家田村茂氏などが、70年代にはハンス―イン(韓素音)女史もラサを訪問し、中共当局の言い分を鵜呑みにしてその「おぞましさ」を語っている。
私にはかねてから「農奴制」下の搾取が中共当局がいうほど「おぞましい」ものなら、チベット社会は歴史のどこかで消えたはずだが、という疑問があった。
『西蔵農業地理』(科学出版社1984)には、農奴は収入の70%の地代を納め、多種の重税と「ウーラ(勤労奉仕)」と高利貸の搾取があり、人身の自由はなく農牧業も停滞したと書いてある。70%を越える搾取なら人は確実に飢え、チベットの人口は確実に縮小したはずである。だがチベット社会は停滞はしたかもしれないが消滅しなかった。
チベット人地域の青海省チェンザ県では土地改革直前、90%の農家が耕地の80%を持っていた。土地占有農民が大多数と判断してもおかしくはない。また茶馬貿易も盛んで、土地に緊縛されたはずの農民もこれに従事し、大衆のラサ巡礼も行われた。これでチベット人はがんじがらめではなかったことがわかる。チベットの「農奴制」は、今日学者が冷静に再検討すべきものだと思う。
さらに牧畜生活について、大西先生は、(今日)「遊牧文化を残している」民族は、移動生活の邪魔にならないように余計なものを一切持たない。重いものをもたない文化だから本というものを好まない。そのために「子供たちが教師や医者になる可能性を最初から排除した生活になっている」という。だから「移動生活」のような(歴史の流れに)障害となるような文化は捨てられねばならない、と強調している。――奇抜である。

私は遊牧をステップやツンドラに適応した生業形態だと思っている。結論を急ぐと、遊牧生活が非文化的で子供の将来を制約するというのは、知識が生半可であるからである。今日の教育問題はいつに政府の政策にかかっている。
ちなみに、牧民出身の私の学生はごろごろしており、教師・工場経営者・学者がおり、日本に留学して化学分野で研究業績を上げたものもいる。知人にも大学教授はもちろんその指導者がいる。
また、大西先生は中共は1953年の毛沢東の大漢民族主義批判以来、「中国政府は大躍進期・文化大革命期を除いて『主として反対すべきは大漢民族主義の方である』との立場を基本としてきた」と毛里先生に通じる見解をもっている。現政権もこの道を踏襲しているとして、チベット自治区総生産の70%にあたる多額の補助金の事実をあげている。たしかにチベット自治区への多額の政府投入は80年代から続いているが、どうして人々はあんなにも貧しいのか。――住民の側にカネが回らない仕組みになっているからである。
それにチベット人地域では、投入の増額を期待して民族問題を捏造する連中が絶えないこともいっておきたい。

個別研究では大きな業績を上げておられる方でも、歴史を総括するとなると「疑わしい」結論を出すのはどういうわけだろうか。中国の「公式見解」に引きずられるのか、日中関係がうまくゆくことを願うあまりか。私も日中友好を願うものだが、学問研究は別物としていただきたい。
いま、中高の教師は年に2,3冊の本を読む時間さえ取れないくらい忙しい状態に追い込まれている。だから無駄かもしれないが、やはりいっておきたい。権威ある人の言説はまず疑うべきであると。ゆめゆめ油断してはなりません。
Comment
いつも興味深く拝読しています。中国の間違いを指摘するとき、いまの日本を覆う嫌中、反中感情を考慮せざるを得ないのも仕方のないことで、ここはとても難しいところだと思います。大西さんは早稲田ではなく慶應の先生になりました。
真鍋雄太郎 (URL) 2015/10/02 Fri 09:26 [ Edit ]
元京大教授・大西広氏という人物は、唯生産力主義(疎外された生産力の発展=例・原発=をも肯定する体制迎合・美化思想)の立場から、天安門弾圧にさえ賛成したエセ・マルクス学者として左翼陣営からも批判されてきた札付きの学者センセイですよ!
まともに相手してはいけませんw

なお、歴史総括をかなり徹底させた戦後のドイツ社会も、かつての加害対象であるユダヤ民族の国家・イスラエルがアラブ・パレスチナ住民に対して続けている蛮行、抑圧、差別に対して毅然とした態度を採れないのですから、日本人は歴史修正主義を糾弾すると共に、中国や朝鮮半島に対する「贖罪」的迎合には自戒すべきですね。
バッジ@ネオ・トロツキスト (URL) 2015/10/02 Fri 16:27 [ Edit ]
拙稿「八ヶ岳山麓から(159)の中で、大西広先生を早稲田大学教授としたのは間違いで、慶応大学教授でした。大変失礼しました。これについての真鍋さんのご指摘にお礼申し上げます。
阿部治平 (URL) 2015/10/03 Sat 05:12 [ Edit ]
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