2015.10.15 原子力災害の恐ろしさを再認識
被災地・福島を再訪して感じたこと

岩垂 弘 (ジャーナリスト)

 東京電力福島第1原子力発電所(福島県大熊町・双葉町)が東日本大震災で事故を起こしてから、4年7カ月たった10月8日、同発電所周辺の被災地を訪ねた。今年2月にもここを訪ねており、8カ月ぶりの再訪だったが、そこで目撃したのは、災害復興の遅れであり、一部ではむしろ被害が深化しているという現実だった。私にとっては、原子力災害の恐ろしさを再認識する旅となった。

 福島第1原発の事故による被災地をこの目でみたいという思いは、事故直後からあったが、さまざまな理由から延び延びになっていた。ところが、今年の2月上旬、ようやく初めて被災地を訪れることができた。東日本大震災で被災した東北の人たちへの支援活動を続けている「NPO法人大震災義援ウシトラ旅団」(本部・東京都千代田区)が「原発問題肉迫ツアー」を企画したため、それに参加したからだ。この時は、マイクロバスで、いわき市――楢葉町―――富岡町―――大熊町―――双葉町―――浪江町―――いわき市のコースを回った。

 今回は、埼玉ぱるとも会(生活協同組合パルシステム埼玉OB会)が主催した「福島ツアー」に加わっての被災地訪問。マイクロバスで、さいたま市―――広野町―――楢葉町―――富岡町―――いわき市のコースをたどった。ツアー参加者は、パルシステム埼玉の組合員や元役員ら24人。
 
 ツアーのガイドを務めてくれたのはNPOふよう土2100の里見喜生・理事長で、まず、原発事故被災地の現況についての説明があった。
 それによると、原発事故による避難者は今なお福島県全体で約12万人を数えるという。このうち避難指示区域(10市町村)からの避難者は約7.9万人。その内訳は帰還困難区域(立ち入り禁止区域)からの避難者約2.4万人(31%)、居住制限地域(住民に一日のうち一定の時間のみ立ち入りを許される区域)からの避難者約2.3万人(29%)、避難指示解除準備区域からの避難者約3.2万人(40%)という。「事故から4年半たっても自分の家に帰れない人が12万もいるんです」

 私たちを乗せたバスは広野町から楢葉町へ。同町は事故を起こした東電福島第1原発から南へ20~12キロ。私は、今年2月にもここに立ち寄った。その時は無人の町だったが、今回は人の気配がした。里見理事長によると、同町は避難指示解除準備区域だったが、9月5日に避難指示が解除されたため、住民の一部が避難先から戻りつつあるという。
 無人の館だった楢葉町役場も業務を始め、役場わきの広場にはバラック建ての仮設商店街が出来ていた。震災で破壊された駅前の商店が移って来たとのことだった。のぞいてみると、買い物客がちらほら。里見理事長が言った。「この町の人口は7400人。町に帰ってきたのはまだ1割程度なんです」

被災地再訪・埼玉パル 003
楢葉町にお目見えした仮設の商店街。背後は楢葉町役場

 
 バスは、楢葉町から、福島県の太平洋沿岸を縦断する国道6号線を北上する。両側に田んぼが広がるが、そこにはススキやセイタカアワダチソウが生い茂る。それらが褐色に枯れ始めていて、まさに荒涼たる光景が続く。「このあたりは福島でも有数な米作地帯でした。美田が、原発事故から4年半で雑草がはびこる田んぼになってしまいました。これを元の田んぼに戻すのは無理でしょう」と里見理事長。

 次いで、バスは富岡町へ。事故当時の町人口は約1万5000人。放射線量が高いため全町民避難を余儀なくされ、今も、町民は1人も住んでいない。町役場も郡山市へ退避したままだ。
 バスが最初に向かったのは、JR常磐線富岡駅。ここも、今年2月のツアーで訪れたところ。その時は、津波で被災した富岡駅駅舎はすでに取り壊され、ブラットホームだけが残っていた。駅前の商店街や住宅は、まだ津波で壊されたままの無残な姿をさらしていた。駅の周辺には「フレコンバッグ」が山積みになっていた。除染作業で集められた、放射能で汚染された土や草などを入れた黒い袋(一袋約1トン)だ。福島県内には、この袋が10万個あるとされるが、いまとところ、貯蔵するところがないので、野山に野積みされたままだ。

被災地再訪・埼玉パル 006
富岡駅前では津波で壊された商店がその残骸をさらしていた

被災地再訪・埼玉パル 007
富岡駅のプラットホームわきにはフレコンバッグが長堤のように積み上げられていた

 それから8カ月。駅前の風景は変わっていなかった。「いくらか復興が進んだのではないか」という私の期待は打ち砕かれた。まるでうち捨てられた廃墟のような光景を再び前にして私は言葉を失った。

 こうした無残な光景となんとも不似合いな風景が目に入ってきた。廃墟の中に、新築と見まがうしょうしゃな住宅がいくつも立っていたからだ。里見理事長によれば、大震災直前に建てられた住宅で、駅前を襲った津波は、古い家々を一瞬にして呑み込んだが、新築の住宅だけは呑み込まれずに残ったという。「家主の皆さん、泣いていますよ。30年のローンで建てた人がほとんど。住めないし、壊すことも他人に貸すこともできないから、避難先の仮の家に住みながらローンを払い続けざるを得ないんですよ」

 この後、バスが向かったのは同町の夜の森地区。この地区は福島第1原発から南西へ約7キロ離れたところにある。地区を南北に貫通する道路の両側に見事な桜並木が続き、その背後に住宅街が広がる。原発事故直後に住民は避難させられ、道路の右側部分、つまり海側の集落は「帰還困難区域」に、道路の左側部分、すなわち阿武隈高地側の集落は「居住制限区域」に指定された。
 ここも、私が今年2月に訪れたところだ。その時、住宅街は完全な無人地帯で、人の気配がなかった。犬一匹、猫一匹見当たらず、空を飛ぶ鳥の姿も見かけなかった。家々は皆、窓や戸、扉を堅く閉ざし、窓には白いカーテンが引かれたまま。一部の家屋は壁が崩落したり、屋根が朽ち始めていた。庭には枯れ草が生い茂っていた。街のあちこちに集められたフレコンバッグ。まさに、音のない森閑としたゴーストタウンだった。
 それから8カ月。私の目に入ってきたのは、その時と変わらぬ光景だった。それは、まるで時が止まってしまったような異様な光景であった。

 ところで、里見理事長によると、被災地の復興に関しては、復興が進んでいる面と、あまり進んでいない面があるという。前者はインフラ面やハコモノ、後者は原発被災者への賠償と、人の心の面だという。「人の心のケアが遅れているとはどういうことか」と問うと、里見理事長は言った。「被災した人たちの避難先での生活が長引いているが、避難先では知り合いがない、そこでの活動も少ないということもあって、避難先の生活になじめず、引きこもりがちになる方が少なくない。つまり、避難先で新しいコミュニティーを形成できないでいるんです。この方たちは、ひざ付き合わせて話し合える相手を求めています。この問題は受け入れ側にもご努力いただいて、何とか解決したいですね」

 このままの状態が長く続くと、この先、被災地の自治体そのものが維持できなくなるのではないか、という問題もあると、里見理事長は指摘した。避難指示の解除が遅くなれば、自分が住んでいたところに帰ることをあきらめて、避難先での永住を決意する人が出てくるだろう。そうすると、避難指示が解除されても郷里に帰る人は少なくなる。そうなると、人口減に見舞われた自治体は、従来通りの行政を続けることは困難になるのではないか、というわけだ。深刻な問題が到来しそうだな、と思わざるをえなかった。

 ツアーを終え、さいたま市へ帰るバスの中で、私は、ツアーを通じて特に心に残った2つの言葉を思い出していた。その一つは里見理事長のそれで、「この4年半、原子力災害を現地で見続けてきて痛切に感ずること、それは、私たちは、人間の手に負えないことをしてしまった、ということです」というものだった。それは、原発はもうつくってはならないし、再稼働もやめるべきだという訴えのように私には思えた。
 もう一つは、私たちを案内してくれたパルシステム福島の役員の次のような言葉だった。「福島で暮らす私たちが一番恐れているのは、福島の原発被害のことが時間の経過とともに忘れ去られてゆくことです。観光目的でも何でもいい。ぜひ福島に来て、被災地の現状をご覧になっていただきたい。そして、ここで見たことを家族や友人や隣近所の人に話してください」

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